ぼくの願い 第五夜




「遅くなって申し訳ない」
 鳴沢は、オレが指定したバーにやってきた。九時二分。たしかに約束の時間より遅かった。だが、たった二分だ。
 オレは口を付けかけたビールのグラスを置いて立ち上がった。
「いいえ。こっちこそ、突然で申し訳ないです」
 今日の昼、オレは鳴沢の携帯に電話を入れて飲みに誘った。こんなこと、いままでに一度もなかったから、最初鳴沢は驚いていたが、オレがぜひ相談したいことがあるというと、鳴沢は快く承知してくれた。
「いいんですよ。気にしないでください」
 鳴沢は、軽く笑った。
 オレたちは席に腰掛ける。
「なにを飲みますか?」
 オレが聞くのと同時に、ウエイターが近づいてきて、鳴沢は、オレが飲んでいたビールを注文した。
 オレは、緊張で手に汗をかいているのに気づいた。鳴沢と酒を飲むのは初めてじゃない。何度かある。だが、いつもは、だれか仲間がいて五、六人で飲んでいた。こうして二人きりで酒を飲むは初めてなんだ。
 ビールが運ばれてきて、鳴沢は喉を潤してから言った。つきあい程度にしか飲めないはずだが、さすがにこれだけ暑い日が続くと、鳴沢もビールはうまいと感じるようだ。
「で、星野さん。相談したいことって?」
「ええ」
 と、オレはうなずきながら、心臓が爆発しそうになっていた。
 オレの名は星野智幸。今年二十四歳のスポーツジムのインストラクターだ。オレが呼び出した相手は、鳴沢博之。三十二歳。都立高校で歴史の教師をしている。オレと違って知的な雰囲気の男だ。細い黒縁フレームの眼鏡がよく似合っている。普通なら、体育会系のオレと、文系の鳴沢に接点はない。
 だが……運命の神は、オレと鳴沢を出会わせた。
「その」
 オレは、ビールのグラスをもてあそびながら言った。
「変なこと聞くようだけど、鳴沢さんは、恋愛経験とか豊富なのかな」
「恋愛?」
 鳴沢は、首を傾げながら言った。
「ぼくなんかより、星野さんの方が、よっぽど経験豊富なんじゃないんですか?」
「そ、そんなことないですよ」
 オレは、思わず強く否定した。
「もう、ぜんぜんダメです。本当にまるっきりダメ」
「またまた」
 鳴沢は、笑った。
「ジムのみんなが言ってたよ。星野さんは、大学時代すごいプレイボーイだったって」
「嘘ですよ、そんなの。本当です。オレ、ダメなんです。マジで」
 オレの言葉の半分は本当だ。大学時代、たしかにかなりの数の女とつきあったが、恋愛感情を持つことはなかった。悪く言えば、みんな遊びだったんだ。
 自分で言うのも何だが、オレはハンサムだ。若いころのトム・クルーズに似てるなんて言うヤツもいる。身長も一八〇センチあるし、運動神経も抜群にいい。唯一欠けているものがあるとしたら、おつむの中身ぐらい。まあ、これで東大にでも受かってたら、パーフェクトすぎて自分で自分が怖い。それでも、二流の大学に入るぐらいの脳味噌はあったから、体育大学に進んで運動生理学を学んだ。おかげで、いまのオレは、スポーツジムでインストラクターなんかやって生計を立てている。
 いまから一年前。スポーツジムとホストクラブを間違えてる若い女の客(オバサンも)に、愛の告白を何度か受けたりしながら(もちろん、ぜんぶ断った)、なんとか仕事にも慣れたころ、新しい会員がオレの受け持つクラスに入ってきた。それが鳴沢だった。
 鳴沢博之。オレは、この体力の「た」の字もないような男と出会いたくなかった。だが、時間の歯車は逆には回らない。オレたちは出会ってしまったのだ。
「ということは」
 と、鳴沢が言った。
「もしかして、恋愛の相談ですか?」
「え?」
 オレは、一瞬、ドキッと心臓が高鳴った。そして、われながら恥ずかしい話だが、顔が赤くなってしまった。
「驚いた」
 と、鳴沢。
「いや、気を悪くしないでほしいんだけど、星野さんって、以外とシャイなんですね」
「は、ははは」
 オレは、照れ笑いを浮かべた。
「そうですよ。本当に恋愛って苦手なんです。この顔でいつも誤解を受けるんだ」
「ぼくは、星野さんがうらやましいけどな」
 鳴沢も笑った。
「男のぼくから見ても、本当にハンサムで若さにあふれている」
「鳴沢さんだって、若いじゃないですか」
「生徒にはオジサン扱いされてますよ」
「生徒って高校生でしょ? あいつら、男の良さをわかってない。三十過ぎなきゃ、男なんて本物じゃないですよ」
「そうかな」
 鳴沢は、軽く肩をすくめた。
「まあ、そうかもしれないね。男も女も、その年齢でなければ持てない魅力というのは、きっとあると思う」
 そう。そうなんだよ。こういうところが知的なんだよな。カッコいい。オレにはマネできない。
「で」
 と、鳴沢。
「あまり相談相手としてぼくは適任じゃないと思うけど、どういう相談ですか?」
「あの……その前に、その『ですます』調のしゃべり方、やめませんか。鳴沢さん、オレより年上だし、なんだか話しにくくって」
「ああ」
 鳴沢は、苦笑した。
「ジムでは、星野さんがぼくの先生ですから、ついね」
「ここでは、そんなの関係ないですよ。普通にしゃべってください」
「オーケー。そう言ってもらえると、ぼくも気が楽だ」
「オレもです」
「じゃあ、仕切り直し。どんな相談?」
「えっと、またまた変なこと聞きますけど、鳴沢さんは、どういう相手が好みですか?」
「ぼく?」
「ええ」
「恋愛の対象という意味で?」
「そうです」
 鳴沢は、少し考えてから言った。
「星野さん。もし、間違ってたらごめん。これは、本当に星野さんの恋愛相談なんだろうか? なんだか違うような気がするんだけど」
 するどい。やっぱ、頭いいよな。でも、オレは嘘は付いてない。これは恋愛相談だ。そう。だれがなんと言っても。
 でも……
「そ、そんなことないですよ」
 オレは、うつむきながら言った。ちくしょう。鳴沢の顔がまともに見れない。
「星野さんらしくないな。ハッキリ言ってよ」
「う、うん」
 オレは、ビールのグラスをもてあそびながら言った。
「その、もしも、もしもだよ。鳴沢さんのことを、好きだって言うヤツがいたら、どうする?」
「やっぱりそういうことか」
 鳴沢は苦笑した。
「ぼくのことを好きだなんて言ってくれる奇特な人はだれ?」
「いや、仮定の話だよ、仮定」
「仮定ねえ」
「いや、ホント。だから仮定として答えてよ」
「ふむ。もちろん、男として悪い気はしないし、正直言ってうれしいよ」
「そ、そうだよね」
「でも」
「で、でも?」
「さっきは、思わずだれって聞いちゃったけど、やっぱり聞かない方がいいな」
「なんで?」
「じつは」
 と、鳴沢は、少し気恥ずかしげに語った。
「二年ほど前、うちの近所に新しい喫茶店ができたんだけど、そのお店のマスター、商社の部長さんだったんだ。ずっと喫茶店をやるのが夢だったらしくて、会社を定年退職して、やっと夢を叶えたんだね」
「は、はあ……」
 オレは曖昧にうなずいた。
「それで」
 と、鳴沢は続けた。
「そのマスターの娘さんが、ぼくが高校時代に憧れていた同級生だったんだ」
「えっ、む、娘さん?」
 オレは思わず聞き返した。
「そう。まさに運命の再会って気がした。もっとも、彼女と高校生のとき付き合ってたとか、そういうことじゃないんだ。彼女には、スポーツマンの、そう、ちょうど星野さんみたいな、カッコいい彼がいたからね。ぼくの一方的な片思い。そして、そのまま卒業して、彼女のお父さんが喫茶店を始めるまで、会ったこともなかった」
「じゃ、じゃあ、いまでもその彼女を?」
 オレは、少し震える声で聞いた。
「ははは」
 鳴沢は、少し照れた笑いを浮かべた。
「べつに、ずっと想い続けてたってわけじゃないんだ。ぼくだって、大学に入ってガールフレンドができたからね。でも、その彼女とは、結婚寸前までいって別れた。もう六年近く前の話だから、彼女いない歴が長いんだよ」
 鳴沢は、苦笑いを浮かべた。
「で、彼女に再会したときは、本当にビックリした。彼女もぼくのこと、よく覚えていてくれたのが、すごく嬉しかったな」
「つまり、その……鳴沢さんは、その彼女が好きなわけだ」
「そういうこと」
 鳴沢は、笑った。
「彼女もまだ未婚だしね。チャンスはある」
「チャンス? まだ告白してないの?」
「ああ。この際だ。ぜんぶ告白するよ。彼女、いまでもスポーツマンタイプが好きらしくて、早い話、ぼくなんかお呼びじゃないわけだ。だから、星野さんのスポーツジムに通うことにした。動機が不純だろ?」
「は、ははは……」
 オレは、乾いた笑いを浮かべた。ジムに通って、その女好みになりたいと思うほど好きなのかよ。
「あと一月ちょっとで、彼女の誕生日なんだ。そのときデートに誘って、告白しようと思っている」
「そ、そうなんだ……」
「というわけさ。だから、星野さんが、だれに頼まれたか知らないけど、聞かない方がいいと思う。申し訳ない」
「と、とんでもない。こっちそこ、変な話で……あ、じゃあ、出ましょうか」
 オレはとっとと伝票を持ってレジに向かった。
「払うよ」
 と、鳴沢も追い掛けてくる。
「とんでもない。オレが出します。呼び出したんだから」
「悪いね」
「いいんです」
 オレたちは店を出て、すぐに別れた。
 ちくしょーう! やっぱ鳴沢に告白なんかできねーよ!





