STARSEED

00


 西暦二〇四〇年。火星の極地から、ヘリウム3が大量に発見された。ヘリウム3は、いよいよ商業運転が始まろうとしていた核融合炉の燃料だった。核融合は、それまでの原子力発電よりも、百倍以上効率のいい発電ができる。問題は、ヘリウム3が天然にはほとんど存在しないことだった。
 月面の表面にヘリウム3が存在することは、早くから知られていたが、月面のそれは、薄く広く分布しているために、採取が困難だった。そのヘリウム3が、火星の極地の二酸化炭素の氷の下から、高濃度に濃縮された状態で存在することが発見されたのだ。埋蔵量は、地球の電力需要の十万年分と推察された。
 先進国は、ヘリウム3の利権に群がるように、移民計画を押し進めた。三十年に渡って繰り広げられた各国の移民計画は、第四次世界大戦の危機さえあおった。
 だが、この緊張感は、プラスの効果をもたらした。紛争を調停するために、フランスとロシア、そして中国の三国が中心となって、国連を中心とした、ゆるい地球連邦制度の草案をまとめあげたのだった。アメリカとイギリスは、地球連邦は幻想にすぎないと反対し続けたが、先進国だけがヘリウム3の利権を甘受することを恐れた、大多数の国の圧力を無視することはできなかった。
 西暦二〇七二年。初代連邦大統領を、アメリカから選出するという妥協案ののち、地球の連邦以降決議案が可決された。
 その二年後。ついに、地球は連邦化され、国連は地球連邦議会として新たに発足した。
 西暦はコンピュータソフトウエアの問題から、そのまま継続して使われることになったが、西暦という呼び名自体は、地球歴と改められた。そして、連邦樹立の引き金となった、過去に各国が勝手に行っていた火星移民計画は、地球連邦による「第一次移民計画」として位置づけられ、連邦の誕生した年を火星歴元年とした。
 その後、地球連邦下での第二次移民計画は、第一次の十倍以上の規模で行われた。火星の赤い地表に巨大なドームが次々に建造され、人口は一億を超えた。
 すでに、小国と呼んでもおかしくない規模に発達した火星だったが、第一次はもちろん、第二次移民計画で移り住んだ人々は、ヘリウム3の採掘労働者とその家族が中心だった。各種の専門知識を持った技術者、とくに医師、教師など、社会構造を支える知識を持った層が圧倒的に不足していた。そこで、比較的小規模な第三次移民計画が計画された。
 ときに地球歴二一五四年。火星歴八四年のことだった。


01


 西暦二一六〇年。

「本当に…… もう会えないの?」
 少女は、涙ぐみながら、目の前の少年に聞いた。
「うん」
 少年は、うなずいた。
「しょうがないよ。お父さんが…… 移民登録しちゃったから。これが最後の募集なんだって」
「移民登録ってなに?」
「火星に行くんだ」
「どうして?」
「お母さんの夢だった。お母さんはもういないけど―― お父さんは、ぼくらがお母さんの果たせなかった夢を実現するんだって言ってる」
 少年の母は、半年前に事故で亡くなっていた。少年は暗い顔で先を続けた。
「でも本当は…… お父さんは、お母さんのいない地球にいたくないんだ。ぼくにはわかる」
「輝くんも? 地球にいたくないの?」
「ううん。ぼくは地球が好きだよ。詩音ちゃんがいるもん」
「輝くんがいなくなったら、あたし、友だちいなくなっちゃうよ」
「大丈夫だよ。みんな、本当は詩音ちゃんのこと好きなんだよ」
「うそよ。だって、あたしのこといじめるもん」
「ビックリしただけだよ。詩音ちゃんの目が…… ちょっと違うから」
 少女の瞳は、右目だけがブルーだった。左目は赤っぽい茶色。レッドブランだ。いまよりもっと幼いころから、この瞳のせいでずいぶんからかわれた。家が貧しかったからなおさらだった。少年の住む町に、半年前に引っ越してきてからも友だちができなかった。少女は、鏡に映る自分の顔が、自分でも不気味だと思った。日本人の顔にブルーの瞳も違和感があったが、左目のレッドブラウンも普通ではなかった。そんな彼女のことを、なんの違和感もなく受け入れてくれたのは、少年が初めてだった。
「本当にいっちゃうの?」
「うん……」
「火星って遠くなの?」
「うん。遠い。空の向こうなんだ」
「宇宙?」
「うん。地球の隣の星だよ」
「会いに行けないの?」
「たぶん…… ぼくらが大人にならなきゃ無理だよ」
「大人になったら会える?」
「そうだね」
 それまで暗い顔をしていた少年が、ニコッとほほ笑んだ。
「きっと会えるよ。ぼく、詩音ちゃんを探すから」
「あたしも探すわ!」
「うん」
 少年は、にっこり笑うと、半ズボンのポケットに手を突っ込んで、中からビー玉を取り出した。
「これ…… あげる」
 少年の手に乗っているビー玉は、少女の瞳のように青く輝いていた。
「いいの?」
「うん」
「本当に? お母さんの形見だからって、大事にしてたのに」
「いいんだ。詩音ちゃんに持ってて欲しいから」
 少女は、少年の手から、青いビー玉を受け取った。うれしかった。親にオモチャをほとんど買ってもらったことのない少女にとって、ビー玉でも貴重だった。
「きれい…… 大切にするね」
「うん…… ぼくのこと忘れないで」
「忘れないわ、絶対に。だから、あたしのことも忘れないで」
「忘れないよ」
「約束してくれる?」
「うん」
「じゃあ、指切りげんまんね」
「うん」
 少女が少年と、小指を絡ませて、指切りげんまんをした翌日……
 少年は、宇宙へと旅立っていった。


02

02-01

 それから二十二年後。地球歴二一八二年。

 まったく、ツイてない! 結城詩音(ゆうき しおん)は、心の中で悪態をついた。
 こんなことなら、今日から休みをもらうんだった。どうせ、有休はたっぷりたまってるんだから。
 詩音の運転するホバーカーが、歌舞伎町の繁華街にある雑居ビルに近づいた。詩音は心の中から、仕事への不満を追い出して、ブレーキを踏んだ。すでに、数十人の制服警官が野次馬を遠のけ、ビルを包囲していた。幸い、まだ報道関係者はいないようだった。
「よし、行くぞ」
 助手席に乗っていた四十すぎの男が言った。
「はい」
 詩音と後部座席に乗っていた同僚は、同時に返事をして、ホバーカーから降りた。詩音は、トレードマークのサングラスをはずした。右目だけがブルーの瞳。彼女のその瞳は、歌舞伎町のどんよりとした光のなかでも輝いていた。
 年配の制服警官が、詩音たちに気づき、気乗りのしない顔で近づいてきた。
「どうも。歌舞伎町西交番の三浦です」
「東京市警特務課の森本です」
 詩音の上司が、制服警官に応じた。
 百年ほど前、日本の首都が、東京から仙台に移転されたあと、東京の行政区分は都から市に格下げされた。だが依然として、日本最大の都市である地位は揺るぎなかった。金融の中心地であり、芸術文化の発信地だった。
 東京市警は、過去に東京二十三区と呼ばれていた地域を管轄する警察署だった。オフィスは新宿エリアにある。その東京市警の中にあって、特務課は地道な捜査とは無縁の部署だった。頻発する凶悪犯罪を、力業で解決するのが仕事だ。捜査課が突き止めた犯人のアジトに踏み込むのも、要人のボディガードも、とにかく危険な仕事は、みな特務課が引き受ける。
「この現場は、われわれが仕切ります。現状に関するレポートをお願いします」
「はい。三十分ほど前、この先のコンビニで強盗が発生し――」
「部長」
 森本は、三浦の肩の階級章を見ながら言葉をさえぎった。
「事件発生の経緯は、ここに向かう途中で聞いています。現在の状況のみ簡潔に説明してください」
「あ、はい……」
 三浦は、苦々しい顔でうなずいた。日々市民と接する制服警官にとって、事件を強引に解決する特務課は、それが必要だとわかっていても、安易に認めたくない存在だった。
「金を奪って逃走した男は、現在人質をとって、このビルの三階に立てこもっています。銃を携帯している模様です」
「人質の人数は?」
「おそらく一人です」
「性別は?」
「目撃者の証言によると、女子高生のようです」
「立てこもっている部屋は?」
「三〇二です」
「ビルの見取り図は?」
「いえ、ありません」
「つまり、取り寄せていないと?」
「事件が発生して、まだ三十分ですよ」
「ふむ。まあいいでしょう。それで現在、何名の警官が配置に着いていますか?」
「野次馬の処理に三名。ビルの包囲に八名。立てこもっている部屋の前には、経験のある者を五名配置しました」
「了解しました。迅速な処置に感謝します」
 森本は、どこか皮肉げな口調で言った。
「三〇二の前にいる五名の指揮権をこちらに渡してください」
「いや、わたしに言ってくれれば、こちらから命令を出します」
「部長。現場の混乱を最小限に抑えるには、指揮系統を明確にすることが必要です。おわかりいただけますね?」
 三浦は、ぶ然とした顔で、腰にさした無線機をとると、三階にいる部下たちに指揮権が森本に移ったことを連絡をした。
「そちらの周波数を」
 森本が、連絡を終わった三浦に聞いた。
「AQ234・34のダブルチャンネル」
 三浦は、ぶっきらぼうに答えた。
「詩音」
 森本が、すぐさま詩音に目配せした。
「はい。ちょっと待ってください」
 詩音は、自分の携帯無線機にチャンネルを入力して森本に渡した。
「どうぞ」
「サンキュ」
 森本は、受け取った携帯無線機をオープンした。
「こちら特務課の森本だ」
〈新井です。いま部長から指揮権の連絡を受けました。よろしくお願いします〉
「ああ、よろしく。状況はどうなっている?」
〈膠着してます〉
「部屋の中の様子は見えるか?」
〈残念ながら、ここからでは見えません〉
「人質が女性一人なのは確か?」
〈明確にはお答えできませんが、三〇二号室の従業員は、すべて退去してしているのを確認しています〉
「了解。きみらはその場で待機。発砲は極力避けるように」
〈わかりました〉
 森本は、無線を終えると、三浦に言った。
「あなたがたは、引き続き、ビルの包囲をお願いします。じきにマスコミも駆けつけるでしょうから、彼らの処理もよろしく」
「いいでしょう。お手並みを拝見しますよ」
 三浦巡査は、苦虫でもかんだような顔で自分のパトカーに戻っていった。
「広瀬」
 森本は、自分の部下を呼んだ。
「ビルの管理会社から、見取り図を取り寄せろ」
「もう、ダウンロードしました」
 広瀬は、ホバーカーに搭載されているクライアントコンピュータから、ノートパソコンの端子を引き抜いて、ボンネットの上に置いた。詩音も、モニターを覗き込んだ
「ゲームセンターですね」
 詩音は、見たとおりの感想を口にした。
「ちなみに、未登録の店舗ですよ」
 と広瀬。
「どんなゲームマシーンが置いてあるんだか」
「それは、地域捜査課の仕事だ。知ったこっちゃない。それより、部屋の中に監視カメラはあるか?」
 森本が聞くと、広瀬が答えた。
「あります。三カ所。でも、この配線図だと…… ダメですね。信号は外に出てません」
「ふん。どうせ、期待してなかったよ」
「警部。非常階段がありますけど、たぶん使えないでしょうね」
 と詩音。
「そうだな」
 森本はうなずいた。この手のビルの非常階段は、たいてい荷物置き場になっている。
 そのとき。銃声が一発聞こえた。
「くそっ」
 森本は、舌打ちをして、携帯無線機をオープンした。
「なにがあった!」
〈わかりません! 部屋の中から銃声が聞こえました!〉
「被害は?」
〈こちらには、なにも。どうしますか?〉
「まだ、待機してくれ」
 森本は、無線機を切ってから考えた。
 まったくキツぜ。いくら犯人が単独犯とはいえ、銃を持つ相手に刑事三人で対処しなければならないとは。しかも、特務課の規則で、チームのうちの一人は、必ず安全な場所で待機することが義務づけられている。全滅を防ぐためだ。実質的に、二人の刑事で対処しなければならない。
 そのとき、また銃声。
「よし」
 森本は決断した。
「ネゴシエーター(交渉人)を待っている余裕はない。どうせ、あと一時間はこないだろうからな。いつもどおり、力業で解決する。広瀬、おまえはここでバックアップ。詩音はオレに……」
 森本は言葉を切った。詩音が今夜、二十二年ぶりに、恋人に再会するのを思い出したのだった。そのために彼女は、明日から一ヶ月の長期休暇を申し出ている。森本は、心の中で舌打ちした。刑事って人種は、こういうときに限って殉死しやがる。刑事にはジンクスを気にするタイプが多い。森本もその一人だった。十六年前に、結婚式前日の同僚を失ってから、とくに気にするようになっていた。詩音は森本がもっとも信頼する部下だった。銃の腕はもちろん、特務課の中でも最高の身体能力を持っている。その詩音をはずすのに躊躇があったが、ジンクスが優先した。
「いまの命令を撤回する。詩音。おまえはここに残ってバックアップしろ。広瀬。オレについてこい」
「警部!」
 詩音は叫んだ。
「あたしが行きます!」
「いいから、言うとおりにしろ」
「ですが!」
「バカ野郎。明日からの休暇で浮かれてるヤツを使えるか」
「浮かれてなんかいません!」
「オレがいやなんだよ。ここで怪我でもされたら、一生イヤミを言われかねんからな」
「言うわけないじゃないですか!」
「バカ。おまえの恋人にだよ。とにかく、おまえは待機しろ。広瀬だって、いつまでもバックアップばかりじゃ成長しない。これは命令だ。反論するな。従え」
「は、はい……」
 詩音は、渋々うなずいた。上司の命令には逆らえない。
「そんな心配そうな顔しないでくださいよ、先輩」
 広瀬は、詩音に苦笑すると、ホバーカーのトランクから、特殊器具の入ったバッグと五十連発自動装てん型の散弾銃を出して肩に担いだ。もう一丁、同じものを取り出して、森本に投げた。
 森本は、散弾銃を空中でキャッチ。
「ナイスキャッチ」
 広瀬は、森本に親指を突きたてて、ナイスキャッチのサインを出すと、肩に下げたホルスターからピストルを抜いた。
「先輩は、今日は見学しててください。なあに、死にゃしませんって。先輩の休暇を、オレの葬式でつぶしたくないですからね」
「縁起でもないこと言わないでよ」
 詩音が眉をひそめたとき。また銃声が聞こえた。三発目だ。
「行くぞ、広瀬!」
 森本が雑居ビルの入り口に走った。
「はい!」
 広瀬もあとを追った。
 詩音は、ビルに吸い込まれていく上司と同僚の背中を見つめた。あんなことを言ったが、本当は、森本の配慮がありがたかった。彼女自身、今日はツイてないと思っていた。休めばよかったと思ったくらいだ。森本が言ったとおり、この事件が起こる前は、特務課のオフィスで、二十二年前に別れた少年のことで頭がいっぱいだった。今夜八時のフライトで、彼が帰って来る。地球へ…… いまもそう考えただけで、胸が締めつけられるような思いがした。こんな精神状態では、きっとミスをするにきまってる。
 だが……
 詩音は、浮かれていたのではなかった。二十二年ぶりに会う恋人と、うまくいくかどうか心配だったのだ。緊張する。なにを話していいかさえわからない。だいたい、彼のことを恋人と呼んでいいのかも、詩音には自信がなかった。
 そのとき。四発目の銃声が聞こえた。
 詩音は、ホバーカーのドアに背をもたげて、まんじりともせず待った。犯人が緊張に耐えかねて、勝手に無駄な発砲をしているのだとしたら厄介な相手だ。いや、ある意味、射殺してしまえばいいのだから楽な相手なのだが、その手の犯人から人質を無事に救出するのはきわめて難しい。もしも、自分が人質になるのなら、警察を本当の意味で困らせるような知能犯に願いたいものだ。詩音は、そんなことを考えながら、無意識のうちに、ジャケットのポケットから小さな革の袋を取り出して握りしめていた。
 中には、青いビー玉が入っていた。二十二年前、少年にもらったビー玉。それは詩音のお守りになっていた。悲しかったり不安を感じたり、あるいは緊張したりすると、それを握りしめるのが癖になっていた。だから、革の袋はすぐボロボロになって、何度も取り替えた。だが、中のビー玉は、少年にもらったときと同じように、いまも美しく輝いていた。

02-02

 森本は、階段を駆け上がり、三〇二号室のドアを取り囲むように待機している警官と合流したとき、四発目の銃声を聞いた。
「森本だ」
 森本は、無線機を持っている警官に名乗った。
「新井です。犯人は、中で勝手に発砲しているようです。声は聞こえません」
「わかった」
 森本は、新井にうなずくと、ドアに向かって叫んだ。
「警察だ! おまえは完全に包囲されている! 無駄な抵抗はやめろ! 銃を捨てて人質を解放すれば、命は保証する!」
 部屋の中から反応はなかった。
「繰り返す!」
 森本は、もう一度同じセリフを叫んだ。やはり、中からなんの反応もなかった。
「突入する」
 と森本は宣言した。いままでの人生で何十回も口にしたセリフだった。
「きみたちは二階まで下がれ。広瀬」
「はい」
 警官たちが下がったあと、広瀬は特殊器具の入ったバッグをあけた。中から粘土のような物体を取り出して、それを引き延ばして指輪程度の輪っかにすると、バッテリから電線を伸ばして、プラスとマイナスの電極を粘土の輪っかに埋め込んだ。
「やれ」
 森本が短く命令する。
 広瀬は黙ってうなずき、粘土の輪っかを金属製のドアの下に密着させると、バッテリのスイッチをオンにした。
 とたん。粘土が白熱した。ジジジッと油の焦げるような匂いが漂い、金属製のドアが粘土に沿って赤熱する。広瀬は、腕時計を見ながら時間を計っていた。広瀬が三十秒を数えたとき、ドアの赤熱は十分に進んでいた。溶けた鉄が自重でずれ、小さな穴が開いた。
 広瀬は、ファイバースコープを取り出して、穴にファイバースコープの先端を突っ込んだ。小型の有機ELモニターに、ファイバースコープの捕らえた映像が映し出される。
「警部。ゲーム機が邪魔で、中の様子がわかりません」
「貸せ」
 森本は、手を伸ばして、ファイバースコープのコントローラと有機ELモニターを受け取った。
「くそっ」
 モニターを見た森本は舌打ちした。ドアの前にゲーム機を集めて、障害物にしてあった。
「広瀬。PEACを流し込め」
 PEAC(ペック)は、強力な催眠性ガスを差す警察用語だった。日本自治政府の刑事警察法で使用が許されている数少ない化学兵器だ。だが、あまりにも強力なため、吸引した者が副作用で死亡する場合もある。犯人はともかく、人質の命をも危険にさらすことになる。使用が認められているとはいえ、許可なしに使用できるのは、特務課だけだった。
 広瀬は、森本がファイバースコープを抜いたあと、すぐに小型ボンベのノズルを差し込んだ。
「警部。これを」
 ガスマスクをバッグから出して、森本に渡す。
「おまえも早く装着しろ」
「はい」
 広瀬もガスマスクを装着した。そして、ボンベのバルブを開いて、ふたたび腕時計に目を落とした。十五秒待つ。
「警部。十五秒経過。中和ガスに切り換えます」
 広瀬は、ボンベの種類を変えた。PEACを中和するガスを入れる。そしてまた十五秒。
「十五秒経過」
「よし。ドアを焼き切れ」
 森本は、ガスマスクを床に捨てて命令した。
「はい」
 広瀬もガスマスクを捨てて、また粘土を出した。ドアノブの周りに貼り付ける。こんどは指輪程度ではなく、ドーナツぐらいの大きさにした。電流を流す。ドアノブは、あっという間に溶け落ちた。広瀬は、ドアノブのあった穴に、L字型の金属棒を突っ込んだ。
 森本は、広瀬の作業がそこまで進むと、銃を構えてドアの前に立った。何度経験しても、この瞬間は胃がキリキリと痛んだ。空気を大きく吸い込んでから、広瀬に合図した。
「開けろ」
「はい」
 広瀬は、金属棒を一気に引っぱってドアを開けた。
 ゲーム機が積み木のように重ねて置いてあった。森本は、中段のゲーム機を思い切り蹴飛ばした。
 ガン! ガラン! とゲーム機が崩れる。森本は、崩れたゲーム機を飛び越えるようにジャンプして、部屋の中に突入した。
 そのとき。
 森本の目に、銃を手に持って、床に倒れている女子高生の姿が飛び込んだ。
 森本は、その光景の意味が一瞬わからなかった。犯人の姿はなかった。その代わり、天井のパネルの一部がはずれていた。森本はすべてを悟った。人質だと思っていた女子高生は仲間だったのだ。男を逃がす囮。
「くそっ!」
 森本は、携帯無線機をオープンして、自分たちのホバーカーを呼び出した。
「詩音! 応答しろ!」

02-03

 詩音は、ホバーカーの無線機から、いきなり森本の怒鳴り声が聞こえて、一瞬ビクッと身体を硬直させた。あわててドアを開け、無線機をとった。
「はい、警部!」
〈人質の女はおとりだった!〉
「なんですって!」
〈天井のパネルがはずれている。ビルの見取り図を見てくれ!〉
「はい!」
 詩音は、ボンネットに置かれているノートパソコンを開いた。
「警部。開いているパネルの位置は?」
〈部屋の右隅だ〉
 詩音は、モニターに映る見取り図の先を指で追った。
「わかりました。排気ダクトに接続されています。排気ダクトは…… なんてこと! 隣のビルに通じてる!」
〈詩音、おまえは動くな!〉
 と無線機のスピーカーから森本の声が聞こえたが、すでに詩音は走り出していた。
 詩音は、ホルスターから銃を抜くと、警官たちに叫んだ。
「犯人は隣のビルよ! 二人ついてきて、残りは周囲を固めて!」
 そして彼女は、隣のビルの自動ドアをくぐった。
 とたん。
 フロアにいた住人たちが、銃を構えて入ってきた女に驚きの声を上げた。
 しまった。
 詩音は舌打ちした。うかつだった。詩音は、あわてて、腰にさしてある警察バッジを手にとって叫んだ。
「東京PD!」
 東京・ポリス・デパートメント。略して東京PD。詩音の正式な肩書は、東京市警・十六管区・特務課・一級刑事だった。原則として、刑事は自分の所属と氏名を省略して市民に伝えてはならない。だが緊急時には、バッジを見せて東京PDと宣言すればよいことになっていた。
「このビルに強盗の容疑者が逃げ込みました! 危険です! 退避してください!」
 詩音は、叫びながら、フロアにいる人間を油断なく観察していた。その中に、コートの襟で顔を隠しながら、騒ぎに紛れて外に出ようとしている不精髭の男を発見した。
 どうする?
 ここでとめるか、それともビルの外に出るまで待つか……
 ダメだ。外では人が多すぎる。
 詩音は決断して、その男の前に回り込もうとした。だが、男のほうも詩音の動きに気づき、くるりと身体を反転させて、非常階段のほうへ走った。
「待て!」
 詩音は、男を追った。だが、逃げまどう一般市民に邪魔されて、非常階段までたどりつくのに手間取った。
 詩音は、階段にたどりつくと、男の足音を聞いた。ダッシュで駆け上がっている。詩音も、ダッシュした。低層ビルとはいえ、十階以上あった。日々のトレーニングを欠かさない刑事でもかなり駆け上がるのはかなりキツイ。だが詩音はまったく息が上がらなかった。警察学校でもっとも優秀な身体能力を持つものが特務課に配属されるのだが、その特務課の中にあっても、詩音はトップクラスだった。生まれてこのかた、風邪ひとつ引いたことがない。
 男との距離は、あっという間に縮まった。
 だが、あと少しというところで、ガンと音がした。銃声ではなかった。詩音が最上階に上がると、屋上に出るドアが半開きになっていた。
 詩音は躊躇した。ここで飛び出したら、男の的になるのではないか。だが、この辺りは、似たような高さのビルが密集して建っている。屋上から屋上へ、飛び移るのは比較的容易だと思われた。詩音は、犯人の男が、追っ手を撃つために待っていることはないと判断して、屋上に飛び出した。
 予想通りだった。男が、隣のビルに飛び移るところが見えた。詩音も、そのままダッシュして隣のビルにジャンプ。
 そのとき。男がふり返って、詩音に銃を向けた。
 しまった。
 詩音は、空中を飛びながら、男の発砲した銃声を聞いた。ほぼ同時に、胸に穴が開き、鋭い痛みが走った。詩音は、隣のビルの屋上に足がついた瞬間、もう一発銃声が聞こえた。こんどは胸に穴は開かなかった。その代わり、右のほほが熱くなった。銃弾がかすめたようだった。
 詩音は、とっさに横転した。だが、銃口だけは男からはずさなかった。発砲。男の足から鮮血が飛び散った。
 男は、一瞬自分の足を見た。そして、痛みに顔をゆがめながら、ふたたび詩音に銃口を向けた。
「銃を捨てろ!」
 詩音はすぐに体勢を立て直し、男に銃を向けていた。
「オ、オッドアイ……」
 男は、詩音を見て、怯えたように言った。オッドアイは、詩音の通り名だった。もっとも、彼女をそう呼ぶのは、彼女に追われる立場の人間だけだった。詩音は、一級刑事として、犯罪組織に名が知られているのだった。
「銃を捨てろ!」
 詩音は、もう一度警告した。
「こんどは脳天を狙うわよ!」
「ひっ!」
 男は、持っていた銃を捨てた。とたん、足の痛みを思い出したように、その場に崩れ落ちた。
 詩音は、油断なく男に銃口を向けたまま近づいた。
「伏せて手を背中に回せ!」
「いてえ、足がいてえよ」
「おとなしくしていれば、手当してやる。早く手を背中に回しなさい!」
 男は、足の痛みに耐えながら言われたとおりにした。
「強盗傷害容疑で逮捕する」
 詩音は、男の手に電磁手錠をはめ込んだ。ジジッとラジオから漏れるような音が聞こえて、電磁手錠がロックされた。
 ふう。いっちょ上がり。
 詩音は、軽く息をついて、犯人を見下ろした。
「詩音!」
 森本と広瀬が駆け寄ってきた。
「警部」
 詩音は、ジャケットのポケットからサングラスを出して、はめた。
「犯人の足を撃ち抜きましたが致命傷ではありません」
「見りゃわかる」
 森本は、詩音をにらんだ。詩音の胸に穴が開いているのを見逃さなかった。防弾チョッキがなければ確実に死んでいる場所だった。
「なぜ、命令を無視した」
「命令?」
「オレは、動くなといったはずだ」
「聞こえませんでした」
「バカ野郎!」
 森本は怒鳴った。そのあと、文句を言おうと開いた口からは、言葉が出てこなかった。森本自身、どんな文句を言おうか考えている様子だった。
「警部?」
 詩音は、首をひねった。
「ったく」
 森本は、やれやれと首を振った。
「ほほから血が出てるぞ」
 詩音は、ほほに手を当てた。手に血がついた。あと数センチ銃弾がずれていたら、二十二年ぶりどころか、二度とだれとも再会できない場所に行くことになっていたと思った。だが詩音は、動揺することなく言った。
「かすり傷です」
「困ったやつだ」
 森本は、ついに笑顔を浮かべた。苦笑だったが。
「なんにしても無事でよかった。おまえが一人で屋上に上がったときは肝をつぶしたぞ」
「すいません……」
「おまえの男は苦労するよ。心からご同情申し上げると伝えてくれ。逃げられないようにしっかり捕まえとけよ」
「だったら大丈夫ですよ」
 広瀬が笑った。そして、痛い痛いと不平を口にしている犯人を見下ろしながら言った。
「先輩から逃げられるヤツがいたら見てみたいもんです」
「そりゃそうだ」
 森本も笑った。
「ひどい。あたしの彼は犯罪者じゃありませんよ」
 詩音は苦笑した。緊張が解けて、いつもの詩音に戻っていた。
 そのとき、制服警官たちが上がってきた。森本は、ふだんの厳しい顔つきに戻って、犯人を連行するように指示を出した。いつもどおりの手順だ。そして、最後に出した指示も、いつもどおりだった。
「では、諸君」
 森本は、詩音と広瀬に言った。
「オフィスに戻って、楽しい報告書の作成に取りかかろうじゃないか」
「う~っ」
 広瀬が天を仰いだ。
「そいつがなけりゃあなあ」
 詩音も同感だった。報告書の作成は退屈で、つまらない仕事だ。だが、特務課の刑事にとって、生きて報告書が書けるのは幸せなことでもあった。東京市警でも、殉死率ナンバーワンの部署なのだから。


03

03-01

 神林輝(かんばやし てる)は、三ヶ月のフライトを終えて、地球軌道ステーションに降り立ったところだった。しかし、スターシップの中ではコールドスリープ装置に入っていたので、実際には、四日ほどの時間感覚しかない。
 地球軌道ステーションは、年に二便しかない火星便の到着で、ごった返していた。
「ふう……」
 輝は、ステーションのロビーのベンチに空きを見つけて腰を下ろした。肩にかけた旅行バッグを床におく。バッグは、手荷物で機内に持ち込みができるサイズだったが、中に圧縮パックで着替えを詰め込んであるのでけっこう重かった。
「ふう……」
 もう一度息をついた。
 三ヶ月のコールドスリープはかなりつらい。現在の技術では、半年が生命維持の限界といわれている。輝はその半分を経験してきたところなのだ。二日前にコールドスリープを解かれたときほどではないが、いまも風邪を引いて熱を出したときのようなだるさが抜けていなかった。関節もまだ少し痛む。体力が十分にある若者でも、体調が戻るまでには、三日ほどかかる。
 二十二年前。輝が火星に渡ったときは、もっとひどかった。当時の火星航路は、一年以上の時間がかかった。三ヶ月のコールドスリープのあと、一ヶ月起きていて、また三ヶ月のコールドスリープ。それを三度繰り返させられた。移民船には、六五〇〇人が乗っていたが、そのうち老人と子供を中心に、十五名が亡くなった。コールドスリープの負荷に耐えられなかったのだ。当時八歳だった輝も、命に関わるほどではないが、かなりつらい思いをした。
 お金に余裕がある者は、コールドスリープなど使わなかった。スターシップの一等客室で優雅な旅を楽しむのだ。観光客はすべてそうだった。豪華客船で海の旅を楽しんだ昔と変わらない。二等客室になると、ひと月ほどコールドスリープのやっかいにならねばならないが、それでも、体調が戻るのに十分な時間をスターシップの中で過ごすことができる。
 ところが。輝の乗った三等客室は、火星航路のほぼ全工程をコールドスリープで過ごさなければならなかった。その三等客室でさえ、火星便の料金はかなり高額だった。片道の料金だけで、高級ホバーカーが二台買えそうなほどの値段なのだ。ロビーのベンチは、輝と同じ便で地球軌道ステーションに着いた三等客室の人間ばかりのようだった。みな疲れた顔で、腰を下ろしている。
 輝は、ジャケットの内ポケットから、携帯端末を取り出した。画面のフォトフォルダーを指先でタップする。そこには、shionと書かれたフォルダーが入っていた。輝は、そのフォルダーを開いて、一番新しいタイムスタンプの写真を表示した。半年前に送られてきた写真だった。
 詩音の顔が映った。
「詩音……」
 輝は、写真に向かってつぶやいた。
「やっと、ここまできたよ。地球までは、あと二時間だ」
〈アテンションプリーズ〉
 ステーションに、放送がかかった。
〈ジャパン・スターライン、地球ステーション経由羽田航宙ポート行き、五六便にお乗り換えのお客様は、三四六番ゲートにお急ぎください〉
「あ……」
 輝は、ぼんやりとした頭で、ズボンのポケットに入れたチケットカードを取り出した。カードのホロ液晶画面を見ると、いままさに放送のかかった便名が浮かんでいた。
 いかなきゃ……
 輝は、携帯端末とチケットカードをポケットに戻すと、ずっしりと重いバッグをやっとの思いで肩にかついだ。三四六番ゲートが、はるか彼方のように感じられた。

03-02

「ねえ、先輩」
 と帰りのホバーカーを運転する広瀬が、後部座席の詩音に聞いた。
「そろそろ、ボーイフレンドの正体を教えてくれてもいいんじゃないですか?」
「正体ってなによ、正体って」
 窓の外を見ていた詩音は、苦笑しながら運転席に顔を向けた。
「べつに、ふつうの人よ」
「だからァ、先輩なんにも話してくれないじゃないですか。どう、ふつうの人なのか知りたいんですよ」
「そんなこと知ってどうするのよ」
「だって、興味あるじゃないですか。わが特務課のエースが、二十二年間もプラトニックな愛を貫いた相手ですよ」
「なんだか、すごい言われようね」
 詩音は、いよいよ苦笑を浮かべるしかなかった。
「ねえ、先輩。いいじゃないですか。教えてください。出会いはなんだったんですか?」
 森本は、黙って彼らの会話を聞いていた。広瀬の詮索をとめるつもりはなかった。詩音がしゃべりたくなければそれでいい。だが、二十二年ぶりの再会を機に、彼のことを話す気になるのなら、ぜひ聞いてみたいと思っていた。
 詩音は、軽く肩をすくめると、サングラスをはずした。
「この目よ」
「目?」
 広瀬は、ルームミラーを少しずらして、後部座席の詩音を映した。右目の美しいブルーの瞳。広瀬は、詩音の瞳が嫌いではなかった。むしろ、クールでカッコいいとさえ思っていた。
「目がどうしたんです?」
「そんなことを真顔で聞くのはあんたぐらいのものよね」
 詩音は、くすっと笑った。
「いっとくけど、この色違いの瞳は、いまでもあたしのコンプレックスなのよ」
 詩音は、いまだに自分の瞳が好きではなかった。カラーコンタクトを作ってみたこともあったが、コンタクトが合わない体質で、ひどい充血がいつまでも治らず、医師から使用を停止されて断念した。
「そりゃまあ、知ってますよ」
 と広瀬。
「いつもサングラスをしてるのはそのせいでしょ?」
「まあね」
「オレはカッコいいと思うけどな」
「サングラスが?」
「違いますよ。いや、サングラスも似合いますけどね。先輩の目は魅力的だと思うな」
「大人になると、あんたみたいな人もいるけど、子供は残酷なのよ。自分たちと少しでも違うところがあれば、すべて差別の対称になるわ」
「いじめにあったか」
 と森本が言った。
「ええ」
 詩音は、うなずいた。
「あたしの瞳を、まったく気にしなかったはじめての人が、今日地球に戻ってくる彼なんです」
「わぉ。そりゃいい」
 と広瀬。
「ってことは、うわさの彼氏も、先輩の瞳をカッコいいと思ったんだ。オレと気が合いそうだな」
「ちょっとニュアンスが違うけど、まあ、あたしがはじめて心を許した友人だったのは間違いないわ」
「その彼と、別れ離れになったわけか」
 と森本。
「はい」
 詩音は、二十二年前の別れの日のことを思い出した。
「なにせ火星ですからね。いまでこそ、航路は三ヶ月に短縮されましたけど、二十二年前は、一年以上かかったんですよ。子供心にも、二度と会えないんじゃないかって思いました」
「二十二年前というと…… 第三次移民だな」
「そうです。第三次移民の最終公募でした」
「ああ。覚えてる。オレも真剣に考えてた時期があったからな」
「警部もですか?」
「ちょうど大学を卒業するころだった。ニューフロンティアって言葉に惹かれてね。火星で警官になるのもおもしろいと思ったのさ」
「じつは、あたしも真剣に考えた時期があるんです。もっともあたしは、第三次移民計画が終わったあとでですけどね」
「わぉ」
 と広瀬。
「彼のところに押しかけようってわけですね」
「まあね。助成金が打ち切られたから、とてもチケットは買えなかったけど、けっこうマジだったわ」
「なんで行かなかったんですか?」
「彼のほうが、地球に戻るって言ってきたのよ」
「へえ。それにしちゃあ、ずいぶん時間がかかりましたね」
「そうね……」
 詩音は、肩をすくめて、またサングラスをかけた。
「いろいろと、大変だったんでしょ、たぶん」
「たぶんって…… メールは頻繁にやりとりしてたんでしょ?」
「まさか、ネットが火星と繋がってると思ってる?」
「えっ、繋がってないんですか?」
「広瀬」
 森本が苦笑した。
「少しは勉強しろよ。火星との常時回線は民間に開放されていない」
「ええっ、じゃあ連絡はどうしてたんですか? まさか、紙の手紙?」
「そんなわけないでしょ」
 詩音は苦笑した。
「手紙のほうが、よっぽど大変よ。NASAの回線を使うの。だいたい百パケット一万円だけどね」
「なんじゃそりゃ。むちゃくちゃ暴利じゃないですか」
「移民計画にかかった費用を、けっきょく移民から回収してるんだわ。市民から、金を巻き上げる方法を考えるしか能がないのよ、あいつら」
「あいつら?」
「連邦政府よ」
「ああ、そういうことか。われわれも、連邦の公僕ですけどね」
 広瀬が笑いながら言った。
「でもまあ、かなり厳しい金額ですね。苦労したでしょ?」
「したした」
 と詩音。だんだん、自分の過去を話すことに抵抗がなくなってきていた。
「中学に入って、彼からはじめてメールがきたときは、ビックリしたわ。短い文面だったけど、けっこうお金がかかったはずだからね」
「それで感激したと」
 広瀬が、にひひ。とイヤらしい笑い声をあげた。
「バカ」
 と詩音。じつは、大感激して、それから一週間ぐらい、毎日彼から送られてきた短い文面のメールを眺めていたことは話さなかった。それどころか、いまでも彼女のコンピュータに大事に保存してあった。バックアップを三カ所もとってあるほどだ。それは、本当に短い文面だった。

『詩音ちゃん。元気ですか? ぼくは元気です』

 これだけだった。詩音は、すぐさま父親に頼み込んで、返事を書かせてもらった。彼女の家は、相変わらず貧しく、通信料は父親にとっても負担ではあったけれど、それを十分知っている詩音は、それでも頼まずにはいられなかった。彼のメールは、詩音のファミリーアドレスに送られてきたものだったので、詩音は、自分のパーソナルアドレスで返信した。

『輝くん、メールすごくうれしかった。あたしも元気です。中学に入って友だちも少しできました。輝くんにもらったビー玉は、いまでもあたしの大切なお守りです』

 本当は、もっともっと書きたかった。でも、たったこれだけの文面でも、通信料は一万二千円を請求された。音声通信で、彼の声を聞くなど、夢のまた夢だった。それどころか、写真を一枚添付することさえできなかった。

 輝からの返事は、半年後に届いた。

『元気そうでよかった。高校に入ったらバイトができるから、もっとメールを出せるようになれます』

 この文面で、彼も親に頼んでお金を出してもらっていることを詩音は知った。いや、そう思った。詩音もまた、父親に頼んで返事を書いた。

『あたしも同じ。いっぱい話したいことがあります』

 こうして、中学時代の通信は終わった。それからの詩音は、小遣いの無駄遣いをやめた。お年玉も一円も使わずに、全部ためた。高校に入ると、すぐにファーストフードのアルバイトを決めて、それまでの貯金と合わせて、十万円を一気に通信費に使った。そのころには、パケット料も若干下がっていたので、かなり長い文面のメールを書くことができた。輝からも、同様に長い文面のメールが返ってきた。それから彼らは、月に一度、メールのやりとりをした。彼らは、夏休みの前にひとつの約束をした。休みの間、バイトに精を出して、互いの『いま』の写真を添付しようねと。詩音は、その約束を守った。輝も約束を守った。
 詩音は、送られてきた写真を見て驚いた。八歳の少年だった彼しか記憶になかったからだ。その記憶もどこかおぼろげで、添付された写真に写った青年が、あの同じ少年なのかと、一瞬疑った。少年は、見違えるほどたくましい青年に成長していた。詩音は、このとき、はじめて不安を覚えた。写真を送ったので、バイト代は、ほとんど残っていなかったが、返事を書かずにいられなかった。

『輝くん。写真見ました。すごくカッコよくなってるんでビックリ。火星ですごくモテるんじゃないかな。あたしとメールなんかしてていいのかなぁ? バイト代を通信に使うのが負担だったら、遠慮なく言ってね』

 本心ではなかった。輝からメールをやめたいと言われたら、しばらくショックで立ち直れないとさえ思った。それでも書かずにいられなかった。本来なら、返事がくるのは翌月のはずなのに、輝からの返事は、三日後に届いた。

『詩音ちゃんこそ、すごい美人だね。ぼくとの通信が負担だったら、いつでもやめるよ。でも、もしそうじゃなかったら、またメールしてもいいかな?』

 誤解された! 詩音は青くなった。一刻も早く誤解を解きたかったが、通信に使えるお金は一円も残っていなかった。前回のメールでさえ、父親に少しお金を借りたのだ。それでも、父親にまた頼み込んで、お小遣いを二ヶ月分前借りした。

『輝くんが、あたしとメールしてくれるなら、すごくうれしい。輝くんがカッコよくなってるから、不安だったの。ごめんなさい!』

 詩音は、輝にもお金がないことは容易に想像できた。だから返事は、こんどこそ翌月だと思っていた。ところが、彼からのメールは、二日後に届いた。

『会いたいね』

 たったこれだけだった。いままでで、一番短い文面だった。通信料を最低限に抑えた結果だと詩音にはわかっていた。それでも、いままでで、一番うれしい文面だった。詩音は、真剣に火星への移民を考えはじめた。すでに、政府の移民計画は終了していて、チケットの助成金は出なくなっていた。

「先輩」
 と広瀬の声で、詩音は過去の想い出から、現実に戻った。
「オフィスにつきましたよ」
「あ……」
 そこは、東京市警の駐車場だった。
「すでに、心ここにあらずだな」
 森本が、苦笑しながらホバーカーを降りた。
 詩音も、あわてて、シートベルトをはずしてホバーカーを降りた。
「詩音」
 森本は、オフィスに上がるエレベータに向かいながら言った。
「犯人逮捕の状況を広瀬に伝えておけ。おまえは、もう上がっていい。いまから休暇扱いにしてやるよ」
「え? ですが、逮捕したのはあたしですし」
「手柄を横取りししませんよ」
 広瀬が笑った。
「バカ。そういう意味じゃないわよ」
「わかってますって。でももう五時ですよ。彼氏の便が着くのは八時でしょ。そろそろ準備をしたほうがよくないですか?」
「準備ってなによ」
 詩音が先に、エレベーターに乗り込む。
「二十二年ぶりなんだから、おめかししなきゃ。ねえ、警部」
 広瀬は、ニヤニヤ笑いながら、九階のボタンを押した。
「そうだな」
 森本も、意地の悪い顔で応えた。
「化粧に時間がかかるだろうからな」
「それって、どーいう意味ですか警部」
「ははは」
 森本は、豪快に笑った。
「刑事なんかやってると、化粧の仕方を忘れてるだろうと思ったのさ。べつに年のことをいったんじゃないぜ。三十にしちゃ悪くない」
「まだ二十九です!」
「おっと、こりゃ失礼」
 森本と広瀬の笑い声が、エレベーターのケージに響いた。

03-03

 輝は、連絡シャトルのシートに納まると、電子機器使用禁止のサインが消えるのを待って、ジャケットから携帯端末を出した。これまで詩音と続いてきたメールのすべてが、この端末にバックアップしてあった。

『会いたいね』

 たった一言に込めた想い。たとえ、バイトのお金が残っていても、これ以上の文面を考えついて、彼女に送れたかどうか、いまでも疑問だった。このひと言で、互いの距離が一気に縮んだ。お互いの悩みや、将来の夢を語り合った。輝は電気関係の専門家になりたかった。詩音は警官になるのを夢見ていた。警察学校は、授業料が免除されるからと詩音は言っていたが、それだけではないと輝は思った。子供のころ、ずいぶんイジメにあった経験が、彼女に正義感を植えつけたのだと。
 右の瞳の青い少女……
 いつのころか、彼女は輝にとって特別の存在になっていた。写真を送りあうようになってから、少女が、すでに少女でないことを知った。美しい女性に成長していた。青かった果実が色づき、少しずつ甘く熟れてくるように、詩音は大人の女性になっていった。
 輝は、高校時代の最後の夏に、彼女からきたメールを表示した。

『輝くん。あたし考えました。もしも、もしも、もしも、輝くんが迷惑じゃなかったら、あたし火星に移民したい。それで…… もしも、もしも、もしも、あたしたちがうまくいかなくても、輝くんの責任じゃありません。あたしが、あたし自身で決めた人生です』

 輝は、このメールを受け取ったときの喜びと苦悩を思い出していた。彼女が自分のことを真剣に考えていてくれること。それは大きな喜びだった。だが同時に、彼は苦悩した。詩音は、火星のことをなにも知らない。知らないほうがいいと思った。だから輝は、翌月のメールでうそをついた。

『詩音ちゃん。先月のメール、すごくうれしかったよ。でも、ぼくはいつか地球に戻ろうと思っています。もしも、もしも、もしも、ぼくが地球に戻ったとき、ぼくらがうまくいかなくても、それは詩音ちゃんの責任じゃありません。ぼくの決めた人生です』

 罪悪感を抱いた。地球に戻るつもりはなかったのだ。だから、詩音が火星に移民したいと考えた時点で、メールのやりとりをやめるべきだった。だが、そうするには、彼は若すぎた。高校生の輝に、ずっと好きだった女の子を忘れることはできなかった。
 はじめて彼女に、『会いたい』と告げたのは偽りのない気持ちだった。ところが、いまはそれが、正しいことなのかどうか自信がなかった。
 火星には季節がない。いつだってドームの中の気温は一定だった。だから輝は、子供のころの記憶をたどるだけで、けっして実感できなかったが、詩音にとっては、紅葉の秋を迎えたころに届いたメールは、輝の罪悪感をさらに増大させた。

『輝くん、地球に戻ってくるんだね! 最高にうれしい! あたし、お金をためておきます。輝くんが地球に戻るときの旅費の足しになるように。迷惑じゃないよね? それから、もしよかったら、これから輝くんのこと、輝って呼んでいいかな? あたしのことも、詩音ちゃんじゃなくて、詩音って呼んでくれたらうれしいな。もう、子供じゃないからね』

 輝は迷った。それでも、詩音の住む日本が、冬になるころ送ったメールで、真実を告げることはできなかった。

『詩音。と、呼んでいいんだよね? ぼくは高校を出たあと、電気関係の学校に入れることになりました。一生懸命勉強して、いい就職口を見つけるつもり。だから、旅費の心配はしなくてもいいよ。だから詩音も、地球で警官になる夢を実現させてください』

 輝は、携帯端末のスイッチを切った。輝は、地球に戻るつもりはなかった。だが、二度と見ることはないと思っていた故郷の星は、いま窓の外に青く輝いていた。まるで、詩音の瞳のようだと輝は思った。これからの人生が、自分にとってどんなものになるのか、輝には想像できなかった。すべてがうまくいってくれることを願うしかなかった。確かなことは、たったひとつしかなかった。
 詩音…… きみに会いたい。
 自分は間違っているかもしれない。でも、その気持ちだけは真実だった。輝は、徐々に近づいてくる青い地球を眺めながら、そう思った。

