クライシュ族の鷹



 今回のエッセイでは、一人の男について語ってみたい。彼の名は、アブドル・ラフマーン。紀元756年に、後ウマイヤ朝を興した実在の人物だ。早い話、今回のエッセイは歴史だよ。

 えーっ、歴史なんか好きじゃないわ。そう思われたあなた。大丈夫。わたしを信じなさい。何度かエッセイで歴史を書いてるけど、どの回も、教科書みたいな味気ない書き方をしたことはなかったはずだよ。事実を正確に、でもおもしろく。これがぼくのポリシーだ。今回もがんばってみよう。

 さて。いきなり、後ウマイヤ朝なんて言われても、なによそれ、どこの国? ってな感じだと思うから、ちょっとラフマーンが登場する前の歴史についても、書いておこう。

 現代では、イランがある場所には、紀元前三世紀ごろ、パルティアっていう王国が成立したんだ。このパルティア王国は五百年近く繁栄したけど、紀元224年に、ササン朝ペルシアによって滅ぼされちゃった。ササン朝って言うのね、アナーヒタという水と豊穣の神様を祭った神殿の守役だった、ササン族がパルティアを滅ぼしたもんだから、そう呼ばれてるんだよ。このころは、もちろんイスラム教はなくて、まだ多神教の時代だよ。

 え? じゃあ、ペルシアってのは、どうしてついた名前なのかって? するどい質問ですな。ごめん、じつはよく知らないんだけど、イラン南西部の古代地名パールス(パールサとも呼ぶ)に由来するらしいよ。アラブ風になまると、ファールスになる。

 じつは、ペルシアって、ササン朝の前にも、アカイメネス朝とかあってね、まあ、この辺は細かい話になっちゃうから割愛するけど、ペルシアは、ササン朝に時代に一番繁栄したんだ。14世紀の地理学者で、イブン・アル・バルヒーってオッサンが書いた『ファールス・ナーマ』って本に、「古代ペルシアの帝王たちの時代には、この地域は政治の中心であり、東はオクソス川から、西はユーフラテス川にいたる間の諸国は、ペルシア人の国と呼ばれた。そこにある都市はすべてペルシア人の都市であり、全世界が、彼らに租税と貢ぎ物を納めていた」って書いてる。つまり、ペルシアは世界の中心だったんだね。

 ところで、ササン族は、神殿の守役だったって書いたよね。早い話、神官だったわけだ。だからなのか、ササン王朝は、けっこう厳格というか気難しいというか、一般市民が王様に会うなんてとんでもない話で、ササン王朝の王様は、たいがい、王宮の奥の奥の、またさらに奥の部屋にいて、側近でさえも、直接顔をみることは許されず、薄いベール越しに、謁見したっていうんだから、なんとも神々しいよね。実際、ササン王朝の王様は、半分本気で、自分たちのことを神様だと思ってたフシがある。

 さて、ペルシアの話を、もっとしたいんだけど、一気に400年ぐらい時間を進めちゃおう。紀元612。この年、みなさんもよくご存じのマホメットが、天使から「神の教えを人々に伝えなさい」と言われちゃった。いよいよイスラム教の誕生だ。

 ここで、ぜひ、言っておきたいことがるんだけど、マホメットはペルシア人じゃないんだよ。彼はアラブ人。アラビア半島ってあるじゃない。あそこはね、じつはペルシアの支配地域じゃなかったんだ。マホメットはアラビア半島生まれさ。といっても、あそこも広いから、もっと正確に言うと、メッカで生まれたんだ。当時のアラビアも基本的には多神教で、メッカは宗教の中心地でもあったんだよ。いろんな神様が祭られてたらしい。

 ところが、当時のアラビアには、すでにキリスト教が布教活動で入ってきて、ユダヤ教も、ユダヤ人の入植で入ってきていた。まあ、いろんなのが混ざってたわけだ。そんな中、マホメットが、ユダヤ・キリスト教系列の一神教を広めて、それがイスラム教と呼ばれるようになっていくわけなんだけど、今回は、イスラム教の話が主体じゃないから、ここもザックリ割愛しちゃう。だけど、どんどん力をつけたアラブ軍は、イラク、イラン、エジプトなんかを征服していって、ついに、ローマとの戦いで疲弊していたササン朝ペルシアも滅ぼしちゃうのは、覚えておいて損はないかもよ。

 ああ、そうだ。イスラム教の話が主体じゃないと言ったけど、一つだけ覚えといて。イスラム教団のトップのことを「カリフ」って言うんだ。ここで間違えちゃいけないのは、マホメットはカリフじゃないってこと。カリフって言葉は、後継とか代行者って意味。マホメットは真の預言者だからね。モーゼやキリストと同じ立場なんだ。でも、教団には後継者が必要なんで、カリフという制度を作ったんだよ。古来、アラビアは自由な気風だから、族長も世襲ってことは稀だったんだ。そのときに、最も能力の高い人が選挙とか話し合いで選ばれるんだよ。だから、マホメットも、自分の子供を後継者にしなかった。そもそも、後継者を決めずに昇天なされた。ところが、このカリフが、やがて、王様と同じように世襲制になるので(形ばかりの選挙制度は残ったけど)、「カリフ=王様」と思っても、あながち間違いじゃない。

 さあ、話がちょいと前後しちゃったけど、いよいよウマイヤ家と、アッバース家にご登場願おう。ちょいと(いや、だいぶ)事情は複雑なんだけど、最初はこのご両家とも、マホメットと一緒に戦った人たちだった。

 さっき、マホメットは後継者を指名せずにこの世を去ったと書いたけど、そのせいで、大騒動が持ち上がるのは想像に難くないよね。つまり、マホメット亡き後、アラブ人特有の部族間の争いが再燃して、早くもイスラム教団は、崩壊の危機に直面したんだ。分裂だね。