 鳴沢と別れたあと、三軒飲み屋を回ったのは覚えてる。タクシーを拾ったのは、何時だっけな? 二時過ぎだったっけ?
 まあ、いいや。もうどうでもいい。
 オレは、アパートのドアを開けて、バッグを乱暴に落とすと、とにかく水を飲んだ。さすがに飲み過ぎだ。
 一息つく。
 すると、涙がじんわりにじんできた。
 なんでオレ、男なんか好きになるんだよ。しかも、ノーマルな男を。頭おかしいよ。気が狂いそうだ。
 ううう。死にたい。死んじゃおうかな……どうせこの先、悲しい思いをするだけだ。そうだよ。生きてたって、なんにもいいことない。
 オレは衝動的に包丁を手にした。
 そのとき。
「ちょ、ちょっとちょっと。物騒なことするんじゃないよ」
 女の声がした。驚いて振り返ると、そこには、もっと驚くべきものがあった。なんと、金髪の女が、仙女みたいなスケスケの布きれ一枚で宙に浮かんでいた。
「は、ははは……」
 オレは、乾いた笑いを浮かべた。
「すごいや。いよいよ、本格的に頭がおかしくなったみたい。幻覚が見える。どうせなら鳴沢のヌードがよかったな」
「バカ言ってるよ、この男は」
 その女は、ふうとタメ息を付くと、オレを睨んだ。
「どうでもいいけど、その物騒な物を置きなさいよ。あんたはまだ死ぬべき人間じゃないんだから」
「幻覚に説教されてるよオレ」
「あたしゃ幻覚でも夢でもなんでもないよ、現実さ」
「幻覚ほどそういう。いや、聞いたことないけど」
「まったく、どうつもこいつも……まあいさ。あたしゃ疲れてるんだ。さっさと終わらそう。あんたの願いを一個叶えてやるよ」
「は?」
「願い事だよ。ああ、言い忘れてた。あたしの名前はアシュレモーナ。モーナでいいよ。さあ、願い事を言いな」
 オレはほっぺたをつねった。痛い。
「ゆ、夢じゃない?」
「だから、最初からそう言ってるじゃないのさ」
「あ、あなたもしかして女神様?」
 そう言えば、そう見えないこともない。
「違うよ。どーせ、あんたたち人間には理解できないだろうから、説明は省略。とにかくあんたの願いを叶えるもの。そう理解すればいい。で、願いは?」
「よ、よくわかんないけど、まあいいや。オレは鳴沢と恋人になりたいんだ。彼がオレを愛するようにしてくれ」
「まあねえ」
 と、モーナは、肩をすくめた。
「そんなのは簡単だけど、お勧めできないわね」
「なんで?」
「この国って、まだまだ同性愛に厳しいでしょ? 鳴沢って男があんたを好きになったら、大変だよ。親に勘当されるわ、仕事は辞めなきゃなんないわ。ハッキリ言って、人生が狂うね。あんたの願いのせいで」
「うっ……そ、それはヤダ。オレのせいで鳴沢が辛い思いをするなんて」
「でしょ。それでも、あんたの前じゃ、辛い顔なんか見せないよ。愛する相手を心配させないためにね。あんた、耐えられる?」
「耐えられるわけねーだろ!」
「じゃ、やめときな。けっきょく不幸になるよ。全員が」
「だったら、どうしたらいいんだよ」
「簡単さ。あんたが普通の精神を持った男になればいい。鳴沢なんて男は忘れてさ。あんたなら、女の子にモテモテだから、そう願った方が、楽しい人生になるんじゃない?」
「イヤだ! 鳴沢を忘れるなんて! オレ、マジで惚れてんだよあいつに!」
「困った男ねえ」
 モーナは、またタメ息をついた。
「じゃあ、こんな方法はどう? あんたが女になるのさ」
「は?」
 オレはしばらく思考が停止した。
「オ、オレが女に?」
「そう。それで万事解決。あんたが女なら、鳴沢って男と付き合っても、なーんにも不思議はない」
「ま、待てよ。冗談だろ、女になるなんて……」
 と、オレは言ったが、ふと、女になって鳴沢に抱きしめられてる図を想像してしまった。
「なんだか、それっていいかも」
「でしょ! ほら、そうしなよ。女になりたいって願いな」
「で、でもさ。鳴沢はほかに好きな女がいるんだぜ。それはどうなるんだよ」
「願いは一つ。二つは叶えない。女になってからは、自分でがんばるんだね」
「そりゃねえよ。ちゃんとフォローしてくれよ」
「悪いけど、それが決まりさ。さあ、どうするんだい? やるの、やらないの?」
「ううう。人の足元見やがって」
「人聞きの悪いこと言うんじゃないよ。一つでも願いが叶うんだから。さあ、さっさと願い事を言いな。あたしゃ帰るよ。疲れてるんだから」
「わ、わかったよ! 言うよ、言えばいいんだろ! オレを女にしてくれ!」
「はい、よく言えました」
 モーナはニッコリほほ笑んだ。
 つぎの瞬間。いきなり目の前が明るくなって、真っ白でなにも見えなくなった。しばらくすると光は消えて、あとは真っ暗……

「ううう。頭痛て」
 オレは、床で寝ていた。
「まいったな。こんなとこで寝ちゃったよ。飲み過ぎかあ。変な夢まで見ちゃうし」
 頭を振りながら、オレは上半身を起こした。
 ん?
 なにか違和感。肩が重い。引っ張られる感じ。
 オレは、ハッとして、自分の胸を見た。
「ふ、ふ、ふ、膨らんでるーっ!」
 オレの胸は、見事に膨らんでいた。
 ギャーッと思いながら、バスルームに駆け込んで、鏡の前でTシャツを脱いだ。
「で、でかい……」
 まったく見事なバストだった。Eカップか? 重いわけだ。そのとたん、ハッと気づいて、ジーンズのジッパーを降ろすと、パンツの中に手を入れる。そこには、あるべき物がなかった。パンツを広げて覗いてみる。
「ない。ないよ……」
 オレはほっぺたを思いきりつねった。もちろん痛い。
「夢じゃなーい!」
 オレは、パニックに陥りそうになった。どうする、どうしよう。女だ。女になっちまった。どうしたらいいんだよう!
 ふと、鏡に映った自分の顔を見た。
「あ……顔も変わってる……」
 そう。鏡に映った自分の顔が違う。いや、もともとの造形は、オレなんだけど、骨格が柔らかいって言うか、肉の付き方が違うって言うか、もちろん、ノド仏もない。そう言えば声も……
「あ、あーうー、あー」
 と、オレは声を出す。明らかに男の声じゃなかった。少しハスキーだけど女の声だ。
「なんてこった。これが女になったオレか」
 オレは一人っ子だから、想像するしかないけど、妹がいたらこんな顔だろうな。どうやら、ハンサムと美人ってのは、同じ理屈らしく、自分で言うのもなんだが、えらい美人だ。こんな女、そうはいない。
 なんだか、だんだん冷静になってきた。オレはジーンズとパンツを脱いで、全裸になってみた。やっぱりね。肉付きが完ぺきに変化してる。いや、骨格が違う。とくに骨盤。
「すげえ。ナイスバディじゃんか」
 オレは声に出して言った。自分でも惚れ惚れするぐらいいい女だ。背は少し低くなってるみたいだけど、それでも、もとの身長の一八〇センチ近くある。胸もでかいし、くびれるところは、ちゃんとくびれてる。なんとなくアメリカのヌードモデルみたいだけど、いいよね。鳴沢だって男だもん。きっとこういうの好きだよ。
 そう。オレは、自分が女になった目的を思い出した。
「これなら、ぜったい鳴沢も惚れるぜ。こんないい女、ほっとくわけがない」
 そう思ったとたん。最初の動揺はどこへやら、すっごく、うれしくなってきた。
「あはははは」
 自然と笑いがこぼれる。
「これで、やっと鳴沢に告白できるぜ。うれしい。うれしいよう」
 今度はうれし涙が出てきた。
 グスン。と、オレは鼻を鳴らして、もう一度自分の顔を見た。
「鳴沢さん。あなたのことが好きです。わたしと付き合ってください」
 なんて言ったら、鳴沢が答えるんだ。
「星野さん。ぼくも、あなたのことが好きです」
 なーんちゃって、なーんちゃって! 照れるぜ。うははは。どうしよう。モーナありがとう。オレの未来は明るいぜ。
 と、思った瞬間。
「待て。オレがいきなり女になったら、みんな驚くじゃねえか!」
 やばいよそれ。独り芝居なんかしてる場合じゃない。免許証の写真だって男のまま。車にも乗れない……
 ん? もしやと思って、オレはテーブルの上に投げ出してあった財布から、免許証を取りだした。
「あーっ!」
 オレは叫んだ。
「か、変わってる!」
 免許証の写真が女の顔になっているだけじゃなくって、名前も変わっていた。オレの本名は星野智幸なんだけど、免許証は、星野智子になってる。智子だってさ。まいったねどうも。そっかあ。オレ今日から、星野智子なんだ。
 オレはまた鏡の前に戻った。
「初めまして、智子。これからよろしくな。この美貌で、鳴沢をゲットしようぜ」
 自分にウィンクしてみる。うわ。いい女。男なんかイチコロって感じ。





 翌朝。
 オレは、寝ぼけた頭でトイレに入って、用を足そうとしたとき、いつもあるべき物がないことに気づいた。
「あ、そうだっけ」
 オレは、便座を下げて座った。
「ふう。これはめんどくさいかも」
 なんだか、出し終わったあとのキレも悪い。オレはトイレットペーパーで、残った滴を拭き取った。やっぱ、女ってめんどうだわ。
 まあ、ここまではいい。っていうか、早く慣れなきゃ。女の身体に。髭を剃らなくていいのは楽だし。でも、着替えようと思って、クローゼットを開けた瞬間、オレは困った。
「女物なんかねえよ……」
 夏でよかったよなあ。Tシャツとジーンズなら、男も女も関係ない。オレはそう思って、ジーンズを履いた。その瞬間。自分の考えが間違っていたことに気づく。
「こ、腰が、ちょっとキツイかも……」
 男と女じゃ体型が違うんだな。でもまあ、履けないことはない。でもそのあと、Tシャツを上から被って、さらに間違いに気づいた。
「ヤバイってこれ。ノーブラなのバレバレじゃんか」
 布でこすれて、バストの先っぽ固くなってくると、よけいノーブラなのがわかる。ハッキリ言って、かなりエッチだ。
 オレは鏡で自分の姿を見た。
「なんだか、頭悪そう……」
 いや、べつに胸がデカイからとかじゃなくて、ノーブラのTシャツ姿が。本当にヌードモデルみたいだよ、これじゃあ。でもさあ、胸の大きい女って、苦労するよな。誤解されるよ。オレも男のときはそうだったんだけど、女になってわかった。胸の大きさと知能指数に関係なんかあるわけないじゃんか。
「それにしても、こりゃまずいよな。男の視線集めまくりだぜ。鳴沢以外に、じろじろ見られたくねえよ」
 まだ出勤までに三時間ぐらいある。近くのデパートで下着を買うか。っていうか、買わなきゃな。サラリーマン……もとい。OLでなくてよかったぜ。オレ、夜の部のクラスを受け持ってるから、出勤時間が遅いんだよね。昼までに行けばいい。
 でも、下着ってどうやって買うんだ? ま、いいか。店員に聞けば。
 オレは、このクソ暑いのに、サマージャケットを羽織って表にでた。だってTシャツだけじゃ、恥ずかしいんだもん。ノーブラでなんか歩けねえって。それにしても、先っぽが少し痛いな。こすれて。オレは、胸がユサユサ揺れないように、腕を組むようにしながら歩いた。これはこれで恥ずかしいが……
 駅前の東急ストアに入って、オレは一目散に、いままで足を踏み入れたことのない女の下着売り場に向かった。
 うわあ。いろんな種類があるんだねえ。どれ買ったらいいんだ? いや、種類があるのはいいんだけど、サイズがわかんねえよ。
 オレは、店員を呼んで聞いた。ちなみに、わざとオバサンの店員を選んだ。若い子なんかに聞けねえよ。
「あの、すいません。下着が欲しいんだけど、その、サイズがわかんなくって」
「え、ああ。はい。お測りしますよ」
 オバサンは、ポケットからメジャーを出して、オレの胸回りを測った。アンダーがいくつですね、とか言ってるけど、よくわかんない。
「ええと、お客様ですと、70のEですね。こちらの棚の商品になります」
「え? バカに種類が少ないジャンか」
「ええ。このサイズは、それほど種類がないんですよ」
「はあ……」
 残念。あっちの棚にある、ブルーのヤツ、けっこう気に入ってたんだけどな。この棚のって、オバサン臭いのが多いなあ。やだなあ。やっぱ東急ストアってのがダメなんだな。
 オレは、そう思いながら、サイズの合ったブラジャーを手に取った。うーん。どれにしよう。よく見ると形が違うような気がする。わかんねえなあ、もう。
「あのぅ、つかぬ事を聞きますが、オレ……いや、わたし、ふだん、あまりブラとかしないんで、よくわかんないんだけど、つけ心地がいいヤツってどれですか?」
「そ、そうですねえ」
 オバサンの店員は、怪訝な顔でオレを見ながら言った。
「お客様ぐらいですと、フルカップがいいと思いますよ。全体で包み込みますから、バストラインも奇麗ですし、つけていて一番楽だと思いますわ」
「フルカップね。えーと、これかな?」
「そうです」
 げっ、八千円もする! 高い……でも背に腹は代えられない。
「じゃあ、これ同じ物二つください」
「試着なさいますか?」
「え? いや、いいです。急ぐから。あ、そうだ。パンツも買わなきゃ」
 オレがそう言うと、またまた店員は怪訝な顔でオレを見た。
「ショーツですね。こちらです」
「はあ、すいません」
 ショーツって言うのか。パンティのことだよな、それって?
 オレは、オバサンの店員に案内されて、ショーツ売り場に行った。なんだかなあ。恥ずかしいよ。二度とこれないな、ここ。
「ヒップも測りますか?」
 と、店員。
 げげっ。ショーツにもサイズってあるのか。
「はあ。お願いします」
 オレ身体でかいからLサイズとか言われたらやだなあ。だって、Lサイズって、見るからに種類が少ないんだもん。
「90ですね。Mサイズです」
「ホント? よかたァ」
 オレがホッと息をつくと、オバサンの店員がクスッと笑いやがった。くそう。なんか腹立つな。太ってるわけじゃないんだぜ、オレ。まあいい。ショーツは、そんなに高くないや。助かるな。でもまあ、これも二枚もあればいいか。パンツなんて、男物履いてても見られるわけじゃなし……
 いや、見られるって。更衣室で。ヤバイ。パンツは毎日代えたいからなあ。五枚ぐらい買っとくかあ。二千円のヤツ買ってもけっこうな出費だなあ。今月きびしいぜ。
 オレは、一番安いのを五枚見繕って、レジに行こうとしたとき、ふと思った。
 ちょっと待て。更衣室で女に見られる分にはかまわないけど、もし鳴沢に、こんな安っぽいヤツ見られたら恥ずかしいな。うわあ、そうだよ。鳴沢に見られるかも知れないんだよな。二枚ぐらいは可愛いの買っとこう。
 オレは、安物を二枚戻して、ちょっと高級そうなヤツを新たに二枚選んだ。そうすると、無性にブラジャーとデザインが合わないような気がしてきて、今度は、ブラとショーツがセットになったヤツを探した。
 あったあった。やったぜ。水色がある。ピンクはちょっとね。女じゃあるまいし。いや、女なんだけど……うっ、ダメだ。サイズが合わん。くっそう。なんでオレの胸、こんなにデカイんだよ。ああもう、やだなあ。だんだん重くなってきたし。
 やば。そろそろ行かないと出社する時間だよ。女の買い物に時間がかかる気持ちがわかってきたなあ。待て。女物のジーンズとシャツも欲しい。急がなきゃ。ああ、忙しい。

