ラバーズ

 1


 穏やかによく晴れた、四月の午後だった。すっかり暖かくなった風が肌に心地いい。
 藤崎理恵(ふじさきりえ)は、日比谷公園の噴水広場のベンチに腰掛けて、読書をしていた。いや、それは読書ではなかった。理恵は、物理学の教科書を見ながら、懸命にノートをとっている最中だった。
「うーっ。難しい」
 理恵はうなった。
 そのとき。
「あのう、藤崎さんですか?」
 理恵は、ふいに声をかけられて、顔を上げた。
 そこには、若い女性の二人連れが立っていた。
「はい、そうですよ」
 理恵は、にっこりとスマイルを浮かべた。
「きゃーっ」
 と、女の子たちが黄色い声をあげた。
「地味なカッコしてても、やっぱりキレイですねえ」
「ありがとう」
 理恵は、やはりスマイルで答えた。理恵は女優だった。
「あの、あたし」
 と、女の子。
「矢島智子シリーズ大好きなんです。これからも、がんばってください」
 そのシリーズは、理恵が若き物理学者に扮するテレビドラマだった。物理学者の矢島智子が、論理的思考で、殺人犯人を割り出すという趣向のミステリドラマだ。かなり人気があり、こんど映画にもなる。
「それって、矢島智子シリーズの台本ですか?」
 女の子が、理恵の読んでいる、数式が並んだ本を見ながら言った。
「いいえ」
 理恵は、首を振った。
「あたしの、彼氏の仕事を理解するために勉強してるのよ」
 理恵は、ある男性と付き合っていることを、一ヶ月前に記者会見で明らかにしたばかりだった。その彼氏こそ、本当の物理学者だった。
「へえ」
 女の子が感心した。
「恋人のために勉強するなんて、すごいわ」
「そんなことないわ。好きになった彼氏がサッカー好きだったら、サッカーに興味のなかった子もサッカーが好きになるでしょ? それと同じよ。ただ、物理学って難しすぎるのが玉にきずだけど」
「あはは。そうですね。でもなんか、藤崎さんも、ふつうの女の人なんだなって思えて親近感沸いちゃうかも」
「うん。ふつうの女よ」
 理恵は、うなずいた。
 女の子は、バッグから手帳を出して言った。
「あの、サインいただけませんか?」
「いいわよ」
 理恵は、持っていたペンで、女の子の手帳にサインした。
「ありがとうございます! こんど矢島智子シリーズが映画にもなるんですよね。すっごく期待してますから、がんばってください」
「ありがとう」
 理恵は、笑顔で答えながら、その映画を撮り終わったら、女優を引退するつもりだということは口に出さなかった。そう。本当にふつうの女になるんだ。やっと。
 女の子たちが去っていくと、理恵は、ふたたび勉強に戻った。
「えーと」
 ノートをめくる。
「真空偏極のループに流れるエネルギーをぜんぶ積分したら無限大になるけど、電荷の無限大をくりこんじゃえば、陽電子と電子の反応確率を有限にできる…… あ、なるほど。電荷のエネルギーが定数だと思うからいけないのね。ふむふむ。ちょっとインチキ臭い気もするけど、発想の転換ってヤツだね。物理学者ってすごいこと考えるなあ」
 やっと量子場のくりこみ理論まで理解できた。長い道のりだった。もともと頭の悪いほうではなかったが、二十代も半ばにさしかかってからはじめた物理の勉強は、挫折の連続だった。それから二年。二十七になったいまも、毎日物理学と格闘している。しかも先はまだまだ長い。
 あたしって、けなげよね。
 理恵は、ノートをとる手を休めて、ひとり苦笑を浮かべた。好きになった男のために、どこかの宇宙人が書いた呪文としか思えない、物理の教科書を読めるようになっちゃったんだから。そういえば、次元解析の暗算ができるようになるまで、一週間も特訓したこともあったなあ。直也は、次元漬けだねって、笑ってたっけ。よく言うわよね。あなたの助手になってあげたくて、こーんなに勉強してる、美人の恋人に対してさ。
 井上直也(いのうえなおや)。理恵は、心の中で、恋人の名をつぶやいた。ホント、変な人を好きになっちゃったなあ。じつは、ただのマッドサイエンティストだったらどうしましょう。
 理恵は、苦笑しながら腕時計を見た。もうじき、一時半だった。
「今日は時間どおり来るかしら」
 理恵は、公園の入り口のほうを見ながらつぶやいた。
「まったく。時空を相手にしてる物理学者のクセに、デートには遅れてくるんだから、直也にも困ったものよね。十分以上遅れたら、今日のデートは、ぜんぶあいつのオゴリね」
 ところが。
 その日は驚くべきことが起こった。約束の時間には、まだ五分も早いのに理恵の待ち人の姿が見えたのだった。
「わぉ。どういう風の吹き回しかしら」
 理恵は、少し驚きながらも、うれしそうに、教科書とノートをバッグにしまった。デートのときくらい、物理の――研究の――話はしないようにしようねと、提案したのは理恵のほうだったからだ。
 井上直也は、理恵の高校時代の同級生だった。だが、高校時代、理恵は直也のことをほとんど知らなかった。すごく頭がいいことは知っていたが、それだけだった。
 理恵はクスッと笑った。まさか、直也と再会するなんて思ってもいなかったし、まして、彼のこと、こんなに好きになっちゃうなんてねえ。いまではもっと早く、そう、高校時代に彼の魅力に気がついていたら、人生を遠回りしなくてすんだのにって後悔してるぐらいだもの。ホント、人の人生なんてわからないものだわ。
 そんなことを考えながら、近づいてくる直也を見ていると、直也も、理恵に気づいて軽く手を振った。
 理恵は、笑顔を浮かべて立ち上がった。うふふ。時間どおり来たご褒美よ。とびっきりの笑顔をプレゼントしてあげる。ファンにも見せたことのない、本当のあたしの笑顔。直也にだけなんだからね。
 そのとき。
 理恵の座っていたベンチから、三つ離れたベンチに座っていた男が立ち上がった。春にしては厚いコートを着て、野球帽を目深にかぶった男だった。理恵も直也も、その男のことなど気にもとめなかった。
 二分後までは……
「お待たせ!」
 直也が駆け寄ってきた。
「ふう。今日は遅れなかったよ」
「えらい、えらい」
 理恵は、満面の笑みを浮かべた。
「いつもの二倍ぐらい笑顔を浮かべてまーす。どう、あたしカワイイ?」
「うん」
 直也は、理恵を見つめた。
「カワイイよ。本当に。いつ見ても、ドキッとしちゃうよ」
「な、なによ。照れるじゃない」
 理恵は、冗談でかわされると思っていたので、直也の言葉にちょっと顔を赤らめた。
 すると、直也も照れくさそうに言った。
「あの、その…… えっと、なんか、言いにくいんだけど」
 そのとき。理恵の目に、コートの男が映った。直也の背後に、ぬっと立っていた。
 つぎの瞬間。
「うっ……」
 直也がうめいた。
 コートの男が、直也の背中に包丁を突き刺していた。一度ではなかった。狂気に駆られたように、男は直也を包丁で刺した。何度も、何度も。
 理恵の時間が止まった。彼女は、映画のスローモーションを見ているように、愛する男が倒れる姿を見ていた。


 2


 それから半年後……


 その夜。
 ガレージのような小さな町工場に、カチャカチャと、金属が触れ合う音が聞こえた。音の原因は理恵だった。彼女は、巨大なドーナツのような形をした機械に、ボルトを取り付けていた。そのドーナツ状の機械の輪の大きさは、大人が二、三人入れそうなぐらいだった。小さな工場の中は、その機械でほとんど占領されていた。
「これでよし」
 理恵は、ホッと息を吐くと、ジーパンのポケットに引っかけてあるタオルで、額の汗をぬぐった。タオルは油で少し汚れていたが、理恵はまったく気にしなかった。
 ここは、直也が自腹で借りていた工場だった。学会でだれにも相手にされなかった直也は、大学で研究することができなかったのだ。
 直也が死んだあと、理恵がここを買い取った。女優の仕事も辞めた。直也の研究を引き継ぐことが、彼女の人生のすべてになった。もともと、女優は辞めるつもりだった。映画の仕事が終わったら、直也の助手になるつもりだったのだ。彼と同じ夢を追いかけるために。それが、不幸な出来事のおかげで早まっただけだった。直也がこの世にいないことを除けば。
 直也を殺した男。そいつは完全な異常者だった。理恵の熱狂的なファンで、理恵が、直也との交際を発表したときから、直也を狙っていたストーカーだった。逮捕されたあとも、反省の色はまったくなく、それどころか、檻の中で、いまも理恵はオレの物だと、つぶやいているらしかった。だから、精神鑑定で罪に問われない可能性も十分にあると報道されていた。
 理恵は、その男を許せなかった。罪を問われないなんて、とんでもないことだった。だがそれ以上に、彼女は自分を許せなかった。
 あたしのせいだ。理恵は、半年前の、あの光景を思い出して唇をかんだ。この世で一番好きな人が、自分のせいで死んだ。それは、耐えがたい苦しみだった。
 理恵は、軍手を外すと、ドーナツ状の機械の脇にあるコンピュータースクリーンのスイッチを入れた。グリーンの文字がスクリーンに映し出された。理恵は、スクリーンの前のキーボードを叩いた。すぐに反応があった。ドーナツ状の機械が、軽いうなりを上げて、輪の中に青白いオーロラのような光が現れた。
「オッケイ。エネルギーゲージ正常」
 理恵は、スクリーンの文字と、ドーナツ状の機械の挙動を見比べながらうなずいた。
「できた。できたよ直也。あなたの作ってたマシンが」
 理恵は、そうつぶやくと、機械のエネルギーゲージを保留モードにして、トイレに向かった。トイレの洗面台で油で汚れた手を洗った。そのとき。鏡を見て、はじめて顔まで汚れているのに気づいた。
「やあね。美人が台無しだわ」
 理恵は、罪のない自惚れに苦笑を浮かべながら顔を洗った。
 トイレを出ると、ロッカーの中に入れてあった洗いたてのブルージーンズと、真っ白いTシャツに着替えた。そして、ユニクロで買った薄い黒のジャンパーを羽織った。さすがに、元女優だけあって、整っているのは顔だちだけでなく、スタイルも悪くなかったから、カジュアルな服装がキまっていた。二十七才という年齢も、彼女の魅力を増しこそすれ、減じることはなかった。
 ロッカーのドアの裏側には、一枚の写真が貼り付けてあった。そのスナップ写真には、眼鏡をかけた青年と理恵が写っていた。写真の中の理恵は、その青年の腕を抱いて、幸せそうに笑顔を浮かべていた。
 理恵は、その写真を剥がした。
「直也」
 理恵は、写真を見つめながら、いとおしそうに語りかけた。
「あなたに会いたい。会いたいよ」
 でも……
 理恵は、急に不安になった。本当に大丈夫だろうか。彼の理論は実証されたわけじゃない。それどころか、学会で笑い者だった。もしも、頭の固い教授たちが正しくて、直也が間違っていたら……
 ダメよ。
 理恵は、首を振った。
 あたしが彼を信じなくてどうするのよ。大丈夫。彼の理論は正しいわ。
「ぜったい大丈夫。そうよね直也。あたし、信じてるからね」
 理恵は、そうつぶやくと、スナップ写真に軽くキスをしてから、ジャンパーの内ポケットに大事そうにしまった。
「よし。行くぞ!」
 理恵は、自分に気合を入れるようにうなずくと、コンピュータースクリーンの前に戻って、キーボードに、二〇一二年、四月二十日、午後一時二十分と打ち込んだ。約半年前。直也が殺される五分前だ。場所は、もちろん日比谷公園。
 そう。直也が作っていて、理恵が完成させたマシンは、タイムマシンだった。
「時間軸設定よし。空間転移設定よし。タイムフィールドの再発生を十分後にセット」
 理恵は、タイムフィールドが十分後に再発生するようにセットした。そうしないと、いまの時代に帰って来れない。十分は短い気がしたが、あまり過去に干渉したくなかった。
「オッケイ。オールクリアー。異常なし。エネルギーゲージ保留解除。いい子だから、暴走しないでね」
 理恵は、機械のご機嫌をとるように、コンピュータースクリーンに投げキッスをした。
 そのとたん。
 機械の唸り声が大きくなった。輪の中のオーロラのような光も、一段と強くなった。
 理恵は、ドーナツ状の機械に取り付けてある、プールのジャンプ台に似た足場に登った。上から見下ろすと、輪の中の光は、まるで水のように波うっていた。理恵は、ゴクリとつばを飲んだ。奈落の底への入り口のように見えた。
「直也…… やっぱり、怖いよ」
 理恵は、グスンと泣きそうな声をだすと、あわてて首を振った。
 弱気になっちゃダメ!
 理恵は、ジャンパーの内ポケットからスナップ写真を取り出した。目を閉じて、写真を両手で胸に抱いた。
「直也。お願い。あたしを守って。あたしを守って。あたしを守って」
 理恵は、祈った。そして、思い切って輪の中に飛び込んだ。

