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三月十二日。金曜日。


 彼は腕を組んで悩んでいた。
「どうしたんですか、河野さん?」
 わたしは声をかけた。
「ん? ああ、佐倉くんか」
 彼は顔を上げてわたしを見た。心なしか顔色が悪い。具合でも悪いのかしら? わたしは心配になった。
「顔色が悪いですよ。具合でも悪いんですか?」
「いや…… これから悪くなるかもしれないんだ」
「これから悪くなる?」
 彼の返答に、わたしは好奇心を刺激された。もっとも、彼と交わす会話の内容がどうであろうと、わたしはいつも彼に興味がある。だって彼は、わたしの片思いの相手だから。
 彼の名前は河野純一。うちの会社の、主に営業を担当している常務取締役。ああ、こんな風に言うと定年間近のオジサンをイメージするかもしれないけど、彼はまだ三十九歳。しかも独身。もうじき二十九になるわたしにとって、恋愛の対象になっておかしくないでしょ? それに彼ったら、若く見えるのよ。見た目は三十五ぐらいかな。
 わたしは聞き返した。
「またクライアントの文句を聞きに行かなきゃいけないんですか? 河野さん、今日はそんな予定入ってなかったはずですけど」
 わたし、彼のスケジュール把握してるのよね。べつに秘書というわけじゃないんだけど。
「佐倉くん。じつは、カクカクシカジカなんだよ」
 彼は言った。本当に『カクカクシカジカ』って。
「さっぱりわかりませんよ。カクカクシカジカなんて言われても」
「ダメか。小説じゃ、これで通じるんだが」
「いつもよりさらに錯乱してるみたい。なにか問題があるんですか?」
「いつもより? さらに?」
「冗談です」
 わたしは笑った。子供じみてるけど、好きな人って、からかってみたくなるのよね。
「まあいい。問題はこのビデオを見なきゃならないってことだな」
 彼は、目の前のビデオテープを指でトントンと叩いた。
「テープ?」
 わたしは、少しかがむような姿勢でビデオテープを手に取った。そのとき、伸ばしている髪の毛が垂れてきたので肩の後ろに払いのけた。もう、ずいぶん髪も伸びたわ。三年ぐらい前に、ふと彼が『髪の長い女性っていいよな』って言ったことがあって、それ以来、ずっと伸ばしてるのよね。
「それで、このテープのどこが問題なんですか?」
 わたしは聞いた。
「えっ? ああ、その」
 彼は、なぜか視線をわたしからそらして、一瞬どもった。どうしたんだろう?
「ええとね。こいつは呪いのビデオなんだよ。見た者は一週間後に死ぬってヤツ」
 彼の返答に、わたしは少しも驚かなかった。うちの会社には、この手の嫌がらせがよくある。またいつものことか。そう思った程度だった。
 うちの会社は小さな出版社で、医療関係の学術的な書籍をメインとしている。もっとも、社長の趣味で始めた園芸雑誌が、最近のガーデニングブームに乗って、今では収入の半分近くを占めるようになってしまった。まあ、儲かるわけだからいいことよね。
 で、もうひとつ。やっぱり社長の趣味で始めた映画雑誌も発行していて、こっちは万年赤字。その上、うちの編集者たちが、公開された映画を正直に酷評するものだから、ファンなんかから嫌がらせの電話や手紙がよく送られてくる。
「また嫌がらせね。どうせあのホラー映画でしょ」
「佐倉くん、あの映画見たの?」
「もちろん見ましたよ。子供だましだったわ」
「あ、そう……」
「河野さんも見たんですか?」
「まあ、一応」
「へえ」
 わたしは、イタズラっぽく言った。
「わたし、なんであの映画がヒットしたのかわからないわ。そう思いません?」
「うん。まあ」
「怖くなかったでしょ?」
「うっ……」
 彼が絶句しているのを見て、わたしはいよいよ意地悪そうな顔つきで聞いた。
「で、このビデオを見ることのなにが問題なんですか?」
「いやその…… くだらないことに時間を割かれるのは問題だなと」
「あらァ。でも本当に呪われたらどうします?」
「お、おい…… そんなことあるわけないだろ」
「わかりませんよォ」
 わたしは、哀れむような顔で彼を見た。そう。わたし、彼がホラー映画に弱いのを知っている。仕事がら、映画の試写会に出席する機会も多いのだけど、彼は極力、ホラー映画の試写会には出ないようにしていた。もしやと思って、前にお酒を飲みながら問いただしてみたところ、彼は観念したように、ホラーが大の苦手だと白状した。すごくカワイかったな。あのときの顔。
「佐倉くん」
 彼は、なんとか笑顔を作って冗談を言った。
「よかったら葬式には来てね。花輪なんか送ってくれるとうれしいな」
 わたしも冗談に付き合った。
「いいえ。河野さんは常務なんだから社葬にしましょう。安心してください。わたしがちゃんと仕切ります。荘厳に執り行いますね」
「ハ、ハハハ……」
 彼は、引きつった笑いを浮かべた。
 ごめんなさい。ちょっとやりすぎちゃった。
「うそうそ。冗談ですってば」
 わたしは、パッと明るい笑顔を浮かべた。
「どうせ、一応目を通さなきゃって、正義感に燃えていたんでしょ」
「正義感なんかあるもんか。吉岡たちに見ろって言ったのに、あいつらなにかと理由をつけてオレに押しつけていったんだ」
「そんなことだろうと思った」
 わたしは苦笑いを浮かべた。
「見るの付き合いますよ。この間、残業手伝っていただいたし」
「ホント?」
 彼はうれしそうな声をあげた。
 わたしはクスッと笑った。彼のこういうところも大好き。ぜんぜん気どらないところ。
「ええとその……」
 彼は、ばつが悪くなったらしく口ごもった。
 わたしはまだクスクス笑っていた。
「じゃあ、さっそく見ましょう。時は金なりですよ。わたし、早く第二四半期の営業損益の話をしたいんです」
 これはホント。わたしは営業の話をしたくて彼の席に来たのだから。
 じつはわたし、まだ二十八で(もうじき二十九だけど)、総務の部長なのよね。六年前に大学を卒業してすぐに入ったこの会社は、当時、株式会社になって三年しか経っていなかった。だからわたしは、すぐに責任ある部所を任せられた。もともと、うちは社長と彼を含む数人が作った会社で(だから、彼もこの若さで常務取締役なのよね)、これからみんなで頑張ろうってところだったの。おかげで、六年経った今は、小さいながらも中堅の出版社として業界でも認められる存在になった。もしも、大企業なんかに就職していたら、今のわたしは、まだお茶汲みをやってるかもしれない。
 ちなみに『もしも』じゃなくて、大学を卒業するころは、大企業に就職するつもりだった。わたしはこれでも東大生だったから、いくらバブルが弾けた後でも、まだまだ、大手に就職するチャンスは、ほかの四年制を卒業する女子に比べれば多かった。でも、ほんの冷やかしのつもりで参加した中小企業の説明会で、人事を担当していた彼に出会って、人生が百八十度変わってしまった。
 こんな風に言うと、自分の進むべき道を誤ったように聞こえるかもしれないけど、実際は、まったくその逆。今の仕事がすごくおもしろい。充実している。同僚と言うより、仲間と呼びたくなるみんなと、会社を大きくしていくことが、こんなに楽しいとは思わなかった。
 でもそれは、充実した気分の半分。いいえ、三分の一ぐらいかもしれない。本当は好きな人と毎日一緒にいられるから。説明会で見たときの彼は、弁舌が爽やかで、それでいて嘘のない正直な人だなと思った。思えば、あのとき一目惚れしてしまったのかもしれない。ああ、この会社に入ろう。まるで魔法にかかったように、わたしはそう決心してしまった。
「先に応接室に行っててください」
 わたしは彼に言った。ビデオデッキは応接室にしかない。
「コーヒー持っていきますから」
「うん」
 彼はうなずきながら、どっちが上司かわかんないなァ。と、つぶやいていた。
 本当はわたしも、あなたのことを『上司』なんて呼びたくない。べつの意味で。心の中でそう思ったけど、もちろん口には出さなかった。
 コーヒーを持って応接室に行くと、彼がビデオデッキの前でテープをセットしようとしているところだった。
「お待たせしました」
 わたしは、コーヒーを彼に渡した。クリームを少し。砂糖は入れない。ちゃんと彼の好みは知っている。
「サンキュ」
 彼はコーヒーを受け取ると、上司らしい態度でわたしにリモコンを渡した。
「では、再生してくれたまえ」
「はいはい。ただいま」
 わたしはクスクス笑いながら、リモコンの再生ボタンに手をかけた。
「よろしいですか。再生ボタンを押しますよ」
「どうぞ」
「本当によろしいですか? やめるなら今ですよ」
「あのね、きみ」
「どーなっても知りませんよ」
「もしかして、怖いのはきみのほうじゃないのか」
「わかりますか? なんかこの部屋に入ったときから鳥肌が立っているんです。なにかを感じるわ」
「お、おい……」
「アハハ。冗談です。上司をからかうのはこの辺にしておきましょう。でも、本当にこういうの弱いんですね。河野さんって」
「もう勘弁してよ。ごめんなさい。イジメないでください」
「ごめんなさい」
 さすがにやりすぎちゃったみたい。反省。ごめんね河野さん。
 わたしは再生ボタンを押した。
 画面に砂嵐が映った。そして雑音。あの映画のビデオと同じ始まりだ。映画ではこのあと、着物を着た女性が、和室で鏡に向かって髪を解いているシーンに変わって、その隅に無気味な少女がぼんやりと映る。そして、新聞記事がぐにゃぐにゃと崩れた映像になって、つぎに瞳のアップになる。それは人間の目というより宇宙人のような形だった。瞳の中に「貞」という文字が浮かんで、最後は、縁の欠けた井戸の映像で終わる。
 ところが、今わたしたちが見ているビデオは、最初の砂嵐が同じだけで、あとはかなり違うものだった。砂嵐のあと映ったのは、どこかリゾートホテルの一室を思わせる、明るい感じの洋間だった。雑音は消えて、洋間の窓ガラスに雪景色が映っていた。
「なんか、拍子抜けですね」
 わたしは映像を見ながら言った。
「ああ」
 と、彼はうなずいて、怖いよりぜんぜんいいよ。と言った。
 映像は続いた。洋間の隅から、白いワンピースを着た女性がゆっくりと歩いてきた。後ろ姿なので顔は見えない。長く伸ばした黒髪が、サラサラ揺れている。ヤダな。この人、わたしと髪型が似てるわ。そう思うとなんだか無気味かも。
 ビデオの女性は、部屋の出窓まで近づいていった。窓の縁に手をかけて、外の風景を見ている。映像はだんだん、女性の上半身をアップにしていった。そして、女性がゆっくりとこちらを振り向こうとしたとき。パッとシーンが変わった。
「うう、怖かった」
 彼が胸に手を当てながら言った。確かに、女性が振り向こうとしたとき、わたしもドキドキしちゃった。ホラー映画によくある手法よね。
 で、移り変わったシーンは、どこかの湖だった。水面にモヤのような霧がかかっている。どこかしら? 山中湖? 野尻湖かな? いや、外国かもしれない。映像にノイズが入っていて見にくい。
 また、映像がズーミングされた。水辺に人が立っている。やはり後ろ姿。今度は男性みたい。そこへ、さっきの女性と思われる人物が近づいてきた。髪がじゃまをして顔は見えないけど、同じワンピースを着ている。女性は男の隣まで来ると彼の腕を抱いた。男のほうは女性の腰に手を回した。ノイズの入った不鮮明な画像でなければ、ごく普通の恋人同士を撮影しただけのように思える。ところが、その男女は湖の中に向かって歩きはじめた。二人の足が水につかる。どんどん中に入っていく。二人は胸まで水に浸かった。
「心中でもするつもりかしら?」
 わたしは、先の展開に少しドキドキしながら言った。
「そう見えるね」
 彼が答えたとき、シーンが変わった。例の映画のように新聞記事が映った。これもまた不鮮明。小さな文字はもちろん判別不能。見出しの文字がかろうじて読める程度。しかもその文字には、特殊エフェクトがかかっているらしく、一文字一文字が大きくなったり小さくなったりと、まるでアメーバのようにうごめいている。
「これはわりと高度な技術ですね。でも、少し知識のある人なら、この程度のことパソコンがあれば処理できるわ」
 と、わたしは目を凝らしながら言った。
「そうだね」
 彼は、そう答えながら判別できる文字を読んだ。
「高…… 行方…… 変…… 発見。って書いてあるな」
「ですね。これって、本物の新聞を元にしてるのかしら」
「どうかなあ」
 つぎに、映像は瞳のアップに変わった。動物の目のようだ。犬かな? 音は雑音だけ。いよいよ呪いのビデオらしくなってきた。そして、やはりその瞳の中に文字が浮かんだ。その文字は『幸』という漢字一文字だった。
「幸? しあわせと読みたい気分だな」
 と、彼。
「希望的観測ですね。おそらく『さち』か『ゆき』でしょう」
「さっきの女性の名前かな?」
 あの映画の呪いのビデオでは、浮かんだ文字は女性の名前の一文字だったのだ。
「さあ?」
 わたしは首をひねりながら言った。
「でも、例の映画をモチーフにしているなら、そうなんでしょうね」
「だったら『ゆき』と読みそうだね」
「どうかしら? 映画では名前の一文字でしたから、これは幸子かもしれませんよ」
「そうか。言えてる」
 そう言っているうちに、瞳のアップは消えて砂嵐に戻った。でも、雑音に混じって鐘の音が聞こえる。リンゴーン、リンゴーンと。その音色は日本のお寺のものではなく、教会の鐘みたいに聞こえた。そして、砂嵐の真ん中に黒い点のようなモノが映った。それもだんだんアップになって形がハッキリしてくる。
「十字架だわ」
 わたしが言ったとき、ビデオは終わった。すべての映像が消えて音も消えた。
 ビデオの停止ボタンを押した。
「なんでしょうこれ?」
「わかんないよ。でも不吉な感じだよな」
「そうですね。気分のいいものじゃないわ」
 わたしは、デッキからテープを取り出しながらそう答えた。
「きみも、そんな風に思うんだ」
「あら。付き合ってあげたのにそんなこと言うんですか?」
「痛いとこ付くなあ」
「では、今度はわたしに付き合ってください。営業成績について語り合いましょう」
「喜んでお付き合いいたします」
 彼がおどけた声で答えたとき。応接室の電話がなった。
「おい、マジかよ」
 とたん、彼は青ざめた。あのホラー映画と同じだ。電話がかかってきたのよね。
「まさか。バカバカしい」
 わたしは、さすがにイラついた表情で立ち上がった。じつは、ちょっとだけ怖くなってる。
 受話器を取る。
「もしもし…… もしもし?」
 無言だった。
「ちょっと誰よ。冗談はやめて!」
 わたしは怒鳴った。これでは、本当にあのホラー映画と同じだ。ところが、つぎの瞬間、受話器からは、鐘の音が聞こえてきたのだ。リンゴーン、リンゴーンと。
「まさか無言か」
 彼がわたしに聞いた。わたしは、さすがに青ざめた顔で首を横に振った。
「なんだよ、おい。きみこそ冗談はやめてくれ」
「冗談なんかじゃありません。聞いてみてください」
「やだな……」
「お願いですから」
 わたしは、彼に受話器を差し出した。
「わ、わかったよ」
 彼は受話器を受け取って耳に当てた。そしてすぐに乱暴に受話器を下ろすと、応接室を飛び出していった。わたしは彼のあとを追った。彼は、社員たちが仕事をしているフロアを見渡していた。
「おい!」
 彼は大きな声を出した。
「今、内線を使ったヤツいるか?」
 社員たちは、彼の大声にキョトンと顔を上げたあと、なに言ってるんだかという表情で首を振った。
「河野さん」
 わたしは、知らぬうちに彼の腕を握っていた。震えている。
「あの、これって、どういうことなんでしょうか?」
 彼はただわたしと顔を合わせて、青ざめながら首を振っただけだった。
 ヤダ…… ホントに怖くなってきちゃった。


