惑わせる女



 ゲスト掲示板で、邪馬台国について語ってもらえないかというリクエストをいただいた。みなさんもご存じのとおり、邪馬台国の所在地をめぐる論議は、日本の考古学における最大のミステリといってもいいだろう。なにせ、江戸時代から、畿内だ九州だと、学者だけでなく、一般の歴史マニアも参加しての大騒ぎが続いている。

 というわけで、高名な学者の先生や、歴史にお詳しいマニアの方々が、何百年も論議して答えの出ない問題に、ぼくがなに付け加えることができるだろうか? たぶんできないだろう。

 しかーし! 諦めるのはまだ早い。

 邪馬台国は、辞書ではどんな表記がされているか調べてみた。例によって、広辞苑をひもといてみよう。

やまたい‐こく【邪馬台国・耶馬台国】
「三国志」の魏志倭人伝に記された、二世紀後半から三世紀前半の頃の倭(わ)にあった最も強大な国。女王卑弥呼(ひみこ)が支配。魏(ぎ)と交通した。位置については、九州地方と畿内地方との両説がある。


 さらに、卑弥呼についても調べてみよう。

ひみこ【卑弥呼】
三世紀半ば頃の邪馬台国(やまたいこく)の女王。「魏志倭人伝」によれば約三○国が女王の統治下にあり、二三九年魏に使者難升米を遣わして、明帝より親魏倭王の称号を与えられた。


 と、書かれている。要するに、倭とは日本のことで、邪馬台国はその日本において、最大勢力を誇る都市国家と考えることができる。そして、邪馬台国の女王の名が卑弥呼であったと解釈されているわけだ。

 卑弥呼。女王さま。いままでぼくの神話エッセイをお読みになってきた方なら、ぼくが美女について嬉々として語っているのを覚えておられるだろう。そのぼくが卑弥呼を語らないでいるのは、おかしいじゃないか。なぜいままで書かなかったんだ? 日本神話のエッセイでは、彼女に触れてもいないではないか。

 なぜだ?

 じつは……こんなことを書くと、女性のみなさんに怒られそうだけど、思い切って告白しよう。邪馬台国について、唯一の情報ソース(※注)である「魏志倭人伝」には、卑弥呼の容姿が書かれていない。唯一、それらしい表記といえば、「年已長大、無夫婿(原文)」という部分だけだ。つまり、「行き遅れのバアさん」だったわけ。年已長大だぜ。100歳ぐらいのバアさんじゃねえの?

(※注)
後漢書・東夷伝があるではないかと言われるかもしれないが、後漢書の成立は、魏志倭人伝より一世紀以上あとで、その記述のほとんどが、魏志倭人伝を参考にしていると思われる。それでも、後漢書と魏志倭人伝には、記述の違いがいくつかあるので、このエッセイの後半で紹介することになるだろう。


 これで、Script1の、ほとんどの読者のみなさんは、ぼくがいままで、卑弥呼に触れようともしなかった理由をご理解いただけたことだろう。さすがにバアさんは守備範囲ではない。

 ところが!

 ぼくは大きな勘違いをしていたかもしれない。元昭和薬科大学の教授で、日本の古代史を研究している古田武彦氏(有名な先生だからご存じの方も多いと思う)によると、三国志では「年已長大」と書かれていた場合、それは30代半ばを指すらしい。思えば、その昔、人間の寿命はせいぜい40年だった。30代半ばが「年已長大」と呼ばれても不思議はないわけだ。

 さて。卑弥呼は30代半ばだったという説を信じるのであれば、いままで興味のなかった卑弥呼に、がぜん興味がわいてくる。だって、30代半ばの女性といえば、熟れて食べごろではないか! むちゃくちゃぼくの守備範囲だ。もちろんそれは、現代の基準に照らしてのことなので、古代の30代半ばは、十分に枯れて、バアさんと同じだという意見もあるかもしれない。しかしだね諸君。考えてもみたまえ。過酷な労働に従事せず、栄養状態も良好だった権力者は、古代でも、60、70、あるいは80過ぎまで生きていたのだ(言うまでもなく、すべての権力者が長生きだったわけではない)。卑弥呼もそうだったとしたら、現代の30代半ばと、それほど変わりはなかったかもしれないではないか。

 と、自分を強引に納得させ(笑)、かつ、勝手にバアさんと思い込んでいたことを大いに反省し、ここに卑弥呼について書くことを宣言する次第である。

 さあ、行くぞ。卑弥呼ファンの男性諸君。ついてきたまえ。いや、女性のみなさんも、ぜひ古代の世界へ旅立ちましょう。もちろん、旅立つに当たって予備知識はなにも要らない。あなたが魏志倭人伝を読み解く必要もない(引用文は読んでいただきたいが)。めんどくさいことは、ぜんぶぼくの仕事だ。

 さっきも書いたとおり、卑弥呼についての情報ソースは、実質的に中国人のオッサンが書いた「魏志倭人伝」だけしかない。当時の日本に、日本人による歴史書はなかったんだ(文字がなかったとも言える)。当時というのは、広辞苑にもあるとおり、だいたい二世紀後半から三世紀前半ぐらい。お隣の中国では、まさに三国志の時代だったわけだ。もそっと正確に言うと(というか卑弥呼を基準にすると)、卑弥呼が死去したのは西暦248年ごろと言われているから、二世紀の前半から中ごろまでってことになる。

