クライシュ族の鷹

 序

 いまは昔、遠きアラビアの地に、ウマイヤ朝という国がありました。ウマイヤ家の人々が作った、イスラムの国です。正確には、「国」という表現は正しくないのかもしれませんが、いまこの物語では、難しいお話はやめましょう。ですが、一つだけ。イスラムの世界では、王さまという表現は使いません。カリフという言葉を使います。カリフ。これは代理人という意味だと思ってください。カリフとは、イスラムの偉大な預言者、マホメットの代理人なのですが、実質的には、イスラム世界を治める王さまなのです。

 さあ、お話を進めましょう。

 ウマイヤ家は砂漠の民。都市の喧騒より、砂漠の寂寞を愛する人々。そして、古代からのアラビア人らしく、詩を愛し、酒を楽しみ、美人をめで、また、馬や鷹を好みました。儀式などでの衣装はもちろん、ふだんから白衣を好み、旗も白。ウマイヤ家の人々は、とても気さくで、偉大なカリフであろうとも、街へ出て、市民と直接交流を持つことを好みました。ときには、護衛さえ付けず、一人で街を歩いたそうです。露天で野菜を売っているオジサンも、果物を売っているオバサンも、道端で遊ぶ子供も、偉大なカリフとお話ができたのです。ウマイヤ朝時代のイスラム世界は、白衣と白旗がアラビアの太陽に照り映えて、どこか陽気で、明るい雰囲気が国中に漂っていました。

 そんな、ウマイヤ家の初代カリフ、ムアーウィアから数えること十代目のカリフは、ヒシャームと申しました。彼には、アブドル・ラフマーンという孫がおりました。金髪の巻き毛が愛らしい、それはそれは美しい少年でした。彼こそが、これからお話しする物語の主人公。ラフマーンも、ウマイヤ家の血を受け継ぎ、明るくおおらかな性格の青年へと成長していきました。

 ところが……ラフマーンが、二十歳になるころ。ウマイヤ朝は、アッバース朝に滅ぼされてしまったのです。

 アッバース家。彼らは、イスラムの創始者マホメットの叔父、アッバースの末裔。アッバース家の人々は、百年以上前の戦いで、ウマイヤ家に破れました。その恨みを、ずっとずっと胸に秘め、ウマイヤ朝を倒す機をうかがっていたのです。

 アッバースの人たちは、黒衣を好みました。旗も黒。そして、ササン朝ペルシア時代のように厳格で、とても気難しい人たちでした。カリフが一人で街に出るなんてもってのほか。アッバース家のカリフは、宮殿の奥の部屋の、さらにカーテンで仕切られた向こう側にいるのです。

 ですから、アッバース朝は、どこか重苦しく、暗い影がつきまといます。そもそも、新王朝の門出から、アッバース家の行いは血なまぐさいものでした。彼らは、ウマイヤ家に対して、冷酷な迫害と虐殺を、容赦なく行ったのです。ウマイヤ家の人々は、草の根を分けて探し出され、そして殺されました。シリアでも、イラクでも、メディナや聖市メッカでもさえも……女も子供も、容赦なく殺されました。とくに、ラフマーンの祖父ヒシャームは、アッバース家に恨まれていたので、孫の一人は、手足を切り取られ、息を引き取るまで、町中をロバで引き回されました。

 いえ……それは生きている者たちだけではなかったのです。死者もまた、墓を暴かれ、骨を鞭打たれたのです。もちろんヒシャームも墓を暴かれ、遺骸を十字架にはりつけられ、鞭を打たれ、焼いて灰にされて、風に吹きさらされました。
 ウマイヤ家の血を引くものは、たとえ赤ん坊であっても、その血の一滴たりともこの世から消し去る。それがアッバース家のやり方だったのです。

 そして、ついにウマイヤ家の生き残りたちが地下に潜り、姿を現さなくなったころ。新王朝のカリフ、アブール・アッバースは、もはやアッバース家は、ウマイヤ家への恨みは晴らしたので、生き残った人々と和睦したいと宣言しました。

 やっと虐殺が終わった。と安心したウマイヤ家の人々は、アブール・アッバースの用意した宴会へと出かけました。そこで彼らは酒をふるまわれたのですが、宴もたけなわになったころ、隠れていた兵士たちが、こん棒を持って突然乱入し、ウマイヤ家の人々をひとり残らず撲殺したのです。虐殺が終わると、死んだ人たちの上に革の敷物をうちかけ、その上に座って宴会を続けたのだそうです。敷物の下からは、まだ息のある者のうめき声が聞こえてくる。彼らはその声を伴奏にしつつ、全員が死に絶えるまで、酒を酌み交わし続けたそうです。

 しかし。ラフマーンは、アッバース家の言葉を信じることができず、宴会には出ませんでした。十三歳だった弟をつれて逃げたのです。彼は最初、遊牧民の中に姿を隠したのですが、不幸にしてラフマーンは、十代目のカリフ、ヒシャームの孫なのです。その血筋は血統書付き。正真正銘の公子です。ウマイヤ家の血を濃く受け継いでいるだけでなく、とびきりのハンサムなのですから、目立たないわけがありません。ほどなく見つかってしまい、こんどはユーフラテス河の岸に近い寒村へと逃げ延びました。

 そんなある日。子供がおびえて泣きながらラフマーンの隠れ家に逃げ込んできました。外を見ると、そこにはアッバースの黒旗がはためいているではありませんか。ラフマーンは、弟をつれ、河畔の森をくぐってべつの村へと逃げました。このときラフマーンは、彼を慕ってついてきた女子供を助けることができませんでした。弟を連れ出すのが精一杯だったのです。ところが、逃げ延びた先の村でも、密告されてしまったのです。

 ラフマーンは、馬のひづめの音を聞きつけ、アッバース家に見つかったとさとり、近くの林に隠れましたが、そこもついに包囲されてしまいました。

 万策つきたラフマーンは、ユーフラテス河を泳いで逃れるしかありませんでした。ですが、ユーフラテスは世界でも有数の大河。どれだけ川幅があることでしょう。それでもラフマーンは、弟とともに河に入りました。対岸ではアッバースの兵士たちが、「戻ってこい。命だけは助けてやる」と叫んでいます。ラフマーンは、敵のそんな言葉を信じるわけはありません。ところが、弟の方は、川幅にひるんで、引き返してしまったのです。

 ラフマーンが、やっとの思いで対岸に泳ぎ着き振り返ると、弟がいないことに気づきました。懸命に呼んでも返事がありません。弟は、敵に捕まっていました。そしてラフマーンは見たのです。首をかき斬られる弟の血しぶきを……

 ついにラフマーンは、天涯孤独の身となりました。一族すべてを殺されました。弟は目の前で。それでもラフマーンはくじけませんでした。必ずやウマイヤ朝を再興する。その想いだけが、彼の傷つき疲れ果てた身体を突き動かしていました。

 なんとか、パレスチナの地まで逃れていったとき。ラフマーンにかすかな希望が訪れました。忠僕だったバドルと、妹の開放奴隷であったサーリムとめぐり合ったのです。彼らはふたりして、こっそり金貨や宝石などを持ち出し、ラフマーンを慕ってあとを追ってきたのです。感動の再会でした。

