黒い服の女

 青年は、かなり大きなコンピュータ会社に就職して、営業成績もそれほど悪くはなかった。だが、この不景気で会社は赤字を出し、かなりの社員がリストラされた。加えて、ライバル企業の新商品がヒットしたものだからたまらない。ついに社長が退陣し、新しい社長が、さらにリストラを続けたが、社の業績は悪化するばかりだった。
 青年はその日、行きつけのバーで酒を飲んでいた。同僚たちと愚痴をこぼすには居酒屋の方があっていたが、この日は、ひとりで酒を飲みたい気分だった。もっとも、銀座の高級な店というわけではない。渋谷にある、若者向けのバーだった。
 青年は、ウイスキーの水割りを二杯ほど飲んだところで、カウンターのすみに座って、自分を見ている女の視線に気がついた。その女は、とくに美人でもない、どこにでもいるような顔だちだったが、なぜか青年はその女に惹かれた。
 どうやら、むこうもこっちに気があるようだ。ここはひとつ、酒でもおごって、親しくなっちゃうかな。青年には、結婚を約束した女性がいたが、だからといって、一晩のアバンチュールをみすみすふいにするような男ではなかった。
 青年は、バーテンを呼んだ。
「はい」
 バーテンは、いつもの営業スマイルを浮かべて青年の前に立った。
「あのさ」
 と青年。
「あちらの女性に、酒を一杯おごりたいのだけど」
「あちらの女性?」
 バーテンは、青年の視線の先を見た。
「どちらの女性でしょう?」
「おいおい。からかうなよ」
 青年はバーテンに苦笑を浮かべてから、女の席に視線を戻すと……
 いなかった。
「あ、あれ? おかしいな」
 その場所は、カウンターの一番端で、その奥はただの壁だ。トイレも、非常口もない。なのに、青年がバーテンに視線を移した、わずかな時間に消えたのだ。それどころか、女の前に置かれていた、グラスさえ、跡形もなく消えていた。
「まさか……」
 青年は青ざめた。そして、幽霊という言葉を、つばとともに飲み込んだ。
「どうなさいました?」
 バーテンが首をかしげた。
「それで、どの女性ですって?」
「い、いや。いいんだ。忘れてくれ」
 きっと疲れているんだ。青年はそう思うことにして、酒の代金をカウンターに置くと、逃げるようにバーを出た。気味が悪かった。そういえば、あの女、いま思えば真っ黒い服を着ていた。まるで死神のような。
 翌日。青年は、会社に行く前に、テレビで朝のニュースを見ていた。すると、あのバーのあるビルが映った。青年が帰ったあと下の階で火事があり、バーにいた客が全員死亡したと報じていた。スプリンクラーが故障していたらしい。
 青年は、とてもあの女の出現と、バーの火事が偶然だとは思えなかった。あの女は、ぼくを助けたのか? 火事から守ったのか。そう自問した。もちろん答えはでなかった。
 その三日後、ふたたび青年は、あのときの女を見た。同じように黒い服を着ていた。その場所は空港だった。青年は海外出張を命じられて、これから飛行機に乗ろうとしていたところだった。女は、搭乗ゲートの前に立っていた。そして、ゲートとは反対の方を指さしながら、青年を見つめていた。
 この飛行機に乗ってはいけない。青年は直感的にそう感じ、その便をキャンセルして、つぎの便に乗った。予想は当たった。青年が乗るはずだった飛行機は、目的地に着かなかった。山腹に落ちたその飛行機から、生存者は発見されなかった。
 青年は確信した。きっとあの女は、ぼくの守護霊に違いない。いやはや、守護霊なんてジイさんかバアさんが相場だと思っていたが、いや、守護霊なんて信じていなかったが、若い女に守ってもらえるなんて、なかなか気分がいいじゃないか。
 それからも、黒い服の女はひんぱんに現れた。営業の目的で訪れた取引会社の前に立っていることが多かった。女は、そのたびにべつの方向を指さし、青年を導くように、べつの会社のに向かわせた。飛び込みの営業が成功する確率は低いが、その会社の担当者と青年の趣味があったりして、営業はおもしろいほどうまくいった。青年は、半年もしないうちに、社内のトップセールスマンになった。しかも、二番手に倍近い差をつけてだった。
