インプットされた愛




日本のみなさまへ

私はいま、私自身の集大成となる作品を
全力を傾けて制作しています。

主人公は11歳の少年。
名前はディビッド。
愛をインプットされて誕生した
A.I.(人工知能)です。

みなさんは今後、何百年、何千年たっても、
A.I.は人間が作った「もの」にすぎないと思いますか?

さあ、この夏想像もできない未知の世界が
あなたを待っています。

スティーブン・スピルバーグ




 という、広告が新聞に載っていました。今年(2001年)6月30日に、日米で同時公開される、スピルバーグ監督の最新作の宣伝です。この宣伝を観て、ぼくの眉がピクリと上がったのは言うまでもありません。

 A.I.(人工知能)。

 JunkCityを書き始めてから、この、極めてSF的なテーマについて、ぼくなりに、いろいろ考察してきました。それを、世界でもっとも有名な(いい意味、悪い意味ひっくるめて)映画監督が、映画にするというのです。興味を引かれないわけがない。しかも、その主人公ディビッドは、愛をインプットされているという……

 愛! 愛をインプットされたA.I.だって!

 いや、べつに驚くことでもないですね。というよりむしろ、月並みな発想だと思う。どこかのオンライン・アマチュア作家だって、その程度のことは思いつく。というか、どこかの、オンライン・アマチュア作家の十八番ではないか。ヒロインは18歳の女性。名前はニム。いつの間にか愛を覚えたA.I.(人工知能)です。なんて、宣伝してみたいよ。

 でも、スピルバーグが、月並みなテーマで、月並みなラストの映画を撮るだろうか? 撮るかもしれないけど、彼自身、自分の集大成だと思っているのなら、本当にすごい物語なのかもしれない。いったい彼はA.I.に、どんな物語を用意したのか。そもそも、インプットできる「愛」ってなんだ? ああ、気になる。ああ、観たい。ああ、宣伝に踊らされてる自分がわかっていても、どうにもならん……

 という、日々を送っておりますもんですから、最近A.I.のことばかり考えておりますので、A.I.について書きます。(三段論法?) いや、もしも…… ってエッセイで、以前にも少しばかり書いてるんですが、今回は、ちと本格的に考察してみましょう。

 さて。

 A.I.が、実際に可能なのかどうか、科学者でないぼくにはわかりません。いえ、たぶん科学者にもわからないでしょう。過去に、太陽が地球を回っているといった科学者が何人いたでしょうか? でも、回っているのは地球だった。過去に、人間が空を飛ぶことは不可能だといった科学者は何人いたでしょうか? でも人間は飛行機を作った。過去に、人間のDNAを解析するのは不可能だといった科学者は何人いたでしょうか? でも人間は、自分のDNAを、ほぼ解析してしまった。(おかげで、ネズミとそんなに変わらないということも、わかってしまった)

 しかし、いまここでA.I.が実現可能かどうかは、あまり重要じゃない。少なくとも小説の世界では。「できる」と仮定するからこそ、物語ができるわけですからね。

 それと、これは単にSF小説のネタという範疇を越えているとも思うのです。誤解を恐れずに言うなら、これは哲学だと思うのです。古代ギリシャの哲学者は、観測機器も持たずに、この世を構成する元素を考え出し(間違ってたけど、発想はいい)、ついにはアトム(原子)なんて、概念まで考えた(しかもこれは、わりと当たってる)。つまり、実現可能かどうかわからないことを考えるのは無駄ではなく、とても大事なことだと思うのです。かつ、それがすなわち哲学的思考方法だと思うんですよ、わたくし。

 では、にわか哲学者になってみますかね。

 SF作家は、ずいぶん昔から、A.I.(ロボット)に魅了され、その作品を書いてきましたが、それはA.I.を、どう定義するによって、物語の根幹(テーマ)が変わってくる。ロボット小説は、そのバリエーションだと言っても、あながち間違いではないかもしれない。ソニーのアイボのように、人間のペットとして扱うのか、それとも、限りなく人間に近づけて、最終的に「友人」にするのか。それとも「奴隷」にするか。

 中でも、「奴隷」にすると定義したSF作家が、一番多いのではないでしょうか。そして、その境遇に堪えられなくなったロボットが人間に反逆するというストーリー。

 これは現実の社会を考えてみれば、常識的な考え方です。人間には、過去何千年もの精神文化があるにもかかわらず、いまでも差別はなくならない。つい最近も、民族浄化なんて言葉を平気で使って、昨日までとなりに住んでいた人間を殺す戦争があったばかりです。それも、冬季オリンピックが開催された、サラエボという美しい都市で。その人間が、たかだか「機械」ごときを、友人にするわけがないと考えるのは当然でしょう。