03-04

 詩音は、ロッカールームで着替えを終えた。三年ぶりに履くスカートだった。ロッカーにいる同僚に、わぉ、今夜は気合入ってますねなどと冷やかされる。
 二十二年。なんと長い年月だっただろう。本当は不安だった。彼に会うのが。詩音は改めて、宇宙空間の広大さを知った。どんなに想いを文字につづっても、彼との距離は、あまりにも遠かった。月並みな遠距離恋愛とは違う。
 本当に、彼はあたしを愛してくれているのだろうか?
 あたしこそ、彼のことを愛しているのだろうか?
 詩音は、いままでにも何度も自問していた問いを自分に投げかけた。高校時代はよかった。警察学校時代も。地球に戻るという彼の言葉を信じて、何年でも待つつもりでいた。
 お互い仕事を持ってから、金銭的な余裕ができてメールのやりとりは増えた。ところが、彼は地球に帰って来なかった。
 気がつけば二十九歳。
 詩音は、彼を責める気にはなれなかった。詩音自身、刑事になってからは、彼が地球に戻ってくることを、心のそこから願っているのか疑問だった。
 自分には、遠く離れた場所に好きな人がいる。そう思い込むことで、刑事という激務の中で、恋愛をしている暇がない自分を慰めていただけではないのか? 特務課という死亡率の高い職場で、自分が死んでも、あと腐れない相手として彼を利用しはじめたんじゃないのか?
 実際、詩音は特務課の実態を輝にほとんど話していなかった。正直に話して、そんな仕事は辞めろと言われるのが怖かった。きっと、自分は辞めないだろうから。
 あたしは、いつの間にか、彼をスケープゴートに使っていただけ?
 違う。
 詩音は、激しく首を振った。
 あたしは彼のことが好き。この気持ちは、偽りなんかじゃない。
 それは、詩音が刑事になってから、とくに特務課に配属されてから、何度も何度も、自分に言い聞かせたてきたことだった。
 そんなとき、輝から地球に戻るという知らせを受けた。驚いた。そして動揺した。そんな自分が許せなかった。十年前だったら、飛び上がって喜んでいたはずなのに。
 そうよ。あたしは、うれしいはずなのよ。彼に会えるのが。それを自分自身で証明したくて、詩音は輝が帰還する日から、一ヶ月という異例の長期休暇を申請した。仕事という逃げ場を、自分で絶ったのだ。もう逃げ場はない。
 六時半。そろそろ行かなきゃ。
 そのとき。
「結城刑事」
 と声をかけられて、詩音はふり返った。交通保安課の若い婦人警官だった。
「明日から長期休暇ですね」
「ええ。ごめんなさい。みんなに迷惑かけちゃうかも」
「がんばってくださいね」
 婦人警官は、詩音にウィンクした。
「彼氏のハートをしっかりゲットしてください」
「ははは……」
 詩音は、乾いた笑いを浮かべた。
「なんで、そんなこと知ってるかな」
「みんな知ってますよ」
 婦人警官はくすっと笑った。
「結城刑事のファンの子は、ちょっとショックを受けてるみたいですけどね」
 詩音は苦笑した。たしかに、バレンタインデーになると、チョコを持ってくる婦人警官が何人かいた。はじめてもらったとき、あたしは宝塚じゃないわよと、たたき返そうと何度も思ったが、まあ、これも人望だと思うことにして、毎年、ありがたくいただくことにした。
「それ」
 と婦人警官は、自分のほほを指さしながら詩音に言った。
「今日の事件でできた傷ですか?」
「あ、ええ」
 詩音のほほには、絆創膏が貼られていた。
「まさか、その顔でボーイフレンドに会いに行くつもりですか?」
「ええ。変かな?」
「いえ…… 警官ですから生傷が絶えないのはしょうがないですけど、少し気を使ったほうがいいかもしれませんよ」
「そういわれてもねえ。特務課の刑事だから」
「そういう意味じゃありません。アフターケアのことですよ」
 婦人警官は、そう言って自分のロッカーを開けた。
「ちょっと待っててくださいね」
「ごめん、急ぐんだけど」
「すぐです」
 婦人警官は、水色のポーチを取り出して、中から透明なシートと小さなスプレーを出した。
「見せてください」
「傷?」
「ええ」
 詩音は、絆創膏をはがしてから、顔を婦人警官のほうへ近づけた。
 婦人警官は、詩音の傷のないほうのほほにシートを当てて、その上にスプレーをかけた。
「これ、色相転写シートなんです。貼り付けた部分の色と、同じ色に染まるんですよ。粘着剤は抗菌なんで、炎症を抑える効果もあります」
 婦人警官は、詩音に説明しながら、シートが詩音の皮膚の色に染まるのを待った。ものの数秒でシートは肌色に変わった。そして、シートの粘着剤保護層をはがして、傷の上に貼り付けた。
「ほらできた。完ぺきです」
「どれどれ」
 詩音は、婦人警官のロッカーの鏡を借りて、自分の顔を映した。
「ほんとだ…… ぜんぜん、わかんなくなってる」
「でしょ」
 婦人警官は、ニコッと笑った。
「婦人警官だって、プライベートではただの女ですから、それなりに気を使わないとね」
「勉強になりました」
 詩音は笑った。
「よかったら、これどうぞ」
 婦人警官は、持っていたシートの残りと、スプレーを詩音に差し出した。
「え? そんな悪いわよ。自分で買うからいいわ」
「たいして高いもんじゃないですから気にしないでください」
「でも……」
「持っていってください。ほんのちょっとでも、憧れの結城刑事の役に立てたら、わたしうれしいですから」
 婦人警官は、半ば強引にシートを詩音に渡した。
「そう? じゃあ、遠慮なく」
 詩音は、好意は額面どおり受け取ることにして、シートとスプレーを、コートのポケットにしまった。
「じゃあ、もう行くわ」
「がんばってくださいね」
「ええ、ありがとう」
 詩音は、婦人警官に軽く手を振って、ロッカールームを出たのだった。

03-05

「お客さま」
 輝は、身体を揺すられるのを感じて目を覚ました。
「羽田航宙ポートに到着いたしました」
 スチュワーデスだった。コールドスリープの疲れで、いつの間にか眠りに落ちていたようだった。
「あっ…… どうも」
 輝は、シートベルトをはずした。ちらっと窓の外を見たが、期待していた青い空はなかった。シャトルは格納ドームに入っていたのだ。火星で見慣れた、金属フレームの天井があるだけだった。
 居眠りをしたのは失敗だったな。輝は肩をすくめた。地球の風景を見ながら降りてきたかったのに……
「火星便からのお乗り換えでいらっしゃいますか?」
 スチュワーデスが、輝の手荷物を頭上の棚から降ろしながら聞いた。
「ええ、そうです。ありがとう」
 輝は、荷物を受け取った。
「コールドスリープでお疲れでいらっしゃるのね」
 とスチュワーデス。
「惑星間スターシップでも説明があったかもしれませんが、二、三日は、急に眠気が襲ってきますから、車の運転などは避けたほうがいいですよ。それと、アルコールもね」
「断続的に眠くなるのは聞いたけど、アルコールの説明はなかったな」
「少量ならいいんですけど、いつもの調子で飲むと、かなり、ひどいことになりますわ。強烈な二日酔いってところかしらね」
「経験があるような言い方ですね」
「ええ」
 スチュワーデスは笑った。
「当社では、新入社員に一ヶ月のコールドスリープ訓練を義務づけているんです。訓練明けに友だちとお酒を飲みに行って、ひどい目に遭いました。どうぞ、お気をつけて」
「なるほど。体験者の言葉は重いですね」
 輝は笑いながら応えると、バッグを肩にかけてシャトルの下船口に向かった。まだ少し混んでいた。のろのろと下船客の列を歩いていると、いよいよ地球の大地に足を降ろすときが来たのだという実感がわいてきた。二十二年ぶり。火星ドームや、スターシップの床に埋め込まれたヒッグス場増幅装置の作る人工重力ではない、本当の質量が生み出す一Gの世界。
 輝は、ついにシャトルから降りた。空気を大きく吸い込む。
「ふむ」
 輝は、苦笑した。
「取り立てて、感慨もないな」
 羽田航宙ポートの白い壁は、火星ステーションや、地球軌道ステーションと、ほとんど代わり映えしなかった。はやく空が見たい。青い空が。
 だが輝の望みは、かなえられそうもなかった。通関ゲートには、延々と永久に終わらないんじゃないだろうかと思うぐらい長い列ができていた。実際、三十分ぐらいかかって、やっと輝の番になった。この世のすべての人間を憎んでいるような顔つきの係官が、輝のパスポートを眺めながら言った。
「滞在の目的は?」
「帰還の手続きです」
「身元引受人の書類は?」
「えっ、ここで見せるんですか?」
「当たり前だろ」
「失礼…… はじめてなもので」
 輝は、係官の態度に、かなり不快感を抱いたが、ぐっと堪えてバッグのポケットからファイルケースを出した。その中に、詩音にサインをしてもらった書類のプリントアウトが入っていた。
「これです」
 輝が書類を提出すると、係官は無言でそれを受け取って、スキャナにかけた。スキャナは、プリントアウトのバーコードを読み取り、帰還管理局のサーバーに保存されているオリジナルデータを呼び出した。
 かなり待たされた。ほかの人の通過手続きより、三倍はかかっているなと輝は思った。おそらく、帰還者はぼくだけなのだろうと。
 やがて、係官が言った。
「なぜ地球に帰還するんだ?」
 輝は、その質問には、さすがに耐えられなくなった。そんなこと帰還手続きの書類に記載されているではないか。なぜ、ここで聞くんだ。だから輝は、書類には書かれていないことを答えた。
「その身元引受人と結婚するためです」
「婚姻手続きは出されていないぞ」
「これからプロポーズします」
「ここは冗談を言う場所ではない。別室で話を聞くか?」
「失礼」
 輝は、奥歯をかみしめた。ここで役人とケンカをしても、こっちが損をするだけなのだ。
「書類に書かれていること以外を答えるんだと思いました。ぼくは地球生まれです。火星移民法第十三条二十六節により、地球生まれの者は、本人の希望があれば、いつでも地球に戻れるはずです」
「きみに法律を教えてもらう必要はない。なぜ、地球に戻りたいのかと聞いている」
「空が見たいから」
「もういい。やはり別室で――」
 輝は、係官がいい終わる前に、あわてて言った。
「ぼくは、ドーム閉そく症候群です。火星では生活できない」
「最初から、そう答えればいいんだ」
 係官は、つばでも吐きかけそうな顔で、輝をにらんだ。
「で、仕事は?」
「まだ決まってません」
「資格は?」
「電気関係のエンジニアです」
「ふん。そんなもん資格とは言わない」
 な、なんなんだ、こいつ。輝は、不快感をはるかに通り越して激しい怒りを覚えた。もしかして、火星の移民者には人権がないとでも思っているのか?
「なんだ、その顔は? なにか文句があるのか?」
「べつに…… そっちこそ、書類になにか不備があるんですか?」
「ふん」
 係官は、おもしろくなさそうに鼻を鳴らすと、輝のパスポートにハンコをついて、ぶっきらぼうに突き返した。そして、輝にはもう興味を失ったと言わんばかりに、順番を待っている後ろの人間に視線を移した。
「なぜ、地球に帰るのに理由がいるんだ……」
 輝は、つぶやいた。係官がにらんだ。輝は、係官がなにかいい出す前に、さっとパスポートと書類をとって、ゲートをくぐった。
 そのとき、金属探知機が、ビッと反応した。
 まただ。
 輝は、タメ息をついた。三年前に手術をしたときから、いつも金属探知機に引っかかる。
「金属類をはずして、もう一度ゲートを通ってください」
 女性の係官が言った。パスポートのチェックをした男より、ずっとソフトな言葉遣いだったが、顔つきは厳しかった。
「身体に金属が埋まってるんです」
 輝は、そう答えて、抱えていたファイルケースから医師の診断書を出して、係官に渡した。ここでは、どれだけ足止めを食らうんだろう。輝は、何度目かのタメ息をついた。

03-06

 詩音は、ゲートの前で、フライトスケジュールの表示された大型パネルを見上げていた。地球軌道ステーションからの連絡シャトルは、時間どおり八時には到着していた。
「遅いな……」
 シャトルが到着してから一時間。ほとんどの搭乗客が出てきたのに、輝はまだ出てきていなかった。
「お待たせ」
 と声が聞こえて、詩音は、ドキーンとなりながら大型パネルから視線を移した。
「お帰りなさーい!」
 赤いコートを着た女が、その男に抱きついた。
 なんだ。ビックリした。詩音は胸をなで下ろしたあと、タメ息をついた。さっきから、こんな光景ばかり見ている。家族の再会、恋人の再会、友人たちの再会。詩音の順番はまだ回ってこない。
 うーん。最初になんて言おう。やっぱり、『お帰りなさい』かなあ。あーもう、ドキドキする。なんでもいいから、はやく出てきてよ。心臓が破裂しちゃいそうだ。
 そのとき。
 ゲートの奥に、黒いジャケットを着た男の姿がチラリと見えた。
 輝!
 詩音の心臓が、またドキーンと高鳴った。
 う、う、う、うそみたい。本当に輝だ。輝だよ。マジ? 本物だよね? これって夢じゃないよね? あわわわっ、どうしよう、どうしよう。こっちに歩いてくるぅ。
 輝も、出迎えに来てくれた詩音に気づいた。だが、彼女に手を振ろうと思ったところで、首をかしげた。
 なんだろう? 詩音、変な顔してるな。サングラスしてるから目は見えないけど、笑ってるのか泣いているのか、それとも笑顔が引きつってるのか。とにかく変な顔だ。
 輝は、詩音の前に立った。
「詩音。出迎えありがとう」
「あ……」
 詩音は、輝を見上げた。思っていたより背が高い。一七八センチの詩音は、男を見上げるという経験がほとんどなかった。
 輝は、疲れた顔と、さっきの係官との会話で害した気分を悟られないように、精一杯の笑顔を浮かべた。
「ごめん。待たせちゃったね。ゲートをくぐるのに手間取っちゃって」
 詩音は、輝の瞳に吸い込まれるような気がした。
 この笑顔…… この笑顔だ。
 詩音の脳裏に、子供のころの想い出が、まるできのうのことのように鮮明に蘇った。目の前の男は、紛れもなくあのときの少年だった。
「お帰り」
 詩音は、自然と口が動いた。心のそこから『お帰り』という気持ちだった。
「会いたかったよ…… 写真で見るより、ずっとカッコいいね」
「詩音もカッコいいよ。ふだんはサングラスしてるんだね」
「あっ」
 詩音は、あわててサングラスをはずした。
「ごめん、いつものクセで」
 輝は、詩音のブルーの瞳を見つめた。きれいだと思った。思わずその言葉が口をついて出そうになったが、彼女がいまでも自分の瞳にコンプレックスを抱いているのを知っていたから、その言葉は飲み込んだ。
「感激だな」
 と輝。
「ぼくなんかを、二十二年も待っててくれるなんて、夢みたいだ」
 詩音は、輝の言葉に少し緊張が解けて、くすっと笑った。
「なんだか、刑期を終えて出てきたみたいな言い方ね」
「ははは……」
 輝は、照れくさそうに頭をかいた。
「本当はね、もっと気の利いたセリフをいっぱい考えてたんだ。でも、詩音に会ったら、みんな忘れちゃった」
「あたしもよ。みんな忘れちゃった。でも、一番言いたかった言葉が言えた。あなたに、会いたかったって」
「うん。ぼくも」
 輝は、そう言って、ずり落ちてきたバッグの肩ひもの位置を直した。
「あ、ごめん! 重いでしょ、あたしが持つよ!」
 詩音は、あわてて輝のバッグに手を伸ばした。
「大丈夫だよ。気にしないで」
「ダメよ。フライトで疲れてるでしょ」
「女の子に荷物を持たせられないよ」
「女の子? あたしが?」
 詩音は、ポカンと口を開けた。
「あ、そうか」
 輝は、バツが悪そうに言った。
「ごめん、もう大人だよね」
「違うの。いえ、そうなんだけど…… 刑事になってから女の子なんて言われたことなかったから」
「そうか。特務課の刑事だ。ダメだな。なんか子供のころの記憶が抜けなくってさ」
「お互いさまね」
 詩音は、苦笑を浮かべた。
「あたしも、輝に会った瞬間、八歳だったあなたを思い出したわ」
「だってぼくは、いまでもカワイイ男の子のままだろ?」
「よく言うわ。じゃあ、あたしも、カワイイ女の子のままね」
「ぼくにはそう見える」
「あはは。そんなセリフ東京市警の連中が聞いたら、病院に連れて行かれて、脳みそをスキャンさせられるわよ」
「ふむ。これから現実のきみを知るのが楽しみだな」
「幻滅するかもよ」
「ぼくこそ――」
 輝は、そう言ったあと言葉を切った。
「ぼくこそなに?」
「いや」
 輝は、首を振って、また笑顔を浮かべた。
「さあ、そろそろ地球の空を見せてもらえないかな。フライト中、ずっと居眠りしていてまだ空を見ていないんだ」
「あの……」
 詩音は、困ったように言った。
「もう夜の九時すぎだから、青い空は見れないと思うけど」
「うっ……」
 輝は、ガックリと肩を落とした。
「青空は、明日までお預けか」
「これからは、毎日見れるんだからいいじゃない」
 詩音は、輝の腕を取った。
「さあ、行きましょ」

03-07

 輝は、詩音のホバーカーのトランクに、バッグを押し込んでから助手席に腰を下ろした。
「地球では、個人でホバーカーが持てるんだね」
「火星ではダメなの?」
 詩音は、キーを差し込んで、ホバーを始動させた。ふわりと車体が浮かび、停車用のタイヤが格納される。
「ああ。火星のドームは狭いからね。ひとつの大きさが、だいたい山手線の内側と同じぐらいなんだ」
 詩音は、アクセルを踏んで、ゆっくりと駐車場の出口にホバーカーを移動させた。
「山手線の内側と同じぐらいのドームなんて、けっこう大きいと思うけどな。大きさが想像できないくらいだわ」
「火星の面積からしたら、米粒みたいなもんだよ」
「人間に比べたら大きいわよ。ホバーカーがないと不便でしょ」
「代わりに、公共交通機関は発達してる」
「でも、やっぱり不便ね」
「そうでもないよ。タクシーはあるし。それに火星人は、みんな自転車を使うんだ。人力さ。健康的だろ」
「環境に配慮してるってこと?」
「それもある。核融合炉も完全にクリーンじゃないからね。でも、電力の消費量を減らすのが一番の目的だ。いまでは人口も増えて、三十六番目のドームが建造されているところなんだ。このままでは、電力供給が追いつかなくなる」
「なんで? 火星はヘリウム3の産地じゃない」
「採掘したヘリウム3は、ほとんど地球連邦が持っていく。火星に残るのは、全体の一パーセントもない」
「でも、すごい埋蔵量なんでしょ? もっと掘っちゃえばいいのに」
「そんなに簡単じゃないよ」
 輝は、笑った。
「ふうん…… じゃあ、太陽電池は?」
「火星は太陽から遠いから、十分な発電をするには、火星の表面積の半分ぐらいの大きなパネルを建造しなくちゃいけないんだ。非現実的だよ」
「つまり、エネルギー源は核融合だけなの?」
「そうだよ。地熱もないしね」
「地震もないってことね」
「そうだ。地球には地震があるんだった。怖いな」
「あはは。あたしが守ってあげるって」
「セリフが逆だなあ」
「か弱い女の子のままがよかった?」
「いいえ、頼りにしてますよ。よろしく」
「任せなさい」
 詩音は、笑いながら言うと、またマジメな顔に戻った。
「そう言えば、いままで、あんまり火星のこと話してくれなかったね」
「ほかに話したいことがあったからだよ。ドームの説明で、高い通信料金を無駄にしたくなかった」
「そりゃそうね。でも、何度か聞こうと思ったのよ。地球ではほとんど火星のことを報道してないし、インターネットで調べても、火星渓谷の観光ガイドぐらいしか出てこないんだもの」
「渓谷観光は、火星の重要な収入源だからね。あまりネガティブなことは伝えたくないんだと思うよ」
「そうかもしれないけど…… 地球の人は、もっと火星のこと知るべきだわ。観光地のことだけじゃなくね」
「ぼくもそう思う」
 輝はうなずいた。
 詩音は、駐車場のゲートにキャッシュカードを差し込んで料金を精算すると、ハイウェイに入る誘導ラインまでホバーカーを移動させた。誘導ランプがメーターパネルに点灯するのを待って、ハンドルから手を離した。ホバーカーは、自動運転に切り替わった。
「すごいね。これ、自動で動くんだ」
 と輝。
「そうよ。一番安全。居眠りだってできるわ」
 詩音は、笑った。
「ねえ輝。いま、浦島太郎の気分なんじゃない?」
「ああ…… 本当に地球は変わったね」
 輝は、考え込むようにうなずくと、窓の外を流れる夜景に視線を移した。二百階以上ある巨大なビルがどこまでも続いていた。
 詩音は、冗談のつもりで言った言葉に、輝が深刻に反応したのであわてた。
「だ、大丈夫よ。すぐに慣れるわ。いまは、久しぶりの地球を楽しんで。ね」
 輝は、反応しなかった。
「ねえ、輝…… 笑ったのが気に障った?」
 詩音は、輝の腕に、軽く手を乗せた。
 窓の外を見ていた輝が、詩音をふり向いた。
「え? ごめん、聞いてなかった」
「あたし、気に障ること言った?」
「なにが? ああ…… 違うよ。ちょっとコールドスリープの影響でぼーっとしてるんだ。あと二日ぐらいで治る…… ああそうだ。チクショウ」
「な、なに?」
「今夜、きみと再会の乾杯をしたかったな。おいしい地球産のワインでさ。でも、コールドスリープの影響が残っているうちは、アルコールはあまり飲んじゃダメなんだって」
「あら、それは残念」
 詩音は、輝の口調がもとに戻ったので、ホッとしながら言った。
「なんてね。ちゃんとネットでコールドスリープの後遺症は調べたわ。あなたがお酒を飲めない間は、あたしも禁酒に付き合ってあげる」
「ぼくのことは気にしないで―― と、いいたいところだけど、目の前でお酒を飲まれたら、たしかにキツいな」
「あはは。これからはずっと一緒なんだから、焦ることないわ。ワインだってビールだってウィスキーだって、いつでも好きなときに二人で飲めるんだもの」
「そうだね」
 と答えた輝は、あくびをかみ殺した。
「きみの家、どのくらいで着くの?」
「あたしたちのよ」
「え?」
「あたしのアパートは、これからは輝の家でもあるってこと」
「ああ…… そうだね。そうだった」
「あと二十分ぐらいよ」
「着くまで少し横になっていいかな。なんだか、急に眠くなってくるんだ」
「それもネットで調べたわ。断続的に眠気に襲われるって。気にしないで休んで」
「ありがとう」
 輝は、シートの背を倒して、目を閉じた。
 詩音は、そんな輝を見つめた。ふいに、たまらなく彼を抱きしめたい衝動に駆られた。三ヶ月のコールドスリープは、本当につらかったに違いない。そのうえ、二十二年ぶりの地球に対する戸惑い。しかも彼の家族は…… この地球にはいない。
 ねえ、輝……
 と詩音は、寝息を立てはじめた輝に、心の中で語りかけた。
 あたしね、いまあなたに抱かれたいと思ってる。それが、すごくうれしい。あなたに見つめてほしい。抱きしめてほしい。あたし、やっぱりあなたのことが好きだったんだ。この気持ちはぜったい本物よ。

03-08

「輝。輝……」
 輝は、また身体を揺すられるのを感じて目を覚ました。
「うん…… 着いたのかい?」
「ええ」
 詩音は、心配そうに輝の顔をのぞき込んだ。
「平気? 起きれる?」
「大丈夫だよ」
 輝は、シートの背をもとに戻した。
「なんだか、いくら寝ても眠いなあ。三ヶ月も眠ってたはずなんだけど」
「コールドスリープは、睡眠とは違うらしいわよ」
 詩音は、ホバーカーから降りた。トランクを開けて、輝のバッグを出す。かなり重かった。
 輝も外に出た。地下駐車場なんだな、と思った。
「持つよ」
 輝は、詩音の出したバッグに手を伸ばした。
「ダーメ」
 詩音は、バッグを輝から遠ざけるように、肩にかけた。
「このくらい、あたしにもやらせて」
 詩音は、キーのボタンを押して、ドアをロックした。
「あたしの部屋は、五階よ」
 詩音はエレベーターに向かった。地下駐車場のエレベーターは、パスワードロックされていた。詩音はキーカードを差し込んで暗証番号を打ち込んだ。ケージが降りてくる。
「ああ、ヤバイ。詩音。どうしよう」
 エレベーターを待っている輝が、突然困ったように言った。
「どうしたの? やっぱり具合が悪い?」
「違う。こんな時間にお腹が減ってきちゃったよ。なにか食べるものある?」
「もう~ 脅かさないでよ」
 詩音が、輝に文句を言うと、輝は、ごめんごめんと照れ笑いを浮かべて頭を掻いた。
「プッ」
 と詩音は噴き出した。
「輝って、なんかカワイイ」
「言ったな。ぼくは本当はすごくカッコいい男――」
 そのとき、輝のお腹がぐうっと鳴った。
「あははは!」
 詩音は、腹を抱えて笑った。
「もう、タイミングよすぎ!」
「くそう。身体は正直だな。なんとか汚名挽回しなければ」
「それを言うなら、汚名返上よ。挽回するのは名誉にしていただきたいわ」
「あっ…… そうか。日本語を使うの久しぶりなんで間違えた」
 事実だった。火星の公用語は英語だ。
 エレベーターが降りてきた。ドアが開く。二人はケージに乗り込んだ。数秒で五階に到着した。ドアが開く。詩音は、エレベーターのオープンボタンを押して、輝を先に降ろした。そして、廊下の突き当たりの自分の部屋へ向かった。
「輝のカッコいいところは、あとで、ゆ~っくり見せてもらうわ。それよりいまは、燃料補給が緊急課題ね」
「うん。シャトルで機内食を食いそびれた。まあ、起きてても、食べられなかったかもしれないけど」
「どうして?」
 詩音は、ドアの隣のカードリーダーに、キーカードを差し込んで、四桁の暗証番号を打ち込んだ。カチャリと鍵の開く音がした。
「食欲がなかったのさ」
 と輝。
「よかったわ、食欲がでてきて」
 詩音は、ドアを開けた。
「さあ、どうぞ。今日からあなたのうちだから、遠慮しないでね」
「ありがとう」
 輝が先に玄関に入った。すると、自動的に部屋の照明がついた。輝は、そのまま上がり込もうとしたが、すぐに日本風に靴を脱いで上がる部屋なのだと気がついた。真新しいスリッパが、輝を出迎えるように置いてあった。
「そのスリッパ、あなたのよ」
 と後ろから促されて、輝はスリッパを履いて部屋に入った。
 詩音は、ドアをロックしてから輝のバッグをソファの上に置くと、コートを脱いでキッチンのいすに引っかけた。
「さーて」
 詩音は、腕まくりをした。
「詩音特製のスパゲッティでも作りますか」
「手伝うよ」
「いいわよ。そのうち遠慮なく家事を頼んじゃうと思うけど、のんびりしてて」
「じゃ、今日はお言葉に甘えるよ」
 まだ他人行儀ね。と、詩音は思ったが、口には出さずに笑顔を浮かべた。
「そうそう。ベッドルームのクローゼット、右側を空けておいたわ。そこを使って」
「ありがとう」
 詩音が冷蔵庫を開けて料理をはじめたので、輝は、改めて部屋を見渡した。女性の部屋という印象はあまりなかった。簡素だ。淡いクリーム色の壁には温かみがあったが、生活に不必要なものはなにもなかった。花瓶も、壁に飾る絵も、フォトスタンドも。
 輝は、バッグを持って、ベッドルームと思われるドアを開けた。正解だった。そこもリビングとたいして変わらず、簡素だった。だが、化粧台があるところが女性の部屋であることを主張していた。そして、コンピュータが置いてある机には、フォトスタンドがあった。詩音が子供のころ両親と撮った写真と、警察学校を卒業したときのパーティーと思われる写真が飾ってあった。輝は、詩音が子供のころの写真を手にとった。カワイイ女の子だった。この子が将来、刑事になるなんて親は想像もしなかっただろう。
 輝は、フォトスタンドを戻すと、クローゼットを開けた。詩音が言うとおり、右側が空いていた。輝はバッグをそのまま置いた。中身を整理する元気はなかった。
 リビングに戻りかけたとき、輝はふと、ベッドを見た。セミダブルだった。問題は、ベッドがそれひとつだということだった。ぼくはどこで寝たらいいんだろう。リビングのソファは、ベッドとして使えるだろうか?
 ところが、まくらが二つ並べてあった。べつに一人でまくらを二つ使うのは珍しくないが、そのひとつは、明らかに新品だった。詩音がいつも使っているほうは、少しへこんでいたが、もう一つはふっくらと丸かった。
 輝は、詩音がなぜ、自分でベッドルームに案内しなかったのかその理由がわかった気がした。これを見て『察して』ほしかったに違いない。
 でも……
 と輝は不安を感じた。もしも、ぼくの勘繰りすぎだったらどうしよう?
 輝は、軽く首を振った。
 お互いもう子供じゃないんだ。このシチュエーションで、ソファで寝るなんていったら、かえって彼女を傷つけることになる。そんな気がした。
 そのとき。
 そうだった……
 輝は、詩音のためにプレゼントを買ってきたことを思い出した。
 まだボケてるな。
 輝は苦笑しながら、またクローゼットを開けて、バッグから細長い箱を取り出した。ネックレスだった。高価なものではない。
 こんなもので、喜んでくれるかわからないけど……
 輝は、ネックレスの入った箱を持ってベッドルームを出た。そして、キッチンで野菜を切っている詩音に声をかけた。
「荷物、置かせてもらったよ。整理は明日やる」
「それがいいわ」
 詩音は、まな板から目を離さずに答えた。野菜を切りながらドキドキしていた。詩音なりに、覚悟を決めていたのだ。
 枕には気づいてくれたかしら?
 二十二年間の想いに自信が持てなくなっていた。そんな自分を否定しながら、新しい枕を用意した。用意しておいてよかったと思った。彼に抱かれたいと思っている自分がいるからだ。
 ねえ、なにか言ってよ。
 詩音は、輝にテレパシーを送るように念じた。
 まくらに気がつかなかったの? たとえそうだとしても、男と女なんだから、ベッドがひとつしかない意味はわかってるはずよ。そうでしょ?
 でも…… やっぱり、あたしから言ったほうがいいのかな。輝が、変に気を回さなくていいように。
 詩音は、マッシュルームを切りながら、やはり顔を輝に向けずに言った。さりげなく。当たり前のことを言うように。
「ごめんねえ、ベッド狭くて」
 ダイレクトすぎたかしら。と、言ったあと後悔したが、もう遅かった。
 あ、やっぱり。
 と輝は、自分の推測が正しかったことを確信した。顔を向けないのは、彼女も恥ずかしいのだろうと思った。だが、なんと答えていいかわからなかった。よし。言葉が浮かばないなら、態度で示そう。輝は、そう思って、リボンのついた包装をそっとやぶり、中からネックレスを出した。
 詩音は、困惑していた。
 なんでよ。なんで、なんにも言ってくれないのよ。どうしよう。あたしと寝るのイヤなのかな。だったら、そう言えばいいのに。それとも、下品な女だと思われた? いま、輝はどんな顔してるんだろう。見たいけど、怖くてふり返れないよ。
 詩音は、いつの間にか、野菜がどんどん細かくなってるのに気づいた。
 ああもう、変なこと考えてるから切りすぎちゃったじゃない。輝のバカ。
 詩音は、フライパンにオリーブオイルを引き、その中に細切れにしてしまった野菜を入れた。
 そのとき。
「詩音」
 輝が、彼女のすぐ後ろで声をかけた。
「キャッ」
 詩音は、小さな悲鳴を上げて、輝をふり返った。
「ビ、ビックリした」
「あ、ごめん。脅かすつもりじゃなかったんだ」
 ジューッと野菜に火が通る音が聞こえてきた。
「おいしそうだね」
「そう?」
 詩音は、また輝に背を向けて、フライパンの野菜をヘラでかき混ぜた。
「まだ、わかんないわよ。これから、変なものになったりしてね」
 輝は、その言葉には答えず、詩音を後ろから抱きしめた。
「あっ……」
 詩音は、身体を硬直させた。
 や、やだ、どうしよう。こんなとき、どんなリアクションすればいいわけ? わかんないよ。でも、あたしと寝るのはイヤじゃないってこと? そうよね?
 つぎの瞬間、詩音は、首のあたりから銀色のチェーンが下がってくるのに気づいた。チェーンの先には、火星の大地のように、赤銅色の石がはまっていた。
「プレゼント」
 と輝は、ネックレスのホックをはめながら言った。
「火星にしかないマーズ・ストーンという宝石なんだ。隕石の落下の圧力で形成された石らしいよ」
 詩音は、輝をふり返った。
「もう…… 輝ったら、さっきからあたしのことビックリさせてばっかり」
「少しは名誉挽回できたかなぁ」
「だいぶ挽回したわ」
 詩音は、笑顔を浮かべてネックレスの宝石を手にとった。
「きれい。火星の色ね。高かったんじゃないの?」
「高かった。と言いたいところだけど、それほどでもないんだ。火星ではポピュラーな宝石だから」
「でもうれしい。ありがとう」
「よかった。喜んでもらえて」
「あなたに、プレゼントをもらったのは二回目ね」
「もしかして、ビー玉のことを言ってるの?」
「そうよ。覚えてた?」
「もちろんだよ」
「あのビー玉。あたし、まだ持ってるのよ」
「ホントに?」
「うん。あたしの大事な宝物だもの」
「なんか、うれしいなそれ」
 輝は、にっこりとほほ笑んだ。そして詩音の腰に手を回した。
 詩音は、ドキンとなって、輝を見上げた。
 ここで目を閉じれば、きっと……
 詩音がそう思ったとき。焦げ臭い匂いが漂ってきた。フライパンから、煙が出ていた。
「きゃーっ!」
 詩音は、閉じかけた瞳を開くと、あわててフライパンを電磁プレートから遠ざけた。
「輝ぅ」
 詩音は、恨めしそうな声で言った。
「やっぱり、名誉挽回はまだ先かもよ」
「うん」
 輝は苦笑した。
「いま、自分でもそう思った」

03-09

 キッチンにあるテーブルは小さく窮屈な感じがしたが、向かい合って座る輝が、すぐ近くに感じられて、詩音はうれしかった。だが、特製スパゲッティーは、少しだけ焦げ臭かった。
「おいしいよ。うん。おいしいです」
 とスパゲッティーを口に運ぶ輝が言った。
「無理しなくていいよ」
 詩音は苦笑した。
「ほんとだってば。ちょっと焦げてるけど、そこがまたなんともかんとも」
「なんともかんとも?」
「おいしいのですよ、はい」
「ありがとう」
 詩音は、くすくすと笑い声をあげた。
「いやマジで」
 と輝。
「焦げてるのはともかく、感激だよ。火星では野菜は貴重品だから、あんまり食べれないんだ。合成品ばかりなんだよね」
「そうなの? ちゃんと、栽培してるって聞いたけど」
「観光客用にはね。でも火星の住人に供給するためにはエネルギーが足りないんだ。地球の植物を栽培するには、もっと光が必要だ」
「もっと、火星に発電所を造ればいいのに」
「そのためには、ヘリウム3をもっと火星に残さないとダメだ」
「地球が電気を使いすぎるのね」
「そう。火星はまるで植民地…… って、こんな話はやめよう。せっかくのスパゲッティーがマズくなる」
「そうね……」
 詩音は、なんとなく胸が締めつけられた。この人は、火星でどんな苦労をしてきたんだろう。
「じゃあ、明日からは、野菜をいっぱい使ってあげるね」
「うれしいなあ。詩音、料理が得意なんだね。ちょっと驚いた」
「あ~ら、なんで驚くのかしら?」
「いや、だって、その…… 料理なんかしてる暇はなかったのかなと思ったから」
「刑事だから?」
「うん」
「そんなことないわ。たしかに楽な職場ではないけど、ずっと独り暮らしだから、このくらいできるわよ」
「そうか。尊敬しちゃうな。ぼくも独り暮らしだったけど、料理はからっきしダメでね。才能がないらしい」
「そう言えば……」
 詩音は、輝とのメールを思い返した。火星の現状はともかく、彼の生活ぶりも、あまり聞いたことはなかった。
「輝は、いつから独り暮らしなの?」
「うん……」
 輝は、スパゲッティーを食べる手をとめて、水をひとくち飲んだ。
「話さなきゃって思ってたんだけど、つい、言いそびれていたことがあるんだ」
「なに?」
「父は…… 火星に着く前に死んだ」
「えっ!」
 詩音は、いすから飛び上がらんばかりに驚いた。
「火星に着く前って、どういうこと?」
「コールドスリープ装置の故障だった。事故さ」
「ホントに? なんで教えてくれなかったの?」
「心配させたくなかったんだよ」
「でもだって…… 輝がメールをくれたときには、もうお父さん亡くなってたってことじゃない」
「うん。それもあって、言いそびれてた。ぼくにとっては、もう気持ちの整理がついてたことだから」
「ひどいわ。そんな大事なこと黙ってるなんて」
「ごめん。隠すつもりはなかったんだ。本当だよ。言いづらかっただけなんだ」
「そりゃそうかもしれないけど…… 話してほしかった」
「本当にごめん」
「許してほしい?」
「ああ」
「じゃあ、いますぐ、あなたのこといっぱい話して。あたしの知らないこと全部」
「なんだか、警察の取調室みたいだな」
「茶化さないでよ」
「詩音。ぼくの母がどんな仕事をしてたか知ってる?」
「え? ええ。科学者だったのよね」
「そう。生化学者だよ。母は火星環境に適応する植物の研究をしていた。連邦安全保障局の依頼でね。研究が成功すれば、ドームの中じゃなく、火星の大地に植物を移植することができるはずだった。それが母の夢だったんだ。だから父は、母が死んだあと火星への移民を決めた。母の研究データを火星の大学で生かしてもらうために」
「子供のころ、ちょっとそんな話をしてくれたわね」
「そうだったかな?」
「ええ。あたしもハッキリ記憶してるわけじゃないけど…… あなたと別れた日に。でも、やっとわかったわ。なぜ火星に行ったのか。それで研究はどうなってるの?」
「中止さ」
「なぜ? すばらしい研究だと思うけど」
「父の持っていた研究データは、連邦の公的研究所から持ち出されたものだ。まあ、正確には母が自宅に置いておいたものだけど。それでも研究データを盗んだことになるらしい。だから連邦捜査局に没収された」
「なにそれ。ひどい話……」
「どのみち、母の研究は失敗だったそうだよ。だから中止された」
「そのあとどうしたの?」
「なにが? 研究が?」
「違う。輝がよ。お父さんが亡くなったあと」
「ああ……」
 輝は、一瞬言いよどんでから、肩をすくめて言った。
「お定まりさ。火星についてすぐ、施設に引き取られた」
 輝はそれだけ言うと、またスパゲッティーを食べはじめた。
「それで?」
 と詩音は、先を促した。
「それだけさ」
「それだけってことはないでしょ。ちゃんと話してよ」
「だったら言うけど、ぼくも、詩音のこと全部知ってるわけじゃないよ。とくに仕事の話題は避けてるみたいだったね。無理には聞かなかったけど、ぼくは特務課のこと、自分で調べたよ。かなり危険な仕事みたいじゃないか」
「それは、あなたに心配させたくなくて……」
 詩音は、そこまで言うと、手をあげた。
「オーケー。降参。お互いに気を使いすぎてたみたいね。今夜はこの話はやめましょう。あなたが疲れてるの忘れてたわ」
「いいんだ。詩音の料理で、だいぶ元気になった。焦げてるのが効いたな」
 輝は、空になったお皿を持って立ち上がった。
「シンクに置いといて」
 と詩音。
「いや、洗っとくよ」
 輝は、詩音のキッチンに食器洗い機がないことに気づいていた。
「いいってば」
 詩音も立ち上がった。
 輝は、詩音を無視して、蛇口から水を出した。
「ねえ、ホントに、そのままにしといてよ。ねえったら」
 輝は無言でスポンジに洗剤をつけた。
「意外に頑固ね」
 詩音は、タメ息をついた。
 輝は、水をとめた。そして、詩音と同じようにタメ息をついた。
「ごめん。なんだか、いろいろあって、少し気が高ぶってたみたいだ。もしかしたら、自分で思ってる以上に、父のことは思い出したくないのかもしれない」
 詩音は、輝の言葉を聞いた瞬間、彼の気持ちを考えていなかった自分に気がついた。母親を事故でなくし、そして父親までもこの世を去った。彼は地球でひとりぼっちなのではなく、この宇宙でひとりぼっちなのだ。彼が地球に帰る決心をしたのは、父親の死と無縁ではないだろう。家族のいない星よりも、自分のルーツの星に…… いいえ、母親の眠る星に帰りたかったに違いない。詩音はそう思った。
「輝……」
 詩音は、水のたまったお皿を見つめている輝の背中に言った。
「謝るのはあたしだわ。無神経だった。こういうの苦手なの。どう言っていいか、わかんなくって」
 しばらく二人の間に、沈黙が流れた。
 やがて輝が、笑顔を浮かべて、詩音を見た。
「じゃあ、こうしようよ。お互い話したい気分になったときに、ゆっくり自分たちのことを話そう」
「ええ」
 詩音も笑顔を浮かべた。
「とってもいい解決方法だと思うわ」
 そうよ。と、詩音は心の中でうなずいた。焦る必要はないのよね。彼との距離は、もうない。手を伸ばせば触れることのできる場所にいる。
 ん? 触れられる?
 詩音は、さっき野菜を焦がしたときのニアミスを思い出した。
 もしかして、いまチャンスなんじゃない?
「ねえ、輝…… さっきさ」
 詩音は、輝ににじり寄った。
 そのとき。
「あっ!」
 と輝が叫んだ。
 ビクッとなる詩音。
「そうだ。ぼくは日本のローカルニュースを見たかったんだ」
「ニュースですって?」
「そうだよ。うん。コールドスリープのせいで、すっかり忘れてた」
 輝は、そそくさとキッチンを出て、リビングのテレビのスイッチをつけた。
 あのーっ!
 と詩音は心の中で叫んだ。
 ほかにも忘れてることがあるんじゃありませんか!
 詩音は、ちょっとムッとしながら、テレビを眺めている輝に言った。
「なんでニュースなんか見たかったのよ」
「日本のローカルニュースがだよ。アメリカのは火星にも配信されてるけど、日本のはめったに見れないからね。わぉ。ニュースイレブンってまだやってたんだ。すごい長寿番組だねえ。さすがにキャスターは変わってるけど」
「そ、そうね」
 詩音は、口元がピクピクと痙攣した。
 なによなによ。コールドスリープで疲れてると思ったのに、けっこう元気じゃない。そんなに元気なのに、あたしより、ニュースキャスターを見てたほうがいいってわけ?
 詩音は、そう言いたくなるのをぐっと堪えた。
 くそう。こうなったら、作戦変更よ。そうよ。あたしだって捨てたもんじゃないんですからね。見てらっしゃい!
 さっき、自分の気持ちばかり押しつけたことを反省したことは、すっかり忘れている詩音だった。
「ねえ輝ぅ」
 詩音は、猫なで声を出した。
「あたし、先にシャワー浴びちゃうね」
「どうぞ。えっとニュース専門チャンネルは――」
 輝は、チャンネルを変えようとしていた手が止まった。二秒ほどのタイムラグがあってから、シャワーという言葉が脳細胞に届いたようだった。
 詩音は詩音で、言ったあと、急に恥ずかしくなって逃げるようにバスルームに入った。
 またドキドキしてきた。どーしよう。うれしいんだか怖いんだかわかんないよ。女子高生じゃあるまいし、二十九にもなって、なにやってんだかあたしは。でも、でも、はじめてなんだから、しょうがないじゃない!
 詩音にとっては、本当にはじめてのロマンスだった。犯人を逮捕するときとぜんぜん違う、不思議と心地よい緊張感。
 あー、もう。こうなったら、やるっきゃない。ファイトよ詩音。がんばれ。
 詩音は、意を決して服を脱いだ。あまり色気のないスポーツブラもはずす。ふと、洗面台の鏡に映った自分のヌードを見た。スタイルには自信があった。やや筋肉質だが、それは適度なトレーニングの結果であり、けっしてボディビルダーのような異常な筋肉ではなかった。
 ところが詩音は、自分の裸を見て意気消沈した。昼間、強盗犯人に受けた銃弾の跡が、少しあざになっていた。防弾チョッキを着ていても、銃弾の威力を完全に消すことはできない。詩音は婦人警官にもらった、傷を隠すシートをこのあざにも貼らなかったことを後悔した。
 どうしよう。あざの理由を聞かれるかな? 聞かれるよね。犯人に撃たれたなんて言いたくない。輝に嫌われちゃう。
 ダメダメ!
 詩音は、髪の毛が乱れるほど激しく首を振った。
 なに弱気になってんのよ。この身体はあたしの誇りよ。あたしはあたし。これは変えられない。もしそれで嫌われたら…… ふん。そのときは、こっちから輝なんか振ってやる。

 輝は、テレビのスイッチを切った。
 まいったな。マジで疲れてるんだけど…… まあ、ちょっと疲れてるぐらいのほうが燃えるしな。詩音って、けっこう胸がありそうだし、スタイルもいいし…… って、なにを不純なことを考えてるんだぼくは。詩音にとっては、大切な夜なんだから、マジメになれ。
 輝はソファから立ち上がって、ベッドルームに入った。ベッドに腰掛ける。
 新しい下着を出さなきゃ。
 輝はそう思ったが立ち上がらなかった。急に気力が萎える。
 やばい…… また眠気が……
 だが、空腹が満たされたあとの睡魔はすさまじかった。輝は、意志に反して、パタリとベッドに倒れた。
 ダメだ。いま眠っちゃダメだ。詩音が……

 詩音は、バスタオルを巻いた姿でバスルームから出た。リビングに輝はいなかった。一瞬ホッとしたが、敵はベッドルームに入ったことは明らかだった。詩音は、ゴクリとつばを飲みこんで、ベッドルームのドアを開けた。
「輝?」
 詩音は、ベッドで横になっている輝に声をかけた。
 返事はない。
 詩音は、そっとベッドに腰をかけて、輝の肩を軽く揺すった。
「ねえ、輝」
 反応はなかった。輝はすでに、軽い寝息を立てていた。
「も~う、なによそれ、信じらんない」
 詩音は、一気に脱力した。
「あたしのやる気を、どーしてくれるのよぉ。バカ。バカバカバカ」
 あーあ。なんかホント、バカみたい。
 詩音はタメ息をついた。ホッとしたような残念なような複雑な気分だった。
「もう。しょうがないなあ、服のまま寝ちゃって」
 詩音は、輝の靴下を脱がすと、ちょっとためらってからズボンのジッパーを降ろして、ズボンも脱がした。シャツも脱がす。Tシャツはそのままにしておいた。
「はーい。いい子ちゃんね。ちゃんと寝ましょうね。風邪引いちゃうよ。うっ、さすが背が高いだけあるわね。けっこう重いわ」
 詩音は、輝をベッドの右わきに移動させた。
「まったくもう。まだ、キスだってしてないのに…… コールドスリープの影響じゃなかったら、銃殺もんよ」
 詩音は、輝のほっぺたを、ぷにっとつついた。輝は、うーんとうなって寝返りを打った。なんかカワイイかも。と、詩音は思った。そして自分も寝間着に着替えると、リビングの電気を消してから輝の隣に滑り込んだ。
「今夜は、これで許してあげる」
 詩音は、輝のほっぺたに軽くキスをした。そして詩音は、輝の背中にくっつくように寄り添った。彼の背中は暖かかった。それだけで詩音は幸せな気分になった。
 ねえ輝。
 詩音は、心の中で語りかけた。
 明日、晴れたらいいね。
 お休み……


