神は人の心を知っているか



 まず、お断りしておきたい。タイトルから、「神と人間の関係」を連想されると思うが、このエッセイは神話でもなければ神学でもない。もちろん、イスラム原理主義に対する考察をするつもりもまったくない。このエッセイは、スピルバーグの撮った「A.I.」という映画の評論であり、かつ「人工的な知能」に関する、ぼくなりの考えを書きつらねたものである。

 そして、お勧めもひとつ。「A.I.」をまだご覧になっていない方で、映画の内容をお知りになりたくない方は、このエッセイはお読みにならないことをお勧めする。たぶんに映画のネタバレが含まれるからだ。

 と、いつになく硬い口調で始まったエッセイだが、今回はわりとこんな感じで進んでいくかも。ぼくもたまにはマジメになるのだ。たまにはね。

 A.I. (ARTlFlClAL lNTELLlGENCE)

 この映画に、ぼくは大きな期待を持っていた。ぼく自身、JunkCityという作品で、レプリカント(ロボット)を扱っているし、そもそも、人工的な知能が人間の知性と共存できるのかという問題に大きな関心があったからだ。拙作のエッセイ「インプットされた愛」で、スピルバーグ自身の「A.I.」に対する宣伝文句を掲載したが、いま一度ここにも書いてみたい。




日本のみなさまへ

私はいま、私自身の集大成となる作品を
全力を傾けて制作しています。

主人公は11歳の少年。
名前はディビッド。
愛をインプットされて誕生した
A.I.(人工知能)です。

みなさんは今後、何百年、何千年たっても、
A.I.は人間が作った「もの」にすぎないと思いますか?

さあ、この夏想像もできない未知の世界が
あなたを待っています。

スティーブン・スピルバーグ





 いかがだろうか。この宣伝文句を読んで「A.I.」に期待してしまったぼくは愚か者だろうか。現代のウォルト・ディズニーとも言えるスピルバーグが、これほど自信を持って宣伝する映画を、本当に心から「観たい」と思ったぼくはバカだろうか。

 答えは二つある。

 まず最初の答えは、映画を見終わった直後に出た。

 オレはバカだ。バカバカバカバカバカ。いい年こいて、宣伝文句に踊らされたよ。期待と落胆の落差があまりにも大きくて、それまで、けっして嫌いではなかったスピルバーグという監督が、一気に醜悪な存在に思えた。スピルバーグは、ただ金儲けのうまいだけの「業界人」だ。二度と彼の映画を見ないぞ。マジでそう思ってしまうほどひどい映画だった。金返せ。いや、二時間十五分という時間を返せ。違う。映画を見るまでに一時間近く並んだから、三時間十五分だ。人生を無駄に使ってしまった。だれか、ぼくの三時間十五分のコストを計算して、スピルバーグに請求書を送ってくれ。

 もう一つの答えは、映画を見てからしばらくたって出た。

 ソクラテスは言った。

 もし君が良い妻を得るならば、君は非常に幸福になるだろう。
 もし君が悪い妻を持つならば哲学者となるだろう。

 ぼくは哲学者になった。まったくもって、キューブリックについて、そしてスピルバーグについて、さらにA.I.と彼らが呼ぶ「人工知能」について、かなり深く考えさせられる映画だ。というか考えた。その意味で、三時間十五分どころか、もっと長い時間を浪費したが、それは限りある人生の「無駄」ではなかった。ぼくはわりと、哲学的な思考を巡らすのが好きだし、自作のJunkCityについても、より深く考察する機会を得た。スピルバーグさん、ありがとう。楽しい思考を巡らすのに最良の映画を撮ってくれて。ソクラテスの言葉が正しかったことも証明できたよ。いい映画だったら、ぼくはただ幸せになっていただけだったからね。

 というわけで、これから「A.I.」について巡らせた思考の過程を書いて行こうと思うが、その前に、この映画の背景について概観しておこう。

 スタンリー・キューブリックは、イギリスのブライアン・オールディスという作家が書いた「Supertoys Last All Summer Long」(1969年)という短編を読んで、「A.I.」の構想を得たという。

 この短編は、人口過剰のため人口抑制が行われている近未来が舞台。人々は人口抑制政策によって子供を作ることができない。そこで、ソニーの犬ロボットならぬ「子供ロボット」が売られている。ソニーの犬ロボットはアイボ。そして子供ロボットの名は「デイヴィッド」だ。デイヴィッドは五歳の男の子型で、ひたすら母を愛するようプログラミングされている。さらに自分を人間と信じ込んでいるのだ。念のために申し上げるが、この原作にアイボは登場しない。(ただし、映画A.I.には、原作にはない熊のぬいぐるみロボットが登場する)