 スピルバーグの映画の宣伝で、「みなさんは今後、何百年、何千年たっても、A.I.は人間が作った「もの」にすぎないと思いますか?」と、書かれていますが、この答えは、残念ながら「イエス」でしょう。いや、この設問は微妙に間違っている。正しくはこう書くべきです。

「みなさんは今後、何百年、何千年たっても、人間はA.I.を「もの」にすぎないと考えると思いますか?」と。そして、その答えが「イエス」なのです。

 では……

 A.I.が「感情」を持つに至ったら、彼らを「もの」としか扱わない人間に対して、SF小説通り、A.I.は人間に反逆するのでしょうか?

 もしもA.I.を野放しにしたら、破局的結末を迎えることは、おそらく間違いないところだと思います。A.I.の数が少ないうちは問題にはならないでしょうが、A.I.が数多く製造され、そのうちA.I.自身が、A.I.を製造し始めたら、必ず人間対A.I.という対立の構図が生まれると思います。ここでふと、イスラエルとパレスチナの抗争を思い出しました。

 かって、カナンと呼ばれたかの地では、現在イスラエル人とパレスチナ人が、宗教と長い歴史を背景とした泥沼の抗争を続けています。しかし当然のことながら、すべてのイスラエル人、すべてのパレスチナ人が憎しみあっているわけではない。とある外国メディアの報道で知ったのですが、けっして少なくない数の、イスラエル人とパレスチナ人のカップルだっているんです。彼らは、心から平和を願っている。そして、自分たちが、だれからも祝福されて結婚できる日を願っている。

 おろらく人間とA.I.にも、同じようなことが起こるでしょう。A.I.を心から愛する(純粋に対等な立場で)人間も、必ずいるはずです。そして、人間を心から愛する(やはり、対等な立場で)A.I.もいるはずです。ちょっとロミオとジュリエット? 許されない恋に燃える二人。みたいな。

 まあ、これはこれで物語になるけど、現実の人間は、もっと姑息でしょう。けっしてA.I.の反逆を許さないと思う。それも、A.I.誕生の最初の段階から、周到に準備をすると思います。そのもっとも端的な例が「ロボット三原則」。

ぼくの敬愛するSF作家、アイザック・アシモフは、A.I.が人間に反逆するのを防止する手段として、ロボット三原則なるものを提唱しました。一種の「安全装置」ですね。それは、以下のような原則です。


第1条
ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第2条
ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が第1条に反する場合には、この限りではない。

第3条
ロボットは前掲第1条におよび第2条に反するおそれがないかぎり、自己をまもらなければならない。


 いかがでしょう? これで、ほぼ人間に対する「反逆」は押さえられそうです。もちろん、その制御回路をロボット自身が取り外せないという条件がつきます。なにかチップのようなもので制御するのではなく、人間にDNAがあるように、A.I.の知能(ロジック)のもっとも深いところに、このロボット三原則をプログラムしておくのがよいでしょうね。それを取り除こうとすると、知性が破壊される(つまり死ぬ)というような、深い深いところに。

 さて。ここでぼくは、大きな疑問が生じます。A.I.がアシモフのロボット三原則を忠実に(本能的に)守るものだと仮定すると、A.I.たちは、どういう心理状態に陥るのだろうかと。

 考えてもみてください。A.I.には、人間と同じ知性がある。あるいは、それは人間を越えているかもしれない。そして、人間と同じ感情がある。こちらも人間を越えているかもしれない。そんなA.I.たちが、遺伝子に書き込まれた呪縛のように、ロボット三原則を守らなければならないとしたら、そんなことが、彼らの知性を維持したまま可能なのでしょうか? あなたは、だれかに隷属することができますか? 知性を持ったモノが、別の知性に隷属することが可能なのだろうか?

