ぼくの願い 第一夜




「おはよう、奈緒子」
「おはよう、パパ。やだ、また朝まで起きてたの?」
 奈緒子はぼくの顔を見ると呆れたように言った。
「目の下にクマができてるわよ」
「原稿の締め切りが近いんだよ」
「あたし思うんだけどね。夜中に原稿を書いて昼間寝るなら、昼間原稿を書いて夜寝た方が健康にいいと思うんですけど」
「うっ、するどいご指摘ですね、奈緒子さん……」
「奈緒子さんじゃないわよ。パパもいい年なんだから少しは体のこと考えてよね」
「まだ、四十一だぞ」
「もう、四十一よ。りっぱなオジサンよ」
 うむむ。口では娘に勝てない。
「ええと、そろそろ出ないと、学校に遅れるんじゃないかな?」
「遅れませんよ~だ。パパと一緒にしないでよね」
「すいません……」
「ねえ、いまから寝るのはいいけど、お昼にはちゃんと起きてよね。それでお昼ご飯をしっかり食べること。分かった?」
「努力はします」
「ダメよ。ちゃんと約束して」
「はい。お嬢様」
「よろしい。じゃ、あたし学校行くから。いい、約束守るのよ」
「はいはい。いってらっしゃいませ」
 奈緒子は『約束よ』と、念を押しながら、玄関を出ていった。
 やれやれ、奈緒子は、年々死んだ女房に似てくる。顔つきなんかそっくりだ。ぼくが言うのもなんだが、女房は美人だったから、奈緒子も美人だ。いやいや、親バカと言うなかれ。親なんて、みんなそんなものだよ
 ともかく、顔が似てくるのは当たり前と言えば当たり前。でも、几帳面な性格まで似てくるのは不思議だ。だって、女房が死んだのは奈緒子が二歳のときだから、奈緒子には母親の記憶がほとんどないはずなんだよ。それでも性格が似てくるんだから、遺伝子の力はあなどれない。もっとも、しゃべり方は女房の方がずっとおしとやかだった。これはまあ、男親に育てられた宿命かな。
 もちろん、奈緒子はぼくにも似ている。体が丈夫なのだ。奈緒子は子供のころ風疹にかかったぐらいで、いたって健康。これが、親にとって一番うれしいことだね。特に、女房は体が弱かったから、体力がぼくに似たのはラッキーだ。つまり、奈緒子は遺伝の美味しいところだけ受け継いだわけだ。
 いや、待てよ。喜んでもいられないな。だって、性格が女房に似るのは悪くないけど、将来、ぼくみたいなのと結婚するところまで似ちゃったら問題だぜ。自分で言うのもなんだけど、こんな売れない物書きと結婚したら悲惨だよ。まあ、テクニカルライターの仕事も、パソコン雑誌とか増えたおかげで割と忙しい商売ではあるが、ギャラの安さは自慢できる。ん? 日本語が変だな。
 とにかく、奈緒子にはぜひともお金持ちと結婚していただきたい。そうなれば、ぼくの老後も安泰というものだ。夢は左うちわってか。
 などと、バカなことを考えてる場合じゃないな。とっとと寝よう。だいいち、奈緒子は高校生になったばかりなんだ。結婚なんてまだまだ先の話だね。
 ぼくは軽くシャワーを浴びてベットに潜り込んだ。おっと、忘れちゃいけない。ちゃんと目覚ましをセットしておこう。十一時半と。OK。さあ寝よう。

 夢の中で電話の音が聞こえた。やだなァ……原稿の催促かなァ。今日の夕方までにはちゃんと書き上げますよ、編集長殿。だから、夢にまで出てこないで下さいよ。いまからフランス料理のフルコースを食べるとこなんですから。
 電話の音がさらにハッキリと聞こえてきた。あれ? もしかして夢じゃない? ぼくは目を開けた。ウトウトしながら体を起こす。
 げげっ! 三時だ! しまった~ 目覚ましの音が聞こえなかった。ううむ。奈緒子に怒られるぞ。
 と、その前に、電話に出なければ。どうか、編集部からではありませんように。
「はい、桜井です」
「こちら、区立総合病院ですが、桜井奈緒子さんのお宅でしょうか?」
「えっ? あ、はい……」
 病院? ぼくはその言葉にぞっとした。
「失礼ですが、ご家族の方ですか?」
「はい。父親ですが……あの、奈緒子になにか?」
「十五分ほど前、奈緒子さんがうちに運ばれてきました。交通事故です。ただいま緊急手術を行っています」
「なんですって?」
「至急、こちらに来ていただけないでしょうか」
「あの、本当にうちの娘ですか?」
 ぼくは訊いた。体が震えだしている。
「お嬢さんがお持ちの生徒手帳を見てお電話しています」
「む、む、娘の……」
 舌がうまく回らない
「よ、容態は……」
「とにかく、至急おいで下さい。詳しいお話は直接医師としていただきたいのです」
「わ、わかりました」
 ぼくはマンションの部屋を飛び出した。いかん。パジャマのままだ。いったん中に入って、あわてて服を着た。いつもはなんでもないことにえらく時間がかかる気がする。
 くそっ! 冗談じゃないぞ! 奈緒子が事故だって? そんなバカな!
 ぼくはマンションの地下駐車場に降りかけて思いとどまった。この時間なら電車の方が早い。そのまま駅に走ると、電車に飛び乗った。