 日比谷公園の、噴水広場に続く道のわきに、人目につかない草むらがあった。理恵が事前に空間座標を調べておいた場所だった。だれかに見られないために。
 突然、その草むらの上の空間に、青白い光が現れたかと思うと、中から理恵が落ちてきた。悲鳴を上げながら。
「キャーッ!」
 ドサッ。
 理恵は、うつ伏せに落ちた。
「あたた……」
 理恵は、鼻をさすりながら立ち上がった。
「こ、ここは…… やった。やったわ!」
 理恵は、飛び上がった。そして、手に持っていた、直也の写真に向かって叫んだ。
「成功した! 成功したわよ、直也! あなたの理論は正しかった! バンザイ! ざまみろ、アインシュタイン!」
 つぎの瞬間。
 理恵は、喜んでいる場合じゃないことを思い出して、あわてて写真をポケットにしまうと、草むらから出た。
 直也、直也、どこ? ここを通るはずよ。
 理恵は、あたりをキョロキョロと見渡した。
 いた!
 直也が、入り口のほうから歩いてきた。
 な、直也…… 直也だぁ……
 半年ぶりに見る、恋人の姿だった。彼女の時間では、すでに永遠に会うことのできない人。その彼が歩いてくる。
 理恵は、たまらなくなって、駆け出した。
「直也!」
「うわっ!」
 直也は、いきなり理恵に抱きつかれて驚いた。
「ビ、ビックリした。噴水広場で待ってるんじゃなかったの?」
「うん。待ってた」
 いや、待っていると答えるべきだった。この時代の理恵は、いまベンチで彼を待っているはずなのだ。
 理恵は、直也に抱きつきながら、彼の顔を見た。眼鏡の中の理恵を見つめる瞳は、いつもの優しい目だった。
 直也だ。直也だよぉ。理恵は、涙が出てきた。ぎゅーっと、直也に抱きついた。
「直也! 好き、好き、好き、大好き!」
「ど、どどどど、どーしたの? なにか、変な物でも食べた?」
「もう、バカ」
 理恵は、笑いながら涙をぬぐった。
「時間どおり来たご褒美よ。ちょっと大げさだったかしら」
「あはは。そうだね。さすが女優。演技派だ」
「演技じゃないわよ」
 演技であるはずがなかった。
「うん」
 直也は、バツが悪そうに頭を掻いた。
「いつも遅刻しちゃってごめん。今日は…… その……」
 なにかいい掛けた直也を、理恵が押しとどめた。
「そんなこといいの。気にしないで。ねえ、それより直也。あたし、ここにいたくないわ。場所を変えましょ」
 直也とコートの男を接触させるわけにはいかない。もちろん、この時代の理恵にも会わせるわけにはいかなかった。
「え? あ、うん。そうだね。ご飯食べに行こうか」
「そうね」
 理恵は、腕時計を見た。あと三分で、タイムフィールドが再発生して、元の世界に戻ってしまう。
「それがいいわ。人がたくさんいるところがいい。とにかく、出ましょう!」
 理恵は、直也の腕をとって、先に歩き出した。
 そのとき。
「うっ」
 と、直也がうめいた。
「なに?」
 理恵は、直也をふり返った。
 直也の背中には、コートを着た男が立っていた。その男の手には、包丁が握られていた。男は、直也の背中に突き刺した包丁を抜くと、倒れかける直也の首筋を切りつけた。直也の頸動脈から、鮮血が飛び散って、男のコートを真っ赤に染めた。
 理恵は、悲鳴を上げた。

「キャーッ!」
 理恵の悲鳴が、工場の壁にこだました。理恵は、ドーナツ状の機械の輪の中にいた。すでに、元の時代に戻っていた。
「いやあああああ! 直也! 死んじゃイヤ!」
 理恵は、目の前で直也が殺されたショックで、半狂乱だった。
「直也、直也、直也、あああ、直也!」
 一度だけでも多すぎる体験を、二度も繰り返してしまった。理恵は、落ち着くまでに時間がかかった。三十分近く、顔を手で覆って、泣き続けた。
「な、直也……」
 助けられなかった。直也を助けられなかった。
 理恵は、やっと落ち着いてきた。
 時間設定が甘かったんだわ。もっと過去に行こう。そうよ。ぜったいに助けられるわ。
 理恵は、輪の中から出ると、ふたたびコンピュータースクリーンに向かった。
「時間設定を、もう十分早めよう。これでよし。こんどこそ!」
 ふたたび、光が発生した輪の上に立った。こんどは、躊躇なく飛び込んだ。

 ドサッ!
 理恵は、草むらに落ちた。着地も二度目になるとうまくなっていた。
 理恵は、すぐさま草むらから出ると、日比谷公園の入り口に走った。彼が公園に入る前に防止しなきゃ!
 入り口にくると、理恵は、すばらしい物を発見した。いや、気がついた。入り口のわきに交番があったのだ。すっかり忘れていた。そうだわ。お巡りさんに通報しよう。なんで気がつかなかったのかしら。
 そのとき。駅から歩いてくる直也を見つけた。
「直也!」
 二度目の再会だった。
「あれ? 理恵どうしたの?」
 直也は、首をかしげた。
「噴水広場で待ってるんじゃなかったのかい?」
「うん。待ってた」
「理恵」
 直也は、理恵の顔を見つめた。
「目が腫れてるよ。なにかあったの? まさか泣いてたんじゃないよね?」
「ううん。なんでもないの。ちょっと寝不足で」
 理恵は、三十分も泣いていた顔を直也から隠すようにそむけると、彼の腕をとって、交番の中に入った。
「すいません。お巡りさん」
「はい、なんで…… あ、藤崎理恵さん」
 交番の警官は、わりと年配だったが、理恵のことを知っていた。中にいた、若い警官も出てきた。
「あ、藤崎さん。ぼく、あなたのファンなんですよ」
「ありがとう」
 理恵は、つい芸能人スマイルを浮かべてしまって、少し自己嫌悪を感じたあと、警官に言った。
「お巡りさん。噴水広場のほうに、変な男がいるんです。茶色っぽいコートを着てて、野球帽を深くかぶってます。なんか、異常者みたいです。見てもらえませんか?」
「そうですか。わかりました。おい、中村。見回り行ってこい」
 年配の警官は、若い警官に言った。
「了解しました」
 若い警官が、先輩と理恵に敬礼して、公園の中に入っていった。
 理恵はホッとした。
「そんな男がいたのか」
 と、直也が言った。
「これからは、あまり外で待ち合わせしないほうがいいかもね」
「うん」
 理恵はうなずいた。
「あたし、もう女優辞める。もう、こんな生活イヤ」
「こんどの映画を最後にするんだろ?」
「ううん。映画なんかどうでもいい。すぐ辞める。いま辞める」
 理恵は、クスンと鼻を鳴らした。
「おいおい。なにを弱気な……」
 直也の言葉が途切れた。
 直也の後ろに、あの男が立っていた。
「あ、きさま、なにをする!」
 年配の警官が、直也の背中に包丁を刺した男を取り押さえようとした。だが男は、スタンガンで警官を痺れさせた。
「やめて!」
 理恵が、男の腕にしがみつこうとした。男は、理恵にもスタンガンを向けた。だが、その腕をつかんだのは直也だった。
「や、やめろ…… 理恵に…… 手を出すな……」
 直也は、すでに口から血が滲み出ていた。
「な、直也!」
 理恵は叫んだ。直也は、血の気の失せた顔で、懸命に男の腕をつかんでいた。
 だが直也に力は残っていなかった。男は、直也の手を振りほどくと、彼の首に包丁を突き刺した。鮮血が飛び散った。

 理恵は、ドーナツの中にいた。また元の世界に戻っていた。
 こんど理恵は、泣きも叫びもしなかった。
 ダメだ…… 直也を助けられない……
 理恵は、H・G・ウェルズという、イギリスのSF作家が書いた、タイムマシンという小説を思い出していた。
 ウェルズの小説の主人公も、恋人を死から救うためにタイムマシンを作って過去に行ったのだった。だが、主人公が、どんなにあがいても、恋人の死を変えることができなかった。過去は変えられないのだ。
 違う。断じて違う!
 理恵は、首を振った。
 そんなの、SF作家の妄想よ! ぜったいに過去を変えられるはずだわ。直也の理論では、時間も量子化できるはずだから、変えるポイントが問題なのよ。直接の原因を排除しただけではダメ。因子を排除しなければ。
 理恵は、因子がなにかを考えた。
 わかった。
 あたしが女優になったのが、直也が死んでしまう因子なのよ。これを排除すれば、直也は死なない。あたしは、女優になってはいけなかったんだ。
 そうよ…… ぜったいに、そうなんだわ。
 だから、もっと過去へ。もっともっと過去へ。あたし自身の人生を変えるために!


