存在しなかった正義





 エッセイを書き始めたのは、じつは、単なる苦し紛れだった。

 ぼくは小説を連載しない。それが完成するまではアップしない(例外はあるけど)。こういうスタイルは、個人のやっているオンライン小説のサイトでは、珍しいと思う。いや、ただ珍しいだけならいいんだけど(珍味と名がつけば高く売れる!)、じつは、大変愚かなことなのだ。だって、長編小説は、一年に、二本か三本書ければいいほうで、つまり、完成を待っていたら、サイトの更新も、一年に、二度か三度になってしまう。

 これはマズイ!

 一年に、たった、二度か三度しか更新されないサイトに、だれが立ち寄るだろうか。ぼくだったら、そんなサイト、きっと忘れてしまう。むーう。

 そこで、日記ふうのエッセイを書くことにした。それなら、小一時間で書けるし、小説の執筆につまったときの息抜きにもなる。じっさい、そんな気楽なエッセイを四本ほど書いてアップした(雑文に入ってる、最初の四本)。

 ところが……

 ここでも問題が発生してしまった。五本目の「神話について」と題したエッセイを書いたとき、エッセイを書くこと自体が楽しくなってしまったのだ!

 それからは、ぼくの好きな「神話」を主題にしたエッセイを中心に書いてきた。このエッセイは、サイト更新の間隔を縮めるという当初の目的だけでなく、書いていて楽しいし、驚いたことに、訪問してくれるお客さまを増やす効果ももたらしてくれた。いまとなっては、小説より、エッセイのほうがおもしろいと思ってる方もいるかもしれない(いや、それでも、十分にうれしいのですよ)。

 そのような経緯があって、神話を中心に扱ってきたエッセイだけど、その間に、歴史のことや、ちょっと科学的なことなんかを扱ったエッセイも書いた。それらも、ぼくにとって十分に興味のあることだから、もちろん、書いていて楽しい。掲示板などで、読んでくださっている方から主題をちょうだいするのも、なかなか、うれしいものだ。ただし、ぼくの知識の及ぶ範囲でならという条件付きだけどね(白状しよう。けっして知識の幅は広くない)。

 さて。今回は、感想掲示板で「十字軍」について書いてほしいというご希望をいただいた。これは、ぼくの知識の及ぶ範囲だろうか?

 まかせたまえ!(ドン、と胸をたたく)

 中東とヨーロッパの歴史は、得意中の得意だ! さあ、書くぞ!

 え? 主題をちょうだいする前に、中東とヨーロッパが得意ですと、自分で言ってたじゃないかって? うはは。

 なんにしても、さあ書こう。読む準備はよろしいかな?

 十字軍。

 この言葉を聞いて、まずなにを思い浮かばれるだろうか。その問いには、さまざまな答えがあろうが、おおむね、否定的なイメージが多いのではないかと思う。十字軍が殺したイスラム教徒(およびユダヤ教徒)の数は、膨大だ。去年の九月、ニューヨークで起こった信じがたいテロによって亡くなった犠牲者の数を、はるかに超えることは間違いない。

 え? なに? その前にまず、十字軍ってなんなのか説明しろ?

 そうだった。いまやこのエッセイは、中学生も読んでいるのだ。中学の教科書に十字軍のことが書かれているのかどうか、ぼくはもう記憶していないけど(たぶん、載ってると思うけどね)、そもそもの最初から、このエッセイをはじめるのは無駄じゃないだろう。

 古代の人たちは、とても「多くの神さま」を信じていた。自然現象に対する「畏怖」の念は「神」という、もっとも原始的な観念として発達し、空には空の神さまが、海には海の神さまが、大地には大地の神さまが、それどころか、そのへんに生えている木が、何百年も生きれば、その木にも神さまが宿った。

 古代の人たちにとってさえ、古代と思えるぐらいにむかしの人間は、ただ、それらの神を恐れ、敬い、ときには、ちょこっと厚かましく思われない程度にお願いをすればよかった。それで世の中は成り立っていたのだ。

 ところが、人間はだんだんと「賢く」なってきた。神さまたちを登場人物とした神話を語り始めたのだ。目に見えぬモノを、自分のイマジネーションだけで思い描くという、画期的な脳味噌の使い方を思いついたのだ。これが「宗教」のはじまりだった。それらはまた、文学や芸術の発明とも等しかった。神を語る言葉が文学になり、神を壁画に描く行為が芸術を発達させた。

 しばらくは、「宗教」が、人間の集団生活(社会)に及ぼす影響は、たかが知れていただろう。今もむかしも、社会の最小単位は「家族」だが、古代では、その家族がいくつか集まった小さなグループが、社会の最大単位だった。このころに、宗教が大きな影響を及ぼしたとは思えない。一番力の強い「男」が、その腕力を振るって、グループを率いていけばよかったからだ。

 ところが。農業を発明したあたりから、話はややこしくなる。農業によって、それまでとは比べ物にならないくらい、多くの人間を養えるようになった。農地は固定されているから、人々はそこに集まり、都市を作った。そこでは、すべての人間が「食物を得るために働く」必要はなかった。あるものは、狩りや農業に使う道具を作って生活しただろう。またあるものは、絵を描くことで生活したかもしれない。

 依然として、その都市のリーダーは、強い「男」だっただろうが、統治の仕方はずいぶん変わってきた。むかしむかしは、気に食わないヤツがいれば、たくましい腕で殴り殺せばよかった。だが、「都市」という巨大な単位に社会が成長すると、腕力だけで民衆を統治するのは非常に困難だった。

 統治者は考えた。人々が、自分の前にひれ伏すようにするにはどうしたらいいか。

 答えはすでにあった。人々は、都市ができるずっとむかしから、自然現象を恐ろしい神の仕業と考え、神の前にひれ伏してきた。これを利用できないか? じっさい利用できた。統治者は、神の化身(あるいは代理人)になり、神の言葉を語った。こうして「政治」が生まれた。だから、人類最古の文明を作ったシュメール人の政治は「神権政治」と呼ばれている。神と政治は、最初からワンセットだったんだよ(なにせ、世界最古の文明が採用した方法だからね)。

 この方法は、なかなかうまくいった。統治者が神の化身であるならば、べつに力の強い「男」である必要はなかったから、「女」も統治者になり得た。もっとも、その数はきわめて少なかったけど。

