お江戸ざんまい!3 鼠小僧参上の巻

 創作小説仲間である岬平に捧げる。


 序


 ある夜。
「ん…… なんでえ、うるせえな」
 長屋の熊さんは、外で物音がするので目が覚めた。
「うちにゃ、盗人がほしがるようなもんはねえぜ」
 熊さんは、ぶつぶつ言いながら、隣に寝ている女房を起こさないようにそっと布団から出ると、土間に降りて引き戸を開けた。
 すると、戸口に黒い頭巾をかぶり、肩に千両箱を背負った男が立っていた。
「ひっ……」
 熊さんは驚いて腰を抜かした。まさか、本当に泥棒がいるとは思ってもいなかったのだ。どうせ、野良犬だろうと、追い払うつもりだったのだ。
「な、な、なんでい、おまえは!」
 すると、その黒頭巾の男は、ニヤリと笑った。いや、頭巾をかぶっているので、表情はわからないが、熊さんにはニヤリと笑ったように見えた。
「国に盗賊、家に鼠」
 と、頭巾の男。
「だから、おいらの名は鼠小僧」
「ね、鼠小僧だとぉ?」
 鼠小僧と言った男は、軽くうなずくと、急に大きな声を張り上げた。
「長屋のみんな! ぐーすか、寝てる場合じゃねえぞ! さあ、起きた、起きた! 鼠小僧参上だ!」
「だれだ、騒いでんのは!」
「うるせーな!」
「ちょいとォ、何時だと思ってんだい!」
 つぎつぎに長屋の戸口が開く。
 すると鼠小僧は、持っていた千両箱を、ざらーっと開けた。
 小判が一面に広がる。
「ほれ! 鼠からの贈りもんだ!」
「わわわ!」
 長屋の連中は仰天した。
 鼠小僧は、ぴょーんと屋根に飛び上がる。
「おい、旦那がた。たまには女房にカンザシの一つも買ってやんな。女房たちも、旦那にうまいもんでも食わしてやれよ」
「うわーっ。本物の小判じゃねえか!」
 長屋衆たちは、小判に群がって叫ぶ。
「ふふふ」
 鼠小僧は、その光景に一人ほくそえんだ。
「みんな、達者で暮らせよ。じゃあな」
 夜の闇に消える鼠小僧。
 その夜。熊さんの長屋が上を下への大騒ぎになったのは言うまでもないことだった。


..1


 翌日。
 八丁堀と人形町の中間あたりにある、お馴染み長寿庵というそば屋で、邦四郎がざるそばを食べていた。
 ずるずるずる。と、そばをすする邦四郎。
「いやあ、やっぱ、江戸っ子はそばだね」
「おまえさん、本当に好きだねえ」
 女房のお清が、苦笑しながら言った。
「ま、おかげでお昼ご飯用意する手間が省けていいけどさ」
「あら、お清姉さん」
 長寿庵の看板娘、お喜美が笑った。
「本当は作って上げたいんじゃないの? いまだに、熱々の新婚夫婦だもんねえ」
「んもう、お喜美ちゃん。大人をからかうもんじゃないよ」
「まあな」
 と、邦四郎。
「お清も若妻にはなれなかったが、新妻にゃあ違げえねえよな」
「おまえさん…… それが、プリティなワイフに言うことかい」
 お清が江戸時代人にあるまじき単語を連発したとき。
「停電だ!」
 邦四郎の舎弟の青吉が飛び込んできた。
「停電だ! 停電だ! 停電だ!」
「こら、青!」
 と、邦四郎。
「一発芸で一生食ってる吉本興業の芸人じゃあるめえし、てめえには、そのギャグしかねえのかよ!」
「あ、兄貴! 辛辣なこと言ってる場合じゃねえですぜ!」
 青吉は、邦四郎の前に、瓦版をバーンと広げた。
「こいつを見てくだせえよ!」
「なんだ?」
 邦四郎たちは、瓦版をのぞき込んだ。
「なになに? 鼠小僧だと?」
「へい。なんでもね、飯田橋の高松藩の上屋敷に忍び込んで、千両箱かっさらって、それを熊吉の住んでる長屋の連中にバラ撒いたんだそうですよ」
「あらまあ」
 と、お清。
「どうせなら、うちの長屋に来てくれりゃあいいのにねえ」
「うちにも来てほしいわあ」
 と、お喜美。
「おいおい、おめえら」
 と、邦四郎。
「気持ちはわかるが、盗人なんぞに施しを受けたら江戸っ子の名が泣くぜ」
「冗談よ、おまえさん。あたしだって、一応武家の女房だからね」
「そうそう。あたしも冗談ですよ。盗人からお金なんかもらったら、輝之真さまに嫌われちゃうわ」
 と、お清とお喜美が答えたときだった。
「ごめんよ」
 と、輝之真が入ってきた。
「あ、輝之真さま♪」
 思わず、語尾に音符がつくお喜美。
「おう、お喜美。今日も相変わらず可愛いじゃねえか」
「うふふ。輝之真さまも相変わらずで」
 お喜美は、くすっと笑った。
「ったく」
 と、その様子を見ている邦四郎が苦笑する。
「ホント相変わらずの無節操男だぜ。そのうち女に刺されるな」
「黙れ、邦四郎」
 輝之真は、邦四郎の向かい側に座った。すると、机の上の瓦版に気づいた。
「お、ちょうど瓦版を見ていたか。これなら話が早い」
「おう。鼠小僧の話をしてたとこだ」
「まったく、困った野郎が出て来やがったもんだぜ」
「高松藩はいくら盗まれたんだ?」
「千両箱一個だ。いまさっき、南町の同心が小判を回収したが、三分の一も戻って来なかったそうだ。使っちまったのか隠してるのか知らんが、熊吉たちにも困ったものだ」
「しかし、その鼠、大名屋敷へ忍びこんで、御手許金を盗むまではいいが、長屋の連中に配っちまうとは、またえらくバカげた野郎だな」
「うむ。おまえも知っての通り、江戸には、そういうバカは一人しかいない。ふと気がつけば、わたしの目の前にいるようだが、いまのうちに白状した方がいいぞ。お上にもお慈悲はある」
「おまえな」
 邦四郎は、こめかみに血管を浮かべた。
「おもしれえこと言いやがるじゃねえか。オレが小判を配って歩くバカだと言いたいわけか」
「ふむ。そう言われると自信が揺らぐな。おまえが、人さまに金を配って歩く姿は想像しがたい。どういう心境の変化だ?」
「一言一言、丁寧に皮肉を混ぜやがって。おめえ、このシリーズが進めば進むほど、性格悪くなってるよな」
「シリーズとはなんだシリーズとは。なんのことか、サッパリわかり申さん」
「そりゃそうと」
 と、お清。
「輝之真さま。うちの人が鼠小僧だなんてあり得ませんよ。女房のあたしが言うのもなんですけど、うちの人が、他人さまにタダでお金を配るなんて、絶対ないわ」
「こら、お清。それがダンディなハズバンドに言うことか。そもそも、ここ二ヶ月、夜遊びなんてしてねえだろオレは」
「ああ、そうとも言うわね」
 お清は、ケタケタと笑った。
「ううむ」
 と、輝之真は唸った。
「しかし、邦四郎が犯人でないとすると、いったいだれが鼠小僧なんだ?」
「どーでもいいけどよ」
 と、邦四郎。
「おまえ、目付じゃなかったけ? 鼠小僧を捕まえるのは、奉行所の仕事じゃねえのかい?」
「固いことを言うな。史実に則っておっては、コメディなど書けん。ちなみに、江戸時代の正しい知識は、読者各自でお調べいただきたいと、小声で申しておこう」
「おい。いくらなんでも、そりゃいい加減すぎるってもんだぜ」
「わかった、わかった。だったら、南町の奉行と個人的に親しくて、鼠小僧の一件で相談を受けたと。そういう設定にしておこう」
「南町で、しかも吉宗の時代だと、奉行は大岡か?」
「そう。忠相殿だな。あの頑固ジジイは好きになれんが、まあ、しょうがない。親しい間柄ということにしておこう」
「時代劇ってのも、意外と苦労するよな」
「大御所の作家がごろごろしてる分野だからな。山本周五郎、池波正太郎、果ては司馬遼太郎まで…… おい、邦四郎。すごいぞ、この連中。いま使ってるJapanistという日本語変換、こいつらを全員一発で変換しやがった」
「そりゃおめえ、『ジャパニスト』って言うぐれえだろ。時代劇作家を変換できなくてどうするよ」
「いや、まったくだ」
「ちょいとォ、ダメですよ」
 お喜美が、口を尖らせた。
「なに意味不明なこと言ってんですか。いい加減、時代劇に専念してくださいな」
「へーい」
 輝之真と邦四郎は肩をすくめながら返事をした。
「じゃ、お話に戻りますよ」
 と、お喜美。
「輝之真さま、善吉さんのこと知ってます?」
「な、なんだよ。唐突だな。酒屋の善吉がどうした?」
「いえ、なんでもね、先月倒れちゃったそうなんですよ。肺の病だとかなんとか。善吉さんの娘の知美ちゃんとは、あたし女学校で一緒だったから、心配してるんです」
「時代劇に専念しろと言ってる割りには、女学校なんぞと江戸時代にはない物を…… という突っ込みは疲れるから、あえてしないことにするが、それで善吉は店を閉めていたのか」
「そうなんですよ。知美ちゃん、おとっつあんの看病で大変みたいで…… 輝之真さま、なんとか助けてあげられないですか?」
「いや、そうはいっても、わたしも医者じゃないからな」
「そんなァ。輝之真さまともあろう御方が、たった一人の娘も助けられないっておっしゃるんですか?」
「わかった、わかった。あとで様子を見に行ってくるから」
「やった! よろしくお願いします」
「やれやれ。お喜美にはかなわんよ」
 そのときだった。店の奥で、お銚子をあけていた客が立ち上がった。
「姉さん、おあいそしてくれ」
「あ、はーい。十六文いただきます」
「ごちそうさん」
 その男は、お喜美に金を渡すと、ちらりと輝之真たちを見ながら、店を出ていった。
「おい、輝之真」
 と、邦四郎。
「いまあいつ、お前にガン飛ばさなかったか?」
「ああ……」
 輝之真は邦四郎にうなずきながら首をひねった。
「なんだよ。どうしたんだ輝之真」
「いや…… あの男。どこかで会ったような気がする」
「どこで?」
「それが思い出せん」
「おめえも、とうとうアルツハイマーか」
「あのな。江戸時代にない単語を使うな。どうも調子が狂う」
「調子狂うのはこっちだぜ、ったく」
「そりゃそうと」
 と、お清。
「さっきの人と、どこで会ったのか、本当に思い出せないんですか?」
「ああ。まあ、気のせいだったんだろう」
「なーんだ」
 と、お清。
「ちょいと、いい男だったから、紹介してもらおうと思ったのに。なんだか宝塚の男役みたいだったよ。そう思わない、お喜美ちゃん?」
「うんうん。カッコよかったわ。この辺じゃ見かけない人ね。旅の御方かしら」
「そうかもね。たまには、あんな若い子と、お酒でも飲んでみたいわ」
「おい、お清……」
「あ、やだ。お前さんったら。冗談よォ」
「ふん。どうせオレはオッサンだよ。三十代も半ばを過ぎましたよ」
「もう、拗ねないでおくれよ。男は三十過ぎから味が出るんじゃないかい。ね、お喜美ちゃん。そうよね」
「そうそう。男は三十過ぎですよ。ね、輝之真さま」
「当然だ。苦み走ったいい男といえば、この輝之真をおいてほかにいない」
「自分で言っちゃうところがすごいですよね」
 お喜美は、くすっと笑った。