 3


 二〇〇二年十月四日、午後二時四十分。日本。東京。新宿区。新大久保。某公立高校。


 その公立高校の校門から、下校する女子高生たちが出てきた。
「ねえ、理恵」
 女子高生の一人が言った。
「マック寄ってく?」
「うん、いーよ」
 女子高生の理恵が答えた。
「ねえねえ、理恵」
 べつの女子高生が言った。
「新しいケータイ買わないの?」
「えーっ、だってお金ないもん」
「ドコモだからだよぉ、べつのにすればいーじゃん」
「番号変わるのめんどいよ」
「ねー、それよりさあ、理恵」
 また、べつの女子高生が言った。
「あんた、A組の篠塚にコクられたんだって?」
「やだ、どうして知ってるの?」
「噂になってるよ、篠塚をフったって。マジなの?」
「だって、タイプじゃないもん」
「理恵、理想たかすぎ。篠塚イケメンじゃん。付き合っちゃいなよ」
 すると、べつの友だちが言う。
「そーだよ。理恵、人気あるから、男子があんまり近づいてこないけど、篠塚ならお似合いだよ。あたしは賛成だね」
「うーん。そうねえ」
 理恵は、あいまいに首を振った。
 たしかに、篠塚は、スポーツもできるし顔もいい。でも、なにかが違うのだ。ピンとこない。
「なによお」
 と、友人。
「案外、理恵もその気っぽいじゃん。さっさとやってモノにしちゃいなよ」
「だから、違うってばぁ」
 などと、理恵たちは、オバサン予備軍のように、大きな声で話をしながら、駅前のマックに入っていった。


 4


 同時刻。日本。東京。大田区。某バイクの修理工場。


 渋谷源一郎は、今年七十三歳だった。親父さんの代に、旧日本軍からの注文で軍需物資の生産を請け負っていた工場は、いまバイクの修理屋になっていた。息子は仕事を継がず、ふつうのサラリーマンになった。源一郎は、それでいいと思った。こんど課長になるらしい。孫も今年中学生だ。小学校のころはよく遊びにきたが、いまは受験で忙しいらしい。
 源一郎は、もう何十年も続けている手慣れた手つきで、お得意さまのスクーターを修理していた。さっさと部品そのものを交換してしまえば早いが、源一郎は、直せる物は直す主義だった。だから、彼の工場はぜんぜん儲からなかった。
「お父さん」
 と、源一郎の妻が、家の奥から声をかけた。渋谷登志子。もう孫もいるのに、いまだに彼女は夫をお父さんと呼ぶ。源一郎も妻を、お母さんと呼ぶので、お互いさまなのだ。
「お茶が入りましたよ。一休みしたらどうですか」
「はいよ、お母さん」
 源一郎は、返事を返した。だが登志子は知っていた。返事をしてから、三十分は夫が仕事の手を止めないことを。熱中すると、いつもそうだった。
 そのときだった。
 工場の天井が、突然明るく光った。
「うわっ! な、なんじゃ、なんじゃ!」
 さすがの源一郎も、仕事の手を止めた。一瞬、ガス管に火がついたかと思うような、青白い光だった。
「か、か、か、かーさん! 消火器じゃ、消火器!」
 源一郎が、腰を抜かしながら叫んだとき。その、光の中から、女が悲鳴を上げながら落ちてきた。
「キャーッ!」
 理恵だった。
 ドサッ!
 理恵は、うつ伏せに落ちた。
「い、いったーい!」
 理恵は、鼻をさすった。三度目の着地は失敗した。しかも、地面がコンクリートだったから、かなり痛かった。
 源一郎と登志子は、ポカンと口を開けて、理恵を見ていた。完全に思考が停止していた。穴があいているわけでもない天井から、女が落ちてきたのだ。思考が停止するのも無理はなかった。
「あ」
 と、理恵は、ジイさんとバアさんが自分を見ているのに気づいた。
 つぎの瞬間。
「ここどこ? なんで日比谷公園じゃないの?」
 理恵もハテナマークを浮かべながら、自分のいる場所を眺めた。
 そこは、多少、新しくはあるが、それでも十分に古ぼけた町工場だった。どうやら、直也が借りていた工場の、十年前の姿のようだった。
「そうか」
 理恵は気がついた。
「時間を十年も遡ったから、空間転移にまでエネルギーが回らなかったんだ。あちゃ~、まだまだ改良の余地があるわね、あの機械」
 すると。
 源一郎が、やっと声を出した。
「な、なんじゃ、おぬしは。どこから落ちてきたんじゃ」
「ごめんなさい。驚かせる気はなかったの」
 理恵は、立ち上がって、源一郎にペコッと頭を下げた。
「それはそうと、お聞きしたいんですけど、いまは、何年ですか?」
「は、はあ?」
 源一郎は、目をパチクリとさせた。
「へ、平成十四年じゃ」
「何日?」
「十月四日じゃ」
「平成十四年の十月四日か。ってことは、西暦二〇〇二年ね。よしよし。時間軸は正確に移動できたみたい」
 理恵は、そううなずいたあと、外の太陽の光が、やけに傾いているような気がした。
「時間は? いま何時?」
「午後の二時四十分ですよ、お嬢さん」
 答えたのは、源一郎の妻の登志子だった。
「げーっ!」
 理恵は、驚いた。
「三時間もズレてる! 十月四日の午前中に来るはずだったのに! くそう。時間軸移動も、エネルギーが足りなかったのね。だから、家庭用電源じゃ不安だったのよぉ」
 理恵は、そういったあと、十年前の自分の行動を思い出した。
「大変! 急がなくちゃ!」
 理恵は、自分の腕時計を、この時代の時間に合わせると、あわてて出て行こうした。
 すると、登志子が厳しい声で呼び止めた。
「お待ちなさい。なにがなんだかわかりませんけどね、あなた、いったい、どこから落ちてきたの?」
「あ、ごめんなさい!」
 理恵は、登志子を振り返って、彼女にも頭を下げた。
「本当に驚かせるつもりはなかったんです。直也の設計したマシンは、光子の速度の壁を破るタキオン粒子を発生させる装置で、つまり、時系列を移動できる――」
 理恵は、言葉を切って登志子に聞き返した。
「って、言ってもわかりませんよね?」
「ええ、サッパリわかりませんわね」
「ごめんなさい。説明している暇はないんです。いえ、暇があっても説明しちゃいけないのかも。たとえ説明しても信じてもらえないかも。あー、もう、あたしは、なにを言ってるんだか。とにかく、ごめんなさい。失礼します。じゃあ!」
 理恵は、そういうと、あわてて工場を出ていった。
「な、なんじゃったんじゃ、あれは」
 まだ、ポカンと口を開けている源一郎だった。
 すると、登志子がタメ息をついた。
「まったくねえ。近頃の若い娘さんときたら、礼儀を知りませんわねえ」
「そういう問題か?」
 源一郎は天井を見上げた。そこにはもう、青白い光はなかった。もちろん穴も開いていなかった。ただ古ぼけた蛍光灯があるだけだった。

 理恵は、駅に向かって走っていた。
 急がなくちゃ!
 理恵は、腕時計を見た。午後の二時五十二分だった。
 今日の午後、四時ごろだったはずだ。理恵は、十年前の記憶を辿っていた。友だちとマックを出てから原宿へ行った。べつに目的はなかった。ただ、ぶらぶらするだけ。そんな毎日を送っていた。だが、この日。そう、まさに今日。運命が変わってしまった。理恵は、芸能界にスカウトされたのだ。
 それからの彼女の人生は、意外なほどうまくいった。雑誌のグラビアを飾ったあと、瞬く間に人気がでて、テレビドラマに出演し、アルバムも出した。わずが一年で、理恵は人気アイドルになり、さらに三年後には人気女優になっていた。
 理恵は、走りながら、過去の自分に腹を立てていた。もし、もしも、あのとき、芸能界なんかに入らず、直也の魅力に気がついていたら。
 あー、もう! 思い出すだけで落ち込む! やめやめ。理恵は、首を振った。とにかく、十年前のあたしが、芸能界に入るのを防止しなきゃ。そして、同級生に、すごい男の子がいるってこと教えなきゃ。
 井上直也。
 理恵は、高校時代の直也を思い出そうとした。だが、ハッキリと思い出せなかった。眼鏡をかけてて、ちょっと痩せてて、大人しくて…… そんな記憶しかなかった。高校時代の理恵は、直也をほとんど知らなかったのだ。それが情けなかった。
 でも!
 と、理恵はすぐに立ち直った。過去のあたしはどうであれ、いまのあたしは、直也がどんなにステキな人かよく知っている。この世で、いいえ、この宇宙で、だれよりも彼が好きなんだから! 眼鏡をやめて、コンタクトにしてくれればと思わなくもないけど、だれがなんと言おうと、直也は最高にカッコいいわ!
 駅に着いた。
 理恵は、弾む息を整えながら料金表の書かれた路線図を見上げた。
 えっと、新大久保は…… 待って。この時間だと、原宿に行ったほうがいいかも。蒲田で乗り換えるから…… わぉ、三百五十円だ。安い。あたしの時代は、五百八十円なのよね。過去っていいかも。
 理恵は、ジーンズのポケットから財布を出した。小銭がなかったので、千円札を出して券売機に入れた。
 だが、彼女が入れたお札は、無情にも吐き出された。理恵は、もう一度千円札を入れた。だが、やはり吐き出された。
「もう、急いでるときにかぎって、こうなんだから!」
 もう一度入れた。結果は同じだった。
「あったま来るなあ、もう!」
 理恵は、どうしても券売機の受け付けないお札を持って、駅員に両替を頼もうと思ったその矢先。
「あ!」
 とんでもないことに気がついた。
「お札が変わってるんだった!」
 日本銀行券(いわゆるお札)は、二〇〇四年に、新しいデザインになっているのだった。二〇一二年から来た理恵の財布には、当然、この時代には存在しないお札しか入っていなかった。
「ど、ど、どーしよう!」
 理恵は腕時計を見た。二時五十五分。あと一時間しかない。一瞬、タクシーに乗って、乗り逃げしようかと思ったが、さすがに警察に捕まるような行動をするほど錯乱していなかった。だが、冷静に対策を考えている時間もなかった。
「う~っ、どうしよう。困った。まいった」
 理恵は、改札の前をうろうろと歩き回った。
 そのとき。
「そうだ!」
 名案が―― いや、妙案が浮かんだ。