三月十三日。土曜日。


 オレは、酒の飲み過ぎで重い頭をなだめながら、ベッドを這い出た。もう昼過ぎだ。数年前に離婚して花の独身に戻ってから、週末は怠惰に過ごすことが多い。いや、正確にはここ一年ぐらいだ。離婚してしばらく経ったころ、取引先の女性と付き合っていた時期がある。あのころは週末といえばデートに忙しかった。その彼女とも一年前に別れて、今はオヤジ化に拍車がかかったって感じ。土日は日がな、テレビを見たりビデオを見たり本を読んだりして過ごしている。これも優雅って言うのかね?
 だが、今日はまた一段と、なにもする気が起きない。二日酔いのせいもあるが、原因はあのビデオだ。いや、二日酔いの原因からして、あのビデオが悪い。思い出すたび気味が悪く、ぜんぜん寝つけなかった。おかげさまで、朝方まで酒びたり。
 まいったよ。きのうのアレはなんだったんだ。なんであんな電話がかかってきたんだ。さすがの佐倉麗子も気味悪がって、あのあと営業の話がマトモにできなかった。そういえば、彼女には悪いことしたなァ。来週、酒でもおごったほうがいいかもしれない。
「佐倉麗子か……」
 オレは彼女の名前をつぶやいた。佐倉麗子。会社がまだ、どうなるかわからないほど小さかったころからの社員だ。中小企業を集めた就職説明会で、彼女に初めて会ったんだよな。まさか、東大の学生があんな説明会にきているとは思わなかった。さらに、うちなんかに入ってくれるとは、それこそ夢にも思わなかったよ。入ったら入ったで、性格が明るく仕事にも熱心。しかもフランス語と英語を流暢に使いこなす才女で、数字にも強い。
 そんな彼女とオレは、編集スタッフではなく、営業と総務の責任者として、同じ管理職の立場にある。立場上はオレが上司なのだが、中堅の出版社に成長したとはいえ、まだまだ小さい会社だ。彼女とは上下関係より仕事仲間という意識のほうが強い。実際、営業側の管理職同士ということで、よく二人で残業するし、会社が引けてから飲み屋で経営方針を話し合うこともある。仕事をしているときの彼女は、実に楽しそうだ。総合職を嫌う女性も多いが、彼女のような才女は、大企業に勤めて、女というだけの理由で才能が忙殺されるより、たとえ小さな会社でも、責任ある立場で仕事をするほうがいいに決まっている。
 だからといって誤解してもらっては困る。彼女とは純粋に仕事だけの関係だ。もちろんオレも健全な男だから、佐倉麗子のように知性と美貌を兼ね備えた女性に魅力を感じないと言ったら嘘になる。正直言って好きなタイプだ。いや、本当に正直に告白すると、オレは彼女のことが好きだ。タイプがどうとかじゃなく、彼女が好きなのだ。
 でもね。オレは十一歳も年の離れた部下に手を出すようなセクハラ野郎じゃないし、たとえ本気で彼女に告白したって、こんなオジサン相手にしてもらえるわけもない。今の彼女との関係を壊すだけだ。それだけは絶対にイヤだ。仕事の関係だけでもいい。彼女とは、これからもずっと一緒にいたい。
「ふう」
 オレはタメ息をついて、身体を引きずるように、誰も料理を作る者がいないキッチンに行った。冷蔵庫を開ける。二日酔いの胃に流し込むのは、ビールがいいかミネラルウォーターがいいか考えたあと、常識的にミネラルウォーターを出して、ボトルのままゴクゴクと飲んだ。
「ふう」
 またタメ息。
「ビデオを見た者は、一週間後に死ぬ。か……」
 ということは、運命の日は三月の十九日か。ぼんやりとそんな計算をしていると、リビングの電話が鳴りだした。反射的に身体が硬直した。イヤだあ。怖い。出ないぞ。オレは絶対に出ない。ワタクシ、本日はお休みです!
 五回目のコールで、留守番電話に切り替わった。これで鐘の音が電話のスピーカーから聞こえてきたら、もうマジで葬式の日取りを考えるぞ。いや、遺書が先か?
 などと、バカなことを考えていると、電話から聞こえてきたのは佐倉麗子の声だった。
「もしもし、佐倉です。緊急にお伝えしたいことがあって電話しました」
 オレは、その内容が例のビデオのことだろうと思った。それ以外に緊急の用事が発生するようなことに覚えがなかった。それにしても彼女の声に、ふだんでは考えられない緊迫感があるのが非常に気になった。
「ああどうしよう…… いらっしゃらないようなので、携帯のほうにかけ直します」
 オレは、彼女が電話を切る寸前に受話器を取った。
「もしもし、佐倉くん?」
「あっ、いらっしゃったんですか!」
「ごめん。今まで寝てた」
「すいません、お休みのところ。でも、どうしてもお伝えしたくて。ああ、どうしよう。じつは、大変なことが起こったんです」
「ちょ、ちょっと、落ち着いてくれ。それに、あんまり脅かさないでほしいな」
「わたしもそうしたいんです。あの…… 今日はお忙しいですか?」
「今まで寝てた男が忙しいわけないよ」
「そうですね」
 佐倉麗子は、ちょっとだけ緊迫感のとけた声で言った。
「じつは電話では話しにくい内容なんです。もしよかったら、これから河野さんのお宅にうかがってもいいですか?」
「うちに?」
 オレは戸惑った声を出した。いくら会社の部下とはいえ、彼女は女性だ。何人かで来るならともかく、たった一人で男の部屋に来ると言うのはマズイんじゃなかろうか。いくらオレが彼女の守備範囲ではないとはいえ、一応、独身男性だぜ。
「いやその、どこか外で会おうよ」
「落ち着いて話がしたいんです。ご迷惑でしょうけど」
「迷惑ってわけじゃないけど……」
「ごめんなさい。でも、河野さんに、わたしのうちにきていただくのは申し訳ないです」
 いや、それはもっとマズイ。上司が部下の、それも独身女性の部屋に行くなんて。
「わかったよ。でもきみ、オレのマンション知ってるの?」
「緊急の場合を考えて、取締役の方の住所は手帳に控えて、いつも持ち歩いています」
「さすがだね。オレなんか、社長の引っ越し先も知らないよ」
「河野さんらしい」
 佐倉麗子の声から、クスッと笑いが漏れた。
「河野さんの声を聞いたら、だいぶ落ち着きました。とにかく、すぐに行きます。わたし今、渋谷ですから、三十分ぐらいで行けると思います。では後ほど」
 佐倉麗子は電話を切った。
 まいったな。三十分で来るって?
 オレは部屋の中を見渡した。
 ヤバイ。脱ぎ散らかした洗濯物が散乱している。まあ、あの辺は洗濯機に放り込めばいいとして、掃除機ぐらいかけておくか。コーヒー豆あったかな? 待て待て、それ以前に着替えをしなきゃ。違う。顔を洗って不精髭を剃るのが先だ。うわあ、髪の毛もグチャグチャじゃないかよ。オレは慌てて、バスルームに駆けこんだ。
 と、こんなドタバタを勝手に演じていると、インターフォンが鳴った。電話があってから四十五分後だった。
「いらっしゃい」
 オレはドアを開けた。
 紙袋を下げた佐倉麗子が立っていた。カメラ屋の袋だ。だがオレは、紙袋よりも彼女のファッションのほうが気になった。喪服というほど大げさでもないが、その黒いスーツ姿は、たった今、通夜から帰ってきたような雰囲気だった。いきなり不吉な感じだぞ。
「ああ、よかった」
 オレの気持ちとは裏腹に、佐倉麗子はホッとした顔を浮かべた。
「河野さんの顔見たらホッとしちゃった。さっきまでわたし、一人でどうしようかと思って」
「なにがあったの? そんな服まで着て」
 オレは怪訝な表情で聞いた。
「ああ。これは関係ないです。今日親戚の法事があって、その足できたものですから」
「なるほど」
 オレは、理由が判明して多少安心した。
「まあ、汚いところだけど上がってよ。ああ、そこのスリッパ使ってください」
「はい。失礼します」
 佐倉麗子は、靴を丁寧に揃えて脱ぐと、もう一度、軽く会釈しながら部屋に上がった。
「とにかく話を聞こうか」
 オレは彼女をリビングに通して、すぐにそう言った。そのとたん、さっき、二人分のコーヒー豆が残っているのを確認したことを思い出した。
「失礼。まずはコーヒーでも入れよう」
「どうぞ、おかまいなく。ちなみに、紅茶があればそっちのほうがいいです」
 佐倉麗子はそう答えたあと、冗談ですよ。コーヒーでいいです。と笑った。いつも通りの彼女だ。なんだ、脅かしやがって。こりゃ、それほど重要な話じゃないな。オレは勝手にそう思った。
「なんか不思議ですね」
 佐倉麗子は、リビングで待っていないで、キッチンでコーヒーを入れているオレのそばに立っていた。
「なにが?」
「河野さんの部屋。このキッチンもそうだけど、生活の匂いがないわ」
「寝に帰ってくるだけだからね。女房と別れてから特に」
「離婚なさったのいつでしたっけ?」
「えっ? ええと」
 オレは、女房と別れた正確な年月日が出てこなかった。こんなもんだよ離婚なんて。
「あれは確か…… 佐倉くんが入社する少し前だったから、五年ぐらいかな」
「それなら六年ですね」
「そうか。営業のくせに数字に弱いなオレ」
「お子さんは?」
「いないよ」
「別れた理由って、なんだったんですか?」
「まあ、いわゆる性格の不一致だな。彼女みたいなお嬢様タイプは、オレには合わなかったんだよ。向こうもそうだろうけど」
「ふうん。お嬢様タイプか。わたしとは正反対の女性ですね」
「ハハハ。そうかもね」
 オレは、笑いながら答えると、ふとコーヒーを入れる手を止めた。
「佐倉くん。なんでそんなこと聞くの?」
「あっ、ごめんなさい。立ち入ったことを……」
「別にそれはいいんだけど」
「すいません。なんとなく後学のために聞いちゃおうかな、なんて思ったりして」
「結婚の予定があるのかい?」
「ないです、ないです!」
 佐倉麗子は、慌てて首を振った。
「怪しいな」
 オレはニヤッと笑ってみせた。
「慌てて否定するところなんか、よけい怪しい」
「本当にないですってば。相手もいませんよ」
「大丈夫。誰にも言わないから、上司に話してしまいなさい。頼りない上司だけど」
「ホントですってばァ。それに河野さんは頼りなくなんかないですよ」
「信じられないな。いや、オレが頼りがいのある男なのは信じるけど、きみぐらい美人だったらいくらでも相手がいるだろうに」
「頼りがいがあるとまでは言ってませんけど」
 佐倉麗子はクスクス笑った。だが、すぐに真顔に戻って言う。
「でも河野さん、そんなにわたしを結婚退職させたいんですか?」
「おっと、それは勘弁してくれ。結婚しても仕事を続けてください。きみに辞められると困る。非常に困ります」
「了解しました」
 佐倉麗子はほほえんだ。
「頼りにしてもらえるってうれしいですね。あっ、でも、本当に結婚の予定なんかないんですよ。相手がいないのも本当です」
「ふうん。もったいない」
 オレはつぶやいた。
「え? なんですって?」
「いや、なんでもない。もうすぐコーヒー入るから、そんなところに立ってないで、リビングで座ってなさい」
「わたし、河野さんを見ていたいな」
「は?」
「あっ…… いえその、わたしスーツ姿の河野さんしか見たことないから、ジーンズ姿なんて珍しくて。こうしていると、ふだんにも増して若く見えますねえ」
「それは、本当に若いからだよ」
「アハハ。ごめんなさい。そうですよね。でもホント、三十代の前半に見えますよ」
「残念ながら、その三十代も風前の灯なんだけどね」
「五月二十日でしたよね、誕生日」
「うん。四十かァ。なんかオレも年だよな」
「そんなことないですよ。わたしとそんなに変わらないわ」
「おいおい。まだ二十代のくせになに言ってるんだ」
「わたしだってもう、とっくの昔にお肌の曲がり角ですよ。もうじき二十九だし、高校生ぐらいの子から見れば、立派なオバサンだわ」
「三十前でオバサンだったら、オレなんかどうなるわけ? おジイさんか?」
「そこが男と女の違いですよ。男のほうが絶対、老けるのうまいわ」
「うまい?」
「そう。俳優を見るとわかりますよ。男優は年取ってもセクシーな人って多いけど、年取った女優は汚いだけです。ズルイですよね。同じ人間なのに」
「なるほどねえ。一理あるような気もする」
「でしょ。だからわたしたちだって、街で並んで歩いたら、誰も十一歳離れてるなんて思いませんって。むしろ、ちょうどいいくらいだわ。年の差なんてぜんぜん関係ないです」
「そうかなァ」
「そうですよ。わたしが保証します」
「まあ、素直に喜んでおくよ」
「そうです。人間素直が一番」
「なんかバカにされてる気もするなあ」
「してませんってば」
 やれやれ。まったく彼女は部下らしくない部下だ。違うか。オレが上司らしくないんだ。そう思って苦笑いを浮かべたとき、オレはふと、彼女の言葉が気になった。
「佐倉くん」
「はい?」
「そういえば、なんでオレの誕生日知ってるの?」
「えっ、ああ、あの、それは……」
 彼女は珍しく口ごもったあと、いつも通りの口調で答えた。
「一応、取締役の誕生日とか結婚記念日とかメモってあるんです。なにか、わたしが役に立つこともあるかと思って」
「ふうん」
 オレは今度こそ素直に感心した。
「きみは、うちなんかに就職しなきゃ、大企業で有能な秘書になれたな」
「誉めてるんですか?」
「もちろん。皮肉なんか言ってないよ」
「では、わたしも素直に喜ぶことにします。ですけど、今の仕事は楽しいし、やりがいもあります。いい会社に就職できたと思っています」
「そう言ってくれるとうれしいよ」
「本当ですよ」
「給料は上がりませんよ、総務部長殿」
「あら残念」
 佐倉麗子は笑った。
「コーヒー入ったよ。リビングに行こう」
「はい」
 オレたちはリビングに移動して、ソファに腰を落ち着けた。
「さてと」
 オレは、コーヒーに口を付けてから、彼女の持ってきたビックカメラの紙袋を指差した。
「さっきから気になってたんだけど、その大きな紙袋はなに?」
「カメラです。ポラロイドカメラ。来る途中に買ってきました」
「なんでそんなもの」
 と、オレは言ってから思い出した。あの映画では、呪いのビデオを見た主人公が自分を写真に撮ると、顔の部分だけが変形して写っていたのだ。
「まさか……」
 オレは、ごくりとつばを飲み込んだ。
 すると、佐倉麗子は慌てて首を振った。
「違いますよ、あの映画とは。ただ、不思議な現象が起こるのは事実です」
「どんな?」
「それは、見てからのお楽しみです。まあ、楽しくもないですが」
「いったい、なにが起こるんだ?」
「すぐにわかります。すいません。これ箱から出してもらえますか?」
「ああ」
 オレは、佐倉麗子から新品のポラロイドカメラの箱を受け取った。箱に巻かれたテープを汚くならないように注意しながら剥がす。これがなかなか難しい。
「ビッと破っちゃっていいですよ」
 佐倉麗子は、ポラロイドのフィルムを出しながら言った。お許しが出たので、オレは乱暴にテープを剥がした。そして、箱から出したカメラを佐倉麗子に渡した。
「ありがとうございます」
 佐倉麗子は、カメラにフィルムを入れた。
「河野さん。こっち向いてください」
「オレを撮るの?」
「ええ」
「なんか怖いな」
 パシャッ。フラッシュが焚かれた。まだ心の準備ができてなかったのに……
 カメラからフィルムがニューッと出てきた。佐倉麗子は真剣な顔で、映像が出てくるフィルムをジッと見ている。
「出てきた…… やっぱり。思ったとおりだわ」
 佐倉麗子は、映像の出たフィルムを見ながらつぶやいた。
「どうぞ見てください」
 オレはフィルムを受け取った。なんか見るのが怖い。でも見たい。オレは思い切って写真を見た。
 なに? なにこれ? なんなのこれ?
「どうですか。驚いたでしょ」
「驚いたっていうか…… どういう仕掛けだい?」
「仕掛けなんかありません。これは普通のカメラです。フィルムも普通です」
「でもだって、これはなんだ?」
 そこに写ったオレは、どういうわけかタキシードのような服を着ていた。レストランのボーイが着るようなヤツじゃなく、結婚式で新郎が着るような豪華なヤツ。モーニングって言うんだっけ? いやエンビだったかな? どっちでもいいけど、とにかく新郎みたいなヤツだ。それ以外は普通だった。背景に写っている部屋も、顔も異常はなかった。ただ服装だけがラフなシャツとジーンズではなく、結婚式の新郎に変わっているのだ。
「今度はわたしを撮ってください」
「あ? ああ」
 オレは、訳がわからないまま、目の前に座る佐倉麗子を撮影した。数分後、フィルムに映った彼女は、ウェディングドレスを着ていたのだった。それ以外はまったく異常はなかった。
「なにこれ? なんでこうなるの? どーいうこと?」
 さすがにオレの頭は錯乱していた。しかし、理解不能な現象に錯乱はしているが、恐怖は感じなかった。この写真は恐怖というより…… むしろギャグに近い。
「落ち着いてください河野さん」
「落ち着いてるよ。落ちついているとも。いや、ある意味、落ち着いてないかもな。こんなカメラ初めて見た。どういう手品だ」
「手品なんかじゃありませんってば」
 佐倉麗子は、バッグの中から撮影済みのポラロイドフィルムを取り出した。
「これ、今日の午前中に撮ったものです」
 それは、どこかのお寺の境内で、佐倉麗子と彼女に良く似た美人のオバサンが映っている写真だった。隣にいるオバサンは普通の服だが、やはり佐倉麗子だけがウェディングドレスを着ているのだった。お寺とウェディングドレス。ミスマッチもはなはだしい。
「わたしの親戚が法事にポラロイドカメラを持ってきていて、母と並んだところを撮ってもらったものなんです」
「これお母さん? 親子揃って美人だね」
「ありがとうございます。母に伝えておきますね。いえ、そーじゃなくて」
「わかってる。これを見て、きみはビックリしたと」
「そうです。こんなの誰にも見せられませんよ。大慌てで、大事な用事を思い出したとか嘘ついて法事を抜け出してきました。そのあとすぐ、河野さんに電話したんです」
「なるほど。経緯はよくわかった。しかしこの現象はいったい…… まさか、これがあのビデオの呪いか?」
「そうとしか考えられません。けど、これって呪いというのでしょうか?」
「なんかバカにされてるみたいだよな」
「まったくです。頭にきちゃうわ」
「でもさァ。なんでこんな現象が起こるのかね。物理的に説明できないよ」
「だから呪いなんですよ。ねえ河野さん。もっとわたしを撮ってみてください」
 佐倉麗子はソファから立ち上がった。
「撮ってどうするの?」
「せめて、原因を究明する努力をしましょうよ」
「う、うん」
 オレは、普通に立っている彼女や、座っている彼女や、ベランダに出た彼女など、いろいろな場所、いろいろな角度から彼女を撮影した。撮ったそばからカメラを佐倉麗子に渡して、オレも同じように撮影してもらった。けっきょく、彼女が買ってきたフィルムを全部使ってみたが、三十枚撮影した写真の全てが、例によって『変形』していた。服装だけが、新郎と新婦に変わっているのだ。どう見ても合成という不自然さがないほど、完璧に変わっている。驚異的な現象だ。
「普通のフィルムも買ってきました。河野さんのカメラでも試してみましょう」
「そうだな」
 まさかポラロイドカメラだけに起こる現象だとも思えなかったが、今はあらゆる可能性を追求してみるべきだった。というか、そうすること以外、思い浮かばなかった。
 オレは、オートフォーカスのコンパクトカメラを引っ張り出してきた。フィルムを入れて同じように佐倉麗子を撮った。オレも撮影してもらった。
「河野さん。セルフタイマーで並んで写りましょうよ」
「そうだな。そのパターンはポラロイドで撮らなかったもんな」
 オレは、カメラをテーブルに乗せると、佐倉麗子を基準にして構図を決め、セルフタイマーをセットしてシャッターを押した。
「河野さん、早く早く!」
「はいよ」
 オレは慌てて、彼女の隣に並んだ。
 カシャ。
「もう一枚撮ってください」
「ああ」
 セルフタイマーをセット。
 今度も同じように彼女の隣に並ぶと、佐倉麗子は、オレの腕に抱きついてきた。
「お、おい」
 カシャ。
「ダメですよ、今、河野さん横向いた」
「だって、きみが急に腕なんか組むから」
「重なった部分を見たいんです」
「それはわかるけど、べつに顔が横を向いていてもいいじゃないか」
「だって、こんな写真ですよ。写真屋さんがどう思うか考えてみてください」
「どうって? どう思うんだい?」
「絶対に、バカな新婚カップルだと思われますって。どうせそう思われるなら、楽しんでる顔をしていたほうがいいじゃないですか」
「そうか? 確かにバカだと思われるかもしれないし、実際、バカバカしい気もするけど、だからって楽しむ必要はないじゃないか」
「悲観的になってもしかたないじゃないですか。こんなバカでもやってないと、逆に気が滅入ります」
「そ、そうか。ごめん」
 オレはいきなり反省した。彼女の妙な明るさはわざとだったのか。
「もとはと言えば、オレがあんなビデオを見るの、付き合わせたのがいけないんだよな。オレの責任だ」
「違う!」
 佐倉麗子は叫んだ。
「あっ、ごめんなさい。大きな声を出して。でも違うんです。付き合うと言ったのはわたしだし、河野さんのせいで、あんなビデオが送られてきたわけじゃないんですから」
「まあ、そう言ってくれるとホッとするけど」
「それにね河野さん。わたし、確かにビックリしたけど、怖いって感じはないんですよ」
「そうなんだよな。不思議と恐怖は感じない」
「でしょ。河野さんが怖くないんだから、わたしなんてそれこそ……」
「それこそ?」
「アハハ。ごめんなさい」
「ちぇっ。どうせオレは怖がりですよ」
「はいはい。スネないで、写真を撮ってください」
「へーい」
 と、そんなこんなで、三十分ぐらいかかって、やっと三十六枚すべてを撮影した。
「もう一本ありますけど」
「もういいよ。現像出しに行こう」
「ええ」
「いや、きみは待っててくれ。近くだから、ちょっと行ってくる」
「河野さん。お腹は空きませんか?」
「お腹?」
「こんなときになんですけど、わたし法事を抜け出してきたから、お昼を食べていないんですよ。河野さんも、電話したとき起きたばかりって言ってたでしょ?」
「そう言えば、少し空いてきたかな」
 本当は、あまり空いていなかった。まだ二日酔いから回復しきっていない。だがそう言うと、彼女がお昼を食べにくいだろうと思って嘘をついた。上司だって部下に気を使うのだ。
「よかった。だったら現像ができる間、お昼にしませんか?」
「そうしよう。待てよ。フィルムがもう一本あるって言ってたよね」
「はい」
「念のため、外でも撮ってみようか」
「賛成です」
「じゃあ、行こう」
 オレたちは、写真屋に向かう道すがら、外でも同じようにお互いを撮影した。少しばかり恥ずかしかったが、道を歩いている人にカメラを渡して、二人で並んでいるところも何枚か撮ってもらった。このときも彼女は腕を組んできて、よけいに恥ずかしかった。ところが佐倉麗子のほうは、一度家に帰って着替えてくればよかった。こんな喪服みたいな服じゃ変に思われますよね。なんて、トンチンカンなことを言うだけで、少しも恥ずかしいという感情はないようだった。これがジェネレーションギャップであろうか。才女といえども、佐倉麗子は、まだ二十八歳なんだよな。
「さて。なにを食べましょうか?」
 フィルムの現像を出し終わると、やっと落ち着いたと言いたげに佐倉麗子が聞いてきた。
「近くにイタリア料理の店があるよ。ファーストフードがよければ、マックとケンタッキーもある。もちろん、中華料理屋はたくさんある」
「河野さんは、なにが食べたいですか?」
「スパゲッティーがいいかな」
「だと思った」
「なんで?」
「だって、イタリア料理を最初に言ったから」
「ふうむ。深層心理を見抜かれたか」
「わたしも見抜いてほしいな」
「おっと失礼。マドモアゼルには、フランス料理が良かったかな?」
「違う違う」
 佐倉麗子は、手を振りながら笑った。
「まさか鮨か?」
「違いますってば。河野さん、家庭料理なんて食べてないんじゃありません?」
「家庭料理? まあそうだね」
「自分でも料理なんて作らないでしょ」
「作るよ」
「うそ」
「ホントだって。お湯を沸かしてカップに注いで三分待つ」
「それは料理ではありません。まったくもう。これだから男の一人暮らしは」
「気楽でいいよ」
「だめですよォ。栄養が偏ります」
「ビタミン剤を飲んでます」
「不健康です。河野さんは、会社にとって大切な人なんですから、もう少し健康のことを考えてください」
「そう言われてもねえ」
「よかったら、わたしが作りましょうか?」
「突然、なにを言い出すんだか」
「じつはわたし、こう見えても料理は得意なんです」
「意外だなァ」
「あっ、ひどい。これでもちゃんと『女』してるんですよ。ねえ、わたしの手料理、食べてみたくありません?」
「それはぜひ。と言いたいところだけど、三十分後には現像が上がるんだよ。昼なんか軽く済ませよう」
「なんだ残念。そうだわ。お昼なんかじゃなくて、夕食を作ってあげますよ」
「はァ?」
「そうしましょう。決定です。たまには栄養のあるものを食べてください」
「いや、あのね。ぼくの健康を気づかってくれるのはうれしいし、佐倉くんの腕を疑うわけでもないけど、そんなことしてくれなくても……」
「気にしないでください。わたしが作りたいだけですから」
「でも、それは」
「そういうことで、お昼はイタリア料理を食べに行きましょう」
「人の話を聞きなさいってば」
「大丈夫です。河野さんの言ってるお店わかりますよ。駅前にあるヤツでしょ。来るとき、看板が見えました」
「そうだけど、そうじゃなくて」
「もうお腹ペコペコです。さあ、行きましょ」
 佐倉麗子は、オレの腕を引っ張って歩きはじめた。
「まったく、きみって人は」
 オレは肩をすくめて苦笑いを浮かべた。かないませんよ。でも、こういうハキハキした女性は嫌いじゃないんだよなオレ。
 で、軽く食事をすませてから、オレたちは現像を取りに行った。アルバイトの女の子が、われわれの顔を見てクスッと笑った。ううむ。やっぱバカだと思われてる。まあ、いいけど。
 店を出た途端、佐倉麗子が興味津々の顔でプリントの入った袋を開けた。
「うわ。見事ですよ」
「どれ」
 オレはざっと写真を見た。どれもこれも、彼女が言うとおり見事な婚礼写真だった。オレの本当の婚礼写真、つまり、別れた女房との結婚式で撮った写真だって、こんなに枚数はなかったはずだ。
「すごいなあ。感心するよ。とんでもない呪いだ」
「ねえ」
 佐倉麗子もうなずいた。
「とにかく、部屋に戻ってじっくり見てみましょうよ」
「そうだな」
 オレたちは、部屋に戻って写真を観察してみた。なんど見ても、服装が新郎新婦に変わっていること以外の異常はなかった。いや、だからこそかえって問題があるとも言える。
「なんか、絶対、人には見せられない写真だな。猛烈に誤解されるぜ」
「激しく誤解されますね」
「まいっちゃうなあ。これは非常に由々しき事態だ」
「そうだわ。いいこと思いつきました」
「なに?」
「いっそのこと、結婚しちゃいましょうか、わたしたち」
 ガクッ。オレはズッコケた。
「まじめに考えろってば」
「でもまさか、こんな呪いで死ぬってことはないでしょ?」
「そうだろうけど、一生このままだったらどうするよ。写真を撮ったら、いつも新郎新婦になっちゃうんだぞ」
「だったら、ウェディングドレス着て暮らそうかな」
「それは名案。結婚する前にウェディングドレス着ると、婚期が遅れるらしいぜ」
「うそ!」
「ホント、ホント」
「ちょっと待って。もしかしてわたし、もう着たことになっちゃうのかしら?」
「これだけ写真があればそうだろうね」
「そんなのってないわ! 不可抗力ですよこれは!」
 佐倉麗子は、真剣な顔でオレに訴えた。
「オレに言われても困る」
「ああ、どうしよう。ただでさえ行き遅れてるのに、こんなバカげたことで、もっと婚期が遅れるなんて、むごすぎます」
「アハハハ!」
 オレは笑った。
「うそうそ。婚期が遅れるなんてデタラメだって」
「ひどーい!」
 佐倉麗子は、高校生の娘がやるように頬をプーッと膨らませた。
「そうかァ。佐倉くんは自分でも行き遅れと思ってるんだ。意外だね」
「河野さんのイジワル」
「やったぜ。ついに佐倉くんをからかうことに成功した」
「怒った。許しません」
「なんだよ。いつもオレをからかって遊んでるのはきみのほうだぞ」
「部下が上司をからかうのはいいんです」
「逆だろそれ」
「いいえ。上司がやったらセクハラです」
「うっ…… 納得はできないが、なんか一理あるような気がするのはなぜだ」
「それは、わたしのほうが上手だからですね」
「ちくしょう。いつかみてろ」
「いつでも受けて立ちますよ」
「などと、バカ話している場合じゃないよな」
「急に冷めないでくださいよ」
「マジでどうする?」
「確かに困りましたねえ」
「あんまり困ってなさそうだぞ、その言い方」
「だって、写真を撮られないように気をつけてれば、当面、生活に支障はないし」
「だからと言って、いつまでもこのままでは、すごく不便だぞ」
「そうですよねえ。旅行にも行けませんよね」
「忘年会でもカメラから逃げ回らなきゃ」
「それは、自分が写真を撮る係りになればいいんですよ」
「佐倉くんって、すごい楽観主義者だな」
「そうかしら?」
「そうだよ。よく落ちついていられるよな」
「わたし一人だからじゃないからですよ。河野さんがいてくれるから」
「オレ?」
「ええ。同じ境遇の人がいるから心強いんです」
「同病相憐れむだな。確かに一人より心強いが、問題の解決にはならない」
「解決すると思いますか?」
「きみは思わない?」
「だって呪いですよ」
「本当にこれが呪いだとしたら、それを解く方法があるんじゃないか?」
「たとえば?」
「そうだなあ……」
 オレは腕を組んでしばらく考えた。ふと、ビデオの映像が頭に浮かぶ。男と女が映っていた。彼らは湖で心中しようとしているように見えた。
「今思ったんだけどさ。あのビデオの二人は、本当に心中したんじゃないかな」
「だとすると、どうだと言うんですか」
「心中って、結ばれなかった男女が自ら命を絶つことだろ。だから、ビデオを見た者に、自分たちが果たせなかった姿を、強制的にさせちゃう呪いをかけたんだ。オレたちの姿は呪いとリンクしてるんだよ」
「え~っ、呪いとリンク? そんなことって、あり得ますかァ?」
「あり得るもなにも、科学で説明できない現象に直面してるんだぞ」
「ごもっともです。う~ん。そうかァ、心中した男と女の怨念か。うん。当たってるような気がしてきました。いいえ、きっとそうだわ。河野さん冴えてますね」
「だろ。だから、二人の霊を供養してやれば、呪いが解けるんじゃないかな」
「常識的にはそうですよね。呪いが実在すること自体、常識的じゃないですけど」
「なにもかも未知の世界だよ。とにかく、お寺に行って供養してもらおう」
「あのビデオをですか?」
「そう」
「待ってください。わたしも今思いだしたんですけど、あのビデオに新聞記事のような映像がありましたよね」
「あったね」
「あれって、本当に新聞記事なんですよ。二人が心中したときの記事なんだわ」
「だろうね」
「つまり、あの二人は、自分たちを見つけてほしいと思ってるんじゃないですか?」
「ええっ! 湖に沈んでる死体をか?」
「そこまで言わないにしても、自分たちが存在していたという証しをです」
「どういうことだよ」
「わたしにもよくわかりませんが、たとえば、ちゃんとした名前を調べるとか、生前の二人の写真とかです。そういうものを持って供養したほうが確実だと思います」
「う~ん。それはそうだろうけど」
「待って待って、ひらめきました。供養じゃなくて、結婚式を挙げてあげたらどうかしら?」
「なんだって?」
「結婚式です」
「おいおい、なにを言い出すんだか」
「だって、考えてみてくださいよ。河野さんの仮定によれば、わたしたちが、写真でこんな姿になってしまうのは、彼らが結婚式を挙げたかったという怨念が…… いえ、心残りがあったからなわけでしょ。だったら、供養するより、結婚式を挙げたほうがいいですよ」
「そうかねえ」
「そうですよ。わたしがビデオの彼女だとしたら、そう望みますね」
「女として?」
「そう。女として」
「すさまじい結婚願望だな。死んでまで願望するか」
「それって、わたしのことですか?」
「い、いや…… 女性全般として」
「わたしの考えが、女性全体の意見を代表してるとは言いませんが、本当に愛していた男性とだったら、そう思うかもしれませんよ。死んだあとでも」
「まるで小泉八雲の世界だな」
「まさしくピッタリじゃないですか、この場合」
「そうか。そうだな」
 オレは苦笑いを浮かべた。
「しかし、突飛なことを考えるねきみは」
「こんな非常識な現象を体験して、突飛もなにもないですよ。そのぐらい意外じゃなきゃ呪いは解けないんじゃないですか?」
「まあ、そうかもね」
「でしょう。だんだん希望が出てきましたね。わたしたちがあの二人の代理で結婚式を挙げれば、きっと呪いが解けるんだわ」
「代理? オレたちが?」
「そうですよ。だからわたしたち、あんな姿で写真に写るんじゃないですか」
「う~む。理屈は通ってるような気がするけど、でもなあ、ホントにそうかなァ」
「絶対にそうですってば。間違いないわ。これでなにもかもハッキリしましたね」
「わかったよ。それが仮に正しいとしよう。でもきみはそれでいいのか?」
「どういう意味ですか?」
「オレはいいよ。どうせバツイチの中年だ。なんだってやってやるさ。でも佐倉くんは、若くて未婚の女性だぞ。本当に他人の代理で結婚式なんか挙げるつもりか?」
「では、このままでいろと言うんですか?」
「それはその…… そう言われると困るな」
「ごめんなさい。わたしのこと気づかってくれたんですよね」
「もちろんだよ。きみはぼくの部下だ」
「部下か……」
「なんだい?」
「いいえ、なんでもありません。とにかく、お気づかいは無用です。しょせん芝居じゃないですか。わたし気にしません。それに、披露宴までやる必要はないと思います。あの二人は教会で結婚式が挙げられれば、きっとそれで満足するわ。会社のみんなには知られないように、ひっそりとやりましょう」
「当然だよ。こんなことがバレたら、それこそ佐倉くんの将来に影響する。それだけは避けないと」
「河野さんも影響されると困りますか? わたしなんかと変な噂が立つと困る?」
「オレのことを心配する必要ない。さっきも言ったけど、どうせバツイチの中年オヤジさ」
「河野さんは中年なんかじゃないわ」
 佐倉麗子は、そう言ってオレを見つめた。
「そりゃどうも」
 オレは、ちょっとドキッとなった。
「やっぱり優しいですね。そういうところがわたし……」
「なんだよ」
「わたし…… 買い物に行ってきます」
「はァ? なんの?」
「夕飯。作るって約束しましたよ」
 佐倉麗子は立ち上がって、ニコッと笑った。


三月十四日。日曜日。


 わたしはとっても爽やかな気分で目が覚めた。今日もとてもいい天気。でも、気分がいいのは天気のせいなんかじゃない。きのう、初めて河野さんの部屋に行ったから。あんな不可思議な現象に遭遇しなかったら、たぶんキッカケなんて一生こなかっただろう。あのときはもう、ただ驚くばかりで夢中で電話して…… でも彼の顔を見たらホッとして、急に平常心に戻ってしまった。わたしってタフなのかな?
 とにかく、キッカケはなんでもいい。彼の部屋に入れてもらったことが、すごくうれしかった。もっとうれしかったのは、部屋の中が女性と付き合っている雰囲気じゃなかったこと。取引先の女性と付き合っていたけど、もう別れたって噂、どうやら本当みたい。ラッキー。とか思ってしまった。あんまりうれしかったんで、ちょっと強引だったけど食事まで作ってあげちゃった。喜んで食べてくれたなァ。特に、菜の花のからし和えは点数高かったみたい。料理の勉強、しといてよかった。
 でも……
 わたしは知っている。彼がわたしなんかを相手にしないことを。今までも、それとなくモーションをかけてきたけど、ぜんぜん相手にされない。二人だけで残業をしていても、お酒を飲みに行っても、彼の態度はいつも大人。だからわたしは、自分から告白する勇気がなかった。そのうち取引先の女性と付き合いはじめて、チャンスがなくなって…… いいえ、その彼女と別れたって噂を聞いたあとも、わたしには告白する勇気がなかった。
 だって……
 今の関係を壊したくないもの。告白なんかしたら、きっと今までどおり仕事を一緒にできなくなる。彼がわたしから遠ざかってしまう。そう思うと、とても告白なんかできない。
 わたしはベッドサイドのテーブルに立てかけた写真を手に取った。去年の社員旅行で彼と一緒に撮った写真。Vサインをしているわたしの横で笑っている彼。
「純一さん」
 わたしは彼の名前をつぶやいた。わたしにできるのはこんなことぐらい。写真を見ながら彼の名を呼ぶことだけ。ああ純一さん。あなたはどうして純一さんなの? なんちゃって。ジュリエットじゃあるまいし。それ以前に、まるで中学生よね。
 起きよ!
 わたしはベッドから飛び出した。今日は彼と会社で会う約束をしてある。あのビデオを詳しく調べるんだ。顔を洗って化粧をして、そうそう、彼の好みそうな服にしよう。アピールしなきゃ。それが全部無駄だっていい。一緒にいられるだけで幸せだもの。
 一時間半後。わたしは会社の近くの喫茶店で紅茶を飲んでいた。少し早く着いちゃったから時間をつぶそうと思った。誰もいないオフィスで待つなんてイヤだもの。ところが驚いたことに、その喫茶店に彼が現れた。
 ドアを開けた彼は、すぐわたしに気がついて、向かい側に腰を下ろした。
「おはようございます」
「おはよう。早いね」
「いい天気だったから、早めに家を出たんです。そういう河野さんも早いですね」
「日曜で道が空いてたからね。きみもここにいるとは思わなかったよ」
 彼は答えながら、水を持ってきたウエイトレスにコーヒーを注文した。
 今日の彼も、淡い藍色のデニムシャツに革のコート。それにジーンズというラフな格好だった。じつは、きっとそういう格好をしてくるだろうなと思って、わたしも明るい色のブラウスにジーンズを合わせてきた。街で並んで歩けば、絶対に恋人同士に見えると思う。
「ああ、そうだ佐倉くん。きのうはごちそうさま」
 彼は笑顔で言った。
「いいえ、どういたしまして。残さず食べていただいて、うれしかったです」
「本当にうまかったよ。きみはいい奥さんになれる…… おっと、こういう言い方は女性蔑視かな」
「そんなことないですよ」
 わたしは笑った。
「けっこう気を使うんだぜ。ちょっとしたことがセクハラになるご時世だからね」
「あまり気にすることないですよ。うちの会社の女の子で、河野さんをそんな風に見てる子はいません。もちろん、わたしもね」
「それはなにより。品行方正なイメージを崩さないように、今後とも努力します」
「いえ、品行方正というイメージまではないですが」
 わたしはクスクス笑った。
「でも、ここだけの話、河野さんけっこう人気があるんですよ」
「人気?」
「女子社員にです」
「へえ。そいつは知らなかった。離婚してからバレンタインのチョコが増えたような気がしてたけど、気のせいじゃなかったのかな」
「狙われてますね。お気をつけて」
「ハハハ。まさか。みんな義理チョコだよ」
 コーヒーが運ばれてきたので、彼はカップに口を付けた。
「そういえば、佐倉くんのチョコはいつもすごいね。手作りだろあれ?」
「ええ」
「男性社員に大人気だぜ。義理チョコといえども手作りをもらえるなんてね」
 あなたのためよ。本当はあなたにだけ渡したいのに! と、心の中で叫びながら、わたしは笑顔を作って答えた。
「好きなんです。そういうの」
「ふ~ん、すごい。美人で頭が良くて気配りまであるんだから。神は二物を与えないなんて嘘なんだね」
「そ、そんなことないですよ」
 本当にそう思ってくれているのならうれしいけど。
「というわけで。これお返しです」
 彼はバッグの中からきれいな紙に包まれた箱を取り出した。
「今日は、ホワイトデーだろ」
「わァ、うれしい」
 わたしは声をあげた。
「普通のクッキーだけどね。会社の女の子たちと食べてよ」
 やっぱりそうか。会社の女の子と一緒にね…… わたしも、その他一般なんだわ。それでもわたしは笑顔を浮かべてクッキーを受け取った。それをバッグに入れるとき、きのうの夜、インターネットのホームページをプリントした資料を持ってきているのを思い出した。
「そうだわ河野さん。わたし、きのうインターネットで調べたんです」
「なにを?」
「結婚式をやってくれるところ」
「式場かい?」
「いいえ、いわゆる結婚式場じゃなくて、ブライダルコーディネーターって呼ばれるところです。自分たちのスタイルに合った結婚式をプランニングしてくれるんですよ」
「ああ、よくレストランなんかで挙げるヤツか」
「そうそう、それです。わたしたちの場合は、誰も呼ばないで、ひっそり式だけ挙げたいわけでしょ。そういうプランもセッティングしてくれると思うんですよ」
 わたしはインターネットのホームページを印刷したものをバッグから取り出した。
「これです。いくつか良さそうなところをピックアップしてきました」
 彼はプリントアウトを受け取った。
「ふうん。けっこうあるんだな」
「ええ。値段は似たりよったりですけどね」
「しかし、式だけひっそり挙げたいなんて、訳ありだと思われるだろうなァ」
「訳ありじゃないですか。ありすぎなぐらいに」
「確かに」
 彼も苦笑いで答えた。
「まあ、式の具体的な話は例のビデオを検証してから考えることにしようよ」
「そうですね。でも、一応目を通しておいてください」
「了解。ところで佐倉くん。ビデオプリンターってヤツ買ってきたけど、あんな安いモノで本当に大丈夫なのかい?」
 そう。例のビデオを分析するために、彼にビデオプリンターを買ってきてもらったのだ。本当は、わたしが朝一番で買いに行くつもりだったのだけど、車を持っている彼が、買ってきてくれることになった。
「安いって、いくらですか? ちゃんとソニーのヤツ買ってきたんでしょ?」
「もちろん言われたとおりにしたよ。でも、ソニーの一番高いヤツでも五万円ちょっとだったぜ。あれでいいのか」
「それなら大丈夫。五万円も出せば、今はかなり性能がいいそうですから」
「ふうん。よく知ってるね」
「昨日、言いませんでしたっけ? 友人にパソコンに詳しい人がいるんですよ」
「聞いたけど…… もしかして、それが彼氏かい?」
「彼氏なんていません。だいたい、その友人は女性です」
「なんだ」
 彼は肩をすくめた。
 ああ、なんかこういうのって落ち込む。どうして、わたしに彼氏がいたほうがいいの?
「早くいい人見つけなよ。うちの社員には幸せになってもらいたいな」
 そんなこと言わないでよ。悲しくなる。そう思ったわたしは、つい口が滑った。
「幸せになるかどうかは、河野さんしだいですね」
「まったくだ。早く呪いを解かなきゃね」
 ぜんぜん、わかってない。
 わたしは立ち上がった。
「ではさっそく、行動に移りましょう」
「おい、待ってくれよ。まだコーヒーが」
「早く飲んでください」
 わたしは、自分でも口調がきつくなっているのがわかった。わたしの気持ちに気づかれないほうがいいのに、気づいてくれないことに腹を立ててる。われながら矛盾。情緒不安定。
 喫茶店を出ると、前の道に彼の車が停めてあった。二、三度会社に乗ってきたことがあるので、それが彼の車なのはすぐにわかった。真新しいブルージーンズのようなきれいな藍色。プジョーというフランス車だ。彼はとっても趣味がいいと思う。その車の助手席に乗せてもらって、会社のあるオフィスビルの駐車場まで行った。彼の車の助手席に乗るのもこれが初めて。わたしはすっかり機嫌が直ってる自分に気がついた。単純ね。
 誰もいないオフィスに入ると、わたしはいつも通りの口調で言った。
「わたし、コーヒーを淹れてきますね」
「サンキュ。オレはビデオプリンターの準備をしておくよ」
「お願いします」
 給湯室でコーヒーを淹れて戻ってくると、すでにビデオプリンターの準備も終わっていた。
「できましたか?」
「ああ。これであとは、ビデオにつなげればいいだけみたいだよ」
「じゃあ、応接室に行きましょうか。そういえばテープは?」
「ええと」
 彼は、ビデオプリンターを持ち上げながら答えた。
「二番目の引き出しに入ってる」
「開けていいですか?」
「どうぞ」
 わたしは、彼のデスクの引き出しを開けてテープを取り出した。そして、テープを手に取ってしみじみと言う。
「これのおかげでねえ」
 彼と週末も一緒にいられるんだわ。と、心の中で続けた。
「まったく、災難だよね」
 彼はタメ息をついた。たぶん、わたしとは逆の理由で。
 応接室に入ると、彼はビデオデッキにプリンターを接続した。試しに普通のテレビ画像をプリントしてみる。
「おお。きれいじゃないか」
 彼はプリントアウトを見て感嘆の声をあげた。
「でしょ。友だちの家で見て、わたしも驚いたんですよ」
「これなら、ビデオの映像も鮮明になるかもな」
「少なくとも、ビデオの静止画像よりは、ずっときれいなはずです」
「じゃあ、再生してみるか」
「はい」
 わたしはデッキの中にテープを入れた。再生ボタンを押す。
「最初のほうは必要ないだろう」
「ええ。新聞記事まで飛ばしましょう」
 わたしはリモコンでテープを早送りした。しばらくして、問題のシーンが現れる。
「ここだ」
「はい」
 わたしは早送りを止めて、通常の再生に戻した。ぐにょぐにょとうごめく文字。彼は一枚プリントしてみた。
「どうですか?」
「いい感じ。読めそうだ」
 彼からプリントを受け取ってみると、確かに文字が読めそうだった。
「ホント。でも、ここのシーンじゃよくないみたい」
「だな。コマ送りで重要そうなところを片っ端からプリントアウトしよう」
「専用のプリント紙、何枚あるんですか?」
「心配ご無用。十枚入りの紙を十袋も買ってきた。百枚分ある。もちろん予備のインクも」
「さすが河野さん」
 わたしは正直な気持ちを口に出した。彼って、こういうところ抜かりがない。
「時間軸に沿ってプリントにナンバーを打ったほうがいいね」
「賛成です。わたしナンバーリングしますから、どんどんプリントしちゃってください」
「了解」
 それから、八十枚ほどビデオ画像をプリントアウトした。その作業は、思った以上に時間がかかった。時計を見るとすでに二時を過ぎていた。どうりでお腹が空いたわけだ。
「こんなもんでいいだろう」
「そうですね。あとはプリントを子細に調べましょう。でもその前に、お昼にしませんか?」
「大賛成」
「わたしお腹ペコペコ。ここを片づけて、渋谷あたりまで出ましょうよ」
「会社の近くにないかな? 無理か。ビジネス街だもんな」
「ええ。さっきの喫茶店ぐらいですよ、日曜日もやってるお店なんて」
「あそこって、食事はなかった?」
「ないです。いえ、サンドイッチぐらいならありますけど……」
「オレはサンドイッチでもいいけど、佐倉くんの顔にはそれじゃイヤだと書いてあるな」
 ヤダ。わたしったら、食い意地張ってるのかしら?
「なんでもきみの好きなモノでいいよ」
 と、彼。
「お鮨!」
 わたしは、イタズラっぽい声で叫んだ。もちろん冗談よ。
「却下」
「河野さんって、嘘つきですね」
 わたしは笑顔を浮かべて言った。
「じゃあ、中華でいいです。渋谷に美味しい飲茶のお店があるんですよ」
「わかった。そこへ行こう」
「片づけちゃいましょ、ここ」
「あとでいいよ。どうせ戻ってくるんだから」
「えっ、そうなんですか?」
「違うの?」
「だって、もうプリントしたからいいじゃないですか。あとは河野さんの部屋で続きをやりましょうよ」
 だって、また河野さんの部屋に行きたい。
「またオレの部屋で?」
「いえ、ご迷惑ならいいんです。ただ、ここだと落ち着かないわ。誰か来るかもしれないし」
「そうか……」
 彼は、少し悩んだ表情を浮かべた。
「まあ、きみがそう言うなら、そうしよう」
「よかった」
 わたしはニコッと笑った。自分でも強引だと思う。でも…… そうしたいから。
 けっきょく、応接室を片づけたあと、飲茶の店で遅い昼食をすませた。そして、彼の部屋に二日連続でお邪魔した。
「おじゃましまーす」
「ちょっと待った! 悪い、ここで少し待ってて」
 彼は玄関でわたしを押し止めると、慌てて部屋に上がっていった。
 わたしはクスッと笑った。なにを慌てているのか想像はつく。たぶん下着でも脱ぎ散らかしてあるのだろう。そう思っていると、バタバタと慌ただしく、洗濯物を持った彼が、洗濯機のあるバスルームに駆けこむ姿がちらっと見えた。
「い、いやあ、お待たせ。どうぞ」
 彼が照れ笑いを浮かべながらバスルームから出てきた。
「おじゃまします」
 わたしは部屋に上がりながら言った。
「河野さん。ちゃんと洗濯してますか?」
「うっ、いや、今日は朝、電気屋に行かなくちゃいけなくて…… いつもはちゃんとしてるんだよ。ホントに」
「男の一人暮らしは大変ですね」
「男のほうがズボラなだけさ。男も女も大変だと思うことは同じだよ」
「へえ…… そういう考え方って好きです」
「べつにカッコつけてるんじゃないんだ。男もね、四十年も生きてると、女に対して幻想を抱かなくなるんだな」
 彼は気どるわけでもなく、本当にさり気なく、自然な口調で言った。こういうときの河野さんって、なんだかちょっと渋くて…… 変ないい方だけど、色っぽいと思う。
 わたしは、思わず彼の横顔に見入ってしまった。
「なに?」
 と、彼。視線に気づかれた。
「あ、いえ、なんでも……」
 わたしは首を振った。そして、ふと思いついたように口が動いた。
「女も同じですよ。二十九年近く生きてれば、男に幻想を抱いたりしません」
「そうかもね」
 彼はニッコリ笑うと、ソファに視線を移した。
「まあ座ってよ。ノートとペンを持ってくるから」
「はい」
 わたしはソファに腰を下ろした。彼がリビングを出ていったあと、改めて部屋を見回すと、殺風景だなァ。と思った。昔から住所は変わっていないから、ここで別れた奥さんと結婚生活を送っていたはずだ。彼ひとりでは、この空間をもてあましている感じ。
「お待たせ」
 彼がノートとペンを持って戻ってきた。
「さて。さっそくやっつけるとしようか」
 彼はそう言って、床に座り込んだ。ソファテーブルにノートとペンを広げる。わたしも、ソファから降りて床に座り込んだ。
「全部で八十枚か。けっこうあるな」
 彼がバッグから出したプリントをテーブルに並べる。
「最初のほうは、たいして読めませんね」
 わたしは、ナンバーの若いプリントを手に取って言った。
「これはどうかな。うん。八枚目から大文字が読めるぞ」
「一番上が『新』ですよね」
「待てよ。その上にも小さな文字が並んでるぞ」
「ホントだ。これが大きく写ってるのはないかしら」
「ちょっと待って…… あった。四十二枚目。ええと『朝』だな。メモってくれる?」
「はい」
 わたしはノートに朝と書きこんだ。
「つぎは『日』だ。それでさっきの『新』がきて、四つめが『聞』だな」
「合わせると『朝日新聞』ですね」
「やっぱり新聞だったのか」
「なんだかドキドキしてきました」
 わたしは言った。あの変な文字が、初めて理解できる言葉になったのだ。
「オレもだ。記事の内容が読めれば、あの二人のことがわかる」
「つぎ行きましょう」
 と、こういう調子で、わたしたちは文字を拾っては繋げる作業を続けた。ハッキリ言って困難な作業だった。すごく時間がかかる。
「これはなんでしょう。ええと『相』かしら。『柏』かな?」
「どれ?」
 彼は、わたしの近くによってプリントをのぞき込んだ。ほんの微かに柑橘系のコロンの香りがする。
「ここです」
 わたしはそう言って、わざと彼に近づいた。真剣な顔でプリントを見る彼の横顔が間近にある。ドキドキする。でも幸せかも。
「これは『相』だよ、きっと」
 彼はそう言って顔を上げた。そのとき、二人があまりにも近づきすぎていたので、ほんの十センチぐらいの距離で目と目が合った。恋人同士でもない男女が向き合うにしては、あまりにもニアミスな距離だった。
「あっ、ごめん!」
 彼は慌てて、わたしから離れた。
「わ、わたしこそ、ごめんなさい!」
 わたしも、慌てて謝った。
 そのあと、二人とも沈黙。
 ドキドキドキ。
 どうしよう。わたし、顔赤くないかしら。
「さ、佐倉くん。あのさあ……」
 彼は少しどもった声を出した。
 なにかしら。わたしは心臓の鼓動がいっそう早くなるのを感じながら彼の言葉を待った。
「えっと、その。少し腹が減らないか?」
 ガクッ。
「そうですね」
 わたしは、脱力した声で答えた。バカみたい。なにを期待してたんだろ、わたし。
「ピザでもとろうか?」
 彼の提案に、またわたしが作りますと答えたかった。でも、そんな時間はない。
「はい」
 わたしはうなずいた。
「ミックスでいいかな」
「いいです」
 彼は立ち上がってコードレスフォンを取ると、キッチンに歩いていって、冷蔵庫に磁石で貼ってあるピザ屋のメニューを引き剥がした。
 それからわたしたちは、何事もなかったように作業を続けた。ピザがきたので、食べながら作業を続けて、やっと記事の大筋が判明したときには日付が変わっていた。それは、昭和三十八年に発行された朝日新聞だった。今から三十六年前。残念なことに、発行された月日は、三月までは読み取れたけど、日にちは読めなかった。

