外国生まれの軍艦(日清戦争以前)



 は〜い。一部の人、お待たせしました。今回のエッセイは、作者Oさんのリクエストで『外国産の軍艦』というものを語らせてもらいます。
 最初は、軍艦のみをあれこれと語るつもりでしたが、こういったお話しは戦争を絡めた方が面白い、もとい書きやすい。ということで、前半は日清戦争。後半を日露戦争を絡めて語っていこうと思います。で、ついでにあちこちで軍艦のお話を挟んでいければと思っています。


 軍艦といえば、兵器。そんな剣呑なものを輸入するくらいだから、絶対に使われるものに決まっています。現在でも武器を輸入する国ってきな臭いですからね。
 19世紀末の日本もそうでした。西南戦争後の日本は、幾つかの不平等条約のため金がすっかんぴんというくらいない。んだったら他から奪ってやれとばかりに、手短のちょうどいい国、朝鮮に目をつけます。この国、当時は少し前までの日本みたいに鎖国していまして、庇護してやるから金を出せと言う相手にはちょうど良かった。だけども、すでに庇護する立場として”清”国(当時の中国)がいました。んじゃ、こいつのシャバを奪ってやれ。とばかりに、清を仮想敵国として、軍備に勤しみます。
 いや、ほんとやくざそのものですな、うん。でもこういったことがまかり通っていた時代でした。なんせ、イギリスは国ぐるみでアヘンを清に売っていて、文句いってきたら戦争しちゃうんですから・・・。
 いかん、話しが逸れた。話し戻して、清を仮想敵国として軍備を揃えることになりますが、相手は東洋一の海軍力を誇る国で、総トン数は85000トン、82隻。しかも、7400トン級の「定遠」「鎮遠」というチタデル艦を持っています。こいつらが固い。なんせ325ミリの装甲を持っていて、主砲が30センチ。当時の日本の保有艦艇では、まず撃沈は不可能でした。
 一方、日本は日清戦争前に総トン数55000トン、31隻。持っている戦艦は、3700トン級の”扶桑”一隻のみ。見るからに劣勢ですね。

 ちょっとここで”扶桑”のお話しに行きましょう。
 こいつは、日本が初めて持った戦艦で、イギリス産。1878年生まれ。
 ちなみに”扶桑”という名前の由来は、中国の伝説に、東海の日の出づるところにある同根から雄木と雌木が生えた神木を扶桑と呼ぶところから来たそうです。いうなれば、日本の美称だそうです。
 主砲は、24センチ単装砲4門。装甲は、このクラスにしては分厚い230ミリ。
 日清戦争に入ったときにはすでにロートルだったため、たいした戦果を挙げられませんでした。そのかわりたいしたダメージも負わなかったんですが、平和になったときに”松島”という軍艦にぶつかられて沈没してしまいます。ロートルなもので見捨てられるかと思いきや、ものを大切にすることを知っていた当時の日本人は、こいつの沈んだところが浅いのに目をつけてサルベージして戦列復帰を果たさせます。そのあと、スクラップになるまで使い尽くせとばかり、様々な雑用任務を押し付けられた挙句、1908年にどこぞに売っぱられて解体。こうして、日本最初の戦艦は天寿を全うしました。めでたし、めでたし?

 で、また話し戻しまして清海軍との数の差。次に「定遠」「鎮遠」対策に日本の首脳部は頭を悩ませました。
 このとき、精神力さえあれば勝てる。敗因は兵の敢闘精神不足なんて考えを持っていなかったのが救いで、ちゃんとした対処法を考え出してくれました。
 まず最初の対処法。艦艇数で負けていても砲撃回数で勝っていれば、相手を圧倒できると考えて、イギリスさんに、速射性能が高いアームストロング社の砲塔を積んだ最新式の軍艦「浪速」と、その同型艦「高千穂」を発注します。
 この「浪速」の艦長は、あの東郷平八郎。このおっちゃん、日清戦争の最初の海戦「豊島沖海戦」(ちなみにこのとき、まだ宣戦布告がされていませんけど、無線さえなかった時代なのでOKだそうです)で、清国兵を輸送中のイギリス籍の商船高陞(こうしょう)号を撃沈しちゃいます。本来なら大問題に発展するところですけど、国際法に詳しいこのおっちゃんは、自分に有利な証言が期待できるイギリス人だけ助けて、清国兵を助けませんでした。おかげで2000人の清国兵は、そのほとんどが溺死しちゃいます。まあ、戦争しているのですからいいんですけどね。平時の事故のときならどうしたんでしょう?