「いやはや、世の中には、変な子がいるもんじゃな」
 源一郎は、ずずずーっと、登志子の入れたお茶を飲んでいた。
「本当にねえ」
 登志子は、ヨウカンを食べながら応えた。
「だいたい、女の子って言うより、もういい大人みたいでしたよ。親の顔がみたいですわねえ。どういう育て方をしたのかしら」
「いや…… そういう問題じゃないと思うんじゃがなあ。あのお嬢さんは、なにもない天井から落ちてきたんじゃぞ」
「本当にねえ。礼儀を知らない子ですわねえ」
 登志子は現実主義者だった。
「いや、じゃから…… まあいっか。そういうことにしとくかのう」
 源一郎も、自分が見た物を信じられないでいたのだった。きっと夢だったんだ。そうだ。そうに違いない。いや、たしかに見たはずだが、夢を見たことにしておくことにした。
 そのとき。
「おジイさん!」
 たったいま夢にされた理恵が飛び込んできた。
「ぶはっ!」
 源一郎は、飲みかけたお茶を噴き出した。
「おジイさん!」
 理恵は、全力疾走してきたらしく、息が、はあはあと上がっていた。それでもかまわず、源一郎に向かって叫んだ。
「お願い! バイクを貸して!」
「な、な、なんじゃと?」
 驚いていいやら、ハテナマークを浮かべていいやら、どうしていいかわからない源一郎だったが、ここでもやはり、登志子が冷静な声で言った。
「あのね、あなた。一度ならいざ知らず、二度も、なんの説明もなしに人のうちで大騒ぎするとはなにごとですか。いいかげんになさい」
「おバアさん!」
 理恵は、この家の主はだれなのかを敏感に察して、登志子に言った。
「詳しく説明している暇はないの。あと一時間で、あたし原宿に行かなきゃいけないんです。そうしないと、あたしの大好きな人が死んじゃう。ううん。もうホントは死んでるんだけど、なんとか生き返らせたいの。違う。生き返らせるんじゃなくて、死ななかったことにしたいの。歴史を変えたいんです!」
「歴史を変えるですって?」
「そうです! あたし未来から来たんです!」
「あらまあ……」
「わかってます。あたしのこと、頭がおかしいと思うでしょう。当然だわ。あたしがおバアさんの立場だったらそう思います。けど、本当のことなんです! お願いします。バイクを貸してください。必ずお返ししますから。お願いです!」
 源一郎と登志子は、キョトンとして、顔を見合わせた。
「か、かーさん」
 源一郎は、小声で登志子に言った。
「どうやらその、あんまり刺激しないほうがよさそうな感じのお嬢さんじゃな」
「おジイさん! 本当なんですってば! あたし未来から来たんです!」
「いや、そうかね。まあ、近頃はそう思うこともあるじゃろうね。どうかね、ここはひとつ、お茶でも飲んで落ちついてみては」
「だから、時間がないんだってば! あーもう! どう言ったら信じてもらえるの!」
 理恵は、あまりにも興奮している自分に気がついて、一呼吸おいた。
「おジイさん。信じられなくてもいいから聞いて。じつは、あたしの大好きな人が、殺されちゃうんです。あたしの時間で言うと、半年前。おジイさんの時間で言うと、九年と六ヶ月後です。彼が殺されることになるキッカケは、この時代にあるんです。だから、あたしはそれを消しに来たの。あ、そうだ!」
 理恵は、財布から、未来のお札を出した。
「これ見てください! この時代から二年後に発行されるお金です。こんなの見たぐらいじゃ信用できないだろうけど、信じてください。お願い。お願いです」
 理恵は、神に祈るような気持ちで訴えた。
「ほほう」
 源一郎は、理恵の出した千円札を手にとった。
「こりゃ、よくできとるのう。ほれ、かーさん。見てごらん」
 源一郎は、登志子にもお札をみせようとした。
 だが。登志子は、お札には興味を示さずに言った。
「お父さん。この子に、バイクを貸してあげてくださいな」
「へ?」
 源一郎は、変な声を出した。
「かーさん。まさか、おまえ信じるのかい?」
「さあ、どうかしらね」
 登志子は苦笑いを浮かべた。
「正直、未来がどうのこうのなんて信じられないわ。でも、この子の目は嘘をついてる目じゃないわ。大変なことをやろうとしているのは、きっと本当なのよ」
「おバアさん! ありがとう!」
 理恵は、叫んだ。それだけでも信じてくれれば十分だった。
「やれやれ。なんだか、わけわからんのう」
 源一郎はそういいながらも、サンダルを履いて、工場のほうへ降りた。そして、壁にかけてあるスクーターのキーとヘルメットをとって、理恵に渡した。
「ほれ。表に出ている、赤いスクーターを使いなさい。ガソリンは入っとる。なんだか知らんが、がんばるんじゃぞ」
「ありがとう!」
 理恵は、源一郎に、そして登志子に、大きく頭を下げると、スクーターにキーを差し込んでエンジンをかけた。


 5


 高校生の理恵は、友人たちとマックを出て、原宿に向かっていた。いつものコースだった。駅前のマックで一時間ぐらいダベったあと、原宿をブラブラするのだ。目的はなにもなかった。竹下通りは、そんな女子高生たちでいっぱいだった。
 高校生の理恵は、惰性でそんな生活を続けていた。満たされない心。原宿をブラブラするのと同じくらい、彼女の人生にも目的が、いや、目標がなかった。やりたいことがなんなのか、自分でもわからないのだ。
「ねえ、理恵。これ見て。チョーかわいい」
 友人のひとりが、雑貨屋の店頭に飾ってある携帯のストラップを手にとりながら言った。
「うん。かわいいね」
 理恵は、笑顔で答えた。だが、声に熱はこもっていなかった。
「どうしたのよ理恵。なんか元気ないじゃん」
「うーん。ごめーん。なんか今日、調子悪いかも。先帰るよ」
「なによそれ。やっぱ、篠塚のこと気になってるんじゃない?」
「だから、違うってば」
 高校生の理恵は苦笑を浮かべた。
「マジ調子悪いからさ。ごめん」
「マジ? 大丈夫?」
「うん、平気平気。寝れば治るよ」
「わかった。あとでメールするね」
「うん」
 理恵は、友人たちにうなずいてから、ひとり駅に向かった。調子が悪いと言うのは嘘だった。身体の調子が悪いと言う意味では。たまに、バカバカしくなるのだ。自分自身の行動が。発作的に、だれもいないところに逃げ出したくなる。
 なにかしたい。なにかやりたい。でも、なにをしていいのかわからない。なんでもいい。だれか教えて。なにをしたらいいの?
 そのとき。
 スーツを着た男が、理恵に近づいてきた。
「ねえ、きみ。どこの高校に通ってるの?」
 理恵は、いつものエッチな店のスカウトかと思ったが、それにしては、男の年齢が高いようだと思った。それでも、無視して駅に歩き続けた。
「待った、待った。そんなに警戒しないでくれないか。変なスカウトではないよ。わたしはちゃんとした芸能プロダクションの者だ。いま名刺を……」
 男が、理恵の後を追いながら、スーツのポケットから名刺を出そうとしたとき。
「こらーっ!」
 スクーターが、その男をひき殺す寸前で止まった。
「どわっ!」
 男は、思わず飛び退いた。高校生の理恵も、驚いた顔で、スクーターを見つめた。
「よかった! ギリギリ間に合ったわ!」
 理恵は、ヘルメットをとって、男に叫んだ。
「あんた、この子にちょっかい出したら、許さないわよ! とっとと消えなさい!」
「な、なんだね、きみは……」
 男は、戸惑った声をだしながら、ヘルメットをとった理恵と、いままで声をかけていた高校生の理恵を見比べた。
「あ、お姉さんですか?」
「お姉さん?」
 眉をひそめたのは、高校生の理恵だった。
「あたし、弟しかいないわ」
「本当かね? それにしてはよく似てるな」
 と、男は、しげしげと、ヤング理恵と、理恵を見比べた。
「ストップ」
 と、理恵。
「じろじろ見ないでよ。あたしが何者なのかは関係ないわ。ついでに、あなたが何者なのかもね」
 理恵は、男の名前を知っていた。たしかに、この男は、まともな芸能プロダクションの社員で、自分を芸能界に引き込んだ原因なのだから。
「とにかく、この子に関わらないで。まだ高校生なんだから。学生は勉学に励むべきよ。そうでしょ? スカウトマンさん。なにか異論はある?」
「いや、まあ…… それはそうだが、勉学と仕事を両立しているアイドルはいくらでもいる。だいたい、この子の家族じゃなかったら、きみに口を出す権利はない…… 本当に姉妹じゃないのかね?」
「さあね」
 理恵は肩をすくめた。
「彼女が知らないだけで、本当は姉かもしれないわよ」
「嘘よ!」
 ヤング理恵が叫んだ。
「いいかげんなこと言わないでよ!」
「だったら、なんでこんなに顔が似てるの?」
 理恵が言った。
「他人の空似よ」
 と、ヤング理恵。
「だいたい、あたし、あなたみたいにオバサンじゃないし」
「オバサンですって!」
 こんど叫ぶのは理恵だった。
「あたしまだ二十七よ! だいたい、自分で自分をオバサンだなんて…… いえ、まあ、あなたはあたしじゃないけど、まあ、あたしなわけであって…… うーん。これは複雑な心境だわ」
 ヤング理恵は、そーっと理恵から離れた。電波系かと思った。それが自分にソックリで、しかもオバサンなのが、非常に不愉快だった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。あんたには話したいことが……」
 理恵がいい終わらないうちに、ヤング理恵は、駅に向かってダッシュした。
「あ、逃げた!」
 と、理恵は叫んだ。同時に、スカウトの男も、同じ言葉を叫んだ。
「あんたが言うことないでしょうに!」
「なにを言うか。きみのせいで、逸材を逃したんだぞ!」
「そうよ、あんたのせいで、あたしは人生を無駄にするし、恋人は殺されるし、散々な目に遭ったんだからね。責任とってほしいくらいだわ」
「はあ? なにを言ってるんだ?」
「ふん。タキオン粒子理論なんて話して聞かせても無駄でしょ。今日のことは忘れて、あの子に二度と近づいちゃダメよ。いいわね」
「何者だか知らんが、きみにそんな指示を受けるいわれはないね」
「あ~ら、そう。だったら、あなたのプロダクションに所属してるタレントのこと、マスコミに話しちゃうわよ。たとえばそうね、浜○あゆみと、金×タケシが、どこで、いつ、なにをしてたとか」
「き、きみは、何者だ! まさか、渡辺プロダクションの回し者か!」
 渡辺プロダクションは、男の会社であるワールドプロダクションとは、業界一位、二位を争うライバル会社だった。
「さあ、どうでしょう?」
 理恵は、男の誤解にニヤリと笑った。これは利用できるかも。
「どっちにしろ困るのはあなたよね。いま、あなたの会社のタレントがスキャンダルでコケたら大変だもんねえ。さあ、どうする?」
「くっ……」
 男は唇をかんだ。
「わ、わかった。あの子をまた見つけても声はかけない。これでいいんだろ」
「やった!」
 理恵は、ガッツポーズ。
「目的達成だわ!」
 と、喜んだあと、理恵は考え込んだ。
「待ってよ。たとえ、この時代の理恵が、ワールドプロダクションに入らなくても、渡辺プロダクションに入るかも。うーん。やっぱり、直也の魅力に気づかせてあげないとダメだわ」
「おい。なにをブツブツ言ってるんだ。絶対に、うちのタレントのことをバラすなよ」
「はいはい。ギブ&テークよ。安心しなさい」
 どっちみち、あと半年も――この時代から――したらバレるんだけどね。と、理恵は心の中で、舌を出した。そんなワールドプロデュースを助けたのが、新人タレントの理恵だったのだ。
「まったく、今日は厄日だな」
 男は、やれやれと首を振って、理恵から離れた。
「ちょっと待って」
 理恵が呼び止めた。
「やっぱり、あなたからのギブが足りないかも」
「お、おいおい。これ以上どうしろって言うんだよ」
「えっとね」
 理恵は、にっこり笑顔を浮かべた。
「お金ちょうだい」
「金だってぇ! 冗談じゃない! 恐喝じゃないか!」
「うーん。そういわれると心が痛むなあ」
 理恵は苦笑した。だが、まだこの時代に留まるとなると、お金を一円も持っていないのは不安だった。ジュースも飲めない。
「ちょっとでいいのよ。千円とか、二千円とか」
「マジかよ。ガキの小遣いじゃあるまいし」
「じゃあ、一万円」
「増額するな!」
「あなたが少ないって言ったんじゃない」
「そーいう意味じゃない!」
「年端もいかない女の子をダマして儲けてるんだからいいじゃない」
「ダマしてなんかいないわい! 人聞きの悪いこと言うな!」
「うるさいなあ。早くしないとマスコミにバラすわよ」
「わ、わかった、わかったよ!」
 男はトホホという顔で財布から一万円を出して理恵に渡した。
「マジで、今日は厄日だ」
「あはは。サンキュ、稲村さん!」
 理恵は、スクーターのエンジンをかけた。
「お、おい! なんで、オレの名前を知ってるんだよ!」
「十年後に、タキオン粒子について勉強すればわかるわよ」
 理恵はヘルメットをかぶって、稲村の前から走り去った。
「な、なんなんだよォ、あの女は……」
 ポツンとたたずむ、稲村だった。