 さて。スウィントン夫妻という登場人物も、「ディヴィッド」を購入している夫婦なのだが、この夫婦に思わぬ幸運が舞い込み、実の子供をもうけることが許される「親権クジ」ってのが当たってしまう。

 となると、「ディヴィッド」はお払い箱になるわけで…… 

 というところで物語は終わる。いかにもキューブリック好みの問題提起型というか、問題未解決型というか、答えは自分で考えなさいってタイプの小説なんですね。ちなみに、竹書房から邦訳がでてます。日本語のタイトルは、「スーパートイズ/いつまでもつづく夏」です。

 キューブリックは、この「スーパートイズ」を77年ごろに読み、たちまち気にいって、82年に映画化権を買ったそうだ。しかし、原作者のブライアン・オールディスをそのまま脚本家にしたのが、ある意味マズかった。いや、キューブリックはそういう監督なんだけどね。それで大成功したのが「2001年宇宙の旅」。

 この映画も原作者のアーサー・C・クラークを脚本家にして、共同でシナリオを作り上げた。後に、アーサー・C・クラークは、キューブリックとの共同作業が、いかに困難だったかを回顧している。とにかく、自分のビジョンに合わないことは認めない。それが原作者からの提案であってもだ。キューブリックはよく「王様」にたとえられる。そして、それ以外の人々は、みな「使用人」なのだ。原作者であっても。

 とはいえ、キューブリックは独裁者ではなかった。彼は超がつくほど才能に恵まれた映画監督だったから、「王様」でなければならなかったのだ。

 キューブリックは、自分の要求に応えられる才能の持ち主でなければ一緒に仕事はしない。でも、巨大な才能と才能が衝突したら、激しく拒絶し合って物別れに終わるだろう。だが、キューブリックは王様なのだ。偉いのだ。もう一つの才能をいい意味で押さえ込んで、あるいは導いて、「映画」というものの型にはめ込んでいく。

「2001年宇宙の旅」は、まさにその典型的な例だと、ぼくは思っている。アーサー・C・クラークは、頑固親父との共同作業に耐えて、なおかつ、キューブリックの厳しい要求に応え、傑作となる映画のシナリオを完成させたのだ。アーサー・C・クラークの才能を、キューブリックがさらに引き出したのだとも言われている。(ちなみに、クラークの方がキューブリックより、11歳年上なんだけどね)

 さて。論題のA.I.に戻ろう。

 SFファンならご存じだろうけど、ブライアンは、60年代から70年代に起こった、SFのニューウエーブ革命(なんだか恥ずかしい言葉だ)の代表選手だ。

 え? ニューウエーブSFって知らない? いやまあ、ぼくもさすがにそのころは子供ですからね。詳しくは知らないけど、それまで、宇宙でバンバン光線銃を発射していたSFも、もっと内面世界に目を向けてですね、大げさにいうと哲学的になろうじゃないかと。そういう運動だったらしい。現代でいうところの、サイバーパンクの原始的なご先祖様ってとこかなァ。ま、早い話、ニューなんて言ってるけど、いまとなってはえらく古くさいってこと。正直言うとね、A.I.で、ブライアン・オールディスの名前を久しぶりに聞いて、え、あのジイさん、まだ生きてたの? とビックリしちゃったぐらいだ。マジで。(調べてみたら、イギリスでは、それなりに新作なんか発表して活動してるらしい。ごめんなさい。勝手に殺しちゃってて)

 と、そんなブライアン・オールディズは、キューブリックとA.I.の共同作業に入ったのだが、八年間もの闘争の末、ついにキューブリックとは意見が合わず、キューブリックを満足させるシナリオ完成には至らなかった。べつに、ブライアンに才能がなかったというつもりはまったくない。キューブリックのスタイルが、うまくいくときもあれば、うまくいかないときもあるってことだ。

 ここでスピルバーグが登場する。

 じつは、キューブリックはスピルバーグの「E.T.」を高く評価していたらしい。そして、なかなかシナリオができない「A.I.」について、スピルバーグと意見の交換を始める。そんなことをしているうちに、A.I.の映画化権を買ってから二十年近い歳月が流れちゃって、キューブリックは、突然この世を去った。

 無念……

 そこで、スピルバーグはキューブリックの遺志を継いで、A.I.を完成させる決意をする。彼にキューブリックの遺志を受け継ぐ資格があったかどうか、「資格」の意味をどう取るかにもよるけど、少なくとも「個人的つきあい」ってことでは、十分な資格があったのだろう。適任かどうかはともかく……