 ですが……ウマイヤ朝の正当なる後継者、アブドル・ラフマーンを、アッバースが見逃すはずはありません。ラフマーンは地の果てまでも追われる身なのです。

 さあ、みなさん。今宵は、ラフマーンが、バドルたちと再会したあとからのお話を、ほんの少しばかりいたしましょう……


 1


「くそっ」
 バドルは、夜の闇の中を駆け抜けながら、舌打ちをした。
「あの悪魔どもめ。なんてしつこいんだ」
 パレスチナで再会した彼らを待っていたのは、安息でも安堵でもなかったのだ。アッバース家の出した威令は、故郷から遠く離れたパレスチナにも轟いていた。
「バドル」
 ラフマーンは、彼に従う忠僕に声をかけた。
「このまま三人で逃げるのは目立ちすぎる。いったん分かれよう」
「わかりました。どこで落ち合いますか」
「街外れの泉で。おまえは、森に入れ。サーリムは、川を下るんだ」
「殿下は?」
「ぼくは街に戻る」
「なんですって!」
 バドルは、驚きの声を上げた。
「殿下。まさか一人で追手を引きつけるつもりじゃないでしょうね?」
「そんな無謀なことはしない」
「しかし……」
「信じろ。木を隠すなら森の中、人を隠すのなら街が一番いいんだ。われわれの中で、一番目立つぼくが、街に入るのがいい。全員が助かるためだ」
「本当ですか?」
「くどいぞバドル」
「ですが……」
 ラフマーンの性格よく知るバドルは、懇願するように言った。
「殿下。お願いです。生き抜いてください。なにがあっても、あなただけは、死んじゃぁいけねえ。立ち止まっちゃいけません。振り返ってもいけない。走り続けてください。オレたちを踏み台にしてでもです」
「それ以上いうな。死んではならないのは、おまえたちも同じだ。ウマイヤを再興したとき、ぼくの右腕と左腕に、おまえたちがいなければ意味がない」
「しかし殿下……」
 バドルは迷った。ラフマーンに従うべきか否か。だが、ラフマーンを知るがゆえに、説得が無駄なことも知っていた。そしてなにより、だれよりも聡明で、だれよりも強いことを知っていた。殿下は、こんなところで無駄死にする人じゃねえ。バドルは、自分にそう言い聞かせた。
「わかりました。オレは、殿下を信じます」
「よし。ここで分かれよう」
「はい。お気をつけて!」
 バドルは、向きを変えて、森の中に紛れ込んだ。
 だが、サーリムは、おびえた表情を浮かべていた。
「サーリム」
 ラフマーンは、サーリムを安心させようと、努めて落ち着いた声で言った。
「大丈夫だ。川を下ればやつらも気づかない。さあ、行くんだ」
「あ、はい……殿下。どうかご無事で」
 サーリムは、ラフマーンに促されて、あわてて川に向かった。
 ラフマーンは立ち止まった。忠僕たちの気配が消えると、ひとつ大きく息を吸い込んで振り返り、来た道をゆっくりと引き返し始めた。
 足音。アッバースの兵士たちだ。
「いたぞ! ラフマーンだ!」
 兵士の一人が叫んだ。
 ラフマーンは、静かに剣を抜いた。
「バドル。すまん。ぼくはおまえに嘘をついた」
 ここでアッバースをくい止めなければ、バドルたちが逃げ延びることができない。
 ラフマーンは、アッバースの兵士たちを見た。二十人……いや、三十人はいる。
 突破できるか……
 さしものラフマーンも、ごくりとつばを飲みこんだ。
 いや。やらねばならない。ここで死ぬわけにはいかない。自分も。そしてバドルたちも。
「アッラーよ! われにご加護を!」
 ラフマーンは、漆黒の闇に包まれた天に向かって叫ぶと、アッバースの兵士たちの間に飛び込んだ。