 6


 高校生の理恵は、東急玉川線の宮前平で電車を降りた。
 あの人、いったいなんだったんだろう。
 駅から自分の家のある住宅街に向かいながら、高校生の理恵は考え込んでいた。
 マジで似てたなあ。あたしがあと十年もすれば、あんな顔になるんだろうな。まさか、本当にお姉さん? って、そんなことあるわけないじゃない。ママがあたしを産んだのは、二十六のときだから、もし十歳年上の姉がいるとすると、ママは十六のときに子供を産んでたわけで……
 待って。十六か……
 うーん。考えてみれば、あり得ない話じゃないわね。まだママは高校生だったから、産んだ子供は、どこかの施設に預けたとか、あるいは、だれかにもらわれたとか……
「あー、もう!」
 理恵は、激しく首を振った。
「そんなはずないわ! 考えすぎよ。ただの他人の空似だわ。この世には、自分にソックリな人が三人はいるっていうし」
 そのとき。
「やあねえ。こんなにソックリな人間なんていないわよ」
 理恵が、立っていた。
「ど、どうしてここに」
 ヤング理恵は、思わずあとずさった。
「スクーターで先回りしたのよ」
 と、理恵。
「電車に追いつくのって大変よね。スピード違反で捕まるかと思ったわ」
「な、なんで、あたしのうちを知ってるのよ」
「あなたのことは、なんでも知ってるわ。ママの名前もパパの名前も、弟の名前もね。それどころか、太股の付け根にあるホクロのことも」
「やだ…… 気持ち悪い。あなた何者なの?」
「幽霊を見るような目で見ないでよ」
 理恵は、苦笑しながら言った。
「本当はね、こんなに過去に干渉しちゃいけないのかもしれないけど、背に腹は換えられないわ。あなたにすごく重要なメッセージがあるの。少しでいいから、話をさせてちょうだい。十年後のあなたが後悔しないために」
「ど、どういう意味よ」
「あたしはね、十年後の世界から来た、あなた自身なのよ」
「十年後って…… まさか未来から来たって言うわけ?」
「そうよ」
「バ、バカじゃない。ドラえもんじゃあるまいし。そんなことできるわけないじゃない。いくら嘘でも、もう少しマシな嘘をつくべきだわ」
「だから、直也のタキオン粒子理論が…… って、いいかげん、あたしもしつこいわよね。この時代の人間に理解できるわけないのに」
 理恵は、ふうとタメ息をついた。重力子とクォークが反応して生成されるタキオン粒子が――正確にはタキオンの反粒子が――時間を逆行するなんて、十年後の物理学者だって鼻で笑うぐらいなんだから。
「ねえ」
 と、ヤング理恵。
「タキオンだか、タレパンダだか知らないけど、いいかげんにしてよ」
「タレパンダ…… なつかしーい。そんなの、あったわよね。そういえば、あたしってばタレパンダの枕を買ったんじゃなかったっけ?」
「そんなことまで知ってるの?」
「そうそう、思い出した。あたしがタレパンダの枕を買ったら、ママもほしがっちゃって、つぎの日曜日に、一緒に新宿の伊勢丹に買いに行ったんだよね。懐かしいなあ」
 ヤング理恵は、背筋が凍った。その通りだった。一年前のことだ。
 青白い顔で立っているヤング理恵を見て、理恵が言った。
「ね、信じてくれた?」
「し、信じられるわけないじゃない」
「そうね。それがふつうの反応よね」
 理恵は肩をすくめた。
「でもね、信じなくてもいいから聞いて。とにかく重要な話なの。本来のあなたは――つまり、あたしが干渉する前のあなたは――さっき原宿で会った男にスカウトされて、芸能界に入るのよ。けっこう人気が出るわ。二年間はアイドルとして活動して、それから女優に転向するの。自分でいうのもなんだけど、なんでもソツなくこなすほうだから、女優の仕事もうまくいったわ」
「へえ、あたしがねえ」
 ヤング理恵は苦笑した。
「なんか想像できないな。自分がテレビに出てるところなんて」
「想像しないほうがいいわ。大しておもしろい仕事じゃないから。あたしは、自分を変えることができるなら、なんでもよかったのよ。ただ、芸能界が手っとり早かっただけ」
 ヤング理恵は、こんどは茶々を入れずに、黙って理恵の話を聞いた。それはまさに、いまの自分の気持ちだったからだ。
 理恵は続けた。
「だからね。女優になってからも、なんだかスッキリしなかったのよ。ベルトコンベアーに乗ってるだけのような気がしてね。心の底から女優になりたかったわけじゃない。なんていったら、女優になりたいと思ってる人に怒られそうだけど…… とにかく、なにか違うと感じてた。こんなの本当の自分じゃないって」
「なんだ…… 十年経っても、同じなんだ、あたし」
 ヤング理恵は、つぶやいた。いつの間にか、目の前の理恵を、未来の自分と認めていた。
 すると。
「違うわ」
 と、理恵が首を振った。
「いまのあたしは、自分がなにをするべきかわかってる。自分がなにをしたいかを。みんな直也に再会したおかげよ」
「直也ってだれ?」
「あんた、同級生の名前を知らないの? って、こいつは十年前の自分か。そういえば、このころ直也の名前を知らなかったわね。はあ、自己嫌悪……」
「だーかーらー」
 ヤング理恵が、イラついた口調でいった。
「直也ってだれなのよ」
「井上くんよ。名字ぐらい知ってるはずよ」
「井上? 彼がなんだっていうのよ?」
「だから、あたしを、本当に変えてくれた人だってば」
「嘘でしょ。だってあいつ…… 根暗っていうか、オタクじゃない」
「オタク? 直也が? うーん。まあ、ある意味、科学オタクかもしれないけど。女の子の出てくるアニメとかを見てると思ってるんだったら、大間違いよ。話もしたことないくせに、勝手に決めつけないでよね」
「だって…… そう見えるじゃない」
「男を見る目がないなあ」
 理恵は、タメ息をついた。
「直也は、ちょっとシャイなだけだってば。話をしてごらんなさいよ。最初は、オドオドしてるかもしれないけど、すごく楽しい人よ。優しいし…… そう。自分の命よりあたしをかばってくれるぐらいに優しいんだから」
 理恵は、三度目の直也が殺されるシーンを思い出した。背中を刺されているのに、あの異常者がスタンガンを使えないように押さえつけてくれた。思い出すと、不覚にも涙が出そうになる。
「そんな話、ぜったい信じらんない。あいつが、あたしを変えるなんてあり得ない」
「ホントだってば。彼は、あたしにない物を持ってるんだから」
「なによ?」
「夢よ」
「夢?」
「そうよ。人生の目標。彼は将来、物理学者になる夢を持ってるの。その夢は、なんなく叶えられるわ。彼、頭いいから。だから博士号をとったあとは、アインシュタインを超える理論を完成させる目標を持つのよ。直也とあたしが再会したのは、ちょうどそんなときだった」
 理恵は、当時を思い出すような顔で言った。
「あたしテレビドラマで科学者の役をやることになったの。それで、ロケに慶応大学を使うことになって、プリンストン大学の研究室から戻ってきたばかりの直也と再会した。直也も、あたしのこと覚えててくれたから、あたしは役作りのために、科学者のことをいろいろ直也に聞いたのよ。正直いって、すごく気さくな人でビックリした。あなたが思ってたとおり、あたしも、ちょっと根暗な人って印象しかなかったから」
「なによ。人に説教しといて、自分も、そう思ったんじゃない」
「だから、自己嫌悪なんだってば。って、それはどうでもいいわ。あたしは、すぐに彼の話に引き込まれた。だって、目が輝いてるんだもん。この人は、本当に生きてるって感じがした。すごくうらやましかったわ」
「ふーん。そうなの。へーえ。それは、よかったわね」
 ヤング理恵は、どこかバカにしたような声で言った。
「われながら、かわいくない子ね」
 理恵は、苦笑した。
「信じようと信じまいと、本当のことなのよ。とにかくあたしは、直也に惹かれた。自分でもビックリよ。いつの間にか、彼と同じ夢を共有したいと思っていたんだから」
「そりゃ、ビックリだね。あんな眼鏡くんを好きになるなんて」
「ったく、こんなにヒネた子だったのかね、あたしは」
「だーかーらー。それがなんだって言うのよ。いまのあたしに、井上を好きになれって言うわけ?」
「そうよ」
「バッカじゃない。百歩譲って、あなたが、マジで十年後のあたしだとして、さらに千歩譲って、十年後のあたしが、井上を好きになることがあるにしても、それは、いまのあたしじゃないわ。ぜったいに。あり得ない」
「それはそうだけど、でも、あなたは、あたしなんだから、直也と話をすれば、きっと同じように感じるはずよ」
「やめてったら。でも、たしかにあたしは、あなたかもしれない。女優になるって言うのも悪くないかもね」
「ダメよ!」
 理恵は叫んだ。
「それだけはぜったいにダメ! そのせいで直也は殺されちゃうんだから!」
「こ、殺される?」
「そうよ! あたしが、直也と付き合っているのを記者会見した一ヶ月後。直也は、あたしの熱狂的なファンだった男に殺される。あたしの目の前でよ!」
 ヤング理恵は、理恵の、あまりの剣幕に、ゴクリとつばを飲んだ。もしこれが作り話なら、迫真の演技だ。
「で、でも……」
 ヤング理恵は、逃げ腰になった。自分のせいで、だれかが死ぬなんて言われても困る。それも未来の自分が原因だなんて、そんなの、あたしに責任はないじゃない。
「ねえ、もう逃げないで」
 理恵は、ヤング理恵に優しく言った。
「あたしは過去を変えたいの。いまのあんたが、直也とつきあって、ちゃんと大学に行って、女優なんかにならなければ、直也は死ななくてすむ」
「それで、あなたはハッピーになるわけね。でも、いまのあたしはどうなのよ。井上を好きにならなかったら、辛いだけじゃない、好きでもないヤツと付き合えないわ」
「好きになるわ、きっと。あたしにはわかる」
 そういった理恵は、だがタメ息をついた。
「でも、問題はそう簡単じゃないのよ。たぶん。ここまで過去にさかのぼって干渉したとなると、未来がどうなるか、あたしにもわからない。もしかしたら、あたしのほうが事故で死んでるかもしれない。そうじゃなくても、直也とは別れているかもしれない。どちらにしても、直也と幸せになっているかどうかわからないわ」
「じゃあ、意味ないじゃん。あたしにとっても、あなたにとっても」
「あるわ」
 理恵は、真剣な顔で言った。
「直也が死ななくてすむ。それだけで十分よ」
「なにそれ。自己犠牲ってヤツ?」
「まあ、ガキのくせに難しい言葉を使うじゃない。自己犠牲だろうがなんだかろうが知ったこっちゃないわ。あたしは彼を助けるの。助けたいのよ。死んでほしくないの」
「あたしはイヤよ。自己犠牲なんて、まっぴらごめんだわ」
「もう、わからない子ね!」