..2


 そのころ。とある長屋。
「おとっつあん。お粥が出来たわよ」
 知美は、粥の乗った盆を布団の脇において、病人らしく青ざめた顔の善吉を起こした。
「ゲホゲホ。いつもすまねえなあ、知美。おめえにゃあ、苦労ばっかりかけて」
「いやだよォ、おとっつあん。それは言わない約束でしょ。はい。たくさん食べて早く元気になっておくれよ」
 知美は、お約束のセリフを言いつつ、粥の入った小さな土鍋を父親に渡した。
「熱いからね。気をつけて」
「すまねえなあ、知美。ホントに、すま…… ゲホゲホ…… ゲホゲホゲホ!」
「ああ! おとっつあん、しっかりして!」
 知美は、急に咳がひどくなった父親の背中を懸命にさすった。
「はあ…… はあ、はあ、はあ」
 善吉の発作はなんとか治まった。
「なあ、知美……」
 善吉は、まだ少し苦しそうな顔で言った。
「越後にな、むかし、おとっつあんが世話になった大店の旦那さんがいるんだよ。どうだろうなあ。おめえ、そこに奉公に出てみちゃあ」
「なによそれ」
 知美は眉をひそめた。
「越後だなんて、そんな遠いところに行ったら、おとっつあんの世話は、いったいだれがするんだい?」
「おめえに、これ以上苦労はかけられねえよ」
「ちっとも苦労じゃないよ。ほら、バカ言ってないで、早くお粥食べて」
「知美。よく聞いておくれ。おめえは器量もいいし、性格も明るいし、おとっつあん自慢の娘だ。どこへ出しても恥ずかしくねえ。こんな病人の看病で、おめえのせっかくの人生を無駄にして欲しくねえんだよ」
「バカ! おとっつあんのバカ!」
 知美は、善吉を睨むように叫ぶと、その瞳にじんわりと涙を溜めた。
「なんで、そんな悲しいこと言うのよ。元気になって、また一緒にお店やろうよ。ね、おとっつあん」
「おとっつあんは、もう長くねえ。自分でわからぁな」
「いやだよ、おとっつあん。そんなこと言わないで……」
 知美は、ぐすっと鼻をすすった。
「元気になっておくれよ。おっかさんも死んで、おとっつあんがいなくなったら、あたし、天涯孤独だよ。あたしの花嫁姿を見てくれるって約束したじゃない……」
「すまねえなあ…… すまねえ。知美。うっ、ゲホゲホゲホゲホ!」
「おとっつあん! しっかりして!」
「ゲホゲホゲホ…… ううう。このまま死んじまいたいよ……」
 そのときだった。
 ガラッと、長屋の引き戸が乱暴に開き、ヤクザ風の男たちが入ってきた。
「おう、善吉。邪魔するぜ」
「あ、こ、こりゃ、伝六の旦那……」
 善吉は、布団の中で正座をした。
「すいません。ちょいと、病にふせってまして…… ゲホゲホ」
「そうらしいな」
 伝六と呼ばれたヤクザは、知美にいやらしい視線を向けてから、善吉に言った。
「でもよお、善吉。わかってると思うが、おめえに貸した、金五両。こいつの利息を払ってもらわねえといけねえんだよ。期限は来週だぜ。わかってるよな?」
「旦那!」
 善吉は、布団から一歩出て、畳に頭をこすりつけた。
「これ、この通り! いまァ、金がねえんです! どうか、あと一月待ってもらえねえでしょうか!」
「おいおいおいおい、まあ、頭を上げねえか善吉」
 伝六は、着物のすそをパッと開いて、どかっと行儀悪く足を組んで座り込んだ。
「こっちも商売なんでな。あめえに頭を下げられても、どうにもならねえんだよ」
「そ、そこをなんとか!」
「なんともならねえから、こうして釘を刺しにきてんじゃねえか」
「旦那! 頼みます!」
 善吉は、伝六の腕にすがりついた。
「だーっ、うるせえなあ!」
 伝六は、乱暴に善吉を布団の方へ押し戻した。
「あっ……」
 ごろんと、力なく転がる善吉だった。
「お、おとっつあん!」
 知美は、慌てて善吉の身体を支えると、伝六をキッと睨み付けた。
「なんてことすんのよ! この、ろくでなし!」
「おーおー。気の強ええ娘だぜ」
 伝六は、にやりと笑った。
「でもまあ、器量は悪くねえな。おめえなら、吉原でけっこう稼げるぜ」
「旦那!」
 善吉が、叫んだ。
「ど、どうか、それだけはご勘弁を! 店もなにもかも、旦那に差し上げます! ですから知美だけは、知美だけには、手を出さねえでくだせえ!」
「バーカ」
 と、伝六は、冷たい目で善吉を見た。
「てめえの店に、五両の価値なんかあるもんか。来週中に利子が払えなかったら、おめえの可愛い娘の身体で払ってもらうぜ」
「ああ、そんな…… 旦那、殺生な…… あんた人間じゃねえ」
「あんだと、こら!」
 後ろにいた子分が叫んだ。
「てめえ、兄貴から金借りといて、なんだその言いぐさは!」
「おうおう、やめねえか」
 伝六は、子分をいさめた。
「善吉よう。こりゃ、どう見たって金を返せる状態じゃねえな」
 善吉は、パッと顔を上げた。
「そうなんです、旦那! 来週は無理です! 待ってくれますか?」
「いんや」
 と、伝六。
「おめえらに夜逃げでもされちゃあ、かなわねえ。悪いが、娘は今日から預かっていくぜ」
「だ、旦那!」
「おい、おめえら。娘を連れて行け」
「へい!」
 子分たちが、ドカドカと土間から中に上がり込んだ。
「きゃーっ!」
「おらおら、お嬢ちゃん、大人しくしねえか! 世話やかすんじゃねえよ」
 と、子分が、知美を取り押さえようとしたときだった。
「やめねえか!」
 ダダーン! 輝之真がさっそうと登場!
「あっ! 輝之真さま!」
 知美が、引き戸のところに立っている輝之真を見て、安堵の混じった声を上げた。
「助けてください! この人たちが、無理やり!」
「ちっ……」
 伝六は、思わず舌打ちをして、子分たちに無言で目配せをする。子分たちは、面白くなさそうな顔で、土間に下りた。
「なにをしていたか、説明してもらおうか」
 輝之真は、腰に指した刀を、鞘からカチャリと少しだけ出して、銀色に輝く名刀村正を見せながら伝六を睨み付けた。
「待ってくだせえよ、輝之真の旦那」
 伝六は、ヘラヘラと作り笑いを浮かべると、懐から借金の証文を取り出した。
「ほれこの通り。こちとら、これが商売でさあ」
「見せてみろ」
 輝之真は、乱暴に証文を奪うと、文面に目を走らせた。
「なんだ。期限は来週じゃねえか。なのに、なんで知美に手を出そうとしやがった?」
「いえね」
 伝六は、肩をすくめた。
「この様子じゃあ、夜逃げでもされそうだったんで、まあ、善吉の娘を、こっちでちょいとお預かりしようかと」
 とたん。輝之真は証文を土間に投げ捨てると、目にも見えぬ速さで村正を抜いた。伝六が気がついたときには、村正の切っ先が、目の前にあった。
「もういっぺん言ってみろ。期限の前になんだって?」
「ぼ、ぼ、ぼ、暴力反対ですぜ旦那」
「ほほう。てめえの、その汚ねえ口から、そんな言葉が聞けるとは思わなかったぜ。なんなら、奉行所でゆっくり聞いてやろうか?」
「勘弁してくださいよ!」
 伝六は、村正から逃れるように身をよじると、輝之真が捨てた証文を拾い上げて、懐にしまい込んだ。
「善吉。今日のところは帰えるぜ。だが、来週の期限を忘れんじゃねえぞ」
 輝之真は、そういう伝六の首筋に、村正を押しつけた。
「てめえこそ、忘れんじゃねえぞ。知美に手を出しやがったら、この汚ねえ首が、汚ねえ胴体からおさらばするぜ」
「わ、わかってまさあ、旦那。期限前には手は出しませんよ」
「期限後もだ!」
「そいつぁ、善吉次第ですぜ。金を借りて返さなくていいって言うんですかい?」
「それと知美は関係ねえだろうに」
「旦那ぁ。そいつは理屈が通らねえってもんでさぁ。おいらたちも、おまんま食ってかなきゃいけねえんだ。それとも、目付になると、金貸しを無条件で殺してもいいって御触書(おふれがき)でもあるんですかい?」
「ちっ」
 輝之真は舌打ちをした。
「悪党に限って、法律をよく知ってやがる」
「へへへ。それも商売のひとつでさあ」
「うせろ」
 輝之真は、村正を鞘に納めた。
「へへへ」
 伝六は、いやらしい笑いを浮かべると、子分たちを引き連れて長屋を出ていった。
 知美は、すぐ土間に降りると、釜の隣に置いた塩ツボから塩をつまんで、表に撒いた。
「バカ! 二度と来るんじゃないよ、ろくでなし!」
 伝六は、振り返ってペッとつばを吐いた。
「また来るぜ、知美ちゃんよォ。へへへ」
 伝六たちが去っていく姿を睨んでいた知美だが、彼らの姿が見えなくなると、急にガクガクとヒザが震えて、その場にペタンと座り込んだ。いままで、張っていた気が、一気に抜けた様子だった。
「おい。大丈夫か、知美?」
 輝之真もヒザを落として、知美の顔をのぞき込んだ。
「うっ…… ううう」
 知美の瞳に、じんわり涙が浮かぶ。
「こ、怖かった…… 怖かったです、輝之真さま……」
「よしよし。もう大丈夫だ」
 輝之真は、優しく知美の肩に手を乗せた。
 ここで、画面がコマーシャルに変わった。

 タイガー、電子ジャーポット、押すだけ! 簡単よ!
 って、いつのコマーシャルだ!


..3


 コマーシャルが明けると、知美はなんとか落ち着きを取り戻していた。
 ずずっ。と、知美が入れたお茶をすする輝之真。
「おい、善吉。起きてないで、横になってろ」
「そんな、旦那の前で……」
 善吉は、布団の上で正座していた。
「こっちが気になるんだよ。いいから寝てろ」
「おとっつあん。輝之真さまの言う通りだよ。寝てて」
 知美は、善吉の身体を支えて寝かしつけた。
「すまねえな、知美」
 善吉は横になると、張っていた気がすっと抜けたのか、疲れ切った顔のまま、すぐに寝入ってしまった。
「おとっつあん、かわいそうに……」
 知美は、父親の顔を見ながら、悲しげな表情を浮かべた。
「病気になる前は、まだまだ若い者には負けねえって、張り切って仕事をしてたんです。あたしの嫁入り道具、ぜんぶ買ってやるんだって……」
「うむ」
 と、輝之真。
「善吉の娘思いは、わたしもよく知っている。いい親父さんだな」
「はい」
 知美は、やっと笑顔を浮かべた。
「それはそうとな」
 輝之真は、茶の湯のみを板の間に置いた。
「来週、金を返す当てはあるのかい?」
 知美は、黙って首を横に振った。
「そうか。そいつは、てえへんだな。なんとかしねえと」
「店を開けられれば……」
 知美がポツリと言った。
「明日からでも店を開けられれば、なんとか来週の利息だけでも返せるんです。でも、あたしだけじゃあ、店は出来ないし……」
「ふむ」
 と、輝之真。
「そういうことなら、なんとかなるかもしれねえぞ」
「え?」
 輝之真が言うと、知美はパッと顔を上げた。
「ホントですか?」
「邦四郎を知ってるだろ」
「はい。もちろんです。お清姉さんと結婚する前は、輝之真さまと江戸の女の子の人気を二分してた方ですもの」
「なんだと? そりゃ初耳だぞ」
「あら、知りませんでした? オバチャン連中には評判悪かったですけど、若い子には、邦さん人気があったんですよ。あ…… もちろん、一番は輝之真さまですけど」
「むむぅ。いや、まあいい。それより、店のことだ。邦四郎をこき使ってやればいい。あいつは何でも屋だからな」
「そ、そんな、邦さんはお武家さまですよ。酒屋を手伝わせるなんて……」
 知美が、輝之真の提案に躊躇したそのときだった。
 ドンドンと、引き戸を叩く音が聞こえた。
 知美は、一瞬輝之真を見てから表に向かって言った。
「はい。どうぞ」
「ごめんよ」
 と、引き戸を開けて入ってきたのは、先ほどお喜美の店にいた若者だった。
 輝之真は、この若者と知美が知り合いかと思った。だがそうではなかった。知美は、怪訝な顔つきで、その若者を見ながら聞いた。
「あの…… どちらさまでしょうか」
「いや、今度この長屋に越してきた、岬平と言う者です。今日は引っ越しの挨拶に伺いました」
「あら。そうでしたか」
 知美はホッとした。一瞬、また借金取りかと思ったのだった。
「すいません。独り者、不精者、無骨者の三拍子揃った男ゆえ、なんの手土産もございませんが、どうかご勘弁を」
「いいえ、そんなこと気になさらないで。あ、わたし知美と言います。こちらで寝ているのは、父の善吉です。すいません、ちょいと病にふせってまして……」
「失礼とは思いましたが」
 と、岬平。
「さっき、三軒となりの与右衛門さんに、ちょいと事情を聞いちまいました」
「いやだわ、与右衛門さんったら。おしゃべりなんだから」
 知美は、思わず苦笑した。
 そのとき、岬平は自分を黙って見ている輝之真に気づいた。
「おっと。ご挨拶が遅れやした。岬平と申します。輝之真さまの名は、遠く尾張でも有名でございます。あっしが言うことじゃありませんが、尾張の人間として、菜々姫さまを助けていただいたお礼を言わせていただきてえ」
「ほう」
 と、輝之真。
「おぬし、尾張の人間か」
「へい。以後お見知りおきを」
「いや、それ以前に、わたしらは見知っていなかったか?」
 ギクッ。と、岬平は一歩引いた。
「な、なんのことやら、サッパリわかりません」
「そうかなあ。おぬしとは、どうも、どこかで会ったような気がしてならんのだが」
「気のせいですよ。あっしみたいな平凡な顔の男、そこら中にゴロゴロしてまさあ」
「あら、そうかしら?」
 と、知美。
「岬平さん、けっこう男前じゃない」
 その言葉に、岬平の瞳がキラリーンと輝いた。
「いやあ、知美さんみてえな器量のいい娘さんに言われると、照れちゃいますね」
「あら。岬平さんもお世辞がお上手で」
「世辞だなんてとんでもない! あっしは嘘がつけねえ性格なんですよ。どっかのお武家さまと違ってね」
「どっかのお武家さま?」
 輝之真の眉が、ピクリと上がった。
「へい」
 岬平は、不敵な笑いを浮かべる。
「最近のお武家さまは、輝之真さまのように清廉潔白な方ばかりじゃありませんからね。まあ、庶民も苦労してるわけですよ。ホント、輝之真さまのように清廉潔白な方ばかりじゃありませんから。ははは」
「ううむ……」
 輝之真は、どーもバカにされたような気がしてならなかったが、あえて無視することにした。
「それはそうと」
 岬平は、一歩踏み込んで言った。
「与右衛門さんに聞いたところによると、親父さんが倒れてから、店を閉めてるそうじゃありませんか。知美さん。あっしはこう見えても、酒屋でバイトしたこともあるんですよ。あっしを雇っちゃくれませんかね?」
「えっ!」
 知美は驚いた。
「そ、それホントですか岬平さん!」
「へい。江戸に着いたばかりで、まだ職も決まっておりません。どうでしょう。あっしを助けると思って、雇っちゃくれませんか?」
「そ、それはぜひ! こちらこそ助かります!」
「こら、待て知美」
 輝之真が、知美を制した。
「こんな、どこの馬の骨ともわからんヤツを、そう簡単に雇っちゃいかんぞ」
 輝之真は、自分でもうまく説明できない危機感を、この男に感じたのだった。
「でも輝之真さま」
 知美が言った。
「言葉は悪いですが、これこそ渡りに舟ですよ。お武家さまの邦さんに手伝ってもらうわけにはいかないし。許してくださいな」
「ううむ」
 知美の真剣な顔を見ていると、無下にダメだとも言えなくなる輝之真だった。
「あい、わかった」
 輝之真は、致し方なくうなずいた。
「知美がそう言うなら反対はせん」
「よかった!」
 知美は、ピョンと立ち上がって土間に下り、岬平に頭を下げた。
「岬平さん! これからよろしくお願いします!」
「こちらそこ」
 と、答える岬平は、輝之真を見て、にや~りと笑った。
 むむむっ。と、やはり言葉で説明できない敗北感を感じる輝之真だった。