 野尻湖で発見さ○た男女の変死体は、一週間前から行方がわ○らなくなっていた、高木幸子さん(二十一歳)と相田宗一郎さん(二十六歳)である○とが判明した。警察では二人が自殺を図ったもの○○○調べを続けている。

「やっぱり心中だったんだわ」
 わたしは、ノートに書き写した新聞の内容を読みながら言った。いくつか読み取れなかった文字があるけど意味はわかる。
「らしいね」
 彼は腕を組んだ。
「やはりあの、瞳の中に浮かんだ漢字は、女性の名前の一文字だったんだな」
「そうですね。それに、湖が野尻湖なのがわかったのは収穫です」
「だがそれだけだ。これだけじゃ、二人のことはなにもわからないに等しい」
「調べましょう」
 わたしは勢い込んで言った。ここまできたら、徹底的にやらなきゃ。
「国会図書館に行けば過去の新聞がファイルされているはずです」
「賛成」
 彼はそう答えながら、う~ん、と唸って伸びをした。
「疲れたァ」
「わたしもです。こんなに集中したのは大学受験以来じゃないかしら」
 わたしも伸びをしながら息をついた。確かに、ずいぶん肩が凝っている。
「オレなんか、受験のときもこんなに集中しなかったよ」
「優秀だったんですね」
「おいおい。東大と早稲田を一緒にするなって」
「河野さん、大学でラグビー部だったそうですね」
「よく知ってるね」
「いつだったか、社長に聞いたことがあるんです。同じラグビー部だったって」
「ああ。あの人は五年先輩だったんだ」
「五年?」
「留年してるんだよ。オレ以上に勉強できなかったからね。小学校と同じだけ大学に通ってるんだから立派なもんだ」
「アハハ」
 わたしは笑った。ちょっと大学時代の社長と河野さんを想像してしまった。社長はいつも夢を追いかけるタイプで、自分の足元を見ない人だけど、河野さんはロマンティストと現実主義者がうまく同居したような人だから、きっと馬が合ったんだろうな。
「いいなあ」
 わたしはつぶやくように言った。
「なにが?」
「河野さん、楽しい学生時代を過ごしたんですね。わたしなんか、ぜんぜんダメ。なんで勉強ばかりしてたんだろう。バカみたい」
「そんなことないだろ。佐倉くんなら美人だし、いろいろあったんじゃないの?」
「なんにもありませんよ」
 わたしは答えた。正確には、一年だけ付き合ったボーイフレンドがいたけど。
「でも河野さん。わたしって、ホントに美人だと思いますか?」
「思うよ。今風に言うと、イケてるって感じかな」
「河野さんもハンサムですよ。イケてます」
「ハハハ。どうもありがとう」
「ホントですってば」
 わたしは真剣な顔で言った。だって本当だもの。
 彼は苦笑いを浮かべただけで、話題を変えた。
「もう、十二時を過ぎてしまったね」
「ええ」
「佐倉くん、あのさ……」
 彼は、一瞬わたしの顔を見てすぐに視線をそらせた。
「なんですか?」
「いや。すっかり遅くなってしまった。家まで送るよ」
 なんだ…… わたしは力が抜けた。もったいぶった言い方するんだもの、なにか期待してしまったじゃない。なにを期待したのか自分でもわからないけど……
「どうしたの?」
 彼は、わたしが黙っていたので聞き返してきた。
「い、いいえ、なんでも」
 わたしは首を振った。
「疲れてるのに、送ってもらうなんて悪いです。タクシーで帰りますから」
「大丈夫だよ。この時間ならきみの家まで三十分だ。こんな時間に、女性を一人で帰らせるほど無粋な男じゃないよ」
「ワォ。大人のセリフ」
 わたしは、ドキッとした気持ちを悟られまいと、おどけた調子で言った。ホント、こういうキザな言葉に嫌みがないのよね、この人。すっごく自然なんだもの。
「からかうなって」
「からかってなんかいません。若い子が言うと歯が浮いちゃうけど、河野さんぐらいの男性だと、すごく自然で…… カッコいいです」
 あああ、わたしなに言ってるの。わたしのほうこそ歯が浮いちゃう。
「カッコいいかどうか知らないけど、こんなセリフ、何年も使ってなかったよ」
「じゃあ、昔は使ってたんだ。わたしで何人目?」
「一ダースくらいかな」
「多すぎます!」
 わたしは叫んでしまった。
「ハハハ。うそうそ。そんなモテないって。佐倉くんみたいな魅力的な女性に言ったのは初めてだよ」
「またまた、心にもないことを」
 どうして、そんなことを何気なく言えるの? 期待させないでよ。わたしのこと、なんとも思っていないくせに、そんな風に言わないで。
「さて。じゃあ行こうか。夜が明けちゃうよ」
 彼は立ち上がった。
 ほら、やっぱり。わたしの気持ちなんか、これっぽっちもわかってくれていない。あなたの優しさは、わたしにとって切ないだけ。


三月十五日。月曜日。


 きのうの晩はヤバかった。佐倉麗子とプリントアウトを調べたのはいいが、それが終わったあと、たわいもないおしゃべりをしていたら、彼女を帰したくないと思ってしまったのだ。でもまさか、そんなことが許されるわけもない。
 そんなわけで、理性が勝った翌日は、いつものウイークデイが始まった。いつもどおり会社に出勤したオレだが、いつもの倍のペースで働いた。なんとか時間を作って図書館に行きたかったからだ。呪いは解かねばならないが、仕事もおろそかにはできない。平社員だったらズル休みをしたいところだが、常務ともなると、そういう贅沢は許されない。もっともそれは佐倉麗子も同じ。彼女も多忙をきわめ、お互いほとんど話をする機会もなかった。オレは外回りの仕事がいくつか入っていたしね。そんなこんなで、なんとか仕事を片づけて図書館に到着したのは、午後の三時を過ぎたころだった。
 オレは、閲覧室の中を見回した。佐倉麗子の姿はなかった。彼女も、まだ抜け出せないでいるのだろう。じゃあ一人でやりますか。と、思った矢先、百科事典のようなファイルを重そうに持った佐倉麗子が歩いてくるのを発見した。
 オレは駆け寄った。
「あっ、河野さん!」
 彼女もオレの姿を見て声をあげた。
「持つよ」
「すいません」
 佐倉麗子はホッとしたようにファイルをオレに渡した。
「ふう、重かった」
「もう調べてたのかい?」
「いいえ。わたしも少し前に着いたんです。今ファイルを借りてきたところ」
「間に合ってよかった」
「ええ」
 オレたちは、閲覧室の机にファイルを広げて、問題の記事を探しはじめた。発行された年と、月がわかっているのだから、記事を見つけるのにそれほど手間はかからなかった。ビデオに映っていた記事は三月二十日のものだった。内容は、オレたちが書き写したものとまったく同じで、それ以上の情報は書かれていなかった。そのあと、日付を追っていって、その後の展開が記事になっていないかを探した。二日後の小さな記事に、二人が泊まっていた宿から遺書が発見され、自殺であることが判明したと書かれていた。だが、それだけだった。ほかの新聞も調べてみたが、それ以上の収穫はなかった。
「ダメだな。大したことはわからない」
「でも、心中なのは間違いないです。こうなったら、野尻湖に行ってみましょう」
「地元の警察で聞いてみるつもりか?」
「大正解です。それが一番手っ取り早いと思いません?」
「そうだね。とにかく出よう。そろそろ閉館だ」
「ええ」
 オレたちはファイルを片づけて図書館を出た。お互い、会社に戻る必要はなかった。直帰すると伝えておいたからだ。
 図書館を出ると、今日は昼飯を食べる時間もなかったので、夕食の時間には少し早かったが、けっこうお腹が空いていた。彼女もそうだと答えたので、赤坂見附のほうまで歩いていって、洋食屋を見つけたので、そこへ入ることにした。
「なんか、佐倉くんと飯ばっかり食ってる気がするな」
「そうですね」
 佐倉麗子はにっこりと笑った。
 お互い、同じハンバーグ定食を注文すると、彼女が真剣な顔になって言った。
「河野さん。わたし明日行ってみます」
「野尻湖へ?」
「はい。年度末でみんなには悪いけど、風邪でも引いたことにして休みます」
「またずいぶん急だな」
「すごく気になるんですよ。高木幸子と相田宗一郎が心中した理由が」
「一緒になるのに障害があったんだろうな。それで、別れるぐらいならと死を選んだ」
「でしょうね。一番悲しい結末だわ」
「ところで、オレは休めないよ」
「もちろんです。わたし一人で行きますから」
「悪い」
「いいえ」
 佐倉麗子は笑顔で首を振った。
「わたしの分も、仕事しといてください」
「やっぱ、休もうかな」
「アハハ」
「冗談はともかく、本当に一人で大丈夫かい?」
「大丈夫じゃないと言ったら休んでくれますか?」
「それは……」
「うそです。大丈夫ですよ」
「オジサンを困らせないでくれよ」
「河野さんは、オジサンなんかじゃないですってば。そんなこと言ってると、本当に老けちゃいますよ」
「男も、恋をしてないとダメなのかもね」
「してないんですか?」
「彼女いない歴一年です」
「知ってます」
「え?」
「大日本印刷の近藤さんと付き合ってらしたでしょ」
「げげっ、なんで知ってるの?」
「そして、彼女が移動になってから、別れたんですよね」
「なんで? どうしてそんなことまで知ってるの?」
「みんな噂してましたよ」
「みんなって?」
「会社のみんなです。っていうか、彩ちゃんが噂してたんですけどね」
 杉田彩。うちの編集スタッフだ。二十二歳、キャピキャピの女の子だ。
「そうか杉田くんか。あの子、そういうの好きだからなあ」
「敏感なんですよ、あの子。でも、噂が本当だったって、河野さんの部屋に行ったとき確信しました。でなきゃ洗濯物なんか出してないでしょ?」
「まいったな」
 オレは、苦笑いを浮かべて頭を掻いた。
「降参です。会社のみんなには、こんな話しないでくれよ」
「しませんよォ。だいたい、わたしが河野さんの部屋に行ったこと言ってもいいんですか?」
「それは…… マズイだろうな」
 それでオレと彼女が噂になって、さらに噂が真実になれば…… ああ、また変なこと考えてるしオレ。
「ねえ佐倉くん。きみこそ本当に彼氏いないの?」
「いません」
「じゃあ聞くけど…… いや、これは上司としてじゃないよ。友人として」
「なんですか?」
 なぜ、オレに手料理なんかご馳走してくれたの? と、オレは聞きたかったが、口から出た言葉は違う物だった。
「彼氏いない歴何年?」
「単刀直入ですね」
「遠まわしな言い方をしたらイヤラシイよ」
「そうですけど…… 聞いたら驚きますよ」
「驚きたい。いや違う。驚きません」
「誰にも言いませんか?」
「もちろん。友人として約束します」
「わたしは…… やっぱりやめた」
「なんだよ。言いかけたんだから言っちゃいなって」
「だって、本当に驚くもの」
「驚きません」
「いいえ驚きます」
「じゃあヒントを」
「ダメ」
「ズルイよ。オレばっかりバレててさ」
「子供みたいなこと言わないでくださいよ。ほら、ハンバーグ定食きましたよ」
「ちぇっ」
 オレは、本当に子供のように舌打ちをしてから、フォークを手に取った。そのとき、佐倉麗子が小声で言った言葉を聞き逃すところだった。
「八年です」
「えっ?」
「彼氏いない歴ですよ。さあ、食べましょう。美味しそう」
 佐倉麗子は、なにも言わなかったとでも言いたげにハンバーグを口に放りこんだ。
 八年? ってことは彼女、成人してから男と付き合ってないのか? うそだろ? もちろんオレは、それ以上突っ込んで質問することはできなかった。


