スーパーマンの恋人

 プロローグ


 ある日。スーパーマンが落ちてきた。
 落ちたところは、東京は杉並区にあるごく普通の住宅街のさらに端っこにある路地。
 ローカルである。
 ところで、スーパーマンにとって幸運だったのは、この猿も木から落ちる的な、大失態を目撃した人物が非常に少なかったことであった。
 目撃したのは、たったの三人。
 ひとりは、杉並区の高校に通う、川村俊一(ルビ:かわむらしゅんいち)という十七歳の青年。
 彼は、進学塾に通うごく普通の真面目な青年である。なんと、驚くなかれ。彼は今時の高校生のくせに、タバコも吸わず、酒も飲まず、財布の中にコンドームすら入っていないのだ。いや、まあ、それが普通なのだが。
 もうひとりは、やはり俊一と同じ高校に通う、大橋美奈子(ルビ:おおはしみなこ)という女子高生。
 彼女は、友人たちと結成したロックバンドのボーカルで、見た目はなかなかファンキーな少女である。ボーカルだけあってタバコは吸わないが、お酒は好き。だが、こちらもコンドームを使う経験はまだないようである。見た目の割に奥手である。
 ところで、ご都合主義と言われそうだが、俊一と美奈子はクラスメートなのであった。
 そして、あとひとり目撃者がいるのだが、いわゆる雑魚なので名前はない。

 さて。スーパーマンが落ちてきたときの様子を再現しよう。
 時は、夜の十時。もともと静かな住宅街だけあって、この時間ともなれば、人通りもほとんどなくいっそう静かである。
 大橋美奈子は、バンドの練習を終えて帰宅途中であった。彼女は、マジにプロのミュージシャンを目指しているのである。そんな美奈子は、駅前で友人たちと別れてからはひとりで自宅に向かっていた。
 その少し前、川村俊一も自宅への帰路を急いでいた。彼は進学塾からの帰りである。ちなみに、俊一は、国立大学を目指しているのであった。そんな俊一も、ひとりで自宅に向かっていた。
 ところが、俊一は、クラスの不良グループのひとりと鉢合わせしてしまったのである。例の、名もない雑魚。
 この、名もない雑魚は、少々、お小遣いに不自由していた。説明するまでもないが、彼の得意技は、アイススケートのトリプルアクセルでも、バスケットのジャンプシュートでもない。
 カツアゲである。
 ちなみに、この言葉を知らない健全な青少年のために説明すると、暴力などで人を脅して、小銭を巻き上げる行為をカツアゲという。あくまでも小銭というのがミソである。大金を巻き上げるのは強盗という。
 で、この名前のない雑魚は、頭が悪いくせに、俊一からカツアゲすることを思いついたわけなのである。もちろん、思いつかれた方は、たいへん迷惑である。とくに、俊一のような真面目で気の弱い青年ならなおさらである。
「おい。俊一よう」
 雑魚が俊一に言った。
「オレさあ、ちょいとお小遣いに不自由してるんだ。可哀想だと思わねえか?」
 普通は思わない。
「ぼ、ぼく。お金持ってないよ」
 俊一が答えた。
「バカ野郎。千円や二千円ぐらい持ってるだろうに」
 まさに小銭である。
「う、うん。そのくらいなら……」
「だったら、出せよ」
「でも、このお金は、今日の晩ご飯代なんだ」
「かあちゃんが作ってくれないのか?」
「母さんはいつも帰りが遅いから…… 家の近くのコンビニでお弁当を買うんだ」
「そうかよ。悪りいな。今日は晩飯抜いてくれや」
「そんな……」
「おうおうおうおう。イヤだって言うのかよ!」
 雑魚が、俊一の胸ぐらをつかんだ。
「い、イヤじゃない。イヤじゃないよ!」
「だったら、最初からそう言え、バーカ」
「うん。ごめん……」
 俊一は、ポケットから財布を出した。
「貸せ」
 雑魚は俊一から財布ごと取り上げる。
「ちっ。ホントに千円しか入ってねえや」
 そう言って、雑魚は俊一の財布から千円を抜き取ると、その財布をポイと捨てた。
 俊一は、黙って財布を拾った。
 そのとき。
「ちょっと、あんた!」
 大橋美奈子であった。
「なんでえ、美奈子じゃねえか。なんか文句あんのか?」
「お金返しなさいよ。そんなことしていいと思ってるの!」
「うるせえな。犯されたいか?」
 雑魚が、美奈子に近寄る。
「なによ」
 美奈子が雑魚を睨みつける。
「お高くとまりやがって。何様だてめえ」
「あ、あの……」
 俊一がオズオズと言った。
「お金は上げるから。もうやめてよ」
「うるせえ! なんか気にくわねえ!」
 雑魚は、俊一の頭をガツンとこづいた。
「やめなさいよ! お巡りさん呼ぶわよ!」
「お巡りときたかよ」
 雑魚二人はニヤリと笑った。
「いいぜ。呼んでみろよ。こんな路地で叫んだって、聞こえねえだろうけどな。それに、お礼参りって言葉知ってるか?」
 この場合のお礼参りは、もちろん、神社に五円玉を持って行くことではない。復讐するという意味である。
「大橋さん。あの、ぼくは平気だから……」
 と、俊一。
「あー、もう! イライラするなあ!」
 美奈子は、俊一を睨んだ。
「あんたもそんなことだから、お金取られるのよ!」
「でも、あの……」
「けっ。楽しそうじゃねえかお二人さん。美奈子よう、おめえも金出せよ」
「いやよ」
「いやよいやよも、好きのうちってな」
 雑魚はニヤニヤ笑いながら美奈子の腕をつかんだ。
「ちょっと、汚い手で触らないでよ!」
「うるせえ!」
 雑魚が、美奈子を押し倒そうとした。
 そのとき。
 ピューッ、ドサッ!
 雑魚の上になにかが落ちてきた。
「い、痛てえな!」
 雑魚は、頭をさすった。
「やあ。これは失敬」
 その落ちてきたモノはシュタッと手を上げた。
「申し訳ない。怪我はないかね」
「おい、オッサン!」
 と、雑魚は落ちてきたモノに怒鳴った。
 とたん。
「な、なんだおめえ」
 雑魚は、自分の目を疑った。その落ちてきたオッサンは、スーパーマンのカッコをしていたからである。あの胸に「S」のマークの入ったイカレた格好である。
「わたしはスーパーマンだ」
 イカレたカッコの男は胸を張って答えた。
 その男は、白人のようであった。頭には白髪が混じっていて、少なくともコスプレを楽しむような歳には見えなかった。たぶん、五十歳は越えている感じだ。
 雑魚は、眉をひそめながら、頭の上でクルクルと指を回した。
「イカレてるぜ、こいつ」
「ハハハ。君が驚くのも無理はない。ところで、ここはどこかね? みたところ、東京の下町のようだが」
 美奈子が聞く。
「オジサンこそ、どこから落ちてきたの?」
「ハハハ。とんだところを見られた。いや、ちょっとハードワークで疲れていてねえ。わたしも、もう歳かな」
「けっ。つき合ってらんねえぜ。あばよ」
 雑魚は、さっさと退散した。
 正直言って、俊一も美奈子もこのスーパーマンと名乗る男から逃れたかった。だって、関わり合いになると面倒そうではないか。救急車を呼んだ方がよさそうである。
「う~む。どうも、君たちはわたしのことを誤解しているようだね」
 スーパーマンは言った。
「わたしは、どこかの病院から抜け出してきた患者ではなく、正真正銘のスーパーマンだよ」
「はあ…… そうですか」
 俊一と美奈子は、とりあえずうなずいた。こういう人は刺激したらヤバイ。
「まだ信じていないね」
「いいえ。信じてます!」
 と、美奈子。
「そうかね? でも、これを見た方が信じれると思うよ」
 スーパーマンはそう言って、ふわりと浮き上がった。
「えっ!」
 俊一と美奈子は驚いた。なんと、スーパーマンは本当にふわふわと空中に浮かんでいるのだ。
「こ、これって、どんな手品?」
 俊一が聞く。
「ほら。信じていないではないか」
 スーパーマンは、浮き上がるのをやめて、地面に足を付けた。
「まあいい。これもなにかの縁だ。君に頼みたいことがある」
 スーパーマンは俊一に言う。
「あ、あの…… お金ならもう持ってません」
「違うよ。わたしはお金など入らない。ただ、自由が欲しいだけだ」
「自由?」
「そう自由だよ。君、ロイス・レーンという女性を知ってるかい?」
 ぶるぶるぶると、俊一を首を振った。
「そうか。わたしの恋人だよ。素敵な女性だ。もっとも、ロイスはわたしのことをスーパーマンとは知らないがね」
「そうなんですか。ハハハ、大変ですね、スーパーマンさんも」
 俊一は、ひきつりながら答えた。
「うん。そうなんだ。空から落ちてしまうなんて、わたしも相当疲れている証拠だよ。もう歳も歳だし、そろそろ、この仕事も潮時のようだ」
「そうですか…… ハハ」
「わたしはロイスと結婚して、ごく普通の生活を送りたい」
「はあ?」
「そこで頼みだ。君、わたしの代わりに、スーパーマンになってくれんかね?」
「ぼくが?」
「君が」
「ぼく、空なんか飛べませんけど」
「心配ない。これがあれば大丈夫」
 スーパーマンはそう言って、どこからか、青白く光る石を取り出した。
「クリプトンナイトだ。これを身につければ、君も今日からスーパーマンだよ」
 スーパーマンは、強引に俊一の手にクリプトンナイトを押しつけた。
「あ、あの……」
 俊一は、思わず、クリプトンナイトを受け取ってしまう。
 すると。
 驚いたことに、そのクリプトンナイトは、水が綿に染み込むように、俊一の手の中に溶け込んでいった。
「わわわわわ!」
 俊一は、自分でもなにが起こったのかわからず、奇声を上げた。
「ハハハ。心配はいらない。クリプトンナイトが君と同化したのだ」
 スーパーマンは言った。
 すると。
 スーパーマンだった男の服装が、突然、サラリーマンのスーツに変化した。どこからか眼鏡まで出てくる。
「うん。わたしは自由になった。ただの男。クラーク・ケントだ」
 スーパーマンだった男が満足そうにうなずく。
 すると。
 今度は、俊一の服装が変わり始めた。
「あっ!」
 と、言う間もなく、俊一は、スーパーマンになっていた。胸に「S」のマークが入った例の服装だ。赤いマントもしっかりしている。俊一がしていた眼鏡もどこかに消えてしまった。
「今日から、君がスーパーマンだ。おめでとう!」
 クラーク・ケントが拍手する。
「あう、あう、あう」
 口をぱくぱくさせる俊一。
 美奈子は、目を丸くして絶句していた。
「そうか。うれしくて言葉もないかい。気持ちはわかるよ。君はもう、無敵だからね。でも、気をつけたまえ。君は、スーパーマンとして、世界を悪の手から守らなくてはならない。辛い仕事だが、君ならできる」
「あう、あう、あう」
「なにも言うな。使命の重さに、胸がいっぱいだろう。頑張りたまえ。じゃ、わたしはこれで失敬するよ」
 クラーク・ケントに戻ったスーパーマンは、シュタッと手を上げて、去っていった。
 しばし、ボーゼンとその場に立ち尽くす、俊一と美奈子。
「いや、すまん。大事なことを言い忘れていた」
 クラーク・ケントが戻ってきた。
「わたしがなぜこの国にいたのかを説明していなかった。実は、ドクター・ゲロという悪党を追いかけて来たのだ。厄介な相手だ。うん。結局、ヤツを捕まえられなかったのは残念だが、君のように、若く勇敢な若者なら、きっと大丈夫だ。頑張りたまえ。じゃ、今度こそ失敬するよ」
 クラーク・ケントは、無責任なことを言いつつ、今度こそ去っていった。
 やや、間があって、美奈子が声を上げた。
「スーパーマン! あいつ、本物だったんだ!」
「あの」
 俊一が、恐る恐る聞いた。
「だとすると、ぼくはどうなるの?」
「どうなるって……」
 美奈子は、一瞬考えた。
「やっぱり、その、川村くんが新しいスーパーマンになったってことでしょ?」
「ひーっ!」
 俊一は、悲鳴にも近い声を上げた。
 こうして、川村俊一は本人の意思とは関係なくスーパーマンになったのであった。
 ゆめゆめ、安直な設定などと思うことなかれ。事実なんだからしょうがない。


 その一。


 一週間後。
 確かに、スーパーマンがいるという噂はあった。
 俊一は、学校の屋上で、ひとりパンをかじりながら、ぼんやりと考えていた。
 そう。たまに、あのイカレた赤いマントの男を目撃したという記事が、あまり信用のおけない雑誌などに載っていることがあったのだ。
 俊一は、そんな記事を真面目に読んだことはなかったし、実際、ほとんどの人がネス湖のネッシーと同じように考えていた。あるいは、雪男やツチノコのようなものだと。
 だが、今の俊一は違った。この目でスーパーマンを見たのだ。そして、不運にも、自分がスーパーマンになってしまった。この事実はどうにも否定しようがない。
 それにしても。と、俊一は考えた。先代のスーパーマンは…… いや、先代などと、自分が現役のスーパーマンであることを肯定するような言葉は使いたくないのだが……
 まあ、とにかく、その先代のスーパーマンは、自分の正体がバレないように、細心の注意を払って行動していたに違いない。でなければ、スーパーマンがネッシーや雪男のような、『未確認生物』扱いをされるわけがないのだ。あの、赤いマントはいかにも目立つのだから。
「あっ。やっぱりここにいた」
 俊一は、不意に声をかけられて、顔を上げた。
 美奈子だった。
「隣、座っていい?」
「うん」
 美奈子は、俊一の隣に座った。
「川村くんって、いつもここでパン食べてるんだっけ?」
「うん」
「お弁当は?」
「母さん仕事で忙しいから」
「そっか。うちと同じだね」
「大橋さんも?」
「うん。うちって、父親いないから」
「亡くなったの?」
「離婚だよ」
「ごめん、変なこと聞いちゃって」
「アハハ。別になんとも思ってないよ。それより、なんで教室で食べないの? 外じゃ寒いじゃない」
「別に…… 寒いのは平気だから」
「そう。で、その後どう?」
「その後って?」
「ほら、例のアレよ」
 美奈子は、周りの生徒に聞かれないように、少し声を落とした。今は昼休みで、結構大勢の生徒が屋上にいる。
「練習してるんでしょ? 少しはうまくできるようになった?」
「練習なんてしてないよ」
「どうしてよ。ちゃんと練習しておかないとイザって時に困るよ」
 美奈子が聞いているのは、スーパーマンに変身したり元に戻ったりする技のことである。あの運命の晩、俊一はスーパーマンから川村俊一に戻るのにえらい苦労をしたのだ。
 俊一にも原理はよくわからない。ただ、頭の中で念じると、スーパーマンになったり元に戻ったりできるようであった。どういうわけか、狭い空間に入ると、より簡単にできるらしく、あの晩は、電話ボックスに入って、やっと元に戻ったのであった。
「練習なんて必要ないよ」
 俊一は、落ち込んだ声で言った。
「どうして?」
 美奈子が聞く。
「だってぼく、あんなカッコしたくない」
「カッコ悪いもんね、アレ」
「うっ……」
「アハハ、ごめんごめん。でも、あのカッコじゃなきゃ力が出せないんでしょ?」
「そんなことないみたい。普通のカッコでも、力が出せるよ」
「そうなの?」
「うん」
「見せてよ」
「えっ、今?」
「ダメ?」
「いいけど……」
 俊一は、屋上のフェンスを握った。そして、片手でフェンスを曲げてみせる。
「す、すっごーい。怪力じゃない!」
「お、大橋さん、声が大きいよ」
「あっ、ごめん。でもさあ、これなら別に変身しなくてもいいじゃん」
「あのカッコじゃないと空は飛べないみたい」
「飛んだの?」
 美奈子が興味深げに聞いた。
「ううん。少し浮いてみただけ」
「へえ! いいなあ! どんな気分?」
「ふわふわした気分」
「やだあ、そのまんまじゃない。今度、空を飛んでみなよ」
「やだよ。もう変身なんてしないよ」
「どうして?」
「カッコ悪いし…… それに、必要がないもん」
「そうかなァ。だって、川村くんはスーパーマンでしょ。悪いヤツをやっつけるのが仕事なんじゃないの?」
「仕事じゃないってば。ぼくがなりたくてなったわけじゃないんだから」
「なんか、正義感のないスーパーマンねえ」
「だから、なりたくてなったんじゃないよ」
「それはわかるけど、あたしだったら、一所懸命、スーパーマンやると思うな。あっ、あたしの場合は、スーパーガールか、一応」
「どうして?」
「だって、人のためになるって気持ち良さそうじゃない」
「でも、大橋さんの夢は、ミュージシャンになることなんでしょ」
「よく知ってるね」
「だって、いつも音楽室で練習してるから」
「うん。あたしの歌を聴いてさ。いろんな事に悩んでる人たちが、ちょっぴり幸せになってくれたらいいな。なーんて、思ったりして、へへへ」
 美奈子は、照れたように笑った。
「へえ。素敵な夢だね。うらやましいな」
 俊一は、少しまぶしそうに美奈子を見た。
「なによう。川村くんだってすごいじゃない」
「なにが?」
「だから、スーパーマンだって事よ」
「それが問題だよ」
「そうかなァ」
 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。生徒たちが教室に戻っていく。
「もう、行かなきゃ」
 俊一は、膝の上に落ちたパンくずを払って立ち上がった。
「うん」
 美奈子も立ち上がった。
 と、そのとき。あの忌々しい雑魚が現れたのだ。
「よう。おまえら、いつからそういう関係になったんだ?」
「そういう関係って、どういう意味よ」
 美奈子は雑魚を睨みつけた。
「へへへ。逢い引きだろ?」
 この雑魚。高校生のくせに(しかもバカ)『逢い引き』などと古風なことを言う。
「バッカじゃない、あんた」
 美奈子がフンと鼻を鳴らした。
「うるせえ。それより金を出せよ」
「ホントに、バカのひとつ覚えね。少しは違うこと言ったら?」
「じゃあ、犯らせろ」
「話になんない。川村くん、バカがうつるから行こうよ」
 美奈子は、俊一の手を取って、屋上の出口に向かった。
「おいおい。話は終わってねえぜ」
 雑魚が美奈子の腕をつかんだ。
「離しなさいよ」
「生意気な女だな。こりゃマジで犯らないと、その性格は直らねえな」
 雑魚が、へへへと、いやらしい目つきで笑った。
「いい加減にして!」
 美奈子は、雑魚の腕を振り払った。
「美奈子よう。いいこと教えてやるぜ。オレ、学校やめてよう、前から誘われてた組に入ることにしたんだ。オレに逆らうと、シャブ漬けにして、ソープに売られちまうぞ」
「バカの行き着く先は、やっぱりそこなのね。救いようがないわ」
 と、美奈子が言ったとき。突然、雑魚が、美奈子の頬を平手打ちした。
「い、痛い!」
「ガタガタ言うんじゃねえ! オレの女になれ!」
 雑魚は、学校の屋上にも関わらず、美奈子を押し倒そうとした。
「きゃーっ! 川村くん、助けて!」
 さすがの美奈子も悲鳴を上げた。
「バーカ。こいつに助けられるわけねえだろ」
 だが、雑魚の体が止まった。俊一が、雑魚の腕を握ったからだ。
「なんだ、俊一。その目はよう」
「もう、やめてよ」
「うるせえ」
 雑魚は、俊一のお腹を思いっきり殴った。
「ひーっ!」
 悲鳴を上げたのは雑魚の方だった。殴った手を痛そうに振っている。
「て、てめえ、腹に鉄板入れてやがるな!」
「そんなの入ってないよ」
「けっ。いい気になりやがって」
 雑魚は、俊一の顔にパンチを入れた。ここなら、鉄板は絶対に入っていない。
「ひーっ!」
 やっぱり、悲鳴を上げたのは雑魚だった。
「へめえ、石か!」
 俊一は、痛そうに手をさする雑魚に、ずいっと近づいた。
「ぼくを殴りたいなら、気の済むまで殴っていいよ。でも、大橋さんには悪いことをしないでよ」
「うるせえ」
 雑魚は、俊一の言葉を無視して、果敢にも、俊一を羽交い締めにした。今度はプロレス技だ。
 もちろん、俊一はビクともしなかった。雑魚の空しい健闘は、まさに、空しいままに終わった。
「はあはあはあ」
 雑魚は息を切らしながら言った。
「俊一、おまえ、いったい何者だ」
「ふふふ。聞いて驚かないでよ。川村くんはねえ、あの晩」
 と、美奈子が答えようとしたとき。
「大橋さん!」
 俊一が、美奈子の言葉を遮った。
「あっ。そうか、ごめん」
「てめえら、なにを隠してやがる」
「なんにも隠してないよ。それより、大橋さんに変なことをしないでよ」
「誰がおまえの言うことなんか聞くか、バカ!」
「困ったな…… ぼく、喧嘩ってしたことないからどうすればいいのかわからないよ」
 俊一は、本当に困った顔で言った。
「こんなヤツ、屋上から落としちゃってよ」
 美奈子が言った。
「ええっ。そんなことしたら死んじゃうよ」
 驚く俊一。
「冗談よ。でも、気分だけでも味あわせて上げたら?」
「気分?」
「そうよ。お手玉みたいにさ。投げたり落っことしたりってのはどう?」
「ああ、そういうことか」
「てめえら、いい加減にしろ!」
 雑魚が叫んだ。だが、その声は微かに震えていた。
「やっちゃって」
 美奈子が言った。
「うん」
 俊一は美奈子に頷くと、雑魚の体をヒョイと片手で持ち上げた。そして、まるでお手玉遊びをするように、雑魚をポーンと上に投げた。そして、自由落下してくる雑魚を受けとめると、また投げた。
「アハハハ! おもしろい!」
 美奈子は、腹を抱えて笑った。
「ねえ、川村くん。もっと上に投げてやりなよ」
「やめろーっ! うっぷ。気持ち悪い」
 雑魚は、お手玉になったせいで、気分が悪くなったようだ。
 俊一は、雑魚を降ろした。
「ねえ、考えは変わった?」
 と、俊一。
「ちっ。今日はこの辺で許してやる。だがよう、今度は、組の連中と相手をするぜ」
 雑魚は、ビビリながらも、悪党らしいセリフを吐いた。
「川村くん。やっぱり、屋上から落としちゃえば?」
 と、美奈子。
「だから、死んじゃうってば」
「そうだ、いいこと思いついた!」
 美奈子は、イタズラっぽい目になると、なにやら俊一に耳打ちした。
「えっ。それって、ちょっとかわいそうだよ」
「こんなバカ、それぐらいしなきゃわかんないわよ。いいからやって」
「わかった。大橋さんがそう言うなら」
「こら。おい。まて。なにをするんだ」
 雑魚は、ズルズルと、俊一から後ずさった。
 もちろん無駄な努力である。スーパーマンから普通の人間が逃げられるわけがない。
 二分後。
「フン。いい気味」
 美奈子が雑魚を見おろしながら言った。
 雑魚は、パンツ一枚にされて、脱がされた服を縄代わりに、屋上のフェンスに縛り付けられていた。
「これに懲りたら、もう二度とあたしたちに近づかない事ね」
 と、美奈子。
「くそーっ! 覚えてろよ!」
 雑魚は叫んだ。
「は? なんですって? よく聞こえなかったわ」
 美奈子が耳をそばだてるカッコで雑魚に聞き返した。
「覚えてろ……」
 雑魚は、さっきよりずっと小さい声で言った。
「なんだが、まだ反省してないみたいよ、川村くん。パンツも脱がしちゃおうか?」
「わーっ、わかった。わかったよ! もう、おまえらには近づかねえ」
「ごめんなさいは?」
「調子に乗るな!」
「川村くん。パンツもとっちゃって」
 美奈子は、冷酷な眼差しで言い放った。
「え~っ。ヤダなァ……」
 俊一は、渋々といった感じで、雑魚のパンツに手を掛けた。確かに、男のパンツなど触りたくもないし、中には見たくないモノが入っている。
 俊一が、雑魚のパンツを半分ほどずり下げたときだった。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
 雑魚がやっと言った。
「ふう。よかった。言ってくれなきゃ、どうしようかと思った」
 俊一は、ホッと胸をなで下ろした。
「アハハ。さすがに懲りたでしょ」
 美奈子が笑った。
「さ、行こ、川村くん」
 と、美奈子は俊一の腕を取った。
「こら、オレをこのままにするのかよ!」
 雑魚が、情けない顔で言った。
「そのうち、誰かが見つけるでしょ。まあ、せいぜい風邪でも引いてちょうだい。あっ、バカだから風邪も引かないか」
「可哀想だよ、大橋さん」
「いいから、いいから。死にゃしないわよ」
 美奈子は、強引に俊一の腕を引っ張った。
 引っ張られる途中で、俊一は雑魚に申し訳なさそうな視線を向けた。
「ごめんね。ええと……」
 俊一は、雑魚に言った。
「名前なんだっけ?」
「バカヤロー!」
 雑魚は叫んだ。
「ほら、川村くん、早くしなよ。授業が始まっちゃうよ!」
「うん」
 俊一と美奈子は、駆け足で屋上の出口に向かった。
 教室に戻る階段の途中で、美奈子は、まるで恋人のように俊一の腕を抱いた。
「最高だよね、川村くんって」
「そ、そ、そんなことないよ」
 俊一は、思いっきりドモリながら答えた。美奈子の胸が、腕に密着している。
「ねえ。あたしたちさあ、マジでつき合っちゃおうか?」
「えっ!」
 驚く俊一。
「アハハ。冗談だよ」
 美奈子は、パッと俊一の腕を放して笑った。
「あたし、先に教室に戻るよ。変に勘ぐられたくないからさ」
「う、うん……」
「じゃあね。楽しかったよ」
 美奈子は、俊一にウィンクすると、教室に駆けていった。
 ひとり取り残された俊一は、心臓がドキドキしていた。女の子に腕を抱かれたのなんて初めてなのだ。
 俊一は、ちょっと立ち止まって、呼吸を整えた。それでも、胸のドキドキは収まらなかった。それどころか、まだ腕に残る美奈子の胸の感触を思い出して、顔を真っ赤にしたのだった。


 その二。


 事件は、その二時間後に起こった。
 美奈子は、女の友人だけで五人のバンドを組んでいた。美奈子たちは、授業が終わると、学校の音楽室を借りて練習に励むのだ。俊一がスーパーマンになったあの晩は、スタジオからの帰りだったのだが、実のところ、スタジオを借りることは滅多にない。お金が掛かるからね。
 この日は、いつものように、音楽室を借りて練習をしていた。
 メンバーのひとりが、何気なくかけていたラジオからニュースが流れてきた。

『臨時ニュースをお伝えします。本日、午後二時五十分ごろ、杉並区の富士川銀行杉並支店に、銀行強盗が押し入りました。犯人は、四、五人のグループと見られ、現在、人質取って立てこもっています。詳しい状況がわかりしだい、番組を中断してお送りします』