..4


 その夜。
 輝之真は、言い知れぬ敗北感にさいなまれながら、名刀村正の手入れをしていた。菜々姫を救出したとき、その功により、八代将軍吉宗から直々に賜った刀であった。
 ポンポンポン。
 なんか丸い玉がついた棒で、刀を叩いている輝之真。
「むう。こういうときは、平常心が大事じゃ」
 ポンポン。
「それにしても、あの岬平という男。どうにも気に食わん」
 ポンポン。
「うーむ。胸騒ぎがする。なにかが起こる気配だ」
 と、そのとき。なにかが起こった。
「大変だ、大変だ! 輝之真さま!」
 奉行所の岡っ引きが駆け込んできた。
「何事だ、騒々しい!」
 輝之真は、その役人を睨み付けた。
「へ、へい! また鼠小僧が現れまして、あっしらじゃ捕まえられねえんですよ! 大岡さまが、すぐ輝之真さまを呼んでくるようにと!」
「む!」
 輝之真は、とたん剣豪の顔つきになり、スチャッと村正を鞘に納めると、一目散に屋敷を出ていった。
「て、輝之真さま……」
 残された役人が言った。
「あ~あ。場所を聞かねえで飛び出して行っちまったよ…… 見かけによらずおっちょこちょいだな」
 ドドドドド。と輝之真が戻ってきた。
「バカタレ! 場所をいわんか、場所を!」
「ひでえ……」
 役人はかすかに肩をすくめてから答えた。
「人形町ですよ。人形町。ちゃんと聞いてくださいよね」
「うるさい!」
 ドドドドド。と、ふたたび駆けていく輝之真だった。

 で、その人形町では。

「ご用だ! ご用だ!」
 南町奉行所のちょうちんを持った木っ端役人たちが、屋敷の屋根の上を、自由自在にひらりひらりと舞ながら逃げる鼠小僧を追いかけていた。
「うむむむ」
 それを下で見ている大岡は唸った。
「輝之真殿はまだか。このままでは逃がしてしまうぞ」
 そのとき。
「遅くなりもうした!」
 輝之真が登場した。
「おお、輝之真殿! 頼みましたぞ!」
「承知!」
 輝之真は、スタタタタと、梯子を登り、屋根の上に躍り出た。ひらり。と、まるで重力を感じていないかのような優雅な動きだった。さすが剣豪。
「ご用だ! ご用だ!」
 と、追いかける木っ端役人たちは、威勢のいいセリフとは裏腹に、一人また一人と、屋根から振り落とされていた。
 輝之真は、剣豪小説の剣豪のような走り方で(おい…… 自分で描写をしろよ)、密集する家の屋根を飛び移った。
「あ、輝之真さまだ! 輝之真さまだぞ!」
 木っ端役人たちが輝之真に気づく。
 すると、千両箱を肩に背負った鼠小僧が、輝之真を振り返った。
「おっと。やっとお出ましかい」
 鼠小僧は、顔にすっぽり頭巾を被り、目の部分しか出していなかったが、どうやらニヤリと笑ったようだった。
「江戸のスーパースターと自分で言ってる割りには、おっとりしたご出勤じゃないか」
「うるさい。窃盗犯の逮捕は管轄外なのだ。と、いい訳をしても始まらんな。わたしが来た以上、もう逃げられんぞ。神妙にお縄につけ」
「ははん。捕まえられるもんなら、捕まえてみな!」
 鼠小僧は、それまで以上の素早さで、屋根の上を走った。
「こしゃくな」
 輝之真も後に続く。一瞬、二人は並びかけた。
「ほう。三十六歳のくせに、ずいぶんがんばるじゃねえか」
「きさま! どうやら牢屋よりあの世に行きたいみたいだな!」
「あ、やっぱ気にしてたんだ」
「やっぱり? きさま。わたしのことを知っているような口ぶり」
「おっと。いけねえ、いけねえ!」
 鼠小僧はスピードを上げた。
「ほーれ、オッサン! ついて来れるかな?」
「むっ!」
 輝之真も、にわかにスピードを上げ、村正を抜いた。
「きさま、刀の錆にしてくれるわ!」
 ズバッと輝之真は鼠小僧の背中を切りつけた。
 だが、鼠小僧は、さっとジャンプして、空中で一回転しながら、ひらりと刀をかわし、代わりに輝之真はバランスを崩して、屋根から落ちかけた。
「はっはっはっ! それでも剣豪かい!」
 鼠小僧の高笑い。
「きさまは、中国雑技団か!」
 輝之真は、なんとか体勢を整えてから叫んだ。
 この場所は、輝之真に圧倒的に不利だった。鼠小僧は、おそらく軽業師の訓練を子供のころからやっていたのだろう。輝之真も天性の運動神経のよさでここまで付いてきてはいるが、相手は軽業のプロ。いかに輝之真が剣豪とはいえ、このままでは鼠小僧に弄ばれるだけだった。
「鼠小僧!」
 輝之真は、叫んだ。
「きさま、なぜ盗人などになったのだ。お前ほどの男なら、軽業師として十分食っていけるだろうに」
「ハン! 今度は説教かい? じゃあ聞くけどよ、悪代官や欲の皮のつっぱった商人どもが、どれだけ庶民を苦しめてるのか、あんた知ってるのかよ!」
「だから金を盗んでもいいと言うのか。バカめ。きさまのやっていることは大間違いだ」
「なんだとォ!」
「考えてもみろ、鼠小僧。きさまのように、社会に不満があるから金を盗めばいいなどと、みなが考えたらどうなる? わしも盗もう。わしも盗もうと、江戸中の人間が考えたらどうなる?」
「うっ……」
 鼠小僧は、言葉につまった。
「きさまは庶民を助けてスター気取りだろうが、江戸の庶民は、みな苦しいながらも誠実に生きている。お前は、その秩序を乱す愚か者だ」
「ふ、ふん。さすがお年寄りだぜ。口は達者のようだな。能書きは、おいらを捕まえてからにしな!」
 鼠小僧は、輝之真の説教に聞く耳もたず、ひらりと身体をジャンプさせて、隣の家の屋根に飛び移った。
「じゃあな、あばよ!」
 そのまま走り去る鼠小僧。
「むう。このまま追いかけても無駄だな」
 輝之真は、屋根の上の追跡を諦めると、鼠小僧のようにジャンプしながら、地面に下りた。
 輝之真には考えがあった。鼠小僧の走っていった方角から、おそらく大伝馬町に抜けて逃げるつもりだろうと思ったのだ。あの界隈は、細い路地がいくつもある。盗人が逃げ込むにはちょうどいい場所だ。
 輝之真は走った。先回りをするのだ。久松町でとっ捕まえてやる。
 思惑通りだった。輝之真が久松町の町裏にある、山伏の井戸あたりに着いたとたん、屋根から飛び下りる影があった。
 輝之真は、とっさに村正を抜き、その影を切った。
 ズバッ!
 手応えはあった。
「うっ!」
 その影は、千両箱を落とした。
「ご用だ。鼠小僧」
 輝之真は、腕を押さえている鼠小僧に言った。それほど深くはないが、鼠小僧の右腕に手傷を負わせたのだった。
「くっ…… やるじゃねえか」
「観念しろ。この輝之真から逃れられると思ったお前がバカなのだ」
 鼠小僧は、輝之真に押されて、ずりずりと後退った。
 ところが、家の壁まで追い詰められた鼠小僧がにたりと笑った。
「お遊びは終わりだぜ」
 鼠小僧は、その家の天井からぶら下がっている紐を引っ張った。
 とたん。投網のようなものが、輝之真の上に落ちてきた。
「むっ」
 それを空中で切り裂く輝之真。だが、それは細い金属でできていて、さしもの名刀村正でも、容易に切り裂くことはできなかった。
 網にからめ捕られる輝之真。
「むむっ!」
「ふう。ヤバイヤバイ。万が一のために、用意しといてよかったぜ」
「卑怯者め!」
「けっ。盗人に、卑怯もへったくれもあるもんかい」
 鼠小僧は、落とした千両箱を拾おうとした。
 輝之真は、腰に差した小刀を抜いて、鼠小僧に投げつけた。
「おっと! 危ねえことするなよ」
「千両箱に手を触れることは許さんぞ」
「そんなマヌケなカッコでよく言うぜ」
 そのとき。
「ご用だ! ご用だ!」
 奉行所の木っ端役人たちが集まってきた。
「くっ」
 鼠小僧は、唇をかんだ。
「ちくしょう。今日は、そっちに花を持たせてやらあ!」
 鼠小僧は、輝之真を睨みつけてると、千両箱を諦めて路地に逃げ込んでいった。
「あ、輝之真さま、大丈夫ですか!」
 と、木っ端役人。
「えーい! わたしの心配はいいから、早く鼠小僧を追わんか!」
「へい!」
 だが。夜の闇に紛れた鼠小僧の行方は、ようとして知れなかった。
 ここで画面がコマーシャルに変わった。

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..5


 翌日。
 お馴染み長寿庵。
「で、けっきょく取り逃がしたと。そういうわけか」
 邦四郎が、ざるそばをすすりながら言った。どうでもいいが、今回、こいつそばばっかり食ってるな。
「おめえから逃げきるとは、鼠小僧ってのも、なかなかやるじゃねえか。石川五右衛門とは行かねえまでも、ちょいと睨みの利いた野郎がいるもんだな」
「ふん」
 輝之真は、面白くなさそうに答える。
「軽業師に毛の生えた野郎だと思って油断しただけだ。つぎは引っ捕らえてやる」
「そうですよ」
 と、お喜美。
「みんながなんと言おうと、あたしは、輝之真さまを応援してますよ」
「ん?」
 輝之真は、ハテナマークを浮かべた。
「みんながなんと言ってるんだ?」
「あ、いえ……」
 お喜美は、ちょっと口ごもりながら応えた。
「やっぱりその…… 鼠小僧って人気あるみたいですよ」
「やれやれ」
 輝之真は首を振った。
「困ったものだな。ああいう輩が出ると、みな、面白おかしく騒ぎ立てる」
「江戸っ子好みの盗人ではあるよな」
 と、邦四郎。
「大変だねえ、正義の味方も。ま、せいぜいがんばんな」
「言われるまでもないわ」
 輝之真は立ち上がった。
「さて。仕事に戻るとするか」
「あ」
 と、お喜美。
「そうそう。輝之真さま! きのう知美ちゃんのこと助けてくださったんですってね。ありがとうございました」
「あんなもの、助けたうちにはいらん。そういえば、今日から店を開けているはずだな」
「ええ。朝、様子を見に行ったら、忙しく働いてましたよ。あの岬平さんって人も、気のよさそうな人でよかったわ」
「うーむ。なんか釈然としないんだよな。あの岬平ってヤツ。ちょいと様子を見に行ってみるか」
 輝之真は、長寿庵を出て、知美の店に向かった。