 そんなこんなで、オレは大急ぎで下着を買って(セットになったヤツは、もっと大きいデパートで探すことにした)、女物のジーンズで、またまたサイズに悩まされながら、まあ、なんとか一枚買って、シャツもサイズの壁に阻まれて、けっきょくポロシャツになってしまった。イヤになるぜ、この身長。あと十センチ小さくなりたいよ。
 と、大あわてで衣類をそろえたら、デパートの一階の化粧品コーナーに目が留まった。そうだ、化粧だ。どうしよう。困った。ああ、頭が混乱する。
 オレはついに、携帯電話を取りだして、スポーツジムに電話した。
『はい。名波・スポーツクラブでございます』
 事務の玲子さんが出た。
「あ、もしもし、星野ですけど」
『あら、智ちゃん。どうしたの?』
 と、智ちゃん? そりゃ、確かに玲子さんの方がずっと年上だけど、きのうまでは星野くんって呼ばれていたのに。
『どうしたの?』
 オレが、驚いて声を出せないでいると、玲子さんが聞いてきた。
「あ、いや、その……じつは、ちょっと気分が悪いんだ。少し出社が遅れそう」
『えっ、健康優良児の智ちゃんが? 大丈夫?』
「平気平気。たぶん夏バテだよ。二時ぐらいまでには行くから、悪いけど、主任に言っといてくれる?」
『いいわよ。でも、なんかしゃべり方が変ね』
「そ、そう?」
『だって、男みたいよ、そのしゃべり方』
「あ、あははは……」
 オレは冷や汗が流れた。
「きのう見た映画に影響されたかしら」
 女言葉。ぐえっ、気持ち悪い。
『なに見たのよ』
「ヤクザ映画」
『へえ。そんなの好きなんだ。意外ね』
「あははは……たまにはいいかなと思って」
『もしかして、夏バテじゃなくて、ビデオの見過ぎで寝不足なんじゃないの?』
「そ、そうかも。でも主任には内緒ね」
『はいはい。わかったわ。なるべく早く来てね』
「うん。じゃ」
 オレは、電話を切った。
 そっかあ。女言葉じゃないとマズいのか。焦ったぜ。気をつけよう。
 さて。それはそうと化粧品だ。化粧の仕方も教わんなくっちゃ。

 で、一時間後。オレはアパートに戻った。
 いやはや、まいった。けっきょく、衣類に三万円だろ、化粧品に二万五千円も使っちまったよ。再来月のカードの引き落としが怖い。
 なんてことを思いながら、さっそくブラジャーを着けてみた。なんだか、圧迫感を感じたけど、つけないよりずっといい。動きやすいし。ショーツも履く。なんとなく、値段の高い、可愛い方を履いてみた。うん。女の身体には、こっちの方が似合うね。ジーンズは、裾を直す時間がなかったから、折り曲げて履いた。真っ青なブルージーンズ。気持ちいいよね、履き古したジーンズが好きなやつもいるけど、オレは断然、色落ちしてないジーンズが好きだ。ポロシャツも水色にしたんだ。
 鏡を見る。
「うん。似合う」
 オレは、ニッコリ笑ってから、髪をとかした。
 うーん……なんだか、この髪型似合わないなあ。そりゃそうか。床屋だもんな。しょうがない。今日は我慢して、明日美容院に行ってみよう。
 さ、こっからが本番だぜ。
 オレは、買ってきたリップを出して、唇に塗った。肌はね、まだ若いから、なんにもしなくていいみたいだ。店員は、乳液とかなんとか売りつけようとしたけど。いや、買ってきたんだけどさ……ははは。夜寝る前につけるんだって。なんだかなあ、もう。
 それにしても、うまく塗れないな。
 二度失敗して、なんとか完成。うん。いい感じ。なんたって、もとがいいからな。へへへ。今日は鳴沢がジムに来る日だし。ウキウキしてきたぞ。
 さあ、行こう!
 オレは通勤に使っている黒いスポーツバッグを手に取った。
 ダメじゃん! このバッグ、女っぽくない。可愛くない。
 ちっくしょ。今日はしょうがない。我慢しよう。ああ、腕時計も女物じゃないよ。Gショックだから女がしてても変じゃないけど……オレ、自信がなくなってきた。この先、本当に女なんか続けられるのかなあ。金が持たないぜ。
 いや。くじけるな。ぜんぶ鳴沢のためだ。あいつが一緒に歩いても恥ずかしくないような女にならなくちゃ。とびきりいい女になってやる。そうだよ。自信を持て。オレ、美人なんだし。
 ま、とにかくいまは、仕事に行こう。
 オレはアパートを出て電車に乗った。
 おっ、ラッキー。席空いてる。
 オレは電車のベンチシートに腰を下ろした。
 ふう。それにしても暑いよな。今年は空梅雨だったし、猛暑になりそうだ。
 オレは額に浮き出た汗を手で拭った。そのとき、向かい側に座っている若いサラリーマンの視線に気づく。そいつは、オレが目を向けると、さっと横を向いた。
 なんだよ。あ、そうか。オレって美人だから……そのとき。オレは気づいた。完ぺき又を広げて男座りしていたのだ。
 オレはあわてて、膝を閉じた。スカートでなくてよかったァ。そうか。スカートも買わなきゃな。鳴沢に女っぽいとこアピールしなきゃ。それにしても、膝を閉じてるって、けっこう疲れるなあ。
 オレは、電車の地べたに置いたスポーツバッグを膝の上に乗せて、その重みで膝を閉じている足を安定させた。うん。少しは楽だ。
 電車が乗換駅に着いたので、オレは山手線に乗り換えた。こっちは混んでる。まあ、座るのにも気を使うからいいんだけど。
 またまた、オレは男の視線に気づいた。やっぱりサラリーマンなんだけど、今度は中年のオヤジ。脂ぎった顔で、汗をだらだらかいて(汗くさそう!)、腹もお肉がぷっくり出てる。このオヤジがまた、いやらしい目つきで見るんだよ、オレを!
 気持ち悪い……車両移ろうかな。でも混んでるしな。あーあ、イヤだな。こんなオヤジの観賞用に女になったわけじゃない。鳴沢のために女になったんだ。そう。鳴沢にだったら、いくらでも見てもらいたい。なんて、思っても、その中年オヤジ以外にも、オレのことチラチラ見てるヤツがけっこういる。ううう。こいつら、まとめてぶん殴ってやりたい。そんなに見たいかよ、女の身体を。バカじゃねえの。
 そんなこんなで、男どもの視姦に耐えながら、やっとジムのある駅に着いた。





