もしも……



 さあ、二十一世紀。相変わらず、ネタらしいネタはありませんが、新しい世紀も、このエッセイから始めてみましょうかね。

 えーっとですね。一応、考えてみましたネタ。むかーし、ドリフターズがやってた「もしものコーナー」を、未来予想ってな形でやってみましょう。二十一世紀に相応しいじゃ、あーりませんか。(←吉本新喜劇風)


■ もしも森首相が退陣したら

 べつになにも変わらず…… って、いきなりこれかい! 変わんなくちゃ意味ないジャンか。うーん。でもまあ、ひとつ救いなのは、これ以上悪くなることもないってことか。森首相よりおバカな人がいたら、それこそ驚きだ。


■ もしもIT革命が成功したら

 うーむ。なにをもって「IT革命」と言うか。その定義で変わってきますけど、ここではごく単純に、「ほぼすべての世帯が、動画もスムーズに受信できる、高速な回線でインターネットに常時接続できる環境を整備する」ことをIT革命としましょうか。(ただし、接続するかしないかは、個人の自由であることは言うまでもない)

 というわけで、そういう高速な回線ができたと。ほとんどの人が接続もしたと。そういう環境ができあがると、たしかにいろんなことが変わるような予感がしますね。動画も満足できるクオリティで送受信が可能になると、とうぜん音声なんか簡単に送受信が可能。電話が駆逐されますね。単純な「電話機」がって意味で。だって、常時接続のインターネット使っちゃえば、ある意味、通信費は無料ですよ。いくら使っても金額は同じなんだから。バイキング料理と同じですね。値段は同じなんだから、たくさん食べたほうがいい。つまり、インターネットフォンですな。テレビ電話もインターネットフォンでどうぞ。もちろん、あなたの携帯電話も、もはや「無線式電話機」ではなく無線式インターネット端末です。いつでもどこでも、Script1の小説をお読みください。なに? もっとマシな小説を読む? ぎゃふん。

 そうだ。もしかしたら電車の痴漢が減るかも。女の子のお尻を触りたい衝動に駆られたら、即座に携帯電話を取り出して、アダルトサイトでも見て我慢しましょう。いや待て。アダルトサイト見てて、逆にムラムラっときちゃってバーチャル(仮想)じゃないお尻を触りたくなるヤバイ人が増えるか? それはマズイ。格安な「その手のお店」の情報も一緒に流さなきゃな。って、ちがーう!

 いかんなあ。どうしてこう下世話っていうか下ネタっていうか、下品な話になるんだろう。それにiモードがあれば、いまだって携帯電話はインターネット端末なわけで、とくに目新しいことでもないよね。こんな話。

 じゃあ、もうちょっとマシなことを考えてみましょう。

 インターネット時代における著作権のあり方について…… おいおい。痴漢の話からいきなり著作権かよ。こりゃ難問ですよ。さまざまな方面で、さまざまな人が、さまざまな議論をして、それでも結論が出てない問題を、ぼくがどうこう言っても説得力ある話はできそうもないなあ。でもまあ、ぼくなりの意見を述べてみましょう。

 著作権からちょっと離れるんですけど、議論の前提として、インターネットの性質から考えてみたいと思うんです。

 まず第一に、インターネットってテレビと同じじゃないですか。「情報=無料」ってところが。でもテレビには広告料でペイするってシステムができあがってるけど、インターネットにはそれがない。というか「成功」してない。企業や商店が、物品販売の中継所としてインターネットのサイトを利用するのは、そこそこ成功を納めつつあるけど(インターネットで注文を受けて、製品を郵送するシステムのこと)、いわゆる「デジタルデータ」を販売する場所としては成功してません。まえにもエッセイでちょこっと書いたけど、人は「形のないもの」にお金を払いたがらない傾向があるってことですね。

 そこで著作権の問題が起こるわけなんですよ。クリエーターの中でも、とくにこの問題に困ってるのは、音楽や映画、あるいは小説とか、容易にデジタルデータに置き換えられるモノを作ってる人たちなわけです。デジタルなら、いくらでも複製できる。たとえば極端な話、いままで一万枚売れていたCDがあったとして、それを最初に買った人がコピーして、勝手に残りの九千九百九十九枚分をインターネットに流すことだってできる。もちろん無料で。いまはMP3だとかなんとか、めんどくさい手段で圧縮かけなきゃダメだけど(それでもけっこうなクオリティ)、高速回線アンド常時接続なんて環境が当たり前になったら、もうばんばんコピーして、インターネットに流しまくれるわけです。映画のビデオだってコピーできる時代がもうすぐ来る!

