撮る男

 彼女に気がついたのは半年ほど前のことだった。最初は、友人たちと行った熱海でのことだ。いつものようにスナップ写真を撮って、いつのもように三十分仕上げの写真屋で現像した。その写真に『彼女』は写っていた。
 一枚目は気づかなかった。ぼくは十枚目あたりから、おやと思い始めた。
 どうもおかしい。
 ぼやけてよくわからないのだけど、どうも青いワンピースを着た女が、写っている気がする。それも、一枚じゃなく、何枚か写っている。それはどれも同じ女に見えた。
 心霊写真?
 とたん。ぼくは薄気味悪くなった。ぼくは、写真を袋にしまうと、その日はなるべく考えないようにした。

 数日後。
 熱海に行った友人たちと会い、そのときの写真を見せあった。当然、話題は青いワンピースを着た女に集中することになった。
 結論は、心霊写真で落ち着いた。もちろん、ぼく自身そう思っていたし、それ以外に考えようもなかった。でも、それが写っているのはぼくのカメラだけであり、友人たちの写した写真には『彼女』の痕跡すらなかった。
 ぼくだけ? そう思うと、いっそう気味が悪かった。

 心霊写真。いままでぼくは、そんなものを写したことはない。ぼくは大学に入ってから写真が趣味になって、ニコンの一眼レフなんかも持っている。別に旅行とかじゃなくても、街の風景なんかをパチパチ気軽に撮るのが楽しいのだ。でも、いままで、心霊写真なんかとは縁がなかった。むしろ、そんなものが存在するわけがないとさえ思っていた。
 ところが。
 あの熱海の写真から、ぼくは心霊写真のエキスパートになってしまった。ぼくの意志なんか関係ない。彼女はいつもぼくの写真に写るのだ。もちろん、全部のコマに写っているわけではないけど、三十六枚撮りのフィルムに、いつも、十枚ほどは写るようになった。
 カメラを換えてもダメだった。使い捨てカメラを使っても彼女は写った。ただ、そのカメラを友人に使わせてみると、ぼくが撮影したのではないコマには、彼女はいなかった。
 ぼくは、写真を撮ることが恐ろしくなってきた。どうも、心霊写真を撮ってしまう体質になったのではなく…… いや、体質って言うのも変だけど。とにかく、彼女はぼくに憑いた霊ではないのかと考えるようになってきた。
 それは、気のせいなんかじゃなく確信になりつつあった。

 そんなある日。
 ぼくは、自分のアパートの部屋を撮影してみることにした。それは、ちょっとした実験だった。彼女がぼくに憑いた霊だとしたら、きっと、この部屋にいると思ったのだ。彼女が『いる』なら、三十六枚撮りのフィルムに、いつもよりずっと多く写るはずだ。それにしても、意識的に心霊写真を撮るなんて、われながら不思議な気分だ。正直に言えば結果を知るのが怖い。でもぼくは、やらずにいられなかった。
 ぼくは、まずキッチンを撮影した。そして、居間のソファーや、ぼくの机。そしてベッドなんかも写した。クローゼットを開けて、その中も写してみた。けっこう、アパートの中だけで三十六枚も撮影するのには骨が折れた。少しずつ角度を変えて、とにかく、一本すべてを撮影した。

 いつものように街の三十分仕上げに出した。一刻も早く見たいような、それでいて見たくないような複雑な気持ちだった。
 ぼくは、仕上がった写真をもって、喫茶店に入った。自分の部屋で、独りで見る気にはなれなかったのだ。
 そして、写真を袋から出してみると……
 思った通りだった。彼女は、ほとんどのコマに写っていた。特に居間のソファーを写した写真には驚いた。彼女は、ちゃんとソファーに座り、あたかもそこに『存在』するようなリアリティがあったのだ。ただ、少しばかり身体が透けて見えるのが、生きた人間でないことを物語っていた。
 とは言え。こんなに鮮明に写った彼女を見たのは初めてだった。彼女自身が、撮られていることを初めて意識しているような気さえした。それまでは、ぼくの周りに漂っていて、偶然写真に残ってしまっただけなのかもしれない。ところが、今こうしてぼくの部屋のソファーに座る彼女は、ちゃんとカメラを見ていて、微かなほほ笑みさえ浮かべていた。
 ぼくは、ほかの写真も子細に観察した。良く見ると、彼女はどの写真でもほほ笑みを浮かべているように思えた。
 不思議なことに、急にぼくの心から恐怖が消えた。いや、忘れたというべきだろう。彼女はどう見ても、普通の女性だし、笑顔はチャーミングでさえあった。百人の人にこの写真を見せて、心霊写真だと思うヤツは一人もいないに違いない。真実を知っているぼくも、彼女が恐ろしい『もの』には、まったく思えなかった。