 ちなみにこの時代は、弥生時代の終わりごろとも言える。でも、今回はあえて弥生時代という言葉は使わない。というのは、今年(2003年)の5月に、千葉県にある国立歴史民俗博物館の研究グループが、AMS法(加速器質量分析法)という、すごく高精度な炭素14・年代測定法を使って、弥生時代のはじまりが、いままで考えられていたよりも、500年ぐらい遡ってしまいそうだと発表したからなんだ。そりゃ大変だと、考古学者たちが大騒ぎしている。いや、マジで大変なんですよ、奥さん。

 弥生時代とは、原始的な狩猟生活(縄文時代)から、農業が伝わったことによって、都市国家が形成されていく時代を指す。いままで弥生時代は、紀元前3世紀から5世紀ぐらいの間にはじまったと思われていた。それが500年も遡っちゃうってことは、最大で、紀元前1000年まで昔になってしまうわけだ。

 ぼくは、邪馬台国が成立していく過程を論議する上で、この年代のズレを考慮しないわけにはいかないと思う。こいつは非常に深刻な問題なので、エッセイの後半でもう少し突っ込んだ話をすることを約束して、いまは話を戻そう。

 ここで、魏志倭人伝について、もう少し詳しく見てみよう。正確に言うと、「魏志倭人伝」という書物は存在しない。これは、280年ごろに、晋の陳寿という人が書いた歴史書「三国志」の一部なんだ(全65巻の大著だよ)。言うまでもなく三国とは、魏、呉、蜀のことで、だいたい三国時代の60年間が書かれている。

 その中の、「卷三十、魏書、烏丸・鮮卑・東夷伝・倭人の条」に、二千文字ほど、倭人(つまり日本人ですな)について書かれた部分があって、その部分を、われわれは「魏志倭人伝」と呼んでる。たった二千文字だぜ。まいっちゃうね。これじゃ、詳しいことはわからない。しかもだよ、海を渡って、なんとかって国に至って、そこからさらにべつの国に行って、またさらに……うんたらかんたらと、旅の行程についての部分が多く、卑弥呼について書かれたところは、非常に少ない。

 だいたいからしてだね、その旅の行程からして、なにが書いてあるのかよくわからん。ぼくが理解できないんじゃない(まあ、理解できないが)。頭のいい学者の先生方がわからんのだからお手上げだ。もしも、魏志倭人伝に書かれていることが正確で、かつ検証可能であるのならば、邪馬台国がどこにあったかなんて議論が、江戸時代から現代に到るまで続くわけがないんだ。つまり、魏志倭人伝を、どんなに穴があくほど読んだって、邪馬台国の場所に関する答えは出ない。その気になれば、魏志倭人伝に矛盾しない形で、邪馬台国を東北地方にあったと主張することだってできる(実際、そういう説を主張している人もいる)。

 でもね。誤解してほしくないのだけど、魏志倭人伝に嘘が書いてあると言いたいわけじゃない。中国人にとって、日本なんて国は、ただの蛮国であって、注目に値しなかっただけだ。つまり利害関係はない。となれば、その記述の信憑性はむしろ高いといえる。どうでもいい国のことだから、詳しい記述をする気はなくとも、そこに「嘘」を書く必要はまったくない。というわけで、このエッセイでは、魏志倭人伝に書かれたことが、基本的には「信用できる」というスタンスで進めよう(ただし、記述の曖昧さを考慮しないわけにはいかないけどね)。

 さて。ぼくは魏志倭人伝を読んで、ひとつ疑問に思うことがある。このエッセイの最初のほうで、広辞苑を引いたよね。そこに、卑弥呼は邪馬台国の女王だと書かれていた。

 本当にそうなんだろうか?

 というのは、魏志倭人伝には、卑弥呼が邪馬台国の女王だったとは書かれていない。倭の女王とは書かれているけど、邪馬台国の女王だったなんて表記はどこにもない。

 魏志倭人伝に書かれた二千文字は、その内容から便宜的に、26か27程度の段落に分けることができるのだけど、仮に27の段落に分けるとすると、邪馬台国という言葉が出てくるのは、9段落目だ。こんな具合。

 南、邪馬壹国に至る、女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬あり。次は彌馬升といい、次を彌馬獲支といい、次を奴佳という。七万余戸ばかり。


 ここで問題なのは、「女王の都する所なり」という部分だ。この表記から、卑弥呼が邪馬台国に住んでいたとするのに異論はない。でも、邪馬台国の女王ではなかったのだよ。では、卑弥呼に関する部分を読んでほしい。なんと、卑弥呼という名が出るのは、魏志倭人伝も終わりに近い、22段落目になってからなんだ。

 その国、もとは男子をもって王となし、とどまること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐して年をふる。すなわち、ともに一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道につかえ、よく衆を惑わす。年すでに長大なれども、夫婿なし。男弟あり。たすけて国を治む。王となりしより以来、見ゆるある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人ありて、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室、楼観、城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。
(※注)
どう訳すかで内容がずいぶん変わってきちゃうので、どの訳を信ずるべきかという問題はあるけど、それを言いだすと話が進まないので、上に挙げた訳をもとにこのエッセイは進める。


 いかがだろう。卑弥呼は「その国」の女王になったのだ。邪馬台国の女王ではない。では「その国」とはどこだ? 倭国が乱れ、互いに殺し合ったあと、みんなで一人の女性を王に立てたとあるとおり、「その国」とは「倭国」を指すんじゃないだろうか。