 理恵は、ヤング理恵の腕をつかんだ。
 そのとき。
 理恵たちの頭上に、タイムトラベル特有の、青白い光が発生した。
「な、なに? どういうこと?」
 理恵はあわてた。まだタイムフィールドが再発生するには早すぎる。今回は二十四時間後に元の時間に戻るように設定してあったからだ。だが、もしもエネルギー不足でタイムフィールドの再発生が早まっていたのだとしたら、ヤング理恵と、身体を接触しているのはマズイ。彼女も、未来の時間に引き込んでしまう。
 理恵は、あわてて、ヤング理恵の腕を離した。
「え?」
 理恵は、ヤング理恵を見て、目が点になった。なんと、ヤング理恵は、彫刻のように固まっていたのだ。それだけではない。空を飛んでいるカラスが、空中で静止している。
「じ、時間が、止まってる」
 理恵は、やっと状況を飲み込んだ。だが、なぜそうなるのかはわからなかった。
 そのとたん。
 光の中から、一台の機械が降りてきた。それは、車輪のない車のような形だった。だが、理恵はその機械に見覚えがあった。黒と白に塗り分けられて、天井に赤い縦長のランプがついた車。
「パ、パトカーですって?」
 理恵が叫んだとたん。
〈時間移動違反者につぐ〉
 パトカーのスピーカーから声が聞こえた。
〈手をあげなさい。抵抗したら射殺します。繰り返す。抵抗したら射殺する〉
 理恵は、わけもわからず、手をあげた。
 パトカーは、光の中から降りて、地面の上五十センチぐらいのところで静止した。
 中から、拳銃を構えた警官が二人出てきた。
「タイムパトロールだ!」
「タイムパトロールですって!」
 理恵は叫んだ。そうか。わたしが完成させたタイムマシンが、当たり前になる時代があるんだ。彼らは、そんな未来から来たに違いなかった。となれば、抵抗しないほうがいい。
「抵抗するな!」
「してないじゃない」
 と、理恵。
「うるさい」
 警官は、乱暴に理恵の腕を後ろ手に回した。
「い、いたい! ちょっと乱暴にしないでよ」
「犯罪者が生意気なことを言うな。時間干渉違反は、重大犯罪だ。終身刑だぞ。わかってるのか、おまえ」
「し、知らないわよ、そんなの」
「とぼけるな。規則は知っているはずだ。市民リストと照合する。おまえが来た時代を言え。いっとくが、嘘をついても、すぐにバレるぞ」
「二〇一二年よ」
「バカめ。さっそく嘘をつきやがった。タイムマシンが発明されたのは、その翌年だ。DNAを採取する。おまえに黙秘権はあるが、DNA採取を拒否する権利はない」
「はいはい。わかったわよ。でも痛いのはイヤよ」
 警官は、細い金属の棒をポケットから取り出して、理恵の腕に刺した。
「い、いたい! 痛いのはイヤだって言ったのに」
「うるさい」
 警官は、金属の棒を同僚に渡した。
「照合しろ」
「はい、課長」
 どうやら、同僚は部下だったらしく、理恵を押さえている警官に軽く敬礼をしてから、パトカーのコンピュータに金属の棒を差し込んだ。
「ねえ」
 理恵は、課長に聞いた。
「たぶん、市民のDNAが登録されている時代があるんでしょうけど、あたしのはないかもよ。本当に二〇一二年から来たんだから」
「DNA市民登録がはじまったのは、二〇二〇年だ。その時代に、おまえが生きてたなら、データがある」
「管理社会か。最低の未来ね」
「バカを言うな。未来はけっして管理社会ではない。過去のどの時代より、プライバシー保護法は厳しいぐらいだ」
「か、課長!」
 データを分析していた部下が、驚いた声を出した。
「こいつ…… いえ、この方は、井上理恵です!」
「は? だれだって?」
 課長は首をかしげた。
 だが。
「井上理恵ですって!」
 理恵のほうは、歓喜の声を上げた。
「本当に? あたし、井上って性になってるの?」
「どういうことだ」
 課長が部下に問いただした。
「は、はい」
 部下は、ゴクリとつばを飲みこんだ。
「彼女は、タイムマシンを開発した、井上博士の奥さまです」
「なんだってーっ!」
 課長は驚いて、理恵の腕を離した。
「やったーっ!」
 理恵のほうは、ぴょんと跳び上がった。
「直也が死んでない未来があるんだわ! しかもあたし、直也と結婚できるのね! うれしい! うれしいよう!」
「お、おい、マジかよ」
 課長は、パトカーのコンピュータに映し出されているデータを自分でものぞいた。
「げっ。本当だ。なんで、井上博士の奥さまが、こんな時代にいるんだ?」
「話せば長いことなのよ」
 理恵は、課長につかまれていた腕をさすりながら答えた。
「あなたたちが来た未来を作った人物は、じつは死んでいるかもしれないんだから」
 理恵はそういって、いままでの出来事をかい摘んで課長たちに話した。
「信じられん」
 課長はうなった。
「井上博士が殺される過去なんて、歴史の教科書にないぞ。ということは、いったい、どういうことになるんだ?」
「簡単じゃない」
 理恵は、得意顔で言った。
「つまり、あたしが過去を変えることに成功してるってことよ。皮肉なものよねえ。未来の世界では、過去を変えるのは重大犯罪なんでしょけど、その未来世界そのものが、じつは、変えられた過去の産物だったなんて」
「うーむ、うーむ、ややこしい話だ」
「タキオン粒子理論を作った科学者の恋人が…… いえ、あなたの時代では奥さんが言うんだから間違いないわ」
「いえ、奥さん」
 部下が言った。
「わたしたちの時代には、もう、あなた方はいません。なにせ、わたしら、二十四世紀から来たもんで」
「バカタレ。犯罪者にタイムパトロールの本部時間をバラすヤツがあるか」
「あ、すいません」
「犯罪者ですって?」
 理恵は、課長をにらんだ。
「あたしがいなかったら、あなた生まれてこないってことじゃない。少なくとも、タイムパトロールの課長さんにはなれなかったわけよね。なのに、あたしのこと犯罪者扱いするんだ。ふーん、そうなんだ」
「い、いや、奥さん、困ったなどうにも」
 課長は、帽子を脱いで頭を掻いた。
「なんにしても、奥さんが法律違反を犯していることに間違いはないんですよ。過去を変えるのは犯罪行為です」
「あたしの時代には、そんな法律なかったわ。法律は、作られる前のことには適用されないはずよ」
「タイムマシンが作られてからは、法律が作られた時間に関わりなく適用されるようになってます。そうじゃなきゃ、矛盾でしょ?」
「そりゃそうだけど…… でも、あたしが過去を変えないと、あなたたちの存在も消えるわ。これは本当よ」
「うーん…… これはもう、われわれの頭じゃ理解できない時系列の問題が起こっているようです。本部の時系列解析の専門家に問い合わせますので、しばらくお待ちを」
「いいわよ」
 課長も、自分を犯罪者扱いをやめたので、理恵は笑顔でうなずいた。それよりも、直也が生きていて、しかも自分の夫になっている時代があるのを知ったので、気分がすごくよかった。
「おい、本部に連絡だ」
 課長は部下に言った。
「はい」
 部下は、パトカーの無線機をオンにした。
「こちら、二十一世紀、B地区担当の、ナンバー五六五です。本部。応答願います」
 だが、無線機のスピーカーは、ザーッと雑音を出すだけだった。
「あれ、変だな。こちら、二十一世紀、B地区担当の、ナンバー五六五です。本部。応答願います」
 同じだった。応答はない。
「課長。本部から応答がありません」
「バカな。時間軸嵐は発生してないはずだぞ。もう一度呼びだせ」
「わかりました。こちら、二十一世紀、B地区担当の、ナンバー五六五です。本部。応答願います」
 応答はない。
「ダメです課長」
「冗談じゃないぞ。時空次元サーチしてみよう」
 課長は、時空次元サーチ装置のスイッチを入れた。
「なんなのそれ?」
 と、理恵が興味深げに聞いた。
 部下が答えた。
「時空のゆがみを、時間軸に沿って計る装置ですよ。干渉波があると検知できるんです」
「干渉波?」
「ええ。たとえば、奥さんが、この時代の自分に接触したじゃないですか。そうすると、干渉波が発生するんです」
「それで、あたしの存在がバレたわけね」
「そういうことです」
 部下が答え終わると、課長がサーチ結果を見ながら、血の気の失せた顔で叫んだ。
「な、なんてこった! 次元が完全に分離しちまってる。オレたちの未来が存在していないぞ!」
「えーっ、マジっすか!」
 部下もビックリ仰天した。
「なるほどね」
 と、理恵は、ひとりうなずいた。
 とたん、課長と部下が、理恵に叫んだ。
「どういうことか、わかるんですか!」
「当たり前じゃない。あたし、直也の恋人…… うふふ。奥さんよ。まだ結婚してないけど。しかも、タイムマシンを最終的に完成させた張本人なんだから、理論は任せてよ」
「お、教えてください、奥さん!」
「コホン」
 理恵は、もったいぶって咳払いしてから言った。
「あたしはまだ、過去を変えるのを完了していないわけでしょ。それなのに、あたしを妨害しようとしている存在がいる。つまりあなたたちね。それが未来に対しての不確定要素として測定に影響を与えるから、結果的に未来が観測できないのよ。わかる?」
「ぜんぜん」
 課長と部下は、首を振った。
「だから、簡単に言うと、時間も量子化できるわけだから、ここでもハイゼンベルクの不確定性原理が存在するわけ。これならわかるでしょ?」
「もっと、わかりません」
「あんたたち、本当に二十四世紀から来たの?」
「そんなこと言われても、二進法ができなくてもコンピュータが使えるのと一緒ですよ。理論のことまで理解できません」
「だったら、こう答えてあげる」
 理恵は、ニッコリと言った。
「さっきも言ったとおり、あたしの邪魔したら、あなたたちの未来は消えるのよ。あんたたち家に帰れないわね。時空の迷子だわ」
「ひええええ。やっぱ、そうなりますか!」
「そうなるわね。あなたたちの存在しない未来が、本来の未来として出現するんだわ」
「課長~」
 部下が情けない顔で言った。
「ぼく、来月結婚するんですよ~ うちに帰りたいですぅ」
「バカ野郎。オレだって、明後日は娘の誕生日だ。ちくしょう」
「どうするの? あたしを逮捕する?」
 理恵は、悪魔的なほほ笑みを浮かべながら聞いた。
 課長と部下は、顔を見合わせた。
 やがて、課長が諦めたように叫んだ。
「えーい、くそ! 法律なんかクソ食らえだ! 奥さん! オレたちを元の世界に帰してください!」
「任せなさい!」
 理恵は、どんと胸をたたいた。
「ただし、協力してもらうわよ。いい?」
「ひえええええ。見逃すだけじゃなく、オレたちも、犯罪に手を染めるんですか!」
「だから、犯罪じゃないってばぁ」
 理恵は、苦笑した。