 ちょうど、新社長が能力給を導入したこともあって、青年の給料は上がった。
「最近、仕事が忙しいのね」
 と青年の彼女が言った。二週間ぶりのデートだった。
「ああ。すまない。忙しくてね」
「そう。不景気なのに忙しいのはいいことよね」
「まあね。給料も少し上がった」
「本当に? おめでとう」
「ありがとう。今夜は、なにかうまいものでも食いに行こう。なんでも、きみが好きなものを。二週間も会えなかった罪滅ぼしだ」
「いやね。罪滅ぼしだなんて。あなたががんばってるんですもの。寂しいけどがまんするわ」
 彼女は気丈に言った。青年と結婚の約束をしていたから、自分のためにがんばってくれているのだと信じた。
「ああ。でも、なんでも食べたいものを言ってくれ。遠慮はいらないよ」
 彼女は、イタリア料理でいいと言ったが、青年はフランス料理を食べに連れていった。以前はできない贅沢ができるようになっていた。
 しかし、ライバル会社は強力だった。青年の会社にはない、新しい発想でどんどん商品を作り出し、ヒットを生み出していた。しょせん青年ひとりの力では、会社の業績を回復させるのは無理だった。同僚よりもずっといい給料をもらっているとはいえ、会社の先行きが不安だ。体質が古すぎる。いっそライバル会社に転職するか。いまの営業成績なら、間違いなく採用されるだろう。
 青年が、そんなことを考えはじめたある晩、一杯飲んで帰ろうと思った青年の前に、黒い服の女が現れた。さすがに夜に出会うと、少し気味悪かったが、青年は女に導かれるまま、繁華街を歩いた。女がとまった場所には、酔いつぶれて寝ている五十すぎぐらいの男がいた。まだ宵の口なのに、酔いつぶれるとは、いったいこのオッサンは、何時から飲んでいたんだ。だらしない人だ。と青年は思ったが、この男を助ければ、きっといいことがあると確信していた。なにせ守護霊が導いたのだから。
「大丈夫ですか? こんなところで寝ていると風邪を引きますよ。タクシーを拾いましょう。うちはどこです?」
「う~ん……」
 男は、泥酔していた。
「うるさい。ほっとけ、近寄るな。オレはなにもやってない」
 うわ言のように言う。
「やれやれ」
 青年は、とにかく男の身元がわかるものを探そうと思って、スーツのポケットをまさぐった。名刺入れが出てきた。一枚抜き取って、青年は驚いた。それはライバル会社のものだったからだ。しかも経理部長。かなりの地位だ。
「おやおや。こんなところで、ライバル会社の部長を助けることになるとはね」
 青年は苦笑した。だが、なにか自分にとっての幸運があるのだろう。そう思って、経理部長の肩を抱いて立たせた。そのとき、部長の抱えていたバッグが落ちて、書類が道に散乱した。
「まったくもう」
 青年は、また部長を寝かせて、書類をかき集めた。その中に、ライバル会社の経理書類が入っていた。マル秘のマークがついていた。青年は、とっさに悟った。これだ。守護霊は、ぼくにこの書類を見せたかったに違いない。
 そう思うと、さしたる罪悪感も感じずに、青年は、その書類を盗むことができた。
「部長さん。こいつは拝借しますよ。重要な書類を持って酔いつぶれている方が悪い」
 しかし、さすがにこのままでは気がとがめるので、部長をタクシーに押し込み、彼の免許証に書かれた住所を運転手に告げて、一万円を渡した。
「お客さん、困るなあ。この住所だけじゃ、正確にわからないなあ」
「ちょっと待って」
 青年は、部長の携帯電話を取り出した。幸い、青年が以前に使っていた機種だったので、操作はすぐにわかった。アドレス帳を呼び出す。案の定、自宅と書かれた番号があったので、青年自身、それをメモると、運転手にも告げた。
「近くに行っても起きなかったら、この番号で聞いてください。お金は足りますか?」
「ええ。大丈夫です。どうも」
 運転手は、そう言ってドアを閉めた。
 青年は、すぐにアパートに戻り、盗んだ書類を読みふけった。驚くべきことに、その書類は、ライバル会社の不正経理の実態が書かれたものだった。まさしくマル秘だ。
「これは、すごいものを手に入れてしまった。さて、どうしたものか……」