04

04-01

 輝は、光を感じて目を覚ました。部屋いっぱいに太陽の光が満ちていた。詩音が、窓際に立ってカーテンを開けていた。彼女の着ている薄いセーターは、太陽の光を受けて、うっすらと透けて見えた。
 朝?
 輝は、ぼんやりとそう思ったあと、昨夜、不覚にも急な睡魔に負けたことを思い出して、ガバッとベッドから飛び起きた。
「あ、起きた?」
 詩音はふり返った。
「あ、あの、その」
 輝はドモった。
「ご、ごめん! 詩音を待ってたら、急にまた眠くなっちゃって」
「わかってるわよ」
 詩音は苦笑した。
 輝は、まぶしそうに目を細めた。太陽の光を浴びて、詩音がシルエットになっていた。
「きれいだ」
「うん。今日はとってもよく晴れたわ。あなたが見たがってた青い空よ」
「違う。きみがだよ」
「やだわ輝ったら」
 詩音は笑った。
「きのうの罪滅ぼしのつもり?」
「ち、違うよ。本当にそう思ったから」
「はいはい。まだ、寝ぼけてるのね。よく寝てたから起こさなかったけど、もうお昼よ」
「寝ぼけてなんか…… えっ、お昼? ホントに? すごいな、十二時間も寝ちゃったのか。最高記録だ」
 輝は、頭をぽりぽりかきながらベッドから出た。
「お昼食べられそう?」
 詩音が聞いた。
「ああ、もうすっかり回復したよ」
「よかった。じつは、ちょっと早起きしてがんばっちゃったんだ。今日は焦げてないわよ」
「楽しみだ。その前に、シャワーを浴びていいかな?」
「自分の家なんだから、遠慮しないで」
「そうだった。じゃあ、そうさせてもらう…… じゃなくて、そうする」
「その調子よ」
 詩音は、ニコッと笑ってベッドルームを出ていった。
 ふう。と、輝は息をついた。
 よかった。詩音、怒ってないみたいだ。
 輝は、クローゼットのバッグから、圧縮パックをひとつ取り出した。中に下着が入っていた。圧縮パックのクランプをはずすと、シュッと空気が入って、下着が数倍の大きさに復元した。そのとき輝は、自分がズボンをはいていないことに気がついた。詩音が脱がしてくれたに違いなかった。
 やれやれ…… 情けない。
 輝は、苦笑を浮かべると、ベッドサイドに畳んであるズボンと新しい下着、そして歯ブラシやシェービングセットの入った小さなポーチを持ってベッドルームを出た。リビングには、いい匂いが漂っていた。野菜を煮込んでいる匂いだった。詩音がキッチンで鍋の様子を見ていた。輝は、鍋の中身を見てみたい誘惑にかられたが、がまんしてバスルームに入った。
 洗面台の鏡に顔を映した。少し無精ひげが伸びていた。まだ少し目の周りがはれぼったい感じがしたが、風邪を引いて熱を出したときのようなダルさはとれていた。関節の痛みもない。順調に回復しているようだ。
 洗面台には、歯ブラシが二つ入ったプラスチックのコップが置いてあった。白と青。青い方は明らかに新品だった。輝は、詩音の細かい気遣いに感謝しながら、彼女の用意してくれた歯ブラシで歯を磨いた。新しい歯ブラシを使うのは気分がよかった。口の中がスッキリしたあと、熱いシャワーを浴びて、ひげを剃った。輝はやっと、本格的に目覚めたという気がしてきた。
 バスルームから出ると、テレビがついていた。輝が見たがっていた、日本のローカルニュース局だった。ニューヨークの連邦議会議事堂前からの中継が映っていた。女性のレポーターが、三日後にはじまる連邦議会の議題について解説していた。日本の議員は、連邦政府の金融政策に反対する意向だと伝えていた。
 輝は、テレビをちらっと見てからベッドルームに入った。バッグから新しいシャツの入った圧縮パックを出して、中身を復元させる。五枚ほどある中から、薄いあい色のデニムシャツを選んでシワ取りのスプレーをかける。
 着替えを終えた輝は、リビングに戻って、ソファテーブルの上のリモコンでテレビを切った。
「あら。見たかったんじゃないの?」
 キッチンテーブルに料理を並べている詩音が言った。
「いいんだ。テレビを見ながら食事をするのはよくない」
「そうね。これから気をつけるわ」
「いつも、テレビを見ながら食事してた?」
「ええ」
 詩音は苦笑しながらうなずいた。
「ずっと独りだったからね」
「じつは、ぼくもさ」
 輝は、キッチンテーブルのいすに座った。そして、皿をのぞきながら聞いた。
「おでん?」
 チキンやニンジンなどが入っていたが、ダイコンが一番目についたからだった。
「うふふ」
 詩音は、得意気に言った。
「そう思ったら大間違い。ダイコンのポトフよ」
「ダイコンのポトフ?」
「珍しいでしょ。あたしのレパートリーの中で、一番好きな料理なんだ。すっごくおいしいんだから。さあ、召し上がれ」
「いただきます」
 輝は、まずスープを飲んだ。
「う、うまい……」
「でしょ、でしょ!」
 詩音は、うれしそうに言った。
「このスープ透明でしょ。アク取りを丹念にやらなきゃ、こうならないんだよ」
「そうなんだ。へえ」
 輝は、スプーンでダイコンを一口大に切って口にほうり込んだ。ダイコンのほのかな苦みが、鶏ガラのスープと意外なほどマッチしていた。
「すごい。おいしい」
「からし」
 と詩音は、からしの入ったチューブを、輝の方へ押しやった。
「和がらしをちょっとつけて食べてみて。おでんみたいに」
 輝はそうした。これがまた、おいしかった。
「まいった。降参だ。もう言葉がないよ。いったい、だれに教わったんだい?」
「あたしのオリジナル。って、言いたいところだけど、警察学校の寮にいたとき、まかないのオバサンに教わったの。ずっと鍋を見てなきゃいけないけど、基本的に煮込むだけだから、簡単なのよね」
「そのオバサンに感謝」
「あたしには?」
「大感謝」
「よろしい」
 詩音は笑った。輝が会話もそこそこに料理に夢中になってるのがうれしかった。
 食事が終わって、輝が食器を洗うと申し出たのを詩音は断らなかった。
「ねえ輝」
 詩音は、食器を洗っている輝に言った。
「今日はどうする? 日本のローカルニュース局見てる?」
「いや、そろそろ出かけなきゃ」
「えっ?」
 詩音は驚いた。意外な言葉だったからだ。
「出かけるって、どこへ?」
「帰還局だよ。IDカードをもらってこないと。三日以内に行けばいいことになってるけど、早いに越したことはない。IDカードがない人間なんて、東京シティでは幽霊みたいなもんだからね」
「ああ、そうか。市民登録が完了してなかったわね。オーケー。面倒なことはさっさと済ませちゃいましょ」
「悪いね」
「なにが?」
「面倒に付き合わせちゃってさ」
 詩音は軽くタメ息をついた。火星からの帰還者の市民登録には、身元引受人が同行して、サインをする必要があった。
「あのね輝。べつに怒ってるわけじゃないけど、ひとつだけ言わせて。面倒って言ったのは、役所に対してよ。あなたが地球に帰って来ることは、あたしにとって、とてもとてもうれしいことなの。そのために必要なことは、どんなことだって喜んでやるわ。つまり、あなただけの問題じゃないってこと」
「わかってる」
 輝は、最後の食器を乾燥棚に移してふり返った。
「それでも、きみには感謝しているってことさ」
「三つ子の魂百までもって言うけど、そういうところ、ぜんぜん変わってないわね。悪いことじゃないけど、ちょっと人に気を使いすぎるよ」
「そうでもない。ぼくは変わった」
「どんなふうに?」
「カッコいい男になったろ」
 輝はおどけた調子で言った。
「そうね」
 詩音は笑った。
「そういうことに、しといてあげる」
「ありがとう。じゃあ行こうか」
「ええ。喜んで、面倒なことにお付き合いしますわ」
「詩音も変わったね」
「いい女になった?」
「皮肉がうまくなったよ」
「だれのせいよ」
「はいはい。そういうことにしておこう」
 輝は笑った。
 詩音も釣られて笑った。

04-02

「寒いけど、気持ちがいい」
 ホバーカーの助手席で輝が言った。
「そうね」
 詩音は、新宿エリアにある帰還局にハンドルを向けながら応えた。
「これでも十一月にしては暖かい方よ。これから、どんどん寒くなるわ。コートは持ってきてる?」
「いや、あまり厚手のは持ってない」
「でしょうね。あとで買いに行きましょ」
「そうだね。二十二年ぶりの冬支度をしなきゃ」
 帰還局には、十五分ほどでついた。
 それは、東京シティオフィスと同じ建物の中にあった。二十世紀に新宿に移転された東京都庁は、建てられた当時は高層ビルであったが、ぞくぞくと建て替えられた新宿高層ビル群の中にあって、高さでは見劣りするようになっていた。そこで東京シティは、東京都が市になったのを機に旧都庁を二百二十階建てのシティオフィスとして建て替えた。過去の威信を取り戻すかのごとく、東京シティでももっとも高いビルに返り咲いた。
 東京シティオフィスと同じ敷地内の別棟に、詩音の勤務地である東京市警のオフィスもあった。詩音にとっては、通い慣れた道だったのだ。
 輝の市民登録は、二時間以上かかった。最初に行われたのは、本人を確認するDNA検査だった。輝は血液を採取され、火星で採取されたそれとの比較された。もちろん問題はなかった。その後、詩音が最終的な書類にサインをすると、輝は別室に移されて顔写真を撮られた。そして一時間もあるビデオを見させられた。その内容に、輝はうんざりした。駐車違反はやめましょう。ゴミは分別して出しましょう。お年寄りには席を譲りましょう。まるで、子供相手のビデオだと思った。
 ビデオが終わると、係官がやってきて十五分ほど口頭で注意事項を述べた。社会保障の説明が主だった。保険料の支払いは、半年間免除されるらしかった。輝は半ば上の空で説明を聞いた。あらかじめ携帯端末にダウンロードしておいた行政サービスのパンフレットに書いてあることと、ほとんど変わらぬ内容だったからだ。
「よき市民であるよう希望します」
 係官は、すべての説明を終えるとIDカードを渡した。
 輝は無言でカードを受け取った。#RK56MG33498という番号が刻印されていた。もちろん名前も入っていたが、大事なのはこの数字の方だと輝は思った。税金も社会保障も、名前ではなく、この数字で処理されるのだと。
 輝は、IDカードをジャケットのポケットに入れると、ロビーで待っている詩音のもとに戻った。
「終わった?」
 詩音は立ち上がって、輝を迎えた。
「ああ。お持たせ。退屈なビデオを見させられたよ」
「お疲れさま。帰って休む?」
「いや、大丈夫。買い物を済ませてしまおう」
「オッケイ。そうだわ。携帯電話も買わなきゃ。電話がないと不便でしょ」
「そうだね」
「じゃ行きましょ。コート買ってあげる」
「えっ。いいよ。自分で買う」
「あたしが買ってあげたいの」
 そのあと二人はデパートで買い物をした。何度も断る輝を説き伏せて、コートの代金は詩音が出すことで決着した。その代わり、詩音の趣味で黒い革のコートを選んだ。彼女が思ったとおり、輝は黒い革のハーフコートがよく似合った。
「警察官みたいじゃないかい?」
 輝が、売り場の姿見を見ながら言った。
「あら。警察官はお嫌い?」
「いや…… そういう意味じゃないけど」
「似合うわよ。二枚目半が、二枚目になったわ。浮気しちゃダメよ」
「浮気?」
 輝は苦笑した。
「そんな甲斐性ないよ」
「あったら困るわ」
 詩音は楽しそうに笑った。実際楽しかった。
「ありがとう、詩音。こんな高価なもの買ってもらっちゃって」
「気にしないで。やっとあなたに贈り物ができてうれしいわ」
 最後に、家電の安売りショップで携帯電話を買った。もちろんお金が輝が払ったが、デザインには詩音が口を出した。マットブラックがいいと主張した。輝はダークブルーがほしかったが、マットブラックのほうが、さっきのコートに合うといわれたら、従わざるをえなかった。
 買い物を終えて、二人は喫茶店に入った。輝は買ったばかりの携帯電話を箱から出して、詩音の携帯番号をメモリに登録した。まだ登録すべき番号はそれしかなかった。


05

05-01

 ジャン・メイムは、ノートパソコンのキーボードをたたいていた。そこは安宿の一室だった。
「あー、くそう」
 モニタにエラーの文字が出て、ジャンは頭を抱えた。
「ダメだぁ。集中できねえ。だるい。コールドスリープの影響が抜けねえ」
 彼もまた、きのうの火星便で地球に来たのだった。ジャンは、ベッドの上であぐらをかいて座っている、金髪の女に声をかけた。
「いいよなあ、おまえは。ネオ・ジェネシスだから、なんともねえんだろ?」
 サンディ・ホールは顔を上げた。長い髪をかき上げる。彼女の瞳は、詩音と同じように両眼の色が違った。オッドアイ。右目がブルー。もう片方はレッドブラウン。
「べつになりたくてネオになったわけじゃないわよ」
「そりゃそうだろうけどよ。ひでえもんだぜ、コールドスリープってのは。普通の人間にはな」
「わたしが普通じゃないみたいじゃない」
「バカ。そういう意味じゃないって。うらやましいって言ったんだよ。マジでつらいんだぜ。なんとかしてくれよ、このダルさ」
「ぼやかないでよ。あんたがロボットだって言うなら、原子に分解されてでもいない限り直してあげるけどね」
「ちぇっ。いいよなあ、輝は。いまごろ愛しの彼女に介抱してもらってんだろうなあ。オレは不幸だ。なあサンディ。そう思わねえか?」
「ああ、そういう意味」
 サンディはにっこりと顔を上げた。
「いいわよお。介抱してあげる。ただし、わたしを押し倒せたらね」
「バーカ。ネオのおまえを押し倒せるわけねえじゃねえか」
「だったら、ぼやいてないで仕事をしなさいよ」
「なあ、つれないこと言うなよ」
 ジャンはベッドにいって、サンディのとなりに座った。彼女の髪に軽く触れる。
「いいだろ?」
「いやよ」
 サンディはジャンの手をはたいた。
「一回寝てやったからっていい気になんないでよ」
「なんだよ。オレなんか眼中にねえってか」
「ねえ、ジャン。その話は終わってるはずでしょ。あんたは嫌いじゃないし、大事な仲間だよ。でも愛せない。一回でがまんしてよ」
「わかったよ」
 ジャンは手をあげて、ベッドから出た。
「オレが輝だったら、ぜんぜん態度が違うんだろうな」
「どういう意味よ」
「べつに」
 ジャンは肩をすくめた。
「でもよ。あいつは地球の女と仲よくしてるんだぜ。仕事もしねえで」
「ジャン」
 サンディはジャンをにらんだ。
「輝がどんな気持ちで彼女と会ってるか知らないわけじゃないでしょうに」
「わかってるよ。ちょいとイラついただけだ」
「ふん」
 サンディは鼻を鳴らして、また東京シティのマップに目を落とした。地図は東京シティだけではなかった。二十一世紀の旧東京都のマップ。いわゆる古地図もあった。サンディは、旧東京都のマップと東京シティのマップを比べていたのだった。
 そのとき。部屋のドアがノックされて、サンディとジャンは、一瞬顔を見合わせた。ジャンは、すばやくノートパソコンのスイッチを切った。サンディも広げたマップを折り畳んだ。
「だれだ」
 ジャンはいすから立ち上がって、ドアに向かって言った。
「わたしだ」
 外から消えてきたのは、彼らの仲間の声だった。
 ジャンは、サンディを見て、ちょっと首をかしげてからドアを開けた。
 アラブ系の男が立っていた。
「どうしたんだよ、ラウム」
 ジャンは、男を部屋の入れながら言った。
「約束の時間には、まだずいぶん早いぜ」
「ああ」
 ラウムという五十代の半ばぐらいの男は額の汗をぬぐった。
「井上とデイビッドがやられた」
「なんですって!」
 サンディは、ベッドから飛ぶように降りた。
「いつよ!」
「一時間前だ。井上とデイビッドは撃たれた」
「撃たれたって…… まさか」
「わからん。逃げるのに夢中で生死は確認してない」
「くそっ! なんでバレたんだよ」
 ジャンが、拳を握った。
「わからん。細心の注意を払っていたんだが」
 ラウムは、がくっと膝をついて、座り込んだ。
「おいおい、オッサン大丈夫かよ」
「すまん。こんなに走ったのは久しぶりだ。年寄りにはキツイよ」
 ラウムは、また額の脂汗をぬぐった。
「オッサン」
 とジャン。
「よく逃げてこられたな」
「ああ。オレは半年も東京にいるんだ。土地勘もできるさ。だが井上とデイビッドはコールドスリープの影響が残っていた。逃げれなかった。残念だ」
 ラウムは、年に二便ある火星便の、前回の便で地球に来ていた。いわば先発隊だった。井上とデイビッドは、サンディやジャンと同じ、きのうの火星便で来たのだ。
「あの二人」
 とジャン。
「たとえ生きてたって、ブレインサーチされてるはずだ。廃人だぜ」
「ああ……」
 ラウムはうなだれた。
「本当に残念だ」
「ラウム。休んでる場合じゃないわ」
 サンディが厳しい声で言った。
「井上とディビッドがブレインサーチされてたらここもヤバイ」
「わかっている」
 ラウムは顔を上げて、肩にかけていた黒いバッグをサンディに差し出した。
「サンディ。これを。計画が早まったが、持っててくれ。残りはダフのところにある」
「オーケイ」
 サンディは、ラウムからバッグを受け取った。ずっしりと重かった。そして、ベッドの上に散乱したマップや携帯端末を乱暴にかき集めて、自分のバックパックに押し込んだ。ジャンも、机の上のノートパソコンをバッグに入れた。
「ジャン。ラウムを」
「ああ」
 ジャンは、ラウムに肩を貸して起こした。
「大丈夫かオッサン。がんばってくれよ」
「わかってる。すまん」
 ラウムは、ふらつく足でなんとか立ち上がった。
 サンディは、バックパックを背負うと、サングラスをかけてオッドアイを隠し、ホテルの部屋を出た。ジャンとラウムも後に続いた。
「サンディ」
 ジャンが前を歩くサンディに言った。
「こっからは別行動といこうぜ。オレは、井上とデイビットに面識がある。やつらがブレインサーチされてたら、オレの顔も割れてるはずだ」
「わかった。念のため、ラウムと非常階段から降りなさい。今後の連絡は、さっき登録したフリーメールで。いいわね?」
「オッケイ。輝はどうする?」
「わたしが連絡をつける」
「気をつけろよ」
「そっちこそ」
 サンデイは、廊下の先の非常階段に向かうジャンとラウムに軽く手を振って、エレベーターに乗り込んだ。ロビー階のボタンを押す。
 ロビーに到着すると、入れ違いに数人の白人の男がエレベーターに乗り込んだ。サンディは、その中の一人を知っていた。
 ファーマン!
 サンデイは、心の中で、その男の名を叫んだ。
 ファック! なんてこと! なぜファーマンがここにいるのよ!
 ロビーには、三人ほど警官の姿が見えた。警官は日本人だった。フロントマンと話をしている。サンディは緊張したが、何食わぬ顔でロビーを横切って表に出た。
 すでに夜だったが、東京シティは明るかった。星の見えない街だ。チラリと腕時計を見ると八時を少しすぎていた。ホテルの前には、二台のパトカーと、数台のセダンが停まっていた。
「失礼」
 サンディは、背中から声をかけられて、ドキンと心臓が鼓動した。
「イエス?」
 サンディはふり返った。警官がハンカチを持っていた。
「落としましたよ」
 と警官が言った。
「オゥ。アリガトゴザイマス」
 サンディは、ホッとしながら、わざと下手な日本語で礼を言いながら、ハンカチを受け取った。
「どういたしまして」
 警官は笑顔を返して、ロビーに戻っていった。
 ふう……
 サンディは、息を吐いた。寿命が縮む。
 そのとき。銃声が聞こえた。
 サンディは、とっさにホテルの裏手に走った。
 ラウムがホテルの裏口を固めていた連邦捜査官に撃たれていた。そして、ジャンが猛スピードで自分の方へ走ってきた。
 サンディは、わざと悲鳴を上げた。
「きゃーっ!」
 そして、逃げまどうふりをしながら、捜査官がジャンを狙って銃口を向けている先に移動した。捜査官にとって、自分は一般人のはずだった。彼らにしてみれば、ジャンに当たらなければ、一般人を撃つ可能性がある。
 ジャンは、サンディを突き飛ばしながら、表通りに逃げた。サンディは、恐怖にかられた一般人を演じ続けた。顔を覆って、泣き叫びながらその場にへたり込んだ。
「くそっ、追え! 逃がすな!」
 数人の捜査官が、サンディのわきを駆け抜けて、ジャンを追った。
「こっちへ!」
 残った捜査官の一人が、サンデイの腕をとって、無理やり立たせた。
「いや、いや、いや!」
 サンディは、なおも泣き叫んだ。
「大丈夫だ。落ち着いて。ここは危険だから、ホテルに入って」
「イエス、イエス」
 サンディは、泣きながら捜査官にうなずくと、その場を離れた。もちろんホテルには戻らなかった。そのまま表通りに出て、山の手ラインと書かれた駅に駆け上った。トラベラーズカードを自動改札機のパネルに軽くタッチさせた。乗車駅がカードに記録され、同時に最低料金がカードから引き落とされた。
「くそっ、くそっ」
 サンディは、悪態をつきながら、ホームに向かった。
 ラウムが撃たれた。とっさのことでよく見えなかったが、たぶん致命傷だろう。サンデイはラウムが即死したことを祈った。生きていても同じだからだ。ジャンは逃げ延びただろうか。わからない。無事を祈るしかなかった。
 ファーマン。なぜだ。なぜファーマンが日本にいるんだ。サンディは唇をかんだ。あたしたちが火星を出るとき、ファーマンはラカートにいたはずだ。
 ラカートは、三十五ある火星ドームのひとつだった。第二次移民計画の初期に、連邦政府が莫大な予算をかけて作った、もっとも巨大なドーム。それはいまも火星の首都として機能していた。
 サンディたちが拠点にしているドームはウラニアといった。ギリシア神話の女神からとった名だった。芸術をつかさどるミューズのひとり。ウラニアは天文と音楽の神だった。だが、その美しい名とは裏腹に、ウラニアは第一次移民が作った古いタイプのドームで、日に何度も空気漏れの修理が必要なほど老朽化していた。それでもウラニアには火星の低所得者層が二百万人が定住している。
 サンディは、考えたくない結論に達するしかなかった。自分たちが火星を出たあとに、ウラニアの大規模な捜査が行われたのかもしれない。そこで仲間が捕まり、ブレインサーチをされたのかもしれなかった。
 あの悪魔……
 サンディは、連邦捜査官のチーフを心底憎んでいた。仲間を何人も殺した男だった。もしも機会があれば、自分の手で殺したい男だった。サンディは、ラウムから受け取ったバッグのチャックを少し開けて、中をちらっと見た。拳銃が三丁入っていた。マガジンもある。サンディは、そのうちの一丁を取り出して、ファーマンを殺しに行きたい衝動を必死に押さえた。
 電車がきた。ホームの安全ドアが開いた。数人の乗客が降りてから、サンディは電車に乗り込んだ。サンディは腕を組んで閉まったドアに寄り掛かった。
 サンディは、やっと一呼吸ついた。腕を解いて、ポケットに手を突っ込む。小さなピルケースが指先に当たった。ラウム、ジャン。そしてサンディは、組織の全体像を知っていた。だから、万が一捕らえられた場合、ピルケースに入れた即効性の毒で自害することになっていた。彼らは生きていてはいけないのだ。ブレインサーチされないために。
 そして、もう一人ピルケースを持っている男がいた。
 輝。
 サンディは、仲間の中で、もっとも優秀な男のことを思った。輝は、仲間うちではX(エックス)と呼ばれていた。サンディはK(ケイ)だ。彼らは、小さなグループに別れて、それぞれに顔を合わせないように行動していた。顔を合わせないだけでなく、じっさいに顔も本名も知らなかった。組織の全体像を把握しているのはごく一部の者だけだった。それが唯一のブレインサーチへの対抗手段なのだ。
 神林輝。天才科学者、神林明子博士の息子。知能が遺伝することはないが、素質は遺伝するのだ。その行動力も。
 彼がいてくれれば、ラウムは死なずにすんだかもしれない。サンディはそう思って、首を振った。さっきジャンにボヤくなと言ったのに、自分がボヤいてどうする。
 サンディたちは、同じ便の同じ三等客室でここまでやってきた。その間、ずっと他人のふりをしていた。サンディが輝を最後に見たのは、地球軌道ステーションのロビーのベンチだった。携帯端末を真剣に見ていた。彼はいつもそうだった。独りになると、地球の恋人のフォトを見ていた。
 その輝を、恋人のもとから引き離さなくてはならない。緊急事態に備えて、あらかじめ考えておいた行動だが、万が一にも、こんな行動を実行に移したいとは思っていなかった。
 サンディは、輝の恋人のことを思って胸が痛んだ。輝の彼女。詩音という女。会ったことはないが、輝から話を聞く限りにおいては、自分と性格が似ているような気がしていた。年齢もほとんど変わらない。
 詩音は真実を知ったら輝を恨むだろうか? 輝はそれを恐れていた。だから彼女に会う前に、なにもかも話してしまいたがっていた。隠しているのは苦痛だといった。
 だが……
 語ることは許されなかった。火星と地球の通信は、すべて連邦政府が検閲している。サンディたちは、連邦政府の持つ巨大なコンピュータをシェブロンと呼んでいた。シェブロンが通信に含まれる単語を拾い上げ、膨大なデータベースと比較して、連邦政府にとって不利な通信文は削除していた。どんなに巧妙な内容にしても、シェブロンのAIは的確に単語を拾った。通信文を暗号化しても無駄だった。民間は、連邦政府が解除キーを持つ暗号の使用しか認められていない。独自の暗号を使っても、シェブロンが通信相手のコンピュータから解除キーを強制的にダウンロードして解いてしまう。
 サンディはタメ息をついた。
 輝は、真実を語れないなら、彼女を忘れようともがいた。巻き込みたくないといった。それでも、たった一度、わずかな時間でも、彼女と一緒に過ごすことを望んだ。そして真実を語ることを望んだ。サンディは、詩音がうらやましかった。彼女は愛されている。
 もしも……
 サンデイは思った。もしも自分が彼女の立場だったら、輝を恨むことはないはずだと。根拠のない自信だった。詩音もそうであればいいと願った。

05-02

 ラウムは、薄れゆく意識の中で、必死に手を動かそうともがいていた。ポケットに入れたピルケースを出した。だが、そこまでだった。ピルケースを握った手を動かすことはできなかった。ごふっと血を吐いて、意識を失った。
「まだ息があります」
 捜査官の一人が、ラウムの首筋に指を当てて言った。
「死なすな」
 捜査官のチーフ、ジャック・ファーマンが言った。
「こいつは、ピルケースを持っている。やっと本部の人間にたどりついたようだ」
「ダメです。虫の息だ。もってあと数分でしょう」
「くそっ」
 ファーマンは舌打ちをした。
「仕方ない。ここでブレインサーチかける」
「ここで? 本気ですか、チーフ」
「やむをえん。なんとしてもやつらの情報がほしい」
「しかし……」
「やれ!」
 ファーマンは怒鳴った。
「わ、わかりました」
 部下たちは、ラウムをホバーカーに運んだ。野次馬が集まりはじめていた。日本の警官が、牽制する。
 ホバーカーに運ばれラウムは、後部座席に寝かされた。捜査官の一人が、ラウムの腕をまくって、静脈に薬品を注射した。
「エリクサー注入しました」
「倍にしろ」
 ファーマンは、部下に指示した。
「倍…… ですか?」
「そうだ。意識レベルが低い」
「わかりました」
 部下は、エリクサーをもう一本注射した。覚醒剤の一種だった。どんな深い昏睡状態にあるものも覚醒させることができる。ただし効果は一時的であり、エリクサーが切れたあとは、より深い昏睡か死が待っていた。
 ラウムの青白い顔に赤みがさした。
 その間に、べつの部下が、ラウムの後頭部に針を差し込んでいた。黒いトランクケースを開けて、その針から伸びる電極をケースの中の装置に接続した。
「準備完了ですが…… もうヤバイ。死にます」
「急げ」
 とファーマンは言った。
「記憶層を特定している暇はない。ぜんぶ吸い出せ」
「了解。ダウンロードメモリに一〇〇エクサバイト確保。実行」
 部下は、ブレインサーチのスイッチを入れた。
 とたん。ラウムは目を見開いた。電気ショックを受けたように身体がビクビクと痙攣した。一〇〇エクサバイトのメモリ空間にラウムの生涯の記憶が流れ込む。
「がっ、がはっ!」
 ラウムの口から鮮血が飛び散った。
「あがががっ! がーっ!」
 ラウムは、突然上半身を起こして、捜査官の一人につかみかかった。まるで北欧神話に出てくるバーサーカーのようだった。トランス状態に陥り、通常の何倍もの力を発揮する狂戦士。
「押さえろ!」
 ファーマンが叫んだ。
「はい!」
 部下が、二人で暴れるラウムを押さえつけた。だが、ラウムの力はすさまじかった。人間の力とは思えなかった。捜査官たちをふり払って立ち上がった。ホバーカーから出る。
「がーっ! がはっ! がはっ!」
 ラウムは、鬼のような形相で、口から血を吐き出していた。
 捜査官たちは、全員でラウムを押さえた。六人がかりで、やっとラウムを後部座席に押し戻した。
「な、なんだよこれ!」
 野次馬の一人が叫びながら、デジタルカメラでその様子を撮影していた。
 ファーマンは、ふり返って日本の警官に叫んだ。
「おい、あいつのカメラを没収しろ!」
「えっ、で、ですが……」
 指示された警官はうろたえた。後頭部に電極を刺された犯人が立ち上がって暴れたのだ。それだけでも腰が引けたが、連邦捜査官のやっていることのほうが、もっと気味悪かった。
「命令だ!」
 ファーマンは叫んだ。
「撮影させるな! 野次馬を近づけるな!」
「は、はい……」
 警官たちは、眉をひそめながらデジタルカメラを持っている男に近づいた。
「な、なんだよ。市民の財産を没収するつもりかよ!」
「いや、これは極秘捜査でして」
 警官は、自分でも説得力がないと思いながら言った。
「あなたの撮影した写真が、犯人に利用される可能性もあるわけでして」
「冗談じゃない。没収されてたまるかよ」
 男は、カメラをバッグに入れて立ち去ろうとした。
 そのとき。男はだれかに腕をつかまれた。
 ファーマンだった。ファーマンは、男のバッグをもぎ取ると、乱暴にカメラだけを取り出して、バッグは投げ捨てた。
「あ、なにすんだ!」
「公務執行妨害で逮捕されたいか?」
 ファーマンは、男をにらんだ。そして、カメラからメモリを抜き取った。
「オ、オレが、いつ、公務を妨害したんだよ」
「それ以上なにか言いたいなら連邦捜査局で聞こう。それとも、このまま立ち去るか。好きにしろ」
 ファーマンは、男の胸に投げつけるようにカメラを押しつけた。
「ち、ちくしょう。なんなんだよ、おまえら」
 男は、冷や汗をかきながら、バッグをひろうと、メモリを抜かれたカメラを抱えて逃げるように立ち去った。
「捜査官」
 と日本の警官が言った。
「いまのはちょっと…… やりすぎでは?」
 ファーマンは、その警官をにらんだだけで、なにも応えなかった。ホバーカーに戻る。
「チーフ」
 と部下が言った。
「死にました」
 ホバーカーの後部座席でラウムが絶命していた。地獄を見てきたような壮絶な死に顔だった。
「サーチは?」
 ファーマンは、ゴミでも見るようにラウムを見下ろしながら部下に聞いた。
「完了しました。記憶層を特定していないので、解析にやや時間がかかりそうです」
「すぐに取りかかれ。一時間以内の報告を期待する」
「はい…… 努力します」
「よし。撤収だ」
 ファーマンは、自分のホバーカーに乗り込んだ。
 ラウムの血を浴びた部下たちは、ファーマンのホバーカーが発車したあと、なにもここまでとつぶやきながら肩をすくめた。

05-03

「疲れた?」
 詩音は、アパートの部屋に入りながら輝に聞いた。買い物のあと、食事をして帰って来たところだった。
「少しね」
 輝は、荷物の紙袋を床において、ソファに座った。
「コーヒー飲む?」
 と詩音。
「ああ。いや、日本茶がいいなあ」
「日本茶……」
「ないの?」
「うん。ごめん。あ、でも紅茶ならあるわ」
「じゃあ紅茶がいいな」
「オッケイ」
 詩音は、明日緑茶を買わなくちゃと思いながらキッチンに入った。
 輝は、詩音に答えてテレビのスイッチをつけた。チャンネルは、ローカルニュース局のままだった。男性キャスターが、紅葉の見ごろを伝えていた。
「紅葉かあ。見たいなあ」
 輝はつぶやいた。
 詩音は、その声を聞いて言った。
「じゃあ、日光でも行こうか。二泊三日ぐらいで」
「いいねえ。温泉に入ってみたい」
「日本人ね」
 詩音は笑った。
 そのとき。テレビに映る男性キャスターの手元に、一枚の紙が配られた。キャスターは、三秒ほどその紙を見つめていたが、顔を上げて厳しい顔で言った。
『臨時ニュースをお伝えします。午後八時ごろ、品川のホテルで連邦捜査官によるテロリストの捜索が行われた模様です。犯人は二人潜伏していたようですが、一人は捜査官によって射殺されました。もう一人は逃亡した模様です。それ以外の詳しいことは、まだわかっていません』
「テロリストですって?」
 詩音が、紅茶の葉っぱが入った缶を持ったまま、キッチンから出てきた。
「なにそれ。いったいどこの組織よ」
 輝は、テレビを凝視していた。
「ねえ、輝?」
「え? なに?」
 輝は、詩音をふり返った。
「どこの組織だって言ってた?」
「いや…… 詳しいことはわかっていないらしい」
「潜伏してたホテルは?」
「品川だってさ」
「四十一管区だわ」
「詩音は?」
「十六管区よ。新宿から四谷までがあたしのエリア」
「よかった。関係なくて」
「関係ないこともないけど…… いえ、いまは関係ないわね。あたし休暇中だもの」
 詩音は、苦笑を浮かべるとキッチンに戻った。
 輝は、テレビに視線を戻した。いまのニュースを、もっと詳しく報道しているニュース局がないか探すためにチャンネルを変える。
 六局目で、品川のホテルが映った。CNNジャパンだった。若い男性キャスターがホテルの前で中継していた。
『こちらが現場のホテルです。連邦捜査官は犯人の一人をこの場で尋問したようです。目撃者の証言によりますと、犯人は口から血を吐きながらもがき苦しんでいたらしく、なにか薬物の使用があったのではないかという疑いがあります。現在、連邦捜査局からの発表はありません』
 輝は、リモコンを持つ手が震えた。
 ブレインサーチだ。間違いない。でもまさか、こんな路上でやるなんて…… ファーマンだ。やつならやりかねない。あの悪魔……
 輝は、じっとりと汗をかいた。
 品川のホテルには、だれがいたんだ。井上か? まさかサンディたちじゃないよな。もし彼女たちなら、ブレインサーチなどされる前に……
 そのとき。キャスターが目撃者の一人にインタビューをはじめた。
『どういった状況だったんでしょうか?』
 マイクを向けたれた男が、興奮気味に答えた。
『ひどいんだよ。オレちょうどカメラ持ってたから撮影したんだ。犯人が暴れてるところをさ。そしたら連邦捜査官だがなんだか知らないけど、背の高い男がオレのカメラからメモリを抜き取ったんだ』
『本当ですか?』
『嘘なんかつきませんよ。周りに何人かいたし、日本の警官も見てたはずだ』
『ふむ。それが事実なら、かなり強引な捜査ですね』
『それも頭にくるんだけどさ。アレってなんだったわけ? 遠目だったからよくわからんけど、あの暴れ方は異常だぜ』
『と、いいますと?』
『だって、口から血を吐いてたぜ。それも尋常な量じゃなかった。人間って、あんなになっても暴れられるもんかね。捜査官が五、六人がかりで、やっと押さえつけてたんだぜ』
『犯人はどんな男でしたか?』
『うーん。サングラスをしてたから、顔はわかんないけど、わりと小柄だったな』
『年齢とかは?』
『そんなに若くはなさそうだった』
 ラウムか!
 輝は、男の発言を聞いて身体を硬直させた。ラウムだ。きっとそうだ。なんてことだ。毒を飲めなかったんだ。ラウムがブレインサーチをかけられたなんて……
「ブレインサーチね」
 詩音が言った。
 輝は、ドキッとなってふり返った。
 カップを持った詩音が立っていた。
「詩音…… なにか知ってるの?」
「うわさでは聞いたことがある」
 詩音は、輝のとなりに座った。
「はい、紅茶」
「あ、ありがとう…… で、うわさって?」
「連邦捜査局のことよ。ブレインサーチという人間の脳の記憶を取り出す装置を持っているらしいわ。その装置にかけられた人間は、激しい負荷に苦しむって聞いたことがある。それを使ったんじゃないかしら」
「日本の警察にはないのかい?」
「まさか」
 詩音は苦笑した。
「そんなのないわよ。あたしたち特務課も犯人を逮捕するときに限って、特殊ガスの使用は認められているけど、機械や薬物を使った尋問は違法よ。もっとも、特務課は尋問なんてしないけど」
「逮捕するだけだったね」
「そう」
 詩音は、紅茶をひとくち飲んだ。
「あたしたちの仕事場は現場だけよ。あとは捜査課にお任せ」
「なるほど」
 輝は、考え込むようにうなずいた。
「ごめん、ごめん」
 と詩音。
「こんな話、おもしろくないわよね。休暇の過ごし方を考えましょ」
「いや…… うん」
「どうしたの? 顔色が悪いみたい」
「あの、詩音。じつは、話があるんだけど」
「なに?」
 詩音は、輝が深刻な顔をしているので、首をひねった。
「ぼくは――」
 輝がいいかけたとき、部屋のインターカムがなった。
「もう、なによ」
 詩音はソファから立ち上がった。
「ちょっと、待ってて」
 詩音はそういって、インターカムをとった。モニタに、一階のフロアにいる黒い背広姿の男が映った。
『結城詩音さんでしょうか?』
 男が言った。
「そうですけど、どちらさま?」
 詩音は、いぶかしげに聞いた。
『連邦捜査局の者です。少しお話をうかがいたいのですが』
「連邦捜査局?」
 そのとき。モニタが消えた。
 輝がインターカムのスイッチを強制的に解除したのだった。
「輝?」
 詩音は、インターカムのハンドセットを持ったまま、眉をひそめた。
「ちょっと、どういうこと?」
 輝は、詩音の問いに答えず、彼女が買ってくれたコートを紙袋から出すと、それを羽織った。前に羽織っていたジャケットから携帯端末を出して、コートのポケットに押しこむ。
「輝! 説明して!」
「時間がない」
 輝は、窓に近寄って、ちらっと下を見た。ホバーカーが三台停まっていた。インターカムを切った段階で、捜査官たちが強制的にアパートのセキュリティドアを開けて、五階に上がってくるのは明白だった。時間的余裕は、おそらくあと数十秒だろう。
「輝!」
 詩音が叫んだ。
 輝は詩音を見た。
「ぼくを信じてくれ。いまはそれしか言えない」
 輝は、足早にドアに向かった。詩音が輝の前に立ちふさがる。
「どこへ行くの?」
「お別れだ」
「一体全体、なんだっていうのよ!」
「どいてくれ。本当に時間がない。このままでは連邦捜査官に殺される」
「あなた…… いったい、なにをやったの?」
「信じてくれ」
「なにを!」
「なにもかも」
 輝は、詩音を押し退けた。
「ダメよ」
 詩音は、輝の腕をつかんだ。
「ここからは出さないわ」
「詩音。頼む」
 そのとき。ドアが激しくたたかれた。
『連邦捜査官だ! ここを開けろ!』
「ちっ」
 輝は舌打ちした。
 詩音は、輝とドアを交互に見た。一瞬、迷う。だが彼女は刑事だった。
「輝。そこを動かないで」
「わかった」
 輝は、観念したように言った。
「好きにしてくれ」
 詩音は、輝から目を離さないように、後ろ向きに後ずさりしながら、ドアの前に移動した。ドンドンと、まだドアをたたく音が響いていた。
『開けろ! 五秒以内に開けなければ、キーを強制解除する!』
「ちょっと!」
 詩音は叫んだ。
「いま、キーを解除するわ! でも、手荒なまねはしないと約束して!」
『そこに、神林輝がいるのか!』
「いるわ。武装はしていない。もう一度言う。武装はしていない。手荒なまねはしないで。いいわね?」
『了解した』
 連邦捜査官の声が、少し落ち着いた。
 詩音は、輝から一瞬も目を離さすにキーを解除する。
 とたん、ドアが開き、連邦捜査官がなだれ込んできた。
「神林輝!」
 捜査官が叫んだ。
「テロ容疑で逮捕する!」
「テロですって!」
 詩音が叫んだ。
「どういうことよ! いったい、なにがどうなってるの!」
「結城刑事」
 最後に部屋に入ってきた男が英語で言った。ファーマンだった。
「詳しい話は連邦捜査局でします。あなたも来てください」
「あなたが責任者?」
 詩音も英語でファーマンに言った。
「そうです」
「バッジを」
「これは失礼」
 ファーマンは、腰のベルトにさした連邦捜査官のバッジを詩音に見せた。
 詩音は、バッジと、その下に挟んであるIDカードを見た。偽物ではないようだった。
「ファーマン」
 捜査官に手錠をはめられている輝が、ファーマンをにらんだ。
「やはりきさまか」
「ほう」
 ファーマンは、バッジをもとに戻すと、口元をゆがめて笑った。
「どうやらオレは有名人らしい。自己紹介の手間が省けてなによりだ」
「有名にもなるさ。街中でブレインサーチをするような狂人は、おまえぐらいしかいない」
「狂人はきみだよ、神林くん。テロリストという名の狂人だ」
「よく言う。おまえが罪のない火星移民を何人殺したか教えてやろうか。どうせ忘れているだろうからな」
「テロリスト以外を殺した記憶はない」
「おまえにとっては、火星移民はみんなテロリストなんだろうさ。それとも奴隷かな」
「ストップ」
 詩音が、割って入った。
「連邦捜査官。いまここで説明を求めます。でなければ、彼を連行することに同意できません」
「彼はテロリストです。結城刑事。これは連邦捜査局の管轄です」
 ファーマンは無表情に答えた。
「では令状を見せてください」
 詩音は食い下がった。
「ありません」
「ない? 令状なしで踏み込んだというのですか?」
「超法規処置ですよ。連邦捜査局に許された権限です」
「同意できません。令状をとってください。それまで彼は、あたしが監視します」
「結城刑事」
 ファーマンはタメ息をついた。
「あなたが日本警察の優秀な刑事だという事実から、こうして穏便に話をしているのです。もしも、それ以上われわれの捜査に口を出すなら、あなたも、テロリストの仲間と見なされますよ」
「なんですって?」
 詩音は、ファーマンをにらんだ。
「それは、脅しですか?」
「事実を申し上げただけです。おい、連行しろ」
 ファーマンは部下に命じた。
「待って!」
 詩音がドアの前に立ちはだかった。
「こんなの異常だわ。彼を逮捕するときに、罪状を宣言しなかった。彼がいったい、どんなテロを行ったというんですか。彼は火星から帰還したばかりなんですよ。火星にテロ組織があるなんて、あたしは知らない」
「結城刑事。われわれはあなたのようなローカル警察とは違う。これは連邦政府の機密に関することです」
「どういうことよ。彼を正式な裁判にはかけないと言ってるように聞こえる」
「それは彼しだいです。われわれの取り調べに協力すれば、煩わしい思いは最小限ですむでしょう」
 ファーマンの答えは、詩音にというより輝に言ったもののようだった。
「まさか」
 詩音のファーマンをにらんだ。
「彼にブレインサーチをかけるつもり?」
 ファーマンは答えなかった。
「答えて!」
 詩音は叫んだ。
「詩音」
 と輝。
「ブレインサーチで得た情報は裁判では使えない。記憶と真実は違うからだ。でもこいつらはそんなことどうでもいいのさ。邪魔者を排除できさえすれば」
「だまれ」
 ファーマンが輝に言った。
「きさまの発言を許可した覚えはない」
「なんてこと……」
 詩音の顔が青ざめた。
「彼の言うことが事実なら、たとえ連邦捜査局でも許されることではないわ」
「結城刑事」
 ファーマンは、氷のような表情で言った。
「もう一度いいます。そこをどいてください。三度目はありません。これ以上の妨害は、あなたの立場を悪くするだけだ」
「いやよ! どかないわ!」
「詩音!」
 輝が叫んだ。
「こいつの言うとおりにするんだ!」
「でも……」
「きみはなんの関係もない。巻き込んですまなかった。許してくれ」
「もう!」
 詩音は、ついに髪をかきむしった。
「なにがなんだか、サッパリわからない! なにがどうなってるのよ!」
 ファーマンは、詩音の肩をつかんだ。そして、強引にドアの前からどかした。
「連れて行け」
 部下に命じる。
 輝は、ファーマンの部下に連行されていった。
「結城刑事」
 とファーマン。
「同行願いたい」
 詩音は、ファーマンをにらんだが、なにも言わずキッチンのいすにかけたコートを取りにいった。そして、ポケットからサングラスを出してかけた。その様子をファーマンは不敵な笑みを浮かべながら眺めていた。
 輝は、一足先に捜査官に両わきを固められながら、エレベーターで一階に降りた。アパートの前には、野次馬が集まりはじめていた。日本の警官はいなかった。よほど急いでいたのだろう。日本の警察に協力を求める暇はなかったのだ。連邦捜査官の何人かが、自分たちで野次馬を近づかせないように腕を広げて仁王立ちしていた。
 脳細胞をフル回転させて、輝はこの状況から逃れる方法を考えていた。だが、とても不可能に思えた。ここは素直に連行されるしかない。
 そのとき。
 野次馬の中から、金髪のサングラスをした女が捜査官の脇をすり抜けて、輝が押し込まれようとしているホバーカーに走り寄った。
「東京デイリーニューズです! これはいったい、なんの捜査なんですか!」
 その女は、カメラを輝に向けた。
「おい! 写真を撮るな!」
 捜査官が、女を制止しようとしたとき。その女は、カメラを捜査官の顔めがけて投げつけた。
「あっ!」
 と捜査官が反射的に顔を防御したとき、女はピストルでその捜査官を撃ち抜いた。さらに輝を押さえつけている捜査官も撃つ。
 輝は、とっさに野次馬の中に紛れ込んだ。
 野次馬を押さえている捜査官が、ピストルを抜いて輝の背中を狙った。だが、一般市民が邪魔になって発砲できなかった。そのつぎの瞬間、その捜査官の銃を持つ手が女の銃弾を受けて血しぶきをあげた。輝の気を取られていた他の捜査官も、一斉に狙いを女に変えた。だが女は、銃を落とした捜査官を楯にした。捜査官は、仲間の銃弾を受けて絶命した。その間に女は、逃げまどう野次馬の中に飛び込んで逃走した。
 ファーマンが、アパートから駆け出てきた。詩音も続く。
「何事だ!」
「男が逃走しました!」
「なんだと! 追え、バカモン!」
 上司に言われるまでもなく、三人の捜査官が、輝を追って走りはじめていた。
 だが、五分後にファーマンの無線機に入った報告は『見失いました』だった。
「くそっ!」
 ファーマンは、無線機をアスファルトにたたきつけて踏みつけた。
「お見事」
 と詩音が冷ややかな声で言った。
 ファーマンは、顔を真っ赤にして詩音をにらんだが、なにも言わなかった。