 ぼくは、フィルムをもう一本買って、アパートに戻った。
「いるのかい?」
 ぼくは、彼女に語りかけるように言った。
 返事はなかった。
「返事をしたかい? ぼくには聞こえないけど」
 やはり返事はなかった。
 ぼくは、買ってきたフィルムをカメラに入れると、カメラを三脚につけて、ソファーが写るように固定した。
「セルフタイマーで撮影するよ」
 ぼくは、見えない彼女に言った。
「ソファーに座るから、きみも一緒に写ろう」
 ぼくは、セルフタイマーを動かしてソファーに座った。そんな写真を何枚か撮った。そしてそのフィルムも、すぐに三十分仕上げに出した。
 彼女はぼくの隣に座っていた。もう心霊写真なんていうぼやけたレベルじゃなかった。完全に普通の写真だ。彼女の身体は透けていなかった。ぼくの目には見えないけど、彼女は確かにそこにいる。そして、ぼくの隣に座る彼女は、とてもうれしそうな、そう。とてもうれしそうな笑顔を浮かべていた。その笑顔は、すごく可愛かった。その笑顔を見た瞬間、ぼくの心から、完全に恐怖が消え去った。
 その夜。
 いつものぼくは、シャワーを浴びるのに、服を脱衣所の外で脱いでいたのだけど、さすがにそれはできなかった。もう気楽な独り暮らしではない。この部屋に彼女がいる。
 ぼくは、そんな煩わしさに戸惑ったけど、イヤではなかった。

 その日の夜遅く。
 ぼくは、ベッドから飛び起きた。いや、別に金縛りにあったわけでも、怖い夢を見たわけでもない。
 突然、あることを思い出したのだ。
 ぼくは寝巻きを着替える間も惜しく、引っ越しの時、押し入れにしまい込んだダンボールを引っ張り出した。なかには古いアルバムなんかが入っている。ぼくは、その中から、高校時代の卒業写真を見つけるのに、少し時間がかかった。もう、八年も前の写真だ。確かあったと思うけど、実家に置きっぱなしだったかもしれない。
 あった。
 それを見つけたとき、ぼくの心臓は鼓動が速くなった。ゆっくり、見落とさないようにそこに写っている同級生の顔を確認していった。
 彼女はいた。後ろから二番目の、右から四番目。彼女に間違いない。ぼくは、高校当時のことを懸命に思い出そうとした。
 そう…… 彼女は物静かな女の子だった。ぼくの記憶が確かなら、二年と三年の時同じクラスだったと思うけど、一度も会話をしたことはなかったと思う。あったとしても、ほんの一言二言だろう。
 名前は…… どうも思い出せない。木村だったか、木下だったか。名字はそのどちらかだと思うけど、ファーストネームはぜんぜん思い出せなかった。たぶん、もともと知らなかったのだろう。
 ぼくは、卒業アルバムを、丹念にめくっていった。一人ずつ、名前と顔写真が載っているページをめくる。
 木下優子。
 彼女に間違いなかった。ぼくの写真に写る木下優子は、高校生じゃなく、大人になっているけど、絶対に間違いなかった。
 つぎに思い浮かんだのは、彼女は今、どうしているのだろうということだった。当然考えられるのは、すでに亡くなっているということだ。そうでなければ、あんな心霊写真に写るわけがないと思った。
 でも、どうしてぼくの写真に?
 ぼくは、どうしてもその理由に思い当たることがなかった。彼女の名前さえ思い出せなかったのだ。当たり前だけど、高校時代付き合っていたわけでもなんでもない。友人とさえ呼べない関係だった。それに、高校を卒業してから会ってさえいない。
「木下さん?」
 ぼくは、見えない彼女に声をかけた。
「どうして君はここにいるんだい?」
 返事はなかった。
「君は死んでるの?」
 もちろん返事はなかった。