 さて。スピルバーグが作ると決まってから、A.I.の方向性を決定づける大きな変化があった。原作者のブライアン・オールディズが、キューブリックの死後、「スーパートイズ」の続編を二本書き、三部作として完成させたのだ。キューブリックとの、八年間に及ぶ共同作業の、ブライアン側から見た集大成というところだろう。

 あ、これで思い出した。「2001年宇宙の旅」は、アーサー・C・クラークの「前哨」って短編がもとなんだけど、クラークも、キューブリックとの共同作業を経て、小説版「2001年宇宙の旅」を書いている。そして、その続編も書いてる。だが、キューブリックは、なかなか出版を許可しなかったそうだ。クラークは、キューブリックに「この映画に原作が存在しているのを隠したいのか?」と迫ったそうだけど、クラーク本人によると、そのときキューブリックは、「まだ出版するレベルに達してないよ」と答えたそうだ。すごいよなあ、キューブリックって。アーサー・C・クラークに、そんなこと言える人って、ほかにいるかい? 当時、クラークはまだ若く、いまのような巨匠ではなかったけど、それでも一流の作家として認められてたんだぜ。

 と、そういうことがあったわけなので、キューブリックが生きていたら、ブライアン・オールディズの「スーパートイズ」三部作は、けっして書かれなかったと思う。許されなかったはずだ。もちろん、出版なんかもっての外だ。だがキューブリックはすでにこの世の人ではない。ブライアンの作品に、文句はつけられないのだ。

 で、スピルバーグは、キューブリックの知らない(いや、ブライアンの書きたい世界は知っていただろうが、少なくとも出版を許可しなかった)続編を含めて、A.I.のシナリオを書いた。

 つまり。A.I.は、ブライアン・オールディズと、スティーブン・スピルバーグの作品であって、キューブリックの作品ではない。

 が…… スピルバーグは、おそらくキューブリックの構想を、最大限尊重しただろう。それが映画の前半部分に見て取れる。そういえば、映画の作り方もキューブリック風だった。完全秘密主義で作られたからね。それでも、この作品はスピルバーグのものであり、キューブリックのものではないと、言っておきたい。

 ちなみに、竹書房からでている邦訳には、続編も全部収録されている。

『スーパートイズ/いつまでもつづく夏』 Supertoys Last All Summer Long
『スーパートイズ/冬きたりなば』 Supertoys When Winter Comes
『スーパートイズ/季節がめぐりて』 Supertoys in Other Seasons

 これが三部作ね。

 さあ、えらく長い前置きだったけど、いよいよA.I.をご覧になっていない人のために、映画の内容を説明しよう。完全に禁断のラストまで書くから、A.I.を観てない人で、観たいと思ってる人は、ここから先は、マジで読まない方がよろしい。

 おっ、読みますか?

 いいんですか?

 マジで、完ぺきなネタバレですよ奥さん(あるいは旦那さん)。

 あとで文句は言わないように。

 じゃ、書くよ。

 少年型ロボットの「デイヴィッド」がスウィントン夫妻に引き取られるってところまでは原作と同じ。でも、スウィントン夫妻には、すでに実の子供がいて、この子供が不治の病でコールドスリープしてるって設定。

 最初、母親は子供型ロボットなんて拒否するんだけど、夫が強引に持ってきちゃって、そんで悩んだ挙げ句、とうとう、ディヴィッドの「愛情回路」を起動させてしまう。はい、親子の誕生。よかったね。もちろん、最初はうまくいくわけだ。この親子関係。母親は、ディヴィッドをとっても愛しちゃう。もちろん、ディヴィッドは母親を愛するようにプログラムされてるから、もう、ママ大好き! ってな状態なわけ。

 もう、わかるよね。なんと、夫婦の実の息子が治っちゃうんだよ。なぜか。絶対に治らないって言われてるから、子供型ロボットを引き取ったのにねえ。で、ディヴィッドと実の息子(マーティンだったかな?)とは、当然衝突するわけだ。マーティンは、母親を独占したい。なんたって、本当の母親だからね。これがまた、イヤミでねえ。ディヴィッドがマーティンに嫌がらせをされると、ああ、ディヴィッドかわいそう! って、観客が思うように作られてる。本当に、いやらしいほど恥ずかしげもなく、そういうシナリオが書けるのがスピルバーグの偉大なところだ。しかも、妻のためにとデイヴィッドを連れてきた夫まで、ディヴィッドに険悪感を持ち、ディヴィッドの味方は、母親だけ(いや、熊のぬいぐるみロボットもディヴィッドの味方だな)という念の入れよう。

 とにかく母親は、ディヴィッドを手放そうという夫の言葉なんか取り合わず、一生懸命、自分の息子と同じように扱おうとする。ところがここで決定的な事件が起こる。マーティンの友人たちにイタズラされて、ディヴィッドは「恐怖」を感じる回路を刺激されちゃうんだ。そこがプールサイドだったもんだから、観客はハラハラする。なにかが起こる。絶対起こるぞと。もちろん、起こる。ディヴィッドは「怖い…… 怖い……」と、マーティンにしがみつきながら、プールに落ちちゃうんだ。それで、マーティンもプールで溺れちゃうんだよ。

 これで、夫が激怒。こんなクソロボットを家に置いておけるか!