 二時半ごろ、ジムに到着。
 さっき玲子さんと電話で話して、オレが女なのが当たり前の世界なんだとわかっていても、事務所に入るときは緊張した。
 もちろん、女のオレが入っても、だれも驚かなかった。ここでも、驚いたのはオレの方だ。うちのジムは、インストラクターが八人にて、事務員が二人に、アルバイトの子が五人いる。この連中が、同じフロアに机を並べている。さすがに社長と専務は個室。
 とにかく、同じ部屋に十五人いるわけだけど、こんな小さな組織でも、人間関係がけっこう複雑なんだよ。小さい組織だからこそ、複雑なのかも知れないけど。
 で、その人間関係が、オレが女になっただけで(だけって言うのも変だけど)、けっこう変わっていた。
 まず、同じインストラクターの遠山香苗の態度の違いに気づいた。彼女、まあ、そこそこの美人で、いつもオレにモーションかけてきてたんだよ。頼みもしないのに、お茶を淹れてくれたりとか。その彼女が、オレに対して、すごく冷たい。挨拶すらしてくれないんだぜ。きのうまでは、とびきりの笑顔で、オレに挨拶してたくせに。本性を見たって感じだよな。
 つぎに、やはり同じインストラクターの、近藤裕一だ。こいつ、オレより二つ上なんだけど、自分じゃハンサムだと思ってるらしく、オレにすごい対抗意識を燃やしてたんだよ。ハッキリ言って仲が悪かった。それがどうよ。オレが女になったら、まあ、態度の違うこと。オレが気分が悪くて遅刻してきたのを、さも善人ぶって心配なんかしちゃってさ。そのとき、オレの胸をチラチラ見るんだぜ。ぐえっ。気持ち悪いヤツ。男だったときも嫌いだったけど、女になったら、もっと嫌いになった。近藤は、その逆らしいが、だれが話なんかしてやるもんか。
 最後に、小泉久美子。彼女とは同期で入った同い年。入った当時は、わりと仲がよかったんだけど、ここ一年くらい、あまり話をしていない。向こうが避けてるって感じなんだよな。嫌われる理由に心当たりはなんだけどなあ。それがどうよ。オレが席に着いた途端、すごい勢いで話しかけてきて、面食らった。
「なになに、智ちゃん、どうしたのよ。調子悪かったんだって?」
「ああ。大丈夫だよ」
 オレは答えた。
 こいつにも智ちゃんって呼ばれてるよ。変な感じ。
「そう? だったらいいけど、あんまり無理しない方がいいよ」
「ありがと。でもホント大丈夫だから」
 オレは、バッグから生徒さんの管理表が入ったファイルケースを取り出した。
「あれ? 智ちゃんって、そんなバッグだっけ?」
 ギクッ。
「な、なんか変かな?」
「変じゃないけど……うーん。ふだんは赤いバッグを持ってたような……あれ。違うかなあ。どうしてだろう。よく思い出せないや」
 魔法で変わっちゃった世界だからな。あんまり過去には突っ込まれたくない。
「バッグなんて、どうだっていいじゃないか。気にするなよ、そんなこと」
「ど、どうしたの智ちゃん」
 久美子が驚く。
「なんか、しゃべり方が男みたい」
 ギク、ギク。
「あはは……宝塚に入ろうかな。なーんて思ったりして」
 オレは、自分でも不気味だと思いながら、なるべく可愛い声を出してみた。
「あ、それいいねえ!」
 久美子の瞳が輝いた(ような気がした)。
「智ちゃんなら、ぜったい男役似合うよ。王子様の役とか」
「バカ言わないで。ちょっと冗談を言っただけよ」
 相変わらず、女の言葉をしゃべるのは気持ち悪い。でも、王子様なんかだれがなるか。せっかく女になれたのに。そう。オレはお姫様になりたいの。鳴沢が王子様だ。
「え~、似合うのになあ」
「さてと」
 オレは久美子を無視して立ち上がった。
「そろそろ、着替えてこなきゃ」
「あ、あたしも」
 久美子も立ち上がった。
 えっ、こいつと更衣室に入るの? イヤだなあ……
 でも入った。しょうがないだろ。更衣室はここしかないんだから。
 オレは、女子更衣室に入って、ハタと立ちすくんだ。生徒さんと共用の更衣室だから、けっこう広い。ここのどこが、オレのロッカーなんだ? 久美子が一緒だから、うろうろ探し回ったら怪しまれる。
「どしたの?」
 久美子が首を傾げた。
「い、いやなんでもない」
「変な智ちゃん。早く来なよ」
 オレは久美子に言われて、彼女のあとを追った。よかった。オレのロッカーは、彼女の隣だったのだ。
 オレは鍵を出してロッカーを開けた。中身は男性ロッカールームにあったときと変わっていなかった。よかった。空っぽだったら、どうしようかと思ったよ。
 隣の久美子が、いそいそと、ズボンを脱ぎ始めたので、オレもジーンズを脱いで、ジャージに履き替える。
「あれ?」
 まだパンティ姿の久美子が首を傾げた。むむっ。こいつ可愛いショーツだな。どこで買ったんだろう。欲しい……
「智ちゃん、今日はスパッツじゃないの?」
「スパッツ?」
 いや、スパッツがどんなものかぐらい知っている。
「あ、いや、その……」
 オレが口ごもると、久美子が言った。
「いつもスパッツよね? あれ? 違ったかな。なんだろう。変だなあ、記憶が錯乱してる感じ」
「そうそう!」
 オレは、あわてて言った。
「ぜんぶ洗濯しちゃったのよ、スパッツ。あはは。わたしってドジだよね」
 おまけで、ペロッと舌まで出してみた。いかがなものだろうか。少しは女らしく見えるだろうか。
「ぷっ」
 と、久美子が吹き出した。
「智ちゃんって、可愛いとこあるんだね。美人なのに」
「べつに顔は関係ないでしょ」
 オレはそう言いながら、ポロシャツを脱いで、ジムのロゴが印刷されたTシャツに着替えた。
「ちょっと、智ちゃん」
 スパッツを掃き終えた久美子が言った。
「まさか、スポーツブラまでぜんぶ洗濯しちゃったの?」
 あ、そうか。ブラジャーもあるのか……
「う、うん。ホントにドジだよね」
「しょうがないなあ。あたしの貸してあげたいけど、サイズが合わないもんね」
「いいよ、気にしないで。一日ぐらいなんとかなるって」
 くそう。また出費だ。明日買ってこよう。
「でもさあ、智ちゃんぐらい胸が大きいと大変だよね。あのブラって、アメリカからメールオーダーで買ってるんでしょ?」
 しらねーよ、そんなこと! え? メールオーダー? マズイじゃんそれ。
「う、うん。まあね」
「でもいいなあ。あたしも、もうちょっと胸が欲しかったよ」
「重いよ。肩が凝る」
 これは本音。重いんだよマジで。だんだん慣れるのかも知れないけど、きのうまでなかったものだから、マジ重いんだよね。
「言ってみたいよ、そんなセリフ」
 久美子は苦笑いを浮かべた。確かにシャツを脱いだ久美子の胸は、かなり平べったかった。楽でいいと思うけどなあ。
「やだあ。比べないでよ」
 オレの視線に気づいた久美子が、さっと腕で胸を隠す。
「い、いや、ごめん。べつに比べてなんかないよ」
 オレは、あわてて言うと、バッグをロッカーに押し込んで、鍵をかけた。
「じゃ、お先」
「ちょっと、待ってよ~ 冷たいなあ、智ちゃん」
「はいはい」
 オレは仕方なく、更衣室のベンチに腰を下ろした。久美子は、小さいながらも、ちゃんとスポーツブラに着替えていた。いいなあ、小振りな胸で……オレのサイズだとメールオーダーか。まずいなあ。明日も仕事だし。どこかに売ってないかな。インターネットで調べてみようかな。
「あ、そうだ!」
 久美子が思いだしたように言った。
「そういえばさ、青山に新しいスポーツ用品店ができたんだよ、知ってる?」
「知らない」
「そこってさ、かなり輸入物が揃ってるんだって。智ちゃんのサイズもあるかも」
「へえ」
 オレは、がぜん興味を持った。
「そっか。サンキュ。行ってみるよ。場所教えて」
「一緒に行こうよ。明日の午前中」
 え~っ、こいつと? うーん……まあいいか。
「いいよ」
「やった!」
 久美子はニッコリ笑った。
「智ちゃんとデートだ。うれしいなっと」
 こいつ、女子校のノリか? 疲れるよなあ。





 なんだかんだと時間は過ぎて、鳴沢たちのクラスの時間になった。
「どうしたの智ちゃん?」
 席から立たないオレに久美子が言った。
「また調子悪いの?」
「違う」
 オレは意を決して立ち上がった。
「なんでもないよ。じゃ行って来るから」
 トレーニングルームに向かう。
 あああ。ドキドキする。鳴沢、オレを見てどう思うだろう。
 トレーニングルームには、すでに生徒さんが集まって談笑していた。トレーニングルームの廊下側の壁はガラスなのだ。
「こんばんは」
 オレは、ガラスのドアを開けて中に入った。
「こんばんは」
 と、生徒さんたちが挨拶をする。その中にもちろん鳴沢もいた。見ちゃいけないと思っても、どうしても彼のことを、ちらっと見てしまう。べつに、オレに対して、なんにも思ってない様子。少しガッカリ。
「えーと、それではストレッチから始めてください」
 オレは生徒さんたちに言った。このクラスは、みんな一年近く通っている連中ばかりだから、細かい指示を出さなくても、きちんとストレッチをやってくれる。オレはその間に、小脇に抱えたファイルケースから、生徒さんたちの管理表を出して、それぞれのトレーニングメニューを確認した。
 充分ストレッチをやったところで、生徒さんたちに指示を出す。みんな、それぞれのトレーニングマシーンに向かう。鳴沢は腹筋台だ。
 オレはわざと、鳴沢から一番遠い生徒さんからチェック初めて、はやる心を抑えながら、鳴沢の方へ近づいていく。
「な、鳴沢さん」
「はい」
 鳴沢は、腹筋運動をやめて返事をした。
「ええと、そろそろ、負荷を上げたいんですが、きつくないですか?」
「いえ。大丈夫だと思います」
 鳴沢は笑顔で答えた。
 うわあ。
 オレは、思わず鳴沢を見つめてしまった。すてき。首筋に汗が流れてるとこなんか、むちゃくちゃセクシー。ああ、このまま、抱きつきたい!
「星野先生?」
 鳴沢が首を傾げる。
「あ、ご、ごめんなさい。ボッとしちゃって」
 オレはあわてて、鳴沢の管理表に目を落とした。
「大丈夫ですか? ちょっと顔が赤いみたいだけど、まさか風邪?」
「ち、違います。夏バテかな。あはは。インストラクター失格ですね」
「暑いですからねえ。スポーツ選手だって、バテますよ」
「そうですね。ビールでも飲みに行きたいわ」
 すると、鳴沢の隣の生徒さんが言った。
「おっ、いいですね。星野先生、うちのクラスで仕事上がりでしょ? 一杯飲みに行きますか?」
「またお腹にお肉がつきますよ、鈴木さん」
「だから、ここで燃焼させてるんですよ」
 その生徒さんは、がははと笑った。
「そうねえ」
 オレは、鳴沢をチラッと見た。
「何人かいらっしゃるなら、わたしもお付き合いしようかな」
「ぼくはパス」
 と、鳴沢。
「テストの採点があるんですよ」
「あ、そうですか……大変ですね。高校の先生も」
 残念。
「じゃあ、鳴沢さん抜きで、ほかの連中誘っていきましょうか」
 と、生徒さん。
「ごめんなさい。わたしもパスです。鳴沢さんのテストで思い出しました。わたしもみなさんの管理表をまとめなきゃ」
 オレは、笑顔で答えると、鳴沢に向き直った。
「では、負荷を二キロ増やしましょう」
「はい。お願いします」
「辛かったら一キロにしますから言ってくださいね」
 べつに、鳴沢だから優しくしてるわけじゃないぞ。このクラスの生徒さんは、三十代から四十代の人たちで、スポーツ選手になるのが目的じゃない。体力維持と、緩やかな向上が目的なんだ。だから、無理なトレーニングで筋を痛めては元も子もない。とはいえ、同じ負荷でトレーニングを続けても筋力は向上しないから、少しずつ負荷を増やして、体を作っていくんだ。もちろん、トレーニングの進行具合は個人差があるから、そういことを、キッチリ管理するのがオレの仕事。鳴沢は、どちらかというと、筋力が付くのが遅いほうだ。たぶん食事が悪いんだろう。
「鳴沢さん」
 オレは、重りを二キロ増やしながら言った。
「ちゃんと、食事を取っていらっしゃいますか?」
「いや、すいません」
 鳴沢は、恥じるような顔で言った。
「独身ですと、食事のメニューにまで、なかなか気が回らなくて」
「ダメですよ。トレーニングのあとは、多少脂があってもいいですから、ステーキでも食べて、タンパク質を取ってください。でないと筋肉ができません」
「肉って、あまり好きじゃないんですよ」
「魚は?」
「好きですね」
「あら。だったら、お肉よりずっといいです。それに、お豆腐とかお豆の料理もいいですね」
 すっかり、女言葉に慣れてきたぞ。っていうか、鳴沢の前では、自然に出てくる。たぶん、彼には女と思われたいからだろうな。
「だからですよ」
 と、鳴沢は苦笑した。
「そういうのって、どちらかというと、家庭料理じゃないですか。独身だと、なかなか食べられませんね」
「なるほど」
 オレはほほ笑んだ。
 そっか。鳴沢のために料理をつくってあげるのもいいな。オレが料理? 変なの。でもエプロン似合うかも。若奥様って感じで。うわあ、若奥様だって、どうしよう!
 なんて、妄想にふけっていると、何度か腹筋をした鳴沢が言った。
「星野先生。すいません、少し重いかな」
「あ、ごめんなさい」
 オレは妄想から現実に戻った。
「サポートしますから、もう一度やってみてください」
 オレは鳴沢の動きに合わせて背中を押した。Tシャツにしみこんだ鳴沢の汗が、手にべっとりと付く。
「どうですか?」
「そりゃ楽ですよ」
「うん。いまぐらいのサポートで楽と感じるなら、この負荷で大丈夫です。最初は重いと感じるでしょうけど、がんばってください」
「はい」
 鳴沢は、運動を続けた。
 オレは、まだ彼の汗で湿った手をそっと握った。中年オヤジの汗なんか、見るのもイヤなのに、鳴沢のだと逆に気持ちいい。手を洗いたくないって感じだ。なんか変態ぽいかなあ、オレって。