 このままうまくいくかと思ったが、シュメール人の神権政治は、まだ完成されてはいなかった。依然として、この世には神さまがたくさんいたのだ。統治者は、その神の中のひとつを選んで、化身とならねばならなかった。すると、べつの神を信じる者は、その統治者に、あまり従わなかった。

 それでも、全体としては、まあ、それなりにうまく機能していたので、しばらくは多神教の時代が続いた。神話の全盛期が到来だ。

 ところが、より画期的な方法を考えついた人々がいた。彼らは、神が複数いるはずがないと主張したのだ。この考え方を、もっとも洗練させたのはユダヤ人だった。彼らは、さまざまな土地に暮らしていたから、信じる神も、生活様式も、まるで違っていた。この民衆をひとつにまとめるには、神が複数いては都合が悪すぎた。だから、神はたった一人しかいないと決めたのだ。きわめて政治的な理由だ。さらに、いまもむかしも、人間はおごり高い生き物だから、神は、神自身の姿に似せて人間を作ったと決めた。

 こうしてユダヤ人はひとつにまとまり、カナンの地に移動して、そこにもともと住んでいたカナン人を長い時間かけて、やっと追い出し(最初は、カナン人のほうが文明度が高く、彼らの武器に対抗できなかった)、紀元前一二五○年ごろ、カナンに「ヘブライ王国(イスラエル)」という国を作った。唯一絶対神という宗教をもつ、最初の王国だった。

 唯一絶対神。こいつはなかなか魅力的な政治の道具だ。ところが、イスラエルかできても、この方法はまだ一般的じゃなかった。依然として、多神教が優勢だった。それが逆転するきっかけを作ったのが、ローマ人だった。

 おっと、その話をする前に、キリストのことを話さなきゃならない。ユダヤ人はユダヤ教という唯一絶対神思想を作って、民衆を統治してきたけど、彼らはただの人間だから、権力を持つと腐敗する。それに怒った人たちが、反旗を翻した。そのリーダーがキリストだった。水をワインに変えたりとか、けっこう楽しいことをしてた人だけど、彼は、ちょっと過激な演出であの世に行くことを計画した。ユダヤ人を怒らせて、自分を捕まえさせ、さらに自分を処刑させて、人々のために死んだことにしたんだ。

 この演出は、どうやら成功した。キリストの弟子たちが、彼の亡きあと、布教活動するときに、このお涙ちょうだいの話が大いに役立ったのだ。(こんなこと書いてても、クリスマスイブを作ってくれたことには感謝してるんだぜ!)

 さて、ローマ人。彼らは、長いことギリシア神話をローマ神話なんて名前に変えて信じてたんだけど、だんだん、形勢が不利になってきた。キリスト教の力が、徐々に無視できなくなってきたんだ。最初はキリスト教徒を捕まえたり殺したりして対処したけど、そんなことじゃ、とても追いつかないくらい、キリスト教徒が増えてきた。それどころか、ローマのお偉方まで、キリスト教を信じるようになってきた。ローマ皇帝、コンスタンティヌスのオッサンも、その一人。彼が、キリスト教を信じてもいいよって言っちゃったもんだから、キリスト教が大流行。コレラよりすごい勢いで流行しちゃって、もう、ヨーロッパ中、キリスト様様。これで、古代の神様は、みんな絶滅。まさに、アーメンだな。

 と、ここまでは、ヨーロッパの話。ここからはアラブの話をしよう。

 ペルシアという国があったのは知ってるよね? まあ、ずいぶん古い話だから、あんまり詳しくない人もいるだろうけど、いまのイランがあるあたりにあった国だよ。そのペルシアも多神教だった。だいたいの体系が整ったのは、紀元前六世紀ごろで、それはゾロアスター教って名前になった。良い神さまが、アフラ・マズダさんで、悪い神さまがアフリマン(アングラ・マイニュ)さん。もちろん、良い神さまのほうを崇拝してたんだけど、彼らは「火」を神聖なものと考えたから、ゾロアスター教は「拝火教」とも呼ぶ。

 ちょっと余談だけど、ペルシアの人が「火」を崇拝したってのはわかる気がする。あの地域には石油がある。それも、たっぷりと地面の下に埋まってる。古代、あの地域では、たまに地面が裂けたりして、地中の石油が蒸発した蒸気が出てくる場所が、いくつかあったはずなんだ。そこに自然と火がつけば、その炎は、いつまでたっても消えずにそこにある。

 すげえ不思議じゃん! と思っただろうね。大地が火を燃やしている。それも永遠に消えることのない火を。これは神の仕業に違いない。まあ、たぶん、こんなふうに思ったんだろう(と、学者は推測している)。だから、ペルシアの人々は「火」を崇めた。

 まあ、それはそれとして、話を戻そう。

 ペルシアの西南のほうにアラビア半島というのがあって、そこはペルシャ帝国にそれほど強い支配は受けなかった。だから、ユダヤ教徒やキリスト教徒がたくさん移り住んでいて、唯一絶対神思想を伝えた。じつは、それまでアラブも多神教だったんだけど、ユダヤ教やキリスト教の唯一絶対神思想に、いたく感じ入ったアラブ人が、その思想を支持した。

 なかでも、マホメットは一番強い影響を受けた。自分は、モーゼやキリストに次ぐ、三番目の預言者だと思った。じっさい、やったことは、過去の預言者と同じだった。モーゼがユダヤ教を作り、キリストがキリスト教を作ったように、マホメットはイスラム教を作った。七世紀ごろの話だよ。

 そのアラブ人が、ペルシアを倒して、イスラム帝国を作ったもんだから、この地域でも多神教の神さまたちは絶滅した。とくにマホメットは、偶像崇拝を嫌ったから、当時あった神さまの像なんかを、ぜーんぶ、壊しちゃった。ああ、もったいない…… もしも、いま残っていたら、超がつくほど貴重な文化遺産なんだけどねえ。