 病院に着いてから二時間。ぼくのやったことは廊下をうろつくだけだった。手術室の前の廊下を。こんな経験は二度としたくないと思っていたのに……
 ぼくは、良いこと悪いことひっくるめて、病院に思い出が多い。そもそも、女房と初めて出会ったのが病院だったのだ。
 ぼくは高校生のころバイクに乗っていた。校則はいまよりずっと緩やかな時代だったけど、それでも校則違反だった。でも、暴走族とか不良とかではない。オヤジがバイク好きでぼくもその影響を受けたのだ。とはいえ、若い頃は無茶な運転をするもので、ぼくも案の定、事故で足を折った。
 初めての入院。そこで、女房と出会った。今でこそ女房なんて言ってるけど、当時、二人とも高校生だったから、将来ぼくらが結婚するなんてその時は夢にも思わなかった。
 女房は子供の頃から体が弱かった。外で遊んだ記憶がほとんどないとよく言ってたっけ。だから、元気の固まりのようなぼくに興味を持ったのかも知れない。そしてぼくは、読書が趣味の物静かな少女に惹かれたのだ。彼女の透き通るような白い肌は本当に美しかった。
 ぼくらは、文通するようになった。今の子は笑うかも知れないけど、二十五年前はそれほどおかしなことじゃなかった。当時は、ポケベルもPHSもなかったのだ。
 二年も手紙のやり取りをしていると、ぼくらの仲はどんどん親密になっていった。ぼくは彼女のことを真剣に考えるようになっていた。つまり、彼女と結婚したいと思い始めていたのだ。
 だから、ぼくはある決心をした。物書きになろうと思ったのだ。家で仕事ができる職業に就きたかったのだ。そうすれば、体の弱い彼女のそばに、いつもいてあげられる。いや、逆に言えば、漠然と自動車の整備士にでもなるつもりだったぼくに、自分の進むべき道を教えてくれたのが彼女だったのかも知れない。
 もっとも、小説家になろうと思った訳じゃない。ぼくの目指したのは技術系の物書き。いまで言うテクニカルライターってやつだ。機械の説明書とかを書く商売だ。当時はまだ珍しい仕事だったけど、だからこそ、可能性があるとも言えた。
 ぼくは猛勉強して大学に入り、先輩のコネでうまいことテクニカルライターになることができた。もちろん、収入は少なかった。それでも、ぼくは、ぼくの意志で自分の道を切り開いたのだから満足だった。女房も(そのときはまだ結婚していないが)心から喜んでくれた。
 女房と結婚してからのぼくは病院の常連になった。少し無理して買った中古のボロ車に彼女を乗せてよく病院に通ったものだ。途中、よくエンコしたけど、それは、ぼくらにとって楽しい時間でさえあった。いまでも鮮やかに思い出せる。あの夏の日。ぼくがボンネットを開けて故障した車を修理していると、彼女は日傘を差して、ぼくを笑顔で見つめていた。うっすらと汗がにじむ肌は、やっぱり透き通るように白く美しかった。
 結婚して三年目。奈緒子が生まれた。女房にとって出産はとても危険なことだったけど、彼女の強い希望でぼくらは子供を作ったのだ。ぼくは奈緒子が無事生まれたとき、初めて心から神に感謝したことを覚えている。
 奈緒子が二歳になるとき。女房はぼくと結婚してから四度目の入院をした。ぼくは覚悟していた。なぜなら、医者からつぎの入院が最後になるだろうと言われていたからだ。それが現実になったのだ。
 女房も自分の運命を悟っていたと思う。彼女は冗談ぽい口調でぼくに言った。わたしが死んだらできるだけ早く奈緒子に新しい母親を見つけてあげてほしいと。ぼくは、彼女の言葉を笑い飛ばしていた。おまえが死ぬわけないだろと。日に日にやせ細っていく姿を見ながら。
 そして、女房は入院してから二ヶ月後にこの世を去った。
 十四年前の忌まわしい記憶だ。けっきょく、ぼくは再婚せず、奈緒子を一人で育てた。大変なこともあった。奈緒子も子供心に辛かったと思う。でも、ぼくの妻は一人だけだし、奈緒子の母も一人だけなのだ。ぼくは後悔なんかしていない。それに、ぼくの気持ちは奈緒子もよく知っていて、母が欲しいなんて一度も言ったことがなかった。たまに、ぼくが老人になったら、きれいなお婆さんでもナンパしたら? なんて冗談を言うことはあったけれど。
 十四年後の今。奈緒子が生死の間をさまよっている。今までで一番辛い。女房が逝ったときより辛い。
 ぼくは気が狂いそうだった。不安、不安、不安。とにかく不安としか言い様がない。頼むから死なないでくれ。子供が親より早く死ぬなんて、そんなことあってはならない。絶対にあってはならない。
 ぼくが手術室の前をウロウロしだして、四時間後。ついに、手術室の扉が開いた。医者が出てくる。
「せ、先生! む、娘は!」
「お父さんですか?」
「はい」
「手は尽くしました」
「ま、まさか……」
「大変、危険な状態です。外傷はほとんどないのですが、頭を強く打たれています」
「頭……ですか」
「はい。手術でできる限り脳内出血を取り除きましたが……」
「が、なんです? はっきり言って下さい!」
「申し上げにくいことですが……覚悟はしておいて下さい」
 その医者は、ぼくから目をそらした。十四年前の医者と同じように。

 ぼくは変わり果てた奈緒子と対面した。奈緒子はいろいろな機械を体に取り付けられて眠っていた。ぼくはずっと奈緒子のそばにいた。病室は静まり返り、機械の動作する音だけが聞こえる。三十分ごとに看護婦が様子を見に来る以外になにも変化はなかった。奈緒子は眠り続けている。どうしても、十四年前の記憶が蘇ってくる。あの日も夜中だった。こんなふうに病室は静かだった。
 あの日、女房は眠るように逝った。そのとき、ぼくは不思議と冷静だった。辛く悲しかったけど、取り乱したりはしなかった。覚悟ができていたせいだけじゃない。奈緒子がいたからだ。まだ、二歳の女の子。奈緒子の中に女房は生きている気がした。
 でも今は……その奈緒子さえ、ぼくの手の届かないところに行こうとしている。ぼくには耐えられない。奈緒子がいなければ生きている意味がない。ぼくはもう、なにも失いたくない。