 アパートに帰り着いたのは夜の十時を少し回ったころだった。
「あ~あ」
 オレは、バッグを投げ出すと、キッチンテーブルの椅子にどっと座り込んだ。
「なんだか、疲れただけの一日だったなあ」
 そう。鳴沢とは、あれっきりほとんど会話もしないままお別れ。そりゃ、一日目から期待したって無駄なのはわかってるけどさあ。
 オレは、鳴沢にちゃんと食事を取るように言っておきながら、冷蔵庫からピラフの冷凍食品を出すと、電子レンジに突っ込んだ。考えてみれば、オレも独身男性なんだよな。それなりに食事のメニューには気を使っているつもりだけど、やっぱ、めんどくさくて、簡単なもので済ませてしまうことも多い。こう暑いと、食欲も出ないしさ。
 ピラフが温まったので、皿に移して、ミネラルウォーターをコップに注いだ。
 なんだか、今日は一人の食事が侘びしく感じる。明日、料理の本でも買ってこようかな。鳴沢の好きな魚料理を勉強しなきゃ。
 大して美味しくない冷凍のピラフを半分ほど食べたとき、下腹部に軽い痛みを感じた。鈍痛だ。どこが痛いのかよくわからない、どんよりとした痛み。
「なんだろ」
 オレは眉をひそめながら、トイレに入って、ショーツを降ろした。
 そのとたん。ドキッと心臓が止まりそうになった。
「ち、血だ……」
 な、なんだよ、なんでこんなところに血が。あっ……生理かこれ。
「お赤飯炊かなくちゃ」
 オレは苦笑しながら言った。
 それにしてもまいった。これ、可愛い方のショーツだったのに。グスン。
 いや、泣いてる場合じゃない。
 オレはとりあえず、トイレットペーパーで血を拭く。ギャーッって感じ。女が血に強い理由がわかる。イヤだ。こんなのが毎月来るのかよ。気分は最悪。
 だけど……
 オレ、女になったんだなあ。本物の。鳴沢の子供が産めるんだな。オレと鳴沢の子供かあ。頭がよくって、スポーツも得意な子になるだろうな。
 なんて言ってる場合じゃない! ナプキンだ。ナプキン買ってこなきゃ。オレは、まだ血が止まらないので、トイレットペーパーをショーツに当てて履くと、トイレを出て、財布だけ持って部屋を出た。コンビニがあってよかった。とにかく、夜用のハネつきってヤツを買ってみた。昼用も買った。なにが違うのか、そもそも、どれがいいのか悪いのか、サッパリわかんないけど。





 翌朝。
 気分最悪。お腹痛い~ きのうより血が多い~ このまま死んじゃう~
 と、思いつつも、死ぬわけはなく、買ってきたナプキンをぜんぶバッグに詰め込んで(いくらあっても足らないんじゃないかという不安が……)、久美子との約束に遅れないようにアパートを出た。本当は寝ていたかったんだけど、スポーツ用品店で買い物をしたかったんだ。
「おっはよ!」
 すでにカンカンと太陽が照りつけるなか、待ち合わせの場所で、久美子がいやに元気な声でオレを迎えた。
「ああ、おはよう……」
「なによォ。そのドロンとした顔。美人が台無しよ」
「生理なんだよ。いえ、なのよ」
「あら……きのうから?」
「うん」
「それで調子悪かったのか」
 いや、きのうの夜からなんだけど。まあいっか、説明もめんどくさい。
「でも智ちゃんって、生理ひどかったっけ? そういう話聞いた記憶がないなあ」
「精神力で隠してたのよ。この暑さで、そんな気力もないわ」
「薬飲んだ?」
「飲んでない」
「飲んだ方がいいよ。あんまり、ひどいときは」
「うん。あとで買う」
「平気? どっかで休む?」
「大丈夫。こんなことでくじけてたら、女なんかやってられない」
「ワォ。さすが智ちゃん。勇ましいね」
「ははは……とにかく、買い物を済ませようぜ。じゃなくって、済ませましょうよ」
「暑さで、頭が錯乱してるね」
 久美子がクスクス笑いやがった。
 まあ、確かに錯乱してはいるよな。頭だけじゃなく、身体もさ。

 で、久美子との会話は疲れるが、来てよかったと思った。必要な物がぜんぶ揃ったのだ。オレがあんまり買い込むから、久美子は驚いていたが。
「ねえ智ちゃん。まだ時間あるからお茶してこうよ」
「うん」
 久美子がオレの荷物を半分持ってくれていた。ありがたい。体力と腕力で久美子に負けるとは思わないけど、今日はね、ホントに辛いのよオレ。
 オレたちはお洒落な茶店に入った。大学生ぐらいの男どもの視線を感じるが、まあ、それにもだんだん慣れてきた。
 アイスティーが運ばれてきて、それに口を付けると、久美子が言う。
「少し顔色よくなってきたね」
「うん。だいぶよくなってきた。心配かけてごめんね」
 事実だった。生まれて初めての経験で、身体がビックリしたんだろう。慣れて(?)くると、痛みもそんなにひどくなく、薬を飲まなくてもなんとかなりそうだった。できれば鎮痛剤はあまり飲みたくない。
「よかった」
 と、久美子も自分のアイスティーに口を付ける。
「ねえ、智ちゃん」
「なに?」
「前から聞きたかったんだけど……智ちゃんって彼氏いるの?」
「いないよ」
「うそ。そんな美人なのに?」
「関係ないよ、そんなこと。こっちが好きにならなきゃ意味ないし」
「そうだよねえ」
「久美子こそ、どうなのよ。いるの彼氏?」
「いないよォ。いるわけないじゃん」
「ふうん」
「ふうんって、それだけ?」
「恋愛は人それぞれだからね。べつに詮索するつもりはない」
「智ちゃんって、クールだよね。そういうとこ男っぽいよ」
「そうかもねえ」
 オレは苦笑した。だって男だもん。
「でもさあ、智ちゃん。好きな人とかいるでしょ?」
「いるよ」
「だれだれ?」
「秘密」
「ぶーっ」
 久美子は、頬を膨らませた。
「イジワル。教えてくれてもいいジャン。友達でしょ」
 いつ友達になったんだか……
「そんなイジワル言うなら、あたしも教えてあげない」
「なにを?」
「あたしの好きな人」
 知りたくもねえよ。
「そっか。久美子も好きなヤツいるんだ。じゃ、お互いがんばろう」
「だれだか聞かないの?」
「いま教えないって、自分で言ったジャンか」
「ホントにクールなんだからァ」
「はいはい。しゃべりたいのね。だれよ?」
「秘密」
 久美子はクスッと笑う。
「こいつ……」
 オレは、引きつった笑いを浮かべた。たいがいにせえよ。
「なかなか、いい性格してらっしゃるじゃない、久美子さんったら」
「オホホ。智子さんには負けますわ」
 久美子は、高飛車女のマネをしながら言うと、だれが聞いてるわけでもないのに声を潜めた。
「じゃあさ。ヒントを差し上げます」
「どうぞ」
「わたしの好きな人は、けっこう身近にいる人です」
「ほう。ということは、仕事仲間ですか? まさか、近藤?」
「ブーッ。はずれ。あいつハンサムだけど鼻持ちならないと思わない?」
「思う思う」
 オレは、コクコクとうなずいた。
「で、身近な人のだれなのよ」
「絶対にだれにも言わない?」
「言わないよ」
「約束する?」
「約束します」
「えっとね……じつは、あたしのクラスの藤村さん」
 藤村?
「えーっ!」
 オレは思わず声を上げた。
「ふ、藤村って……オジサンじゃんか」
「オジサンていうな」
 久美子は、ぷっと頬を膨らませた。
「ご、ごめん。でもさ、あの人……五十近かったんじゃない?」
「失礼ね。まだ四十六よ」
「あ、そう……驚いた。久美子ってそういう趣味なんだ」
「そういう趣味ってなによ、そういう趣味って」
「オジン趣味」
「こいつう」
 久美子は、オレのこめかみを、両手のグーでグルグリと押した。
「あ、痛たたた。でもそこ、ツボかも。いいわ。もうちょっと」
「あたしは、マッサージ師か」
 久美子は、苦笑いを浮かべながら手を離した。
「絶対に秘密だよ」
「言うわけないよ、そんなこと」
 オレはそう答えながら、いきなり久美子に親近感を持った。だって、オレとおんなじジャン。鳴沢は三十二歳だから、オレの方がずっと正常だけど。いや、恋愛は人それぞれって自分で言ったんだっけ。べつに久美子が異常ってわけじゃないよな。
 それはそうと、彼女もオレと同じように、自分のクラスの生徒さん(しかも年上)を好きだと知って、オレも無性に自分のことが話したくなってきた。
「あ、あのさあ」
 オレは、だれが聞いているわけでもないのに声を落とした。久美子と一緒のことやってるよ。
「わたし、久美子の気持ちわかるよ」
「でしょう。藤村さんいい男だもん。渋いよねえ。ダンディ」
「ホントにオジン趣味なんだなあ。その気持ちはいまいちわからない」
「いいのよ。藤村さんの魅力は、あたしにだけわかれば。それより、智ちゃんも白状しちゃいなよ。好きな人」
「ではヒントです」
「おお。やっとその気に。はいどうぞ」
「その人はわたしの身近にいます」
「鳴沢さんでしょ」
「え?」
「やっぱりね」
 久美子は勝ち誇ったように言った。
「そーじゃないかと思ったのよ」
「な、なんで知ってるの?」
 オレは、動揺を隠しきれない顔で聞く。
「智ちゃんの鳴沢さんを見る目でわかるって。完ぺき恋をしてる目だね」
「い、いつから気づいてたの?」
「もうだいぶ前。鳴沢さんが入ってきて、ちょっとしてかな。智ちゃんも片思いの時間長いよねえ」
 そうか。それでか。オレはやっと、久美子が、ここ一年近くオレを避けるようになった理由がわかった。ホモだと思われてたわけだ。まあ、そのとおりなんだけど。で、オレが女になって、つまり、肉体的にも精神的にも社会的にも、鳴沢に恋をしても許される状況になったので、久美子はまた、もとのように仲良しに戻ったのだろう。それも今度は女同士だから、オレが男だったころより、ずっと仲良し度が高い感じだ。
「そっかあ。バレてたのかあ」
 オレは、思わず苦笑した。
「さすが久美子。スルドイよね。負けました」
「智ちゃんが鈍感なんだってば」
「言ってくれますね、この子は。どーせわたしは鈍感ですよ。久美子の好きな相手もぜんぜん気づかなかったし」
「あたしは、ほら、隠すのうまいから」
「うわ。やな女だねえ」
「思慮深いと言ってよね」
「どこが」
 オレたちは、笑った。
 それから、ジムに出社するまでの一時間。オレたちは、お互いの恋の相手のことを、あーでもない、こーでもないと語り合った。いやあ、楽しい。ずっと秘密にしてたことを、ぶちまけるって、心地いいものだったんだね。





 ま、そんなこんなで、オレと久美子は、マジですっごい仲良しになってしまった。
 つぎの休みの日には、二人で買い物に出かけた。久美子のよく行くランジェリーショップに連れて行ってもらったんだ。
「これなんかどう?」
 オレは久美子に黒い下着を見せた。
「やだ、智ちゃん。あたしそんなセクシーなの履けないよ。智ちゃんなら似合うかもね」
「そうかなあ」
「うふふ。鳴沢さん、意外と好きかもよ、そういうの」
 なにをしてるのかって? 二人して、勝負下着を選んでいるのだ。うはは。もう頭がおかしくなりそう。っていうか、おかしくなってる。確実に。だから、結果的に正常になってるんだよオレ。だって女だもん。この頃になると、完ぺき女言葉に慣れきって、男っぽい言葉づかいとか、ほとんど使わなくなっていた。
「うーん。でもわたし、水色がいいな」
「智ちゃん、青い色好きだよね」
「久美子はピンクが好きだよね」
「だって可愛いじゃん」
「可愛いのは認めるけど、青い方が奇麗だよ。それに藤村さんだったら、可愛く迫るより、ぜったいセクシーに迫った方がいいって」
「うっ。言われてみれば……」
「でしょ。だから久美子は黒ね」
「ダメだってばあ。それなら、清純な白だよ」
「うーん。鳴沢さんこそ白かなあ」
「あ、それはそうかも。真面目そうだもんね」
「よし。わたしも白にしよう。種類もあるし」
「胸大きいと、こういうとき大変だねえ」
「うん。マジで肩も凝るしさあ。アセモとかできちゃうんだよね」
「アセモ? どこに?」
「オッパイの下に決まってるでしょ。いいわね。胸小さいと、そういう悩みがなくて」
「うわ、嫌み。今日の晩ご飯は智ちゃんのおごりね」
「なんでそうなるのよぅ。今月きびしいんだから、割り勘よ」
「はいはい。金欠はお互い様。あ、そうだ。安くてけっこう美味しいお店見つけたんだ。メキシコ料理なんだけど、行ってみない?」
「うん。行く行く。パエリア食べたぁい」
「そりゃ、スペイン料理だよ、智ちゃん」
「あっ、そっか」
 オレは、ペロッと舌を出した。
「ホント、顔に似合わずお笑い系よね、智ちゃんって」
 久美子は笑った。こんな調子で、買い物なんか、なかなか終わりゃしないんだけど、楽しいんだよねえ、これが。