 ともかく。ヨーロッパではキリスト教。中東ではイスラム教という勢力図が出来上がった。もともと、どちらもユダヤ教に端を発する兄弟みたいなもんだけど(聖書とコーランには、同じ名前の聖者や天使が、いっぱい登場する)、ともに、唯一絶対神を信じてるところが曲者なんだ。というのは、「自分たちの神さまのほうが正しい!」と、主張し始めちゃった。こうなったら、紛争を解決する手段はあんまり多くない。当時の権力者たちが、核兵器をもっていなかったことを神に感謝しようじゃないか。

 イスラム教徒は、どどどどーっと増えて、すぐに聖地エルサレムを自分たちのものにしちゃった。当然、キリスト教にとってもエルサレムは聖地だから、キリスト教徒はかんかんに怒った。でも、キリスト教徒たちって、あんまり文化的じゃなかったから、当時、とっても洗練されてたイスラムの人たちには歯が立たなかった。なんとエルサレムを占領されてから、奪回に乗り出すまでに四〇〇年もかかった。

 では、四〇〇年後の話をしようじゃないか。

 キリスト教徒たちは、中部フランスのクレルモンで公会議(まあ、宗教会議みたいなもんだ)を開いて、聖地回復の聖戦を行うと宣言したんだ。

 じっさいのところ、ビザンツ(東ローマ)帝国が、セルジューク・トルコに小アジア(アナトリア)を占領されちゃって(このときのビザンツ帝国のあわてぶりは恐慌に近かった)、対立関係にあったローマ法王に、助けて! って恥も外聞もなく泣きついたのが発端なんだ。

 とにかく、ビザンツ帝国は、セルジューク・トルコに奪われていた小アジア(アナトリア)を奪い返したかった。この地域がイスラムに取られたままだと、おちおち寝てもいられない。でも、そんな理由じゃあ、ローマ法王(というか、他の西欧諸国)が協力してくれないから、聖地を奪回するという目的を強調した。

 で、助けを求められたローマ法王のウルバヌス二世も、ローマ法王の権力を強くしたかったし、東ローマ帝国への影響力の拡大も狙って、助けてやろうと思ったのさ。どいつもこいつも、みんな腹黒い。

 なんにしても、これが、第一回目の、十字軍だ。そろそろ、年代をキチンと書いていかないと、マズイな。いちおう歴史エッセイだからね。年表を見ながら書こう。

 さて。ローマ法王は兵を集めなきゃならない。とはいえローマ法王は、本来は部下であるはずの神聖ローマ帝国(いまでいうドイツだね)と仲が悪かったもんだから……

 え? ローマには法王と皇帝がいるのかって? いるんだよ。ローマにもいろいろあってね。早い話、権力闘争なんだけど、その結果、ローマ法王と神聖ローマ皇帝というふたつの最高権力が並び立っちゃったんだ。霊魂は前者が、肉体は後者が支配するなんていわれてたんだ。

 脱線した。とにかく、ローマ法王は、ローマ皇帝と仲が悪かったから、フランスの騎士軍を使ことにしたんだ。そんなわけで、聖地回復の宣言は、フランスのクレルモンで行われたってわけ。じっさい、そんなようなしがらみもあって、兵を組織して、聖戦の準部ができるまでには、けっこう時間がかかった。ビザンツに小アジア(アナトリア)を奪われてから、二十年ぐらいかかってるはずだ(のんびりしてるね)。

 さあ、この第一回十字軍がどうなったか教えてあげよう。結論から言うと、けっこううまいことやった。小アジア(アナトリア)は奪回するし、エルサレムも奪回して、そこにエルサレム王国を作っちゃったんだ。このとき、エルサレムにいた住民は虐殺された。これが血塗られた十字軍の幕開けだ。そういえば、アメリカのブッシュ大統領は、十字軍が大好きらしいね。よほどイスラム教徒を、虐殺したいに違いない(と、思われてもしかたないよ、ブッシュくん!)。

 視点を変えよう。イスラムからは、この十字軍がどう見えただろうか(よく見えたわけないけどさ!)。

 そもそも、第一回十字軍と戦ったセルジューク・トルコってなんだ? こいつを説明するには、えらく長い説明が必要なんだけど、できるだけ簡単に済まそう。

 そもそも、高原アジアの遊牧民族がトルコ(チュルク)という名称を使うようになったのは六世紀ごろの話なんだ。その後、トルコ族の一部が(一口にトルコといっても、いろんな民族がいるんだよ)、アッバース朝の奴隷兵として使われるようになった。

 え? アッバース朝ってなに? その質問には、こう答えられる。ぼくの書いた歴史エッセイ「クライシュ族の鷹」を読んでくれたまえ!

 読んだかい? オッケイ。これでアッバース朝の説明はしなくていいね。とにかく、アッバースの奴隷兵として使われたトルコ族は、徐々に、アッバース朝の中で力をつけてきて、最後には、自分たちがアッバース家の実権を握っちゃう。表向きは、アッバース家のカリフを立ててたけど、裏で暗躍しはじめたのさ。これが、行き着くところまで行き着いて、アッバース朝は滅んだんだけど。それはまあ、べつのお話だ。とにかく、セルジューク朝の時代、トルコ族こそがイスラム最強の民族。

 で、問題のセルジューク・トルコだけど、十世紀の中ごろ、セルジュークという男がイスラムに帰依(きえ)したところからはじまる。セルジュークは、一族郎党(たった百人だったけど)と、ラクダ一五〇〇頭、ヒツジ五〇〇〇頭をつれて、イスラム教徒になった。

 このセルジュークの子供たちが、がんがん周辺諸国を占領しはじめて、孫のトゥグリルのとき、ついにバグダードに入って、ときのカリフからスルタンという称号をもらった。スルタンってのは、まあ、「トルコ系イスラム教徒の王さま」っていうような意味だけど、このときのトゥグリルは、カリフそのものと言ってもよかった。つまり、すごい権力を持っていたってことさ。いまで言うと、イランとイラクの皇帝になっちゃうようなもんだ。

 てわけで、このトゥグリルがスルタンになったのをもって、大セルジューク朝(あるいは本家セルジューク朝)の成立としよう。

 トゥグリルは一〇六三年に死んじゃったんだけど、あとつぎがいなかった。そこで甥のアルプ・アルスラーンがあとをついだ。

 この二代目のときに、ビザンツ帝国を破って、ときの東ローマ皇帝をとっ捕まえて、小アジア(アナトリア)の大半を侵略したんだ。それまでも、ちょこちょこ、小アジア(アナトリア)には手を出してたんだけど、アルスラーンの時代に、この地域を永久的に占領した。これで、ビザンツ帝国が恐慌をおこして、ローマ法王に泣きついた話はしたよね。

