前回のエッセイからえらく時間が離れてしまった(笑)。
 実は、当初は日露戦争のことを書いて、「外国産の軍艦」の話を絡めようとおもったけど、はっきり言って日露戦争の話なんて書こうとしたら、とんでもない分量になりそうだ。なにより、イギリス人の作ったものは、そつがなくて、話を膨らませようが無い。ちっとは、フランス人を見習えって(笑)。ま、実際に使う方の身にとれば、イギリス産の軍艦の方が安心できるというもので、こいつらに関しては、あまり面白い話をかけそうに無い。
 だから、戦艦「三笠」誕生秘話などの日露戦争時の面白いエピソードを書いた後は、予定を変更して、あまり知られていないバルチック艦隊の苦難の航海について語ろうかと思います。

 というわけで、トップバッターは「三笠」の面白いエピソード。

 戦艦「三笠」といえば、ちっとは聞いたことがあるのではないかな。なに、ないだとっ! この非国民め(笑)。横浜埠頭に行って、記念艦になっている彼の姿をちゃんと見て来なさい。
 ま、そんなことは置いておいて、「三笠」は、日露戦争時の旗艦です。あの有名な東郷元帥が乗って指揮をしていました。なに、東郷平八郎まで知らないって。うう〜ん、日本でもっとも世界に知られた軍人を知らないとは・・・。すこし後で、彼のことを簡単に紹介するとして、「三笠」の誕生秘話。
 じつは、「三笠」は作られなかったかもしれないという話をご存知でしょうか。いや、やっぱ知らない人が多そうですね。これは戦艦増強を急ぐ余り、山本権兵衛海相さんは艦隊設営費を越える予算を組んでしまったからです。そして「三笠」に関しては、その建造費の頭金さえ払えないという状況になってしまった。如何に、紳士の国で同盟国であるイギリスにしても、頭金さえ払えないものを作ってもらえるはずが無い。だが、戦艦は一隻でも多く必要だと思い、時の内務大臣、西郷従道に相談に行きました。
「西郷どん、西郷どん、困ったことが・・・」
「なんでごわす、山本どん」
「それが、西郷どん。戦艦を作る金がなくたったでごわす。これでは、戦艦一隻がキャンセルされてしまうでごわす」
「それは、一大事でごわすなぁ。で、おいに相談にきたというわけですなぁ」
「そうでごわす。なんとかなりもはんか?」
「じゃどん、無い袖はふれんでごわす・・・」
「そうでごわすか・・・。残念どす」
「まあ、まつでごわす、山本どん。ここは、予算を流用してはどうでごわすか」
「よ、予算を流用でごわすかっ! ばれたら、一大事でごわす」
「なに、そん時は、おいとおはんで腹を切ればいい話でごわすよ。我々が腹を切って、戦艦が一隻手に入るのであれば、安い話ではござらんか」
「ううう、西郷どんと心中か・・・。それもいいかも」
「・・・山本どん。おいはそっちの趣味はないでごわすよ」

 とまあ、こんな風に進んだかは知らないけど、西郷従道と図って、予算を流用して「三笠」を発注したというのはほんとの話。あと、この山本海相さん。かのフィッシャー提督と友人。さすが、かの変人と友人なだけあって、やることが一つ飛びぬけていますね(笑)。

 あとは、この三笠が如何に活躍して、世界でも珍しい記念艦として、横浜に停泊するようになったかは、なが〜い話になるので、リクエストが無い限り、書く事はないでしょう。いや、あったとしても書くのには困るのですけどね。興味があったなら、自分でネットで調べてくださいな。ぼろぼろと出てきますから。