「やだあ、学校の近くじゃない」
 メンバーのひとりが言った。
「恐いよねえ」
 と、別のメンバー。
「そう言えば、美奈子の家って、あの銀行の前通るんじゃなかったっけ?」
「う、うん……」
 美奈子は、上の空で答えると、慌てて、ラジオのチューニングをほかの局に合わせた。だが、どの局も、今の臨時ニュース以上の情報を流してはいなかった。
「ごめん、みんな! あたし、ちょっと用事ができた」
「ええーっ! どこ行くのよう!」
 メンバーの非難に近い声を背中で聞きながら、美奈子は音楽室を飛び出した。
 俊一は、幸運(不運?)にも、まだ教室にいた。
「川村くん!」
「あっ。大橋さん」
 俊一は、教科書を鞄にしまう手をとめた。
「た、大変よ! 事件なの!」
 と、美奈子は言いかけて、ハッと口をつぐんだ。教室には、まだたくさんの生徒が残っているのだ。
「ちょっと、こっち来て!」
 美奈子は、強引に俊一の腕を引っ張った。
「な、なに?」
「いいから、早く!」
 美奈子は、化学準備室に俊一を連れ込んだ。
「大橋さん。そんなに慌てなくても、さっき、屋上に縛り付けた不良なら、もう助けておいたよ」
「あんな雑魚どうだっていい! それより、大変なのよ。今、ラジオで聴いたんだけど、駅前の銀行に、銀行強盗が入ったらしいの。人質も取ってるって!」
「へえ。恐いね」
「なに悠長なこと言ってるのよ。川村くんはスーパーマンでしょ」
「あっ……」
「やっぱり、自覚してない。早く助けに行って上げてよ」
「でもだって、警察の人がいるんでしょ?」
「そういう問題じゃないでしょ。川村くんは、スーパーマンなんだよ」
「でも、だって……」
「ああもう、イライラするなあ! さっきの雑魚みたいに、かるーく、捕まえちゃえばいいのよ」
「そんな。さっきとは状況が違うよ。それに、ぼく、これから塾に行かなきゃ」
「塾? 人質がいて、それを助けられる人が塾ですって?」
 美奈子は、俊一を睨みつけた。
「そんな目で見ないでよ。母さんが少しでもいい大学に入れるようにって、パートを増やして通わせてくれてるんだ。休めないよ」
「川村くんのうちって、お父さんいないの?」
「うん。去年事故で……」
「ご、ごめん。あたしってば、考え無しで口が動いちゃうから」
「ううん。気にしてないよ」
「でもさあ、一日ぐらい休んだって、大丈夫でしょ? 川村くんって、すごく成績いいじゃない」
「そんなことないよ。国立に受かるにはもっと勉強しなきゃ」
「じゃあさ、パパッと片づけて塾に行けばいいじゃない」
「簡単に言わないでよ」
「あたし、事情を知ってる以上、黙っていられないよ。川村くんはスーパーマンで、銀行強盗なんか簡単に捕まえられるんだよ。それなのに、知らんぷりしてていいの? 人質の人が死んじゃうかもしれないんだよ。自分の身になって考えてみなよ」
「自分の身?」
「そうよ。もしも、川村くんのお母さんが、その銀行で人質になってたらって考えなよ」
「どうして、大橋さんって、そんなに真剣なの? 人質の人に知り合いでもいるの?」
「あたしの知り合いがいたら助けに行ってくれるの?」
「う、うん。たぶん……」
「じゃあ、知り合いがいるよ。あそこの店長を知ってるんだ。これでいいでしょ?」
「嘘だ」
「もう、なんでもいいから、行ってあげてよ」
「こ、恐いよ」
「ああもう! だったら、ついていって上げるから、早くして!」
「大橋さんが行ったら危ないよ!」
「バカ。銀行の中まで入らないわよ。早く変身して!」
「わ、わかったよ……」
 俊一は、美奈子の迫力に押されて、スーパーマンに変身した。
「うん。なんか、見慣れてくるとカッコいいよ」
 美奈子は、そう言いながら、化学準備室の窓を開けた。
「さあ、飛んで!」
 美奈子は、俊一の腕に抱きついて言った。
「うまく飛べないってば」
「あたしがつかまってるから?」
「違うよ。まだ飛んだことないんだ。浮かんだだけで」
「なにごとにも、最初があるのよ。さあ、初飛行、がんばって!」
「う、うん」
 俊一は、美奈子につかまれながら、ふわりと浮かび上がった。
「うわーっ、変な感じ!」
「やっぱりやめようよ」
「ここまできてなに言ってるの。さあ、窓から飛び出して!」
「う、うん」
 俊一は、ふわふわと窓に近づくと、そのまま外に出た。そして、空に上昇していくイメージを頭に浮かべた。すると、体もそのイメージ通りになった。
「きゃーっ! すごい!」
 美奈子は、ぐんぐん、小さくなっていく校舎を見おろしながら叫んだ。それはまるで、ジェットコースターにでも乗っているような、楽しげな悲鳴であった。
 ところが。
「こ、こ、恐い!」
 俊一は、思いのほか、高く上昇してしまったので急に恐くなった。そのまま、ゆっくりと高度を下げる。
「ちょっと、やだ。墜ちてるわよ!」
「違うよ。降りてるんだ」
「なんでよ」
「だって、恐いもん」
「スーパーマンが飛ぶのを恐がらないでよ!」
「恐いものは恐いよォ」
「情けないこと言わないで。ほら、もっと高く上がってスピード出して」
「簡単に言わないでよ!」
「川村くんなら、簡単にできるはずよ」
「でも」
「ほら。がんばってみて。下を見ちゃダメよ」
「う、うん」
 俊一は、なるべく下を見ないように、高度を上げた。少しだけスピードを上げてみる。
「やればできるじゃない」
 美奈子がニコッと笑った。
「うん」
 俊一は、うなずいた。なんだか、美奈子の笑顔を見たら、急に勇気が沸いてきた。
「もっと、スピード出してもいいよ」
 美奈子が言った。
「うん。いくよ」
 俊一は、スピードを上げた。
「きゃーっ! すごい、すごい!」
 美奈子は、楽しそうに叫んだ。
「なんか、楽しいね、川村くん!」
「うん!」
 俊一も、うなずいた。
 このとき。なんだ、空を飛ぶって、こんな簡単なことだったんだ。と、俊一は心の中で思っていた。
 ついさっきまでは、人間が空を飛ぶなんて、いかにも大それた事と考えていたのだ。あまりにも物理法則を無視しまくっていて、おかしいではないかと。まあ、それはそれで正しい考えではあるが、実際に、空を飛べるようになると、なんと、自転車に乗るよりも、はるかに簡単なことだったのである。
 ちょっとコツを覚えると、自分の体が頭でイメージした通りに動く。それは、なにものにも束縛されない軽やかな気分だった。それはそうだろう。なにしろ、重力にさえ束縛されないのだから最高の気分に違いない。
 そんなわけで、駅前の銀行には、あっと言う間に着いた。
「うわ。すごい人垣だね」
 美奈子が銀行を見おろしながら言う。
 銀行の周りは、警察が何重にも取り囲んでいた。さらにその外側には、報道陣のカメラがずらりと並んでいる。だが、すべての人は、目の前の銀行に関心があるのであって、空の上に浮かんでいる俊一たちに気づく者はまったくいなかった。
「どこに降りようか?」
「銀行の屋上がいいんじゃない? あそこなら、お巡りさんもいないよ」
「そうだね」
 俊一は、美奈子を抱き抱えながら、銀行の屋上にソフトランディングした。
 このとき。俊一の耳に、驚きの声を上げる人々の声が聞こえた。と、同時に、無数のシャッター音も聞こえた。スーパーマンとして、最高の状態にある俊一には(つまり、変身している今)、飛行能力どころか、聴覚や視覚なども、常人の何十倍もの能力があるのだ。
「写真に撮られてるよ」
 俊一は言った。
「そりゃ仕方ないよ。スーパーマンだもん。それより、がんばって、銀行強盗やっつけてきてね」
「やっぱり恐いな……」
「だったら、あたしも一緒に行く?」
「ダメだよ。危険すぎる」
「でしょ。あたしは普通の人間だからよ。でも、川村くんは違う。絶対にできるって。自分を信じてごらんよ」
 美奈子は、にこっと笑った。そして……
「おまじないして上げるね」
 そういって、俊一のほっぺたにキスをしたのだった。
 ボッ! と、火のついたように顔を真っ赤にする俊一であった。
「アハハ! 真っ赤だよ」
 美奈子は笑った。
「男の子って、こういうのに弱いってホントだね」
「だ、誰が言ったの、そんなこと」
 俊一はドモリながら聞いた。
「少女漫画にかいてあった」
「そんなの読むんだ、大橋さんも」
「たまにね。それより、勇気でた?」
「ちょっとだけ」
「よかった。がんばってね」
「うん。やってみる」
 実は、マジで勇気がでている俊一なのであった。どうやら、女の子のキスは、本当に魔法なのかもしれない。
 俊一は、屋上にあるドアを開けた。鍵が掛かっていたが、なんの苦もなく開いた。ドアノブをネジ切ってしまう怪力があれば、鍵なんてなんの意味もないのだ。
 ドアを開けると、銀行の中の様子が聞こえてきた。俊一の聴覚は、常人の何十倍もの能力があるのだ。
 人質たちは、恐怖で声を発する者はいなかった。だが、犯人たちは、しきりに怒鳴っていた。動く者のいない人質に、動くなと言ってみたり、外の様子を見ては、ちくしょうとか、こんなはずじゃなかったとか、おまえの計画が悪いんだとか、今さらそんなこと言っても仕方ねえとか。
 俊一は、犯人の人数が、四人であると見当が付いた。それに、犯人たちのおおよその位置もわかった。まったく、人間観測器というか、なんとも便利な体である。
 俊一は、ゆっくりと音を立てないように階段を降りた。そして、ロビーの様子が少しだけ見える位置までくると、目を凝らしてみた。
 壁が、すっと、俊一の視界から消えた。そう。俊一は透視ができるのだ。この能力については、スーパーマンになったその日に知っていた。なにしろ、美奈子の洋服が透けて見えてしまって、大慌てしたのだ。もちろん、そんなこと美奈子には一言も話していないのは言うまでもない。ちなみに、俊一は、その後も自主規制で透視能力を発揮していないこともつけ加えておく。
 俊一は、ロビーの様子を、じっと見つめた。
 階段のすぐ下にひとり。ロビーの隅に集めた人質の前にひとり。カウンターの前にひとり。そして、カウンターの奥にひとり。計、四人だ。
 まずは、階段の下にいる犯人をやっつけよう。次ぎは、人質の前にいるヤツ。最後にカウンターの奥にいるヤツだ。
 俊一は、そう計画を立てた。
 あとは、実行あるのみ。
 俊一は、ものすごいスピードで階段を降りた。いや、もはや、降りるという表現がふさわしくないほどのスピードだった。突っ切るという感じ。それでも俊一にとっては普通の人が歩くよりも遅く感じた。もっともっとスピードを出すことができる。そうすると、階段そのものを破壊してしまうからスピードを出さないだけなのだ。
 階段の下にいる犯人は、まったく俊一に気づかなかった。不意打ちというのも多少あったが、俊一の動きが、あまりにも速すぎるからだ。
 俊一は、犯人の体にちょっとだけ触れた。すると、犯人は、壁に叩きつけられて、そのまま気絶してしまった。
 ここまでくると、俊一の心に恐怖という文字はなくなっていた。本当に、赤子の手をひねるよりも簡単とはこの事だ。俊一は今、スーパーマンである自分を、本当の意味で認識したのである。
 俊一は、すかさず人質たちの前に移動した。そこにいる犯人も、少しだけ壁の方に押してやると、やっぱり、吹っ飛んでいって、気絶してしまった。
 だが、さすがに、カウンターの前と、その奥にいる犯人たちには、銃を撃つだけの時間があった。
 俊一の耳に銃声が聞こえた。と、ほとんど同時に、弾が飛んできた。俊一にはその弾が見えた。しかも、スローモーションで。
 俊一は、さっと手を伸ばして、弾を空中でつかみ取った。なぜか、そんなこと当たり前にできる気がしたのだが、本当に、当たり前のようにできてしまった。さすがに、自分でも弾をつかんだあとでちょっとビックリした。
 俊一は、弾をパラパラと床の上に落とすと、銃を撃った犯人たちを睨んだ。
 犯人はパニックである。まさか、銃が効かない化け物が…… いや、スーパーマンが現れるとは、夢にも思っていなかったに違いない。しかも、その化け物…… いや、スーパーマンに睨まれたんだから、これはもうたまらない。
 ともかく、俊一は、残った犯人を片づけることにした。
 ところが。
「わーっ! 降参だ! 殺さないでくれ!」
 犯人二人は、持っていた銃を投げ出すと、手を上げて叫んだ。
 賢明な判断である。
 こうして、俊一の初仕事(?)は、あっけなく終わった。
 だが、問題はむしろ、そのあとであった。
 俊一は、犯人たちを机の上にあったガムテープで縛り上げているとき。ふと、人質たちの様子がおかしいのに気づいたのだった。
 人質たちは、犯人に銃を向けられているときよりも、さらに青白い顔で硬直していた。人間は、自分の理解を超える現象に直面すると、思考が停止するらしいが、今の人質たちがまさにそれであった。あるいは、銀行強盗より、もっと厄介な化け物に捕まったと思っているのかもしれなかった。
 俊一は、タメ息を付いた。そして、先代のスーパーマンが、どうして、表だって行動しなかったかの理由がわかる気がした。スーパーマンは、あまりにも異質な存在なのだ。
「終わったみたいね」
 美奈子の声がした。
「大橋さん! ダメじゃないか、降りてきちゃ」
「アハハ。なんか、心配でさ。でも、もう安全みたいだね」
「うん。みんな捕まえたよ」
「すごーい。やればできるじゃない。やっぱり、川村…… おっと、いけない」
 美奈子は、俊一の名字をしゃべりそうになって、慌てて口をつぐんだ。
 そのとき。
 美奈子も、人質たちが、俊一を見て怯えている様子に気が付いた。そして、俊一と普通に話をしている自分にも、その恐怖の視線が向けられているのを感じた。
「やだ。みなさん、もう大丈夫ですよ。彼はスーパーマンなんです。正義の味方ですよ」
 人質の中にざわめきが起こった。
「大橋さん。そんなこと話さなくていいよ。ぼく、もう帰るから」
「でも……」
 美奈子は、なにか言いかけたが、すぐにやめた。
「そうね。それがいいかも」
 すると。人質の中にいた幼稚園ぐらいの男の子が、俊一に近づいてきた。それに気づいた母親が、慌てて引き戻そうとしたが、すでに、その子は俊一の目の前まで行ってしまったのだった。
「お兄ちゃん、ホントにスーパーマンなの?」
 子供が言った。
「うん」
 俊一は、しゃがんで子供と同じ目線になると言った。
「どうやら、ホントにスーパーマンになっちゃったみたいだね」
「すごいや!」
 子供の目が輝いた。
「ぼく、スーパーマンのお兄ちゃんに助けてもらったんだね!」
「そう言うことになるかな」
「ねえ。明日、友達に話してもいい?」
「どうかな。信じてもらえないかもよ」
「そんなことないわ」
 美奈子が、その男の子の頭をなでた。
「きっと、みんな信じてくれるわよ。でも、君は、このお兄ちゃんが恐くないの?」
「ううん。ぜんぜん恐くないよ」
「ふふ。いい子だね」
 美奈子は、にっこりとほほえんだ。
「あの……」
 その子の母親が、恐る恐る声をかけた。
「あっ、ごめんなさい。もう大丈夫ですから」
 美奈子は、母親に子供を返した。
「あの…… ありがとうございました」
 母親は、美奈子と俊一に頭を下げた。
 すると、まるでそれが合図だったかのように、人質たちが、ワッと歓声を上げた。俊一が化け物ではないことと同時に、自分たちが本当に助かったのだということを理解したのだ。
「ありがとう、スーパーマン!」
 スーツ姿の男が俊一に握手を求めた。
「わたしは、当銀行の支店長です。いや、本当に助かりました」
「いいえ。とんでもないです。じゃあ、ぼくはこれで」
 俊一は、一刻も早く、この場から離れたいと思っていた。人から、化け物のように見られるのも悲しいが、正義の味方として見られるのも、非常に厄介な事態になりそうな予感がしたからだ。
「待って下さい。ぜひ、お礼をしたい」
「お礼なんてとんでもない。ホントに失礼します」
 俊一は、美奈子の腕を取ると、屋上に続く階段を慌ててかけ上った。
「ごめん、川村くん」
 美奈子が階段を上りながら言った。
「あたしが、スーパーマンだって言ったから、大騒ぎになっちゃった」
「もういいよ。それより、早く逃げなきゃ」
「アハハ。スーパーマンが逃げるって言うのも変だよね。でも、スーパーマンの正体は秘密でなきゃね!」
 美奈子は、笑いながら言った。
 ところが。
 屋上にでると、俊一と美奈子は、警察の特殊部隊に取り囲まれたのである。いつの間にか、数十人の警官が屋上に潜入していたのだ。
「動くな!」
 一斉に、銃が向けられる。
「ちょ、ちょっと、待って下さい!」
 美奈子が叫んだ。
「この人は怪しい者じゃないんです!」
 残念ながら、それはとても説得力のない言葉だった。赤いマントと「S」の文字が入ったタイツは、それだけで、とても怪しいのである。だいたい、警察にとっては、スーパーマンなどと言う存在自体、この世にいないことになっているのだ。
「手を上げて、地面に伏せろ」
 警察が言った。
「もう。まいっちゃうわね」
 美奈子は、手を上げながら、タメ息を付いた。
「川村くん…… じゃなくて、スーパーマンは、空を飛んで逃げた方がよさそうね」
「大橋さんはどうするの?」
「やめとく。飛んでるとき、お巡りさんに銃で撃たれたら痛そうだもん」
「痛いじゃすまないよ」
「だからやめとくわ。スーパーマンだけ逃げて」
「でも……」
「早く行って。警察に捕まったらマズイよ。正体がバレちゃうかも」
「ごめん」
「謝らないでよ。ついてきたのはあたしなんだからさ。さあ、早く飛んでいって」
「うん」
 俊一は、ふわっと浮かび上がると、猛スピードで上昇した。
「あっ」
 と、警察の特殊部隊たちは声を上げたが、文字どおり、あっと言う間に俊一は彼らの視界から消えたのだった。
 美奈子は、俊一と飛んで逃げなくて正解だったと思った。たとえ警察に銃で撃たれなくても、あのスピード飛ばれたのでは、普通の人間は無事ではないだろう。窒息して死ぬかもしれない。もう、俊一は完全にスーパーマンになってしまったのだ。


 その三。


 美奈子は、不条理を感じていた。
 スーパーマンは銀行強盗を捕まえた。まさに捕まえたのだ。決して殺したわけではない。そして人質も全員無事に解放した。もしも損害があるとしたら、屋上のドアノブをネジ切ってしまったことぐらいだ。
 お手柄ではないか。
 なのに、美奈子は警察の取調室で、恐い顔をした刑事に囲まれ、尋問という表現がふさわしい事情聴取を受けていた。
 なんか、腹立つなァ。
 美奈子は、心の中で悪態を付いた。
「大橋美奈子、十七歳。杉並区立高校の三年生。これで間違いないね?」
 刑事が言った。
「自分の名前を間違えるわけないでしょ」
 美奈子は、ふてくされたように言った。
「質問には正確に答えてもらいたい。間違いはないね」
「はい。間違いありません。これでいい?」
「君はあの屋上でなにをしていたのかね」
「なんにもしてません」
「その答えは君の印象を悪くするだけだよ」
「別に、刑事さんに好かれたいとは思いません」
「やれやれ。困ったお嬢さんだ」
「困っちゃうのは刑事さんの方です。スーパーマンは、一所懸命、銀行強盗を捕まえたんですよ。なのに、なんであたしが犯人みたいな扱いを受けるんですか?」
「そもそも、そのスーパーマンとは何者かね?」
「だから、さっきから言ってるでしょ。スーパーマンはスーパーマンです」
「お嬢さん。そろそろ、禅問答はやめようじゃないか。本当のことをしゃべってもらいたい。スーパーマンは何者なのか。そして、君は何者なのか」
「もう! 頭悪いわね、刑事さん! あたしは普通の高校生で、彼はスーパーマン。そう言ってるでしょ、さっきから」
「では、普通の高校生が、なぜスーパーマンと一緒にいたのかね?」
「それは、だから…… スーパーマンとは一週間ぐらい前に知り合って、ええと、突然、空から落ちてきたんです」
「どこに?」
「杉並の、住宅街です。あたしの家の近くです。あたし、家に帰る途中でした」
「なぜ、スーパーマンともあろう者が、空から落ちるんだ?」
「スーパーマンだって、疲れることあるわ」
「それで?」
「ええと、スーパーマンと話をしました。彼は、とんだところを見られたと恥ずかしそうでした。それで、あたしスーパーマンと親しくなったんです」
「ほうほう。それで?」
「信じてませんね、刑事さん」
「いいから、先を続けたまえ」
「とにかく、あたしはスーパーマンと親しくなって、なにか問題が起こったら、自分のことを呼んでくれと言われました」
「どうやって呼ぶんだい?」
「ええと…… そう、念じるんです。頭で」
 美奈子は、いかにもホントらしく聞こえるように、懸命に念じる振りをした。
「では、今、呼んでみてくれないかね」
「えっ! そ、それはダメです」
「どうして? 呼べるんだろ? テレパシーで」
 嫌なヤツ。と、美奈子は心の中で思った。
「ええと、その…… 本当に大変なことが起こったときしか呼んではいけないんです。今はそのときじゃありません」
「都合がいいな。では、なぜ銀行に現れたんだい」
「あたし、学校でラジオを聴いてたら、銀行強盗があったのを知って、スーパーマンを呼びました。だって、それってすごい大変なことでしょ?」
「君が一緒だったのは?」
「あたし、一度でいいから空を飛んでみたくて、スーパーマンに無理を言って連れていってもらったんです」
「それで、銀行の屋上に降りた?」
「そうです」
「屋上で、スーパーマンにキスをしているね」
「やだ。そんなことまで知ってるの?」
「新聞の号外にも載っているよ」
「えっ、嘘!」
「本当だとも。写真つきで、君がスーパーマンの恋人だと書いてある」
「ま、まいったなァ……」
「どうして、キスをしたのかね?」
「どうしてって言われても」
 美奈子は言葉に詰まった。
「納得できる説明をしてもらいたいね」
「刑事さんってイジワルですね。あたしが誰にキスしようとあたしの勝手です。たまたま、相手がスーパーマンだっただけです」
「ふうむ」
 刑事はうなった。
「これは、長年、警官をやって来た経験から言うんだがね。君の話はなにかを隠しているように聞こえるんだよ」
「あたし、なんにも隠してません」
「そうかね? もうひとつ言うとね。これはわたしの勘なんだが、君の話は、大筋で真実を語っているようにも聞こえるんだ」
「なんだ、わかってるじゃない刑事さん。あたし、嘘は言ってません」
「やれやれ」
 刑事は、肩すくめた。
「それにしても、スーパーマンとはねえ。しかも、その恋人まで出現したんだから、まいるよ。これも世紀末のせいかね?」
「さ、さあ?」
 美奈子は、ひきつった笑い顔で答えた。いつ自分がスーパーマンの恋人になったのか、こっちが聞きたいわよ。と、思いながら。

 翌日の新聞を待つまでもなかった。その日のうちに、号外が出たのである。見出しは予想どおりだった。
『スーパーマンは実在した!』
 そのまんまであるが、まさにその通りだった。実在してるんだからしょうがない。だが、塾の帰りに号外を買った俊一を驚かせたのは、見出しよりもやや小さく書かれた小見出しの方だった。
『スーパーマンの恋人! か?』
 この、スポーツ新聞の見出しのような部分には、銀行の屋上で、俊一のほっぺたにキスをする美奈子のアップが写っていたのだった。
「うわっ」
 俊一は、思わず新聞で顔を覆った。俊一が号外を買ったのは、駅の売店である。たくさんの人がいる。そして、美奈子のアップが写っているという事は、当然、自分の顔も写っているのだ。
 ところが、スーパーマンとだと気づく者はいないようだった。今の俊一は、眼鏡をかけているせいかもしれない。俊一は、取りあえずホッとして、顔を上げると、今度は号外の内容を食い入るように読んだ。
 おおよそ、記事の内容も二手に分かれていた。まずは、スーパーマンが実在したことの驚きで始まって、人質たちのインタビューから、スーパーマンが犯人をいかにして捕まえたかについて。もうひとつは、問題の美奈子についてだった。
 俊一は、自分の活躍した部分はすっ飛ばして、美奈子に関する部分を読んだ。なにしろ、ずっと気になっていて、塾に行っても(間に合ったのである)、勉強などまったく手に付かなかったのだ。
 だが、結局のところ、美奈子については『謎』ということになっていた。今現在、杉並警察署で取り調べを受けている最中らしい。
 俊一は、その記事を読んだとたん、杉並警察署に走り出していた。

 美奈子は、執拗な取り調べから解放された。警察としても、美奈子がごく普通の高校生であり、銀行強盗とのつながりを示すものは何もないと判断したためだ。
 スーパーマンについては警察内部でも意見が分かれたが、実際に大勢の警官が空を飛んで逃げて(?)いくスーパーマンを目撃している。もっとも、警察にとっては、スーパーマンが実在する真偽よりも、彼が犯罪者でないかどうかが問題なのだ。その意味で、スーパーマンは白と判断された。少なくとも、彼が犯人を捕まえたのは確かだった。
「家まで送ろうか?」
 取調室を出るとき、刑事が美奈子に言った。
「パトカーで?」
 美奈子は聞き返した。
「もちろん、そうなるね」
「大丈夫よ。ここからなら歩いて帰れるし、そんなことされたら目立っちゃうわ」
「こう言ってはなんだが、君はもう充分に目立っていると思うよ」
「まいったなァ。スーパーマンに怒られちゃう」
「どうして?」
「だって彼、目立つの嫌いだし。わかるでしょ?」
「理解はできるね。刑事も目立つのが嫌いだ。ところで、そのスーパーマンに会ったら伝えてくれないかな」
「なにを?」
「気が向いたら、警察に遊びに来て欲しいとね。ぜひ、ゆっくり話がしたい」
「尋問?」
「ハハハ。彼は正義の味方なんだろ。尋問などしないよ」
「じゃあ、どんな話をするっていうのよ」
「攻撃的にならないでくれたまえ。本当に、スーパーマンが犯罪者と闘う者なのならば、いわば、われわれとは同業者だ。親睦を深めたいと言ったところかな」
「本気で言ってるの?」
「もちろんだ。スーパーマンも警察と協力すれば、もっと効率的に犯罪と立ち向かえるだろう」
「ふうん。あたしは、警察がスーパーマンに協力すればだと思うけど」
「ハハハ。まあ、気をつけて帰りたまえ」
「どうも、お世話になりました」
 美奈子は、皮肉たっふりに頭を下げると、出口に向かって歩き出した。このあとすぐに、パトカーで送ってもらえばよかったと思うことになるのも知らずに。

 すでに日も暮れた警察署の出口で美奈子を迎えたのは、まばゆいフラッシュとシャッター音だった。数え切れないくらいの報道陣。無数のマイク。テレビカメラ。まるで獲物に群がるハイエナだ。
 美奈子は、パトカーで送ってもらえばよかったと、心の底から思った。だいたい、こういう状況になってるなら、そう言えばいいのに。あの刑事は本当にイジワルだ。とも思ったが、もう遅い。
「スーパーマンとの関係は?」
「スーパーマンはどこに住んでるんですか?」
「スーパーマンとはいつ出会ったんですか?」
「スーパーマンの恋人になった気分は?」
「スーパーマンとご結婚の予定は?」
 美奈子は面食らった。どうも、一流紙も三流紙も関係なくいるらしい。それにしたって、こう矢継ぎ早に聞かれたのでは、なにから答えていいのかもわからない。
「うるさーい!」
 美奈子は怒鳴った。
 とたん、記者たちの質問がピタッとやんだ。ただし、マイクだけは、一段と美奈子に近づけられた。
「あたしは、普通の高校生です」
 美奈子は落ちついた口調で言った。
「スーパーマンとは一週間ほど前、偶然出会いました。それだけです」
「しかし、銀行の屋上でキスなさっていましたが!」
 記者の一人が声を張り上げた。
「それは、その…… 別に深い意味はありません」
「あなたは、深い意味もなくキスをするんですか! 援助交際ですか!」
 な、なんで、あたしがこんなバカげた質問を浴びせられなければならないのよ! 美奈子は心の中で怒鳴った。
「答えたくありません! でも、あたし、意味もなくキスするようなことはしません」
 記者たちがウオーッと歓声を上げた。口々に、彼女が恋人宣言をしたぞとか、こりゃ、大スクープだとか、明日の朝刊は一面ぶち抜きだとか、勝手なことを言っている。
「だからァ、あたしは、バンドの練習の帰りに、偶然スーパーマンと出会っただけですってば!」
 美奈子は声を張り上げた。
「音楽をやってるんですか!」
「やってちゃ悪い?」
 美奈子は、さすがに腹が立ってきて、記者たちを睨みつけた。
 もちろん、百戦錬磨の新聞記者(芸能記者?)が、女子高生にガンを飛ばされたぐらいで怯むわけがない。
「スーパーマンはどんな音楽を聴くんですか?」
「スーパーマンもカラオケに行きますか?」
「スーパーマンは週に何回セックスを求めてきますか?」
「スーパーマンのお子さんは何人欲しいですか?」
 もうかんべんして。誰か助けて!
 美奈子は、天を仰いだ。
 すると、そこには、まさに天の助けがいたのだった。
「大橋さん! つかまって!」
「スーパーマン!」
 記者たちが一斉に叫んだ。目も眩むほどのフラッシュがたかれた。
 美奈子は、迷わず手を上げて俊一の腕をつかんだ。すると、急に重力を感じなくなって、宙に浮いた。
「いくよ!」
「うん!」
 俊一は、美奈子が苦しくないようにスピードを加減しながら上昇した。
 美奈子は、小さくなっていく記者たちにアッカンベーをした。このとき、自分がスカートをはいているのに気づいて、慌てて押さえた。
 とたん。
「きゃーっ!」
 美奈子は、俊一をつかんでいた手を離してしまったのだ。美奈子は重力にからめ取られるように自由落下を始めた。
 俊一は、スッと体の向きを変えて、自由落下より速いスピードで美奈子の下に回って抱き留めた。
「大橋さん、ぼくから離れちゃだめだよ」
「ああ、ビックリした」
「大丈夫?」
「うん、平気」
「このまま、家に送るよ」
「ううん。スーパーマンと一緒に帰ったら、お母さんが大変だから」
「ビックリするよね」
「うん…… ごめんね」
「じゃあ、近くまで」
「ありがと」
 俊一は、赤いマントで美奈子を包むようにすると、少しスピードを上げた。


 その四。


 翌日の朝刊のトップ記事は語る必要はないだろう。スーパーマンとその恋人。これだけの素材が揃えば、その紙面はおのずと想像がつく。まさに、盆と正月がいっぺんに来たような大騒ぎだったのだ。一番得をしたのは、その頃、不祥事が明るみに出た証券会社の幹部だろう。なにしろ、それまでトップ記事を飾っていたのが、今日ばかりは三面記事の小さな扱いになったのだから。
 しかも、この現象は日本だけのローカルな話ではなかった。ほとんど世界中の新聞のトップ記事がスーパーマンとその恋人の話題で埋め尽くされていた。
 もっとも、冷静に考えてみても、新聞社が大騒ぎするのは当然と思われた。なにしろ、スーパーマンが実在したのだ。おそらく、今世紀最大の…… いや、有史以来最大のニュースと言っても過言ではないかもしれない。すべての物理法則を無視した男がこの世にいたのだから。

 美奈子は、賢明にもその日は学校を休んだ。というか、家から一歩も外に出られない状況だったのだ。新聞記者、芸能記者、テレビ局、ただの野次馬、そして、交通整理のお巡りさんなどが、美奈子の住んでいるマンションの前に大挙して集まっていたからだ。
 それだけではない。電話は朝から鳴りっぱなし。どれもこれも、取材の申し込みばかりで、頭にきた美奈子は、電話線をジャックから引き抜いてしまった。
「お母さんごめんね」
 美奈子は、リビングでテレビを見ている(もち、スーパーマンの話題ばかり)母親に声をかけた。
「なにか、親に謝るようなことしたの?」
 母親は、テレビのボリュームを落として言った。
「だって…… こんなことになるとは思ってなかったから」
「美奈子に後ろめたいことがないのなら、わたしは気にしないよ」
 美奈子の母は、こともなげに言った。
 なんとも、この親にしてこの子ありって感じの母親だった。髪をショートカットにして、いかにもキャリアウーマンという趣である。
「後ろめたいことなんてないわ」
 美奈子が答えた。
「だったら、そんな暗い顔しないでよ」
「うん」
 美奈子は母親の隣に座った。
「ねえ、お母さん。会社は平気なの?」
「今日は休むわ」
「ごめんね」
「有休も溜まってたし、ちょうどいい骨休めね」
「でも、ご飯の買い物とかどうしようか?」
「それは深刻な問題だね」
 母親は、別に深刻でもない口調で言った。
「ねえ、お母さん。ピザとか注文したら、ちゃんと届けてくれるかなァ?」
 美奈子が言う。
「大丈夫よ。野菜とか買ってあるし、缶詰もあるわ。二、三日買い物に行かなくても飢えたりしないわよ」
「よかった……」
「なによ。まだ暗い顔してるわね」
「お母さん、スーパーマンのこと聞かないの?」
「そうね。聞きたいことは山ほどあるけど…… 今はひとつだけ聞くわ」
「なに?」
「スーパーマンと空を飛ぶ気分ってどんな感じ?」
 母親は、少しおどけた声で聞いた。
「アハハ。ふわふわして気持ちいいよ」
 美奈子は笑いながら答えた。
「やっと笑ったわね」
「お母さん、大好き!」
 美奈子は母親に抱きついた。

 そのころ。
 四谷三丁目にある、渡井(ルビ:わたらい)プロダクションの自社ビルで、緊急会議が行われていた。渡井プロダクションは、芸能プロの中でも最大手の会社である。
「大橋美奈子とは、まだ連絡がつかんのか」
 渡井社長が言った。
「すいません。さっきから電話してるんですが、どうも、電話線を抜いてるようです」
 社員が答えた。
「バカモン! 電話が通じないなら、彼女の自宅に行けばいいだろう」
「今は、報道陣が大挙してますよ。さすがに、タイミングが悪いです」
「まったく。どいつもこいつも。ほかのプロダクションの動きはどうだ?」
「太田プロあたりが狙ってるようです」
「また、太田のバカか。絶対、出し抜かれるなよ。業界最大手の底力を見せてやれ」
「はい。ですが社長」
「なんだ」
「本当に、大橋美奈子をうちでデビューさせるおつもりですか?」
「おつもりなんだよ。なんか、文句でもあるのか?」
「いえ。ただ、あまりにも急な決定だったもので」
「バカモン。どうして渡井プロダクションが業界最大手になれたと思ってるんだ。それはな。どんなチャンスも逃さなかったからだ。大橋美奈子を、スーパーマンの恋人としてデビューさせてみろ。いったいどれだけの金が転がり込んでくるか想像もつかん」
「確かにおっしゃるとおりです」
「そうだろう。絶対に、このチャンスを逃すなよ。石にかじりつこうが、なにをしようが、必ず、大橋美奈子をうちに引き込め。そのためなら、いくら金を使ってもかまわん。なんなら、大橋美奈子のマンションの前にいる新聞記者どもを、全員買収してもいい」
「本気ですか?」
「だから、そのぐらいのつもりで事に当たれと言っとるんだ、バカタレ」
「はい。すいません」
「謝る暇があったら、とっとと、大橋美奈子を落とす作戦を考えろ」
「はい!」

 なにやら、不穏な空気の漂う四谷三丁目であったが、さらに不穏な空気の漂う場所があった。そこは、横浜の港町にある倉庫街の一角であった。
「ドクター・ゲロ様。今日の朝刊でございます」
「うむうむ」
 金髪の髪を、垂直に逆立てて、顔を真っ白な白粉で塗りたくった、超イカレた男が新聞を受け取った。このオッサンを見たら志茂影樹も真っ青である。
「うむうむ。スーパーマンめ。あやつ、ついに代替わりしよったか。それにしても、今度のスーパーマンは、やけに情けない顔をしておるのう」
「これは、チャンスなのではございませんでしょうか?」
 部下の男が言った。
「うむうむ。わしもそう思っとったところじゃ。じゃがな。どんなに言っても、スーパーマンはスーパーマンじゃ。あなどれん」
「いかがいたしましょう?」
「うむうむ。こりゃ、かねてより開発しておった、ハイパーロドリゲス・スウィート三号、略して、スーちゃんを、一刻も早く完成させねばならん」
「ええっ。ついに、あの秘密兵器を!」
「うむうむ。今度こそ、スーパーマンをやっつけるのじゃ」
「ついに、ゲロ様が世界征服の野望を達成するときがまいりましたね!」
「うむうむ。世界征服じゃ。なんと、甘美な言葉じゃろうか。これほど、長く夢みて、ことごとくスーパーマンに妨害されてきた野望じゃ。もはや、失敗は許されぬ」
「御意にございます」
「うむうむ。そのためには、スーちゃんの完成を急ぐのじゃ。そして、チャンスを待つ」
「チャンスとおっしゃいますと?」
「うむうむ。スーパーマンの弱点を突くんじゃ」
「スーパーマンの弱点ですか?」
「うむうむ。この新聞をよく読んでみろ。スーパーマンの恋人が写っておる」
「彼女を利用するのですか?」
「うむうむ。正義の味方の弱点を、しつこく、しつこく、しつこく、しつこく、さらに、ねちっこく、ねちっこく、ねちっこく、攻めるんじゃ。ああ、考えただけで、うっとりしてくる」
「ゲロ様、好きですもんね。人の嫌がること」
「うむうむ。わしゃ、便所掃除が好きじゃ」
「そりゃ、嫌がること違いです、ゲロ様」
「うむうむ。ちょっと、ジョークを言ってみただけじゃ」
「ハハハハ。ゲロ様おもしろい」
「うむうむ。笑うのが遅いわい」
「失礼しました。ところで、この娘さんを、どのように利用なさるので?」
「うむうむ。それが考えついておれば苦労はないわい」
「つまり、まだ、なーんにも考えておられないのですね」
「うむうむ。はっきり言うな。ところで、今、何時じゃ?」
「ええと、そろそろ十時ですね」
「うむうむ。こりゃイカン。テレビを見ねば。NHKを出してくれ」
「また、『おしん』の再放送ですか?」
「うむうむ。わしゃ、アレが好きなんじゃ。おしんが不幸になっていく様を見ていると、もう、わしゃ笑いがとまらんでな」
「さすがゲロ様。普通、笑いませんよ。アレを見て」
 部下は、テレビのスイッチをつけた。
 すると、NHKのアナウンサーの顔が映った。
「本来ですと、銀河テレビ小説再放送の時間ですが、本日は、スーパーマン関連のニュースをお送りいたします。ご了承下さい」
「ええーっ! 今日はやりませんよゲロ様!」
「うむうむ。ガチョーンじゃ。恐るべしスーパーマン。銀河テレビ小説を中止にしてしまうとは、さすが、わが人生最高のライバルじゃな!」
「恐いですねえ、スーパーマンって」
 部下もうなずいた。
 おい! ほかにスーパーマンを恐れる要素はないのか! ←神(作者?)の声。