 われわれはどうも、「邪馬台国=倭国」とする傾向があるようだけど、魏志倭人伝には、もちろん、そんなことも書かれていない。邪馬台国は、「都」であったと書かれているだけだ。邪馬台国が9段落目、卑弥呼が22段落目と、表記されている箇所が、かなり離れていることからも、「邪馬台国=卑弥呼が女王」という直接的な繋がりはないように思える。もし邪馬台国の女王が卑弥呼なら、邪馬台国の表記が登場する9段落目に、卑弥呼の名がなければおかしいではないか。

 現代にたとえて言うなら、「倭国=日本」であり、「邪馬台国=東京」と解釈すべきではないだろうか(言っておくけど、邪馬台国が関東にあったという意味ではないよ)。だとすれば、卑弥呼を邪馬台国の女王と呼ぶのは失礼だ。一国の女王に対して、あんたは東京都知事だよって言ってるようなもんだからね。いったい、いつから卑弥呼は邪馬台国の女王と呼ばれるようになったのだろう。ぼくはその辺の事情を知らない。ご存じの方がいたら、教えていただきたい。

 さあ、卑弥呼の不当な扱いに釘を刺したところで、倭の女王の姿に迫ってみよう。もう一度、魏志倭人伝の、卑弥呼について書かれた部分を読んでいただきたい。

 その国、もとは男子をもって王となし、とどまること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐して年をふる。すなわち、ともに一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道につかえ、よく衆を惑わす。年すでに長大なれども、夫婿なし。男弟あり。たすけて国を治む。王となりしより以来、見ゆるある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人ありて、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室、楼観、城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。


 卑弥呼は、「鬼道につかえ、よく衆を惑わす」とされている。鬼道ってなんだろう。よくわからん。さらに鬼道によって「よく衆を惑わす」そうだ。惑わしちゃイカンよ。いまの日本の政治を見ると、政治家は古来から民衆を惑わしていたとも解釈できるけど(いや、まったく自民党にも民主党にも惑わされますな)、たぶん、「惑わす」という言葉を、現代の感覚で読んではいけないだろう。

 古代の音韻を研究している、京都産業大学の森博達教授によると、おそらくこれは「つかむ」と解釈するべきだろう。パソコンの漢字コードの関係で、ここに表示できないのだけど、「惑わす」の「惑」が、「口」の中に入った漢字があるはずだよね(正確には「或」だけど)。その漢字は、「つかむ」と読めるはずだ。

 では、鬼道とはなんぞや? 

 作家の井上靖氏によると、諸橋轍次氏の編纂した大漢和辞典で「鬼」の部を引くと、不思議と星の名前が多いそうだ。古代、星と鬼とは、密接な関係があったことをうかがわせる。それが事実ならば、鬼道とは占星術と考えられないだろうか。ぼくは学者ではないから、これ以上の推論はできないので、そういうもんだと思うことにして、このエッセイでは、「鬼道=占星術」という図式が成り立つとしよう。(井上先生の引用だけで、鬼道=占星術と決めつける強引さに、われながらめまいがするが(苦笑))。

 よし。これで卑弥呼は、「占星術によって、よく民衆をつかんでいた」と解釈ができるわけだ。まあ、ここまではそれほど奇抜な説ではない。卑弥呼は、もともと優れた占星術師で、諸国の王が神託を受けていたような、「カリスマ占い師」だったとしたら、倭国が乱れたときに、諸国の王たちが、卑弥呼を統一の女王としたのもうなずけるではないか。

 となると、占星術師としての力を維持するために(神秘的な意味で)、卑弥呼は処女だったと考えてもおかしくなさそうだ。古代、処女には神秘性があった。聖母マリアが処女なのに受胎したとか、まあ、宗教的(シャーマニズムというべきか)には、「汚れなき身体」っていうのは重要だったのだろう。現代の感覚ではナンセンスとしかいいようがないけれども、古代人がそう考えていたのなら致し方ない。

 これで、卑弥呼が独身だったのもうなずける。問題は、彼女がいつ「倭国の女王」になったかだ。だって気になるじゃないか。卑弥呼の年齢に直接関係のあることなんだから。って、論点が不純ですか?(笑)。まあ、動機が不純なのはいつものことなので、かまわず先を進めよう。

 当時、神と交信できるような力を持った人物は、たいてい(男の勝手な思い込みで)「女性」だったと思われる。しかも、処女で、かつ少女でなければならなかったと推察される。それが卑弥呼以後に定着したものか(卑弥呼のあとを継いだのは13歳の少女だった)、それとも、卑弥呼以前からそうだったのか? つまり、卑弥呼も少女だったのか?

 ちょっと待て。TERUさん、さっき卑弥呼は30代半ばと言ったじゃないか。という声が聞こえてきそうだから言っておくけど、彼女が30代半ばなのは、魏志倭人伝を伝えた、魏の国の使者が倭国を訪れたときだ。そのとき、卑弥呼がはじめて「倭国の女王」になったわけではない。彼女はすでに「倭国の女王」だったんだ。魏志倭人伝には、卑弥呼が女王に即位した年は書かれていない。

 それ以前にだね、魏志倭人伝に出てくる、魏の国の使者が、最初に倭国を訪れたのは、いったい何年なんだ?