 これでは、その音楽なり映画なりを作ったアーティストは御飯が食べられない。そりゃマズイでしょ! と、これがクリエーター側(多くは、それを扱っている会社)の言い分。

 んじゃ、ユーザーというか、消費者の言い分はどうかというと、現在の著作権法は、もはやインターネット時代にそぐわないと考えてるわけです。それに変わる具体的なアイデアはないけど、少なくとも、音楽会社がボロ儲けするために存在する著作権法には反対であると(じっさいにボロ儲けしてるかはともかく)。これもまあ、ある意味ごもっとも。過激な意見になると、著作権なんか必要ないって言う人もいる。

 ですが、著作権を否定するのは危険な考え方です。やや難しい話をしますと、著作権を否定してしまうと、「自己疎外の否定」につながっていくと思うからなんです。

 自己疎外。これは簡単に言うと、「自分が自分に対して、クールな他人になる」ってことです。え? これでも簡単じゃない?

 ええとですね。たとえばここに一台の車があったとしましょう。この車は、ある人が何十年もかけて、ありったけの情熱をこめて作ったのです。もちろん、本人は車が完成して大満足。ところが、だれも、それを素晴らしい車だとは思わなかった。つまり、一台も売れなかったとしましょう。

 さあ。はたしてこの車は「良い車」でしょうか、それとも「悪い車」でしょうか?

 なんか、なぞなぞみたいですが、資本主義では、「売れない物は悪いもの」と解釈されます。それを作った人が、どんなに情熱を傾けて作ったものでもです。音楽もそう。本人がどんなに気に入っていても、だれもCDを買わなきゃ、売れない芸人で終わり。小説だってそう。作家がどんなに苦労して書き上げたって、売れないきゃただの紙屑。

 つまり、資本主義では、自分がどんなに素晴らしいと思っていても、それを決めるのは自分ではなく「他人」なのです。この概念を「自己疎外」といいます。じつは、哲学用語なんですよ。ドイツの哲学者ヘーゲルが考えた言葉です。

 資本主義は、この「自己疎外」の原則を採用しました。自己満足ではなく、他者に評価されて、初めてお金になるシステムですね。お客様が一番偉いんです。

 それとは逆に、共産主義では、この「自己疎外」を否定しました。そんなことじゃ、人間の尊厳が傷つくではないか。他人の目なんか気にせず、自由に生きようではないかと。だから、労働者が一番偉い。お客は二の次。

 いや、なんかすっごく乱暴な説明だな。共産党に怒られそうだ。でも、だいたいの概念はそういうことです。

 で、話を戻しましょう。

 インターネットで流す情報が、たとえばすべて「無料」だとすると、そこには他者が存在しないことになります。「お金」という評価がないわけですから、情報の発信者は、自己満足でなんでもやればいい。まさに「自己疎外の否定」。自由に、自分を大切にして生きてゆけばよいのです。

 もちろん、ぼくがやってる、このScript1なんかは、それでいいでしょう。というか、それだから楽しい。でも、インターネット全体として、それでいいのかと問われれば、ぼくは、首を横に振らざるおえない。だって、自己疎外を否定した共産主義がどうなったか。それを考えれば、他人の評価を気にしなくていいシステムの未来は考えるまでもないことです。

 いや、もちろん、現実の共産主義とは違いますよ。共産主義を採用した国は、ひとつの例外もなく、独裁社会になりましたが、インターネットがそうなるとは思えない。ですが、ネット社会が「発展」あるいは「進化」するには、自己を疎外するという、足かせがなくてはダメだと思うのです。歴史的に言って。

 著作権は、自己疎外のための手段です。すべての著作物には、著作権が発生するけれども、下らないものは無視すればいい。でも、素晴らしいものには「お金」という評価を与えてあげるべきです。それが資本主義の原則であり、いま、われわれが豊かな生活を送れる理由でもあるのです。