 そんなこんなで、策略と陰謀(?)が渦巻く東京シティであるが、美奈子の自宅では、母と娘が意外と平和な時間を過ごしていた。
「お母さん、キャベツって、こんな切り方でいいの?」
「こら。いくら春キャベツだからって、こんなに太く切っちゃダメよ」
「ごめんなさーい」
「音楽もいいけど、料理もできなきゃお嫁にいけないわよ」
「お母さんって、意外と古いこと言うなァ。今時、料理なんかできない女の子多いよ」
「スーパーマンは、料理のできない女の子も好きになるのかしら?」
「もう。だから違うってば」
「あら、そう? でも、食事ぐらい誘ってもいいんじゃない?」
「うちに?」
「そうよ。わたしスーパーマンと食事してみたいわ」
「なんか、お母さんてミーハーだね」
「悪い?」
「う~ん…… じゃ、考えとく」
「お願いね」
 と、この親子は、ノンキにお昼ご飯の準備をしているのだった。まあ、美奈子の母親は、ずっと会社勤めなので、昼間からのんびりキッチンに立つことなどほとんどないのだ。突然訪れた親子水入らずの時間なのであった。
 ところが、そんな平和をかき消すように、インターフォンの音が鳴り響いた。
「もう! こんなところまで記者が押し掛けてくるわけ?」
 美奈子は、インターフォンを睨んだ。
「お母さん、出なくていいわよ」
「そう言うわけにはいかないでしょ。電話を切ってあるから、緊急の用事だったら困るじゃない」
「まあ、そうだけど」
「安心なさい。記者だったら追い返すから」
 そう言って、美奈子の母はインターフォンを取った。
「はい。どちら様でしょうか? あら、警察の方。はい、少々お待ち下さい」
「警察?」
「ええ。きのう美奈子から事情を聞いた刑事さんだって」
「また、あいつぅ」
「こら。そんな風に言ってはいけませんよ」
 美奈子の母は娘をたしなめると、玄関を開けに行った。
「失礼します」
 きのうの刑事と、部下らしい若い刑事がリビングに入ってきた。
「どうぞ、狭いところですけど」
 と、美奈子の母。
「今、お茶を入れますから」
「いや、どうぞお構いなく」
「いらっしゃい。きのうの刑事さん」
 美奈子が、少しふてくれさたように言った。
「やあ、美奈子くん。わたしの名は、沢田だ。自己紹介しなかったかな?」
「聞いてないわ」
「それは失礼。それより、緊急で話があるのだが」
「なによ、話って」
「こら、美奈子。もっと丁寧な言葉を使いなさい」
「まあまあ、お母さん。お叱りにならないで下さい。お嬢さんは、今時の娘さんにしてはしっかりしてると思いますよ」
「刑事さん。お世辞はいいから、早く話しなよ」
 美奈子はツンと生意気な口調で言った。
「うむ。事は急を要することなんだ」
 沢田刑事は気分を害した様子もなく答えた。
「実は、南大西洋を航海中の大型客船が、嵐に巻き込まれていてね。しかも、悪いことに、エンジンの故障が重なったらしいのだよ。スーパーマンのニュースは世界中に配信されているから、その大型客船の親会社が、スーパーマンに救助を求めてきているんだ」
「それで、なんで刑事さんがうちに来るわけ?」
「スーパーマンと直接接触があるのは、君だけだ。そして、君を知っている政府機関はわたしだけなんだよ」
「なるほど…… スーパーマンを呼びたいわけね」
 美奈子は言った。確かにその価値がある事態に思えた。
「大型客船の乗員乗客、あわせて、三百五十六人が、現在、命の危険にさらされている。これを、ほっておけるかね?」
「おけないわね」
「うむ。なら、話は早い。さっそく、テレパシーでスーパーマンを呼んでくれたまえ」
「信じてなかったんじゃないの?」
「今は信じたいと思っている」
「美奈子。呼んで上げて」
 母が言った。
「う、うん……」
 さて、困った。まさか、こんな事態になるとは、美奈子自身思ってもみなかったのだ。きのう話したことは、ほとんど真実とは言え、テレパシーの話は大嘘なのである。
 だが……
「わかったわ。呼んでみる」
 美奈子は言った。
「ありがたい!」
「でも、ちょっと、あたしをひとりにして欲しいの。でなきゃ、彼を呼べないわ。言っとくけど、ひとりになる理由も聞かないで」
「いいとも」
 沢田刑事はうなずいた。
「では、我々は表で待つ」
「わたしも外にいた方がいい?」
 母が聞いた。
「ごめん、お母さん」
「いいのよ。刑事さんと話でもしてるわ」
 母は、にっこり笑うと、刑事と共に、外に出ていった。
 さあて。
 美奈子は、電話線を元に戻すと、学校に電話した。
「はい。杉並区立高校です」
 事務員のオバサンが電話に出た。
「あの、あたし、三年二組の川村の家族のものですけど、俊一をお願いします」
 美奈子は、わざと声のトーンを落として言った。
「お母さんですか?」
「いえ。ちょっと違いますが、その、急用なんです、お願いします」
「わかりました。少々お待ち下さい」
 美奈子は、時計を見た。十時半。この時間なら、授業に出ているはずだから、すぐに捕まるはずだ。
 五分ほど待たされた。なんとも長い時間だった。
 ふと、美奈子は、川村くんも学校を休んでるんじゃないかと思った。きのう、あれだけ活躍したのだ。朝になって、学校を休もうと思ったかもしれない。川村くんの家に電話をかけてから、学校にかけた方がよかったかな。などと、美奈子にとって、いろんな考えが交錯する五分間だった。
「もしもし」
 俊一が電話口に出た。
「ああ、よかった! あたし、美奈子よ」
「大橋さん! 大丈夫なの?」
「なにが?」
「だって、すごいことになってるみたいで、ぼく、もうどうしていいかわからないよ」
「あたしなら大丈夫。川村くんこそ平気?」
「うん。ぼくはなんともないけど」
「なら、よかったわ。それより大変なの」
「どうしたの?」
「うん。実はね」
 美奈子は、刑事から聞いた話を俊一に伝えた。
「と、言うわけなの」
 美奈子が話し終わると、電話口には沈黙が訪れた。
「川村くん?」
「うん」
「事情はわかったでしょ?」
「うん」
「あの…… もう、スーパーマンになりたくない?」
 美奈子は言った。さすがの美奈子も、事が大きくなってきたので、きのうの強盗事件のように強引な口調にはなれなかったのだ。
「そんなことないよ。大丈夫。きのうの強盗事件でずいぶん自信がついたから」
「よかった!」
「それで、どうしたらいいの?」
「うん。取りあえず、うちに来て。刑事さんが待ってるから」
「わかった。二分ぐらい待ってくれるかな。変身の場所を探なきゃいけないから」
「二分で来れるの?」
「飛ぶだけだったら、一秒も掛からないよ」
「すごーい!」
「ずいぶん慣れた。実はね、きのう、大橋さんを送ってから地球を何周か回ってきたんだ」
「ええっ、ホント?」
 美奈子は驚いた。まさかそこまで上達しているとは思ってもいなかったのだ。
「川村くんってすごいね。でも、いいなァ。あたしも飛んでみたいよ」
「うん。あの、もし、今度よかったら」
「今度なに?」
「ううん。なんでもない。じゃあ、そっちに行くから」
「待ってるね。あっ、そうだ。あたしとはテレパシーで交信したってことにしといてね」
「テレパシー?」
「アハハ。あとで説明するから。じゃあね」
 美奈子は電話を切った。もちろん、電話線を抜くのも忘れなかった。そして、外で待っている母と刑事を呼びにいった。

 俊一が、美奈子のマンションのベランダに現れたのは、一分十五秒後だった。ちなみに、ここは七階である。
「早かったね」
 美奈子は、ベランダのサッシを開けて俊一を出迎えた。
「うん。道が空いてたから」
「アハハ! それ最高!」
 美奈子は笑った。初めて聞いた俊一のジョークにしては、上出来だった。
「いらっしゃい。スーパーマン」
 美奈子の母が言った。
「こんなに早くお会いできるなんて、感激だわ」
「初めまして。ぼく、かわ…… その、スーパーマンです」
 なんか、マヌケな挨拶である。
「そろそろお昼だし、よかったら、食事を一緒にいかが?」
 と、母。
「オホン。あー、お母さん。申し訳ないのですが、事態は急を要しますんで」
 沢田刑事が遠慮がちに口を挟んだ。
「あら。そうでした。ごめんなさいね」
 母は刑事に謝った。
「と、いうわけで」
 美奈子が言った。
「こちらが、さっき話した刑事さんよ。ええと、沢田さんだっけ?」
「うむ。初めまして、スーパーマン。わたしが沢田です。お忙しいところ申し訳ない」
「こちらこそ初めまして」
 俊一は頭を下げた。
「ぼく、本物の刑事さんに会うのは初めてです」
「いや、わたしも本物のスーパーマンに会うのは初めてだ」
 そりゃそうだ。沢田刑事も、意外とマヌケな挨拶である。
「ねえ。バカな挨拶してないで、早く助けに行った方がいいんじゃない?」
「うむ。そうだった」
「南大西洋のどこなんですか?」
 俊一が聞く。
「詳しくは、親会社と連絡を取って欲しいが、大型の台風が発生しているらしい」
「ああ、アレか」
 俊一がうなずいた。
「わかるのかね?」
「ええ。わかります。きのうの晩、地球を何周かしたとき、大きな台風を見ました。そう言えば、台風って上から見るとすごく綺麗なんですよ。知ってました?」
「いや、初耳だ」
「そうですか。じゃあ、ちょっと行って来ます」
 俊一は、そう言うと、ベランダの窓から飛び去っていった。まるで、近所のコンビニに買い物にでも行くような気楽さだった。
「いってらっしゃーい!」
 美奈子は手を振って俊一を送った。
 すると、若い刑事が、
「ホントに、あんなんで大丈夫ですかね?」
 と、疑い深そうな口調で言った。
「ちょっと。自分たちで頼んでおいて、スーパーマンを疑うわけ?」
 美奈子は、ムッとしたように、その若い刑事に言った。
「いや、疑っているわけではないが……」
「まあまあ、みなさん」
 美奈子の母が言った。
「あとはスーパーマンに任せて、わたしたちはお茶でも頂きましょう。刑事さんも少しぐらいなら、時間大丈夫でしょ?」
「いいですな。いただきます」
 沢田刑事が答えた。
「実は、わたしハーブティに凝ってるんですよ」
 美奈子の母がハーブティを入れるのに、だいたい、七、八分掛かった。そして、それを飲む沢田刑事が、不味そうな顔で、美味しいですなんて答えたのが、十二分後だった。
 すると。
 急に美奈子たちがいる部屋が暗くなった。なにか、巨大なものが、太陽の光を遮ったようだった。
 美奈子たちはベランダの外に目をやった。と、同時に、腰を抜かさんばかりに驚いたのだった。なんと、俊一が、大型客船を片手に持って空に浮かんでいたのだ。
「刑事さーん」
 俊一が叫んだ。
「ぼく、この船をどこに持って行けばいいのか、聞くの忘れてました。どうしましょうか?」
 思考の停止する刑事たち。
 いち早く立ち直ったのは、やはり美奈子だった。
「スーパーマーン! 取りあえず、東京湾に浮かべてらっしゃいよ!」
「わかった!」
「そしたら、うちに戻ってきて! お母さんがご飯を一緒に食べたいって!」
「ホント? うれしいなァ。お腹空いちゃったよ!」
 そんなわけで、俊一の二回目の仕事も、無事に(?)終わったのであった。


 その五。


 俊一の客船救出から、十日の月日が過ぎた。
 スーパーマンは忙しかった。世界各地で発生する災害や、銀行強盗などの犯罪。その数は、本当に星の数ほどある。もちろん、俊一の体はひとつしかないから、そのすべてに対応できるわけではない。
 ところで、このころになると、スーパーマンとの連絡は、美奈子の手から離れていた。日本政府の肝いりで、スーパーマン連絡本部が警視庁に設置されたのである。スーパーマンには、絶対に逆探知しないという約束で、携帯電話を渡すことにしたのだ。
 スーパーマンこと、川村俊一も、この案を受け入れた。もちろん、美奈子を、これ以上煩わせたくなかったのがその理由だ。

「あっ、よかった。今日はいた」
 美奈子は、学校の屋上でパンをかじっている俊一を見つけた。
「大橋さん」
 俊一は、顔を上げた。
「隣、座っていい?」
「うん」
 美奈子は、俊一の隣に腰を下ろした。
「最近、忙しそうだね」
「うん。世界中に、こんなに沢山困ってる人がいるなんて知らなかったよ。それに、悪い人も沢山いる」
「そうだね。でも、きのうテレビで言ってたよ。スーパーマンがいるから、これからは世界中の犯罪発生率がどんどん低下するだろうって」
「そうなの?」
「うん。なんとか教授っていうのが解説しててね、その人が言うには、スーパーマンは、ものすごい犯罪抑止力なんだって。テロ組織なんかが、スーパーマンを恐れて活動を中止してるって言ってた」
「へえ。ぼくも役に立ってるのかな」
「立ってるよ。すごいと思う」
「大橋さんの方はどう?」
「あたし?」
「うん。新聞記者の方」
「アハハ。相変わらず追いかけ回されてる。学校の中にまでは来ないけど」
「ごめん。ぼくのせいだね」
「違うよ。あたしが悪いんだってば」
「そんなことないよ」
「ううん。あたしが悪い」
「ぼくだよ」
「あたしだってば」
「ぼく!」
「あたし!」
 とたん。
 俊一と美奈子は、なにをムキになっているのかと、急におかしくなって、どちらともなく笑い始めた。
 俊一は、笑いが収まってから言った。
「じゃあ、こうしようよ。大橋さんもぼくも悪くないけど、新聞記者が悪い」
「賛成」
 美奈子も答えた。
 それから二人は、お互いの近況を話し合った。俊一はこの十日で遭遇した事件の話をして、美奈子は、新聞記者の態度の横柄さを愚痴った。
「どうしたの? 大橋さん、なんか元気がないみたいだよ?」
 ふと、俊一は美奈子の声にいつもの勢いがないのに気が付いて言った。
「そう?」
「うん。なんとなく」
「やっぱり、スーパーマンには隠せないか」
 美奈子はちょっとタメ息をつきながら言った。
「ぼくは人の心まで読めないよ。テレパシーできないもん」
「あーっ。また言った。もう、テレパシーの話はしないでって言ったのに」
「アハハ。それで、どうしたの?」
「うん。実は、三日前から川村くんを探してたんだ。ちょっと相談に乗って欲しくて」
「ごめん。忙しくって」
「ううん。いいの」
「それで相談ってなに? 力仕事なら任してよ」
「アハハ。違うよ。ねえ、川村くん。渡井プロダクションって知ってる?」
「ごめん。知らない」
「芸能プロの中では最大手の会社なんだ」
「芸能界?」
「うん」
「そこがどうかしたの?」
「実は…… そこの社長さんから電話があって、あたしをスカウトしたいんだって」
「えっ! ホント?」
「うん」
「へえ。すごいや。大橋さん、音楽をやる夢が叶うね」
「そうだけど……」
「なにか問題があるの?」
「ある」
「どんな?」
「今、友達とやってるバンドじゃダメなんだって」
「どうしてさ」
「アハハ。みんな下手だからね」
「そうかなァ」
「聞いたことあるの?」
「練習してるところを何度か」
「うまいと思った?」
「下手だとは思わなかったよ。そりゃ、すごくうまいプロと比べたらわからないけど」
「自分で言うのもなんだけど、あたしたち、まだまだ下手だよ。もっと練習しなきゃ」
「じゃあ、その渡井プロダクションのスカウトは断るの?」
「悩んでる」
「ぼくに相談ってそのこと?」
「うん。それにね。結局、渡井プロダクションがあたしに声をかけるのだって、スーパーマンの恋人ってことで、有名になったからでしょ? 別に、あたしの歌がいいからって言うわけじゃないんだ。あたし、そういうのって、なんか嫌」
「わかるよ」
「あたし、どうしたらいいんだろう」
「難しいなァ…… でも、やってみる価値はあるんじゃないかな」
「そう思う?」
「うん。結局、最後は大橋さんの歌がよくなきゃダメなんだから、スーパーマンは、ただのきっかけだと思ったらどう?」
「きっかけか……」
「うん。それに、まずは大橋さんが歌でがんばれば、今のメンバーももっと練習して、また一緒にできるかもしれないし」
「そんな風に、うまくいくかな?」
「わかんないよ。でも、大橋さんならできると思うな」
「どうして?」
「だって、最初の銀行強盗を捕まえに行くとき、大橋さんぼくに言ったじゃない」
「なんて言ったっけ?」
「自分を信じろ」
「ひゃーっ。あたしってば、そんなこと言ったっけ?」
「言ったよ。やだなァ、忘れないでよ。大橋さんがそう言ったから、ぼく、銀行強盗を捕まえに行ったんだよ。あのときは、本当に、恐かったんだから」
「アハハ! そうか。自分を信じろか。あたし、いいこと言うよね」
「いつもの大橋さんに戻ったね」
「うん。あたし、やってみるよ。ありがと。川村くんに相談してよかった」
 俊一はふと、銀行強盗を捕まえに行ったときのことを思い出した。あのときは、美奈子に自分を信じろと言われて、そのあと、ほっぺたにキスをされたのだ。もしここで、俊一が美奈子にキスをしたら、まったくあのときの逆になるけど、それって、セクハラになるんだろうな。などと、考える俊一であった。
「どしたの?」
 美奈子が俊一の顔をのぞき込んだ。
「あっ。な、なんでもない」
 俊一は、慌てて、美奈子にキスをしている自分の姿を頭から払いのけた。
「そ、そうだ、大橋さん。ぼくの携帯電話の番号を教えておくよ」
「いいの? それって、政府専用でしょ?」
「大橋さんは、その政府が知らないことを知ってるんだけど」
「ウワォ。そうだった。あたしってば、すごいよね」
「はい。これが番号。ずっと渡したかったんだ」
 俊一は、メモに書いた電話番号を美奈子に渡した。
「ありがと。覚えなきゃね。そしたら、このメモは捨てるね。あら、この番号って、桁数が多くない?」
「政府専用だから」
「すごーい。なんか、スパイになった気分」
「そこに電話してくれれば、いつでも飛んでいくよ」
「川村くんの場合、ホントに飛んで来るんだよね」
「うん。テレパシーはできないけどね」
「あーっ、また、それを言う!」
 美奈子は、俊一の背中をポカポカと殴った。
「アハハハハ」
 俊一は笑った。


 その六。


 美奈子は、四谷三丁目にある渡井プロダクションの社長室にいた。正直言って、美奈子はかなり緊張していた。それは、渡井社長の顔が、厳しいビジネスマンのそれだったからだ。まだ十七歳の美奈子にとって、ビジネスの世界はまさに異世界だった。
 ところが。
「いや、よく来てくれました。わたしが渡井です」
 渡井は顔一杯の笑顔で美奈子を迎えた。
「初めまして」
 美奈子は、渡井社長が差し出した右手と握手しながら頭を下げた。内心、腰砕けと言った感じだ。
「いやあ、君がうちに来てくれて本当にうれしい。もう、全社上げて君をバックアップする構えだ。すでにアルバム制作の話も決まっていてね。聞いて驚かないでくれたまえ。プロデューサーは、あの氷室哲夫だよ。まずはシングルを一枚出して、夏までにはアルバムを出す。それに合わせてデビューコンサートを行う。いや、我ながら完璧だ」
「あ、あの」
 美奈子が口を挟もうとした。
「そうだ、忘れていた。彼が君のマネージャの立花くんだ。これから、美奈子くんの面倒は彼が見る」
「よろしく、大橋さん」
 立花が挨拶した。
「どうも、よろしくお願いします」
 と、美奈子。
「そうそう、それから」
 またもや渡井がしゃべり始めた。
「美奈子くんは、今まで記者たちの取材をほとんど受けていないようだが、もし、差し支えないようなら、インタビューにも応じてもらえないだろうか。記者たちへの受けも大切だからね」
「ちょ、ちょっと、待って下さい!」
 美奈子は慌てて口を挟んだ。
「おお、そうだ。待つで思い出した。この業界は時間厳守だ。そりゃ、大物になりゃ話は別だがね。ともかく、新人が時間に遅れることは許されん。これはあくまでも一般論だが、最近の若い子はどうも時間を守らない子が多いようだ。いやいや、もちろん美奈子くんがそんな子ではないのはよーくわかっているが、一応、社長としては、その辺のことも頭に入れて置いてもらいたいと思う」
「もちろんです」
 美奈子は答えた。
「それより、さっきのインタビューの件ですけど」
 ところが、渡井は美奈子を無視してふたたびしゃべりだした。
「そうそう、それと、学校の方は休学した方がいいと思う。これからは、芸能活動が忙しくなるわけだから、無理をして体をこわしたら大変だ」
 もはや、美奈子は限界に達した。こういう場合、美奈子は黙って聞いていられる女の子ではないのだ。
「あー、もう! ひとりでベラベラうるさいわね!」
 ついに爆発する美奈子であった。
 とたん。社長室にいた、社員たちの顔が凍った。
「社長だかなんだか知らないけど、ひとりで勝手に決めないでださい。あたしは、インタビューなんかに応じるつもりはありません。そりゃ、歌のこととか聞かれるんだったらいいけど、スーパーマンのことは、一言も話すつもりはありません」
「これはこれは」
 渡井社長は、恐縮したように言った。
「もちろんそうだとも。いや、わたしもそうじゃないかと思ったんだ。うん。それは美奈子くんの好きにしてくれてかまわない。インタビューの件は忘れてくれ」
「もうひとつ」
 と、美奈子。
「あたし、学校を休学するつもりはありません。来年には卒業できるんですから、ちゃんと通うつもりです」
「待ってくれ。誤解してもらっては困るが、わたしは、美奈子くんのためを思って言っているのだ。学業と芸能活動の両立は大変だよ」
「だったら、学業を優先します」
「う~ん…… 芸能プロの社長としては、「はい。そうですか」とは言いにくいが、美奈子くんは特別だ。この件も好きにしてかまわない」
「特別? あたしは特別ですか?」
「もちろんだとも。君はスーパーマンの恋人だ。わたしはスーパーマンを人類の宝だと思っている。偉大な人物だ。その恋人である美奈子くんが特別な存在なのは当たり前ではないかね」
「でも、あたしスーパーマンの恋人ではありません。本当に偶然出会っただけなんです」
「世間はそう思っていないし、わたしも思っていない。とにかく、美奈子くんはなんにも心配しないで、わたしたちに任せてくれればいいんだよ」
「ふう……」
 美奈子はタメ息をついた。またしてもスーパーマンの恋人というレッテル(?)に縛られている。
「そこでどうだろう、美奈子くん」
 渡井が続けた。
「学校七割、芸能活動三割ってところでがんばってもらえないだろうか?」
 美奈子は社長の言葉を聞いて、ふと脳裏に、スーパーマンでありながら、それを誰にも知られることなく学校に通っている俊一の顔が頭に浮かんだ。
 美奈子は、好き勝手に、学校と芸能活動を選ぶことができる。でも、俊一にその自由はないのだ。スーパーマンの仕事で授業に出れないことがあれば、なにをしていたんだと先生に怒られる。実際、美奈子は、俊一が怒られているところを何度か目撃していた。そのたびに、美奈子は先生に真相を話したくなるが、それは許されない。
 なのに。
 美奈子は思った。
 なのに、あたしが、ここでワガママを言っていいの? 川村くんがあんなにがんばってるのに、あたしは逃げ出してもいいの?
 いいわけない。
 美奈子は、気丈な顔で、社長に言った。
「いいえ。学校も芸能活動も、両方ちゃんとやります」
「おお! それは頼もしい」
 渡井は満面の笑顔で言った。
「でも、ひとつお願いがあります」
 美奈子が言う。
「なんだね。なんでも言ってくれたまえ」
「これを見て下さい」
 美奈子は、バックから楽譜のノートを取りだした。
「あたしが今までに書いた曲です。バラードが中心ですけど、これを見てから、あたしがどんな歌を歌うべきか考えて下さい」
「ほお。自分でも曲を書いていたのか。それは是非、拝見したい」
 渡井社長は美奈子から楽譜を受け取った。
「ありがとうございます」
 美奈子は頭を下げた。
「いやいや。礼を言いたいのはわたしの方だよ。さて、これから詳しい話をしたいが、わたしはこれからテレビ局周りがあるんでこれで失礼するよ。では、デビューコンサートまでわずか半年しかないが、がんばってくれたまえ」
「はい。がんばります」
 美奈子は、立花に先導されて社長室を出ていった。
 美奈子が社長室を出ていくと、渡井の顔が、いつのも冷酷なビジネスマンに戻った。
「ふん。なまいきなガキだ」
 渡井は、受け取った楽譜を開くこともなく、ゴミ箱に捨てた。
「いいんですか、社長」
 秘書らしい男が言った。
「なにがだ?」
「インタビューの件で、あんな約束をしたことですよ」
「バカタレ。この業界に約束などと言う言葉が存在するものか」
「それはそうですが、大橋美奈子は、そう思いませんよきっと」
「あのじゃじゃ馬も、こっちの水を飲めば気が変わるさ。そうすりゃ、自分からもっと有名になりたがって、なんでも話すようになる。それより、おまえはスーパーマンの話題がどれだけ続くと思う?」
「さあ、どうでしょう。二、三年ですかね?」
「長くてな。オレは一年と見てる。だからこそ、大橋美奈子を一刻も早くデビューさせたいんだ」
「チャンスを逃がすな。ですね」
「そうだ。あのじゃじゃ馬は学校と両立するなんてバカなことを言ってるが、うまく丸め込んで、芸能活動に専念させんとイカンな」
「その辺は強情そうですよ」
「ふむ…… なにか手を考えよう。まあ、金を湯水のように使わせりゃあ大丈夫だとは思うがね」
「一度贅沢を知ったら抜けられませんからね」
「そういうことだ。二、三年して人気が落ちてきたら、ヘア・ヌードでも撮らせて、使い捨てればいいさ」
「さすが社長」
「ふん。せいぜい、儲けさせてもらうさ、あのじゃじゃ馬にな」
 渡井社長はそう言って笑った。

 そのころ。
 俊一はアメリカにいた。
 この日、ロサンゼルスを、震度六の地震が襲ったのだった。そんなわけで、俊一は、ロサンゼルスの市街地にある高層アパートを支えていた。
 消防隊員たちは、倒れゆくアパートをスーパーマンが支えている間に、中に住む住人たちを避難誘導していた。
 スーパーマンにとっては、楽な仕事だ。たかが十五階のアパートを支えるなんて、発泡スチロールの箱を持つようなものだからだ。実際、俊一は、ビルの重さをまったく感じていなかった。
 もちろん、俊一は、ただアパートを支えているだけではなかった。得意の(?)透視能力を発揮して、隊員たちにビルの中のどこに、何人の住人が残っているのかを伝えていた。この能力は、絶大な効果をもたらした。通常、ビル災害の場合、救助隊員の二次災害の問題が大きい。崩れる壁をくぐりながら、ビル全体を捜索することは、事実上不可能なのだ。だが、スーパーマンからの的確な情報があれば、救出作業は楽に進む。
 それにしても、いい天気だった。ぽかぽかといい陽気で、災害の現場にはとても似つかわしくない雰囲気だ。きっと、災害に関係ない人たちは、のんびり昼寝でもしてるんじゃないかと思ってしまう。まさに、そんな日だったのだ。
 よかったァ。今日は楽ができるな。
 最近のハードワークに、いささか疲れていた俊一は、あくびをかみ殺しながら、そんなことを考えていた。なにしろ、スーパーマンの仕事と、学業を両立させなければならないのだ。実際、睡眠時間もかなり削っている。
 幸運なことに、今日の仕事は、本当に楽に終わりそうだった。逃げる住人たちは、意外なほど落ちついていて、心配していたパニック状態に陥るような気配はなかった。どうやら、スーパーマンがいるというだけで、心理的にすごく安心できるらしい。彼がいれば大丈夫。なにが起こっても、彼が助けてくれる。人々に、そう思わせる存在がスーパーマンなのだ。
 あとは、十四階の女の子だけだな。
 俊一は、のんびりと考えた。
 十四階に、崩れた壁の下敷きになっている女の子がいた。怪我をしているようだが、命に別状はないように思われた。そして、隊員たちは、最後の救出作業を懸命に行っていた。もう少し時間が掛かりそうだが、なんとかなるだろう。
 俊一は、そんな気楽な気分でいたのだった。
 ところが。世の中そんなに甘くなかった。
「スーパーマン!」
 消防隊員の隊長が、ビルの下から拡声器で叫んだ。もちろん、英語だ。
「十四階の少女の救出には、もう少し掛かりそうだ。崩れた壁が予想以上に厚い」
 俊一は、英語をちゃんと勉強しておいてよかったと思いながら答えた。
「がんばってください。ぼく、何時間でも支えていられますから」
「ありがとう!」
 隊長は礼を言うと、隊員たちに指示を与えるためにアパートの中に入っていった。
 そして、十分近くが経過した。
 このとき、状況が一変する事態が起こった。
 なんと、命に別状がないと思われた少女が、急に、心臓発作のような症状を見せ始めたのだ。まさに、病状の急変だった。
 俊一は、透視しながら、気が気ではなかった。しかし、ビルから手を離すわけにはいかない。それどころか、ちょっとでも力を緩めれば、危ういバランスで傾いているアパート全体が崩壊しかねなかった。ビル全体が頑丈ならば、それを支え続けることはなんの苦もないのだが、砂で作ったお城が、いったん崩れ始めたら、それを食い止めることはできないのだ。
 俊一は、イライラしながら、救出が終わるのを待っていた。少女の命が心配だ。少女は苦痛に満ちた顔で、口から泡のような物を吐き出していた。
 そのとき。隊長が、斜めになった窓から顔を出した。
「スーパーマン。女の子の症状がひどい。医療隊員の話では、今すぐにでも応急処置をしなければ…… いや、それでも手遅れかもしれないらしい」
 隊長は報告した。
「壁はまだ切り崩せないんですか?」
 俊一は、隊長を責めるような口調で言った。
「まだだ。状況は厳しい。おそらく、あと、三十分以上掛かる」
「そんな! そんなに時間をかけたら!」
 隊長は、残念そうに首を振った。その顔は、苦渋に満ちていた。
「すいません…… 隊長さんの責任じゃないのに、ぼく」
「いいんだ。我々は最善を尽くした。もちろん、スーパーマンもだ」
「でも、ぼく、あの子を見殺しにできません」
「なにか、手があるかね?」
「できるかどうかわかりませんが、ビルから手を離して、崩れてしまう前にぼくが助けに行きます」
「危険だな。壁が少しでも動けば、少女は押しつぶされる」
「でも、このままでは、あの子は!」
「わかった。賭けてみよう」
 そう言ったあとの隊長の行動はすばやかった。ただちに、隊員たちをアパートから撤去させ、同時に、アパートが崩れても安全な位置まで、下にいる住人や野次馬を非難させたのだった。その間、わずか三分だった。
 だが、発作を起こしている少女には、三分でも長すぎる時間だった。
 俊一は、全員の避難が終わったのを確認すると、一回、深呼吸をしてビルから手を離した。そして、まるで弾丸のように、ビルの壁を突き破って中に進入した。
 少女のいる位置は、完全に把握していた。俊一は、一直線に、内部の壁を突き破って進んだ。だが、全速力というわけにはいかない。そんなことをしたら、俊一が壁を突き破る振動で、少女を押さえつけている壁が、容赦なく少女を押しつぶすだろう。
 ビルは傾きを増していた。アパートの内部の壁が自らの重みで崩れていく。
 どうか、あの子の上にある壁が動いていませんように!
 神に近い力を持った俊一も、そう祈らずにはいられなかった。
 俊一は、少女の場所に到着した。一刻の猶予もなかった。俊一は、少女を押さえつけている壁を払いのけると、その子を抱きかかえて、外に飛び出した。
 すると、ほぼ同時に、アパートは完全に崩壊したのだった。
 俊一は、ただちに、医療隊員のもとに少女を運んだ。そして、すぐさま、応急処置が始まった。
 だが……
 少女はすでに息を引き取っていた。医療隊員の懸命の努力にも関わらず少女が蘇生することはなかった。
 いい天気だっだ。暖かい太陽の光が、永遠の眠りについた少女の顔を照らしていた。その顔に、もう苦痛の表情はなかった。
 沈痛な空気が、隊員たちと俊一を襲った。
「もっと早く……」
 俊一はつぶやいた。
「もっと早く、ぼくが助けに行っていたら……」
「それは違う」
 隊長が言った。
「スーパーマンに責任はない。もしも、この子の命を救えなかったことを責められる者がいるとすれば、それはわたしだよ」
「ぼくの責任です。ぼくは、あくびをしながらビルを支えていた」
 隊長が、ポンと俊一の肩に手を置いた。
「自分を責めるな。我々は、考えられるもっとも正しい道を選択した。この世に完璧はないのだ。完璧を求め始めたら、我々は、一歩も前に進めなくなってしまうだろう。たとえ、悩みながらでも前進しなければいけないよ」
「でも……」
 俊一の瞳に、涙があふれてきた。
「わたしはスーパーマンの正体を知らないし、知りたいとも思わない。でも君が、我々と同じ心を持っているのがわかってうれしい」
「うっ……」
 俊一は泣いた。肩を震わせながら泣いた。俊一はこのとき、スーパーマンが万能ではないことを、思い知ったのであった。
 いい天気だった。その日、ロサンゼルスの空は晴れ渡っていた。