三月十六日。火曜日。


 わたしは会社を休んだ。もちろん、朝一番で長野新幹線に乗り野尻湖に向かった。現地に着いたのは、午前中の九時ごろで、すぐに地元の警察で三十六年前の記録を調べてもらった。本当は記録を閲覧するための手続きやらなんやらと、時間を取られるのではないかと覚悟していたのだが、古いことでもあるせいか、記録を調べるのは比較的簡単だった。
 そこで、いくつか重要なことが判明した。特に重要な情報は高木幸子の実家の住所がわかったことだった。わたしは興奮して、すぐ河野さんに電話を入れた。会社の電話を使うのはマズイので、彼の携帯に電話を入れたのだけど、留守番電話サービスに繋がるだけで、電波の届かないところにいるようだった。わたしは彼の留守伝に電話が欲しい旨を録音した。
 電話はなかなかかかってこなかった。わたしは、軽く食事をすませたあと、携帯電話の留守番電話サービスをチェックした。すると彼からメッセージが入っていた。ちょうどレストランで食事をしているときで、今度はこっちが電波の届かないところだったみたい。わたしは、すぐに折り返して電話をかけた。ところが、また彼は電波の届かないところにいるようだ。今日は、徹底的にタイミングが悪い。
 わたしは、ふたたび長野新幹線に乗って東京に戻った。車内でも何度か電話を入れたのだけど、どうしても繋がらなかった。わたしはついに諦めて、デッキから座席に戻った。
 座席につくと、ちょうど車内販売がきたので、わたしはコーヒーを買って一息ついた。早く彼に報告したいな。と、思ったあとで、それ以上に、彼の声を聞きたいだけの自分にも気がついていた。いまごろ彼も、わたしと連絡が取れなくて心配しているかしら……
 心配? 彼が? どうして? そうよ。二十八にもなるいい大人を、なんで心配する必要があるの? わたしが自分で「一人で調べる」って言い出したんじゃない。あの人は、わたしを信じてくれている。心配なんかしているはずがない。
 そんなの嫌だ。おかしい。変よ。わたしは彼に心配されたいと思ってる。でも、心配させたくない。心配されたい。心配されたくない。どうしてよ。なんでまったく反対の感情が浮かんでくるの? 当惑。不安。切なさ。今のわたしは情緒不安定だ。たった半日、彼と連絡が取れないだけで、こんなに心細くなるなんて。
 そのとき。わたしの携帯電話がなった。思いっきり自己陶酔の世界にはまり込んでいたわたしは、慌てて現実の世界に舞い戻った。
 その現実は、わたしの望んでいた世界だった。携帯電話の番号表示は、彼からの電話だとわたしに告げていたから。
「はい、佐倉です」
 デッキに出ながら電話に出た。
「ああ、やっと繋がった」
 彼の声。その声には安堵の響きがあった。同時にわたしの心から、不安も当惑も切なさも、暗い感情がなにもかも吹き飛んでいく。
「ごめん」
 と彼は謝って、クライアントとの交渉中で電話に出れなかったことを、申し訳なさそうに説明した。そして、お昼すぎから何度も電話したけど、今度はわたしの携帯が繋がらなかったと言った。わたしも、ごめんなさいと謝った。
「よかったよ繋がって。なにかわかった?」
「はい。高木幸子の実家がわかりました」
 わたしがそう伝えると、彼は驚いた声を出した。
「えっ、もうわかったの?」
「はい。わりと簡単でした。すぐ記録の閲覧が許されましたから」
「そうか。三十六年も前のことだからな。それで、彼女の実家はどこなんだい?」
「はい。長野県だとばかり思ったのですが違いました。静岡の小さな田舎町です」
「ふうん……」
 彼は、一拍置いてから答えた。
「人生の最後を、実家の近くでは迎えたくなかったんだろうな」
「あるいは、自分の好きな場所を選んだのかもしれません」
「うん。そうかもね」
「それでわたし、明日にでも彼女の実家に行ってみようと思うんです」
「会ってくれるかな。だいたい、なんと言って話を切り出すつもりだい?」
「そこなんですよね問題は。直接、高木幸子の名前を出すのはマズイと思うんです」
「だろうね」
「そこで考えたんですが、大学の研究者かなにかを装って、接触してみようと思うんです」
 わたしは、ずっと考えていた作戦を彼に言ってみた。
「研究者? なんでまた?」
「じつは、高木幸子の実家はその土地の庄屋だったそうで、ずいぶんと歴史があるようなんですよ。日本の歴史を研究していると言えば、会ってくれるんじゃないかと」
「なるほど…… 自分の家を自慢できる機会を与えられれば、けっこう簡単に会ってくれそうな気がするな」
「でしょ。人間心理ですよね。どうでしょう。こんな方法はマズイでしょうか?」
「う~ん。詐欺罪で捕まることはないと思うが…… それならむしろ、うちの社名を出したほうがいいかもしれないな」
「といいますと?」
「旧家の取材をしてるとかなんとか言うんだよ。そのうち本にまとめるかもしれないってね。これなら、まったく嘘ってわけじゃないだろ。企画がポシャルなんてこの業界じゃザラだし、少なくとも身元を隠さずにすむ」
「そうですね。でもいいんですか? うちの会社の名前なんか出しちゃって」
「いいさ。会社に知れることもないだろう。万が一知れても、企画を出すための事前調査をしていたと言えば済むことだ。それに、そのくらいのリスクを犯す覚悟はある」
「わかりました」
 わたしは電話口でうなずいた。彼も真剣なのだとわかって、すごくうれしかった。
「身元を誤魔化さずにすむのは助かります」
「うん。その連絡はオレがやることにするよ。高木幸子の実家の電話番号はわかるかい?」
「わかりますけど…… わたしが連絡します。行くのはわたしですから」
「いや。オレも行く」
「えっ?」
 わたしは彼の言葉に驚いた。
「待ってください。わたし、明日にでも行ってみるつもりなんです。河野さんは仕事があるでしょ?」
「やっぱり、明日行くつもりだったんだね。そうだと思った」
「早いほうがいいです」
「オレもそう思う。だからオレも行くよ。明日」
「待って。会社は?」
「休む」
「どうしたんですか急に!」
 わたしは本当に驚いた。
「ダメなんだ。やっぱり気になる。じつは、今日一日、仕事が思うようにはかどらない」
「わたしのことは大丈夫ですから、本当にその…… 心配してくれなくても」
「オレがいたら足手まといかい?」
「そんな、まさか!」
「じゃあ行く。きみは今夜どうするんだ。こっちに戻るかい?」
「いえ。高木家のことも調べたいので、幸子の実家の近くに宿を取ろうと思っています。そのつもりで、三泊分ぐらいの準備もしてきましたし」
「わかった。今夜合流しよう」
「本気ですか?」
「本気だよ」
「仕事は大丈夫なんですか。けっこう溜まってるでしょ」
「もう決めた。仕事なんか、二、三日休んだってなんとかなる。と思う。いや、ならなくたってかまうものか」
「無理しないでください」
「こんな状況で仕事をすることこそ無理なんだ。本当は、今日もきみと行動を共にするべきだった。それを思い知っただけの一日だったよ」
「河野さん……」
 わたしは、彼の言葉に胸がジーンと熱くなった。バカみたい。涙が出そう。
「ありがとうございます。ホントはわたし、一人じゃ心細くて」
 彼は、一瞬沈黙したあと、声を張り上げた。
「それを聞いたら、今からすぐに飛んでいきたくなった。マジで行くぞ。行くったら行く。待ち合わせを決めよう」
「でしたら、銀の鈴で待ってます」
「銀の鈴って東京駅? きみ、今どこにいるの?」
「新幹線です。東京に向かっています」
「えーっ! なんだ戻ってきてたのか」
「中央本線を使って名古屋経由で行くより、長野新幹線で東京に戻ったほうが早いんです。あと三十分ぐらいで着きます」
「オレも五時前には行けると思うけど、少し待たせちゃうな」
「待ってる間、宿を探しておきます」
「悪いね。頼むよ。じゃあ、またあとで」
「あっ、あの、河野さん」
 わたしは彼を引き止めた。
「なんだい?」
 引き止めたのはいいけど、なんと言おう、この気持ちを。
「どうしたの?」
「いえその…… ありがとう。わたし…… うれしいです。待ってますから」
「……」
 彼は、また沈黙したあと、少し高揚した感じの声で答えた。
「すぐ行くよ」
 電話は切れた。
 やったあ。うれしい! また河野さんと一緒だ。さっきまでのブルーな気分はなんだったのかしら。いきなり幸せよ。
 東京駅に着いてからのわたしは、ウキウキした気分のまま、八重洲口の地下商店街で本屋さんを探して静岡のホテルガイドを買った。まるで本当に旅行にでも行くような気分。
 さっそく掛川周辺の宿を探してみると、高木幸子の実家に近い場所に旅館があるのを発見した。住所を見比べてみると、番地が違うだけで、町名の部分まで一緒だった。わたしは本屋に引き返して、静岡の地図も購入した。地図で見ると、本当に目と鼻の先だった。
 ラッキー。わたしは心の中でつぶやいた。地元の人に、高木家のことを聞きたかったからだ。目と鼻の先にある旅館の人が、知らないはずはない。
 わたしはすぐにその旅館に電話を入れた。幸い部屋は空いているそうで、何時にお越しになられますかと聞き返された。わたしが七時半には行けるでしょうと言うと、今度はお食事の準備はどうしますかと聞かれた。まさか、旅館で素泊まりも悪いと思い、お願いしますと答えて電話を切った。このときわたしは、好きな男性と旅館に泊まるというシチュエーションに舞い上がっていたのだと思う。大変なミスをしていたのに気がつかなかった。
「佐倉くん!」
 銀の鈴で、彼に声をかけられたのは四時四十七分だった。ちょうど時計を見ていたので、妙に正確な時刻を覚えている。
「お待たせ」
「いいえ。本当に、あのあとすぐ会社を出られたんですね」
「強引にだけどね」
「吉岡くん、泣いてませんでした?」
 吉岡とは、彼の直属の部下。
「振り切った。オレも風邪を引いたことにしたよ。たぶんインフルエンザだからしばらく休むって言ってきた」
「じゃあ、のんびりできますね。あっ、いえ。ゆっくり調べられますね」
「そうだね。ところで宿は取れた?」
「はい。駅前のホテルをと思ったんですが、高木幸子の実家のそばに旅館があるんです。電話したら空いているそうなので、そちらに部屋を取りました」
「近いって、どのくらい?」
「地図を見たら歩いても行けそうな距離なんです」
「いいとこ見つけたね」
「ありがとうございます。河野さんのほうはどうでしたか?」
「ああ、高木家のご当主が会ってくれるそうだ。明日の朝九時に約束した」
「さすが河野さん」
「出版社の名前を出したら一発だったよ。じゃあ、行こう」
「はい。あっ、そうだわ。食事もその旅館にお願いしました。旅館で素泊まりなんて悪いですもの」
「そうだね。それにしても、本当にきみとは、よく飯を食うよな」
「ホントですね。今日で四日連続ですもんね」
「一番うまかったのは、きみの手料理だな」
「まあ。なんにも出ませんよ」
「ハハハ」
 彼は笑った。
 新幹線に乗りこんでから、わたしは調べたことの詳しい報告をした。
「高木幸子、当時二十一歳。高木家の長女で、妹が一人います。電話でも言いましたけど、高木さんの家は、このあたりの庄屋さんで、けっこう歴史があるみたいですね。現在は妹さんが婿養子をもらって家を継いでいるそうです。相田宗一郎、当時二十六歳のほうは、なんと当時の町長の息子ですよ。一人息子だったそうです。彼の母親は、息子が自殺した翌年亡くなっています。町長だった父親も八年前に亡くなって、もうこの町に相田家の家はありません。以上が、調査の結果です」
「きみは警官になれるな。いや、探偵かな?」
「誉め言葉ですか?」
「もちろんだよ。オレが電話で話をした当主は、妹さんの婿養子だったんだな」
「そうですね。自殺した義理の姉のことを聞くのは難しいかも」
「当たって砕けろだ」
「砕けるんですかァ?」
「だったら、石橋をたたいて渡る。違うか。とにかくがんばってみよう」
「はい」
 わたしは笑いながら返事をした。うん。やっぱり彼と二人がいいわ。なんでもできそうな気分になるもの。舞い上がったり落ち込んだり、われながら、わたしの心は忙しい。
 掛川には七時前に到着した。そこからタクシーに乗って十五分ぐらい走ると、予約を入れた旅館に着いた。
「いらっしゃいませ」
 宿に入ると、女将さんらしい年配の女性が、わたしたちを出迎えてくれた。
「こんばんは」
 わたしは挨拶した。
「先ほどお電話した佐倉です。急な予約ですいません」
「とんでもございませんわ。どうぞ、ごゆっくりなさってくださいませ」
「ありがとうございます」
 わたしたちが宿に上がると、女将さんが先頭に立って歩きながら話しかけてきた。
「あんまり汚い宿で驚かれたでしょ? 古いばかりが取り柄でしてねえ」
「そんなことないです。情緒がありますよ。ね、河野さん?」
「そうだね。いい宿だ」
「そう言っていただけるとうれしいですわ。こちらがお部屋でございます」
 通された部屋は、八畳ぐらいの広さで、外の景色が見える縁側が付いていた。いかにも旅館の部屋。典型的。
「どうぞ、おくつろぎになってくださいな。お茶を淹れましょうね」
 と、女将。
 ちょっと待って。わたしと河野さんが同じ部屋? と、思った瞬間、彼も同じことを思ったらしく、女将さんに言った。
「女将さん。部屋は別々にしてもらいたいのですが」
「えっ、そうでございましたの?」
 女将さんは、少し驚いたような顔で言った。
 しまったァ。電話で別室にしてもらうように言うのを忘れていた。
「ご、ごめんなさい」
 わたしは、慌てて謝った。
「うっかりしてました。わたしが電話で伝えなかったんです。すいません女将さん」
「いえ、それはいいのですけど…… でも、どうしましょう。あいにくこのお部屋しか空いてないんですよ」
 えーっ、そんな。なんて、さすがに声に出して驚きはしなかったものの、自分のミスだから、わたしはかなり動揺した。
 女将さんが申し訳なさそうな声で続ける。
「じつは、うちの主人が歌会の幹事をしておりましてね。今日は、年に一度の集まりで、そのお客様がお泊まりなんですよ」
 年に一度。なんとすごいタイミング。まいった。どうしよう。
「それは困ったな」
 彼は渋い顔で言った。
「すいません、わたしのミスです」
 わたしは頭を下げた。どうしよう、どうしよう。
「いいえ」
 と女将さん。
「ご確認させていただかなかった、こちらも悪いんです。駅前のホテルに部屋があるかどうか聞いてみましょうか」
 このときわたしは、この旅館を選んだ二つの理由が頭に浮かんだ。一つは、高木家に近いので便利だったこと。もう一つは、高木家のことを聞きたかったこと。近いから便利という理由は、さして重要ではないけど、二つめの理由は失うのが惜しいと思った。
「あ、あの……」
 わたしは遠慮がちに言った。
「わたしは同じ部屋でもかまいません。河野さんがよろしければですけど」
 なにを言ってるんだわたしは。と、自分でも思う。でも決して、河野さんと同じ部屋に泊まれるチャンスを逃したくないなんて気持ちじゃない。理由はさっき思ったとおりよ。とは言えないなあ…… 自分のミスとはいえ、心のどこかにラッキーって思ってる自分がいる。
 もちろん、こんな提案は、彼に断られると思った。ところが、しばらく逡巡していた彼の答えは、意外にもわたしの希望通りだったのだ。
「まあ、佐倉くんがいいなら、オレはかまわないよ」
「まあ、よかったわ」
 女将さんはホッとしたようだった。わたしもホッとはしたけど、彼がどうしてわたしと同じ部屋に泊まることを認めたのか、その理由が気になる。
「お食事はもう、お持ちしてもよろしいでしょうか?」
 女将さんがお茶を淹れながら言った。
「どうします河野さん?」
「オレはわりと腹が減ってる」
「わたしもです。じゃあ、女将さん、お願いします」
「かしこまりました」
 女将は、お茶の用意をすませると、頭を下げて部屋を出ていった。
「すいません。こんなミスするなんて」
 わたしは、彼に頭を下げた。
「いいって、いいって。それより襲ったりしないからご安心を」
 わたしは、ぎこちなく笑った。どう答えたものかわからない。うれしいような残念なような気持ちだ。
「ところでさ」
 彼は話題を変えた。
「さっきの女将さんに、それとなく聞いてみようか」
「なにをですか?」
「高木幸子のことさ。かなり年配みたいだから、おそらく知ってるだろう。佐倉くんも、そのつもりでここを選んだんだろ」
 やっぱり。彼も同じことを考えていたんだ。わたしと同じ部屋に泊まるのがうれしいわけじゃなかった。
「ええ……」
 わたしはうなずいた。
「食事を持ってきてくれたときにでも聞いてみるよ」
 ここで、わたしたちの会話は途切れた。
 しばらくの沈黙。
 なんだか急に、今夜この部屋で、二人きりなのだという実感がわいてきてしまった。
「あ、あの」
 わたしたちは同時に声を出した。
「なんですか河野さん?」
「佐倉くんこそなに?」
「いえ別に」
「オレも別に」
 また会話が途切れた。
「まいったな。なんか変な感じだ」
 彼が苦笑いを浮かべて頭を掻いた。
「ごめんなさい。わたしがこんなミスをしたから、河野さんに変に気を使わせてしまって」
「なあ佐倉くん。もう謝るのはやめてくれないか。よけい気を使う」
「ごめんなさい」
「ほらまた」
 彼は笑った。
 わたしはまた、ごめんなさいと言いかけて、苦笑いを浮かべた。
「佐倉くん」
「はい」
「変な意味で言うんじゃなくて、今のオレたちは上司と部下という関係を忘れようよ。そっちのほうが気が楽だ」
「上司と部下でなければ、わたしたちはなんですか?」
 わたしは、思わず変な質問をしてしまった。
「友人だろ?」
「河野さんがそうおっしゃるなら」
「違うのかい?」
「いいえ。ただ、男と女って、友人になれるんでしょうか?」
 自分でも、なんでこんなこと言うのか…… わたしの気持ちに気づいて欲しい潜在意識が働いているのかもしれない。
「難しい問題だな。人によるとしか答えられないな」
「そうですね。すいません変な質問して」
「失礼いたします」
 ふすまの向こうで、女将さんの声がした。
「どうぞ」
 わたしが答えると、女将さんがふすまを開けて、料理の乗ったお盆を持って入ってきた。
「ほう。おいしそうだ」
 と、彼。
「ホント。豪華ですね」
「ありがとうございます。宿は汚いですけど、お料理には自信がございますのよ」
 女将さんが言うとおり、見た目だけは高級料亭に負けていない。おそらく、味もいいのだろうと思う。
 と、料理に感心している場合ではなかった。彼が女将さんに声をかけたのだ。
「女将さん。ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが」
「はい。なんでございましょう」
 女将さんは、手を休めることなく返事をした。
「じつは、われわれは雑誌社の者なんですよ」
「あら。記者の方でしたの?」
「まあそうです。それで今、日本の歴史を調べていましてね。いえ、そんな大げさなものではなくて、もっとこう、庶民の歴史と言うかな。そういうようなことを調べているんです」
「さようですか」
「高木さんの家は、ここから近いんですよね?」
「ああ、あの方を取材にみえたんですか。ええ、うちから近いですよ。歩いて十五分ぐらいかしらね」
「この辺の名士らしいですね」
「そうですねえ。まあ、こういう時代ですから、昔ほどのことはないですけど。ずいぶんと歴史のあるお家柄なのは確かみたいですよ」
「ちょっと聞いたところでは、娘さんが二人いるそうですね」
「お一人ですわ。上の娘さんは、ずいぶん前に亡くなってますから」
「へえ。いつごろですか?」
「もう四十年近く前かしらね。いいえ、わたしが嫁いできた翌年だから三十五、六年かしら」
「ご病気で?」
「いえ……」
 女将さんは口ごもった。
「失礼」
 彼は笑顔を浮かべた。
「ご近所のことをあまりしつこく聞くのはエチケット違反ですよね。われわれも、そういうことを取材したいんじゃないんですよ。ああ、そうそう。これうちで出している雑誌です。よろしかったらどうぞ」
 彼はバッグから、うちの園芸雑誌を一冊取りだして女将さんの前に置いた。さすがだわ。ちゃんと持ってきたんだ。
「あら。これを出してる会社でしたの?」
「ご存じでしたか?」
「ええ、ええ、知ってますとも。わたし庭いじりが趣味なんですのよ。毎月とは申しませんが、よく買ってますわ」
「ありがとうございます」
 彼は笑顔で礼を言った。
「よかったら、来月号をお送りしますよ」
「あらァ。そんな申し訳ないわ」
「とんでもない。こちらこそ、読んでいただいて光栄です。佐倉くん。来月号の特集は家庭菜園だったよね?」
 彼がわたしに聞いた。わたしは即座に答えた。
「そうです。野菜の作り方を特集してます」
「まあ、うれしいわ。ジャガイモの作り方も載ってるかしら?」
 女将さんは瞳を輝かせた。
「おそらくありますよ」
 と、彼は言いつつ、さっきの話題に自然な感じで戻っていった。
「それで女将さん、高木さんのことなんですけどね。なにも知らないで取材するのは大変なんですよ。うっかり、気に障ることでも口に出したらマズイでしょ?」
「ええ、ええ。わかりますわ」
「立ち入ったことはご本人にも聞きづらいですしね。ですから、もしご存じなら聞かせてもらえませんか。娘さんが亡くなった理由とか」
「いえね」
 女将さんは、急に声を落とした。
「大きな声じゃ言えませんけど、自殺だったんですよ」
「おや」
 彼はわざとらしく驚いた。
「それは聞いておいてよかった。原因はなんですか?」
「心中なんですよ」
「穏やかじゃないですね」
「歴史がある家柄なんて、融通がきかないんですよ。見栄が優先するでしょ?」
「娘さんの好きになった男性を認められなかったわけですか?」
「らしいですわ。もっとも、相手の方は当時の町長の息子さんで、決して家柄が悪いわけじゃございませんのよ。でも、なんと言うんですかねえ。そういう家同士だからこそ対立があったらしくてね。あんな家の息子のところに嫁にやるぐらいなら、犬にでもくれてやったほうがましだってイキまいたらしいですわ」
「それはすごい。相当、仲が悪かったんですね」
「なんでもね。相田さんが…… ああ、相手の方は相田って言うんですけど、町長になるときは高木さんから選挙資金とか、ずいぶん援助されたらしいですけど、当選したらコロッと態度が変わったらしいんですよ」
「どんな風に?」
「わたしも詳しくは知りませんけどね。新幹線ですよ。新幹線」
「新幹線?」
「ええ。掛川のほうを通ってるでしょ。あれをね。もっと高木さんの持ってる土地のほうへ誘致する約束だったらしいですの。ところが、フタを開けてみれば、新幹線が通ったのは、相田さんの持ってる土地のほうだったわけなんですよ」
「それで、相田さんはずいぶん儲けたと?」
「らしいですわ」
「でも女将さん。江戸時代ならともかく、いくら親同士仲が悪いって言っても、心中するようなことでもないような気がしますね」
「そうよねえ」
 女将さんはタメ息をついた。
「わたしたち庶民はそう思いますよ普通。でも、やっぱり違うんでしょうね。いいお家に生まれたお嬢さんとお坊ちゃんは」
「なるほど。庶民に生まれて良かった」
「ホントですわね」
「それで、今は高木家のご当主は妹さんが継がれたわけですよね」
「ええ。婿養子に入った章夫さんがね」
「そうでした。きっとご苦労されたんでしょうね。そういう状況で婿養子に入るなんて」
「どうかしら。あの人もいろいろ噂のある人だから」
「と言いますと?」
「相田さんが町長だったころ、役場の助役だったんですよ。まだ若かったですけど、町長の右腕とまで言われてましたわ。ですけど、高木さんと相田さんの仲がこじれてからは、高木さんのほうへなびいたらしくてね。つぎの町長選挙に高木さんの後押しで立候補するつもりだったみたいですよ」
「現職の相田さんをけ落としてですか? 助役って言えば、町長の部下でしょうに」
「そう。野心家なのは確かですわ。でもね。新幹線の路線問題は、いわば汚職に近いことだったわけでしょ? そういう噂が流れて、相田町長はリコールされましてね。もちろん助役だった章夫さんも一蓮托生ですよ」
「それでも、章夫さんは高木さんの婿養子に入った?」
「そう。そのへんが立ち回りのうまいところですわ。どうやったのか知りませんけどね」
「ふうん…… 複雑ですね」
「いろいろとありますのよ。こんな小さな町でも」
「政治家がいるところには、どんな場所にも裏の世界がありますよ」
「ホントにねえ。政治家なんてロクなもんじゃないわ。あらいけない。わたしったら、すっかり話し込んじゃって。どうぞ、冷めないうちにお召し上がりくださいな」
「ああ、どうも。貴重なお話ありがとうございます」
「いいえ。ところでその、このことは……」
「もちろん、誰にも話しませんよ。少なくとも女将さんから聞いたなんて、口が裂けても」
「さすが、記者さんですね」
 女将さんはコロコロと笑顔を浮かべて、ごゆっくりと言いながら部屋を出ていった。
「すごーい、河野さん」
 わたしは感嘆の声をあげた。こんな簡単に情報を引き出してしまうなんて、本当にすごい。
「河野さんこそ探偵になれますね。感心しました」
「じゃあ、二人で会社辞めて探偵事務所でも開くか」
「それ、いいですね」
「ハハハ」
 彼は、笑いながら料理を口に入れた。
「おっ。マジでうまいよこれ」
「あ~っ、もう食べてる。まずはビールで乾杯でしょ」
「たまに、オヤジみたいなこと言うね」
「日本人の常識です」
 わたしはそう言って、彼のグラスにビールを注いだ。彼もわたしのグラスにビールを注いでくれた。
「じゃあ乾杯」
 わたしはグラスをカチンと合わせた。
「なんだかわかんないけど乾杯」
 と、彼。
「河野さんの機転に乾杯ですよ。ホント、うまく聞き出しましたね」
「わけないさ。ああいう人は、もともと話好きだしね。それに、うちの雑誌を知ってるとなれば、もう安心してベラベラしゃべるもんだよ。こっちが黙ってても」
「でもすごいですよ。どうしてそんなこと簡単にできちゃうんですか?」
「オレは営業だよ。人の話を辛抱強く聞くのには慣れてる。逆に、こっちのペースに乗せる手法もね」
「テクニシャンですねえ」
「変な誉め方だな」
「えっ? ああ、いえ。変な意味じゃなく」
 わたしは、彼の言った意味を理解して、慌てて料理を口に入れた。
「あら。ホントおいしいわ」
「だろ」
「こうしてると、なんだが旅行気分ですね」
「ズル休みしての旅行は楽しいねえ」
「わたしは優等生だったんだけどな。それにしても、会社の誰かにこんなところを見つかったら、大変ですよね」
「どうにも申し開きのできない事態に陥るだろうな。なんにも悪いことしてないのに」
「そうですよ。誤解されたとしても、なにも悪いことはしていません。ズル休みはともかく」
「まあね」
 彼はおもしろくなさそうな顔で肩をすくめた。
 わたし、なにか変なこと言ったかしら?
 すると彼は、つぶやくように続けた。
「なにも悪いことはしていない。するつもりもない。そう。そんなつもりは……」
 なに? どうしたのかしら?
「でもさ、佐倉くん」
 彼は急に顔を上げた。
「もし、もしもだよ。オレは独身だし、きみも好きな男性はいないわけだから」
 彼はそこで言葉を切った。
「だから?」
 わたしは、妙に心が騒ぎ出すのを感じながら彼の言葉を促した。
「いやその…… 誤解されたって、べつに不倫じゃないわけだよな」
「そうですね」
 わたしはうなずいた。もう料理なんか食べている暇はない。
 ところが彼のほうは、無言で料理を口にしていた。わたしも仕方なく、料理を口にした。味なんか感じない。彼がどうして、あんなことを言ったのか気になってしょうがなかった。
「佐倉くん」
 彼がわたしの名を呼んだ。わたしは、ビクッとなって顔を上げた。
「きみ。今日は朝早かったんじゃないか?」
「え? ええ……」
 なんだ、もう話題が変わってる。
「今日は早めに休んだ方がいいな。明日も大変そうだし」
「平気です」
「無理するなって。けっこう、気が張ってたんじゃないか?」
「一晩ぐらい徹夜したって平気です」
「徹夜することなんてなにもないさ」
 彼は首を振った。
 それからまた、わたしたちは会話のないまま食事を進めたのだった。
 食事が終わって、食器を片づけてもらったあと、わたしたちの部屋に蒲団が敷かれた。いやがうえにも、旅館の情緒がかもし出される。
「あの、河野さん。わたし、お風呂をいただいてきます」
「あ、ああ、どうぞ」
 彼は、一瞬どもったあと、ふだん通りの声で答えた。
「疲れたろ。ゆっくり入っておいでよ」
「ええ。そうします。河野さんは?」
「オレは…… ちょっと書類を仕上げてから入るよ」
「そうですか。ではお先に」
「どうぞ」
 わたしは、自分のバッグと旅館の浴衣を持って部屋を出た。温泉の脱衣所に入ると、数人のお客さんとかち合った。みんなオバサンだけど、妙に明るくて元気がいい。
 わたしは耳のイヤリングを外すと、長い髪を束ねて後ろに結わいた。そして、オバサンたちの明るい会話を聞きながら服を脱いだ。ちらっとオバサンたちを見ると、みなさん立派な体形。こう言っては失礼だけど、胴とヒップの境目がわからない。そう言えば、同世代の友人たちも、最近下腹が出てきたとか嘆いてたっけ。
 そういうわたしは、昔から太らない体質なので体形はほとんど変わっていない。それどころか、プロポーションにはわりと自信がある。一六八センチの身長は、最近の若い子と比較しても低くないし、ブラジャーの種類に困るほどではないけど、胸もそこそこ大きい。見せる人がいないから意味はないのだけど……
 彼になら、いつだって見せたいな。そんなことをふと考えたとき、下着の線が身体についているのに気がついた。オバサンたちに見られたって、どうってことないけど、妙に恥ずかしい気分になってタオルで隠した。
 お風呂のドアを開けると、真っ白い湯煙が立ちこめていて温泉特有の匂いが香っていた。そういえば、温泉なんて本当に久しぶり。さっきのオバサンたちも入ってきた。相変わらず楽しそう。いいなあ。わたしも一人じゃなく友だちときたいな。一人旅の好きな友人もいるけど、わたしはあまり好きじゃない。
 わたしは、まず身体を洗った。なにも起こるはずがないとはわかっていても、いつもより、丹念に洗ってしまう自分が悲しい。
 身体を洗い終わって湯船につかる。少しお湯が熱いけど、マンションの小さい湯船とは違って、気持ちがいい。思わずふうっと息をついてしまう。わたしは、お湯の熱さに身体を慣らしながら胸までつかった。バストが浮力で浮いて、肩にかかっていた負担がなくなる。胸が大きいのも楽じゃない。
 わたしは、暖まって上気してくる自分の身体を見ながら思った。本当に今夜、なにも起こらないのかしら…… と。
 バカね。起こるはずがないじゃない。期待なんかしてもダメ。わたしのミスでこんな状況になったのだから、彼は迷惑がっているはずよ。
 オバサンたちも湯船に入ってきた。お湯が揺れて、熱さに慣れた身体に、また熱の刺激が感じられた。相変わらず楽しいそうなオバサマたち。いいなあ、幸せそうで。こっちは大変なのよ。変な呪いはかかるし、好きな人には振り向いてもらえないし。
 オバサンたちの楽しそうな会話を聞いていると、一人で黄昏ているのがバカらしくなって、わたしは湯船を出た。もう少し入っていたかったけど、まあいいわ。
「いいお湯でしたよ」
 わたしが部屋に戻ると、彼は持ってきたノートパソコンで、なにやら書類を作っていた。
「そう。オレも入ろう…… でもここの数字が合わないんだよなあ」
「なんの書類ですか?」
「例のヤツだよ。木曜日までに必要な」
「ああ、あれね」
 わたしは、彼の背中ごしからノートパソコンをのぞき込んだ。
「もう、ほとんどできてるじゃないですか。明日メールで送ればいいわね」
「そのつもり。でも小計の数字が変なんだよな」
「E6のセルですか?」
「そう」
「入力ミスがありますよ」
「えっ、どこ?」
「ここです」
 わたしはワークシートのセルを指差した。そのとき、彼の肩にわたしの肩が少し触れた。
「上のセルと数字がかぶってるわ。ここの数字はE5を…… 聞いてる? 河野さん」
「えっ? ああ、うん。聞いてる」
 彼はどもった声で答えると、急に立ち上がった。
「あのさ。オレも風呂に入ってくるよ」
「いってらっしゃい。わたしが書類のチェックしておきますね」
「いいよ、あとでやるから」
「河野さんがお風呂に入ってる間に終わりますよ。やっておきます」
「そう…… 悪いね」
「どういたしまして。ごゆっくりどうぞ」
「サンキュ」
 彼は、なんとなく慌てた様子で部屋を出ていった。
 わたしは、もしかして浴衣なんか着ているわたしを、少しは女として意識してくれたのではないかと思った。そうだとしたらうれしいのだけど。
 ふう。それにしても熱い。身体がポカポカする。あまり長湯をしなくて正解だったかも。わたしは、一人なのをいいことに、少し浴衣をはだけてパタパタと手で自分を扇いだ。
 そのとき。ふと蒲団の上を見ると、浴衣が置いてあった。彼は浴衣を持っていくのを忘れたようだ。どうしよう。まさか持って行ってあげるわけにもいかない。
 と、思った矢先、部屋のふすまが急に開いて、彼が入ってこようとした。
「あっ」
 わたしは、慌ててはだけていた浴衣を直した。
「ご、ごめん!」
 彼のほうも、慌ててふすまを閉めた。
 恥ずかしい! 変なところ見られた。ヤダァ。どうしよう。ブラジャーをつけてるから直接見られたわけじゃないけど……
「佐倉くん、あの……」
 ふすまの外で彼の声がした。わたしは、彼の浴衣を手に取ると、一回深呼吸して気分を落ち着けてからふすまを開けた。
「ごめん。浴衣を忘れちゃって」
 と、彼は申しわけなさそうな顔で言った。
「はい。そうだと思いました」
 わたしは浴衣を渡した。
「悪い。驚かせちゃったね」
「いいえ…… 気にしないでください。でも……」
「でも?」
「忘れてくださいね。あんな格好してたの」
「見てない、見てない。なにも見てない」
 彼は思いっきり首を振って答えた。見ましたと言ってるようなものね。うう、恥ずかしい。
「いや、多少は見ましたけど、べつに変な格好じゃなかったというか、その」
 彼もわたしの気持ちを察したのか言葉を変えた。
「大変、魅力的な姿で非常にけっこうなモノを見せていただいて…… じゃなくて、オレはなにを言ってるんだ。とにかくごめん。今度は、ちゃんとノックするから」
 彼はそう言うと、足早に温泉に向かって行った。
 わたしは一瞬、今度はハダカで待っていようか。なんてバカなことを考えながらふすまを閉めた。なにを見られると恥ずかしくて、なにを見られたいと思っているのか、自分でもさっぱりわからなかった。
 でも、一つだけわかっていることがある。たぶんもう、わたしは以前のように彼と接することはできない。秘め続けていた想いを、抑えることができなくなっている。そう思ってもまだ、いつかこの呪いが解けたとき、彼に告白することができるか自信がなかった。