 青年は、その日、朝方まで考え抜いた。あの部長。オレはやってないとかつぶやいていた。どうやら社内でだれかに利用されたか、責任を押しつけられたかしたのだろう。そう考えれば、あんな時間から酔いつぶれていたのもわかる。
 ふむ。こいつは使えるぞ。青年は、ニヤリと笑って、朝の六時まで待ってから、部長の自宅に電話した。
 部長はすぐに出た。
「もしもし……」
 声がかなり沈んでいた。自宅に戻って、書類がないことに気づいたのだろう。酔いもいっぺんにさめて、一睡もできなかったという感じの声だった。
「経理部長さんですね」
 青年は言った。
「きみは…… だれだ?」
「あなたの書類を拝見させていただいたものです」
「き、きみは! それがどういうことかわかっているのか!」
「あんなところで酔いつぶれてはいけない」
「ああ、なんということだ。わたしは…… 頼む。書類を返してくれ」
「お返ししますよ。もちろん」
「いくらだ?」
「ははーん。そういわれると思いましたよ。相場はいくらくらいなのかな。一千万? それとも二千万?」
「バ、バカな。そんな金はない! どんなにがんばっても、百万が限界だ!」
「まあ部長さん、そんなに興奮なさらないで。いいですか、ぼくは、あなたを恐喝するつもりなんかないんです。察するところ、あなたは会社でうまいこと利用されたんじゃないですか?」
「な、なんのことだ」
「とぼけるのはいいですが、正直になった方が、今後のためですよ。新しい会社で、新しい人生をはじめてみたいと思いませんか?」
「な、なにを言っている? 話がさっぱり見えん」
「そんな会社には見切りをつけて、べつの会社で再出発したらいかがですかと言ってるんです。つまり、あなたの再就職先を保障します。このまま責任をかぶらされて、警察の追求を受けるのと、いまの給料と同額を保障されるのとどちらがいいですか?」
「これは、ヘッドハンティングなのか?」
「そう考えていただいてけっこうです」
「し、しかし……」
「部長。いまの時代、企業に忠誠を誓うなんてはやりませんよ。クールにいきましょうよ。あなたの人生が、一番大事なんじゃないですか?」
「それはそうだ。悪いのは専務なんだ」
「そうでしょうとも」
 青年はニヤリと笑った。聞いてもいないのに、専務が悪いとはね。これはいけそうだ。
「では、今日の夜か、明日の朝までにもう一度ご連絡します。どうするか決めておいてください」
「待て。きみの名前は?」
「それもつぎの電話で」
 青年は電話を切った。そして会社に向かった。朝の八時。まだだれもいないかなと思いながら、オフィスの内線で秘書課に電話した。幸い、秘書は出社していた。すぐに人事部長に面会を求めた。理由を問われたが、緊急に内密の話がしたいというと、秘書はそれ以上聞かず、あとで連絡するとだけ答えた。一時間後、青年のデスクに電話がかかってきて、人事部長との面会できることになった。
「どうも。朝早く申し訳ありません」
 青年は、人事部長のオフィスに入った。個室だった。
「きみの最近の成績は聞いている。がんばってくれているようだな。で、内密の話しとはなんだ?」
 青年は、きのうの夜のことを話した。
「おい。それはきみ、犯罪だぞ」
「わかっています。ですから、アイデアをひねりました。不正経理の書類は、その経理部長が、国税当局に密告したという形にすればいい」
「しかし、その経理部長が承諾するとは思えんな」
「いいえ。承諾するでしょう。ただし、経理部長をわが社に引き抜くのです。以前と同じ給料を保障するのはいうまでもありません」
「なるほど。一案だな」
「それだけではありません。ライバル会社の信用が落ちるのは目に見えている。ですから、あの会社の製品開発担当者も引き抜きましょう。わが社にない発想をもっています」
「そんなことが可能か?」
「できますよ。だれだって、沈んでいく泥船に乗っていたくはない」
「ふむ。わかった。ではさっそく社長に報告して、社内にチームを作ろう。よくやってくれた」
「そのチームの責任者はだれになりますか?」
「それは、適切な人材を選別する」
「ここに、適切な人物がいると思いますが」
「きみが? おいおい。たしかにバツグンの営業成績なのは認めるが、あまり欲をかくな。会社という組織はだな――」