 その七。


 美奈子は、渋谷にあるスタジオにいた。渡井社長と会った次の日から、さっそくレッスンが始まったのだ。今日は、午前中いっぱいレッスンを受けて、学校には午後から行く予定だった。
 美奈子が、ロサンゼルスの災害を知ったのは、きのうの晩だったが、日本にも詳しい内容が伝えられたのは、翌日の朝刊だった。美奈子は、レッスンの合間の、わずかしかない休憩時間にそれを読んだのだった。
 美奈子は、一面の写真を見たとたん、キュンと胸が締め付けられた。掲載された写真は、スーパーマンが、肩を落として涙を流しているところだったのだ。
 ひとりの少女のために。
 それが記事の見出しだった。そして、記事の内容はおおむねスーパーマンに同情的だった。だが、社説の中で、スーパーマンの状況判断が適切であったかどうか、多少の疑問もあると指摘されていた。
 美奈子は、その社説を読んで心穏やかではなかった。
 スーパーマンは今、悲しんでいるに違いない。少女を助けられなかったことで、ひどく落ち込んでいるに違いない。そして、それを誰にも打ち明けられず、たったひとりで辛い現実に立ち向かわなければならないのだ。
 美奈子は、スーパーマンを想った。いや、美奈子にとってスーパーマンは、川村俊一のことだ。だから、美奈子は、俊一に会いたいと思った。彼の話を聞いて上げられるのは自分しかいないのだから。
「大橋さん!」
 オカマのようなダンスの先生がきつい声を上げた。
「とっくに休息時間は終わってますよ。いつまで休んでるつもり?」
「はい……」
 美奈子は顔を上げた。
「いやだ、あなた泣いてるの? たった二時間のレッスンでもう音を上げたわけ?」
「ち、違います!」
 美奈子は、涙をぬぐい取った。いつの間にか自分が泣いているのに、今初めて気づいたのだった。
「あらそう。だったら、ビシビシいくわよ!」
 美奈子は立ち上がった。今は、自分のやるべき事をやろう。そう思った。

 四時間のレッスンが終わると、美奈子はバックを抱えて、スタジオの出口に走った。
 すると、マネージャーの立花が美奈子を呼び止めた。
「大橋さん。車で送るよ」
「いいです。電車の方が早いし」
「おいおい。大橋さんは、うちの大事な新人だよ。電車なんかに乗せたら、ぼくが社長に叱られる」
「そんなの黙ってればわかりませんよ。だいたい、まだデビューもしてないのに、車なんかで学校に行けません」
「やれやれ。本当に強情だねえ」
「すいません。あたし急ぐんで」
「待って。これ、社長から預かってきたんだ。今月の分」
 そう言って立花は分厚い封筒を美奈子に渡した。
「なんですかこれ?」
「三百万入ってる」
「お金?」
 美奈子は眉をひそめた。
「ああ。これで、好きな物を買うといいよ」
「いりません、こんなもの!」
 美奈子は、封筒を立花に突っ返した。
「いらないって…… ちょっと待った。大橋さんなにか勘違いしてないかい? これは君が芸能人として自分を磨くために使うお金だよ」
「だから、こうしてレッスンを受けてるんじゃないですか」
「違うってば。レッスンとは別に、いろいろやることがあるだろ」
「なにをですか?」
「ええと、たとえば、好きなアーティストのCDやレコードを沢山買い込むとか、映画を見るとか、おいしい物を食べるとかだよ」
「CDやレコードはともかく、おいしい物を食べるのが勉強ですか?」
「そうだよ。優雅さが身に付く」
「それなら大丈夫です。あたしのお母さん料理上手ですから」
「そういう問題じゃない。とにかく、受け取ってもらわないと困るんだ。本当に、ぼくが困るんだよ」
「だったら、立花さんが使えばいいわ。あたし、受け取ったことにしておいてあげるから」
「ホント?」
「ええ。どうぞお好きに。じゃあ、ホントに急ぐんで」
 美奈子はそう言うと、一目散にスタジオを出ていった。

 美奈子は、俊一が学校を休んでるんじゃないかと、少し心配だった。でも、昼休みに間に合えば、俊一は屋上でパンをかじっている。きっと彼はいる。なぜか、そう確信していた。とにかく今は、一刻も早く学校に行きたかった。
 学校に着いたのは、昼休みが終わる十五分前だった。美奈子は、一目散に、屋上に続く階段を駆け上った。
 美奈子が思ったとおり、俊一はいた。ただ、パンはかじっていなかった。
「川村くん!」
 美奈子は息を切らせながら、俊一を呼んだ。
 俊一は、ゆっくりと美奈子の方に顔を向けた。
「やあ」
「あ、あの……」
 美奈子は、勢いよく名を呼んだわりに、次ぎの言葉が浮かばなかった。
「あの、その…… 隣、座っていい?」
「うん」
 美奈子は、俊一の隣に腰を下ろした。
「今日は休んでるんじゃないかって心配しちゃった」
 美奈子は言った。
「でも、なんでか、川村くんは絶対、ここにいるって気がした」
「うん」
 俊一は、遠くを見つめていた。
「川村くん、あの…… あんまり思い詰めちゃダメだよ」
「うん」
「しょうがなかったんだよ。隊長さんもそう言ったんでしょ?」
「うん」
「川村くんは一所懸命やったんだよ」
「やってないよ」
「どういうこと?」
「ぼくは、もっと早くあの子を助けに行くべきだった」
「あたし、記事を読んだだけだけど、あの子の病状は急に変わったんでしょ? それに、ビルに振動を与えられる状況じゃなかった」
「そうだけど……」
「ねえ、川村くん。こんなこと言うのは辛いけど、きっとこれからも似たようなことがあると思う。そのたびに落ち込んでたら、身が持たないよ」
「そうだね…… スーパーマンは万能じゃない。それがよくわかった」
「だけど、誰よりも多くの人を助けられるわ。決して、万能じゃなくても」
「わかってる」
 俊一は、遠くを見るのをやめて、美奈子に向き直った。
「ぼくね。今、あの女の子の顔を頭に焼き付けてるんだ」
「えっ?」
「あの子をもっと早く助けに行けば助けられたかもしれない。でも、隊長さんの言う通り、無理だったかもしれない。それは、誰にもわからない」
 俊一は、そう言って言葉を切った。
 美奈子はふたたび俊一がしゃべりだすのをじっと待った。
「でもね」
 俊一がポツリと言う。
「ぼく、あの子のことを絶対に忘れないよ。そうじゃなきゃ、これからスーパーマンをやっていく資格はないと思う」
「川村くん……」
 美奈子は、俊一の瞳から目が離せなかった。まるで、俊一に吸い込まれていくような気がした。そして、心臓の鼓動がどんどん早くなっていくのがわかった。このままいったら、破裂してしまうんじゃないかと思うぐらいに。
 俊一は、ふたたび遠くを見つめた。
「スーパーマンは万能じゃないんだ。たった一ヶ月しかスーパーマンをやってないくせに、なんでもできるような気になっていた。ぼく、恥ずかしいよ」
「自分を……」
 美奈子は、胸の高鳴りを押さえて、小さな声を出した。
「なに?」
 俊一は、また、美奈子に向き直った。
「自分を信じて」
 美奈子は、俊一を見つめながら言った。
「うん」
 俊一は美奈子にうなずいた。
 そのとき。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「もう行かなきゃ」
 俊一は立ち上がった。
「うん」
 美奈子も立ち上がる。
 そのとき。俊一の携帯電話が鳴った。

 結局、俊一は午後の授業に出れなかった。あのあとすぐ、ベトナムの水害救助に行かねばならなくなったのだ。
 美奈子は、授業を上の空で聞きながら、俊一のことを考えていた。ちょうど、美奈子の好きな世界史の授業だったから、ちゃんと先生の話を聞きたいと思っても、頭に浮かぶのは俊一のことばかりだった。
 川村くんは、女の子の死を悲しんでいたけど、それだけじゃなかった。
 美奈子は思った。
 ちゃんと、スーパーマンである自分に立ち向かっていた。それは、スーパーマンの力なんかじゃない。川村くんの力なんだ。
 美奈子は、また、胸が高鳴っていることに気がついた。そして、それを押さえることができないこともわかっていた。
 あたしは川村くんが好きなんだ。スーパーマンの川村くんも、そうじゃない川村くんも大好き。
 美奈子は、机に広げたノートに、川村俊一と書いた。そして、今度は、川村とだけ書いて、その下に美奈子と書いた。川村美奈子。
 美奈子は、慌てて、俊一の名と自分の名を消した。
 あたし、スーパーマンの恋人になりたい。みんなが勝手に言ってるんじゃなくて、本当に、本当の意味で、スーパーマンの恋人になりたい。川村くんの恋人に!
 それはもう、どうしようもないほど美奈子の胸を焦がす想いだった。
 今度会ったら、告白しよう。
 美奈子はそう誓った。
 川村くんに会って、ハッキリ言うんだ。あなたが好きですって。
 でも、今度はいつ会えるかな? いつも、川村くんは忙しいし、あたしもなんだか忙しくなってきちゃった。
 そうだ!
 今日の夜、川村くんの家に行ってみよう。もう、一秒だって待てないよ。
 でも、もしいなかったら?
 ううん。そうしたら、川村くんが帰ってくるまで待っていよう。そうよ。絶対、今日中に告白しよう。こんな気持ちのままでいたら、あたし、なんにもできないもん。
 終業のチャイムが鳴った。いつの間にか授業は終わっていた。

 美奈子が校門から出ると、いつものごとく、新聞記者たちが待ちかまえていた。しかし今日は、その数がまた一段と多い。
「大橋さん、コメントお願いします」
「きのうのロサンゼルスの災害をどう思いますか?」
「スーパーマンには会いましたか?」
 美奈子は、記者たちを無視して歩き始めた。これから、夕方のレッスンを受けるために、ふたたび渋谷に行かなければならなかった。
「大橋さん、一言ぐらいお願いしますよ」
 記者たちは、しつこくつきまとった。
「あの災害で、女の子が死んだのは、スーパーマンの責任だと言う意見がありますが」
 美奈子は立ち止まった。それは、聞き捨てならない言葉だった。
「今、なんとおっしゃいましたか?」
 美奈子は、言葉を発した記者を睨みつけた。
 記者は、魚が餌に食いついたとばかりにマイクを向けた。
「スーパーマンは、もっと早く女の子を助けに行くべきたっだと言う話があります」
「それを言った人は、なにもわかっていないと思います」
 美奈子は、記者たちを喜ばせないように、感情を押し殺して答えた。
「と、おっしゃいますと?」
「あたしが知っている話では、あのビルはとても脆かったそうです。スーパーマンが壁を破って中に進入したら、その振動で、女の子は押しつぶされていた可能性があるそうです」
「それは、スーパーマンから聞いた話ですか?」
「いいえ違います。報道されている記事を読みました」
「では、スーパーマンには会っていないのですか?」
「言いたくありません」
「会ったんですね?」
 美奈子は、もうこれ以上記者の相手をするのは不毛だと思った。
「もう、お話しすることはありません」
「待って下さいよ。スーパーマンは反省してないんですか?」
「反省ですって?」
 美奈子は、一瞬、その記者を殴りそうになった。
 俊一の言葉が鮮明に蘇ってくる。

『ぼく、あの子のことを絶対に忘れないよ。そうじゃなきゃ、これからスーパーマンをやっていく資格はないと思う』

 この言葉を、記者たちに聞かせてやりたい。本当にしゃべってしまいたい。
 美奈子は、決して記者たちの前で感情的になるまいと決めていた。でも、もう、耐えられなかった。
 そう。今までは、川村俊一を友達だと思っていた。だから、無礼な態度の記者たちにも耐えられたのだ。
 でも、今の美奈子にとって、俊一はただの友達ではない。
「スーパーマンは……」
 美奈子は絞り出すように声を出した。
「スーパーマンは、機械じゃありません。たとえ、どんな理由でも、人が死んで平気でいられるわけがないわ」
「ですが、それとこれとは問題が違いますよ、大橋さん」
「なによ! なんにも知らないくせに!」
 美奈子は叫んだ。
「スーパーマンが悪者だと思うなら、勝手にそう書きなさいよ! 誰にどんな記事を書かれたって、スーパーマンはそれでも、人を助けに行くわ! 今日も、明日も、そのずっと先もよ!」
 記者たちは、美奈子が突然爆発したので、さすがに面食らった。さらに記者たちを驚かせたのは、美奈子の瞳には、あふれんばかりの涙が溜まっていたことだった。ただし、カメラマンは、そんな美奈子をしっかりと捉えていた。
「い、いや、大橋さん、誤解してもらっちゃ困るな。ぼくらはなにもスーパーマンを悪者だなんて思ってませんよ」
 記者の一人が言った。
 美奈子は、ハンカチを出して涙を拭くと、記者たちに背を向けて歩き始めた。
「大橋さん!」
 記者たちが追いかけてきた。
 美奈子は止まらなかった。もう、なにもしゃべりたくなかった。スーパーマンの…… いや、川村俊一のことは、自分の胸の中だけに秘めておきたかった。それが、どんな些細なことであっても、誰にも知られたくなかった。俊一の言葉。笑顔。悩み。それは、俊一が、美奈子だけに与えてくれたものだから。

 美奈子が渋谷のスタジオから出てきたときは、もう、完全に日が暮れていた。時計を見ると、午後の九時を回っていた。
 美奈子は、辺りを見回した。一見、記者らしい人物はいない。美奈子は、駅に向かうと電車に乗って自宅に向かった。
 美奈子の自宅があるマンションの前にも記者たちはいなかった。今日、学校の帰りに怒鳴ったのが効いたのかもしれない。あるいは、今日はもう、なにを聞いても答えてくれないと諦めたのかもしれなかった。
 美奈子は、自分の部屋に入ってお気に入りの服に着替えると、母が用意してくれた晩御飯を電子レンジで暖めて食べた。今日も、母は残業で遅いようだった。
 美奈子は、食事を終えると、食器を洗ってから、テーブルに書き置きをした。

『今日は、少し遅くなります。もしかしたら、朝まで帰らないかもしれません。でも、心配しないでね』

 メモを置くと、美奈子は俊一の家に向かった。実は、俊一の家は歩いて七、八分の距離なのだ。俊一も美奈子と同じマンション暮らしだ。
 美奈子は、ちょっと夜の散歩を楽しむ感じで杉並の住宅街を歩いた。ふと、思い出して、あの運命の晩に先代のスーパーマンが落ちてきた路地をのぞいた。
 そこはただの路地だった。
 美奈子は、あの日の俊一のうろたえようを思い出して、ちょっぴり笑った。そして、また、俊一の家に向かって歩き始めた。
 俊一の家が近づいて来ると、胸の高鳴りがだんだんと大きくなっていった。
 緊張する。
 思えば、男の子に想いを告白するなんて初めてなのだ。いったい、どんな顔をして話せばいいんだろう。
 美奈子は、俊一の自宅があるマンションを見上げた。美奈子のマンションより少し小ぶりだけど、似たようなものだった。
 深呼吸した。
 美奈子は、マンションの入り口をくぐった。
 三階の五号室の前に来ると、また深呼吸した。
 思い切って、インターフォンを押す。
 反応はなかった。
 もう一度押す。
 やっぱり、反応はなかった。
 美奈子は、急に気が抜けた。
 そして、ドアの前にパタンと座り込むと、俊一の顔を思い浮かべながら、なんて言って切り出そう。どんな顔で話そうか。と考えを巡らせた。

 そのころ。
 俊一はベトナムのメコン川沿いにある小さな村にいた。
 ベトナム南部のデルタ地帯。そこは、メコン川から運ばれてくる、養分をたっぷりと蓄えた土で、豊かな水田地帯を形成している。だが、この恵みの大河は、ときに、荒々しい悪魔となり、人の生活と命を奪うのだ。
 俊一は、右腕に子供三人を抱え、左腕では母親を、さらに父親をつかみ、背中には彼らの祖父と祖母を背負って空を飛んでいた。そして、三キロほど内陸部に設営された緊急避難所へと運ぶ。眼下には泥水によって押し流される彼らの家がある。この家族は、間一髪間に合った。
 この繰り返しだった。
 大半の住人は洪水の被害が広がる前に非難していたが、この家族のように、泥水の中に取り残された人たちが、まだ数十人残っている。
 俊一は、轟々と流れるメコン川の濁流の中から、泣き叫ぶ子供の声を聞き分け、助けを呼ぶ母親の声に耳をすまし、そして、声もかれた老人を見つけなければならなかった。
 想像以上に骨の折れる作業だった。避難所には、医者や、政府軍の応援部隊が続々と集まりはじめてはいたが、人間の力は、大自然の前に無力だった。悪魔となったのメコン川に近づけるのは、スーパーマンである俊一しかいないのだ。
 俊一は、焦りといらだちを感じていた。一刻も早くすべての人を救出しなければならない焦り。だが、スーパーマンの力をもってしても、全員は救出できないかもしれないと思う自分にいらだちを覚えた。それでも俊一は飛び続けた。ひとりでも多く。ひとりでも多く。俊一は、心の中でそう叫びながら。
 百二十六人目の住人を避難所に運んだとき、若い医師が俊一に声をかけた。実は、彼の英語が一番聞き取りやすくて、先ほどから通訳をやってもらっていたのだ。
「スーパーマン。今、村人全員の顔を覚えている村長が、ひとりずつ村人を確認している。あと何人行方不明か、もうじきわかりそうだ」
「お願いです。なるべく急いで下さい」
「そう伝える」
「でも、人数を間違えないように」
「伝える」
 そのとき。ひとりの若い女性が、半ば半狂乱になりながら、俊一の赤いマントに取りすがった。なにごとか叫んでいるが、俊一には理解できなかった。
「娘がいないと言っている」
 医師が通訳した。
「まだ三歳ぐらいの子供だと言っている。青っぽい服を着ているらしい」
「すぐ探します!」
 俊一は、その母親に言った。母親は、俊一の言葉を理解したのか、マントから手を離すと、今度は両手を合わせて、必死に俊一を、いや、スーパーマンを拝んだ。
 俊一は、母親と目を合わすのを避けるようにして、すぐさま飛び去った。
 子供はいなかった。耳を澄ました。目を凝らした。それでも子供は見つからなかった。脳裏に、ロサンゼルスで亡くなった、あの少女の顔が浮かぶ。俊一は、頭を降って彼女の顔を追い払った。今は、諦めるときじゃない。俊一は、すべての感覚を研ぎ澄ましてひたすら飛び続けた。
 いた!
 俊一の瞳は、二キロほど先の枯れ木に、青っぽい服が絡み付いていて、かろうじて流されないでいる少女を発見した。と、同時に、その枯れ木は、やっと発見してくれたと言わんばかりに、少女の体を支え続ける力を失った。
 少女が濁流に飲み込まれた。
 俊一は、猛ダッシュして、その女の子のもとに飛んだ。二キロという距離を、数マイクロセコンドで飛んだ。このとき、ほんの一瞬だが光速に近いスピードで飛んでいたことを当の俊一は気づかなかった。
 俊一の目には、濁流に流れていく少女がハッキリと見えていた。俊一は頭から濁流の中に飛び込む。そして、水の中で少女を抱き抱えると、イルカがジャンプするように濁流の中から飛び出した。
 少女は、プハーッと大きな口を開けて、空気を吸い込んだ。濁流に飲み込まれたのが、ほんのわずかな時間だったために、ほとんど水は飲んでいないようだった。俊一は、すっかり冷え切った少女の体を温めるように抱きしめると、母親の待つ避難所に急いだ。
 母親は、全身で喜びを表しながら自分の娘を抱きしめた。そして、スーパーマンである俊一に何度も何度も頭を下げた。だが、俊一に喜んでいる暇はない。次ぎの捜索に飛んで行かねばならないのだ。
 そのとき。
「スーパーマン!」
 医師がスーパーマンを呼び止めた。
「確認が終わった。村長は、その子が最後だと言っている。全員無事だ!」
「ほ、本当に?」
 俊一は、一瞬耳を疑った。
 年老いた村長が、医師の通訳で俊一の言葉を理解した。そして、とてもブロークンな発音で、イエス、イエスと笑顔でうなずいた。
 全員無事。
 この言葉を聞いたとたん、俊一の体中から力が抜け、その場にペタンと座り込んだ。体力が消耗したわけではない。彼はスーパーマンだから、常人の常識をはるかに越える体力があるのだ。だが、その中身はひとりの人間だ。しかも、まだ十七歳の青年。俊一は、もう、ずいぶん前からその精神力の限界にいたのだ。村長の言葉で、ピンピンに張りつめていた緊張の糸が、完全に途切れたのだった。
「ありがとう、スーパーマン」
 医師が言った。
「わたしは、村人の治療に戻る」
 俊一は、コクッとうなずいた。もはや、言葉を発する元気もなかった。
 全員助かった。ひとりも死ななかった。
 俊一は、村人たちの治療に戻っていく医師の後ろ姿を見ながら、少しずつ、この言葉の意味を噛みしめた。
 奇跡だ。
 そう思った。と、同時にすごくうれしかった。スーパーマンになって、今日ほど困難な仕事はなかった。そして、それをやり遂げたのだ。
 ふと、口の中がジャリジャリしているのに気がついた。俊一は、ペッと唾を吐いて、口の中の砂を吐き出した。そして、やっと自分がどういう状況なのか客観的に見る余裕が出てきた。髪の毛は泥水でべとべと。自慢の真っ赤なマントも、うす汚れていた。
 シャワーを浴びたいな。家に帰って、熱いシャワーを浴びたい。そう言えば、夕飯も食べてないや。なんでもいいからお腹に詰め込んで、ゆっくり眠りたいよ。
 すると、目の前に三人の子供たちがやってきた。兄妹だ。一番上が男の子で、真ん中が女の子。そして、一番下が男の子だった。みんな大きな毛布を頭からかぶっていて、その姿が、なんとなくコケティッシュで可愛かった。
 そう言えば、この兄妹たちも抱き上げて飛んだっけ。俊一はそれを思い出して、子供たちに笑顔を見せた。子供たちも、俊一の笑顔を見て、キャッキャッと楽しそうに笑った。
 俊一は手を伸ばして、一番下の男の子の頭をなでた。男の子はスーパーマンに触ってもらえてすごくうれしそうだった。
 すると、一番歳上の男の子が、毛布の中から、紙の包みを一袋取り出した。中には、肉饅頭のような物が入っていた。男の子は、その肉饅頭を俊一の目の前に差し出した。
「くれるの? でも、ぼくはいいから、君がお食べよ」
 俊一は言った。
 男の子は、一瞬キョトンとして、また、俊一の前に肉饅頭を差し出す。
「君が、食べな」
 俊一はゆっくり言いながら、男の子を指さして、その肉饅頭を口に運ぶ仕草をした。男の子は、俊一の言葉を理解したのか、困った顔で首を横に振った。だが、すぐにいいことを思いついたとばかりに、肉饅頭を半分に割ると、その片一方を俊一に差し出した。
 とたん。俊一の胸に熱い物がこみ上げてくる。
「ありがとう」
 俊一は、半分に割られた肉饅頭を受け取った。すると、兄妹たちも兄を見習って、自分たちの饅頭を半分に割ると、俊一に渡した。
「ありがとう。ありがとう」
 俊一は、溢れ出そうになる涙を必死にこらえながら、そのお饅頭をほおばった。子供たちもうれしそうに半分残ったお饅頭を食べた。
 そのお饅頭は、もうすっかり冷えていて、なんとなく砂も混じっていたけど、ものすごくおいしかった。


 その七。


「お嬢さん」
 美奈子は、誰かに肩を揺すられて、ハッと顔を上げた。いつの間にか寝てしまったのだ。今日は、初レッスンの日で、朝早かったからあまり寝ていなかったのだ。
「お嬢さん。こんなところで寝てはダメよ」
 肩を揺すったのは、美奈子の母と同じぐらいの年代の女性だった。
「あっ、ごめんなさい」
 美奈子は立ち上がった。
「あら。あなた、もしかして大橋さんかしら?」
 その女性が言った。
「はい。そうです」
「やっぱり。そうじゃないかと思ったわ。俊一から何度か話を聞いてますよ」
「もしかして、川村くんのお母さんですか?」
「ええ。初めまして」
「は、初めまして!」
 美奈子は予想外の事態に緊張した。考えてみれば、俊一の自宅に俊一の母親がいるのは当たり前なのだが、そんなこと頭に浮かばなかったのだ。
「俊一に会いに来てくれたのかしら?」
 母が言った。
「はい。そうです」
「わたしも今帰ってきたところなのだけど、俊一もまだみたいね。あの子ったら、ここのところ、ずっと帰りが遅いのよ」
「やっぱり、そうですか」
 美奈子はタメ息混じりに言った。
「なにか、事情を知ってるの?」
「ええと…… 知りません、ごめんなさい」
 美奈子はペコッと頭を下げて謝った。
「そう」
 俊一の母も、タメ息をついた。
「あら、ごめんなさい。こんなところで立ち話もなんだから、お茶でもいかが?」
 美奈子は一瞬戸惑ったが、「はい」と返事をした。
「どうぞ。狭いところですけど」
 母親はそう言ってドアの鍵を開けた。
 うわーっ。ここが川村くんの家なんだ。
 美奈子は、初めて入る俊一の自宅に感激していた。もちろん、ごく普通のマンションだ。好きな男の子の自宅でなければ、まったくなにも思わなかったことだろう。
「ちょっと待っていてね。化粧を落とすから」
 母親は、バスルームに入っていった。
 美奈子は、俊一の母親のイメージがちょっと違ったなと思った。なんというか、少し派手な感じがする。悪い言い方だが、水商売ぽい。
「お待たせ」
 母親がサッパリした顔でバスルームから出てきた。そして、急須にお茶の葉を入れて、ポットから熱いお湯を注いだ。
「大橋さん」
「はい」
「俊一がいなくて申し訳なかったけど、これを飲んだら、もうお帰りなさい」
「ええと…… あたし、今日中に俊一君に会いたいんです」
「どうして?」
 母親は聞きながら、急須のお茶を湯飲みに入れると、美奈子のの前に置いた。
「ありがとうございます」
「それで、どうして俊一に会いたいの?」
「どうしても話したいことがあるんです」
「でもね。もう、こんな時間よ。大橋さんのご家族も心配してるんじゃないかしら」
「大丈夫です。ちゃんと書き置きしてきましたから」
「そんなに重要な話なの?」
「はい。あたしにとっては」
「明日学校で話すことはできないのかしら」
「学校では会えないかもしれないから」
「そう」
 俊一の母親は、ふっとタメ息をついた。
「あの、あたしお邪魔はしませんから、ここで川村くんの帰りを待たせて下さい」
「大橋さんがどうしてもと言うなら、わたしはかまわないわ。でもね。あなたのうちに電話をさせてくれないかしら」
「えっ、うちにですか?」
「そうよ。あなたは書き置きをしたから大丈夫だと思っているようだけど、親って言うのは、そんなことで安心できるものではないのよ」
「はい……」
 美奈子は、確かにそのとおりかもしれないと思った。そして、俊一の母親も息子の帰りが遅いのを心配しているのだとも思った。
「じゃあ、お願いします」
「わかったわ」
 俊一の母は、コードレスフォンを取って美奈子に渡した。
「家族の方が出たら代わってね」
「はい」
 美奈子は、自分の家に電話する。
「もしもし、お母さん。うん、ごめんね。今、川村俊一くんっていう友達の家にいるの。ちょっと、川村くんのお母さんに代わるね」
 美奈子は、受話器を俊一のは母に渡した。美奈子は、自分の母親がなにを話すかだいたいの見当がついた。ご迷惑だから、すぐに追い返して下さい。たぶんこう言うだろう。
「いえいえ。迷惑だなんてとんでもない」
 俊一の母が答えた。
「こちらこそ、息子の帰りが遅くて、本当に申し訳ないと思っています。でも、なにか、大切な話があるらしいんです。はい。もしよろしかったら、今日はお嬢さんをうちに泊めますから、どうぞご安心下さい。はい。では、ごめんください」
 俊一の母親は電話を切った。
「これでいいわ」
「すいません。ご迷惑をかけて」
「いいのよ。それにしても遅いわね。ここんところ、毎日なのよ」
「そうですか」
「ねえ、大橋さん。あなた、本当になにも知らないの?」
「ええと…… 知りません」
「そう。でも、俊一がどんな友達と一緒なのかとか知ってるでしょ?」
「どういう意味ですか?」
「母親が言うのも変だけど、あの子って、もっとこう、線が細いというか、気が弱いところがあったのだけど、ここ数日で、ものすごく変わったのよ。ビックリしちゃうぐらいにね。まるで別人になったみたいよ」
「あたしもそう思います」
 美奈子は言った。
 でもそれは、川村くんの中に元々あった強さが表面に出てきただけだと、美奈子は思っていた。
「それでね。あの子が変な友達とつき合い始めたんじゃないかって思ったりしてね」
「そ、そんなことありません!」
 美奈子は、強い口調で否定した。
「川村くんは、悪いことはなにもしていません。それは、絶対、誰が何と言っても、あたし断言できます」
 俊一の母は、美奈子があまりにも力強く言うので、ちょっとビックリした。
「ねえ、大橋さん。ひとつ聞いていい?」
「はい」
「わたし、あまりテレビとか見る時間がないのだけど、あなた、スーパーマンの恋人って言われているんでしょ?」
「はい。そんな報道をされちゃってます」
「それと、俊一となにか関係があるのかしら?」
「あ、ありませんよ!」
 美奈子は慌てて答えた。
「あるのね」
 俊一の母は、タメ息をついた。
「ち、違います。ホントに、川村くんは関係ありません。本当です。信じて下さい!」
 美奈子は、思いっきり焦りながら否定した。
「ぷっ」
 俊一の母は、思わず吹きだした。
「あら、ごめんなさい。悪い意味で笑ったんじゃないの。なんだか、俊一から聞いていた大橋さんのイメージにあまりにもピッタリだったから」
「川村くん、あたしのことなんて言ってたんですか?」
 美奈子は、ものすごく興味深げな瞳で聞いた。
「そうね。ちょっと短気で、沸騰しやすい女の子だって」
「ひどーい!」
「ふふふ。でもね、すごく優しい女の子だって言っていた。それにね。あなたの話をするときの俊一って、とても楽しそうだったわ」
「ホントですか?」
「あなたも、俊一の話をするのが好きなようね」
「えっ、えっと…… その」
 美奈子は、急に恥ずかしくなって顔を赤らめた。
「ふふ。俊一も女の子を見る目があるのね。わたしも、大橋さんみたいな女の子があの子の友達でうれしいわ」
 美奈子は、ますます顔を赤くした。
「さて。さっきの話だけど、わたし、大橋さんの言葉を信じることにするわ。スーパーマンが現れたときから、俊一の帰りが遅くなったり、スーパーマンの恋人と呼ばれてる女の子が訪ねてきたりしたけどね」
「ごめんなさい」
 美奈子は、ちょっと胸が痛んだ。
「あたし、これ以上は言えないんです」
「いいのよ」
 俊一の母は、笑顔を浮かべた。
「あら、いけない。もう日付が変わったわ。リビングで悪いけど布団を引くわね。大橋さんは、そこで寝てちょうだい」
「あたし起きてます」
「それはいいけど、俊一は何時に帰ってくるかわからないわよ。せめて、横になって待っていた方がいいわ」
「はい。じゃあ、そうさせてもらいます」
「ふふふ。素直なところも、俊一が言っていた通りね。じゃあ、布団を出すから」
「あたし、手伝います」
 美奈子は立ち上がった。
「ありがとう」
 俊一の母は、にっこりとほほえんだ。

 美奈子は、電気を消したリビングで、布団にくるまっていた。蛍光塗料の塗られた時計の針が、ぼんやりと、夜中の二時を指していた。
 俊一はまだ帰ってこない。
 美奈子は、だんだんと、なんてバカなことをやっているんだろうと自分の行動を後悔し始めていた。考えてみれば、俊一が帰ってきたって、とても疲れているんじゃないかと気づいたのだ。そんなときに、好きだなんて告白したって迷惑なだけだ。
 なんにも見えなくなっていた。
 美奈子はそう思った。普段なら、考えなくたってわかるようなことなのに、あたしはただ、自分の気持ちだけで行動していた。俊一の母親の迷惑も、そして、俊一の迷惑さえも考えなかったのだ。
 なんて、バカなんだろう。穴があったら入りたい気分とは、こんな時を言うのだろう。
 美奈子は布団から出た。
 もう、帰ろう。
 川村くんのお母さんには置き手紙をして…… あっ、でもそれだと、また心配させちゃうかな? ああ、どうしよう。あたしって、ホントにバカだ。
 美奈子がそんなことを考えているとき。玄関で、カチャリと、鍵の開く音がした。
 川村くんだ!
 美奈子は心臓が飛び出そうになった。
「母さん? 電気つけるよ」
 俊一の声がした。
 パチリと、電気がついて、リビングが明るくなった。
「お、大橋さん!」
 俊一が驚くのも無理はなかった。そこには、少し服の乱れた美奈子がいたからだ。
「川村くん、どうしたの、そのカッコ!」
 美奈子も驚いた。俊一は、まるでどろんこ遊びでもしてきたように、真っ黒だったのだ。
「もしかして、ベトナムの水害がひどかったの?」
 美奈子は聞いた。
「うん。今までで、一番大変な仕事だった」
「そうなんだ…… ごめんね。ごめんね」
「どうして大橋さんが謝るの?」
「だって、あたしって、ほら、バカだから」
「へ?」
「それより早くシャワー浴びてきなよ」
「うん」
 そのとき。俊一のお腹の虫がギューっと鳴った。
「川村くん、晩御飯食べてないの?」
「アハハ。食べそびれちゃった。肉饅頭をもらったけど、足りなかったみたいだね」
 俊一は力無く笑った。
「じゃあさ、あたしコンビニでお弁当買ってくるよ。川村くん、その間にシャワーを浴びたら?」
「えっ、そんな悪いよ」
「お願い。そうさせて。そうしたいの」
 美奈子は、懇願するように言った。
「う、うん。それじゃあ、お願いしようかな」
 俊一は、美奈子があまり真剣な顔で言うので、これ以上断る気になれなかった。
「じゃあ、行ってくるね。川村くん、好きなオカズってある?」
「ええと、ノリ弁当でいいよ」
「うん。わかった」
 美奈子は、そう言うと一目散に出ていった。
「あっ、お金……」
 俊一は、財布を出そうとしたが間に合わなかった。