 ところが、二代目のアルスラーンは、ビザンツと戦ったすぐあとの、一〇七二年に世を去ってしまう。そのあとはアルスラーンの息子の、マルク・シャーがあとをついだ。セルジューク朝は、このマリク・シャーの時代に黄金期を迎える。彼には、優秀な宰相がいたからね。ところが、その宰相が暗殺されて、マリク・シャーも世を去ると、セルジューク朝は分裂をはじめ、パッと燃えた花火が消えるみたいに、十二世紀には歴史から姿を消す。すごく短命の王朝だったんだ。

 最初の十字軍が、イスラムに挑んだのは、このセルジューク朝が分裂をはじめたころだった。もしも、十字軍がもっと早く組織されていて、マリク・シャーと戦っていたら、歴史はずいぶん変わっていたと思うよ。

 そんなわけで、イスラムはキリスト教徒に負けちゃった。シリアのトリポリ、アンティオキア、エデッサ、エルサレム王国と、四カ国も、勝手に国を作られちゃったんだ。

 さあ、大変だ! なんとかしなきゃ!

 対十字軍との戦争(ああ失礼。聖戦というんだったね)いう意味で、最初のイスラムの英雄は、ザンギー朝の創始者ザンギーその人だろうね。ザンギー朝は、もとマリク・シャーの部下だったアクソンコルの子だったザンギーが、モスルという都市の統治を任されたところからはじまる。一一二七年のことだ。

 十字軍が占領していたもっとも重要な都市は、いうまでもなくエルサレムなんだけど、戦略的な意味でいうと「エデッサ」も、とても重要な場所だった。ここは、ユーフラテスとティグリス川の上流に囲まれた、ジャジーラ地方のほぼ中心にあるんだ。

 イスラム世界にとって、エデッサを占領されてるってことは、その身体に、深くくさびを打ち込まれたようなもんなんだよ。かなりの痛手。ここを奪回しなきゃ、十字軍の侵略という傷口が広がるばかりなんだ。

 エデッサ奪回を成し遂げたのは、ザンギー(と、その息子のヌールッ・ディーン)だった。この時代のイスラムの歴史家は、当時の様子をこう記している。

「十字架はくつがえされ、聖職者たちは寸断され、あらゆるものが破壊され、ふみにじられた。残されたのは、カモシカのように可憐な少女と、奴隷に適した少年たち、そして商人たちの財宝のみであった」

 早い話、徹底的に破壊して、キリスト教徒の少年少女を奴隷として連れ帰り、商人たちの金は、ごっそりいただいたと。そういうことなわけだ。残酷? まあ、紳士的でないことはたしかだね。でも十字軍も、エルサレムのイスラム教徒を四万人を虐殺した記録が残ってるから、どっちもどっち。いや、どちらかというと、キリスト教徒の凶暴性っていうのか、狂信性のほうが、ずっと恐ろしい時代だった。狂っていたと言っても過言ではないだろう。ホントに、十字軍は、情け容赦なく、イスラム教徒を殺したからね。キリスト教徒は、この時代イスラム教徒をゴキブリのように嫌っていたから、良心の呵責なんてものは、微塵もなかっただろう。あ、そうそう。この時代のキリスト教徒(十字軍)は、ユダヤ教徒も惨殺してるよ。イスラム圏に住んでるユダヤ教徒を礼拝堂に押し込むだけ押し込んで、火をつけて焼き殺したりしてる。

 二〇〇〇年になって、ついに、カトリックのローマ法王、ヨハネ・パウロ二世が、神様に対して過去の残虐な犯罪を懺悔したのはまだ記憶に新しいね。この懺悔に対して、「謝る必要なんかない!」という人と、「謝り方が足りない!」という人の間で、論争があったのも記憶に残っている。日本人には、この辺の確執というか、過去の怨念が、いまいち理解できないけど(理解したくもないけど)、ぼくは、懺悔したローマ法王の勇気を、素直に評価したいと思う。こういう一歩一歩の努力が、未来に希望をもたらすと信じたい。

 脱線しちゃったね、ごめん。話を戻そう。

 エデッサの奪回は、イスラム世界に希望を与えた。ザンギーの株も大いに上がったわけなんだけど、この人、その二年後に、つまんないことで死んじゃったんだ。夜中に物音がするから起きてみると、奴隷たちが、勝手に酒盛りをしてたんだよ。バカモン。なにをしとるか。さっさと片づけろ。と、奴隷たちを叱りつけて、また眠ったんだけど、奴隷の一人が、あとで処罰されるのを恐れて、寝てるザンギーをぷすっと刺して殺しちゃった。いやはや、なんともあっけない英雄の最後だった。

 これで、さっそくザンギー朝が傾くかといえば、さにあらず。幸いなことに、ザンギーの子供で、あとをついだヌールッ・ディーンが、これまた、親父さんにもまして優秀な人物だったんだよ(ヨーロッパでは、こっちのヌールッ・ディーンのほうが有名だ)。

 さあ、視点をキリスト側に戻そうじゃないか、諸君!

 第一回十字軍が作ったエデッサが攻落すると、一一四七年に、第二回十字軍が結成された。こんどはフランス王とドイツ帝も参加した帝王十字軍だぜ。両者は共同してダマスクスを包囲したんだけど、うまくいかなかった。早い話が失敗。ヌールッ・ディーンの軍にはかなわなかった。

 またまた、イスラムに戻そうじゃないか、諸君!