 また話が逸れましたね。こんなことばっかり。でも、次で多分最後だと思いますし、ここからが面白いところです。
 さて、数の差を補うために砲撃数、つまり手数を増やした日本海軍だけど、やっぱし「定遠」「鎮遠」を沈めなきゃいけないでしょうと、知恵をきりきりと絞りますがいい案が出てきません。そんな彼らの前に、フランスから天災が現れます。天災と書いていますが、天才と間違っているわけじゃありませんよ、はい。安心してください。
 で、その天災の名前は、エミール・ベルダンさん。
 彼は、イギリスに遅れをとっていた日本の海軍市場に食い込むために、様々な甘言を弄します。
「はいはい、この設計図を見て下さい。あの清国のセンスのかけらもない「定遠」「鎮遠」なんて名前の戦艦。これがあればひとたまりもありませ〜ん。さらに、あの午後には紅茶が出ないと文句をいう癖に、食文化が貧弱なジェントルマンどもの硬い頭ではまともな軍艦を作ることは出来ても、こんな斬新な軍艦を作ろうという発想すら出てきま〜せん」
「う〜む。我が国は、陸軍はお国の方式をとらせてもらっています。しかし、海軍はイギリス式を取っておってのぁ〜。色々と困るんですよ〜、整備とか訓練とかで・・・」
「はっはっは。そんなことは問題あり〜ません、ムッシュウ。このわた〜しが設計してあげますからだいじょ〜ぶ。お猿さんでも扱えま〜す。それに〜、工場のこともご安心くださ〜い。ジャントルマンたちと違って、我々はサービス精神豊富で〜す。造船所の設計図も持ってきました〜。作る場所も決めてます〜。呉と佐世保なんてどうですか〜〜〜〜」
 と、言ったかどうかは知らないけど、いろいろとイギリスよりも優れていますというカタログを見せられます。
 色々といいたいことはあったが、他にいい考えを持たない日本は、彼ご自慢の設計の軍艦を4隻と、その他数隻を発注、あるいは作ることにしました。
 で、彼ご自慢の艦がどんなかというと、4000トン級の巡洋艦に主砲が32センチの単砲一門のみという、一点豪華主義のものでした。これが、日清戦争中の旗艦”松島”級です。同型艦に厳島、橋立がいまして、日本の代表的な風景の名前なので、「3影艦」と呼ばれました。
 ん? 発注したのは4艦なのに「3影艦」とはこれ如何に? それは以下の文を読んでもらえば分かります。
 発想自体は、そんなに間違っていませんから、ここまでなら彼を私が天災と呼ぶ理由は分かりませんよね。大丈夫です、ここから彼の天災ぶりが発揮されるのですから・・・。
 まず、彼の天災ぶりが認知され始めたのは、この艦の主砲の配置です。後で作られた二艦は主砲を後ろ向きに配置しています!! なんと敵に背後を見せなければ、相手に砲撃が出来ないのです!! 最初から逃げ腰で戦えというのでしょうか!? 当時の日本の軍人には耐えられない設計ですね〜〜。
 さすがに、これは・・・と感じはじめた首脳部は、届いた艦の試験をしてみました。その結果、なんとこの艦の主砲。撃てば、艦が振動しまくって、しばらくまともに行動が出来ない。そればかりか、この主砲は構造が複雑で故障しやすく、砲塔を舷側に向けてしまえば、船が傾いてまともに砲撃ができないなどなどのことが判明しました。
 はっはっはと平時なら笑ってしまうしかないですが、清国との戦争が直前になってきた時期ですから、首脳部の顔はさぞや青くなったことでしょうね。いや、胃を痛めたかな。とにかく、こんな艦はもういらんと、出来上がった3艦までは仕方ないとして、4艦目をキャンセルし、普通の軍艦を頼むことにしました。
 自分が作った艦に難癖をつけられて、あげくに4艦目はキャンセルとなったベルダンさん。はっきり言っておもしろありません。そんな彼が取った行動はというと「私の美しい設計が分からない黄色いお猿さんとはお付き合いできませ〜ん」と、なんと契約期間中だというのにフランスに帰ってしまったんです。な〜んて無責任ざんしょ。
 この人のせいで、一気にフランスの印象が悪くした日本軍。そういえば、以前頼んでいた「畝傍」という艦も、シンガポールを出た後に消息を絶って届かなかったという事件もあったなぁということを思い出だします。フランス人に頼んだのでは、まともな商品が来ないと、ついに悟った日本軍。それからは、例外を除いてイギリス人から軍艦を買うようになりました。こりゃ、フランス人の自業自得だな。
 でも、フランス人の感性は日本とは違っているようで、かなりあちらでは評価されているようです。後に、フランスの巡洋艦に彼の名前の艦ができちゃうくらいですから・・・。
 さて、ベルダン氏が得意になって売り込んだ「3影艦」。果たして役に立ったのかな。それを、これから後の「黄海海戦」で語ることにします。