 俊一が、洗い立てのTシャツとジーンズに着替えてバスルームから出てくると、お味噌汁の香りが部屋に漂っていた。
「アハ。さっぱりしたね」
 美奈子がにっこりと言った。
「うん。生き返った」
 俊一は言った。それは正直な気持ちだった。
「はい、ノリ弁当。野菜の煮物も買ってきたよ。あと、お味噌汁。レトルトだけど」
「ありがとう。いくらだった?」
「お金なんていらないよ」
「ダメだよ」
「いいから食べて。お願い」
「う、うん」
 俊一はどうも調子が狂った。なんか、いつもの美奈子と違う。
「じゃあ、頂きます」
「お茶も入れるね」
 お茶? いよいよ、いつもの美奈子と違う。絶対変だ。そう思いながらも、俊一はノリ弁当をパクついた。
 そのとき。寝室のドアが開いて、俊一の母が出てきた。
「あら。お邪魔だったかしら?」
「あっ、すいません! 勝手なコトして!」
 まさに、湯飲みにお茶を入れているところだった美奈子が言った。
「ううん。いいのよ」
 母は、にっこりと言った。
「おかえり、俊一」
「ただいま、母さん。起こしちゃった?」
「そうじゃないわ。この時間になると喉が渇くだけよ」
 そう言って、俊一の母は、コップに水を汲むと三口ほど飲んだ。
「ねえ、俊一。なにがあったか知らないけど」
 と、俊一の母。
「女の子を泣かすようなことだけはしちゃだめよ」
「し、してないよ!」
「ええ。お母さん信じてるけど…… まあ、その様子じゃ、心配ないかしらね」
 俊一の母は、お茶を入れている美奈子を見て言った。
 美奈子は、顔が真っ赤になった。
「じゃあ、お休みなさい。あなたたちも早く寝なさいね」
 俊一の母は、寝室に入っていった。
「まいったな」
 美奈子が言った。
「あたし、川村くんのお母さん、起こしちゃったね」
「そんなことないよ」
 俊一はそう言いながらも、ちらっと母の寝室を見た。
「ねえ、大橋さん。よかったら、ちょっと表に出ない? 今日は、寒くないし」
「うん。それがいいね。でも、お弁当はゆっくり食べてね」
 美奈子は答えた。

「いい陽気になってきたねえ」
 美奈子は、俊一と住宅街を歩きながら言った。
「うん。山の雪も解けてきて、雪崩が起きやすいんだ。アルプスでは、もう、三人ぐらい犠牲になってるらしいよ」
「あっ…… そうなんだ」
「ご、ごめん。皮肉で言ったんじゃないんだ」
「わかってるよ。川村くんがそれだけスーパーマンだってことだもん。ねえ、今日の水害のこと聞いていい?」
「うん。結構大変だった」
 俊一は、美奈子にベトナムでのことを語って聞かせた。
「それでお饅頭を食べたんだ」
 聞き終わった美奈子が言う。
「うん。おいしかった」
「よかったね」
 美奈子は言った。だが、その声は少し寂しげだった。
「ごめんね。そんな大変なときに押し掛けちゃって。川村くんが疲れてることなんかぜんぜん考えないで、あたし、恥ずかしいよ」
「そんなことないってば。スーパーマンの格好をしてるときは、ぼく、ぜんぜん疲れないんだ」
「そうなの?」
「うん。体は平気なんだ。ただ、精神的に大変だったけど…… それも、あの子たちにお饅頭をもらったら、吹っ飛んじゃったよ」
「アハハ。川村くんってやっぱりすごいや。あたしなんか、ぜんぜんかなわないね」
 美奈子は、力無く笑って言った。
「ねえ、大橋さん。今日はどうしたの? 突然、ぼくのうちに来たり、それに、なんだかいつもと違うよ。元気がないみたい」
「うん。ちょっとね……」
 美奈子は、うつむいて、道に転がる小石を蹴った。
「どうしたの? ぼくじゃ頼りないかもしれないけど相談に乗るよ」
「頼りなくなんかないよ。ううん、その逆だよ。川村くんはみんなに頼られてる。それに川村くんは応えてるもん」
「スーパーマンがね」
「そのスーパーマンは川村くんだもん。アハハ、なんか、川村くんがどんどん遠くに行っちゃうみたい」
「ち、違うよ!」
 俊一は思わず叫んだ。
 美奈子は、俊一が大きな声を出したので少しビックリした。
「そんなことないよ」
 俊一は声を落とした。
「ぼく、ただの人間だよ。そりゃ、力はすごくなっちゃったけど、中身は変わってない。それを知ってるのは大橋さんだけなんだ。大橋さんにしかぼく話せないんだ。だから、大橋さんにはずっとぼくを川村俊一として見ていて欲しいよ」
「川村くん……」
 美奈子は、トクンと胸が鳴った。
 やっぱり川村くんは川村くんだ。そう思った。
「あたし、今思ったんだけどさ。先代のスーパーマンって、きっと川村くんの素質を見抜いてたんだね」
「素質?」
「そうだよ。だって、川村くんに正義感がなかったら、大変なことになってるじゃない」
「そんなに大げさなことじゃないよ。最初に大橋さんが言ったとおりさ」
「あたしが?」
「うん。ぼくには力がある。なのに、知らんぷりはできない。だから自分にできることをやってるだけ」
「それが正義感っていうんじゃないの?」
「そう?」
「ふふふ。そうだよね。本人は、そのぐらいノンキなのがいいかも。スーパーマンに、オレは正義の味方だぞ。なんて、威張られたら困るもん」
「昔から威張るのって苦手だから」
「でも、やっぱり川村くんは変わった」
「変わってないってば」
「ううん。すごくカッコ良くなった。あたしが言うんだから間違いないよ」
「大橋さんがお世辞を言うなんて似合わないよ」
「お世辞じゃないってば。ホントにカッコ良くなった。でも、川村くんは川村くんだよね。いつまでも、あたしの知ってる川村くんでいてくれるよね?」
「ぼく変わらないよ。変わりたくない」
「あたしも変わって欲しくない」
 そのとき。
 美奈子はふと、自分が自宅のあるマンションの前にいることに気がついた。いつの間にか話しながらここまで歩いてきてしまっていたのだ。美奈子は、話に夢中でぜんぜん気づかなかった。
「あっ。いつの間に……」
 美奈子は、そう言って、俊一を見た。
「もしかして川村くん、あたしを送ってくれたの?」
「もう遅いから」
「ごめんね。気を使わせちゃって」
「気なんか使ってないよ。それより…… ぼくに話があったんじゃないの?」
「あっ。うん。そうなんだけど」
「相談だったら、いつでも乗るよ。遠慮しないで話してよ」
「違うの。相談じゃない。あの、あ、あたし。あたしね」
「うん」
「あたし…… ひゃーっ、どうしよう。言えないよ」
「ええーっ、気になるよ」
「えっと、あのね。あたし、川村くんが」
「ぼくが?」
「川村くんが、その…… 川村くんが空を呼べるのがうらやましいな、なんて!」
 美奈子は、ヘヘヘと、苦笑いした。
「なんだ。そんなことなら、いつでも言ってくれればいいのに」
 俊一は、ニコッと笑った。
「大橋さん、ちょっと待ってて」
 俊一はそう言って、ブロック塀の陰に隠れた。そして、ふたたび姿を現したときは、スーパーマンの格好であった。
「この格好じゃなきゃ空を飛べないからね。じゃあ、行こうか」
 俊一を、美奈子に手を差し伸べた。
「うん!」
 美奈子は、俊一と手を繋いだ。

「なんか、夜の空って、恐いね」
「星がないからだよ。東京の空は汚いから」
「そうか。言われてみればそうだね」
 二人は、ゆっくりとしたスピードで、東京の空を飛んでいた。
「ねえ、大橋さん。もう少しぼくに近づいてくれる?」
「うん。こう?」
 美奈子は、自分から俊一に抱きついた。
 正直言って、星なんかあろうかなかろうが美奈子には関係なかった。こうして、俊一といられるだけでうれしいのだ。
 俊一は、美奈子を赤いマントでくるんだ。
「川村くん、あたし寒くないから平気だよ」
「ううん。そうじゃなくて、もう少しスピードを出したいんだ」
「うん。わかった」
 美奈子は答えた。だが、本心は、俊一とのんびり空を漂っていたかったのだが。
 ふいにスピードが上がった。スーパーマンの赤いマントに守られているので、美奈子には風も当たらなかったし、急な加速で耳が痛くなることも頭がクラクラすることもなかった。
「この辺でいいかな」
 俊一が言った。そして、美奈子をマントから出した。
「どこまで来たの」
 美奈子は、そう言ったとたん絶句した。
 夜空には一面の星空。
「うわーっ! きれい!」
 美奈子は、生まれて初めて、本物の天の川を見ていた。まるでミルクのように白く輝いている。そして、砂の数ほどある星たちは、いまにも降ってきそうなほど近くに感じられた。
「すごい! すごい!」
 美奈子は、心の底から感激していた。
「ね。星があると、夜空も恐くないでしょ?」
「うん。ありすぎるよ。宝石みたい」
「宝石は地球だよ」
「えっ?」
「地球は青かったって知ってる?」
「最初に地球を見た宇宙飛行士が言ったんでしょ?」
「そう。本当に地球は青く輝いてるんだ。宇宙から見ると、宝石に見えるよ」
「見たい!」
「言うと思った」
 俊一はクスッと笑った。
「ダメ?」
「まさか。じゃあ、もう一回、マントに入って」
「うん」
 美奈子はマントにくるまると、軽い上昇感を感じた。しばらくすると、加速感はなくなって、微かに聞こえていた風を切る音も聞こえなくなった。
「まだ、外を見ちゃダメだよ」
 俊一が言った。
「うん」
 ふたたび、加速感があった。今度は少し長い。でも、俊一の体に抱きついていると、彼の体温が伝わってきて、美奈子はそれだけで、すごく幸せな気分だった。
 すると、美奈子は軽い重力を感じていることに気がついた。微かだけれども自分の体重を感じる。
「もういいよ」
 美奈子はゆっくりとマントから顔を出した。
 そのとたん。
 ふわっと、白っぽい砂の地面に降り立ったのだった。
「こ、ここって」
 美奈子は、夜空を見上げた。
 そこには、青く輝く地球があった。
「ここって、お月様!?」
「うん」
 俊一は、ニコッと笑った。
「地球の空気も一緒に運んできたから、一時間ぐらいなら呼吸ができるよ」
「ウソ…… 信じられない……」
 美奈子は、思わず手を伸ばして、真っ黒な空に浮かぶ地球をつかもうとした。もちろん、地球ははるか遠くにあるのだからつかめるわけはなかった。
「きれい。ホントに青く輝いてる」
「うん。地球が一番きれいだよね」
 俊一が言った。
「ホントだね」
 美奈子はうなずいた。そして、知らぬうちに、涙が流れてきた。それは、感激の涙だった。さっきの星空もすごかったけど、今度は、涙が出るほど感動した。
「ぼくも初めてここに立ったとき。目頭が熱くなったよ。地球って、なんて小さくて、でも、なんてきれいなんだろうって思った」
「うん。わかる。あたし今、最高にうれしい」
 美奈子は涙を拭って、にっこりとほほえんだ。
「よかった。よろこんでもらえて」
「ねえ、川村くん知ってる?」
「なにを?」
「お月様に降りた宇宙飛行士の中に、女の人はいなかったんだよ」
「そうか! 大橋さんは、初めて月に降りた女性だ!」
「うん」
「すごいや」
「ありがと。連れてきてくれて」
「あの…… もし、大橋さんさえよければ」
「なに?」
「また、一緒に空を飛んでもらえないかな」
「もちろんよ! 毎日一緒に飛びたい!」
「ホント?」
「うん。ホントよ」
「ええと、それに、それだけじゃなくて、その…… やっぱりいいや」
 俊一は言葉を切った。
「なになに? 気になるよ。お願いだから言って」
「あの…… もし、もしもだよ」
「うん」
「スーパーマンが、ええと…… スーパーマンに好きだって言われたら、大橋さんはどうする?」
「あたしが?」
「ごめん。バカなこと言っちゃった。スーパーマンに人を好きになる資格なんかないよね」
「そんなことないよ!」
 美奈子は叫んだ。
「相手がスーパーマンだろうとなんだろうと、あたしは好きな人に好きって言われたら、ものすごくうれしいよ!」
「大橋さんの好きな人って誰?」
「バカ、鈍感。聞かないでよ、そんなこと」
 美奈子は、潤んだ瞳で俊一を見つめた。
「大橋さん」
 俊一も美奈子を見つめ返す。
「スーパーマンになって、一番最初に銀行強盗を捕まえに行ったとき。大橋さんがぼくにおまじないをしてくれたよね」
「うん」
「あのときからぼく、大橋さんのことが好きになったんだと思う。だからその…… もしよかったら、ぼくとつき合って欲しい」
 美奈子は、一瞬、思考が止まった。そして、俊一の言葉がじわーっと染み込んでくる。
「それって、あたしと川村くんが恋人になるって意味?」
「ハハハ。やっぱりダメかな」
 俊一はバツが悪そうに頭をかいた。
「うれしい」
 美奈子は小さい声で言った。
「えっ?」
「うれしい! 川村くん大好き!」
 美奈子は俊一に抱きついた。
 そのとき、地球の陰に隠れていたヘール・ボップ彗星が、悠々なる宇宙を駆けるように姿を現した。その、この上もなく美し彗星は、キラキラと長い尾を輝かせながら、俊一と美奈子を柔らかい光で照らした。それは二千四百年に一度しか見ることのできない光だった。
「川村くん」
 美奈子は、ゆっくりとまぶたを閉じた。
 俊一は、美奈子の腰に手を回して軽く抱きしめると、美奈子の唇に、自分の唇をそっと重ねた。
 ファーストキス。甘く切ない味。
 俊一は、美奈子の唇から離れた。
 美奈子はまぶたを開けた。そこには、ちょっと照れた顔の俊一がいた。
「アハハ。あたし、本当にスーパーマンの恋人になったんだね」
 美奈子も少し照れながら言った。
「ありがとう。大橋さんがいてくれなかったら、ぼく、スーパーマンになったことに押し潰されていたと思う」
「そんなことないよ。川村くんなら、きっと大丈夫だった」
「違うよ」
 俊一は首を振った。
「大橋さんがいてくれたから」
 美奈子は、また目頭が熱くなってきた。そして、俊一の胸に顔を埋めながら言った。
「あたし、うれしいよ」
 俊一は、美奈子を抱きしめた。

「うむうむ。やっとわしの出番じゃな」
「ゲロ様。よくこのタイミングで登場できますね」
「うむうむ。なんでじゃ?」
「だって、読者としては、二人のラブシーンをもっと見たかったんじゃないですか?」
「うむうむ。それが狙いじゃ。わしゃ、人を不愉快にするのが愉快じゃ」
「さすがはゲロ様。最高のゲス野郎ですね」
「うむうむ。そう、誉めるな」
「ところで、ここはどこですか?」
「うむうむ。大橋美奈子の自宅があるマンションじゃ」
「えっ、もう彼女を誘拐するんですか?」
「うむうむ。バカタレ。まだスーちゃんが完成しておらんだろうに」
「じゃあ、なにしに来たんです?」
「うむうむ。この石を、マンションの入り口に置くのじゃ」
「するとどうなるんです?」
「うむうむ。大橋美奈子が、この石につまづいて転ぶんじゃ。イヒヒ。そんでヒザを擦りむいてな。しばらくすると、それがカサブタになるんじゃ」
「それで?」
「うむうむ。それで、大橋美奈子が、そのカサブタを見て、剥がしたいけど、剥がすと痛い。でも剥がしたい。けど痛い。なんて、悶々と悩み続けるのじゃ。あああ、その姿を想像するだけで、わしゃ、恍惚とした幸福感を感じてしまうぞい」
「もしかして、それだけですか?」
「うむうむ。それだけじゃ」
「すごい。さすがゲロ様。まさに究極の変態ですね」
「うむうむ。そう、誉めるな」
 そのとき。
 俊一と美奈子が空から降りてきたのだった。
「うむうむ。イカン、隠れろ!」
「ひゃーっ、ヤバイ!」
 ドクター・ゲロと、その部下は、大慌てでブロック塀の陰に隠れた。
 ふわっと、ソフトランディングする俊一と美奈子。
「もう着いちゃった」
 美奈子が残念そうに言った。
「これでもゆっくり飛んだつもりなんだけどな」
「アハハ。スーパーマンが本気で飛んだら、あたし死んじゃうよ」
「ハハ。そうだね」
「またお月様に連れていってくれる?」
「うん。今度は、月の観光名所を巡ろう」
「月の観光名所ってどこ?」
「えっと。まずは、アポロ12号の着陸船があるところで、アームストロング船長が、初めの一歩って言った足跡を見て、アメリカの旗の横で記念写真を撮って、帰りに、宇宙遊泳をしているスペースシャトルの宇宙飛行士と握手をする。こんな感じでどう?」
「うわーっ、楽しそう! 今から行こうよ」
「帰ってきたばかりだよ」
「アハハ、そうだね。ねえ、学校で会えるよね?」
「大橋さんは何時から学校に来るの?」
「お昼休みには間に合うと思う」
「ぼくは、なにも事件がなければ屋上にいるよ」
「うん」
「じゃあ、お休み。大橋さん」
「やだ!」
 美奈子は、スーパーマンのマントをつかんだ。
「やっぱり、まだ一緒にいたいよ」
「でも、もう夜が明けちゃうよ。少しでも寝なきゃ」
「寂しいよ」
「すぐ会えるよ」
「じゃあ、一秒後に迎えに来て」
「い、一秒後に?」
「冗談よ。本気だけど」
「どっち?」
「冗談にしとく」
「よかった」
「あたしとサヨナラするのがよかったの? って言ったら困る?」
「うん。困る」
「じゃあ、キスして。そしたら許してあげる」
 俊一は、笑いながら美奈子にキスをした。
「一回じゃダメ」
「何回すればいいの?」
「百万回」
「うわ、大変だ。これから何十年もかかるけど、いい?」
「うん! 何十年もずっと一緒にいて!」
「大橋さんにイヤだって言われるまで、ずっと一緒にいる」
「じゃあ、一生だね」
「うん。一生。でも、今は、サヨナラ」
「ごめんね、ワガママ言って」
「大橋さんが先にマンションに入ってよ」
「やだ。あたし、スーパーマンが飛んでいくのをここで見てる」
「それなら、まず大橋さんが部屋に帰って、ベランダから外を見てよ。ぼく、空から手を振るから」
「わかったわ」
 美奈子はうなずいてから、もう一度、俊一にキスをしてマンションの中に入っていった。俊一はそれを見届けると、ふわりと浮かび上がって上昇した。
「ふう。やっと行きましたよ、ゲロ様。それにしても熱々カップルですねえ」
 そう言って部下は、ゲロを振り返った。
 すると、そこにはピクピクと痙攣しながら気絶しているゲロがいたのだった。
「しまった! ゲロ様は、人の幸せを見ると、気絶してしまうんだった! 早くアジトに帰って、世界犯罪全集を枕にして寝かせなきゃ!」
 部下は、ゲロを背負うと、一目散に駆けていった。
 こうして、ドクター・ゲロの、恐ろしき野望第一段は、スーパーマンと美奈子の英知によって未然に防止されたのだった! って、おい……


 その八。


 次の日。
 三流のスポーツ新聞を中心に、大橋美奈子こと、スーパーマンの恋人が芸能界にデビューするという記事が大々的に報道された。渡井社長が、正式な記者発表を待たずに情報を意図的にリークしたのだ。
「どうしてこんなことになったんですか!」
 美奈子は、マネージャーの立花に詰め寄った。
「わたしにもわからないよ」
 もちろん、立花は社長がリークしたことを知っている。
「ただ、大橋さんは記者にマークされてるからね。このスタジオでレッスンを受けているのを嗅ぎつけられたんだと思うよ」
「そんな…… 気をつけてたのに」
 美奈子は、苦い顔で言った。
「彼らもプロだからね。それより、このままじゃ、彼らは飢えた狼みたいに大橋さんをつけ狙うよ」
「困ったな。あたし、早く学校に行きたいのに」
「それなら、記者たちに話すことだよ。彼らも聞きたいことを聞き出せば、会社に戻って行くさ」
「ホントに?」
「ああ。それにさ、どのみち発表するすることだったんだから、今、記者たちに話すのも、発表してから話すのも同じだろ?」
「それはそうだけど…… でもあたし、もう行かなきゃお昼休みに間に合わない」
「さっきからお昼休みにこだわってるね。理由は知らないけど、急いでるなら、躊躇してる暇はないよ。早いとこ、記者たちの欲求を満足させてやんなきゃ」
「ふう……」
 美奈子はタメ息をついた。
「わかりました。記者の人たちと話をするわ」
「そうこなくっちゃ!」
 立花はうれしそうに叫んだ。
「おい、誰か、記者たちをスタジオに入れてくれ!」

 二分後。
 美奈子は記者たちに囲まれていた。
「なぜ、芸能界に入る気になったんですか?」
 記者たちの第一声は、しごく当然の疑問だった。
「あたし、自分の歌を多くの人に聴いてもらうのが夢でした」
 美奈子は答えた。
「だから、デビューする決心をしたんです」
「それは、スーパーマンの恋人であることを利用することになりませんか?」
 記者は言った。
「ええ。そうだと思います」
 美奈子は率直に答えた。
「スーパーマンはそのことを知っていますか?」
「はい。知ってます」
「なんと言っていましたか?」
「スーパーマンのことは、きっかけだと思えって言ってくれました。あとは、あたしががんばって歌を歌うだけです」
「自信があるんですね?」
「わかりません。でも、がんばってみるつもりです」
「スーパーマンの歌も歌いますか?」
「なにそれ? 考えたこともないです。あの、あたしそろそろ学校に行きたいんです。もう終わりにして下さい」
「学業も続けるんですね?」
「はい。続けます。それじゃあ、これで失礼します」
「待って下さい、大橋さん。スーパーマンはどんな形であなたの芸能活動に関わるんですか?」
「関わりません」
「なぜですか? 彼は恋人であるあなたをバックアップしないんですか?」
「しませんってば!」
 美奈子は、記者たちを睨んだ。
「お願いですから、学校に行かせて下さい! それとも、みなさんはあたしに午後の授業を受けさせないつもりですか?」
 これには、さすがに百戦錬磨の記者たちもたじろいだ。高校生の学業を邪魔したとあっては体裁が悪い。
 美奈子は、その隙を逃さなかった。さっとバックを抱えて、記者たちの間を駆け抜けたのだ。
「あっ! 待って下さい、大橋さん!」
 もちろん、美奈子が止まるわけはなかった。

 美奈子が学校に到着したのは、お昼休みも半分ほど過ぎたころだった。
「川村くん!」
 美奈子は、屋上に俊一の姿を発見すると、慌てて駆け寄った。
「はあはあはあ。よかった、いてくれて」
 美奈子は、息を弾ませて言った。俊一に抱きついてキスしたかったが、ほかの生徒も屋上にいるのでそれはできなかった。
「アハハ。そんなに慌てなくても、まだお昼休みの時間はあるよ」
 俊一は笑いながら言った。
「だってぇ、川村くん、いついなくなるかわかんないんだもん」
「まあね」
 俊一は苦笑いした。
「ねえ、川村くん」
 美奈子は周りの生徒を気にしながら小声で言った。
「あたし、まいっちゃった。デビューすることが、記者たちにバレちゃったの」
「そうみたいだね」
「知ってるの?」
「うん。ニュースで言ってた」
「あちゃーっ…… もう、イヤんなっちゃう」
「しょうがないよ。いつかはバレるんだから」
「でもね、聞いてよ。あの人たち、すごく失礼なんだから。スーパーマンがね、あたしの芸能活動に関わるのかなんてバカなこと聞くんだよ」
「そんなことを?」
「うん。最初から、あたしとスーパーマンをセットで考えてるんだもん。どういう歌を歌いたいのかとか、ぜんぜん聞いてくれないの。あっ、そうだ。スーパーマンの歌を歌うのかって言ってたっけ」
「スーパーマンの歌? なんか、子供番組みたいだね」
「でしょでしょ! ホント、頭にきちゃうよね」
「う~ん」
 俊一はうなった。
「困った人たちだなァ。やっぱりスーパーマンがちゃんと言った方がいいのかな」
「川村くんが?」
「と言うか、スーパーマンが」
「なんて言うの?」
「大橋さんのデビューとスーパーマンはなんの関係もないって」
「確かにスーパーマンが言えば説得力ありそうだけど…… でもね。あたし、スーパーマンにそんなこと言って欲しくないな」
「ま、待って、大橋さん。勘違いしないでよ。ぼくが大橋さんにがんばって欲しいと思ってる気持ちとは関係ないよ」
「違うのよ」
 美奈子は笑った。
「あたしね。スーパーマンはそんな俗世間とは無関係でいて欲しいの。芸能界なんて、スーパーマンに相応しくないもん」
 そう言って、美奈子は学校の校門にまで追いかけてきている記者たちを指さした。
「あの人たち、ほとんどは芸能記者よ。もし、スーパーマンがインタビューに答えることがあっても、本当に立派なジャーナリストだけを相手にして欲しいな」
「ありがとう」
 俊一は言った。
「でもさ。どうせなら、最初にちゃんと言っておいた方がいいような気がするんだ。そうじゃないと、大橋さんずっとつきまとわれると思う」
「あたしは平気だよ」
「ぼくが平気じゃないよ」
「アハハ。なんか、うれしいな、そう言ってくれると」
「やっぱり、ぼく、ビシッと言ってくるよ」
「ううん。気持ちはうれしいけどやっぱりダメよ。スーパーマンはスーパーマンだもの。あたしのことで芸能記者なんかと話をしちゃダメ」
「でも…… そうだ! それなら、大橋さんの芸能プロの社長さんと話をするよ」
「社長と?」
「うん。社長から芸能記者に言ってもらうように説得するんだ」
「無理だと思うわ、あの社長じゃ」
「そうなの?」
「うん。そんな気がする」
「でもさ。ちゃんと話をすればわかってもらえるよ」
 美奈子は、川村くんって、人がいいなと思った。でも、スーパーマンはそれでもいいんじゃないかとも思った。
「うん。川村くんがそう言うなら」
 美奈子はそう答えていた。スーパーマンがお人好しなら、スーパーマンの恋人である自分もお人好しになってみようという気になっていた。
「じゃあ、ぼくちょっと行ってくるよ」
「今から?」
「早い方がいいって」
「でも、あと十五分でお昼休みが終わっちゃうよ」
「大丈夫。ぼくなら一秒で四谷まで飛んでいける」
 俊一はそう言って、駆け出した。いつも変身に使う四階のトイレに向かったのだ。
「五時限目の授業に遅れないで!」
 美奈子は俊一の背中に声をかけた。

 渡井は、社長室で大橋美奈子のスケジュール表を睨んでいた。
 まだまだ甘いな。もっとレッスンを詰め込んでも、あのじゃじゃ馬なら大丈夫だ。
 などと考えているとき。ベランダの窓でノックの音が聞こえた。
 渡井は顔を上げて、さすがに仰天した。なんとそこにはスーパーマンがいたのだ。
「スーパーマン!」
 渡井は叫んだ。と、同時に、机の引き出しにカメラが入っていることを思い出してもいた。この辺はさすがである。
 渡井は、大慌てでベランダの窓を開けた。
「突然すいません」
 俊一は言った。
「とんでもない! いやあ、スーパーマンが訪ねてきてくれるとは感激だ!」
「あの、早速ですけどお話があるんです」
「はいはい。どうぞなんなりと」
「大橋美奈子さんのことについてです。彼女は、歌手としての大橋美奈子を見てもらいたいと思っています。でも、芸能記者の人たちはそういう目では見てくれない」
「はいはい。おっしゃるとおりです。わたしもその件では胸を痛めておりました」
「やっぱり!」
「もちろんですとも」
「それでしたら、社長さんから記者の方に言ってもらえませんか。大橋さんとスーパーマンは無関係だって」
「わかりました。言わせていただきます」
「よかった。きっと話せばわかってもらえると思ったんです」
「いやあ、わざわざご足労お掛けして申し訳ない。わたしがもっと早くしっかりしておれば、スーパーマンに骨折っていただくこともなかった」
「とんでもないです。じゃあ、ぼく急ぎますんで」
「ちょっと待って下さい。いや、こんな機会は二度とないかもしれない。わたしとぜひ、写真を撮っていただけないでしょうか?」
「写真? ええと…… 写真はちょっと」
「ダメですか? そうでしょうなァ。でも、残念だなァ。いや、残念だ。一生の記念になると思ったのに。ああ、残念でたまらない。これでは夜も眠れない」
「わ、わかりました。じゃあ、一枚だけ」
「ありがとう!」
 渡井は、引き出しからカメラを出すと、それを机の上に置いた。そして、構図を決めるとセルフタイマーをセットした。
「では、ご一緒に」
 渡井は、スーパーマンの隣に並んだ。
 ジーッ、カシャ。シャッターが降りた。
「では、ぼくはこれで」
 俊一はふたたびベランダの窓から飛び去っていった。
「ふふふふ。はははは。わーっはははは!」
 渡井は大笑いした。
「こりゃあいい。スーパーマンが訪ねてきやがった。なんてバカなヤツだ。しかも、一緒に写真まで撮ったぞ。はははは! 使えるぞ、この写真は使える。大橋美奈子のプロモーションにな!」
 そう言って、渡井はまた大笑いした。


 その九。


 それから三ヶ月。
 美奈子は、順調にレッスンを重ね、初のシングルCDのレコーディングも無事終了していた。
 そんなある日の日曜日のこと。
 俊一は、ヘッドフォンを耳にはめると、ウォークマンの再生スイッチを押した。
 美奈子は、固唾をのんで俊一を見つめた。俊一の表情をひとつも見逃すまいと言った真剣な顔だった。
 すごくいい天気だった。
 俊一と美奈子は、真っ青な海に浮かぶ小さな無人島にいた。珊瑚礁が島の周りをとりまき、色とりどりのサンゴが、透き通った海の中で、キラキラと太陽の光を反射していた。
 美奈子は、買ったばかりの水着を着ていた。俊一も、美奈子が見立てた水着(海水パンツと言うべき?)をはいていた。
 日本はやっと五月になったばかり。梅雨入りさえしていない。だが、赤道直下のこの無人島は、一年中夏真っ盛りなのである。
 俊一は、スーパーマン専用のプライベートビーチ(と、美奈子が勝手に決めた)の真っ白な砂浜にビーチパラソルを差して、美奈子のデビュー曲のデモテープを聴いていたのだった。
 俊一は、ウォークマンを切った。
「どう?」
 美奈子が、ヘッドフォンを外す俊一に聞いた。
「うん。カッコいい曲だね。今っぽい感じ」
「詩の内容はどう思う?」
「う~ん」
 俊一はうなった。
「お願いだから正直に言って」
 と、美奈子。
「そうだなァ。ぼくの好みで言えば、前に大橋さんがアカペラで歌ってくれた曲の方が好きだな」
「うわーっ、ホント?」
「うん」
「うれしいなァ。前に聴いてもらったのは、あたしが作った曲なんだ。このデビュー曲は氷室哲夫ってプロデューサーが作ったのよ」
「ああ、その人聞いたことある。いろんなアイドルを手がけてる有名な人でしょ?」
「うん。そうなんだけど、あたし、あんまり好きじゃないんだ、この人の曲。でも、新人が贅沢言えないしね」
「へ~え。大橋さんでも遠慮することってあるんだ」
「ひどーい! そんなこと言う人には、とーってもおいしいサンドイッチを食べさせてあげませーん」
「わあ、ごめん。お腹空いたよ!」
「反省する?」
「するする」
「ふふふ。じゃあ、許して上げる」
 美奈子は笑いながら、ランチボックスを開けた。
「おいしそうだね」
「アハハ。お母さんに作ってもらったんだけどね」
「やっぱり」
「でもね、でもね、あたしも手伝ったんだよ」
「どの辺?」
「う~んとね。パンの耳を切った」
「それから?」
「ええと…… それだけ」
「アハハ! 大橋さんらしいや」
「もう。そんなに大笑いしないでよぅ」
 美奈子は口をとがらす。
 俊一は、サンドイッチを一口食べた。
「うん、おいしい! やっぱり、大橋さんがパンの耳を切ると、味が違うね」
「もう、バカ」
 美奈子はプイと顔を背けた。
「怒った?」
 俊一が聞いた。美奈子は答えない。
「大橋さん?」
 そのとき。美奈子がイタズラっぽい顔で振り返った。
「えい!」
 美奈子は、コーラの缶を振って、俊一の顔の前で蓋を開けた。プシューッとコーラが飛び出して、俊一の顔にかかる。
「うっ……」
「アハハハハ!」
 美奈子は大笑いした。
「やったな!」
 俊一もコーラの缶をクールボックスから取り出した。
「キャーッ!」
 美奈子は楽しそうに叫びながら、海に逃げた。
「待て!」
 俊一も笑いながら追いかける。
「スーパーマンから逃げられないぞ」
「キャアキャア、誰か助けて~。スーパーマンに襲われるぅ」
 美奈子は、パシャパシャと海水を蹴って走った。
「捕まえた!」
 俊一は、美奈子を背中から抱きしめた。
「ずるーい。今、本気で走ったでしょ」
「まさか」
「ウソ。あたし足速いもん」
「もしぼくが本気を出してたら、大橋さんの正面から走ってくると思うよ」
「どうして?」
「だって、逆に走って、地球を一周してこれるもんね」
「アハハ。そりゃ、かなわないや」
 美奈子は、そう言って俊一にキスをした。
「あまーい。コーラの味がするよ」
「誰のせいだ」
「うふふ。あたし甘いの好きだもーん」
 美奈子は笑いながら、もう一度俊一にキスをした。
 ああ、もう勝手にやって。←神(作者?)の声。