 そんな緊張の中、初代カリフを決める会議が行われたんだ。メッカの名門だった、ウマイヤ家からカリフを出そうって勢力と、アッバース家の出で、マホメットの義理の息子、アリー(マホメットの娘を嫁さんにもらった)をカリフにしようって勢力がぶつかった。

 このどちらにも問題があったから、話はさらにややこしい。

 まず、ウマイヤ家の問題。彼らは名門で勢力もあったんだけど、じつは、イスラムに帰順するのがずいぶん遅かったんだよ。というか、最初はマホメットを迫害すらしてた。ところが、イスラム教団の勢力が押さえきれなくなると、コロリと態度を変えて、イスラムに帰順したって経緯がある。だから、初代カリフを出すには、いささかふさわしくないと思われてもしょうがない。

 その点、アリーは、マホメットの奥さんの次に(そう! 最初のイスラム信者は、マホメットの最初の奥さんだったハディージャさん)信者になったとも言われている人で、マホメットの信任も厚かった。血統って意味では、問題ないし、勇猛果敢で誠実なんだけど、こっちも問題があった。マホメットが晩年に妻として迎え、目に入れても痛くないほど寵愛した、アイーシャに恨まれてたんだよね。余談だけど、マホメットとアイーシャは、父と娘どころが、祖父と孫娘ぐらいに年が離れていた。

 まあ、年の差はともかく、アイーシャは、本当に特別マホメットに愛されてたから、彼の死後も、教団の中で特別な存在だったんだ。けっこう発言力があった。彼女の意にそぐわない人物が、初代カリフになるのは、いささか難しい。

 さあ、どうする。事態は、ウマイヤ家とアッバース家の争いの様相を呈してきた。こりゃ、どっちが初代カリフになっても、流血の事態は免れないぞ!

 と、思われたとき、オマルって人が、マホメットの友人だった、アブー・バクルを初代カリフにしようと、あっちこっち説得して回って、なんとか事態を収拾した。ところが、アブーさんは、カリフになって二年で死んじゃったもんだから、オマルさんが、二代目カリフになった。そのオマルさん、十年間頑張ったんだけど、こんな群雄割拠の時代だから、けっきょく、刺客に殺されちゃった。そのあと、いよいよアリーの出番かと思いきや、微妙なところで、ウマイヤ家にカリフの座をさらわれて、ウマイヤ家のオスマーンが三代目カリフになった。ところがオスマーンさんってば、このとき齢七十歳。すでにジイさま。

 そんでも、カリフとして有能だったら問題なかったけど、重要な拠点の太守をジャンジャン罷免して、ウマイヤ家の人たちをその後任に命じたもんだから、さあ大変。恨みを買いまくって、けっきょく惨殺されちゃった。

 ここで、ついにというか、やっとというか、初代カリフのときから、カリフの代替わりのたびに有力候補とされてきた、アリーが、四代目カリフになった。

 これで一件落着? とんでもない! アリーはたぶん、安心して眠れる夜はなかったんじゃないかな。オスマーンを殺されたウマイヤ家は、その仇として、アリーを殺すことにしたんだ。そしてアイーシャの存在。この人は、もともとアリーを恨んでいたから、彼がカリフでいることが我慢ならない。(ちなみに、なんで恨んでたかというと、アリーに貞操を疑われたことがあるんだよ)

 そんなこんなで、アリーは、ウマイヤ家と、アイーシャを担ぐ勢力と戦わなきゃいけなかった。まず手を着けたのはアイーシャの方。こっちはなんとか、アイーシャを捕らえて、そのあと、彼女を丁重に扱うことで、なんとか納まったけど、問題はウマイヤ家だ。こっちとは、数万の軍勢をぶつけ合う、まさしく戦争状態。

 このとき、ウマイヤ家を率いていたのは、ムアーウィヤっていう覚えにくい名前の男なんだけど、彼は徳川家康タイプなんだ。アリーは勇猛果敢だけど、ちょいと単純なタイプ。

 と、こう書けば、どちらが勝ったかわかるよね。そう。ウマイヤ家の勝利だよ。それも徳川家康っぽく、なんとも遠回りなやり方。

 アリーの軍は、ムアーウィヤの計略で、まず、ハト派とタカ派に分裂させられた。それで、アリーは、ウマイヤ家と停戦することにしたんだ。これで怒ったのがタカ派だ。カリフともあろうものが、アッラーの決裁を仰がず、和議なんて、人間の勝手な判断で重大な問題を決着させたのはけしからんってわけ。

 アッラーの決裁ってのは、早い話、戦い抜くってことだよ。どんなに劣勢でも、正しければアッラーの加護で、戦いに勝つはずだ。というのが、イスラムの考えだからね。

 と、そんなわけで、ウマイヤ家は、アリーの軍隊が、自滅していくのをただ見てるだけでよかった。アリーはけっきょく、反旗を翻したタカ派の刺客に暗殺されちゃった。ウマイヤ家にしてみれば、笑いが止まらなかったろうね。

 ウマイヤ家の、ムアーウィヤは、アリーが存命中から、自分こそがカリフであると主張していたんだけど、一応、このアリー暗殺事件をもって、ウマイヤ朝が正式に成立したとする学者が多い。時に紀元661年。マホメットの死後、29年後のことだよ。

 そもそも、このご両家は、水と油なんだよ。ウマイヤ家は、シリア人で、生粋のアラブ人。気性は激しいけど、砂漠と酒と詩を愛する、陽気な人たちだ。ところが、アッバース家の支配地域はペルシアに近く、文化的にはペルシア人の影響を受けていた。ササン朝ペルシアのところで、彼らは、厳格っていうか気難しいっていうか、ちょいと、神掛かっていたと書いたよね。アッバース家も、そういう気風を持っていたんだよね。これじゃあ、馬が合うはずがない。