 え? キリスト側が少なすぎる? いや、そう思う気持ちはわかるけど、このときの十字軍に見るべき部分は少ない。ところが、イスラム側には、将来イスラムで最も有名になる人物が戦争に参加してたんだから、そっちを重点的に書かなきゃね。

 彼の名は、かの有名な、サラディン。

 正しくは「サラーフッ・ディーン」とか「サラーフ・アッディーン」というんだけど、まあ、英語風にサラディンというほうが通りがいいよね。

 イスラムの英雄の名をあげよといわれたら、たぶん枚挙にいとまがないと思う。マホメットは別格として、思いつくままに書くと、ウマイヤ朝の祖、ムアーウィヤは、日本でいえば徳川家康だし、ウマイヤ朝五代カリフの、アブドル・マリクも英傑だった。アッバース朝に移ると、マンスールという英主がいるし、同時代、後ウマイヤ朝を建てたラフマーンは、「クライシュ族の鷹」でも書いたとおり、英雄中の英雄といえる。その子孫であるラフマーン三世も、簡単には語り尽くせない英傑だった。十字軍からエデッサを奪回したザンギーも忘れちゃいけない存在だ。さらに、ザンギー朝を継いだ、ヌールッ・ディーンも、第一級の人物として、イスラム教徒だけでなく、敵だったキリスト教徒(十字軍の兵士)たちにも認められている。

 と、卓越した人物を多く輩出したイスラム世界だけど、その中にあって、もっとも人々に記憶されているのは、サラディンかもしれない。ぼく自身は「クライシュ族の鷹」で書いた、ラフマーンが一番好きなんだけど、サラディンは、敵であったキリスト教徒にさえ尊敬されている(ブッシュ大統領も、サラディンの悪口だけはいわないだろう)。そしてたぶん、われわれ日本人にも、一番親しまれているイスラムの英雄だろうね。

 彼は、一一三八年にタクリート(ティグリス川の上流のほうにある町)で生まれた。サラディンのお父さんは、アイユーブというんだけど、アイユーブはクルド族の貴族で、タクリートの城主だったんだ。つまり、サラディンはお坊っちゃまなんだよね。ところが、サラディンが生まれた、まさにその夜。アイユーブは弟のシールクーと一緒に、失脚しちゃうんだ。アイユーブは、職を追われて、ザンギーのもとに身を寄せた。

 ザンギーは、アイユーブとシールクーを温かく迎えた。アイユーブも弟のシールクーも、優秀な人材だったからね。ザンギーは、アイユーブをバールベクという街の知事に任命して、シールクーは軍の部将とした。

 そんなこんなで、生まれたばっかりのサラディンは、バールベクに移り住んで、そこで九歳になるまで過ごしたんだ。

 で、さっき書いたとおり、ザンギーが奴隷に殺されるという事件が起きた。これでまたアイユーブは職を失って、ダマスカスに移った。ここでサラディンは、第二回十字軍の来襲を経験するんだ。まだ九歳だから、なんにもできないけどね。

 でも、このときは、イスラム教徒たちがんばったんだよ。十字軍をダマスカスに入れることなく、その近郊にある樹園で撃退したんだ。サラディンのお父さん、アイユーブも、この戦いで、部将として奮闘したんだよ。

 そのころ。ザンギーの息子、ヌールッ・ディーン(それにしても、書きにくい名前だよなァ)が、政権を受け継いでいた。アイユーブの弟、シールクーは、このヌールッ・ディーンの信任が厚く、腹心として取り立てられたんだ。もちろん、シールクーは、兄のアイユーブを、ヌールッ・ディーンの政権に招き入れた。どうもアイユーブの方は、武人というより、政治家肌の人だったらしく(貴族だしね)、ヌールッ・ディーンのもとでも、知事に任命される。こんどはダマスカスの知事になったんだ。ヌールッ・ディーンは、父の代からザンギー朝に尽くしてくれた、この優秀な兄弟を、心から信頼した。部下たちが、ずらっと並ぶ会議の席とかで、この二人だけは、国王の前で立たされることがなく、いつも座を与えられたんだ。つまり、右腕と左腕だったわけ。

 と、そんなわけで、父親がダマスカスの知事になったもんだから、サラディンも、ここで青春時代を過ごした。彼は、高い教育を持つ二十五歳の青年に成長していたんだ。おもしろいことに、当時のサラディンをどんな青年だったかを知る記録が残ってる。それは、アラブの騎士として有名な、ウサーマ・イブン・ムンキドの回顧録なんだ。彼は、サラディンと時を同じく、ダマスカスの宮殿ですごしたことがあるんだけど、なんと、当時は、サラディンのことなんか知らなかったんだってさ! 知事の息子なのにだよ。つまり、サラディンは、それほどまでに、目立たない存在だったんだよ。意外だよね。サラディンほどの人物なら、早くから頭角を現していたと想像するじゃない、ふつうは。父親に似て、武人というより、政治家っていうか、学者肌だったのだろうね。だから、騎士とは交流がなかったんだと思うよ。

 ところが、歴史は皮肉にも、そんな心優しいサラディンを戦場へと連れ去ってしまう。

 ザンギー朝と、キリスト教徒の軍は(キリスト教の支配地域を示すラテン王国という言葉を使う場合もある)、ずっとにらみ合いを続けていた。どちらも、相手を屈伏させる軍事力には欠けていたんだ。いまでいえば、冷戦状態だね。

 ここでキャスティングボードを握っているのはエジプトだった。ナイル川を持つエジプトだぜ。その扶翼な土地は、ザンギー朝にとっても、ラテン王国にとっても、垂涎の的。エジプトをとればパワーバランスが大きく変わるのは間違いない。エジプトを先にとった方が勝ち。そんな雰囲気だった。もっとも、エジプトが強国ならば、そんな野望も絵に描いた餅だけど、当時のエジプトの王朝、シーア派のファーティマ朝は、もうボロボロの状態で、いまにも滅びそうだったんだ。ザンギー朝もラテン王国も、このエジプトを虎視眈々と狙っていたわけさ。

 そんな歴史が動いたのは、一一六三年だった。エジプトのファーティマ朝の大臣、シャワールは、政敵ディルガムと争い、ザンギー朝に救いを求めたんだ。ディルガムのほうはラテン王国に助けを求めた。

 さあ、これでエジプトを舞台にした代理戦争の勃発だ。ヌールッ・ディーンは、腹心シールクーに精鋭部隊を授けてエジプトに送り込んだ。このとき、シールクーの幕僚に選ばれたのがサラディンだった。控えめな性格だったサラディンが、ついに戦争デビュー。