 その十。


「どこへ行くんですか?」
 美奈子は車に同乗している渡井社長に聞いた。
 日曜日の、ほんの短いバカンスを楽しんだ美奈子だったが、その日の夕方には渡井社長に呼び出されたのだった。
「赤坂の料亭だよ」
 渡井社長が答えた。
「あたし、もう食事は済ませました」
 美奈子は不機嫌な声で言った。美奈子は、俊一とマクドナルドでハンバーガーを食べているときに携帯電話で呼び出されたのだ。
 もちろん、食べかけのハンバーガーに未練があるわけではない。俊一とのデートを邪魔されたことが非常に不愉快なのだ。
「申し訳ない。今日ばかりはわたしの顔に免じて我慢してくれ」
「どういう意味ですか?」
「朝売テレビの社長に美奈子くんを紹介したいんだ。今日の席で社長のご機嫌を取っておけば、朝売テレビの音楽番組で大きく取り扱ってもらえる可能性がある」
「社長のご機嫌を取るですって?」
 美奈子は、眉をひそめた。
「いや、不満なのはよくわかる。でもね。新人ならみなやってることなんだよ。それとも、美奈子くんは、スーパーマンの恋人だから特別かね?」
「そんなことありません!」
「そうだろうとも。美奈子くんはわかってくれると思った。くれぐれも、社長のご機嫌を損ねることのないように、今日ばかりは我慢してくれ」
「わかりました」
 美奈子はタメ息混じりに答えた。

「おお。渡井くん。待ちかねたよ」
 料亭の座敷には、ひとりの中年男性が日本酒を飲みながら座っていた。脂ぎった顔の五十男だ。朝売テレビの林社長である。
「すいません、社長。道が混んでまして」
 渡井は営業スマイルを浮かべながら頭を下げた。
「彼女が、今度うちでデビューする大橋美奈子です」
「初めまして」
 美奈子は、林社長に頭を下げた。
「ふ~ん。君がスーパーマンの恋人かね」
「そう言われています」
 美奈子は、精一杯笑顔を作った。だが、かなりひきつっているのが自分でもわかった。
「まあ、座りたまえ」
 林社長はそう言って、自分のすぐ隣に置いてある座布団をポンポンと叩いた。
「失礼します」
 渡井が答える。
「美奈子くん。林社長の隣に座ってくれたまえ」
「は、はい……」
 美奈子は、仕方なく林社長の隣に腰を下ろした。
「いいね。若い子は」
 林社長がいやらしい目で美奈子を見た。美奈子の背中に虫ずが走る。
 ところがである。
「いや、大橋さん!」
 と、林社長。
 美奈子は、一瞬キョトンとした。
「ままま、まずは一献」
 林社長は、トックリを持って美奈子に酒を勧めた。
「あの、あたし未成年ですから」
「おお、そうだった。わたしとしたことが」
 林社長は、パンパンと手を叩いた。
 すぐに女将が現れた。
「女将。大橋さんにジュースをお持ちしてくれ。大橋さん、なにがよろしいですかな? オレンジジュース? コーラ? いや、ミネラルウォーターがいいかな?」
「じゃあ、オレンジジュースをお願いします」
「聞いたろ女将。オレンジジュースだ。果汁100パーセントのヤツだぞ」
「はい。ただいま」
 女将は頭を下げて、座敷から下がった。
「いやあ、スーパーマンの恋人にお会いできて光栄だよ」
 林社長は言った。
 やっぱり、そういうことか。と、美奈子は林社長の態度がやけにへりくだっている理由を理解した。
 女将がオレンジジュースを持ってきた。
「さあ、どうぞ」
 林社長が美奈子にオレンジジュースをお酌(?)する。
「ありがとうございます」
「お腹が減ったでしょう。存分に食べて下さい」
 林社長は美奈子に料理を勧めた。
「いただきます」
 お腹は減っていないが、食べなきゃいけない気がして美奈子は料理を口に運んだ。でも、高級料亭の料理はぜんぜんおいしくなかった。
「本当に素晴らしい人材が出てきたものだよ」
 と、林社長。
「大橋さんのデビュー曲を聞かせてもらったけどね。いや、素晴らしい。わたしは新人の曲を聴いて感動したのはアレが初めてだ」
 見え透いたウソ。ここまで言われれば、美奈子ほど聡明な頭脳を持ち合わせていないバカなアイドルでもそう思うだろう。いや、最近のアイドルは思わないかもしれないが……
「ありがとうございます」
 それでも美奈子は礼を言った。
「ところで大橋さん。スーパーマンは元気かね?」
 ほら来た。と、美奈子は思った。
「スーパーマンですからね。きっと人間みたいに風邪はひきませんよ」
「ハハハ。わたしとしたことが愚問だった。そう言えば、大橋さんはスーパーマンとはいつ会ったのだったかね?」
「ええと、もう四ヶ月前です」
「そうか。早いものだねえ。スーパーマンとはちょくちょく会うのかね?」
「すいません。それにはお答えできません」
「ああ、そうだったね。申し訳ない。でも、会ってるんでしょ?」
「すいません。答えられないんです」
「そうかァ。残念だ。では、大橋さんがスーパーマンと会っていると仮定して話をしよう。それならかまわないでしょう」
「でも、仮定の話にも答えられませんよ」
「まあ、聞くだけ聞いてもらえないかな」
「どうぞ」
「うむ。スーパーマンはテレビに出演する気はないのかね?」
「それなら答えられます。スーパーマンはテレビに出ないと思います」
「なぜ?」
「スーパーマンだから」
「よくわからないな。もう少し具体的に説明してもらえないだろうか」
「そうおっしゃられても困りますけど、スーパーマンがテレビに出て、べらべらしゃべると思う方がおかしいと思います」
「これは手厳しい。まさに大橋さんの言う通りだ」
「生意気なことを言ってすいません。でも、事実ですから」
「ふ~む。ならば、スーパーマンはお金にも興味はないんだろうね」
「おっしゃってる意味がわかりません」
「つまり、スーパーマンは人間と同じように贅沢な暮らしをしたいとか思ってはいないのかと、つねづね疑問に思っているのだよ」
 これにはさすがの美奈子も返答に困った。俊一がまったくお金に興味がないとは思わない。悪い意味でそう思うのではない。俊一だって人並みの生活はしたいはずだ。もちろん、美奈子自身もである。それには、ある程度のお金が必要なのだ。
「なにを贅沢だと思うかによると思います」
 美奈子は慎重に答えた。
「豪邸に住んで、何人もお手伝いさんを雇うような贅沢なら、彼はきっとそんなこと望まないと思います。でも、週に一日ぐらい、自分の時間をゆっくり過ごしたいって贅沢は望むかもしれませんね」
「なるほど。彼は多忙だからね」
「ええ。そう思います」
「そうか。お金より時間か」
「たぶん」
「一度、スーパーマンに聞いてもらえないかな」
「なにをですか?」
「そのスーパーマンの時間をお金に換算したらいくらになるかとね」
「はあ?」
「一億。いや、二億。いやいや、三億用意しよう」
「なんの話ですか?」
「スーパーマンの出演料だよ。スーパーマンが、うちの局に出てくれれば、三億用意する。もし、それ以上を望むならば、もちろん相談に乗る」
「あたしに話したいことはそれだけですか?」
「気を悪くしたかね?」
「いいえ、ぜんぜん」
 美奈子は首を振った。そして、皮肉たっぷりに言った。
「とってもおもしろい冗談だと思います。林社長さんって、ユーモアのある方ですね」
「ハハハ。こりゃ、一本取られた。さすが、スーパーマンの恋人だ」
「ありがとうございます」
 美奈子は頭を下げた。
 複雑な気持ちだった。スーパーマンが注目を浴びていること自体に悪い気はしない。それだけ俊一が重要な人物だと思われているわけだから。
 でも。
 美奈子は、自分がスーパーマンの恋人としてしか見てもらえないことが悲しかった。歌手大橋美奈子からスーパーマンの恋人という看板を外したらなにが残るのだろう。誰も、自分に注目などしてくれないのではないか。あたしの歌なんて、聴きたいと思ってくれる人はいないんじゃないか。美奈子は、そう思い始めていた。
「あの。お話がお済みでしたらこれで失礼してよろしいでしょうか?」
 美奈子は言った。もう、この場にいても意味がないし、いたいとも思わなかった。
「ああ、そうだったね。遅くまでつき合わせてしまって申し訳ない」
「とんでもありません。おいしいお料理をありがとうございました」
 美奈子は、そう言って席を立った。


 その十一。


 俊一は、日曜日の残りの数時間を、久しぶりに自宅で過ごしていた。今日は母親も仕事が休みである。美奈子とのデートが中断したのは残念だったけど、母親と過ごす時間もまた俊一にとっては貴重な時間だった。
 だが。無情にも、俊一の携帯がポケットの中で振動した。バイブレーターコールである。
「母さん。ちょっと出てくるよ」
 俊一は、お茶を入れている母親に言った。
「また?」
 母は、手を止めた。
「うん。ごめん」
「遅くなるの?」
「わかんない。なるべく早く帰ってきたいけど」
「そう……」
 俊一の母は、寂しそうな表情で言った。
「ねえ俊一。お母さん、俊一のこと信用しているけど、とても心配なのよ」
「変なことはしてないよ」
「ええ。それは信用してるけど、そんなに毎日毎日出掛けていって、夜も遅くて、体は大丈夫なの?」
「うん。それも大丈夫。絶対にね」
「ならいいけど…… でもね、これは言いたくなかったけど、勉強の方はどうなの? 学校も休みがちだって先生から連絡があったわ。それに、進学塾にもここのところぜんぜん行ってないのね」
「塾は辞めた。言いにくくて黙ってたけど」
「やっぱり」
 母は、タメ息をついた。
「ごめん、母さん。もう行くよ」
「待って、俊一。お母さん一杯聞きたいことがあるけど我慢するわ。でもね、これだけは聞かせてちょうだい」
「なに?」
「自分のこれからのことを考えてる?」
「これからのこと?」
「そうよ。俊一はまだ高校生なのよ。お母さん、俊一にはちゃんと大学に行って欲しいし、高望みはしないけど、ちゃんとした会社に就職して、普通の生活をして欲しいわ」
「う、うん……」
「お母さん無理なことを言ってる?」
「言ってないよ。ぼく、ちゃんと考えてるから」
「本当に?」
「ごめん、ホントにもう行かなきゃ」
 俊一は、母の顔を見ずに、部屋から飛び出した。

「ただいま」
 美奈子は、不慣れな高級料亭から、自宅に戻った。
「おかえり。意外と早かったわね」
 美奈子の母はリビングでテレビを見ていた。美奈子の母も、さすがに日曜日は会社には行かない。
「うん。大した話じゃなかったから」
「どうしたのよ。浮かない顔ね。なんか、失敗でもやらかした?」
「違うわよ」
「だったら、つまらなそうな顔しないでよ。そういうのって伝染するんだから」
「ごめんなさい」
 美奈子は母の隣に座った。
「話しなさいよ。なにがあったの?」
「うん…… 大したことじゃないんだけど」
「どうぞ。大したことでもそうでないことでも聞くわよ」
「今ね。テレビ局の社長さんと会ってきた」
「どこの?」
「朝売テレビ」
「あら、六チャンね」
 美奈子の母は、そう言ってチャンネルを六に変えた。
「それで、その社長さんがどうしたの?」
「うん。その社長はあたしのことなんかどうでもよかったんだ」
「どういうことよ。その社長さんは美奈子に会いたかったんでしょ?」
「違うよ。スーパーマンの恋人に会いたかったんだ」
「ああ、そういうことか」
「そういうことよ。あたしの存在は、スーパーマンの恋人ってだけなのよ。誰も歌手としてのあたしに期待なんかしてないんだ」
「あら。わたしはしてるわよ」
「お母さんは別」
「もうひとりいるでしょ。スーパーマンもそうなんじゃないの?」
「たぶんね」
「たぶんなの? スーパーマンと喧嘩でもした?」
「してないよ。昼間も会ってきたもん」
「それで、朝からサンドイッチを作らされたわけだ」
「あっ……」
「アハハ。最初からわかってたわよ、そんなこと。デートだったんでしょ」
「うん」
「やっと恋人宣言したわね」
「ごめん。黙ってるつもりはなかったんだけど」
「いいのよ。美奈子だってもう大人なんだから、なんでも親に報告する必要はないわ。わたしは自分の娘を信じてますからね」
「ありがとう。お母さん」
「でも、スーパーマンの恋人である大橋美奈子は、スーパーマンの恋人って呼ばれるのが不満なわけだ」
「不満ってわけじゃないわ」
「じゃあ、どうして浮かない顔をしてるの?」
「だって。みんな、あたしのことより、スーパーマンにだけ興味があるんだもん」
「覚悟の上でしょ」
「えっ?」
「そんなこと、覚悟してたんでしょって言いたいわね、わたしは」
「それは…… そうだけど」
「スーパーマンはきっかけでしょ? あとは美奈子が歌手としてがんばるだけよ」
「スーパーマンにも同じこと言われた」
「あら。さすがスーパーマンね。若い割にしっかりしてる」
「うん。スーパーマンはすごいよ。いつもがんばってる」
「じゃあ、美奈子もがんばりなさい。人が何と言ったって気にしない」
「まあ…… ね」
「こら」
 美奈子の母は、娘の頭をコツンと叩いた。
「そうやって、いつまでもウジウジしてるつもりなの?」
「だってぇ」
 美奈子は口をとがらせた。
「困った子ね。じゃあ聞くけど、美奈子にとって一番大切なものは何?」
「大切な物?」
「そうよ。芸能人として、みんなからチヤホヤされること? それとも、自分の歌を聴いてもらうこと?」
「自分の歌よ」
「それが答えでしょうに。美奈子の歌がどうでもいいものなら、結局は、スーパーマンの恋人って言うだけで終わるわ。それがいやなら、ウジウジしてないでかんばりなさい」
「簡単に言う」
 美奈子はプイと顔を背けた。
「じゃあ、スーパーマンと別れたら?」
「えっ?」
「別れなさいよ。それなら、美奈子はただの大橋美奈子でしょ」
「いやよ! あたしスーパーマンが好きだもん」
「あらァ、わたしだって好きよ。いいえ、世界中の人が好きだと思うわ。別にスーパーマンは美奈子だけの物じゃないもの」
「ひどい! どうしてお母さんそんなひどいこと言うの」
「だって、本当のことだもの」
「あたしは、スーパーマンが好きだけど、スーパーマンじゃないスーパーマンはもっと好きなのよ。誰も、本当のスーパーマンを知らないんだから!」
「まったく、欲張りな子ね」
 美奈子の母は、そう言って娘を抱きしめた。
「いいこと。あなたはね、世界で一番幸せな女の子なのよ」
「どういう意味?」
 美奈子は、まるで幼い子供のように抱きしめられながら言った。
「恋をしてるから」
 母は、娘の頭をなでた。
「恋をしてる女の子はね、みんな世界で一番幸せなのよ。でもね。もっと幸せになる方法を教えて上げましょうか?」
「なに?」
「それはね。好きな人に尽くそうと思うことよ。男も女も関係ないわ。与えられるより、与える方が、何十倍も幸せな気分になれるの」
「うん……」
 美奈子はこのとき、母親がなにを言いたいのかわからなかった。
「美奈子は、スーパーマンに…… いいえ、好きな男の子になにをして上げられる?」
「あたしが?」
「そうよ」
「ええと…… 彼の話を聞いて上げられるわ」
「そうね。スーパーマンでないときの、その男の子の悩みを聞いて上げられるのは美奈子だけね。それなのに、そんなふてくされた顔で彼に会うの?」
「スーパーマンの前ではこんな顔しないもん」
「美奈子は思ってることがすぐに顔に出るって知ってる?」
「気をつけるもん」
「そうなさい」
 母は、娘を離した。
「さあ、お説教は終わり。明日も早いから、わたしはもう寝るわ」
「お休みなさい」
「美奈子も明日は早いんでしょ。もう寝なさい」
「うん。あの…… ごめんねグチこぼしちゃって」
 美奈子の母はにっこりほほえんで、自分の寝室に入っていった。


 その十二。


「今週の第三位は!」
 音楽番組の司会者の元コメディアンが、大げさなジェスチャーで言った。
「なんとあの、スーパーマンの恋人! 大橋美奈子さんです!」
 軽快な音楽がなった。ADが美奈子に合図を出す。美奈子は、ステージの中央へ歩いていった。
「ようこそいらっしいました」
 司会が言った。
「初登場でいきなり三位です。気分はどうですか?」
 テレビカメラが、美奈子をクローズアップした。
「うれしいです。みなさんどうもありがとう」
 美奈子は答えた。
「そう言えば、大橋さんはテレビ出演も今回が初めてなんですよね?」
「そうです。緊張しますね」
「スーパーマンもテレビをご覧になっていますか?」
「いいえ、見ていないと思います」
「では、ビデオに撮って、あとで見てもらったらいかがですか?」
「いいアイデアですね。でも、ビデオを録画予約するの忘れました」
「ご心配なく。テレビ局が用意してくれますよ。ところで、スーパーマンは、ビデオデッキの使い方は知ってますよねえ?」
 司会がそう言ったとき、ADがサクラの観客たちに『笑え』のサインを出す。
 観客は笑った。
 ADが『笑い止め』のサイン。
 観客は、笑うのを止めた。
「スーパーマンはビデオを見て何と言うでしょうね。大橋さんも、一刻も早く見てもらいたいでしょ?」
 司会が聞く。
「そうですね」
 美奈子は答えた。
「それなら、スーパーマンのところにテープを送ってもらえないかしら? 今朝のニュースでソマリアの難民キャンプに行っているそうですから。飢えと病気に苦しんでいる人たちのところに、テレビもビデオもないでしょうけどね」
 美奈子は、思わず皮肉を言ってしまった。内心、しまったと思ったがもう遅い。
「ハハハ」
 司会者は笑った。心の中で生意気な娘だと思ったが、もちろんそんなことは臆面にも出さなかった。
「では、ステージの準備も整ったようです。今週第三位、大橋美奈子ディープ・ブルー」
 司会者は、曲名をを紹介してステージを下がった。美奈子ひとりにスポットライトが当たる。
 ADが『拍手』のサイン。
 美奈子は白けていた。こんなの変だと思った。それでも、人が作った好きでもない自分の持ち歌を歌った。
 歌い終わるとADがまた『拍手』のサイン。
 美奈子は、一回だけおじぎをして、ステージから降りた。
 ショービジネス。
 これが、あたしの歌を聴いてもらうってこと?
 美奈子は自問した。
 ステージの上には、すでに第二位の歌手が呼ばれていた。

 番組の収録が終わり、美奈子が帰る準備をしていると、楽屋のドアがノックされた。
「はい」
 美奈子は答えた。
 ドアが開いて、ひとりの女性が入ってきた。今週一位の歌手だ。髪を茶に染めて、今、女子高生に絶大な人気を誇る安室奈美である。
「大橋さん。ちょっとお話ししていいかしら?」
「どうぞ」
「芸能界にデビューした気分はいかが? スーパーマンの恋人として」
 その安室奈美は、ことさらスーパーマンの恋人というところを強調した。
「最高。いい気分ですよ」
 美奈子は無表情に答えた。
「そうよね。いきなり三位ですもの。たぶん、来週はあなたが一位よ」
「ありがとう」
「ま、氷室先生の曲でチャートインしない方がおかしいけどね」
「そうですね」
「でもね。あのサビの部分は、もっと感情を込めた方がいいんじゃない?」
「今度からそうします」
「誤解しないでね。大橋さんのために言ってるのよ」
「わかってます。安室さんにレッスンを受けられるなんて感激です」
「あっ、そう」
 安室奈美はフンと鼻を鳴らした。
「どうせなら、スーパーマンにもレッスンをしてもらったら?」
 美奈子は、このほとんど同じ歳のアイドルが自分をバカにしているのがおかしかった。腹が立つと言うより、芸能界ってこういうところなんだと、不思議と客観的に見ていたのだ。まるで、テレビドラマそのままじゃないかと。
「ちょっと。なにがおかしいの?」
 安室奈美は眉をひそめた。
 美奈子は、心で思ってることが顔に出るという母親の忠告を思い出した。
「いいえ。おかしくありません」
 美奈子は首を振った。
「もういいわ。じゃあね、スーパーマンの恋人さん。せいぜいがんばって」
 安室奈美は楽屋を出ていった。
 やれやれ。
 美奈子はタメ息をついた。そして、ここにいる自分が、急にバカバカしく思えた。


 その十二。


「川村くん」
 美奈子は、屋上でパンを食べている俊一に声をかけた。
「隣、座っていい?」
「うん」
 俊一は答えた。
「今日はいたね。ソマリアはどうだった?」
「問題なし。でもないかな」
「なにかあったの?」
「なにもないよ。難民の移動は無事に終わった。でも、難民の問題は解決されてない。あとは政治の問題だよ」
「そっか」
「仕事の方はどう?」
「うん。テレビに出た」
「ごめん。見れなかった」
「ううん。いいの。見てもつまらなかったと思うから」
「どうしたの? 大橋さん元気ないね」
「アハハ。やっぱり顔に出るのかなァ」
「なにがあったの?」
「ちょっとね。大したことじゃないよ」
「そう」
 俊一は答えて、ふと遠くを見つめた。
「川村くんこそ元気がないみたい」
 美奈子が言う。
「別に。ぼくも大したことじゃない」
「話してみて」
「本当に大したことじゃないんだ」
「いいから話してみて。お願い」
「うん……」
 俊一はあやふやにうなずいて黙り込んだ。
「わかった。こうしようよ川村くん。あたしも話すから、川村くんも話して。ね。ギブ&テイクよ」
「じゃあ、大橋さんから」
「いいわ。えっとね。この間テレビに出たとき、ちょっと先輩のアイドルに虐められちゃった」
「えっ!」
「アハハ。そんなに驚かないで」
「でも、大丈夫なの?」
「平気。それより、そのアイドルがおかしく見えた」
「どういうこと?」
「だって、典型的なアイドルなんだもん。よく、芸能界では新人イビリがあるって言うけど、あそこまでわかりやすい人も珍しいなって思っちゃった」
「ふ~ん。芸能界も大変なんだ」
「そうでもないわ。あたしスーパーマンの恋人だから。特別よ」
「特別って?」
「テレビ局の社長さんが頭を下げる新人アイドルは、あたしぐらいのものよ」
「ハハハ。そりゃいいや」
 俊一は力無く笑った。
「はい。あたしは終わり。今度は川村くんの番だよ」
「うん……」
「話したくないこと?」
「そうじゃないよ。ただ、なんって言ったらいいのか…… 不安なんだ」
「不安?」
「うん。こないだ母さんに言われたんだ。将来どうするのかって」
「それで?」
「母さんがパートを増やして通わせてくれた塾も辞めたし、学校もなんとか卒業できる程度しか通えない」
「うん」
「これからどうなるんだろうね。ぼく……」
 美奈子は、その一言に衝撃を受けた。
「なんてね」
 俊一は、急に笑った。
「ちょっと弱気になっちゃったよ。ハハハ」
「あの…… あたし、なんて言ったらいいかわかんないけど……」
「ごめんごめん。こんな話するつもりじゃなかったんだ。忘れてよ」
「忘れられると思う?」
 美奈子は真剣な顔で言った。
「あたし、川村くんのお母さんの気持ちわかるよ」
「うん」
 俊一もまじめな顔になった。
「それが一番辛いんだ。母さん、ぼくのために夜の仕事まで始めて……」
 俊一はうつむいた。
 美奈子はこの時、俊一の母の化粧が濃かった理由がわかった。
「あっ。まただ」
 俊一はポケットから携帯電話を出した。
「仕事?」
「うん。行かなきゃ」
 俊一は立ち上がった。
「悪いけど、先生には早退したって言っておいて」
「気をつけてね」
「ありがとう」
 俊一は、屋上から、いつも変身に使っている四階のトイレに向かって駆けていった。
 美奈子はたまらない気持ちだった。俊一に何と言っていいかわからなかった。
 スーパーマンの恋人と呼ばれることがおもしろくないですって? 歌手として見てもらえないことがシャクにさわるですって? 芸能界なんてバカバカしいですって?
 美奈子は、心の中で叫んだ。
 どうして、あたしはこんなにバカなの! そんなの悩みでもなんでもないじゃない!
「やだ。大橋さんどうしたの?」
 屋上にいたクラスメートが声をかけた。
 美奈子は泣いていたのだ。
「な、なんでもない。なんでもないわ」
 美奈子は答えたが、涙は止まらなかった。
 そして、この日、この瞬間から、美奈子は変わった。


 その十三。


「大橋美奈子でーす! スーパーマンの恋人やってまーす!」
 美奈子はステージの上に立って、テレビカメラに愛想を振りまいた。
「ワオ! 大橋さん、今日はテンション高いですね」
 例の音楽番組の司会者が言った。
「はい。なんてったって一位ですから。これもみなさんのおかげです」
「そう言えば、アルバムの方も制作が進んでるようですね」
「はい。おかげさまで。デビューコンサートも、来月の十五日に決まりました」
「おっと。しっかり宣伝までしてますね」
「アハハ。みんな来て下さーい!」
「スーパーマンも聴きに来るのかな?」
「う~ん。どうでしょう。忙しい人ですからねえ。でも、来て欲しいと思ってますよォ」
「ワオ! じゃあ、もしかしたら、デビューコンサートに行った人は、スーパーマンに会えるかもしれませんね」
「そうですよ! 会えるかもね。だから、みんな来て下さーい!」
「いやあ、本当に今日はハイテンションですね。もしかして、なにかいいことがあったとか?」
「アハハ。ありませーん。これが普段のあたしでーす!」
 美奈子は、滑稽なまでに愛想良く言った。
「では、歌っていただきましょう」
 美奈子にスポットライトが当たった。

 次の日。美奈子は銀座にある山田楽器でのサイン会に向かった。
「大橋さん。スーパーマンの恋人って書いて下さい」
 ファンの子が言う。
「はーい。いいですよォ。アハハ。あたしの名前より大きく書いちゃうね」
 美奈子は、臆面もなく、スーパーマンの恋人と大きく書いた。
「コンサートにも来てね」
「はい! もちろん!」
「ありがとう!」

 芸能記者のインタビューにも答えた。
「最近、明るくなったと評判ですが?」
「そーですか? アハハ。これが地なんです」
「スーパーマンとはよく会っていらっしゃるんですか?」
「う~ん。ちょっと忙しくって、会う時間が減りました」
「それは残念ですね」
「美奈子、悲しいでーす」
「ハハハ。あまり悲しそうじゃありませんよ」
「態度は心の裏腹なんです」
「さっき、地だとおっしゃいましたが?」
「アハハ。よく覚えてますねえ。でも、スーパーマンに会えないのは本当に悲しいです」
「やはり、愛する人には会いたい?」
「もちろん!」
「いやあ、なんだか垢抜けましたねえ。以前の大橋さんなら、そんなこと公言しなかった気がするんですが」
「そうですかァ?」
「スーパーマンは、変わったって言いませんか?」
「言われたことないですね。もしかして、スーパーマンって鈍感なのかしら?」
「おやおや。いいんですか、そんなこと言って」
「アハハ。あたしたち、深ーい、愛情で結ばれてますから平気でーす」
「これはお熱い」
「それより、みなさんもコンサートに来て下さいね。いっぱい、記事を書いて下さい」
「ハハハ。これは、ホントに変わりましたね。じゃあ、もっとスーパーマンのこと聞いてもいいかな?」
「どうぞ」
「スーパーマンは食べ物の好き嫌いとかありますか?」
「ないです。なんでも食べますよ。だから、テレビの前の、よい子のみんなも、いっぱいご飯を食べて、元気な大人になりましょう!」
「スーパーマンに食事を作って上げたりしますか?」
「はい。料理も勉強中でーす」
「アイドルと学校と料理ですか。大変ですね」
「そんなことないですよ。どれも楽しんでまーす」
「どうですか、いっそのことスーパーマンもテレビに出て、大橋さんとデュエットとか歌ったら」
 さすがの美奈子も、これにはカチンときた。
 だが、美奈子は笑顔で言ったのだった。
「アハハ。それいいですねえ。今度、スーパーマンに話してみまーす!」
「実現したらすごいですね」
「世界中から取材されるかしら?」
「されますよ」
「アハハ。じゃあ、がんばって実現させましょう!」
 美奈子はニコニコ笑いながら言った。

 渡井社長は、幹部たちと会議をしていた。
「美奈子の急変はどういうわけだ?」
 渡井が言った。
「わかりませんね。本当に急変ですよ。愛想も良くなったし、第一、あれほどスーパーマンの恋人と喧伝されるのを嫌がっていたのに、最近はむしろ、積極的に売り込んでますね、自分から」
「ふうむ。美奈子もいよいよ、こっちの住人になってきたか」
「でしょうね。そうとしか考えられません」
「まあ、われわれにとっては願ってもないことだ」
「これで、デビューコンサートも成功間違いなしですね」
「まあな。だが、あと一押しが欲しい」
「と、おっしゃいますと?」
「この写真を見てくれ」
 渡井は、スーパーマンと撮った記念写真を幹部たちに見せた。
「おお。これは!」
「スーパーマンが、美奈子を自分の恋人として扱うなと言ってきたんだ。そのとき、うまいこと丸め込んで撮った写真だよ」
「これをどうするんですか?」
「宣伝に使う。この写真をマスコミにばらまくんだ。美奈子の芸能活動を支援するスーパーマンとかなんとか適当にでっち上げればいい」
「効果抜群ですね」
「うむ。これで、美奈子のコンサートにスーパーマンが来れば、大成功どころか、大の上に超がつく成功だよ」
「来ますか?」
「こさえるさ」
「どうやってです?」
「なに。わたしに考えがある。とびっきりのショーを用意しようじゃないか」
 渡井社長は、不敵な笑みを浮かべた。

「大橋さん、今日は気合いが入っていたね」
 マネージャーの立花が言った。
「あんなに真剣にリハーサルをしてる姿は初めて見たよ」
「あたし真剣なんです」
 美奈子は答えた。
「へえ。こりゃ驚いた。どういう心境の変化?」
 美奈子は答えなかった。
「まあいいや。大橋さんがやる気を出してくれるのは大歓迎だよ。デビューコンサートは五日後だからね。がんばってもらわないと」
「はい。がんばります!」
「おお。返事まで違う。社長も喜んでいたよ」
「そうですか」
「あー、ところで、大橋さん。これ、今月の分なんだけど」
 立花は、分厚い封筒を出した。
「その、また、ぼくがもらっていいかな。いや、先月車を買っちゃってね」
「ください」
「へ?」
「それ、あたしが使うべきお金でしょ?」
「いや。そうだけど、今までずっと、いらないって……」
「ください」
 美奈子は手を出した。
「う、うん」
 立花は渋々美奈子に封筒を渡した。
「まさか、今までの分も返せなんて言わないだろうね?」
「そこまでは言いませんよ」
 美奈子は封筒を鞄に入れた。
「じゃあ、家まで送るよ」
「はい。ありがとうございます」
 美奈子は頭を下げた。