 さてさて。なんで、本題のアブドル・ラフマーンの前に、ウマイヤ家とアッバース家の対立をこんなに長く書いたかというと、じつは、この怨念ともいえるような事件が、百年後に登場するラフマーンの人生を大きく変えちゃったからなんだ。

 ウマイヤ王朝が成立してしばらく、カリフはまだ昔ながらの族長風だったんだけど、五代目のカリフのときになって、ようやくアラビア語を公用語と定め、それまで使われていた、ギリシア語やペルシア語を禁止した。さらに、お隣のビザンツ帝国の通貨を使ってたんだけど、こいつも廃止して、イスラム風の通貨を発行した。やっと「国」としての形ができたってところかな。いや、実際は「帝国」だけどね。エジプトからインドぐらいまで支配しちゃったんだから、ウマイヤ家もたいしたもんだ。七代カリフのスライマーンのころには、ピレネー山脈を超えて、フランスまで侵入して、十代カリフ、ヒシャームのときには、ロアール川まで進行したんだってさ。このヒシャームのころが、ウマイヤ王朝の最盛期だね。

 ところで、ウマイヤ家といえば、酒と詩と女を愛する砂漠の民って書いたよね。いや、実際には学者肌の人もいたけど、総じて、そういう気風の家なんだ。ウマイヤ家のカリフは、一人二人をのぞいて、ほとんどが、コーランを読むより、現世の快楽を楽しむ方が好きだったわけよ。こんな人たちが治めるんだから、ウマイヤ王国は、マホメットが存命していたころより、華やかで、陽気な国だった。カリフ自身、王宮に閉じこもってなんかいなくて、街へ繰り出しては、民衆と直接交わったりすることも多かったし、そうでなくても、ハージブ(侍従)という役職の役人に願い出れば、一般市民も、カリフに直接会うことが許された。このあとのアッバース王朝だと、カリフは王宮の奥にひっこみ、半神半人みたいになって、アッラーが現世に示した陰なんて呼ばれるようになる。

 そうそう。ウマイヤ家のカリフは、都会を嫌って、砂漠に別荘を建てることも多かったんだよ。シリア砂漠から当時の離宮が発掘されたりしてる。じつは、ウマイヤ王朝のことは、このあと興ったアッバース朝に隠れて、よくわかってないことも多いんだ。まだまだ、砂漠から遺跡が発見される可能性がある。未来の考古学者諸君、がんばってくれたまえ。

 そんなこんなで、百年が過ぎた。ウマイヤ家は、ムアーウィヤのあと二人ほど、有能なカリフを出してるけど、徐々に衰退していく。

 そのころ、百年も前に都を追われたアッバース家の方はというと、じつは、ヨルダンの南部にある、ファイマ村ってところで、ひっそりと、ウマイヤ家を打ち破る機をうかがっていたんだ。執念深い人たちだよ。

 そして、そのときは来た。

 ところで、話の腰を折るようで悪いけど、シーア派って知ってる? ニュースでよく聞くから名前は知ってるよね。イスラム教の一派なんだけど、じつはシーア派は、アリー党とも言って、もともとは、このアッバース家の人たちのことなんだ。(もっと正確に言うと、アリー党とアッバース家は分かれるんだけど、まあ、細かい話は割愛)

 ごめん、話を戻そう。ときは来た。

 ウマイヤ家は、あんまりイスラム的な人たちじゃないから、アッバース家以外にも、彼らを疎ましく思っていた勢力があった。いやまあ、そうじゃなくても他国を侵略して作った帝国だし、アラブ人は部族意識が高いから、他部族の支配を好まない(支配されるのを好む民族がいたら、会ってみたいもんだけど)。とはいえ、イラクの人たちとしては、シリア人であるウマイヤ家に支配されてるのが、とくに我慢ならなかったんだ。アッバース家は、そんなウマイヤの反抗勢力と手を組んで、衰退してきたウマイヤ朝を打倒することに成功する。時に紀元750年のこと。

 さあて、ここからが、いよいよ本題だ。キーボードを打つ手も熱くなってきたぞ。みんな、ちゃんとついてきてる? おもしろいのは、ここからだからね!

 アッバース家のウマイヤ家に対する恨みはすさまじかった。ウマイヤ家の人たちが、正式な場で着る衣装は白で、彼らの掲げる旗も白かったんだけど、アッバース家は黒衣を好み、旗も黒かった。本当に、ここまで正反対なのかよってぐらいに、性格が異なるご両家だけど、アッバース王朝が、暗くどんよりと、陰湿な雰囲気を感じさせるのは、王朝を奪回してすぐに始めた、ウマイヤ家に対する徹底した虐殺が、そもそもの原因だと思う。

 本当に、彼らの恨みはすさまじく、ウマイヤ王家に関わる人間は、一人残らず、女も子供も老人も関係なく、この世から抹殺された。最初の戦乱から逃げ延びた者も、草の根を分けるように、執拗に執拗に探し出され、そして殺された。それどころか、ウマイヤ王家の墓も暴かれ、歴代カリフの骸骨を掘り起こし、それを焼いて灰にした。特にひどかったのが十代カリフのヒシャーム。すでにその遺体は腐ってたんだけど、そんな遺体を十字架に張り付けて焼いた後、風に吹きさらした。さらに、ヒシャームの孫で、なかなか剣の腕がたつ男がいたんだけど、彼は片足と片腕を切り落とされて、息絶えるまで、シリアの街を引き回されたそうだ。

 もっとひどい話もある。ウマイヤ一族は、某所に立てこもったんだけど(場所は定かじゃない)、アッバース王朝の初代カリフ、アブール・アッバースは、そんな彼らを殺せるだけ殺したあと、地下に隠れている人たちに、「もう、恨みは晴らしたから、生き残りとは和解したい」と言って、地下から出てこさせた。八十人ぐらい生き残ってたそうだけど、そのあと、和解の宴会を開いて、酒をふるまった。お、いいとこあるじゃん。武士の情けってやつかな。

 とんでもない!