 話は、クライマックスにいきなり突入して、「豊島沖海戦」で、いきなり開戦となった日清戦争(1894年)。日本は、陸で優勢に戦いを続け、平壌を順調に占領しました。その平壌への増援を輸送する船団護衛を終えた清国海軍と、それを探していた日本海軍との間に、日清戦争で最大の海戦「黄海海戦」(バトルオブヤルー)が起こります。
 日本側の戦力は、「浪速」「高千穂」など4隻の最新式巡洋艦を擁していた第1遊撃艦隊と、旗艦「松島」など、あの「3影艦」に新鋭巡洋艦と旧式コルベット艦二隻、「扶桑」「赤城」「比叡」、あと軍令部長樺山資紀中将が観戦のため乗り込んだ仮装巡洋艦(商船に武装を施した船)西京丸からなる本隊。これらを弓月隊形で、運動させながら砲撃するという戦術を取ります。この陣形は、ドイツ人軍事顧問ハンネッケン少佐が、有名なリッサ海戦の陣形を真似て提案したものだそうです。
 対する清国は、中央にあの「定遠」「鎮遠」を置き、両側に巡洋艦と砲艦を4隻ずつ置いた横並びの隊形でした。
 日本側は、速度に勝っている利点を生かして、円運動して砲火を集中するという戦術でした。一方の清国海軍は、かの西大后さんが、無骨なお船などよりわらわの美容と健康の方が大事じゃと、艦隊建設費を強奪されてしまったため、新鋭艦が買えなかったばかりか、まともに訓練さえ出来なかいという有様。こんな有様ですから、もちろん兵の士気は低かった。巧緻な戦術を思い浮かべても、訓練不足の兵たちがついて来れないので、単純にどっぷりと撃ち合うしかないという情けないものでした。

 ここで脱線。
 西大后さんは、艦隊建設費をねこばばしましたが、一方の日本ではどうだったか?
 貧乏国家であった日本は、高価な新鋭艦を買うのに二の足を踏みました。議会に出していた艦隊増強案はすげなく却下されていくばかり。ああ、新しいおもちゃ、もとい軍艦がほしいなぁという日本海軍には、救いの神様が現れました。それが誰かと言うと、明治天皇さん。天皇さんは、ここで軍備を怠れば禍根となるとばかりに、宮廷費と公務員の給料の一割を6年間減らして、その予算で戦艦を買おうという勅命を出しました。なんと、お隣の国とは大違いですね〜。小泉さんにも見習ってほしいですね。政治家と公務員の給料を減らして、それを借金などに当てるといえば、いまからでも支持しますよ〜、ほんとに・・・。
 ま、こうやって苦労して購入した戦艦などですけど、やや決断が遅くて日清戦争には間に合いませんでした。これらの戦艦は、次の日露戦争編でお話しますね。

 さて、清国艦隊の右に向かって円運動する日本海軍。清国艦隊は彼我の距離が6000メートルになったとき、「定遠」がまず発砲。以後、5分間。日本艦隊は撃たれまくりという状況でした。
 そんな日本海軍も、3000メートルになったとき猛然と発砲を開始します。手数を考えて作られた軍艦たちですから、たちまち清国海軍の右翼は穴だらけ。あっという間に二隻が戦線から脱落します。
 これは楽勝かと思いきや、とんでもない落とし穴が待っていました。なんと、先頭切って走っていた第一遊撃艦隊と本隊の速度(なんと、5ノット以上の差がある)が違うため徐々に距離が空きはじめ、しまいには第一遊撃艦隊の射線上に本隊が入っていますという事態にまで発展します。同士討ちを嫌った第一遊撃艦隊の司令は、舵を左に切って戦線離脱してしまいます。おお、戦線離脱者が、日本の方が多くなってしまったよ〜。しかも新鋭艦ばかりの戦力大の奴らが・・・。いきなり日本海軍が不利になります。
 さて、ここで本隊に配置された「3影艦」たち。その期待された性能を発揮したのか?

