ドレッドノート



 なんか、歴史のエッセイがやけに流行っているみたいなんで、森のくまさんも、それに続いてみようかなんて考えました。
 で、何を書こうか。ありきたりの歴史エッセイなんて、Teruさまや作者Oさまに適うわけがない。なんといっても文章力と知識力が違いすぎます。
 そこで、一計を案じました。正統的なものなのではなく、変則的なものにしてやれば、受けるんじゃないだろうか? 落ち目になった演出家が考えそうな発想で、今回、この読み物を書いています。ああ、引かないで、短いんでさらっと読んでいってください。

 で、色物にすることに決めましたが、さて、どうしようかと思案すると、最近凝っている戦車のミニチュアが目に入りました。そうか、兵器のお話しにしてやろう。でも、ひねくれものの私は、戦車のお話ではなく、海。それも、とある戦艦のお話にしてやろうと思いました。

 戦艦。バトルシップ(BB)。戦うために作られた艦の頂点の存在。
 しかし彼らは、第二次世界大戦時に、平べったい板を載せた船(空母)や蚊トンボ(飛行機)どもに駆逐されていき、現在では死に絶えてしまった過去の遺物(本当ですよ。現在、戦艦という艦種は、もう存在していません)。ああ、なつかしきは大艦巨砲時代。各国が競って千巻、違った戦艦。ええい、いまさっきからいい加減覚えろ、IME。何回、変換していると思うんだ。・・・こほん、ちょっと興奮しましてすいません。話しを戻しまして、19世紀から20世紀の初頭、各国が競って建艦合戦に明け暮れていた時代が懐かしい。まるで、城のような艦橋。黒光りして威圧感を放つ巨大な船体に、相手を思いっきりぶん殴ってやるんだというのがひしひしと伝わってくる砲塔・・・。子供頃、何回か戦艦のプラモデルを作っては、うっとりと眺めたものです。

 さて、戦艦のことをすこしでも知っていらっしゃる方は、「ド級」という言葉を耳にしたかと思います。この「ド級」という言葉。「ドレッドノート」の1906年から第一次大戦の頃までの十余年程の間に建造された戦艦を指す海事用語なのです。なぜ「ド級」という言葉が海軍用語になってしまったかというと、この「ドレッドノート」という戦艦が出たおかげで、これ以前に作られた各国の戦艦が、全て時代遅れのものになってしまったからなのです。それくらい、画期的な戦艦だということです。
 ここで、察しの言い方は、もう私が何について語ろうとするか分かったかと思います。そう、私は、かの「ドレッドノート」という戦艦について語ってみようかと思っています。
 で、どれくらい画期的なのか。それを紹介する前に、ちょっと話を逸れまして、この戦艦を作ろうと言い出した、変わり者のおっちゃんのことを話そうかと思います。ん、革命的な戦艦を作ったんだから、ふつう革命児とよばれるのでは・・・。確かに、そうも言われていますが、世間様(政治家)は、彼を変人と見ていました。それは、次を読んでもらえば分かっていってもらえると思います。

 改めて紹介。
 変わり者の名前は、フィッシャー提督(Fisher, John Arbuthnot)。
 ああ、銀河英雄伝説を読んでいる君。あの紳士的なおじさんを思い浮かべてはいけませんよ。ほんと似ても似つかないくらい、このおっちゃんは変わり者だったのですから。ま、変わり者だから、発想が飛びぬけていて、凡人ではとても思いつかないことを思いついて、かつ実行しちゃうんでしょうけどね。
 このフィッシャー提督。古くから続く著名な軍人の家系で、本人も海軍軍令部総長にまで出世するくらいだから、優秀な軍人だったのでしょう。確かに、幾つかの改革を実行していますし、それを成功させています。しかし、同時にとんでもない変人で、クリミア戦争に従軍。その後海軍省出仕となった当時、首に、「仕事はありませんか」という看板をぶらさげていたというのですから・・・。よっぽど、戦場が大好きだったんでしょうね。はい。周囲の人も、性格異常やら、やけに好戦的な人格やら頑固じじいなんていっていました。
 彼は、ことある毎にドイツ海軍脅威論を唱えました。有名な言葉に、「かかる現在、われら英ド級艦の主砲は悉くドイツに向かってそなえられつつあり」というくらいに・・・。偏執的なおっちゃんにけんか売られている人たちがかわいそうに思えてきます。もっとも、相手になっているのはドイツ海軍の父とよばれるティルピッツ。彼は、第一次大戦当時。艦隊温存策と無制限潜水艦作戦を行ったくらい、艦隊を大事にした人。フィッシャーと違い、無用なけんかどころか、けんかはできる限り避けようとする人だったんでしょうね。
 もちろん、フィッシャー提督はこんな変人ですから、多くの政治家から不謹慎な奴だと見られていました。だけど、こんな変人を強力に支持するものも存在したんですよね。彼の名前は、ウィンストン・チャーチル。後の英国首相です。もっとも、彼とも後にけんか別れしちゃうんですけどね。ほんと、フィッシャー提督ってけんか好き。けんかするのに相手を選ばないですね。友人がいたんでしょうか?
 この変人のおっちゃん。実は研究熱心だったらしく、イタリアのある論文(クルベルティ理論だったけ?)と日露戦争の研究から、こう結論します。「副砲はいらない、大きい主砲だけでいい。あと、速力をはやくしろ」
 彼が結論した背景は、こうです。戦艦の射程は、伸びつづけ、水平に狙いつけて射撃するようなことはなくなり、曲線弾道を描く間接砲撃が主となるだろう。もちろん、間接砲撃なんて、水平射撃なんかより命中率は格段と低くなりますが、遠くから一方的に撃っているほうが有利なんです。んで、低くなった命中率を上げるにはどうするか。下手な鉄砲、数撃ちゃあたる。敵艦の距離と方向を決めた後、全砲門で撃ちまくる。世に言うSALVO射撃(斉射法)が、その結論です。
 この場合、複数の口径の砲を使うより、単一の大砲の方が効率がいい。だから、フィッシャーのおっちゃんは、単一の口径の砲をつんだ戦艦を作ろうと考えました。