05-04

 輝とサンディは、ビルとビルの間の狭い路地で息を切らしていた。
「サンディ」
 輝が言った。
「ずいぶん、むちゃをするじゃないか」
「それが命の恩人にいう言葉? まったく、あんたを呼びにいったら連邦の連中が取り囲んでいた。肝をつぶしたよ」
「そうだな。悪かった。ありがとう」
「そうそう。人間素直が一番だよ」
「そうかもね。とにかく、この手錠だ」
 輝は、後ろ手にされた腕を、腰に回して足の方へ通した。後ろ手が正面に直る。
「サンディ。ポケットに携帯端末が入ってる。とってくれ」
 サンディは、輝のコートから携帯端末を出した。
「青いフォルダがある。タップしてくれ」
「したわ」
「チェインというファイルがあるだろ。そいつをタップ」
「オーケイ。プログラムが起動した」
 輝は、携帯端末のモニタをのぞきながら言った。
「周波数のサーチ画面を出してくれ」
「どうやって?」
「右側のホイールを回せ。違う、逆だ。そうそこ。OKをタップ。いいぞ。端末の先端を手錠に当ててくれ」
 サンディは言われたとおりにした。
「よし。サーチ完了。電磁キーの解析。ホイールを三ステップ回してマルチリンクに合わせてから、もう一度OKをタップ」
 サンディはタップした。
 カチンと音がして手錠がはずれた。
「さすが」
 とサンディ。
 輝は手錠で痕がついた腕をさすりながら肩をすくめた。
「こんなプログラムわけない。それよりジャンはどうした?」
「わからない。逃げきってくれてるといいけど」
「ほかのグループは?」
「ウォーレスに連絡が間に合わなかった。うかつだった。ラウムがブレインサーチされるとは思わなかったんだよ。ファーマンを甘く見た」
「きみの責任じゃない。フレッドとダフは?」
「なんとか間に合ったわ」
「ジャンが無事だとして、あと五人か。キツイな」
「でもダフのところには武器がある。少しは持ち出せてるはずよ」
「武器なんかなんの役にも立たない」
「そんなこと言ってる場合? ラウムがブレインサーチされたんだ。もう、わたしらの組織は裸も同然だよ」
「どんな場合でもだ。われわれの目的は暴力じゃない。できれば手段としても使いたくないくらいだ」
「それはわかってる。でも…… ラウムまで……」
 サンディは顔を伏せた。
「悪いのはあいつらだ。仲間を大勢殺した。わたしはファーマンを許せない」
「サンディ。気持ちは同じだよ。みんな」
「詩音は? 彼女はなんといってた?」
「いや……」
 輝は首を振って沈黙した。
「話してないの?」
「まだ時間があると思っていた」
「ネオ・ジェネシスのことも?」
「ああ。なにも話していない」
「ということは、輝が逮捕されるところを理由もわからず見てたわけ?」
「ファーマンはぼくのことをテロリストと言った」
 輝は、まるで人ごとのように言った。
「なによそれ! テロリストはファーマンのほうだわ!」
 サンディは興奮したように叫んだ。
「ファーマンがじゃない。連邦がだ。もっと正確にいえば安全保障局が」
「どこだって同じことよ! 詩音だってわたしたちの敵になるかもしれないんだよ!」
「敵?」
「そうよ! ファーマンになにを吹き込まれるかわかったもんじゃないわ。あいつの卑劣なやり方は、あんただって、よく知ってるでしょうに!」
 輝は肩をすくめただけで、なにも答えなかった。
「ちょっと!」
 サンディは、輝の肩を揺さぶった。
「あんた、よく落ち着いてられるわね!」
「べつに、彼女の生命に危険があるわけじゃない」
「そういう意味じゃないってば!」
「だったら!」
 輝が怒鳴った。
「ぼくにどうしろっていうんだ! 詩音を誘拐して、無理やりぼくらの仲間にでもすればいいのかよ!」
 サンディは、輝が突然爆発したので、息をのんだ。
「す、すまん」
 輝はすぐに冷静になった。
 サンディも一回深呼吸して気持ちを落ち着けた。
「わたしこそごめん。ラウムもやられて気が動転してた。あんたが一番つらいのはわかってるはずなのに……」
「気にするな」
「でも、詩音がもしファーマンを信じたらヤバイよ。彼女まで敵に回すことになる」
「詩音はぼくが連行されるときにファーマンに抗議してくれた。ファーマンを簡単に信じることはないはずだ」
「そうだといいけど……」
「サンディ。いまはファーマンのことだ。あいつが日本にいる理由が問題だ」
「連邦の高速バトルシップを使って、追いかけてきたんだよ。連邦のバトルシップなら一ヶ月で地球へ戻れる」
「HOW(ハウ)じゃない。ぼくが言ってるのはWHY(ホワイ)だ」
「わかってるわよ。わたしの口から言わせる気?」
 輝はため息をついた。
「すまん。ウラニアの仲間が捕まったんだろうな」
「それしか考えられない。最悪だよ。何人がブレインサーチにかけられたことか……」
「あまり悲観的になるな。ファーマンはラウムをブレインサーチするまで、ぼくらのことを知らなかった。つまり火星でもジェファーソン博士のチームは無事だってことだ。彼らが無事ならなんとかなる」
「それもいつまで持つか。ファーマンは、ラウムのブレインサーチでジェファーソン博士の研究室の場所も知ったはずだよ。もしも、もしも、博士たちが捕まったら、おしまいだ。たとえデータを持って火星に帰れたとしても……」
「あの殺しても死なないようなジイさんが簡単にくたばるものか」
「でも…… 万が一」
「悲観的に考えるな。いまここで火星の仲間を案じても仕方ないじゃないか。ぼくらのできることをやろう」
「クールだね」
「サンディ、ぼくだって――」
「待った」
 サンディは、あわてて言った。
「責めたんじゃない。褒めたのよ。あんたの冷静さには何度も助けられた。たまにムカつくこともあるけどね」
 輝は苦笑した。
「それはお互いさまだよ」
「ムカつくのが?」
「助けれたのがだ。まあ、たまにムカつくのもだけど」
「そうだろうね」
 サンディは、軽く笑った。だがすぐにマジメな顔に戻る。
「で、どうする?」
「半日。いや六時間でいい。マルチサーディングを装備したコンピュータをネットにつなぎたい」
 輝は無理な要求と思いながら言った。ラウムたちが準備していてくれた隠れ家とコンピュータは、ラウムのブレインサーチで捜査局に知られてしまった。
 ところが。
「CPUはスプリングデールのPE型でいい?」
 サンディが言った。
「えっ? 最新型じゃないか。まさか、ホントにあるのか?」
「あるわ。きのう、日本に着いてすぐ秋葉原に行ったのよ。部品を買って組み立てた。ジャンはコールドスリープの影響で伸びてたから、全部わたしひとりでやったのよ」
「それはすごい。っていうか、どこに置いてあるんだ? ラウムの知らない場所か?」
「もちろんよ。わたしのやり方知ってるでしょ。いつだって、わたしだけしか知らない隠れ家を探すのが最優先」
「それをきのう一晩で? すごいな」
「わたしはふつうじゃないからね。そういえば輝。あなたコールドスリープの影響は?」
「まだ少しある。でも大丈夫だ。ほぼ全快した」
「地球生まれのわりに丈夫じゃない」
「火星育ちなんでね。で、コンピュータはどこにある?」
「だから、秘密の場所よ。ついてきて。ダフとフレッドも向かってる」
「オーケイ」
 二人は東京シティの夜の繁華街に溶け込んだ。

05-05

 詩音は、桜田門にある連邦捜査局日本分局にいた。もともとは、警視庁が使っていたビルのあった場所に、新しく建てられたビルだった。東京シティに警視庁という組織はすでにない。それは東京市警に変わったからだった。警視庁は遷都された仙台にある。
 連邦捜査局日本分局それ自体は、警察庁の警備公安警察第一課が前身だった。もちろん、日本自治政府の警察機構を統括する警察庁自体は、現在も存在し、それもまた遷都された仙台にあった。
「信じられないわ」
 詩音は、目の前に座るファーマンに言った。彼女たちは、盗聴防止装置のついたブリーフィングルームで話し合っていた。詩音の東京市警もけっして汚くはないが、連邦捜査局のブリーフィングルームは、どこか病室を思わせるほど極度に清潔な印象を受けた。
「気持ちはわかるが事実だ」
 ファーマンは、コーヒーをすすりながら答えた。
「神林輝は火星独立を狙うテロ組織のメンバーなのだ」
「仮にそれが事実だとして、輝がなにか罪を犯したわけ? 火星の独立を訴えるだけでは犯罪にはならないわ」
 詩音は、心がざわつくのを感じながら反論した。ファーマンの説明を聞けば聞くほど、輝が地球連邦のエネルギー政策を批判的に語っていたことが思い出された。そしてなにより、彼は父親の死のあとの人生を語りたがらなかった。それが詩音の心を乱していた。
 ファーマンが続けた。
「やつらは火星に駐屯している連邦宇宙軍のバトルシップを二隻破壊している。その事件で兵士が十六名死亡。さらに連邦政府の職員も七名が殺害されている」
「輝が、それに関わっているという証拠は?」
「それはコメントできない」
「やっぱりね。うわさは本当だったのね」
「うわさ?」
「ブレインサーチよ。あんたたち連邦捜査官は、人間の脳を直接サーチしているって」
「わたしの立場も理解してもらいたいね」
「あんたたちのやり方には我慢できない。それを理解したわ」
「結城刑事」
 ファーマンは、軽いタメ息をついた。
「きみが、われわれにどのような感情を持とうがかまわない。おそらく友人にはなれないだろう。だが、同じ刑事としてわかりあえる部分はあると思う」
「へえ。ぜひお聞きしたいわね」
「憎むべきは犯罪だ。犯罪者から市民を守らなければならない。それがわれわれの使命ではないのかね」
「警察学校の教官みたいなこと言うじゃない。では聞くけど、犯罪者にも人権はあるわ。あんたはそれをどう思ってるわけ?」
「市民の生命と財産を脅かさない限り尊重する」
「ブレインサーチが人権を尊重しているとは思えない」
「市民の生命と財産を脅かさない限りと言ったはずだ」
「つまり、ブレインサーチを行ってるのを認めるわけね」
「ブレインサーチは連邦捜査局に認められた権利であり、違法ではない」
「それなのに輝を逮捕した。証拠として採用できない情報で。違法逮捕だわ」
「きみはどうも、ブレインサーチにこだわりすぎている。神林輝の罪状とは無関係だ。彼はテロリストなのだ。もしそうでないというなら、なぜ彼は逃走した? わたしの部下を三人も射殺してだ。なぜだ。理由を説明したまえ!」
 ファーマンの声は最後のほうで怒鳴り声に代わっていた。
「輝が射殺したわけじゃない」
 詩音は、ファーマンの怒鳴り声にひるまなかった。
「彼は手錠をかけられていた」
「では、やつを助けた女は、仲間ではないというのか。赤の他人が神林輝の逃走を助けたと主張するつもりか」
 ファーマンも落ち着きを取り戻した声で言った。
「知らないわよ。だから証拠が必要だと言ってるの。言っとくけど、ブレインサーチは証拠にはならないわよ」
「たしかに神林輝がテロリストの一員だと確信するに至ったのはブレインサーチのデータを解析してからだ。だがわれわれは、以前から神林輝に目をつけて、その行動を監視していた」
「なんですって?」
「神林輝の母親が問題なのだ」
「どういうことよ」
「彼の母親、神林明子博士は植物のDNAを操作して、火星の大地でも生育する植物の研究をしていた。そのことは知っているか?」
「ええ。輝の父親が研究データを火星に持っていったはずよ。あなたたち連邦捜査局が没収したそうだけど」
「そうだ。神林明子博士は、安全保障局の依頼で研究していた。研究データは連邦のものだ。博士本人でさえ、持ち出しはできない」
「それが、どういう関係があるわけ?」
「彼らは、神林明子博士の研究データを地球の研究所から盗むために地球に来たのだ」
「ちょ、ちょっと待って。なんですって? 話が見えないわ」
「神林輝から、なにも聞かされていないのだな」
「聞いていないわ」
「よろしい。つまり、彼らは火星を緑化しようとしているのだ」
「すばらしいじゃない。それのどこがテロなのよ」
「火星の緑化にいくらかかると思う?」
「さあ?」
「複数の科学者の試算を平均すると、約一五〇〇兆ドルだ。これがどれほど途方もない数字かわかるかね?」
「日本自治政府の年間予算の一二〇〇年分」
「いい答えだ。アメリカ自治政府の場合は六八〇年分だよ。連邦予算と比べても、二六〇年分だ。地球連邦が二六〇年運営できる資金がいったい、どこにあると思う?」
「あなたの財布にはないでしょうね」
「だれの財布にもだ。連邦の財布にも。彼らはそれを要求しているのだ。いや、もちろん一五〇〇兆ドルもの途方もない資金を要求してるわけではないが――」
「火星緑化のデータをよこせと言ってるわけね」
「その通りだ。彼らは、連邦政府の試算した数字を信じていない。どうやらあのバカどもは、明子博士の研究データさえあれば一五〇ドルで済むと思っているらしい。まったくバカげた話だよ」
「だったら話は簡単じゃないの。博士のデータを渡せばいいわ。それでダメだったら彼らも納得するでしょうに」
「そうかもしれんがね。ないのだよ、彼らの要求しているデータなど」
「ない?」
「そうだ。たしかに明子博士は、火星でも育つ植物DNAの構造を決定した。しかしそれは間違っていたのだ。博士は失敗したんだよ」
「じゃあ、それを教えてあげなさいよ」
「教えたとも。彼らは信じないがね」
「どうして?」
「やつらは、神林明子博士が暗殺されたと思っている。われわれ連邦捜査局にだ。しかも悪いことに、彼女のデータを持っていった夫が、火星に着く前にコールドスリープ装置の事故で死んでいる。彼らに言わせれば、それもわれわれの陰謀なのだそうだ。連邦をいっさい信用しないのだよ」
「なぜ連邦が輝のお母さんを暗殺したと思ってるわけ?」
「やつらの理論はこうだ。火星が緑化すれば、最終的に火星はドームなしでも暮らせる環境になる。人口は爆発的に増加するだろう。そうなれば、火星が地球連邦から独立する機運が高まるだろう。連邦はそれを恐れて、独立運動の芽を最初から摘んでしまうために明子博士を殺したのだとね。夫の神林晴彦は、明子博士のデータを持っていたために殺されたそうだ」
「そうなの?」
「バカな。そんなことはあり得ない。まさしく盲信だよ。いや、やつらは狂信者だ」
「それは、連邦が説明責任を怠った結果でしょうに」
「そうは思わない。もちろんわたしが担当していたわけではないが、連邦の職員は、彼らの組織の前身である『火星の緑化を推進する市民グループ』に、誠心誠意説明してきた。あらゆるデータを示した。ところがやつらは連邦の陰謀を盲信しているのだ。存在しないものをあると信じている。そういう連中に、どんな説明をしても無駄だろう」
「それで、あなたの出番?」
「そうだ。やつらは連邦と交渉している間に、過激な手段を目的とするグループを組織していた。正式名称はない。ブレインサーチ対策で、やつら自身、自分たちの組織に名前をつけていないのだ。われわれはMGRと呼んでいるがね」
「輝は、そのMGRの一員だったの?」
「いいや。彼は連邦の理解者だった」
「えっ? どういうこと? じゃあ、なぜ輝をマークしてたのよ」
「あらゆる可能性を排除しないのがわれわれのやり方だ。彼は明子博士の息子だよ。重要人物だ。つまり、神林輝が連邦を支持するような発言をするのは、自分の本当の姿を隠すためだという可能性を捨てるわけにはいかなかった」
「すごい懐疑主義ね」
「同じ刑事に懐疑主義と呼ばれるとは思わなかったね。まあいい。どのみち、われわれは正しかった。ヤツは相当頭が切れる。いままで一度もしっぽを出さなかったんだからな。じっさい上級幹部のようだ」
 詩音は、いままで信じていたものが音を立てて崩れるような気がした。輝がテロ組織の上級幹部ですって? 信じられない。信じたくない。だが、考えれば考えるほど、思い当たるふしがあった。地球に帰ると言いつつ、なかなか帰って来なかったことも、ファーマンの説明が事実だとすれば説明がつく気がしてきた。
「理解してもらえたかな?」
 眉をひそめて考え込んでいる詩音に、ファーマンが聞いた。
「ええ、まあ。理解はしたわ。まだ信じられないけど」
「どこがだ」
「輝がそんな人間だったことがよ」
「きみはヤツにだまされていたんだ。利用されたんだよ」
「利用?」
「そうだ。地球に帰還するための身元引受人にされた。もっとも、きみを責めるつもりはない。神林輝には、われわれも欺かれてきた。ヤツは狡猾だよ」
「信じられないわ……」
「そうじゃない。きみは信じたくないんだ」
 詩音は、ファーマンをにらんだ。
「わかったようなことを」
「図星だろう。だから頭に来るんだよ」
「やめて」
 詩音は顔を背けた。
「いいかげん認めたまえ。きみは刑事だ。それを忘れるな。神林輝はわれわれの敵だ」
「まだ疑問は消えないわ。刑事として」
「答えられる質問には答えよう」
「なぜ、こんな重大なことが地球で報道されていないのよ」
「いい質問だ。そこがやつらのこそくなところだよ。さっき組織に正式名称がないといったが、それはなにもブレインサーチ対策だけではない。組織そのものが存在しないように見せるためだ。やつらは主義主張を喧伝して回るテロリストとは違う。われわれも幽霊のような組織を追っているとは説明しづらい。正直に告白しよう。やつらを追うのはブレインサーチが頼りだったんだよ。これがマスコミに発表できない一番の理由だ」
「なるほど」
 詩音はふてくされた顔でうなずいた。ファーマンの説明は、なにもかも筋が通っているように思えた。
 そのとき。ブリーフィングルームにファーマンの部下が入ってきた。ファーマンに小声で耳打ちする。部下にうなずいたファーマンは、詩音に視線を戻した。
「結城刑事。そのブレインサーチがどんなものかお見せしよう」
「えっ?」
 詩音は驚いた。
「百聞は一見にしかずだ」
 ファーマンは立ち上がった。
「連邦捜査局の重要機密だが、きみには見せるべきだと判断した。来たまえ」
 詩音も立ち上がって、ブリーフィングルームを出ていくファーマンに続いた。
 ファーマンが向かったドアには、オペレーションルームと書かれていた。IDカードと指紋検知システムによってドアはロックされていた。ファーマンはドアの横のカードリーダーにIDカードをかざした。非接触で情報が読み取られ、ピッと認識音がした。そして金属プレートに親指を押し当てて指紋を認識させた。
〈確認〉
 と女性タイプのコンピュータ合成音がスピーカーから聞こえた。
〈ジャック・ファーマン・連邦捜査局・火星および月空間方面担当・第一捜査課・警部。入室が許可されました〉
「同伴者一名の入室を要求する」
 とファーマンはドアに向かって言った。
〈ジャック・ファーマン警部の音声波形および命令を確認〉
 カードリーダーの上部にあるカメラが、動いた音がかすかにした。詩音は自分の顔が映されていると感じた。
〈同伴者を確認。氏名役職および入室理由を申告してください〉
「結城詩音。東京市警特務課一級刑事。捜査協力のため」
 ファーマンが答えた。
〈確認。結城詩音。東京市警特務課一級刑事。画像データ保存。入室が許可されました。オペレーションルーム内での行動は連邦捜査局内務規定に従ってください〉
 ドアが開いた。
 オペレーションルームは、ブリーフィングルームと違って薄暗かった。詩音はサングラスをはずした。壁という壁がモニタやらコンピュータ端末で埋めつくされていた。まるで潜水艦の司令室のようだと詩音は思った。それにしてもすごい。東京市警とは予算の桁が違う。壁のモニタには、軍事衛星からの映像だろう絵が出ていた。衛星の高精細カメラは、ひとりの男をずっとマークしていた。上部からの映像なのでよくわからないが、どことなく見覚えのある男だった。
「スティーブン・マコーミックだ」
 ファーマンが、モニタを見つめている詩音に言った。マコーミックは、パリとチューリッヒ、そして東京で活動している殺し屋だった。
「驚いた。衛星で尾行してるとはね」
 詩音は、モニタからファーマンに視線を移した。熱のこもらない声だった。ふだんならもっと驚いていただろう。だが輝のことで頭がいっぱいだった。
「なんで捕まえないの?」
「仲間と接触する可能性がある」
「東京市警に連絡は?」
「おそらく連絡していると思う」
「おそらく?」
「わたしは、ヤツの担当ではないんだよ。同僚の仕事をすべて把握しているわけじゃない。もちろん、きみに見せたいのもマコーミックの後頭部ではない。こっちだ」
 ファーマンは、オペレーションルームの奥へ向かった。詩音は、こいつら東京市警には連絡してないわね。と思ったが文句は言わずにファーマンを追った。
 ファーマンが向かった先には、バスケットボールを一回り大きくしたぐらいの透明なガラス球があった。数人の技術者がそのガラス球の周りに集まっていた。
「ご苦労」
 ファーマンは、そのうちのひとりに声をかけてから、詩音に言った。
「これがブレインサーチで吸い出したメモリを再生する装置だ。人間の脳の記憶は三次元データなので、このような装置を使う」
「なるほど」
 詩音は、いくつか質問したいことがあったが、とりあえずうなずいておいた。
 ファーマンが続けた。
「きみも知ってのとおり、三時間ほど前に、火星解放運動のテロリストのひとりを拘束した。その男は幹部だ。ヤツの脳をサーチして、いままで不明瞭だった組織の概要が、ようやくわかったところだ。ここまでくるのに五年かかった」
「了解。見せて」
 詩音は、ファーマンの苦労話に興味はなかったので短く答えた。
「その前に確認しておく」
 とファーマン。
「これからきみに見せる情報は、第一級の機密事項だ。きみが同僚や上司に報告することをとめる権利はわたしにはないが――」
「ストップ」
 詩音は、イライラした声で言った。
「あたしはいま刑事としてここにいる。あなたたちが提供する情報の扱いは、その真偽を含めて、あたしの職責と経験で判断する。指図されるつもりはない」
「いいだろう」
 ファーマンは肩をすくめて、部下に命じた。
「再生しろ」
「はい」
 部下がうなずいた。
 ガラス球の中に、ぼんやりした立体映像が浮かび上がった。いや、立体というよりホログラムフィルムのように、平面を無理やり立体的にしたような不思議な映像だった。どうやら、人間の顔のようだった。徐々にピントがあってくる。
「輝……」
 詩音は、思わず声を漏らした。それは輝だった。
 技術者のひとりが言った。
「脳内の記憶は膨大なデータ量なので、彼らのテロ行動に関係する部分だけ編集してあります。これは、連邦のバトルシップの破壊工作を話し合っているときのようです」
「このデータに人為的な編集が加えられていない証拠は?」
 詩音は、その技術者に質問した。
「それは…… われわれが手を加えたと意味ですか?」
「そうよ」
 すると、ファーマンが横から口をはさんだ。
「結城刑事。このデータは証拠として採用できない。純粋にわれわれの捜査を助けるための情報源だ。それに手を加えてどんな意味がある?」
「オーケー。そういうことにしておきましょう」
「きみは優秀な刑事だな」
「皮肉?」
「違う。人を簡単に信用するヤツは刑事はなれない。少なくとも優秀な刑事には」
「やっぱり皮肉ね。わたしは輝に…… いえ、いいの。先を見せて」
 技術者は再生を続けた。
 輝と、このブレインサーチされた男は、たしかに連邦のバトルシップを爆破する計画を話し合っていた。それは具体的な内容だった。冗談で済むようなものではない。爆薬の種類、仕掛ける方法が語られていた。
 やがて、映像にもうひとり別の人物が加わった。金髪の女だった。
「サンディ・ホールだ」
 とファーマンが言った。
「だれ?」
 詩音が聞き返す。
「よくわかっていない。われわれも、このブレインサーチで知った女だ。この記憶を吸い出した男を捕らえたホテルにいたことはわかっている。観光客として宿泊していた。そして、神林輝を逃走させたのもこの女だ。わたしの部下を三人射殺した」
「輝を逮捕したときに、この女のこともわかっていたはずでしょう。あの事態は予測できたはずだわ」
「そうではない」
 ファーマンは首を振った。
「ブレインサーチの解析には時間がかかる。とくに今回は記憶層を特定せずに、すべてを吸い上げたので、時間軸の調整に手間取った」
「よくわからないわ」
 詩音は眉をひそめた。
「脳の記憶は時間軸に沿って記憶されているわけではないのだ。じつは、人間が時間を認識する生体システムはまだ謎だ。それは、単純な体内時計のことではない。記憶としての時間感覚は非常に複雑なんだよ」
「この女のことは輝を逮捕した時点で知らなかったわけね」
「そうだ。とにかく神林輝を拘束することが最優先だった。仲間が逮捕されたことを知れば、すぐにも逃亡の可能性があるからな」
「そうね」
 詩音は、ガラス球に視線を戻した。たしかに輝は、テレビのニュースを見たあと逃亡しようとしていた。いや…… あのときは、あたしになにか話そうとしたんじゃなかったっけ? ダメだ。よく思い出せない。詩音は首を振った。
「どうした?」
 ファーマンが聞いた。
「なんでもないわ」
 詩音は、ガラス球から目をそらさずに答えた。
 映像は、輝がほとんどだった。わざと彼のシーンだけ集めたのではないかと思えるほどだった。そしてサンディという女。いつも輝の近くにいる。親しげに話している。ときおり輝の腕に抱きついたりもした。
 詩音は、ただでさえ人生最悪の気分だったのが、さらにどん底に落ちていくような気がした。理屈ではない怒りが込み上げてくる。
「どうやら」
 ファーマンが詩音の気分を察したようなタイミングで言った。
「この女が神林輝の恋人らしい。だからこそ、神林輝が連行されるとき、危険を顧みずに助けたのだろう」
「もういい」
 詩音は、ガラス球から目を背けた。
「あなたたちの主張はよくわかった。これ以上見る必要はないわ」
「再生をとめろ」
 とファーマン。
「すまん。きみにはつらい事実だったと思う。だがわれわれを信頼してもらうためには、これを見てもらう必要があった」
「わたしのプライベートは気にしてほしくない」
 詩音は、サングラスをかけた。
「もう帰るわ。聞きたいことはすべて聞いた」
「いいだろう」
 ファーマンは先に立ってオペレーションルームを出た。部下も二人同行した。ファーマンは、捜査局の出口に向かいながら詩音に言った。
「大丈夫か? 自宅まで部下に送らせようか?」
「気にしなくてけっこうと言ったはずよ」
「そうか……」
「もし輝が接触してくるのを心配しているなら、それこそ心配無用。あたしは刑事として行動します」
「もちろんだ。そのことを心配していない」
 捜査局のビルの出口に到着した。ファーマンが駅の自動改札のような装置にIDカードをかざした。改札の遮へいが開いた。
「捜査協力に感謝する。ゆっくり休んでくれ」
 ファーマンが言った。
「そうするわ」
 詩音はファーマンを見ずに答えて、捜査局を出ていった。
 ファーマンは、詩音の後ろ姿を見ながら、口元をゆがめて笑った。
「一級刑事が聞いてあきれる。けっきょく女は女だな。もろいもんだ」
「しかしチーフ」
 同行していた部下が言った。
「結城刑事をこちら側につけるためとはいえ、ブレインサーチの映像を偽造したことがバレたらあとで問題になりませんか」
「偽造? どこがだ。わたしはただ神林輝とサンディ・ホールの映像を中心に構成しろと命じただけだ」
「サンディという女の瞳の色を修正したじゃないですか。もし結城刑事がサンディと接触したらマズイ。彼女も自分がネオ・ジェネシスだと気づく可能性が――」
 ファーマンが部下の言葉をさえぎった。
「おい。ネオ・ジェネシスなどという言葉を使うな。やつらは火星移民第三世代遺伝病だ」
「そうでした」
 部下は軽く肩をすくめた。
「火星移民第三世代遺伝病であることに気づきます。そうなれば、結城刑事は、自分の出生に疑問を持って調べるでしょう」
「防止しろ。接触させるな。おまえたちが結城刑事のマークに専念すればできるはずだ」
「しかし、万一の場合もあります」
「殺してもかまわん。それが連邦の方針だ」
「もちろん、テロリストは射殺しますが……」
「われわれの対象はテロリストに限らない」
「は?」
「なにがおっしゃりたいんです?」
「えっ?」
 二人の部下は、ファーマンの言葉にギョッとした。
「な、なにを言うんですか。彼女は刑事ですよ」
「だからなんだ。連邦の安全保障を脅かす存在になる可能性がある者を排除する。われわれのバックは安全保障局だというのを忘れるな」
「は、はい……」
「行け。必ず神林輝は現れる。二度とオレを失望させるなよ」
「わかりました」
 部下たちは、詩音を追って連邦捜査局のビルを出ていった。

 詩音は、地下鉄には降りなかった。ふらふらと皇居の方へ向かい、堀の周りを当てもなく歩いた。ひどく疲れていた。最悪の気分だった。だが、アパートには帰りたくなった。
 詩音の理性は、ファーマンの説明に納得していなかった。いまでも輝を信じたい気持はあった。だが、彼女の心が――感情が――輝を信じるのを拒否した。
 輝には恋人がいた。サンディ。命を懸けて輝を助け出すほどの女。
 裏切られた。二重の意味で。悔しかった。そして悲しかった。好きだったのに。彼を思う気持ちは本物だったのに。彼は違った。あたしを愛していなかった。あたしは彼にとって利用するためだけの女だった。
 二十二年という時間が崩れた。いや、そんなものはなかったのだ最初から。すべてが幻だった。
 詩音はベンチを見つけて座り込んだ。頬に伝うものがあった。サングラスをはずし、ハンカチをあてた。涙だった。
「うっ…… うっ」
 詩音は、ついにこらえていたものが瞳からこぼれ落ちた。数年。いや十数年ぶりかもしれない涙は止まることを忘れた。ブルーの瞳も、レッドブラウンの瞳からも、いつまでもいつまでも流れ続けた。

 同時刻。捜査局のオペレーションルームのモニタに、ベンチに座る詩音の姿が映っていた。衛星が詩音を捕らえたのだった。


06

06-01

 マンハッタンのイーストリバー沿いにある連邦行政府のビル群は、旧国連ビルの敷地を五倍に拡張した土地に建っていた。そこはアメリカ自治政府とは独立した連邦領だ。一見ガラス張りに見えるところから、通称グラスハウスと呼ばれる連邦大統領官邸を中心に、放射状に各行政府のビルが建っている。内務省、財務省、商務省、教育省などだ。だが、防衛関係および連邦捜査局の省庁は、マンハッタンではなく、ニュージャージー州にあった。
 連邦内務省のアル・ハカム長官は、気分が悪かった。東京シティの街中で、連邦捜査官がブレインサーチを行ったという報告を、早朝に受けたのだ。ハカムは、すぐベッドから飛び起きて、内務省のオフィスに向かい、連邦安全保障局のデューイ・グラハム中将を呼び出した。
「いったい、なにを考えているんだ」
 とハカムは、いかにもアラブ人らしい太い眉をひそめた。
「街中で連邦捜査官にブレインサーチを使わせるとは、いくらなんでも常軌を逸している。いったい人権をなんだと思っているんだ」
「お言葉ですが長官」
 グラハムも、朝から呼びつけられて気分を害していた。それでも軍事らしく、そんな表情はまったく見せなかった。すでに髪の毛に白いものが混じりはじめたハカムより、さらに十は年上だったが、精悍な顔つきはハカムより若々しかった。
「それは連邦捜査局に言うべきことでしょう。なぜわたしが呼び出されたのか理解できませんね」
「捜査局にMGRの捜査をさせているのはきみらではないか」
「捜査の方法にまで口を出しているわけではない」
「水掛け論はやめよう。わたしはMGRの捜査に賛成ではない。捜査局にはMGRから手を引かせたまえ」
「内務長官のあなたに指示されることではないが、その理由をお聞きしましょう」」
「彼らは火星の緑化を主張しているにすぎない。それをテロリストと決めつけるきみらのやり方に疑問を持っているからだ」
「あなたはMGRを過小評価なさっている。彼らは脅威だ。万が一、火星が緑化すれば、必ず独立運動に火がつく。火星が独立したら連邦のエネルギー政策は根底から崩れるのですぞ。これこそ高度に安全保障の問題です」
「なぜそこまで恐れる必要がある? ネオ・ジェネシスが脅威か?」
「ネオ・ジェネシスという言葉は、やつらが劣等感を緩和するために作った造語です。正確に火星移民第三世代遺伝病と言っていただきたい」
「科学者の間でも、その遺伝病とやらは『進化』と解釈するものもいる。身体になんの障害もなく――いや、瞳の色が変わる弊害はあるが――身体能力が通常の一・五倍になるのだからな」
「たしかに原因ははっきりしていないが、彼らを進化などと呼ぶ意見は少数派です。三世代遺伝病が発見されてからまだ三十年しかたっていない。今後どんな障害が出るかわからない。仮に障害がなくても発病者は一万人にひとりです。彼らが脅威になることはない」
「ではなにを恐れているというんだ」
「ですから、可能性と申しあげている」
「中将。きみはなにか隠しているのではないのか」
「隠す?」
「わたしは、神林明子博士の研究が失敗だったという安全保障局の発表に、疑問を持っているのだよ」
「そのような疑問が出ること自体理解できませんね。そもそも、彼女に研究を依頼したのは、われわれ安全保障局です。そのわれわれが、なぜうそをつかねばならないのか」
「単刀直入に言おう。成功しすぎたのではないかね?」
「なんですと?」
 グラハムは眉をひそめた。
「きみたちは」
 とハカムは、グラハムの心の中をのぞき込もうとするように、彼のブルーの瞳を見つめながら続けた。
「火星に派遣された連邦宇宙軍の駐屯地の環境を改善するために、火星の緑化を研究した。兵士が赤い大地で精神障害に陥らないためにだ。それには、まあ、ほどほどの緑があればよかった。ところが神林博士は、地球環境に匹敵するほど、火星を変えてしまうのに成功したのではないか。しかも、MGRが主張するとおり、ごく低予算でだ。それできみたちは慌てた。火星が地球環境と同じになってはマズイと」
「ははは!」
 グラハムは笑い出した。
「あまりにも荒唐無稽で反論する気にもなれない。あなたはMGR並に想像力が豊かなようだ。SF小説でもお書きになったらいかがか」
「大統領にもそう言うかね」
「まさか、大統領もそんなたわけた話を信じているのではないでしょうね」
「わたしは」
 とハカムは、グラハムの質問をはぐらかすように言った。
「火星の緑化に必ずしも反対の立場ではない」
「ほう。興味深い発言ですな。火星の独立を支持すると?」
「火星の独立を支持しているなどと一言も言っていない。火星の緑化に反対ではないといったのだ」
「同じことです」
「同じではない。だいたい、火星の緑化は、きみたちが研究をはじめたことだぞ」
「当時とは事情が違う。いまは火星ドームの環境も十分に向上した。もはや火星の緑化など研究するに値しない」
「なぜかね。火星が緑化すれば、ドームの維持費が必要なくなる。連邦予算の十五パーセントを占めている予算がだ。その経費がかからなくなるのは、地球連邦にとって非常に有益だ」
「バカな。神林明子博士の研究は失敗だった。火星が緑化することはない」
「ではMGRも脅威ではあり得ないではないか」
「だから何度も、可能性と何度も申し上げているではないですか。どんな小さな可能性でも見過ごすわけにはいかない。それこそが安全保障であり、危機管理というものです」
「堂々巡りだな。そして、火星の緑化を主張しているだけのMGRを目の敵にするのかね。きみたちが連邦捜査局にやらせていることは、捜査ではなく弾圧だよ。こんなことが許されるはずがない」
「長官。あなたはなにもわかっておられないのだ。MGRの幹部には、神林明子博士の息子も含まれていた。これがどんな意味を持つかおわかりか?」
「それは初耳だな」
「さきほど連邦捜査官が突き止めた情報です。神林輝。彼は頭が切れるようだ。そして神林明子博士の息子というだけでカリスマがある。火星移民を誤った思想に走らせる危険が十分にある」
「街中でやったブレインサーチの情報か?」
「そうです」
「ブレインサーチは証拠にならん」
「必要なのは行動です」
「もう手配したのか?」
「もちろんです。連邦捜査局が神林輝の逮捕に動いている」
「まちたまえ。神林輝を逮捕すれば、事態はますます悪化するぞ」
「悪化とは?」
「MGRだけでなく、火星移民の間では、神林明子博士がきみたち安全保障局に暗殺されたと信じている者が多いと聞く。それでその息子まで手を出したとなれば、いよいよ連邦への不信感が強まる」
「彼はテロリストだ。見逃すわけにはいかない」
「MGRはテロリストではない」
「まだそんなことを。長官。あなたがハト派なのは非難しない。失礼。協調派と言うんでしたな。しかし、やつらが連邦宇宙軍のバトルシップを二隻破壊したことを忘れたとは言わせませんぞ」
「その件にも疑問がある。なぜきみたちは、連邦航宙局の監査委員を調査メンバーに加えなかった?」
「速やかな対処をするためだった。この件は議会で証言済みです。蒸し返さないでいただきたい」
「そういう行動すべてが疑惑を招くんだよ」
「あなたにわれわれの行動をとやかく言っていただきたくない」
「いいかげんにしたまえ。MGRの捜査は、すぐやめるべきだ」
「あなたこそ連邦の安全保障を真剣に考えているのか大いに疑問だ」
「内務省として、連邦の安全保障はいやというほど考え抜いている。われわれの考えでは、ヘリウム3への依存度こそが問題なのだ。連邦の安全保障を考えた場合、ひとつのエネルギー源に偏りすぎている現状こそがだ」
「代替えエネルギーがあるとも思えませんが」
「ある」
「どこに?」
「歴史をふり返ればいい。ヘリウム3が発見されるまでは、衛星軌道上での大規模太陽発電プラントが研究されていた。火星でヘリウム3が発見されてからは、すっかり忘れ去られているがね」
「それは現実的ではない」
「きみの言葉を借りるなら、安全保障局に指摘されることではないが、まあいいだろう。たしかに百二十年前は現実的ではなかった。だが技術は進歩した。いま内務省の研究グループが建設予算を試算しているところだ。来週にも議会のエネルギー政策審議会に提出できるだろう。念のためにいうが、けっして非現実的な数字ではない」
「ほう…… それは知りませんでした。われわれにも報告をしていただきたかったですな」
「なぜ安全保障局に報告しなければならないのかね? これは純粋に内務省の仕事だ」
「エネルギー政策は安全保障に密接な関わりが――」
「中将」
 ハカムは、グラハムの言葉を手でさえぎった。
「きみたちのことをマスコミがなんといっているか知っているかね?」
「さあ。マスコミなどという人種とは関わりがありませんので」
「とぼけるな。きみたちはゲシュタポと呼ばれている。秘密警察だ。まったく腹立たしい話だよ。そうは思わんかね?」
「思いますね。われわれは市民の敵ではない」
「では中将。そう思われるような行動は即刻中止したまえ。MGRの捜査はやめるんだ」
「ノーと申し上げましょう」
「いいかね中将」
 ハカムはタメ息をついた。
「ブレインサーチなどと非人道的な捜査手段がいつまでも許されると思うな。議会でも問題になっている」
「わたしは、わたしの信念で行動している。わたしの信念とは連邦を守ることだ」
「まったく、軍人というやつは……」
 グラハム中将は立ち上がった。
「お話がお済みでしたら、わたしはこれで失礼する」
「まだ話は終わっていない」
「もうこれ以上話し合っても無駄でしょう。そもそも内務長官にわたしを呼びつける権利はない。あなたのメンツを考えて参上しただけです。では失礼」
 グラハム中将は、ハカムのオフィスを出ていった。
 ハカムは、深い深いタメ息をついた。しばらくグラハムの出ていったドアを見つめていたが、やがて卓上インターカムのボタンを押した。
「はい長官」
 秘書官がモニタに映った。
 ハカムは、モニタに向かって言った。
「補佐官に連絡を取ってくれ。大統領に会いたい。緊急だ」
「承知しました。お待ちください」
 秘書官がモニタから消えた。

06-02

「まったくなあ」
 フレッドは、東京ステーションの近くにあるマンホールの中にいた。地下へ降りるはしごに足をかけて、感心したようなあきれたような声を出した。
「サンディも、よくこんなとこ見つけたなあ。あいつ、変な才能あるよな。そう思わねえかダフ」
「変じゃない」
 先を降りるダフがフレッドを見上げた。ダフは黒人の大男だった。マンホールの中がいかにも窮屈という感じだった。大きなバッグを背負っているからなおさらだった。
「なにせガキのころから連邦に追いかけ回されてたからな。あいつはどこへ行っても、まず真っ先に隠れ家を探す」
「いや、サンディは洞穴が好きなんだよ。でなきゃ、こんなとこ入ってみようとは思わんぜふつう。オレらなんか、半年前から東京シティにいるのに、ぜんぜん、こんなとこ気がつかなかった。ホントにここ、旧地下街に通じてるのかよ」
「サンディの嗅覚を信じろよ。マンホールのふたを閉めるの忘れるなよ」
「あいよ」
 フレッドは、腰に巻いたひもで、身体をはしごに固定すると、頭上のマンホールのふたを持ち上げた。フレッドは痩せて小柄な白人だった。マンホールのふたを持ち上げるのにかなり苦労した。ダフとはまさにデコボコ・コンビという感じだった。彼らはラウムとともに半年前に東京シティに来た先発隊だった。隠れ家とコンピュータの確保。そして武器の調達が仕事だ。
「う~っ、重い」
 フレッドはふたを閉めた。光がなくなった。
「しっかし、オレらも忙しいね」
「まったくだな」
 ダフは苦笑しながら、頭にバンドで固定した小型のライトのスイッチをつけた。
「フレッド。はしごがけっこう錆びてやがる。慎重に降りろ」
「おいおい、ダフ。おめえの体重で壊れるんじゃねえのか?」
「かもな。神に祈ってくれ。アーメン」
 そのあと二人は、黙々とはしごを降り続けた。十五メートルほど降りると底に着いた。水が一センチほどたまっていた。
「うへえ」
 とフレッド。
「なんだよここ。水びたしじゃんか。下水か?」
「いや、違う」
 ダフは、ポケットからメモを出した。サンディから連絡を受けたときのメモだった。
「地下水が上がってきて水没した地下街だそうだ。この下には、まだ五階分、地下に街があるらしいぜ」
「マジかよ。いまだって五階分ぐらい降りたぜ。サンディのやつ、ホントにとんでもねえところを見つけやがったな」
「だからこそ、捜査局もこんなところまで探しにこないんだよ。行くぞ。このまままっすぐ五十メートル進んで、道が二股に別れたらそこを右だとさ」
「へいへい」
 二人は奥へ進んだ。歩くたびにぴちゃぴちゃと音がする。光がほとんどないのに、床のコンクリートには苔のようなものが繁殖していて、気を許すとすぐに滑りそうだった。
「気持ち悪いなあ。靴の中にまで水が入っちまったよ」
「オレもだよ。おっと、ここだ。こいつを右に曲がると…… また二十メートル進む」
 ダフはメモを見ながら進んだ。
 すると、ほとんどはげた、だがなんとか電気配電室と読めるプレートがはめ込んであるドアがあった。
「あった。ここだ」
 とダフ。
「ここも錆びてるなあ」
 フレッドはドアノブを持って、ゆっくり回した。一度サンディが開けているので、ドアは錆の抵抗もなく開いた。そこは想像以上に広い部屋だった。
「おー、すごいすごい」
 とフレッド。
「見ろよダフ。二十一世紀の配電盤だぜ。うはぁ、トグルスイッチだ。教科書でしか見たことねえよ。博物館みたいだな」
「ああ。打ち捨てられた過去の文明ってとこか」
 ダフも、中に入ってドアを閉めた。そしてドアの横のスイッチを入れた。電気がついた。部屋全体が照らされた。異常に天井の高い場所だった。中二階に事務所らしき部屋があった。
「フレッド。部屋の中央に燃料電池があるはずだ」
「おう。あったぜ」
 フレッドは、マイクロバスぐらいの大きさの燃料電池装置のパネルを見た。非常用の電力供給装置。
「なるほど、こいつは使えそうだ。出力はどのくらいなんだろうなダフ」
「サンディが調べたところによると、まだ二千ワットは取り出せるそうだ」
「百ボルトでか?」
「二百ボルトでだ」
 ダフがメモを見ながら答えた。
「そいつはいい。業務用の電子レンジも使えるぜ」
「ここでコンビニでもやるか」
 ダフは苦笑しながら言った。
「フレッド。中二階の事務所にサンディが組み立てたコンピュータが置いてある」
「オッケイ。もう水はいやだ」
 ダフとフレッドは、壁際の金属フレームがむき出しになった階段を登って、中二階の事務所に上がった。
「おお、すごい」
 とフレッド。
「よく一晩でここまで組み立てたなあ」
 事務所の机には、サンディが組み立てたコンピュータが置かれていた。サーバーのラックマウントから取り出したむき出しの状態だったが、その非ノイマン型コンピュータは八割方組み上がっていた。
 ダフは、背負っていたバッグを床に降ろした。ドシャッと重そうな音がした。
「フレッド。そいつを完成させてくれ。オレはファイバーケーブルを引き込んでくる。こいつをネットに繋げちまわないことにははじまらん」
「輝も来るかな」
「たぶんな」
「捕まってると思うか?」
「さあな」
「捕まってたらどうする?」
「どうもこうもない。オレたちは捕まったら薬を飲んで自害することになってる。つまり、もう死んでるってことだ」
「そうか? ラウムがやられたんだ。もう死ぬ必要ねえじゃんか」
「ん?」
 事務所を出て行こうとしたダフは、立ち止まってフレッドをふり返った。
「言われてみりゃそうだな。もう秘密もねえってことか」
「そうだよ。組織の全体像は連邦にバレた」
「なるほど」
 ダフは、ポケットからピルケースを出した。
「こいつはもう必要ないな」
「そうそう。こんなもん、いらねえよ」
 フレッドもピルケースを出して、床に投げつけた。ダフもそうした。
「しかしなあ」
 とフレッド。
「ジャンもどこにいるかわからんし、オレたちじゃ安全保障局のコンピュータはハックできんぞ」
「輝が来ることを祈ろうぜ。アーメン」
「捕まってなけりゃいいが」
「そう心配すんなよ兄弟。サンディもいるんだ。あの二人ならなんとか切り抜けるさ」
「そうだな。最強だもんな」
「最強の頭脳と、最強の筋肉の組み合わせだ。パーフェクトだよ」
 ダフは自分に言い聞かせるように言った。
 彼らは仲間の死を何度も経験してきた。だから過度の期待を持たないように、自然と自分の心をブロックするのに慣れていた。彼らにとってここは戦場だった。だからこそ、ラウムの死を悲しむ気持ちさえ、無理やり押さえつけていた。
「なあダフ。なんであの二人くっついちまわないんだろうな。お似合いなのに」
「輝には地球に愛しの彼女がいるからだよ」
「そうなのか?」
「地球の幼なじみを、ずっと好きだったらしいぜ。輝はその女のところに行ったんだよ。会えるのは、これが最後のチャンスかもしれないから」
「よく知ってるなダフ」
「むかしサンディから聞いた」
「そうか。サンディは、そのことを知ってたのか」
「ああ」
「ショックだったろうな」
「だれが?」
「サンディがだよ。あいつ輝のこと好きなんじゃないのか」
「さあな。知らねえよ」
「ホントかよ。だれが見たって――」
「フレッド」
 ダフは、フレッドの言葉をさえぎった。
「無駄話してないで仕事をしようぜ」
「ま、そうだな」
 フレッドは肩をすくめて、コンピュータの組み立てをはじめた。

06-03

 森本は、長い一日を終えても苛立っていた。詩音がいない間、苦労するだろうとは思っていたが、それは想像以上だった。この機会に新人を育てろと署長に言われたからだったが、やっと長い勤務が終わったと思った矢先、神林輝の指名手配情報が飛び込んできたのだった。
「ダメです。やっぱアクセスできません」
 広瀬が、匙を投げたといわんばかりに両手をあげた。デスクのコンピュータモニタには、アクセス不許可の文字が出ているだけだった。
「くそっ」
 森本は舌打ちをした。
「いったい、どうなってるんだ。さっぱり現状が把握できん」
「署長はなんと言ってるんですか?」
「首を突っこむなといいやがった。知らぬ存ぜぬを決め込むつもりだ」
「連邦捜査局を敵に回したくないんでしょ。昇進に関わる」
「情けない。市警の管区でブレインサーチなんか使われて黙ってるとは」
「マジでヤバイ感じですもんね。オレらもあんまり首を突っこむと」
 広瀬は、首を切るマネをした。
「なーんてことになるかも」
「わかった」
 森本は、広瀬の肩に手をおいた。
「おまえはもう上がっていい。帰れ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ警部。オレはそういう意味で言ったんじゃないです。先輩がテロリストにだまされてるなんて信じられない。なにかの間違いですってば」
「だからといって、神林輝が指名手配されていることに変わりはない」
「そうでしょうか? 変ですよ。連邦捜査局は、神林輝を指名手配する根拠を示してない。データベースにアクセスできないなんて、ぜったいなんかある」
「ブレインサーチは証拠にならない。だから根拠を示せないんだ」
「ええ、そうでしょうね。ということは、神林輝は容疑者ではあるかもしれないけど、指名手配するのはやりすぎです」
「しかし、逃走してるぞ」
「無実の罪をきせられて逃げたのかも」
「お気楽な推理だな」
「可能性はゼロじゃないです。オレ、火星のこと調べたんですけど、連邦がアクセスをブロックしている箇所が異常に多い。市警のアクセス権限でも入れないんですよ。こんなの変だ。連邦捜査局だけじゃなく、安全保障局が絡んでるんじゃないかと思うんですよ」
「おまえ、連邦を信用しないというのか?」
「そうです。というか、うさん臭い。警部はどう思ってるんですか?」
「おまえほど楽観主義にはなれんが…… まあ、似たようなものだ」
「でしょ。バカにしてますよこんなの」
「本当にバカにしてるのかもしれん」
「は?」
「連邦捜査局は、ローカル警察なんか屁とも思ってないってことさ」
「言えてます。オレ、もう一度詩音先輩に電話してみますよ」
「いい。それはオレがやる。おまえはもう一度アクセスしてみろ」
「何度やっても同じですってば」
「いいからやれ」
「はいはい」
 広瀬は、タメ息をついて連邦捜査局が各国のローカル警察に公開しているデータベースへのアクセスを試みた。
 森本は、その画面を見ながら、詩音の携帯電話を呼び出した。何度電話しても同じだった。電源が入っていないというコールがあるだけだった。彼女の家に電話しても留守番電話が対応するだけだった。連絡しろという伝言をもう三度も入れたが、彼女からの連絡はなかった。
「ダメです」
 と広瀬。
「どうやっても神林輝の指名手配を要請する画面から先へ進めない。完ぺきにブロックされてますよ」
「こっちもダメだ。くそう。詩音、どこにいる」
 森本はうなった。だがつぎの瞬間、決断した。
「広瀬。おまえはここで待機。詩音の連絡を待て」
「警部は?」
「あいつのアパートに行ってみる」
「いないと思いますよぉ」
「うるさい。オレに地味な捜査は似合わん。行動あるのみだ」
 森本は、いすにかけたコートを引っつかんで立ち上がった。