 翌日。
 ぼくは、会社を定時に出ると、どこにも寄らず真っすぐアパートに戻った。軽く夕飯をすませてから、意を決して、今朝、アルバムの住所録からメモっておいた電話番号に電話をすることにした。もちろんそれは、木下優子の実家だった。
 電話のコールが三回ほど鳴った後、男の声が聞こえた。
「はい。木下です」
「あっ、もしもし……」
 ぼくは戸惑った。とたん、なにを言っていいのかわからなくなった。
「どちら様ですか?」
 男の声が言う。
「ええと…… ぼくは市川啓一郎というものです。その、優子さんと高校時代の同級生でして」
「優子と?」
「はい。あの突然の電話で恐縮なんですが、優子さんはいらっしゃいますか?」
「優子にどのようなご用件でしょうか?」
「大したことではないんです。ただ、高校時代のことで、お聞きしたいことがあったものですから」
「そうですか……」
 男の声が暗く沈んだ。つぎの言葉が容易に想像できるようだった。
「申し訳ありませんが、優子は半年前から入院しています」
「入院ですって!」
 ぼくは驚いた。死んでいるわけじゃないのか!
「ええ。交通事故です」
「そうですか。それは知りませんでした」
 ぼくは、答えながら急に心が軽くなるのを感じていた。
 そうか。亡くなったんじゃないんだ。生きてるんだ。彼女は生きている!
 ぼくは言った。
「あの、差し支えなければ病院を教えていただけないでしょうか。お見舞いに伺いたいんですけど」
「ありがとう」
 男は答えた。
「ですが、見舞ってもらってもあまり意味はないでしょう」
「えっ?」
「優子は意識不明なんです。半年前からずっと……」
 ぼくは絶句した。
 意識不明? 半年間も意識不明なんて、それは植物人間ということなんだろうか?
「そうでしたか」
 ぼくは、ぼう然となりながらも答えていた。
「なにも知らずに、こんな失礼な電話をして申し訳ありませんでした」
「いえ。こちらこそ失礼なことを聞くようですが、市川さんは、高校時代、娘と親しかったのですか?」
 その言葉で、男が木下優子の父親だとわかった。
「そういうわけではないんです。ただ、久しぶりに卒業アルバムを見ていたら急に懐かしくなって。ぼく、東京に出てきてからクラス会にも出席してないし、ホント懐かしくなって電話をしてしまったんです」
「そうですか」
 父親は答えながら思案しているふうだった。
「あの…… 本当にすいませんでした。どうか、お力を落とされないように」
 ぼくはそう言って電話を切ろうと思った。だが、木下優子の父親が言った。
「市川さん。もし、こちらに帰ってくる機会があったら、娘を見舞ってやってください。浜松の大学病院に入院しています」
「ええ。伺います」
「ありがとう。家内にも話しておきます。昼間は、家内が娘のそばにずっとついてるんですよ。なにせ、一人娘なもので……」
 父親の声は、疲労と悲しみの混ざった声だった。
「お気持ちはわかります」
 ぼくは、もう一度、力を落とさないようにと言って電話を切った。
 ぼくは、電話を切ってから、すぐにカメラをとりだして、ソファーを撮影した。何枚も同じところを撮った。そして、翌日の朝、会社の近くで現像に出し、お昼休みにその写真を見てみると、ソファーに座った木下優子は、悲しそうな顔をしていた。