 アッバースは、宴もたけなわってところで、この八十人を惨殺しちゃったんだよ! そんでもって、屍体の上に革の敷物をかけて、その上に座って、宴会を続けたそうだ。まだ息のある者が、うめき声をあげたそうだけど、その声が聞こえなくなるまで、みんなで、酒盛りを続けたんだってさ。すさまじいね。(この大虐殺をやったのは、アッバースの叔父さんだったという説もある)

 ところが……

 そんなアッバース家の血で血を洗う復讐劇を生き残った男がいた。そう。彼の名こそ、アブドル・ラフマーン!

 ああ、やっと出てきたよ、アブドル・ラフマーン。十代カリフだったヒシャームの孫だから、本物の王子様(カリフの孫だから、公子と呼ぶべきだけど)。しかも、このとき二十歳になったばかりの若さで、髪はブロンドの巻き毛。かなりハンサム。加えて背も高かった。ホントに王子様って感じ。まあ、彼は伝説になっちゃってるから、容姿の真偽のほどはともかく、抜群に頭がよく、決断力に富み、不屈の精神の持ち主だったのは間違いない。歴史がそれを証明している。

 なんたって、この亡国の王子は、たった一人で、国を再興しちゃったんだから!

 アッバース家による、ウマイヤ家の虐殺が始まったころ、ラフマーンは、遊牧民たちの間に紛れて身を隠した。で、例の生き残りとは和睦したいという誘いを疑い、十三歳になる弟と二人で、宴会には出席しなかった。そのあとユーフラテス川の岸に近い寒村に身を潜めたんだけど、ここにも追手が迫ってくる。やはり、弟と二人で村をなんとか逃げ出し、別の村に入ったんだけど、ここでも密告されて見つかっちゃう。もう、ハリウッド映画さながらの逃亡劇で、なんとか近くの樹園まで逃げたんだけど、ついに包囲されてしまった。

 万策つきたラフマーンは、ユーフラテス川を泳いで、対岸に逃れるしかなかったんだけど、世界でも有数の大河だからね。どんだけ川幅があるか考えてごらんよ。もしかしたら、数百メートルはあったかもしれない。しかも、敵は岸に立って、「戻ってこい。命だけは助けてやる」なんて叫んでるんだ。まったく、映画だね。

 もちろん、ラフマーンは、敵のそんな言葉を信じるわけはなかった。ところが、弟の方は、川幅にひるんで、引き返しちゃったんだよ! ラフマーンが、やっとの思いで対岸に泳ぎ着き振り返ると、弟がいないことに気づいた。

「おい! 大丈夫か! どこにいる!」

 もちろん、弟は、敵に捕まっていた。しかもだよ、敵はラフマーンが、対岸に着くのを待って、こちらを見たときに、彼の弟を殺したんだ。ラフマーンの目には、首をかき斬られる弟の血しぶきが見えた。彼の心中がどんなものだったか想像してほしい。

 一族を惨殺され、一緒に逃げのびた弟も、目の前で殺された。ついにラフマーンは、たった一人になってしまった。普通だったら、神経が張り裂けて、気が狂っちゃいそうな体験だ。それでもラフマーンは逃げた。じつは、「ウマイヤ王朝は崩れさるが、一族のだれかが、どこかの地で、王朝を再興するであろう」という預言があって、ラフマーンは、それは、自分のことに違いないと、固く信じていたんだ。その信念が、彼の正気を保たせ、長く苦しい逃避行を続けさせた。

 ラフマーンが、パレスチナまで逃げ延びたとき、ささやかな希望が見えてきた。なんと、忠僕だったバドルと、妹の解放奴隷だったサーリムにめぐり合ったんだ。ちなみに、解放奴隷って言うのは、市民としての人権を与えられた奴隷のこと。がんばれば、将軍にだってなれる。彼らは、屋敷から金貨や宝石を持ち出して、ラフマーンを慕って追いかけてきたんだよ。涙の再会。

 ところが、パレスチナも安全じゃない。ここもアッバース家の支配地域だ。しかも、ウマイヤ王家の王子が生き残ってるというのが、彼らの支配地域全域に知れ渡っている。一刻の猶予もない。逃げなければ。まだアッバース家の手が届いていない場所は、エジプトの西しかなく、ラフマーンと二人の従者は、北アフリカまで逃れた。

 ここで、なんとか運命を切り開こうと五年間もさまよい歩いた。ところが、努力はなかなか実らず、五年間も苦労をともにしたサーリムは、さすがに不遇の主人に愛想を尽かして、シリアに戻ってしまった。残ったのはバドルのみ。まあ、あとで考えると、この五年という時間は、無駄ではなかったというか、必要な時間だったんだけどね。

 それはそうと、アフリカがダメなら、もう残った地は、海を渡ったところ、イスパニアしかない。いまで言うところの、スペインだね。じゃあ、さっさと海を渡ればいいじゃん。なんて思ったら大間違い。イスパニアは、とっくの昔にアッバース王朝の領地だよ。いや、正確には、ウマイヤ王朝が征服したんだけど、その支配地域を、アッバース家に、そっくり取られちゃってるからね。つまり、いまは敵地なわけだ。

 それでもラフマーンは、意を決して、バドルに密書をもたせ、イスパニアに渡らせた。イスパニアには、ウマイヤ王家に縁のある人たちが五百人ほど住んでいて、彼らを頼ることにしたんだ。これに失敗したら、もう後はない。

 すると……

 十二人の男たちが、金貨を五百枚用意して、一隻の船を仕立て、ラフマーンを迎えにきたんだよ!