06-04

 三十分もそうしていただろうか。鼻の頭がすっかり冷えていた。詩音は、やっと涙が枯れて立ち上がった。いつもは瞳の色を隠すためのサングラスが、いまは目の周りのはれぼったさを隠すのにも役立った。
 詩音は、地下鉄の駅に向かって歩きはじめた。そのとき、男の陰がチラリと見えた。いや、見えてはいなかった。感じた。
 尾行されてる。
 連邦捜査官ね。どうでもいいけど下手な尾行。輝が接触してくると思っているのでしょうけど…… そうか。ということは、あたしも信用されてないわけだ。輝を逃がすかもしれないと。
 バカな。あたしは刑事だ。もしも、目の前に輝が現れたら、この手で逮捕する。
 詩音は、拳を握った。向かっている地下鉄の駅は、アパートに帰るラインではなかった。市警のオフィスだ。バッジと拳銃を取りに向かったのだった。
 許さない。犯罪者は。敵だ。だれであっても。
 詩音は、ふとポケットの中のお守りを握っている自分に気づいた。
 輝からもらったビー玉。まだこんなものを。詩音は思わず苦笑した。
 バカみたい。こんなもの捨ててしまえ。
 詩音は、ビー玉の入ったお守りの袋を取り出して、皇居のお掘りに向かって投げようとした。だが、捨てることはできなかった。すでにそれは、輝からのプレゼントという以上の意味があった。二十二年間、自分を見守っていてくれたお守り。
 詩音は、お守りを見つめた。
 これをくれた八歳の輝に罪はなかった。そうよ。二十二年前には、離ればなれになるあたしのことを大切に思ってくれている彼がいた。
 詩音は、お守りをポケットに戻した。
 なぜ輝は変わってしまったのだろう。
 詩音は、少し冷静になって、そう思った。
 火星の環境のせい? それともサンディという女のせい? 神林明子博士の息子という立場のせい?
 わからない。輝はなにも話してくれなかった。あたしは、ファーマンから一方的に連邦の主張を聞いただけだわ。しかも、証拠にならないブレインサーチの映像を根拠にして。
 調べなきゃ。自分自身の手で。
 詩音は、いままで感情が乱れていたことを恥じた。サンディ。あの女の映像を見せられたせいだ。忘れなきゃ。感情に流されてはいけない。二十二年という時間は、簡単に捨て去るにはあまりにも重かった。少なくとも、彼から、輝自身から説明を聞きたい。それが、どんなにつらい事実でも。いいわけでもいい。うそでさえなければ。許せるうそはあるかもしれない。でも、信じたいうそはない。
 詩音は、ポケットの中のお守りを握りしめた。
 やっぱり、これはあたしのお守りね。
 冷静さを取り戻した詩音は、いままで二人の時間を邪魔されたくなくて、携帯電話のスイッチを切っていたことを思い出した。
 電源を入れる。
 携帯電話。そうだ。輝も携帯電話を持っているんだった。ファーマンにその話はしなかった。いや、連邦捜査局がその程度のことを調べていないはずがない。もしあたしが輝に電話して、それが繋がったら連邦捜査局はすぐに逆探知して、基地局を特定するだろう。半径十五メートル以内の精度で、彼の居場所が突き止められる。
 詩音はそう思って、いまにも彼の携帯をコールしそうになる自分を抑えた。だめ。いまはまだ、輝の身柄を連邦捜査局に渡したくない。
 そのとき、詩音の携帯が鳴り出したので、一瞬ドキリとした。だがかけてきた相手は森本だった。
 詩音は、電話に出た。
「はい。結城です」
『詩音!』
 森本の叫ぶような声が聞こえた。
『やっとつかまった! おまえ、いまどこにいる!』
「あ、えっと、桜田門です」
『連邦捜査局か!』
「はい。いままで捜査局からブリーフィングを受けていました」
『それで、どういうことなんだ?』
「それで、とは?」
『バカ野郎、おまえの男のことに決まってるじゃねえか!』
「警部。あたしの電話はたぶん連邦捜査局に…… わかりますよね」
『なるほど。広瀬の推理はあながち間違いじゃないかもしれん。オレはいま、おまえのアパートに向かってるところだ。どこかで合流しよう』
「警部。でしたら、オフィスにしましょう。あたしバッジと銃を取りにいこうと思っていたところなんです」
『わかった。オレは五分で戻れる』
「あたしも二十分後には行きます」
 詩音は携帯を切った。

06-05

 二十分後。詩音は、オフィスに戻った。思えば、なんと目まぐるしい一日だろう。その一日もすでに日付が変わろうとする時間だった。
「警部。お待たせしました」
 森本は、詩音の姿を見てホッとした。心底ホッとした。だがそんな顔を見せることなく詩音に言った。
「説明しろ」
「はい」
 詩音は、一級刑事らしい態度で、いままでの出来事を過不足なく上司に報告した。ブレインサーチで見たサンディという女はもちろん、輝から聞いた、断片的な火星の状況も簡潔に説明した。
 話を聞き終わった広瀬が眉をひそめた。
「ひでえな。それじゃあ、連邦捜査局は、ブレインサーチの情報だけで動いてるってことじゃないですか。オレらが同じことやったら、違法捜査で免職ですよ」
「広瀬」
 と森本。
「いま、やつらの手段をウンヌンする暇はない。オレが知りたいのは真実だ」
「その真実ってやつが、ぼやけてるわけなんですよ」
 こんどは広瀬が、詩音に連邦捜査局のデータベースにアクセス制限がかかっている事実を知らせた。
「うさん臭いわね」
「オレもそう思います」
「さっき警部が言ってた、あなたの推理って?」
「推理なんてたいしたもんじゃないです。じつはMGRのことも調べたんですが、どーも変なんですよ。連邦のバトルシップを破壊したことになってますが、その検証に連邦航宙局の査察官が入ってないんです。軍だけで行われている。安全保障局のグラハム中将とかいうオッサンが、議会で迅速な調査のためとかなんとか説明したみたいですけど、説得力がないですね」
「つまり、どういうことなのよ?」
 詩音は、少しイラついた声で聞いた。
「めったなことは言えませんけどね」
 と広瀬は断ってから言った。
「MGRって、本当は破壊活動とかやってないんじゃないですか?」
「えっ?」
 詩音は、広瀬の言葉に思わず身を乗り出した。
「どうしてそう思うのよ?」
「断片的な情報しか集まらないんですけど、その中でも信憑性がありそうな情報だけをふるいにかけると、どうもMGRって、火星の緑化を推進してるだけにしか思えないんですよね」
「火星の緑化は資金的に不可能だってファーマンは言ってたわ」
「ええ、安全保障局の試算ではそうです。ですが彼らの計算は、神林明子博士の研究が失敗したという前提で行われています」
「もしも」
 詩音は、胸の鼓動が激しくなるのを感じながら広瀬に聞いた。
「本当は成功してるんだとしたら?」
「さあ、そいつはわかりません。オレは科学者じゃないですから」
「でもでも、ずっと安く緑化が実現できる可能性はあるわけよね? そうよね?」
 詩音の声は、そうであってほしいという願いがこもっていた。
 広瀬は、詩音の気持ちを十分に感じ取っていたが、だからこそ冷静に答えた。
「可能性としてはありますね」
「そうなると、火星が独立するかもしれないわね」
「そういうと思いましたよ」
「どうなのよ?」
「まあ、その可能性もありますね」
「火星が独立したら、連邦はヘリウム3の権利を失うってことよね」
「ですね」
「つまり」
 詩音は、つばをゴクリと飲んで言った。
「安全保障局は、それを恐れて輝を―― いえ、MGRをテロリストに指定した?」
「そういう推理が成り立ちます」
「な、なんてこと……」
 詩音は、自分でも声が震えるのがわかった。
「まいったぜ」
 森本が、ピシャリと額をたたいた。
「それがもし事実だとしたら、どえらいことだぞ。市警の刑事が首を突っこめる話じゃなくなる」
「ヤバイっすよねえ」
 広瀬も肩をすくめた。
「最終的には……」
 詩音は、森本に答えるというより、自分に言い聞かせるように言った。
「あたしたちの扱える問題じゃなくなります。高度に政治的な問題だわ。ですが輝は指名手配されてます。それがいまの現実です。火星の独立なんて関係ない。もしも輝を見つけたら、刑事として彼を逮捕します。身柄を拘束しなきゃ。一刻も早く。あたしたちがです。連邦には渡せない。急がなきゃ」
 詩音は、すでに浮き足立っていた。
「待てよ。おまえらの推理がまるで間違っていたらどうする?」
「輝が本当にテロリストだったらという意味ですか?」
「そうだ」
「同じことです。逮捕します」
「管轄が違う」
「ですから、彼は指名手配犯です。管轄なんか関係ないわ。見つけたら捕まえる。刑事の義務です」
「やれやれだ」
 森本は、肩をすくめた。
「どんな結果になっても知らんぞ」
「後悔しません。いいえ、連邦捜査局の言いなりになるほうが、よほど後悔します。もちろん、あたしひとりの責任で行います」
「わかったよ」
 森本は両手をあげた。
「とめるつもりはない。とめたって無駄だろうからな。で、なにか手はあるのか?」
「はい」
 詩音は、携帯電話を取り出した。
「彼も携帯を持っています。そして、その番号をあたしは知っています」
「捜査局も知ってるだろうよ」
「そうなんですけど…… なんとか先手を打てれば」
「無理だ」
 森本は断言するように言った。
「連邦捜査局の方が、オレらよりはるかに装備がいい。技術的にやつらの先手を打つのは不可能だ」
「待ってください」
 広瀬が口をはさんだ。
「もしもオレたちの推理が正しければ、神林輝にとって先輩は、地球側の唯一の味方ですよ。捜査局と安全保障局の秘密を暴いてくれる手助けになる。だからこそ神林輝は、先輩とのパイプを維持したとも…… あ、いえ、個人的な恋愛感情を抜きにしてですよ」
「いいから続けて」
「いや、マジで恋愛感情は別問題ですからね」
「続けなさいって言ってるでしょ」
 詩音は、広瀬をにらんだ。
「はい」
 広瀬は、肩をすくめながら続けた。
「えーと、つまりですね。神林輝は、先輩が刑事という職業なのを利用すると思うんですよ。もしも捜査局か安全保障局が不正行為を働いていて、その証拠を神林輝がつかんだとしたら、先輩に連絡してくると思います。われわれ市警の権限で、監査委員会を動かすことができますからね。彼はそれを狙ってるんじゃないでしょうか。いや、狙ってるってのは変だな。期待してるんじゃないでしょうか」
「それで、彼はあたしとメールで付き合ってた?」
「ですから、それとこれとは別問題だって言ったじゃないですか」
「でも!」
 詩音は、広瀬に食ってかかった。
「いまのいい方じゃ、そう言ってるようなもんじゃない!」
「おい詩音」
 森本が詩音の肩を押さえた。
「あまりムキになるな。ムキになればなるほど、おまえ自身そう思ってると言ってるようなもんだぞ」
「警部! あたしはべつに!」
「いいから黙ってろ」
 森本は詩音を黙らせると広瀬に言った。
「広瀬。つまり神林輝のほうから詩音に接触してくる可能性が大きいというわけだな」
「そうです」
 広瀬はうなずいた。
「たぶん。いや、絶対に向こうから連絡してきますよ。賭けてもいい。もちろん連邦に盗聴されてるのを承知でしょうから、なんらかの手を打ってくると思います」
「詩音」
 と森本。
「おまえの男が、どういう気持ちでおまえと続いていたのかは知らん。だが、テロリストではないかもしれん。少なくとも捜査局の主張には疑問がある。それがわかっただけでもよしとしろ。いまは待つんだ」
「ええ……」
 詩音は考え込むようにうなずいた。
「オレは」
 と広瀬。
「神林輝は、先輩のこと愛してると思うな」
「なんでそう思うのよ?」
 詩音は、意外な言葉を聞いたという顔を広瀬に向けた。
「なんででしょうね。同じ男だからかな。なんとなくそう思います。もしも刑事としての先輩が必要なだけなら、ずっと好きだったなんて芝居をしなくてもいい。自分の主張が正しいと思ってればなおさらですよ。警部もそう思いませんか?」
「さあな」
 森本は、軽く首をかしげた。
「オレは、おまえほどロマンチストじゃない。だがこれだけは言える。オレは連邦捜査局が気に食わん。捜査局の言うとおり神林輝がテロリストだったとしてもだ。やつらはゲシュタポだ。警官じゃない。コケにされるのだけはごめんだ」
「ですね」
 広瀬は、大きくうなずいた。
「こいつは、しばらく家に帰れませんよ」
「そうだな。女房に電話しとくか」
 森本は、デスクの電話を取った。
 詩音は、そのとたん、こんなことに巻き込んでしまった責任を感じた。
「すいません」
 詩音は、森本に謝った。
「なにが?」
 と森本。
「いえ、あたしのために、こんなことに巻き込んでしまって」
「バカ野郎。やつらにコケにされるのはごめんだと言ったろう。おまえのためじゃない。勘違いするな」
「そうそう。そういうことにしときましょうよ先輩」
 広瀬は笑いながら詩音にウインクした。
 詩音は苦笑した。
 冷静なのか熱いのか、感情的なのか論理的なのかわからないが、こんな上司と仲間が頼もしかった。そしてありがたかった。


07

07-01

「どうだ、フレッド」
 ダフは、事務所に引き込んだファイバーケーブルを、ルーターに接続していた。
「オッケイ。繋がった」
 とフレッド。組み上がったコンピュータのキーボードをたたく。
「いいねえ。テラビットは速いねえ。火星のローカルネットワークなんて、いまだにメガビットのナローバンドだもんなあ。情けねえ話だぜ。おっと、速いのはいいけど、メモリが足りねえぞ」
「圧縮かけろよ」
「あ、そうか。えーと、圧縮の設定は…… あれ、わかんねえ。これ最新のオーエスだな。設定画面が違うぞ」
「ヘルプは?」
「いま見てる。このヘルプってのがまた、わかりにくくて、ヘルプのためのヘルプがほしいと思うオレは間違ってるか?」
「なにをぶつぶつ言ってるんだか」
 そのとき。事務所の外で物音が聞こえた。
 ダフとフレッドは、手をとめて、すぐさま腰のホルスターの拳銃を抜いた。銃口をドアに向ける。
「ダフ? いるの?」
 サンディの声だった。
 ダフとフレッドは、ホッと息をはいて拳銃を戻した。
「サンディ。大丈夫だ。入ってこいよ」
 ダフが声をかけた。
 ドアが開いた。
 サンディと輝が入ってきた。
「輝!」
 ダフとフレッドは、飛び上がった。
「よかった無事だったんだな! アーメン! 神よ感謝!」
 ダフは、うれしさのあまり輝に抱きついた。
「ホントだぜ! マジ心配した!」
 フレッドも輝に抱きついた。
 いままで押し殺していた不安から開放された喜びだった。
「心配かけてすまない」
 輝は、二人の抱擁に苦笑しながら言った。
「またサンディに助けられたよ」
「感謝してよね」
 サンディは輝にウインクした。
「あははは。やっぱサンディは強いよな」
 フレッドは、輝の背中をバンバンたたきながら言った。
「まったくだ」
 とダフ。
「そのうえ美人ときてる。こんないい女、宇宙に二人といないぜ」
「なによあんたたち」
 とサンディ。
「おだてたってなんにも出ないわよ。そんなことよりダフ。武器は持ち出せた?」
「ああ」
 ダフは、床に置いてあるバッグに視線を走らせながら答えた。
「これしか持ち出せなかった。すまん」
「そう…… いいのよ。わたしの連絡が遅かったのが悪いんだから」
「武器なんか必要ない」
 と輝。デスクの上の組み上がったコンピュータを見た。
「こいつで安全保障局のコンピュータに侵入する。母さんの研究データさえ手に入れれば、もう争う必要もない」
「ああ」
 フレッドがうなずいた。
「いまネットにも接続したところだ。でもデータ圧縮の設定がわかんなくてよ」
「あとは、ぼくがやろう」
 輝は革のコートを脱いでいすにかけると、コンピュータモニタの前に座って腕まくりをした。
「お手並み拝見」
 とフレッド。
「まかせとけ」
 輝はキーボードをたたいた。なにか設定画面が出たが、それは一瞬で閉じた。
「え? もう終わったのか?」
 とフレッド。
「もちろん」
 輝はキーボードをたたきながら答えると、ネットのサイトに接続して、十桁以上ある暗証番号を入力。ソフトウエアをダウンロード。有名なハッカーズサイトだった。ハッキングツールをダウンロードしたのだ。
「バック・オリフィスの最新版だ」
 と輝。
「こいつのコードを書き換えるのに一時間はかかる。それまで休んでてくれ」
 サンディは床に座り込んで、コートから携帯端末を出した。電波が受信できなかった。
「輝」
 とサンディ。
「ジャンのフリーメールを確認して。携帯端末じゃ確認できない」
「オッケイ」
 輝はメーラーにアドレスとパスワードを入力した。
「まだ来てない。メッセージが入ったら、ポップアップウィンドウが知らせるように設定した」
「ありがと。ちょっと休むわ。さすがに疲れた」
 きのうから、つまり地球に来てから彼女は一睡もしていないのだった。秋葉原でコンピュータの部品をかき集め、この場所を探して組み立てまでひとりでこなした。ネオ・ジェネシスの彼女でも、さすがに疲労していた。
「オレらも、ちょいと休むぜ」
 ダフとフレッドも、思い思いの場所に横になった。すでに日付が変わっていた。
 輝は、彼らをふり返って、お休みと小声で言うと、ふたたびコンピュータのキーボードをたたきはじめた。高速に。頭の中に完ぺきに記憶している、ハッキングツールの改良コードを無心に打ち続けた。キーボードをたたいている間だけは、詩音のことを忘れていられた。
 だが……
 自分の正体が捜査局に知れた以上、最後に頼れるのは詩音しかいない。輝はそのことを知っていた。

07-02

「言っとくが」
 ジャン・メイムは、二十四時間営業のレストランで分厚いステーキをほおばりながら目の前の男に言った。
「輝を捕まえられなかったのはそっちの不手際だぜ。オレの知ったこっちゃない」
「無駄口をたたくな」
 ジャンの目の前の男が無表情に言った。ファーマンだった。
「それより、自分の心配をしろ。輝の隠れ家を教えなければ、おまえの口座に入金した金をその目で見ることができなくなるぞ」
「だから、オレも知らねえよ」
 ジャンは、油で汚れた口元をナプキンでふいた。
「ブレインサーチをかけたって無駄だ。本当に知らないんだからな。オレらのやり方は知ってるだろ?」
「連絡はいつ入る?」
「こっちが連絡すればいつでも」
「方法は?」
「メールだ」
「ふむ。フリーメールか。では、おまえをブレインサーチにかけて、そのアドレスを引き出そう。その脳細胞からな」
「言うと思った」
 ジャンは肩をすくめた。
「あんた輝とサンディを甘く見てるよ。あいつらが、そう簡単につかまるもんか。オレが連絡したって、いまの隠れ家をそのまま教えるはずがねえ」
「どういうことだ?」
「まず、まったく別の場所を教えて、そこでオレに尾行がついてないかどうか確認するさ。あんただって、そうするだろ?」
「つまり、そこにおまえが現れなければ、やつらはまた姿を消す。そういいたいのか?」
「そうだ。わかってるじゃんか」
「おまえが裏切らないという保障は?」
「裏切るって、だれを?」
「われわれをだ。貴様のようなやつは信用できん」
「心外だね」
 ジャンはムッとした。
「オレは、あんたたちに井上とデイビッドの居場所を教えた。いいか、仮にも仲間だった連中を売ったんだ。もう後戻りはできない。本来なら、もうカナダに高飛びしているはずだった。あんたらが輝をつかまえられなかったから、こうしてまた協力しようって言ってんじゃないか。わかるか? そっちの都合で会ってるんだぜ」
「だからなんだ。百万ドルでは不足だと言うつもりか?」
「金は百万ドルで十分だ。追加はない。欲を出して墓穴掘るほどバカじゃねえ」
「だったら、早く連絡を入れろ」
「待てよ。こっちにも言いたいことがある」
「なんだ」
「これが最後だ。輝がいる場所がわかったら、連絡する。そのままオレは消える。あんた方に渡された通信機をその場に捨ててだ。二度と連絡はしない。されたくもない。もうオレにかまわないでくれ。忘れてくれ。いますぐリストから消してくれ。こそこそ隠れて暮らすのは、もうたくさんだ。オレは自由になりたい。地球でだ」
「それは最初の約束どおりだ。おまえはリストから消す」
「これが最後だ。この場で約束してくれ」
「わかった」
「マジだぜ。頼むよ。オレはもう関係ねえ」
 ジャンは、そういって立ち上がった。
「いいな。これが最後だからな。二度と会わねえぞ」
「くどい」
「おまえらは…… いやいい」
 ジャンは、首をふってレストランを出た。
 後ろをふり返る。尾行はなかった。いまのところ。
 そのまま地下鉄に乗って、二駅ほど離れ、また別のラインに乗り換えて、三駅ほど離れた。そこで地下鉄を降りると、構内の販売店で紙袋を買った。そして、駅を出て近くの銀行に入った。二十四時間稼働しているATMにIDカードを差し込んで暗証番号を打ち込む。ファーマンが約束したとおりIDカードは本物で、そして口座には百万ドルが入っていた。
 ジャンは、オランダの銀行を呼び出して、そこに新しい口座を作った。十万ドルを振り込む。スイスの銀行にも口座を作り十万ドル。アメリカ、カナダ、ブラジル、イギリスと続けて、もとの口座には十万ドルを残し、残ったそれは日本円で引き出した。金を紙袋に押し込む。
「ふう……」
 ジャンは、金をつめ終わると一息ついた。銀行を出る。自然と小走りになっていた。そして最初に見つけたコンビニに入って、店内のフリー端末で、航空チケットを検索した。三時間後に羽田航宙ポートを出るバージンエアーのイギリス便があった。場所はどこでもよかった。時間が問題なのだ。一刻も早く日本を出たかった。
 ジャンは、そのチケットを購入した。代金は口座からの引き落としにしようかと思ったが、やめた。現金投入口に片道分の八万円を入れる。チケットが発行された。ジャンは、チケットをコートのポケットに突っ込んだ。そしてコンビニの向かいにあるコーヒーショップに入ると、エスプレッソを注文して、携帯端末からメールを送信した。

07-03

 ピポッ。と音がして、ポップアップウィンドウが立ち上がった。
 輝はメーラーを起動した。

『サンディ。オレだ。尾行がいないかどうか確認するのに手間取った。大丈夫のようだ。どこに行けばいい?』

 輝は、ホッと息を吐いた。よかった。ジャンは無事だった。まったく心配させる。もっと早く連絡してこいよ。
「サンディ」
 輝はふり返って、寝ているサンディに声をかけた。
「えっ!」
 サンディは、驚いたように目を開けた。
「なに? ファーマン?」
 寝ぼけていた。追われることが日常なのだ。
「違う。ジャンだ。無事だった」
「ジャン……」
 サンディは、目をこすった。
「よかった。どこにいるって?」
「逆だ。どこに行けばいいか聞いてきてる」
「一分待って。まだ寝ぼけてる」
 輝はいすから立ち上がって、サンディの肩をもんだ。
「大丈夫か。ぼくが行こうか?」
「平気よ。あ、そこ気持ちいい。もっと強くもんで」
 寝ていたフレッドが薄目を開けた。
「むにゃ…… 輝ぅ。もむ場所を間違えるんじゃねえぞぉ……」
「バカ。あんたじゃないわよ。輝は紳士なんだから」
 サンディは、立ち上がった。
「ありがと輝。目が覚めた。で、ジャンはなんだって?」
 サンディは、コンピュータのモニタに映っているメールを読みにいった。
「なあフレッド」
 と輝は、小声で言った。
「ぼくって紳士なのかな?」
 返事はなかった。輝はフレッドを見た。彼はまた寝入っていた。輝は肩をすくめた。
「ねえ輝」
 とサンディ。
「どう思う? 大丈夫かな」
「尾行か?」
「うん」
「ジャンのことだから心配はないだろうけど、念のために別の場所で会って確認した方がいいな。衛星システムで追われている可能性もある」
「そうね。どのみち、この場所をメールで教えたって、土地勘のないあいつにわかるとも思えない」
 サンディは、そういいながら伸びをした。
「うーん…… わたしどのくらい寝た?」
「一時間半ぐらいだよ」
「そっか。よく寝たって感じ…… 一時間半ですって? あたしそんなに寝てたの?」
「そうだよ」
「もう、三十分ぐらいで起こしてくれればいいのに」
 輝とサンディの声を聞いて、ダフも目を覚ました。
「う~っ、寝た。いま何時だ?」
「午前二時だ」
 と輝。
「ジャンから連絡があった」
「そうか! 無事だったか」
「ええ。いまから迎えに行ってくるわ」
「オレも行こう」
 とダフ。
「遠慮しとくわ」
 サンディは苦笑した。
「あんたが一緒じゃ目立つもの」
 すると、フレッドもあくびをしながら目を覚ました。
「ふあああ。なにが目立つって?」
「フレッド。あんた起きてたんじゃないの?」
「だれが?」
 首をかしげるフレッド。
「寝ぼけてたのね」
「だから、だれが?」
「もういいわよ」
 サンディは、またまた苦笑すると、輝に聞いた。
「で、プログラムのコードは改良し終わったの?」
「ああ。いまポートをスキャンしているところだ。安全保障局は、さすがにガードが固い。でも連邦捜査局のほうから、なんとか攻めて行けそうだよ」
「見たいわね。急いでジャンを呼んでくるわ」
「オーケイ。ジャンとはどこで会うことにする?」
「近くても遠くても困る。そうね。有楽町にしましょう」
「有楽町で逢いましょうか。いいね」
「なにそれ?」
「そういう映画があったんだよ。むかしむかし。いや歌だったかな。まあ、どっちでもいいけど」
「ふうん。なんかよくわかんないけど、有楽町にデパートがあるじゃない。あの正面に出る地下の出口で落ち合うって、返事を書いといて」
「了解」
 輝は、流れるような手つきでメールに返信した。
「どのくらいで侵入できそう?」
「三十分もあれば」
「オッケイ。それまでには戻ってくるわ」
「気をつけて。とくに衛星に気をつけろ。いつでも上から見られてるぞ」
「あんなの、火星ドームの監視カメラより百万倍もマシよ」
「だからって油断するなよ」
「わかってる」
 サンディは、銃を腰のホルスターにさして事務所を出ていった。
「勇ましいねえ」
 とフレッドが言った。
「現代のカウボーイ…… いや、カウガールか」
「スーパーガールさ」
 輝がフレッドに応えたとき、モニタに映っていたポートスキャニングの画面が終了した。
「終わった」
「侵入できるのか?」
 とダフ。
「まだだ。相手のオーエスがわかっただけだよ。これからホールを探す」
 輝はキーボードをたたいて、ハッキングツールのロジックを起動した。
「これでどうだ」
 エラー。
「くそっ」
 またキーボードをたたく。
 エラー。
「これもダメか」
「天才が苦労してるぜダフ」
「しっ。黙ってろよ。輝の気が散る」
 ダフとフレッドは、黙って輝の作業を見つめた。モニタにはエラーの文字が何度も浮かんでは消えた。
「ぜったいにホールがあるはずなんだ」
 輝は独り言のように言った。
「人間の作ったものだ。人間が破れないわけがない。ちくしょう。コーヒーが飲みたいな」
「買ってこようか?」
 とフレッド。
「いや、いい。外に出るな。独り言だよ」
 輝は軽く手をふって、またキーボードをたたく。
 すると。モニタに文字列がずらずらと表示された。
「よーし」
 輝はガッツポーズ。
「URLのエンコードされた文字列を処理する方法にホールがあったぞ。いいね。この文字列をエンコードしてリダイレクトすれば、捜査局のだれかがアクセスしたときに、情報が共有できる。ご機嫌だ」
「なんだか、さっぱりわかんねえ」
 とフレッド。
「まあ、見ててくれ」
 輝は文字列を作成してエンコードし、それを連邦捜査局のサーバーに送った。
「さあ、食いつけ。だれでもいい。よしきた! 一般事務員の萩原理恵さん。こんばんは。こんな時間まで残業ですか。ご苦労さま。でも、仕事をさぼってネットなんか見ちゃダメだよ。きみのコンピュータを踏み台にさせてもらう」
「水を得た魚ってやつだな」
 ダフが、苦笑した。
 輝は、いままで以上の速さでキーボードをたたいた。
「モニタリングロジックが動き出す前に、上位権限のクライアントに乗り換えないと。ファーマンのクライアントがあればおもしろいんだが。ないな。ファーマンのオフィスじゃないからか。どれがいい。どれにする。極東アジア地区部長。いいね。こいつに決定」
 輝は、ぶつぶつ独り言をいいながら、侵入を続けた。
「ビンゴ。大当たり。アクセスコード採りまくりだ。安全保障局のコードもある。最高だ。疲れが吹っ飛ぶね」
「侵入できるのか?」
「ああ。もう繋がった」
 ダフとフレッドも興奮したようすでモニタを眺めた。

07-04

 ジャンは、返信メールを見て、エスプレッソを飲みほした。携帯端末に地下鉄の路線図を出す。彼がいるのは浅草だった。有楽町へは銀座ラインで行けることを確認してコーヒーショップを出た。
 銀座には十分でついた。地下道を通って有楽町へ向かう。その途中、コインロッカーに金の入った紙袋を押し込んだ。そしてデパートの前に出る出口を探す。その出口を見つけて周りを見回したが、サンディの姿はなかった。
 ジャンは待った。サンディのやり方はわかっていた。いま、彼女はどこかでオレを見ている。尾行がついていないか確認しているはずだ。
 五分たった。
 地下鉄の改札から、客が出てきた。その客の中に混じってサンディがいた。金髪のサングラスをした女。
「ハイ。お待たせ」
「まさか、いま来たのか?」
 ジャンは聞いた。
「冗談でしょ。近くにいたわ。尾行は大丈夫みたいね」
「やっぱりな。そんなこったろうと思ったぜ」
「よかったわ」
 サンディは、ほほ笑んだ。
「本当に心配したのよ。あんたまでやられたら…… ホント気が気じゃなかった」
「輝は?」
「大丈夫。いま侵入コードを探してるわ。もう見つけてるころかも」
「そうか。行こう。オレも手伝わなきゃ」
「ええ。ジャン…… 大丈夫? 顔色が悪いわよ」
「そ、そうか? コールドスリープの影響だよ。平気だ。心配すんな」
「ホントに? どこか撃たれたんじゃないでしょうね?」
「違うって」
「ならいけど」
 くそっ。いまさら優しくすんなよ。ジャンは、心の中でサンディに悪態をついた。いままで、さんざんモーションかけても、おまえは輝に心を奪われていた。オレはあいつに勝てない。おまえをモノにできないなら、火星の緑化なんてクソ食らえだ。
「どうしたの?」
「なんでもない。行こうぜ」
「ええ。こっちよ」
 ジャンは、サンディのあとについて地下道を歩いた。東京ステーション方面に向かっているのはジャンにもわかった。五分ほど歩くと、サンディは、ちょっと周りを見て関係者以外立入禁止と書かれたドアを開けて、中に入った。ジャンも、サンディが半開きにしたドアをすり抜けるように中に入る。
 細い道だった。鉱山ではないが、坑道のようだった。その先に潜水艦のパッチのようなドアがあった。サンディはそれを開けた。
「地下か?」
 とジャン。
「そう。二十一世紀の残骸ね。入り組んでるから、離れたら迷子になるわよ」
「オッケイ」
 二人は中に入った。電灯はなかった。サンディが携帯ライトをつける。金属フレームの階段を降りると、いまは使われていない空調設備が並ぶ広場に出た。広場といっても天井は低かった。そこを抜けると、さらに階段があった。降りる。かなり長い階段だった。地下五階分ぐらいは降りた。
 また細い道だった。コンクリートの床が、うっすらと湿っていた。
「ここからは床が滑るわよ」
「水か?」
「ええ。地下水で水没してるのよ」
「水没とはね。アトランティス大陸みたいだな」
「そうかもね」
 サンディは笑いながら、先に進んだ。
「それにしても、マジで入り組んでるな。道はここしかないのか?」
「まさか。ほかにもあるわよ」
「一番簡単なのを教えてくれよ」
「有楽町からだったら、このルートが最短なのよ」
「そうか……」
 ジャンは肩をすくめた。ファーマンにどう説明するか悩む。
 また階段があった。そこを降りると、いよいよ床が水びたしになっていた。
「ここよ」
 サンディは、電気配電室と書かれたドアの前で止まった。
「あー、だめだ。道順が覚えられねえ。やっぱ一番簡単なルートを教えてくれ」
「わたしがついてるから平気よ」
「待てよ。万が一がある。オレひとりで外に出れるようにしときたいんだよ」
「まあ、そうね…… でも後回しよ。輝を手伝ってあげて」
 サンディはドアを開けて中に入った。
「くそっ」
 ジャンは、小声で悪態をつきながらサンディに続いた。輝はもちろん、ダフとフレッドに会いたくなかった。
 事務所に入ると、ダフが抱きついてきた。
「おー、ジャン! よかった、よかった。神に感謝! アーメン!」
「へへへ」
 フレッドは、鼻の頭をかいた。
「これで、生き残りが勢ぞろいだな」
「そうだな」
 ジャンは苦笑した。まさに苦い笑い顔だった。
 輝がいすから立ち上がってジャンに握手を求めた。
「よかった。心配したぞ」
「お、おう。おまえも元気そうでなによりだ」
「コールドスリープの影響はどうだ?」
「あるよ。つらいよな」
「まったくだ。まあ、ぼくはだいぶよくなったけど。ジャンはまだつらそうだな。顔色が悪いぞ」
「大丈夫だ。それよりどうなってる?」
 ジャンはデスクのモニタに視線を移した。
「いいところだよ。お袋の残したデータを検索していたところだ」
「侵入できたの?」
 サンディが聞く。
「当然さ。こんなのちょろいもんだ」
 そのとき。検索が終わり、結果が表示された。
「出た」
 輝はいすに戻って、キーボードをたたいた。
「あるぞ。こいつにアクセスを…… ダメだ。できない」
「コードがべつなのか?」
 ジャンが聞く。
「違う。ちくしょう。なんてことだ」
「どうしたのよ?」
 とサンディ。
「ネットワークから切り離されてる。コンピュータ上に存在しない」
「わかりやすく説明して」
 サンディがイラついたこえで言う。
「ペーパーだ。紙だよ。紙の書類としてしか存在してない。考えたな。究極のファイアウォールだ」
「つまり」
 とダフ。
「そいつを盗みに入らなきゃイカンってことか?」
「そうだ」
「場所は?」
 とサンディ。
「青梅研究所」
「神林明子博士の勤めていた研究所ね」
「ああ」
「オッケイ。作戦を練りましょ」
「作戦たって」
 とフレッド。
「こんなこと想定してなかったぞ。強盗でもするのか?」
「強盗だってなんだってやるわ。ぜったい最後までやり抜く。死んだ仲間のためにも」
 ジャンは、死んだ仲間という言葉に、胸がチクンと痛んだ。これ以上彼らの顔を見ているのは耐えられなかった。
「わ、わりい。ちょっと、ションベンしてくる。漏れそうだ」
「おいおい。涙の再会が台無しだな」
 ダフが言った。
 ジャンは、ゆがんだ愛想笑いを浮かべながら事務所のドアを開けた。
「ジャン!」
 サンディが声をかけた。
 ジャンは、ドキンと心臓が高鳴った。
「な、なんだよ?」
「これ」
 サンディが懐中電灯を投げた。
「あ、サンキュ」
 ジャンは懐中電灯を空中でキャッチして、事務所を出た。水びたしの床に降りる。
 悪いな。恨むなよ。オレはもう疲れた。
 ジャンは、事務所を見上げて首をふると、電気配電室を出た。
 そこにファーマンがいた。
「ファ、ファーマン!」
 ジャンは、叫び声をあげたとたん、ファーマンの部下に取り押さえられ、口をふさがれた。
「ご苦労」
 ファーマンは、氷のようなほほ笑みを浮かべながら言った。
「おまえのような男でも、少しは役にたった」
 探知機だ。探知機を仕掛けられていた。ジャンは悟った。
「む、むうう! むううう!」
 ジャンは、抗議の声を出したが口をふさがれているので声にならなかった。
「おい。取り付けろ」
 ファーマンは、冷やかな声で部下に命令した。ファーマンの部下は、ジャンのコートを広げて、腹にベルトを巻き付けた。
「爆弾だ」
 ファーマンは、楽しそうな声で言った。
「オレの持っているスイッチでいつでもおまえを爆破できる。死にたくなければ、これから仲間のところに戻って、やつらを殺してこい」
 ジャンは、ガクガクと足が震えた。こいつは悪魔だ。正真正銘の。
「心配するな」
 ファーマンは、にんまりと笑った。
「言うとおりにすればおまえの命は助けてやる。おい、しゃべれるようにしてやれ」
 ファーマンの部下は、ジャンの口を自由にした。
「う、うそだ……」
 ジャンは、唸るように言った。
「どうせ、オレも殺す気だ」
「おまえは殺さない」
 ファーマンは、ジャンの髪の毛をわしづかみにした。
「火星の仲間をあぶりだす道具にする。この世からMGRがすべていなくなれば、開放してやる。それまで働け」
「い、いやだ……」
「では死ね」
 ファーマンは、ジャンのこめかみに銃を突きつけた。
 本気だ。殺される。ジャンは血の気が失せた。
「ま、待て! やる! やるから!」
「よし」
 ファーマンは銃を下げた。そして、その銃をジャンの腰に巻かれたベルトの間にさした。
「弾は五発入ってる。外すなよ。ああ、外すといえば、この爆弾のベルトを外そうとすれば自動的に爆発する。変な気は起こすな」
 ジャンは無言でうなずいた。
「よし。行け」
 ファーマンはドアを開けて、ジャンを中に押し込んだ。
 ジャンは足が震えた。歩けない。おそらくファーマンの言葉はうそではないだろうと思った。火星の仲間をすべて差し出すまでは生きていられる……
 いや、もう仲間ではない。オレは裏切り者だ。この世に仲間はいない。そしてオレは、最後に殺される。間違いない。ファーマン。あいつは悪魔だ。人間じゃない。バカだった。サンディ。彼女のことが好きだった。だから輝が憎かった。その結果がこれだ。もう遅い。なにもかもが。もう遅い……
 オレは死ぬ。オレは死ぬ。オレは死ぬ…… サンディ。サンディ。サンディ……
「サンディ!」
 ジャンは叫んだ。腹の底から絞り出すような声だった。
「逃げろ! 連邦だ!」
 つぎの瞬間。ジャンの頭の中は真っ白になった。痛みは感じなかった。自分の身体が爆弾で飛び散るところを意識することもなかった。
 ジャンの叫び声を聞いたサンディは、ホルスターの銃に手をかけていた。そして爆発音。振動がビリビリと伝わった。
「輝!」
 サンディは叫んだ。輝は、まだコンピューターのキーボードをたたいていた。
「なにしてんの、早く!」
「三十秒待ってくれ!」
 輝は叫び返した。
 いままで組んだプログラムとデータを、携帯端末に転送する。転送の進行を示すバーが伸びる。おそろしく遅く感じた。
 ダフは、武器の入ったバッグから口にくわえられる小型の酸素ボンベを人数分取り出して、全員に投げた。
「ガスを使われるぞ!」
 そしてコンバット・ショットガンを取り出してフレッドに投げた。フレッドは小さな身体全体でそれをキャッチ。トリガーをセット。サンディにはサブマシンガンを投げた。ダフ自身は、マシンガンを両肩に背負って、二千連発のガトリングガンを構えた。バッグの中をほとんど占めていた巨大な銃だった。
「輝!」
 叫ぶ。
「まだか!」
「あと五秒!」
 ガス弾が事務所に打ち込まれた。窓ガラスが割れる。
「早く!」
 ダフはボンベをくわえる前に叫んだ。
 転送が終わった。
「いいぞ!」
 輝は叫び終わると、酸素ボンベを口にくわえ、デスクの上のコンピュータを銃で撃った。ハッキングの過程を知られたくなかった。火花が散る。
「ムォーッ!」
 ダフは、酸素ボンベを噛みしめ、仁王像のような形相で、ドアに向かって二千連発のガトリングガンの引き金を絞った。耳をつんざくような連射音。ドアがあっという間に吹き飛んだ。ダフは連射しながらゆっくり前に進んだ。外に出る。ダフの背中に隠れるように外に出たフレッドが、コンバット・ショットガンの引き金を引いた。散弾が飛び散る。事務所の外に散開していたファーマンの部下二人に命中。フレッドはコンバット・ショットガンの引き金を引き続けた。
「輝! 早く!」
 サンディが叫ぶ。
 輝は、サンディについて事務所を飛び出した。
「フレーッド!」
 ガトリングガンに負けない声で叫ぶ。
「燃料電池を撃て!」
「了解!」
 フレッドは燃料電池を撃った。
「だめだ!」
 電気配電室の外にいるファーマンの部下が叫んだ。
「あんな火器を持ってるなんて聞いてないぞ!」
「手榴弾を使え!」
 ファーマンが叫ぶ。
「地下でですか!」
「やれ!」
「天井が崩れます!」
「えーい、オレがやる!」
 ファーマンは、部下の持つアタッシュケースから手榴弾を取り出した。
 そのとき。燃料電池の水素が爆発した。
 逃げ場のない爆風が、ドアから一気に噴き出した。手榴弾を投げようとしていたファーマンが吹き飛ばされる。
「チーフ!」
 部下は、壁に打ちつけられて気を失ったファーマンを助け起こした。
「だめだ、チーフがやられた。撤収だ!」
 部下が叫んだとき。ファーマンは、目をカッと見開いた。
「バカ野郎! 逃がすな。殺せ! テロリストを殺せ!」
「し、しかし、チーフ!」
「うるさい!」
 ファーマンは、銃を構えた。
 そのとき。ドアから巨体の黒人が出てきた。ファーマンは、とっさに銃を向けたが、同時にコンバット・ショットガンを構える小男の姿が見えた。その瞬間。散弾が飛んできた。ファーマンは部下を引っ張り自分の楯にした。部下の身体に穴が開き倒れる。ファーマンも太股に一発当たった。
 ガトリングガンの弾がなくなった。ダフはガトリングガンを捨てて、両肩にかけていたマシンガンを、片手に一丁ずつ持って両手撃ち。連射。
 ファーマンは、とっさに側道の水たまりに飛び込んだ。
「ダフ!」
 と輝。
「深追いするな! 逃げるぞ!」
「いまファーマンが見えた!」
「ファーマンですって!」
 サンディが飛び出そうとした。
「だめだ! 追うな!」
 輝はサンディの腕をつかんだ。
 後方に下がっていたファーマンの部下が発砲。弾が壁にあたって火花が散った。あと数センチでサンディの頭に命中していた。
「行くぞ!」
 輝は、サンディの腕をつかんだまま、反対側に走った。
「くそっ!」
 サンディはファーマンを諦めて、輝と並んで走った。
 ダフとフレッドは、援護しながら下がる。
「ダフ! もういい、走れ!」
 輝がふり返って叫んだとき、弾がちょうどなくなった。ダフはマシンガンを捨てて、輝とサンディを追った。フレッドも弾のなくなったコンバット・ショットガンを捨てて走る。
「サンディ!」
 と輝。
「出口はいくつある!」
「こっち側には三つ!」
「一番近いのは!」
「ダフに教えたマンホールよ!」
「二手に別れる! ダフ、フレッド! そのマンホールへ!」
「了解。連絡は!」
「フリーメール。連絡があるまで潜伏してくれ!」
「わかった。死ぬなよ輝!」
「そっちこそ!」
 輝とサンディは、ダフたちと別れた。
「こっちよ!」
 サンディが走る。速い。輝は必死に追いかけた。
 階段があった。駆け上る。サンディはスピードが落ちない。輝は息が上がった。それでも彼女を追った。
 ドア。サンディは蹴り飛ばすように開けた。細い坑道だった。銃を構えて飛び出る。だれもいなかった。
「急いで輝!」
「わ、わかってる」
 輝は息を弾ませていた。つらい。
 壁に小ドアがあった。非常退避用のドアだった。サンディはそこを開けて、身体をもぐり込ませた。ダフには入れないと輝は思った。細い穴が、地上に向かって伸びていた。小さなはしごを、まるで曲芸師のように軽やかな調子でサンディは上がっていった。輝は同じように上がれなかったが、それでも、それほど遅れることなく地上に到達した。
 そこは丸の内ビルディングのわきにある排気口だった。外でサンディが待っていた。輝に手を貸して、彼が外に出るのを助けた。冷たい空気が、輝の火照った身体を冷やした。全身に汗をかいていた。
「大丈夫?」
 とサンディ。
「ああ」
 輝はつばを飲みこんだ。だが口がカラカラに乾いていて、喉が上下しただけだった。切り抜けた。奇跡かもしれない。そう思った。しかし、喜んでいる場合ではなかった。
「サンディ。詩音に…… 詩音に会おう」
「なんですって?」
「もう彼女を頼るしかない」
「でも彼女は警官よ。もしもファーマンに言いくるめられていたらどうするつもり?」
「わかってる。だから…… ぼくひとりで行く。もしもぼくが彼女につかまったら、計画は終わりだ。きみたちは、なんとか逃げろ」
「冗談じゃないわ!」
 サンディは、輝の胸ぐらをつかんだ。
「どんなことがあっても諦めちゃダメ! わたしが許さない!」
「ほかに方法はない」
 輝は、サンディの腕をふりほどいた。
「それでもダメ!」
 サンディは叫んだ。
「あなたが諦めたら、死んだ仲間はどうなるのよ。彼らの死は無駄だったの? わたしたちの人生は無駄だったの? いったい、なんのために生きてきたのよ。ねえ輝。諦めるなんて思わないでよ。最後のひとりになってもやり抜くって言って。最後の一秒まで諦めないって言ってよ。お願いだから。ねえ輝……」
 サンディの声は、震えてきた。ブルーとレッドブラウンの瞳に、涙がたまっていた。
「そうだな」
 輝は、サンディから視線をそらした。
「すまない。ちょっと弱気になった」
「諦めないって言って」
「考えさせてくれ」
「考える必要なんかない!」
「違う。これからの計画だ」
「あ、ごめん」
 サンディは涙をぬぐった。
 輝は、乱れた思考を落ち着かせて、必死に脳細胞を回転させた。灰色の脳細胞とだれかが言った。むかしの推理小説の主人公の決めゼリフだったそうだ。バカな。脳細胞はピンクだ。生きていれば。
「サンディ」
 と輝。
「とにかく、新宿に向かおう。詩音は、きっとオフィスにいる」
「やっぱり詩音に会うの?」
「ああ。それしか方法はない。最善の結果が出てくれることを願う」
「最善ではなかったら?」
「覚悟を決めるさ。諦めるって言う意味じゃないぞ。こいつがモノをいう」
 輝は、腰のホルスターの拳銃を指でトントンとたたいた。
「やっとその覚悟ができたのね」
「きみの言うとおりだ。もう後には引けない」
「そうよ。行きましょう」
 二人は、丸の内ラインの入り口に向かった。