 ところで、夫は「父親」のはずなんだけど、そのようには描かれていない。ディヴィッドの「母親の配偶者」なんだ。事実、ディヴィッドは、彼を「ダディ」とは呼ばない。

 ちょっと横道に逸れるけど、これ、たぶんキューブリックの構想だね。キューブリックは、子供を「不気味な存在」として描くことが多い。2001年宇宙の旅には、スター・チャイルドがでてきたし、シャイニングでも、不気味な子供のイメージが効果的に使われていた。ディヴィッドは、夫から見たら、いつまでも「他者」なんだよ。これがなんとも奇妙で、男のほうは(夫だね)ディヴィッドを、どこか不気味に感じるんだ。この子は、どうもおかしい。近くに置いとくのが、なんとなくイヤ。って感じに。

 で、女のほう(母親だね)は苦悩する。ディヴィッドに悪気はなかった。でも、たしかに危険なのかもしれない。というか、共存できないのかもしれない。それに、実の息子がディヴィッドのせいで死にかけた以上、もうディヴィッドを家においてはおけない……

 母親はついに決意し、ディヴィッドをハイキングに誘って深い森の中に連れていく。捨てられることが観客にはわかってるんだけど、ディヴィッドは大好きなママと二人きりでハイキングできて大喜びさ。

 森の中…… ついにディヴィッドは捨てられる。

 母親は泣きながら捨てるわけ。ディヴィッドのほうも、「捨てないでママ! 捨てないでママ! 謝るから! ぼくが悪かったら謝るから! 捨てないで、捨てないで、捨てないで!」

 と、ホントにこんなセリフで、ディヴィッド役の名子役、ハーレイ・ジョエル・オスメントくんの名演を見せつけられる。いやはや、泣かせる泣かせる。涙腺うるうる(;_;)状態よん。

 すいません。正直に告白します。あまりにもベタな演出&ベタベタの演技で、ぼくはシラケまくっていた。いやな大人になっちまったもんだ。ここで泣ければ、ぼくはもっと幸せだったのに。

 む。このエッセイはお固い文章で行こうと思ったのに、気づけばいつもの調子で書いてるな。ま、いいか。続けよう。

 さて。極度に催涙効果を狙ったシーンが終了すると、いよいよディヴィッドの苦悩に満ちた旅が始まる。ここからは「ピノキオ」だ。事実キューブリックは生前、A.I.を「ピノキオ」と呼んでいた。

 ディヴィッドは考える。なぜマミーに捨てられたのか。それは、ぼくが人間じゃないからだ。人間になれば、きっとマミーは、またぼくを愛してくれる。そうだ。人間になろう。ブルー・フェアリー(青の妖精)に会えば、人間にしてもらえる。

 と、こういう論法になってるわけ。まったくもって、ステレオタイプの「ピノキオ物語」と言える。スピルバーグってばもう…… と、思ったら、これもキューブリックの構想だったんだってさ。ちょっとビックリだ。

 が!

 ここでこの映画最大の救いであり、じつはディヴィッドなんかより、はるかに重要かもしれない(と、ぼくは密かに思っている)キャラが登場するのだ!

 彼の名はジゴロ・ジョー。演じるのは、イギリスの美形俳優ジュード・ロウ。

 ジゴロ・ジョーは、その名の通り、女性を喜ばせるための機能を満載したロボットだ。甘い音楽を流しながら(スピーカー内蔵なんだぜ)、甘い言葉をささやき、愛に飢えた女性をベッドの上で優しく愛の園に連れていってくれる。まるで彫刻のような美形だから、女性はジョーにメロメロさ。お金取られるけどね。

 ここで特筆すべきは、ロウの演技。素晴らしいのひとことに尽きる。じつにロボットらしい。いや、ロボットらしいなんて言うと誤解を招くな。「ワタシハ、ロボット、デース。ドゾ、ヨロシク」なんてのを想像されては困る。なんていうか、すごく微妙な演技なんだよ。ロボットなんだけど、人工知能を持ってる「物体」としての演技が。