 2


 その夜。
 ハディージャは、スーク(市場)の近くの街角で、占いの店を出していた。店といっても、スークから拾ってきた木箱の上に、小さな水晶の玉を置いただけのものだ。
「ちょっとあんた」
 黒いベールをかぶった女が、ハディージャに声をかけた。
「ここで商売をするとはいい度胸じゃない。だれの許しをもらってるんだい?」
 ハディージャは、見つめていた水晶玉から顔を上げた。彼女も黒いベールをゆるくかぶっていたが、金色の髪を完全に隠すことはできなかった。
「占い師に許可証があるなんて聞いたことないわ」
 ハディージャは、挑発的な声で言った。
「ふん。よそ者が偉そうに。ムハンマドに言いつけるわ」
「ムハンマド?」
「そうよ。ここら辺りを仕切ってる男よ。強いんだから」
「はいはい、わかったわよ」
 ハディージャは、水晶を革袋にしまった。
「場所を変えればいいんでしょ、変えれば」
「バーカ。どこいったって同じさ。よそ者が生きていける街じゃないよ。さっさと出て行きな」
「それでも生きてきたわ。ご忠告ありがとう、オバサン」
「オバサンですって!」
 オバサンと呼ばれた女は、ハディージャにつかみかかった。
「おっと!」
 ハディージャは、軽い身のこなしで女から逃げた。
「無理しちゃダメよオバサン。腰が痛くなってもしらないから。じゃあね!」
「きーっ! 覚えてらっしゃい!」
 ハディージャは、女の金切り声を聞きながら、スークに向かった。日が落ちてずいぶんたつが、スークには大勢の人々が集まっていた。このあたりは、まだアッバース朝の威光もそれほど強くない。ウマイヤ朝の市政の影響が残っている。人々は、酒を酌み交わし、陽気に騒いでいた。
「ったく」
 ハディージャは、ぶつぶつ言いながら歩いていた。
「なによ、みんなして、よそ者よそ者ってバカにして。アラビア人だって、もともとはよそ者じゃないのさ」
 ハディージャは、ベルベル族だった。人種は大きく分けて、モンゴロイド(黄色)、ネグロイド(黒色)、コーカソイド(白色)の三つに区分できる。ベルベル族はコーカソイド系の人種だった。金髪で、青い瞳を持っている者が多い。とはいえその肌は褐色で、同じコーカソイドでも、ゲルマンやケルトとは明らかに違う。そして、アラブ族ともアーリア人とも違うのだ。ベルベル族の歴史はあまりにも古く、彼らがどこから来たのか、ハッキリしたことはわからない。
 ドン。
 うつむきながら歩いていたハディージャは、背の高い男にぶつかった。
「きゃっ」
 ハディージャは顔を上げた。
「ちょっと。どこ見て歩いてる――」
 ハディージャは、自分のことを棚に上げて、その男に文句を言いかけ、口をつぐんだ。
 ラフマーンだった。ラフマーンは、ターバンで金色の髪を隠し、鼻から下の顔は薄いベールで覆っていた。瞳だけが見える。
 ハディージャは、一瞬、その瞳に燃えるような力強さを感じて、息をのんだ。だが、つぎの瞬間には、その瞳から輝きが消え失せ、どこにでもいる凡庸な若者の目になった。
 な、なによこいつ。変なの……
 ハディージャが、心の中でそう思ったとき、ラフマーンが低い声で言った。
「ベルベル族か。こんなところに珍しい」
「ふ、ふん……よそ者で悪かったね」
 ハディージャは、口癖のように応えはしたが、関わり合いにならない方が身のためだと思い、軽く肩をすくめて、ラフマーンをよけた。
 そのとき。スークの方向から黒ずくめの集団が歩いてくるのが見えた。
「ちっ。アッバースの兵士だ。まったく今日はついてないわね」
 ハディージャは、舌打ちした。ウマイヤ家の時代はよかった。国中が寛容だった。カリフがアッバース家になってから、暮らしにくくてしかたがない。人々の心が徐々にすさんでいくような気がしてならなかった。彼女が、いまこうしてパレスチナにいるのも、アッバースの影響の少ない街へと逃れたかったからだ。
 ラフマーンは、後ろをふり返らず、すっとハディージャの背中に回った。
「ちょ、ちょっと、なによあんた」
「すまん。追われている」
「え? アッバースに? マジ? 面倒はごめんだよ」
「迷惑はかけない。アッバースの兵士に男を見かけたかと聞かれたら、街の外れに逃げたと答えてくれればいい」
 そういって、ラフマーンは、路地の暗がりに身を潜めた。
「ちょ、ちょっと! どーしてあたしが――」
 ハディージャは、ラフマーンに文句を言いかけて、あわてて口をつぐんだ。アッバースの兵士たちが歩いてくる。
「そこの女」
 アッバースのひとりが、ハディージャに言った。
「いまここに、背の高い男が通らなかったか?」
 ハディージャは、ごくりとつばを飲みこんでから答えた。
「ああ、見たよ」
 ラフマーンは、息をひそめながら、最悪の場合を考えて剣に手をかけた。
 ところが。ハディージャは、めんどくさそうな口調で答えた。
「さっき、あわてた様子で、街の外れに走っていったよ」
「そうか。わかった。おい。やつは街外れに出たそうだ。行くぞ」
 アッバースの兵士たちは、街の外れに駆けていった。
 ハディージャは、彼らの姿が見えなくなってから、路地裏を振り返った。
「いったよ」
「すまない。助かった」
「ふん。べつに助けたくて助けたわけじゃない。あたしは、アッバースの連中が嫌いなだけさ」
「ぼくもだよ」
 ラフマーンは苦笑した。そうとも。ぼくほどアッバースを嫌っている人間もほかにはいないだろう。
「ねえ、あんた。いったい、なにをやらかしたんだい?」
「なにも。ただ、あいつらの言いなりにならなかっただけさ」
「あはは。ずいぶん、偉そうな口を利くじゃないか。男なんか、みんな情けないもんさ。あいつらの言いなりにならなかったのは、アブドル・ラフマーンぐらいのものだね」
「ラフマーンを知っているのか」
「当たり前だろ。子供だって知ってるよ」
「やれやれだな」
 ラフマーンは肩をすくめた。この土地も安住にはほど遠い。どこかに身を隠せても、いつか密告されるだろう。
「なんにせよ助かった。礼を言う」
「礼? それだけかい?」
「ああ。そうだな」
 ラフマーンは苦笑すると、腰のベルトに巻き付けてあった革袋から、銀貨を一枚取り出した。
「わぉ。銀貨だ。久しぶりに見た。あんたどこの金持ちの坊ちゃんなんだい?」
「さあね」
 ラフマーンは苦笑した。少し前まで、この世でもっとも金持ちのお坊ちゃんだったのは事実なのだ。
「じゃあな。女一人で、夜遅くまで出歩かない方がいいぞ」
 ラフマーンは、ハディージャにそう言うと、スークに紛れこんでいった。
 ハディージャは、楽して銀貨を一枚儲けたので、今夜はついてないどころか、幸運だったなと思ったが、ラフマーン立っていた場所にふと目をとめて、息をのんだ。
 血だ……
 そこには、血が数滴、したたっていた。
「あいつ、怪我してたんだ……大丈夫かな?」
 ハディージャは、首を振った。
「ふ、ふん。あたしには関係ないさ」
 だが、突然降って湧いた心の動揺が、どんどん膨らんでいった。
 まさか……あの人……ラフマーン?
「いいえ、そんなバカな」
 ハディージャは、もう一度、激しく首を振った。
 でも、もしそうだったら……
 ダメよ! なにを考えてるのハディージャ。もし、もしも、あの人がラフマーンだとしても、あたしは関係ない。関わったら死んじゃう。
 その理性の声とは反対に、ハディージャは、ラフマーンを追っていた。自分でもどうしてかわからない。なにかに操られるがごとく、身体が勝手に動いているような感覚だった。
 ハディージャは、スークの石だたみを走った。
 いない? どうして? さっき分かれたばかりなのに。どこ? どこにいるの?
 ハディージャは、いつの間にか、懸命になってラフマーンを探していた。怪我をしているのに。きっとアッバースの兵士と戦ったんだわ。早く手当をしなくっちゃ。
 ハディージャは、スークの人込みの中で立ち止まり、あたりを見回した。
 いた!
 ハディージャの目に、路地裏に入っていく男の姿が映った。ハディージャは、あわてて走った。この路地だわ。間違いない。
 ラフマーンはいた。石の上に座り込み、うつむき加減で右腕を押さえていた。
 傷が痛いのだわ! ハディージャは、ラフマーンの前に立った。
「あ、あの!」
 と、息の弾んだ声をかけたが、そのあとが出てこなかった。彼を見て、もはやラフマーン以外の何者でもないと直感したのだ。ラフマーンが、ウマイヤ家の公子が、いま、自分の目の前にいる。そう思っただけで、足が震えてきた。
「どうした」
 ラフマーンは顔を上げた。
「銀貨一枚では足りなかったか」
「ち、違う! あ、あの、これ、お返しします!」
 ハディージャは、さっきもらった銀貨をラフマーンに突き返した。
「どうして? それはきみにあげたものだ。遠慮はいらない」
「で、でも、でも……」
 ハディージャは、そこまで言って、一回深呼吸をした。そして、腰を落として、ラフマーンと同じ目線になってから、だれかに聞かれないよう声を落として言った。
「ラフマーンさまから、お金はいただけません」
「おいおい」
 ラフマーンは苦笑した。
「ぼくは、そんなご大層な人物じゃない」
「でも、あの……怪我の手当をしなければ」
「大丈夫だ」
「大丈夫なものですか!」
 ハディージャは、思わず声を荒らげてしまい、あわてて、また声を落とした。
「お願いです。傷を見せてください」
「きみは医者か?」
「いいえ。でも、ちょっとした傷の手当ぐらいできます。そうだわ。あたしのうちに来てください。薬草もあります」
「断る」
「信じてください。あたしアッバースに密告なんかしません」