 ここで話を脱線。
 いかに強力な砲を持とうが、それが当たらないのでは仕方ありません。当たる確率を増やすためには、相手の速度と距離を精確に知ることができる、優秀な観測システムが必要です。そして1900年代の当時、ドイツはこのシステムでは、負けず嫌いのイギリス人が負けを認めるくらい優秀な観測システムを有していました。
 砲撃戦で重要なものの一つに、距離があります。SALVO射撃で説明したとおり、敵のいる位置に向かって曲射するのですから、最重要といっても過言ではありません。
 皆さんは、「測距儀」というものをご存知でしょうか。読んで字の如く、距離を測るものです。当時は、それを使って、相手との距離を測っていました。そして、この「測距儀」は光学機器なんですよ。Teruさまはぴんとこられたかもしれませんね。そうです。ドイツには、「ツアイス社」や「レンツ社」という、優秀な光学技術を有するメーカーがありました。その優秀な技術力のおかげで、ドイツは、イギリス人が羨むくらいの優れた観測システムを持つことが出来たのです。
 これらのことを調べているうちに、常にドイツと共にあった「クルップ社」の優秀な砲のことも出てきて、それについても触れたかったのですが、「測距儀」のことを優先したかったので、機会があれば、またその時ということで割愛させていただきます。

 えらく脱線しましたが、ここで、「ドレッドノート」の話に戻ります。
 変人フィッシャーおじさんの熱愛のもと、「ドレッドノート」が建艦されることが決定されました。そして、1906年12月に、「ドレッドノート」は、ポーツマス海軍工廠で竣工しました。
 着工から竣工まで、わずか13ヶ月。当時、戦艦一隻3年かかるというのに、この短さ。おっちゃんが、造船所の他の仕事をキャンセルさせてまで作らせたからです。う〜ん、ほんとに愛されてますね〜。
 ちなみに、「ドレットノート」は怖いもの知らずという意味です。まさに、変人フィッシャーおじさんの娘にふさわしい名前です。
 武装は、30.5cm 連装主砲×5(つまり10門)、7.5cm 単装砲×27、45cm 魚雷発射管×5。この7.5cm 単装砲を、副砲とおもうかもしれませんが、こいつは、巡洋艦はおろか、駆逐艦さえ撃退できません。魚雷艇などの小型艦艇用のものなんです。ほんと単口径主義で、遠距離から相手を叩きのめすために作られた艦です。
 次に、彼が重視したのは速力。彼が、なぜそれを重視したかというと、回避や不利な戦闘から逃げるためではありません。なんと、狙った相手を逃がさないためのものなんです。さすが、好戦的と呼ばれたおっちゃん。すごいぜ。
 そんな彼が注目したのが、タービン機関。従来のレシプロ機関に比べ、小型で高出力。長時間動かせるといいこと尽くしなんですが、戦艦のような巨大なものに搭載した例はありませんでした。前例主義の官僚なら、ここで二の足を踏むのですが、そこは変人のおっちゃん。理論的に可能なら、載せてみろとばかりに、嬉々としてこれを使うことに決定。結果、世界初のタービン機関の戦艦が誕生したのです。これが運良く成功し、当時の戦艦の速力より3ノットも速い、21ノットを出すことが出来たのです。
 最後に、防御力。撃ちあいをするのですから、相手の大砲の打撃に耐えなければいけません。撃ち合っていて、相手の弾が当たらないなんていうことは、さすがのフィッシャー提督も考えませんでした。というか、おっちゃんは絶対に血と血を流し合う決闘が好きそうなんで、相手に一発KOをもらってしまうような貧弱な娘なんて要らなかったのでしょう。ということで、ドレットノートは、当時の戦艦でもトップクラスの28センチの装甲を持つに至りました。