 7


 理恵は、タイムパトロールの装備を見ながら、説明を受けていた。
「で、これが、時間停止装置。いま、この時系列の時間を止めている装置です」
「ふむふむ。タキオン粒子と、反タキオン粒子のスピンを利用して、同じ点に同時に存在させることによって、時間を停止してるわけね」
 理恵が、理論的な解説をした。
「そうなんですか?」
 と、部下。
「そうなのよ。排他理論で、三つ同時には存在できないけど…… って、説明しても無駄みたいね」
「すいません、勉強不足で」
「いいのよ。それより、今後の計画だけど、いま未来は観測不能状態だけど、過去は見れるわよね?」
「見れます」
「つまり、移動もできるってことよね」
「はい、できます」
「オッケイ。だったら、昨日に移動しましょう」
「昨日? また時間を逆行するんですか?」
「ええ。あたし、この時代の理恵に、自分の未来をしゃべりすぎた。あたしの性格からして、あんなふうに言われたら、よけい意固地になって直也と付き合わなくなると思う」
「それはマズイですな」
 課長が言った。
「井上博士と、奥さまが結婚してくれないと、未来が狂ってくる」
「責任重大ね」
 理恵は笑った。
「でも、直也と結婚できない未来なんて、あたしもごめんだわ。うまく理恵と直也を近づけなきゃ」
「どうやるんですか?」
「要は、理恵が直也に興味を持てばいいのよ。それだけでオッケイだと思うわ」
「ホントですか?」
「うん。自分のことだからわかる。きっと、高校生の理恵も、高校生の直也を好きになるはずよ」
「そんなもんですかね?」
「そんなもんよ」
「具体的にはどうしますか?」
「そうね。ちょっと考えるから待ってて」
 うーん。
 と、理恵は計画を練った。
「オッケイ。浮かんだわ」
「はやっ! そんな簡単でいいんですか?」
「アイデアを説明してないのに、なんで簡単だってわかるのよ」
「いや、なんか、そんな気がしたもんで」
「なんかバカにされた気分」
「あはは。そんな、まさか。で、時間は?」
「午後の二時。下校時間に合わせましょう」
「了解しました」
 課長は、この時間を止めている、時間停止装置を解除した。
 とたん。
「キャーッ! なにあれ!」
 空に出現した、青白い光に驚いている、ヤング理恵の時間が動き出した。
「タイムフォールド作動。時間軸、二〇〇二年、十月三日」
 課長が、パトカーのタイムスイッチをセットして押した。
 とたん、パトカーは、青白い光の中に吸い込まれた。

 つぎの瞬間。彼らは、昨日の午後二時に到着した。
「なによ。同じ場所じゃない」
 と、理恵。
「そうですよ。場所まで指定されませんでしたから」
「もう、気が利かないわねえ。下校時間って言ったじゃない。あたしは学校に行きたかったの」
「すいません…… どこの学校ですか?」
「あたしの学校よ」
「それって、どこですか?」
「なんか、漫才やってるみたいね。新大久保よ」
「はい。透明化フィールド発生。浮上」
 パトカーは、まわりの景色と溶け込んで透明になると、数十メートルの高さに浮上した。
「わぉ。透明になるんだ。すごーい」
「われわれの存在を見られたら困りますからね」
「そりゃそうね。これって、時速何キロで飛んでるの?」
「音速を超えてますよ。着きました」
「はやーい。料理番組みたい」
「料理番組?」
「ほら、もう作ってあるのを出してくるじゃない。って、そんなことどうでもいいわ。あ、駅の南側に移動して、ほら、あそこに校庭が見えるビルがあるでしょ。あの学校よ」
「了解。上空に到着しました」
「学校の屋上にパトカーを停車してから、ここの時間を止めてちょうだい」
「はい、奥さん。パトカー着陸。時間停止装置作動。止まりました」
「よーし。計画をはじめるわよ! 二人ともついてきて!」
 理恵は、パトカーから飛び出した。
「お、奥さん!」
 課長が言った。
「いいかげん、どんな計画か教えてくださいよ」
「いいから、いいから、ついてきて」
 理恵は、屋上のドアを開けて、校舎に入った。
「うわ、懐かしいなあ。十年ぶりだわ」
 理恵は、階段を降りて、二年B組の教室に入った。
「いた。直也だ♪」
 理恵は、高校生の直也を発見して、語尾に音符を着けた。
「きゃあ。高校生の直也だよぉ。かわいい~ 肌なんかスベスベしてるし~」
 理恵は、彫刻のように静止している直也を、ハートマークの瞳で見つめた。
「へえ、こんな髪形してたんだ。やだ、直也ったら、眼鏡のデザイン、このころから、ちっとも変わってないじゃない。おかしい」
 理恵は、楽しそうに笑った。
「あの、奥さん。お楽しみのところ申し訳ないですが、時間停止装置を作動させるにもエネルギーが必要でして」
「はいはい。わかってますって。課長さん、直也をパトカーに持ってって」
「は? 移動させるんですか?」
「そうよ。できないの?」
「いえ、できますけど…… 時間が止まってると、質量が倍になるんですけど」
「がんばってね!」
 理恵は、課長の肩をポンと叩いた。
「はあ……」
 課長はタメ息をついた。
「わかりましたよ。やればいいんでしょ、やれば」
 課長は、ブツブツいいながら、部下と一緒に彫刻のような直也を持ち上げた。
「重い~ これ担いで階段を上るんかい!」
「文句言わないの。うちに帰りたいんでしょ。明後日娘さんの誕生日だったわよね」
「はいはい。それを言わないでくださいよ」
 課長は、直也を担ぎながら、部下に言った。
「なあ、おまえ古典アニメのタイムボカンって知ってるか?」
「へ?」
 部下も、ひいひい言いながら、直也を担いでいるのだった。
「し、知りません。なんですかそれ?」
「そのシリーズの『ヤッターマン』ってアニメに、女ひとりと、男二人の三人組が出てくるんだよ。女がボスなんだが、名前はたしか…… ドロンジョだったかな」
「それが、どうかしたんですか?」
「いやな、そのアニメは、ドロンジョさまが、部下の男たちをこき使う話なのさ。オレはなんか、ボヤッキーになった気分だよ」
「男のもうひとりは、なんて名前なんですか?」
「忘れたよ」
 そんなバカな話をしながら、課長と部下は、なんとか直也をパトカーに押し込んだ。
「お疲れさま! さあ、もう一頑張りよ!」
「こんどは、どちらへ?」
「その前に、まだ運ぶ物があるわ」
「えっ! まだ、なにか運ぶんですか!」
「そうよ。つぎは、あたしを運ぶのよ。こっちは、軽いはずだわ」
「はあ……」
 三人は、また校舎に戻った。ヤング理恵は、下駄箱のところにいた。
「オッケイ。持ち上げて。スカートの中のぞいたら殴るからね。あ、胸にも触っちゃダメだからね」
「へいへい」
 と、部下と課長。
 ぐいと持ち上げる。
「お、重い!」
「なんですって!」
「冗談です!」
 課長は、あわてて叫んだのだった。
「わあ、すごく軽いなあ! よかったなあ!」
 三十分後。
「ひいひい、はあはあ、ふうふう」
 課長と部下は、なんとかヤング理恵も運び終わった。
「あのさあ」
 と、理恵。
「あたし、いま気づいたんだけど、理恵って、一階にいたわけじゃない。パトカーを屋上から、校舎の入り口に移動させれば、こんなに苦労しなくてもよかったんじゃない?」
「そ、そーいうことは、早く気づいてくださいよ!」
「あはは。ごめん、ごめん。じゃあ、移動しましょう」
 もう、家に帰りたい……
 と、課長は心から思ったが、そのためには、理恵に付き合わなければならないのだった。本当に大丈夫だろうか?
「で、どちらへ?」
 パトカーに乗り込んだ課長が言った。
「新大久保の商店街に行ってちょうだい。ったく、それにしても狭いわね。これ、なんとかなんないの?」
 直也とヤング理恵は、彫刻のように、時間を停止したときの形のままなのだった。マネキンを押し込んでいるような物だ。
「文句言わないでくださいよ。それより、商店街に着きましたよ」
「降ろして」
「着陸完了」
「オッケイ。ちょっと待ってて」
「ひとりで大丈夫ですか?」
「平気よ。すぐ戻るわ」
 理恵は、ひとりでパトカーから降りると、商店街のほうへ走っていった。
「課長」
 と、部下。
「時間停止で止めた人間を運ぶなんて、本部に知れたら、減給じゃすみませんよ。下手すればクビです」
「バカ野郎。その本部が消えちまったんだからしょうがないだろ」
「つまり、バレないってことですよね」
「ああ。バレない。バレるはずがない。バレないと言ってくれ」
「説得力ないなあ……」
 すると、紙袋を持った理恵が戻ってきた。
「お待たせ!」
「早かったですね」
「うん。この辺のお店はよく知ってるからね。さあ、計画の最終段階よ。どこか人気のないところがいいわ。そうね…… そういえば、学校の近くに、こないだつぶれた幼稚園があったはずだわ。あの辺りなら、人通りも少なくていいかも。移動して」
「了解」
 パトカーが浮上して、理恵の指示したつぶれた幼稚園に到着した。
「着きました」
「わかってると思うけど……」
「はいはい。二人を降ろすんでしょ」
「そうよ。幼稚園の建物の中に入れましょう」
「へーい」
 課長と部下は、また一苦労しながら、直也と理恵を運んだ。
「オッケイ。では、これに着替えてください」
 理恵は、紙袋から、派手なシャツと、派手なスラックスと、やはり派手なジャケットを二人分取り出した。
「な、なんですか、これは!」
「いいでしょ。チンピラに見えるわよね」
「いや、それはともかく、なんで、われわれが、こんなもんを着なきゃいけないんですか?」
「計画は簡単よ」
 理恵は、にっこりと笑った。


 8


 高校生の直也と、高校生の理恵は、狐につままれたような気分だった。
「こ、ここどこ?」
 理恵は、下駄箱で靴を履き替えているところだった。それが、つぎの瞬間、見たこともない、廃墟のような場所に移動していたのだ。
 直也も、キョロキョロと、あたりを見回していた。
「どういう現象なんだこれは。なんで、瞬間移動なんかしたんだ。いや、そんなはずはない。瞬間移動なんかできるはずは……」
 高校生の直也は、まだタキオン粒子理論を考えついてはいなかった。
「井上?」
 と、理恵。
「なんで、あんたがいるのさ?」
「それは、ぼくのセリフだよ。なんで藤崎さんがいるの?」
「あたしが知るわけないじゃん」
「ぼくもだよ。サッパリわからない」
「まあいいや。こんなとこ、さっさと出ようよ」
「うん」
「井上から先にどうぞ」
「そうだね」
 直也は、うなずいた。
「ぼくが実験台になるよ」
「へえ、男らしいこと言うじゃん」
「一応、男だから」
 直也は苦笑して、出口に向かった。
 すると。
「おっと。出てってもらっちゃ困るよ」
 派手な柄の服を着た、男二人が入ってきた。
「な、なんだ、おまえたち」
 と、直也。
「なんでもいいんだよ」
 と、年配らしい男のほうが言った。
「っていうか、なにがなんだか、オレらもわかんねえっていうか、とにかく、おまえらの味方じゃないのはたしかだな」
「藤崎さん!」
 直也は、とっさに、理恵をかばうようにして、あとずさった。直也の背中に隠れた理恵は、ちょっと、この名字しか知らない同級生をカッコいいかもと思った。
「おお、麗しいじゃないか」
 年配らしい男のほうが、直也たちに言った。
「オレらも、こんなことやりたくないんだが…… まあ、これも仕事でね」
「ホントにね」
 若いほうが、タメ息をついた。
「だれが、こんなバカなこと考えたんだか。やんなっちゃいますよ」
「文句言うなよ。しょうがないだろ」
「すいません、課長。じゃなくてアニキ」
「なにを言ってるんだ!」
 直也が叫んだ。
「ぼくたちを、どうするつもりだ!」
「どうもしねえよ」
 年配の男のほうが答えた。
「いや、どうもしねえんじゃ、いけなかったんだ。申しわけねえが、お嬢さんのほうは東南アジアに売りさばいて、ぼくちゃんのほうは、そうさなあ、アフリカの鉱山労働者にでもなってもらおうか」
「冗談じゃないぞ!」
 直也は、年配の男のほうに飛び掛かった。
「藤崎さん! いまのうちに逃げて!」
「う、うん……」
 理恵は、足がすくんだ。
「早く!」
「う、うん!」
 逃げなきゃ! 逃げて、助けを呼ばなきゃ!
 理恵は、必死に、自分を奮い立たせて、出口に駆け出した。
「おーっと、ダメダメ。逃げられないよ」
 若い男のほうが、理恵を捕まえた。
「くそーっ!」
 直也は、年配の男を殴った。
「ぐわーっ!」
 年配の男は、ぶっ倒れた。
「あ、課長…… じゃなくって、アニキ!」
 そのとき。
 ガブッ!
 理恵が、若い男の腕にかみついた。
「痛てててててっ!」
 若い男は、本気で飛び上がった。
 そこに直也がタックルをかませた。
「ぐえーっ!」
 若い男も、ぶっ倒れた。
「藤崎さん、早く!」
 直也は、理恵の手を取った。
「うん!」
 二人は、手をつないだ。そして、建物から逃げていった。