 オスメントくんも、天才子役なんて言われるだけあっていい演技をしてるのだが、やはり大人の名優にはかなわないと感じたね。おそらく、オスメントくんには、ディヴィッドがわかっていない。彼は、「すばらしい演技」をすればいいだけだと思ってる。ところが、ロウは、ちゃんと、ジゴロ・ジョーが「何者」なのか理解してるんだね。その「不安定な存在」の意味を。

 これはしょうがないよね。オスメントくんは、まだ十二歳の少年だもん。いくら演技がうまくても、「思想」はないんだよ。違う。十二歳の「思想」なんだよ。アイザック・アシモフが、十二歳は大人になろうとする境目の年齢だって言ってたけど(だから、すごく生意気なんだって、この年の子は)、さすがに、「人工知能とはなんぞや」なんて、哲学的問いに答えは持ってないだろ。ところが、ロウには、自分なりの「答え」があるように感じた。いや、まったく、ロウの演技は最高。最後の最後まで、非のつけどころなし。ぼくが三遊亭円楽だったら、山田くんにサブトン十枚持ってこさせるね。

 話が逸れた。冬になると、歌丸師匠の頭って寒いだろうなあと、またまた関係ないことを考えながら先に進もう。

 ジゴロ・ジョーが、つぎのお客さんのところに行くと、そのお客さん、ベッドの上でお亡くなりになってた。女の男が(人間だよ)殺したんだけど、その罪がジョーにきせられる。これでジョーはお尋ね者。捕まったら解体処分だ。だからジョーは逃げる。森へ。

 ここで、ジョーとディヴィッドが出会うわけだ。

 女性に愛を売るけど、そのじつ、愛ってことを理解してないジゴロ・ロボットと、ただ切実に母親を愛している少年ロボットの出会い。

 ああ、なんと完ぺきな取り合わせなんでしょう。

 ホント、ここまでは完ぺきだよね。よくできたシナリオだと思う。やられたって感じ。ぼくも、この取り合わせで小説を書きたいよ。

 さて。ディヴィッドの目的を知ったジョーは、彼と一緒にルージュ・シティという街を目指すことになる。ルージュ・シティには、何でも知っている博士がいて、その博士に聞けば、きっとブルー・フェアリーがどこにいるか教えてくれるだろう。

 森の中を歩き始めたディヴィッドたち。ここでジョーは、雨に唄えばのジーン・ケリーみたいな踊りを披露したりして(このシーンは、ロウ自身が提案したんだって)、なんでもないシーンなんだけど、ちょいと見応えがあってお得だ。(なにがお得なんだ?)

 しばらく行くと、森の中には捨てられた(でもまだ動く)ロボットたちが、ホームレスみたいに住んでいて(いうなれば、野良ロボットかな)、ディヴィッドたちは、彼らに出会う。というか、遭遇する。べつに話をしたりはしない。

 その捨てられた野良ロボットたちは、なんだかボロボロなんだよね。腕がなかったり、目玉がなかったり。だから、廃品業者のトラックが廃部品が捨てにくると、その部品に群がって、まだ動く腕のパーツや、まだ見える目玉なんかを一生懸命探して、自分のと付け替えるわけ。そんで、白人型のロボットが、黒人型のロボットの腕だったろう部品をつけたりするから(逆だったかな?)、みんなフランケンシュタインみたいになっちゃう。この不気味さが、キューブリックだと思うんだけれども、スピルバーグが描くと、なんとなく感傷的に見えるから不思議だ。

 で、そのとき。野良ロボット回収業者が気球みたいな乗り物で登場する。この回収業者の社長が、これまたえらい差別主義者で、ロボット大嫌いなんだよ。ロボットなんか、この世から駆逐してやるって思想の持ち主。またまたステレオタイプだけど、まあ、いいか。

 ディヴィッドたちは、この差別主義者にとっ捕まって、牢屋に入れられる。順番に解体されるんだ。しかも、その解体は、やはりロボット大嫌いな人たちを集めて、コロシアムみたいな場所で、ショーとして行われる。ロボットを大砲に詰め込んで、ドーンと打ち上げて壊すとか、酸のような液体をかけて、どろどろに溶かして楽しむとか。

 ディヴィッドは、その様子を牢屋の中で見ながら、「怖いよ、怖いよ。ぼくを守って。ぼくを守って」と、ジョーにしがみつく。なるほど十一歳の子供の反応かもしれないけど、なんか鼻につく演技だ。