 つぎの土曜日。
 ぼくは、八時の新幹線に乗って浜松に向かった。バッグにカメラを入れていたのは言うまでもない。
 実際、ぼくはアパートを出たときから、東京駅のホームや、新幹線の誰も座っていないぼくの隣の席なんかを撮影した。彼女が生身の人間だったら、いかにも『そこ』にいそうな場所ばかりを狙って撮影した。
 十時過ぎに浜松に着くと、駅ビルの花屋で五千円分ぐらいの切り花を買った。彼女のイメージに合わせて、あまり派手じゃない花を選んだ。駅の人目につかない場所で、その花を彼女に渡すような仕草をしながら、片手にカメラを持って撮影した。
 そしてぼくは、タクシーに乗って浜松医大に向かった。
 病院の受け付けで彼女の名前を告げると、A棟の三〇一号室と告げられた。ぼくは、エレベーターに乗って、彼女のいる病室に向かった。その途中、彼女の母親になんと挨拶するべきか悩んだ。でもまあ、友人として見舞いに来たのだから、なにか言い訳めいたことを言う必要もないだろうと思って、特に考えもないまま、病室に向かった。
 三〇一号室のドアをノックした。
「はい」
 母親らしい声が答えたので、ぼくはドアを開けた。
「失礼します」
 ぼくが病室に入ると、木下優子の手を握って座っていた女性が立ち上がった。見た目からして母親であるのは間違いなかった。
 そして、ベッドには木下優子が安らかな顔で眠っていた。特に大げさな機械を身体に付けているということはなかった。ごく普通に眠っているだけのようにしか見えなかった。
「市川さんですか?」
 母親が聞いた。
「そうです」
 ぼくはうなづくと、持ってきた花を母親に渡した。
「あら奇麗。ありがとうございます」
「いいえ」
 ぼくは首を振った。
「どうぞ、お座りください」
 母親は、自分が座っていた椅子をぼくに勧めた。
「いえ。すぐおいとましますから」
「お急ぎですか?」
「そう言うわけではないですけど」
「でしたら、お茶をお持ちしますわ。お花も花瓶に飾ってきますね」
「どうぞ、お構いなく」
「よろしければ、お話をお聞きしたいんです」
 母親はそう言って、病室を出ていった。
 それでぼくは、木下優子をゆっくりと見ることができた。
 彼女は、ぼくの写真に写る大人になった木下優子だった。美人だと思った。ぼくの撮る木下優子は笑顔がチャーミングで、こうして眠っている木下優子も優しげに見えた。
 ぼくは椅子に座った。
「ここまで来たよ」
 ぼくは彼女に言った。
 反応はなかった。それでもぼくは続けた。
「いろいろ考えたんだ。本も読んだ。君はいわゆる幽体離脱みたいな状態なんだね?」
 そう聞いたところで答えが得られるわけではなかった。
「思うんだけど…… 君の幽体がこの身体に戻れば、目が覚めるんじゃないかな? そうすれば、こんな病院のベッドで眠っている必要もないだろ?」
 沈黙だけが、ぼくに返ってきた答えだった。
 ぼくは、カメラをとりだして、眠っている木下優子を撮影しようかと思った。でもなんとなくためらわれて、それはやめておいた。
 ぼくは、ただ黙って、眠っている木下優子を見つめ続けた。
 十分ぐらい経ったろうか? 花瓶を持った母親が帰ってきた。
「お待たせしました」
 母親は、花瓶を窓の近くに置くと、眠っている娘に語りかけた。
「ほら優子。とっても奇麗でしょ? 市川さんが持ってきてくださったのよ」
 母親は、手にぶら下げたビニール袋からコーヒーの缶を取り出した。
「ごめんなさいね。病院じゃ、こんなものしかなくて」
「いえ、とんでもないです」
 ぼくは、缶コーヒーを受け取りながら首を振った。
「わたし……」
 母親が言った。
「主人から市川さんの名前を聞いて、ふと思い出したことがあるんですよ」
「なんでしょうか?」
 ぼくは、母親の話に興味を持った。
「市川さんって、サッカー部に入ってらしたんじゃありません?」
「ええそうです」
 ぼくはうなづいた。
「やっぱりそうね」
 母親は満足そうにうなづいた。
「あの、それがなにか?」
「いえね。娘が高校三年生の時、バレンタインデーに一所懸命、チョコレートを作っていたんですよ。それでわたし、誰に渡すのって聞いたら、この子、サッカー部の男の子って答えたんです」
 あっ!
 ぼくは突然思い出した。そうだ。確かに高校三年のバレンタインデーの日。ぼくの下駄箱にチョコレートが入っていた。名前は書いていなかった。いったい誰がと思ったけど、けっきょくわからなかった。そして、ぼくらはすぐに卒業してしまったのだ。
「そうだったんですか……」
「優子は渡さなかったのですか?」
 母親が怪訝な顔で聞いた。
「いえ。下駄箱に入っていたんです。名前は書いてありませんでした」
「まあ、この子ったら……」
 母親は、娘の顔を見ながらタメ息をついた。
 でもぼくは、なぜ彼女がぼくの前に現れるようになったのか、その理由がわかったような気がした。
 あのとき。彼女が勇気を出してぼくに告白していてくれたらどうなっていただろう?
 ぼくがそう考えたとき、母親が言った。
「市川さんは、東京に行ったんですよね」
「えっ? ええ、そうです。東京の大学に入って、就職も東京です」
「そうですか。きっと、自分が市川さんに付いていけないと思って、告白しなかったのね」
「付いていけない?」
「ええ。この子はうちの一人娘で、ゆくゆくは婿をとって家を継がせるんだなんて主人が口癖のように言ってましたから」
 母親の声が少し震えた。
「こんなことになるなら、もっと自由にさせてあげるんだった」
「オバさん、あの……」
 ぼくは口ごもった。
「優子さんはきっと良くなりますよ。気を落とさないでください」
「ええ…… ありがとうございます」
 母親は少しだけほほ笑んだ。だが、すぐに悲しそうな顔になって言った。
「お医者様の話では、この子が目を覚ます可能性はほとんどないそうです。むしろ、こうして生きている方が不思議なのだそうです」
 ぼくは言葉に詰まった。なにを言っていいのか皆目見当もつかなかった。