 さて、次に東郷平八郎元帥の紹介と幾つかの面白いお話にいきます。
 いまでこそ、名将、軍神などともてはやされていますが、いっときは海軍のリストラ録に載ったほどの人で、凡将といわれていました。もちろん、当時は閑職に飛ばされていて、これで退役と見られていました。
 それを、日本海軍の父と言われている山本海相に抜擢されて、連合艦隊司令に着任します。なぜこの人事にしたかと天皇に尋ねられたとき、かれは、東郷は運の強い男ですからと答えたのは、けっこう有名な話です。
 では、ほんとにそれだけで連合艦隊司令に着任したのか。すこしだけ彼らを弁護しますと、東郷提督は、幕末から船にのっている経験豊富な軍人で、イギリスに留学してで艦砲射撃などを叩き込まれた人です。日清戦争で、前回のエッセイで紹介した「高陞(こうしょう)号事件」で示した国際性。沈着冷静な人柄で、日露戦争が勃発したらどうなるかという意見書では、実に客観性、具体性にとうんだ意見書の提出。
 そして、最後に、山本海相はロシア相手に完全勝利を得られるとは思っていず、軍隊の暴走のすえに泥沼の戦争になることを恐れた。東郷提督なら、中央から制御が利くだろうし、彼ならば、こっちの実情を踏まえた戦いをしてくれるものと期待したからです。

 そんな東郷元帥の面白いエピソードに、肉じゃががあります。
「久しぶりに、ビーフシチューを食いたいなぁ」
「ビーフシチューといいましても、あれはワインがなければ美味しくなりませんよ、あなた」
「ううむ、ワインか。そんなものを使って作ったのでは、わしの給料がなくなってしまうなぁ。どうにかならんのう」
「それでしたら、いまある素材を生かして、似たようなものを作ってみましょう」
「うむ、たのむ」
 という会話があったかどうかは知らないが、彼が肉じゃがという料理を開発したという逸話があります。ほんとうの話かどうかは知らないですよ。

 食事の話が出たので、脚気のお話。
 脚気は、Teruさんのエッセイ「大航海時代」で語られているように、時の日本海軍の困り者です。そして高杉兼寛という軍医が、食事を西洋風に改めることによって発生を抑えることが出来たと紹介しています。
 私が、聞いた話では、白米中心の食事を麦飯を混ぜるものに改善したからと聞きましたが、どっちがほんとうなのかな。ああ、別にTeruさんのエッセイにけちをつけることではないです。気悪くしないでくださいね。今回は、この食事療法を信じなかった日本陸軍のある軍医のお話なんです。
 海軍の改善要求。これを当時、日本陸軍の軍医であった森鴎外は、そんな非科学的なものがあるかとはねつけたそうです。はい、森鴎外と聞いてぴんと来ない人は、ほんと勉強をしていないといっているようなものですよ。日本が誇った文豪さんなんですから。ちゃんと勉強しなおそうね。
 ま、この改善要求をはねつけたおかげで、日本陸軍は脚気に苦しみ、多大な死者を出しました。ちなみに、海軍は脚気による死者は、ほとんどいなかったのです。この事実があったにもかかわらず、生涯、森鴎外はこれを認めなかったそうです。
 そうそう、脚気ではなく、壊血病にバルチック艦隊も苦しめられました。

 最後に、虚構のT字戦法

 日本史を少しは学校で習うと思います。その中で、とちくるった教師は、なんの検証をしないで、教科書に載っている内容を鵜呑みにして、偉そうに色々とのたまうと思います。それが専門家でなくても、少しばかり歴史をかじったものには眉唾物だということを知らずに・・・。
 そういった内容の一つに、日本海海戦があります。私が教わった教師は、T字戦法と東郷元帥の天才ぶりで勝利を収めたと自信満々に言ったのを覚えています。
 この勝因に挙げられるT字戦法。どういうものかというと、敵艦隊に艦の側面を見せて、自分の砲塔を効率よく使う戦法です。だが、これは成功したことが無い戦法なのです。そう、日本海海戦でもです。
 まず、最初に使われた日露戦争の黄海海戦。このとき、T字戦法を使いますが、旅順艦隊に突破を許します。つまり、失敗したということです。そのほかにも何度か試したそうですが、どれも旨くいかなかったそうです。
 で、日本海海戦ではどうだったかというと、敵艦隊の近くで艦を回頭させて、反航戦から並航戦に移行したのです。簡単なように思えますが、艦隊全てが行うのは難しく、それだけ日本艦隊の練度が高たったということです。そして、並航戦に移って、速力で勝る日本艦隊がバルチック艦隊を逃さずに壊滅させたのです。つまり、じっさいはT字戦法を行っていないのです。