08

08-01

 詩音たちは、オフィスのデスクでこれからどうするべきかを話し合っていた。午前二時になっても、結論はでなかった。輝からの連絡を待つ以外の方法は、なにもなさそうだった。こんな時間でも電話はひっきりなしにかかってくるが、それはいつものことで、どれひとつ輝からのものではなかった。もちろん詩音の携帯も沈黙していた。
「仮眠するか」
 と森本が提案したときだった。夜勤の婦人警官が少し大きな声で言った。
「結城刑事。お電話ですよ。三番です」
 詩音たちは、顔を見合わせた。
「だれ?」
 詩音は婦人警官に聞いた。
「名乗りません。公衆回線です。カメラも切ってる」
「了解」
 詩音は婦人警官にうなずくと、森本たちに宣言するように言った。
「取ります」
 森本と広瀬は無言でうなずいた。
 詩音は、受話器をとった。三番を押す。モニタに相手の顔は出なかった。婦人警官が言ったとおりカメラを切ってあるようだ。
「もしもし。結城です」
『詩音』
 輝だった。
『ぼくだ』
「輝!」
 詩音は叫んだ。
 森本はすぐさま、逆探知ボタンを押した。
「いまどこにいるの?」
 詩音は、はやる気持ちを抑えながら言った。電話をスピーカー出力にする。森本と広瀬も耳を傾けた。
「輝。あなたを保護したい。いますぐ市警に出頭して」
『その前に聞きたい。きみは連邦捜査局から説明を受けたはずだね』
「ええ。聞いたわ」
『どう思った?』
「彼らの説明には疑問点がある。それがあたしたちの結論よ」
『あたしたち?』
「そうよ。あたしの上司も同じように考えている。いいえ、正確には同僚と上司が調べてくれたの。あたしは…… ちょっと頭が混乱してたから」
『信用できる人なんだね』
「もちろんよ」
『詩音。ぼくは…… わかった。きみたちを信用する。だから、きみたちもぼくらをテロリストとして扱わないでくれ。少なくとも疑問があるうちは』
「もちろんよ。聞きたい。あなたが直接説明して」
『ロビーに降りてきてくれ』
「え? ロビー?」
『ああ。市警のロビーにいる。ぼくが上がっていってもいいけど、きみのオフィスに到着する前に、たぶん警官につかまるだろ』
 電話は切れた。
 森本は、逆探知の結果をモニタで見ていた。
「マジで、ここのロビーだ」
「うは。大胆不敵ですね」
 広瀬が笑った。
「指名手配犯がロビーから電話してくるなんて、はじめてじゃないですか?」
「詩音」
 と森本。
「第四会議室に連れてこい」
「はい、行ってきます!」
 詩音は、オフィスを飛び出した。
 エレベーターに乗る。
 ケージが降りていくスピードがじれったかった。ロビーに到着してドアが開くと、詩音は飛び出した。見回す。ロビーは、連行されるチンピラや、保護されていく酔っぱらいが何人かいた。
 いた!
 輝は、壁際にいた。壁を見つめるように背中を向けていた。彼女が買ったコートを着ていた。
 詩音は、輝に近づいた。
「輝」
 声をかけた。
 輝はふり返った。
「やあ」
 輝は、ほほ笑んだ。
「どうしたの?」
 詩音は、にこりともせずに輝を見た。コートはところどころ焦げていた。顔も汚れている。髪の毛も指でなでつけてはいたが、乱れていた。
「ファーマンに殺されかけてきた」
「いつ?」
 詩音は、大きな声になりそうなのを抑えて聞いた。
「三十分前」
「どこにいたの? いえ、上で聞くわ。待って。怪我は?」
「大丈夫」
「本当に? 話は医務室に行ってからでもいいのよ」
「優しいんだね」
「怪我人をほっておけないだけよ」
「そうか。そうだね。でも大丈夫」
「本当ね?」
「ああ」
「いいわ。一緒にきて。上司と同僚が待ってる」
「オーケイ。お手柔らかに」
「大丈夫よ。あたしたちは連邦捜査官じゃない」
 詩音は、輝を連れてエレベーターに乗った。オフィスのある階よりも、ひとつ上の階で降りる。第四会議室のドアを開けると、森本と広瀬が待っていた。
「森本だ」
 森本は、腕を組んだ姿勢のまま名乗った。
「神林輝です」
 輝は習慣で右手を差し出したが、森本は握手に応じなかった。だが、空振りに終わった輝の手を広瀬が握った。
「広瀬です。結城先輩の後輩です。おうわさは、かねがねうかがってます。よろしく」
「どうも」
 輝は苦笑した。
「挨拶などどうでもいい」
 森本は厳しい顔で言った。
「説明を聞こう。きみは何者だ?」
「神林明子という科学者をご存じですか?」
「知っている。きみはその息子だな」
「そうです。彼女が火星を緑化する植物の研究をしていたのもご存じですね」
「知っている」
「それが失敗したと安全保障局が発表していることも」
「もちろんだ」
「では、その研究が失敗ではなかったというところから話をさせてください」
「やっぱりそうなの?」
 詩音が口をはさんだ。
「あたしたちもその可能性を疑っていたのよ」
「本当に?」
「ええ。そう考えれば、連邦捜査局の強引な捜査の理由が説明できるんじゃないかと思っていたのよ」
「東京市警は優秀だな」
 輝は皮肉ではない口調で言った。
「まさにその通りだよ。でも、ぼくらには確信がある。疑いではなく」
「その確信とは?」
 と森本。
「はい」
 輝はうなずきながら言った。
「ぼくの父は、遺書を残していた。自分が殺されることを覚悟していたんです」
 輝はコートから携帯端末を出して、父親の遺書を表示すると、それを森本に渡した。詩音と広瀬ものぞき込む。

 輝。
 おまえがこれを読んでいるということは、わたしはもうこの世にいない。わたしは連邦捜査局に、そして安全保障局に殺されているはずだ。
 おまえの母さんが、火星を緑化する研究をしていたのは話したね。母さんはその研究に成功した。ところが、成功しすぎたんだ。母さんの見つけたDNA配列で作った植物は、非常に安価に、そして急速に火星を緑化する。ヒッグス場増幅装置パネルを、火星の大地に網目状に配置すれば、母さんの作った植物が出す酸素を火星でも保持できるだろう。試算では、三億ドルの予算で、火星が地球型惑星に変わるんだよ。とてもすばらしいことだ。
 ところが安全保障局は、火星が完全に地球型惑星になることを恐れた。火星の移民たちが地球の支援なく生活できるのは困るんだ。地球の支援が必要なければ、火星は独立するだろう。そうなればヘリウム3の権利がなくなる。
 わかるね? 母さんは研究の継続を訴えて、連邦に殺された。わたしは、母さんからなにも聞いていないという態度を貫いた。本当は、ぜんぶ母さんから聞いていたのだけどね。母さんの夢を実現させたかったんだ。だから研究データを火星に持っていこうと決めた。
 いまこれを書きながら、おまえが、このテキストを読まずにすむことを願っている。だが、もしもこれを読んでいたら、いつか事実を公表してほしい。ただし無理はするな。ゆっくりでいい。いつか、おまえの人生が終わるまでに。いや、おまえのつぎの世代でも、そのつぎの世代でもいい。
 すまない。なにを望んでいるのか、自分でもわからなくなってきた。おまえを愛している。幸せな人生を送ってほしい…… それが本当の願いだ。母さんもそう願っていた。

 遺言はそこで終わっていた。
「ひどいわ……」
 詩音が震えた声で言った。
「こんなのひどすぎる。人権侵害なんてもんじゃない」
「これは」
 と輝が言った。
「当時父に買ってもらった携帯端末に入っていました。連邦捜査局は、その端末も調べたけど、父の遺書は、ぼくの十歳の誕生日に再生されるように暗号コードで守られていました。だから見つからなかった」
「なるほど」
 森本は、端末を輝に返しながら言った。
「厳しいことを言うようだが、これだけでは証拠にならない。残念だが」
「わかっています」
 と輝。
「でも事実だ。ぼくはそれを証明したい」
「そうですよ警部!」
 詩音が、叫ぶように言った。
「輝はなにも悪くなかったんだわ。彼はテロリストなんじゃない。それだけでも証明しなければ」
「そうじゃない」
 と輝。
「データはあるんだ。本当に」
「ふむ……」
 森本は、また腕を組んだ。
「しかし、どうするかな。とにかく、連邦捜査局に彼の身柄を引き渡さなくていい方法を考えないと」
「待ってください」
 と輝が言った。
「ぼくの身の安全より、母の研究データを手に入れた方が話が早い。詩音が…… いや、市警が協力してくれれば――」
 輝がそういいかけたとき、会議室のドアが開いた。
 入ってきたのは署長と、数人の警官だった。
「しょ、署長! なぜここに?」
 森本は驚いた。
「森本くん」
 署長は口をへの字に曲げながら言った。
「きみは、なにをしておるんだ。その男は連邦捜査局が手配しているテロリストではないか。なぜすぐに逮捕しない」
「ま、待ってください。それは連邦の間違いなのです」
 森本は抗議した。
 だが、署長はいっさい認めなかった。
「黙れ。きみは失望したぞ。警察官にあるまじき行為だ。停職処分…… いや、免職を覚悟しておきたまえ」
「し、しかし署長」
 署長は、森本を無視して広瀬に言った。
「広瀬二級刑事。よく通報してくれた。きみの判断は正しい」
 森本と詩音は、一斉に広瀬を見た。
「すいませんね」
 広瀬は肩をすくめた。
「オレはクビになるのはごめんです。これは市警の仕事じゃないですよ」
「広瀬!」
 詩音が広瀬に飛び掛かろうとした。だが、警官が取り押さえる前に森本が詩音をとめた。
「やめろ詩音!」
「だって警部! 信じてたのに! こいつ!」
「オレもだ。失望した。だがやつの判断は責められん」
「そんな、ひどい! 輝は、輝は、あたしを信用してくれたのに!」
「いいんだ」
 輝は、こうなることを予想していたように言った。
「詩音がぼくを信じてくれた。それだけで十分だよ」
 警官が、輝に手錠をかけようと近づいた。
「やめなさいよ、輝はテロリストなんかじゃない!」
 詩音が警官につかみかかった。
「結城刑事!」
 署長が怒鳴った。
「本日ただいまから、きみのバッジを預かる。処分が決定するまで、自宅待機。バッジと銃を置いていけ。森本警部。きみもだ」
「なによ、こんなもん!」
 詩音は、腰にさしていたバッジを床に叩きつけた。
「無実の人間を逮捕する警察なんか、こっちから辞めてやる!」
 そのとき。
 輝がすばやく、詩音の腕を後ろに回して、彼女の首筋に銃を突きつけた。
 警官が、一斉に銃を抜いた。
「動くな!」
 輝が叫んだ。
「彼女が死ぬぞ!」
「て、輝……」
 詩音は、目を見開いた。だが、彼が自分の腕をとる手には、ほとんど力が入っていないことがすぐにわかった。少しも痛くない。いつでも逃げられる。しかも首を曲げて輝の持っている銃を見たら、しっかり安全装置がかかっていた。これでは弾は出ない。だから詩音は逃げなかった。その代わり震えた声を出した。
「やめて輝。痛いわ。こんなことしても無駄よ」
「わかってる。でもぼくはここでつかまるわけにはいかない」
「でも……」
「やめろ神林輝」
 森本も銃を向けていた。
「詩音を離せ。話し合いの余地はあるはずだ」
 だが、そういう森本は、輝たちに目配せでドアの方を示した。
 輝と詩音は、歩調を合わせるようにドアに向かった。
「下がれ、下がれ!」
 森本が警官たちをどかす。
「神林輝を刺激するな。署長。ここは危険です。出てください。早く!」
「う、うむ」
 署長は、森本の言葉に弾かれるように、あわてて会議室を逃げだした。
 輝は、森本を信じた。いや、信じるしかなかった。詩音にだけ聞こえるように耳元でささやく。
「詩音。屋上に行きたい。上司にサインを出してくれ」
 サインですって? どうやって?
 詩音は一瞬そう思ったが、開いている手を胸にあてて、親指を腕に突きたて、二、三度上に上下させた。
 森本は、それを見逃さなかった。
「広瀬!」
 叫ぶ。
「おまえは、ロビーを閉鎖しろ。行け」
「ですが」
「行け!」
「は、はい」
 広瀬は、抗議したそうな表情を浮かべたが、言われたとおり会議室を出ていった。
 森本は、詩音の投げつけたバッジを拾った。それをズボンのポケットに押し込むと、まるで輝たちを誘導するように廊下に出た。
「発砲するな!」
 廊下にいる刑事や警官たちに怒鳴る。
「道をあけろ。どけ! やつを刺激するな。結城刑事が殺されるぞ!」
 輝は、詩音にだけ聞こえるように小声で言った。
「きみの上司は役者になれる」
 詩音は、笑いたくなるのを必死にこられた。それがかえって、痛みをこらえているような顔になって効果的だった。
 エレベーターに到着した。
「詩音。上のボタンを押せ」
 と輝。
「わかったわ。手荒なまねはしないで。お願いだから」
 詩音はしおらしい声で答えて、あいている手でエレベーターの上ボタンを押した。
 エレベーターが来た。
 輝は詩音と二人で乗り込んだ。
「屋上の一般職員を退避させろ!」
 ドアが閉まる前に森本が叫んだ。
 ドアが閉まった。輝はエレベーター内の監視カメラを銃で撃った。そして屋上を示すRのボタンを押した。詩音の腕は、すでに開放していた。
「銃を持っていたとはうかつだったわ」
 と詩音。
「本当だよ。ちゃんとボディチェックしなきゃ。よっぽど注意しようかと思った」
「最初からこうするつもりだったのね」
「まさか。これは第二案だ。第一案では、市警の協力が得られることを期待していた」
「広瀬が、あんなやつだとは思わなかった」
「わかってる。でもあれが正常なのかもね」
「あたしのほうが異常?」
「たぶんね」
「あたしを信用してくれるのね」
「それはぼくのセリフだ。信じてくれるかい?」
「ええ。本当は少し疑ってた。でもいまは信じてる。許してはいないけど」
「ごめん。こんな方法しかなかった」
「違う。こうなる前に話してくれなかったことを怒っているのよ」
「それについては、ぼくにもいいわけがある」
「どうぞ。聞いてあげる」
「本当に、まだ時間があると思っていたんだ。一週間はきみと過ごす予定だった」
「だから、最初の日は、あたしを抱かないで寝ちゃったの?」
「え?」
「話す前に、あたしを抱くのは気が引けた?」
「いや……」
 輝は、意外な質問に戸惑った。あれは本当にコールドスリープの影響でと、答えるべきか否か悩んでいるうちに、そして詩音が、サンディという恋人がいるから抱かなかったの? と聞こうか悩んでいるうちに、エレベータは屋上に着いた。
 輝はまた詩音の腕をとった。ドアが開く。
 数人の警官が銃を向けていた。
「下がれ!」
 輝は怒鳴った。
「結城刑事を殺すぞ!」
 すると、となりのエレベーターが開いて、森本が飛び出してきた。
「バカ野郎! 下がれ! 結城刑事を殺したいのか!」
 森本が、輝たちと警官の間に割って入る。
「下がれ、下がれ!」
 森本は、そう叫びながら、ホバージェットの着陸場に向かって後ずさった。
「詩音」
 と輝は小声で言った。
「ホバージェットを操縦できるかい?」
「ええ」
 詩音はうなずいた。
「オーケイ。ではきみが操縦してくれ。夜空のデートだ」
「デート? 冗談でしょ。あたしはまだ、あなたを許してないのよ」
「そうだったね」
 輝は苦笑した。
「神林!」
 森本が叫んだ。
「きさまホバージェットで逃げるつもりか? やめろ! やめるんだ!」
 はいはい。逃げさせていただきます。ありがとう。
 輝はそう心の中でつぶやいてから叫んだ。
「ホバージェットのドアを開けろ。さもないと、おまえの部下が死ぬぞ!」
「くそっ、なんてやつだ! きさまは悪党だ!」
 森本はドアを開けた。
 詩音が先に操縦席に乗り込む。輝は銃を向けながら、となりの席に乗り込んだ。
「詩音!」
 森本が、詩音のバッジを投げた。詩音は空中でキャッチ。
「おまえは警官だ。それを忘れるな! オレを免職させるなよ!」
「はい、警部!」
 詩音は森本に敬礼した。そしてホバージョットのエンジンをかけた。整備は万全だった。一発でエンジンがかかり、ホバージェットは浮かび上がった。
 森本が、詩音に向かって返礼を返した。詩音はその姿を見ながら、一気に機体を上昇させた。
「さあ、輝。どこに向かえばいいの?」
「北だ」
「了解!」
 詩音は、ホバージェットを北に向けて発進させた。
 森本は、ホバージェットが見えなくなるまで、その場に立って見つめていた。
「警部!」
 広瀬が駆けてきた。
「いやはや、見事に逃げられましたね。まるで警部が誘導したみたいだ」
 森本は広瀬をふり返った。その瞬間。ヘビー級ボクサー並のストレートパンチを広瀬の顔面にお見舞いしていた。
「ぐはっ!」
 広瀬は、鼻血を出しながらぶっ倒れた。
「バカ野郎。そんなわけねえだろ。寝言は寝ていえ」
 広瀬はその言葉を聞いていなかった。本当に寝ていた。いや、気絶していた。

08-02

 サンディは、東京市警のオフィスビルの前の広場で、ビルの屋上からホバージェットが飛び立つのを見ていた。すぐさま、用意していた第二案のメールをダフたちに送った。そして、地下鉄に飛び乗る。
 これからはノンストップだわ。時間との勝負。

08-03

 ビルとビルの間の物陰に、ダフとフレッドは隠れていた。ダフの携帯端末が、ピッと音を出した。
「来たか!」
 とフレッド。
「あわてなさんな」
 ダフはのっそりとコートから携帯端末を取り出してメールを確認した。
「東青梅ステーション北側にこいってさ」
「強盗に入るってわけだな」
「そうらしい」
 ダフは端末をしまった。
「大丈夫かフレッド?」
「心配すんな、このくらい」
 フレッドは腕を撃たれていた。
「弾は貫通してる。ま、正直言うと病院に行きたいけどな」
「これが終われば…… 行けるさ。ふつうの病院か、警察病院かしらんが」
「冗談。ファーマンが病院にいてれくれるわけねえだろ。あいつは墓にさえ入らせてはくれない」
「殺しときたかったな」
「まあな」
 フレッドは立ち上がった。
「行こうぜ。どんな結果になっても、これが最後だ。たぶん」
「ああ。行こう」
 ダフも立ち上がった。


09

09-01

「輝」
 詩音はホバージェットの操縦桿を握りながら言った。
「補足されてるわよ。逃げきれない。どうする?」
「とにかく青梅市まで飛んでくれ。最高速で」
「青梅市? なにがあるの?」
「連邦の生物科学研究所だ。母が勤めていた」
「そこにデータがあるのね」
「ある」
「証拠は?」
「安全保障局のコンピュータをハックした」
「あなたが?」
「ああ」
「火星でどんなお勉強をしてきたのか、じっくり聞かせてもらう必要があるみたいね」
「電気技師さ」
 輝は笑った。
「本当だよ。ちょっとコンピュータの使い方がうまいだけだ」
「だまされないわよ。これが終わったら尋問するからね。覚悟しときなさい」
 ホバージェットのレーダーに機影が映った。
「輝。市警が来るわ」
「何機?」
「三機」
「ふり切れるか?」
「無理ね。あっちも同じ性能。しかも正面から向かってくる」
「お出迎えありがとうってところだな」
「ずいぶん落ち着いてるじゃない」
「よくクールだって言われるよ。そんなところが、たまにムカつくって」
「だれに?」
「仲間にさ」
「サンディね」
「よく知ってるな」
「ファーマンに見せられたわ。彼女の映像」
「ホントに?」
「ええ」
「じゃあ、彼女の瞳も見たんだね」
「瞳? 目のこと?」
「ああ」
「見たわ。それがなに?」
「なにって…… どう思った?」
「べつに。きれいな青い瞳だったわね。美人だった。ホントにきれいな人ね」
「そうか…… ファーマン。映像を加工したな」
「加工? 本当はああいう顔じゃないの?」
「ああ。彼女は――」
 輝の言葉をさえぎるように、無線が入った。
〈こちらは東京市警だ。テロリスト犯につぐ。ただちにホバージェットを着陸させ、人質を解放しなさい。繰り返す。ただちにホバージェットを着陸させ、人質を解放しなさい〉
「相手の無線周波数は?」
「コンピュータに登録されてるはずよ」
「了解」
 輝は、コンソールのコンピュータを操作した。
「これだな」
 無線機をとる。
「市警のホバージェットにつぐ。手荒なまねをしたら人質の命はない。繰り返す。手荒なまねをしたら人質に命はない。以上」
「紳士的な通信ですこと」
 詩音は苦笑した。
「そうかな。ぼくは紳士なんだろうか? 気になる」
「なんで?」
「紳士といわれて、喜んでいいのか悲しんでいいのか悩んでるのさ」
「喜ぶべきじゃないの?」
「詩音はどっちがいい?」
「紳士に決まってる」
「じゃあ紳士でいい」
 また通信が入る。
〈テロリスト犯につぐ。われわれはテロに屈しない。ただちにホバージェットを着陸させ、人質を解放しなさい。さもなくば、重大な結果をもたらすことになる。繰り返す。ただちにホバージェットを着陸させ、人質を解放しなさい〉
「紳士でもなさそうだ」
 輝は肩をすくめた。
「重大な結果ってなによ?」
 と詩音。
「きみごと撃ち落としてもいいって、言われてるんじゃないのかな」
「あり得るわね」
「青梅市までは、あとどのくらいで着く?」
「待って」
 詩音は、コンソールのモニタに、ナビゲーションを表示させた。
「このままのスピードで直進できれば、あと八分」
「直進しなくていい。低空を飛んでくれ。幹線道路の真上を飛ぶんだ」
「了解」
 詩音はホバージェットの高度を下げて、甲州街道の上を縫うように飛んだ。もしも撃ち落とされたら、民家に落ちてかなりの被害が出るはずだった。
「時間稼ぎはできるけど」
 と詩音。
「こんなことしてたって、どのみちつかまるわよ」
 市警のホバージェットが見えてきた。
「来たわ」
 市警のホバージェットも高度を下げた。前後に一機ずつ、詩音たちをはさむようにして飛ぶ。そして残った一機は、詩音たちのすぐ上空を飛んで、押さえ込みにかかってきた。
「さあ、どうする?」
「この機の装備は?」
「火器のこと?」
「もちろん」
「パルスレーザーキャノンが二基。使わないでよ」
「ごめん。使う」
 輝は、前方の機に向かってパルスレーザーキャノンを発射した。
「あ、バカ!」
 と詩音は叫んだが、市警のホバージェットには当たらなかった。輝は、わざと外したのだ。しかし市警のホバージェットは逃げるように上昇した。
「ふう……」
 詩音は、息を吐いた。
「驚かさないでよ。警官殺しの仲間にされるところだった」
「まったく」
 と輝。
「こっちをなんだと思ってるんだ。スピード違反で逃げてる車じゃないぞ。前方をふさぐなんて、なに考えてるんだ。市警はどういう訓練をしてるんだよ」
「それを教えてあげたかったの? 後ろから撃ってくださいって言ってるようなもんよ」
「撃てないさ。ここでは。幹線道路をはずれてくれ」
「いいの? 撃たれるかもよ」
「ぼくを信じて」
「その言葉には弱いわ」
 詩音は苦笑を浮かべながら、幹線道路をはずれた。
「詩音、急上昇」
「ブロックされてるわ」
「大丈夫。上がってごらん。思いっきり」
「でも……」
「ぼくを信じて」
「わかったわよ、もう」
 詩音は、恐る恐る操縦桿を引いた。機体が上昇する。
「もっと、急激に!」
 輝が叫んだ。
「どうなっても知らないから!」
 詩音は、思いっきり操縦桿を引いた。
 グンと機体が持ち上がった。そのとたん、上を飛ぶホバージェットの空気圧で下に押し戻される。ところが、上を飛んでいた市警のホバージェットのほうが、はるかに深刻な影響を受けた。機体の浮力を生み出している空気圧を下から押し上げられて、安定を失う。
 輝は上を見上げていた。上空の機が、右にずれたとき叫ぶ。
「いまだ! 急停止!」
「オッケイ!」
 詩音はホバージェットを急停止させた。
 後ろを飛んでいた市警のホバージェットは、いきなりホバリング状態になった詩音たちを回避するために急上昇した。だが、そこには安定を失った仲間の機があった。
 接触。
 だが、上空の機が微妙に右にずれていたため、機体の一部をほんの少し接触しただけで、衝突ではなかった。二機は、なんとか墜落を免れたが、すでに機を安定させることはできなかった。ゆるゆると高度を下げて、不時着。
「よし、あと一機だ」
「映画みたい……」
 詩音は、自分が操縦していることも忘れて、目の前の光景に目を丸くした。
「映画じゃない。現実だ。気を抜いたら死ぬ」
「あなたが、だんだん怖くなってきたわ」
「これが、本当のぼくだ。嫌われるのは覚悟していた」
「嫌いだなんて言ってない。いいわ。本当のあたしも見せてあげる」
 詩音は、ホバージェットのジェットバルブを全開させた。残った一機をふり切るように急上昇。市警のホバージェットも上昇。だが、市警の警官は軍人ではない。ドッグファイトなど訓練していない。詩音の機はすでにかなり上空に達していた。詩音は操縦桿を倒して、急降下。ほぼ九十度。パルスレーザーキャノンを単発で発射。市警のホバージェットのスタビライザーを破壊。スタビライザーを破壊された相手は、水平を保てなくなる。詩音は、すれ違い様に水平飛行に移動。かなりの降下速度が、そのまま水平スピードに変わる。相手にパルスレーザーキャノンを撃たせる間もなく、安全圏に離脱。
「ざまみろ!」
 詩音は、不時着する市警のホバージェットを見ながら中指を突きたてた。
「ヒューッ!」
 輝は、口笛をふいた。
「さすが。ビックリ。心臓が止まるかと思った」
「あたしのこと嫌いになった?」
「とんでもない。ますます好きになりました」
「ホント?」
 詩音は、うれしそうな声を出したとたん、不機嫌な顔になった。
「うそつき。恋人がいるくせに」
「は?」
「サンディよ。恋人なんでしょ」
「彼女が? おい、なんでそうなる。彼女はただの仲間だよ」
「うそよ」
「うそなんかついてどうするんだよ。ホントだってば。なんでそんなこと…… ファーマンだな。あいつになにを吹き込まれたんだ」
「あなたとサンディが仲よくしているところの映像だったわ」
「編集だ。加工だ。そんなもん、どうとでも作れる。ぼくはいままでに、たったひとりの女性しか好きになったことはない。詩音。きみだよ」
「うそよ」
「なんで信じてくれないんだよ」
「男が二十九年間も女なしでいられるわけないじゃない」
「そ、そりゃ、まあ、童貞かといわれたらイエスとは答えられないけど、それは恋愛ではなくて…… 待てよ。なんでこんな会話になるんだ?」
「恋愛ではなくてなによ?」
「だから、こんなこと話してる場合じゃないだろ」
 詩音は、ホバージェットを停止させてホバリングさせた。
「答えて。じゃなきゃ、一センチだって飛ばさないわ」
「詩音。頼むよ」
「答えなさい!」
「わかったよ!」
 輝は両手をあげた。
「高校の卒業パーティーが終わったあと、学校の友だちと、ウラニアの歓楽街に行った。それがぼくのはじめてだ」
「プロ?」
「そうだよ。顔も覚えてない」
「不潔」
「なんとでも言ってくれ。あの年頃で女に興味を持たない方が異常だ」
「そのあとは?」
「もういいだろ」
「答えてよ」
「三回…… いや四回かな。そのぐらい行った。でも、最後に行ったのは八年ぐらい前の話だ。本当だよ。寂しいもんさ。自分の家のベッドで女と寝たことは一度もない」
「あたしだって。いえ、一回だけある」
「なんだって! いつ、だれとだよ!」
「なに驚いてるの? 言っとくけど、あなたに怒る資格はないわよ」
「そ、それはそうかもしれないけど、この話をはじめたのはそっちだぞ。気になるじゃないか」
「知りたい?」
「知りたい…… いや、いい。知りたくない」
「なんで」
「過去の男のことなんか聞いても気分が悪くなるだけだ。ぼくに会いたいなんて、メールで何度も書いてきたくせに。その間、男と付き合ってたんだな」
「怒ってるの?」
「怒ってない」
「じゃあなに? 嫉妬?」
「うるさいな。いいだろ、そんなことどうでも」
「たった一度だけよ」
「ゆきずりか。人のこと不潔だなんてよく言うよ。もういい。早く青梅に行ってくれ」
「あなたよ」
「なにが?」
「あたしがはじめて一緒に寝た男。本当に寝ただけだけど。まさか忘れた?」
「い、いや…… でもホントに?」
「信用してくれないの?」
「する! 信用する! 圧倒的に! 違う。全面的に!」
「ありがと」
 詩音は、輝のいい方がおかしくて笑った。
「あたしも信用するわ」
 そのとき。輝の携帯端末がピッと音を立てた。
「メールだ」
 輝はメールを確認した。
「サンディたちが先に青梅に着いちゃったよ。急ごう」
「オッケイ!」
 詩音は、ふたたびホバージェットのジェットバルブを全開にした。

09-02

「遅いわね。なにやってるんかしら」
 サンディは、腕時計を見た。午前四時。
「日の出までは、あと二時間ぐらいだな」
 ダフが縮こまりながら言った。青梅は寒かった。吐く息が白い。
 そのとき。ホバージェットの空気を絞り出す音が聞こえた。サンディたちは空を見上げた。ライトを消したホバージェットが降りてくる。着陸。
「お待たせ!」
 輝が降りてきた。
「お待たせすぎよ!」
 とサンディ。
「悪い。いろいろ忙しくてね」
 輝はサンディに答えると、操縦席の詩音に言った。
「詩音。操縦を変わろう。後ろに乗ってくれ」
「オッケイ」
 詩音も降りた。
「輝」
 とサンディ。
「彼女は理解してくれたの?」
「ああ」
 輝はうなずいた。
「ただ市警にも反対派がいてね。けっきょくホバージェットを盗むことになった」
「そう」
 サンディはうなずくと、詩音に向きなおった。サングラスは外さなかった。
「ハイ。あなたが詩音ね。写真では見たことあるけど、はじめまして」
「こちらこそ。あなたがサンディね。わたしも映像では見たことあるけど、はじめまして」
「ダフだ」
 ダフが詩音に右手を差し出した。
「詩音よ。よろしく」
「オレはフレッド」
 とフレッドも詩音と握手した。
「こちらこ…… どうしたの腕? 怪我してるじゃない」
「ファーマンに撃たれたんだよ」
「平気?」
「平気平気。優しいね詩音」
 フレッドは笑った。
「みんな」
 と輝。
「挨拶はあとだ。あと二時間で日が昇る。急ごう。乗ってくれ」
 サンディたちはホバージェットに乗り込んだ。巨体のダフが前方のサブパイロットシートに座り、サンディと詩音、そしてフレッドは後部のベンチシートに納まった。
 輝はホバージェットを上昇させた。
 サンディは、じろじろと詩音を見た。
「なに?」
 と詩音。
「いえ…… ねえ輝。ネオのことは話した?」
「まだだ」
「わたしが話してもいい?」
「どうぞ」
「ネオってなに?」
 詩音が聞いた。
「連邦は、火星移民第三世代遺伝病って言ってる」
 とサンディ。
「移民の三世から発病する遺伝病なんだ。病状は身体能力がふつうの人より優れること。そして……」
 サンディはサングラスを外した。
「瞳の色が、ブルーとレッドブラウンにわかれることよ」
 詩音は、目を見開いてサンディの瞳を見つめた。
 しばらく声が出なかった。
「さっき」
 と輝。
「ファーマンにサンディの映像を見せられたと聞いたとき言ったのがこれだ。彼女の瞳の色が加工されてたんだろ?」
「え、ええ……」
 詩音は、ゴクリとつばを飲みこんでうなずいた。
「どういうこと? なぜあたしも、あなたと同じなの?」
「あなたが火星生まれだってことよ」
「うそ。あたしは地球で生まれた。父も母も地球の人よ」
「戸籍上はね。でもあなたは火星生まれよ。この遺伝病は火星の移民三世以降でなければ出ない。いまのところ一万人にひとりだけど、年々この遺伝子を持った子供の出生率が上がっているわ。もっとも、わたしたちは遺伝病じゃなくて、ネオ・ジェネシスと呼んでいる」
「新世代さ」
 フレッドが言った。
「火星の環境に適応しはじめたんだ。人工重力のせいなのか、食べ物のせいなのかわからんけど、とにかく進化だ」
「そうだ」
 ダフが詩音をふり返りながら言った。
「ネオ・ジェネシスがチームに二人もいるなんて、心強い。サンディは本当に強いからな。詩音もそうだろ?」
「強いよ」
 輝が答えた。
「彼女は強い」
「待って」
 詩音は首をふった。
「動揺してる。いったいどういうことなの?」
「きみは」
 と輝。
「子供のころ地球にきたんだ。いや、赤ん坊のころと言う方がいいな。きみの両親は火星移民だったんだよ」
「うそ……」
「うそじゃない。ぼくは火星に行ってネオ・ジェネシスのことを知ると、すぐに調べた。もっとも子供だったから限界があった。高校生になって、公衆衛生局の記録を閲覧できるようになって、本格的に調べると、きみの出生証明書を見つけたよ。ウラニアドーム生まれだ。ネオ・ジェネシスが一番多く生まれてるドームさ」
「な、なぜ教えてくれなかったのよ」
「きみの両親が話していないことをか? ぼくにそんな権利はないと思った」
「でも……」
「詩音が生まれたとき、ご両親は不安を覚えたのかもしれない。当時はネオ・ジェネシスに、将来どんな遺伝疾患が出るかかわからなかったからね。それで地球に戻ることを決意したんじゃないだろうか」
「なんで話してくれなかったんだろう……」
「わからない。推測はできるけど」
「なに?」
「火星にいたときのことを忘れたかったんだろう。ウラニアはひどいところだ。地球でいえばスラムさ」
「たしかにうちは貧しかったけど…… 火星でもそんなスラムに住んでいたなら、チケットが買えたとは思えないわ」
「いまじゃ考えられないけどね」
 とサンディ。
「移民計画が大々的に行われていたころは、帰りの便に密航する連中がけっこういたんだよ。たぶん、あんたの両親もそうだろうね。だからよけい、火星のこと話せないのさ」
「それが事実なら、けっこうショックだわ」
「火星生まれなのがかい?」
 サンディが眉をひそめた。
「違うわよ。自分の信じていたものが崩れたから」
「気持ちはわかる」
 輝が言った。
「でも、この話はあとにさせてくれ」
 輝は青梅の山の雑木林の中に、少し開けたところを見つけてホバージェットを着陸させた。
「詩音。きみにどうしてもやってもらいたいことがある」
「な、なに?」
「大丈夫か?」
「ちょっと待って」
 詩音は、大きく息を吸った。
「ふう。どうぞ。話して」
「研究所に入ってくれ」
「あたしが?」
「そう。きみが」
「データを盗むの?」
「それはぼくがやる。いいかい、シンプルな計画なんだよ」
 輝は、計画を説明した。

09-03

 ファーマンは、ホバージェットで青梅に向かっていた。連邦捜査局が東京シティ地区で保有する十三機すべてを駆り出していた。
「まだ着かんのか!」
 イライラと怒鳴る。
「あと十五分です、チーフ」
「急げ!」
「全速力です」
「口答えするな!」
「はい」
 ファーマンは、怒りの頂点に達していた。
 どうしてもやつらを、輝をつかまえられない。なぜだ。部下がバカだからだ。無能だからだ。東京市警もバカだ。無能だ。自分だけが頼りだ。薄汚い火星人め。コケにしやがって。殺してやる。ミンチにしてやる。火星でおとなしく穴を掘ってればいいものを。奴隷が主人に楯突くとは。許せん。許せん。


10

10-01

 青梅シティ生物科学研究所の正門のわきにある警備室で、警備員が小さなテレビで映画を見ていた。
 そのとき。
「助けて!」
 という女の声が聞こえて、警備員はいすから飛び上がった。
「助けて!」
 警備員は、小窓をふり向いた。破れた服を着ている女が叫んでいた。
「ど、どうしました?」
 警備員は、思わず警備室から飛び出た。
「あ、あたし、東京PDの結城刑事です」
 詩音は、バッジを見せた。
「いままでテロリストの人質になっていたの。なんとか、いま逃げ出してきたんです。お願い、ここの所長に会わせて!」
「しょ、所長ですって? テ、テロリスト?」
 警備員は、なにがなんだか、さっぱりわからなかった。
「しょ、所長はこの時間いませんよ。というか、研究員はほとんど帰宅してます」
「いいから、とにかく、いまここにいる責任者と話をさせて、お願いよ。緊急なの。ここが狙われてるのよ!」
「だれにですか?」
「テロリストだって言ってるでしょ! 早くして!」
「は、はい!」
 警備員は、あわてて警備室に戻ると、内線電話を取った。詩音も入ってきた。警備員は電話がつながる間、詩音を見ていた。破れた服の間から、ブラジャーがちらりと見えていた。胸の膨らみが、少しだけわかる。
 電話がつながった。
「あ、正門わき警備室です。あ、警備主任代行。お疲れさまです。じつはいま――」
「かして!」
 詩音は、電話をもぎ取った。
「警備主任代行だかなんだかしらないけど、ここの責任者に会わせなさい」
 詩音は、内線電話のカメラに、バッジを見せた。
「あたしは東京PD特務課の一級刑事結城詩音。いまテロリストがこの研究所を狙っている情報を得たところよ。緊急です。一刻を争う。あなたのクビが飛びたくなかったら、いますぐ会わせて!」
『落ち着いてください、結城刑事』
 と警備主任代行の中年の男が言った。
『IDカードをカードリーダーに読み取らせてください』
「いいわ」
 詩音は、IDカードを取り出して、電話のわきにあるカードリーダーにかざした。
『ありがとうございます。たしかに、結城刑事ですね。連邦捜査局から連絡を受けています。たしかテロリストに拉致されたとか?』
「そうよ。いま自力で逃げ出してきた。早く中に入れて、お願い」
『わかりました。山岡に代わってください』
 詩音は、ビビって立っている警備員に電話を渡した。
「は、はい、主任代行」
『いまから正門を開ける。そとに不審な人物がいないか確認しろ』
「はい」
 山岡と呼ばれた警備員は、外に出て辺りを見回した。警備室に戻る。
「だれもいません」
『よし。結城刑事に入ってもらえ。おまえはそこで監視を続けろ。テレビを見てるんじゃないぞ』
「は、はい!」
 山岡は電話を切った。
「どうぞ、結城刑事」
「サンキュ」
 詩音は、駆け出した。
 研究所の正面玄関は、電気が消えていた。ガラス製の大きな自動ドアで、中の様子が見えるが、その前に鉄格子のようなシャッターが降りていた。
「早く開けて!」
 詩音は、その鉄格子を、ガシャガシャと揺さぶった。
 中に警備員の姿が見えた。正面玄関わきの壁の装置に鍵をさして、なにかスイッチを押した。シャッターが開く。そして、ガラス製の自動ドアの下の鍵も解除して、ドアを手で押し開けた。
「大丈夫ですか、結城刑事?」
「あなたが主任代行?」
「そうです」
「ここに警備員は何人いる?」
「五名です」
「少ないわね」
「いえ、ほかにセキュリティロボットが三十台あります。それにいま、連邦捜査官が向かっているそうですので、万全ですよ」
「そう。じゃあ急がなきゃ」
「は?」
「ごめんね」
 詩音は、ホルスターから銃を抜いて、警備主任に向けた。
「手をあげて。マスターキーをちょうだい」
「ゆ、結城刑事……」
「早く!」
「わ、わかりました」
 主任代行は、そろそろと腰に手を伸ばした。
「そこじゃないでしょ」
 詩音がそういったとたん。主任代行は、ピストルに手をかけた。もちろん詩音の方が早かった。だが引き金は引かなかった。主任代行を蹴り飛ばした。腹を抱えてうずくまる主任代行の首筋を、拳銃のグリップで殴る。主任代行は気絶した。詩音はマスターキーを主任の腰から抜き取る。
「お見事」
 輝とサンディがなだれ込んできた。
「山岡くんは?」
 と詩音。
「山岡くん?」
 と輝。
「正面玄関の警備員よ」
「彼と同じ」
 サンディが、倒れた主任代行を見ながら答えた。
「いまごろ夢をご覧になってらっしゃるわ。テレビよりおもしろいんじゃない」
「罪悪感を感じるわね」
 詩音は苦笑した。
「急ごう。ファーマンがくる」
 輝たちは走った。
 とたん。警報装置が鳴り響いた。
「カメラに映ってたね!」
 サンディが叫ぶ。
「しょうがないさ。忍び込んでる時間はない」
 輝は安全保障局をハックしたときに、生物科学研究所の見取り図も取り出していた。迷わず走る。正面玄関から、DNA解析室の前を通って、中央ロビーに出る。そこが研究所のビルの中心だった。十階建てのビルが、ここだけ吹き抜けになっている。中央には大きな熱帯の木が植えられていた。
 ドシャンガシャンと重機の音がした。ロビーの反対側からセキュリティロボットが駆けてくる。形は人形だが、二メートル近いそれは、箱を組み合わせたようなデザインの、昔ながらのロボットで、じっさい動きがトロかった。
「ありがたい」
 と詩音。
「ロボットなら撃てるわ」
「まったくだ」
 輝はセキュリティーロボットの頭部を撃った。弾がはじかれる。
「撃ててもダメみたいね」
 と詩音。
「突破してくれ。きみたちならできる」
「オッケイ」
 とサンディ。
「詩音。遅れないでついてきなさいよ」
「なにを! そっちこそ!」
 詩音とサンディは、ダッシュした。オリンピックの百メートル走ゴールドメダリストも驚くような瞬発力だった。セキュリティロボットが、おや? という感じでふり返ったときには、すでに詩音とサンディは反対側にいた。
「やるじゃない、詩音! 地球育ちにしては悪くないわよ!」
「あんたもね!」
 詩音はふり返って、セキュリティロボットを挑発する。
「ハーイ! 鬼さんこちら! ここまでおいで!」
 セキュリティロボットは、のろのろと向きを変えて、ドシャンガシャンと詩音たちを追った。輝がその背後に近づいて、ロボットの一体が持っている、ライフルをつかんだ。
「こいつ、はなせ! かせ!」
 だが、動きのトロいロボットは、力持ちだった。
 詩音がロボットの間をぬうように走ってきて、ライフルをもぎ取る。
「はい、輝!」
「サンキュ!」
 輝はライフルを受け取って、至近距離でロボットの頭部を撃つ。首が吹き飛んでロボットの動きが止まった。サンディもべつのロボットからライフルをもぎ取り、すでに三台破壊していた。詩音も二台。
「輝、詩音!」
 サンディが叫ぶ。
「先へいって! ロボットの相手は、わたしがする!」
「頼む!」
 輝と詩音は、奥へ進んだ。エレベーターがある。使わない。非常階段まで走る。そのとき、先の廊下の角から、セキュリティーロボットが三台、目の前に出現。輝はホームへ滑り込む野球選手のように床にスライド。その間もライフルを連射。二台を破壊。一台は詩音が破壊。
「輝。カッコいい。大好きよ!」
「ありがとう! やっとぼくのカッコよさがわかったね!」
「そうね! 名誉挽回だわ!」
 二人は非常階段を駆け上った。三階に着く。シャッターが閉じていた。マスターキーで開ける。
「この先の第三資料室だ!」
「うん!」
 この階にセキュリティーロボットはいなかった。
 第三資料室のドアもマスターキーで開ける。
「ちっ」
 輝は舌打ちした。
「ダメだ。マスターキーでIDカードはキャンセルできるけど、指紋検知システムが解除できない」
 輝はコートから携帯端末を出して、指紋検知システムを解除するプログラムを起動した。システムをコール。エラー。
「くそっ。最新システムか。めんどうだな。既存のプログラムでは対応できない。電磁誘導の応用で破れないかな。無理か。どうする。どうしたらいい?」
 ぶつぶつと輝。
「輝」
 詩音が聞いた。
「要は指紋が検知されればいいわけ?」
「そうだ」
「だったら」
 と詩音はコートのポケットをまさぐった。中には傷を消す透明シールが入っていた。
「これでなんとかならないかしら」
「なにそれ?」
「傷を消すシールよ。見てて」
 詩音は、指紋検知システムの、指を置くプレートに透明シールを貼って、スプレーをかけた。シールをはがす。そして自分の指にそのシートを巻いて、プレートに当てた。
〈確認〉
 コンピュータの合成音声。
〈生物物理第二研究所・主任研究員・五十嵐五郎。入室を許可します〉
 最後に入室した人物の指紋が残っていたのだった。透明シートがその指紋を転写したのだ。プシュッと音がして、ドアがスライドして開いた。
「わぉ」
 輝は一瞬目が点になった。
「詩音。きみ泥棒の才能あるかも」
「バカね。あたしは捕まえる方だったのよ。きのうまでは」
 詩音が先に入る。
「どこにあるの?」
「A34の245の棚だ」
「右側ね。ここだわ。ダメ、ここにも鍵がかかってる」
「開けよう」
 マスターキーを差す。だがサイズが合わなかった。
「くそっ。この鍵じゃない」
「なによこんなもん!」
 詩音は、思いっきり力を込めてスチール棚のスライド式の引き出しをひっぱった。ミシミシと音がする。
「がんばれ詩音!」
「うーん!」
 ガシャーン!
 と猛烈な勢いで開いた。詩音は勢い余って後ろに吹っ飛び、壁に当たってずるずると床に落ちた。
「大丈夫か詩音!」
「あいたたた」
 詩音は、頭をさすりながら起き上がった。
「平気よ。それより書類は?」
 詩音だけでなく、引き出しの中身も飛び出して散乱していた。
「あちゃ~っ、ごめん」
「開かないより、ずっといい」
 輝は、床に飛び散った資料を、漁るように探した。
「これじゃない。これでもない。ちがう。どれだ。グリーンの表紙のファイルなんだ」
「これ?」
 詩音が最初に手にとったファイルがそうだった。
「詩音! それだよ! ああ、きみはエンジェルだ! 天使だ。女神だ!」
 輝は詩音に抱きついた。
「きゃあ」
 詩音は、カワイイ悲鳴を上げた。
「と、やってる場合じゃない。逃げよう」
「うん。続きはあとでね」
「喜んで」
 二人は資料室を飛び出した。
 ちょうどサンディも駆け上がってきたところだった。
「サンディ! 見つけたぞ! 撤収だ!」
「ホント? やった!」
 サンディは飛び上がって喜んだ。
 そのとき。
 爆音が轟いた。ビル全体が揺れる。
「な、なんだ、なんだ?」
 輝は窓の外を見た。ホバージェットがサーチライトを照らしながら上空を旋回していた。
『テロリストにつぐ!』
 ファーマンの声が、ホバージェットの拡声器から聞こえた。
『生きてそこからでられると思うな!』
 ホバージェットからミサイルが撃ち込まれた。
「な、なってやつだ!」
 輝が叫んだ。
「研究所ごと破壊する気だ!」
「急いで!」
 詩音が、輝の手を握って走った。
 ミサイル。
 爆風。
 輝たちは吹き飛ばされた。
「輝! 大丈夫?」
 詩音は無事だった。サンディも。
 輝は、額から血を流しながら立ち上がった。
「まだ…… 平気だ」
 だが。ファイルが飛び散っていた。
「ファイルが」
 輝は、かき集めようとした。
 そのとき。天井が崩れた。
「ダメーッ!」
 詩音が、輝のコートをひっぱって、間一髪助けた。
「データが! データが!」
 サンディは、崩れた天井の下に埋まったデータを掘り起こそうとしたが、壁のガス管に引火。火がついた。
「ダメだ。燃えてしまう」
 輝とサンディが、ガックリと座り込んだ。
「逃げましょう。いまは」
 詩音は、輝の腕をとって立ち上がらせた。
「サンディ! あんたも早く」
「もういいよ」
 サンディは力なく答えた。
「データがなければ、おしまいだ。もう終わりだよ」
「バカ! 生きてれば、きっとなにか方法があるわ!」
「そうだ」
 輝が言った。
「サンディ。いまは逃げよう。最後の一秒まで諦めないといったのはきみだぞ。コピーがどこかにある可能性もある」
「ホントに?」
「ああ。逃げよう」
「う、うん」
 サンディは立ち上がった。
 またミサイルが飛んできた。
 三人は走った。とにかく走った。非常階段を降りる。正面玄関ではなく、裏口に回る。裏口の小さいドアを蹴破るように開ける。
「生きてたか!」
 ダフが待っていた。
「もうダメかと思ったぞ!」
 そこには、研究所のホバーカーが置いてあった。ダフとフレッドが盗んできたものだった。全員飛び乗る。運転席のフレッドが、アクセルを全開にする。いままでホバーカーがあった場所にミサイルが着弾。爆発。もちろんフレッドは、アクセルをゆるめなかった。