三月十七日。水曜日。


 眠れない。オレはまくら元に置いた腕時計を見た。日付が変わっていた。呪いのビデオを見てから五日目。まさかあの時は、こうして佐倉麗子と同じ部屋で蒲団を並べて眠ることになろうとは、夢にも思わなかった。いや、まったく夢のようだ。
 しかし、眠れないって。彼女のほうは、さすがに朝早かったこともあって、かすかな寝息を立てている。こんなときは、バイアグラを飲まなきゃならないジジイがうらやましい。
 それにしてもオレは変だ。そんなに女好きな性格じゃないんだよ。もちろん、女が嫌いなわけではない。正常な男性として、当然の性欲は持っている。でも女だったら、誰にでも発情するようなガキじゃない。そんなヤンチャな時期はとうの昔に過ぎた。しかも今は分別ある大人だ。理性が本能に勝る。でもなんで、佐倉麗子には、こんなに反応してしまうのだろうか。もしかして、彼女のことを好きになってしまったのか?
 ああそうだよ。なにが「好きになってしまったのだろうか?」だ。そんなこと自分で一番わかってる。オレは、もうずいぶん前から彼女が好きなんだよ。しかもここ数日の間で、彼女はオレの心の中に深く入り込んでしまった。
 もちろん、告白する勇気なんかない。いつかこの呪いが解けたとき、オレたちは今まで通りの上司と部下に戻るだろう。その関係を壊したくない。
 でも、でも、もし万が一、彼女がオレを受け入れてくれるとしたら? そういう意味で上司と部下の関係が壊れるのだとしたら? それはうれしい。しかし、彼女がオレを受け入れてくれるわけがない。オレが告白した時点で、すべてが最悪の状態になってしまう。
 どうしたらいいんだろう…… どうしたら……
「河野さん」
 声がした。
「河野さん。朝ですよ」
 オレは目を開けた。まぶしい。徐々に佐倉麗子の顔が網膜に像を結んだ。彼女もまだ浴衣姿だった。
「おはようございます」
 佐倉麗子の顔が、そう言ってほほえんだ。
「そろそろ起きてください。朝ご飯を食べる時間がなくなるわ」
「う、うん」
 オレは蒲団をはだけた。どうやら、いつの間にか眠ってしまったようだ。
「今日もいい天気ですね」
 彼女は窓の外を見ていた。朝日に輝く髪がきれいだった。
「ねえ河野さん。高木さんの家に歩いて行ってみましょうよ」
「うん」
「もう。まだ声が寝ぼけてる」
 佐倉麗子は、オレを振り返ってクスッと笑った。寝ぼけているわけじゃない。ポーッとした顔で、彼女に見とれていただけだ。
 さてと。顔を洗ってくるか。
「あっ、そうだ」
 顔を洗いに出て行こうとするオレに、彼女が声をかけた。
「なに?」
「ちょっと待って」
 そう言って彼女は、バッグからポラロイドカメラを取り出した。
「カメラ持ってきたの?」
「ええ。あの二人のことを調べているうちに、なにか変化があるかと思って」
 佐倉麗子は、パシャッとシャッターを押した。
「お、おい。なにも寝起きの顔を撮ることないじゃないが」
 すると、彼女はクスッと笑った。
「だから、おもしろいんじゃないですか」
「やっぱりきみは意地が悪い。カメラを貸したまえ」
「わたしはもう、バッチリ目が覚めてます」
 佐倉麗子はオレにカメラを渡しながら言った。
「浴衣姿を撮って差し上げよう」
 オレはシャッターを押した。
「浴衣姿では写らないんですけど」
 と、佐倉麗子。
「わからないぞ。変化があるかもよ。服が透けて見えるとか」
「まさか」
 お互いを撮った写真の像が出てきた。
「ほら。見事なウェディングドレスだわ」
「変化なしか。相変わらず、新郎新婦になっちゃう病だ」
「河野さんのほうは変化があるわ」
「どこに?」
「顔が寝ぼけてるもの」
「まったくもう」
 オレは、ポラロイドのフィルムで、佐倉麗子の頭をペシッと叩いた。彼女はペロッと舌を出して、コケティッシュな表情を浮かべた。
「顔洗ってくるよ」
「いってらっしゃい。そうだ。今度はいきなりふすまを開けないでくださいね。今から着替えますから」
「何分後に着替える?」
「河野さんが、出たらすぐにだけど。どうして?」
「ということは、三十秒ぐらいして開けたら、ちょうどいい場面が見れそうだな」
「あら。だったら一分後がいいわ。ブラジャーのホックを付けてくださる?」
「えっ!」
「待ってます」
 彼女は笑った。
「やっぱり、きみのほうが上手だよ」
 オレも笑いながら部屋を出た。もちろんオレは、ふすまを開けたりしなかった。
 朝食をすませ一服ついたあと、オレたちは旅館を出た。車でお送りしましょうという女将の提案を断って、歩きながら高木家へ向かうことにした。静岡は暖かいと聞いていたが、今日はコートを着ていると暑いぐらいだ。全国的にもいい陽気になのだろう。
「のどかですねえ」
 佐倉麗子は、オレの隣をのんびり歩きながら言った。
「うん。本当だったら、朝のラッシュアワーに苦しんでる時間だよな」
「帰るのがイヤになってきたわ」
「仕方ないさ」
「河野さんは、実家東京なんですよね?」
「ああ。佐倉くんは横浜だろ?」
「そう。お互い都会っ子ですね」
「両親とは住まないの?」
「兄夫婦が同居してます。今はたまに、姪の子守りをしに帰るぐらいですよ」
「もう叔母さんなんだ」
「そう。オバサンなんです。河野さんは?」
「オレ?」
「実家、近いんでしょ?」
「大学に入ってから、一人暮らしだよ。下に弟が二人いたから、一人でも少ないほうが家を広く使えていいだろ」
「長男なんですね。純一って名前だから、そうかなとは思ったけど」
「うん。でもこの先も一緒には住まないだろうね」
「どうして?」
「ホントは、親父とそりが合わないんだ。だから大学に入ってすぐ家を出た。もう親父たちもいい年だけど、末の弟が面倒を見るみたいだね。近くに家も買ったし」
「そうなんですか。そんなに、お父さんと仲が悪かったんですか?」
「今はそうでもない。向こうもこっちも丸くなったよ。でもやっぱり、二人でいると気まずいね、今も」
「ふうん。苦労があったんですね」
「そんなことないよ。アパート代はアルバイトで稼いだけど、大学に通う費用は親に出してもらった。なんだかんだ言っても、親は親さ。感謝してる」
「わたしも両親のことは大好きです。でも、高木幸子と相田宗一郎は違うんですね」
「彼らは親を憎んでいただろうな」
「そのへんはどうなんでしょう。われわれに、あんな呪いをかける二人ですよ。親にはなにか呪いをかけたんでしょうか?」
「これから、その疑問を解きたいね」
「そうですね。聞き出せるといいけど」
「きのうの女将みたいに簡単ではないと思うよ。努力はしてみるけど」
「期待してます」
 そんな話をしながら田舎道を歩いていると、高木幸子の実家が見えてきた。純和風の御殿と呼ぶのが相応しい建物だった。どうやら、最近建て替えたもののようだ。壁の色が新しいし、だいいち風格がない。屋敷には、特に門というものはなく、品のないごちゃごちゃした日本庭園の中央に石造りの小道が敷かれていて、それが玄関まで続いていた。なにもかもが、いかにも田舎の金持ち。庭にも屋敷にも品格というものがまるでない。高木家の現当主、高木章夫の人格も推測できるというものだ。気が滅入ってきた。
「想像以上に苦労しそうだなこれは」
 オレはつぶやいた。
「ですね。これだけ美意識が欠落している人も珍しいわ」
「約束の時間、五分前だ。覚悟を決めて行くとしますか」
「はい」
 オレたちは、玄関のインターフォンを押した。女性の声が聞こえたので、電話した雑誌社の者だと告げると、しばらくして玄関が開いた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
 玄関を開けたのは、インターフォンに出た女性と同じようだった。五十を過ぎていると思われる年配の女性だが、屋敷の雰囲気とは裏腹に気品のある顔立ちだった。おそらく彼女が、高木幸子の妹だろう。
「突然のことで申し訳ありません」
 オレと佐倉麗子は軽く頭を下げた。
「いいえ。どうぞお上がりください」
「ありがとうございます」
 やはり品のない屋敷の中を通され、庭の見える客間に案内された。
「少しお待ちください。主人を呼んでまいります」
「はい」
 オレたちは、客人が座るべき位置の座ぶとんに腰を下ろした。
「なんだか緊張しますね」
 と、佐倉麗子。
「まずは、高木家の歴史を話題にするから、適当にメモを取ってる振りをしてくれ」
「ええ」
 佐倉麗子は、バッグから手帳を取り出して、目の前のテーブルに置いた。
 しばらくして、どかどかと足音が聞こえてきて、ふすまが開いた。
「いやあ、お待たせしましたな」
 色黒のジイさんが現れた。想像どおり品格のない男だった。ブランド物のゴルフウェアをだらしなく着こんだところなど見ると、どうして高木陽子がこの男と結婚したのか不思議なくらいだった。
 オレたちは礼儀上、立ち上がった。
「ああ、そのまま、そのまま」
 高木章夫は、手を振りながら、屋敷の主人が座るべき場所に腰を下ろした。位置としてはオレたちの正面になる。われわれも、腰を下ろした。
「今回は、急な取材に応じてくださってありがとうございます」
 オレは、スーツの内ポケットから名刺を取り出して、彼の前に置いた。
「お電話を差しあげた河野と申します。こちらは同僚の佐倉です」
 佐倉麗子も、挨拶をしながら自分の名刺を彼の前に差し出した。
「どうもどうも。こんな美人のお嬢さんが一緒とは、うれしいですな。おや、お嬢さんは総務部長でいらっしゃる?」
 お嬢さんだとさ。初対面の女性に対して「お嬢さん」などとバカにした呼び方をするヤツは好きになれない。たとえ、好意的な気持ちからそう呼んでいるとしてもだ。礼儀をわきまえてもらいたい。
 佐倉麗子は、嫌な顔も見せないで高木章夫に答えた。
「小さな会社なんです。ですから、河野やわたしのような営業スタッフも編集に関ることが多いのです。特に今回のような、大きな企画になりますと、社員総出でして」
「ほう。そうかね。わたしゃ雑誌のことはわからんが、大変ですな」
 オレは、バッグからうちの園芸雑誌を取り出して彼の前に置いた。
「これがうちの売れ筋です」
「園芸雑誌?」
「はい。ほかに医療関係の書籍や映画雑誌などを発行しております。歴史関係は初めての試みなんですよ」
「ほう。では責任重大と言うところですな」
「そういうことです」
「ほかには、どんなところに取材に行かれておるのかな?」
 うっ。いい質問だ。答える準備がないのが問題だが。
 すると佐倉麗子が淀みのない口調で応じた。
「遠州地方では、こちらは初めてなんですよ。関東と関西地方は、ほかのスタッフが回っておりまして、まだお互いに情報をまとめておりませんの」
「そうでしたか。うちが初めてね。光栄ですな」
「さっそくですが」
 と、オレが言ったとき。奥さんがお茶を持って入ってきた。
「失礼します」
 お盆を持つ仕草にも品格がある。
「どうぞ、お構いなく」
 オレは頭を下げた。そのとき、さり気なく聞いてみた。
「奥様でいらっしゃいますよね?」
「おお、失礼した。妻の陽子です」
 高木章夫が答えた。高木陽子は、お茶を置きながらオレたちに頭を下げた。
 オレは、なんとか彼女も同席させたかった。幸子の肉親である彼女こそ、話を聞きたい相手であるからだ。なにか理由を付けないと。と、頭の中で考えを巡らせていたが、その必要はなかった。夫の章夫が、おまえも座りなさいと言ったからだ。
「いえ、わたくしは」
 と、首を振りかけた高木陽子を、章夫が制した。
「いいじゃないか。おまえも座ってなさい」
「はい」
 高木陽子は、夫から少し離れた位置に正座して座った。
「では、さっそくですが、こちらの歴史からお聞きしたいのですが」
 と、オレ。
「うむ」
 と、高木章夫はうなずくと、江戸中期から話を始めたのだった。覚悟していたとはいえ、時間のかかりそうな「念仏」を聞く羽目になりそうだった。
 高木章夫は、婿養子のくせに、いかにも高木家の人間らしく、家の歴史を…… もとい、自慢をえんえん二時間近く続けた。ただ、細かい点に話が及ぶと、妻の陽子にそうだったよな。と確認を求めるところが情けなかった。彼が妻を同席させたかった理由がわかった。雑誌社の取材という手前、ただの自慢ではなく多少は正確なことも言わなきゃならないという思いがあったのだろう。どちらにしても、オレたちに意味のある話ではないのだが。
 話は、やっと現代に突入した。前の当主、つまり幸子と陽子の父親が四年前に他界してから、この家を建て替えたのだそうだ。ちなみに、父親は八十三で大往生したそうだ。母親のほうはずいぶん前に亡くなったらしい。つまり、幸子の肉親で生きているのは、陽子だけということになる。
「なるほど」
 オレは、話の区切りのいいところで相槌を打った。
「ちょっと小耳に挟んだのですが、高木さんは昔、この町の助役をなさっていたそうですね」
 とたん、章夫の顔が曇った。
「まあ、昔のことだね。それがなにか?」
「いえ。町の名士として、大変に意義のあることだと思いましてね。町の振興にもご助力なさってきたのでしょ?」
「まあな」
 彼の返答は歯切れが悪かった。この話題には触れたくないというオーラを発しているかのようだ。もちろん、そういうわけにはいかない。
「その点に関していくつかお聞きしたいのです。特に、新幹線の路線誘致について」
 章夫の顔が、はた目にも険しくなったのがわかった。
「それがうちの歴史と、どんな関係があるというのかね」
「直接はありませんよ。ただ、新幹線の通った掛川はずいぶん発展しましたよね。ですが、町の風情という意味では失われたものも多いと思うのです。この町は、新幹線が通らなかった代わり、当時の風景が残っています。素晴らしいことですね」
「だから?」
「町の助役を務めてらした高木さんが、当時どのようなお考えを持っていたか、お聞きしたいのです」
「別に、なにもしとらんよ。相田さんがやったことだ」
「当時の町長ですね。やったこととは?」
「新幹線だよ」
「なにをなさったのでしょう。具体的に」
「なぜ、そんなことを聞くのかね?」
「現在も、東北や北海道などで新幹線の計画があります。また、高速道路の計画もある。中には無謀と思える計画もあります。そういった計画に対して、なにか助言をいただけるかと思ったわけなんです」
「なにもない。やりたいようにやればいい」
「そうですか…… 変だな」
「なにが変なんだ」
「いえ。これも小耳に挟んだのですが、当時、新幹線は高木さんのお持ちになってる土地を通るはずだったんですよね。それが、なぜか変わっている。高木さんが反対されたからではないのですか?」
「だからそれは、義父と相田町長がやったことだ。わたしは知らん」
「助役だったのにですか?」
「なにが言いたいのかねきみは」
「理由は先ほど説明しました。他意はありませんよ」
 オレは肩をすくめて、話題を陽子に振ってみた。
「奥様はご存じですか? お父様とそういうお話をされたことは?」
「いいえ」
 陽子は首を振った。
 くそう。とっつきようがないな。ガーンと核心に迫ってみるか。
「お姉様がいらしたんですよね?」
 オレは、陽子に言った。
「はい。それがなにか?」
「現在はどちらに?」
「亡くなりました」
「失礼しました。お姉様は町長の息子さんと親しかったそうですから、なにかご存じかと思ったのですが」
 オレがそう言うと、高木章夫が突然立ち上がった。
「なんなんだきみは! いったい誰に何を聞いたか知らんが、四十年近く前の話を蒸し返すのはやめたまえ!」
「他意はないと申し上げました」
「もういい。話は終わりだ」
 高木章夫は、ふすまを乱暴に開けて、屋敷の奥に下がってしまった。
 やれやれ。半分予想していた反応だが、こうも取りつく島がないとは。
「大変失礼しました」
 オレは陽子に頭を下げた。
「ご主人のご機嫌を損ねるつもりはなかったのです。ただどうしても知りたいことがあったものですから」
「なにがお知りになりたいの?」
 初めて陽子のほうから質問してきた。
「お姉様のことですよ」
「なぜです?」
「それを正直にお話ししても、たぶん信じてはもらえないでしょう」
 陽子が首をかしげたとき。佐倉麗子が口をはさんだ。
「陽子さん。わたしたち、幸子さんのことを知っているんです。ここへうかがった本当の理由は、幸子さんのことを詳しく知りたいと思ったからなんですよ」
「なにをおっしゃっているのか、さっぱりわかりませんわ。姉が死んだのは、あなたがたが生まれるずっと前ですよ」
「彼女はね」
 と、オレ。
「ぼくは生まれていましたよ。まだ三つか四つでしたけど」
「子供のころに姉と会ったことがあるというのですか?」
「そうではありません」
 そのとき、屋敷の奥から怒鳴り声が聞こえた。
「陽子! なにをしとる。さっさと追い出さんか!」
 やれやれ。
 高木陽子が立ち上がった。
「どうぞ、お引き取りください」
 まいったね。
 オレたちは渋々立ち上がった。だが、そのとき。
「うちの裏山に、小さな祠があります。わたしはよく、そこへお参りに行くのです」
 彼女はそう言ったのだった。
 オレと佐倉麗子は顔を見合わせた。
「そこでお待ちいただければ、あなたがたのお話をお聞きできるかもしれません」
「お待ちします」
 オレは即答した。待つとも。待ちますとも。
 高木家を追い出されて、オレたちは裏山に向かった。細い道が一本あるだけなので、迷うことなく祠に到着した。
「ずいぶん寂れてるな」
「そうですね。でも誰かが掃除をしているみたい。まわりの草とかきれいに刈ってあるわ」
「高木陽子かな」
「たぶんそうでしょ。この山は高木家の所有だろうし」
 それから三十分も待っただろうか。高木陽子が現れた。
「お待たせしました」
「いいえ」
 オレたちは、軽く首を振った。
 どことなく、ぎこちない空気が流れた。最初に口を開いたのは佐倉麗子だった。
「陽子さん。先ほどご主人に差し上げた名刺。あれは本物です。わたしたちは、決して怪しいものではありません」
「そうですか」
 高木陽子は気のない返事を返した。オレたちが何者なのか、あまり興味はないようだ。
「ここはね。子供のころ姉とよく遊んだ場所なんですよ」
 高木陽子はあたりを見回して、つぶやくように言ってから、オレたちに向き直った。
「それで。姉のなにをお知りになりたいの?」
「あなたのお姉さんと、義理の兄になっていたかもしれない男性についてです」
 オレが答えると、高木陽子の顔に警戒心が浮かんだ。
「なぜお知りになりたいのか説明してください」
「おそらく信じてはもらえないでしょうが……」
 と、オレが言いかけると、佐倉麗子がバッグからポラロイドカメラを取り出した。
「河野さん。これが一番早いですよ。論より証拠。いえ、百聞は一見に如かずですね」
「確かにね」
 オレは肩をすくめた。
「いったい、なんですの?」
 首をかしげる陽子を無視して、佐倉麗子は祠をバックにしてオレを撮影した。
「ご覧になってください」
 陽子は、佐倉麗子から手渡されたフィルムを見つめた。まだ像は出ていない。徐々に、写っているモノがハッキリしてくると、陽子はさすがに不思議そうな顔で言った。
「どういう仕掛けですか?」
「仕掛けはないんです」
 佐倉麗子が答えた。
「今度はわたしを撮影してみていただけますか? ここのボタンを押すだけです」
 高木陽子はカメラを手渡されて、戸惑うようにオレを見た。
「どうぞ。彼女の言うとおりにしてみてください」
 オレの言葉で諦めたように首を振った高木陽子は、佐倉麗子に向かってシャッターを切った。そして、ウェディングドレス姿になった佐倉麗子がフィルムに現れると、高木陽子は苦笑いを浮かべた。
「おもしろいカメラがありますのね。このカメラでご商売でも始めるおつもり?」
 皮肉の混じった声だ。
「やはり、信じていただくのは難しいと思います」
 オレは答えた。
「ですが、これはトリックでもなんでもないんです。誓って申しますが、普通のどこにでも売られているカメラなんですよ。おかしいのは、われわれのほうなんですよ」
「なにをおっしゃっているのか、さっぱりわかりません」
「だと思います。佐倉くん。高木さんと並んでくれないか?」
「ええ」
 佐倉麗子は、高木陽子の隣に立った。オレは彼女たちを撮影した。当然、出てきた写真は、なんの変化もない高木陽子と、ウェディングドレスになった佐倉麗子だった。
「どうでしょう陽子さん。カメラに仕掛けがあるとしたら、ある特定の人物だけをこのように変化させるのは可能でしょうか?」
「さあ……」
 さすがに、自信なさげな声で、高木陽子は首を振った。
「わたしには、難しいことはわかりません。でももしこれが本物だとしたら、それと姉が関係あるとおっしゃりたいのですか?」
「そのとおりです。じつは、あるビデオを見たときから、われわれは、こういう特異体質になってしまったのですよ」
 それからオレたちは、ビデオの内容から、それをビデオプリンターで調べたこと、そして図書館で過去の新聞を調べて、野尻湖の地元警察で高木幸子の実家を突き止めたことなど、すべて正直に話した。
「まさか」
 高木陽子は、薄い唇を震わせながら言った。
「姉が人を呪うなんて、そんなことあり得ません。姉は、本当に心の優しい人でした。わたしなんかとはぜんぜん違う」
「すいません」
 佐倉麗子が言った。
「便宜上、呪いなんて言葉を使っただけなんです。わたしたちも呪われているなんて実感はありません。ですが、このままでは生活に支障があるのも事実です」
 佐倉麗子の言葉に高木陽子は答えた。それは意外な言葉だった。
「お金ですか?」
「は?」
 オレと佐倉麗子は、同時に疑問符を頭の上に浮かべた。
「あなたがたの話をあえて嘘だとは申しません。でも、お金が欲しいのでしょ?」
「違います!」
 佐倉麗子は叫んだ。
「わたしたち、そんな人間じゃありません」
「じゃあ、いったい目的はなんなの?」
「供養ですよ!」
 佐倉麗子は怒鳴った。
「幸子さんと宗一郎さんが、この世に未練があるから、こんなことになったんじゃないですか。だから、わたしたちが供養しようと思ったんです!」
「佐倉くん」
 オレは、彼女の腕を軽くつかんだ。
「落ち着いて。ちゃんと話せばわかってもらえるよ」
「ごめんなさい。興奮しちゃって」
 佐倉麗子は、ふうと息を吸ってから言った。その声は落ち着きを取り戻していた。
「高木さん」
 と、オレ。
「彼女が言ったことは本当です。われわれはお金が目的じゃない。結婚式を挙げることが目的なのです。幸子さんと宗一郎さんの代わりに」
「えっ?」
 高木陽子は、意外な言葉に驚いた顔を見せた。
「つくづく、突飛なことを言う連中だと思われるでしょうね」
 オレは笑顔を浮かべて続けた。
「確信はないんです。でも、あのビデオを見てわれわれはこうなった。調べてみると、それは結婚することのできなかった男女の想いが詰まったビデオだったことがわかりました。だから、一番いい供養は、二人に成り代わって、思いを遂げてあげることだと思ったのです」
「なぜ、あなたがたが? まるで知らない他人なのに?」
「それはぼくらにもわかりません。どうして選ばれたのか。しかし、選ばれてしまった」
「姉は……」
 高木麗子がつぶやいた。そして、意外な言葉をあとに続けた。
「姉は…… 姉は、恨むならわたしを恨むべきなのです」
「どういうことですか?」
「宗一郎さんと姉を、心中するまで追い詰めたのはわたしだからです」
 また意外な言葉。オレたちは、彼女の言葉の続きを待った。
「姉は宗一郎さんに恋をしていました。しかしそれが実らぬ恋であることも知っていたのです。だから、ずっと彼への想いを胸に秘めたままでした」
「なぜ実らぬ恋なんですか」
「姉は長女です。家を継ぐことを義務づけられていました。宗一郎さんは、相田家の長男。彼がうちの婿になることはあり得ません。だから姉は、宗一郎さんに想いを打ち明けることはなかったんです。でも、心の中に秘め続けるのはつらかったのでしょう。ある日、わたしだけには、話してくれたのです」
「それで、あなたが二人の仲を取り持った?」
「そうです。宗一郎さんに姉の気持ちを伝えてしまったのです。彼も姉のことを好きなのだと知っていたから」
「それはお姉さんを想ってのことでしょう?」
 佐倉麗子がそう聞いたとき。高木陽子は首を横に振った。
「違います。わたしは姉が苦しむ姿を見たかった」
 おい。意外な言葉が続きすぎじゃない?
 高木陽子は、キュッと唇を噛んでから続けた。
「姉は、なにもかもわたしより優れていた。美人だし頭もよかった。将来家を継ぐ娘ですから、父と母にも愛されていました。わたしはどうせ出て行く人間です。それが憎かった。わたしは仲のよい姉妹を演じながら、心の中で姉に嫉妬していたのです。あんなに心の優しい人なのに、わたしは姉の苦しむ姿が見たかった」
「それで、二人を?」
「ええ。姉は宗一郎さんに愛される喜びに負けました。彼を拒むことができなかったのです」
「女なら当然だわ」
 佐倉麗子が相づちを打った。そして、男であるオレに説明するように言った。
「そのあと苦しむとわかっていても、女は愛する人と一緒にいたいものです」
 そんなもんかね。と、オレは心の中で思ったが、口には出さなかった。
 高木陽子が続けた。
「事実、姉は悩みました。二人の関係が、まわりに知れれば知れるほど、姉の苦しみは大きくなっていった。わたしはそれを見て喜んでいた。そんなときです。主人がわたしに声をかけてきたのは」
「章夫さんですね。助役だった」
「そうです。彼は父と相田町長の裏取引きを知っていました。その情報をリークして相田町長を失脚させることを思いつきました。そして、つぎの選挙で自分が町長になるつもりだったのです」
「あなたも荷担した?」
 オレが聞くと、高木陽子は、かすかにうなずきながら言った。
「彼は言いました。姉と宗一郎さんを駆け落ちさせれば、わたしが高木家で一番大事な娘になる。そして、町長になる自分を婿養子にすれば、この町のすべてを手に入れられると。わたしには彼の言葉が甘く響きました。もっとも、主人も責任を追及されて失脚するのですが、そのときはすべてがうまくいくと思ったのです」
 なんとまあ…… オレと佐倉麗子は顔を見合わせた。こんなちっぽけな町で、そんなこと考えたって、しょーがないだろうに。呆れて言葉もない。策士、策に溺れる結果になっただけマシだけどね。
「それで、駆け落ちをそそのかしたわけですか?」
「そうです。主人は宗一郎さんに。わたしは姉に。でも姉は言いました。わたしに重荷を背負わせるようなことはできないと。わたしは、姉が幸せになってくれることが一番の幸せだと説得しました。何度も何度も執拗に説得しました。姉の心がぐらつくまで」
 ひでえ女。最低だ。だがオレは、彼女の独白に耳を傾け続けた。
「けっきょく姉は、宗一郎さんとの駆け落ちを決意しました。父は激怒しました。姉が家を出たことにではなく、宗一郎さんと一緒になることにです」
「相田町長は、けっきょく高木さんを裏切って、自分が儲けたんでしたね」
「それで、父は半狂乱でした。絶対に二人を探し出して引き離すつもりだったようです」
「実際、そうしたんですか?」
「しました。父の気質は激しいですから。専門の人を何人も雇って二人を探しました。そのころから、わたしは後悔しはじめていました。大変なことをしてしまったのではないかと。その想いが決定的になったのは、姉と宗一郎さんの自殺です。まさか、死を選ぶほど追い詰められているとは思いませんでした。そして、姉がわたしに残した遺書を読んだとき……」
 高木陽子は言葉をつまらせた。彼女が再びしゃべり出すまで、オレたちはじっと待つほかなかった。
「姉は…… わたしに詫びていました。死を選ぶことで、わたしが苦しむだろうことを。両親に憎まれながら、逃げることに疲れ果てたと書かれていました。許してほしいと。自分のわがままで、たった一人の妹を苦しめる結果になったことを許してほしいと…… 姉は、わたしの醜い心などなにも知らずに死んで行ったのです。わたしが姉を殺したのです!」
 ついに高木陽子はワッと泣き崩れた。
「高木さん」
 佐倉麗子が、彼女の背中を優しくさすった。
「お姉さんは…… 幸子さんは、たとえあなたの心を知ったとしても憎んだりしませんよ。宗一郎さんと少しの間だけでも結ばれていた時間を幸せに思っていたに違いありません。そして、それを与えてくれたあなたに感謝していますよ」
「でもわたしは、わたしは……」
 佐倉麗子は、彼女が落ち着くまで、ずっと背中をさすり続けた。オレも、高木陽子に対する考えが変わってきた。とんでもない女だと思ったが、充分にその酬いは受けてきたようだ。
 それにしても……
 皮肉なものだとオレは思った。幸せという意味の名を持つ姉は不幸な最期を遂げ、明るいという意味の名を持つ妹は、暗い人生を送ってきたのだ。人の、他人に知られたくない部分をのぞくというのは、つらいものだ。
 高木陽子は、やっと落ち着きを取り戻した。
「わたしは、心の隅で、あなたがたのような人が現れるのを望んでいたのかもしれない」
「どういう意味です?」
 オレは聞いた。
「罰を受けたかった。贖罪をしたかったのです。だから、あなたがたがお金を要求しにきたのだと思ったし、それを支払うつもりでした」
「高木さん」
 オレは言った。
「あなたはもう、罪を償った。充分に苦しんだはずです」
「いいえ。恨まれるなら、恨まれたい。わたしが償うべきなのです。なのに、姉はなんであなたがたにご迷惑をかけるのかわからない」
「それは……」
 オレは言葉に詰まった。
 すると、佐倉麗子が確信に満ちた声で言った。
「これが呪いではないからですよ。彼らは、誰かに自分たちのことを知ってほしかった。それがたまたま、わたしたちだっただけです。そして、自分たちの果たせなかった夢を果たしてほしかったんです」
「結婚?」
 高木陽子が振るえた声で聞く。
「そうです。わたしたちは、彼らに都合が良かったんですよ。こういうことをまじめに調べる性格で、その能力もある。そして、お互い独身だったから」