「ラフマーン殿下!」
 男たちが、ラフマーンに駆け寄った。
「よ、よくぞご無事で…… ご苦労をなさったのでしょうなあ」
 もともと、お坊ちゃん顔じゃなかったラフマーンだけど、五年という苦行の歳月が、さらに彼の顔を精悍なものにしていたのだ。
「そなたたちこそ、危険を冒してまで、よく来てくれた礼を言うぞ」
「なんの。殿下の身を思えば、これしきの危険、なんてことはありません。それはそうと殿下、機は熟してまいりましたぞ」
「というと?」
「アッバースの支配が始まり、すでに五年。諸部族の不満も高まって来ております。しかし、きのうまでは、彼らをまとめあげることのできる人物がおりませんでした」
 ラフマーンの瞳が輝いた。
「今日はいるということか?」
「はい」
 男たちは、ラフマーンの前に膝をつき、うやうやしく頭を垂れた。
「いま、われらの目の前に」
「うむ……」
 ラフマーンは、男たちにうなずいた。
「わたしは、この日のために、生き延びてきた。再び、ウマイヤ王朝を再興するためにだ。諸君の命をわたしに預けてくれ。必ずや、アッバースを打ち破ると約束しよう」
「殿下!」
 男たちは、顔を上げた。
「そのお言葉を待ち望んでおりましたぞ!」
「わたしもだ」
 ラフマーンは、感激を胸に秘めて、忠僕のバドルを見た。バドルは、むせび泣いていた。
「バドル。よくやってくれた。お前のおかげだ」
「あ、ありがとうございます…… 殿下…… オレは、オレは…… うれしくて、涙が止まりません」
「泣くな。これからが大変だぞ」
「はい、殿下!」
 バドルは、涙を拭いて、大きくうなずいた。

 こうして、ついに、ついに、ウマイヤ王家再興の足掛かりができた。五年間もの間、海を渡ることができず、北アフリカの地でさまよっていたが、しかし、この五年という歳月は無駄ではなかったのだ。

 このとき、イスパニアを統治していたのは、ユースフ・アル・フィフリーという男だった。政庁はコルドバに置かれていた。五年経ったいまも、ラフマーンは有名人で、早い話、賞金首だったわけだ。ラフマーンの行動は、筒抜けってほどではなかったろうが、バレてないわけでもなかった。ユースフが、素直にイスパニアに入れてくれるとは思えない。っていうか、念には念を入れなきゃ。ここでヘタ打って捕まっちゃったら、殺された一族に顔向けできない。

 ラフマーンは機を待った。そのうち、北方のサラゴーサ地方で反乱が起こり、ユースフが、その鎮圧に向かった。

 いまだ! イスパニアに渡るにはいましかない。ユースフが軍を引き連れて出かけているいましか。

 時に、紀元755年4月14日。ついに、ラフマーンは海を渡り、イスパニアの地に足を下ろした。そこは、アルムネーカルという港だったという。

 ユースフは、反乱鎮圧に向かった地で、ラフマーンが海を渡った情報に接するやいなや、すぐさま、イスパニアに取って返した。しかし、すでにラフマーンは、ウマイヤ家に縁の者をはじめ、アッバース王朝に不満を持つ部族と通じ合い、軍の組織に着手していた。

 こ、こりゃえらいこっちゃ。ユースフは青くなった。イスパニアは、アッバース王朝の端っこで、その上には、キリスト教の王国がどーんと、のしかかっている。まだ、キリスト教徒たちの反抗は、それほど激しくはなかったけど、ここでラフマーンにまで反乱を起こされたら大変だ。内戦なんかしてる場合じゃないのだ。

 ユースフは考えた。ラフマーンとは、いったん和睦して、時間を稼ごうと。うまく立ち回れば、国内の不満分子も押さえられるかもしれない。

 そこでユースフは、昔の権力者がお得意の手を使うことにした。自分の娘をラフマーンに与え、身内にしちゃおうって作戦だ。

 考えるまでもなく、こんな作戦が成功するわけないんだけど、ラフマーンは、ユースフの誘いに乗って、コルドバに出かけ、彼と面会している。

「これはこれは殿下。ようこそおいでくださいました」
 ユースフは、揉み手をしながら、ラフマーンを迎えた。
「ユースフ殿」
 と、ラフマーン。
「貴殿に、殿下と呼ばれる筋合いはない」
「ははは。そうですな。まあ、どうぞお座りください。酒でも飲みながら話しましょうぞ」
「いや、けっこう」
「まさか、毒を盛るとでも?」
「そうではない。ただ、五年も流浪していると、用心深くもなる」
「話は聞き及んでおります。壮絶な人生を送ってこられましたな。どうでしょう。この辺でそろそろ、落ち着かれては」
「御使者の話では、貴殿の娘を、わたしの妻にとの提案でしたね」
「そうです。ともにフランク人たちと戦いましょうぞ」
「ふむ…… まあ、検討させていただきたい」

 こんな感じで、ラフマーンも、ちょいと色気を見せたりした。ラフマーンの方も時間が必要だったんだ。イスパニアに渡ってきのうの今日で、ユースフの軍と戦うのは、いくらなんでも無理。

 そんな駆け引きを続けながら、一年が経過した。

 756年3月。とうとう、ラフマーンがのろしを上げた。まず彼は、セビリアを占領。これを知ったユースフも、ラフマーンとの全面対決を決意。大軍を組織して、コルドバを出ると、ガタルキビル川の北岸を大挙して進軍した。これが映画だったら、重々しい音楽の中、アッバース家の黒い旗を掲げた軍隊が整然と進軍していく姿がスクリーンに映し出されることだろう。ラフマーン絶体絶命!