「冗談じゃないわよ。せっかく帰ろうと思ってたのにさ」
 声がした。ぼくは顔を上げた。
「なんだい、辛気くさい顔して」
 女だった。薄い布一杯を体にまとい、奈緒子のベットのそばに浮かんでいる。その光景は、ちょっとビーナスの絵を思い起こさせる感じだ。その女の豊満な胸が、ほとんど布から透けて見えている。はっきり言ってヌードに近い。
「幻覚か……」
 ぼくはつぶやいた。
「ついでに、幻聴だろ?」
 女は言った。
 そう、確かに声も聞こえる。というか、頭の中に言葉のイメージが直接流れ込んでくるような感じだ。いよいよ、ぼくの頭もおかしくなったか。
「この子かい?」
 と、女。
「ちょっとやばいね。こう言っちゃなんだけど、諦めた方がいいよ」
「じょ、冗談じゃない!」
 ぼくは幻覚に向かって叫んだ。
「奈緒子は生きている。きっと良くなる!」
「無理だね。こりゃ、もうラミルスの仕事だよ」
「ラミルス?」
「人間の死があいつの仕事さ」
 ぼくは怒りがこみ上げてきた。ぼくの幻覚が娘の死を語っている。つまり、ぼく自身の中に諦めがあることの証明だ。ぼくは、その幻覚を振り払おうと必死に頭を振った。
「なにやってるんだ?」
 と、幻覚の女。
「いっとくけど、あたしは幻覚じゃないよ。ついでにファンタジーでもない。現実さ」
「バカな……」
「信じなくてもいいよ。でも、あたしは現実。こいつに変わりはないよ」
「き、君は、何者だ」
「あたしはアシュレモーナ。まあ、名前みたいなもんさ。モーナでいいよ」
「モーナ……聞いたこともない」
「そうだろうね。じゃあ、あたしも帰りたいんで簡単に説明してあげよう。あたしの仕事は人間の願いを叶えること。一仕事終えて帰ろうと思ったとき、あんたの願いが聞こえてここへ来たってわけ」
「ぼくの願いだって? そうか、ぼくの願いが生み出した幻覚なわけだ」
「まだ言ってるよ、この人は。まあいいや。とにかく、無駄だったね。こりゃ、ちょっとあたしには無理だ。悪く思わないでおくれよ」
「待てよ、そりゃあんまりじゃないか。どうせ出てきたんだ、願いを叶えていけよ。娘が危篤な父は、幻覚にも頼るってやつだな」
「分かってるってば。で、物は相談だけどさ、ほかに願いはないかい? 娘を助ける以外にさ」
「ない」
「短気はいけない。良く考えてごらんよ。一つぐらいあるだろ?」
「ない!」
「困ったねえ。あたしも姿を見られた以上、願いを叶えないと帰れないんだよ。ねえ、あたしを助けると思ってさ、なんでもいいから願いを言っておくれよ」
「娘を助けて欲しい」
「お金持ちになりたいだろ?」
「娘を助けて欲しい」
「絶世の美女を紹介しようか?」
「娘を助けてくれ!」
「あんたも強情だねえ……分かったよ。そのかわりどうなったって知らないよ」
 モーナはなにもない空間から携帯電話を取り出した。ん? 携帯電話?
「そう、携帯電話だよ」
 と、モーナ。
「こりゃ、便利な道具だよねえ」
「はあ……」
 ぼくはタメ息を付いた。やっぱり、モーナはぼくの幻覚だ。そう言えば、先週、携帯電話のレポートを書いたっけ。
「もしもし……」
 モーナは電話をかけた。
「ああ、ラミルスかい。え、寝てた? まあまあ、怒りなさんな、あたしだって早く帰りたいんだよ」
 くそっ! 幻覚がなにを言ってやがる。
「じつは、女の子を一人助けて欲しいんだよ。ええと、名前は桜井奈緒子……ダメ? もう決定した? そう言わないでさ、頼むよ。あんたとあたしの仲じゃないか。うん、そうだよ。叶えないと帰れないんだよ。悪かったね、ドジで。で、どうなんだい、助けてくれるかい? うん。ああ、そういう条件ね。たぶん飲むだろうね。分かったよ、それで手を打とうじゃないか。はいはい、お休み。寝てるとこ悪かったね」
 モーナは電話を切った。携帯電話は同時に消えた。
「助けてくれるってさ」
「え? ホント?」
 うっ、幻覚に答えてしまった。それにしても、なかなか消えない幻覚だ。ぼくはなんだか、モーナが現実のような気がしてきた。
「ああ、でも、一つだけ条件があるよ」
「なんだ?」
「娘の代わりに、あんたの命をもらうってさ」
「ぼくの? それで娘を助けてくれるのか?」
「そうだよ。ラミルスらしいやね。で、どうする? 言っても無駄だろうけど、あたしは止めた方がいいと思うね」
「冗談じゃない。幻覚だか、幻聴だか知らないけど、娘が助かるならなんでもするさ」
「いいかい、これは現実なんだよ。娘が助かればあんたは死ぬ。軽々しく答えちゃダメだよ。さあ、良く考えて。本当にいいのかい?」
「もちろんだ。親なら、誰だってそうするさ」
「最近の親はそうでもないと思うけどね。まあいい、分かった。娘は助かったよ。おめでとう。で、あんたは死ぬ。ご愁傷様」
「こりゃ、どうも……」
「たぶん、一週間ぐらいは時間があるよ。ラミルスが書類を書き変えるのにそのぐらいかかるからね。まあ、残りの時間、人生の整理でもするんだね。じゃあ、あたしは帰るよ」
 モーナは消えた。変な幻覚だった。いや、現実であればどんなにいいことか……
「う、ううん……」
 奈緒子が寝返りをうった。
「奈緒子?」
 ぼくは、ベットのそばに寄った。
「あれ?」
 奈緒子は目を覚ました。
「どこ、ここ?」
「奈緒子!」
 ぼくは叫んだ。奈緒子がキョトンとした顔でぼくを見つめている。
「パパ。あたし、どうしちゃったんだっけ?」
「ああ、奈緒子! 奈緒子……」
 ぼくは不覚にも泣き崩れてしまった。





 奈緒子はいたって健康であった。医者は、意地でも奇跡という言葉を使わなかったが、じっさい、奇跡だった。なにせ、どこを調べても健康なのだ。医学的にあり得ないことである。
 ぼくは、昨夜の出来事が現実であると悟った。モーナは本物だったのだ。ぼくの願いを叶えてくれた。奈緒子を助けてくれたのだ。
 と、言うことは、ぼくは死ぬ。確か、一週間後とモーナは言っていた。ううむ。自ら選んだ道とは言え、一週間は短いな。これは、ぐずぐずしていられない。
 ぼくは、すぐにでも奈緒子と家に帰りたかった。だが、医者がどうしても精密検査したいと言うので、奈緒子を残して一人で家に戻った。まあ、奈緒子の人生は長い。一日や二日病院のベットで寝るのも悪くなかろう。でも、ぼくには時間がないのだ。
 ぼくは、銀行でお金を降ろすと、あわてて家に戻った。まず、真っ先に電話をかける。生命保険会社だ。ぼくは、成人病と癌の保険には入っているが、事故とかで死んだときにお金がもらえる保険には加入していない。一週間後に死ぬ身としては、奈緒子に、この先苦労をかけないだけの資産を残さなくては。
 生命保険の勧誘員に家に来てくれるよう頼むと、ぼくは、書きかけの原稿に取りかかった。こちらも片づけておかないと死ぬに死ねない。ぼくに仕事をくれた人たちに迷惑はかけたくないからね。