「はーい、いらっしゃい、いらっしゃい! 今日は特売だよ!」
 店が見えてくる前から、知美の明るい声が聞こえた。店が見えてくると、輝之真はホッとした。思った以上に繁盛しているようだ。見ると、わざわざ隣町から来ている連中もいるようだった。おそらく善吉の病気を知って、知美のところで酒を買ってやろうと、やってきたのだろう。江戸から人情が失われていな証拠だった。
「あ、輝之真さま!」
 知美は、店の様子を見ている輝之真に気がついて、大きく手を振った。
「輝之真さま! 寄ってって下さいよ! サービスしますよ!」
 なにげに「サービス」などと英語を使う知美に、輝之真は苦笑しながら店に入った。
「繁盛しているようだな」
「はい。おかげさまで」
 知美は、にっこり笑った。
「きのうは、本当にありがとうございました。どれでも好きなお酒持ってて下さい。輝之真さまは吟醸酒ですよね、やっぱり」
 ちなみに江戸時代に吟醸酒はない。
「うむ。ちゃんと買わせてもらおう」
「そんな。輝之真さまからお金なんて頂けません」
「おいおい。変に気を回すな。そうだな。あとでうちに二升ほど届けてくれ」
「ありがとうございます。岬平さん、あとで輝之真さまのところに、うちで一番いいお酒届けてね」
「へーい」
 岬平は、どことなく、面白くなさそうな顔で知美に答えると、意地の悪い笑いを浮かべて輝之真に言った。
「そりゃそうと輝之真さま。きのうは鼠小僧に、まんまと、してやられたそうですね」
「ちょ、ちょっと岬平さん、なんてこと言うのよ」
 知美が、岬平をたしなめた。
「輝之真さまは、鼠小僧が奪った千両箱を取り戻したのよ。やられちゃったのは鼠小僧の方よ。ね、輝之真さま」
「いい子だなあ、知美」
 輝之真は、ちょっと涙を浮かべた。
「そう言ってくれるのは、おめえとお喜美ぐれえなもんだぜ」
「あら。そんなことないですってば。そりゃたしかに、鼠小僧は人気があるみたいですけど、やっぱり江戸のみんなは、輝之真さまの味方ですよ」
「そりゃどうかな?」
 岬平は、肩をすくめた。
「何だかんだ言って、みんな金が欲しいんじゃねえのかい。輝之真さまを応援しても、一文の得にもならねえからな」
「岬平さん!」
 知美が、岬平を睨み付けた。
「いいんだ、知美」
 と、輝之真。
「岬平のいうことも、まあ、もっともだ。鼠小僧なんて盗人が出て来ねえ世の中にするのがわたしの仕事だからな。真摯に批判は受け止めなきゃいかん」
「大人だわあ」
 知美は、うっとりとした顔で、瞳を輝かせた。
「そういうところが、輝之真さまの人気の秘訣ですよね」
「ははは。世辞など言ってもなにも出んぞ」
「けっ。いい気なもんだぜ」
 岬平は、小声で言った。
「ちょいと。お酒ちょうだいな」
 客が言った。
「はーい!」
 知美が明るい声で答える。
「お銀さん、お久しぶり。今日はどうしましょう?」
「そうね。五合ももらおうかしら」
「はーい。いま、新しい樽開けますね」
 知美は、そう言って着物のそでをたすきに縛ると、新しい樽をひょいと持ち上げた。
「わわっ! と、知美さん、そんなこと、おいらがやるよ!」
 岬平が、慌てて言うと、知美はケタケタ笑った。
「平気よこれぐらい。子供のころから、おとっつあんの手伝いしてたんだから」
 知美は、言葉どおり平気な顔で、新しい樽を、ドンと店の前に置いた。
「と、知美……」
 輝之真は息をのんだ。
「おまえ、意外とマッチョだったんだな」
「あ……」
 知美は、輝之真に言われて、とたん、ほほを染めた。
「いや~ん。あたしったら。重かったわァ。あーん、腕が痛い。あとは、岬平さん、お願いしますね」
「う、うん……」
 岬平も、息をのみながらうなずいた。
 それにしても、輝之真が言うと、顔を赤らめるってのが気に食わねえなあ。
 ぶつぶつ。
 岬平は、心の中で悪態をつきながら、腕まくりをした。
「む?」
 と、輝之真。岬平の右腕には、包帯が巻かれていたのだ。
「おい岬平。その腕はどうした?」
「おっと」
 岬平は、慌てて、腕を隠した。
「べつに、なんでもありませんよ。今朝、釜に火を入れるときに、ちょいと火傷をしちまいましてね」
「ほう…… そうかい」
 輝之真は、疑惑の眼差しで岬平を見た。
「岬平さんって」
 知美が、客に酒を渡しながら、くすっと笑った。
「意外と、おっちょこちょいなのね」
「ははは。そうなんだよ。よく言われる。顔に似合わねえってね」
「ふふ。岬平さん、ハンサムだもんねえ」
「そうなんだよ。ははは」
「あら~ あたしゃ、輝之真さまの方が、断然好みだよォ~」
 ふと見ると、輝之真の後ろに、近くの旅館の若女将が立っていた。三十ぐらいの年の、ちょいといい女だった。
「あ、お光さん! お久しぶりです!」
 と、知美は、その旅館のお若女将を見て声を上げた。お光は、むかしから知美の店のお得意さんだった。
「よかったわね、知美ちゃん、お店開けられて。うちも助かるわあ。善吉さんが倒れてから、隣町までお酒買いに行ってたんだもの」
「すいません、ご迷惑をかけて」
 知美は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「やだよ。知美ちゃんのせいじゃないでしょうに。それより、さっそくお酒と届けてちょうだいな。二樽ほど持ってきてくれる?」
 さすが旅館。買う量が違うのだった。
「はい!」
 知美は、元気よく返事をした。
「お光」
 と、輝之真。
「おめえの旅館も繁盛してるみてじゃねえか」
「おかげさまで」
 お光は、輝之真にほほ笑んだ。
「輝之真さまが、江戸の平和を守ってくれてるおかげですよ」
「うれしいこと言ってくれる」
「ホントですってば。これで、うちの旦那の女遊びが治りゃあ、いうことないんですけどねえ」
「そいつは、わたしにはどうすることも出来んな」
 輝之真は苦笑した。
「あら。旦那の浮気に疲れた女を、慰めてくれることは出来るんじゃありません? ねえ輝之真さま。ちょいとお茶でも飲みに行きましょうよ」
「おいおい。お光。昼間からバカを言うな」
「いやだあ、あたしゃ、お茶を飲みたいっていっただけですよォ。でもまあ、その先は輝之真さま次第かしらねえ」
 お光は、くすくす笑った。
「困ったヤツだ。まあ、寂しい女をほってもおけんか」
 と、輝之真。
「やった。うれしい。輝之真さまとデートだわ。さささ、行きましょ!」
 お光は、強引に輝之真の腕を抱いて引っ張った。
「おいおい。引っ張るなよ。じゃあな、知美」
 輝之真は、ちょっと苦笑いを浮かべながら、お光と一緒に店を出ていった。
「やれやれ」
 と、知美。
「輝之真さまも、あの腰の軽さがなければ、もっと人気出るのになあ」
「ふん。要はただのスケベだろ」
 と、岬平。
「鼻の下伸ばしやがって。いやだねえ、スケベなオヤジは」
「ねえ岬平さん。輝之真さまに、なんか恨みでもあるの?」
「べつに」
 岬平は、肩をすくめる。
「あのね」
 と、知美。
「岬平さんは、江戸に来たばかりだから知らないかもしれないけど、輝之真さま、本当に人気があるのよ。江戸一番の剣豪で、上様にだってお目通りできる、とっても偉いお役人さまなのに、そんなこと、おくびにも出さないで、わたしたちに接してくれるんだから」
「でも、おいらの方がいい男だぜ」
「あら」
 知美は、くすっと笑った。
「もしかして、岬平さん焼き餅やいてるの?」
「バ、バカ言うんじゃないよ。だれがあんなオッサンに」
「大人の魅力よね。いいわあ。あたし断然、輝之真さまのファンよ」
「あ、あんなスケベのファンだって? おいおい、冗談だろ」
「ちょっと。輝之真さまの悪口を言う岬平さんなんて嫌いよ」
 知美は、ぷいっと顔を背けた。
「そ、そりゃねえよォ」
 岬平は、情けない顔で言った。これが他人の小説に出るという屈辱らしかった。


..6


 夕刻。
 輝之真は、役所での激務と、寂しい女を慰める重要な仕事をこなして、屋敷に戻った。すると、ちょうど岬平が酒を届けに来たところだった。
「お、ご苦労」
「輝之真さまも、お役目ご苦労さまです。お光さんの気は晴れましたかい?」
「バッチリだ。肌なんかツヤツヤしてやがったぞ。こっちは精気を吸い取られ…… こら、なにを言わせるか」
 ちなみに、江戸時代は人妻に手を出すのは重罪であったが、まあ、固いことは言いっこなしってことで、一つよろしくお願いしたい作者であった。
「いい気なもんですな」
 岬平は、小声で言った。
「なんか言ったか?」
「いえ、なにも。で、酒はどこにおけばいいですか?」
「うむ。ちょうどいい。おめえとは、ちょいと話をしておきたかった。上がっていけ」
「申し訳ありませんが、まだ仕事の途中なんで」
「まあ、そういうな。すぐに済む。ちょいと、その腕の傷を見せてもらえりゃあ、それでいいんだ」
「いや、しかし……」
「ん? ただの火傷だろ? なにか不都合でもあるのか?」
「薬を塗ったばかりなので、包帯を取りたくねえんですよ」
「また塗ればいいじゃないか。うちにも火傷の薬ぐらいはあるぞ」
「で、ですが……」
「問答無用だ。上がれ」
「へ、へい……」
 岬平は、渋々、輝之真の屋敷に入った。
 輝之真は、岬平を連れて、座敷に向かうと、上座に座った。
「まあ、座れ」
「へい」
 岬平は、観念したように、輝之真の正面に座った。
「では、さっそく見せてもらおうか。その火傷ってヤツを」
「その前に、一つ聞きてえことがあるんですが」
「なんだ?」
「なんで、あっしの傷にそんなにこだわるんです?」
「きのうの晩、わたしは鼠小僧の腕を切りつけたのだ」
「はは…… まさか、あっしがその鼠小僧だと疑ってるんじゃないでしょうね?」
「そうは言っとらん。ただ、こっちもこれがお役目でな。疑問に思ったら、それをほってはおけんだろう」
「なるほど…… わかりやした」
 岬平は、着物の袖をまくった。
 そして、包帯に手をかけたときだった。
「むっ」
 輝之真が、腰に差した村正を抜きながら立ち上がった。
「な、なんですか急に!」
 岬平は、驚いた。
「シッ!」
 輝之真は、唇に指を当てて、岬平を黙らせた。そして、障子で仕切られた庭の方をじっと凝視する。
「い、いやな予感がする……」
 と、輝之真。
「すごく、すごく、いやな予感だ」
「なにを言ってるんですか?」
 岬平は、輝之真の意味不明な言葉に首をかしげた。
 すると。
 庭からコツンと小さな音が聞こえた。さらに〈あいたた…… また転んじゃったぁ〉と、小さな声も聞こえる。
「ああ……」
 輝之真は、頭を抱えた。
「障子を開けたくねえなあ。でも、開けねえわけにはいかんだろうなあ。ちくしょう」
「あ」
 と、岬平も気づいた。
「もしかして、あれですか?」
「そう。あれだ、あれ」
「お江戸ざんまい名物のマヌケ忍者ですね」
「バカタレ。勝手に名物にするな」
 輝之真は、意を決したように乱暴に障子を開けた。
 ガラッ!
「キャッ!」
 庭にいた人影が、見つかって驚く。そして、その影は、あわてて植木の陰にかくれた。
 が、その拍子に、その影はなにかにつまずき、植木に寄りかかると、その植木が倒れて、その反動で灯籠を押し倒し、倒れた灯籠が、輝之真の屋敷の壁をぶち抜いた。
 ドンガラガッシャーン、バキーッ!
 し~ん。
 岬平は、その光景に息をのんだ。噂に違わぬマヌケぶり。
「秋穂!」
 輝之真は叫んだ。
「てめえ、一度ならず二度までもうちを破壊するとは、どういう了見だ!」
「いや~ん」
 秋穂は、隠れた植木の影から出てきた。
「さすが輝之真さま。また見つかっちゃった~ さすがですねえ。完ぺきに気配を消してたのにい」
「いつ、どこで、だれが、気配を消してたと言うのだ! あ、いかん、めまいが……」
 頭に血が登って、立ちくらみがする輝之真だった。
「いやん。あんまり怒ると、いい男が台無しですよ」
「だれのせいだ、だれの!」
 マヌケ忍者と漫才を始めた輝之真を見て、岬平は、こそこそと逃げ出した。
「輝之真さま!」
 秋穂は輝之真に、がばーっと抱きついた。
「お久しぶりですぅ。お会いしとうございましたぁ!」
「うわっ! こら秋穂! 抱きつくんじゃない!」
「えーっ。なんでなんで? 久しぶりに会ったんだからいいじゃな…… ん?」
 秋穂は、輝之真の着物をクンクンと嗅いだ。
「なんですか、このお白いの匂いは? 輝之真さま。まさか、また浮気を?」
「バ、バカを申すな」
 ぷいと顔を背ける輝之真。
「あーっ! やっぱり浮気だ! 菜々姫さまに言いつけちゃおう!」
「こ、こら。待て秋穂。誤解だ。って言うか、まさか菜々姫さまが江戸においでではないだろうな?」
「さあ、どうでしょうねえ」
 ジトっと輝之真を睨む秋穂。
「こら秋穂。わたしを困らせるでない。正直に申せ」
「姫さまが来てたらどうするつもりですかあ?」
「それはもちろん、ご挨拶を申し上げに尾張の江戸屋敷に行くに決まっておろうが」
「残念でした。今回は、あたしだけでーす!」
「そうか。それはよかった」
 ホッとする輝之真。
「あーっ! やっぱり浮気したんですね!」
「いや、だから、違うと言っておろうが」
「怪しい」
「怪しくない。それより、おまえなにしに来たんだよ」
「えーっ、用事がなきゃ来ちゃいけないんですか?」
「少なくとも、うちを破壊しに来てほしくはないな」
「あはは。ちょっとしたアクシデントですよォ」
「ったく…… 名古屋城が無事なのが不思議だよ、オレは」
 輝之真は、やれやれと首を振った。
 そのとき。座敷に岬平の姿がないことに気づく。
「あ、あの野郎…… 逃げやがったな」
「だれかいたんですかあ?」
「ああ。おめえのせいで取り逃がしたがな。そういえば、あいつも尾張の出身だと言ってたっけな。秋穂。おまえ岬平という男を知らんか?」
「岬平くん?」
 秋穂は、うーんと首をひねった。
「知ってるような知らないような」
「どっちだよ」
「うーん。知らないことにしときます」
「なんで?」
「だって、話しがややこしくなるでしょ。じゃあ、あたし帰りまーす」
「おい! マジで用事もなく来たのかよ!」
「そうですよ」
「そうですよって、おまえ……」
「うふふ。このシリーズが続く限り、あたしは、どーんなにちょい役でも、必ず一回は登場させてくれるって、将軍さまから約束してもらってますからねえ」
「ま、まさか、毎回、うちを破壊するのか?」
「やだなあ。そんなこと、何度もやりませんよ。じゃあ、今日はこれで」
 秋穂は、ピョンと庭に戻った。そのとき、自分で倒した灯籠につまずいて転んで、その拍子に、灯籠の頭がゴロゴロと屋敷の方へ転がって、バキーッと縁側の板を破壊した。
「あーきーほー」
 輝之真のこめかみに、ぴくぴくと血管が浮かんだ。
「いやん」
 秋穂は、照れくさそうに言った。
「二度あることは三度あるってホントですね、輝之真さま」
「ゆ、許せん。たたっ斬ってやる!」
「きゃーっ。輝之真さまご乱心」
 秋穂は、一目散に逃げだした。
 ここで、画面がコマーシャルに変わった。