「佐倉くんの言うとおりだね」
 と、オレは答えながら、ふと、これで呪いが解けたんじゃないかという期待が膨らんだ。
「ちょっと写真を撮ってみようか」
 オレはそう言って、佐倉麗子を撮影した。フレームの中に高木陽子も入っていたが、それはそれで変化があるかもと思い、二人を同時に撮影した。そして出てきた画像を見ると……
「高木さん」
 オレは、写真を彼女に渡しながら言った。
「どうやら幸子さんは、結婚式に出席してほしいようですね。たった一人の妹であるあなたに」
 そう。佐倉麗子はウェディングドレスのままなのだが、その写真の高木陽子の服が、結婚式に出席するときの礼服に変わっていたのだった。
「姉さん……」
 高木陽子は、涙を流しながらその写真を見つめた。
「許してくれるの? わたしを……」
「最初から許してますって」
 と、佐倉麗子は笑顔で言った。
「高木さん。出席してくれますよね。わたしたちの…… いえ、幸子さんと宗一郎さんの結婚式に」
 高木陽子はうなずいた。
「姉は野尻湖の湖畔にある教会で結婚式を挙げるのが夢でした。とても古い教会で、今もあるかわかりませんけど」
「あります!」
 佐倉麗子が叫んだ。そして、高揚した顔でオレに言う。
「ありますよその教会。わたし、きのう見ました。そこで挙げましょう!」
「決まりだな」
 オレは答えた。
 式の日取りが決まったら連絡することにして、オレたちは高木陽子と別れた。彼女は必ず出席すると何度も約束し、何度も礼を言った。オレたちが礼を言われる筋合いがあるのかどうかよくわからないが、多少はあるのだろう。
 オレたちは、きのう泊まった旅館まで徒歩で戻り、そこでタクシーを呼んでもらって、掛川駅に向かった。駅に着くと、佐倉麗子が会社にメールする書類があることを思い出してくれた。
「すっかり忘れていたよ」
「だと思いました。わたしも、今思い出したんですけどね」
「サンキュー、助かった」
 だが、オレはノートパソコンのモデムと公衆電話のモジュラージャックを繋ぐコードを持ってないことに気づいた。
「しまった」
「どうしました?」
「モデムに繋ぐコードを忘れた」
「あら。河野さんでもそんなことあるんですね」
「慌ててたからな。買いに行こう。電気屋ぐらいあるだろ」
「ついでにお昼をどうですか?」
「いいね。さらについでだけど、カジュアルなシャツでも買おうかな。もうネクタイ締めてる必要もないし」
「うん。それがいいですよ。わたしが見立ててあげます」
 三十分ほど掛川の町を歩き回ってメンズショップを見つけた。試着室で佐倉麗子が選んでくれた薄いブルーのシャツに着替えると、ネクタイの呪縛から開放された。どうもネクタイをしていると、仕事の延長という気分が抜けなかったのだ。電気屋も見つかって、目的のコードも手に入った。そのあと昼飯を食って無事にメールも送信し、ふたたび掛川駅に戻ったときは、すでに午後の二時を過ぎていた。
「ねえ河野さん」
 新幹線の切符を買うとき、佐倉麗子が言った。
「今のうちに宿の手配をしておきましょうよ。向こうに着くころは夜だもの」
「そうだね」
 オレは答えた。そう。オレたちは東京に戻るつもりはなかった。式場が決まった以上、本当にその教会で式を行うことができるか、一刻も早く確かめたかったのだ。いや、たとえ断られたとしても、なんとか頼み込むつもりだった。だから、電話ではなく直接行くのがいいと判断したのだ。
「この時間だと、名古屋で電車を乗り継いで…… 七時ぐらいになるか」
「ええ。学生は春休みだし、野尻湖あたりだとけっこう観光客も多い時期だと思うんです。向こうで慌てたくないですからね」
「また一部屋しかなかったりしてね」
「イヤだァ。もう言わないでくださいよォ」
「ごめんごめん。ホテルガイドでも買って調べようか」
「持ってまーす!」
 と、佐倉麗子は明るい声で答えると、バッグからペーパーバックサイズの観光ガイドを取り出した。さっそく、ぺらぺらとめくりはじめる。
「どこがいいかしら」
「きみのお好みのところでいいよ」
「このホテルなんてきれいだと思いません?」
「どれ」
 オレは観光ガイドをのぞき込んだ。
「いいんじゃない」
「決まりですね。魚料理のおいしいレストランが入ってるって書いてありますよ。楽しみね」
「観光気分だなァ」
「そうですよ。もうあとは式を挙げるだけだもの。気楽にいきましょう」
「賛成」
 オレも笑いながら答えた。
 ところが、ホテルに電話すると、残念ながら部屋は一杯だった。
「う~っ、残念。なんで学生は春休みなんてあるのよ」
 佐倉麗子はガックリ肩を落としたが、すぐに復活して、ガイドブックをめくりながら、どういうわけか、魚料理をキーワードにしてつぎのホテルを探しはじめた。
「魚料理食べたいの?」
「食べたいんです」
「なるほど。こういうホテルの探し方もあったか」
 女性らしいな。どうやら、彼女こそ女子大生だったころに戻ったようだ。オレは心の中でクスクス笑いながら、彼女の奮闘を見守った。四件目にしてやっと予約が取れて、ホッとした顔を浮かべた彼女を見たら、本当に笑ってしまった。
「もう。わたしが苦労してるのに」
「ごめんごめん。新幹線きちゃうよ。早く行こう」
 オレは、まだ笑いながら言った。
 そんなこんなで、オレたちは、本当に気楽な気分で新幹線に乗ったのだった。このあと待ち受けているトラブルも知らずに。
 新幹線で東京まで戻ったオレたちは、そのまま長野新幹線に乗り換えて長野へ向かった。あさま号で二時間弱。長野も近くなったものだ。そこから信越本線で最終目的地の妙高高原駅に向かう。四十分ちょっとだ。さらに予約したホテルは、そこからタクシーで十五分ぐらいとガイドブックに書いてあった。
 けっきょく、七時を少し回ったころ、妙高高原駅に到着した。日が暮れて気温が下がってきたのと、まだ雪の残る妙高高原は、昼間の陽気とはうって変わってかなり肌寒かった。
 ここで問題が発生した。タクシーに乗りこんで行き先を告げると、運転手が申し分けなさそうな声で答えたのだ。
「すいませんお客さん。一時間ぐらい前に、そのホテル火事を出しちゃいましてね。もうだいぶ鎮火したみたいですけど、たぶん今日は泊まれないですよ」
「それホント?」
 佐倉麗子が驚いた声で聞き返した。
「嘘なんかつきませんよ。なんなら、行ってみますか?」
 オレと佐倉麗子は、顔を見合わせた。
「まいったなどうも……」
 オレは唸った。まさかこんなトラブルが待っているとは。
「運転手さん」
 佐倉麗子が運転手に言った。
「どこかいい宿を知りませんか? あのホテルだって四件目でやっと予約が取れたんです。もうこんな時間じゃ探す気力もないわ」
「お客さんたち、観光でしょ?」
「ええ。そんなものです」
「だったらいいところありますよ。ロッジ風のホテルでね。雰囲気もいいし眺めも最高。食事も美味しいですよ」
「近いの?」
「お客さんたちが泊まろうとしていたところの近くですよ。ああ、ちょうど前を通るから、火事の現場も見れますよ」
「そんないいホテル、予約がないけど泊まれるかしら?」
「大丈夫ですよ。三十分前にもお客さんを連れて行ったんですが、まだ部屋が空いてましたからね」
「そんなことまで把握してるんですか?」
「いやァ。じつを言うと、わたしの甥っ子がやってるホテルなんですよ」
「なんだ。商売がうまいわね」
「いやいや」
 運転手は苦笑いを浮かべた。
「身内だからって言うんじゃないけど、ホント、いいところですよ。料金も安いしね。予定がないなら、ぜひどうぞ」
「どうする、河野さん?」
「運ちゃんを信じて行ってみようか」
 オレは答えた。どうせ寝るだけだ。どこでもいいやと思ったのだ。
「ですって。よかったですね運転手さん」
 佐倉麗子は、あまり運転手の言葉を信じていないようだ。
「ありがとうございます」
 運転手は笑顔を浮かべて、アクセルを踏んだ。
 十五分ほど走ると、運転手が言ったとおり、当初の目的だったホテルの前を通った。運転手はスピードを落として、ゆっくり前を通過した。ホテルには、まだ消防車が二台ほど停まっていて、警察の姿も見受けられた。見たところ全焼というわけではないが、今日は泊まれそうにないのは間違いなかった。さらに五分ほど走って、運転手のお勧め…… というか、親戚が経営しているホテルに到着した。
「あら!」
 佐倉麗子の瞳が輝いた。今まで運転手の言葉に半信半疑だった彼女だが、そのロッジ風のホテルを見たとたん、考えが百八十度変わったらしい。
「すごい。きれい。すてき」
 そのこぢんまりとしたホテルは、いかにも女性が好みそうなお洒落な建物だった。ライトアップされて、まだ雪の残る風景に浮き上がる姿が、よけい佐倉麗子の琴線に触れたようだ。
「だから言ったでしょ。去年のシーズンなんか連日一杯だったんですよ」
 運転手が自慢げに答えた。
「うふふ。疑ってごめんなさい。これなら、女の子に大人気だわきっと。でも、なんでガイドブックに載ってなかったのかしら?」
「甥っ子の方針なんですよ。商売っ気がないんですな」
「そうなんだ。へ~え。だったら、常連さんしか泊まれないんじゃないですか」
「そんなことありませんよ」
 運転手は、ホテルの前まで車をつけると、自分も降りてきた。親戚のホテルなので、顔を出すつもりなのだろう。
 フロントに行くと、カウンターの中には誰もいなかった。運転手がカウンターの上の呼びだしベルを押すと、しばらくして三十代半ばぐらいの男性が現れた。
「やあ叔父さん」
 男は、運転手に向かって軽く手をあげた。
「よし坊。部屋空いてるだろ」
「ありますよ」
「お客さんをお連れしたぞ。お二人様だ。今日も、ずいぶんおまえに貢献したな」
「ハハハ。叔父さんには感謝してるよ」
「心にもないこと言いやがって。じゃあ、よろしくな」
 運転手はカウンターの男に手を振ると、オレたちに言った。
「では、どうぞごゆっくり。わたしはこれで」
「ありがとう、運転手さん」
 佐倉麗子は笑顔で答えた。
「いいえ、どういたしまして」
 運転手も軽く笑顔を見せて、仕事に戻っていった。彼が出て行くのを待ってカウンターに目を移すと、よし坊と呼ばれた男が、いらっしゃいませと、笑顔を見せた。
「こんばんは」
 と、佐倉麗子。
「いいオジサンですね」
「ええ。気のいい人でしてね」
「きっと、このホテルが自慢なんですね。本当にすてきですもの」
 佐倉麗子は、よほどここが気に入ったらしい。彼女の口調にお世辞の色はなかった。
「ありがとうございます」
 よし坊も、うれしそうに答えた。
「小さいホテルですが、その分、部屋数を少なくしてあるんです。お食事は…… ご予約をいただければフランス料理のフルコースをお出しできたのですが」
「ごめんなさい。急なことで」
「いいえ。オフはみなさんそんなものです。フルコースはお出しできませんが、今日は魚の料理をご用意できます。マダイが旬ですからね」
「わァ、うれしい! 魚料理を食べたかったんです!」
 佐倉麗子は、思いがけず当初の目的が達成されたので、心からうれしそうな声を出した。やはり女性と「食べ物」は切っても切れないモノらしい。
「温泉もあります。二十四時間入れますから、お好きな時間にどうぞ」
「最高。絶対、ガイドブックに載せないでくださいね、ここ」
「ハハハ」
 よし坊は笑った。
「わたしも、口コミで広めていただきたいと思っているんですよ。ですからあえて、ガイドブックには掲載させてもらっていません」
「それ正解です」
「ありがとうございます。ではこちらにサインと、申し訳ないですが料金を前払いでお願いします。お一人様、ディナーと朝食付きで九千八百円です」
「安い」
 オレも、初めて口を開いた。どんなディナーか知らないが、食事だけでも三千円は取られるぜ普通。
「夏はもっと頂くんですが」
 と、よし坊は白い歯を見せて笑った。
「この時期は学生さんが多いですからね。ご夫婦でのお泊まりは珍しいですよ」
 ん?
 オレは、よし坊の言葉が引っかかった。
「ぼくらは夫婦じゃないですよ」
「あっ…… 失礼しました」
 よし坊は謝ったあと、不安げな表情を見せた。イヤな予感がする。
「叔父さんがうちに連れてこられたので、てっきりご夫婦かと」
「どうしてですか?」
 佐倉麗子が聞いた。
「うちはツインとダブルしかないんですよ。それに今日は、ダブルの一室しか空いていないんです。そちらでよろしいでしょうか?」
 まいった。きのうよりさらに状況が悪化したぞ。蒲団を並べて寝るだけならともかく(それだって大変なことだが)、今度はダブルときたもんだ。一つのベッドで寝ろってか。嬉しすぎて寝不足どころの騒ぎじゃない。しかしこの時期、この時間じゃ、別の宿を探すのも一苦労だろう。第一、宿を求めて寒空にさまよう気力はもうない。
「河野さん」
 佐倉麗子が訴えるような目でオレを見た。真意はわからないが、おそらく、ここに泊まりたいという訴えなのだろう。あれだけ喜んでれば。
 しかしマズイよ。ツインだったらきのうとほぼ同じ状況だし、こっちが寝不足になるだけだろうけど、いくらなんでも同じベッドでは…… いや。オレが床に寝ればいいのか。
「いいよ。泊まろう」
 オレは答えた。よし坊に安堵の表情が浮かんだ。
 佐倉麗子のほうは、一瞬、意外な言葉を聞いたという表情を浮かべたが、すぐに微かなほほえみを浮かべて宿帳にサインをした。
 彼女と同じ部屋に泊まれるのは嬉しいけど、床で寝ることになるとはァ。つらいよなァ。筋肉痛になるかもなァ。もう四十なんだぜオレ。
 けっきょく、ダブルの部屋の鍵を渡されたオレたちは、部屋に入ると、お互いバッグを下ろしてホッと息をついた。考えれば五時間近く列車に揺られてきたのだ。わりと疲れている。
「また同じ部屋になっちゃいましたね。でも今度は、不可抗力ですよ」
 佐倉麗子がベッドの隅に腰を下ろしながら言った。
「わかってるよ」
 オレは苦笑いを浮かべた。
「心配しなくても、床に寝るつもりだった。でも長椅子があって助かったよ」
 そう。なんとか大人が一人横になれるぐらいのソファがあったのだ。よかった。筋肉痛も軽そうだ。
 ところが、佐倉麗子が驚いたように言った。
「そこで寝るんですか?」
「そうだよ。ほかにどこで寝る?」
「い、いえ…… わたしがそちらでも」
「なに言ってるんだ。女性にそんなことさせられるわけないだろ。なあに、たった一晩さ。床でだって寝れる」
 オレがそう答えると、佐倉麗子は、無言でオレを見つめた。
「なに?」
 と、オレ。
「ううん。なんでも」
 彼女は首を振った。
「ねえ河野さん。わたしたち夫婦に見えちゃったんですよね」
「そうみたいだね」
「前に、わたしが言ったこと覚えてます?」
「なんだっけ?」
「わたしたち、ちょうど釣り合いが取れてるって言ったじゃないですか。それが証明されましたね」
「佐倉くんが老けて見られたのかも」
「なんですって?」
「いいえ、なんにも申しておりません」
「もう。イジワルなんだからァ」
 佐倉麗子は、オレを睨んだ。だが、その顔には笑顔が混じっていた。そして、お腹をさすりながら立ち上がった。
「さあ食事にしましょうよ。もうお腹ペコペコ。死にそう」
 う~む。こんな事態になってもやけに明るいな。オレって、そんなに安全な男と思われてるのか。ちょっとショックだぞ。あ、オレまた落ち込んでる。彼女のちょっとした態度で……
 ホテルのレストラン(ダイニングのような場所)に行くと、数組のお客がいて、それぞれワインを飲んだり、食後のデザートを食べたりと、楽しんでいる様子だった。女同士の二人連れやカップルもいる。そして、卒業旅行とおぼしきグループなど、みんな学生なのは間違いなさそうだ。おかげで、少々騒がしい。
「春休みですねえ」
 佐倉麗子も、若い連中を横目で見ながら、軽く苦笑いを浮かべて椅子に腰を下ろした。彼女もすでに、学生が幼く見える年齢なのだ。
「オレたちも休みだけどね」
「そうね。ズルが頭につきますけど」
 佐倉麗子は、にっこりと笑った。
 すると、よし坊がオレたちのテーブルに近づいてきた。どうやら彼は、ウエイターも兼ねているらしい。
「お部屋はいかがでしたか?」
「とってもすてき。気に入りました」
「ありがとうございます」
 よし坊は、軽く頭を下げながら、メニューを開いてオレの前に置いた。それは食事ではなくワインのリストだった。
「こちらがサービスさせていただいているワインのリストです。お食事はマダイをご準備させていただきます。メインは香草焼きとフリッターと、どちらがよろしいですか?」
「わたし、香草焼きがいいです」
 佐倉麗子が答えた。
「じゃあ、オレもそれで」
 と、オレは答えた。本当はフリッターってどういう料理か知らないだけだった。
「かしこまりました。それでしたら、ワインは白の辛口が合うかと思います」
「そうだね」
 オレはワインリストを眺めた。ふと、こういうことは佐倉麗子のほうが詳しいだろうと思って彼女の顔を見ると、オレがなにか言う前に「お任せします」と答えた。どうやら、食事を選ぶのは彼女の仕事で、ワインを選ぶのはオレの仕事らしい。
 オレは、ワインリストに視線を戻した。サービス品と言うだけあって高価なものはないが、嬉しいことに、最近気に入っている白ワインがリストに入っていた。
「ソービニヨン・ブランがいいな。料理と合いますか?」
「すごく合いますよ」
「それはよかった」
 オレはワインリストを閉じて、よし坊に返した。
 このころになると、卒業旅行らしいグループが部屋に戻っていった。だいぶ静かになる。ホッとするね。
 よし坊がワインを持ってきた。テイスティングの真似ごとをやらされそうになったが、オレは普通に注いでくれていいと答えた。あんなキザなマネはできないからだ。やったところでよくわからないし。
「美味しい」
 佐倉麗子がワインに口をつけてほほえんだ。
「だろ。最近気に入ってるんだ」
「これって、カリフォルニアワインですよね。確か」
「うん。きみも詳しいね」
「ブームですからね。女性雑誌に、ワイン特集とかよく載ってるんですよ」
「ふうん。流行を作るのは、いつも女性だからなあ」
「うちの園芸雑誌だって、女性のおかげで売り上げが伸びたんですよ。この不景気に」
「おっしゃる通り。女性のパワーに乾杯」
 オレはワインのグラスを上げた。
 佐倉麗子はグラスをカチンと合わせて、男性の苦労にも乾杯と続けた。男の苦労を理解してくれるなんて、いい女になる素質を持ってるね。違う。今でも充分すぎるほどいい女だ。見た目の美しさだけでなく、それ以上に大切な知性と優しさを持っている。男女に関係なく、これがどれほど重要なことか、若い子は理解できていない。もったいないことだ。自分の可能性を自ら放棄しているのだから。
「ねえ見て、河野さん」
 佐倉麗子は、雪の残る外の風景を見ていた。ホテルの街灯がうっすらと白い雪をオレンジ色に染めて、幻想的な雰囲気だった。
「なんだかロマンチックね」
 佐倉麗子はつぶやくように言った。
「幸子さんが、ここを人生の最後の場所に選んだ理由も、なんとなくわかるわ。彼女たちも、こうして雪景色を見ながら語り合ったのかしら」
「でも、彼らが望んでいたのは、ここを人生の新しいスタート地点にすることだったんだ」
「つらかったでしょうね…… わたしたちが代わりになってあげることで、浮かばれてくれるといいのだけど」
「そう願いたいよ。いろんな意味で」
「ねえ河野さん。わたしたち、いい時代に生まれましたね」
「それに、お嬢様とお坊っちゃまでもなかったしな」
「ホントね」
 佐倉麗子は、軽いほほえみを浮かべた。
「普通の幸せが一番なんだわ。好きな人と一緒にいられるだけで…… ううん。それが女にとって本当の幸せなのよ」
 オレは、今のきみはどうなのかと、聞きたくて仕方のない衝動に駆られた。そのとき、料理が運ばれてきたので、質問をするタイミングを失った。たとえそうでなくても、そんな質問しなかっただろうけど。
「マダイのお刺身です」
 よし坊は、お皿を置きながら言った。
「ワインに漬けこんで、醤油ベースのソースを添えてあります」
 きれいに盛られたオードブルのお皿は、非常に美味しそうだった。
「シアワセ」
 料理を口にした佐倉麗子は、うれしそうに言った。
「ハハハ。よかったね」
 オレは、思わず笑ってしまった。正直に告白すると、オレはそれほど食にコダワリはない。確かに美味しいとは思うんだけど、白ワインとバターをたっぷり塗ったバケットがあれば、それだけでも充分なのだ。というか、それが好きなんだ。もっと正直に告白すると、佐倉麗子の手料理が一番美味しい…… これは理由が違うか。
 つぎにスープも運ばれてきた。コンソメだ。正直に告白する。ワインとバケットがあればいいと言ったが、コンソメスープがあれば、なおけっこう。ポタージュじゃダメなんだよ。コンソメか、悪くてもオニオンスープがいい。しかし、食にコダワリがないなんて言ったわりには、コダワッテるねオレも。
 つぎは、いよいよメインの香草焼きが登場した。佐倉麗子には大好評だったが、オレはあまり好みの味ではなかった。添えられた温野菜のほうがうまいと思った。少し、腹持ちが悪そうなので、バケットをおかわりして、腹を持たせることにした。
 最後はアイスクリームで終了。ワインのボトルも空になり、最後の最後に出たコーヒーは悪くない味だった。それを飲み終わったころは、すでに十時をすぎていて、お客はオレたちだけになっていた。長居をしては悪いと思い、早々に部屋に引き返した。
 部屋に戻ると、佐倉麗子は窓際まで歩いていき、カーテンを開けて外の風景を眺めた。オレは長椅子に座って彼女の後ろ姿を見ていた。
 しばらくその状態が続いた。会話はない。
 どのくらいそうしていただろう。佐倉麗子はカーテンを開けたまま、出窓の縁に身体をもたれかけて、オレのほうに振り向いた。
「河野さん」
 彼女はそう言ってオレの顔を見た。だが、そのまま言葉が途切れた。
「なんだい?」
 オレは先を促すように言った。
「わたし、ずっと考えていたんです」
 そこで彼女の言葉はまた途切れた。
「なにを?」
 オレはまた、彼女の先を促さなければならなかった。
「幸子さんと宗一郎さんは、なぜ、わたしたちを選んだのか」
「それは、きみが高木陽子に説明したとおりだろう。オレたちは都合が良かったんだよ」
「ええ。あのときはそう言いました」
「本当は違うことを考えていたのかい?」
「違わないけど、違うんです」
「どういう意味?」
 そう聞き返すと、彼女は急に笑顔を浮かべて答えた。だがそれは、問いかけとは関係ない言葉だった。
「疲れましたね。温泉に入りましょうよ」
「え、うん…… 質問に答えてないよ」
「少し、頭を整理したいんです。なんと言っていいか、考えてから答えます」
「わかった。ゆっくり汗を流してこよう」
「ええ」
 オレたちは会話を中断して、温泉に入りにいった。混浴などではなく男女別々の湯船だ。もちろんオレだって、変な期待をしていたわけではない。
 オレは、誰もいない湯船につかりながら、彼女がなにを言いたいのか考えていた。オレたちが幸子と宗一郎にとって都合の良かった理由。それは一体なんだろうか。佐倉麗子にはその理由がわかっていると言うのだろうか。
 もしも。もしもだよ。佐倉麗子がオレのことを嫌いだったらどうだろう。それは幸子と宗一郎には都合が悪いに違いない。代理結婚式など、考えもしなかっただろうから。つまり逆に考えると、代理結婚式なんて突飛なアイデアを持ち出した彼女は、オレのことが嫌じゃないわけだ。もちろん仕事仲間として、オレたちは以前から仲がよかったわけで、そんなこと今さら言うまでもないのだけど……
 さらに、もしも、もしもだよ。佐倉麗子がオレを「嫌いじゃない」ではなく「好き」だったとしたらどうだ。それこそ幸子と宗一郎には都合がいいわけだ。代理結婚式も、ある意味、喜んでやるかもしれない。
 じゃあオレは佐倉麗子が好きか?
 好きだ。
 代理結婚式は嫌か?
 とんでもない。
 佐倉麗子が同じように考えているとしたら?
 うれしい。
 もし佐倉麗子と本当に結ばれるとしたら?
 盆と正月がいっぺんにきたような気分だ。なんだそりゃ?
 これが答えだ。オレにはこんなことしか浮かばない。いや、まさか。佐倉麗子がオレを好きなんてことがあるわけもないが、どうもオレは、都合のいいようにしか物事を考えられなくなっているようだ。
 ほかの客が温泉に入ってきたので、オレは湯船から出た。そして、学生たちのたわいない会話を聞きながら、温泉をあとにした。
 部屋に戻ると、佐倉麗子はまだ帰ってきていなかった。今のうち浴衣に着替えておこうかと思ったが、なんとなくめんどくさくて、そのまま長椅子にもたれかかった。やはり、温泉は旅館のほうがいい。ホテルは部屋の外を浴衣で歩けないのが失点だよな。
 オレは目を閉じた。なんだか、疲れがどっと押し寄せてくる。肉体的疲労より、精神的疲労のほうが激しい。原因はわかってる。恋をしてはいけない相手に恋をしてしまったからだ。若く美しい自分の部下に。いっそ、なにもかも忘れて彼女に告白してしまいたい。
 オレはふと思った。宗一郎も幸子の気持ちを知る前は、こんな風に悩んでいたのだろう。オレなんかより、ずっと悩みは深かったかもしれないが、けっこうオレも彼に近いんじゃないだろうか。宗一郎の幽霊にでもお目にかかれたら、一緒に酒でも飲みたい気分だよ。
 それにしても疲れた……
 オレはふと目を開けた。右の肩になにか乗っかっている。それは佐倉麗子の頭だった。オレにもたれかかって眠っている。
「佐倉くん?」
 オレは小声で声をかけた。反応はなかった。
「佐倉くん」
 もう少し大きめの声で声をかけると、彼女はゆっくりと目を開けた。
「あっ……」
 佐倉麗子は、オレから離れた。
「ごめんなさい、寝ちゃった」
「オレも寝ちゃったんだな」
「ええ。戻ってきたら、河野さん寝てるんだもの。わたしもなんか眠くなっちゃって」
「そっか…… どのくらい寝てたんだろう」
「三十分ぐらいかしら?」
 オレたちは時計を見た。すでに十二時を十分ほどすぎていた。
「一時間近く寝てたみたいだね」
 オレは苦笑いで言った。
「でも気持ちよかった」
 佐倉麗子が答えたあと、オレは気になっていたことを聞いてみた。
「佐倉くん。さっきの話だけど。幸子と宗一郎がオレたちを選んだ理由ってなんだい?」
「それは……」
 彼女は、一瞬オレと目を合わせたあと、視線をそらしてうつむいた。そしてやり場のなくなった視線を泳がせるようにしながら言った。
「ごめんなさい。やっぱりまだ話せません。考えがまとまらないんです」
「い、いや。それならいいんだ」
 彼女の声が、いやに深刻だったので、オレは明るい声で答えた。
 佐倉麗子は顔を上げた。
「ごめんなさい」
「謝るなよ。きみの悪い癖だ」
「そうですね。なんだか最近、わたし謝ってばかりみたい」
 彼女がそう言ってからしばらくの間、沈黙が流れた。
「もう寝ようか。うたた寝じゃなく本格的に」
 オレは言った。
「ええ」
 佐倉麗子は立ち上がり、ベッドに歩いていった。
「河野さん。少しこちらを見ないでいてください。浴衣に着替えたいから」
「うん」
 オレはドアのほうを向いた。
 微かな衣擦れの音がして、佐倉麗子が着替えているのがわかった。むう。彼女の身体の曲線を想像してしまう。服を着た姿から見ても、プロポーションがいいのは間違いない。バストも大きい。彼女を物にする男は、ものすごく幸せな野郎だ。許せん。などと、ふしだらなことは考えまいと自分を諭してはみるが、想像するぐらいいいじゃないか。それしか許されないんだから。と、開き直ってしまいたい気分でもあった。
「もういいですよ」
 佐倉麗子からお許しが出たのでオレは振り返り、すでに布にくるまれてしまった彼女の身体を一瞬見てから、クローゼットを開けて、予備の毛布を取り出した。暖房は充分に効いている。毛布一枚で風邪を引くことはなさそうだ。オレは、シャツだけ脱いでTシャツ姿になると、スラックスは履いたまま長椅子に横になった。
「河野さん。本当にソファで寝るつもりですか?」
「うん。少し短いけどね」
「河野さん、背が高いから」
「そうでもない。たった一七六センチだよ。若い奴らには負ける」
「あの……」
 佐倉麗子が、遠慮がちな声を出して、それきり黙り込んだ。
「なんだい?」
 オレは聞き返した。
「このベッド広いから、よかったら一緒に……」
「おいおい。オレも一応、男なんだぜ」
「知ってます」
「だったら、この話は終わり。オレのことは気にしないで寝てくれ。じゃあ、おやすみ」
 オレは毛布をかぶって目を閉じた。
 ところが、佐倉麗子から「おやすみ」という返事はなかった。
「河野さん」
「ん?」
 オレは目を閉じたまま、ぞんざいな返事をした。
「同じベッドに寝たくないというのは、わたしを女だと思うからですか?」
「そんなの当然だろ」
「わたしに、男性が喜ぶような魅力を感じるんですか?」
「おい」
 オレは目を開けた。佐倉麗子は、ベッドの上で上半身を起こしながらオレを見ていた。
「佐倉くん。無意識で言ってるのかもしれないが、けっこう挑発的な言葉だぞ、それは」
「わたしだって三十近い女ですよ。意識しないでこんなこと言いません」
 オレは思った。もしかしたら、彼女も自分の年を気にしてるのかもしれない。オレがあまりにもストイックな態度を取るから、女としてのプライドが傷ついたのかも。まったく、女性の扱いは難しいよ。手を出したら怒るくせに、なにもしなくたって怒る。
「魅力的だよ。だからオレはソファで寝るんだ。理性がぶっ飛んで、オオカミになったら大変だからな」
「オオカミになりますか? わたしを相手に」
「頼むよ。変なこと言って、オレを寝不足にしないでくれ」
「ごめんなさい……」
「おやすみ」
 オレは毛布を頭からかぶった。
「はい…… おやすみなさい」
 今度は期待どおりの返事が帰ってきて、彼女はベッドサイドにあるスイッチで、部屋の電気を消した。疲れていたせいか、オレは煩悩に悩まされるより早く、眠りに落ちた。