 勧誘員が、契約書を持ってわが家に来たのは、なんと電話してから四十分後だった。
「お待たせいたしました」
「いえいえ、早かったですね」
 ぼくは新人らしい若い男に挨拶した。保険業界も不況なのは本当らしい。電話一本ですっ飛んでくるとはねえ。
 それにしても、この勧誘員、初めて契約を取るんではないだろうか? なんだか、目が輝いてる気がする。ハイエナの目だな。ちょっと嫌な気分だ。でも、一週間後に死ぬのが分かっていて契約するんだから、ぼくの方がよっほど嫌なヤツか?
「それで、どういった契約内容がご希望でしょうか?」
 勧誘員が切り出した。
「ええと、事故で死んだときの保険に入りたいんです」
「なるほど。いろいろなプランがございますが、取りあえず、補償金額はいかほどをお考えでしょうか?」
「一億円です」
「い、一億ですか?」
「ええ。おかしいですか?」
「い、いいえ。ただ、それほど高額な保険に加入なさる方は少ないですね。通常、三千万程度が多いようですが……」
「へえ。なんでですか?」
「月々の保険金額がお高くなります。ええと、一億円ですと……」
 勧誘員は電卓を叩いて、ぼくに見せた。
「ざっと、このぐらいになりますが?」
 なるほど高い。普通なら、絶対加入しない金額だ。でもね、今度ばかりは事情が違うのだよ、勧誘員君。すべては、ぼくのいなくなったあとの奈緒子のため。
 ぼくは、一億あれば奈緒子が生活に困ることもないだろうと考えたのだ。大学だって行けるはずだ。すぐに就職できるとも限らないし、そのあと、結婚にかかる費用、まだ見ぬ孫の誕生、家をのローンなどなど。お金のかかることは山ほどある。
 うん。やっぱり、一億円は必要だね。奈緒子のためだ、ここは奮発しようじゃないか。どうせ、保険料の支払いは最初の一回だけだ。それにしても、銀行でお金を降ろしておいて良かったなァ。
「それで、けっこうですよ」
 ぼくは言った。
「本気ですか? あっ、いえ……本当によろしいのでしょうか?」
「ええ。いいですよ」
 勧誘員は、どこか疑わしそうな瞳でぼくを見つめている。
「ええと、医師の診断書が必要になりますが、お持ちですか?」
「三ヶ月前に、おたくで癌保険に入ったんですけど、そのときの診断書があります。それでいいでしょうか?」
「三ヶ月前ですか……ええ、はい。それでけっこうです」
「では、今日、契約できますね」
「はい。契約書にサインいただいて、ご入金を確認した時点で契約は有効になります」
「用意してあります。すぐにお支払いできますよ」
「そ、そうですか……では、ご契約の前に、簡単にご説明させていただきます」
 勧誘員はちらりとぼくを見た。
「まず、この保険は、自殺には適用されません」
 はは~ん。疑ってるな。大丈夫。自殺なんかしないよ。どういう風に死ぬのか分からないけど、少なくとも自殺はない。と、思う。
 まあ、ぼくがすぐ死んでしまったら、勧誘員君の成績に響くとは思うが、別に、彼の給料が減る訳じゃないだろう。とは言え、ぼくは、新人勧誘員の心配そうな顔にちょっと良心が痛んだ。でもね、こちらも、他人の心配をしている暇はないのだよ。
 勧誘員は、自殺うんぬんのあとも、くどくどと説明していたが、ぼくは半分上の空だった。そして、二十分の説明が終わると、勧誘員は最後に言った。
「それで、お受け取り人はどなたでしょうか?」
「娘です。桜井奈緒子」
 ぼくは笑顔で答えた。しまった。もっと、神妙な顔で答えるべきだったかな?

 奈緒子は、翌日退院した。
「なんだか、狐に摘まれたみたい」
 奈緒子は言った。
「治ったんだからいいじゃないか」
「そうだけど、お医者様が変な顔であたしを見るんだもん、イヤになっちゃう。そのうち、学会で発表させてくれって言い出すしさ」
「ハハハ。それだけ奈緒子の体が強靭だったんだよ。すごいねえ」
「パパったら、ひと事みたいに言わないでよ。自分の娘よ。たぶん、パパの遺伝ね」
「ぼくはそんなに強くないぞ、きっと」
「そんなことない。絶対遺伝よ……あーっ、パパ!」
 奈緒子が突然叫んだ。
「な、な、なんだ?」
「また、カップラーメン食べたでしょ!」
 しまった。昨日の晩に食べたカップを捨てるの忘れていた。原稿書きに忙しかったからうっかりしていた。奈緒子、こういうの怒るんだよなァ……
「あたしがいないとすぐこれだ。カップラーメンとかハンバーガーとかそんなのばっかし食べて! ホントにパパってダメね」
「す、すいません……」
「こんなことじゃ、安心して外出もできやしない」
「ごめんなさい……」
 ううむ。これじゃ、どっちが子供か分からんな。と、思いつつ、いつもの日常が戻ってきた実感があるなァ。
「まったくもう!」
 奈緒子はぶつぶつ言いながらキッチンを片づけ始めた。ぼくは、なんだかうれしかった。奈緒子はいつもどおりだ。これが親の幸せってものだよね。
「じゃあ、ぼくは仕事をするから、あとよろしく」
「あーっ、逃げる!」
「ホントに原稿が溜まってるんだよ」
 ぼくはそう言って書斎に逃げ込んだ。とにかく、原稿が溜まってるのは事実。あと六日ですべて書き上げられるとは思えないが、最善は尽くさないとね。
 と、原稿を書き始めてしばらくすると、奈緒子が書斎のドアををノックした。
「どうぞ」
 と、ぼく。
「パパ。部屋を片づけてたら、こんなのがテーブルに乗ってた」
 奈緒子は保険の契約書を持って入ってきた。
 げげっ! 今度こそ、しまった。隠しておくのを忘れた。ぼくの最後の日にさりげなく教えておくつもりだったが……
「契約書の日付が昨日だよ。どういうこと?」
「それは、その……別に深い意味はないよ。単なる保険の契約書さ」
「嘘よ。金額が一億円なんて普通じゃないわ」
 おお、さすが我が娘。するどい。って、感心している場合ではない。
「ううむ。バレてしまってはしかたない。昨日契約したんだよ」
「なんで?」
「いや、奈緒子が事故に遭ったとき思ったんだよ。人間、いつなにが起こるか分からないってね。だから、ぼくに万が一のことがあった場合、奈緒子が困らないようにさ」
「やめてよ、縁起でもない」
 奈緒子は顔をしかめた。
「だいたい、一億円なんて変よ。月々の保険金だってバカにならないわ」
「そのくらいの稼ぎはあるさ」
「でも、掛け捨てじゃない。もったいない」
「へえ、よく見てるねえ」
 ぼくは、マジで感心した。そうか、掛け捨てだったのか。説明をちゃんと聞いていなかったな。まあ、関係ないけど。
「とにかく、こんなの解約してよね」
「うん。そうだねえ」
 奈緒子は契約書をぼくの机に置いた。
「こんなの……」
 と、奈緒子。
「こんなの、パパらしくないよ」
 奈緒子はそう言うと書斎を出ていった。