 じつは、それがよくわからない。「何年何月に海を渡った」というように、正確な年代が書いてないんだ。卑弥呼に金印を授けに行ったころ(240年ぐらいか)と考えることは可能だけど、だれがなんといおうと、三国志を編纂した(魏志倭人伝を書いた)陳寿が、いったい、いつの史料を(あるいはなんの史料を)見て書いたのかを、納得できる形で答えられる人はいないはずだ。

 魏志倭人伝に年代がハッキリと出てくるのは、24段落目だ。そこに「景初2年6月、倭の女王、丈夫、難升米等を遣わし、郡に詣らせ、天子に詣りて朝献せんことを求める。太守劉夏、吏将を遣わし、もって送りて、京都に詣らしむ」とある。

 景初2年(238年)といえば、公孫淵と司馬懿が戦ってる最中だから、そんな物騒なときに卑弥呼が中国に使者を送ったなんてどうもおかしい。一般的には、景初3年(239年)の誤りであろうとされている。まあ、どっちでもいいけど(よかないか(苦笑))、通説の、239年をぼくも採用しよう。そして、同じ年の12月。卑弥呼は、魏の明帝から金印をもらって、正式に「親魏倭王卑弥呼」となった。

 ここで混乱しないようにしてほしいのは、239年に、卑弥呼が親魏倭王となったのは、あくまでも、「魏の属国の王」として、正式に認められた年だということだ。当然、卑弥呼は、それ以前から「倭国の女王」だった。ぼくが問題にしているのは、彼女が「倭国の女王」になった年なんだよ。

 では、勝手な想像力を駆使して計算してみよう。まず卑弥呼が「親魏倭王」になった年、すなわち239年にこそ、彼女は「年已長大(35歳)」だったと仮定しよう。

 なぜそう仮定するのか? ぼくは、最初にやってきた魏の使者(おそらく、金印を授けにきたときの使者)は、卑弥呼には会っていないと思う。それどころか彼らは、邪馬台国に行ってさえいないはずだ。魏志倭人伝をどれほど読んでも、邪馬台国に関する詳しい描写はない。倭国の風土や人々の暮らしぶりが書かれてはいるけど、それは「倭国全体」についてであって、邪馬台国に関してではない。彼らが倭国の都に実際に足を運んでいたとしたら、女王のいる都について、もっと描写があってもよさそうなもんだ。そして、卑弥呼に直接会って、直接金印を手渡したなら、その描写もあってよさそうなものだ。なにせ、それが彼らのもっとも重要な仕事だったろうから。ところが、そんな描写は一切ない。

 つまりだ、魏の使者は、倭国のどこか(おそらく伊都国だろう)に入っただろうけど、そこで卑弥呼の使いに金印を渡し、倭国については、人づてに聞いた話を伝えたにすぎないと思う。もちろん、魏志倭人伝には、卑弥呼が没したときの様子も書かれているので(でかい墓を造ったってことぐらいだけど)、その後も魏から使者は来ていただろう。陳寿は、それらの史料(というか、彼らの報告書)を、適当につなぎ合わせて魏志倭人伝を書いたのではないだろうか。

 というわけで、彼らの言う「年已長大(30代半ば)」の卑弥呼は、親魏倭王になったとき(239年)の年齢ではないかと思うわけだ。

 わかってる。根拠薄弱だ。認める。でも、どうか怒らないで先を読んでほしい。ぼくに学術的考察なんてできるわけないんだから、このエッセイはフィクションと思って読んでほしい。そうすれば腹も立たないんじゃないかな。

 では、卑弥呼はいつ倭国の女王になったのか。ここでもまた想像力を働かせよう。卑弥呼の跡を継いだのは、壱与という名の13歳の少女だ。これは魏志倭人伝に書いてある。卑弥呼のつぎの代で、いきなりシャーマン(呪術者)を13歳の少女にしたのだろうか。ぼくはそうだとは思えない。卑弥呼も少女のうちから、いや、少女であったからこそ、人々にシャーマンとして認められていたのではないか。もっと言うと、13歳というタイミングこそが、シャーマンとしての適齢期ではなかったか。もう一つ、そう考える証拠がある。じつは卑弥呼が没したあと、また男が王さまになった。ところが、卑弥呼が女王になる以前と同じように、またまた国が乱れて、13歳の壱与を卑弥呼の跡継ぎにしたそうだ。

 これは逆に言うと、卑弥呼が没したとき、跡継ぎに決まっていた壱与が、まだ13歳に達していなかったから、仕方なく、男が王になったと考えてはいけないだろうか。つまり、男の王は、最初からリリーフだったんだ。卑弥呼の治世がうまくいっていたんだから、もともと、その政治体制を継承しようと考えていたとしても不思議じゃないだろう。

 ここまでの屁理屈をさらに発展させると、驚くことに卑弥呼の容姿を推測することすらできる。よく考えてみてほしい。卑弥呼は諸国の王から統一国家の女王に擁立された女性だ。彼女が年取ってから選ばれたというのなら、政治的な手腕があったと解釈するのが合理的だろう。しかし、ぼくは13歳説を唱えているのだから、そういう理屈は成立しにくい。となれば、彼女が女王にふさわしいと思われた理由はなんだったろうか。もちろんそれは、彼女に際立った神秘性があったからだ。だが、その「神秘性」の尺度はなんだ。シャーマンとしての家柄か? そうではないと思う。いやいや、家柄が悪かったとは言わないが、それが決定的な理由ではないはずだ。家柄だけでよいなら、何十年も国が乱れる前に、彼女の「家」から、もっと早く権力者が出ていたはずなのだから。では、ほかのシャーマンには欠けていて、卑弥呼に備わっていた神秘性とはなにか?