「わかってる。きみはそういうタイプじゃない」
「じゃあ、なぜ?」
「巻き込みたくないんだ。いや……ぼくはラフマーンではないが」
「だったらいいじゃないですか。あたしはただ、怪我をしている人をほっておけなかった。それだけ。お願いだから、言うことを聞いてください」
「どうして、そんなにムキになるんだ」
「アッバースが嫌いだから」
 ハディージャは、真剣な顔で答えた。
「母はアッバースに殺された」
「ウマイヤと関係があったのか?」
「あたしがまだ子供のころ、父はメディナで傭兵をやってました。ヒシャームさまの治世のときです。ヒシャームさまが亡くなられたあとのゴタゴダで、ワリードさまの一派と戦って命を落としました」
 ラフマーンの祖父、ヒシャームのあとのカリフを決めるとき、ウマイヤ家の中で内紛があったのだ。
「母には占い師の才能があったので、父が死んだあとも食べるのには困りませんでした。でも、その母も、ウマイヤのために働いたと言う理由で……それからあたしは、母から教わった占いを糧に、アッバースのいない街を転々として暮らしています」
「そうか。苦労をしたな」
 ラフマーンは、優しげな瞳でハディージャに声をかけた。
「だが、そんな経験をしているなら、ぼくに関わるのがどれほど危険かわかるだろう。きみはなにも見なかった。それが一番いい。ぼくのことは忘れてくれ」
「ええ。正直言って怖い」
 ハディージャは、ラフマーンを見つめた。少し灰色がかった瞳。吸い込まれそうに美しい色だった。さっき一瞬感じた、燃えるような強さが、その美しい瞳に宿っていた。
「でも、忘れるのも無理。絶対に無理です。あなたに死んでほしくない。もう立っているのも辛いのでしょう? 夜半になれば、凍えるほど寒くなります。こんなところで死ぬつもりですか?」
「まったく、バドルといい、どうしてこの世にはお節介が多いのか」
「バドルって?」
「なんでもない」
 彼女の言う通りだ。ここでうずくまっていても、夜の冷気にやられる。気は進まないが、いまは人の情けにすがるしかないようだった。
 ラフマーンは立ち上がった。とたん。右腕に痛みが走った。ラフマーンは、声を出さずに顔をゆがめた。
 ハディージャは、思わず息をのんだ。布で隠しているが、よく見れば右腕にどす黒い血がにじんでいる。
「ああ……大丈夫ですか、ラフマーンさま」
「ラフマーンではないと言ったろ」
「では、なんとお呼びすれば?」
「そうだな。ハーシムとでも呼んでくれ」
「いやだ。それアッバースの先祖の名だわ。いえ、名前です」
「だから、いいじゃないか」
 ラフマーンは苦笑した。
「そうね。いえ、そうですね」
「普通に話してくれ。ぼくに気をつかってくれるつもりがあるのなら」
「え、ええ」
 ハディージャは、スークの人込みを見てからうなずいた。下手に敬語など使えば、怪しまれてしまう。
「それがいいみたい。さあ、ハーシム。こっちよ」
「すまない。世話になる」
「いいのよ」
 ハディージャは、自分と並んで歩くラフマーンを見て驚いた。人込みに出たとたん、痛みに耐えていた瞳から苦痛の色が消え、穏やかなまなざしに変わったのだ。さっき、少し感じた人を吸い込むような強さもない。かなり痛むはずの右腕をかばっている様子さえなかった。
 すごい人だ……ハディージャは、素直に感心した。こんな人だから、アッバースから逃れることができたのだ。
「そういえば」
 ラフマーンがふいに言った。
「名を聞いていなかったな」
「あたしは、ハディージャ」
「アラブ風だな」
「ええ。生まれはメディナですもの。ベルベル族として育ったわけじゃないわ」
「そうか。そうだったな」
「ウマイヤの時代はよかったわ」
 ハディージャは肩をすくめた。
「アッバースの世になって、住みにくいったらない」
「ああ。ぼくもだ」
「あははは! そうでしょうね!」
 ハディージャは、思わず声を上げて笑ってしまった。
「あ……ご、ごめんなさい」
「なぜ謝る。笑わせるために言ったんだよ」
「そうなの?」
「そうさ。冗談は嫌いかい?」
「いいえ。大好きよ」
「それはよかった」
 ラフマーンはほほ笑んだ。
「あ、ここよ」
 ハディージャは、スークの外れにある、パン屋の前で止まった。
「この家の裏の納屋を借りてるの。狭いけど、寒さはしのげるわ」
「よく借りられたな」
「このパン屋、三日前に引っ越していったのよ。いまは無人」
「つまり、勝手に借りてるわけか」
「まあね」
 ハディージャは、そう言って笑うと、隣の家との間をぬって納屋に行き、ドアを開けた。
「さあ、どうぞ」
「ありがとう」
 ラフマーンは、ハディージャの部屋に入った。たしかに狭かった。荷物はほとんどなく、街を転々としているという言葉に真実味が感じられた。
「さあ、急がなくっちゃ」
 ハディージャは、ランプに火をつけると、小さな戸棚から、薬草の入ったツボをいくつか出した。
「いろいろ揃えているんだな」
 ラフマーンは、床に腰を下ろした。
「そうよ――いえ、そうです。病気になったって、だれも助けてくれませんから」
「ハディージャ。どうか普通に話してくれ。壁に耳ありだ」
「え、ええ。そうね。わかったわ」
 ハディージャは、薬ツボを持って振り返った。
「さあ、服を脱いで」
「ああ」
 ラフマーンは、まず顔を覆っていたベールをとり、頭に巻いていたターバンも解いた。
 ハディージャは、ラフマーンの顔を見て、目を丸くした。
「どうした?」
「髪の毛……金髪なの?」
「ああ。ぼくの母はベルベル族だ」
「ホント?」
「本当だとも。この髪の色が証拠だ」
「へえ……そうなんだ」
 ハディージャは、自分がベルベル族であることに、誇りを持っていなかった。アラブで生まれたのに、なぜアラブ族ではないのかと嘆いたことさえある。だが、ラフマーンに自分と同じ血が流れているのを知って、妙にうれしかった。
「それにしても、本当にハンサムだったんだね。噂では聞いてたけど、そんな噂、たいていウソなんだと思ってた」
「母に似たんだ。父がベルベル族の母を愛した理由が、今日やっとわかったよ」
「どういうこと?」
「ベルベル族には美人が多いらしい」
「あの……それって、あたしに対するお世辞?」
「そうかもね」
 ラフマーンは笑いながら、上着を脱いだ。さすがに痛みに耐えきれず、小さく、うっとうめき声をあげた。
「ひどいわね」
 ハディージャは、ラフマーンの腕の傷を見て言った。
「血は止まってるけど、縫わなきゃダメみたい」
「できるか?」
「うん」
 ハディージャは、針と糸を出した。そして、傷口に酒をかけて消毒した。
「つっ……」
 ラフマーンは、思わず顔をしかめた。
「がまんして」
 ハディージャは、ラフマーンの傷を縫った。
「アッバースと戦ったのね」
「致し方なくね」
 ラフマーンは痛みに耐えながら答えた。
「いったい何人と?」
「三十人はいたと思う」
「そんなに? すごいわね。三十人も倒しちゃうなんて」
「まさか。そんなに相手にできるわけがない。突破するのがやっとだった」
「でも、何人かは倒したんでしょ?」
「五人目からは数えてない」
 実際は十六人もの兵士を倒してきたのだった。
「五人でもたいしたものよ。ざまあみろよね」
 ハディージャは、傷を縫い終わった。
「できた。これでいいわ」
 ラフマーンはホッと息を吐いた。その額からは、さすがに脂汗がにじんでいた。
 ハディージャは、手際よく傷口に薬草を当てて布で巻いた。
「きみは医者になる才能があるな」
「冗談。占い師になるのがやっとよ。あ、服の代わりにこれ使って」
 ハディージャは、洗い立ての白いシーツを出した。
「汚れてた服は、あとで洗っておくわ」
「なにもかもすまない」
 ラフマーンは、シーツを身体に巻いた。
「すまないついでと言ってはなんだが、酒を一杯もらえないか」
「うん」
 ハディージャは、ラフマーンの傷を消毒した酒を、金属のカップに注いだ。
「はい。あんまり飲みすぎないでね。傷に響くから――ああ、いけない。食べるものがなんにもないわ。失敗した。買ってくればよかった。ちょっと待ってて、いまなにか買ってくるよ」
 ハディージャは、あわてて戸口に向かった。
「ハディージャ」
 ラフマーンが呼び止めた。
「なに?」
「ぼくのことを気にしてるなら、心配は無用だ」
「でも、お酒飲むのに、なにかあったほうがいいでしょ?」
「いらないよ。座ってくれ」
「でも……」
「本当に気にしなくていいから」
「そう……」
 ハディージャは、ラフマーンから、少し離れて座った。
 まいったな。どうしよう。間が持たないよ。ハディージャは、視線をさまよわせた。
「あ、あたしも少し飲もうかな」
「注ごうか?」
 ラフマーンが酒の入ったツボに手を伸ばした。
「え、いいよ! 自分で注ぐ」
 ハディージャは、あわてて、ツボを取ると、自分でカップに注いだ。
「ハディージャ」
 ラフマーンが名を呼んだ。
「な、なに?」
「きみは占い師だと言ったね」
「う、うん」
「ぼくの未来も見てはくれないか?」
「あなたの? じょ、冗談でしょ!」
「どうして?」
「だって……ダメだよ。荷が重すぎる。あたしには見れない」
「そうか。残念だな。ウマイヤ朝が再興されるのがいつか知りたかったんだが」
 ラフマーンは、そういって笑った。
「それ、本気なの?」
 ハディージャは、マジメな顔で聞き返した。
「もちろんだ。むかし、ウマイヤ朝が滅びると予言した占い師がいた。それは不幸にして当たったわけだが、その占い師は、こうも予言した。ウマイヤ家の生き残りが、必ずやウマイヤ朝を再興するだろうとね。ぼくは、自分がその生き残りだと信じている」