 パチパチ!
 拍手が聞こえて、隣の部屋から理恵が入ってきた。
「すごい、すごい! 名演技だったわ、課長さんたち!」
 理恵は、壁に開けた穴から、様子を見ていたのだった。
「冗談じゃないですよ」
 倒れていた課長と部下が立ち上がった。
「なんで、こんなことやなきゃいけないんですか」
「そうですよぉ」
 部下のほうの被害は甚大だった。
「見てくださいよこの歯形」
「わぉ。キレイな歯形ね。さすが、あたしだわ」
「もう~ マジで痛かったんですからね」
「あはは。ごめん、ごめん。でもこれで、あの二人は知り合うキッカケができたわ」
「でも、この時代の奥さんが、芸能界にスカウトされるのは、明日ですよ。そいつを防止しなくていいんですか?」
「それは心配ないと思うわ。こんな経験をしたあとで、見知らぬスカウトの誘いなんかに乗ると思う? それより、あの子の頭の中は、直也のことでいっぱいなんじゃないかしらね。思ったとおり、直也ったら、あたしを先に逃がそうとしてくれた。あれで感動しない女の子はいないわ。ホント、優しいんだから…… ちょっと涙が出ちゃった」
 理恵は、自分を守ろうとして死んだ直也を思い出して、本当に少し瞳が潤んでいた。
「さあ!」
 理恵は、涙をぬぐって言った。
「未来をサーチしてみましょうよ! あなたたちの家があるかどうかね!」

 三人は、パトカーに戻った。
「サーチします」
 課長が、次元サーチ装置を動かした。
「お、あるぞ。次元がある」
「やった!」
 理恵は飛び上がった。
「これで、あたしと直也が結婚してる未来も戻ったわけね!」
「待ってください、奥さん。まだ不安定なようなんですけど」
「どこが?」
「それがその…… 二〇一二年の、四月二〇日から先が、ぼやけてるんです。二十四世紀なんか、まるでカゲロウのようだ」
「二〇一二年の、四月二〇日って…… 直也が殺された日じゃない!」
「そのようです」
「どういうことよ。直也が死ぬのは避けられない運命なの?」
「いや…… どうなんでしょうね。でも、二十四世紀では、あなたは日本のキューリー夫人と呼ばれていますよ」
「ホント?」
 理恵は眉をひそめた。
「キューリー夫人って未亡人よ。まさか、あたしもそうなるんじゃないでしょうね?」
「奥さん。あなたがたが、何歳まで生きたかをお教えすることはできません」
「そうね…… でも気になって、寝不足になりそうよ。あなたの失言でね」
「いや、まいったな」
 課長は苦笑しながら言った。
「これはわたしの独り言なんですが、井上博士の米寿を祝うパーティーの写真が、わたしの時代の教科書に載っています。博士のお隣には、いささかお年を召してはいますが、とても魅力的な女性が写っていましたよ。そういえば、その女性は、あなたによく似ていたようです」
「まあ、ありがとう」
 理恵は、笑みを浮かべた。だが、すぐに、まじめな顔に戻った。
「でも、だったら、なぜ、直也が殺された日が不安定なの?」
「わかりません。おそらくこの日が、未来の分岐点なんでしょう。二〇一二年の、四月二〇日から先の未来は、まだ存在してないわけです。いえ、理論的には観測できない状況ですか?」
「いいえ。観測できないものは、存在していないのも同じよ。あたしが、直也の遺志を継いでタイムマシンを完成させた日も、まだ存在していないんだわ」
「ということは、奥さん。あなたは、元の時間には戻れない」
「あの日以降の未来には、あたしは存在しないってことね。あなたたちと同じように」
「そうなりますね。いえ、博士が殺害された日にも、あなたは存在しないようです。奥さん。あなた自身が井上博士が殺された日に戻るしかないようです。あなたにとっては、イヤな思い出しかない日でしょうが…… そこから、新しい未来を作るしかない」
「そうね…… あの日。なにか、あたしの知らない、重大なことが起こるんだわ」
「お送りしますよ。どうやら、こんどはあなたが仕事をする番のようだ」
「ええ」
 理恵は、覚悟を決めたようにうなずいた。
「あ、待って。あたし、おじいさんにスクーターを借りた…… のは、明日の出来事だから、返さなくてもいいのか。というか、借りた事実さえないわけね。ふう、なんか複雑なことになってきたわ」
「だから、過去に干渉しちゃいけないんですよ。タイムパトロールが必要なわけがわかったでしょ」
「ええ、本当にね」
 理恵は、苦笑を浮かべながらうなずいた。
「では」
 課長が、真剣な顔で言った。
「行きましょうか。未来の分岐点に」


 9


 理恵は、パトカーから降りた。二〇一二年の、四月二〇日。時間は、一時十分だった。
 とたん。
「きゃっ!」
 理恵は、激しいめまいに襲われた。
「奥さん!」
 課長が、あわてて理恵を支えた。
「ど、どうしたんですか!」
「き、記憶が、新しい記憶が、なだれ込んできた」
 理恵は、まだ頭を抱えながら、うなった。
「うーっ。頭が痛い。まいったわね。変わってしまった十年分の記憶よ。知恵熱が出そうだわ」
「ということは?」
 と、課長。
「あたし、女優にはなってない。あの日から、直也と付き合って、大学に行って、彼と一緒に研究活動してるわ。ふう…… でも、女優だった、もうひとつの人生の記憶も消えないのね」
「それは、時間旅行者のジレンマと呼ばれている現象です。あなたが、この時代に同化したんです。ちなみに、奥さんが発明した言葉ですよ」
「いま聞いた言葉を、そのまま使ったのかもよ」
 理恵は笑った。
「でも、たしかにジレンマね。パラドックスとも違う、不思議な感覚だわ。ありがとう、もう大丈夫。頭痛が治まった」
 理恵は、課長の腕を振りほどいた。
「では、よろしく」
 と、課長。
「娘の誕生日をお祝いさせてくださいね」
「ぼくも」
 と、部下。
「来月、結婚ですから、よろしくです!」
「ええ、がんばってみるわ」
 理恵は、二人にほほ笑んだ。
「ありがとう。あなたたちがいてくれたおかげで、どんなに心強かったか」
「奥さんなら、ひとりでもやり遂げましたよ」
 課長は、理恵に敬礼した。
 部下も、理恵に敬礼した。
 理恵は、二人に、おどけた調子で返礼すると、ひとり噴水広場に向かった。
 噴水公園は、あの日と同じだった。
 理恵は、あの男が座っていた場所を見た。だれも座っていなかった。ホッと息をついて、あの日と同じベンチに腰を下ろした。
 目の前を、若い女の二人連れが通った。あの日、理恵にサインを求めた二人だった。だが、彼女たちは、理恵をチラッと見たが、それだけだった。
 理恵は、またホッと息をはいた。ここまでは大丈夫。直也が死ななければならない因子は排除されているわ。
 なのに、いったい、なにが起こるというの?
 理恵は腕時計を見た。一時半に、五分早い時間だった。
 直也が歩いてきた。彼が手を振った。
 理恵は、立ち上がって、あたりを見渡した。コートの男の姿は見えない。
「お待たせ!」
 直也が駆け寄ってきた。
「ふう。今日は遅れなかったよ」
「う、うん」
 理恵は、うなずいた。まだ、コートの男が現れないか不安だった。もう、直也が殺されるところなんて、二度と見たくなかった。
「ね、ねえ。変な男を見なかった?」
「変な男?」
「うん。ちょっと、異常者ぽいヤツ。茶色いコートを着てたわ」
「いや、見てないな」
「そう…… だったらいいけど」
「大丈夫。ぼくが守ってあげるよ」
「まあ」
 理恵は、ニコッと笑った。
「あの日みたいに?」
「そうだね」
 理恵が演出した、あのつぶれた幼稚園の記憶は、ふたりの大事な思い出になっていた。彼らが付き合うようになったキッカケだから。
「あの、その……」
 直也は、照れくさそうに言った。
「えっと、なんか、言いにくいんだけど」
「なぁに?」
「えーと、よかったら、きみのこと、一生、守っていきたい。なんて、ダメかな?」
 理恵は、思ってもいなかった言葉に、ポカンと口を開けて直也を見つめた。
「イヤかい?」
 直也が、心配そうに聞いた。
「直也…… それって、まさか…… プロポーズ?」
「うん。そのつもり」
 理恵の心に、直也の言葉が、じんわりと染み込んできた。
「直也!」
 理恵は、直也に抱きついた。
「不安定の原因は、これだったのね!」
「へ?」
「この日、この時間に、あたしがプロポーズの返事をしてなかったから、未来が確定しなかったんだわ!」
「未来が確定? 理恵さん。デートのときは、研究の話はしちゃいけないんじゃなかったっけ?」
「うん」
 理恵は、直也の瞳を見つめた。
「そうよ。デートのときは、しちゃいけないの」
「じゃ、いまのは?」
「プロポーズの答えよ」
「えーと…… 難しい答えだったな」
「バカね」
 理恵は、瞳にたっぷり涙をためて答えた。
「イエスって言ったのよ」
「やった!」
 直也は、ガッツポーズを作った。
 理恵は、そんな直也を見てクスッと笑った。そして、彼の胸に顔をうずめた。
 もう大丈夫。すべて終わった。
 いいえ……
 違う。これは始まりなんだわ。あたしたちの新しい未来の。
「お帰りなさい。直也」
 理恵は、小さくつぶやいた。
「え? なに?」
「ううん。なんでもないの」
 帰って来たのは、あたしのほうかもしれない。
 理恵の瞳から涙が流れた。


 おわり。