10-02

 研究所は、炎上破壊した。
 輝たちは、雑木林の中に逃げ込んで、その様子を見ていた。
「狂ってるわ、あの男」
 詩音がつぶやくように言った。ファーマンのことだった。もはや、輝たちと連邦捜査局のどちらが正しいのか考えるまでもなかった。
「やつは人間じゃない」
 ダフが答えた。
「あいつの身体の中にはどす黒い血が流れてる。狂気はエスカレートするばかりだな」
「悪魔なんだよ。生まれながらのサディストだ」
 とフレッド。
「あーあ。それにしても、終わっちまったな。ま、やるだけはやった。悔いはねえよ」
「まだ、終わったわけじゃない」
 美しい金髪がこげたサンディがぼそりと言った。膝を抱え、木の幹に背中をもたれて座っていた。
「どこかにコピーがあるって、輝が言った。まだ終わりじゃない。そうだろ輝」
「ああ」
 輝は、心底疲れたというように座り込んだ。
「あるかもしれない。ないかもしれない。だれにもわからない」
「あるって言ったじゃないか!」
 サンディは、瞳に涙をためて叫んだ。だが、そのあと顔を膝に埋めて泣きはじめた。
「泣くなよサンディ」
 ダフが、サンディの肩に手をおいた。
「オレたちはよくやった。よくやったよ」
「ダメなんだよ。結果がでなきゃ。結果がなきゃ」
 サンディは、泣いた。
「輝」
 詩音は、輝のとなりに腰を下ろした。
「大丈夫?」
「どうかな。もうボロボロだ。息をするのもつらい」
「バカなこと言わないで」
 詩音は輝の腕を抱いた。
「それにしても寒いなあ」
 フレッドは、自分を抱くように腕を組むと、そのへんの枯れ木をかき集めはじめた。
「おいフレッド。火なんかつけるなよ。見つかるぞ」
 とダフ。
「赤外線探知機でか?」
 フレッドは肩をすくめた。
「五百メートル先で、あんだけでかいもんが燃えてるんだ。見つかるもんか」
 フレッドの声には、もう見つかってもいいという投げやりさがあった。集めた枯れ木に火をつける。小さなたき火。輝たちは、オレンジ色の光に包まれた。暖かかった。
「火星じゃできないぜいたくだな」
 ダフが言った。たしかにそうだった。酸素を機械で作っている火星では、たき火など許されてはいなかった。
「子供のころを思い出すわ」
 詩音が言った。
「むかし、裏庭でたき火をしてお母さんに怒られたっけ。火遊びしたから怒られたんだと思ったけど、いま考えれば、火星でたき火が許されてなかったから、お母さんあんなに怒ったのかな」
「そうかもね」
 輝は、熱のこもらない声で答えた。本当に、心底疲れていた。
 詩音は、コートのポケットからお守りを出した。そのお守りの袋からビー玉を出す。
「見て輝。あなたにもらったビー玉。いまもこんなにきれいなんだよ」
「ホントだ」
「ずっと、あたしのお守りだったんだけどな。今回は効き目が少なかったみたい」
「そうだね……」
 輝は、そう答えながら、ビー玉を見つめている詩音の顔を見た。なにか影のようなものが見える。ビー玉を通ったたき火の光が落としている影だった。
「ねえ輝」
 と、詩音。
「これ、ビー玉の中になにか見えるんだけど」
「かして!」
 輝は、詩音からビー玉を奪うようにとると、たき火の光にかざした。
 中に文字のようなものが見えた。

ctgcagcatg tatcagtcca gttgaaatgc ggaagatgcg cgaggtaaca aatactactc
catccagtta taataatgtc gtcttgaatt atcaatatct tccagttatg aaagttatgg
aagcttgact gatcaacttg actgatactt ccaggaacac aagatactga agctgatgtt
aggaggcctt ctcgaacaga acggtgtcct gaagcgcgca tttcttaaac agcacaatcg
gctcaatgat tatgaaaaga aaatgtcgca ggagcggtcg cagattatcg acacgtacga

「DNA配列だ!」
 輝は叫んだ。
 サンディが顔を上げる。
「み、みんな! こ、この中に、DNA配列が書き込まれてるぞ!」
 輝は興奮して言った。
「母さん。こいつに残してたんだ。研究データを。ははは。なんてこった。なんで気がつかなかったんだぼくは!」
「ど、どういうことなの?」
「これは、母さんが子供のころぼくにくれたものなんだ。ふつうの光でみてもなにも見えない。赤外線に反応するようになってたんだ。まいった」
 輝は詩音に抱きついた。
「きみは天使だ。本当に。天使だよ詩音。よくずっと、持っててくれたね」
「う、うん」
 詩音は、一瞬キョトンとしたが、徐々にことの重大さがわかってきた。
「詩音!」
 サンディも詩音に抱きついた。
「あんた最高だよ! もういい。輝をあげる!」
「ちょ、ちょっと。輝は最初から、あたしのものよ!」
「だって、奪っちゃおうと思ってたんだもん!」
「な、なんですって?」
「なんだって?」
 輝と詩音が同時に叫んだ。
「わーははは!」
 ダフが笑った。
「まあ、いいじゃねえか、そんなこと! それより、これからのことを考えよう。こっからどうやって逃げる?」
「そうそう」
 とフレッド。
「ファーマンたちに包囲されてるんだぜ、オレたち」
「そうか」
 サンディはわれに返った。
「なんとかしなきゃ。輝、詩音。あんたたちだけでも逃げな。あたしたちが囮になって食い止める」
「急に元気になるんだもんな」
 と輝。
「みんなで逃げるに決まってるだろう」
「そうよ。みんな一緒よ」
 と詩音。
「なんとか、ここから逃げ出して警部に助けを求めましょう」
「警部ってだれよ」
 サンディが聞く。
「あたしの上司よ」
「信用できるの?」
「ああ。ぼくらを逃がしてくれた」
 答えたのは輝だった。
「詩音のいうとおり、彼を頼るしかないな。その前にここから脱出だ。フレッド、たき火を消しくれ」
「あいよ」
 フレッドは、たき火に土をかけて足でもみ消した。
「行こう。ライトはつけるなよ」
 輝は、詩音の手を握って森の中に走った。いや、走ろうと努力した。じっさいには枝に邪魔されて、早歩きという程度だった。
「輝」
 サンディが並ぶ。
「本気であたしたち全員が突破できると思ってる? もし、あたしたちを囮に使うのをためらってるんだとしたら――」
「それ以上言うな」
 輝がサンディの言葉をさえぎった。
「突破できる。この広い森を短時間で包囲できるわけがない。ぼくを信じろ」
「よし。いつもの輝だ」
 サンディは、ほほ笑みを浮かべた。
「あんたが冷静だと安心する。すべてうまくいくような気がする」
「まったくだ」
 ダフもうなずいた。
「何度、もうダメかと思ったしれない。輝がいなきゃ、とっくのむかしに死んでた」
「人望あるのね輝」
 と詩音。
「そうよお」
 サンディがニヤリと笑った。
「輝ってば、火星ですごい人気者なんだから。女にもモテモテだしねえ。かわいそうに詩音。苦労するよぉ。輝なんかやめといた方がいいよ。別れちゃいな」
「おあいにくさま! でも、そうなの?」
 詩音は輝に聞いた。
「そうってなにが?」
 と輝。
「女にモテるのがよ」
「あのね詩音」
 輝は苦笑した。
「サンディは大げさに言ってるだけだって。信じちゃダメだよ」
「なによぉ。ホントのことじゃない」
 サンディは口をとがらせた。
「たとえそうだとしても、それはぼくが母さんの息子だからだ」
「バカ言ってんじゃないよ。親の七光なんかだれが相手にするもんか」
「わかる気がする」
 詩音が言った。
「輝ってリーダーに向いてると思う。ねえ覚えてる? むかしあたしが苛められてるとき、こうして手を引いて助け出してくれたよね」
「覚えてる。でもきみは、あんな男の子たちよりずっと強いはずだ。ぼくよりもね。当時は知らなかったけど。なんでやり返さなかったんだ?」
「お母さんがぜったいに人に手をあげちゃいけないって。あたしが本気になってだれかを殴ったら、大変なことになるわ。母はそれを恐れてた」
「なるほど。きみのお母さんは――」
 輝は言葉を切って立ち止まった。前方にライトがチラリと見えたのだ。
「捜査局だ。三人…… いや四人か」
 輝が言うと、サンディは前方を凝視しながら言った。
「離れたところにもう一人。全部で五人よ」
「どうする?」
 詩音が聞く。
「いつものとおりさ」
 輝はそう答えて、ダフとフレッド。そしてサンディに、無言で目配せした。彼らも無言でうなずき返して散開した。
「一人ずつ相手になるつもり?」
 詩音は彼らの行動を見ながら輝にもう一度聞いた。
「ああ。きみはここに伏せていて」
「輝。待ってろはないでしょ。あたしもプロなのをお忘れなく」
「相手は警官だぞ。ロボットじゃない。まがりなりにも、きみの仲間だ。殺すことになるかもしれない」
「わかってる」
 詩音は覚悟を決めてうなずいた。
「もう引き返せない。いいえ、引き返さない。あたしは中途半端な立場になりたくない。あなたと同じ道を行く」
「詩音……」
 輝は、複雑な気持ちだった。彼女のその言葉を期待していた。だが同時に、彼女を追われる身にしてしまったことへの後悔。輝は首をふった。自分のやっていることは、その信念は正しいと信じている。ならば詩音の決断も正しいのだ。
「わかった。右側のやつらを。二人いる。ひとりはサンディがやるはずだ」
「オッケイ」
 輝と詩音はうなずきあって離れた。
 詩音は、連邦捜査官が、枯れ葉を踏んで歩く音にあわせて、自分の足音を消した。捜査官たちの背後に回る。サンディが近くにいるのを感じる。獲物を狙っている。そう思った瞬間。木の陰からサンディが突然現れて、捜査官の銃を持っている腕をつかみ取り、あっと声を上げられる間もなく、捜査官の首をひねった。詩音もほとんど同時に動いた。少し離れて歩いていた、もうひとりの捜査官の背中に抱きつくように飛び掛かり、首の頸動脈を腕で締めつけた。捜査官は意識を失って倒れた。死んではいなかった。
「殺して」
 とサンディがいった。
 詩音はそうしようと思った。だが身体が動かなかった。最後の一線を超えることがどうしてもできなかった。
「わたしがやる」
 サンディが言った。
「待って。殺す必要はないわ」
 詩音は、あわてて捜査官の腰のベルトから手錠をとって、その捜査官にはめると、ハンカチで猿ぐつわをした。
「甘いね」
 とサンディ。
「こいつが気がついて騒ぎだしたら、わたしたち全員が危険にさらされるんだよ」
 詩音は首をふった。
「三十分は目が覚めない。その間にあたしたちはべつの場所に移動している。無益に殺す必要はない」
「輝みたいなことを言うわね」
「そうなの? 輝と同じでうれしいわ」
「ふん」
 サンディは鼻を鳴らした。だが、小さな声でつぶやいた。
「だから、輝が惚れたのかな。わたしとは違う……」
「え? なに?」
 詩音が聞き返す。
「なんでもないよ」
 サンディは首をふった。そして、捜査官から銃と通信機とIDカードと財布、とにかく取れるものはなんでも取って、コートのポケットに押し込んだ。
 銃と通信機はわかる。でも、財布までとったら追剥ではないか。詩音はそう思ったが、つぎの瞬間には、それが彼らのやり方なのだと理解した。火星でどんな生活を送っていたのかわかる。そこは戦場であるだけでなく、彼らの生活の場なのだ。
「いくよ。ぐずぐずするな」
 サンディは先に立って歩きはじめた。
「ちょっと。上官みたいな口を利かないでよ」
 詩音も並ぶ。
「あたしはもう、仲間なんだから」
「仲間か」
 サンディは、複雑な表情で笑った。
「いい気なもんだね。火星のことなんにも知らないくせに」
「刺のある言い方ね」
「感謝してるよ。ホントに心から。あんたがビー玉を持っててくれなかったら、わたしはたぶん生きる気力を失ってた。命の恩人だよ。わたしだけじゃない。火星の移民にとって、あんたは英雄だ」
「こんどは褒め殺しってわけ?」
「つっかかんないでよ。わたしだって、いやな女になりたくない」
「輝のこと…… 本気だったの?」
「さあね。もう忘れた」
「あたし、なんて言っていいか――」
「ストップ。べつになにも言ってほしくないし、言う必要もないでしょ。わたしは輝の仲間。あんたは輝の恋人。それでいいじゃん」
 詩音は『ありがとう』と言いかけてやめた。サンディにとって、その言葉は屈辱的かと思ったからだ。気の回しすぎかもしれないが、無神経な言葉を使うよりいい。
 ダフとフレッドに合流した。彼らも捜査員から銃を奪っていた。
「輝は?」
 とサンディ。
「会わなかったぜ」
 とフレッド。
「おまえらと一緒じゃなかったのかよ」
「違うわ。ちょっとマジ? やめてよね」
 サンディは、焦った声で周りを見回した。空が白んできていた。そろそろ夜明けだ。サンディはドクンと心臓がなった。こんなところで輝を失ったら……
「みんな、輝を探して。早く!」
「待って」
 と詩音。
「下手に動かない方がいい。待つのよ」
「あんた、自分の恋人が心配じゃないの?」
「心配よ。胸が張り裂けそうだわ。でも、こんなところで死ぬぐらいなら、とっくのむかしに死んでいる。そうじゃないの?」
「そうだけど――」
 サンディは反論しようとしてやめた。
「詩音。あんた、本当に輝に似てるよ。クールだ。たまにムカつくけど頼りになる」
「仲間として認めてくれるってこと?」
「たぶんね」
 サンディは肩をすくめた。
 そのとき。かすかに枯れ葉を踏む音が聞こえた。
「いたぞ」
 とダフ。
「大丈夫だ。こっちにくる」
 ダフの視線の方向から輝が歩いてきた。
「なにやってんのよぉ。心配させないで」
 サンディが文句を言った。
「ごめん。いいものを見つけた」
「なに?」
 輝はサンディの問いに、ポケットからキーカードを出した。
「ホバーカーのキーだ。こいつらが乗ってきたやつだろう。たぶん、この先にある」
「やった」
 フレッドがホッとしたように言った。
「もう歩きはごめんだ。さっさとずらかろうぜ」
「ええ。早く戻りましょう。東京シティへ」
 とサンディ。
「人間は森に隠れられない」
 都市こそが、人を隠す最良の場所だと、サンディは知っていた。

10-03

「森の包囲はまだか!」
 ファーマンは、ホバージェットから降りて部下を怒鳴った。
「無理です」
 と部下。
「人員が足りません。森が広すぎる」
「かき集めろ。全国からだ。市警の連中も総動員しろ」
「市警は、なかなか重い腰を上げません」
「上げさせろ」
 ファーマンは、冷たい声で部下に言った。
「それがおまえの仕事だろう。幹線道路だけでなく、どんな細い私道もすべて封鎖しろ。衛星の監視を集中させろ。五基すべてを使ってかまわん」
「わかりました。最善を尽くします」
「おい」
 ファーマンは、べつの部下に声をかけた。
「二班と三班を研究所の中に入れろ。研究データが盗まれたかどうか確認するんだ」
「まだ火が鎮火していません」
「防火服を着せればいいだろうに!」
「しかしチーフ。防火服の準備はありませんが……」
「なければ調達しろ!」
「じ、時間がかかります……」
「きさまはバカか」
 ファーマンは、部下の胸ぐらをつかんだ。
「本部から持ってこさせる気か? この近くの消防署に要請して、持ってこさせようという発想はないのか?」
「わ、わかり…… ました」
 部下は苦しそうに答えた。
「十分以内に準備しろ」
 部下は、ファーマンから開放されると、まるで逃げるように駆けていった。
「おい」
 またべつの部下を捕まえる。
「森に入った連中との連絡は?」
「まだありません」
「いまなんと言った?」
「まだ連絡はありません」
「オレは連絡を待てとは言っていない」
「あ、すいません」
 部下は、あわてて森に入った捜査員たちを呼び出しはじめた。
「チーフ…… ゴードンのチームから連絡がありません」
「何度呼び出した?」
「三回です」
「ゴードンはどこから入った?」
「北B地区からです」
「ホバーで飛ぶ。やつらはそこだ」
 ファーマンは、ホバージェットに走った。乗り込む。操縦席で待機していた部下が、すぐさまホバージェットを浮上させた。
「北B地区だ。急げ」
「はい」
 ホバージェットのジェットバルブが青白く光った。わずか三十秒で目的地に着く。
「チーフ」
 と部下。
「捜査局のホバーカーが、八王子方面に向かって走っています」
「どこだ」
「右下です」
 ファーマンは、部下が指さす方を見た。たしかに捜査局の車だった。ゴードンのだった。
「呼び出せ」
「はい」
 部下は通信機をオープン。
「こちら、アルファ三号機。ゴードン。応答してくれ」
 返事はない。
「こちら、アルファ三号機。ゴードン。どうした。応答しろ」
 やはり返事はない。
「返答ありません」
「やつらだ。間違いない」
 とファーマン。
「破壊しろ」
「念のため、拡声器で警告します」
「ダメだ。近づくな。どんな武器を持ているかわからん。この高度から狙え」
「了解」
 部下は、パルスレーザーキャノンの照準をホバーカーにあわせて発射。命中。ドンという音とともに、ホバーカーは爆散した。
「やりましたねチーフ」
「まだだ。屍体を確認する。四班を呼べ。確認させろ」
「はい」

10-04

 輝は、八王子とは反対の、少し小高い丘から、ホバーカーが爆発する様子を見ていた。彼は、奪ったホバーカーの自動運転装置をセットして、八王子方面に走っていくようにしたのだった。
「よし。これでしばらく時間が稼げる」
「ホバーカーの自動運転装置に、こんな使い方があるとはね」
 と詩音。
「あなたが、みんなから頼られるわけだわ」
「利用できるものはなんでも利用する。それだけのことさ」
 輝は詩音にウインクすると、丘の下に降りた。サンディたちがあたりを警戒するように待っていた。
「うまくいったみたいね」
 とサンディ。
「ああ。急ごう。稼げる時間は三十分もないはずだ」
「ええ」
 彼らは住宅地に走った。空はだいぶ明るくなってきた。最初に目についた路上駐車場でホバーカーを盗む。詩音は、手慣れたものならば、わずか十五秒で盗難防止装置が解除できるのを知った。いや、目の前で見た。しかも恋人がそれをやるのを。
「一般車は簡単なんだ。警察の車はこうはいかない」
 輝は、詩音の視線を感じて苦笑しながら言った。
 詩音も苦笑した。いまのは、いいわけなんだろうか。それとも自慢?
 輝は、運転席を開けて乗り込む。詩音も助手席に乗ろうとしたが、ダフが自分を見ているのに気がついた。
「あ、ごめん。前はダフがいいわよね」
「すまんな」
 とダフ。
「身体がでかいもんで。後ろじゃ窮屈なんだ」
「わかってるわ。どうぞ」
 詩音は、ダフのためにドアを開けて、自分は後部座席に座った。サンディとフレッドも後部座席に納まる。輝はアクセルを踏んだ。あまりスピードを出しては怪しまれる。制限スピードを超えないように注意しながら走った。道路の封鎖、そして検問の前に青梅市を抜け出すことができた。
「輝」
 詩音が後ろから声をかけた。
「このままシティまで走るの?」
「いや、盗難車はマズイ。どこかで乗り捨てて電車でシティに入ろう」
「賢明ね」
 詩音はうなずいた。東京シティの幹線道路には、ナンバープレートを撮影するカメラがいたるところに設置されている。盗難の届けが出されたら、市警のコンピュータが、すぐさま東京シティ中の車を探すシステムがあるのだ。
「だったら立川ステーションまで行こう」
 サンディが言った。
「あそこなら人が多いはずだ。朝のラッシュにぶつかればなおさら都合がいい」
「そうだな」
 輝は立川ステーションにホバーカーを向かわせた。
「なあ輝」
 とフレッド。
「さっきから気になってんだけど、これからのこと考えてるか?」
「これから?」
「そうだよ。オレたちの正体はバレた。最初の計画はもう通用しないぜ」
「最初の計画って、どんなのだったの?」
 詩音が聞く。
「わたしたちは観光客として地球に来た」
 サンディが答えた。
「つぎの火星便が出る直前に、輝が安全保障局のコンピュータをハックしてデータを盗む。それをわたしとジャンが火星に持って帰る計画だった。でももう、わたしは火星便に乗れない」
「ジャンって人も?」
「彼は死んだわ。きのうファーマンに殺された」
「あ、ごめん……」
「べつにあやまんなくていいよ。とにかく、生き残りはわたしたちだけ。もう身動きがとれない。それは詩音も同じだけど」
「そうね。あたしも逃亡者だわ」
「悲観するな」
 輝は、ちらりと後部座席をふり返った。
「ここまできたんだ。ぜったいに諦めない。火星を緑の惑星にする。ぼくは火星の大地に立って青い空を見るんだ。宇宙服なしで。それが母さんと父さんの夢だった」
「輝」
 とダフ。
「オレはおまえを信じてる。どこまでも付き合うよ。青い空を見るまでだ」
「オレだって、火星の空をグライダーで飛ぶのが夢なんだ」
 フレッドは、せまい車内で手を広げた。
「空気が浮力をうむんだ。空気がだぜ。あんなでかいものを浮かすんだ。そして風に乗って飛ぶ。どこまでも。最高だろうぜ」
 詩音は、フレッドが見かけによらずロマンチストなのを知って驚いた。
「わかったわかった」
 ダフが苦笑する。
「おまえのその話は、もう何千回も聞いたよ」
「風か」
 サンディが、ちょっと遠い目で言った。
「リズやマイクたちがビックリするね。見せてあげたい。風の吹く草原で、青い空を」
「リズって?」
 詩音が聞いた。
「施設の子供だよ。わたしや輝が育ったところさ。いまもわたしたちを待ってる。地球でこんなことやってるなんて知らないけどね、あの子たちは」
「サンディと輝って、施設で一緒だったんだ」
「そうだよ。わたしたち付き合い長いんだ。ね、輝」
「腐れ縁だな」
 輝は、軽く笑った。
 詩音は、サンディに軽い嫉妬心を抱いた。疎外感も。彼女は輝と同じ場所で、同じ青春を生きた。そして同じ苦労を分かち合った。うらやましかった。詩音にはぜったいに手に入れられないものだった。時計は逆に回らない。もう十代の青春は戻ってこない。サンディには自分がどう映っているだろう。輝が二十二年間想い続けた女? とんでもない。彼女が輝と共有している記憶に比べたら、自分と輝の記憶は、うたかたの夢のようだと詩音は思った。子供のときも、そしてメールのやりとりも。まるで実体がなかった。
「立川ステーションだ。この辺で車を捨てよう」
 輝は道のわきにホバーカーを停めて降りた。
 詩音は少し落ち込んだ気分を締め出した。いまはやるべきことがある。
 サンディの期待通り、ラッシュがはじまっていた。ステーションはかなり混雑していた。
「みんなバラバラに乗ろう」
 とサンディ。
「時間と場所を決めて落ち合う。どこがいい輝?」
「コンピュータを使いたい。二時間でいい」
「ビー玉の情報を写し取るのね」
 と詩音。
「そう。それだけじゃないけど」
「というと?」
「考えがあるんだ。いまは言えない」
 詩音は、輝がファーマンのブレインサーチを恐れているのがわかった。詩音自身もそうだった。彼らがいままで、ブレインサーチにどれだけ神経を使ってきたか、いまやっと実感した。
「だったら、警部のアパートはどうかしら」
「ふむ……」
 輝は腕を組んだ。
「危険だが、彼の助けを借りるしかないな」
「警部は信頼できるわ」
「そういう意味じゃない。彼の家は、連邦捜査局か、市警が張っている可能性がある」
「警部のアパートを?」
「ああ。市警から逃げるときに、彼はぼくらに協力してくれたからね」
「協力には見えなかったと思うけど」
「残念ながら、彼の態度に疑問を持った同僚がいたと思うよ。なんていったっけ? 広瀬だったかな。彼なら気づいてもおかしくないだろう」
「広瀬か。そうかもね。思い出したくない顔だわ」
 詩音は、たしかに輝の言うとおりかもしれないと思った。
「でも、どちらにしても警部に会わなきゃ。連絡を取りたいわ」
「ダメだ。盗聴されている。それに携帯を使ったら、電波の位置で、ぼくらの場所も特定される」
「メールは?」
「ダメだ。コンピュータも監視されている」
「逃亡者は楽じゃないわね」
 詩音は苦笑した。
「あなたたちの苦労がやっとわかった。追うのも楽じゃないけど、逃げる方がずっとパワーがいるわ」
「もう慣れてるさ、オレらはね」
 ダフが笑った。
「詩音」
 と輝。
「警部は、たぶん自宅だろう。謹慎を食らっていると思う。自宅の構造は?」
「あたしのアパートに似てるわ」
「地下に駐車場がある?」
「たしか…… ええ、あるわ」
「よし。それならなんとかなる。サンディ。今回は分散しないで一緒に行動しよう」
「わかった。あんたがそういうなら」
 輝たちは電車に乗り込んだ。ダフが目立つと思ったが、それほどでもなかった。彼ほどの巨漢はいなかったが、それでも背の高い人間は少なくなかった。やはり人を隠すなら人の中だった。彼らは街のざわめきに溶け込んだ。

10-05

 ファーマンは、ホバージェットで連邦捜査局日本分局に戻っていた。地域課長のオフィスから課長を追い出し、ひとり捜査局の専用回線のモニタの前にいた。
『失態だな、ファーマン』
 モニタに映った男が言った。グラハム中将だった。
『きみには失望したぞ。神林輝を捕らえられないだけでなく、研究所を爆破するとは』
「お言葉ですが中将」
 ファーマンが答えた。
「神林明子の研究データが持ち出される寸前だった。わたしの判断は間違っていない」
『それで、データはどうなった?』
「確定的なことは言えません」
『きみらしくないな。簡潔に報告したまえ』
「いま部下が研究所の内部を調査している。ペーパーの書類はほとんどが焼けた。やつらの逃走経路にも、いくつかのペーパーの焼けたあとがある。それを分析している。あれが目的のデータなら、漏洩はない」
『非常に不確実かつ不愉快な報告だ。もし仮にデータが持ち出されていたとしたら、きみの将来はあまり楽しいものではないだろうな』
「中将。わたしは以前から、データの破棄を主張していた。あんなものを残しておくから、こういうことが起こる」
『貴重な研究データだ。明子博士の成功は奇跡といってもいい。幸運は二度はない。失われたら最後だ。いつ役に立つかわからん』
「そういう意識が問題だと――」
『ファーマン』
 グラハムは、ファーマンの言葉をさえぎった。
『わたしに意見するのはやめたまえ。きみの仕事は神林輝を逮捕することだ。一刻も早くだ。そのことにだけ、頭脳を使いたまえ』
「やつらは地球から出れない。袋のねずみだ」
『そうかな。その言葉をわたしはなんど聞かされた?』
「包囲は狭まっている」
『いいだろう』
 グラハムは、軽いタメ息をついた。
『内務省がこそこそ動いている。議会の根回しにも限界がある。急ぐことだ。大統領に誤った判断をさせてはならない』
「衛星を動かしていただきたい。三十六基で、日本上空を監視できるように」
 日本上空にある安全保障局の軍事衛星は、通常五基だった。一基で二十カ所の撮影が可能だった。中精細カメラで広範囲をスキャンし、高精細カメラで細部をとらえる。高精細カメラは、人間の顔も判別可能な解像力があった。三十六基の衛星を使えば、東京シティ全域をリアルタイムに監視できるはずだった。
『それは不可能だ』
「MGRが最優先事項でしょう、中将。わたしの将来の前に、ご自分の将来も心配なさるべきだ」
 グラハムは、しばらく無言でファーマンをにらんでいた。
『いいだろう。三十分以内に手配しよう。そちらで接続しろ』
「ありがとうございます」
 ファーマンは、おざなりに頭を下げた。
『ファーマン。もう失敗は許されない。肝に銘じておきたまえ』
「了解しました」
 モニタからグラハムが消えた。
 ファーマンはその瞬間、怒りにまかせてモニタをこぶしでたたいた。ガシャンという音を立ててモニタがデスクから落ちた。

10-06

 輝たちは中野ステーションに降りた。森本のアパートのある駅だった。駅ビルの地下駐車場に移動。荷物の搬入口に向かう。なかなかうまいトラックが見つからなかった。みな一般人には無関係な専門業者だ。十五分ほど待って、フェデラルエクスプレスのトラックが入ってきた。
「あれがいい」
 と輝。
「詩音。頼む」
「オッケイ」
 詩音はトラックに近づき、降りてきた運転手にバッジを見せた。
「すいません。東京PDです」
「えっ、お巡りさん?」
 若い運転手は、ちょっとギクッとなった。
「オ、オレ、スピード守ってますよ」
 守ってないわねと詩音は思ったが、そんなことはどうでもよかった。
「違うんです。じつはいま捜査の最中なんですが、ちょっとご協力いただけませんか。ご迷惑はおかけしません」
 運転手はホッとした顔をしたあと、こんどは興味深げに聞いた。
「なんです? なんかこのビルで事件でもあったんッすか?」
「ここではないの。車で五分ほどいったアパートなのだけど、潜伏している犯人に悟られないようにそのアパートに入りたいんですよ。このトラックなら怪しまれないわ。乗せていっていただけません?」
 詩音は、サングラスを外して運転手ににっこりとほほ笑んだ。
 運転手は、オッドアイを見るのははじめてだった。だがそれ以上に、詩音の笑顔が魅力的だった。
「も、もちろんッすよ。お巡りさんに協力できるなんて光栄だなあ」
「ありがとう。お仕事中みたいだけど、いますぐ行ってくださるかしら?」
「いいッすよ。搬入なんかちょっと遅れるぐらい問題ねえ。どうぞ、どうぞ、乗ってください」
 運転手がトラックの助手席を開けた。
 そのとき。
 ダフが、ぬっと現れた。
「ひっ」
 運転手は腰が引けた。
「That's very thoughtful of mate」(悪いね、兄ちゃん)
 ダフは、にっと笑って助手席に乗り込んだ。彼は日本語はしゃべれない。
「同僚よ」
 詩音は、やはり魅力的な笑顔を浮かべたまま言った。
「あたしは貨物室に乗るわ。後ろを開けてくださるかしら?」
「はあ、はい」
 運転手がうなずいて、トラックの後ろに回ると、輝とサンディ、そしてフレッドが待っていた。
「捜査へのご協力感謝します」
 輝がまじめくさった声で言った。ご丁寧に輝は、敬礼のまねごとまでして見せた。
「はあ。いえ、どうぞ」
 運転手は早まったことをしたと思ったが、あきらめて後部の貨物口を開けた。観音開きになったドアから、輝たちが中に入る。朝の早い時間なので、まだ荷物が満載だった。
「ではよろしく。行き先は助手席の同僚に聞いてね」
 詩音は、運転手にウインクして中からドアを閉めた。
 とたん。わー、せまい。サンディ、もっと奥に詰めてよ。輝にくっつかないで。という声が聞こえてきた。もっとも英語なので運転手には意味はわからなかった。
 運転手は、運転席に座った。
「んじゃ、行きますよ」
 となりのダフに言う。
「OK, To this apartment of underground parking lot, please」(オーケイ。このアパートの地下駐車場に行ってくれ)
 ダフは、携帯端末にマップを表示させて、運転手に見せながら言った。
「は?」
 運転手は首をかしげた。英語ができない男だった。
「Look, This place Understand?」(ほら、この場所だ。わかるか?)
 ダフは、マップに表示された、森本アパートを指さした。
「ああ、はいはい。このアパートね。えーっと、キャンディスタンドの右隣のビルか。わかりました」
 運転手はトラックのアクセルを踏んだ。駅ビルの駐車場を出る。
「あーあ。きれいな姉ちゃんとお話しできると思ったんだけどな」
 ダフには、運転者の言葉の意味はわからなかった。だが、おもしろくない気分なのはその態度でわかった。
「Brother」(兄弟)
 ダフは、運転者の肩をポンと親しげにたたいた。
「You have to take the good with the bad That is life」(いいこともあれば悪いこともあるさ。それが人生ってもんだ)
「は、はあ」
 運転手は、にっこり笑ってるダフをちらっと見ながら言った。
「すんません。なに言ってるかわかんねえや。えーっと、アイ、キャント、スピーク、イングリッシュ」
「Oh」(ああ)
 ダフは軽く肩をすくめた。
「Don't sweat it」(気にしなさんな)
 五分ほど走って、森本のアパートに着いた。アパートの前で止まる。
「ここでしょ、刑事さん?」
「Yars, going underground parking」(そうだ。地下駐車場に入ってくれ)
「はい?」
「Underground parking」(地下駐車場だ)
 ダフは、親指を下向きにして、二、三度ふり下ろしながら言った。
「ああ、地下ね。はいはい」
 運転手は、トラックを地下駐車場に入れた。
「はい。到着。ここでいいッすか?」
「Yes Open backdoor」(ああ。後ろのドアを開けて)
「オープン、バックドア。ああ、後ろね。はいはい」
 運転手は、トラックを降りて後ろの貨物口を開けた。
「到着しま――」
 運転手は言葉を切った。詩音が、指を唇に当てて、シッとやったからだ。
「これを」
 詩音はメモを運転手に渡した。
「六〇六号室の、森本という人物に渡してください。大丈夫。その人物も警官です。部下からの伝言だといって渡してください。危険はありません。落ち着いて、いつもどおりお願いします」
 詩音はそう言うと、近くの小さな荷物を運転手に持たせた。
「はい。これを届けるふりをして」
「は、はい」
 運転手は、えらいことを頼まれちゃったという情けない顔をしたが、それでも逃げられないと覚悟を決めてうなずいた。
 メモをポケットに押し込み、荷物を持って、エレベーターホールに向かった。インターカムを押す。
『はい』
 男が映った。
「あの、森本さんですか?」
『そうだが』
「お届けモノです。サインをお願いします」
 運転手は、喉が枯れるのを感じながら言った。
『ごくろうさん。上がってくれ』
 エレベーターのロックが解除された。
 運転手は六階を押す。ケージが降りてくるのがえらく長く感じた。ドアが開く。乗り込む。六階。六〇六号室まで歩く。途中、何度か後ろをふり向きたい衝動に駆られたが、詩音からいつもどおりと指示されたのを思い出して、がまんした。
 六〇六号室の前でインターカムを押した。
 ドアが開いた。
「ごくろうさん」
 森本が顔を出した。
「あの、これ部下の方から伝言です」
「ん?」
 森本は、メモを受け取って目を走らせた。下の駐車場にいること。そして連邦捜査局の張り込みを巻きたいことが書かれていた。もちろん、その方法も。
「詩音のやつ」
 苦笑する。そしてズボンのポケットから財布を出すと、中に入っているアパートのキーカードの予備を抜き取り、メモに暗証番号と、妻は外出中で自分ひとりであることを書きつけて運転手に渡した。
「捜査にご協力感謝します。このカードとメモを、下の刑事に渡してください。ところで、あなたのお名前は?」
「え? は、はい。えっと、樋口ですが」
「フェデラルエクスプレスの樋口さん。覚えました。事件が解決したら、あなたには市警から感謝状が出るでしょう」
「ホントですか?」
「ええ。解決したらね」
「ありがとうございます」
「こちらこそ。では、よろしく」
「はい!」
 運転手は、森本に頭を下げて、急いで駐車場に戻った。
 貨物口を開ける。
「これ。受け取ってきました」
「ありがとう。大感謝」
 詩音は、満面の笑顔で、キーカードとメモを受け取った。
「もうちょっと付き合ってくださいね。ここで荷物を整理しているふりを」
「はい」
 運転手は、荷物を出しはじめた。貨物室に少し空きができる。荷物の形に身体をあわせていたフレッドが、ホッと息をついた。詩音は、輝にくっついているサンディの脇腹をつついた。
「なによお」
 とサンディ。
「隙間ができたんだから、輝にくっついてなくてもいいでしょ」
「ちぇっ」
 サンディは輝から離れた。輝もフレッド同様、ホッと息を吐いた。べつの意味で。
 運転手が十個ほど荷物を出したころ、森本が降りてきた。そのまま自分の車に乗って出かけていく。
 すると。駐車場に停まっていた黒いセダンが森本の車を追った。捜査局のホバーカーだった。
「いったわ」
 とサンディ。
「ふう~」
 フレッドが大きな息をついて貨物室から降りた。
「まいった。せまかった。ダフが入ってたら圧死してたな」
「そうね」
 とサンディ。機嫌がよかった。
「もう。なによ、ずっと輝にくっついちゃって」
 詩音は機嫌が悪かった。
「だって、せまいんだもん。しょうがないじゃん」
「だからって、輝に抱きつくことないでしょ」
「二人とも。そういう平和な会話はあとでやろう」
 輝は苦笑した。彼女たちが、緊張をほぐそうとしているのか、それとも本気で言っているのか。悩む。
「平和でもねえがな」
 フレッドがニヤニヤ笑った。
 本気だったら、たしかに平和ではないのかもしれない。と輝は思い、運転手が英語を理解できないのをありがたいとも思った。
 助手席からダフが降りて、運転手に握手を求めた。
「ありがとう。助かった」
「いやあ、とんでもない。このくらい、なんてことないッすよ」
 さすがに運転手にもダフが、サンキューと言っているのがわかった。
「ありがとう」
 輝も、運転手に礼を言ってエレベーターに向かって歩いた。
「ご協力ありがとうございました」
 詩音は、運転手に警官らしく敬礼して輝を追った。
「メルシーボクゥー」
 サンディは、フランス語で礼を言うと、運転手に投げキッスを送った。
 運転手は、金髪美人に投げキッスをもらって、いよいよ気分がよくなった。彼らが駐車場から消えると、口笛をふきながら仕事に戻った。
 詩音は、エレベーターホールのカードリーダーに、森本のカードを読み込ませ、暗証番号を打ち込んだ。
 エレベーターのロックが解除された。詩音は六階を押した。ケージが降りてきてドアが開いた。乗り込む。六階。廊下に出る。六〇六号室。カードで開ける。
「おじゃまします」
 だれもいないとわかっているのに、つい詩音はそういってしまった。
 全員、部屋に入った。
「いやあ、疲れた」
 フレッドが真っ先にソファに座り込む。
 ソファテーブルにメモがあった。十分で戻る。コーヒーでもなんでも勝手に入れて飲めと書かれていた。詩音は、心の中で森本に礼を言った。
「みんな。コーヒー飲む?」
「飲む!」
 フレッドが手をあげる。そのあと、ぼくも、わたしも、オレもと、全員がコーヒーを所望した。
 詩音がコーヒーを入れ終えて、カップが全員にいきわったころ、森本が帰って来た。近くのコンビニの袋を持っていた。捜査局に疑われないために、ほしくもない雑誌を買いにいったのだった。
「詩音。無事だったか。よかった」
 森本は、心底ホッとしたように言った。
「はい。ご心配おかけしました」
 詩音は軽く頭を下げた。
「無事ならいいんだ。それにしても派手にやりやがったな」
「研究所のことですか?」
「ああ。トップニュースだぞ。おまえらだろ、あれ」
「とんでもない! 研究所を破壊したのはファーマンです」
「捜査局が?」
「そうです。ミサイルで。消防庁が検証すればわかるはずです。ファーマンは正気じゃありません。狂ってる」
「ふむ。それが事実なら、捜査局だけで処理するだろうな」
 輝が、詩音と森本の会話を、サンディたちに英訳して聞かせていた。
 森本はサンディに視線を移した。そして言葉を英語に切り換えた。
「ずいぶん仲間が増えたじゃないか」
「ハイ、警部」
 サンディが、サングラスを外す。
「サンディ・ホールよ。よろしく」
「驚いた……」
 森本は、言葉どおりサンディを見て驚いた。
「きみは、詩音と同じ目の色だな。どういうことだこれは」
「ネオ・ジェネシスよ。わたしも詩音も」
「ネオ・ジェネシス?」
「警部」
 と詩音。
「ネオ・ジェネシスは、火星生まれの第三世代に出る遺伝病です。あたしは火星生まれなんです」
「はあ? なんだって?」
「詳しいことは、あとでお話します。というか、あたしも両親に聞きたいんですけど」
「そうか…… なんともまあ、複雑なことよ」
「あ、コーヒーどうぞ」
 詩音は、森本にもカップを渡した。
「そう言えば、奥さまは、どちらにいかれてるんですか?」
「しばらく実家に帰した」
 森本は、詩音の入れたコーヒーカップを受け取りながら答えた。
「えっ。ホントに? すいません。あたしのせいで」
「バカ野郎。おまえだけの問題じゃないと言ったろ。それに女房は、こういうことも覚悟の上で一緒になった女だ。気にするな」
「わぉ」
 とサンディ。
「警部さん、カッコいいじゃん」
「ははは。ありがとよサンディ。あんたもキまってるぜ」
「サンキュ。奥さんがいるなんて残念ね」
「そうかい」
 森本は苦笑した。
「警部。そんなことより、輝の話を聞いてあげてください」
 詩音が言った。
「そうだった」
 森本は詩音に答えて、輝に向きなおった。
「で、どうなってんだ、いったい」
「じつは――」
 輝は、飲んでいたコーヒーのカップをソファテーブルに置いた。
「さっきから、あなたにどこまで話していいか迷っている」
「オレは信用できんか?」
「いや…… 詩音じゃないけど、あなたにあまり迷惑をかけたくない」
「もう十分迷惑を被っている。時計は逆には回らんぞ。おまえが詩音の男じゃなかったら、ぶん殴ってるところだ。本当にぶん殴られたくなかったら、すべて話せ。オレにできる協力はする」
「ありがとう。地球にあなたのような警官がいてよかった」
「ふん。そのセリフは、すべて話すまでとっておけ。協力できんかもしれん」
「コンピュータを貸してもらえればそれでいい」
「コンピュータ?」
「そう」
 輝は、詩音のビー玉をポケットから取り出した。
「この中に、母さんが研究していた植物のDNA配列が記録されている」
「コンピュータで読み取るのか?」
「いや。赤外線に反応するタイプだ。カメラで撮影するのが一番いいと思う。カメラはありますか?」
「ある。それで、データをどうするつもりだ?」
「世界中の民間研究所にバラまく」
「えっ?」
 詩音たちが驚きの声を上げた。
「て、輝! 大事なデータをバラまくですって? なに考えてるのよ!」
 サンディが叫ぶ。
「いい方法だと思うな」
 輝は、なにげない口調で答えた。
「このデータは安全保障局の最高機密データだ。それが機密でなくなれば、ぼくらが追われる理由はなくなる。考えてもごらんよ。やつらは、データ自体がないと主張してきた。それが存在するとなれば、彼らのうそも暴ける」
「そうか。それはいいかも」
 サンディは単純にうなずいた。
「待って」
 と詩音。
「その研究データが正しいとはすぐに証明できないはずよ。DNAを組み込んだ植物を培養して、火星環境で育ててみなければならない。時間がかかるわ」
「いまの技術なら一ヶ月で証明できる」
「そうなの?」
「ああ」
 輝は、力強くうなずいた。
「自信ありげだな」
 森本が言った。
「その自信の根拠はなんだ。おまえもお袋さんと同じ生物学の研究者か?」
「違う。火星の仲間に科学者がいるんだ。DNAデータさえあれば、発芽させるところまでなら一ヶ月でできると言っていた」
「なるほど。しかし一ヶ月か。長いぞ。それまで隠れているか」
「隠れるのには慣れているけど、もう隠れるつもりはない。話が前後したけど、データをバラまくのは最後の手段なんだ。その前に、最後から二番目の手段を試してみたい」
「というと?」
「連邦政府と交渉する」
「なんだって?」
「警部。彼らには、このデータが正しいとわかっているんだ。一ヶ月もかけて証明する必要はない」
「自殺行為よ!」
 サンディが輝の腕をつかんだ。
「あんた、あのファーマンに話し合いが通じると思ってるの?」
「ファーマンなんかと話をするつもりはない。無駄だし無意味だし、顔も見たくない。あいつは連邦裁判所に行くべきだ」
「じゃあ、だれと交渉するつもりなんだ?」
 と森本。
「連邦大統領です」
「えーっ!」
 全員が声を上げた。
「あんた、正気? 熱でもあるんじゃないの?」
 サンディが、輝のおでこに手を当てた。
「正気だよ。風邪もひいてない」
 輝は苦笑しながら、サンディの手を払いのけた。
「いまの連邦大統領はタカ派じゃない。ヘリウム3が安定供給されるなら、火星の緑化に理解を示す可能性は十分にある」
「どうかな」
 と森本。
「たしかに人道主義者という印象はあるが、しょせんは政治家だ。信用するのは危険だぞ」
「全面的に信用する気はない。だからこそ、最終手段がある」
「交渉が決裂したらデータをバラまく?」
 と詩音。
「そう」
 輝は、詩音にニコッとほほ笑んだ。
「大統領には、ただちに安全保障局の陰謀と母の研究データを、連邦政府の公式見解として発表してもらう。政府自ら過ちを認めるんだ。それが一番混乱が少ない。いや、十分混乱はするだろうけど、まともな神経があるなら、彼らがテロリストと呼ぶぼくらに発表されるよりマシだと思うだろう。安全保障局は、行政府から独立している。過ちを認めたところで、大統領の政治的立場は、それほど傷つかないだろうしね。行政府と安全保障局のポリティカルパワーが試されると言ってもいい。シビリアンが勝つと信じるよ。そうでなければ、大変なことが起こる」
「どうなるんだ?」
 フレッドが腰を浮かせながら聞いた。
「さっき言ったとおりさ。ぼくはデータを、世界中の通信社や大学、民間の研究所に送りつけるつもりだ。そして、どこかの研究所がデータの正しさを証明してくれるまで身を隠す。そして、データの正しさが証明されたら……」
 輝は、全員を見回してから言った。
「それを知っていた大統領も無傷ではいられない。最終的に政権は崩壊するだろう。大混乱だよ。さあ、大統領はどちらを選ぶと思う?」
 詩音は、ほうっと息を吐いた。輝の計画は完ぺきに思えた。すごい。政治のことまで考えてるなんて。
「考えたな」
 と森本。
「そういう脅し…… いや、条件なら、大統領も要求を飲まざるをえんだろう」
「ペンは剣より強しですよ」
「いいこと言うわね」
 詩音はうなずいた。
「もし、それが実現したら、あたしたちを追ってるファーマンこそ刑務所行きだわ」
「ああ。あいつこそ鉄格子が似つかわしい」
「おもしろいじゃねえか」
 森本がニヤリと笑った。
「全面的に協力する。コンピュータは、書斎のやつを使え。右側のドアだ」
 ダフとフレッドが、パンと手をたたき合った。
「やったな。さすが輝だ。うまくいきゃあ、堂々と火星に帰れるぞ」
「あんたたち」
 とサンディ。
「喜ぶのは火星の土を踏んでからにしてよね。いまから連邦大統領に直談判しなきゃなんないんだよ。喜んでる場合じゃないよ、まったく」
 サンディは、火星の大地が緑で覆われるまで、そしてそれを自分の目で見るまで、ぜったいに浮かれたりしないと決めていた。
「そりゃそうだ」
 とダフ。だが、彼の顔には笑顔が広がっていた。
「ダフ」
 輝が、ダフの笑顔を消すほど厳しい顔で言った。
「サンディの言うとおりなんだ。まだ気を抜くのは早すぎる。メールを送った瞬間から、また忙しくなるぞ」
「待つだけじゃないのか?」
「まさか。ファーマンが、この部屋の回線を監視してるはずだ。データを送ったら、やつもすぐに気づいて踏み込んでくる」
「待てよ。だったら、データをブロックされちまうんじゃないか?」
「ここの回線はね。すでに、いったん捜査局のサーバーにため込んで、外部に漏れないように接続を変えてあるだろう」
「だったら、メールをどうやって出すの?」
 詩音が聞いた。
「これだよ」
 輝は、自分の携帯端末を取り出した。
「こいつには、連邦捜査局をハックしたときのプログラムが入っている。やつらのサーバーを踏み台にする。気づいたときにはもう遅い。グラスハウスにメールが届いている。捜査局のサーバーから、やつらが隠していたデータを発信してやるのさ」
「そいつはご機嫌だぜ!」
 フレッドが笑った。
「そして」
 とサンディが続けた。
「わたしたちは、またファーマンに追いかけられるというわけね」
「ああ」
 輝は、うなずいてソファから立ち上がった。
「でも、鬼ごっこはこれが最後だ」
「だが」
 と森本。
「ここから、どうやって出るつもりだ?」
「警部。ご近所との交流はありますか?」
「ああ。女房が親しくしてるからな。しかし、一般人を巻き込むのだけは警官として容認できんぞ」
「電話を借りるだけです。うちの電話が故障したとかなんとか言って借りてください。ここの電話を使うのはまずい。もちろん携帯電話も」
「それはいいが、どこにかけるんだ?」
「利用できるものはなんでも利用する。電話一本で、どこにでも駆けつけてくる人たちがいるでしょ? 警官以外にも。いや警官より早いかな。彼らは」
 輝の言葉に森本は首をかしげた。