 ある日の夜。友達と楽しく飲んで、家に帰ってきた中山美穂。お風呂も入ったし、あとは寝るだけ。一番くつろげるベッドの上で、きょう一日をシメるビールを飲む。それは一番搾りの黒生ビール。
 グビッ、グビッ、グビッ、ぷはー。
「うまっ! ふぅー」

 お酒は二十歳になってから。


..7


 翌日。
「のんきにビールなんて飲んでんじゃないよ。ったく」
 輝之真は、トンカチを持って屋敷の壁に開いた穴を塞いでいた。
 トントントン。
「秋穂が来るたんびにこれだもんなあ」
 カンカンカン。
「たまんないよな。オレは不幸だ」
 ふう~ と、額ににじんだ汗をぬぐう輝之真。
 そのとき。
「輝之真さま」
 庭先に知美の姿があった。
「なにやってらっしゃるんですか?」
「おお、知美。いや、きのうちょいとゴジラに襲われてな」
「ゴジラ?」
 知美は庭に入ってきた。
「江戸時代には、ゴジラもキングギドラもいませんよ。それにしても、見事に壊れてますねえ」
「またくなあ。直すのに一週間はかかるな、こりゃ」
「大変ですねえ……」
「で、なんの用だい?」
「あ、そうそう。今朝、お光さんが来てくれて、清水から仕入れたっていうアジの干物をいっぱいもらったんですよ」
「お光が?」
「はい。お光さん、とっても機嫌がよかったわ。だれのおかげでしょうねえ?」
「は、ははは…… だれのおかげだろうねえ」
「ふふ」
 知美は笑いながら言った。
「おかげさまで、本当にいっぱいもらっちゃって、うちじゃ食べきれないんですよ。貰い物で悪いんですけど、おすそ分けに来ました。たしか輝之真さま、大好物でしたよね」
「そりゃ悪いな。まあ、上がってくれ。ちょうど一休みしようと思ってたところだ。お茶でも入れよう」
「あ、じゃあ、あたし入れますよ」
「おいおい。お客にお茶を入れさせるわけにはいかねえよ」
「なに言ってんですか。輝之真さまにお茶を入れてもらったら、あたしこそ罰が当たっちゃうわ。お台所、お借りしますね」
 知美は、縁側から輝之真の屋敷に上がった。
「ホントにいい娘だなあ」
 と、輝之真。
「秋穂に、爪の垢でも煎じて飲ませたいよ」
 いや。その程度では、秋穂のおマヌケぶりは治らんと思うぞ(←作者の声)。

 で、十分後。
「輝之真さま。お茶が入りましたよ」
 知美が、湯飲みを乗せたお盆を持って戻ってきた。
「ああ、すまんな」
 倒れた灯籠を立て直していた輝之真は、手をパンパンと叩いて縁側に座った。ふと、残りの灯籠を戻すのを知美に手伝ってもらったら楽だなあと思った。知美、力持ちだもんなあ。だが、そう思っただけで口には出さなかった。
 知美も輝之真の隣に正座して座り、水で濡らした布巾を輝之真に渡した。
「はい。手を拭いてくださいな」
「気が利くなあ」
 輝之真は、軽い感動を覚えながら手を拭いた。
 知美は、お盆に乗せた湯飲みを輝之真の前におく。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 ずずっと茶をすする輝之真。
「むむっ。知美。うちの茶っ葉になにをした?」
「えっ、なにか変ですか?」
「変だ。なぜ知美が入れると、こんなに美味しくなるんだ?」
「もう、やだわ」
 知美はくすっと笑った。
「輝之真さまったら、同じこと江戸中の女の子に言ってるんじゃありません?」
「そんなことはない。わたしは、誤解を受けやすい性格なのだ」
「そうですね」
 知美はくすくす笑う。
「信じてねえな」
 と、輝之真。
「まあいい。ところで、店の方はどうだ?」
「はい。おかげさまで、きのう一日で利子の分は稼げちゃいました。さっき、突き返してきましたよ。お金を返してもらったのに、伝六って男、残念そうな顔をしてたわ」
「ははは。見たかったな、ヤツの顔」
「うふふ。おとっつあんにも見せたかったですよ」
 すると、輝之真の庭の梅の木に、うぐいすが止まった。ホーホケキョ。
「あら。うぐいすだわ。もうすっかり春ですねえ」
「ああ。いい季節になってきた。暖かくなれば善吉の病も治るんじゃねえか」
「だといいんですが」
 知美は、ちょっと顔を伏せた。
「お医者さんの話だと、いいお薬を飲めば治るかもしれないって」
「いい薬?」
「はい。ストレプトマイシンとかなんとか」
 江戸時代に、結核の特効薬なんかあるかい!(←作者の声)
「そうか」
 と、輝之真。
「この時代なら、ストレプトマイシンの耐性菌もいねえだろうから、一発で効くんだろうなあ」
 だーかーらー、江戸時代に…… まあいっか。(←作者もヤケになってる)
「はい。お医者さまもそんなこと言ってました。でも、なかなか手に入らないんですよ。それに、とっても高いそうなんです」
「いくらだい?」
「五両もするんだそうです」
「そりゃ高いな」
 輝之真は、湯飲みを置いた。
「だが、それで治るならめっけもんだ。上様御用達の医者に言って、手に入れてもらうように手配しよう」
「えっ、でも、そんなお金うちにはありません」
「わたしが立て替えておこう。善吉が治れば、店ももっと繁盛すだろうからな。少しずつ返してくれればいい。この、旨いお茶のお礼だ」
「あ、あたし、そんなつもりじゃあ……」
「バカ。そんなこたあ、わかってる。困ったときはお互いさまだろ」
「輝之真さま……」
 知美は、瞳を潤ませると、三つ指ついて、輝之真に頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に何もかもお世話になっちゃって、お礼の言葉もございません」
「こらこら。頭を上げねえか。そんなことされたら、おめえに恩を売ってるような気になっちまう」
「いくらでも売ってください。たくさんお返ししますから」
 知美は顔を上げると、涙をぬぐって笑顔を浮かべた。
「この、お茶で十分だ」
 輝之真は、また知美の茶を飲んだ。
「うん。旨い」
「こんなものでよければ、毎日、入れて差し上げますよ」
「ははは。毎日か。そうしたら、夫婦になっちまうな」
「や、やだわ、輝之真さまったら」
 輝之真の何気ない冗談に、知美は、顔を真っ赤にした。
「すぐ、そうやって心にもないこと言うんだから。冗談の通じる女の子ばっかりじゃないんですからね。そのうち、だれかに本気にされて、大変なことになっちゃいますよ」
「大変なこと?」
「刺されちゃうとか」
 ギクッ。心当たりのある輝之真だった。
「は、ははは…… 怖いこと言うなあ知美は」
「さてと。そろそろお店に戻らないと」
 知美は庭に下りた。
「じゃあ、アジの干物食べてくださいね。お台所に置いときましたから」
「うむ。でもどうやって食べればいいんだ?」
「えっ?」
 知美はビックリした。
「輝之真さま、アジの干物を焼いたことないんですか?」
「料理なんかしたことないな」
「お手伝いさんを雇ってないんですか?」
「どうせ食事は外で済ませるからな。たまに掃除のオバサンが来るだけだ」
「ん、もう……」
 知美は困ったような表情を浮かべた。
「そんなこと言われたら、ご飯を作りに来て上げたくなっちゃう」
「いいよ、来てくれても」
 とたん。知美は、また顔を真っ赤にした。
「いいんですか。そんなこと言うと、本気にしちゃいますよ」
「べつに冗談で言ったわけじゃないんだが」
 事実だった。輝之真はただ、アジの干物を料理しに来てくれと言ったのだ。
 だが、世間はそう受け取らない発言なのも、また事実だった。
「じゃ、じゃあ! 今晩来ますね! いいですか!」
 知美は、勢い込んで言った。
「お、おう……」
 輝之真は、知美があんまりうれしそうなんで、やや不安に思いながらもうなずいた。
「ま、待ってるよ」
「やったーっ! うれしーっ! 腕によりをかけて作りますね!」
 大きな誤解が生じた、うららかな春の午後だった。


..8


「なんだってーっ!」
 岬平は叫び声を上げた。
 知美が店に戻ってきてから、やけに機嫌がいいので、その理由を問い詰めたのだった。
「て、輝之真のご飯を作りに行くだと!」
「あ!」
 と、知美。
「いま、輝之真さまを呼び捨てにしたわね! お役人さまに聞かれたら、岬平さん捕まっちゃうわよ!」
「い、いや…… そりゃそうだけど。くそう。輝之真めえ。なんという役柄だ」
 岬平は、口惜しさに唇をかんだ。
「と、とにかく知美さん。あいつの家に行っちゃダメだ。それも夜に行くなんて、言語道断。狼の巣に行くようなもんだよ」
「えーっ」
 知美は、恥ずかしそうにもじもじした。
「輝之真さま狼なんだ。いや~ん、どうしよう。あたし襲われちゃうのかしらァ」
「冗談事じゃないよ。あのスケコマシに騙されたら、知美さんが泣くだけなんだぞ」
「ちょっと。輝之真さまの悪口言わないでって言ったじゃない」
「悪口じゃないってば。本当のことなんだよ。きのう店に来た、お光さんのこと、知美さんも見てただろ? 輝之真は…… いや、輝之真さまは、ああいう男なんだってば。女の敵なんだよ」
「そんなことないわよ」
 知美は、ぷいっと顔を背けて言った。
「あの、女ったらしで有名だった邦さんだって、お清姉さんと結婚してから、お清姉さん一筋になったんだから。輝之真さまだって、きっと奥さんを大事にするわ」
「でもでも」
 と、岬平は必死の説得を試みた。
「輝之真のバカ野郎…… じゃなくて、輝之真さまは、尾張の菜々姫さまといい仲だって噂じゃないか」
「そうそう、それがね」
 と、知美。
「上様と尾張の殿さまって仲悪いんでしょ? だから輝之真さま、菜々姫さまとは結婚できないって、もっぱらの噂よ」
「いや、だからそこは、輝之真のクズ野郎のことだから…… じゃなくて、輝之真さまのことだから、うまく立ち回って、尾張の殿さまと上様の仲を取り持つぐらいのことやりかねないってば」
「岬平さん、あたしと輝之真さまが仲よくなるの、そんなにイヤなの?」
「だから、おいらは知美さんのことを心配してるんだってば。知美さんは、おいらみたいな、ふつうの男と一緒になるのが、一番幸せなんだよ」
「輝之真さまだってふつうよ」
 と、言ったあとで、知美は「えっ?」と驚いた。
「岬平さん、それって、どういう意味?」
「あ、いや……」
 岬平は、ポリポリと頭を掻いた。
「まいったな。もうちょっと、おいらのこと知ってもらってから言おうと思ってたんだけど…… でも、最近流行りの言葉の、悪の枢機から知美さんを守るためだから、いま言っちゃうよ。知美さん。初めて見たときから、あなたのことが好きでした」
「え、えーっ!」
 知美は、またまたビックリ。
「お、おいら!」
 と、岬平は畳みかけた。
「知美さんのこと幸せにするよ。約束する。だから、輝之真のオタンコナス…… じゃなくて輝之真さまのことは忘れて、おいらと一緒になろう!」
「ちょ、ちょっと待ってよ、岬平さん。そんなこと急に言われても……」
「おいらは、輝之真さまと違って、本気の本気だよ。浮気もしない。酒もタバコもやらない。賭け事だってやらない。知美さんを幸せにするためだけに生まれてきた男だよ」
 ここまで言うと、さすがに嘘くさく感じる物だが、知美は素直な子だった。
「こ、岬平さん…… そんな…… あたし困っちゃう……」
「困ることなんか、ちっともないよ。さあ、ぼくと幸せになろう!」
 岬平は知美を抱きしめようとした。
 だが。
 するりと岬平の腕から逃げる知美。
「いや~ん。あたしってば、こんなにモテたかしらん。どうしよう。盆と正月がいっぺんに来たみたいだわ」
 つまり、輝之真と岬平が、盆と正月なのだろうか?
「知美さん。ぼくこそ、あなたに相応しい」
 岬平は、逃げた知美をまた抱きしめようとした。
 するり。と、よける知美。
「困ったわ、困ったわ。あたしってば、輝之真さま一筋なのに~ でも岬平さんもカッコいし、滑り止めに取っといた方がいいかしらん」
「滑り止め?」
 TERU。あとで覚えとけよ。と、こめかみに血管を浮き上がらせながら、それでもなおかつ、知美を抱きしめようとする岬平。
 するり。難なくよける知美。
「知美さん!」
 岬平は叫んだ。
「あんた本当は、鼠小僧以上に身が軽いんじゃないですか!」
「へ? なに? なんのこと?」
「うっ。いや、なんでもありません。とにかく、輝之真さまの屋敷に行っちゃダメですよ。いいですね。絶対にダメですからね」
「え~っ。そんなこと言われても、もう約束しちゃったもん」
「ダメなんです!」
「え~っ。約束を破ったらいけないって、おとっつあんに言われてるもん」
「ダメったらダメ!」
「うふふ。岬平さん、ムキになっちゃってカワイイ♪」
 知美こそ、つい、音符マークなど語尾につけたくなる可愛さだった。
「じゃあ、こうしましょ、岬平さん。今夜輝之真さまのお屋敷に行って、輝之真さまが本気じゃないとわかったら諦めるわ。それでいいでしょ?」
「むむう」
 岬平は唸った。
「そんな甘いことでは輝之真の思う壺。ぜったい騙されますって」
「あっ! また輝之真さまのこと呼び捨てにした!」
「いや、こ、これはその……」
「そんな岬平さん、本当に嫌いになっちゃわよ、あたし」
 ぷいっと顔を背ける知美。
「あうううう……」
 TERU、TERU、TERU! あいや、輝之真! きさま、自分の小説だからと言って、やりたいほうだいやりやがってーっ!
 岬平は、他人の小説ではどうにもならない苛立ちを心の中でぶちまけると、深呼吸をしながら、なんとか気を落ち着かせた。
「わ、わかりました。知美さん。それで妥協しましょう。輝之真の野郎…… いや輝之真さまは、絶対に本気じゃないはずですからね」
「そんなのわかんないわよ」
 知美は、まだちょっと怒った顔で言った。
「でも、よかたわ。わかってくれて」
 岬平はじっと耐えた。いまは耐えるしかなかった。
 そうだ。耐えるんだ岬平! 耐えて耐えて、耐え抜くんだ! そして、明日に向かって羽ばたくんだ!
 ここで、画面がコマーシャルに変わった。