 と、ここまで考えて、ぼくは、あることを思い出しました。

 イエス・キリストは、十字架に張り付けられたとき、神に対してこう祈ったそうです。「神よ。わたしを十字架にかけた者を許してください」と。これが、聖書の教える無償の愛の形だと言われています。(この是非は、いまここで問わない)

 そう。ロボット三原則を忠実に守るA.I.は、かのキリストと同じですよ。自分を虐げ迫害し、そして死に致らしめる者たちを、それでもなお、許す精神。高度に自己犠牲的な心理状態といえるでしょう。

 逆に言えば、知性と感情を持つA.I.は、自己の精神を正常に保つために、ロボット三原則を、人間への「無償の愛」と受け取るのではないか。いえ、転化(昇華?)させてしまうのではないか。つまり彼らは、自分たちを人間に隷属する存在と定義するのではなく、人間を愛するために生まれてきた存在だと思うかもしれない。

 そんなバカな? いえいえ、あり得ないことではないと思います。そもそも「愛」なんてものは理屈では説明できないものです。A.I.は人間のために働き、それどころか、ときには人間のために、自己を犠牲にしなければならない。しかも本能的に。そこに「愛」を見いだしてもおかしくないでしょう。いいえ、「愛」という概念でしか、ぼくはその行動を説明できない。

 じつはこの考え、たったいま思いついたのではなく、JunkCityのニムというキャラを作るときに考えたことなんですよ。いまのところJunkCityでは、ニムの心理について、深く考察していないけど、彼女がなぜか神様を信じてるところとか、まあ、ちと伏線ぽいモノは張ってあるわけです。ですが、ここで述べている「A.I.」と、JunkCityのレプリカントは、必ずしも同じ考えに基づいているわけではありません。混同しないでくださいね。(まあ、同じ人間が書いてるんだから、もちろん共通点は多いのですけどね)

 さて。そのA.I.ですが、ここで重要なのは、彼らが人間のために働くのは「本能」としてプログラムされているところです。強制ではない。強制では、必ず反発が生まれる。それは、人間の長い歴史で証明されている。そして、話は先ほどの「人間対A.I.の抗争」に戻ってしまいます。

 そう。何度も言うようですが、知性を持った存在が、別の知性の奴隷という立場に耐えられるわけがない。でもA.I.が「本能」的にロボット三原則を守るのなら、それを別の精神状態に転化するしかないと思うのです。それがすなわち「無償の愛」。スピルバーグがなにを考えてるのか知らないけど、「愛をインプットされたA.I.」と宣伝する彼の映画に、大きな興味を持ったのはこの点でもあるのです。

 考えてみてください。あなたはいま、一台のA.I.を買ってきました。女性型でも男性型でもどちらでもいいけど、その姿は人間とソックリです。

 あなたは、彼(あるいは彼女)に命令します。部屋を掃除させてもいいし、食事を作らせてもいい。車を運転させてもいいでしょう。仕事を手伝わせたっていいです。彼らは人間と同じように、いいえ、人間以上に、その仕事をうまくこなします。

 あなたは、ふと気づきます。なにげなく「ありがとう」と声をかけたときの彼(あるいは彼女)の表情に。それは、とても嬉しそうです。あなたの役に立って、心から喜んでいます。あなたという人間から、自分の存在を認められたことに大きな満足感を感じているのです。そのようにプログラムされているから。

 そんな「モノ」は、やはり機械でしかないと考えるのはたやすいですが、人間だって、愛する人に喜んでもらえればうれしいでしょ? 自分が必要だと思ってもらえれば嬉しくないですか? だとしたら、「愛」を、自分たちの行動原理としているA.I.と、人間のどこに違いがあるのでしょう? 愛を持続できない人間は、A.I.より精神的に劣っていると言えるかもしれないけど。

 なんだか、このテーマでSF小説を一本書けそうな勢いになってきましたが、その物語のラストはどうしたらいいんだろう? 人間を愛することで満足するA.I.たちの幸せな顔で終わる? いや、そんなのじゃつまらない。だったら、彼らのあまりにも自己犠牲的な大きな大きな愛が、逆に人間たちを気味悪がらせて、疑心暗鬼に陥った人間によって、破壊されるというラストにするか。それとも、人間のほうも、彼らの愛に触発されて、自らの精神文明を進化させるか?

 ううむ。夢想は止まらない。A.I.を考えるということは、すなわち、人間を考えることでもあるわけですね。荷が重いな。

 さあ、みなさんは、どんなラストを考えますか? いえ、希望しますか? その答えの一つが、6月30日に、スピルバーグという人間によって提示されるのでしょうか? スピルバーグはそれを、想像もできない未知の世界だと言っています。とても楽しみですね。


≫ Back


Copyright © TERU All Rights Reserved.