 かたやジョーの方は完ぺき。ここでのジョーは、ロボットたちが、つぎつぎに破壊されていくさまを、恐怖も悲しみも感じていないような表情で見ているだけ。生存本能はあるけれども、人間には逆らえない。だから、解体される運命も受け入れざるおえない。そういう諦めというか、達観というか…… んー、いや、単に死ぬことの恐怖という感情がないだけかもしれない。と、さまざまに考えさせる演技だ。うまい。

 そろそろ疲れてきたな。ちょっと早送りをしよう。

 すったもんだがあった挙げ句、ディヴィッドとジョーは、解体されるすんでのところで逃げ出す。

 さあ、ルージュ・シティに到着だ。ここは、非常にわかりやすい。ユニヴァーサル・スタジオの興行用アトラクションに、そのまま採用されるようにデザインされている。あれ? A.I.の配給元はワーナーか。まあいいや。とにかく、ちょいと未来思考(六十年代の未来感というべきかな?)の遊園地を思い浮かべてもらえば、そのまんまだ。

 ここでなんでも知ってる博士に会う。

 どんなのが出てくるのかと思ったら、その博士とは、子供用の学習コンピュータだった。画面に、テレビゲームというか、漫画みたいな博士のCGが映し出されて、機械にお金を入れると質問に答えてくれるんだ。

 こんなヤツが、ブルーフェアリーのいる場所を知ってるわけないじゃん。と、思ったら、ちゃんと知ってた。「おとぎ話」のセクションで質問したらだけどね。

 それによりと、ブルー・フェアリーは、すでに水没してしまったニューヨークシティのどこかにいるらしい。

 え? ニューヨークって水没してるの? そうなんです。地球温暖化で南極だが北極だか、いや、両方か。の氷が解けて、マンハッタンは水の中なんだよね、この時代。

 んじゃ、ニューヨークに行くべ。

 と、その前に、ジョーはお尋ね者だったんで、警察に見つかって連行されるのだけど、ディヴィッドが警察のホバージェット(←勝手に命名)を盗んで、ジョーを助ける。で、そのホバージェットに乗って、そのまま水没したニューヨークへ飛んで行く。

 ここで、ふたたびジョーについて書きたい。彼は傍観者なんだよ。母親の愛を求めて、人間になりたいと願うディヴィッドの。ジョーは、自分にはないもの。いや、自分には理解できないものを追い求め続けるディヴィッドをただ見ている。

 これ重要だね。

 ディヴィッドは、最新型のロボットで、「愛情」という感情を持っているんだけれども、じつは、ここまで映画を見ていても、いや、ここまで見たからこそ、その「愛情」が偽物に感じてならない。

 A.I.の予告編(広告)に、こんな一節がある。

「その愛は真実なのに、その存在は偽り……」

 そうだろうか? ぼくには、その愛も偽りのように感じて仕方ない。ただひたすら、ママが大好きなのだ。でもそれだけ。母親が恋しいのならば、むかし見た「ママを訪ねて三千里」…… 違った。「母を訪ねて三千里」の方が、はるかに完成度が高かった気がする。こういう「幼稚な愛」を使うなら、原作の通り、五歳の男の子を使った方がよかった。そのくらいの子供なら、「ママ、ママ、ママ」と母親を求める姿にリアリティがある気がするし、ぐっと胸に迫るんじゃないか。

 まあ、それはよしとしよう。十一歳の男の子だってママは恋しいはずだ。許す。でも、そう思っても、やはりディヴィッドの愛を真実だとは思えない。

 そこで、ハタと気づいた。

 そうだよ。この映画は、ディヴィッドの心の内側が描かれてないんだよ。とにかくディヴィッドはママが恋しくて、ふたたびママに会うための行動しか取らないんだ。本当にそれだけ。ディヴィッドから見た、ジゴロ・ジョー。ディヴィッドから見たルージュ・シティ。ディヴィッドから見た、解体されていくロボットたち。そういうものが描かれていない。彼には二つの反応しかないのだ。

「ママに会いたい」(あるいはママに好かれたい)
「怖い」

 たったこれだけ。オスメントの演技がいいから、つい忘れがちだけど、この二つだけの「反応」で、ディヴィッドは成り立っている。ある意味、純粋な「愛情」なんだけれども、ぼくぐらいの年齢になると、どうしても人間に複雑性を求めてしまうっていうか、人間はイエス・ノーで語れない、複雑なものなんだと思ってるから、嘘くさく感じちゃうんだよ。まるでドーピングでもされたような「愛」だと。

 そうか…… そうすると、オスメントの演技はなかなか大したもんだな。よく欧米の映画評論家が、シナリオがへぼいけど、役者の演技で救われているなんて書くけど、A.I.もそうなのかもしれない。末恐ろしい子役だ。