 その十四。


「ただいま」
 美奈子は、リビングにいる母に言った。
「おかえり。今日は早かったのね」
「うん」
 美奈子は母の隣に座ると、鞄から封筒を出した。
「これ」
「なに?」
「開けてみて」
 母は、封筒を開けた。
「やだ。お金じゃないの。どうしたのよ」
「社長がくれた」
「そう…… で、わたしに渡してどうするつもり?」
「貯金して。定期かなんかに」
「わかったわ」
 母は、封筒を食器棚の引き出しにしまった。
「疲れているようね」
 母は、娘の隣に戻ると言った。
「疲れてないわ」
「そうは見えないわね。確かに、わたしもがんばりなさいと言ったけど、最近の美奈子を見ていると、ものすごく無理をしているように感じるわ」
「そんなことないよ」
「スーパーマンには会ってるの?」
「会ってない」
「時間がないの?」
「うん。あたし忙しいから…… 彼もだけど」
「スーパーマンは、喜んでるかしらね」
「うん。あたしに会えないのを喜んでるかも」
「なに言ってるの、違うわよ。美奈子が、がんばってる姿を見てよ」
「知らないわ」
「ねえ、美奈子。なにがあったの? 話なら聞くわよ」
 母がそう言ったときだった。美奈子の瞳から大粒の涙がこぼれた。
「美奈子……」
「お母さん。あたし、あたし……」
 母は、娘を抱いた。
「どうしたの。美奈子が泣くなんて」
「あたし、がんばらなくちゃ。がんばらなくちゃ」
「よしよし」
 母は、娘の頭を優しくなでた。
「美奈子はがんばってるわよ。大丈夫。なんにも心配いらないわ」
「でも、スーパーマンは、あたしのこときっと軽蔑する……」
「なぜそう思うの?」
「だって、自分からスーパーマンの恋人だなんて…… あんな、お金まで受け取って」
「だったら、どうしてがんばるの? 理由があるんでしょ?」
「あたしががんばらないと、スーパーマンがスーパーマンでいられなくなるから」
「どういう意味?」
「それは…… 言えない。言えないよォ!」
 美奈子はワッと声を上げて泣いた。
「しょうがない子ね。本当に子供なんだから」
 母は、娘を抱く腕に力を込めた。
「お母さん。お母さん!」
 美奈子をそう言って泣き続けた。
 十分ぐらい経っただろうか。美奈子の泣き声は、だんだんと小さくなって、やっとすすり泣き程度になった。
「美奈子。スーパーマンと会いなさい」
 母は言った。
「会えないよ」
「それでも会いなさい。じゃなきゃ、あなたダメになってしまうわよ」
「でも、でも」
「なにがあったのか。いいえ。美奈子がなにを思ってるのか聞かない。でもね。わたしは、美奈子がスーパーマンに会えばきっと解決すると思う」
「しないよ」
「いいえ。そんなことないわ。美奈子が苦しめばスーパーマンも苦しんでいるはずよ。どうして、二人で解決しようとは思わないの?」
「だって、彼はスーパーマンなんだもの。お金のことは、あたしがなんとかしなきゃ」
「やっぱり、そういうことね」
「違う!」
 美奈子は、母親から離れた。
「誤解しないで! スーパーマンがお金を欲しがってるわけじゃない!」
「そんなことわかってるわよ。美奈子の悪いところね。猪突猛進。思いこんだら一直線なんだから」
「うん」
 美奈子は、シュンとなってうつむいた。
「そうやって、ひとりで荷物を背負い込んでもしかたないでしょうに」
 母は言った。
「あたしに比べたらスーパーマンの方がずっと重い物を背負ってるもん」
「だからよ。二人で解決なさい」
「ダメよ。彼に負担をかけたくない。それに、お母さんが言ったじゃない」
「なにを?」
「好きな人のためになにかできるって、幸せなことだって」
「確かにね」
 母は、タメ息をついた。
「そのために無理をしろって意味じゃなかったけど」
 美奈子は、うつむいて黙り込んだ。
「スーパーマンに会って、話し合いなさい。美奈子には、その資格があるでしょ」
「あたしに?」
 美奈子は顔を上げた。
「そうよ。本当のスーパーマンを愛してる、世界でたったひとりの女の子なんだから」
「あたし…… でも」
 美奈子は首を振った。
「あら。噂をすればだわ」
 美奈子の母は、にっこり笑った。
「えっ?」
 美奈子が顔を上げる。
「ベランダをごらんなさい」
 母が言った。
 美奈子は、慌ててベランダを振り返った。そこには、スーパーマンがいた。
 美奈子の母が立ち上がってベランダを開ける。
「いらっしゃい。スーパーマン」
「すいません。夜分に」
「とんでもない。わたしはいつでも大歓迎よ。ほら美奈子、あなたの彼氏よ」
 母は言った。
 だが、美奈子は、涙で腫れた顔を見られまいと、顔を背けた。
「あらあら。困った子ね」
「あの、大橋さん。最近会ってくれないから気になって…… でも、また出直すよ」
「ダメよ」
 母が言った。
「どうぞ、遠慮しないでどこへなりと連れていってちょうだい」
「お母さん!」
 美奈子は叫んだ。
「わたしね。これから見たいテレビドラマがあるのよ。そんなところで泣かれていたら迷惑だわ」
「泣いてたの?」
 俊一が驚いたように聞く。
「そうですよ。スーパーマンに会いたいって、さっきからもうワンワンとね」
「違うもん!」
「ほらね。うるさいから連れていって下さいな」
 美奈子の母は、強引に娘を立たせてると、スーパーマンに押しつけた。
「ベランダの鍵は開けておきますからね。いってらっしゃい」
「あの、大橋さん。ホントにいい?」
 俊一が聞いた。
 美奈子は、小さくうなずいた。
「ああそうだわ。忘れてた」
 母が言った。そして、食器棚から封筒を出す。
「これ。美奈子がもらってきたお金です」
「お母さんひどい。言わないで!」
「ダメよ。ちゃんと二人で話し合いなさい。じゃあ、スーパーマン。娘をお願いね」
「わかりました」
 俊一はうなずくと、美奈子の手を取って、ベランダからふわりと飛び上がった。
 美奈子の母は、夜空に消えていく二人を見送った。
「あ~あ。青春っていいわね。どこかに若返りの薬って売ってないかしら」
 母は、そうつぶやいて、クスッと笑った。
「いけない。ドラマが始まっちゃうわ」
 しかし、テレビを見たかったのも本当だった。


 その十四。


 俊一は、美奈子を連れて、東京の空を離れた。季節はもう七月の後半である。夜になってもかなり蒸し暑い。だから、俊一は、少し北に向かった。
 空からスモッグが消えていき、だんだんと星の数が多くなる。
 俊一はふと、美奈子が靴を履いていないことに気がついた。俊一は、柔らかい草が生い茂った高原を探した。
 五分ほど飛ぶと(距離はすごいのだが)、ちょうどよさそうな場所を見つけて、ゆっくりと降下した。美奈子の靴下が、まるで、絨毯のような草の上に触れた。
「座ろうか」
 俊一はそう言って、変身を解いた。普段のTシャツとジーンズに戻る。
 美奈子はコクッとうなずいて。腰を下ろした。
 俊一も美奈子の隣に座る。
「ぼく。心配しちゃったよ。ずっと会いたかったんだけど、いつも留守番電話だし、携帯に電話するのも、仕事中だと悪いと思って」
「ごめんね。あたし、バカだから」
「大橋さんはバカじゃないよ」
「ううん。バカだわ」
「ねえ。あのときのことを気にしているの?」
「あのとき?」
「そう。学校の屋上で、これからどうしようなんて、ぼくが弱音を吐いたから」
「ううん。違う」
 美奈子は首を振った。
「でも、あの日以来だよ。会ってくれなくなったのは」
「違うわ。忙しくて…… あたしも会いたかったもん」
「ホント?」
「うん。本当よ」
「じゃあ、どうして自分のことをバカだなんて言うの?」
「それは…… バカだから」
「わかんないよ。ちゃんと言ってくれなきゃ」
「ごめん」
 美奈子はうつむいた。
 俊一は、タメ息をついて、美奈子の肩を抱いた。
「ぼくって、そんなに頼りないかな」
「違う。そんなんじゃないよ」
「じゃあ、さっきのお金のことも話してくれるよね」
「あれは…… 社長さんからもらったの。これで、おいしい物でも食べろって」
「それにしては厚かったね。何百万円か入っていたんでしょ?」
「三百万」
「すごいね。どんな食事ができるんだろう」
「わかんない」
 美奈子はプイと顔を背けた。
 俊一は、またタメ息をついた。
 そして、しばらく、二人は黙ったまま肩を寄せ合っていた。
 心地よい風が、美奈子の髪をなでた。サラサラと揺れる髪は、俊一の頬を優しくくすぐった。
「大橋さん」
「川村くん」
 同時に声をかけた。
「大橋さんから」
「ううん。川村くんから」
 そう言って、二人はまた黙りこんだ。
「あの日、屋上で言ったこと」
 やがて、俊一はつぶやくように言った。
「これから自分がどうなるんだろうって不安は、今も消えない」
 美奈子は顔を上げた。
「ずっと考えてるんだ。たぶん、こんな生活じゃあ、まともな就職はできないし、それどろこか、大学にも通えないと思う。年老いていく母さんの面倒も見れない」
「あたしが……」
 美奈子は口を挟もうとしてやめた。
「でね。考えたんだ」
 俊一は、ニコッと笑った。
「自分と家族が生きて行くぐらいのお金は、スーパーマンの力を利用してもいいんじゃないかって」
「えっ? まさか、人からお金を取るの?」
「うん」
「スーパーマンがお金を取るなんておかしいわ」
「違うよ。そういう意味じゃ……」
 と、俊一が言いかけたとき。
「あたしが働くから」
 美奈子が言った。
「そうすれば、川村くんは、スーパーマンに専念できるわ。スーパーマンがお金のことなんか考えちゃダメ」
「それで、あんなに無理していたんだね」
 美奈子は、またもうつむいた。
「やっぱりそうだったんだ」
 と、俊一。
「軽蔑したよね」
 美奈子はつぶやいた。
「その逆だよ」
「えっ?」
「正直言って、もし、大橋さんが、ぼくのために頑張ってくれているとしたら、って考えると、自分でも情けないけどうれしかった」
「あたし、間違ってなかったよね?」
 美奈子は、俊一を見つめた。
 だが、俊一はゆっくりと首を横に振った。
「たぶん。間違ってる」
「どうして?」
 美奈子の顔が急に不安で覆いつくされた。
「泣いていたから」
 俊一は、美奈子を真っ直ぐに見つめて言った。
「違うの。あれは…… 違うから」
 美奈子はそう言って、言葉を切った。
「大橋さんを苦しめなきゃいけないなら、ぼくはスーパーマンなんか辞める」
「えっ?」
「そうさ。なんで、好きな女の子を苦しめながらスーパーマンをやる必要がある? ぼくは大橋さんを一番幸せにしたいのに」
「ダメよ! そんなのダメ。スーパーマンは、世界に必要なんだよ」
「関係ないよ」
「あたしは、あたしは、ただワガママを言ってるだけなんだもん。歌手として見てもらいたいとか、芸能界がつまらないとか、そんなのみんなあたしのワガママなのよ。そんなことでスーパーマンがいなくなるなんて、絶対にダメ」
「もし」
 俊一は言った。
「もしも、大橋さんが歌を歌えなかったら? 大橋さんが芸能界に入らなかったらって考えたら、ぼくたちはどうしてた?」
「それは…… なんでそんなこと聞くの?」
「さっきぼく、スーパーマンの力を利用してお金をもらうって言いかけたよね」
「ダメよ」
 美奈子は首を振った。
「最後まで聞いてよ。ぼくはスーパーマンの格好をしていないときでも、ある程度力は出せるんだよ。たぶん、普通の人の千倍は出せると思う。それを利用して、建築現場で働くんだ。きっといいお金になるよ」
「そんなのいやだ。川村くんにはスーパーマンに専念して欲しい」
「大丈夫。ぼく疲れないから。贅沢はできないかもしれないけど、きっと普通の生活ができるよ。ぼくはそれでいいんだ。大金持ちにならなくたっていいよ。大橋さんがいてくれれば」
「あたしだって、川村くんがいてくれれば、お金なんかいらないよ」
「じゃあ、ぼくのために無理をしないでよ」
「川村くんこそ、無理してる。あたしわかるもん」
「してないよ」
「してる」
「してない」
「してるってば!」
 二人は、顔をつき合わせながら言い合った。
「こんなのおかしいよ」
 俊一が言う。
「お互いに心配し合ってるのに、どうして意地の張りっこしなきゃいけないんだ」
「川村くんが無理してるからよ」
「大橋さんもね」
「あたしは平気だもん」
「ぼくも平気さ」
「ねえ、お願い。お金のことはあたしに任せて、川村くんは、スーパーマンに専念して」
「ぼくは、スーパーマンだけ? 川村俊一は関係ないの?」
「違うってば。どうしてそんな風に考えるの?」
「だってそうじゃないか。大橋さんは、スーパーマンを意識しすぎてるよ。ぼくはスーパーマンである前に、川村俊一なんだ。好きな子がぼくのために無理をしていたら、辛いと思って当然だよ」
「だから、あたしは平気だってば」
「母さんも同じことを言うよ。夜の仕事までしてるのに、ぼくに辛い顔を見せようとしない。そんなときのぼくがどんな気持ちだと思う?」
 美奈子は言葉に詰まった。
「母さんを見ていると、ぼくは胸が痛くなる。もし、大橋さんにまで同じ思いをさせるとしたら、ぼくは生きていたくさえない」
「バカなこと言わないで」
「本気だよ!」
「ああもう…… あたし、どうしていいかわかんない!」
 美奈子は、激しく首を振った。
「やっぱり、スーパーマンは人を好きになったりしちゃいけなかったんだ」
「やめて! そんなこと言わないで!」
「でも、そうとしか思えないよ」
「バカ! 川村くんの分からず屋!」
「それは大橋さんじゃないか!」
 俊一と美奈子は、顔を背けた。
 そしてそれは、二人の間に、長い沈黙が訪れた瞬間であった。

「うむうむ。やっとわしの出番じゃな」
 ドクター・ゲロが言った。
「うわあ、またすごいタイミングで登場ですねえ。ヒンシュクもんですよ」
「うむうむ。そのヒンシュクを買う快感がたまらん」
「さすがゲロ様。並の変態じゃありませんね」
「うむうむ。そう誉めるな」
「それにしても長かったですねえ。もう、忘れられちゃったかと思いましたよ」
「うむうむ。いよいよスーちゃんの完成も間近じゃ。そろそろ登場せんとな」
「そうですね。ところでここはどこですか?」
「うむうむ。ここが武道館じゃ。ブド~カ~ンってな」
「なんか、浮かれてますねゲロ様」
「うむうむ。絶好調じゃ」
「ここって、大橋美奈子のコンサート会場ですよね? 深夜のコンサート会場ってなんか恐いですね」
「うむうむ。子供が夜トイレに行くときのようなことを言うな」
「すいません。わたし弱いんですよ、こういうの」
「うむうむ。バカタレ。前はスーパーマンにしてやられたが、今度こそ、成功させるのじゃ」
「前回はなにもしなかったような…… ゲロ様気絶しちゃうし」
「うむうむ。うるさい」
「で、ゲロ様。今度はどんな悪巧みを?」
「うむうむ。聞いて驚くな。コンサート会場の照明に細工してな、上から落下してくるようにするんじゃ」
「ええっ! 下敷きになったら死んじゃいますよ。まさか、大橋美奈子を殺すんですか」
「うむうむ。バカを言うな。すんでのところで止まるようにするんじゃ。そのスリルがおもしろいんじゃ」
「なるほど。さすがゲロ様。人の嫌がるとを考えさせたら天下一ですね」
「うむうむ。そう誉めるな」
「でも、わたし、ひとつだけ疑問があるんですけど」
「うむうむ。なんじゃ?」
「たとえば、仮面ライダーのショッカーも世界征服が目的ですけど、なんで、幼稚園のバスを襲ったりとか、セコイことばかりやるんですかねえ?」
「……」
「ゲロ様?」
「うむうむ。うるさい。深く追求するな。それより細工に行くぞ」
「はい。ゲロ様」
 そのとき。ゲロたちの耳に、足音が聞こえた。
「やばい。ゲロ様!」
「うむうむ。隠れるのじゃ」
 ゲロたちは物陰に隠れた。
「社長。本当にやるんですか?」
 作業員が聞いた。
「当たり前だ。これで、スーパーマンがコンサートに来る」
「来なかったら?」
「いいや、必ず来るはずだ」
「でも、ゴンドラのワイヤーを、一本切れるようにしておくなんて、本当に危険ですよ。下手をしたら、大橋美奈子が死んでしまいます」
「大丈夫だ。三本あるワイヤーの一本ぐらい切れたって、ゴンドラは落ちない」
「そりゃそうですけど、このゴンドラって、大橋美奈子が、コンサートの最後に乗って、空中に浮くためのものでしょ? ゴンドラは落ちなくても、彼女がバランスを崩したらどうします?」
「心配するな。それほど運動神経の悪いヤツじゃない。なんとかしがみついて落ちたりせんよ」
「まあ、社長がやれって言うならやりますけどね」
「やれ。命令だ。どうしてもスーパーマンにはコンサートに来させなきゃイカン」
「わかりました。明日にでもやっときますよ」
「頼んだぞ」
 そう言って、渡井社長と作業員は去っていった。
「うわァ。なんか、上には上がいますねえ、ゲロ様。あのオッサン、大橋美奈子のプロダクションの社長ですよ」
「うむうむ。許せん。わしは怒ったぞ」
「どうしてですか? 大橋美奈子が困ってる姿を見れますよ」
「うむうむ。おまえは、なんにもわかっとらん。わしが細工して、大橋美奈子が泣き叫ぶからおもしろいんじゃ。人が細工したのを見てもつまらん!」
「そういうものですか?」
「うむうむ。そういうものじゃ。もう帰る」
「へ?」
「うむうむ。わしゃ気分が悪い。もう、この計画はやめじゃ」
「もしかして、自分よりすごいこと考えられて、頭にきてるとか?」
「うむうむ。うるさいわい!」
「あっ、ゲロ様。待って下さいよォ!」
 ゲロとその部下も去っていった。

 美奈子は、ベランダを開けて、部屋の中に入った。すでに明かりは消されていて、リビングは月明かりだけで照らされていた。
 美奈子が自分の寝室に向かおうとしたとき、母の寝室が開いた。パジャマ姿の美奈子の母が立っている。
「スーパーマンは?」
 母が聞いた。
「帰った」
「話し合いはすんだ?」
 美奈子は首を振った。
「ダメだったの?」
「喧嘩した」
「やれやれ。美奈子が強情を張ったんじゃないの?」
「違うもん。あたしは、スーパーマンのためにやってるんだから」
「それが重荷ってこともあるでしょ」
 美奈子は答えなかった。
「まだ二人とも若いってことか」
 母は言った。
「まあ、若いうちは大いに悩みなさい。じゃあ、お休み」
 母は、寝室に戻った。
 美奈子は、しばらく母の寝室のドアを見つめていた。
「それが重荷か……」
 美奈子はつぶやいた。
 美奈子の心は揺れていた。スーパーマンのためにと思っていることが、俊一には重荷なのかもしれない。確かに、俊一はスーパーマンである前に、自分は川村俊一だと言った。もしかしたら、いつの間にか、美奈子自身、川村俊一よりも、スーパーマンであるときの川村俊一だけを考えていたのかもしれない。
 そう言えば、川村くんは……
 美奈子はあることに気がついた。
 あたしとデートするとき、いつも変身をすぐ解いていた。スーパーマンの格好をするのは空を飛ぶときだけ。ほかのときは、周りに誰もいないときでも、絶対にスーパーマンの格好をしなかったっけ。
 ぼくはスーパーマンである前に川村俊一だ。
 俊一のこの言葉が、美奈子の中でこだました。
 しかし、今の美奈子に、自分がとるべき道はわからなかった。


 その十五。


 三日後。
 大橋美奈子は、武道館にいた。大橋美奈子のデビューコンサートがここで行われるのだ。コンサートはいよいよ明後日である。
「いよいよ今日から、本番同様のリハーサルが始まるよ」
 マネージャーの立花が言った。
「はい」
 美奈子は答えた。
「どうしたの大橋さん、きのうみたいな元気がないね。体の調子が悪いのかい?」
「いいえ。大丈夫です」
「そう? ちょっと、目が腫れてるみたいだけど」
「平気です」
「ふむ。まあ、あまり無理はしないようにね」
「はい」
 美奈子は力無く答えると、すでに、八割ほどセットが完成している武道館のステージに向かった。今はただ、自分にできることをやろうと心に誓いながら。

 美奈子がリハーサルを行っているとき。芸能記者たちに、一枚の写真が配られていた。それは、渡井社長とスーパーマンの記念写真だった。
「社長。これはどういう状況で撮影されたものですか?」
 芸能記者が、渡井社長に質問した。
「わたしの部屋にスーパーマンが訪ねてきたときのものです。いや、正直言って驚きましたよ」
「いったい、スーパーマンはなにをしに?」
「大橋美奈子に決まってるじゃないですか。彼も、今度のコンサートには並々ならぬ関心を持っておりましてな。恋人のコンサートですから当然ですが」
「では、スーパーマンもコンサートに現れるのでしょうか?」
「おそらく来るでしょう」
 おお! というざわめきが記者たちに起こった。
「みなさん。今度のコンサートは、生中継でテレビにも流しますので、ぜひ、期待して下さい」
 渡井社長は、満面の笑みと、自信に満ちた声で言った。

 翌日。
「これはなんですか!」
 美奈子は、渡井社長に詰め寄っていた。朝のスポーツ新聞にスーパーマンと渡井社長のツーショットが載っているのを見たのでは黙っていられない。
「宣伝だよ」
 渡井社長は、こともなげに言った。
「ひどい! スーパーマンが社長に会いに来たときの写真を利用したのね!」
「おやおや。これほど美奈子くんの気分を害するとは思ってもみなかったな。君は、スーパーマンの恋人と自分で喧伝していたのではないかね?」
「それは、ちゃんとした……」
 理由があるからです。という後半の言葉を美奈子は飲み込んだ。社長に言ったところで、逆に利用されかねない。
「ちゃんとした、なんだね?」
「なんでもありません」
「ふむ。なんにしても、これでコンサートの成功は間違いない。チケットも完売だし、テレビの視聴率もぐんと上がる。美奈子くんにも特別ボーナスを出すよ」
「この記事を取り消してはくれないんですね」
「バカなことを言うな。せっかくの宣伝が台無しではないか。第一、わたしがウソを言ったとなれば、コンサート自体が失敗に終わる可能性もある。いいから、美奈子くんは、コンサートに集中したまえ」
 美奈子は歯ぎしりした。もう、コンサートを明日に控えた時点で、美奈子自身、コンサートをぶち壊すようなことはしたくない。社長は、そのぎりぎりのタイミングを計っていたのだ。たとえ、美奈子が反発しても、黙っているしかないタイミングを。
「もう、二度とこんなことをしないで下さい」
 美奈子は、なんとかそれだけ言った。
「わかった。約束しよう。美奈子くんを怒らせてすまなかったね。ただし、これがショービジネスであることも理解して欲しい。君はすでに、この世界の住人なのだよ」
「あたしが?」
 美奈子はその言葉に虫ずが走った。
「そうとも。大橋美奈子は、その存在そのものがショービジネスなのだ。マイケル・ジャクソンしかり、トム・クルーズしかりだ。彼らもみな、存在自体がショーなのだよ」
「人格はないというのですか?」
「そうは言っていないよ。だが聞くが、スーパーマンに人格があるかね?」
「あります!」
「普通の人はそう思わない。スーパーマンを一個の人間とは見ていないのだ。彼はスーパーマンであって、スーパーマン以外の何者でもない。大橋美奈子も同じだよ」
 美奈子は、一瞬思考が止まった。
「おっと、だからといって誤解しては困る。わたしがそう思っているわけではないよ。美奈子くんは彼の恋人だから、スーパーマンの人格をよく知っているだろう、しかしそれは、美奈子くん個人の問題だと言っているのだ。別に、君を怒らせたいわけじゃない。その辺、よく理解してくれたまえ」
「アハハ……」
 美奈子は力無く笑った。
「別に、そんな気を使わなくていいですよ社長」
「わはははは。そうか、わかってくれたか。いや、最近の君を見ていると、絶対に理解してくれると思っていたんだ。うん。特別ボーナスを楽しみにしていたまえ」
「ありがとう社長」
 美奈子は、渡井に頭を下げると社長室を出ていった。
 だが、美奈子が渡井に礼を言った理由は、特別ボーナスのことではない。
 まさか、あの社長に教わるとは思わなかった。
 美奈子は思った。
 渡井は言った。スーパーマンに人格はない。普通の人はそう思うと。
 スーパーマンである前に、ぼくは川村俊一だ。
 俊一の言葉が、今、ハッキリと美奈子の中で意味を持った。
 あたしは、川村くんのためにと思って、結局は、スーパーマンを利用してお金を儲けようとしていただけなんだ。
 そんなお金になんの価値がある? 川村くんが喜ぶ? 川村くんのお母さんが喜ぶ? そして、あたしはそれでうれしいの?
 うれしくない!
「アハハハ!」
 美奈子は笑った。
 プロダクションの事務所にいた社員たちが、美奈子を遠巻きに見た。
「あたしって、ホントに底なしのバカ!」
 自分で自分の強情さに腹が立った。
 そうよ。なんで、こんなプロダクションにいる必要がある? あたしは川村くんが好きなのよ。二人で生きていけばいいんだ。俊一と美奈子というただの人間として。仕事なんて、なにをしてもいい。あたしたち二人の間に、スーパーマンなんて関係ない。
「スーパーマンなんて、関係ないのよ!」
 美奈子は叫んだ。
 事務所の人間は、まるで、腫れ物でも触るような目つきで美奈子を見ていたが、そんなこと、美奈子はぜんぜん気にならなかった。


 その十六。


「ただいま!」
 美奈子は、リハーサルが終わって、自宅に戻ってきた。すでに夜の九時である。
「おかえり」
 美奈子の母が言った。ここ数日は、リハーサルで忙しい娘のために、残業も控えて、早く帰宅するようにしているのだ。
「行ってきます!」
 美奈子はバックをソファーに投げ出すと、たった今、入ってきたばかりの玄関を出ていこうとした。
「ちょっと、美奈子。あなた、明日がコンサートでしょ?」
「そうよ」
 美奈子は、靴を履きながら言った。
「なのに、これからどこへ行く気なの?」
「ボーイフレンドのうちよ」
「スーパーマン?」
「違うわ。あたしの本当に好きな人よ。今度、お母さんにも紹介するね。じゃあ、行ってきます!」
 美奈子は、すごい勢いで玄関を出ていった。
「本当に好きな人ですって?」
 美奈子の母は、誰もいなくなった玄関でつぶやいた。
「やだわ。あの子ったら、二股かけてるんじゃないでしょうねえ」

 美奈子は、俊一に家のインターフォンを押した。
 アハハ。また、電話もしないでいきなり来ちゃったよ、あたしは。
 美奈子は、インターフォンを押しながら思った。確かに猪突猛進が、自分の悪い癖だ。でも、この間、強情を張って喧嘩してしまったことを謝りたかった。
「はい」
 ドアが開いた。
「川村くん! よかった。いたのね!」
 美奈子は、笑顔で言った。
 そのとたん。美奈子の顔が曇る。
「どうしたの? パジャマなんか着て?」
「う、うん、ちょっとね」
 俊一は答えた瞬間、ゴホゴホとせき込んだ。
「風邪?」
「うん。そうみたい」
「うっそー!」
 美奈子は仰天した。彼だけは風邪を引かないと思っていたから。
「自分でも驚いてる」
 俊一は、苦笑いした。
「大変! 早く中に入って!」
 美奈子は、俊一を押し込むようにして、自分も中に入った。
「熱は?」
 美奈子は俊一のおでこに手を当てる。
「う~んと、さっき計ったら、八度七分だった」
「ホント、熱いよ。早く寝て」
「うん。ごめん」
 俊一は、自分の寝室に入った。
「わあ。ここが川村くんの部屋なんだ」
 美奈子は言った。この間来たときは、リビングとダイニングしか見ていないのだ。
「へえ。男の子の部屋って、初めて入った」
 美奈子は、それどころではないことに気づいた。
「ごめん。感心してる場合じゃなかったわ。水枕とかちゃんとしてる?」
「うん」
 俊一は、だるそうに答えた。
「やだ。もうぬるくなってるじゃない。氷を入れ替えなきゃ」
「大橋さん」
「なに?」
「明日コンサートでしょ」
「そうよ」
「こんなところにいちゃダメじゃないか」
「バカね。病人がなに言ってるのよ。黙って寝てなさい」
 美奈子は氷を入れにキッチンに向かった。
 冷蔵庫から氷を出しながら、美奈子は思った。
 なんか、皮肉な話よね。スーパーマンなんて関係ないって気がついたら、川村くんが風邪を引いてるなんて。
 美奈子はクスッと笑った。
「おまたせ」
 美奈子は、そっと俊一の頭を上げて、水枕を置いた。
「いつから調子が悪くなったの?」
「今朝から」
「病院には行った?」
「うん。注射を打たれた」
「アハハ。森川病院でしょ? あそこの先生、すぐ注射を打つのよね。よく効くけど」
「ねえ、大橋さん。ホントにここにいちゃダメだよ。風邪がうつるよ」
「風邪は人にうつすと治るって言うよ」
「あのねえ。明日コンサートある人がそういうこと言う?」
「アハハ。冗談よ。本気だけど」
「どっち?」
「冗談にしとく」
「当たり前だよ。ホントにうつるから帰った方がいいよ」
「お母さんは何時に帰ってくるの?」
「たぶん、十二時近くになると思うけど」
「じゃあ、それまでいるわ」
「ダメだってば」
「お願い。お母さんが帰ってくるまでここにいさせて」
「ホントに強情なんだから、大橋さんは」
 俊一は、タメ息をついて瞳を閉じた。さすがに、熱が八度七分もあると、こうして話しているのも辛いようだ。
「もう寝て」
 美奈子は言った。
「ホントに、母さんが帰ってくるまでだよ」
「うん。わかったから」
 俊一は少し安心してうなずくと、それきりしゃべらなくなった。そして、静かな寝息を立て始めた。
「川村くん」
 美奈子は、俊一が寝ているのを承知で、小さな声で語りかけた。
「あたし、川村くんの言葉を考えたんだ。スーパーマンである前にぼくは川村俊一だって言った言葉」
 俊一は、寝息を立てているだけであった。
「ごめんね。あたしバカだから、その意味がよく分からなかったんだ。でもね。やっと気づいたよ。あたしたちは、ただの恋人同士だよね。スーパーマンなんて関係ないんだ」
 美奈子は、俊一の髪をいとおしそうになでた。
「ねえ? どうして、こんなに好きになちゃったんだろうね。あたし、いつも川村くんのことばっかり考えてるんだよ」
「う~ん」
 俊一は寝返りを打った。
 美奈子は、その寝顔を見てクスッと笑う。
「あたし、もうスーパーマンの恋人なんかやめるよ。これからは、川村俊一の恋人になるって決めたんだ」
 美奈子は、俊一の唇に、軽くキスをした。そして、ベッドサイドに頬杖をついて、いつまでも、俊一の寝顔を眺めていた。

 俊一は目が覚めた。
 ふと、部屋の中を見回す。
 美奈子はいなかった。
 そのとき、ドアが開いた。
「母さん」
「あら。なんだか、残念そうな顔ね」
「違うよ」
「ふふふ。大橋さんなら帰ったわよ」
「そう。よかった」
「ホントね。明日がコンサートだと言うのに、俊一の看病をしてくれるなんて、本当に困った子だわ」
 母は、ほほえみながら言った。
「はい。お薬よ」
「ありがと」
「だいぶ、熱も下がったみたいね」
「うん」
「新しい寝間着置いておくから着替えなさいね」
「うん」
「そうそう。コンサートはテレビでも生中継されるんですって」
「知ってるよ。六チャンネルだ。でも、チケットもらってあるから」
「無理しちゃダメよ。大橋さんもそう言ってたわ」
「自分こそ無理してるくせに」
「なにか言った?」
「なんでもない」
「日曜日はわたしも休みだから、テレビで見るわ。俊一もそうなさい」
「うん。わかった」
「じゃあ、お休み」
 母は、俊一の部屋を出ていった。


 その十七。


 美奈子は、百パーセント組上がったステージの上に立っていた。午前中から続いた最終リハーサルが今終わったところなのだ。夕方六時からの本番まで、あと一時間である。
「お疲れさま」
 マネージャーの立花がタオルを美奈子に渡した。
「いよいよ、一時間後に開演だよ」
「はい」
 美奈子は、ステージの上から、客席を見つめていた。
「控え室に戻って、少し休んだ方がいい」
「もう少し」
「ん?」
「もう少しここにいます」
「そうか。精神を集中するんだね」
 立花は言った。だが、美奈子の考えていることはそうではなかった。美奈子の心の中では、誰も知らない、美奈子だけの最終リハーサルが行われていたのだ。

 開演が十分後に迫った。
「あと十分です。そろそろ準備お願いします」
 控え室に、スタッフのひとりが声をかけにきた。
「大橋さん、いよいよだね」
 立花が言った。
「立花さん。一分だけひとりにさせて下さい」
 美奈子は言った。
「いいとも。一分経ったらドアをノックするよ」
 立花は控え室を出ていった。
 美奈子は、携帯電話をバックから出した。そして、俊一の家に電話する。
 俊一の母が出た。
「あの、大橋です。川村くん、大丈夫ですか?」
「ええ。熱もだいぶ下がったわ。代わる?」
「お願いします」
 五秒ほど待たされて、俊一が電話に出た。
「もしもし」
「川村くん。熱は?」
「大丈夫だよ」
「何度?」
「ええと、七度六分」
「まだあるね」
「ねえ。ぼくのこと心配してくれるのはうれしいけど」
「わかってる。あと、十分で開演よ」
「ごめん。見に行けなくて」
「ううん。いいの。テレビで見ていて」
「応援してるよ」
「ありがとう。あたし、今日から変わるから」
「えっ? どういう意味?」
「ワガママで、バカな女の子を卒業するわ」
「それって、どういう意味?」
「アハハ。気にしないで。それより川村くんの声聞いたら、勇気が出てきたよ。ホントはね、すごく緊張してるんだ」
「きっとできるよ。大丈夫」
「あたし、ステージの上で川村くんのことだけ考える。川村くんのためだけに歌うわ」
 美奈子が答えたとき、控え室のドアがノックされた。
「ごめんね。もう時間だわ」
「おまじないして上げようか」
 ふと、俊一が言った。
「うん。して」
 美奈子が答えると、電話口からチュッとキスをする音が聞こえた。
「アハハ。効いたわ! 勇気百倍よ!」
 美奈子は電話を切った。そして、ゆっくりと、ステージに向かって歩き始めた。
 十分後。美奈子は、ステージの上で、スポットライトに照らされていた。