 ズバリ容姿だ。彼女は美少女だったのだ。それも並の美少女ではない。絶世の美少女であったと推論できる。そのように考えれば、彼女に、際立った神秘性があっただろうとする論理にも説得力を与えるではないか。

 なに? だったらなんで、後の世に、13歳女王(しかも美少女)伝説が残っていないんだって? きみきみ、細かいことを言ってはいけない。話が進まないではないか(苦笑)。

 よし。非常に強引ではあるが、以上の推論から、卑弥呼は絶世の美少女で、13歳のとき即位したと仮定しよう。とすると、彼女は239年に35歳だった(と仮定した)わけだから……

 卑弥呼の即位年は、217年だ。新説の完成!

 さあて、そうと決まれば、この説に説得力を与えよう。ところで、歴史を理解する上で、やってはならないことはなんだろう。それは、思い込みで勝手に決めた事柄に対して、自分の都合のいいように歴史書を解釈することだ。ぼくは、さっきからそれをやっている。いつもはマジメに歴史エッセイを書いてるから、今回のエッセイは、自分でも書きながらめまいがするよ。ほとんど妄想に近いもんなあ。UFOとかネッシーをマジメに論じてるようなもんだ(苦笑)。

 失礼。つい自虐的になった。気を取り直して、妄想……じゃなくてエッセイを続けよう。

 ここで、魏志倭人伝とは違う、べつの書物を引用しよう。それは「後漢書」と呼ばれているものだ。一般的に後漢書の成立は、420年ごろとされているから、280年代に成立した三国志に、一世紀半ほど遅れている。つまり後漢書は、魏志倭人伝を書き写しただけと言われている。しかし、記述の違いがあるのも事実だ。ただ書き写しただけなら、省略することはあっても、べつの事実を書き加えるだろうか? なんらかの政治的理由で、過去の歴史を改竄することはよくあるが、中国人に、日本の歴史を改竄しなければならない動機はない。もしかしたら、後漢書は、ただ魏志倭人伝を書き写したのではなく、魏志倭人伝のもとになった「史料」を参照して書かれたのかもしれない。つまり、後漢書には、魏志倭人伝では漏れてしまった事実が書かれているのではないか?

 そんなアホな。というのが、一般的な意見だ。後漢書における、魏志倭人伝との相違部分は、信憑性が低いといわれている。

 かまうもんか。自説を証明するためなら、使えるものはなんでも使うぞ。実際、後漢書の信憑性は高いと言ってる人も少なからずいるんだ。(ホントはね、ぼくは自身は、後漢書の信憑性は低いと思ってるんだよ。念のため)

 後漢書の東夷伝には、ありがたいことに、魏志倭人伝で、「男の王が七、八十年統治していた間、争いが絶えなかった」という部分に、年代を推定できる表記がある。なんと、倭国の争いが絶えなかった時期を「桓靈の間」としているんだ。

 桓靈の間とは、後漢の桓帝の治世146年〜167年と、霊帝の治世168年〜189年のことだろう。よって、桓霊の間とは、146年から、189年の間となる。

 以上のことから、後漢書に根拠を求める人たちの間では、卑弥呼の即位は、189年の前後と解釈される場合が多い。いま仮に、卑弥呼の即位が190年だったとしよう。で、卑弥呼が亡くなったのは248年だから、彼女の治世は、なんと58年だぜ。ずいぶん長くないか? 古代の女帝の平均治世は、約22年だから、ちょいと長すぎるぜ。

 そこで、べつの解釈を加えることにする。ぼくの「卑弥呼即位217年説」から、国が乱れていたという七、八十年(75年としよう)を引くと、142年だ。後漢書の言う、桓靈の間の、最初の146年に近似となる。いい感じだぞ。

 しかし、桓靈の間が終わるのが189年だから、217年から189年を引くと、28年間の空白が生じてしまう。うーむ、マズイ。

 いやいや、心配ご無用。なんと後漢書によると、国が乱れていた間、しばらく倭国に王が不在であった期間があると記されているんだ。「歴年主なし」と書かれている。その歴年の部分に、上の計算で生じてしまった28年の空白を当てはめるのだよ諸君。

 つまりこういうことだ。男が75年間(何代かに渡って)王だったが、その間、倭国には争いが絶えなかった。そのあと、王の不在期間が28年間あって、やっと卑弥呼が現れ、彼女が13歳に達したとき、女王として擁立した。どうよ。これなら、魏志倭人伝にも後漢書にも矛盾しない。

 すばらしい!