 時間の経つのは早いものだ。あっと言う間に運命の日が来た。一週間が過ぎたのだ。
 さすがに死ぬのは恐い。でも、後悔はない。奈緒子が生きていてくれることが唯一の望みなのだから。
 いや、一つだけ後悔があるな。やっぱり、仕事が終わらなかったのだ。八割がた終わっているけど、全部は無理だった。まあ、努力はしましたよ、編集長。あとはよろしく。
 ああ、もう一つ後悔があるな。奈緒子とゆっくり話をする暇がなかったのだ。仕事のせいもあるけど、なんか、奈緒子と顔を合わせずらかったから。奈緒子はなにも知らないけど、こっちはもうすぐ死ぬ。不覚にも涙なんか流してしまいそうで、恐かったのだ。
 まあいい。総じて思い残すことなし。いや、じつはもう一つ……
 やめた! 切りがない。だいたい、四十一歳で死ぬなんて、思い残すことがないほうがおかしいのだ。でも、後悔はしていない。断じて。
 ぼくは、書斎で一人、運命の時を待っていた。もうじき夜中だ。
「こんばんは」
 女が現れた。なにもない空間から、ポワンって感じで。その女はモーナじゃなかった。
「こんばんは」
 ぼくは平然と女に答えた。モーナを見ているせいで、この非現実的な登場の仕方を見ても驚きがない。
「あなたがラミルス?」
「ええ、そうです。生きて私に会ったのは、あなたが初めてですよ」
「それは、光栄ですね」
 ラミルスは、モーナと違ってちゃんと服を着ていた。黒いネックのシャツに黒いズボン。ちょっと、SMの女王様っぽいけど、モーナのように布きれ一枚で、目のやり場に困らないのが救いだね。いや、残念かな?
 でもやはり、ラミルスは普通の人間とは違う。異常なほど美人なのだ。いや、変な日本語だな。彫刻のような作られた美人と言うべきか。とにかく、すごく冷たい感じがする。腰まで伸びた長い黒髪が、より冷たさを強調しているようだ。これで大きなマサカリでも持ってたら、まさに死神のイメージ。
「さあ、では仕事を済ませましょうか」
 と、ラミルス。
「あっ、その前に、頼みがあるんだけど」
「言っておきますが、私はモーナとは違うのですよ。願いを叶えるのはモーナの仕事です」
「知ってますよ。別に願い事じゃない」
「では、なんですか?」
「ええと、できればですね、事故かなんかで死にたいなと思うんですよ。自殺っぽいのはすごくマズイんです。そういう注文って受け付けてます?」
「いいえ。注文を聞いたことはありません。なにしろ、生きたまま私に会ったのはあなたが初めてですから」
「なるほど。では、なんにでも、初めてはあるということで、ぜひ、注文を聞いていただきたいな」
「変な人ですね。どうせ死ぬんですから、死に方など、どうでもよいではないですか。事故で死ぬのは痛い思いをするだけですよ」
「わあ、やっぱり痛いんだ。それヤダな」
「では、いまの話はなしですね」
「いや、待って。ううむ……この際、多少痛いのは我慢します。そうだ、事故で即死ってのはダメかな?」
「注文の多い死人ですね」
「おお、なんか哲学的なお言葉。ですが、ぼくも真剣なんですよ。こちらにも都合がありましてねえ」
「モーナも困った人を押しつけてくれたものね」
「いやいや、自分で言うのもなんですが、けっこう物わかりのいい方だと思いますよ。死ぬのを前にして、これだけ冷静なんだからね。自分でも信じられないくらいだ」
「まあ、それは認めましょう。ですが……」
 と、そのとき。書斎をノックする音が聞こえた。
「は、はい」
 ぼくは、思わず返事をしてしまった。
「パパ。なに一人でぶつぶつ言ってるの? 早く寝なきゃ……」
 奈緒子がパジャマ姿でドアを開けた。
「あっ……」
 と、奈緒子。
「あっ……」
 と、ぼく。
 書斎の中で、ぼくと奈緒子とラミルスが鉢合わせした。
「ご、ごめんなさい!」
 奈緒子はあわてて言った。
「人がいるなんて思わなかったから!」
 奈緒子はそう言ってドアを閉めた。
「ま、まいったな……」
 ぼくは頭を掻いた。
「とんだ、アクシデントね」
 ラミルスも肩をすぼめた。
「あの……」
 またドアが開いた。奈緒子だ。
「ねえパパ。よかったらお茶でも入れましょうか?」
 だが、ラミルスがすぐに答えた。
「いいえ、けっこうよ。今日は失礼するわ」
 ラミルスは書斎を出ていった。そして、現れたときのようにポワンと消えたりせず。玄関に向かって歩き出す。ぼくはラミルスの後を追った。見ると、玄関にはいつの間にか見慣れない靴が現れていた。ラミルスはそれを履くと、人間のようにちゃんと玄関から外に出ていった。
 ぼくは、呆然とラミルスを見送った。まさか、帰っちゃうなんて思わなかった。なんだか、拍子抜け。
「パパ! いまの人、誰?」
 奈緒子が興奮気味に言った。
「あ? ああ、ええと、その、編集さんだよ」
「嘘よ! すごい美人じゃない。なになに、外人?」
「知らない」
「ねえ、隠さないでよ。怒ったりしないからさ。ねえ、誰なの?」
「ううむ……なんと説明したものか……」
「恋人でしょ?」
「へ?」
「ひゃーっ、パパもやるじゃない! あたしビックリしちゃった!」
「あ、あの、奈緒子さん? なにか誤解なっさているようですよ」
「恋人じゃないの?」
「違うよ」
「まさか、お金で?」
「違います!」
「じゃあ、誰?」
「ううむ。それは……」
「もう、隠さないでよ。あたしだって子供じゃないわよ。そうか、パパもやっとその気になったのか。十四年間も独身だったんだから、恋人の一人や二人……いえ、一人だけなら認めてあげるわ」
「そりゃ、どうも」
「ほら、やっぱり恋人なんだ!」
「まあ、そう言うことにしておきましょうかね」
「ねえねえ、今度、ちゃんと紹介してよ」
「う、ううん」
 さすがにぼくは唸った。紹介って言われても困る。
「大丈夫。絶対、邪魔なんかしないからさ。ね、いいでしょう?」
「もう、夜中だよ。そろそろ寝ないと」
「紹介するって約束して。そしたら寝るわ」
「分かったよ。紹介します」
「やったあ! ねえ、名前は何て言うの?」
「ラミルス」
「ラミルスさん。ふうん。やっぱり、外人さんね。どこの人?」
「ええと……さ、さあ、もういいだろ。約束したんだからもう寝なさい」
「はいはい。お休みパパ。約束忘れないでね」
 奈緒子はニヤリと笑うと、自分の寝室に戻っていった。
 ううむ。これは、とんでもないことになってしまった……と、ぼくは思った。