「そう……」
 ハディージャは、そういわれて、自分自身、興味が抑えきれなくなるのを感じた。この人なら、本当にできるかもしれない。そう思ったのだ。
「ちょっとだけ見てみようか」
「お、うれしいね。よろしくお願いします、ハディージャ先生」
「やめてよ」
 ハディージャは、苦笑しながら、腰に結んだ革袋から、小さな水晶球を出した。
「やはり水晶を使うのか」
「まあね。扉みたいなものさ。水晶自体に力があるわけじゃない」
 ハディージャは、水晶を両手で包み込むように持つと、その透明な球をのぞき込んだ。
「なんだろう……暗いよ。なにも見えない」
「死ぬのか?」
「違う。いいえ、人はいつか死ぬ。あなただって例外じゃない。でも、それはいますぐじゃない。それだけはわかる。それ以上は……あたしには見えない。なにか、霧のようなものに覆われてるだけ。こんなことははじめてだよ」
 ハディージャは、ふっと息をついた。
「ごめん。あたしじゃ力不足だ」
「いいんだ。すぐに死なないとわかっただけでも」
「だからって無茶をしたらダメだよ。占いで見た未来は、たくさんある枝道の一つにすぎない。自分の行いで、どうとでも変わっちゃうんだ」
「そういうものなのか」
「うん。人生は自分で切り開くものだって。母からの受け売りだけど」
「自分でか」
 ラフマーンは、ごろんと床に横になった。
「いまはまだ、夢に届かない。人生を切り開く仕事は明日から始めるとしよう。少し疲れたよ」
「だったら、布団で寝て」
「家主の布団を汚すわけにはいかない」
「バカ言わないでよ。怪我人なんだから」
「気にするな。夜半になったら起こしてくれ」
「夜半?」
「そうだ。朝日が昇らぬうちに失礼する」
「ちょ、ちょっと。それはいいけど、ホントに布団で寝てってば」
 だが、ラフマーンはすでに寝息をたて始めていた。
「もう~。しょうがないなあ」
 ハディージャは、自分の布団から毛布をとってラフマーンにかけた。
 あら……
 ハディージャは、ラフマーンの寝顔を見て、クスッと笑った。
「寝顔は王子さまなのね。かわいい」
 もしも、ウマイヤ朝が続いていれば、この人はなに不自由ない生活を送っていけただろうに。この寝顔のように、安らかな人生を約束されていたのに。いまは逃亡者。国中がこの人を狙っている。まわりには敵しかいない。
「ラフマーンさま……」
 ハディージャは、小声でラフマーンの名を呼んだ。
「あなたは、どこからでも見えるのでしょうね。輝きが強すぎるから。その爪を休めているときでさえ。せめて、今夜だけは安らかにお休みになって」
 ハディージャは、ラフマーンを見つめているうちに、トクントクンと、胸が高鳴るのを感じた。そして、吸いよせられるように、ラフマーンのほほに、軽く唇を当てた。
 きゃーっ! 王子さまにキスしちゃった!
 ハディージャは、顔を真っ赤にして、ラフマーンの汚れた服を持って立ち上がった。
「うふふ。役得役得。さあ、洗濯しておいてあげよう。でも、落ちるかなあ。こんなに血がついてて」
 ハディージャは、ラフマーンの服を持って外に出た。
 そのとき。突然、腕をつかまれた。
「きゃっ!」
 大男だった。
「ナルジャ。この女か」
 ハディージャの腕をつかんだ大男が言った。
「そう! こいつだよ!」
 答えた女は、さっきハディージャが、オバサンと呼んだ女だった。
「痛い! 離してよ!」
 ハディージャは、大男から逃れようともがいた。
 すると、大男はハディージャの顔をバチンと殴った。
「静かにしろ、女。もっと痛い目をみてえか?」
 ハディージャは、屈辱に唇をかみながらうつむいた。
「よしよし。わかったようだな。で、女。おまえ、オレのシャバで商売をしてたんだって?」
「してないよ」
「ウソおっしゃい!」
 女が叫んだ。
「ウソじゃないわ。商売をしようとしたら、あんたに追い出されたんだ。一ディーナールだって稼いじゃいない」
「だが稼ごうとはしたわけだ」
 と、大男。
「となると、シャバ代をもらわねえといけねえなあ」
「稼いでないんだから出しようがない。稼ぎの二割が相場でしょうに」
「うるせえよ。オレに無断で商売をしようとした罰金だ」
「わかったわよ。払えばいいんでしょ、払えば」
「よしよし。十五ディーナールで手を打とう」
「十五ディーナール! バカ言ってんじゃないよ。一月かかったって、そんなに稼げるもんか!」
「だったら、べつの方法で払ってもらってもいいんだぜ」
「べつの方法? な、なによそれ」
「おいおい。わかってるだろうに。ベルベル族の女は、商品価値が高いからな。アッバースの連中に売ればいい値がつく」
「じょ、冗談じゃない! だれがアッバースの奴隷なんかになるもんですか!」
「ったく、困った女だな。金はねえ、奴隷にはなりたくねえ。そんな道理が通じると思ってんのかよ」
「いやだ、離して! アッバースに売られるぐらいなら、死んだ方がマシよ!」
「うるせえって言ってんだよ!」
 大男は、本気でハディージャを殴った。
「うっ……」
「おっといけねえ。あんまり殴ると商品価値が下がっちまうな。さあ、来るんだ」
 大男は、ニヤリと笑って、ハディージャの腕を引っ張った。
「やめて、離して!」
「静かにしろと言ってるだろ!」
 そのとき。
「静かにするのはおまえのほうだ」
 戸口にラフマーンが立っていた。
 ハディージャは、戸口を見て、ラフマーンの名を叫びそうになった。その言葉を懸命に飲み込む。ラフマーンは、頭からすっぽりシーツを被り、顔はベールで隠していた。
「な、なんだてめえ」
 大男は、ラフマーンをにらんだ。
「この女の男か?」
 ラフマーンは、大男に答えず、手に持っていた金貨を一枚、親指で大男の方に弾き飛ばした。
「おっと!」
 大男は、金色に光るそれを空中でキャッチした。
「うおっ。金貨じゃねえか!」
「十五ディーナールに足りるだろう。女を離せ」
 ラフマーンは、低いくぐもった声で言った。
「待てよ」
 大男は、不敵に笑った。この女、どうやらどこかの金持ちをたらし込んだらしい。こいつはむしり取ってやらにゃあ。大男の顔にはそう書いてあった。
「おい、あんた」
 と大男。
「オレの出張料金が足りねえなぁ。まあ、今日のところは、出血大サービスで、金貨十枚で話をつけようじゃないか」
「典型的だな」
 ラフマーンは苦笑した。
「まったく、小悪党の典型だよ。でかい身体に小さな脳みそでは、悪事を働くのもこの程度が精一杯と言うところか」
「その一言で、金貨二十枚に跳ね上がっ――」
 大男は、そこまで言って言葉を切った。いつの間にか、自分の喉元に剣先があった。ラフマーンが剣を抜いたのだ。その動きがあまりにも早く、無駄のない動きだったので、大男はまったく気がつかなかったのだ。
「けだものめ」
 ラフマーンは、剣先をチクリと大男の喉元に当てて言った。
「このまま剣を突き刺せば、アッラーもさぞお喜びになるだろう。地獄の業火に焼かれるがいい」
「ま、ま、待てよ。おい、冗談だって、十五ディーナールでいい。ほら、女を返す」
 大男は、ハディージャを離した。
 ハディージャは、あわててラフマーンの背中に隠れた。
「行け」
 とラフマーン。
「金貨はくれてやる」
「わかった。わかったよ」
 大男は、じりじりとあとずさって剣先から逃れると、あたふたと大通りに出ていった。大男を連れてきた女は、ちらりとラフマーンを見てから、大男を追っていった。
 ハディージャは、ホッと息をついた。
「ごめん。あたしのせいで」
「謝るのはぼくの方だ」
 ラフマーンは、厳しい声で言うと、納屋の中に戻った。
「ホントにごめんよ。怒ってる?」
「ああ。怒っている。自分自身の思慮のなさに」
「え?」
 ハディージャは、ラフマーンの言っている意味がわからなかった。
 ラフマーンは、頭にターバンを巻き始めた。
「ハディージャ。ここを出るんだ。いますぐ」
「ど、どうして?」
「あの女。ぼくのことに気づいた。すぐアッバースに密告するだろう。小一時間もしないで、ここは取り囲まれる」
「う、うそ……」
「間違いない。感じた」
 ラフマーンがそういうのだから間違いない。ハディージャは、そう思った。でなければ、この人はとっくの昔にアッバースに捕らわれていただろう。ハディージャは、本当の意味でことの重大さに気がついた。
「ああ……なんてこと……あたし、とんでもないことしちゃった」
「違う。悪いのはぼくだ。きみはラフマーンをかくまった罪に問われる。重罪だ」
「あ、あたし、あたし……」
 そうだ。あたしも危ないんだ……ハディージャは、ごくりとつばを飲んだ。
「過去は変えられない。いまさら悔やんでも無意味だ。お互い、生き延びることだけ考えよう」
 ラフマーンは革袋に入ってる金貨を確認した。五十ディーナール入っていた。それを革袋ごとハディージャに渡した。
「ほら。持っていくといい。当座はこれで暮らせるだろう」
 ハディージャは、涙が出そうになった。
「どうしてあなたは、そんなに優しいの。悪いのはあたしなのに」
「人生は自分で切り開くものなのだろう?」
 ラフマーンは、ハディージャにほほ笑んだ。
「で、でも、あなただってお金は必要でしょう」
「金なんてどうとでもなる。ハディージャ。ぼくの服を」
「汚れているよ」
「そんなことに、かまってられない」
「う、うん」
 ハディージャは、抱きしめていたラフマーンの服を返した。
「さあ、早く。きみも逃げる準備をするんだ。街を出るまではぼくが護衛しよう」
「うん」
 ハディージャは、あわてて身の回りのものを袋に詰め込んだ。