 じゃないんだよ。ユースフが、大軍を組織するのは、ラフマーンの計画どおりなのさ。ユースフなんて、小役人(でもないんだが)とは、器が違う。ラフマーンの本当の目的は、セビリアじゃないんだよ!

「殿下! ユースフがコルドバを出ました!」
「よし!」
 ラフマーンは、剣をとって立ち上がった。
「全軍に伝令! コルドバにいくぞ!」
「ははーっ!」

 という具合で、ラフマーンの軍は、ユースフが進軍して来ると、すぐさま川の南側を急行して、太守が不在になったコルドバを襲った。泡を食ったユースフは、大軍をUターンさせて、コルドバに戻ったんだけど、完ぺき補給路を断たれた格好になっちゃった。

「むむむっ! ラフマーンめ! 計られたわ!」

 と、気づいたってもう遅い。士気の高いラフマーン軍は、ユースフの軍を打ち破った。こうしてついにコルドバは、ラフマーンの手に落ちた。

 戦いに決着がつき戦場が落ち着くと、ラフマーンは、コルドバに入った。バドルをはじめ、彼に忠節を誓った戦士たちがあとに続く。

 ラフマーンは、コルドバの礼拝堂に足を踏み入れると、祭壇に立ち、部下やコルドバの名士たちを前に声を張り上げた。

「諸君!」
 彼の声で、ざわついていた礼拝堂の中に静寂が流れた。
「今日ここに、宣言する! わたしこそが、アル・アンダルスの王であると!」
「おおーっ!」
 バドルたち、忠節の戦士が、雄叫びを上げた。

 当時、この地方一帯は、アラブ風には、アル・アンダルスと呼ばれていた。いまでは、アンダルシア地方と呼ばれているよね。ラフマーンは、アンダルシア一帯の王になることを宣言したんだ。そう。彼は、カリフ(代理人)という言葉は使っていない。アミール(王)という言葉を使ったんだ。こうして、公子だったラフマーンは、長くつらい苦行の果てに、正真正銘の「陛下」になった。二十六歳の春のことだった。

 いよいよラフマーンの国づくりが始まった。ところがどっこい、いままでの苦行以上に、イスパニアを治めるのは大変な仕事だった。ラフマーンは、ウマイヤ家だからシリア人の血を引いているわけなんだけど、これに不満を持つアラブ族や、アフリカのベルベル族なんかが、つぎからつぎへと反乱を起こしたんだ。キリスト教徒の反抗が、まだ強くなかったのが不幸中の幸いってところだけど、アラブ族とベルベル族は、奔放な性格で、専制君主の言いなりになんかならない。彼らを統制していくのは不可能かと思われた。

 それでも、ラフマーンは果敢に挑戦した。アラブ族もベルベル族も、自由奔放な性格であるがゆえに、団結力に欠けていたんだ。ラフマーンは、そこをうまく突いて、最終的には、彼らを押さえ込むことに成功したんだ。もちろん、細かい機略と、勇猛な彼らの前でも、堂々と渡り合える度胸があったからこそなんだけど、それにしても、たいしたもんだ。詳しくは書かないけど、すごくすごく苦労したんだよ。

 そのころ。アッバース王朝にも変化があった。能力のないカリフでも誕生してたら、それはそれで、ラフマーンの活躍がおもしろかったかもしれないけど、歴史の偶然は、その逆を実現させた。なんと、のちにアッバース王朝で、最高の英主と呼ばれることになる、アル・マンスールというカリフが誕生していたんだ。そう。歴史は、ラフマーンの好敵手を用意したんだよ。なんという皮肉な運命だろうか。ラフマーンに安息の日はない。

 アル・マンスールは、カリフになると、さっそくイスパニアの奪回に乗り出した。しかも、ラフマーンが、アラブ族の反乱に苦しみ、二年の歳月をかけて戦っても、まだ決着がつかないでいるときを狙ったんだ。

 マンスールは、アル・アラーという男に、多額の軍資金と、綿密な計画を与えて、ラフマーンを倒せと命令した。さらに、ラフマーンを排除した暁には、イスパニアの太守の座を約束して、彼の士気を高めた。

 アル・アラーは、軍を組織してイスパニアに進軍した。しかも、彼らがポルトガルの南部まで達するころ、アッバース家の黒い旗を見た、ラフマーンに不満を持つ者たちが集まり、いよいよ、ラフマーン包囲網は、強固になっていった。

 ラフマーン最大の危機!

 そう。まさにこのときは、最大の危機だった。最初に戦ったユースフの軍は、なんだかんだ言っても、まあ、地方都市を守る、比較的小規模な軍隊だったし、そのあとの反乱も、各部族との小競り合いという感じだ。ところがこのときは、アッバース王朝の正規軍との、全面対決だよ。アッバース家にとっては、威信をかけた戦争。ラフマーンにとっては、生きるか死ぬかの瀬戸際だ!

 ラフマーンは、最も信頼している兵ばかりを集めて、セビリアのカルモーナという町に立てこもった。アル・アラーは、この町を取り囲むこと、二カ月に及んだ。

 ラフマーンは、立てこもりながら機を待っていた。本当にラフマーンは、機を見るに敏な人だ。町を包囲しているアル・アラーの軍に、倦怠の色を嗅ぎ取ると、ラフマーンは、精鋭700人を選び、西門のそばに、どっと火を燃やし、剣を高らかに上げた。

「諸君!」
 ラフマーンは、炎の照り返しを受けながら叫んだ。
「勝利か死あるのみだ! 剣の鞘を火に投じようではないか! 勝利を得られなくば、勇者として死ぬと誓ってくれ!」
 鞘を捨てることで、己の心の中に潜む退路を絶て。ラフマーンは、そう宣言したのだった。まさに背水の陣。
「おおーっ!」
 精鋭の兵たちは、一斉に、火の中に、剣の鞘を捨てた。ラフマーンのドラマチックな演出で、兵士たちの士気は異常に高まっていた。ラフマーンのカリスマ性あったればこそだ。この人のためなら死ねる。ラフマーンには、そう思わせる魅力があったんだね。