 これで「卑弥呼即位217年説」が証明されたようなものだ。彼女が即位したのは13歳のときだから、生まれたのは204年。そして没年が248年だから、享年44歳。悪くない数字じゃないか。そのくらいは余裕で生きてただろう。治世期間は31年だ。女帝の平均治世22年より長いけど、58年より現実的な数字だ。

 以上、証明終わり。

 さあ、卑弥呼の年齢と容姿がわかったところで、だいぶ彼女の実像を想像しやすくなった。魏志倭人伝によると、彼女には弟がいて、彼の助けを借りながら倭国を統治していた。卑弥呼の即位は13歳だから、当時弟は10歳ぐらいか? いくらなんでも幼すぎる。卑弥呼の在任中に大人になった弟が、途中から政治に参加したと解釈するべきだろうね。ちなみに、絶世の美少女の弟だから、彼もさぞ美少年であったと推論できることを女性読者のために付け加えておこう(笑)。

 それにしても、当時の倭国は、本当に争いが収まって平和だったんだろうか。なにせ卑弥呼は、宮殿に城壁をつくって、多くの兵に守られながら暮らしていた。しかも、女王になってからは、ほとんど人に会わず、たった一人の男子を通してしか(しかも、その男子は子供でなければならなかったと考えられる)、彼女の言葉を聞くことすらできなかった。これが平和な治世か?

 これには二つの解釈を与えることができる。まず一つは、自分をより神秘的に演出する手段だったということだ。権力者が神掛かってくると、こういうことは珍しくない。古代ペルシアでも、王は宮殿の奥の奥にひそみ、側近ですら薄いベール越しにでなければ、謁見できなかった。

 もう一つは、彼女は常に命を狙われていたという解釈だ。いまのイラクやアフガニスタンを連想すれば不幸にもわかりやすい。その政権に不満も持つ反体制派が大勢いると、当然、統治者は暗殺される可能性が高くなる。たとえば、アフガニスタンのカイザル大統領は常に命を狙われており(実際、何度か暗殺されかけた)、何十人ものボディガードに守られている。

 もしも、倭国がいまのアフガニスタンのような不安定な状況なら、卑弥呼の周りに儲けられた厳重な城壁は、彼女の命を守るためと言えるだろう。しかし、魏志倭人伝には、当時の日本が政治的に不安定だったとは書かれていない。卑弥呼は、鬼道を持って、人民をよく統治していたのだ。

 となれば、最初の解釈「卑弥呼の神秘性を高める」手段だったと考えるのが普通だろう。それが彼女の意志であったかはわからないが……

 ここまで論じてきて、ぼくが気になるのは、彼女の「弟」の存在だ。彼が姉さんを助けて国を治めていた。魏志倭人伝には、それほど重要な地位にいる弟に関する記述が、まったくと言っていいほどない。「助けて国を治める」と書かれているだけだ。

 じつは……この「弟」こそが、真の権力者だったのではないか。だとしたら、とびきり頭のいい男だ。自分はけっして表に出ない。黒子に徹している。また、そうでなければならない理由もあった。当時の日本は、女性が王でなければ治まらなかったからだ。男が王ではいけない。弟は、自分が権力者であることを世間に知られてはいけないのだ。彼の頭のよさは、まさに、その点から推測できる。人はだれでも権力を手にすると助長する。あるいは腐敗すると言い換えてもいい。しかし、この名前さえ残っていない弟は、頭がいいだけでなく、権力の誘惑に打ち勝つ、強い意志を持っていたことになる。

 そんなバカな。それが事実なら、彼は、後の世に生まれる、聖徳太子を凌駕するほどの聖人ではないか。そんな夢のような人物がいるはずがない。

 いやいや、待ちたまえ。この世に、そういう人物がいないわけではないのだ。たとえばぼくのエッセイ(クライシュ族の鷹 ≫)でも紹介した、アブドル・ラフマーン。あるいは十字軍と戦ったサラディンも加えていいかもしれない。彼らは最高権力を手にしてからも、それに溺れることはなかった。卑弥呼の弟を、彼らと同列に扱ってはいけない理由がどこにあるのか。歴史に名を残したか残さなかったかだけの違いではないのか。

 ここで、また想像力を飛躍させよう。卑弥呼が女王になったとき、彼女に直接会えたのは、まだ幼かった弟だけだったはずだ。それから数年たつと、こんな場面があったかもしれない。以後、美少女と美少年を思い描いて読むように。(なお、弟に名前がないと語りにくいので、仮に太郎としよう)

「お姉ちゃん、食事を持ってきたよ」
「ありがとう、太郎。今日は風が強いみたいね」
「うん。朝から天気が悪いんだ。ここからは見えないけど」
「太郎……あなたも、そろそろ声変わりの時期ね」
「うん」
 太郎は、寂しげに顔を伏せた。
「お姉ちゃんと会えるのも、もうちょっとだね」
「そうね」
 卑弥呼も、悲しげなほほ笑みを浮かべた。
「あなたが大人になるのはうれしいことだわ。ねえ、太郎。よく聞いて。わたしはもう一生、この宮殿から出ることはできない。青い空を見ることも、鳥のさえずりを聞くこともない。でもあなたは、この世のすべてを、その目で見て、肌で感じることができる」
「うん……ぼくの代わりの男の子が決まったら、その子にも、外の様子をよく語って聞かせるように言っておくよ」
「ありがとう。でもね、わたしの望みはそんなことではないの」
「じゃあ、なに?」
「あなたが、この国を治めなさい」
「ええっ?」
「驚くことはなにもないわ。民の生活を見て、彼らの願いを聞くことのできるあなたこそ、この国の王にふさわしい」
「バカなこと言わないでよ。王さまはお姉ちゃんだけだ。お姉ちゃんでなければダメなんだよ」
「わかっているわ。だから、あなたはけっして、人の前に出てはいけない。その名を知られてもいけない。辛いけど、それが、わたしたち定め。運命に逆らわず生きていくしかない。それでも、わたしには、あなたの助けが必要なの。この暗い宮殿ではなにも見えない。あなたの言葉がなければ、わたしはなにもわからない」
「お姉ちゃん……」
「太郎。あなたが政をおやりなさい。あなたの必要と思うことは、わたしが神託として出しましょう。あなたの敵は、わたしが排除しましょう。あなたの望みは、わたしが叶えましょう」
「みんなを騙すって言うの?」
「そうよ」
 卑弥呼は、真剣な顔でうなずいた。
「わたしのカワイイ太郎。たった一人の血を分けた弟。わたしたちならできるわ。いいえ、あなたならできる。そうでしょ? そうだと言って。わたしたちは、けっして運命の犠牲になるのではないと言って。お願いだから」
 いつしか、卑弥呼の瞳から、一筋の涙がつたい落ちた。
「お姉ちゃん……」
 太郎は、ぐっと唇をかんだ。
「わかった。ぼくやってみるよ。ぜったいにお姉ちゃんを、この宮殿の中で朽ち果てさせたりしない。いつか、漢の皇帝にだって認めさせてみせる」
「ああ、太郎」
「お姉ちゃん」
 二人は、ひしと抱き合った……