 ぼくが病院を出たのは午後の二時過ぎだった。あのあと、木下優子の母親に高校時代の様子を聞かれたのにはまいった。実際ぼくは、彼女のことを、なにも知らないと言っていいのだ。適当に話をでっち上げたりして、なんとか切り抜けたけど、うまく言ったかどうかは自信がない。ただ、母親はそれなりに喜んでいたようで、ぼくが病室を出るときに言った言葉が印象的だった。
「あの子のお友達で、お見舞いに来てくださったのは市川さんが初めてなんですよ」
 母親はそう言った。
 彼女は引っ込み思案で、そもそも友達と呼べるようなクラスメートがいなかったのではないかと思った。
 美人なのにもったいないな。世の男どもはなにをしていたんだ。そう思ったところで、ぼくは苦笑いした。ぼく自身が、彼女の良さに気がつかなかったのだから。
 それからぼくは、東京に戻る道すがら、来たときと同じように写真を撮った。

 翌日の日曜日。
 撮影した写真を見ていて思った。彼女はぼくに寄り添うように写っていた。まるで恋人だ。浜松の駅で花を渡したところなんか、マジで可愛い笑顔だった。でも、病院を出たところでは、彼女の顔は暗く沈んでいた。東京に戻ってくるにつれて、彼女の顔に笑顔が戻っていったけど、それはどこか寂しげだった。
 行くべきではなかったかな? そんなことをぼくは思ったけど、でも、病院に行って母親と話をしたからこそ、彼女の気持ちがわかったのだ。それは、あまりにも遅かったけど、でも、知らないよりずっとよかった。そして、木下優子との不思議な生活をずっと続けてもいいとさえ思い始めていた。
 ぼくは、昼ご飯を食べてから、公園に行った。そこで写真を撮った。たくさん撮った。彼女がいるはずの空間にレンズを向けて、夢中になってシャッターを押した。彼女は日差しの中で、本当の恋人のように写っていた。