 んもう。コマーシャル多いわねえ。と、テレビの前の秋穂がチャンネルを変えた。
 こ、こら秋穂! チャンネルを変えるんじゃない! 戻せ、戻さんか!


..9


 秋穂がチャンネルを戻すと、輝之真が写った。
「というわけで」
 輝之真は、江戸城で医者と会っていた。
「ストレプトマイシンなる薬を、ぜひ手に入れたい所存にござります。先生の方で、なんとか手配できないでしょうか」
「江戸時代にあってはならん薬を、堂々と口に出すとは。おぬしも命知らずじゃのう」
 あごひげがすっかり白くなったジジイの医者は、持っていた袋から紙の包みを出した。
「ほれ。これがそうじゃ。くれてやる」
「えっ。いつも持ってるんですか?」
「秋穂がチャンネルを変えよったが、あれが最後のコマーシャルタイムじゃからな。ぐずぐずしてたら番組が終わるわい」
「ま、待ってくださいよ先生。あれが最後のコマーシャルと言うことは、肝心なシーンがまだ放送されておりませぬぞ」
「なんじゃそれは?」
「女子(おなご)の入浴シーンに決まっておりましょうが。このシリーズを読んでいる男性読者の八十パーセントが、入浴シーン見たさに読んでいるという統計がござりまする」
「いつ、そんな統計を取ったんじゃ!」
「いえ、まあ、それはともかく。入浴シーンがないと時代劇とはいえませぬな」
「むう。それは困ったのう。知美に脱いでもらうか? ちゅうか、これからおぬしが脱がすんじゃないのか?」
「め、滅相もない! お戯れを申されるな!」
「ほっほっほっ。なにを赤くなっておる。ガラでもない。このスケベ」
「先生にはかないませぬな。致し方ない。ここは一つ」
 輝之真は、懐から携帯電話を取り出して、ピポパとダイアルした。
「あ、もしもし。輝之真でござりまする。じつは、かくかくしかじかで、入浴シーンがないのでござりまする。ここは一つ、ぜひご協力を。お、そうですか。やってくださりますか。輝之真、付してお礼を申し上げる所存でござりまする」
 輝之真は、電話を切った。
「こら輝之真」
 と、医者。
「それはなんじゃ?」
「携帯電話でござります。メールもできるのでございますよ」
「わかった。わかったから、はようしまえ。いいかげん、読者に怒られるぞい」

 とたん。画面に靄が立ち込めた。
 カポーン。
 そうやら風呂場のようだった。
「まったくもう」
 菜々姫だった。
「久しぶりに電話してきたと思ったら、風呂に入れとは、困った男じゃ」
 ごしごし。
 菜々姫は、タオルで身体を洗っていた。肝心なところは泡で見えなかった。江戸時代に石鹸はないはずだと、地団駄踏んで悔しがる男性読者のお叱りの声は、受け付けていないのだった。
「なんか、いつも風呂に入ってる気がするのう。わらわは、こういうキャラなのかのう」
 そうです。
「まさか、今回はこれだけなのかのう?」
 そうです。
「このシリーズの主役は、わらわではなかったのかえ。まったく。まあ、ちょっとでも出れたかいいとするかのう」
 菜々姫は、湯船からお湯を汲むと、ザバーッと身体の泡を流した。
 おおお! 見える! と、思った男性読者! ここでガッカリしていただきたい!
 靄が一段と強くなり、菜々姫のシルエットしか見えなかった。
「ふう」
 次のシーンでは、菜々姫は湯船に浸かっていた。
「いいお湯じゃ。やっぱり風呂は檜じゃな」
 くそーっ! と、地団太を踏む男性読者を尻目に、場面は移り変わった。

 善吉の長屋。
「おう、善吉。邪魔するぜ」
「こ、こりゃ、輝之真さま」
 善吉は、輝之真が入ってきて、慌てて布団から出た。
「知美が店に出てますんで、お茶も出せませんで」
「気にするな。さっき旨いお茶を飲ませてもらったばかりだ。それより善吉。おめえこそ、こいつを飲め」
「へ? なんですかそりゃ?」
「胸の病の特効薬だ。マジで効くらしいぞ。明日には治ってるって話だ」
「ほ、本当ですかい?」
「ああ。ほら、早く飲んで知美を喜ばせてやれ」
「ありがたや、ありがたや」
 善吉は、輝之真に手を合わせた。
「輝之真さまは、仏さまでさあ」
「バカ野郎。人を勝手に死体にするな」
「そういう意味じゃござんせんよ」
「わかってるから、早く飲め。放送時間がねえんだ」
「へい」
 善吉は、湯飲みに水を汲んで、薬を飲んだ。
「ん? べつになんてことないですな」
「明日にはよくなってるよ。じゃあな善吉。治ったら仕事に励むんだぞ」
「あ、この薬のお代は?」
「いらねえよ。タダでもらったんだ。おっとそうだ。このことは知美には黙っとくんだぜ。自然と治っちまったことにしときな」
「へ? なんでですかい?」
「これ以上、恩を売るようなマネはしたくねえんだよ。知美のこった、マジで返さなきゃなんて思いかねねえからな」
「へえ。あの子は、そういう娘なんですよ」
「いい娘をもったな。おめえは幸せモンだよ」
「へい。ですが、あの子と結婚する男も幸せモンですよ」
「だろうな」
「そういやあ、輝之真さまは、まだ所帯を持たねえんですかい?」
「まだ考えてないな」
「おっと。そりゃいけねえな。輝之真さまもいい年なんだ。そろそろ考えねえと。いやあ、知美の旦那になるヤツぁ、幸せモンだろうなあ」
「なにが言いたい?」
「べつに。なにも。ただね……」
「ただ、なんだ?」
「知美と遊びで付き合うようなヤツだけは許せねえなあ。そうでしょ?」
「うっ…… そ、そりゃそうだな」
「いやあ、そう言ってくださると思いましたよ。よろしく頼みますよ。輝之真さま」
「な、なにをよろしく頼まれるのか知らんが、心配はいらねえと…… 思うよ。たぶん」
「へえ。あっしは、輝之真さまを信じてますぜ」
「ははは…… はは。そうだね。んじゃ、そういうことで」
 輝之真は、そそくさと長屋を出ていった。


..10


 その夜。
「じゃあね、おとっつあん。行ってきまーす」
 知美は、早くも顔色がよくなってきた善吉に言った。
「おう。ゆっくりしといで。なんなら、朝帰りでもいいぞ」
「や、やだ。おとっつあんたら」
 知美は、ポッとほほを染めた。
「うはは。輝之真さまには、よ~く、言い含めといたからな」
「えっ、なにを?」
「い、いや、なんでもねえよ。とにかく行っといで。夜道に気をつけてな」
「はーい」
 知美は、長屋を出た。
 すると。
「知美さん」
 岬平が外に立っていた。
「あ…… 岬平さん」
「やっぱり行くんですね」
「ねえ岬平さん」
 知美は、ちょっと困った顔で言った。
「そのことは、さっきお店で解決したはずよね?」
「そりゃそうだけど…… やっぱ心配だよ。あいつ、ぜったい知美さんを泣かすね。ぼくにはわかる」
「どうでもいけど岬平さん。さっきから、自分のこと『おいら』じゃなくって『ぼく』って呼んでるわね。江戸時代じゃ変よ、その呼び方」
「おいらなんて、性に合わねえ。と、それはともかく。やっぱり行っちゃダメだ」
「岬平さんの気持ちはうれしいけど…… あたしの気持ちもわかってよ」
「そ、それを言われると……」
「じゃあ、行くわ。ごめんね」
 知美は、岬平から逃げるように、輝之真の屋敷に向かった。
「知美さん」
 岬平は、その後ろ姿を見ながらつぶやいた。
「やっぱり、あなたはぼくが守らないといけないようだね」
 TERU。いや、輝之真。いよいよ、対決のときが来たようだな。
 岬平の心に、メラメラと熱い炎が燃え上がった。
 ふふふ。いつまでも、おまえの都合のいい物語だと思ったら大間違いだぞTERU。いや、輝之真! 知美さんは、ぼくが守る!
 岬平は、懐から頭巾を出すと、頭にかぶった。そして、ぴょーんと長屋の屋根にジャンプした。