 はい、ここまでは日本の話。これからは、ロシア側の話。バルチック艦隊苦難の航海に行きます。
 いや〜、ロシアといえば熊さんのイメージがある。自分のハンドルネームが森のくまさんだから、どことなく親近感があるのです(笑)。だから、すこ〜し彼らの弁護をしてやりたくなったのですよ。・・・嘘です、信じないでください。単に、こっちの方が知られていないから、紹介するとしたらこっちの方がおもしろいかなと思っただけですなんです(爆)。

 さて、ここで、ジノウィ・ペトロウイッチ・ロジェストスキーという人をご存知でしょうか? じつは、私も調べるまで知らなかったです。この御仁こそ、バルチック艦隊(正式には、ロシア太平洋第二艦隊、第三艦隊)の司令官なのです。ここからは、彼になったつもりでお話を続けますね。


 極東方面のきな臭さが、加速度的になってきたとき、私は、軍令部長の立場にいた。極東総督アレクセーエフは、かの地の内政、外政、軍事の全てを握っているが、所詮は文官。一朝事が起こったときの対処が実に不安だ。それどころか、指揮系統の混乱さえ見られる。これだから、官僚というやつは・・・。
 だが、果たして極東の島国の猿どもが本気で戦争をしてくるつもりだろうか? 我が国は、イギリス、フランスについで三番目の海軍力をもっており、いかに日英同盟がなったからといって、わがほうにも、ドイツ、フランスとやや心もとないが後ろ盾になってくれる列強がいる。私としては、猿どもがとち狂って戦争を吹っかけてくれた方がいいと思っている。緒戦を幾つか落とすかもしれないが、戦争そのものは、わが方が最終的に勝つに決まっているのだ。

 2月8日。なんとやつらはわれらの祝日の日に、ひきょうにも奇襲をしてきた。やはり、猿なのだろう。戦争のルールという奴を知らない。
 我がツアーリ(皇帝)は、やはり英君だ。私の心配していた指揮官の不安に気がついておられ、露土戦争時の私の上官であり、世界的に名を知られて名将、マカロフ提督を旅順に派遣なされた。これで、我が海軍の勝利は間違いないだろう。しょせん、極東の島国に何するものがあろうか。
 だが、ここに不安材料の声が聞こえてきた。マカロフ提督が着任してからしたことは、戦力整備と士気向上だった。つまり、それほど極東軍の戦闘力は衰えていたということだ。これは敵が有能のせいか。いや、アレクセーエフを始めとする官僚どもが、戦のなんたるかをしらずに色々と口出ししてきたせいに決まっている。マカロフ提督ならば、それを跳ね除けて、必ずや勝利を我がほうにもたらしてくれるに決まっておる。
 しかし、期待ははかなく潰えた。ややも激しやすい性格であるマカロフ提督が、日本軍に誘い出されて戦端を開き、港外で触雷して戦死してしまったのだ。埋めようの無い損失だが、それ以上に問題なのは、後任となる指揮官が、海上知識に乏しく、戦場経験の無い青二才、ウィトゲフトに移ったということだ。本来は、経験豊富なスクルイドルフ中将がその席にいるはずなのに、やつはウラジオストックで立ち往生してしまったのだ。私の中の不安は、高まりはじめた。なんといっても、優勢であるはずのロシア陸軍が負けっぱなしなのだから・・・。やはり、日本軍は優秀なのか? いや、極東の猿ごときがわれらより優秀なわけがない。おそらく、いやまず総指揮官であるクロパトキンが無能なだけだ。奴は、戦う前から、引くことばかり考える弱腰だから。大臣としては、それなりに有能なのだが・・・