 ラフマーンは、城門を開け、自らも兵士たちと敵陣に切り込んでいった。おそらく、彼の戦いの人生の中で、このときが、もっとも壮絶な戦いだったことだろう。なんと、700人の兵で、敵の兵7000人を倒したと記録されている。死闘の果てにラフマーンが得たものは、死ではなく、勝利だった。

 ラフマーンは、敵将のアル・アラーをはじめ、主な将軍たちを捕らえると、全員の首をうたせた。その首を水で洗い清めて、それぞれの耳に、名前や身分を書いた札をつけると、塩と樟脳を入れた革袋に詰めた。残忍なようだが、今度の戦争には特別な意味がある。決してアッバースには屈しないという決意。そして、実際に負けはしないのだという証明でもあったんだ。

 ラフマーンは、敵将の首が入った革袋と、マンスールが、アル・アラーに渡した任命書、そして、実際の戦闘を子細に記録した文書に、アッバース家の黒旗を、コルドバの巡礼者に託し、メッカまで運ばせた。ときを同じく、メッカに赴いていたマンスールは、部下たちの変わり果てた姿を見ると、天に向かって叫んだ。

「おおお、なんということだ! あのような悪魔と、わたしとの間に、海原をおきたもうたアッラーよ! 褒めたたえあれ!」

 勝利を確信していたマンスールは、勝利どころか、あまりにひどい敗北に打ち震え、ラフマーンを討伐するのは、無理だと悟ったのだった。(じつは、この逸話には諸説があるんだけど、一番ドラマチックなのを、このエッセイでは採用した)

 のちに、マンスールは、バグダードの宮殿で、侍臣たちに語っている。

「クライシュ族の鷹と呼ばれるのにふさわしい人物はだれであろうか」
 マンスールは、侍臣たちに問いかけた。
 クライシュ族というのは、アラブの部族名で、マホメットもクライシュ族の出身であり、ウマイヤ家も、アッバース家も、もとはクライシュ族なのだ。
 侍臣たちは、てっきり、マンスールが、自分のことを言ってるんだと思って、おべんちゃらを並べ立てた。
「それは簡単でござりまする。多くの強敵を従え、たびたびの反乱を鎮め、四海を安定なさいました、あなたこそが、クライシュ族の鷹でござりましょう」
「いいや。そうではない」
 マンスールは、首を横に振った。
 侍臣たちは、主人の反応に戸惑いながら聞き返した。
「では、ウマイヤ家のムアーウィヤか、アブドル・マリクでございましょうか?」
 この二人は、ともにウマイヤ王朝の名君と呼ばれた人たちだ。とくにムアーウィヤは、ウマイヤ王朝の祖でもある。
 ところが。
「それも違う」
 マンスールは、やはり首を横に振ると言った。
「クライシュ族の鷹と呼ぶべきは、あのアブドル・ラフマーンをおいてほかにはいない。ただひとり、アジアとアフリカをめぐり、軍兵もなしに、海の彼方の未知の国に渡る大胆さ。おのれの機略と、堅忍よりほかに頼るものがないのに、傲岸な敵をひるませ、反徒を退け、キリスト教徒の襲撃も打ち返し、国境を安らかにしたのだ。ただ一人の男が、大帝国を建設し、群雄割拠の国土を統一したのだ。ラフマーン以外に、これほどの大業を成し遂げた者を、わたしは知らない」

 敵を称賛できるところが、マンスールの優れた資質を物語っている。まあ、好漢は好漢を知るってところなんだろうね。この逸話から、ラフマーンは「クライシュ族の鷹」と呼ばれているんだ。

 宿敵マンスールにさえ称賛されるラフマーン。話は前後するけど、マンスールが、キリスト教徒の襲撃を打ち返し。なんて言ってるとおり、つぎなる敵は、キリスト教徒だったんだ。こんどの敵もすごいよ。たぶん、名前は知ってると思うけど、かの有名な、カール大帝なんだから。本当に、ラフマーンには、心休まる日がないね。

 カール大帝。これだけ聞くと、神聖ローマ皇帝、カール五世と間違われそうだけど、ラフマーンと戦った、カールは一世のほう。混同を避けるために、カール一世は、シャルルマーニュと呼ぶことにしよう。略してシャルル。

 まずもって、シャルルの父、ピピンがメロビング朝フランク王国を倒して、カロリング朝を興した。シャルルは二代目だね。ピピンは、アラブ族と戦って、メルボンヌをとったから、このときついに、イスパニアと国境を接しちゃったんだよ。シャルルの一族は、祖父の代からアラブ族と戦ってるもんだから、シャルルがラフマーンとぶつかるのは、宿命というか運命だったのだと思う。

 ところが、最初シャルルはイスパニアに攻め入るのを躊躇した。だって、相手がラフマーンだもん。百戦を戦って、常に勝利してきた男だぜ。一度も負けたことがない。その評判は、ヨーロッパに轟いていたから、シャルルも、おいそれとは手が出せない。負けちゃったら、逆にかみつかれて、父が建国したカロリング王朝を失っちゃうかもしれない。

 ここで、シャルルがとった手は、例によって婚姻。親戚になって、仲良くやっていこうぜと。ラフマーンも、このときは婚姻による停戦に賛成だったみたいだね。でも、残念ながら、この婚姻は成立せず、けっきょく戦争になるんだ。婚姻がうまくいかなかった理由はよく分からない。この件は、アラブ側の資料にしか残ってなくて、どうもあやふやなんだ。

 それにしても、よくシャルルはラフマーンと戦う気になったもんだね。いやそれがね奥さん、じつは、ラフマーンに敵意を持ってるアラブの将軍たちが、シャルルに味方しちゃったからなんだよ。よし、これなら勝てる! と、シャルルは思ったんだろう。本人に会ったことないから、よくわからんけど。

 さあ、戦争だ!