 この代理戦争は、シールクーが勝利した。そう。エジプトはザンギー朝が取ったのさ。ファーティマ朝の大臣だったシャワールは、ザンギー朝に助けを求め、たしかに助けられはしたけど、けっきょく、実権はシールクーに握られることになる。ファーティマ朝のカリフは、ただのお人形さんになっちゃった。と同時に、この出来事は、二回目の十字軍が、完全に敗北したことを意味してもいる。

 まんまと、エジプトの実権を握ったシールクーだけど、このオッサンも、くだらない理由で死んじゃう。なんと食べすぎ。食べすぎで死ぬってすごいよね。人間、いったい、どんだけ食べたら死ぬんだろう? よくテレビで、大食い選手権とかやってるけど、みんな、米を二升とか食っても、平気な顔してるぜ。ちなみにぼくは、一合半も食べたら、苦しくて死にそうになるな。

 ごめん、脱線しすぎ。話を戻そう。

 シールクーのオッサンが、おなかいっぱい食べて死んじゃったもんだから、幕僚としてエジプトにいた甥っ子のサラディンに、突然、スポットライトが当たっちゃった。棚からぼた餅とはこのことだ。ビバ食いすぎ! 叔父さん、死んでくれてありがとう!

 サラディンが、そんな不遜なことを思ったわけはないけど、とにかく、彼は脚光を浴びることになった。なんと叔父さんが死んだ三日目には、宰相に任命されたんだ。総理大臣だね。サラディン、三十一歳のときだった。いよいよ、男盛りって年齢だぜ。

 ファーティマ朝の連中も、サラディンの宰相就任を喜んだんだ。だって、おとなしくて目立たない存在だったからさ。それまで、食いすぎで死んじゃうくらい、押しの強いシールクーに実権握られて、ぎゅーっと押さえ込まれていたから、サラディンなら、御しやすいと思ったんだよ。この男なら、うまく取り込んで、ふたたびファーティマ朝が実権を取り戻すこともできるとね。

 とんでもない! すぐに、シールクーより、ずっとタチの悪い人物だったことにファーティマ朝の連中も気づいたんだ。実権を取り戻すどころか、頭のよかったサラディン相手では、ただでさえ人形だったファーティマ朝のカリフは、箱に入れられて、押し入れにしまわれちゃうって感じだった。前任者のシールクーは、怖いけど、単純な男だったから、まだサラディンより付き合いやすかったんだよ。

 ここで、ファーティマ朝の連中は、最後の賭に出ることになった。なんと、十字軍に頼って、サラディンを抹殺する計画を立てたんだ。最後のあがきだね。もちろん、結果はわかるよね。この計画を知ったサラディンは、バカなファーティマ朝の連中の裏をかいて、計画を立てた黒人宦官の首をはねちゃった。いよいよ、せっぱ詰まったファーティマ朝のカリフは、実力行使に打って出た。五〇〇〇人の黒人部隊でサラディンと戦ったんだ。このときの戦いは壮絶だったらしいよ。王宮の近くで行われた市街戦はサラディン軍の圧勝。スーダン生まれの黒人たちは容赦なく殺され、生き残ったものは、ナイルの上流に逃げたそうだ。

 え? サラディンって優しい人じゃないの? いやいや、サラディンだって、殺すときは大量に殺すんだよ。戦争だからね。

 こうして、ファーティマ朝は、完全にこの世から消えてなくなることになった。サラディンに、実権を握られたどころか、主権まであげちゃった。ホント、バカな人たちだ。アッバース家のように、細々とでも、生きてきゃよかったものを。

 ただし、この時点でサラディンがエジプトの王様になったわけじゃない。彼は、ザンギー朝の家来だからね。ヌールッ・ディーンが、ボスなんだ。まだまだ上がいる。ところが、このヌールッ・ディーンも、風邪が悪化して、あっけなく死んじゃう。死ぬ二週間ぐらい前に、側近と遠乗りに出かけたとき、「人間の命なんてはかないもんだよね」と語り合ってたというから、まあ、自分の説を自分で証明したようなもんだ。キリスト教徒も認める、立派な王様だったから、とっても残念。この人が、あと十五年長生きしてたら、サラディンの人生も変わったろうに。

 でも、お話としては、ここからがおもしろいんだ。キーボードを打つ手も、いよいよ快調。サラディンの歩んだ、波瀾の人生を見ていこう。

 ボスが死んで、十字軍との戦いを指揮していくことになったサラディン。このとき彼は、イスラム国家を強化し、異教徒たちを駆逐するという大目的に向かって燃えてたんだ。サラディンってば、そういう星のもとに生まれたのかもね。

 と同時に、これがアイユーブ朝の誕生でもある。サラディンがエジプトの王様になったんだ。ただし、アイユーブ朝の成立を、サラディンが、実質的にファーティマ朝を滅ぼした、一一七一年にするか、ヌールッ・ディーンが死んだ、一一七四年にするかは、難しいところだね。もし、テストで年代を書かなきゃいけないのなら、一一七一年と書いておくことをお勧めするよ。

 サラディンは、ヌールッ・ディーンの死の報を聞くと、すぐさま七〇〇騎を選りすぐってカイロをでた。ヌールッ・ディーンの死で、ラテン王国が勢いづくのは目に見えていたから、迅速に行動しなくちゃいけなかったんだ。

 サラディンは、まずラテン王国の近くを潜行した。敵情視察ってところだね。このときすでに、サラディンは大規模な戦争を計画していたんだ。そして、ダマスカスに入って、イスラム勢力を統合して、十字軍と戦う準備をはじめた。本人にはそのつもりはなかっただろうけど、死ぬときまで、彼はカイロに戻ることはなかったんだ。自分の国なのにね。

 さーて、ここで羅針盤をキリスト教のほうへ向けようか。

 こんどの舞台はイギリスだ。ヘンリー二世という王さまがいた。イギリスをちゃんとした法治国家にした人だ。といっても、そう大したもんじゃない。まあ彼は、裁判官や陪審員のそろった法律制度を発足したわけなんだけど、さすがに初期のころは、いまの常識では考えられないような、バカな裁判だったけど(火で真っ赤になった棒を握らされて、三日後に、その手に水膨れができていなければ無罪とかね)、それでも、それまでの決闘で白黒つけるやり方よりかは、多少はマシだった。ヘンリー二世は、アイルランドに攻め込んだり、親友の大司教トマス・ベケットを血祭りにあげたりと、なかなか悪名高いんだけど、バカ息子がいたことをのぞけば、彼の人生はそんなに悪くなかったかもしれない。