 開戦から半年がたち、やっとウィトゲフトは極東艦隊を結集すべきだという結論に達したようだ。重い腰を上げて、ウラジオストックを目指した。だが、この目的は果たされなかった。なんと、不運な一発で、やつが戦死してしまうとは・・・。なんてついていやがるのだ、日本は。いや、我々がつきがないだけか・・・。艦数でも優勢であった我がほうが、なぜ・・・・
 だが、とりあえず艦隊は無事に旅順に帰還できただけはよしとしよう。まだまだ、負けたわけではなく、何より、時は我らの味方だ。
 ここで、日本軍は致命的な判断をした。陸から旅順を落とすという考えはよいのだが、なんとわれ等が心血を注いで建設した要塞に、正面突撃してきてくれたのだ。まさにかなったりの状況に、私は久方ぶりに明るい気分になれた。だが、ここでも問題がないわけではない。旅順司令官のステッセルは、交代すべき命令をうけているはずなのに、その席に居座っている。良くないことがおきなければいいが・・・。

 私は第二太平洋艦隊司令長官に任命され、極東に行くべしという命令を受けたのだ。たしかに、私が極東に艦隊派遣をすべきと提言したが、まさか私自身が任命されるとは思わなかった。
 艦隊の規模、戦艦の横幅、政治状況などを考えるに、大艦隊を喜望峰周りでインド洋を横切ってウラジオストックか旅順まで航海しなければならない。なんと、世界を半周するのだ。しかも、喜望峰周りで戦艦を航海させるなんて、かの大英帝国でさえやっていない難事業。だが、なんとしても成功させなければ・・・。
 バルチック艦隊を再編を始めた私は、ここでまたもや官僚どもの妨害を受けた。やつらの事なかれ主義は、もう不治の病だな。この国難のときに、定時ですからと帰る奴がいるか。しかも少し叱りつけただけで、まるで報復とばかりに、サボタージュを始めやがった。こいつら、もしかしてコミュニストか。あんなあほらしい思想が蔓延しはじめるとは・・・。人間が、みな平等なわけがあるまいに。いや、理想的にはいいのだが、現実的ではない。まあ、それはいい。だがそっちがその気なら、こっちもお前たちの首をとばしてやると脅してやる。なんといっても、私はツアーリほかの信任が深いのだ。
 長い航海となる。途中補給を考えなければならないが、残念ながら、同盟国ドイツ、フランスを頼らざるおえまい。あと、主力艦艇は新造艦が多く、そのための訓練。内海用を外海用に改修補修作業。3日完徹がざらという殺人的なスケジュールをこなした。おかげで、幾つかの役立たずの艦艇を残して、10月に出港することができた。これを見るだけで、如何に私が優れているかがわかるだろう。