 翌日。ぼくはベットの中でぽっくり逝っていることもなく、普通に目が覚めた。
 ふむ。どうやら、奈緒子のおかげで一晩だけ得したようだ。まあ、死ぬのは一秒でも先がよいから奈緒子に感謝だな。
 予想どおり、奈緒子と朝食を取っているとき、ラミルスのことを根ほり葉ほり聞かれた。ぼくは、なんとかごまかして、学校へ行く奈緒子を見送った。
 ぼくは、奈緒子も母親が欲しかったのかな。と、思った。でも、もう遅いのだ。ラミルスはぼくの恋人どころか、ぼくを殺しに来たのだから。
 奈緒子が出かけてすぐに電話が鳴った。
「はい。桜井です」
「おはよう」
 ラミルスだ。
「おはよう、ラミルスさん」
「ずいぶん明るい声ね」
「奈緒子と朝食を食べましたよ。もう二度とないと思っていたから、けっこう幸せな気分だね」
「それはおめでとう。では、いまから表の通りに出てきていただけないかしら。工事中のビルがありますから、その前まで」
「分かりました」
 ぼくは深呼吸した。いよいよだ。そんな予感がする。ぼくは言われた通り、表の通りに出た。工事中のビルの前にラミルスが待っていた。
「私、考えたんですけど」
 と、ラミルス。
「特別に、あなたの注文を受け付けることにします」
「それは、ありがたい。でも、どうして急に?」
「昨日、娘さんに私の姿を見られたからです」
「と言うと?」
「あのままあなたが死ねば、娘さんは私を疑うと思うのです。もちろん、そうなったからと言ってなんの問題もありませんが、私の美意識がそれを拒否するのですよ」
「美意識ですか?」
「ええ。ラミルスともあろう者が、人間に殺人の疑いをかけられるなんて、じつに不名誉なことです。私の存在は謎でなければなりません」
「なるほど。なんとなく、理解できますね。それにしても、また奈緒子のおかげか。今朝から、あの子には感謝しっぱなしだな」
「私はその逆ですよ」
「あの、まさか……奈緒子になにかしやしないでしょうね」
「もちろんです。私は約束は守ります。彼女は八十六歳まで生きるでしょう」
「ホントに?」
「ええ。もともとあなたの寿命ですよ。私が書き変えました」
「ありがとう。感謝の言葉もない」
「それはモーナにどうぞ。もっとも、二度と会うことはないでしょうけど。では、あなたはここに立っていて下さい」
「ここに? 立っているだけ?」
「そうです。すぐに上から鉄筋が落ちてきます。ご安心なさい。痛みは感じませんよ。即死です」
「そ、それは、どうもご親切に。でも、聞きたくなかったな。なんだか、上を見ちゃいそうだ。もしかしたら、避けてしまうかも」
「どうぞご自由に。ですが、避けることはできません。上を見たら恐怖を感じるだけでしょうね」
「か、重ね重ね、ご親切にどうも……」
 と、そのとき。
「パパ!」
 ぼくを呼ぶ声。
 ぼくは振り返った。奈緒子が立っていた。
「奈緒子! おまえ、学校は?」
「アハハ。あたしバカよね。お弁当忘れちゃった」
 奈緒子はペロッと舌を出した。
「へ、へえ……」
 ぼくはひきつりながら言った。
「珍しいな、奈緒子が忘れ物なんて」
「まあ、そんなこともあるわよ」
「お話中申し訳ないけど」
 ラミルスが口を挟んだ。
「あっ、おはようございます、ラミルスさん」
「お、おはよう」
 さすがのラミルスも口元がひきつっていた。
「奈緒子さん。急がないと学校に遅れるのではないですか?」
「そ、そうだよ、奈緒子。早く学校に行きなさい」
「分かってるわ。でも、いまから行っても一時限目には間に合わないのよね。ねえ、それより、みんなでお茶でもしない?」
「は? お茶?」
 と、ぼく。
「そうよ。まさか、昨日の約束を忘れたんじゃないでしょうね、パパ」
「な、奈緒子、そりゃ、話が急すぎるぞ。昨日の今日で……」
「まあ、そう堅いこと言わないでさ、駅前の喫茶店にでも行こうよ」
 と、奈緒子はぼくの手を引っ張った。
「おいおい、奈緒子……」
「さあ、ラミルスさんも行きましょ」
 と、そのとき。ぼくのうしろに大きな音を立てて鉄筋が落ちた。
「な、なによこれ!」
 と、奈緒子。
「危っぶないなあ」
 ぼくはラミルスを見た。ラミルスは渋い顔で鉄筋を見つめていた。

 ぼくはまた生き延びた。いや、生き延びてしまったと言うべきか。
「ラミルスさんって、静かな人ね」
「え? なに?」
「やだ、パパったら、ボーッとしないでよ」
 ぼくは、今度こそ、もう二度とないと思っていた、奈緒子との夕食の時間を過ごしていた。
「ああ、ごめん。ラミルスがなんだって?」
「口数の少ない人だなって言ったのよ」
「うん。そうだね」
「パパって、ああいう人が好みなんだね」
「う、うん」
「ラミルスさんって色が白いよね」
「ああ、外人だからだろ」
「ママも色が白かったんでしょ?」
「うん。とても白かったよ。病弱だったからね」
「パパ、色白な人が好きなんだね」
「そんなことないよ。たまたまさ」
「あたしは色黒だよ。ママに似たかったな」
「ぼくに似たね。健康的でいいよ。それとも、ぼくに似るのはイヤかな?」
「ううん。そうじゃないけど……でも、白い方がいいな。ラミルスさんって、すごくきれいだもん」
「そうかな。でも、性格は暗そうだぜ」
「そうなの?」
「あ、いや、そんな風に見えるってことさ」
「ふうん。でも、パパが好きになるくらいだから、本当は優しい人なんでしょ?」
「奈緒子はどう思う?」
「そんなのわかんないよ。喫茶店でちょっと話しただけだもの。それも、あたしが一方的に話しただけだし」
「奈緒子のママは誰が見ても優しそうだったよ。話なんかしなくてもね。じっさい、とても優しかった」
「へえ。パパはそこに惹かれたの?」
「ああ。奈緒子はママに似たね」
「そう? あたし、優しく見えるかな?」
「見えるよ」
「おだてたって、なんにも出ないよ」
「そりゃ残念」
「もう、パパったら!」
 ぼくは笑った。やれやれ、困ったね。死にたくなくなってきたよ。このままずっと、奈緒子の成長を見守っていきたい。人間とは贅沢な生き物だ。
「ねえ、パパ。変なこと聞いていい?」
「なんだい」
「いまでもママのこと愛してる?」
「なんだよ、急に」
「あっ、ごめんなさい。別に深い意味はないの。えっと、パパ、食べ終わった食器はキッチンに運んでよね」
 奈緒子は立ち上がった。
「奈緒子」
「なに?」
「ぼくはいまでも奈緒子のママを愛しているよ」
「そう……よかった」
 奈緒子は微かにほほえむと、キッチンに歩いていった。