「こっちよ」
 納屋を出たハディージャは、大通りとは逆の方へ向かった。
「街を出るには遠回りだけど、スークを通らない方がいいわ」
「賛成だ」
 ラフマーンは、ハディージャのあとに続いた。
「きみの方が土地勘がある。任せるよ」
「うん。あ、あの……」
「なんだ?」
 ハディージャは、喉元まで、一緒に連れていってと出かかり、その言葉を飲み込んだ。自分がラフマーンについていっても、足手まといになるだけだ。
「ううん。なんでもないの」
 ハディージャは、首を振った。
 そのとき。後ろの方から、男たちの声が聞こえてきた。
「来たぞ」
 と、ラフマーン。
 早くもハディージャのいた納屋が取り囲まれたらしかった。やはりラフマーンの直感は正しかったのだ。
 ハディージャは走った。もう自分の命などどうでもよかった。ラフマーンを逃がさなければ。それだけが頭にあった。
 ところが。ハディージャの願いは、アッラーに届かなかった。民家の密集地を抜けたところで、さっきの大男と、その仲間たちが待ち伏せをしていたのだ。
「やっぱり、こっちを通りやがったか」
 大男がニヤリと笑った。
「そ、そんな!」
 ハディージャは、自分の判断の甘さを呪った。
「ラ、ラフマーン……ごめんなさい」
「気にするな」
 ラフマーンは、落ち着いた声で言った。
「相手が一枚上手だった。それだけのことだ」
「でも……」
「ハディージャ。悲観するのは、死んでからにしてくれ。ぼくらはまだ死なない」
 ラフマーンは剣を抜いた。
 相手は七人。しかも、剣の訓練も受けていないチンピラばかりだ。
「おまえ」
 ラフマーンは大男に言った。
「あのまま家に帰っていれば、死に急ぐこともなかったろうに」
「ふん」
 大男は、口元をゆがませた。
「いつまで、そんな威勢のいいことを言っていられるかな?」
「それは、こちらのセリフだ」
 ラフマーンは、もはや必要がないと言わんばかりに、顔を隠していたベールと、ターバンさえ脱ぎ捨てた。ブロンドの髪が、夜の闇でさえ輝いて見えた。
「野郎ども、やっちまえ!」
 それが合図だったかのように、大男が叫んだ。
 つぎの瞬間。一人の男が首から血しぶきをあげて死んでいた。ラフマーンが風のように飛び出し、一番近場の男から片づけたのだ。
「うっ、うわあ!」
 死んだ男のとなりにいた男は、突然の出来事に驚きの声を上げた。まだ剣を抜いてさえいなかった。そして、剣に手をかけようとしたとき、自分の腹からも、血が吹き出しているのを知った。
 ラフマーンは、二人の男を斬ったあと、くるりと向きを変え、やっと剣を抜いた男の腕を切り落とした。そして、剣を空中で左手に持ち替え、自分を後ろから切りつけようとする男を気配だけ切り崩した。
 ラフマーンは想像を絶するほど強かった。もともと剣の才能に恵まれていただけでなく、物心つくころから、一流の剣士に剣技をたたき込まれてきたのだ。彼が十六になるころには、ラフマーンに剣を教えることのできる剣士はいなかった。
 強くあれ。それが祖父ヒシャームがラフマーンに望んだことだった。ヒシャームは、自分の息子を、つまりラフマーンの父を甘やかして育ててしまった苦い経験があった。ラフマーンの父は、みなから、カリフの器ではないと見なされていた。実際、ラフマーンの父は、プレイボーイ以外の何者にもなれなかった。ヒシャームは息子をカリフにすることができず、彼の亡くなったあと、ウマイヤ家の中で内紛が起こったのだった。
「や、やべえ! 強すぎる!」
 四人もの仲間をあっと言う間に倒されて、残った男たちは狂ったように剣を振り回した。ラフマーンにとっては、子供の遊びにつきあっているようなものだった。
 だが。そこに油断があった。
「きゃーっ!」
 ハディージャが、リーダー格の大男に捕らえられた。
「ハディージャ!」
 ラフマーンは、視界の隅でハディージャの姿を捕らえていたが、すぐに助けるわけにはいかなかった。狂ったように剣を振り回す男たちが行く手を阻む。
 まったくバカに刃物を持たせるとタチが悪い。ラフマーンは、地面をけって、砂を男の顔にかけた。
「うっぷ! 卑怯だぞ!」
 殺し合いに卑怯もくそもない。ラフマーンは名より実を取らねばならないのだ。砂で目をつぶした男の首を切り、べつの男は胴に飛び込んで腹に剣を突きたてた。
 六人を倒し、ラフマーンはハディージャを捕らえた男に向き直った。
「そこまでだラフマーン!」
 大男は、ハディージャの首筋に短剣を当てて叫んだ。
「女が死ぬぞ!」
「くそっ」
 ラフマーンは舌打ちした。
「まったく、おまえたち悪党のやることは創造性がないな」
「なんとでも言いやがれ。剣を捨てろ」
「断る」
「なんだと? 女が死ぬぞ」
 ラフマーンは、剣を大男に向けた。
「名を聞いておこう」
「なんだと?」
「おまえの名だ」
「ム、ムハンマドだ」
 大男は、思わず答えた。
「ムハンマド」
 ラフマーンは低い声で言った。
「ハディージャが死んだとき、おまえの命もない。痛みも感じずに死ねると思うなよ。おまえはとくに念入りに殺してやる。その薄汚い目玉をくり抜かれる痛みを想像するといい」
 ラフマーンは、一歩ムハンマドに近づいた。
「ひっ……」
 ムハンマドは、ラフマーンのあまりの眼光の鋭さに足が震えた。
「さあ、どうする。ハディージャを離せば命だけは助けてやる」
 そのとき。ハディージャが、さらに追い打ちをかけた。
「ラフマーン。あたしはいいから、こいつを殺して。生まれてきたことを後悔するほどむごい死を与えて」
「バカ野郎、黙れ!」
 ムハンマドは、ハディージャに叫んだ。
「バカはどっちよ!」
 ハディージャも負けずに叫んだ。
「あんたたち、アッバースと関係ないじゃない! なんで彼を狙うのよ!」
「ヤツにどんだけの賞金がかかってると思ってるんだ。ラフマーンの首を持っていきゃあ、一生遊んで暮らせる金が手に入るんだ」
「そんな理由で……」
 ハディージャの声が震えた。
「おまえのことをアッラーは絶対にお許しにならない。呪われて死ぬがいい!」
「もういい、ハディージャ」
 ラフマーンが言った。これ以上、時間を引き延ばすのはマズイ。騒ぎが大きくなっている。アッバースの兵士たちのもとにも、すでに自分の居場所が伝わっているだろう。
「さあムハンマド。地獄の業火に焼かれるか、明日も生きて朝日を拝むか。どちらかに決めろ」
 そのとき。幸運はムハンマドに訪れた。
「こっちだ! いたぞ! ラフマーンだ!」
 アッバースの兵士たちが、スークの方から集まってきたのだ。
「逃げて!」
 ハディージャは、喉が焼き切れるほどの声で叫んだ。
「逃げて、ラフマーン!」
 ラフマーンは、ちらりと後ろをふり返った。まだ退路があった。いまなら逃げきれる。
 だが……
 ラフマーンは逃げなかった。数カ月前。ユーフラテスの河畔の街に潜んでいた彼は、アッバースの急襲にあった。そのとき、彼を慕い、一緒についてきた女子供を、置き去り同然にして逃げたのだ。そうするしかなかった。だが……そのあまりにも苦い思いは、ラフマーンの心に楔のように打ち込まれていた。
 もうだれも死なせたくない……
 ラフマーンは、アッバースの兵士たちに取り囲まれた。
「うへへへ。形成逆転だな、王子さまよぉ」
 ムハンマドの態度が、急にでかくなった。
「女をかばって死ぬとはバカなやつだ。うははははは!」
「やめろ」
 と、アッバースの兵士の中から、ひときわ立派な鎧を着た、壮年の男が出てきた。
「ラフマーン殿は、ウマイヤ家の公子だぞ。礼儀をわきまえろ」
「へ?」
 ムハンマドは、その兵士に首をかしげた。
「でもよぉ、こいつは、あんたらの敵だろ」
「そうだ。ラフマーン殿ほど敵として立派な方はいない。礼儀を示さねば、アッバースの名折れだ」
「けっ。どうでもいいや。オレは金さえもらえればそれでいい」
「ゲスめ」
 アッバースの兵士はムハンマドを見下げると、ラフマーンに向き直った。
「ラフマーン殿。わが名は、イブラヒーム。アッバースの協力者が無礼を働いたこと。お許し願いたい」
「そう思うなら、女を離せ」
「よかろう」
 イブラヒームは、ムハンマドを冷たい目で見ながら言った。
「女を離せ」
「勝手にしやがれ」
 ムハンマドは、ハディージャを離した。
「ラフマーン!」
 ハディージャは、ラフマーンに駆け寄り、彼の腕を抱いた。
「あんたバカよ! なんで、逃げなかったのよ!」
「ぼくは……」
 ラフマーンは、眉間にしわを寄せ、苦渋に満ちた顔で言った。
「一族をすべて殺された。父も母も妹も。一緒に逃げた弟は目の前で殺された。もうたくさんだ。だれも失いたくない」
「でもでも……あんたが死んじゃったら、だれがウマイヤ朝を再興するのさ」
「死にはしないさ。ハディージャ。二度とぼくから離れるなよ。少々荒っぽくいくぞ」
「まさか、突破するつもり?」
「そのまさかだ」
 ハディージャは、ラフマーンの瞳を見つめた。彼の瞳から輝きは消えていなかった。死ぬ気じゃない。この人は、まだ諦めてはいないんだ。
「はい」
 ハディージャは、その瞳に吸い込まれるように答えた。
「あなたを信じます」
「最後のお話はお済みか」
 イブラヒームが言った。
「貴殿に恨みはないが、その首を頂戴いたす」
「ご期待には添いかねる」
 ラフマーンは、剣先をイブラヒームに向けると、ハディージャをかばうように背中に回した。
「わが道に立ちふさがるなら、おまえたちこそ、その命はないと思え」
 そのとき。一陣の風が吹き、ラフマーンの黄金の巻き毛が風に舞った。その姿は、まるでライオンのようだった。
 百獣の王。
 ハディージャは、ゾクッと鳥肌がたった。敵をにらむラフマーンの精悍な顔は、まさに王者のそれだった。恐ろしいほど美しい。
 そう感じたのは、ハディージャだけではなかった。いや、ハディージャ以上に、アッバースの兵士たちの方がラフマーンに畏敬の念を感じたようだった。それが証拠に、彼らは額から冷や汗を出して、二、三歩、あとずさった。
 だが、その中の、まだ分別を知らぬ若い兵士が、仲間を押し退けて前に躍り出ると、ラフマーンに斬りかかった。
 ラフマーンは、軽い身のこなしで兵士の一撃をよけると同時に、剣を兵士の脇腹に突きたてていた。
 兵士は、あまりにも一瞬のことで、自分が斬られたことがわからず、剣を構え直そうとした。だが、つぎの瞬間、げほっと、口から鮮血を吐いて絶命した。
「なぜ」
 と、ラフマーンは、苦い顔で若い兵士の遺骸を見つめているイブラヒームに言った。
「ウマイヤ家がイスラムの王者になったか。その理由がわかるか?」
 イブラヒームは、なにも答えなかった。
 ラフマーンは続けた。
「それは、わが一族が、だれよりも強く勇猛であったからだ。その末裔たるわたしと剣を交えるおまえたちは幸運だ。わが名をその胸に刻んで死ぬがいい」
「おまえたち下がれ」
 イブラヒームが言った。一人前に進み出る。一騎討ちの誘いなのは明らかだった。
 アラビア人の戦法は、スフーフという長い横の隊列を作って敵と対峙し、敵味方双方から名乗り出た勇士たちが、両陣の中間で一騎討ちの勝負をするのが伝統だった。
 だが。その伝統的だが意味のない戦法を、近代的な戦法へと変えたのは、ウマイヤ朝のカリフ、マルワーン二世だった。ラフマーンの祖父、ヒシャームの叔父だ。ラフマーンが、ウマイヤ家を、だれよりも強く勇猛であったと言ったのは、ある意味正しいのだ。ウマイヤ家はだれよりも戦争に長けていたのだから。
「これだから年寄りは困る」
 ラフマーンは苦笑すると、躊躇なく、腰に差していた短剣をイブラヒームの額にめがけて投げた。
「あっ」
 と、兵士たちの間から声があがったとき。イブラヒームは額に短剣が突き刺さった姿で、彫刻が崩れるように絶命した。
「隊長!」
 兵士の間に動揺が走った瞬間。
 いまだ!
 ラフマーンは、ハディージャを抱え、アッバースの兵士の円陣の中に飛び込んだ。兵士を立て続けに五人切る。
 円陣がほころび道が開いた。ラフマーンは、その機を逃さなかった。円陣の隙間に滑り込むように入り、兵士を三人切り崩して、外へと飛び出した。
 アッバースの兵士たちは、大混乱に陥った。だが、すぐに態勢を立て直し、ラフマーンを追った。
「ダメ、あたし走れない!」
 ハディージャが叫んだ。
「諦めるな!」
 ラフマーンは、ハディージャの手を離さなかった。
 だが。このままでは追いつかれる。アッバースの兵士の数は、二十人はいるだろう。さすがに無理か。
 ラフマーンがそう思ったとき。
「殿下!」
 路地裏から、バドルが飛び出してきた。
「やっぱり、こんなこったろうと思った!」
「バドル! 街外れの泉で待っていろと命令したはずだぞ!」
「そりゃこっちのセリフですよ!」
 バドルは、ラフマーンに並んで走りながら叫んだ。
「街の連中が騒いでるんで、気になって来てみたら、やっぱり殿下が原因だ! ここはオレが食い止めます。殿下は逃げてください!」
「どうして、ぼくのまわりには、お節介な連中が多いのか!」
「なんか言いましたか?」
「お節介だと言ったんだ! だが、半分はおまえにくれてやる!」
 ラフマーンは、立ち止まり、追ってくるアッバースの兵士たちに向き直った。
「殿下。逃げちゃくれないんですね」
 バドルは、諦めたかのように苦笑した。
「当たり前だ。おまえよりぼくの方が強いことを忘れるな」
「はいはい。もう諦めましたよ。半分は殿下に任せます」
「よし」
 ラフマーンは、ニヤリと笑った。
「行くぞ、バドル! ついてこい!」
 ラフマーンは、アッバースの兵士たちに向かって走った。
 バドルも、後れをとるまいと、雄叫びをあげながらラフマーンを追った。
「うおおおおーっ!」