 ところで、「ロランの歌」って知ってる? 中世フランス最古の武勲詩だよ。ロランというのは、シャルルの甥で、ブルターニュの辺境の方を領地にしていた伯爵で、とっても有名な騎士だよ。このロランも、ラフマーンとシャルルの戦争で死んじゃうんだ。そのとき、ロランがロンスヴォーの谷で、死力をふりしぼって吹いた角笛の響きが、いまも、詩となって語り継がれているわけなんだ。

 脱線した。結論を書こう。いや、書かなくてもわかると思うけど、負けたのはもちろんシャルル。わが、ラフマーンくんは無敵さ。いや、じつはラフマーンはこのとき、戦ってすらいない。シャルル側に着くって約束したアラブの将軍が、約束を守らなかったんだ。アラブ人を簡単に信用しちゃいかんよ。もっと正確に書くと、その将軍の部下が、将軍の言うことをきかなかったんだよ。そのとき、シャルル側でも反乱が起こっちゃって、シャルルの軍は、約束を破ったアラブの将軍を連れて本国に戻らなきゃならなくなった。この帰り道、フランク軍はバスク人に襲われて全滅しちゃうんだ。じつは、そのバスク人部隊には、イスラム教徒もかなりいたと記されているから、うがった見方をすれば、ラフマーンの計略だったとも考えられる。あまり憶測は書きたくないけど、あのラフマーンが、シャルルの侵攻をただ指をくわえて見ていたとは考えられないから、大いにあり得る話だよ。

 なんだか、戦争の話ばっかりだね。ラフマーンの人生は、戦争に明け暮れたわけだからしょうがないけど。でも、ふだんの彼の話もしておこう。

 後ウマイヤ朝を興したころ、ウマイヤ家の血を引くものとして、彼もコルドバの市内を気軽に歩いて、民衆と接触するのが好きだったんだ。ウマイヤ家の象徴だった、白い服を好んで着ていたし、やっぱり明るく陽気な感じだ。ラフマーンが、一生懸命、コルドバを守り続けたから、この町はよく発展した。自ら宣言した、アンダルシアの王って称号も、あながち的外れじゃなくなってきたんだ。だって、コルドバは、西イスラム世界の一大中心地になりつつあったんだよ。世界有数の大建築の一つ、大モスクも、このコルドバにある。ラフマーンが、この地にあった、キリスト教会を買い取って、モスクに改造したあと、彼の子孫がさらに拡張していったモスクなんだ。

 ラフマーンの住まいのことも書いておこう。やっぱり、ウマイヤ家の人らしく、都会の王宮より、離宮を好んだ。コルドバの郊外に離宮を造って、主にそこで暮らしてたんだ。ラフマーンは、ここをアル・ルサーファって呼んでいた。この名前は、彼の故郷である、パルミラの北東にある地名で、そこには、ウマイヤ家の夏の別荘があったんだ。ジイさんのヒシャームがこよなく愛した別荘であり、子供のころのラフマーンの思い出の場所でもあった。ラフマーンは、遠くシリアからナツメヤシの木を運んできて、ルサーファ宮の庭に植えた。彼は、この木に詩を書きつけたと言われている。

「わたしに似て、おまえも故郷から離れ、異境の土に生き、ふるさとを遠く想うか」

 こんな感じの詩を書いたらしいよ。偉業を成し遂げ、アンダルシアの王者になっても、遠きふるさとのことが忘れられなかったんだね。ちょっとホロリとする話だ。

 そんなラフマーンも、晩年は孤独だった。これだけの偉業を成し遂げるには、陽気で気さくな人じゃいられない。むしろその逆で、決して本意ではない決定も下さなきゃいけないことだってある。青春時代から、生死をともに戦ってきたバドルも、国が豊かになると増長して不正を働くようになってしまった。ラフマーンは、国を守るために、だれよりも信頼していた忠僕の財産をすべて取り上げて、国外追放した。悲しかったろうね。そして、諸部族の度重なる反乱。陰謀。策謀が渦巻く中で生きていくには、冷酷で執念深く、無慈悲な人という評価を受けなければならなかった。どこかの戦いで、片目を失っていたそうだから、顔つきも気難しくなっていたかも。

 ラフマーンは、とうとう、宮殿にこもり、めったに外に出なくなってしまった。そして、788年9月30日。五十八歳のとき、王宮で息を引き取った。後ウマイヤ朝を興してから、三十二年後のことだった。最後まで、自分をカリフと称すことはなかった。カリフとは、イスラム教団全体の統治者であり、聖地である、メッカとメディナを支配していなければならなかったからだ。

 彼の死後、後ウマイヤ朝は、250年にわたり繁栄した。じり貧になっていくアッバース王朝を尻目に、後ウマイヤ朝は栄華を極めた。建国から百年ほど経ったころ、後ウマイヤ朝の王の年収は、金100万ディーナールあったそうだけど、アッバース王朝の国庫には(年収じゃなくて、国庫だよ)、なんと、たった金80万ディーナール分の銀貨しかなかったそうだ。ただ、アッバース王朝は、息も絶え絶えながら、1258年まで続いた。後ウマイヤ朝は、1031年に滅んでいる。


※名前の表記について
アブドル・ラフマーンという名前は、「アブド・アッラフマーン1世」とするべきかもしれません。しかしながら、ぼくはイスラム史を、故・前嶋信次氏の著書で学びました。ラフマーンという表記も、氏の著書に倣っています。



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