 翌日もぽっくり逝ってることもなく、ぼくは快適に目覚めた。奈緒子が学校に行くのを見送ると、書斎に入って仕事をする。いつもどおりの生活だ。
 ラミルスから電話がかかってきたのは、奈緒子が作ってくれた昼食を電子レンジで暖めて食べ終わった頃だった。
「こんにちは」
 と、ラミルス。
「こんにちは。昨日はどうも」
「思い出したくないですね。それより、いまから車で新宿に来て下さい。大きな本屋がありますから、その前まで」
「紀ノ国屋かな?」
「はい。看板にそう書いてあります」
 ぼくは言われた通り、車で新宿に向かった。道が混んでいて紀ノ国屋の前に着いたのは午後の二時を少し回っていた。
「おまたせ」
「ちょうど良い時間ですよ」
 と、ラミルス。
「今度はなに?」
「あなたの時計は、いま何時ですか?」
 ぼくは腕時計を見た。
「ええと、二時十三分」
「何秒?」
「四十六秒」
「けっこうです。あなたの時計で二時十五分二十秒になったら車を走らせて下さい。駅の方向にね」
「すると、どうなるんですか?」
「つぎの交差点でトラックが横転します。あなたの車はその下敷きになります」
「痛そうだな」
「ええ、少しね。昨日のビルなら即死だったのですけど。まあ、これ以上、贅沢は言っていただきたくありませんね。さあ、あと三十秒です。車に乗って」
 ぼくは一つ深呼吸すると、車のドアを開けた。
 と、そのとき。
「パパ!」
 ぼくは、声の方を振り返った。奈緒子が紀ノ国屋の袋を持って立っていた。
「うわっ! な、奈緒子!」
「なに驚いてるのよパパ。また、会っちゃったね。こんにちは、ラミルスさん」
「こ、こ、こんにちは」
 さすがのラミルスもうろたえながら答えた。
「ねえねえ、ラミルスさん」
 奈緒子は屈託のない笑顔でラミルスに言った。
「なんだか、運命的なものを感じちゃうね。こんなに何度も会うなんて、すごいと思いません?」
「そ、そうね。とても偶然とは思えないわ」
「ホントですね」
 奈緒子はにっこりと応じた。
「ねえ、ラミルスさん。よかったら、今度うちに来て下さい。あたし料理が得意なんです。ラミルスさんにご馳走したいな」
「そうですね」
「ねえ、パパ。いいでしょ?」
「あ、ああ。そうだねえ」
 キーッ、ガシャーン!
 すごい音がした。前の交差点でトラックが横転したのだ。幸い、他の車を巻き込んではいないようだった。
「やだ、恐い……」
 と、奈緒子。
「ええ。まったく、残念だわ」
「えっ、なにが?」
 奈緒子はラミルスに聞いた。
「事故が多くて、残念ね。と、言ったんです」
「ええ、ホントですね。あたしも気を付けなきゃ。パパもね」
「う、うん。おっしゃる通り」
 と、ぼく。
 ラミルスは、ぼくを見てタメ息をついた。



 また生き延びてしまった。ぼくは、さすがにおかしいなと思い始めていた。毎回毎回、奈緒子が登場する。偶然にしては出来すぎのような気がするのだ。ぼくがそう思うのだから、ラミルスも同じように考えているだろう。いや、もしかしたら、その理由をすでに知っているかも知れない。
 翌日、ぼくはラミルスの電話を待っていた。ところが、その日は電話がかかってこず、何事もなく終わった。
 そして、つぎの日もなかなかラミルスの電話はかかってこなかった。もしかして、諦めたのだろうか? ううむ。だとうれしいが、まさか、そんなことはあるまい。
 そのうち、奈緒子が帰ってきた。たぶん、今日も電話はかかってこないだろうな。ラミルスは、奈緒子のいるときはなにもしないようだったからだ。
 と、思ったとたん、電話がかかってきた。編集者かな? ぼくは電話に出ようとした。ところが、奈緒子がぼくより先に電話を取った。
「はい。桜井です。あら、こんばんは。えっ、明日ですか?」
 なんだ、奈緒子に電話だったか。
「いいえ、とんでもない。もう、大歓迎ですよ。六時頃はいかがですか? ええ。それではお待ちしています」
 奈緒子は電話を切った。
「なんだい?」
 と、ぼく。
「明日、誰か来るの?」
「うん。ラミルスさんよ」
「はい?」
「いまの電話、ラミルスさんよ。明日、うちに来たいって。あたしの料理が食べたいんですって」
「ホ、ホントか?」
「うん。パパよかったね。ラミルスさんって、きっといい人だと思うな。パパみたいな子持ちとつき合ってくれるんだもん」
 うっそー、信じらんない! と、女子高生みたいに驚いてしまうぞ、ぼくは……

 翌日。ラミルスは本当にうちにやって来た。そして、本当に奈緒子の作った夕食を一緒に食べた。死神も(と、ぼくが勝手に思っているだけだが)ご飯を食べるんだね。
 ぼくは、緊張していた。まさか、ラミルスの気が変わって、ぼくと娘の両方を一気に殺してしまう気のなったのではいかと疑っていたからだ。でも、ラミルスは、そんな様子も素振りも見せなかった。むしろ、友好的な感じがするぐらいだ。奈緒子とたわいもないおしゃべりさえしている。
「ごちそうさま」
 と、ラミルス。
「とても美味しかったわ」
「ありがとう、ラミルスさん。お茶を入れてきますね」
 奈緒子は、食べ終わった食器を持って立ち上がった。
「私も、手伝うわ」
 ラミルスも席を立った。
 うっそー、信じらんない! ぼくは本当に驚いてしまった。死神がお茶を入れる? どんな味なんだ? 死神が入れたお茶なんか飲んだら、お腹を壊しそうだぞ。いや、そんな冗談はともかく、ラミルスはなにを考えているんだろう?
 ラミルスと奈緒子が紅茶を入れて戻ってきた。ぼくは恐る恐る口を付けた。おお、これは! って、普通のダージリンだ。なんか残念。
「ねえ、奈緒子さん」
 と、ラミルス。
「はい」
「あなた、お父さんのことが好き?」
「ええ、もちろん」
「お父さんには長生きして欲しい?」
「ええ。どうしたんですか? なんでそんなこと聞くの?」
 ぼくは、黙って二人の会話を聞いていた。
「別に、一般的な質問よ」
 と、ラミルス。
「奈緒子さんは、神様とか信じる?」
「えっと、そうですね。少しは信じてるかな」
「どうして?」
「だって、あたしが事故に遭ったとき、かすり傷ぐらいで済んだのは、奇跡だって病院で言われました。お医者様は言わなかったけど、看護婦さんがみんな言ってたんです」
「それで、信じるようになった?」
「そうですね。なんとなくですけど。ラミルスさんは、クリスチャン?」
「いいえ、違うわ。それで、お父さんのことも神様にお願いした?」
「どういう意味ですか?」
 そうか! ぼくはラミルスの考えが分かった。ラミルスはモーナを疑っているのだ。いままでの偶然はモーナの仕業かも知れない!
「つまり……」
 ラミルスは、ちらりとぼくをうかがってから続けた。
「お父さんが、長生きして欲しいとか、元気でいて欲しいとか。そう言うことを、お願いしたことがあるかしら?」
「そうですねえ。そんな、真剣にお願いしたことは別にないと思うけど。パパって、殺しても死にそうにないでしょ?」
「おいおい。そりゃないよ」
 ぼくは、つい口を挟んだ。
 奈緒子は笑った。
「そう」
 ラミルスは真剣な顔だった。
「おかしいわね。そんなはずはないのだけれど……本当にお願いしたことはない?」
「ええ。どうしてですか?」
「いえ、奈緒子さんって、お父さんのことが好きみたいだから、きっとお願いしたと思ったのよ」
「じつは、その」
 奈緒子が声のトーンを落とした。
「ちょっと、お願いしたことはあります」
「あら、いつ?」
「こんなこと言っていいのかな……」
 奈緒子は、ぼくをうかがった。
「いいよ。隠し事なんていらないだろ」
 ぼくは、奈緒子に答えた。じつは、ぼく自身、真相を知りたいのだ。
「じゃあ、言うね。パパが、一億円の生命保険に入ったとき、パパが長生きしてくれますようにって祈ったわ。別に、神様に対してとかじゃなくて、普通に、そう思っただけだけど」
「そう。それで分かったわ」
 と、ラミルス。
「なにがですか?」
「いえ。あなたがお父さんを好きだってことがよ。ごめんなさい、いろいろ聞いてしまって」
「いいえ。とんでもない。あの、あたしも一つ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「ラミルスさんは、パパのこと好き?」
「おいおい、奈緒子」
 ぼくは、あわてて口を挟んだ。
「そんなこと聞くもんじゃないよ」
「いいのよ」
 と、ラミルス。
「そうね。とても、優しい人だと思うわ」
「それだけ?」
 奈緒子はラミルスを見つめた。
「さあ、どうかしら」
 ラミルスは奈緒子にほほえんだ。
「もう、こんな時間だわ。そろそろ失礼します」
「まだ、いいのに」
「ごめんなさい。また機会があったら会いましょう。桜井さん、申し訳ないけど駅まで送っていただけないかしら?」
「あ、うん。いいとも」
 ぼくは立ち上がった。