 その十八。


「うむうむ。この美しさ。この優雅さ。この力強さ」
 ドクターゲロは、倉庫の中にある、巨大な機械の前にいた。
「やりましたねゲロ様。ついにスーちゃんが完成ですよ」
「うむうむ。ハイパーロドリゲス・スウィート三号、略して、スーちゃんの完成じゃ!」
 パーン! 部下がクラッカーを鳴らした。
「いよっゲロ様! 今世紀最大の変態ゲス野郎!」
「うむうむ。そう誉めるな」
「ゲロ様。スーちゃんが完成したということは、いよいよ、大橋美奈子を誘拐ですね」
「うむうむ。これでスーパーマンを苦しめるのじゃ。恋人が泣き叫ぶ様を見て、あヤツどんな顔をするか。うひゃひゃひゃひゃ」
「楽しそうですねえ」
「うむうむ。考えただけで脳内麻薬物質出まくりじゃ」
「で、いつ誘拐しますか?」
「うむうむ。善は急げ…… 違う! 悪は急げじゃ!」
「日本語は難しいですねえ」
「うむうむ。わしがスーパーマンを倒して世界を征服した暁には、辞書も変えねばならんな。だいたい、この小説のタイトルが気にくわん」
「えっ、小説のタイトルまで変えちゃいますか?」
「うむうむ。当たり前じゃ。スーパーマンの恋人なんて、甘ったるいタイトルつけよってからに、作者の品位を疑うわい」
「ゲ、ゲロ様。ちょっとその発言はヤバイっすよ」
「うむうむ。なにを恐れることがあるか。明日から、この小説はドクター・ゲロの華麗なる世界征服じゃ」
「壮大ですねえ! 悪の鏡です!」
「うむうむ。よっしゃ、善は急げ…… じゃなく、悪は急ぐぞ。ううむ。世界を征服したら辞書も変えなきゃいかんな。ともかく、今から大橋美奈子の誘拐作戦開始じゃ!」
「はい、ゲロ様!」


 その十九。


 そのころ武道館では、美奈子が最後の曲を歌い終わったところだった。
 場内に割れんばかりの拍手が起こった。
 美奈子は、大きく息をすって、客席を見つめた。
 ゴンドラがゆっくりと降りてくる。最後にゴンドラに乗って、会場を去っていくという演出なのである。
 だが、美奈子はゴンドラに乗らなかった。
「みなさん」
 美奈子は、静かな声で、客席に語りかけた。
「今日は本当にありがとう。みなさんのおかげでコンサートは無事に終わりました。本当に本当に感謝しています」
 場内は、美奈子の声だけが響き渡っていた。二万五千人の観客がいるとは思えないほど静まり返っている。
「でも」
 と、美奈子は続けた。
「みなさんはひとつだけ物足りないかもしれませんね」
 そのとき、会場がウオーッという歓声で沸いた。美奈子の言葉で、スーパーマンが登場するのではないかという期待が、観客たちに声を上げさせたのだ。
「待って下さい!」
 美奈子は言った。
「スーパーマンは来ません!」
 とたん。会場が静まり返る。
「そうです。スーパーマンは来ないんです」
 ロイヤルボックスでコンサートを見ていた渡井は、マネージャーの立花に言った。
「おい。美奈子はなにを言い出すんだ。こんなこと打ち合わせにはないぞ!」
「え、ええ…… ぼくも驚いてます」
「バカモン! すぐやめさせろ!」
「しかし、どうやって?」
 立花は、スポットライトの当たっている美奈子を指さした。
「むむむ……」
 渡井は、苦虫を噛んだ。ステージに上がっている美奈子を止める手だてはない。
 そして、もうひとり、美奈子の姿を固唾をのんで見守っている男がいた。
 俊一である。
「大橋さん、なにを言い出すんだ」
 俊一は、テレビを食い入るように見つめながらつぶやいた。
 ステージの上の美奈子は、ひと呼吸おいて会場を見渡した。そして、静かに告げる。
「あたし、スーパーマンの恋人をやめます」
 会場にざわめきが起こった。
「今日からあたし、ここにいる皆さんと同じように、スーパーマンを応援するひとりの人間になります」
 会場から、やめないでー! という叫び声が聞こえた。
「ありがとう」
 美奈子は笑顔で答えた。
「でも、もう決めたんです。スーパーマンはあたしだけのものじゃありません。世界中のすべての人に愛される存在なんです。だから、あたしスーパーマンをお返しします。もう二度とスーパーマンを自分の宣伝に使うような真似はしません」
 会場のすべての目が、美奈子に注がれていた。だが、言葉を発するものは誰一人としていない。
「今日でスーパーマンの恋人である大橋美奈子はいなくなります。でも、これからは、みなさんがスーパーマンの友人であり、スーパーマンの恋人です」
 美奈子は言葉を切ると、深く頭を下げた。
「とっても短い間だったけど、この半年間は、あたしにとって素晴らしい経験でした。本当に今までありがとうございました」
 美奈子はゴンドラに乗った。
 ゆっくりとゴンドラが動きだす。
 だが、ゴンドラが半分ほど上がったとき。
 バチン! という音とともに、ゴンドラのワイヤーが一本切れた。
 とたん。会場に悲鳴が轟いた。
 宙づりになるゴンドラに、美奈子はしがみついた。
「大橋さん!」
 テレビを見ていた俊一が立ち上がった。羽織っていた毛布を払いのけると、そのまま玄関から飛び出した。
 俊一は、非常階段に出ると、人気のないのを確認してスーパーマンに変身した。そして、ものすごいスピードで空に飛び上がった。
 と、ここまではよかったのだが、空の上で、俊一は急にめまいがした。なにせ、まだ風邪が完治していないのだ。微熱がある。
 なんだ、これくらい! ぼくはスーパーマンだぞ!
 俊一は、心の中で叫んだ。ところが、俊一の意志に反して、フラフラと高度が下がっていくのであった。力が出ない。
「おじいちゃん。今度はこれがいい」
 女の子が、庭で花火をやっていた。
「おうおう。線香花火じゃな。どれ、火をつけようかの」
 おじいさんが答えたとき。
 ガシャーン。
 庭にあった植木の上になにかが落ちてきたのだった。
「くわっ! なにごとじゃ!」
 と言いつつ、おじいさんは腰を抜かした。
「あーっ! スーパーマンだ!」
 女の子はそう叫ぶと、植木の上でうずくまる俊一に近づいた。
「こ、これ、知子、近づいたらイカンぞ!」
 おじいさんは言った。自分は腰が抜けて動けないのであった。
「ううう」
 俊一は頭を押さえながら起きあがった。
「スーパーマンだ! スーパーマンだ! すごいね、おじいちゃん! うちにスーパーマンが来てくれたよ!」
 女の子は俊一のマントに触りながらはしゃぎ回った。
「どうしたんです? なんの音ですかおじいさん」
 縁側におばあさんが出てきた。
「おばあちゃん。スーパーマンだよ」
 女の子が言う。
「あらあら。ホントだわ」
「すいません」
 俊一は、フラフラと立ち上がって言った。
「庭がめちゃめちゃになってしまって…… あとで直しにきます。今は急ぎますんで」
 俊一は、ふたたび飛び上がろうとした。
「お待ちなさい、スーパーマンさん」
 おばあさんが言う。
「なんだか、お疲れのようね。待ってて、今、いい物持ってくるから」
「でも、急ぐんで……」
「すぐよ」
 女の子の祖母はそう言うと、家の中に入って、すぐにコップに茶色い液体を持って戻ってきた。
「はい。これをお飲みなさいな」
「なんですかこれ?」
「わが家に伝わる秘伝のマムシドリンクよ。ふふふ。元気になるわよ」
「いただきます」
 俊一は、藁にもすがる思いで、少しでも元気になればいいやと、それを一気に飲んだ。
「うっ」
 とたん。俊一の体がカーッと熱くなった。
「効くでしょう?」
 おばあさんが言う。
「なんてったって、これを飲めば、うちのおじいさんだって元気になっちゃうんだから。あら、イヤだわ。わたしったら年甲斐もなく」
 そう言って、おばあさんはポッと頬を染めた。
「ハハハ…… すごいですね」
 俊一は、汗をかきながら答えた。マジでよく効く。なにせ、七十近いジイさんを無理矢理元気にさせちゃう秘伝のマムシドリンクである。俊一は腰を抜かしているおじいさんが少し可哀想(?)に思えたが、今はそれどころではない。
「ありがとうございました」
 俊一は、飛び上がった。今度は、フラフラすることもなく、まさに弾丸のようなスピードで飛び去っていった。
「スーパーマン! バイバイ!」
 女の子は手を振って叫んだ。

 そのころ。
 会場は騒然となっていた。ゴンドラは、不安定に揺れている。
 美奈子は、必死にゴンドラにつかまっていた。
 手が汗で滑る。
 もうダメ! 助けて、川村くん!
 心の中で美奈子が叫んだときだった。
 会場の一番後ろにある出入口がバーンと乱暴に開いた。
「スーパーマン! スーパーマンだ!」
 会場に喝采が沸き起こる。
 そのとたんであった。美奈子は力つきたようにゴンドラから手を離した。
 俊一は、風を切って飛び上がった。そして、空中で美奈子をキャッチしたのであった。
「わあ!」
 と、会場に拍手が起こった。まさに、割れんばかりの拍手だった。
「大丈夫? 大橋さん」
 俊一は、美奈子を抱きしめながら言った。
「ありがとう。来てくれると思った」
 美奈子は、ちょっと瞳を潤ませて答えた。
「お願い。ステージの上に降ろして」
「ああ」
 俊一はゆっくりとステージの上に降りた。
 すると、美奈子は、俊一から二三歩離れた。
 会場がふたたび静まり返る。
「さよなら、スーパーマン」
 美奈子が言った。
「大橋さん」
 俊一は少し驚いた。
「あたしはスーパーマンの恋人をやめたわ。スーパーマンの恋人だけね」
 美奈子は、にっこりと笑った。
「うん」
 俊一もほほえんだ。美奈子の言いたいことを理解したのだ。
「わかったよ。さよなら大橋さん。スーパーマンとしてね」
 俊一は、ふわりと浮かび上がった。そして、クルリと体の向きを変えて、入ってきた出口に飛び去った。
 俊一は出口の前に降りる。
 そのとき、一瞬だけ、ステージを振り返った。
「さよなら!」
 美奈子が叫んだ。
「素敵な思い出を沢山くれてありがとうスーパーマン! 世界中の人が、これからもずっとあなたを応援してます!」
 会場の人たちが一斉に立ち上がった。そして、スーパーマンと美奈子に拍手を送る。
 俊一は、一回だけ手を上げた。そして、飛び去った。


 その二十。


「わ、わたし感動しました。ゲロ様!」
 ゲロの部下が、涙を流しながら、会場の様子を見ていた。
 パカン!
 ドクター・ゲロは部下を殴った。
「うむうむ。バカタレ!」
「す、すいません。でも、このまま終わったら、この小説って、結構、感動物かも」
「うむうむ。誰がこのまま終わらせるか、バカタレ。ここからがまさしくわしらの出番なのじゃ。しつこく続かせるのじゃ」
「そうでした。気を取り直して行きましょう」
「うむうむ。行き当りばったり…… じゃない、当たり前じゃ」
 美奈子は、会場のスタッフに囲まれながら、ステージから控え室に向かっていた。
 思い通りできた。
 美奈子は、ちょっとした充実感を味わっていた。
 でも、なんでワイヤーが切れたんだろう?
 美奈子は、そんなことを考えながら控え室に入った。
 誰もいない控え室。
 美奈子は鏡を見た。
 あとは、あの社長に芸能活動をやめるって言うだけね。あたしの場合もやっぱり辞表って書くのかしら?
 そのとき。控え室のドアがノックされた。
 噂をすればだわ。社長ね。
 美奈子はそう思いながら、控え室のドアを開けた。
 とたん。美奈子の視界が真っ黒になった。
「やりました、ゲロ様!」
「うむうむ。ずらかるのだ!」
 ゲロとその部下は、大きな袋を抱えて、一目散に走っていった。もちろん、袋の中には美奈子が入っているのであった。

 そして……
「うむうむ。わが秘密のアジトにようこそ、お嬢さん」
 ドクター・ゲロは、美奈子を見おろしながら言った。
「なにが秘密のアジトよ!」
 美奈子は叫んだ。
「なんでこんなことするの!」
 美奈子は、金属プレートの上に寝かされていた。もちろん、手と足はプレートの上に固定されている。
「うむうむ。お嬢さんはスーパーマンをおびき寄せる餌じゃ。このドクター・ゲロがスーパーマンを倒すときがきのじゃ」
「バカじゃない、あんた?」
 美奈子が言う。
「スーパーマンを倒せるわけないでしょうに。だいたい、スーパーマンを倒してどうするつもりよ」
「うむうむ。世界征服じゃ」
「ダメだ……」
 美奈子は首を振った。
「イカレてるわ」
「うむうむ。わしゃ、ドクター・ゲロじゃぞ!」
「それがなによ」
「うむうむ。知らんのか?」
「知らないわよ」
 美奈子は、先代のスーパーマンがドクター・ゲロを追って日本に来たという言葉をすっかり忘れていた。
 ゲロは、美奈子の言葉に硬直した。
 ヒューッとすきま風が吹く。
「ゲ、ゲロ様?」
 部下が、ゲロをつついた。
「うむうむ。いいんじゃ、いいんじゃ。どうせわしなんか、ちょい役じゃ。忘れ去られる存在なんじゃ。クスン」
「ゲロ様。元気を出して下さい! われわれには秘密兵器があるじゃないですか!」
「うむうむ。そうじゃった!」
 ゲロは復活した。
「うむうむ。お嬢さん。そんな強がりを言っていられるのもこれまでじゃ。見よ! わが愛しの秘密兵器! ハイパーロドリゲス・スウィート三号、略して、スーちゃんじゃ!」
 ジャジャーン!
 と、どこかから音楽が鳴って、倉庫にある巨大な機械にスポットライトが当たった。
「うむうむ。このスーちゃんを動かすとなにが起こるかわかるかな、お嬢さん」
「知らないわよ!」
「うむうむ。じゃ、動かしてみようかな」
「やめなさい!」
「うむうむ。なんでじゃ? どうなるかわからんのに、やめろもなにもないだろうに」
「いいからやめなさい! どうせ、ろくでもないことでしょ!」
「うむうむ。そんじゃ、動かしてみるかな。このスイッチをポチッと押してな」
 ゲロはスイッチを押した。
 すると。
 巨大な機械は、うなり声を上げて動き出した。
「やった、ゲロ様! ついにスーちゃんが、動き出しました!」
「うむうむ。スーちゃんに内蔵された、ハイパー原子炉が、プルトニウムを核反応させて、巨大なエネルギーを生み出すのじゃ!」
「核反応ですって!」
 美奈子は叫んだ。
「うむうむ。そうじゃ。そのエネルギーを、新開発の特許出願中エネルギー変換装置に流して、高出力電磁波へと変えるのじゃ!」
「電磁波ですって?」
 と、美奈子。なんか、前の核反応の方がすごいような気がする。
「うむうむ。驚いておるな。しかし、まだまだじゃ。スーちゃんのすごいのはこれからなのじゃ!」
 美奈子は、ゴクリと唾を飲んだ。
「うむうむ。高出力電磁波は、スーちゃんに内蔵された巨大なコイルに流れて、それを電力に変えるのじゃ!」
「電力?」
 美奈子は言った。だんだん、危険が遠ざかっていく気がする。
「うむうむ。その電力はな、お嬢さん。あんたが寝ておる金属プレートへと流れる」
「な、なんですって!」
 美奈子は叫んだ。
「それじゃあ、電気椅子と一緒じゃないの!」
「うむうむ。勘違いしてもらっちゃ困る。わしゃ、そんな野暮ではないでな。電力はモーターを回すのに使うんじゃ」
「モーター?」
「うむうむ。ほれ、そろそろ動き出すぞ」
 ゲロがそう言ったとき。美奈子の寝ている金属プレートが、パカンと割れた。そして、ウィーンと音を立てながら美奈子の足をゆっくりと広げるように開いていく。
「ちょ、ちょっと! なによこれ!」
「うむうむ。こうやって、少しずつ開いていくんじゃ。そのうち、お嬢さんのパンツが見えるぞい」
「へ、変態!」
 と、美奈子が叫んだとき。ドクター・ゲロの顔がうっとりとした。
「うむうむ。いい響きじゃ。もっと言って」
 美奈子は、眉をひそめた。
「ふふふ。ドクター・ゲロ様は、究極の変態であり、史上最悪のゲス野郎なのだ」
 部下が不敵に笑った。
「うむうむ。そう誉めるな」
「イカレてるわ……」
 しかし、そう言っている間にも金属プレートは開いていった。悪いことに、美奈子はステージ衣装のままなのだ。さらに悪いことに、その衣装はけっこうミニスカートだったりする。
「うむうむ。もうじきパンツが見えるぞ。お嬢さんは何色かな?」
 マジで、変態であった。ゲロってこういうキャラクターだったのであろうか?
「やめてー!」
「うむうむ。ならば、スーパーマンを呼ぶんじゃ」
「いやよ!」
「うむうむ。白っぽいのが見えてきたぞ。おや? 水玉かな?」
「バカーッ! 見るなー!」
「うむうむ。スーパーマンを呼ばないと大変なことになっちゃうぞ。さあ、この携帯電話でスーパーマンを呼ぶんじゃ」
「手が縛られてて、どうやってダイアルするのよ!」
「うむうむ。そうじゃ、うかつじゃった!」
「ど。どうしましょう、ゲロ様!」
「手を解きなさいよ! ついでに足もよ!」
「うむうむ。仕方ない。手だけ自由にするんじゃ」
「はい、ゲロ様」
 部下は、美奈子の手枷を外した。
「うむうむ。さあ、早くスーパーマンを呼ぶんじゃ!」
 美奈子は、携帯電話をダイヤルした。こうなったら、スーパーマンに来てもらうしかないのである。
 考えてみれば、俊一の持っている政府専用電話にダイアルするのは初めてだった。
「あっ、スーパーマン、あたし美奈子よ! 今、変なオジサンに捕まってるの。ええと、場所は……」
 美奈子はゲロに言った。
「ここって、どこよ」
「うむうむ。神奈川県横浜市港三丁目四番地五号じゃ」
「聞こえた? うん。そこに捕まってるの。すごく変なオジサンなの。パンツ見られたのよ。うん。ありがと、待ってる」
 美奈子は電話を切った。
「すぐ来るわよ。スーパーマンが来たら、あんたなんか、すぐに捕まるわ」
「うむうむ。それはどうかな?」
 そのときであった。
 倉庫の天井が、バーンと壊れて、スーパーマンが飛び込んできた。
「うわ、早い!」
 ゲロの部下は驚いた。
「当たり前よ。彼は、地球を一秒間に七週半できるんですからね」
 美奈子が得意そうに言った。
「大橋さん!」
 俊一が美奈子に駆け寄ろうとしたとき。ドクター・ゲロが不敵な笑いを浮かべた。
「うむうむ。よく来たな、スーパーマン。わしが有名なドクター・ゲロじゃ」
「何者だ!」
 俊一は叫んだ。
「うむうむ。まさか、スーパーマンも知らんのか?」
「知らないよ! ゲリなんて!」
 俊一も、先代スーパーマンの言葉を忘れていた。しかも、今聞いた名前も間違えた。
「だから、ドクター・ゲロ様だってば」
 部下が言う。
「知らないよ、そんなヤツ。なんで大橋さんにこんなひどいことするんだ!」
「うむうむ。いいんじゃ、いいんじゃ、どうせわしなんか」
 ゲロはうずくまって、地面に『の』の字を書いた。
「ゲロ様。がんばって! スーパーマンを倒せるのはゲロ様だけですよ!」
「うむうむ。そうじゃった」
 ゲロは復活した。
「うむうむ。スーパーマン。今日こそ年貢の納め時じゃぞ」
 ところが、俊一は、ゲロなんかまったく無視して美奈子を助けているのであった。
 ブチッ! と、美奈子の足枷を引きちぎる俊一。
「大丈夫?」
「うん、平気。それより、今見たでしょ?」
「えっ…… な、なにをかな?」
「あたしのパンツ」
「み、見てないよ!」
「ふ~ん。そうなんだ。スーパーマンはあたしのパンツなんか見たくないんだ」
「なんでそうなるかな」
「アハハ。怒った? じゃあ、あとで見せてあげよっか」
「えっ、ホント?」
「うーむうむ! こらーっ、人の話を聞かんか!」
 ゲロが叫んだ。
「あっ、忘れてた」
 と、俊一。
「うーむうむ! 忘れるなーっ!」
「ねえ。早く捕まえちゃって、あんな変態おじさん」
 美奈子は言った。
「あっ、いけない。変態って言うと喜ぶんだった」
「うむうむ。うれしいが今はそれどころではない。今こそスーパーマンを倒すのじゃ。見よ、スーちゃんの雄姿を」
 ゲロは、スーちゃんを指さした。
「なによ。こんなヘボい機械。人のパンツを覗くだけじゃない」
「うむうむ。なんにもわかっとらんな。パンチラ機能は、スーちゃんの優れた機能のほんの一部でしかないのじゃ。その本当の姿は、なんと、巨大ロボットだったのじゃ!」
「巨大ロボット?」
 俊一と美奈子は、顔を見合わせた。
「ね。イカレてるでしょ、このおじさん」
「うん。警察より病院かな?」
「うーむうむ! 今に見ておれ。ほれ、このスイッチをポチッと押せば!」
 ゲロはスイッチを押した。
 すると。
 ズ、ズーン! と地響きを立てて、スーちゃんが動き出した。
「すごいゲロ様! ついに本格的に動き出しましたね!」
「うむうむ。スーパーマンも驚きで声も出まい」
 確かに俊一も美奈子も驚いていた。どうやら、ただの変態だと思っていたゲロは、マジでヤバイ変態だったのだ。
 ズ、ズーン!
 スーちゃんは立ち上がった。
 バリバリバリ! 天井が突き破れる。それほど巨大なのだ。
 すると、破壊された天井の鉄骨が落ちてきた。
「わーっ、ゲロ様! 倉庫が壊れます!」
「うーむうむ。こりゃ、計算外じゃったわい!」
「キャーッ!」
 美奈子が叫んだ。
 俊一は、美奈子を抱き抱えて、鉄骨が落ちてこないところまで非難させた。
「スーパーマン、どうしよう。あいつ本物の悪者だよ」
 美奈子はうろたえながら言った。さすがに、巨大ロボットを目の前にしては、いつもの強がりも出ない。
 だが、俊一は美奈子ほどうろたえていなかった。いや、むしろ落ちついていた。
「任せといて」
 俊一はそう言うと、巨大ロボットスーちゃんに向かって飛び上がった。そして、スーちゃんの腕をつかむと、思いっきり回転した。
 バキバキバキ! スーちゃんの腕がもげた。
「あっ……」
 と、ゲロとその部下は、目を点にした。
 次ぎに俊一は、スーちゃんの頭をつかんだ。そして今度も回転した。
 クルクルクル。と、ネジが抜けるようにスーちゃんの頭が外れた。
「あっ……」
 と、ゲロとその部下。
 次ぎに俊一は、スーちゃんの右足をつかんだ。そして、その足をグイッと持ち上げる。スーちゃんはバランスを崩して、ズドーンと転んだ。その拍子に、反対の足が外れた。
 パンパンと、俊一は手に付いたホコリを払って、ゲロたちの前に舞い降りた。
「さてと。ドクター・ゲリだって?」
「うむうむ。ゲロです。スーパーマンさん」
 ゲロは、急に卑屈な態度で答えた。
「ゲロ様。スーパーマン様ってすごいですねえ。ファンクラブを作りましょうよ」
 部下も、冷や汗を流しながら卑屈に答えた。
「あのねえ」
 美奈子が歩いてきた。
「あんたたち、今さらそんなこと言って許してもらえると思う?」
「うむうむ。わしゃ、パンツを見ただけだぞい。カワイイ水玉」
「それだけでも充分よ! だいたい、今考えてみれば、コンサート会場のワイヤーが切れるように細工したのもあんたじゃないの?」
「うーむうむ! それは違うぞい!」
「そうですよ、あれはゲロ様の仕業じゃありません!」
「ふん。どうだか」
「うむうむ。本当じゃ。ありゃ、お嬢さんの会社の社長がやったことじゃ。わしゃ、なーんも関係ないもんね」
「社長がですって?」
 美奈子は自分の耳を疑った。
「ちょっと待ってよ、ドクター・ゲロ」
 俊一が言った。
「うむうむ。やっと名前を覚えてもらったぞい」
「そんなことはいいから。それより、本当にワイヤーを切れるようにしたのは、渡井社長なの?」
「うむうむ。本当じゃ。わしゃあの日、くやしくて夜も眠れなかったのじゃ」
「くやしいって、どうして?」
「うむうむ。わしが細工をしようとしたのに、あの社長が先にやりやがったのじゃ」
「あっ、やっぱりゲロ様くやしかったんだ」
「うむうむ。うるさいわい!」
「まいったわね」
 美奈子が言った。
「どうやら、本当の悪党は、この変態オジサンじゃないみたい」
「そうらしいね」
 俊一もまじめな顔で答えた。
「あたし、あの社長を訴えてやるわ」
「いや。ここはぼくに任せてよ」
 と、俊一。
「悪党を退治するのもスーパーマンの仕事だからね」

 十分後。
「刑事さーん」
 俊一は、沢田刑事のいる杉並署の窓を叩いた。
「スーパーマン!」
 署内の刑事たちが叫んだ。
「なにしてる、早く窓を開けろ」
 沢田刑事が部下に命じた。
「はい!」
 俊一は開けてもらった窓から、署内に入った。両手に、いい大人を三人抱えていた。
「今晩は刑事さん。お元気でしたか?」
「あ、ああ。おかげさまで。それより、こいつらはなんだ?」
「ええと、こっちが、悪の帝王と本人が言ってるドクター・ゲロとその部下です。よく知りませんけど、たぶん叩けばホコリが出てくる身だと思いますよ」
「こいつは?」
 沢田刑事は、もうひとりのスーツ姿の男を指さした。
「こっちは、渡井プロダクションの社長です。ゴンドラのワイヤーを切って、女の子が落ちるように細工したんです。殺人未遂ですよね」
「違う! オレじゃない!」
 渡井社長は叫んだ。
「と、本人は言ってますけど、よく調べてみて下さい」
 俊一は言った。
「名誉棄損だ! スーパーマンがそんなことしていいのか!」
 渡井は叫び続けた。
 すると、沢田刑事が言った。
「大橋さんのコンサートは、わたしもテレビで見ていたよ。ワイヤーが切れたときは見ているこっちが生きた心地がしなかった。たっぷりと絞り上げるとしよう。この社長をな」
「お願いします」
 俊一は笑顔で応じた。
「ちくしょーっ!」
 渡井は叫んだ。


 エピローグ


 結局、渡井社長は逮捕された。複数の証人が、渡井の指示でワイヤーに細工したことを認めたからである。ついでに、ドクター・ゲロと、その部下も逮捕されたが、彼らについては、その身柄はアメリカに移された。なんとFBIが彼らの足どりを追っていたのだ。一番の罪は、スーちゃんに使ってあった、核反応炉を作ったことであった。まあ、意外とちゃんとした犯罪者だったらしい。

 大橋美奈子は、この事件のあと、すぐに芸能界を引退した。
 最初、マスコミも大騒ぎしたのだが、世間の噂も七十五日の言葉の通り、美奈子が高校を卒業するころには、すっかり忘れ去られ、マスコミに取り上げられることも、ほとんどなくなっていた。
 美奈子はその後、音大に進んだ。基礎からきっちりと、音楽の勉強をやりたかったのだ。

 そして、六年後。

「あー、重い! 俊一くん、まだ戻ってこないの?」
 メンバーのひとりが、大きなスピーカーを持ちながら言った。
「もうじき戻ってくると思うけど…… よいしょ!」
 美奈子もスピーカーを持ち上げていた。
 音大を卒業した美奈子は、大学で知り合った仲間と、高校からの友人とで、女性だけのバンドを組んでいた。
 今日は、そのバンドのライブの日なのである。美奈子たちは、まだ客の入ってこないライブハウスで、その準備に追われていた。
「俊一くんてさあ」
 メンバーのひとりが言った。
「見た目の割に力持ちなのよねえ。こないだなんか、大きなスピーカーをひとりで軽々持ち上げてたもん」
「栄養がいいのよ、きっと」
 美奈子が答える。
「おっと。お熱い発言ですねえ。いつも食事を作ってるのは美奈子でしょ?」
「アハハ。まあね」
「それにしても、遅いなあ、俊一くんは」
 メンバーの女の子はそう言って、スピーカーを持ち上げた。
 すると、そのスピーカーが急に軽くなる。
「ぼくのこと呼んだ?」
 俊一がスピーカーを横から持ち上げたのだ。
「俊一くん! 待ってました!」
「はいはい。お待ちどうさま」
 俊一は笑いながら言った。
「おかえり、俊一」
 美奈子が言った。
「ただいま、美奈子」
 俊一も答える。
「ふーっ。これで、荷物の搬入も楽になるね」
 と、メンバーの女の子。
「その前に、みんなに話しておきたいことがあるんだ」
 と、俊一。
「悪いけど、ちょっと集まってもらえないかな」
 メンバーが、俊一の言葉で集まってくる。
「さて。ぼくはたった今、パイオニアレコードから戻ってきたところなんだけど」
 俊一はそう言って、ジャケットの内ポケットから、一枚の紙を出した。
「この書類がなんだか、みんなわかるかい?」
 メンバーは全員、首を横に振った。
「じゃあ、教えて上げよう。この書類はね、うちのバンドがパイオニアレコードから、アルバムを出す契約書さ。ついにパイオニアレコードから、メジャーデビューだ」
「イエーイ!」
 メンバーが叫んだ。
「さっすが、敏腕マネージャー!」
「おっと。喜ぶのはまだ早いよ。デビューしてからが大変なんだから。でもまあ、今日は、ライブが終わったあとに、みんなで飲みに行こうか?」
「やったー、マネージャーのおごり?」
 メンバーのひとりが言った。
「冗談でしょ!」
 と、美奈子。
「割り勘に決まってるわ。ね、俊一。そうでしょ? おごりだなんて言ったら、あたし怒るからね」
「ハハハ。もちろんです」
 俊一は笑いながら答えた。財布の紐は、美奈子が握っているのである。
「さあ、とにかくライブが先だ。みんながんばろう!」
「イエーイ!」
 メンバー全員が叫んだ。
 と、そのとき。俊一の携帯電話が鳴った。
 俊一は、メンバーたちに解散の合図を出すと、ライブハウスの裏に回った。
「仕事?」
 美奈子が携帯電話で話を終えた俊一に聞いた。
「ああ。ロシアの原子力発電所で火災が起きたらしい」
「気をつけてね」
「ごめんよ。ライブの手伝いができなくて」
「バカね。そんなこと気にしないで」
「ありがとう。じゃあ、ちょっと行ってくるよ。なるべく、ライブが終わるまでには帰ってくるから」
「無理しないで、あなた」
「いつものおまじないしてくれるかい?」
「ふふ。いいわよ」
 美奈子は、俊一の唇にキスをした。
「効いたよ」
 俊一はすでにスーパーマンに変身していた。
「じゃ、行ってくる!」
 俊一は飛び上がった。
「いってらっしゃーい!」
 美奈子は手を振って見送った。
「あれ? 俊一くんは?」
 メンバーのひとりが立っていた。
 美奈子は慌てて振り返った。
「ビックリした。いつからそこにいたの?」
「いつもなにも、今来たところよ。それより、俊一くんに、スピーカー運ぶの手伝ってって言ってよ」
「ごめん。あの人、急な用事ができて出掛けたわ」
「えーっ、残念。当てにしてたのに」
「ごめんね」
「まったく。美奈子の旦那様はずいぶん忙しいのね」
「そうよ。なんてったって、世界中を飛び回ってるんですもの」
「はあ?」
「アハハ。早く、世界中を飛び回るマネージャーになってもらいたいねってことよ」
「つまり。わたしたちのバンドが世界中でコンサートをやるってことだ」
「そういうこと。でもね、その前に今日のライブをまず成功させましょ!」
 美奈子はそう言って、メンバーの肩を抱くと、ライブハウスの中に入っていった。

 スーパーマンの恋人をやめた大橋美奈子。彼女が今、スーパーマンの奥様をやっていることは誰も知らない。

 終わり。