「部長」
 青年は、人事部長の言葉をさえぎった。
「いわんとされることはわかりました」
「そうか。わかってくれたか。では、その書類を提出して、きみは通常の業務に戻ってくれ」
「お断りします」
「なんだと?」
「この会社は、本当に体質が古い。なるほどライバル会社に勝てないわけだ。辞表を提出します」
「おい、ちょっと待ちたまえ。なにを言っている」
「あの書類を持って、ライバル会社に行きますよ。すぐに採用されるでしょう。さらにぼくは、ライバル会社よりも劣る製品しかないこの会社の商品を、だれよりも売りまくった実績がある。給料はずっとよくなるはずだ。どうも、お世話になりました」
 青年は、頭を下げた。
「待て。わかった。きみは野心家だな。十年前なら、出る杭は打たれるところだが、この不景気では、きみのような社員を失うわけにはいかない。社長にはわたしからうまく話しておく。きみが責任者となって進めてくれ」
「ありがとうございます」
 計画はうまくいった。ライバル会社の経理部長に、開発担当者を呼び出してもらい、会社の不正経理の話をさせた。そして、青年の会社からお呼びがかかっているとも。二週間後には、ごっそり優秀な社員を引き抜くことに成功した。その三日後には、ライバル会社の不正経理が発覚し、大きな社会問題になた。ライバル会社の製品は、とたんに売れなくなった。
 青年は、社長に呼ばれた。
「よくやってくれた。きみの仕事は、わが社の未来にとって、重要な一歩になるだろう」
「ありがとうございます。つきましては、ご相談が」
 青年は、昇給と昇進を要求した。半分はったりだったが、要求は通った。青年は、係長になり、給料も上がった。
 青年は、さらに上昇志向を強めた。守護霊が守ってくれるのだ。最年少で社長になるのも夢ではない。すると、いま付き合っている女が、自分にふさわしくないと感じはじめた。どこにでもいる、会社のOLだ。もっと、いい女と付き合いたい。だから青年は女を捨てた。結婚の約束までしていた女だったが、まるで、新しい車に乗り換えるようにクールだった。未練はまったくなかった。むしろせいせいした。重しがとれたみたいだった。自由の身になったとさえ感じた。
 青年の上昇に比例して、ライバル会社は下降していった。信用を失っただけでなく、青年の会社に優秀な社員を引き抜かれたのだから当然だった。青年の会社は、新商品の発表でさらに飛躍し、ライバル会社は倒産寸前まで追い詰められた。
 最後のとどめをさしたのも青年だった。大幅なディスカウントでなんとかまとめようとしていた商談を、青年が横取りしたのだ。大きな商談だった。こうしてついに、青年のライバル会社は倒産した。驚きの声が上がったが、いまの時代、どんな大企業でも安全ではないと報道された。たしかにその通りなのだった。
「これも、すべて守護霊のおかげだな」
 青年は、その報道があった晩、バーで酒を飲みながらつぶやいた。
「なんのおかげですって?」
 隣の女が聞いた。以前、付き合っていた女とは比べ物にならないくらい美人で、ゴージャスな女性だった。
「べつに、なにも」
 青年は笑った。
「さあ、そろそろ行こうか。ホテルの部屋をとってある。スイートルームだ」
「いいわね」
 青年は、そのゴージャスな女とバーを出ていった。

 黒い服の女が、その様子を見ていた。
「守護霊のおかげですって?」
 黒い服の女は笑った。
「わたしこそ、あなたのおかげで復讐することができたわ」
 黒い服の女は、青年が倒産させた会社の社長の息子のフィアンセだった。だが、会社の業績がよくなると、捨てられた。自分よりもっと美人の女に乗り換えられたのだ。女は復讐を誓って、睡眠薬を飲んだ。そして幽霊になって、あの野心家の青年を見つけたのだ。思惑どおり、あの青年を使って、自分を捨てた男の会社を倒産させてやった。
「さて。そろそろ成仏しようかしらね」
 黒い服の女が晴れ晴れとした顔でいうと、ふと、青年の後ろ姿を見ている女の幽霊に気がついた。
「あらあら。あの男に捨てられた女ね。さあ、彼女はどうするつもりかしら?」
 黒い服の女は笑いながら成仏した。


終わり。