11

11-01

 地球連邦内務省のハカム長官が大統領に会えたのは、午後の二時だった。安全保障局のグラハム中将に不信感を抱いているのは大統領も同じだった。しかし大統領には、安全保障局に対して人事権を持っていなかった。安全保障局長官は、きわめて独立性の高い機関だ。大統領が、政治的目的に使えなくするためのシステムだった。議会の安全保障委員会が長官を任命する。大統領はノータッチだ。
「それがわれわれにとって有利かもしれません」
 ハカムは大統領にそう言った。安全保障局は限りなく黒に近いグレーだ。おそらく神林明子博士を暗殺しただろう。そして彼女の研究データはあるのだ。だが大統領が、人事権のない機関のやったことに責任をとる必要はない。しかもグラハムは、前大統領時代の委員会が長官に任命した男だった。
 ハカムは、大統領に安全保障局とは距離を保つようにと進言し、可及的速やかにヘリウム3に代わる、いや、全面的に代えることはできないが、少なくとも補助する代替えエネルギーの研究を進める方向で意見が一致した。
 一時間ほどの会談を終えたハカムは、内務省と議会で二つの会議に出席した。オフィスに戻ったのは午後の六時だった。それから、ルーティンワークに取りかかった。いくつかの書類に目を通し、認証のサインを書き加える。あらかじめ電子ペーパーで目を通していた書類ばかりだったが、最終認証を与えるのは、ペーパーの書類に限られていた。電子データの保存性にはこの時代でも疑問があった。だがペーパーは、数百年の保存性が証明されている唯一のメディアだった。良質の中性紙ならば、湿度と温度さえ適切に管理すれば、千年近い保存性さえ期待できた。それだけの保存性を期待できる電子メディアは存在しない。
 ルーテインワークを終えたのは午後の八時だった。それから、エネルギー部会の研究状況を確認し、チームの主任を呼んで、直接最新の進行状況を聞こうと思ったとき、部下から日本にある生物科学研究所が破壊されたという報告を受けた。二時間前の出来事だった。
 ハカムはその報告をしにきた部下に対し、二時間も報告が遅れたことを叱責し、それがただの八つ当たりだと気づいて、叱責したことを詫び、そのあと頭痛薬を持ってこさせた。いったいどこまでエスカレートすれば気がすむのか。このままでは、本当に取りかえしがつかないことになる。
 頭痛薬を飲んだハカムが深いタメ息をついたときだった。デスクのコンピュータモニタにメールの受信マークが点滅しているのに気がついた。
 ハカムは、メーラーを開いた。そして発信アドレスを見て眉をひそめた。連邦捜査局からだった。サブジェクトは「閣僚のみなさまへ」だった。
「いいわけでも送ってきたか」
 ハカムは、渋い顔でメールを開いた。だが、本文を数行読んで、ハカムは戦慄を覚えた。鼓動が急に激しくなる。


*************

 閣僚のみなさまへ。

 わたしは、あなたがたがMGRと呼ぶ組織の者です。いや、おそらく連邦捜査局から報告がきているでしょうから、名乗りましょう。わたしは神林明子の息子。神林輝です。
 このメールは、連邦捜査局のサーバーを踏み台に、内務省、財務省、教育省、連邦金融準備委員会の各省庁の長官、そしてグラスハウスの安全保障担当補佐官宛に出しています。長官ご本人か、上級秘書が読まれていることを期待します。ちなみに、大統領のプライベートアドレスは探れなかった。シークレットサービスのセキュリティ意識が高いことに敬意を表します。

 さて。ハッカーお得意の挑発的な話はこのくらいにして、本題に入りましょう。

 あなたがたは、われわれをテロリストと呼ぶ。だが、そうでないことはご存じのはずです。いや、好意的に解釈すれば、あなたがた政権の閣僚たちも安全保障局から誤った報告を受けているとも考えられる。われわれは連邦のバトルシップを破壊した事実も、連邦の関連施設を破壊した事実もない。すべては安全保障局のでっち上げです。まずそのことを表明しておきたい。
 ご存じのとおり、われわれの要求は火星の緑化です。安全保障局は、神林明子の研究は失敗であると発表している。しかし、それを信じる火星移民は少ない。とくにわたしは、母の研究が成功していたことに確信を持っていました。なぜなら、父がわたしに遺言を残していたからです。母の研究が成功していたと。
 わたしは、父の遺言を信じ、連邦捜査局、そして安全保障局の監視の目をかいくぐりながら、仲間とともに母の研究データを手に入れる計画を進行させてきました。
 そしてついに、そのデータを手に入れましたので、まず、みなさまにご報告をいたします。添付したファイルが、母の見つけたDNA配列です。生物学の専門家でないあなたがたに、このデータの信憑性を判断することはできないでしょう。ですが、間違いなくこのDNA配列で作られた植物は、火星の大地で育つことを保障します。安全保障局が、なりふり構わず、捜査局の違法捜査を許してきたのが、その間接的証拠といえるでしょう。
 ここで、わたしたちは、あなたがた連邦政府に要求します。このデータを公表してください。そして安全保障局の横暴、および連邦捜査局の違法捜査の実態を公表していただきたい。その内容は、あなたがたの政権が維持できる範囲内でけっこうです。わたしたちの目的は、連邦政府の混乱ではないからです。
 ただし。
 連邦捜査局の違法捜査は、ただちに停止していただきたい。ただちにです。一分だって待てない。データの公表に関しては、二時間の余裕を差し上げます。日本時間の、本日午後十二時まで待ちましょう。ランチタイムまでです。CNNの全世界ネットでの放送を要求します。
 この要求が受け入れられない場合、われわれは、独自にデータを公表し、われわれの正当性を主張します。世界中の通信社、大学、民間の研究所に送ります。安全保障局のやってきたことを書き添えて。
 言うまでもないことですが、民間の研究者がデータの正しさを証明すれば、あなたがたにとって最悪の事態になるでしょう。ご自分たちで過ちを認めてしまったほうが、政権に与える傷は浅いはずです。
 さあ、時計は動いていますよ。けっして止まることはありません。ただちに連邦捜査局に連絡を。そして、二時間以内にデータを公表してください。
 あなたがたの、賢明なる判断を心から期待します。

 追伸。
 発表の場で、われわれのことを「MGR」と呼ばないでいただきたい。これは、「Mars Gab Rabid」の略だと聞く。「火星の口うるさい狂信者」とは、怒りを通り越して、悲しみを感じます。われわれは「火星の緑化を推進する市民グループ」です。お忘れなく。

*************

 ハカムは、血の気が引いた。恐れていたことが起こった。しかもタイムリミットは二時間。いや、すでに一時間五十分しかなかった。ハカムは、殴りつけるようにインターカムのボタンを押して叫んだ。
「大統領に連絡だ!」

11-02

「警部!」
 輝は、データの送信が終わって叫んだ。
「さっき教えた手順でよろしく!」
 輝は、市警のサーバーにもウイルスを仕込んでいた。万が一、連邦大統領が要求を飲まなかった場合は、市警のサーバーから全世界に向けて、データをバラまくようにセットしたのだ。その解除コードを森本に教えてあった。彼の携帯電話から、インターネットモードで解除コードが発信できる。
「わかった。気をつけろ。おまえらの屍体を見るのはごめんだぞ」
「縁起でもないこと言わないでよ!」
 サンディが叫ぶ。
「輝、早く!」
「あと十五秒」
 輝は、携帯端末をコンピュータから引き抜くと、森本のコンピュータに残したデータを消去した。ハードディスクには書き込んでいなかった。メモリに仮想ディスクを作って、そこに格納してあった。ハードディスクにいったん書き込んでしまうと、残留磁気を完全消去するのに時間がかかるからだった。
「早く、早く!」
 サンディが急かす。
「よし、終わった!」
 輝は、携帯端末をコートのポケットに押し込んで、いすから飛び上がるように立ち上がった。すでにダフとフレッドは外に出ていた。サンディが、ドアを半開きにして待っている。輝も追う。
「警部!」
 詩音が森本に敬礼する。
「二時間後にお会いできるのを信じています!」
「オレもだ。早くいけ!」
「はい!」
 詩音は輝の後に続いて部屋を出た。
 エレベータには近づかない。非常階段に走る。下には降りない。屋上に上がる。
 二時間。二時間よ。
 詩音は念じた。二時間逃げきればいい。
 でももし、大統領がまともな判断をしなかったら?
 そのときは一ヶ月逃げればいい。どこまでも逃げてやる。つかまるもんか。連邦なんかに負けない。ファーマンなんかには、ぜったいに、負けない。
 詩音は、いつの間にか火星人になっていた。輝に付き合っているのでも、状況に流されているのでもなかった。それは彼女の意志だった。心から、緑に覆われた火星の大地を見たいと願った。
 屋上に出た。
 ちょうど、消防庁の救急ホバージェットが降りてくるところだった。タイミングをはかって森本が呼んだのだった。お隣さんの電話を使って。
「患者はどこですか!」
 救急ホバージェットから隊員が降りて、詩音に聞いた。
「六階です。早く」
 と詩音。
「はい!」
 三人の救急隊員たちが、ストレッチャーを抱えてエレベーターホールに向かった。
「行くわよ」
 詩音は屋上に飛び出した。
 輝たちも続く。救急ホバージェットに乗り込む。
 詩音は、待機していたパイロットに銃を向けた。
「降りて」
「ちょ、ちょっと、きみたちなんだ、いったい」
 パイロットはギョッとしながら、詩音の銃を見た。
「あと二時間は犯罪者である者たちよ。早く降りて。あなたが病院に担ぎ込まれたくないでしょ」
「やめろ。バカなまねはするな」
「うるさいわね!」
 サンディが痺れを切らして、パイロットのシートベルトを外して、操縦席から引きずり出した。
 詩音が、あいた操縦席に座る。
「サンディ! 乗って!」
「はいよ!」
 サンディが飛び乗ったのと同時に、詩音はホバージェットを上昇させた。アパートの下には、連邦捜査局のホバーカーが、ぞくぞくと集まってきていた。
「くそっ。思ったより早いな」
 輝がつぶやいた。
「ファーマンを侮った。空路を封鎖されるのもすぐだな」
「そうね」
 と詩音。
「しかもマズイことに、このホバージェット旧式だわ。スピードが出ない」
「マジかよ」
 輝は、眉をひそめた。いきなり計画が狂った。出鼻をくじかれたという感じだった。中の装備を見る。救難ロープ。酸素ボンベ。医薬品。輝はタメ息をついた。使えそうなものはなにもなかった。唯一、救難用のロープがなにかの役に立ちそうだったが、だからといって、使うアイデアがあるわけではなかった。
「どうするの輝」
 と詩音。
「このまま計画どおり、郊外に出る?」
「ダメだよ」
 とサンディが操縦席の方に顔を出した。
「こいつのスピードじゃ、郊外に出る前に追いつかれる。そのへんに降りて、雑踏に紛れよう」
「ファーマンも追い詰められてる。いまのあいつは、なにをしでかすかわからない。ぼくらが街に紛れたら、一般人に被害が出る。危険だ」
 立場が逆だと詩音は思った。それは追跡者である警察が気にすることなのだ。逃亡者が配慮するべきことではない。だが詩音は、輝が正しいと思った。正しい逃亡者。正しい犯罪者だ。
 だが、サンディが言った。
「そんなこと、気にしてる場合? あんた、まだ詩音の立場を考えてるんじゃないでしょうね?」
「詩音の立場?」
「そうよ。詩音が警官だから遠慮してる。そんなことで、わたしたちの命を危険にさらすのは許さないよ」
「サンディ。そうじゃない。詩音はもう仲間だ」
「じゃあ、なんだって言うのよ」
「考えてもみろよ」
 輝が厳しい顔で言った。
「ぼくらのせいで、人が死ぬかもしれないんだぞ。その人は、家で子供が待っているお父さんか、結婚式を控えた女性か、孫にオモチャを買いにきたおじいさんか、とにかく関係ない人たちだ。ぼくたちには、罪のない人たちの人生を奪う権利はない」
「そんなのは理想論だ。あんたのそういうところがムカつく」
 サンディは、言葉どおり怒りを込めた声で言った。
 詩音はハラハラした。こんなときにケンカなんて。だが、ダフとフレッドは、またはじまったという顔で、肩をすくめただけだった。
「理想論。けっこうだ。ぼくらは理想を追ってここまできたんだぞ。理想を失ったら、ぼくらはアイデンティティを失う。連邦と同じだ。ファーマンと変わらない」
「だったら、なんとかしなさいよ」
「いま考えている」
「早く」
「急かすな」
「時間がない」
「わかってる。ちょっと静かにしてろ」
 うーん。と唸る。サンディの視線が痛い。
「よし。皇居だ」
 輝は、半分苦し紛れに言った。
「皇居に逃げ込もう。東京シティで、一般人のいない広場は、あそこしかない」
「また、すごいところに」
 詩音は苦笑したが、すぐさまホバージェットを日比谷方面に向けた。
「言っとくけど、ただの広場じゃないですからね。天皇陛下がいるのよ」
「一般人じゃない」
「もっと悪いわよ」
「テンノウってなんだ?」
 とフレッド。
「キングだ。日本の。王さまだよ」
「わぉ。すげえ。宮殿か」
「そうよ」
 と詩音。
「それにね輝。いまは王さまじゃないわ。女王さまよ」
「そうか。女性だったな」
「だいたい皇居の上空は飛べないわ。迎撃ミサイルがある」
「ホント?」
「本当よ」
「それは知らなかった」
「変更する?」
「いや、もう遅い。全速力で飛んでくれ」
 市警のホバージェットが飛んできた。五機。
「無理よ。逃げきれない」
 詩音が言うとおり、あっという間に囲まれる。
「どうすんのよ!」
 サンディが叫ぶ。
「大丈夫だ。市警はここでは撃たない。市民に被害の出るところでは」
「捜査局のホバージェットもじきに来るわよ」
 と詩音。
「いま何時だ?」
 と輝。自分も腕時計をしているが、仲間に聞いた。
「十時三十六分だ。あと一時間二十四分だな」
 ダフが答えた。
「あと一時間二十四分。あと一時間二十四分。あと一時間二十四分…… くそっ。考えろ輝。なにかアイデアはないのか。あるはずだ。いままでだって切り抜けてきたんだ。こんどもなんとかなる」
 輝は焦った。救急ホバージェットが旧式だったのは最大の誤算だった。最初につまずくと、あとになるほどキツくなる。それを証明するように、真っ黒なホバージェットが近づいてきた。市警の黒と白に塗られたパトカー柄ではない。連邦捜査局だった。
「あと、一時間二十二分だぞ輝。アーメン」
 とダフ。
 輝も、アーメンと唱えたかった。
 皇居が見えてきた。
「どうするの輝!」
 詩音が叫ぶ。
「捜査局に撃ち落とされるか、皇居の迎撃ミサイルに撃たれるか決めて!」
「堀の上を飛べ!」
 輝は叫び返した。悩んでいる暇はなかった。
「サンディ! 救難用ロープを出してくれ!」
「オッケイ!」
 サンディは、ロープを引っぱり出す。
 輝は、操縦席のコンソールから、自動操縦装置を呼び出した。
「詩音。自動操縦で堀の上でホバリングさせる」
「わかった」
 詩音は、ホバージェットを空中停止させた。
「輝!」
 フレッドが叫んだ。
「市警のホバージェットが離れてくぞ! 捜査局に権限を明け渡したみたいだ!」
「あと一分ってところか」
 輝は、自動操縦装置を操作しながら言う。
「詩音、後ろへ移れ」
「うん」
 詩音は、シートベルトを外して、後ろに移った。
 輝も装置をセットし終わって後ろへ移る。
「サンディ! ロープは?」
「三本しかないよ!」
「ダフ、一本使え! サンディとフレッドで一本! ぼくと詩音で一本だ!」
 輝は叫びながら、ホバージェットのサイドドアを開いた。ぶわっと風が入り込む。
「ダフ! 飛び下りろ! ジャンプして木の上に落ちるんだ!」
 風に負けないように叫ぶ。
 ダフは、ロープにしがみつきながら下を見た。
「マジか。三十メートルはあるぞ」
「そんなにない。せいぜい二十メートルだ。行け!」
「くそっ! アーメン!」
 ダフは飛び下りた。
「サンディ!」
「わかってる!」
 サンデイは、フレッドを抱いて飛び下りた。
「詩音。ぼくらも行くぞ」
「オッケイ。輝。あたしにしがみついてて!」
「ああ!」
 輝は詩音にしがみつく。
 詩音はジャンプした。
 二人は、一瞬重力を感じなくなった。つぎの瞬間、ガクンとロープが張って、輝は抱きついている詩音を離しそうになった。詩音が右手で、ぐっと引っぱってくれる。二人は振り子のようにゆれた。木の上にくる。
「落ちるわよ!」
 と詩音。
 詩音はロープを離した。
 木のてっぺんが迫った。つぎの瞬間、真っ暗になって、身体に衝撃を受けた。
 ガサガサガサ! と葉のこすれる音。ベキッと枝の折れる音。
 ガクンと身体がとまった。輝は目を開けた。木の枝に引っかかってぶら下がっていた。地面は二メートルぐらい下だった。身体中が痛かったが、とくに大きな怪我はないようだった。
「輝! 生きてる?」
 詩音の声が、すぐ上から聞こえた。
「ああ。なんとか」
「動かないで。枝が折れそう」
「この高さなら落ちても平気だ」
「じゃあ、折っちゃっていい?」
「やってくれ」
「オッケイ」
 詩音は枝を折った。
 バキッと音がして、輝と詩音は地面に落ちた。
「痛たた」
 輝は、腕をさすりながら立ち上がった。
 サンディたちもいた。輝と詩音にウインクする。
「やったわね。ダイビング成功」
「まったくなあ」
 とフレッド。
「命がいくつあっても足りねえよ」
 そのとき。
 上空に連邦捜査局のホバージェットが飛来した。そのとたん。皇居の自動迎撃システムが小型ミサイルを発射。連邦捜査局のホバージェットに命中。爆破。堀に落ちる。ザバーッと水しぶきが上がって、そのあと、また爆音が響いた。
「ざまみろ! バーカ!」
 サンディが気勢を上げる。
「このまま、宮内庁警備隊に保護してもらうってのはアリかな?」
 輝が言った。
「ダメでしょうね」
 詩音が答えた。
「やつらが乗り込んでくるわ」
 捜査局のホバージェットが、皇居の外側に着陸していく。
「あと何分だ」
 輝は腕時計を見た。十時四十五分だった。
「まだこんな時間か。時計止まってるんじゃないか」
「動いてるよ」
 とサンディ。
「とにかく移動しよう。宮内庁なんとかっていうのも来る」
「どこへ行くかな。天皇に会うか。それも一興かも」
「いいね。女王さまに会おうぜ。美人だったらうれしいな」
 フレッドが笑った。
 輝は苦笑した。
「ま、それは冗談としても、ここに留まってるのは危険だな。少しでも時間を引き延ばそう。粘るぞ。行こう」
 輝は歩き出した。だが、ダフが立ち上がらなかった。
「ダフ?」
「ん……」
 ダフは顔を上げて、輝たちに手をふった。
「オレのことは気にするな。行ってくれ」
「ダフ!」
 このときはじめて、ダフの太股に枝が突き刺さっているのに気がついた。サンディがダフに飛びつくように近づいた。
「大丈夫! しっかりしてよ!」
「はは…… 死にゃしねえよ。だが歩けねえ。行ってくれ」
「バカ。見捨てるわけないでしょ。輝、手伝って」
「わかってる」
 サンディと輝は、ダフの両肩を抱き抱えた。
「うううっ」
 ダフは、痛みに顔をゆがめながら立ち上がった。
「深いわ」
 詩音が傷を見た。
「痛いだろうけど、枝を抜かない方がいい。耐えられる?」
「なんとかな」
 ダフは、苦悶の表情の中に笑顔をまぜた。
 だが、周りが騒がしくなってきた。
「きたぜ」
 とフレッド。銃を抜く。
「フレッド。銃を抜くな」
 輝が言った。
「蜂の巣だぞ。抵抗しちゃダメだ」
「でも、どうすんだよ」
「ここは宮内庁警備隊の管轄だ。ファーマンも勝手なマネはできない」
 輝たちは、宮内庁警備隊に取り囲まれた。
「武器を捨てろ」
 警備隊の隊長が拡声器で言った。
「抵抗すれば、この場で射殺する」
 輝は、ダフを座らせて両手をあげた。
「抵抗はしない」
「武器を捨てろ」
「言うとおりにする」
 輝は、ゆっくりと腰のホルスターに手を伸ばした。
 そのとき。
「神林輝!」
 ファーマンの声が轟いた。
 輝は、とっさに伏せた。案の定、銃弾が飛んできた。サンディたちも、伏せる。
「なにをするか!」
 警備隊の隊長が、拡声器をファーマンを先頭に入ってきた数十人の捜査官に向けた。
「ここは、日本自治政府宮内庁警備隊の管轄である! 連邦捜査官に発砲する権利はない。銃を下ろしたまえ!」
「なにを悠長なことを。やつらは国際的なテロリスト犯だ。われわれに捜査権を渡せ」
「バカな。国際警察法を知らないのか」
「われわれは、安全保障局…… いや、連邦大統領の命令で動いている。日本自治政府の出る幕ではない」
「国家主権を無視するつもりか!」
「議論している場合ではない。神林輝。貴様らを逮捕する。おい、拘束しろ」
 ファーマンは部下に命じた。連邦捜査官たちが、銃を構えながら前に出た。
「やめたまえ」
 と警備隊長。自分の部下に命じる。
「おい。捜査官たちを前に出すな。ふさげ」
 宮内庁警備隊が、捜査官たちの前に立ちふさがった。
「バカな」
 とファーマン。
「こんなところで、管轄争いをしている場合か。やつらは国際手配犯だぞ」
 いいぞ。やれやれ。
 輝は、地面に伏せながら心の中ではやし立てた。時間を使え。あと一時間だ。
「そちらこそ立場をわきまえたまえ。犯人を拘束したあとで、そちらに引き渡すべきかを検討する」
「もし、テロリストを逃がしたら、貴様らの責任だぞ!」
 ファーマンが怒鳴る。
「邪魔をしているのはどちらだ」
 隊長も怒鳴り返した。
 しばらく、ファーマンと隊長はにらみ合っていた。だが、意外なことにファーマンが折れた。
「わかった。そちらに主導権がある。やつらを拘束してくれ」
「いいだろう」
 隊長はうなずいて、部下に命じた。
「拘束しろ。抵抗するようなら射殺してかまわん」
 警備隊は、じりじりと輝たちの包囲を狭めた。
「みんな」
 と輝。
「抵抗するな。武器を捨てろ」
「ああ」
 フレッドが銃を投げ出す。
「あと何分?」
 サンディも、輝に聞きながら銃を捨てた。
「五十五分だ」
「まだ、そんなにあるのか。連邦大統領がわたしたちの要求を飲まなかったら、あと一ヶ月だよ。ここで終わりになっちゃったらどうする?」
「森本警部がいる」
 輝は、サンディにほほ笑んだ。
「彼がなんとかしてくれるさ。きっと火星にデータを送ってくれる」
「そうか。そうだね」
 サンディもほほ笑んだ。
「火星が緑になるのを、この目で見たかったけどね」
「見れるさ。あきらめるな」
「そうよ」
 詩音がうなずいた。
「最後まで希望を捨てないでいましょう」
 ついに、銃が輝に突きつけられた。
「伏せろ。抵抗するな」
「抵抗しない」
 輝は自ら手を後ろに回して、地面に伏せた。
「仲間が負傷している。手荒に扱わないでくれ。刺さった枝を抜くと出血多量で危険な状態になる」
「わかっている」
 警備隊が、輝に手錠をかけた。腰のホルスターから銃を抜き取る。
 サンディ、フレッド、そして詩音たちも手錠をかけられた。ダフは手錠をかけられた状態で、ストレッチャーに乗せられた。
 連行される。
 ファーマンが、苦々しい顔で、輝をにらんでいた。
 サンディが、ファーマンに舌を出す。
「バーカ。おまえなんか死んじまえ!」
 ファーマンは、サンディの挑発にぐっと耐えていた。
 そのときだった。
 宮内庁警備隊に動きがあった。
「隊長。本部から連絡です」
 部下が、隊長に通信機を渡した。
「うむ」
 隊長は、威厳のある態度で通信機を取った。インカム式で、指令の内容は外に漏れないようになっていた。
「こちら第三警備中隊」
 隊長が答える。指令を聞く。
「なに。それは本当か。間違いないのか。そうか。了解した」
 隊長はインカムを外した。
 そして、ファーマンに言った。
「連邦捜査官。ただちに、退去願いたい」
「なんだと?」
 ファーマンが、鬼のような形相を隊長に向けた。
「いま本部から連絡が入った。連邦大統領命令により、彼らの指名手配は解除された」
「バ、バカな!」
 ファーマンは目を見開いた。
 輝たちは、顔を見合わせた。
「輝……」
 詩音が、震えた声を出した。
「やったわ。やったのよ」
「あ、ああ」
 輝は、まだ信じられないという顔をしていた。サンディもそうだった。フレッドもポカンと口を開けていた。
「きみが神林輝か」
 警備隊長が、輝の前に立った。
「そうです」
 輝は答えた。
「いま連邦大統領が重大発表を行っているらしい。きみたちのことについてだ。すべての容疑が否定されているらしい。だが、皇居に不法侵入したのは事実だ。この場で釈放するわけにはいかない」
「わかってます。どうも、ご迷惑をおかけしまして」
 輝は、どこか夢見ごこちという顔で答えた。
「やった…… やったわ」
 サンディは、厳しい顔が緩んできた。笑っているような泣いているような顔。
「あはははは。わたしたち、ついに…… ははは。うれしい。はあ、もうダメ」
 サンディは、ぺたんと尻餅をつくように座り込んだ。張りつめていた緊張が一気にとけて、喜びよりも先に疲労が襲いかかった。本当に疲れ切っていた。
 フレッドも、座り込む。
「あーっ。終わった、終わった。風呂に入って、柔らかいベッドで眠りてえ。パーティはそれからだ。もう一歩も動けねえぞ。オレは」
 輝は座らなかった。だが、気力だけで立っている気がした。
「詩音」
 と輝。
「いま、きみに抱きつきたいよ。この忌ま忌ましい手錠さえなければ」
「うん。あたしも」
 詩音は、少し潤んだ瞳でうなずいた。グスンと鼻をすする。
「なんだか、サッパリわからん」
 隊長は、首をふった。
「おい。休むな。いや、休ませてやるから、とにかくホバーカーに乗れ」
 だが、サンディたちは、座り込んだまま動かなかった。
「やれやれ……」
 隊長はタメ息をついた。
「おい。手錠をはずしてやれ」
「えっ、いいんですか隊長?」
 部下が驚く。
「いい」
 と隊長は部下に答えてから、サンディたちに言った。
「きみたち。詰め所で事情を聞かせてもらう。逃げようなんて考えるなよ。どうせ釈放することになる。すぐ自由に身だ。いいね?」
 隊長の口調は、心なしか柔らかくなっていた。
 サンディたちは、コクコクとうなずいた。
 手錠が外された。
 その様子をファーマンはじっと見つめていた。
「チーフ」
 部下がおそるおそる声をかけた。
「撤収しましょう。もう終わりました」
 ファーマンは答えなかった。
「チーフ?」
「黙れ」
 部下をにらむ。
「終わっていない」
 ファーマンは、銃を輝に向けた。
「な、なにをするんですチーフ!」
 その声に、輝たちが一斉にファーマンをふり返った。
「危ない!」
 詩音はとっさに飛び出していた。
 ファーマンが引き金を引いた。
 輝と詩音は、抱き合ったまま倒れた。
「輝!」
 サンディが輝たちに駆け寄る。
「なんということを!」
 警備隊長は、信じられないという顔でファーマンを見たが、すぐに部下に命じた。
「あいつを逮捕しろ!」
 ファーマンは、ニヤリと笑って銃を捨てた。宮内庁警備隊に拘束される。だが、その顔はニヤニヤと不気味な笑顔を浮かべたままだった。
「狂っている」
 警備隊長は、ファーマンを見てつぶやいた。
 輝は、周りの騒ぎを仰向けになって聞いていた。詩音が覆いかぶさっていた。
「詩音。大丈夫か?」
「輝」
 詩音が顔をあげた。
「あなたは? 撃たれてないわよね?」
「輝、輝、しっかりしてよ」
 サンディが、おろおろと言った。
「大丈夫だ。たぶん」
「たぶんって」
 詩音は、輝の上から離れて彼の身体を調べた。左の脇腹から血が流れていた。
「撃たれてる」
 詩音は血の気が引いた。
「ヤダ、ヤダよ。輝、死んだら承知しないよ」
 サンディが傷口を押さえた。
「あんたたち! なにやってんのよ! 早く医者を! 輝が死んじゃう!」
 叫ぶ。
「サンディ。落ち着いて。輝の傷を見せて」
 詩音は、傷口を押さえているサンディの手をどかそうとした。
「あんた、なに落ち着いてんのよ!」
「騒いだって、しょうがないでしょ!」
 詩音は、サンディに怒鳴った。
「手をどかして。傷を見せて。早く!」
 サンディは、血が噴き出すんじゃないかと恐れながら、ゆっくり手を離した。輝の血がついて、真っ赤になった手を。
 詩音は、輝のシャツを破った。
「出血は、それほどでもないわ。内臓がやられていなければ大丈夫。平気よ輝。死なないわ。死ぬわけない。死んではダメよ」
 詩音は、自分に言い聞かすように言った。経験上、致命傷だと思った。いますぐ手術をしても、かなり危険な状態だ。もってあと十五分。そういう傷だった。
「大丈夫だ」
 輝は上半身を起こそうとした。
「動いちゃダメ!」
 詩音が叫ぶ。
「じっとしてて!」
「平気だって」
「平気じゃない!」
 詩音の瞳から涙があふれた。
「輝…… ああ、輝。どうしてこんなことに。ひどい。ひどいよ。やっと終わったのに。これからなのに。いや。死なないで……」
 サンディも、すすり泣いていた。
「泣くなってば。本当に平気だから」
 痛感がなくなっている。詩音はそう思った。最悪だった。死が近い。
「そうね。大丈夫よ。でも寝てて。お願いだから」
 詩音は、涙がとまらなかった。
「詩音」
 と輝。
「なに?」
 詩音は輝の顔を見つめた。一秒でも長く、生きている輝をその脳裏に焼き付けておきたかった。
「撃たれた場所は、左の肋骨の下あたりだろ?」
「そうよ」
「そこは、むかし手術した場所だ。肋骨の代わりに鉄板が入ってる。表面の皮膚がやられただけだよ」
「え?」
 詩音は、あわてて傷口をもう一度見た。こんどは、冷静に。赤い血の中に、銀色の金属光沢が見えた。
「ホ、ホントだ……」
「命拾いした」
 輝は、上半身を起こした。
「痛たた。人工骨は高くて入れられなかったんだ。お金がなくてよかったよ。金属がこんなとき役に立つとはね。このお守りが効いたかな」
 輝は、ポケットからビー玉を出した。DNAが記録されたビー玉。そして、詩音のお守りだったビー玉だった。
「輝……」
 詩音の瞳から流れる涙の意味が変わった。
「輝!」
 サンディが抱きついた。
「よかった! よかったよぉ!」
 サンディに先を越され、詩音は輝に抱きつくタイミングを逃した。


12

12-01

『そろそろ着くころだと思って、ビデオレターを送る』
 森本の顔がモニタに映っていた。
『地球は相変わらず騒がしい。連邦大統領は、なんとか窮地を脱したみたいだ。むしろ安全保障局の横暴を許してきた議会がやり玉に挙がっている。けっこうなことだ。このさい、膿は全部出しきらんとな。ところで、オレも大忙しだぜ。一週間前、警視に任命されちまった。市警の組織改革に取り組めとさ。デスクワークは苦手なんだが、ま、そろそろ現場もきつくなってきたところだから、いいけどな。女房が一番喜んでるよ。火星に着いたら連絡をくれ。楽しみにしている。じゃあな』
 詩音は、笑顔を浮かべながら、装置をオフにした。
 ビーッ。と居住室のインターカムがなった。
「はーい」
 詩音は、返事をしながらドアを開閉スイッチを押した。
 プシュと音がして、ドアがスライドする。
「詩音」
 輝が入ってきた。
「そろそろ火星ステーションだよ。下船の準備は?」
「うん。大丈夫。いよいよ火星ね。ドキドキしてきた」
「火星の大渓谷は見物だよ」
 輝は、小さなベッドに腰を下ろした。
「コールドスリープの影響は? つらくない?」
 詩音が聞いた。
「こんどは三週間だからね。楽なもんさ」
 輝たちは、連邦宇宙軍が用意した、高速バトルシップで火星に戻ってきたのだった。客船のような装備はないが、三ヶ月の旅が一ヶ月に短縮するのだから贅沢は言えなかった。上級士官用の個室を与えられたのだから、じつはかなり贅沢だといえた。
 そのとき。ステーションにドッキングするというアテンションがあった。
「研究の方はどうかしらね」
 詩音は、バッグを出しながら言った。DNAデータは、すでに電送してあった。
「うん」
 輝は、立ち上がった。
「博士と連絡がとれないんだ。研究に没頭すると通信機なんか忘れちゃう人だからね。ま、うまくいってることを祈ろう」
「そうね」
 二人は居住室を出た。廊下の窓から、大きな赤い惑星が見えた。まさに目の前だった。
「あれが大渓谷ね」
 詩音が、赤い大地に走る筋を見ながら言った。
「ああ。むかし、パーシバル・ローウェルが運河と間違えたところさ。いまは、一番人気の観光コースだよ」
「ここから見てもすごいわね。ワクワクしちゃう」
「火星が緑化したら、もっとすごくなるよ。フレッドがグライダーで飛ぶだろうな」
「そうね。雨も降るかしら?」
「もちろんさ。火星の自転周期は二十四時間三七分。自転軸の傾きも二五・十九度。地球とほとんど同じだ。いまでも四季はあるけど、大気ができれば、とてもダイナミックになると思う」
「じゃあ、川もできて、あの渓谷に落ちる滝もできるわね。ナイアガラの滝もビックリするような」
「そうだね。さあ、行こう。みんなが待ってる」
「うん」
 詩音たちは、昇降デッキに向かった。
 サンディたちが待っていた。
「遅いわよ。なにやってんの」
 とサンディ。
「おいおい」
 フレッドが言った。
「野暮なこといっちゃいけない。恋人たちには恋人たちの時間があるのさ」
「そういうこと」
 松葉杖をついたダフが笑った。
「ふん。いい気なもんね」
 サンディは、鼻を鳴らした。
 輝と詩音は苦笑した。
「準備はよろしいでしょうか?」
 連邦宇宙軍の兵士が声をかけた。
「ええ」
 輝はうなずいた。
「では、シャトルにご搭乗ください。ラカートドームの航宙ポートに降ります」
「はい」
 輝たちは、シャトルに乗り込んだ。
 バトルシップからシャトルが離れる。地球大気に突入するのに比べて、大気が十分の一の火星に降りるのはずっと楽だった。十五分ほどで、ドームの航宙ポートに降り立つ。
 軽いショックが船体に伝わった。
 ドームから、蛇腹のようなチューブが伸びてきて、シャトルの昇降口を覆った。
 ドッキング終了のアテンション。
 ドームとの圧力調整に数分待たされて、調整終了のランプが着くと、待機していた連邦宇宙軍の兵士たちが、圧力ドアを開けた。詩音は、トンネルに入ったときのように、少し耳が痛くなった。
「お待たせしました」
 と兵士。
 詩音は、空気を大きく吸い込んで、シャトルのシートを立った。
 緊張するなあ。
 詩音は、輝の手を自然と握った。輝がちょっとふり返って笑顔を見せた。
 船を出る。
 とたん。輝たちは拍手で迎えられた。ステーションの壁が震えるほどの拍手だった。数千人。いや、万単位かもしれない市民が、彼らの到着を待っていた。
「まいったな。大げさにしないでくれって頼んどいたのに」
 輝は、眉をひそめた。
「いいじゃない。わたしたちヒーローなんだから。少しぐらいいい気分にさせてもらいましょ」
 サンディはそういって、市民たちに手をふった。拍手が一段と大きくなった。
「ほら、あんたたちもお客さんに愛想ふりまきなさいよ。フレッド。バカみたいに口開けてんじゃないわよ」
 フレッドは、あわてて口を閉じて手をふった。
 輝と詩音は笑った。
 連邦行政長官が笑顔で近づいてきた。輝に握手を求める。
「お帰り。みんなきみたちの帰りを待っていた」
 輝は、複雑な顔で握手に応じた。この男は、彼らが火星を出るときには敵。連邦政府から派遣されてきた総監なのだ。
「あなたと、こうして握手する日がくるとは思わなかった」
 輝は、正直な感想を述べた。
「わたしもだよ」
 行政長官も、複雑な笑顔を浮かべた。
「さあ、式典の準備をしてある。出席してくれたまえ」
「いやよ」
 サンディが言った。
「わたしたちは、あんたたち連邦とは融合しない。そこどいてよ。邪魔しないで」
「ミス・ホール」
 長官は困ったように眉をひそめた。
「時代は変わったのだ。きみたちが変えた。これからは反目し合う相手ではなく、協力し合う仲になりたい」
「お断り。わたしたちは、すぐウラニアに行く。ラカートなんてごめんだわ」
 ラカートは、火星で一番大きなドームだった。連邦政府の行政機関が集まっている。
「神林くん。なんとか仲間を説得してもらえないかね」
 長官は、輝に助け求めた。
「そうですね」
 輝は、かたくなな態度のサンディを見て、ちょっと苦笑したあと、長官に言った。
「あなたたちの用意した式典なんて、まっぴらごめんです。ぼくらは、ぼくらの家に帰る。そこをどいてください」
「そうこなくっちゃ!」
 サンディが、満面の笑みを浮かべた。
 長官は、やれやれと首をふって、通路のわきによった。
 輝たちは、用意されたホバーカーに乗って、ラカートを出た。
 詩音は、ずっと外の風景を見ていた。
「わーっ。すごい。これなに? ドームなの? 広すぎてドームって気がしない」
「こんどは詩音がカルチャーショックを受ける番だね」
 輝は笑った。
「うん」
 詩音は輝に向きなおった。
「もう大ショック。いっぱいいろんなところに連れてって」
「もちろん。喜んで」
「ホント。うれしい。ね、ね、ね、あれなに?」
 詩音はさっそく、子供のように目の前の太いチューブを指さした。
「あれは空気を送ってるパイプだよ。あんなのおもしろくない」
「おもしろいよ。すごいじゃない。あんなの地球にはないもの」
「ふむ。なるほど。地球と違うところこそが観光スポットになるわけか」
「そうよ。うん」
「じゃあ、火星に大気ができても、ドームは壊さないで残しといた方がいいかもね」
「うん、いいかもよ」
 詩音は、上の空で答えた。窓の外を見るのに忙しかった。とにかく、見るものすべてが珍しかった。
 ホバーカーは、トンネルに入った。
「ウラニアドームに入るトンネルだよ」
 輝が言った。
「いよいよ、あなたの育ったドームね」
「ああ。そして、きみが生まれたところだ」
「幻の故郷か。ああ、どうしよう。ドキドキしてきた」
「あんまり期待しないで。汚いところだから」
「うん。わかってる」
 ホバーカーがトンネルを抜けた。
 ラカートに比べて、目で見てわかるほど、そこは小さなドームだった。空を覆う透明ファイバーグラスの屋根が、近くに感じる。街も薄汚れていた。火星の都市の中では、古都という表現ができるドームだが、いわゆる歴史を感じるという雰囲気ではなく、むかしの東京シティがスモッグで汚れたという感じだった。
「ああ、なんかホッとする」
 サンディが言った。
「やっとうちに帰って来たって感じ」
「まったくだ」
 ダフが、ホバーカーの窓を開けた。
「ウラニアの匂いだ。愛しのわが家よ」
「あたし、どこで生まれたの?」
 詩音が聞く。
「中央病院」
 と輝。
「見たい?」
「見たい」
「オッケイ。そこも観光コースに入れておこう。でもいまは、博士の研究所に向かいたい。いい?」
「もちろんよ」
 詩音はうなずいた。
 ホバーカーは、平べったいビルの前でとまった。
 輝たちは車を降りた。
 とたん。
 建物から、子供たちが出てきた。三十人ぐらいいるだろうか。みんなうれしそうに、お帰り、お帰りと、輝たちを取り囲んだ。
「輝」
 詩音は、三歳ぐらいの男の子を抱き抱えている輝に聞いた。
「ここ、あなたが育った施設なの?」
「ああ。博士はここの先生なんだ。表向きはね。あ、もう表も裏もないのか」
「そうよ」
 とサンディ。
「もう、こそこそすることなんかないんにもないんだから。ちょっと、ヘレン、服を引っぱっちゃダメ」
 サンディは、女の子の手を、軽く叱ってから聞いた。
「じいちゃんはどこ?」
「地下だよ。おしごとしてる」
 女の子が答えた。
「オッケイ。行きましょ」
 サンデイは、女の子の手を引きながら建物に入った。

12-02

「博士。ただいま」
 輝が、ビーカーをのぞき込んでいるジェファーソン博士に声をかけた。
「うむ」
 ジェファーソンはビーカーから顔を上げた。
 詩音は、思わず噴き出しそうになって、ぐっとがまんした。その博士が、あまりにも博士という風貌だったからだ。剥げた頭に白い髭。そして、よれよれの白衣。還暦は、とっくに超えているだろう年齢に見えた。
「ご苦労じゃったな」
 ジェファーソンは、その年齢と、よれよれの白衣から想像されるとおりの声で言った。
「ま、おぬしたちのことだ。必ずやり遂げると思っとったがな」
「博士こそ、ご無事でよかった。ラウムがブレインサーチされたときは、正直言って、生きた心地がしなかった」
「なによぉ」
 とサンディが、意地悪い声で言った。
「あんな、殺しても死なないようなジイさん心配いらないって言ったじゃない」
「こら。あれは、おまえを安心させようと…… 博士。信じないでくださいよ」
「ほほほ。おぬしが、わしのことを、どう思ってるのか、よーくわかったわい」
「いや、ですからね」
「いいわけはいいから、そこのお嬢ちゃんを紹介せんか」
 ジェファーソンは詩音を見ながら言った。
「あ、すいません」
 と輝。
「彼女が詩音です」
「はじめまして博士」
 詩音は右手を差し出した。
「うむ」
 ジェファーソンは、詩音と握手を交わした。
「写真で見るより、ずっと、メンコイのう。輝が惚れてるのもわかるわい」
「メンコイ?」
「カワイイと言ったんじゃ」
「わたし…… カワイイですか?」
「カワイイぞ」
「そうですか。ありがとうございます」
 詩音は苦笑した。警官になってから、そんなことを言われたことはなかった。だいいち、もう二十九だ。カワイイという年齢ではない。美しいと言われれば、もう少しうれしいかも。と詩音は思った。
「ところで」
 と輝。
「研究の方はどうですか? データを送ってもう一ヶ月です。そろそろ成果があってもいいころだと思うのですけど」
「ふむ。それなんじゃが……」
 ジェファーソンは深いタメ息をついた。
「ダメだったんですか?」
 輝が聞き返す。
「そうは言っとらん。まあ、自分の目で見てみることじゃな。ちょうど一週間前、ウラニアドームの裏に…… って駄洒落じゃないぞ」
「わかってますって。裏になんです?」
「培養した植物を移植した。どうなってるか、自分の目で確かめてみろ」
「もったいつけないでくださいよ」
「いいから、行ってこい」
「はいはい。わかりましたよ」
 輝たちは地下の研究室を出て、またホバージェットに乗り、ドームの淵まで移動した。A三五口と書かれていた。ホバージェット程度の車両が出入りできるぐらいの大きさの圧力隔壁ドアだった。
 輝たちは、宇宙服に着替えて、隔壁ドアの与圧室に入った。うしろのドアが締まり、空気が抜かれる。グリーンのランプが点灯して、火星の大地に続くドアが開いた。
 そのとたん。輝は言葉を失った。
 緑だった。一面の緑。それは芝のような、緑の絨毯だった。野球場ぐらいの面積に広がっている。
 たった一週間で…… こんなに成長したのか。
 輝は、磁石に引かれるように外に出た。
「緑だ。緑だ!」
 サンディーが飛び出した。芝の上に立つ。
「やった! これが見たかったのよ! 輝! 見てよ、すごいよ!」
「ああ」
 輝はうなずいた。感無量だった。言葉がない。
 サンディは、芝の上に座った。そっと触る。柔らかかった。
 すると……
 少しずつ、忘れていたはずの悲しさが蘇ってきた。
 死んだ仲間。この緑を見ることなく死んでいった仲間が、脳裏に浮かぶ。
 サンディは泣いた。
「ウォーレス、ジャネット、エリー、ミランダ、敬一、陽子、ラウム、ジャン…… 見せたかったよ。この光景。みんなで見たかったよ。みんなで」
 詩音は、となりに立つ輝を見た。輝は目を閉じていた。彼のほほには涙が流れていた。静かな涙だった。
 ダフも、フレッドも泣いていた。
「ちくしょう」
 とフレッド。
「なんだよ、このヘルメットってやつは。鼻もかめやしねえ」
「ああ」
 とダフ。
「いま見てるのが、夢なのかどうか、ほっぺたをつねりたいんだが、それもできねえな」
 輝は、黙ってたたずんでいた。目の前の光景を見ながら、二度と戻らない時間を想った。母のこと。父のこと。そして、死んでいった仲間のこと。
「輝」
 詩音が、輝の腕を抱いた。
 輝は、グスンと鼻を鳴らした。
「博士も人が悪いな。これを…… 見せたかったのか」
「あなたの、いえ、あなたたちの苦労を知っているから、博士からのプレゼントだったのよ」
「そうかな。ぼくらが泣くかどうか、賭けてるんだよ、だれかと」
 輝はそういって笑った。
「よかったね」
 詩音は言った。
「本当によかった。火星は緑の惑星になるわ」
「詩音」
 輝は、宇宙服の詩音を抱きしめた。
「ああ、なんでいつもこうなんだ。やっと抱きしめられたと思ったら、こんどはキスができない」
 輝は、ヘルメットを、詩音のヘルメットにコツンと当てた。
「そうね」
 詩音も、輝の背中に手を回した。
「でも、こんどこそ、時間はたっぷりあるわ。ずっと一緒よ。ううん。ずっと一緒にいてくれる?」
「もちろん。いつまでも、きみと一緒だよ」
 輝は、詩音の手を握って、芝の上を歩いた。そして空を見上げた。この空が、いつか青く輝く日を夢見て。

 終わり