三月十八日。木曜日。


 目が覚めると彼はまだ眠っていた。起こさないようにそっとベッドから出たわたしは、バスルームに入って顔を洗った。
 少し寝不足。きのうの夜はあまり寝つけなかった。彼がわたしに女性としての魅力があると答えてくれたのはうれしい。でも、それだけだった。オオカミになってくれていいのに。ここにいる羊は、あなたに食べてもらいたいと思っているのに。やっぱり彼は、わたしに魅力なんて感じていないのかもしれない。そんなことをずっと考えてしまったのだ。
 わたしは彼が寝ているうちに着替えをすませた。そしてふと、ここ二日ほど留守番電話を確認していないことに気がついた。電話にわずらわされたくなくて、わたしも彼も、ずっとベルを切ったままにしておいたのだ。
 メッセージが溜まっているだろうな。わたしは気が重くなるのを感じながら、携帯電話の留守番電話サービスを聞いた。幸い、緊急のメッセージは入っていなかった。いくつか指示を出さなければならないことがあったけど、それも取り立てて重要というほどではなかった。
 最後のメッセージをメモっていると、ソファで寝ていた彼が目を覚ました。わたしは、携帯電話の接続を切った。
「おはようございます」
「おはよう」
 彼は少し寝ぼけた顔で返事をした。
「大丈夫ですか。眠れましたか?」
「うん。疲れてたんだろうな。ぐっすり眠った。きみは」
「大丈夫です」
「どうしたの?」
 彼が聞き返した。
 なに? わたしなにか変かしら?
「なんですか?」
 と、わたし。
「いや。なんか元気がないみたいだけど」
「そ、そんなことありませんよ」
 わたしは笑顔を見せた。寝不足なのがわかちゃったみたい。
「ならいいけど」
 彼は、う~んと唸って伸びをした。本当によく眠れたようだ。疲れもとれてスッキリした顔をしている。
「そう言えば河野さん」
 と、わたし。
「なに?」
「携帯の留守番電話聞いてますか? わたし今、聞いていたんですけど、けっこう会社からメッセージが入っていました」
「しまった。忘れてた!」
 彼は慌てて、コートのポケットに入れた携帯電話を取り出すと、留守番電話サービスに繋げた。わたしは、ホテルのメモ用紙とペンを取って、彼のそばに置いた。
「サンキュー」
 彼はメッセージのメモを取りはじめた。そして、メモを取り終えると、まいったなあ、と頭を掻いた。
「四日も休むと、仕事が溜まりますね」
 わたしは言った。
「まったくだよ。今日は会社に出ないとマズイぜ」
「ええ。わたしもそう思いました。でも、考えてみれば、亜希ちゃんと宮沢くんに指示を出しておけば、なんとか対処してくれるはずです」
 亜希と宮沢はわたしの部下だ。
「わたし、いい機会だから、亜希ちゃんたちにもっと仕事を任せようと思います。量を増やすって意味じゃなくて、決断を必要とするような仕事をね」
「そうだな」
 彼は、わたしの言葉にふうんとうなずくと、急に考え込みはじめた。そして、オレもそうしてみようかなとつぶやいた。
「こんな状況で仕事にまで追われたら身体が持たない。自分勝手な理由だけどね」
 彼はそう言ってノートパソコンを取り出すと、指示を書いたメールを書きはじめた。
「あっ、いいなあ。わたしもノートパソコン持ってくればよかった」
 わたしは、横目で羨ましそうな声を出した。
「使う?」
「いいんですか?」
「いいよ」
「でも、メールのアドレスが一緒になっちゃいますよ。わたしたちは、一緒にいることにはなってないんです。バレたら大騒ぎになるかも」
「アカウントを変えればいいんじゃないのか?」
「そっか。マルチアカウントにすればいいんですね」
「ちょっと待って、もうすぐ終わるから」
 彼は残りのメールを手短に書き終えると、ノートパソコンを渡してくれた。
「はい。自由に使ってくれていいよ」
「よかったァ。エクセルの表を添付したかったんですよ」
「そうか。そりゃ確かに電話じゃ難しいな」
 彼は、そう言いながらバスルームに入った。彼がバスルームを出るころには、わたしもメールを書き終えていた。
「もう、送信しちゃっていいかしら?」
「うん」
「電話のコードを貸してください」
「そうだった」
 彼はバッグから、掛川の電気屋で買った電話線を取り出した。
 わたしはホテルの電話のモジュラジャックを引き抜いて、ノートパソコンのモデムとコードを繋ぐと、モジュラジャックに差し込んでメーラーの送信ボタンを押した。
「あれ。送信できないわ…… あっ、内線だから0発信なのね。そうかそうか」
 わたしは疑問を自己完結で解決すると、今度は問題なくメールを送信し終わった。これで今日も一日、仕事を忘れることができる。と、思ったら大間違い。メールボックスには、留守番電話以上にメールが溜まっていて、それから三十分近く、わたしも彼もメールの整理に追われたのだった。
 バイキング形式の朝食をすませて、ホテルをチェックアウトするとき、彼がよし坊に、わたしの見た教会のことを聞いた。そこは、大正時代からある、野尻湖周辺としては、もっとも古い教会なんだそうだ。
「あそこで式を挙げたいんですか?」
 よし坊は、電話代など細かい料金の精算をしながら聞いた。
「いや、まあ、そういうこともちょっと考えてはいるんだけど」
 彼の返答は、どこかしどろもどろだった。なにせ、彼とわたしの結婚式ではないのに、挙げるのはわたしたちなんだから、事情は複雑なのだ。
「それは無理ですよ」
 よし坊は言った。
「あそこは、プロテスタントなんですけど、信者さんでないと式は挙げられませんよ」
「えっ。そうなんだ」
 彼とわたしは顔を見合わせた。
「ほかに誰でも式を挙げられる教会がありますから、よろしかったら紹介しますよ。ちなみに披露宴のほうは、うちでいかがでしょう?」
 よし坊は、いたずらっぽい笑顔を浮かべて言った。
「ハハハ……」
 彼は力のない笑い声を上げて答えた。
「考えておきますね」
 わたしが代わりに答えた。
「でも、本当にいいホテルでした。オジサンにもよろしくお伝えください」
「ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」
 彼とわたしは、やや重い足取りでホテルを出た。
「牧師さんに事情を説明すれば、わかってもらえるんじゃないかしら」
 わたしは言った。
「どうかね。牧師と話なんかしたことないからな」
「ここまできたら、引き下がれません」
「まあね。やるだけやってみるさ」
 わたしたちは、呼んでもらったタクシーに乗って目的の教会に向かった。ちなみにタクシーの運転手さんにも、あそこで式は挙げられないよと言われてしまった。わたしたちって、ホントそんな風に見えるのかな?
 十分ほどで教会に到着した。正確には教会へと通じる細い道の前に到着した。ここから先、車は入れないと言う。わたしたちは、あまりにも距離が短かったので、タクシー料金のお釣りを運転手さんに寄付して車を降りた。ただ、降りるときも、運転手さんに、ここで式を挙げるのは無理ですよお客さん。なんて念を押される始末で、彼とわたしは苦笑いを浮かべるしかなかった。
 わたしは、雪がきれいに取り払われた小道を歩きながら言った。
「幸子さんもここを通ったのかしら?」
「そうかもしれないね」
「不思議ね。四十年近くも経って、わたしたちが同じ道を歩いているなんて」
「ここまで導かれてきたんだ。あとはなるようになるさ」
「ええ」
 教会が見えてきた。それは、積もった雪がうまく落ちるように設計された屋根が特徴的な建物だった。そして、その教会を取り巻く空気は、どこか特別なモノのように感じられた。ひんやりとした教会の中に足を踏み入れると、その思いはいっそう強くなった。寒いというほどではないのに鳥肌が立つ。恐怖ではなかった。畏怖と言うべき感覚。今まで無神論者だったわたしも、すでに神の存在を否定することはできない人間になっていた。幸子と宗一郎が神に召されることを心から願っているのだから。
「まるで、祈りの気持ちが染み込んでいるみたい」
 わたしは天井を見上げながら言った。
「ああ。教会がこんな神聖な場所だとは知らなかったよ」
 彼も感慨深そうな声で答えた。わたしと同じように感じているのだろう。
 そのとき。
「どちらさまかな」
 わたしたちは、教会の入り口から聞こえてきた声に振り返った。そこには初老の男性が立っていた。牧師さんかなと思ったけど、ごく普通のセーターを着ているのでわからない。
「勝手に入ってすいません」
 わたしは非礼を詫びた。彼も同じように謝ると、その男性に聞いた。
「失礼ですが、こちらの牧師さんですか?」
「はい」
 初老の男性はうなずきながら、わたしたちに近づいてきた。
「なにかわたしにご用でしょうか」
 牧師さんが聞き返すと、彼が答えた。
「ぶしつけなお願いなのですが、ぜひ聞いていただきたい…… いえ、相談に乗っていただきたいことがあるのです」
「今からですか?」
「できれば」
 と、彼はうなずいた。
「もしお時間があればですけど」
 わたしはそう付け加えた。
 すると、牧師さんは、わたしの顔を見て答えた。
「それが必要なことであれば、時間は作ります」
「その判断はわたしたちにはできません。もちろん、切実な理由があってこちらにうかがったのですが、他人にとってはただの笑い話かもしれない」
「あと一時間ほどで信者の方の集まりがあります。わたしはその準備をしたいのです。もしも十五分でお聞きできることであれば、そこにお座りなさい」
「ありがとうございます」
 わたしたちは、牧師さんに示された椅子に腰をかけた。話の通じそうな老人なので、わたしは少しばかりホッとした。
 牧師さんもわたしたちの前に、ゆっくりとした動作で腰を下ろした。
「さて。なにから説明するべきか悩みますが……」
 と、彼は言いかけて、失礼しました。と名刺を牧師さんに渡した。わたしも同じように名刺を渡した。
「出版社の方?」
 と、牧師さん。
「はい」
 彼が答えた。
「ですが仕事できたのではありません。あくまでも個人的な理由から、ご相談を申し上げたいのです」
 と、前置きを置いてから、彼はわたしをちらっとうかがった。高木陽子にしたときと同じ方法を試みるしかないと、彼の目は訴えていた。わたしは黙ってうなずくと、自分のバッグから、きのう高木幸子の実家の裏山で撮影したポラロイド写真を取り出した。
「この写真を見てください」
 わたしは、写真を牧師に渡した。
「お二人の写真ですね。ご結婚式のときのようだが、これがなにか?」
「この教会の中で、写真を撮ることは許されますでしょうか?」
 わたしは聞いた。
「正当な目的があれば許可しております。あなたがたの目的はなんでしょうか」
「これからお話することを、牧師様に納得していただくのが目的です」
「意味がわかりませんね」
「事情は非常に複雑なのです。十五分という限られた時間で説明するには、ぜひ写真を見ていただきたいのです。今ここで撮影した写真をです」
 わたしがそう言った後に、彼が補足した。
「牧師さん。写真をなにか別の目的に使うつもりはまったくありません。撮った写真はお渡しします」
 牧師は怪訝な表情を浮かべながらも、わたしたちの真剣な顔に負けたのか、断りの言葉を口にはしなかった。
「いいでしょう。どうぞお撮りください」
「ありがとうございます」
 わたしはポラロイドカメラを取り出して、彼を撮影した。続けて彼もわたしを撮影した。
「画像が出る前に申し上げますが、このカメラにはなんの細工もされていません」
 高木陽子にも説明した同じ言葉を、彼は牧師にも告げた。
 画像が現れる。
「ほう……」
 と、牧師。
「あなたは最初、笑い話とおっしゃいましたね。笑うのはわたしですか? それとも、この写真を見て驚くわたしを、あなたがたが笑うのですか?」
「誰も笑いません。いいえ、笑うことは許されません」
 わたしはまじめな顔で反論する。
「この写真は、ある恋人たちの切ない思いが凝縮しているのです」
「まったく、要領を得ないお話しですね」
 牧師さんが肩をすくめると、彼が腕時計を見ながら言った。
「もう十分経過しました。あと五分で説明するのは困難ですが、トライしてみましょう。この写真に写っているのは、ぼくと彼女ですが、本来、ウェディングドレスを着ているべき人物は、高木幸子という女性です。そして、新郎であるべき人物は相田宗一郎といいます」
「なんと、おっしゃいましたか?」
 牧師さんの顔に当惑の色が浮かんだ。
「もしかして、ご存じですか?」
 と、彼。
「あなたがおっしゃった方々は、三十六年前、この湖で自らの命を絶った若者のはずです」
「ああ、よかった。話が早い!」
 彼は喜びの声をあげた。そして、一気に説明をしたのだった。
「こちらにずっといらっしゃる方なら、もしかしてご存じかと期待していました。覚えていていただいて、本当によかった。信じられないかもしれませんが、この写真は高木幸子と相田宗一郎の遂げられなかった想いの現れなんです。彼らはこの教会で式を挙げることを望んでいました。ですが、複雑な事情があって二人は結ばれることが困難だった。そして、悲しむべきことに、二人は死を選んでしまったのです。ぼくらは先日、幸子さんの妹さんにも会ってきました。その複雑な事情の中には、妹さんも絡んでいて、彼女は今までずっと、姉の死に心を痛めていました。死んで行った者と、残された者が、みな幸せになる方法は、たった一つ。ここで幸子と宗一郎の想いを遂げさせることなんです」
 彼は本当に、五分以内で説明を終えた。わたしも、これ以上簡潔に説明することはできないだろうと思った。ところが、牧師さんは立ち上がって厳しい表情を浮かべたのだった。
「わたしは、そういう冗談が、もっともタチの悪いものだと考えます。死者を冒涜なさるおつもりなら、即刻、ここから出ていっていただきたい」
 なに? この人ぜんぜん、わかってない。
「牧師様」
 わたしも、牧師に負けない厳しい声で言った。
「先ほどわたしは、誰も笑うことは許されないと申し上げました。わたしたちは、ごく常識的な人間です。死者を冒涜するつもりなどありません。牧師様が、初対面のわたしたちに、偏見を持たれても仕方ないとは思いますが、どうぞお座りになって、わたしたちの話に耳を傾けてくれませんか」
「そのような必要を感じません。出て行きなさい」
「お願いです牧師様」
 わたしの声は懇願に変わった。実際、懇願したい気持ちだった。
「幸子さんと宗一郎さんのお願いを叶えてください。それができるのはあなただけなんです」
「もう十五分経ちました。わたしは仕事があります。ここを出たあと、愚かな老人をからかったことをお笑いなさい」
「牧師様。わたしたちは真剣なんです。バカげたことを言っているのはわかります。ですが真実なんです。どうか信じてください」
「いいかげんにしなさい。わたしに、警察を呼ばせたいですか? これ以上、くだらないことを言い続けるなら、そのようにしましょう」
「そんな…… どうしてわかってくださらないの……」
「無理だよ佐倉くん」
 彼は立ち上がった。
「牧師さん。無駄な時間を与えてくださったことに感謝します。おかげで、キリスト教徒がイスラム教徒を迫害し続けた理由が少し理解できましたよ」
 牧師の顔が、いよいよ険しくなった。
「河野さん!」
 わたしは、慌てて言った。ここでケンカしてもなんの得にもならない。
「なんてこと言うんですか。謝ってください、すぐに!」
「いいや、謝る必要はない。キリスト教の教義は知らないが、本当に苦しんでいる者を救うことのできない宗教なんて、どんな価値があるというんだ。幸子さんの妹さんは、姉の死にずっと心を痛めていた。そしてぼくたちもだ」
「やめて!」
 わたしが叫んだ。
「それは牧師様のせいじゃないわ。わたしたちの話が、あまりにもバカげているからなのよ。ここまできたのに、やっとここまできたのに、牧師様を怒らせないで!」
 わたしの声は興奮して涙声になっていた。自分でも感情の高ぶりをコントロールできなかった。こんなところで挫折したくなかった。
「ごめん」
 彼は低い声で言った。
「佐倉くんを困惑させるつもりじゃなかった。牧師さんにもお詫びします。確かに、突然押しかけて、こんなバカな話を聞かされれば腹も立つでしょう。ましてぼくは、あなたを不愉快にさせる言葉まで使ってしまった。謝ります」
「その言葉が心からのものであると期待しましょう」
 牧師さんは、そう冷たく言い放つと、出口を指差した。
「二度とここへは足を踏み入れぬように」
「そんな……」
 わたしはガックリと肩を落とした。
「残念です」
 彼はわたしの腕を取った。そしてつぶやくように言った。
「行こう。奇跡は起こらなかったよ」
 わたしは、微かにうなずいて立ち上がった。そして、出口のところまで歩いていくと、正面の十字架を振り返り、ごめんなさい幸子さんと、つぶやいた。
 わたしたちは教会をあとにした。
「すまない。オレのミスだ。ついカッとなってしまった」
 彼の言葉にわたしは首を振った。
「ううん。河野さんのせいじゃない。わたしこそ興奮しちゃって、ごめんなさい」
 それからわたしたちは、無言のまま小道を湖のほうへ戻っていった。澄み切った湖面に黒姫山が映っていた。おそらく、三十六年前と変わらぬ光景だろう。わたしたちは、やはり無言のまま、その美しい光景に見入っていた。
「さて」
 わたしは言った。
「いつまでも黄昏ていてもしかたがないわ。幸子さんの希望とは少し変わってしまうけど、近くの教会を当たってみましょう」
「そうだな。彼女たちもわかってくれるだろう」
「ええ。努力はしたもの」
「じゃあ、どうしようか。きのう泊まったホテルに戻って、本当に紹介してもらう?」
「それもいいけど…… 披露宴をやるわけじゃないし、聞きづらくないですか」
「だったら町役場に行ってみようか。観光案内があるだろう」
「そうですね、そうしましょう」
 わたしたちは気を取り直して、役場に向かうことにした。腕時計を見ると、まだ十時にもなっていなかった。時間はたっぷりある。
 それから、役場の観光案内で話を聞いたのだが、あまり詳しい説明はしてくれなかった。その代わりパンフレットをいくつかもらってきた。わたしたちは、喫茶店でコーヒーを飲みながら、どこがいいか検討した。正直言って、あの教会でなければ、どこでもいいと思った。料金も似たりよったりだし、第一、イメージが違いすぎる。本物の教会はない。みんな、教会に似た建物というだけ。多目的ホールという呼び名が相応しいものばかりだった。
「ピンとこないなあ」
 わたしはタメ息をついた。
「仕方ないよ。なるべく湖畔に近いところで妥協しよう」
「でも、一番教会らしいといったらここよね」
「遠いって。野尻湖が直接見えない」
「そうなんですよねえ。どれもイマイチ」
 なんとか、妥協できる場所を決定して電話をしてみると、また別の問題が持ち上がった。なんと、予約が一杯で半年先まで埋まっているという。半年待つのはつらいので、別の場所に電話をしてみたけど、やはり半年近く待たされることに変わりはなかった。
「まいった」
 彼もさすがに意気消沈した顔で言った。
「甘かった。考えてみれば、結婚式場なんてそんなものだよな」
 一度結婚の経験がある彼は、そう言って肩を落とした。
「やっぱり、一度東京に戻って、ブライダルコーディネーターに相談してみましょうよ」
 わたしは言った。
「佐倉くん。きのう泊まったホテルを借りて、式を挙げさせてもらうのはどうだろう」
「披露宴なしでホテルを借りるなんて嫌がられますよ」
「いっそ、友人たちに事情を説明して披露宴もやっちまおう」
「そうね……」
 わたしがその提案を吟味しはじめたとき、彼の携帯電話がなった。
「ちくしょう。今朝、ベルを消す設定を解除したままだった」
 彼は舌打ちをしながら、仕方なさそうに電話に出た。
「もしもし」
 と、言った瞬間、彼の顔つきが変わった。
「はい。わかりました。いますぐ行きます」
 彼は電話を切った。
「会社でトラブルですか?」
 わたしは聞いた。
「違う。名刺を渡しておいたのは正解だったな」
「え?」
 わたしは、彼の言葉の意味がわからなかった。
「あの牧師だよ。もう一度、オレたちと話がしたいそうだ」
「えっ! どうして?」
「わからないな。でも、彼の気が変わらないうちに行くのがよさそうだ」
 わたしたちは、大慌てで立ち上がると、即行であの教会に戻ったのだった。
 相変わらずひんやりとする教会に入ると、何人かの信者が集まって、話をしている最中だった。牧師さんに呼ばれたのですがと、信者の一人に話しかけると、裏の事務所にいますよと教えてくれた。わたしたちは、半ば期待する気持ちを抑えて事務所のドアを開けた。
「お待ちしていました」
 牧師さんは、柔らかい口調でわたしたちを出迎えた。今度はいかにも牧師さんらしい格好をしていた。牧師さんは、応接セットのソファをわたしたちに勧めて、自分が先に座った。
 彼が座るなり声を出した。
「先ほどは失礼しました。まさか牧師さんのほうから、お電話があるとは思いもよりませんでしたよ」
 すると牧師さんは、深いため息をついて、わたしたちを見つめた。
「あれから、ずっと考えていました。あなたがたの言ったことを」
「信じる気になっていただけたのでしょうか」
「確かに、あなたがたが悪質な冗談を言うような人には見えない。ですが、信じるかと言われれば、お答えに窮するのが正直な気持ちです」
「それは理解できます」
 わたしたちはうなずいた。今度こそ、この牧師さんを怒らせるわけにはいかない。
 牧師さんは続けた。
「先ほど信者の方の集まりで、ポラロイドカメラをお持ちになった方がいらっしゃいました。正真正銘、普通のカメラです。なんの細工もない。わたしはそれを借りました」
 牧師さんの言わんとすることはすぐに理解できた。
 わたしは身を乗り出して言った。
「撮ってみてください。そのカメラで、わたしたちを」
「そのつもりです」
 牧師さんは立ち上がって、自分の机の上に置いたポラロイドカメラを手に取った。わたしたちは、撮影しやすいようにソファから立ち上がり、牧師さんの目の前に立った。
 シャッターが押される。画像が出てくるのが待ち遠しかった。
「おお…… 神よ」
 牧師さんは、そうつぶやきながら画像の出てきたフィルムをわたしたちに渡した。言うまでもなく、その写真のわたしたちは、見事に新郎新婦していた。
 牧師さんは、力なくソファに座り直した。わたしたちも座った。
「信じていただけたでしょうか」
 わたしは聞いた。
 牧師さんは軽くうなずくと、祈りの姿勢のように手を胸の前で握り締めた。そして、低い声で語りはじめた。
「わたしは、あの二人と面識があるのです」
「なんですって?」
 わたしは驚いた。
「当時わたしは、まだ三十を少し超えたばかりの若者でした。この教会を任される牧師として前任者から引き継いだばかりのころです。そんなある日、彼らが教会の門を叩きました。その若者たちは、ここで式を挙げたいと言う。わたしは教会の規則を伝え、その申し出を断りました。しかし、彼らの態度は、あまりにも真剣でした」
 牧師さんはここで顔を上げた。
「先ほどの、あなたがたのようでしたよ」
 わたしは首を振った。
「彼女たちのほうが、ずっと切実だったはずです」
「そうだったかもしれません。わたしは、彼らがあまりにも真剣なので、なぜ結婚をあせるのか、その理由を聞きました。あまり詳しい話はしませんでしたが、両親に祝福されることのない結婚なのだと言いました。そして、ひとところに長く留まってはおれない身の上だとも。とても犯罪に身を染めるような若者には見えなかったのですが、わたしは、罪を犯して逃げているのかと問いただしました。彼らは、そうなのかもしれないと答えましたよ」
「いいえ」
 わたしは言った。
「あの二人は、なにも罪など犯していません」
「知っています。でも、すべてを投げ出して逃げること自体が彼らには罪だったのでしょう。今にして思えば、そういう実直さがありました。今にして思えばです…… 当時のわたしにはそれを感じる力がなかった」
 牧師さんは、いったん言葉を切って目をつぶった。当時のことが心の中に蘇っているのだろう。わたしたちは無言のまま、牧師さんの言葉を待った。
「彼らは、話を聞いてくれたことに礼を言い、無理なお願いをしたことを詫びました。わたしは信者になることを勧めたのですが、それはたぶん無理だと、彼らは答えました。おそらくあの時すでに、死を覚悟していたのでしょう。彼らが許されない決断をしたのは、それから三日後のことでしたから」
 牧師さんは、深いタメ息をついた。
「わたしは後悔しました。あの時、もっと親身になっていれば彼らを救えたかもしれない。わたしは、彼らのことを、若者に特有の憂鬱な時期でしかないと考えていたのです。そして、規則にばかり捕らわれていた自分を恥じました。あれから三十六年。わたしは彼らのことを忘れたことは片時もありません。自分への戒めとして、彼らの魂に安らぎがあるよう祈り続けました。それは、わたしにとって、もっとも神聖な思い出でもあるのです。それなのに、あなたがたが不可思議な写真を持って現れた」
 わたしは納得した。そして、この温厚そうな牧師さんが、あんなに冷淡な態度でわたしたちを追い返したわけがわかった。
「ごめんなさい」
 わたしは、少し涙にむせた声で言った。知らぬ間に、涙が出ていた。
「そんなことがあったなんて、思いもよらなかったんです。牧師様のお気持ちを考える余裕もありませんでした」
 わたしはハンカチを出して涙をぬぐった。
「いいえ。いいのです。冷静さを欠いたのはわたしのほうでした。ですが、あなたがたを帰したあと、わたしは三十六年前と同じような過ちを繰り返しているのではないかと不安になりました。あなたたちの話を信じようともしない自分は、三十六年前と少しも変わっていないのではないかと」
 すると、彼が静かな口調で言った。
「信じられないのは当然です。こんな突飛な話、誰が信じるでしょうか。それに、牧師さんは、こうして、われわれを信じてくれた。ありがとうございます」
「お礼を言うのはわたしのほうです。いえ、その前に謝らなければならない」
「牧師様」
 と、わたし。
「ぜひ、幸子さんと宗一郎さんの結婚式を、こちらで挙げさせてください。わたしたち二人では力不足かもしれませんが、彼らの想いを遂げさせてあげたい気持ちはあるつもりです」
「ええ。しかし、一つだけお聞きしてよろしいですか?」
「はい」
「なぜ、あなたがたが選ばれたのでしょう?」
「それは…… わたしたちにもよくわかりません」
「そうですか。おそらく神の導きなのでしょうね」
 牧師さんは、初めてわたしたちにほほえみを向けた。そして、そのほほえみを絶やさないまま言った。
「そうと決まればさっそく準備をしましょう。急な話ですが、式は明日がいいでしょうね」
「明日? いやそれは、いくらなんでも急ですね」
 彼が答えた。わたしも同じ意見だった。いくらなんでも明日では急すぎる。ところが、牧師さんは柔らかい口調ながらも、断固として言ったのだった。
「ですが、明日が彼らの命日なんですよ」
 そうか。じゃあ決まりだわ。
「さあ大変!」
 と、わたしは勢いよく立ち上がった。
「牧師様。まずは幸子さんの妹さんに連絡を取らなくてはなりません。そのあと、わたしたちすぐに東京に戻って、ドレスを手配をします。なるべく写真に写っているデザインに合わせたいですからね。ですから、式の準備は、あまりお手伝いができないかもしれません」
「それはわたくしがやります。お二人はお二人のやるべきことをしてください」
「ありがとうございます。さあ、河野さん。急ぎましょう、時間がないわ」
「はいよ」
 彼も立ち上がった。そして、こういうことは女性のほうがパワフルだね。しょせん、結婚式の新郎なんて飾りだよ。なんて言ったのだった。わたしと牧師さんは笑ってしまった。
 と、そんなわけで。牧師さんとは、式は明日の午後準備ができしだいというアバウトな約束で別れた。とにかくわたしたちは超特急で東京まで戻った。といっても、物理的な時間はどうしようもない。とにかく気分だけが超特急だった。つまり、気だけが焦っているのよね。一番疲れるパターン。
 もちろん、電車に揺られているだけで、東京までの三時間近くを無駄にしたわけではなかった。陽子さんに連絡を入れて、明日のお昼までには野尻湖の教会へきてもらう約束をしたのはもちろんのこと、わたしは、すでに結婚している友人たちに電話をかけまくり、ウェディングドレスをレンタルしたお店を聞き出した。そのあとは、彼と二人で手分けして、教えてもらったお店に電話をかけて、今日これから行って、その場で借りられるかどうかを確認した。ところが、どのお店もその場で貸してくれるところはなかった。そうこうするうちに、二人とも携帯電話の電池が尽きた。
「えーい、仕方ない」
 彼が言った。
「こうなったら買い取りだ。それなら文句はないだろう」
「ま、待って河野さん。ウェディングドレスって高いんですよ」
 わたしは驚いてしまった。
「知ってるよ。百万や二百万どうってことないさ」
「ヤケになってる」
「なってない。オレは冷静だ。ほかに方法がない」
「そうね……」
 わたしも考えた。確かに彼の言うとおりだわ。
「わかりました。わたしも半分出します」
「いや、給料の比率で決めよう。佐倉くんは三分の一でいいはずだ」
「ダメですよ。この問題は仕事とは関係ないんだから」
「だからだよ。均等に負担するんだ。金額じゃなく割合でね。それが正しいやり方だろ?」
 わたしはその言葉を、彼らしい優しさだなと思った。自分が全額出すなんて、一方的な優しさを押しつけられても、わたしが当惑するだけなのを知っているのだ。彼はいつもそう。相手を尊重した優しさ。だからわたしは、この人が好きになってしまったのだと思う。
「河野さんがそれでいいなら」
 わたしは答えた。
「決まりだ。この線で店を探そう」
「はい」
 それから、新幹線の公衆電話を半ば独占して、なんとか、三件ほど買い取りもできるお店を見つけてホッと息をついた。ほとんど同時に、新幹線のアナウンスが東京駅に到着する案内を流した。すでに時間は午後の四時を回っていた。時間はあまりなかった。
 わたしたちは東京に着くと、とにかく電話を入れたお店を回った。写真に写っているドレスと、ほとんど同じデザインのものを見つけたのは、最後に回ったお店だった。もちろんその場で買い取った。彼のカードでだけど。わたしが負担する分は、あとで彼に渡すことにした。
 本当に、心から一息つけたのは、買い取ったドレスをタクシーに押し込んで、自分の部屋に戻ったときだった。もちろん彼が、運ぶのを手伝ってくれた。
「じゃあ、オレは帰るよ。明日の朝、六時に迎えに来るから」
 彼はドレスを運び終わると、わたしの部屋の玄関先でそう言った。
「上がって行ってください。お茶ぐらい出します」
「そんなのいいって。きみも疲れたろ。明日はいよいよ本番だからね。ゆっくり休んで」
「でも」
 と、わたしは言いかけて、彼がわたしの部屋に上がるのを躊躇しているのだと感じた。本当は上がって行ってほしいけど、無理強いしたら、困るのは彼のほうだ。
「じゃあ、明日」
 彼は手を振って、エレベーターの方へ歩いていった。
「あっ、待って」
 わたしは彼を呼び止めた。まだ別れたくなかった。
「待ってください。だったら、近くで夕食を一緒に」
 彼は振り返って腕時計を見た。
「そうだね。もう七時か…… 早いな」
「ええ」
 わたしはうなずきながらドアに鍵をかけた。
「じゃあ行きましょう。うちの近くにもイタリア料理屋がありますよ」
「そう言えば、駅前にマックがあったね」
「マック? ハンバーガーですか」
「そう。ここんとこ、高級なものばかり食べてたからね。なんだか、ジャンクフードが食べたい気分だよ。ダメかな?」
「いいえ」
 わたしは首を振った。呪いが発覚してから、わたしは彼と毎日、夕食を共にしている。今日それを放棄するぐらいなら、彼がゲテモノ料理を食べたいって言い出しても、喜んで付き合うだろうと思った。もう彼を想う気持ちは、一歩も後戻りできないくらい、わたしの心を支配していた。狂おしいほどの想い。
 だからこの日。わたしは、ある決心をした。すべてが終わったとき。そのときは……