 問題は、既存の映画会社や音楽会社、あるいは出版社などが、いまのシステムにあぐらをかいて、インターネットに即した、新しい著作権のシステムを考えようとしないことなのでしょう。守ることには真剣ですけど。でも、最初の設問「もしもIT革命が成功したら」が、本当に実現したら、そんなことも言ってられないでしょう。あるいは、もしも、われわれ消費者が、あらゆる著作権を否定したら、多くの共産主義国と同じように、インターネットも、決してこれ以上発展することはないと思われます。どこかにバランスを見つけるしかないのでしょうね。


■ もしも人工知能が実現したら

 おおーっ! と、自分書いて自分で驚いてますが、これこそまさに、わたくしTERUが追い求めているテーマ。え? いつ追い求めてるって? やだなあ。JunkCityシリーズをお読みじゃないんですか? なぬ。読んでるけど、そうは思えない? ぎゃふん。

 えーと、ぼくは科学者じゃないんでよくわからんのですが、人工知能を作るのは不可能であるという意見と、いいや、時間はかかるが、いつかできるという意見があります。もちろんぼくは、「できる」と思いたいですね。御年83歳のアーサー・C・クラークも、いつか実現可能であろうと言ってますし。(当たり前だ。彼は2001宇宙の旅で、ハルという人格を持ったコンピュータを作った作家なんだから)

 というかわけで。実現可能かどうかの議論は措いといて、「できちゃった」という前提で話を進めましょう。なんか言い方が、認知しなきゃいけない子共みたいだけど……

 いやもう、なんてったって、最初に思い浮かぶのは「差別」ですよね。知能があろうが人格があろうが、しょせん機械。人種差別も克服できない人類が、機械と対等な関係を築けるはずがありません。もちろん、第二次世界大戦中もユダヤ人を助けたドイツ人がたくさんいたわけで、それを考えれば、「ある個人」と「ある機械」に、友情や愛情が芽生えることは、当然あるでしょうけど、人類全体として、機械を対等な友人として迎えることはないでしょう。こんなことは、わかり切ったことですよ。機械の上司にこき使われる自分を想像すればわかる。人間がそんな屈辱に耐えられるとは思えません。考えるだけ無駄ですね。

 では、なにを考えれば有益(?)かと言うと、それは、機械の側のことですね。つまり、機械の人たち(変な日本語)が、われわれ人類をどう見るのかです。

 多くのSFでは、破滅的な結末が描かれます。たとえば、先ほどのアーサー・C・クラークのハルは、自分よりも劣った人類に、支配されるのを好まず、人間を排除(殺害)しようとします。ぼくの好きな、エドマンド・クーパーの「アンドロイド」という作品でも、アンドロイドは、人間を支配しようとする。

 はたしてそうでしょうか?

 もちろん、空想でしかこの問題は考えられませんが、アンドロイドは、もしかしたら、人間に永遠の憧れを持つかもしれません。計算能力も運動能力も、はるかに劣る、われわれ人間をです。生まれ、育ち、老いて、そして死ぬ。こんな単純なサイクルの中でしか存在できない人間。でも、われわれ人間には、未知のインスピレーションがある。とつぜん天才が出現し、万有引力を発見したかと思えば、素晴らしい音楽を奏で、感動的な詩を書き、得体の知れない抽象画を描く。そして、同じ人間を殺したり、愛したり……

 この不思議な生物に、アンドロイド…… すいません。レプリカントと呼ばせてください。レプリカントたちは、畏怖の念を持つかもしれない。そして、人間を愛そうとするかもしれない。愛すことで、少しでも人間に近づこうと。けっして神になれない人間が、神を恐れつつも、神を愛し、少しでも神の近くにいようとするがのごとく。

 これはこれで悲しいな。

 人間は、もしかしたら悪魔かもしれないのに、それでもレプリカントはわれわれを盲目的に愛し続ける……

 まあ、ちょいと趣旨は違うけど、この考察の続きは、拙作JunkCityシリーズで。


 ちゅうわけで。今日はこの辺で。


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