 と、ほんわかした日々を過ごしているわけには行かないのだ、勝負下着も買ったことだし、いよいよ本格的に、鳴沢のハートをゲットしなければ。

 作戦その一。料理の勉強をする。

 いまどき古風だろ? でも、オレって男だったから、本当に料理が下手なんだ。生まれたときから女だったら、母親の手伝いとかして料理も自然に覚えたりするんだろうけど、オレにはそういう経験はない。さすがにさあ、みそ汁の一つもまともに作れないんじゃマズイでしょ、女として。包丁の持ち方だって知らないし。だからお勉強。受け持ちのクラスを二つ減らしてもらって、空いた時間に料理教室に通ってる。

 作戦その二。鳴沢の家の近くに引っ越す。

 だいたーん、ストーカーっぽい! と、お思いのあなた。それは違います。女になって、三日目には、引っ越しのことをまじめに考えてたんだ。オレの住んでたアパートって、木造の古い建物だったのよ。寝に帰るだけだからと思って、安いとこ探したわけ。いや、さすがに学生が住むような、風呂もないアパートじゃなかったけど。
 でさ、家具とか完ぺき男の物じゃんか。それを買い換えるのとかも面倒だから、いっそ引っ越しちゃえと思ったわけ。そしたらさ、どうせなら鳴沢の家の近くがいいじゃん。街でバッタリ出会うなんてシチュエーション素敵だと思わない? 思うよね。だから、彼の家の近くで探したんだ。さすがに彼の住んでるアパートに空き部屋はなかったけど(そこまで人生うまくいかないって)、三つ隣のアパートに部屋を見つけた。貯金をぜんぶ下ろして、それでも家具とか買い揃えるお金がなかったから、親父に泣きついた。ぜったい、息子にお金なんかくれなかった親父なんだけど(親父の生まれは鹿児島)、一人息子と一人娘じゃ大違いなんだね。引っ越すから、お金貸してって言ったら、開口一番「だったら、帰ってきて一緒に住めばいいじゃないか」だってさ。ビックリだよ。じつは、一瞬帰ってもいいかななんて思ったけど(いま、実家は埼玉なんだ)、やっぱ、帰れないって。
 ま、それはそれとして、二週間後には引っ越しも無事に終わった。家具もけっこう女っぽいのを選んだつもり。

 で、ついに、ついに、このときが来た。
「鳴沢さーん!」
 オレは、トレーニングが終わってジムを出ていこうとする鳴沢を追い掛けた。
「どうしたんですか、星野先生」
「いまお帰りですよね?」
「ええ」
「じゃあ、一緒に帰りましょう」
「は?」
「いえ、わたし、おととい引っ越ししたんですけど、なんと、鳴沢さんと同じ街だったんですよ」
「へえ、そうなんですか。奇遇ですねえ」
「ホントにねえ。わたしも昼間、生徒さんの資料を整理してて気づいたんです。ビックリしました」
 嘘ばっか。狙ってやったのに。
「ははは」
 鳴沢は笑った。
「考えてみれば、このジムに通ってる人たくさんいますからね。そう言うこともあるでしょう」
「そうですね」
 オレたちは、そんな会話をしながらジムを出て駅に向かった。
 夜の九時。さあ、計画通り行くぞ。
「ねえ鳴沢さん。よかったら、食事をしていきませんか?」
「ごめんなさい。今日はジムに行く前に時間があったので食べてきてしまったんです」
 ガーン! い、いきなり計画が頓挫……
「星野さん、どうぞ、ぼくにかまわず、食事なさっていってください」
「いえ、いいんです。鳴沢さんがご一緒だから、どうかなと思っただけで、いつも家で作りますから」
 はうう。残念。グスン。
「大変ですね」
 と鳴沢。
「この時間から作ると、けっこう遅くなるんじゃないですか?」
「ええまあ。でも簡単ですよ。下ごしらえとか、出社する前にやってきますから」
 これホント。お料理学校行ってるのはダテじゃないんだよ。
「へえ。料理お好きなんですか?」
「ええ、好きですね」
 嘘じゃないよ。わりと楽しい。料理って。
「それに、外食だと栄養が偏りますから」
「さすが、インストラクターだ」
「医者の不養生なんて言われたくないですからね」
 オレは、軽く笑った。
「まったくですね」
 鳴沢も笑う。
 いいなあ、いいなあ、こういうの。楽しいなあ、彼との会話。
 駅について、オレは定期で、鳴沢はキップを買って電車に乗った。
 そのあと、電車の中でも雑談して、四十分ほどで、降りる駅に着いてしまった。あと二時間ぐらい乗っていたかったと本気で思っちゃった。
「じゃあ、ぼくは買い物をしていきますんで、ここで」
 鳴沢は、駅の改札を出ると、コンビニのある通りに歩いていった。
「あ……」
 オレも買い物を。と、彼を追い掛けようと思ったけどやめた。なんだか、本当にストーカーになりそうだから。
「ふう」
 オレは、彼の背中を見ながら息をついた。まあいいさ。チャンスはまだある。彼がジムに来るのは週に二回。喫茶店の彼女に告白するまでに、まだ三回会える。
 オレは、そう思って自分のアパートに足を向けた。二、三歩歩く。あ、そうだ。ミネラルウォーターが切れてたんだ。急にそれを思い出して、オレはくるりと向きを変えると、コンビニのある通りに駆けだした。
 いたいた。鳴沢。
 オレは、前を歩く鳴沢に声を掛けようとした。だが、その前に彼は、クイッと曲がって、喫茶店に入ってしまった。
 あ、ここか。問題の喫茶店って。へえ、夜の十一時までやってるんだ。さすが個人営業。
 どうしよう。入ってみようかな。
 迷ったけど、けっきょくやめた。それこそストーカーだよ。
 オレは、とぼとぼとコンビニまで行って、ミネラルウォーターを買うと、また、とぼとぼと来た道を引き返してアパートに戻った。

 翌日。
 オレは、例の喫茶店に行ってみることにした。どんな女か気になってしょうがないんだ。まだ見ぬ、オレのライバル。
 いつもより、気合いを入れて化粧をして出かける。オレ様より美人であるはずがないけど、念には念を入れてだ。負けてたまるかよ。
 九時半に行ったら、いきなり肩すかし。朝の十時が開店時間だったのだ。まあ、住宅街だから、確かに朝早くからモーニングサービスをやるより、夜遅くまでやった方がいいんだろうな。
 オレは、三十分ほど近くのコンビニで時間を潰して(もう自然にファッション雑誌なんか立ち読みしてるオレ)、もう一度チャレンジ。
 今度は開いていた。が、中に入って、また肩すかし。オヤジさんしかいないよォ~
 グスン。
 まあいいや。
「アイスコーヒーをください」
 オレは、カウンタの席に座って注文した。
 娘さんいつ来るのかなあ。十一時過ぎには出ないと、仕事に遅れちゃう。早く来ないかなあ。
 オレは、アイスコーヒーをゆっくり飲みながら、買ってきたファッション雑誌をペラペラめくった。御馴染みさんらしいお客が、何人か入ってくる。カウンタでマスターのオヤジさんと談笑している。その話が自然と耳に入る。それによると、二丁目の角に、来月新しい総菜屋がオープンするらしい。
 十時五十分。
 ああ、もういいや。きっと娘さんは午後から出てくるんだろう。オレはそう思って、席を立った。
 そのとき。
「お父さん、遅くなってごめん」
 と、一人の女性が入ってきた。
 な、な、なにい! この女が鳴沢の意中の人だと!
 オレは最初驚いて、そのあと勝ち誇った気分になった。オレの方が断然美人じゃんか。というか、この人、平均的に言っても、大した顔じゃないよ。すっごく背も低いし、どこにでもいるよ、この程度の女。なんだか、ポワ~ンとした、タレ目だしさ。ははは。恐れるに足りず。
 オレはいい気分で金を払って、相変わらず、うだるような暑さの外に出た。その瞬間。いままでと、まったく逆の感情に襲われた。
 待て。あれが鳴沢の好みってことか? すると……オレの方がダメじゃんか!