 一一八九年にヘンリー二世が死ぬと、そのバカ息子があとをついだ。彼の名はリチャード。ヘンリーの三男坊。獅子心王って聞いたことあるよね。ない? じゃ、ライオンハートは? そうそう。SMAPのあの曲だよ。いや、曲とリチャードはなんの関係もないけど。

 彼は、なかなかハンサムだった。親切だったし、勇気はあったし、賢いし、しかもロマンチストだった。ホントかよ? リチャードには、ジョンっていう弟がいたんだけど、そっちは、醜くて、残酷で、臆病で、賢くはあったけど、ロマンティックじゃなかった。

 と、これはイギリス人が抱いているリチャードとジョンのイメージだ。リチャードはかなり美化されて、ジョンのほうはかなりひどい扱い。

 まあ、じっさい、当時のイングランドでは、リチャードの人気があったんだけど、リチャードのほうは、あんまりイングランドが好きじゃなかったみたいだね。戦争が大好きで、とくに、イスラム教徒を殺したくてしかたなかったらしい。

 さあ、またまたイスラムだ。

 まだ第三回十字軍が編成される前のこと。サラディンは、エルサレム奪回を目指して、十三年も戦っていた。そしてついに、ティベリアス湖の西、ヒッティーン付近で、キリスト教徒の主力軍に致命的な打撃を与えることに成功するんだ。この一戦で、キリスト教徒の軍はほとんど全滅。生存者は捕らえられた。死体は、折れた十字架や切断された手足と交じって、河原の石のごとく積み重なり、ちぎれた頭は、出盛りのメロンのように大地を覆っていたと、当時の史家は記してる……

 うっぷ。想像したら、気持ち悪くなってきた。これから食事する人はごめんなさい。だれだ、サラディンが慈悲深いなんていったヤツは!

 いや、大丈夫。彼がいい人だったのは本当だから。

 このとき、十字軍の主力を率いていた、キリスト教徒の軍を率いていたのは、ギイ・ド・リュシニュンという男だった。彼はサラディンの前にひいていかれたんだけど、猛暑の中での激戦で、喉がカラカラだったんだ。それを見たサラディンは、雪で冷やした一杯の水を与えていたわったんだよ。

 ところが、ギイのほうは、いよいよ死が迫ったと思ったんだ。この水は、最後の一杯。殺す前の武士の情けだとね。だから、水の入ったコップを持ちながら、ぶるぶると震えたんだって。そうしたら、サラディンくん、なんて言ったと思う?

「ご安心めされよ、ギイ殿。王者が王者を殺すような、良俗に反することをするつもりはありません」

 だってさ! なんて出来た王様なんだ。サラディンは、その言葉の通り、ギイを捕虜にはしたけど、ダマスカスで、丁重に保護した。

 つぎにサラディンは、アッカのほか、湾岸都市を攻略して、いよいよ、エルサレムに到達した。九十年前、十字軍によって奪われた都市。いまついに、この聖地をイスラムの手に戻すときがやってきたんだ。

 思えば、その九十年前。エルサレムを陥れたキリスト教徒は、エルサレムに住むイスラム教徒とユダヤ教徒を虐殺した。まさに大虐殺だった。女も子供も老人も、まったく関係なかった。とにかく、気がふれたように、殺しに殺しまくったんだ。とくにユダヤ教徒は、礼拝堂にあふれるまで閉じ込められて、火を放たれた。エルサレムに住むユダヤ教徒は、このとき、ほとんど全滅したと伝えられている。ちなみに、虐殺された数は、七万とも四万とも言われているけど、のちの研究で、当時のエルサレムの人口は五万人ほどだったと推定されているから、どうやら四万人が、正確な数字らしい。それにしてもすごい数字だよね。四万人を殺すのに、いったい、何日かかったと思う? なんと、一万の十字軍兵士が7月15日と、16日の、たった二日間で殺したんだよ、四万人を!

 それから九十年。こんどはイスラムの番だ。エルサレムのキリスト教徒を、殺して、殺して、殺しまくれ!

 なんて、不毛なことをサラディンはやらなかった。暴力は暴力しか生まないことを知っていたんだよ。彼は、こう語っている。

「キリスト教は弱い宗教だ。兵士たちの大虐殺を止めることが出来なかった」

 うーむ。すばらしい。じゃあ、サラディンは兵士たちの大虐殺を止めたんだろうな? 止めましたよ彼は。エルサレムにいたキリスト教徒を人質にして、ひとりにつき金貨十枚で自由にしてやるといったんだ。さらにおまけ付き。女は二人でひとり分。子供は十人でひとり分の金貨でよい。当時としては(キリスト教徒は、有無を言わせず、大虐殺したことを思い出してくれ!)、超破格というか、目玉からうろこが一億枚ぐらいこぼれ落ちるほどの寛大さだ。

 これで金持ちはとっとと逃げた(苦笑)。やっぱ、金もってないとヤバいね。みんな貯金しといたほうがいいよ。そんなこんなで四〇日ほど経過したんだけど、まだ貧乏人が数千人残ってる。さて困ったぞ。

 すると、サラディンの弟、アーディルが進み出て、残った市民の千人を、自分の奴隷としてちょうだいと言ってきた。

「千人も奴隷をもってどーするつもりだ?」
 と、サラディンが聞いた。
 するとアーディルは答えた。
「うーん。まあ、好きなようにするつもり」
 なんとなくバカっぽい弟だけど、さにあらず。彼は、譲り受けた奴隷を、アッラーへのお供えにするといって、全員自由の身にしてあげたんだ。弟も、兄貴に負けず劣らず慈悲深いですな。じっさい、サラディンが死去したあとは、このアーディルが、いろいろがんばったんだけど(あとをついだサラディンの息子がバカだったんで苦労したのよ、叔父さんは)、まあ、サラディンほどのカリスマ性はなかったんで、アイユーブ朝は傾いちゃうんだけど。

 おっと、話が進みすぎた。サラディンが、エルサレムを奪回したところまで、テープを巻き戻して!