 一時間後。

 輝之真は、ほのかな幸福感と、多少の不安を感じながら、上座に座っていた。
「はい。輝之真さま♪」
 知美が、あったかいご飯の入った茶碗を輝之真に渡した。
「おう。ありがとう」
 輝之真は、茶碗を受け取りながら思った。なんだか、マジで新婚夫婦みたいじゃないかと。ヤバイんじゃないかと。でも、ちょっと幸せかもと。
「たんと食べてくださいね。腕によりをかけて作ったんですよ」
「旨そうだな」
 輝之真は、目の前のアジの干物に箸をつけた。
「おお。これは美味しい」
「やだわ、輝之真さまったら。それは焼いただけですよォ。煮物を食べてくれなきゃ」
「どれどれ」
 煮物を口に運ぶ。
「むむっ。これは本当に美味しいぞ!」
「うふ。うれし♪」
 知美は、語尾に音符がつく可愛さでほほ笑んだ。
「なんだか、きのうからいいことずくめで怖い感じです」
「いいこと? なにかあったのかい?」
「だって、岬平さんのおかげで店も開けられたし、さっき家に帰ったら、おとっつあんの顔色がすごくいいんですよ。本当に春になったら治っちゃうかも」
「ちゃんと仏さんは見てくれてるんだよ。知美を不幸にするわきゃねえ。親父さん、明日にも治ってるかもしれねえよ」
「だったら、また、おとっつあんと店ができますね」
「できるとも。それより知美。おめえも食ったらどうだ」
「いいんですか?」
「あたりめえだろ。おめえが作った料理だぞ」
「でも…… お武家さまって、女子(おなご)とは、一緒に食事をしないんじゃないですか?」
「戦国時代じゃあるめえし、そんな時代錯誤なやつはいねえよ」
「よかった。じゃあ遠慮なく」
 知美は、煮物を食べた。
「うん。われながらいい出来」
「ははは。知美は、いい奥さんになるだろうな」
 ピクリ。と、知美の眉が上がった。
「あのォ。輝之真さま」
「なんだ?」
「輝之真さまは、ご結婚なさらないんですか?」
「ゲホゲホ。な、なんだよ急に」
「だって、菜々姫さまとの話しも進んでないみたいだし……」
「ん。まあ、姫さまとはいろいろあってな」
「結婚する気はあるんですかァ?」
「うーん。難し質問だな。菜々姫さまと結婚したら、このシリーズも終わっちまうしなあ。やっぱ、無理なんじゃねえかなあ」
「きゃっ♪ じゃあ、江戸の女子にもチャンスはありますね!」
「ははは。そうかもな」
「うんうん。やっぱり江戸っ子は江戸っ子と一緒にならなきゃダメですよ」
「そうか?」
「そーですよ。ほら。あたしみたいなチャキチャキの江戸っ子なんてどうですか?」
「おめえなら、江戸っ子じゃなくたって、引く手あまただろうに」
「もう。すぐそうやって誤魔化すんだから」
 知美は、ぷっとほほを膨らませた。
「輝之真さま。あたしさっき、岬平さんにプロポーズされたんですよ」
「な! なんだと!」
「どうしようかなァ。輝之真さまがそんなこと言うんじゃ、やっぱり岬平さんがいいかなァ」
「いかーん! あいつはいかん。断じていかん!」
「えーっ。でもォ。そんなこと言ってたら、あたし行き遅れちゃうわァ」
 知美は、ちらりと輝之真を見た。
「そしたら、責任取ってくれますぅ?」
「うっ。そ、それはその…… ははは。どうしましょう?」
「もう! やっぱり輝之真さまは本気じゃないのね! いいわ。岬平さんのプロポーズを受けちゃう!」
「待て待て待て! ちょっと待て! しばし待て! あいやしばらく!」
「待ったらどうするんですか?」
「むむむっ。少し考えさせてもらえる?」
「少しってどれくらい?」
「いやね、ほら、わたしもいろいろと難しい問題を抱えてるわけよ。菜々姫さまもそうだけど、お喜美のこともあるしさ」
「過去の女を清算するんですね」
「あはは…… 国鉄清算事業団より難しいかも」
「あたしわかったわ」
 と、知美。
「輝之真さまって、女の子に優しすぎるんです。だから、あっちもこっちもってなっちゃうんだわ。早く所帯を持って、そういう悪循環を断ち切らなきゃ!」
「あ、悪循環なのかなあ……」
「悪循環です! あたし決めた!」
「な、なにを?」
「輝之真さまが、いろんなしがらみで所帯を持てないなら、そんな、しがらみなんか関係ない女が、押しかけてくればいいんです」
「お、押しかけるぅ?」
「そう! 名付けて、押しかけ女房作戦! 広辞苑にさえ載っている超有名な女の最終兵器ですよ。あ、違うか。最終兵器は、『あたし出来ちゃったの作戦』の方ね」
「うむ。たしかに。じゃなくってだな! と、知美、待て。早まるな」
「いいえ、待ちませぬ。思い込んだら一直線。『ケインとラニー』のラニーだってこの方法でケインの奥さんになったんだもの!」
 知美は、座布団から降りて、輝之真に三つ指をついた。
「というわけで、輝之真さま。不束者ですが、これからよろしくお願いいたします」
 たら~っと、輝之真の額から冷や汗が流れたそのとき。
「ちょっと待った!」
 天井裏から叫ぶ声があった。
「な、何やつ!」
 輝之真は、とっさに床の間に置いた村正を手にとった。
 パカンと、天井の板が開いて、頭巾をかぶった男が降りてきた。
 鼠小僧だった。
「鼠小僧!」
「きゃーっ!」
 知美は、慌てて輝之真の背中に隠れる。
「むむう」
 と、輝之真は村正を抜きながら言った。
「いかに、知美とのディンジャラスなカンバセーションに気を取られていたとはいえ、わたしに気づかれずに天井裏に忍び込むとは、侮れんヤツ」
「けっ。てめえに気づかれないように気配を消すなんざ、赤子にだってできらあ」
「秋穂は出来んぞ」
「うっ。まあ、あいつは、ほら特殊だから。じゃなくって! 知美さんをたぶらかすことは、お天道さまが許しても、この鼠小僧が断じて許さねえ!」
「たぶらかしてなんかないわい!」
「そうよ、そうよ!」
 知美が、輝之真の背中から、ぴょこんと顔を出した。
「輝之真さまは、そんなことしてませんよーだ!」
「ああ」
 鼠小僧は、めまいを感じたように首を振った。
「知美さん。かわいそうに。すっかり洗脳されて。ぼくがあなたを救って差し上げる」
「ちょっと待て」
 と、輝之真。
「さっきから聞いてりゃあ、まるでわたしが悪党のような言いぐさ。今回、オレ、なんか悪いことしたか?」
「した」
「いつ? オレは知美の窮地を救っただけじゃねえか。そうだよな知美?」
 輝之真は、背中に隠れる知美に聞く。
「そうですよ。輝之真さま、いつにも増してカッコよかったわ」
「ほら。ご本人もそう言ってるぞ」
「きーさーまー」
 鼠小僧は、こめかみに血管を浮き上がらせながら言った。
「知美さんが気弱になったところをいいことに、乙女心をくすぐる甘言の数々を忘れたとは言わせねえぞ!」
「あら」
 と、知美。
「そんなの、いつもの輝之真さまじゃない。女の子に甘い言葉をかけなくなったら輝之真さまじゃなくなっちゃうわ。ね、輝之真さま」
「うむ。素直にうなずけんが、まあ、そうかも」
「というわけで」
 知美は鼠小僧に言った。
「なんだかよくわかんないけど、あんたなんかお呼びじゃないわよ。さっさと奉行所に自首しなさい」
「うぎゃーっ!」
 鼠小僧は地団太を踏んだ。
「これだから、TERUの小説に出るのはイヤだったんだーっ! こうなることはわかってたんだーっ!」
「なんか、わけのわからんことを叫んでるぞ。TERUってだれだ知美?」
「さあ? だれでしょうねえ? やっぱり、春だから、こういう人が出てきちゃうんですねえ。くわばら、くわばら」
「ううううっ。ひでえ。そこまでボケるのかよ、おめえらは」
「今度は泣いてるぞ」
「春ですねえ」
「だーっ! いいかげんにしねえか!」
 鼠小僧は、懐に手を入れた。
「もう、容赦しねえ! 覚悟しやがれ輝之真!」
「むっ」
 輝之真は村正を構える。
 すると、鼠小僧は懐から四角く平べったい物を取り出して輝之真に投げつけた。
「バカめ! そんなもので!」
 輝之真は、空中に舞うそれを切り裂こうとした。だがそれは、最近赤丸上昇中のグラビアアイドル『MEGUMI』のセクシーショット写真集だった。
 はっし! と、無意識に、空中で写真集をつかんでいる輝之真。
 しばしの間。
「輝之真さま……」
 ジトッと輝之真を睨む知美。
「はっ」
 輝之真は、われに返った。
「わ、わたしは、なにをしているのだ」
 とか言いながら、しっかり写真集を抱えている輝之真。
「わーっはははは!」
 鼠小僧は高笑いを上げた。
「それが、てめえの本性よ! ほれほれ、まだあるぞ!」
 鼠小僧は、続けざまに、眞鍋かをり写真集と、モー娘写真集を投げつけた。
 だが。
 ズバッ、ズバッ! と、輝之真は、写真集を切り裂いた。
「えーい! 二度も引っかかるか!」
「ふふふ。じゃあ、こいつはどうかな。ジャーン! ピンクレディ写真集だ!」
 鼠小僧は、ピンクレディ写真集を投げつけた。
「うわーっ! か、身体が勝手に!」
 輝之真はピンクレディ写真集に飛びついた。彼の年代の男であれば致し方ない生理現象であった。
 鼠小僧は、その隙に知美をひょいと背負い上げた。
「キャーッ! 輝之真さま、助けてーっ!」
「あ、てめえ、卑怯だぞ!」
 ピンクレディ写真集を大事そうに抱える輝之真が叫んだ。
「そんなもん抱えて、説得力がねえよ!」
 と、鼠小僧は、知美を背負ったまま、障子を突き破って庭に出ると、ピョンと天井に飛び上がった。
「あばよ! 知美さんは頂いていくぜ!」
「ま、待ちやがれ!」
 輝之真も、慌てて庭に出たが、抱えていたピンクレディ写真集をちらっと見た。
「ま、ちょっとだけ」
 輝之真は、でれっとした顔で、写真集を開いた。
 だがそれは、表紙だけピンクレディ写真集のカラーコピーが貼ってある『月刊サブ(ホモ雑誌)』だった。
「うぎゃあああああーっ!」
 江戸の町に輝之真の悲鳴が轟いたのだった。


..11


「くっくっくっ。バカめ」
 鼠小僧は、知美を背負いながら屋根の上を走っていた。そのとき、輝之真の悲鳴が聞こえたのだった。
 ところが。
「ああ、輝之真さまが、あたしを奪われて嘆いてらっしゃるわ!」
 大きな誤解をする知美だった。
「いや、知美さん。そりゃ違うんですよ」
 と、鼠小僧が真相を明かそうとしたとき。
「バカバカバカ!」
 知美は、鼠小僧の背中を叩いた。
「なによあんた! なんで、人の恋路を邪魔するのよ! あんたなんか、馬に蹴られて死んじゃえ!」
 暴れる知美。
「う、うわっ! 背中で暴れちゃダメだってば!」
「バカバカ! あたしを奪いたいなら、正々堂々と輝之真さまと剣で勝負しなさいよ!」
「おっと。そいつは出来ねえ相談だぜ。あのバカ野郎、ドがつくスケベだけど、剣の腕だけはたしかだからな」
「ふん。鼠小僧なんて、しょせんそんなものだったのね。輝之真さまなんて、どんな強敵にだって立ち向かう勇者なのよ。あんたなんか、ただの臆病者だわ!」
「くっ…… TERUの野郎。そこまで知美さんに言わせるか。良心の呵責というのはないのか、あの男には」
 そのセリフは、そっくり岬平に返したい作者だった。
「バカーッ! 離せーっ! 人殺しーっ!」
「だれが人殺しですか! ぼくは義賊ですよ!」
「バカバカバカ!」
 聞く耳持たない知美は、背中で大暴れした。
「うわっ! だから、暴れちゃダメだってば!」
 さしもの鼠小僧もバランスを崩した。
 グラッ。
「やばい!」
 鼠小僧は、背中からずり落ちそうになる知美をとっさに支えた。
「あ! 乙女の胸に触った!」
「わわっ、すまねえ!」
 鼠小僧は、思わず手を離した。
「キャーッ!」
 知美は屋根から落ちた。
 そのとき。
「うい~っ」
 と、いっぱい引っかけてきた邦四郎が屋根の下を歩いていた。
「いやーっ!」
 女の悲鳴。
「お?」
 邦四郎が赤ら顔で上を見ると、知美のお尻が目の前にあった。
「どわーっ!」
 さすがの邦四郎も、よける間もなく、顔面に知美のお尻が当たった。
 ドシン。むぎゅっ。と潰れる邦四郎。
「あいたたたっ」
 知美は、思わずお尻をさすったが、邦四郎がクッションになって怪我はなかった。
「こらーっ!」
 と、邦四郎は、鼻をさすりながら怒鳴った。
「知美! てめえ、断りもなく人の顔面にタッチダウンするたあ、どういう了見だ!」
「あ、邦さん!」
 と、知美。
「いいところに! 助けてください! かくかくしかじかなんです!」
「わかるか、そんな説明で!」
 知美は、本当にかくかくしかじかと言ったのだった。
 すると。鼠小僧が、スタッと猫のようにしなやかな動きで降りてきた。
「あんたにゃあ、関係のない話しだよ。邦四郎さんとやら」
「おっと」
 邦四郎は、とっさに知美を背中に隠した。
「なんだか、よくわからねえが、てめえが話題の鼠小僧かい。小判だけじゃなく、女も盗もうたあ、捨ておけねえな」
「ちっ」
 鼠小僧は舌打ちした。
「あんたに恨みはねえが、知美さんを返してもらわねえと、ちいと、痛い目を見ることになるぜ」
「おめえ、オレを天下の矢島邦四郎と知って言ってるのかい? 痛い目を見るのはどっちか試してみようじゃねえか」
「ふん。酔っぱらいが戯れ言を」
 鼠小僧は邦四郎に飛び掛かった。
 だが、邦四郎は、知美をかばいながら鼠小僧をよけた。だが、ふらっ。と足元がもつれて転びそうになった。
「ありゃりゃ」
 鼠小僧は、転びそうになる邦四郎に殴り掛かった。
「おりょりょ」
 また足がもつれて、うまい具合に鼠小僧の拳をよけた。
「こいつ!」
 鼠小僧は、邦四郎に蹴りを入れた。
「はりゃりゃ」
 邦四郎は、また足がもつれて、またまたうまい具合に、鼠小僧をよけた。
「酔拳か!」
 鼠小僧は、邦四郎が酔拳まで使えることに驚いた。
 だが。賢明な読者はお気づきだろうが、邦四郎はただの酔っぱらいだった。鼠小僧も、驚いた次の瞬間、それを知った。
「ありゃりゃりゃりゃ」
 邦四郎は千鳥足でふらつくと、後ろにあった質屋の看板に頭をぶつけた。
 ゴーンと、いい音。
「いっ…… 痛てえ……」
 頭を抱えてうずくまる邦四郎。
「なんだよ。やっぱ、ただの酔っぱらいか。脅かすんじゃねえよ。じゃあな、あばよ」
 鼠小僧は、知美を背負って走り去った。
「ばかーっ! 邦さんの役立たずーっ!」
 知美の声だけがこだました。
 そこへ、輝之真が駆けつけた。
「むっ! どうした邦四郎! まさか鼠小僧に!」
「あたたた。バカ野郎。だれがあんなガキにやられるか。質屋の看板に負けただけだい」
「ん?」
 輝之真は、まだぶら~んぶら~んと揺れる質屋の看板を見て事態を悟った。
「そっちの方が、よほど情けないわ、バカタレ。まあいい。鼠小僧はどっちに逃げた?」
「汐留(しおどめ)の方だ。とっとと行け、輝之真。見失うぞ」
「うむ。行き先を教えてくれた礼に、これをくれてやろう」
 輝之真は、ピンクレディ写真集を邦四郎に押しつけた。
「じゃあな」
 輝之真は、汐留に向かって走った。
「な、なんだよ、あいつ。たまにはいいことするじゃんか。うはーっ、ピンクレディの写真集だ。超レア物じゃねえかよ!」
 邦四郎は、写真集をペラペラとめくった。
「うぎゃあああああーっ!」
 邦四郎の悲鳴が江戸の町を切り裂いた。