 女心と秋の空。男心と秋の空だっけ? どっちでもいいや。どっちも当てはまるから。とにかく、オレの心は、秋の空のようにコロコロ変わりやがる。喜んだり悲しんだり、浮かれたりガッカリしたり。
 ジムの女子更衣室で、自分の顔を鏡に映す。キリッとした目。鼻筋も通ってる。見ようによっては、キツイ顔だよな。少なくともポワ~ンとはしてない。あの女とまるで違う。
 はあ……
 オレは鏡に向かって、大きなタメ息を付いた。
「なに黄昏てんの?」
 久美子が背中から声を掛けた。
「見ればわかるでしょ。落ち込んでんのよ」
「だから、なんでよ? あっ、まさか告白してフラれた?」
「ちがーう!」
 オレは振り返って、思いっきり否定した。
「わっ。ビックリした! な、なによいったい?」
「う、ううう。聞いてよ、久美子~」
 オレは、久美子に泣きついた。
「はいはい。いい子ね。いったいなにがあったの」
 オレは久美子に事情を説明した。
「ふうん……鳴沢さんが、その喫茶店の人が好きだって、よくわかったわね」
「だって、前に聞いたんだもん。彼女、スポーツマンが好きだから、ジムに通うことにしたんだって」
「あ。そうだったんだ。へえ、あの鳴沢さんがねえ。そこまで好きな人なんだ」
「ああ、わたしはもうダメだあ! あとのことはよろしく。お線香上げに来てね」
「こらこら、早まるな智ちゃん。べつに面食いじゃないってだけの話じゃないの。考えてみれば、いいことかもよ」
「なんで?」
「だってさ、智ちゃんぐらい美人だと、男って顔で寄ってきそうじゃない。スタイルもいいしさ。その点、鳴沢さんは、智ちゃんの外見じゃない部分を見てくれるんじゃない?」
「見てくれないよ」
 グスン。
「彼、あの女が好きなんだもん」
「もう~ 智ちゃんらしくないなあ。いつものファイトはどこ行ったのよ」
「そんなこと言ったって……せめて背があと十センチ低かったらなあ」
「智ちゃんでも、そんなふうに思うんだね」
「思うわよ。こんな、うすらデカイ女、だれが好きになるって言うの」
「落ち着きなさいよォ。まだチャンスはあるんだから」
「チャンスって?」
「だって、告白したわけじゃないんでしょ。落ち込むのもいいけど、ちゃんと告白して、ハッキリ振られてからにしないさいよ」
「こ、怖いよ、告白なんて」
「あたしだって、怖いわよ。でも……」
「でもなに?」
「うん。あとで話そうと思ったんだけど、ちょうどいいから話しちゃうね。今日彼のクラスがあるから、トレーニングが終わったら、お酒を飲みに誘おうと思ってるの。そのとき告白するわ」
「マジ? ホントに?」
「うん。あたしこそ、振られたら慰めてよね」
「わ、わかった。あの下着持ってきた?」
「うん。一応ね」
 久美子は、苦笑いを浮かべた。
「ま、どうせ無駄だろうけど、気合いよ、気合い」
「いまのわたしが言うのもなんだけど、がんばってね」
「ありがと。智ちゃんも諦めちゃダメだよ」
「わかった」
 で、久美子は、藤村さんとお酒を飲みに行くところまではうまくこぎ着けた。仕事が終わって、ジムを出ていくときの、久美子の気合いの入った顔というか、緊張してる顔というか、見てるこっちがハラハラしてくる。思わず、ついていってあげようか。なーんて言ってしまいそうだったが、まさかね。そんなわけにはいかない。
「よし。がんばるぞ!」
 久美子は、そう言ってジムを出ていった。
 オレは、マジでがんばれよ久美子と、彼女の背中に声をかけて見送った。
 はあ……それに比べて、こっちは、今日は鳴沢のクラスがないから、彼に会うことさえできず。
 もう帰ろ。
 ところが。神様はオレを見捨てていなかった。駅を降りたら、バッタリ鳴沢に出会ったのだ。どうやら、同じ電車のべつの車両に乗ってたみたい。オレはいつも、前の方の階段に近い車両に乗るんだけど、鳴沢は、後ろの階段に近い車両に乗ってた。まあ、どっちの階段を上っても、改札は一つだから、そこへ出るんだけどね。
「鳴沢さん、いまお帰りですか?」
「やあ、星野さんこそ」
「すいぶん遅くまでお仕事ですね」
「ええ。いろいろ雑用が多くて。星野さんこそ。遅いクラスがあるから大変ですね」
「その代わり、わたしは出社が遅いですから」
 オレたちは自然にコンビニのある通りに向かって歩き始めた。
「星野さんも買い物ですか?」
「ええ。アイスクリームが食べたくって」
 オレは、ペロッと舌を出してみた。鳴沢には美人系よりキュート系で勝負だ。
「太っちゃうかしら」
「ははは。星野さんは運動なさってるから大丈夫でしょう」
「油断できませんよォ。胸がこれ以上大きくなったら困っちゃう」
「はは……スタイルいいですよね、本当に」
「これでも、けっこう悩んでるんです。もっと、可愛く生まれたかったですよ。こんな背の高い女、だれも相手にしてくれなくって」
 どうだ。同情を引く作戦だ!
「星野さんが、そんな悩みを持ってるなんて思いませんでした。だれにでも、悩みはあるもんなんですね」
 そのとき、例の喫茶店の前に到着した。
「あ、ぼくはコーヒーを飲んでから帰りますんで」
「あら。わたしも、ここでアイスを食べていこうかな。コーヒーフロート食べたくなっちゃった。ご一緒してかまいませんか?」
「もちろんです」
 鳴沢は、ドアを開けてくれた。
「ありがとうございます」
 オレは中に入った。
 娘さんが、カウンターの中で、コーヒーを淹れていた。
「いらっしゃいませ」
 と、オレに言ったあと、娘さんは鳴沢を見て、ほほ笑んだ。
「あら、こんばんは、鳴沢くん」
「こんばんは」
 と、鳴沢は、オレには見せたことのない笑顔で答えてカウンタに座った。
 く、くやしい……なんだよいまの顔。
「こちら、星野さん。ぼくの通っているジムのインストラクターの先生なんだ」
「そうなんですか。あら、午前中、いらっしゃいませんでした?」
「ええ」
 オレは、心とは裏腹に笑顔を浮かべる。
「ジムに行く前に、アイスコーヒーを飲みに」
「そうですよね。すごく背の高い素敵な女性だなあって思ったものですから。近くにお住まいなんですか?」
「最近引っ越してこられたんだよ」
 鳴沢が答える。
「本当に奇遇ですよね。驚きました。いまも、偶然駅前でお会いしたんだ」
 うーむ。鳴沢め。オレとは個人的な関係はないって臭わせたいんだな。
「ええ。本当に奇遇でしたね」
 と、オレ。
「でも、いい街ですね。美味しいコーヒーの喫茶店もあるし」
「あら、ありがとうございます」
 娘さんは、ほほ笑みながら答える。
「なにをお出ししましょうか?」
「ぼくは、いつものコーヒーを」
 と鳴沢。
「わたしは、コーヒーフロートをください」
「はい。少々お待ちください」
 娘さんは、コーヒーの準備をしながら言った。
「鳴沢くんが、スポーツジムに通い始めたときは少し驚いたけど、こんな素敵な先生がいらっしゃったからなのね」
「違うよ。星野先生に失礼だよ、そんな不純な動機じゃ」
「あ、ごめんなさい」
「いいんですよ」
 オレは笑顔。なんだよ。鳴沢こそ、彼女に気に入られたくて通い始めたんだろ。どっちが不純だよ。と、思ったが、もちろん顔には出さない。
「わたしを目当てに来てくださるなんて光栄ですね」
「ち、違いますってば」
 鳴沢は苦笑しながら言った。
「本当に、そんな理由からじゃありませんよ。モヤシみたいに、ひょろひょろだったからです」
「ホントにね」
 娘さんはクスクス笑った。
「鳴沢くん、痩せてたものねえ。わりと背があるから、よけい痩せて見えたわ。学生時代から」
「だいぶ、たくましくなられましたね」
 オレはにこやかに言った。
「ジムに来られたころは、たしかにだいぶ痩せてらしたから」
 ふん。オレだって、むかしの鳴沢を知ってるんだぞ。
「星野先生の御指導のおかげですよ」
「そんなことないです。要は本人のやる気ですから。鳴沢さんは、とってもがんばってこられました」
「むかしから真面目だから」
 娘さんはそう言いながら、鳴沢の前にコーヒーを、オレの前にはコーヒーフロートを置いた。
「いただきます」
 オレは、上に乗ったアイスを一口食べる。あら。本当に美味しいや。ちょっとシャクに障るな。
「わあ、美味しい」
 オレは、素直に喜んで見せた。
「幸せ~」
「うふふ。インストラクターの先生も、こういうところは女の子なんですね」
「そうですよォ。でもこの背丈のせいで、なかなか女の子に見てもらえないんです」
「さっきも言ったけど、どんな人にも悩みはあるもんですね」
 と鳴沢。
「ホントにねえ」
 と娘さん。
「わたしと足して二で割ったらちょうどいいかも」
「できたらいいですねえ。あ~あ、わたしと付き合ってくれる男の人がいたら、その人きっと幸せなのになあ。料理だって好きだし、尽くしちゃうんだけどなあ」
「星野さんなら、いい人見つかりますよ」
 鳴沢の野郎。そういうこと言うか。オレは、あんたのために女になったんだぞ。
「どんな男性がお好きなの?」
 娘さんが聞いた。
「まじめな人ですね。あと優しい人。顔とかぜんぜん気にしません」
 はい。オレの隣にいる人です。ズバリ。いや、べつに鳴沢がブ男だって意味じゃないよ。わりとカッコいい。ちょっと大げさに言うと、若いころのアルパチーノに、似てなくもない感じ。
「まあ、鳴沢くんとピッタリじゃない」
 と娘さん。
「鳴沢くん、アタックしてみたら?」
「おいおい」
 鳴沢は苦笑した。
 あらら。もしかして、この娘さん、鳴沢のこと眼中にない?
「あの、あなたはどんな男性が好みなんですか?」
 オレは娘さんに聞いてみた。
「わたしですか? うーん。恥ずかしいんですけど、けっこう筋肉質な人が好きなの。スポーツやってる人。あと、わたし自分のこと棚に上げて、けっこう面食いなんですよ。星野さんと好みが逆だったら、お互い出会いも多かったかもねえ」
「そうですね」
 にゃはは。鳴沢くん。彼女のことは諦めたまえ。オレにしなさいよ。本当に尽くしてあげるから。
 ま、こんな感じで、娘さんが鳴沢に興味を持ってないことがわかって、オレはとっても気分が良くなった。鳴沢は、少し落ち込んでるみたい。うーん。慰めてあげたい。でもまだ早いかなあ。タイミングがよくわかんないよ。

 そんなこんなで、アパートに帰り着いたのは、夜の十一時を十五分ほど過ぎた時間だった。けっきょく閉店まで話し込んじゃった。あの娘さん、わりといい人よ。なんか、本当にオレの心は秋の空だなあ。
 そのとき。携帯電話が鳴った。
 番号を見たら、久美子の携帯だった。
 あらら。当たって砕けちゃったか。
「もしもし?」
『あ、智ちゃん。あたし』
 久美子は、少し声を潜めているようだった。
「どしたの? うまくいかなかった?」
『ブーッ。その逆です。藤村さんも、あたしのこと好きだったのよ。もう、超うれしい。でねでね、いま彼の部屋に来てるの。彼いまどこにいると思う?』
「わ、わかんない」
『シャワーを浴びてます。わたしもさっき、浴びさせてもらったとこ』
「うわォ! やったじゃんか! あの下着着てって大正解だったね!」
『キャーッ! そうなのよう。もうドキドキ。心臓爆発しそう』
「がんばってね。変な言い方だけど、楽しんだ方がいいよ」
『うん。そうする。明日報告するね。じゃ』
 久美子は電話を切った。
 そっか。あっちもうまくいったか。オレもなんか希望がでてきたし、がんばるぞお!





 翌日。久美子から電話が掛かってきたのが朝の九時。十時に渋谷に呼び出された。渋谷って嫌いだ。だって、ナンパされるんだもん。髪の毛を金色に染めた、バカ丸出しの男がオレに群がってくる。うっとうしい。
 ま、それはともかく。久美子とマックに入って、平日半額のチーズバーガーとコーラを飲みながら、おのろけを聞かされること一時間半。そのままジム行ったんだけど、まあ、一日中雲の上にでもいるような顔しちゃってさあ、よくもあんなになっちゃうもんだと呆れたよ。オレも鳴沢とうまくいったら、ああなるのかなあ。なりたいなあ……
 ところが。鳴沢が彼女に告白すると決めた日は、どんどん近づくのに、こっちは進展なし。しかも、あと二回はジムで会えるはずだったのに、仕事が忙しいとか言う理由で休んだんだよ、あいつ。
 キーッ。なにが仕事だ! 会えるのを楽しみに、オレが待ってるのに!
 だからさ。駅で待ってたんだ。毎日。十時から十一時の一時間。偶然って顔して会えばいいかなと思って。オレもけなげだよなあ。でも、それも空振り。
 そんなこんなで、とうとう、鳴沢が、彼女に告白する日が来てしまった。ちょうど日曜日だった。オレ、仕事があったんだけど(基本的に水曜日休みなのよ)、久美子に事情を話して、オレのクラスの面倒を見てもらうことにした。あいつも、もちろん自分のクラスがあるから、すごくしんどい一日になるだろうけど、なにせ、頭がラブラブ状態だから、快く引き受けてくれました。晩飯をおごる約束をさせられたけど。