 で、こんどはキリスト側だ。エルサレムを奪い取られて激怒したキリスト側は、第三十字軍を組織する。ここでいよいよリチャードのご登場。やったぜ。やっとイスラム教徒を殺せるぜ。ってなもんで、さっそくお出かけの準備。歯ブラシは持ったかいリチャード?

 第三十字軍には、リチャードのほかに、フランスのフィリップ二世(尊厳王)と、神聖ローマ帝国のフリードリッヒ一世も参加した。でも、フリードリッヒのほうは、小アジアで溺れて死んじゃったから、実質的には不参加。ダサ。

 このときの戦いは、海港アッカの争奪が焦点になった。まずは、サラディンがアッカを占領して、一軍を用いて守らせた。それを十字軍が、海と陸から完全包囲した。こんどはサラディンが、陸上にいる十字軍の包囲網を、さらに包囲したんだけど、アッカの守備のほうが先に崩れて、キリスト教徒に投降したんだ。ここでもまた、キリスト教徒は(リチャードだ!)、投降した彼らを虐殺した。どうして、そんなに殺したいかね? 投降したんだから捕虜にしたまえよ、リチャード。

 サラディンは、ついに、アッカをあきらめた。十字軍にアッカをゆだね、リチャードとは和議を結んだ。そして、ダマスカスに戻り、一年半後に、五十五才でこの世を去った。

 リチャードのほうも、このあと大変だった。イングランドの王さまのくせに、ぜんぜん国にいないもんだから、弟のジョンに反乱を起こされちゃった。あー、忙しい。リチャードは、あわててイングランドに戻ったんだけど、アドリア海の北の隅っこあたりで、船が難破しちゃって、そこから先は歩いて帰らなきゃいけなかった。

 でもまあ、たまには散歩もいいか、なんてドイツ領をブラブラ歩いてるとき、とっ捕まって牢屋に入れられちゃった。ドイツの連中は三百万ポンドの身代金を要求した。すごいねえ。国家が誘拐事件を起こしちゃうんだから、ご機嫌な時代だぜ! このときリチャードは、ロンドンを売り払って身代金をつくろうとしたっていうんだから、まあ、この王さまもたいしたもんだぜ。自分の国の首都より、自分の命が大切だったらしい。まあ、ぼくでもそうだけどさ。

 なんだかんだで、一年後に、お気に入りの吟遊詩人の助けで、リチャードは、なんとか逃げ出した。ちなみに「お気に入り」ってのは、まあ、お気に入りだったんだ。リチャードくん、ゲイだったらしいからね。

 けっきょくリチャードは国に戻って、悪い弟の始末をつけて そのあと、捕まってる間に取られちゃったフランスの領土を取り戻そうと、大好きなフランスに旅立った(戦争しにね!)。そうそう、思い出した。リチャードって、フランスにも大きな領地をもってたんだけど、そこに石弓を伝えたんだよ。なかなかすぐれた武器だったからね。で、その領地を取り戻しに行ったリチャードは、もう推察がつくだろうけど、自分が教えてあげた石弓で殺されちゃって、ジ・エンド。お疲れさま。あとはあの世で、ゆっくりカワイイ男の子でもはべらせてくれたまえ。

 と、十字軍が、聖地奪回という聖戦をしたのはここまで。このあと、第四、第五と、合計七回におよぶ(八回って説もあるけど)十字軍が編成されたけど、第四回からは性格がずいぶん変わってしまう。

 ごく簡単にこのあとの十字軍の模様をお届けしよう。

 まず、第四回。この遠征では、イスラム教徒と戦争はしてないんだ。今回は、ヴェネチア商人の誘導で東ローマ帝国を攻撃して、コンスタンティノープルを奪った。

 待てよ。そーいえば、ローマ法王は、このビザンツ(東ローマ)帝国に対する権力を強化したくて、最初の十字軍を作ったんだよな。いや、建前は聖地奪回だったけど、本音ではさ。つまり、この第四回は、もう建前なんかどーでもよくて、本音の十字軍だったわけだ。うむ。その意味では、一番成功した十字軍が、この第四回かもしれない。

 これに怒ったのは、ときの教皇インノケンティウス三世。彼は、遠征軍全体を破門しちゃう。まあ、あたりまえだけどさ。でも、破門された軍は、もう遠慮はいらないじゃんとばかりに、きのうまで仲間だった連中から、略奪の限りを尽くして、この占領地に「ラテン帝国」を作っちゃった。えげつない。

 東ローマ帝国の人々は小アジア半島に逃亡して、「ニケーア帝国」を建設。そして一二六一年に、ヴェネチアの宿敵ジェノバと連合してコンスタンティノープルを奪回。ま、早い話、内戦だね。

 つぎ、第五回。このときは少年十字軍というのを作った。心の汚れた大人が戦うから負けるんだよ。純粋無垢な子供なら、ぜったいに勝てる! そう思ったらしい。そんで数千人の少年少女をかき集めた。

 バカ。

 このひと言以外に言葉はないね。子供が戦って勝てるわけないだろ。

 けっきょくどうなったかというと、遠征の途中でかなりの子供が死んじゃって、生き残って、なんとか地中海までたどりついた少年少女たちも、そこで奴隷商人にとっ捕まって、アフリカに売られちゃった。だれか買った人いるかい?

 それでも大人たちはエジプトを攻撃して、ダミエッタを占領したけど、そのあとカイロまで行こうとして、途中で負けて敗退。さあ、帰るべ。

 六回目では、もうサラディンが死んでるんで、十字軍を率いていたフランスのルイ九世がうまいことやって、エルサレムを無血回復することに成功したんだけど、そのあとまた、すぐにトルコ系のイスラム教徒に奪われちゃったから、七回目も実行。懲りない連中だ。このときもルイ九世だったけど、こんどは捕まって、目玉が飛び出るような身代金を払って釈放された。これで、さすがに懲りたのか、十字軍の遠征は終わった。

 ふう…… こんなとこかな。一番、説明を割いた第三回が、十字軍らしい十字軍ってところだろうか。英雄も登場するし、やっぱり、ここが一番おもしろいよね。

 それにしても、今回は長いエッセイになったなあ。いま、読みかえしてみたけど、最初のころと後半では、ちょいと語り口が変わってる。最初は、クールに書こうと思ったんだけど、ダメだね。やっぱ地が出るよ(笑)。


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