 そして、ジゴロ・ジョー。

 彼は、そんな偽物っぽい愛を持ったディヴィッドを傍観してるんだけれども、なんだか本当に傍観者なんで、逆に気になってしょうがない。スピルバーグは賢明にも、ジョーにも「愛」が芽生えるとか、そんなセンチメンタルな描き方はしなかった。演じるロウも、不必要に感情を出したりはしない。ディヴィッドと一緒に走り回って、ディヴィッドの行動を助けてるんだけれども、やっぱり傍観者なんだ。ディヴィッドの行動を、否定はもちろん、肯定もしないって意味で。顔の表情もロボットのままだし。

 で、肝心のブルー・フェアリーは、なかなか見つからないんだけど、そうこうしているうちに、警察が追ってきて、ジョーは捕まっちゃう。

 え? これで終わりなのかジョー?

 終わりなんです。彼の登場は。だが、警察のホバージェットにつり上げられていくときのジョーの表情は逸品。そう。ここで彼に表情が出る。

「ディヴィッド、がんばれよ。きっときみは人間になれるよ」

 彼の目はそう訴えていた。素晴らしすぎる…… 不覚にも、彼が吸い上げられていくところで、ぼくは、ぐっと胸が締めつけられてしまった。よかった。ぼくにも人並みに、映画を楽しむ純な心が残っていたよ。

 わかってます。ぼくはジョーに感情移入してたんだ。彼と自分を重ねてたんだね。年齢的にも近い感じだし(ジョーに年齢というのもおかしいが)、「純粋な愛」あるいは「純粋すぎる愛」に、うさん臭さを感じてる男としては、ディヴィッドの行動を助け、そして傍観し、最終的には、「がんばれよ」と去っていく姿に、ああ、オレもジョーの立場だったら、同じことをするかもしれないって考えちゃう。

 だって、もしディヴィッドと一緒にいたら、ジョーの取った行動以上の、なにができる? ディヴィッドの行動をバカバカしいと笑うか? いや、そこまでぼくはクールじゃない。だったら、親身になって相談に乗ってあげるか? 無理だよ。ロボットが人間になるなんて不可能なんだから。

 つまり、ジョーは、自分にできることをやった。

 まあ、それだけのことなんだけど、それだけだからこそ、いろいろ考えさせられて心に残る。ジョーはディヴィッドからなにを得たんだろう……

 ぼくは、ジョーという存在を作ったスピルバーグに、素直に称賛の拍手を贈りたい。そして見事に演じきったロウにも。

 さて。ここから物語は一気に下り坂を転がり落ちる。

 このあと、じつは映画の冒頭で登場しているディヴィッドを設計した博士が、またまた登場するんだけど(ウィリアム・ハートが演じてます)、その辺はもういいや。説明も面倒だし、大して重要でもない。ちょっとだけ説明しておくと、ディヴィッドを作った博士は、子供を失っていて、自分の子供ソックリにディヴィッドを作った。またお涙ちょうだいという場面かな。

 いよいよラストだ。

 ついにディヴィッドは、ブルー・フェアリーに会う。そこは海の底に沈んだ遊園地なんだ。そう。ブルー・フェアリーは、その遊園地のお人形さんだったってオチ。

 それでもディヴィッドは、一生懸命妖精に願う。

「ぼくを人間にしてください。ぼくを人間にしてください」

 もちろん、遊園地のお人形さんが願いをかなえてくれるはずもない。それでもディヴィッドは願い続け、徐々に動かなくなっていき、ついには止まってしまう。電池切れだ。

 終わり。

 だったらよかったんだけどねえ。ここからが本当のラストであり、そして、ここからが長いんだ。本当に長いんだよ。キューブリックは、答えがないならないまま終わらせるはずだ。っていうか、答えなんかでない問題なんだから、ここで終わらせるのがいいでしょう。でもスピルバーグはそうじゃない。彼はサービス精神旺盛だからね。観客の前に、すべてをさらけ出し、すべての説明をつけてくれる。「未知との遭遇」を撮ったのはダテじゃないぜ(いや、あれはいい映画だったが)。おーい、だれか映写機とめてくれ!

 止まりませんよ。

 時代は一気に移り変わり、二千年の歳月が流れている。わぉ。二千年だよ。しかも、人類は絶滅してる。わぉ。

 で、ここに不思議な物体が登場する。もともとキューブリックの企画だからね。不思議な物体も登場するだろうさ。

 その物体、最初ぼくは宇宙人かと思ったんだけど(いかにも、そういう形状をしている)、じつはロボットが極度に進化したものだった!