三月十九日。金曜日。


 ピピピピピ。と、目覚まし時計が鳴った。ふだんは、ここから本格的に目が覚めるまで十分や十五分はかかる。ところが今日は、一発で目が覚めた。
 オレはまだ、日も登らぬ暗いうちにベッドから這い出ると、簡単に身仕度を終えてマンションの部屋を出た。愛車のプジョー406にキーを差し込んでエンジンをかける。この時間、佐倉麗子のマンションまでは、三十分もかからないだろう。実際、彼女のマンションには二十五分で着いた。約束の六時には少し早かったが、部屋のインターフォンを押した。すると、すぐに返事がありドアが開いた。
「おはよう」
「おはようございます。上がってください」
「お邪魔します」
 オレは彼女の部屋に足を踏み入れた。きのうの晩は躊躇したが、今は問題ないだろう。これから長野まで出かけるのだ。変な気を起こすはずもなかった。
「河野さん」
 出されたスリッパを履き終わる前に、彼女が当惑したような声を出した。
「わたし、大変なことを忘れていたのに気づきました」
「え、なに?」
 オレは、ここへきて問題発生かよと、心の中で舌打ちした。
「エンゲージリングですよ。すっかり忘れていたわ」
「ああ、そうか」
 オレも彼女に言われて、たった今、その結婚式に必要なアイテムを思い出した。
「なんで忘れていたのかしら」
 彼女はタメ息をついた。
「朝、起きるまで気がつきませんでした。それにエンゲージリングだけじゃないんです。結婚式で使うブーケも忘れていたし。どうしよう。今からどうやって揃えたらいいのか……」
 佐倉麗子は、困り果てたように言った。
「ブーケは、すぐに揃うだろう」
 オレは答えた。
「とにかく結婚指輪が一番の問題だな。指のサイズとかあるし…… まあでも、そんなに心配しなくても平気だろう。宝石店なんて探せばいくらでもあるよ。サイズもピッタリのものを揃える必要はないんだ。小さくなければいい。それを一生はめるわけじゃないんだから」
「本当に、大丈夫でしょうか」
 彼女は、まだ心配そうな顔で聞いた。
「たぶんね。それに、今ここで心配してもしょうがないじゃないか。とにかく、長野についてから検討しよう」
「そうですね。支度はできてます。いつでも出れる…… あっ、ごめんなさい。わたしったらお茶も出さないで」
「いいよいいよ。支度ができてるなら、もう出よう。四時間ぐらいかかるからね」
「はい」
 オレたちは、プジョーに必要なものを詰めこんで長野に向かった。途中、高速道路のサービスエリアで簡単な朝食を済ませたが、それ以外はノンストップで走り続けた。おかげで野尻湖の教会に着いたのは、予定していた時間より三十分ほど早かった。
「牧師さん、これはいった……」
 オレは牧師への挨拶もそこそこに、教会に集まっている人の多さに驚いた。三十人ぐらいだろうか。忙しそうに結婚式の準備をしてくれているのだ。さらに驚くべきは、いわゆる結婚式だけでなく、教会の庭に披露宴の準備も並行して行われていることだった。
「ああ、お二人とも、おはようございます」
 牧師は、にこやかな笑顔で言った。
「この方たちは、信者のみなさんなのですよ。事情を説明しましたら、みな喜んでお手伝いに駆けつけてくださいました。ありがたいことです。さあ、集まっていただいたみなさんにも、お二人をご紹介しましょう」
 牧師はそう言って、集まっている人たちにオレたちのことを紹介した。すでに事情は充分わかっているらしく、信者ではないオレたちを暖かく迎えてくれた。
 さすがのオレも、これにはありがたいと思う気持ちが沸いてきた。佐倉麗子は、いたく感激してしまったらしく、集まったみんなに、涙混じりの声で礼を言っていた。そのせいか彼女のほうも、みんなに気に入られたようだった。特にオバサマに人気が高いらしく、新婦が今から泣いちゃダメよとか、こんな美人の新婦さん初めて見たわとか、天気予報では曇りだったのに、今日は良く晴れたわねえ。などと、口々に言われていた。
 そんな信者たちと佐倉麗子の姿を見ながら、牧師がオレに聞いた。
「河野さん。高木陽子さんのほうは、いかがでしたか」
「はい。お昼前にはきてもらうように連絡してあります。ここまでの道順とか大丈夫だと思いますが、念のため、こちらの電話番号を知らせておきました」
「そうですか。では、あなたがたもそろそろご準備をなさい」
「ええ。それなんですが。じつは、いくつか忘れていたモノがありまして」
「なんでしょう?」
「結婚指輪なんです。ドレスに気を取られていてすっかり忘れていました。それにブーケも必要なんですよね」
「ああ、それでしたら、なんの問題もありません。信者の中に宝石店を営んでおられる方がいます。お二人のサイズを見ていただいて、持ってきてもらうようにしましょう」
「ありがたい」
 オレはホッと息をついた。
「あとはブーケですが」
「それこそ問題ございませんな。すでに準備してありますから」
「素晴らしい。助かりました」
「いえいえ。あなたがたこそ、たった半日でウェディングドレスを調達するのは大変でしたでしょう。おそらく、それだけで手一杯だろうと思ったのですよ」
「お察しいただいて恐縮です」
「あなたがたはもう、なにも心配される必要はありません。あとはお任せください」
 牧師の力強い言葉に、オレはもう一度礼を言った。
 というわけで。懸念が払拭されたオレたちは、自分たちも結婚式の準備を始めた。だが準備が必要なのは、もっぱら新婦役の佐倉麗子だった。化粧やら髪のセットやら、時間のかかるものらしい。ちなみに、信者の中に美容師さんがいて、その辺の面倒は全部みてくれた。新郎役のオレは、式の直前に着替える必要があるくらいだから、式や披露宴のほうの準備を手伝うことにした。
 そうこうしているうちに、高木陽子も到着した。彼女の到着は約束よりだいぶ早く、十一時前にはすべての役者が揃ったのだった。
「本当に、なにもかも急で申し訳ありません」
 オレは駆けつけてくれた高木陽子に礼を言った。
「いいえ。とんでもございません。姉の命日に合わせていただけるなんて、思いもよりませんでした。感謝の言葉もありませんわ」
「電話でも話しましたが、こちらの牧師さんがご存じだったのです」
「はい。わたしも、そんな気はずっとしておりました。姉が亡くなってから、何度もこちらにお尋ねしようと思っていたのですが」
「ご紹介しますよ。事務所にいらっしゃいますから」
「お願いします」
 オレは牧師に高木陽子を紹介した。彼らは最初、ぎこちない挨拶を交わしたが、すぐに打ち解けて、当時のことを語りはじめたのだった。
 そのとき。
「あっ、いたいた!」
 信者の一人が、オレを見つけて駆け寄ってきた。
「新郎さん。あなたもそろそろ着替えてください。新婦さんもそろそろ準備ができますよ」
「はい」
 オレは返事をしながら時計を見た。十一時半。
「では」
 と、牧師も立ち上がった。
「式は正午の鐘とともに始めましょう」
 あと三十分。あと三十分で幸子と宗一郎の想いは遂げられるのだ。そう思うと、さすがに緊張してくる自分がわかった。
 そして、正午の鐘は鳴ったのだった。
「ここにお集まりのみなさんに、ご説明する必要はすでにないでしょう」
 式は、牧師の言葉で始まった。祭壇の前に立つのはオレだけだった。証人席には集まってくれた信者の人たち。そして、新婦側の証人席の一番前に高木陽子が座っていた。
「ですが」
 と、牧師は言葉を続けた。
「神の御前において行われる今日の式が、どれほど変わっていようとも、神聖で正式なものであることをわたしは確信しております。今ここで新婦を待つ新郎は、三十六年前に亡くなった相田宗一郎です。そして入場してくる新婦は、彼とともに世を去った高木幸子です。証人としてお集まりのみなさんは、どうか、三十六年のときを経て結ばれる二人を暖かく見守ってください。そして祝福してください。それが、わたしからみなさんへのお願いです」
 牧師はいったん言葉を切って、オレと証人席に座る高木陽子に言った。
「お二人に、アーメンという言葉の意味をお伝えしておきます。これはヘブライ語でその通りです。という意味です。今日、あなたがたはわたくしどもキリスト教徒と同じ立場です。どうか、心からこの言葉を唱えてください」
 オレはうなずいた。背中越しで見えないが、高木陽子もうなずいたはずだ。
「では。これより新婦が入場します。みなさんご起立ください」
 証人たちが全員立ち上がり、オレも入り口を振り返った。
「新婦入場」
 牧師の言葉で、信者の奏でるウェディングマーチが教会に鳴り響いた。前奏の終わりとともに入り口の扉が開かれ、純白のウェディングドレスに身を包んだ、佐倉…… もとい。高木幸子がゆっくりとした足取りでヴァージンロードを歩きはじめた。
 大きな拍手。
 高木幸子は、相田宗一郎のもとまで歩いてきた。オレは彼女の姿に見とれてしまった。準備の整った彼女に、式が始まるまで合わせてもらえなかった意味がわかった。みんな、オレの驚く顔が見たかったに違いない。それほど佐倉麗子はきれいだった。違う。高木幸子だ。どうも調子が狂うな。
 オレは、彼女の近くに二、三歩よると、そのまま腕を組んで祭壇の前まで歩いた。彼女はうつむいたままで、オレの顔を直視しなかった。
「賛美歌を賛美しましょう」
 証人たち全員が賛美歌を歌った。オレと彼女も、歌詞の書かれたカードを受け取って、彼らと一緒に歌った。賛美歌を歌い終わると、牧師は証人たちを着席させ、ゆるやかな声で言った。
「聖書を拝読します。聖書文学の中でも最高傑作とうたわれる、コリント人への手紙、第十三章です」
 牧師は聖書を開いた。
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいドラ、やかましいシンバル。たとえ、予言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない」
 牧師は聖書を閉じて祈りをささげたあと、祭壇の前に立つオレと佐倉…… 高木幸子に言葉をかけた。
「わたしはここで、愛し合う若者たちに愛について語り、愛について諭します。だが今日は違う。礼を述べたいのです。あなたがたお二人は、わたしに大切なことを教えてくれました。たとえ、どれほど厚い信仰を持っていようとも、愛がなければ、なんの意味もないのです。聖書に書かれた、この大事な言葉を思い出させてくれた。ありがとう」
 オレはなにも答えることができなかった。彼は今、相田宗一郎と高木幸子に語りかけているのだ。
「誓約をしましょう」
 牧師は言った。
「新郎は新婦のベールを上げてください」
 オレは、彼女と向き合って、白いベールをゆっくりと上げた。少し頬を染めた彼女の顔が、現れる。そしてオレと目が合うと、彼女はほほえみを返した。
 二人とも正面を向く。
「新郎。相田宗一郎」
 牧師の声に、オレは、はいと答えた。
「あなたは今、この女子と結婚しようとしています。富めるときも貧しいときも、健やかなときも病めるときも、これを愛し、これを敬い、これを助け、その命のある限り、固く節操を守ることを誓いますか」
「誓います」
「アーメン」
 牧師は高木幸子を向いた。
「新婦。高木幸子」
 佐倉麗子は、はいと小さな声で答えた。
「あなたは今、この男子と結婚しようとしています。富めるときも貧しいときも、健やかなときも病めるときも、これを愛し、これを敬い、これを助け、その命のある限り、固く節操を守ることを誓いますか」
「はい」
 と、佐倉麗子はうつむきながら答え、つぎに顔を上げてハッキリとした声で言った。
「誓います」
 やった。これで終わりだ。いや、式はまだ続くが、一番大事なところは終わった。
「アーメン。みなさん、お聞きのとおりです」
 牧師は証人たちに言った。
「では、誓約の証しとして指輪の交換をいたしましょう。陽子さん。お姉さんのブーケと手袋を預かっていただけますか?」
「はい」
 高木陽子が立ち上がった。彼女の瞳は少し潤んでいた。佐倉麗子は、持っていたブーケと、外した手袋を高木陽子に渡した。
「新郎から新婦へ」
 牧師がオレに指輪を渡す。オレは、左手を差し出す佐倉麗子の薬指に指輪をはめた。
「新婦から新郎へ」
 佐倉麗子は、牧師から受け取った指輪を、オレの薬指にはめた。途中、関節のところで止まってしまったので、彼女は照れた笑いを浮かべた。
「ウェディングキスを」
 と、牧師。
 えっ。聞いてないよ。オレは驚いた顔で牧師を見たあと、佐倉麗子の顔をうかがった。彼女は軽く首を縦に振ってうなずいた。まいったね。
 オレは、彼女の肩に手をかけると、瞳を閉じて待つ彼女の頬にキスをした。唇は勘弁していただきたい。代理でやるべきことじゃない。それは河野純一が佐倉麗子にするべきことだ。それが許されるのであればだが。
「祈りをささげます」
 牧師はそう言って、聖書を手に持つとオレたちに言葉をかける。
「新郎は指輪をはめた手を聖書に置いてください」
 オレはそうした。
「新婦は新郎の手の上に指輪をはめた手を」
 佐倉麗子はオレの手の上に自分の手を乗せた。
 牧師は重ねたオレたちの手の上に自分の手を乗せると、瞳を閉じて祈りの言葉をささげた。
「神様。どうぞ、この二人の魂に、あなたの限りない愛と平安をお与えください。そして、三十六年もの間、苦しみの生活を送った彼女の妹にも平安をお与えください。神の御前において、心より祈ります。アーメン」
 牧師は目を開けた。
「結婚宣言をします。今このお二人は、神と会衆との前で永遠の愛を誓いあいました。ゆえにわたくしは、この二人が夫婦であることを宣言します。神が合わせ給う者を人が離してはならない。アーメン」
 そのあと賛美歌を賛美した。オレたちはヴァージンロードを歩いた。鐘が鳴った。拍手の音を背中に聞きながら、オレたちはヴァージンロードを歩き切った。これで本当に終わったと思った。
「緊張したァ」
 佐倉麗子がそう言って、ふだんの笑顔を浮かべた。
「なんだ、緊張してたのか」
 と、オレ。
「やけに、大人しいから変だなとは思ってたけど」
「あのね、河野さん。じゃなくて、宗一郎さん。式の最中、ベラベラしゃべる新婦がこの世にいると思いますか?」
「ハハハ。冗談だってば。幸子さん」
「なんか変なの」
「ホントだね」
 オレたちは笑い合った。
 教会の外の庭には、簡単な披露宴の準備がしてあった。まあ、披露宴と言うより慰労パーティーと呼ぶべきだね。教会の中で証人役を勤めた連中も、みんな外に出てきて、なごやかに持ちよった料理やお酒を飲みはじめた。一応、主役のオレたちは、そのパーティのときも新郎新婦の格好のままだった。
「お疲れさまでした」
 牧師がオレたちに声をかけた。高島陽子も彼と一緒だった。
 オレは二人に答えた。
「ありがとうございます。肩の荷が下りましたよ。な、佐倉くん」
「ええ、わたしもやっと……」
 と、佐倉麗子は言葉を切ってから叫んだ。
「写真! 写真を撮ってみましょう!」
「そうだった」
 と、オレ。
「じつは、ずっと気になってたんだよな。新郎新婦の格好をしてるときは、どんな風に写るんだろうってね」
 すぐにポラロイドカメラを持ってきてもらって、オレたちが並んでいる姿を撮ってもらった。
 画像が出てきた。
 その写真を見て、一番驚いたのは高木陽子だった。
「ね、姉さん!」
 写真を見る彼女は、震えていた。
 そう。その写真のオレたちは、オレたちではなかった。幸子と宗一郎だったのだ。つまり、今までは服装が変わっていたのだが、今度は顔が変わっている。オレたちの顔は幸子と宗一郎だったのだ。しかもその顔には、満面の笑顔が浮かんでいた。
「二人も満足しているようだね」
 オレは言った。驚くべき心霊現象だが、今は幸福の印だった。
「そうね。よかった。本当に」
 佐倉麗子もほほえみながら言った。
「陽子さん。この写真は、あなたが持っているべきですね」
 高木陽子は、潤んだ瞳でうなずいた。
「やっと姉さんが笑っている顔を見ることができました。ありがとうございます。こんな喜びを感じたことは、今までにありません」
 すると、牧師が言った。
「もう、苦しむことはありませんよ。今度はあなたも幸せにならなければ」
「許されるのでしょうか。幸せになることが」
「もちろんです。神はあなたの心をご存じですよ」
「もしそうなら、もし許されるのなら…… わたしは夫と別れたい。彼に愛情を感じたことは一度もありません。彼には野心しかなかった。でもそういう男性と生活する苦しみに耐えるのも、わたしに与えられた罰だと思っていたのです」
「賛成です」
 佐倉麗子が言った。
「牧師様の前で言うべきことじゃないかもしれないけど、別れるべきだと思います。そんな苦しみ、あなたにはもう必要ない」
 牧師もオレも、彼女の言葉にうなずいた。
「じゃあこれ」
 佐倉麗子は、持っていたブーケを高木陽子に渡した。
「新しい幸せのために、あなたに差し上げます。姉として妹に」
「あ、ありがとう…… ありがとうございます」
 高木陽子の瞳から、ついに涙がこぼれた。
「ダメだよ、泣かしちゃ」
 オレは佐倉麗子に言った。
「ヤダ。わたしそんなつもりじゃあ」
 戸惑った声を出した彼女を無視して、オレは牧師に言った。
「牧師さん。高木さんをお願いします。ぼくらは、すっかりお腹が減ってしまったので、料理にありつくことにします。さあ、行こう佐倉くん。早く」
 オレは、牧師と高木陽子を残して、佐倉麗子を引っ張っていった。
「ちょ、ちょっと河野さん」
 二人から離れたとき、佐倉麗子が言った。
「なんですかいったい。そんなに急ぐことないでしょ」
「わかんないかなァ」
「なにが?」
「あの二人だよ。牧師と高木陽子」
「あの二人がなにか?」
「だからァ、いい雰囲気だと思わないか?」
「えっ?」
 佐倉麗子は、牧師たちを振り返った。二人はなにか話し込んでいる最中だった。
「そう言えば、そんな気が……」
「だろ。今まで悩み続けてきた二人だぜ。気が合わないわけがない。邪魔をしちゃ悪いってことさ」
「信じられない!」
 佐倉麗子が叫んだ。
「なにが? あの二人がかい?」
「違います! 河野さんがですよ!」
「オレ?」
「そうよ。どうして他人のことになると、そんな風にすぐわかるわけ?」
「は?」
 と、オレがマヌケな声を出すと、佐倉麗子は近くのテーブルにあったグラスに、ビールを波なみと注いで、それを一気に飲み干した。
「あー、美味しい!」
「おい、佐倉くん。他人がどうしたんだよ」
「なんでもありませんよーだ。河野さん、早く料理を持ってきてください。わたしこんなドレスで歩きにくいんですよ」
「だったらもう脱ごうよ。脱いだところの写真も撮ってみたい」
「エッチ」
「そーじゃなくて」
「冗談です。でもわたし、もう少し着ていたい。あと三十分だけ。いいでしょ?」
「え、まあ、そのぐらいなら」
「じゃあ、料理持ってきてください。お酒もね」
「ビール飲んでるじゃん」
「シャンパンがいいんです。瓶ごと持ってきて」
「おいおい……」
 そのあとなぜかオレは、佐倉麗子に下僕のように扱われたのだった。なんで? ちなみにオレは、車の運転があるから、お酒飲めないんですけど……
 教会での行事が、なにもかも本当に終わったのは午後の三時であった。ああ、そうそう。新郎新婦のコスチュームを脱いだオレたちは、見事に一般社会人復帰を果たしたのだった。もう写真が変になることは全くなかった。完全に開放されたのだ。思えば、あのビデオを見たのはちょうど一週間前の、このぐらいの時間だった。
 午後四時。片づけも終わり、集まった人たちが解散しはじめた。オレたちも東京に戻ることにした。丸一週間会社を休んでしまったが、仕事をするよりずっと忙しい一週間でもあった。明日からの三連休がありがたい。ちなみに、高木陽子は、このまましばらく野尻湖を観光するそうだ。姉の好きだった場所を散策したいのか、牧師と一緒にいたいだけなのか…… いや。その辺の詮索はやめよう。その高木陽子が別れ際に、オレたちに言った。
「一つだけお願いがあるのです。今日は、今日一日だけは、その結婚指輪を外さないでいていただけないでしょうか」
 オレと佐倉麗子は、左手の薬指にはまった指輪を見た。
「ええ。そのつもりでした」
 佐倉麗子が答えた。多少酔っぱらってはいるが、思考能力に問題はないようだ。もちろん、オレもそのつもりだったので、異論は口にしなかった。
 そんなこんなで、オレたちはやっと東京に戻ったのだった。時間は夜の十時近かった。
「このまま、きみのマンションまで送っていくよ」
 首都高に入ったオレは、助手席の佐倉麗子に言った。
「河野さん、疲れてますか?」
「ん? まあ少しね」
「あと二時間、わたしといるのはつらいですか?」
「いや大丈夫だけど。なんで?」
「今日は、日付が代わるまで一緒にいましょうよ」
「そうか…… そうだな」
 オレはうなずいた。
「じゃあ、とりあえずオレの部屋に行くか。きみのところより近いし」
「ええ」
 部屋に戻ったのは十時半だった。お互い、ソファに倒れ込むように座り込んで、三十分ぐらいなにも話さなかった。パーティーのとき、あんなに陽気だった佐倉麗子が、妙に大人しいのだ。おそらく、そうとう疲れたのだろう。ただ、幸子と宗一郎のために、あと少しだけ、がんばるつもりなのだ。
「コーヒー、淹れるよ」
「わたしがやります」
「いいよ。座ってな」
「いいえ。河野さんこそ座ってて。ずっと運転で疲れたでしょ」
「大丈夫」
「ダメ。わたしがやります」
 佐倉麗子は立ち上がると、キッチンでお湯を沸かしはじめた。
「勝手知ったる他人の家ですね」
 彼女はそう言って笑った。そう。一度ここで夕食を作ってくれたことがあったっけな。あれは美味しかった。たぶん、彼女がこの部屋のキッチンに立つのはこれが最後だろう。いや、この部屋に上がること自体、これが最後のはずだ。あと一時間で、オレたちは上司と部下の関係に戻るのだ。それで終わり。オレの左手にはまった指輪は、佐倉麗子との繋がりを示すものではないのだから。
 そして、時間は無情に過ぎ去り、時計の針は十二時を過ぎたのだった。


三月二十日。土曜日。


 ついにこのときがきた。わたしは左手にはまった指輪を見つめた。
「佐倉くん」
 彼が言った。
「そろそろ外そうか」
 わたしは、うなずきながら言った。
「お願いがあります。わたしの指輪は、河野さんが外してください。河野さんの指輪は、わたしに外させてください」
「結婚式の逆か」
「ええ。自分で外すのはイヤ。なんだか離婚みたいで……」
 わたしはそう言ってから、彼に離婚の経験があるのを思い出した。
「ご、ごめんなさい。変な意味で言ったんじゃないです」
「わかってるよ」
 彼はほほえんだ。
「じゃあ、ぼくからきみの指輪を」
「はい」
 わたしは彼に左手を差し出した。指輪が抜かれる。そしてわたしも、彼の差し出した左手から指輪をゆっくりと抜いた。
「終わったね」
 テーブルに置かれた指輪を見ながら、彼が言った。
「これですべて終わり。なにもかも」
「ええ。幸子さんと宗一郎さんのことは終わりですね」
「うん。オレたちも元どおりだ」
 いいえ。それは違う。もう、前の関係には戻れない。
「送っていくよ」
 彼はソファから立ち上がった。でも、わたしは座ったままだった。
「どうしたの。疲れてるのかい?」
 わたしは首を振った。
「なに? 具合でも悪いのか?」
 わたしは、また首を振った。
 彼はソファに座り直した。
「どうしたんだい?」
 優しい声で彼は聞いた。
 言わなきゃ。言わなきゃ。そう決心してきたんだから。すべてが終わったら告白するって。それでダメだったら、彼のことは諦めるって。
「聞いてほしいことがあるんです」
 わたしはついに、口を開いた。
「なに?」
「わたし、わたし…… じつは好きな人がいるんです」
「へ、へえ……」
 彼は、一瞬、無表情な顔になった。でもすぐに笑顔を浮かべた。
「なんだ。やっはりいるんじゃないか、好きな人。大変だったね。一週間も会えなくてつらかったろ」
「いいえ。その逆です」
「逆?」
 彼は怪訝な表情を浮かべた。
「なんでかな。その彼とケンカでもしたのか」
 わたしは首を振っただけで、答えなかった。
「どうしたんだよ。オレでよかったら相談に乗るよ。これでも多少の経験はある」
「鈍感」
 わたしはつぶやいた。
「え、なに?」
 彼は聞き返した。
「鈍感って言ったんです。わたしはこの一週間、その好きな人とずっと一緒にいました」
「えっと…… それって、つまり……」
 彼はそこまで言うと言葉に詰まった。
「いいんです。なにも言わないでください。河野さんが、わたしのことをただの部下だとしか思っていないことは知っています。どんなに、そんな素振りを見せても女として見てくれなかったもの。それに、わたしは河野さんとの仲が変になるのが怖かったんです。だから言えなかった。ずっと言えなかった。でも、わたしの気持ちに気づいてくれたらって、心のどこかでいつも期待していました」
 彼は絶句したまま、わたしの顔を見つめていた。
 わたしは彼から視線を外して、行き場のない視線をさまよわせた。
「わたし…… たぶんもう、いつもの部下には戻れません。この気持ちを押し殺したまま生きてはいけないから。だから、拒絶されるのがわかっていても、告白しようって決めたんです。なにもかも終わったその日の夜に。お願いです。今夜だけ、今夜だけでいいから、わたしを一人の女として見てください。それで諦めるから。わたし……」
「もういい。もうなにも言うな」
 彼は厳しい顔で言った。それは、どうしようもないほどの拒絶の言葉に聞こえた。涙が溢れてくる。
「ご、ごめんなさい。わたし…… なんてバカなことを……」
 わたしは顔を手で伏せて、身体がガクガクと震えた。本当に取り返しのつかないことをしてしまったのだ。なんてことを。
 すると。わたしの肩に彼の手が置かれた。わたしは、顔を伏せていた手を開いた。暖かみの戻った彼の瞳が目の前にあった。
「ごめん。勇気のなかったオレを許してくれ」
「え?」
 わたしは、彼の言葉の意味がわからなかった。
「きみにそこまで言わせた自分が情けないよ。オレが最初に言うべき言葉だったのに」
 え? なに? なんて言ったの?
「オレこそ、大切な部下を失うのが怖かった。自分の気持ちを告白してしまったら、二度と今までの関係に戻れないのが怖かったんだ。どんな形であれ、きみを失うのには耐えられなかったんだよ」
 うそ。うそ。本当に? 彼もわたしを? まさか……
「オレはね。幸子のことを想う宗一郎の気持ちを考えていた。彼女の気持ちを知るまで、彼はどんなに悩んだろう。オレなんかとは比べ物にならないほど。でも、少しは彼の気持ちがわかる。オレもずっと悩んでいたから。オレなりに。そう。ずっと前からきみのことが好きだったんだよ」
「わたしも、わたしも」
 わたしは泣きながら言った。
「幸子さんの想いがわかります。ずっと心に中に秘めた想いを、打ち明けられないつらさ。わたしなんかより、ずっとずっと、つらいだろうけど、わたしだって……」
 わたしは言葉を切った。もうこれ以上、なにか言うのは無理だった。
「泣かないで」
 彼はわたしの瞳から流れる涙を指でぬぐった。それの仕草はとても優しく、そして官能的だった。まるで電気が走ったように刺激的だった。
 彼はわたしの肩に手をかけた。つぎに彼がなにをしたいのか、すぐにわかった。わたしは瞳を閉じて、軽く上を向いた。目を閉じていてもわかる。彼が近づいてくるのが。代理結婚式でも、もしやと期待したキスが、今度は頬ではなく……
 わたしたちの唇は、ついにふれ合った。最初は軽く触れるように。つぎはすき間を埋めるように、少しだけ強く。これが彼のキスなのね。優しく髪を撫でてくれる。なんだか溶けてしまいそう。
 短いキスが終わると、わたしは気持ちの高ぶりを押さえ切れなくなって、彼の首に巻きつくように腕を伸ばした。彼もわたしを強く抱きしめて、わたしの名を呼んだ。
「麗子」
「ああ……」
 わたしは、思わず吐息をもらした。やっと名前を呼んでくれた。
「うれしい。うれしい。純一さん…… 純一さん」
 まるで名前に魔力があるかのように、わたしも彼の名を呼んだ。すると、今まで以上に気分が高揚していくのがわかった。
「麗子」
 彼が耳元でささやいた。
「好きだよ。きみを抱きたい」
 求めていた言葉だった。ずっとずっと、求めていた言葉だった。わたしは、身体中が熱くなるのを感じながら、小さな声で言った。シャワーを使わせて、と。
 二時間後。
 わたしたちは、心と身体の調和を保ちながら、お互いに登りつめた。快楽のあとの心地よい疲労と脱力感。わたしは、もうろうとする意識の中で、汗に濡れる彼の胸に顔を埋めた。まだわたしの中に残る彼の感覚。わたしは、彼の鼓動を感じながらその余韻を楽しんだ。
 そのとき。ふと、高木幸子と相田宗一郎の顔が浮かんだ。愛する人と結ばれた今、ハッキリわかった。わたしたちが選ばれた理由が。
「純一さん」
 わたしは、少し顔を上げて、彼の横顔を見つめながら言った。
「なんだい」
 彼はわたしの髪を撫でた。
「わたし、ずっと考えていたの。幸子さんと宗一郎さんがわたしたちを選んだ理由を」
「答えがわかったかい?」
「ええ。今ハッキリとわかった。きっと救いだったのね」
「オレたちが、あんまりもどかしいから、見てられなくなったんだろうな」
「そうね」
 わたしはクスッと笑った。
「でも、わたしたちはきっと、彼らにとってオマケね」
「オマケ?」
「そう。幸子さんと宗一郎さんが、本当に救いたかったのは陽子さんだったと思うの。そしてあの牧師さん」
「だろうね。自分たちのことで、ずっと心を痛めてきた人たちだから」
「そこに、いつまでも態度のハッキリしない二人がいたから、ついでに救ってくれたのよ」
「ハハハ。ずいぶん協力させられたけどな」
 彼は笑った。
「ホントにね」
 と、わたしも笑った。
「それでもわたし、すごく感謝してる。勇気を与えてくれたから」
「オレもだよ」
 わたしたちは、そう言って軽くキスを交わした。
「さてと」
 彼は上半身を起こした。
「少し汗をかいた。シャワーを浴びてくるよ」
「ええ」
 と、うなずくわたしに、彼は少し照れたように言った。
「よかったら、一緒に入るかい?」
「うん」
 わたしはほほえんだ。
「背中を洗ってあげるわ」
「よし」
 彼は、まだベッドで横になっていたわたしを抱き上げた。
「キャッ」
 わたしは軽い悲鳴を上げて、バランスが崩れないように彼の首に腕を回した。
「本当は、ウェディングドレスの新婦を、こうしてベッドに連れていくんだろうけどね」
 彼は笑った。
「順番がぜんぜん逆よ」
 わたしも笑った。


それから。


 丸一週間、会社を休んだオレたちは、連休明けにいつもどおり出勤すると、いきなり関係がバレていた。原因は、野尻湖のホテルで送ったメールだ。アカウントを変えれば問題ないと思っていたのだが、それは受信に関してのことであって、送信に関しては、同じアドレスになってしまっていたのだ。風邪で休んでいることになっている二人が、同じ時刻に、同じアドレスでメールを送ったのだから、一緒にいることがバレるのは当然だった。
 ま、ぜんぜん問題ないけどね。なにしろ連休の間、オレと麗子は一緒に暮らす約束までしていたのだから。逆に、会社のみんなに話すキッカケができて、ありがたいくらいだった。
 それから一ヶ月後、オレたちは引っ越しをした。まだ荷物の整理も終わっていないその部屋で、オレは正式に彼女にプロポーズした。そして、彼女の両親に紹介されるという、男にとってもっとも緊張する行事もなんとか無事に終わり、結婚式場を決めて、半年後には晴れて本物の夫婦になったのだった。常務取締役と総務部長の夫婦。今や河野夫妻といえば、社長より影響力があると恐れられ…… 違う。敬われている。いやホントに。
「純一さん」
 麗子がオレの席にやってきた。
「ん。どうした?」
 オレは、読んでいた書類から顔を上げた。
「彩ちゃんのこと聞いた?」
 彼女はそう言いながら、オレのネクタイを直した。曲がっていたらしい。
「いや。なに? なんかあったの?」
「また宮沢くんとケンカしたんだって」
「ふうん、またかよ。あいつらも付き合ってずいぶん経つんだから、そろそろ結婚しちゃえばいいのにな」
「ホントよね。彩ちゃん、ケンカするたびにわたしに愚痴をこぼすんだもの」
「人生の先輩はつらいねえ」
「もう。人事みたいに」
 麗子は、軽くオレを睨んだ。
「困っちゃうわよ。わたしはカウンセラーじゃないんだから」
「毎度のことだろ。適当にあしらっとけばいいじゃん」
「そうもいかないわよ。彼女なりに真剣なんだし」
「優しいねえ」
「あなただって、この間、吉岡くんの相談受けて真剣に考えてたじゃない」
 オレたちは、お互いの顔を見ながらプッと吹き出した。どうやら兄貴と姐御肌が、すっかり社内に定着してしまったようだ。
「ねえ、純一さん。今日は何時ごろ帰れる?」
「七時前には終わるよ」
「じゃあ待ってる。帰りスーパー行くの付き合って」
「うん」
「夕食はなに食べたい?」
「そうだなあ。たまにはトンカツなんかいいかも」
「オッケイ。美味しいの作ってあげる」
「よし。やる気が出てきた。早めに仕事を片づけよう」
「現金ね」
 麗子はクスッと笑ったあと、ちょっと気が重そうに言った。
「さて。わたしも彩ちゃんの愚痴を聞きに戻りますか」
 そのとき。オレの頭に電球が光った。ピカッと。
「麗子」
「なに?」
 席に戻りかけた麗子が振り返った。
「いや、今ふと思ったんだけどね」
 オレはそう言って、デスクの引き出しからビデオテープを取り出した。
「このテープ、まだあるんだよね」
「だから?」
「見せたらどうなるかな。彩ちゃんと宮沢に」
「ええっ?」
 と、驚いた顔をした麗子だったが、すぐに考え込むように言った。
「どうなるのかしら?」
「試してみる?」
 と、オレ。
 麗子はしばらく考えていたが、少しイタズラっぽい顔になって言った。
「わたし彩ちゃん呼んでくるわ。あなた、宮沢くん呼んできて」
「了解」
 オレは立ち上がった。
「では、応接室で落ち合おう」
 オレたちはニヤリと笑いあった。はてさて、どうなりますやら。


 終わり