 ある日。ぼくは、画期的な方法を思いついた。その日ぼくは、旅行会社からパンフレットをいっぱいもらってきて、テーブルの上に広げた。
「優子」
 ぼくは言った。すでにぼくは彼女を優子と呼んでいた。
「どこに行きたいか、パンフレットを指さしてくれないか?」
 そして、ぼくはテーブルの上のパンフレットを広角レンズで撮影した。すぐ現像に出しに行くと、優子は金沢のパンフレットを指さしていた。
 ぼくは飛び上がって喜んだ。彼女にぼくの言葉が伝わっているのがわかったからだ。
 つぎの土曜日。ぼくが金沢に出かけたのは言うまでもない。それからというもの、この方法で、ぼくたちは旅行を楽しんだ。セルフタイマーでぼく自身を撮影すると、必ずぼくの隣に彼女が写っていた。そっと寄り添っていたり、はにかみながらぼくの腕を掴む仕草をしていたりと、彼女も旅行を楽しんでいるようだった。
 それに……
 女性は見られることで美しくなるって言うけど、それは本当かもしれない。優子は、ぼくの『被写体』になってから、どんどん奇麗になっていく気がした。いや、気のせいなんかじゃない。その証拠に、最初、青いワンピース姿ばかりだったのに、最近の彼女は、毎日違う服を着ていた。たまにデパートのショーウィンドウなんかで「この服は優子に似合いそうだね」と見えない彼女に言うと、つぎの日に撮影した彼女はその服を着ていた。

 一月もすると、ぼくはフィルムを現像する手間がいやで、デジタルカメラとパソコンを買った。薄給のぼくにはちょっとした出費だったけど、これは大正解だった。デジカメなら手軽に撮影できるし、フィルム代もかからないので結果的に安上がりだ。パソコンも難しいと思って嫌厭してたけど、二、三日で使えるようになった。デジカメで撮った彼女を、その場ですぐにモニターに映すのは、新鮮な喜びだ。
 でも、なんだか、彼女の方は少し気恥ずかしそうだった。その場ですぐ見られることに慣れていないせいかもしれなかった。そこがまた可愛いと思ったりするぼくは、意地悪だろうか?
 そう言えば、デジカメを買ってから一つ発見した。どういうわけか、ビデオカメラに彼女は写らないのだ。動画だと全然ダメ。理屈がまったくわからないけど、とにかくビデオには写らない。デジカメでも、シャッターを押して、『写真』として記録されて初めて彼女の姿が見えるのだ。
 すごい発見だ。心霊写真学会なんていうのがあったら、ぼくは博士号をもらえるんじゃなかろうか? そう言いながら、デジカメで彼女を撮ると、優子はお腹を抱えて笑っていた。ジョークの反応がすぐにわかるのは、素晴らしい。