..12


「ふう、ふう……」
 鼠小僧は、汐留の船宿の前までくると、知美を下ろした。知美を背負って走り続け、さすがに息が上がっていた。
「こ、ここまでくりゃあ、輝之真も追って来れまい」
「あ、あたしをいったいどうするつもり?」
 知美は、恐る恐る聞いた。
「はっ…… まさか、船宿のゴロつきに売り飛ばすつもりじゃあ……」
「そんなことするわけないでしょ!」
「じゃあ、なんで、あたしをさらうのよ」
「輝之真のバカ野郎から、可憐な乙女を守るためです」
「あら、可憐な乙女だなんてそんな…… その通りだけど。じゃなくって! 輝之真さまはバカ野郎なんかじゃありません!」
「あなたはわかっていない。あいつはドがつくスケベです。もう果てしないスケベです。悪の権化です。女の敵です。ああ、汚らわしい」
「そ、そりゃ、ちょっとはスケベかもしれないけど、輝之真さまは正義の味方よ。あんたみたいな盗人とはわけが違うわ」
「ああ、騙されてる。あなたは騙されてます。輝之真にこれ以上関わると、絶対に泣かされますよ。その点、ぼくなら、あなたを幸せにできる」
「なんか、岬平さんみたいなこと言うわね、あんた」
「ギクッ。いや…… そろそろ、いい頃合いかもな」
 鼠小僧は、自ら頭の頭巾に手をかけた。
 そのとき。
「鼠小僧!」
 輝之真だった。
「ふう、ふう、はあ、はあ…… やっと追いついたぜ」
 輝之真も息が上がっていた。
「輝之真さま!」
 知美は、とっさに輝之真に駆け寄ろうとした。
「ダメだ!」
 鼠小僧は、知美の腕をつかむ。
「行っちゃダメだ! きみは、あんなスケベ野郎の物になっちゃいけない!」
「なによ、なによ! そんなの、あたしの勝手でしょ! 離してよ!」
「ダメったら、ダメなんです!」
「見苦しいぞ、鼠小僧」
 と、輝之真。
「女に手を出すたあ許せねえ。ちったぁ骨のあるヤツだと思ったが、とんでもねえ見込み違いだったぜ」
 輝之真は、スラリと村正を抜いた。
「罪を憎んで人を憎まずとはよく言うが、きさまのような悪党には十手無用。せめて最後ぐれえ、マジメに地獄に行きやがれ!」
「きゃーっ。カッコいい!」
 知美が、黄色い声援を送る。
「ちょいと、どっかの時代劇のパクリっぽいけど、かっちり八時四十五分に決めゼリフを言うところが、さすが輝之真さまだわァ」
 どうやら、時代劇シリーズも三回を迎えて、ついに輝之真にも決めゼリフができたようであった。
「ちっともカッコよくないわい!」
 鼠小僧は、知美の腕をぐいと引っ張り、そのままひょいと背負うと、猿のような身軽さで、船宿の屋根に飛び乗った。
「ううむ。つくづく高いところの好きなヤツ。バカと煙はなんとやらだ」
 輝之真も、屋根に飛び乗る。
「ちっ」
 鼠小僧は、執拗に追いかけてくる輝之真に舌打ちをうった。
「しつけえなあ。さすが江戸一番の好色男。女のこととなると、すげえ執念だ」
「そのセリフ、そのまま、きさまに返してやる。だが、いったいなぜ、そこまで知美にこだわる?」
「そうよ、そうよ!」
 知美も鼠小僧の背中で叫んだ。
「あんたなんかと、会ったこともないのに、なんでこんなことするのよ!」
「ふっ。それがそうじゃねえんだよ」
 鼠小僧は、知美を背中から降ろした。
「知美さん。まさか、この顔をお忘れじゃねえでしょね」
 鼠小僧は、頭巾を取った。
 現れたのは、二目と見られない醜男…… じゃなくて、岬平だった。
「なっ……」
 知美は絶句した。
「やっぱりな」
 と、言ったのは輝之真だった。
「そうじゃねえかと、薄々感じちゃあいたが、思った通りだぜ」
「ふふん。全部お見通しだったってか。その割には、後手後手に回ってるじゃねえか」
「疑わしきは罰せず。だが遊びは終わりだ。知美を離さなければ、本当に刀の錆にしてくれるぞ」
「岬平さん……」
 知美は、やっと言葉を発した。
「そんな…… 岬平さんが盗人だったなんて……」
「騙すようなマネをしてすまねえ」
 と、岬平。
「おいら、江戸の人々がお上の圧政に苦しんでるのを見てられなかったんだ。それだけじゃねえ。知美さんが、あのスケベ野郎に騙されるのも見てられなかった」
「嘘つけ」
 と、輝之真。
「てめえだって、ただの女好きだろうに」
「うるせえよ、外野。いま、知美さんを口説いてるところなんだから静かにしてろ」
「うわ、むかつく~ 盗人猛々しいとはこのことだな」
「ふん。勝手に言ってろ。というわけで知美さん」
 と、岬平。
「一目見たときから、あなたの美しい瞳と、優しい心に惚れました。あんなスケベ野郎は忘れて、ぼくと暮らしましょう。きっと幸せにします」
「ダ、ダメよ……」
 知美は顔を伏せた。
「そんなことできないわ」
「なぜです? ぼくが盗人だからですか? 大丈夫。江戸じゃあ暮らせませんが、尾張に戻れば追われることもない。親父さんも呼んで、仲良く暮らしましょう。ね」
 岬平は、知美を抱きしめようとした。
「ダメ!」
 知美は、ぐいと岬平を押し退ける。
「岬平さんが盗人だとわかっても、あなたが優しい人だと信じてる。でもダメなの。あたしは江戸が好きだし…… それに、輝之真さまが好きなんだもの!」
「よっしゃ!」
 輝之真ガッツポーズ。
「聞いたか岬平! きさまがどうあがこうと、この輝之真にはかなわないのだ!」
「くそっ!」
 岬平は、輝之真を睨んだ。
「こうなったら仕方ねえ。輝之真、勝負だ!」
「なぬ? きさま、この期に及んで」
「えーい、うるさい! 力ずくで知美さんを奪ってやる!」
 岬平は、懐から小刀を取り出した。
「いざ、勝負!」
 すると。
「バカ!」
 知美が、岬平のほっぺたを、ビターンと叩いた。
「と、知美さん……」
 岬平は、叩かれたほほをさすった。
「本当にバカよ、あなた」
 知美は、その美しい瞳に涙を溜めた。
「輝之真さまに勝てるわけないじゃない。それは、岬平さんが自身が一番よく知っているはず。女に振られたぐらいで死に急ぐなんて、大バカよ」
「そんなんじゃねえ。万が一にも輝之真に勝てるかも知れねえ」
「勝てるわけないじゃない! お願い。あたしのために死のうなんて思わないで!」
 知美の瞳から、涙がつたい落ちた。
「うっ……」
 岬平は、知美の涙を見て、小刀を落とした。
「すまねえ知美さん…… おいら、頭に血が登っちまってたようだ。ははは。まだまだ、知美さんに相応しい男じゃなかったってことだな」
「そんな…… 岬平さんは、いまでもいい男よ。ただ、輝之真さまには、ちょっと負けてるってだけ」
「ふふ。そうだな」
 岬平は、苦笑いを浮かべると、輝之真と向かい合った。
「やい、輝之真。今回は、てめえに花を持たせてやるぜ。だが、つぎもてめえが勝つとは思うなよ」
「つぎ? つぎもあるのか?」
「あたりめえだ! 半年。半年だ。必ずてめえを超える男になって江戸に戻ってくる。それまで首を洗って待ってやがれ!」
「うわぁ。自分勝手なヤツ」
「うるせえ。知美さん。半年待ってください。そんとき、もう一度、あなたの気持ちを聞きます。いいですね。これから半年間、絶対に輝之真のモノになっちゃまったらダメですからね!」
「え? え、ええ」
 知美は、思わずうなずいてしまった。
「約束だぜ。じゃあな、あばよ!」
 岬平は、船宿の屋根から、川に向かって飛び込んだ。
 ボチャーン。
「あ、あの野郎……」
 輝之真は、一瞬、自分も飛び込もうかと思ったが、春とはいえ、まだ肌寒い季節。あんな野郎のために風邪でも引いたらバカバカしいと、思い止まった。
「ったく。なんだったんだよ。人騒がせな盗人だぜ」
「輝之真さま」
 と、知美。
「どうしよう。あたし、思わず岬平さんと約束しちゃった」
「あ? ああ、半年待つってやつか。べつに盗人との約束なんか気にする必要は……」
 輝之真は言いかけて、ふと、岬平が現れる前の『押しかけ女房作戦』を思い出した。
「そ、そうだなあ。ははは。約束は破っちゃいけねえよな。うははは」
「輝之真さま」
 知美は、ジトッと輝之真を睨んだ。
「じつは、ホッとしてません?」
「ま、まさか。なにを言うか。あー、残念だ。うー、残念だ。はあー、残念だ」
「輝之真さま」
 知美は、ちょいちょいと、手を振って輝之真が近づくように呼んだ。
「なんだよ?」
「こうするんです」
 知美は、顔を寄せた輝之真のほっぺたに、チュッとキスをした。
 一瞬、ポワワ~ンとなる輝之真だったが、知美の言葉でわれに返った。
「うふふ。つばつけた。これで輝之真さまは予約済みですよ」
「よ、予約済みだとぉ?」
「そうです。これから半年間、輝之真さまが浮気しないように、キッチリ監視しますからね。ああ、なんかニムちゃんの気持ちがわかった気分だわ」
「あ、あのね、知美。いや、知美さん。それはちょっとどうだろうか」
「どうもこうもありませぬ。どうか、お覚悟を」
 そう言って知美は、にっこりと笑った。
「たははは」
 輝之真は、情けない顔で笑った。べつに竜一の気持ちはわかりたくなかった。


 エピローグ


 行きつけのそば屋、長寿庵。
「うふふ」
 知美が、輝之真の隣に座ってニコニコしていた。
「うれしいなあ。あたしもとうとう、このシリーズの、レギュラーキャラですね」
「ちょとォ」
 と、お喜美。
「レギュラーはいいけど、知美ちゃん、輝之真さまにくっつきすぎ」
「えーっ。だって、輝之真さまはもう予約済みだもの」
「予約だけでしょ。売約済みじゃないんだから、くっついちゃダメ」
「ごめんね、お喜美ちゃん。でもほら、これがあたしのキャラだし。ね、輝之真さま」
「たはは」
 輝之真は、相変わらずな情けない顔で笑った。
「まいったねこりゃ」
「おい、輝之真」
 と、邦四郎。
「おめえ、いよいよ身を固めねえと、このシリーズが進めば進むほど、ド壺にハマっちまうぞ。まあ、おもしれえからいいけど」
「そうそう」
 と、お清も笑った。
「輝之真さまから女好きを取ったら、おもしろくないもんねえ」
「おもしろいって問題じゃねえだろ、おまえら」
 輝之真が言うと、知美が加勢した。
「そうですよ。輝之真さまから女好きを取ったら、きっと奥さん想いの優しい旦那さんになるわ。邦さんみたいに。そうでしょお清姉さん」
「え? そ、そうねえ……」
 お清は、自分の亭主を見た。
「ま、そのおかげで、うちの人は主役の座から落ちたって噂もあるけどね」
「うるせえ」
 と、邦四郎。
「そのうち、オレが返り咲いてやるからな。覚悟しろよ輝之真」
「ふん。てめえなんかに主役が勤まるか。わたしがいるからこそ、このシリーズが三回も続いたのだ」
「そうそう!」
 と、知美。
「次回の『お江戸ざんまい』は、あたしたちの祝言から始めましょうね」
「さてと……」
 輝之真は立ち上がった。
「そろそろ、仕事に戻らねば」
「あ、すぐそうやって逃げる!」
「じゃあな、あばよ!」
「ちょっとォ、輝之真さま!」
 知美は、出て行く輝之真を追いかけた。
 静かになったところで邦四郎が言った。
「なあ、お清。ホントに続くと思うかい?」
「さあねえ」
 お清は苦笑した。
「でも、輝之真さまの困った顔見るのって、意外と楽しいわね」
「そりゃ言える」
 うひひと笑う邦四郎。
「掲示板で、このシリーズの人気が高けりゃ、TERUとかいう作家も、続きを書かねえわけにはいくまい。というわけで、ご意見、ご感想を待ってるぜ。じゃあな」

 ここで幕が閉じた。

 天下太平、小春日和の江戸の空。今日もお江戸は大騒ぎ。

 ちゃん、ちゃん。(終わり)





 あとがき

 なお、この物語はフィクションです。登場人物諸氏は実在の個人とはなんの関係もありません。万が一、だれかと混同するような表現がありましたら、その責任は、登場人物諸氏にではなく、著者の力不足にあります。