 これが出来たとき、まさにフィッシャー提督は狂喜乱舞したことでしょうね。硬い、速い、強いなんて三拍子揃った、愛しい子供ができたのですから。なんか、シャンペン片手に踊り来るって、さらにどこぞの若造にけんか売っている姿が目に浮かびます。
 これ以後、各国は、このドレッドノートを目標に戦艦を作っていくことになります。参考にと、各国から注文がくるほどの人気でした。ちなみに、この頃軍事大国化していた日本も、たか〜〜い金を払って、1913年にイギリスから巡洋戦艦を購入しています。その戦艦の名前は、「金剛」。作者Oさん。読んでますか〜。「金剛」の名前が出てきましたよ〜〜。
 この「金剛」は、改装に改装を重ねて、30ノットを出せる高速戦艦として、第二次世界大戦で獅子奮迅の活躍をしました。こう見てみると、けっこう長生きして活躍した戦艦だったですね。

 これほど注目された戦艦ドレッドノート。すごい活躍したのかと思いきや、哀しいことに、ほとんど戦果をあげていません。この子が完成してから、第一次世界大戦まで、イギリスはある意味平和だったからです。その影で、すさまじいドイツとの建艦競争はおこっていますがね。そして、第一次大戦突入時、すでに8歳も年をとっていた彼女は、ロートル。第一線で戦えない身体となっていたのです。大事な娘を傷物にしてはならじと、当時軍令部長だったフィッシャーのおじさんも、彼女を海峡艦隊という名の後方任務においやります。
 ああ、不遇。せっかく戦うために生まれてきたのにね・・・。だが彼女は、ここで始めてにして最後の戦果を上げることになったのです。
 彼女の上げた唯一の戦果。それは、ドイツのUボート。つまり潜水艦なんです。え、潜水艦と砲撃戦をしたのかって? 違うんですよね〜。なんとラム戦闘。そう艦体の衝突によるものなんです。いくら、後方勤務に回されている予備役の戦艦でも、排水量はけた違い。ぶつけられたUボートは、一方的に沈むしかありませんでした。
 しっかし、遠距離で殴り合いすることを目的に作られた艦が、前近代的なラム戦で戦果をあげるなんて、なんて世の中は皮肉に出来てるんでしょうね。

 その後、彼女はほんとに何をしていたのかわからないくらい、注目されていません。条約によって、廃艦されたとしか分かりませんでした。晩年どころか、戦艦としては不遇の一生としか言いようがありません。やっぱし、一度は晴れの舞台に立ち、海戦で華々しく活躍したかったことでしょうね。そういう意味では、「金剛」は幸運な艦だったのでしょう。

 そういえば、ひとつ面白い話しがあります。はっきり言って、不名誉な話ですが。
 1910年、「ドレットノート事件」というものが起きました。とある若者の一団が変装し、アビシニア(エチオピア)王国海軍代表団になりすまして、ドレッドノート号にいた士官に表敬訪問を申し込み、まんまと昼食の接待にありついたというものです。彼らは、全身に墨を塗って変装したそうです。普通、分かりそうなもんなんですけどね・・・。
 彼女って、妙なものには好かれた生涯だったのでしょう。こいつらにしても、フィッシャー提督にしてもね。

 書き終わってみると、なんか「ドレットノート」のことよりも、フィッシャー提督の方が印象に強いなぁ。主題に偽りありですね。
 変人おじさんの最後の経歴は、たしかとある作戦に反対するため、一時行方不明という手段を使って、それが理由で免職されたのだっけ? 軍令部長が、作戦に反対する手段として行方不明になるというは、確かにちょっとよくありませんね。ま、そこが変人の所以なんでしょうが・・・。


 統一した資料もなく、つきはぎだらけの情報をつなぎ合わせて書いた「ドレッドノート」のお話し。もし、ここが変だ〜。俺は知っているぞ〜という強者がいれば、メールや掲示板に書いてくださいね。喜んで返事しますんで。

 では、次回も機会があればお会いしましょう。



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