 出航して、すぐに事件が起きた。ドッカバンクで、イギリス漁船を、敵船と勘違いして砲撃。同士討ちをするという事件が起きたのだ。
 そも発端は、艦隊に日本海軍がここまで進出してきて、われらを奇襲するという噂のせいだ。そんな馬鹿なはなしがあるものかと私は一笑に付した。われらでさえ困難な航海をどうやって極東の猿が行える。しかも、奴らにここまで艦隊を引っ張ってこれる余力があろうはずが無い。だが、どうやら愚かで臆病な馬鹿者たちは、そんな簡単な論理にさえ気がつかなかったようである。
 おかげで、私は世界からのお笑い者となった。艦隊の士気も地に落ちた。もしかして、これは大英帝国の陰謀か。それとも、コミュニストたちのサボタージュのせいか。いや、どちらの相乗効果に決まっている。長い航海のはじめがこれでは、と私の気持ちは暗いものとなった。
 まず、最初の補給地であったスペイン・ヴィゴ港。だが、やつらは土壇場で拒否してきやがった。おかげで、われらはフランス領タンジールで補給することになった。だが、ここでも商人が石炭が足りないと言ってきた。おい、お前の倉庫に石炭がうなっているのを知らないと思っているのか。だが、こいつはイギリスの息がかかっている。おかげで強硬手段に出ることができず、時間をとってしまった上、十分に補給できなかった。
 次の補給地をフランス領ダカールとしたが、なんと、ここでもやつらは供給を拒否してきた。この高利貸しのこうもりやろうめ。われ等がちょっとばかり戦局が不利になれば、この始末。やはり頼みになることができないやつらだ。あと、われ等が国外務省はいったい何をしている。こういったことを起こさないように、なんらかの対処をしておくべきではないか。官僚どものサボタージュはいつものことだが、今度のことはさすがに腹に据えかねた。
 これから以降、補給は困難の連続だった。わずかな給炭の時間さえ、港に入れない有様。私の食卓にさえ、コーヒーが並ばないという時が続いた。私でさえこうなのだから、下の兵卒たちの苦労は、筆舌に語りがたいだろう。作業に従事していたものが、熱射病で倒れることがざらだったようだ。
 年を越して、やっとマダガスカル島に到着。ここで、私はありがたくない知らせを受け取った。なんと、旅順が陥落したのだ。信じられん、あの要塞が落ちようとは・・。どうやらステッセルの阿呆が、まだ余力が残っているのに、203高地を占拠されて艦隊が沈められる姿に戦意喪失して降伏したそうだ。なんという軟弱ものだ。まだまだ余力があるのなら、要塞を固守し、相手に出血を強いるか、足止めをすべきものだというのに・・・。我が身がかわいい輩だとは思っていた、ここまでとは。終戦時、お前を必ず有罪にしてやる。
 そして、さらに驚くべき決定を知らされた。なんと、戦いに足手まといと判断した艦艇を補充に向かわせるのである。どうせ、官僚が旅順艦隊壊滅に泡をくって、数だけでも間に合わせておけと素人考えでおくってきたのだろうが、お前たちは、バトルオブヤルーを知らんのか。足手まといの艦艇は、艦隊の戦闘力を落とすだけだというのに・・・。だが、ツアーリの決定には逆らえない。まだ、合流すべしという決定が出ていないだけましだ。もし合流命令がでたとしても、こいつらをおとりに使えばいいだけだろう。この時点で、私の目的はウラジオストックに入って、長期戦の構えをみせることに決定した。そうすれば、日本が折れてくるだろうということが分かっているからだ。問題は、時間だ。やつらに休む時間と訓練の時間を与えてはならない。一刻も早く、ウラジオストックに入港して、やつらを牽制しなくてはならない。とうのに、フランス人どもは我らの足を引っ張るばかりだ。結局、この港に2ヶ月もいなければならなかった。
 マラッカ海峡を目指して、インド洋を最短経路で横断。洋上で補給を繰り返し、4月にはシンガポールを通過した。ウラジオストックまであと一歩だ。振り返って見るに、我が艦隊に落伍艦はいず、よくここまで艦隊をつれてこれたものだと感心する。だが、兵員の疲労は極に達している。壊血病で倒れるものも続出している。とても、戦闘が出来る状態とは思えない。
 フランス領カムランで、最後の補給を受ける。だが、やつらの妨害は露骨になってきた。なんと、ウラジオストックにつくまでの補給を受けられなかったのだ。これも陸軍の馬鹿どもが、奉天で兵数に劣る日本軍に負けるからだ。まだ壊滅しなかっただけましだが、我がロシア帝国が諸外国に冷淡な目で見られはじめているのは、クロパトキンの弱腰の戦い方のせいだ。退却将軍という呼び名に相応しい。さすがに、今回の敗戦で更迭された。幸い、まだ陸軍は崩壊していない。われ等がウラジオストックに入港して、日本海の制海権を脅かせば、この戦争を失うことは無いはずだ。まだ、勝てるのだ。

 ここで、私は正気を疑う命令をやはり受けた。後続の艦隊と合流せよというのだ。ここまでなら、やはりとおもうが、ここにいたって、私を交代させるかいとうという命令があったのだ。上層部はいったい何を考えているのだ。

 艦隊を待つ間の一ヶ月の足止め。これが致命的な遅れにならなければよいんだが・・・。幸いは、交代の命令が撤回できたことだろう。当たり前だ。私以外、誰がここまで艦隊を無傷で連れてこれようか。