 なんてことがなかったことは賭けてもいいが(苦笑)、まあ、人間、夢を持つことも大事だってことで、ひとつお許しを。

 さあ、ヨタ話はこのくらいにしよう。けっして信じないように。間違っても、学校でTERUさんが言ってましたなんて言っちゃダメよ。まあ、TERUさんが「バカなこと言ってました」ならいいけど(笑)。

 さて。信じちゃいけないついでに、べつの信じちゃいけない説も紹介しよう。なんと、卑弥呼はアマテラスであったと主張している人がいるんだよ。ぼくが考えたわけじゃないから、あたまっから否定しないけど、かなり怪しい。しかも、江戸時代からあるって言うんだから、由緒正しい怪しさだ(笑)。

 彼らの主張の根拠は「古事記」だ。そこには、弟のスサノオが暴れるので、アマテラスが怒って岩の中に隠れてしまった話がある。いわゆる、「天の岩戸」伝説ですな。卑弥呼に弟がいたのは間違いないだろうから、この点は矛盾しない。

 で、ご存じのとおり、アマテラスが岩の中に隠れると、太陽が隠れてしまって、世の中は真っ暗になった。こりゃマズイというので、神様たちは、アメノウズメにストリップショーをさせて、アマテラスの気を引き、その隙に、力自慢のアメノタジカラヲノが、岩の中からアマテラスを引っ張りだして、世界に光を取り戻した。

 まあ、要約するとこんな話だ。で、「卑弥呼=アマテラス」説のみなさんは、卑弥呼が死んだときを、アマテラスが岩に隠れたときと解釈する。なんと驚くなかれ、彼女が没した248年には、日食があったのだよ。しかも都合のいいことに、そのほかの点でも、この説は魏志倭人伝にも矛盾しない。簡単に言うとこういうことなんだ。

 まず、「アマテラスが隠れた=卑弥呼の死」となる。つぎに、スサノオが暴れたという部分は、「スサノオが暴れた=卑弥呼のつぎに、男が王になったが、内乱が起きた」と解釈する。ほほう。で、「アマテラスが出てきて明るくなった=女の王が跡を継ぎ、争いが収まった」と完結する。

 なるほど。よくできてる。さすが江戸時代からある説だね。卑弥呼が人々の間で神格化され、しだいにアマテラス伝説になったと考えてもいいんじゃないか?

 どういたしまして。だいたい、古代人が日食に驚いたっていう前提が気に入らない。古代人をバカにしちゃイカンよ。日食なんてものは、何千年に一回しかないような特異な現象じゃないんだ。誤解を恐れずに言えばしょっちゅうある。ぼくの怪しい卑弥呼即位217年説で言うと、彼女が即位した217年から、お亡くなりになった248年までの間に、何回日食があったと思う? もちろん、日本で観測できる日食が。なんと、16回もあったんだ。しかも、卑弥呼が没したとき(248年)の日食は、朝の六時ごろだから、卑弥呼=アマテラス論者が言うほどドラマチックじゃなかっただろう。それに比べて、彼女の治世の真っ最中、232年に起こった日食は、午後の三時ごろだから、こっちのほうが、よっぽど目立ったんじゃないかな。なのに、232年の日食は騒がれていない。なんで? それは古代人が、日食という現象を知っていて(その原理を知っているわけはないが)、べつに驚かなかったからだとぼくは思う。(天気が悪くて見えなかったとも考えられるが、空は夜のように暗くなったはずだ)

 さらに、卑弥呼の弟をスサノオとするのも気に入らない。彼女の弟は優れた人物だったはずなのだ。彼らの言う、「スサノオが暴れた=卑弥呼のつぎに、男が王になったが、内乱が起きた」という解釈は、いかにもご都合主義だ。とくにぼくは、スサノオがアマテラスの弟とされたのは、日本書紀の編纂者(藤原不比等)の捏造だとする説を提唱しているので、よけい卑弥呼=アマテラスとは思えない。よって、「卑弥呼=アマテラス」説は、魅力的ではあるけど(卑弥呼が美人に思えてくる!)、ぼくは切り捨てたいと思う。

 さあ、そろそろ、最初に約束した、AMS法によって、弥生時代が500年も遡ってしまう深刻な問題について語るとしよう。

 日本書紀によると、最初の天皇が即位したのは、紀元前660年ごろとなっている。この記述が真実であるならば、紀元280年に書かれた魏志倭人伝に、なぜ天皇家のことが書かれていないのか。卑弥呼とはべつに、「天皇家」がすでに存在していたはずなんだから。しかも、卑弥呼よりずっと昔からだ!