 サーリムは、街外れの泉で、ラフマーンたちを待っていた。
「遅いな……このままじゃ凍え死んでしまうよ」
 サーリムは、ラフマーンの妹の開放奴隷だった。開放奴隷とは、奴隷として売られては来たが、一般市民と同じ待遇を与えられた者たちのことだった。将軍になるのさえ夢ではない。だがサーリムは、戦いには不向きだった。主人を守るために、それなりに剣の技も磨いてはいたが、剣士としては気が弱く、むしろ料理が得意な男だった。
「ううう。寒い」
 サーリムが、自分を抱くように腕を組んだとき。
「いやあ、相変わらずお見事な腕前です」
 と、バドルの声が聞こえてきた。
「まったく、殿下の剣技は、何度見ても惚れ惚れしますな」
「バドルこそ、大したものだったぞ。右から切りつけるヤツを、回転しながら左手で切り倒したのは見事だった。だれに教わった?」
「ははは!」
 バドルは笑った。
「あんな無茶な戦法、だれにも教わったことはありません。ただ、殿下のマネをしてみただけですよ。お、サーリム。お待たせ!」
「バドル! 殿下!」
 サーリムは、ラフマーンたちに駆け寄った。
「あれ? この女は?」
 サーリムは、ハディージャを見て聞いた。
「ハディージャだ」
 と、ラフマーン。
「ぼくの命の恩人だ」
「まさか!」
 ハディージャが、驚いた声を出した。
「あたしの命を救ってくれたのはラフマーンじゃないの!」
「こら」
 と、バドル。
「また殿下を呼び捨てにしやがった」
「あ、ごめん……」
「バドル。怒るなよ。それより、おまえたちもこれからは敬語を使うな」
「なんでですか?」
「街で敬語を使われたら、ぼくの正体がバレるだろうに」
「そうでなくてもバレますよ。オレは断じて、ため口なんか利きませんからね。断じてです。そんな命令は、絶対に聞けません」
「意外に頑固だなあ」
 ラフマーンは苦笑した。
「まあいい。サーリム。そういうわけで、今日からハディージャも、ぼくらに同行することになった。仲良くやってくれ」
「よろしくね、サーリム」
 ハディージャは、サーリムにウィンクした。
「はあ?」
 サーリムは、首をかしげた。
「そういうわけって、どういうわけなんですか? わたしは、サッパリわけがわかりませんよ」
「ははは」
 ラフマーンは笑った。
「あとで、ゆっくり話してあげるよ。ぼくらのちょっとした冒険をね」
「そうよ。ラフマーンってば、むちゃくちゃカッコよかったんだから!」
「あ、また呼び捨てにしやがった!」
「ふんだ。ラフマーンがいいって言ったもの」
「だからっておまえな」
「こらこら」
 ラフマーンがバドルとハディージャの間に入った。
「仲良くしなきゃダメだろ。もうハディージャは仲間なんだから」
「そうだよ!」
 ハディージャは、ラフマーンの左腕に抱きついた。右腕は怪我をしているから。
「もう二度と離れないからね。覚悟してよね、ラフマーン」
「はいはい。こちらこそよろしく。ハディージャ先生」
 ラフマーンは陽気に笑った。
「ったくもう。先が思いやられるぜ」
 バドルは、苦笑を浮かべたのだった。
 ラフマーンたちに訪れた、ひとときの安堵だった。
 だが……
 これは、長く辛い旅路の、始まりにすぎなかった。