 やっと艦隊が合流でき、出航。だが、直前でフェルトケルザ少将が病死した。あれほど、悪い血を抜いておけと言ったのに・・・。士気低下を恐れて、少将の死を秘密にしたが、指揮官の不足は決定的なものだ。

 われらは、最短経路である対馬海峡を突破することになった。というより、ほかに道はなかった。津軽ルートや、宗谷ルートなど通る余力はなかったし、なにより訓練不足の艦隊では、そこを通る際に遭難する可能性すらあるのだから・・・。頼むから、霧がより深くなってほしいものだ。
 対馬を通るとき、私は信じられない気持ちにさせられた。なんと病院船の明かりがついているではないか。おかげで、日本海軍に発見されたようだ。
 とりあえず私は、艦隊を縦一列に編成して、敵艦隊を突破をもくろんだ。こうすれば、艦隊運動が稚拙であろう日本海軍は、我が艦隊を全て攻撃することができないだろう。
 しかし、ここで艦隊の馬鹿どもは、信号を見誤り、ばらばらの3列縦隊を形成しやがったのだ。きさまら、ウォッカを飲んでおったのではあるまいな。再編を試みるが、その前に前方から日本艦隊が現れた。
 このまま反航戦になれば、一回の砲撃ですむ。そうすれば、いくつかの艦はやられるだろうが、多くの艦艇がウラジオストックに入れるだろう。
 砲撃距離にいたったとき、先頭の戦艦。情報によれば「三笠」が回頭し、後続艦もそれにならって回頭した(後に、トウゴウターンと呼ばれる艦隊運動)。見事な艦隊運動だ。こんな艦隊運動など、欧州の一流海運国ででもなければ出来ない。極東の猿とあなどったのが間違いか。あれよあれよといううちに、並航戦になってしまった。もちろん、我が方も指をくわえてこの回頭を見ていたわけではないが、訓練不足と疲労の極にいる我らの攻撃は、有効打を放つことが出来なかった。
 並航戦に移ってからの戦闘は、悪夢の一言だった。日本海軍からは、我が海軍にない強力な砲弾が飛んできて、わが艦隊を痛めつける。ばかりか、戦艦が砲撃戦で沈んでいったのだ。「戦艦は、戦艦同士の砲撃戦だけでは沈まない」という常識が打ち破られた。
 私も、沈み行く戦艦から駆逐艦に乗り移った。そして、無念にも奴らに捕らえられてしまった。
 聞くところによれば、ほぼ一昼夜で我が艦隊は壊滅されたそうだ。ウラジオストックに逃げ込めた艦はほとんどいない。これで我が国は、この戦争を失ったことは決定的だ。
 いまさらながらだが、ほんとにわれらに勝機がなかったのだろうか? いや、せめて東南アジアでの足止めさえなければ、奴らは訓練や艦隊の整備が終わらないうちに艦隊決戦を挑まなくてはならず、我らの突破は成功していた可能性が高い。それだけでなく、もしフランスのこうもりが、もうすこし協力的であったのなら。旅順が、もうすこし頑強に抵抗していれば。クロパトキンが無能でなければ。われらは、ウラジオストックに入港できる可能性が飛躍的に高くなり、われ等がいれば、戦争は継続され、日本から膝を折らせることができたのだ。


 ロジェストヴェンスキー提督は、もちっと評価されてもいい提督でしょう。なんといっても、あれだけ劣悪な補給に妨害、訓練不足の艦隊を率いて、脱落艦艇を出さずにあそこまで艦隊を引き連れていったのですから・・・。到達できただけでも、すばらしい業績です。もちろん、そこまで行って戦闘など出来ようはずはなく、あれは戦闘などではなくて、虐殺だと言った士官がいたのも頷けます。

 最後に、司馬遼太郎先生の「坂の上の雲」がドラマ化されるそうです。果たして、どれだけちゃんと映像化してくれるのか、大変心配だ。そして、たぶんバルチック艦隊の苦労なんてほとんど触れないだろうなぁ。願わくは、日本軍よいしょのドラマにならないことを祈るばかりです。



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