 中国人の残した記録が「誤り」である可能性は十分に考慮しなければいけないけど、何度も書いたとおり、彼らには「嘘」をつく動機はない。となれば、卑弥呼の時代に、天皇家が存在していなかったと考えるのが合理的だ。

 それに比べて、日本書紀を編纂した藤原不比等には、嘘をつく動機が山ほどあった。彼にとって天皇家は、万世一系でなければならなかった。この辺の事情は、過去のエッセイ「カシキヤ姫 ≫」に書いたけど、彼は、天皇家の権威を高めるため(あるいは維持するため)アマテラスの系譜が、ずっと天皇家に繋がっているとしなければならなかった。そのためには、架空の天皇を作り出すことさえいとわなかった。

 しかしだ諸君。日本書紀が書かれたのは720年ごろのことだから、280年に書かれた魏志倭人伝の存在を、藤原不比等が知らぬわけがない。そこに天皇家の記述はなく、しかも卑弥呼は、中国の属国の女王とさえ書かれている。これをどう解決したものか。

 そこで不比等は、卑弥呼を無視した。邪馬台国も無視した。だって、神武天皇が紀元前660年に大和朝廷を作ったんだから、卑弥呼も邪馬台国も存在してちゃいけない。

 とはいえ、中国人が嘘をつく動機はないから、そのころ日本を統治していた「女帝」がいないのも具合が悪い。不比等は苦慮した結果、神功皇后という架空の人物をでっち上げることにした。不比等にとって、キャラクターメイキングはお手のもんだ。彼女を仲哀天皇の皇后ってことにして(だから、仲哀天皇も架空の人物だ)、仲哀天皇亡きあと、彼女が治世を司った。その年代を、魏志倭人伝に書かれている、卑弥呼の統治の年代と合わせたんだ。不比等は、この捏造を考えるとき細心の注意を払った。けっして彼は、卑弥呼=神功皇后とは言っていない。そう思えるように曖昧な表記しかしていないんだ。つまり、後世の歴史家が、どっちとも取れるように工夫した。(卑弥呼の存在が証明されても、それは神功皇后だったと主張できる)

 さらに、「卑弥呼=神功皇后」と思われてもいいように、神功皇后を「天皇(女帝)」にはしなかった。あくまで、天皇不在期間中に、奥さんが代わりに政治をやってましたよというスタイルにしたんだ。なぜか? 当時の日本は、中国の属国だったから、中国から金印をもらって喜んでる。ところが、不比等は「中国と日本は対等」だとしたかった。その点、ピンチヒッターの奥さんが、一時的に中国のいいなりになっていたとしても(そのように後世の歴史家に思われても)、まあ、皇后だったら天皇家の対面は保てる。

 いったい、いつになったら、弥生時代が500年も遡る問題に言及するんだとやきもきしているあなた。これから話します。

 ことほどかように、日本書紀の記述は信用できない。神武天皇が、紀元前660年に即位したなんて、絶対に嘘だ。と、ちょっとでもマトモな頭脳を持った学者なら信じて疑わなかった。

 ところがだ。弥生時代が500年遡るとすると、最大で紀元前1000年から弥生時代がはじまったことになる。もしそれが事実なら、紀元前660年当時に、それなりの規模の都市国家が形成されていてもおかしくはない。

 となるとだよ……日本書紀の言う、神武天皇の即位年、紀元前660年が、あながち嘘だとは言い切れないではないか。もちろん、それは天皇家ではなかっただろう。魏志倭人伝がそれを証明している。でも、日本は原始的な縄文時代ではなかったんだ。「王」のいる国があったと考えてもいいんじゃないか。不比等は、当時残っていた、なんらかの伝説をもとに、紀元前660年という、数字を使ったのかもしれない。その可能性はある。不比等は日本書紀を作るに当たって、それ以前にあった歴史書を焼き捨てているのだ。もちろん、自分の捏造がバレないためだが、その焼かれた書物の中に、われわれが永遠に知ることのできないかもしれない事実が隠されていた可能性は否定できないと思う。

 いままで日本書紀は、単に中国と張り合うため(対等という立場をとりたいため、日本の歴史を古くしたかった)、ずいぶんサバをよんだ数字を設定したもんだと思われていたけど、実際に、王がいたのかもしれないのだよ。(それは、不比等にとって都合が悪い人物だったわけだが、だからこそ、どんな人物だったかに思いを馳せるのがおもしろい)

 といったところで、そろそろこのエッセイを終わりたいと思う。お世辞にも卑弥呼の実像に迫ったとは言えないけれど、実質的に頼れる史料が魏志倭人伝だけとなれば、どうしたって謎の人物と評するしかない。卑弥呼は実在しなかったという説だってあるくらいだ。まったくもって、エッセイのタイトルにしたとおり、「惑わせる女」だよね。だから、このエッセイも、笑い飛ばしてください。ぜったいに信用ちゃダメだよ(苦笑)。


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