 と、いうわけでオレも休みを取ったんだけど。ちょっとね、自己嫌悪入ってるのよ、今日は。だって、完ぺきストーカーだもん。朝の八時から、鳴沢のアパートの前で張り込み。鳴沢がでてきたのが九時。しんどかった。暑かった。とにかく、出てきた鳴沢を尾行して、彼女と駅前で合流するのを発見。
 大ショック……
 鳴沢のヤツ、娘さんをデートに誘うの成功してやがったんだ。それでも、二人のあとを尾行。この辺から、すでに自分が相当バカをやってることに嫌悪感を感じ始めていたんだけど、それでも、どうしても二人のことが気になって、尾行を続けてしまった。
 二人は銀座まで出かけていって、少し早めにお昼を食べたあと、映画館に入った。なんと、スピルバーグのA.Iだよ。じつはオレ、久美子と二人で見たんだよね、この映画。ほら、オレら水曜日休みだからさ。映画千円なのよ。女は得だよね。男は第一水曜日だけだろ。女は毎週水曜日、千円で見れるんだぜ。ちょっと女になってよかったなと思う瞬間だよね。でも、すげえつまんない映画で、久美子と二人でお茶しながら文句たらたら。それをまた見るのかオレは? 千八百円出して?
 うーむ。
 でも映画館の外で待ってると見失うし……涙をのんでチケット買ったよ。しかも並んだよ。行列に。もうバカもいいとこ。
 映画を観たあとは、例によってお茶して、そのあとウィンドウショッピングとかして、やっぱり少し早めに、人気のイタリアレストランに入っていった。ここも久美子ときた。美味しかった。とくにね、トマトのサラダがね……
 でも、もういいや。やめた。
 よかったね、鳴沢。やっと恋が実って。長かったね。高校時代憧れてた女の子。それだけでも長い年月なのに、一年もジムに通ったんだもんね。
 そうだよ。これでよかったんだ。鳴沢が幸せになったんだから。
 オレは、レストランに入っていく二人の背中を見送ってから、家路についた。どこかでお酒を浴びるほど飲んでやろうと思ったけど、思っただけで、飲まなかった。そのままアパートに帰った。部屋に入ってクーラーをつけて、ベッドに腰掛けると、どっと疲れが出た。そのままバタンと倒れる。
 うっ……
 ううう。
 涙が……
 なんでだよう。
 鳴沢が幸せになって、よかったと思ったのに……
 オレはタオルケットを引き寄せて、その中に顔を押しつけた。涙が、涙が止まらない。止まらないよう……
 どのくらい時間がたったろう。
 オレは、空腹感を覚えて、ベッドから起きあがった。こんなときにもお腹が空くなんて、人間の身体は正直だ。
 時計を見ると、夜の十時近かった。あのまま寝ちゃってたみたい。
 そのとき。
「やれやれ。ひどい顔だね」
 と、声がした。
 オレはハッとして、声の方を見る。モーナだった。今日もスケスケの衣を羽織っただけの姿で浮かんでいた。
「やあ、モーナ。久しぶり」
 オレは、感情のこもらない声で言った。
「ふうん。その分じゃうまくいかなかったみたいだね」
「うん……しょうがないよ。もう、いいんだ。鳴沢幸せそうだったから」
「その男のために女にまでなったのに、残念だったね」
「ははは。思い出した」
「なにをさ?」
「人魚姫」
「童話の?」
「うん。人魚姫は王子様のために人間になった。でもけっきょく結ばれずに、海に戻って泡になったんだよね。わたしも同じだね」
「それが心配だったのさ。また死のうとするんじゃないかと思ってね」
「優しいんだねモーナ」
「バカ言っちゃいけない。あたしが願いを叶えたヤツが寿命を全うしないで死ぬと、すごく手続きが面倒なんだよ。べつに、あんたの心配をしたわけじゃない」
「ふうん……もういいや、なんでも。なんにもしたくない……」
「勘違いしてもらっちゃ困るけど、あたしは、アフターケアはしないよ。魔法は使わない。いや使えない。規則違反だから。でも、一つだけ教えてあげよう」
「なにを?」
「あんたが、好きで好きでしょうがない男が、いまどこにいるかだよ」
「知りたくないよ! なんで、そんなこと教えようとするのさ!」
「そういいなさんな。駅を出て、商店街の反対側に歩いていくと、小さな公園があるだろ。そこにいるよ、一人で。ブランコに乗ってる」
「え? な、なんで一人なの?」
「知らないよ。行って聞いてみたら?」
 オレは、一瞬、モーナを見つめてから、あわてて立ち上がってアパートを出た。
 走る。
 なんで? なんでいま、鳴沢が一人でいるんだ? 彼女と一緒じゃないのか?
 公園に着いた。オレは汗だくだった。息も上がってる。でも、そんなことぜんぜん気にならなかった。モーナが言ったとおり、鳴沢がブランコに乗っていた。たった一個だけついている街灯で、鳴沢の影が長く伸びていた。
「な、鳴沢さん」
 オレは、はずむ息のまま彼の名を呼んだ。
 鳴沢は、驚いたように顔を上げた。
「星野さん。どうしてここに?」
「あ……その、なんとなく……」
 オレは、彼の隣のブランコに腰を下ろした。
「鳴沢さんこそ、こんなところで、なにをしているんですか?」
「ぼくも、なんとなく」
 そのまま、鳴沢は黙った。
 オレも、自分の息が整うまで黙っていた。
「悲しいことがあったんですか?」
「どうして、そう思います?」
「そういう顔をしているから」
「ははは」
 鳴沢は、乾いた笑いを浮かべた。
「まあ、そうかも知れない。少なくとも、楽しくはないですね」
「よかったら、話してくれません? 少しは気が楽になるかも」
 オレがそう言うと、鳴沢は苦笑を浮かべながら首を振った。
「べつに、大した事じゃないです。よくあることですよ」
「そうは見えないわ」
「いえ、本当にありがちな話なんです。女性に振られたんですよ。あの喫茶店の女性に」
 う、うそ……なんで?
「どうして?」
 オレはそう聞いていた。
「今日、デートに誘ったんです。一週間前に約束しました。彼女も、ぼくとのこと迷っていたらしくて、デートだけはしてみようと思ったらしい。それで、まあ、ごく一般的なデートコースを回って、最後に告白をしました。そこで、答えは、ごめんなさいでしたよ」
 あらら……
 オレは、ポカンと口を開けた。
「ね。よくある話でしょ」
「あ、いえ」
 オレはあわてて口を閉じた。
「ただね」
 と、鳴沢。
「ちょっと片思いの時間が長かったというか、彼女のためにがんばりすぎたというか、まあ、力を入れすぎたんでしょうね。少しショックが大きくて」
「わかります」
 と、オレは答えた。
「鳴沢さん。一月ぐらい前に、お酒を飲みに誘ったことを覚えてますか?」
「一月前?」
 鳴沢は首を傾げた。
「そう言えば、そんなこともあったかなあ……」
 オレが男から女に変わった、まさにその日だから、モーナの魔法で、記憶が曖昧になっているようだった。
「あったんです」
 と、オレは言った。
「そのとき。あなたのことが好きな女性がいるって話をしました」
「うーん……どうもよく思い出せないんですけど。そんな話をしたような気もします。ああ、そうだ。なんで忘れていたんだろう。そのとき、星野さんに、喫茶店の彼女の話もしたんでしたっけね」
「ええ。聞きました。だから、鳴沢さんを好きな女性のことは、聞きたくないっておっしゃいましたよね」
「そうでしたね」
「いまでも、同じ気持ちですか?」
「気持ちは違いますけど、答えは一緒ですよ。こんな気持ちで、その女性に会っても、彼女に失礼でしょ」
「本当に真面目なのね」
 オレは苦笑した。
「そういうところが好きなんですけど」
「え?」
 鳴沢は、驚いたように顔を上げた。
 さあ、言うぞ。言う。チャンスはいましかない。
 オレは、ごくりと唾を飲み込んでから鳴沢を見つめた。
「鳴沢さんは、もうその女性に会ってます。いま目の前にいます」
「ほ、星野さん……まさか、嘘でしょ?」
「本当です。ずっとずっと、あなたのことが好きでした。鳴沢さんが、彼女のために一年間がんばったのと同じくらい、わたしも、いろんな経験をしました。あなたに相応しい人間になるために」
「な、なんのことです?」
「そのくらい好きだったってこと。鳴沢さん。こんなときに言うのは卑怯かも知れないけど……わたしと、付き合ってくれませんか?」
「待って。なんだか、頭が混乱して……こんな気持ちで、あなたとつき合えない」
「じゃあ、待ちます。気持ちの整理がつくまで。何ヶ月でも。ううん、何年だって待ちます。あなたのために、女になったんだもの」
「言ってる意味がよくわからないけど……本気なの?」
「こんなこと、いい加減な気持ちで言いません」
 鳴沢は、しばらくオレの顔を見ながら硬直していたが、ふっと、肩の力が抜けたように笑顔を浮かべた。
「来週、映画でも見に行きますか?」
「はい!」
 オレは、思わず立ち上がった。
「よろこんで!」


 一年後。


 純白のウエディングドレス。
 長いバージンロード。
 清楚な表情の花嫁が父親とともに歩いてきた。
 オレは拍手をした。
 花嫁は久美子だ。花婿は二十四歳も年上の藤村さん。久美子の父親は複雑な顔だ。でも、久美子はものすごく幸せそうだった。
 ちょっと、涙が出ちゃった。
 式が終わって、久美子が投げたブーケ。オレに向かって投げてくれたんだけど(約束してあった)、あいつノーコンだから、ぜんぜんべつの所に飛んでって、なんと親戚のオジサンが拾ってしまった。もう、全員大爆笑。笑ったあとに、そのオジサンがまだ独身だと知らされて、今度は拍手の渦。オジサン、いい相手が見つかるといいね。
 披露宴もつつがなく進んだ。高校時代の友達がスピーチしたあと、仕事場の同僚としてオレがスピーチをした。思いっきり、藤村さんと初デートのときのこと暴露してやった。勝負下着を着ていったところはとくに。なんだか、高砂の席から、久美子の鋭い視線を感じたけど、会場の笑いが取れたからいいや。あとで仕返しされそうだけどさ。はは。
 二次会も終わって、オレはアパートに戻った。
「ただいま~」
 まだ整理してない段ボールが、あっちこっちに散乱してる。
「おかえり」
 博之さんが、キッチンテーブルの上で整理していた段ボールから顔を上げた。
 そう。じつはオレと博之さん……ああ、博之さんって、鳴沢の名前だよ。彼と一緒に暮らすことにしたんだ。少し広めの部屋を借りて、一週間前に引っ越してきたところ。式の一週間前なのに、久美子と藤村さんも手伝いに来てくれたんだよ。悪いことしちゃった。
 で、一週間経ったいまも、また段ボールの整理が終わってない。
「どうだった、久美子さんの式?」
 と、博之さん。
「うん。すっごくよかった。式のとき、ちょっと泣いちゃった」
 オレは、冷蔵庫からアイスティーを取り出しながら言った。
「博之さんも飲む?」
「ああ」
 オレは二つのグラスに氷を入れて、アイスティーを注ぐと、一つを博之さんの前に置いた。
「はい」
「サンキュ」
 博之さんは、アイスティーを受け取りながら言った。
「友だちの式で泣いちゃったら、自分のときは大変だね」
「あはは。そうかも」
 オレは笑った。じつは、二ヶ月後、オレと博之さんも結婚するんだ。まだ籍は入れてないんだけど、結婚式が終わったら、すぐに入れるつもり。
 あ、もちろん式には久美子も呼ぶよ。スピーチを頼んである。はは。いまから怖いね。なにを言われるか。
「ねえ。それより、なに整理してるの?」
 オレは、彼に密着するぐらい近づいて、段ボールの中を覗き込んだ。
「むかし買った本。子供のころのだよ。こんなの残ってたんだなあ」
「ふうん。あ、人魚姫だ」
 オレは、童話の本を拾い上げた。
「もう古いね。これは捨てようか」
 と、彼。
「ダメよ」
 オレは、笑顔を浮かべて言った。
「ねえ、このお話のラストどうなったか知ってる?」
「知ってるよ。王子様に気づいてもらえなくて、泡になっちゃうんだろ?」
「ううん」
 オレは首を振った。
「人魚姫は、王子様に想いが通じて、幸せに暮らすのよ」
「えーっ。違うよ。ぼくが正しい。見せてご覧よ」
「だーめ」
 オレは、人魚姫の本を背中の方へ隠すと、不満そうな顔を浮かべている彼の頬に、チュッと軽くキスをした。
「ほらね。幸せでしょ?」
 彼が首をかしげたので、オレは思わずクスッと笑った。


 終わり。