 ラミルスとぼくは暗くなった外を歩いていた。
「やはり、モーナの仕業ですね」
 ラミルスが切り出す。
「らしいね」
「まったく、とんでもないことですわ。恩をアダで返すとはこのことです」
「そうだね。ラミルスにとっては、そう言うことになるのかな」
「あなたは、助かったとお思いでしょうね」
「まあね。もっとも、モーナとラミルスの力関係が分からないから、ぼくには、本当に助かったのかどうか判断できないよ」
「同等ですよ。力に差なんかありません」
「へえ。そうなんだ」
「つまり、モーナがあなたを守ろうとすれば、私の力と衝突します。いままではあなたを殺すのに、自然の現象を利用しようと思っていましたから、衝突せずに済みましたけどね」
「力と力のぶつかり合い?」
「ええ。本当に衝突したら大変なことになります。地球が消滅するでしょうね」
「そ、そりゃ、すごい」
「そう。だから、モーナは私が諦めると思っているのですよ。計算づくですね。まったく、モーナらしい姑息なやり方です」
「なるほど。なんと答えていいのもやら」
「でも、あなたには死んでもらいますよ。助かったと思ったら大間違いです」
 ふと気づくと、ぼくらは人気のない路地に入っていた。
「モーナ! いるんでしょ、出てきなさい!」
 ラミルスが叫んだ。
「あら、やっぱ、バレた?」
 ポワンと、モーナが現れた。布きれ一枚のセクシーな姿で浮かんでいる。
「当たり前です。どうせ、ずっと監視していたのでしょう」
「やあねえ、監視なんて言葉が悪いよ。あたしは観察してたんだよ。そこんとこ、間違えないで欲しいね」
「同じことです。モーナ、あなたは人の好意をなんだと思っているの。モーナが泣きついてきたから、この男と娘の命を交換してあげたのですよ」
「別に、泣きついちゃいないよ。勘違いしないで欲しいね」
「どちらにしても、モーナは自分のやったことがどれほど重大なことか理解しているはずです」
「どういうことだい?」
「なにをとぼけているのやら。いいですか、モーナは彼が死ぬのを分かっていて、彼の娘の願いを聞いたのです。これは重大な因果律違反ですよ。あなたは厳重に処罰されます」
「ああ、そのことね」
「友人として警告します。ただちに、娘の願いをキャンセルしなさい。そうすれば、報告しないでおいてあげます。たぶん、あなたのことだから、無断で願いを発行したのでしょ?」
「ご忠告ありがと。でも、願いはキャンセルしないよ」
「あなた、処罰されてもいいというの?」
「処罰なんかされないね。だって、あたしは因果律違反なんか犯してないもの」
「なにを今さら。娘の願いを叶えたのは分かっているんです」
「誤解してるよ、ラミルス。あたしの叶えた願いは、娘のじゃないよ」
「なんですって?」
「藤堂永一郎って男の願いさ」
「誰ですって?」
 ラミルスは、ぼくを見た。ぼくだってそんな男は知らない。
「保険の勧誘員さ」
 と、モーナ。
「その男がね、最初に契約したお客が長生きしますようにって、願っていたんだよ。そのお客、よっぽどすぐ死にそうだったんだね」
「それが、ぼくのことかな?」
 ぼくは、自分を指さした。
「そうらしいね。あたしも知らなかったよ。あんただなんてね」
「嘘よ」
 ラミルスが唖然と言った。
「そ、そんな詭弁が通じるとでも思っているの?」
「調べてみればいいさ。ちゃんと受理されてるよ。いいかい、ラミルス。一度受理された願いをキャンセルするのは大変だよ。あんた、自分で処理するかい? 修正申込書を作成して、それが通ったら、オブザーバー会議に出席して修正理由の説明。それが通っても、上級委員会で事情聴取を受けて……」
「分かった、分かった!」
 ラミルスはいらだたしげに言った。
「どうする? 自分でやる?」
「もう、いいわよ。そんなことやっていたら、こっちの仕事が滞るわ」
「ま、そう言うことだね」
「ふん、今回は引き下がるけど、いい気にならないでね。モーナ、いつかあなたも痛い目を見るわよ」
 ラミルスはそう言って消えた。ポワンと。
「おー、こわ。やな女だねえ」
 と、モーナ。
「あの、モーナ。いま言ったことは本当なのかい?」
「そうだよ。あたしは嘘なんかつかないさ」
「じゃあ、ぼくは……」
「死なないよ」
「ホントに?」
「だから、嘘はつかないって言ってるだろ。それどころか、あの勧誘員、あんたに長生きして欲しいって願ったからね。あんた、百歳近くまで生きるよ。よかったね、おめでとう」
「あ、ありがとう……」
「そう。みんな最後はそう言うんだよ。じゃあね。もう二度と会わないよ」
 モーナも消えた。
 ぼくは、ただ唖然となにもない空間を見つめていた。少しずつ、命が助かった喜びがこみ上げてくる。
 あの、勧誘員に感謝しなければ。よし、今度、飯でもおごろう。おっと、その前に、保険の解約が先だな。なにせ、月々の保険料が高すぎる。掛け捨てだし。
 勧誘員君、怒るかなァ? でも、いいだろう。彼は願いが叶ったんだから。そう、契約者第一号は死ななかったんだからね。


 終わり。