作家は書くな


 没頭してたんだよね。キーボードを打つことに。言うまでもないけど、ぼくは楽器のキーボードには無縁なので、パソコンのキーボードを打っていた。物語を書くためにね。

 三時間ぐらいかな。完全に自分の世界に入り込んでた。こうなると、まったく外の世界のことが見えないんだよね。ふと手を止めて、窓の外を見て驚いた。

 つ、積もってる……

 そう。雨が雪に変わって、東京の夜景がすっかり雪景色になっていた。ぼくは慌てて外に出て、雨ざらしの駐車場に停めてある車のワイパーを跳ね上げた。トラウマなんだ。ワイパーと雪って。もうずいぶん前のことだけど、はじめて買った車のワイパーが、雪の重みで曲がってしまった経験があるんだよ。悲しかったなあ。国産の安いハッチバックだったけど、それでも無理をして新車で買ったから。それ以来、雪が降ると必ずワイパーを上げておく癖がついた。

 今日(もう昨日ですな)も、夜には雨が雪になるって天気予報で知ってたから、早めにワイパーを上げておくつもりだったんだよ。でも、キーボードを叩きはじめたら、没頭モードに入り込んじゃって……話は最初に戻るわけ。

 頭に積もった雪を吹き払いながら部屋に戻り、コーヒーを入れようとキッチンに入った。そこで今日(2010年2月1日)の夕刊を読んでいないのに気づいて、コーヒーを飲みながら、キッチンテーブルに置いといた夕刊を開いた。ちなみにわたくし、朝日新聞を購読しております。

 ページをめくって『仕事中おじゃまします』というコーナーを見つけた。いろんな職業の人の仕事場を訪ねて、その人の仕事に関する姿勢を聞くという趣旨の記事だ。好きなんだよね、この連載。

 今回はエッセイストの山川静夫さんだった。失礼ながら、エッセイストと聞いてもピンと来なかった。だって山川さんって、NHKのアナウンサーだった人でしょ。ぼくの中では、紅白歌合戦と言えば、この人って感じなんだよね。(すいませんね、ぼくは昭和の人間ですから)

 だから、へー、いまはエッセイストなんだと思いながら、その記事を読み始めた……のだけど、十行も読まないうちに不愉快な気分になって読むのをやめた。

 山川静夫さんはパソコンを使わない。という書き出しから、すでにイヤな予感がした。日記も原稿も、もちろん手紙も、みんな使い慣れたペンで書くそうだ。そして、わずか七行目くらいで、「どうも手で書かないと、気持ちが伝わらない気がするという」なんて書かれていた。イヤな予感が的中した。

 それまで、ぼくなりに必死になって、パソコンで原稿を書いてきたから、よけいカチンときたんだと思う。自慢じゃないが……いや、この際だ、自慢してしまおう。ぼくはパソコンでしか文章を書いたことがない。日記は書かないけど、原稿は言うまでもなく、手紙や年賀状さえ、手書きは一切ない。それでなにが悪い。パソコンのキーボードで打った文章には気持ちがないというのなら、ぼくの小説には、ぜんぶ気持ちはこもっていないことになる。

 冗談じゃないよ!

 山川さんのような、とっても有名な方と、ぼくの文章を比べること自体が間違っていると怒られるのを承知で申し上げたい。こんなぼくだって、いままでにたくさんの感想をいただいてきた。あの小説で笑いました、その小説のあのシーンで泣きましたと。みなさん、それぞれに、思い入れを語ってくださった。みなさんからいただく感想が、小説を書くモチベーションの一つでもある。気持ちのこもっていない小説に、そんなお便りを送ってくださる人がいるわけないだろ。

 だから、七行目から先を読むのを止めて、ぼくは、ぼくなりに気持ちを込めた原稿を書くために書斎に戻り、さあ続きをがんばるぞと思ったところで、ふと自分の偏屈さに気づいた。

 待てよ。なんで山川さんの言葉を、一般化して考えてしまったのだろう。山川さんは「自分はパソコンが苦手だから、パソコンでは気持ちを伝える文章が書けない気がする」と告白しているだけじゃないか。すべての人がそうだと言っているわけじゃない。ぼくは納豆が嫌いです。だから、この世のすべての人も納豆が嫌いでしょう。なんて言う人がいないのと同じだ。

 そのことに気づいて、ぼくはキッチンテーブルに戻り、畳んでしまった夕刊を広げて、七行目から先を読んだ。

 おもしろかった。というか、おっしゃるとおりだと思った。キャッチボールで大切なのは、投げることではなくて、受け取ってもらうことだと山川さんは言う。「伝える」ではなく「伝わる」を意識しなければならないと。

 うん。まったく、その通り。

 とくにおもしろいなあと思ったのは、落語家の桂小南(2代目)の揮毫(書画)の引用だった。「噺家は喋るな」と書かれているそうな。

 深いなあ。べらべらと言葉数だけ多い落語はおもしろくないってことらしいけど、喋らない噺家になるのは大変だよな。書かない作家も大変だよなあ。そんな境地に達することは、ぼくみたいな場末の飲み屋でくだ巻いてるようなのには、ぜったい無理だな。

 だから、話を少し戻そう。

 手書きでないと気持ちが伝わらないというのは、じつは多くの人が思っていることだと思う。せめて年賀状くらいは、一筆「お元気ですか?」くらい、ペンで書き添えるって人は多いだろう。

 でも、それでいいんだろうか? 本当に気持ちがこもっている文章は、その内容に気持ちがあるわけで、手書きだろうが印刷だろうが関係ないはずだ。内容がないから、せめて手書きでと自分を納得させているだけじゃないか。キャッチボールで言えば、自分の投げたい球を投げてるだけじゃないのか。

 そう考えると、自分の思考を、一番表現しやすい手段が、一番気持ちを込められる手段になると思う。ぼくの場合、それはパソコンだ。思っていることを、よどみなく吐き出すには、パソコンの力を借りないと無理なんだ。ぼくは筆圧が強いので、ペンで長いこと文章を書いていると指が痛くなるし、第一、もう漢字をずいぶん忘れてしまっていて、えーと、あの漢字はどう書くんだっけ……なんて時間を間に挟むと、そこで思考が途絶えてしまう。

 いままさに、こうしてエッセイを書いていられるのも、頭に浮かんでくる言葉を、ほぼリアルタイムでキーボードから入力できるからだ。だから、打ちやすいキーボードを探し求めるのだし、変換効率のいい日本語変換ソフトにこだわる。そのためなら、何万円もする万年筆を買い求めるのと同じように投資するのだ。

 だから、ぼくは言いたい。「手書きでは、気持ちが伝わらない」と。

 ただパソコンだと誤字脱字が増えるような気がしないでもないけどね。キーボードを打つ手より、常に思考の方が一歩先を行ってるから、間違った入力を見逃しちゃうんだ。

 でも、ぼくの誤字脱字を見つけるのが趣味だと言ってくれる読者の方がいらっしゃるので……それはそれで、気持ちがこもっている(人間的?)と思って、やっぱり、パソコンがないと気持ちのこもった文章は書けません。それでなにが悪いというのではなくて、それでいいんだと思う。卑下する必要も自慢することもないのだ。なにしろ、書かないことが一番いいのだから(笑)。


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