 結果から言いましょう。やっぱし期待はずれでした。それも特大の!!
 彼が自信満々だった32センチ砲は、不調と故障の連続。なんと4時間半続いた海戦で、発砲した回数は3艦合わせて12発という始末でした。
 一艦あたり一時間前後に一回しか射撃できない砲。そう。日本人は、高い金を払って時報を買ったのですよ。・・・・・・笑えねェ。
 いや、一回でも命中していたらその名前を返上してやってもいいだろう。だけども、情けないことに悉く外れます。当たり前と言えば、当たり前ですけどね。フランス人の大法螺吹きという船員の悲鳴が甲板で聞こえてたことでしょう。

 こんな体たらくの「3影艦」が主力の本隊でしたから、こりゃ駄目かと思いきや、こいつらに副砲としてつけられていたアームストロング社の12センチ砲12門が大活躍します。どれくらい活躍したかっていうと、おフランスの砲が、優雅に怠けて平均62.5分に一発だったのに対し、イギリスの砲は実に勤勉に働いて、なんと5秒に一発の速さで発射したのです。当社比・・・え〜と750倍の速射性能だったから驚き。こいつらが撃ちに撃ちまくって、「定遠」には159発、「鎮遠」には220発の砲弾を命中させました。おお、当初の目的とは違う形でがんばったのですね。生みの親に似ず、働き者のいい息子たちです、はい。

 まあこんな感じで、本隊の他の低性能艦が鈍足(本隊の他の艦よりさらに3ノット以上遅い)のため孤立して、足を引っ張るということがありましたが、なんとか持ちこたえ、そうこうしているうちに戦線を離れていた第一遊撃艦隊が戻ってきて、清国艦隊を挟撃。しばらく砲撃戦を続けた後、清国艦隊が大蓮に向けて退却していき、日本海軍の勝利となりました。

 ちなみに、損害は旗艦松島以下、橋立、比叡、赤城、西京丸が大きな被害を受けていたものの、沈没はなし。
 一方の清国海軍は、巡洋艦が二隻、とコルベット艦が一隻撃沈され、巡洋艦とコルベット艦が一隻ずつ大連港外で擱座。しかも他の艦も、手ひどい損害を受け、戦闘意欲を大きく失ってしまいました。
 この後の威海衛夜海戦では、水雷艇の攻撃で巡洋艦とコルベットがまた一隻ずつ沈み、なんとあの「定遠」までも被雷擱座して自沈してしまいました。ここで士気がもともと低かった清国艦隊は、もう戦う気なしで、このあと、大きな海戦は行われませんでした。

 「黄海海戦」の教訓として、種々雑多の艦艇をいくら多く集めても、決して戦力の向上とはならず、むしろ劣性能艦艇が優秀艦艇の足を引っ張り、全般戦力を低下させるということが分かりました。そして型式、性能の揃ったセットとなった艦隊が必要だということで、「六・六艦隊」(戦艦6、巡洋艦6)の創設と相成るのでした。
 日本は、これをもって次なるロシアとの戦いに挑むことになるのです。以後、次回。

 んん?
 そういえば、今回もあまり「主題」の外国産の軍艦の話を大してしていないような・・・。気のせいと言うことにしてくださいな・・・。駄目っすか?

(次回予告)

 くすんくすん。せっかく戦争に勝って得たものを、弱いものいじめが大好きな3人組が徒党を組んで奪っていきやがった。ちくしょう、今に見ていろ。こてんぱんにやっつけてやるんだからな・・・いつか(負け犬の遠吠え)。

 日清戦争で得た遼東半島を三国干渉で失った日本。その首謀者の一人ロシアを憎みます。

 この北国の熊め。お前なんて、ムツゴロウさんとウォッカを飲みながら戯れていればいいんだ。奪ったものを返しやがれ、ともともと自分のものでもないのに、所有権を主張し始める日本と、お前のものは俺のもの、俺のものは俺のものと泥棒の主張をするロシアとの戦いの機運が高まります。

 相手は、世界の大国ロシア。しかもあちらの皇帝(ツァーリ)には友達がた〜くさん。一方、こちらの天皇さんは一人ぼっち。普通は勝ち目がなくてふてくされている日本につよ〜い味方が現れた。やっぱし同じ島国同士は通じ合うのか、当時は超国家イギリスさんが応援してくれることになったのです。いや〜、女王陛下さまさまです。これで、熊どもを叩きのめせるぞ〜。
 さあ、あとはやりあうだけという状況になった両国の戦争がついに始まります。

 さて次回、「日本海を血に染めて」をみんなで読もう。
 ・・・あれ、なんか作品が変わってますね。大丈夫か?



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