 おわり。




 あとがき。

 ラフマーン一行の、一夜の物語。いかがでしたでしょうか。
 ここでお断りです。バドルとサーリムは実在の人物ですが、ハディージャをはじめ、その他の人物は、すべて筆者の創造です。もちろん、この一夜の物語すべてが、創作物であり、記録に残っている実話ではありません。歴史フィクションとしてお読みいただければ幸いです。
 ただし。千夜一夜風にはじめた序文に書いた、ラフマーンの逃避行。そして、本文中にも登場したウマイヤ朝のカリフの名前、さらにウマイヤ朝のカリフが、近代的な戦法を編み出したくだりなどは、すべて史実に基づいています。つまり、この物語に記された歴史の大きな流れは、けっして創作ではありません。
 しかし……
 そもそも、ウマイヤ朝は、まだ謎に包まれた王朝なのです。なぜなら、序文に書いた通り、ウマイヤ家に対するアッバース家の弾圧はすさまじく、ウマイヤの遺跡は、ほぼすべてアッバースによって破壊されてしまったからなのです。十数年前から、ぼつぼつとではありますが、当時の文書なども発見され始めましたので、今後は、ウマイヤ朝の姿が、より鮮明にわれわれの前に姿を現すことが期待されます。ウマイヤ家の故郷である、シリアの砂漠からも、有力な遺跡が発見される可能性も大いにあるでしょう。
 アラビア……この地は、われわれにロマンを与えてくれる場所なのです。この地で、いえ、世界のどの場所でも、戦争が二度と起こらないことを切に願います。

 なお、この物語をお読みになって、ラフマーンに興味を持たれた方は、以前に書きました、エッセイの「クライシュ族の鷹」も、お読みいただけると幸いです。

※名前の表記について
アブドル・ラフマーンという名前は、「アブド・アッラフマーン1世」とするべきかもしれません。しかしながら、ぼくはイスラム史を、故・前嶋信次氏の著書で学びました。ラフマーンという表記も、氏の著書に倣っています。

2003/5/15
自分で組み立てたPCにて記す。