 そうなんです。人類が滅んだあとの地球は、ロボットたちの世界になっていたんだ。彼らは、厚い氷の中からディヴィッドを発掘するんだ。二千年もの間、氷の中に閉じ込められていたディヴィッド。彼は超進化を遂げたロボットたちによって、ふたたび電源(?)を入れられる。

 なんだか面倒なんで、一気に説明すると、その超進化したロボットたちは、過去に文明を築いた人間を研究してるんだ。ディヴィッドは、その「人間」を生で知っている貴重なサンプルだよ。

 とはいえ、スピルバーグは暖かい眼差しで、これらのシーンを描いている。ちゃんと、この映画が親子で見れるようにって配慮があるんだ。超進化のロボットたちは、ディヴィッドの記憶回路から当時の様子を吸い取ると、母親の髪の毛(えーと、いま思い出したんだけど、マーチンに騙されて、ディヴィッドは母親の髪の毛を切っちゃってたんだ)から、母親の遺伝子を取り出して、クローンを作ってくれるんだ。

 すごいねえ。超文明だね。

 ところが、この超文明のロボットたちにも不可能はある。そのクローンは、二十四時間(四十八時間だったかな?)しか生きられないんだ。

 なぜ? 理由は聞くな。と、スピルバーグ先生はおっしゃるだろうから、聞かないでおこう。とにかく、ちょっとだけディヴィッドに、愛しいママと過ごす時間を与えてあげることしかできない。あ、そろそろ泣きたくなってきたでしょ?

 さあ、ハンカチのご準備を!

 クローンで再生したママ。ディヴィッドは、そのママと、二人っきりの時間を過ごします。そして夜がきて、ママは眠りにつく。

「なんだか、すごく眠いの……」

 そう。この眠りに落ちたら、ママは二度と目覚めません。ディヴィッドはママに寄り添うようにベッドに入り、二人で目を閉じました。そして、ディヴィッドも永遠に目覚めることはなかったのです。

 本当に終わり。

 うわぁ、長かったぁ。みなさん、よくこんなところまでお読みになりましたね。ありがとうございます。

 が。このエッセイはまだ終わらない。

 映画に限らず、小説だって演劇だって、なんでもそうだけど「好き!」って人と「嫌い」って人に分かれる。分かれれば成功だとさえ言える。「どうでもいいよ」と言われるのが一番つらいよね。

 A.I.は、もちろん「好き」と「嫌い」に分かれるタイプだ。ぼくは冒頭に書いた通り、見た直後は「嫌い」派だったのだけれども、時間の経過とともに、そうでもなくなってきた。いまは「ちょっと好きかも」というところだ。レンタルビデオになったら、ジョーのシーンだけ、もう一度見ちゃうかも。

 思えば、バカな期待を持ったものだよ。人工知能の「愛」は本物なのか。いや、そもそも、人工知能に「愛」は芽生えるのか。なんて問題に、スピルバーグがいままでにない答えを用意してくれてるだろうなんて。

 答えなんかある訳ないんだ。キューブリックとスピルバーグという、スタイルは違えど、最高の技術と才能を持った映画監督が、それぞれに考え抜いたって答えがないんだから。

 ふと思い出した。ガリレオが望遠鏡を発明したとき、友人に星空を見せたそうだ。そうしたら、その友人がガリレオに聞いた。

「で、神はどこにいるんだい?」

 ガリレオは答えた。

「ここにはいない。いるとしたら、ぼくたちの心の中だよ」

 そういうことなんだ。われわれは、神の存在を、ガリレオが答えた以上に答えることはできない。四百年以上前の人間と、同じ答えしか持ってないんだ。

 これは、A.I.の問題じゃない。そもそも、ぼくらには「心」というものが説明できていない。なのに、A.I.の「愛」を語るなんておかしいじゃないか。自分たちのことすら説明できないくせに。

 というわけで、A.I.の宣伝文句は明らかに、誇大広告だ。ジャロに訴えてもいい。でも、出来上がった「映画」は間違いじゃないと思う。やり方のひとつとして許せる。スピルバーグは、すべてを見せつけたけど、キューブリックは、最後を隠したかもしれない。たぶん、それも許せる。あるいはディヴィッドではなく、ジョーの視点で、全体を描くって手法もあったかもしれない。おそらく、それも許せる。

 そして、もうひとつ。この映画を撮らなかったという選択もあったのではないだろうか。それは許せるか? 難しいな……

 でもけっきょく、キューブリックは、その方法を採用したのだ。しかも、永遠に映画を撮らないという方法を。

 いや、彼のことだ。いまごろ、人間の心について映画のシナリオを共同執筆しているかもしれない。神様と一緒に。


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