 でも。そんな楽しい日々は長く続かなかった。
 三ヶ月も経ったころだろうか。優子の母親から電話が掛かってきた。なにか変化があったら知らせてくれと頼んでおいたのだ。
「市川さん……」
「どうしました?」
 ぼくは不安な気持ちで聞いた。
「優子が危篤状態になりました」
「えっ!」
「とても危険な状態だそうです」
 母親の声は消え入りそうだった。
「あ、あの……」
 ぼくは言葉に詰まった。
「よろしければ、最後に一目あの子を見てあげてください」
「え、ええ、もちろんです」
 ぼくは答えた。でも、すでに夜の十時を過ぎていた。この時間では浜松に行くことはできない。ぼくは車を持っていないのだ。
「明日の朝、一番でそちらに行きます」
 ぼくは、やっとのことでそれだけ答えた。
「お願いします」
 母親は電話を切った。
 ぼくは、ショックを受けていた。昨日撮った彼女から、そんな印象はまったく感じなかったのだ。やはり、身体と魂は別なのだろうか?
「優子。優子大丈夫かい?」
 ぼくは、パソコンにデジカメをつなげて、彼女のいるだろう空間を撮影した。
 モニターに映ったデジタル写真の彼女は、悲しそうな顔をしていた。
「苦しくはないのかい?」
 写真の彼女は、首を振っているようだった。動きがないからよくわからないけど、たぶん首を振っているのだと思う。
 ああ、お互い手話でもできたらな…… いや、実際、手話を習おうって話をしていた矢先なのだ。彼女がペンでも持てればいいのだけど、そういうことはまったくできないようだった。
「死ぬなんてことないよね?」
 ぼくは聞いた。
 写真の彼女は顔を伏せて、悲しみに耐えているようだった。
「ウソだ。そんなの信じないぞ」
 だが、彼女の顔に笑顔は戻らなかった。
「待ってくれ。たとえ君が死んでも…… いや、身体がという意味だよ。でも、君の魂は今のまま存在できるだろ?」
 写真の彼女は、また首を振った。
「どうして? どうしてだい!」
 優子は、ただ悲しみを浮かべるだけだった。
「そんな…… そんなのってないよ!」
 ぼくは、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を覚えた。
 すると、優子は悲しい笑顔を浮かべて、ぼくに近寄ってきた。ぼくはデジカメのレンズを広角にして、彼女がすぐ近くにいても写るように調節した。
 優子は、ぼくがシャッターを押すタイミングを見計らいながら、ゆっくりとぼくの顔に自分の顔を近づけた。
 キスか?
 ぼくはそう思った。いままでそんなことをしたことはなかった。
「キスをしていいのかい?」
 ぼくは聞いた。
 アップになった優子の顔は、にっこりと笑った。
 ぼくはデジカメを三脚につけて、カメラのモードをセルフタイマーで連射できるようにセットした。
 ぼくは瞳を閉じて、彼女とキスをした。唇の感覚はまるでなかった。でもデジカメには、ぼくたちが唇を重ねているところが三枚写っていた。
「優子…… 本当にお別れなのか?」
 彼女はうなづいていた。
 ぼくは泣きたかった。悲しかった。本当に悲しかった。
 すると、優子は、着ている服を脱ぎ始めた。
 まさか……
 優子は、ぼくに懇願するような眼差しだった。
 ぼくはうなづいた。
 そして、デジカメと三脚とパソコンを、ベッドルームに持っていった。カメラをベッドが写るように固定して、パソコンのモニターを、ベッドの上から見られる位置に置いた。
 ぼくは服を脱いだ。
 優子は恥ずかしそうに顔を背けた。
「横になって」
 ぼくは言ってから、ベッドの上を撮影した。
 優子が横たわっていた。彼女もすべての服を脱ぎ捨てて全裸だった。でも、胸と大事な部分は手で隠していた。
「見せて欲しい。君のすべてを」
 つぎの写真でも、優子は胸と大事な部分を隠したままだった。
「ダメなのかい?」
 ぼくが言うと、つぎの写真で優子は恥ずかしそうに手をどけていた。
「奇麗だ」
 ぼくはつぶやいた。
 そしてぼくも、彼女に覆いかぶさるように、ベッドの上に乗った。ただ、シーツの冷たさだけがぼくの身体に伝わった。ぼくは悔しかった。彼女を感じてあげられないことが。そして、彼女を失うことが。
 けっきょく。ぼくたちのセックスは成功とは言えなかった。肉体としての彼女が存在しないのだから、そもそもセックスですらなかった。それでも、デジタルカメラには、肌を寄せ合う二人が写っていた。
 ぼくは、裸で彼女とベッドに横になりながら、優子に愛してるとささやいた。彼女は大粒の涙を流して、ぼくの身体を抱きしめる仕草をした。
 そのうち、彼女の身体が透けるようになってきた。ぼくは、時がきたことを感じた。
「優子……」
 ぼくは涙を流した。
 優子は最後に笑顔を浮かべた。そして、二度とカメラに写ることはなかった。
 最後に笑顔を浮かべた写真の時間は、深夜の三時過ぎだった。ぼくは、彼女が天に召されたことを知った。
 ぼくは、朝まで涙が止まらなかった。それでも、最後の彼女の笑顔が、唯一の救いだった。彼女は、彼女なりに幸せを手に入れたのだと思いたかった。ほんのわずかな時間ではあったけれども。

 もう、彼女の姿は写らない。それでもぼくは、毎日、自分の部屋のソファーを撮り続けている。いつか、あの日のように、優子がそこに座っているのを願いながら。



終わり。