ダーウィンの見なかった夢


 今年は、ダーウィンが誕生して200年目、そしてかの有名な『種の起源』を発表して150年という節目の年だ。となれば、ダーウィンについてのエッセイを書かねばならないと、ずーっと思ってた。そんなおり、Script1の読者の方からメールをいただいた。いや、進化論についてエッセイを書けという催促メールじゃないけど(笑)、そのメールが、人間の進化について考えるキッカケを作ってくれたので、ここにメールを送ってくださった同好の士である読者とダーウィンに敬意を表して、エッセイをお届けします。

 さてダーウィン。

 みなさんも、名前くらいは知ってるよね。フルネームは、チャールズ・ロバート・ダーウィン。彼は超自然的な作用を持ち込まずとも(要するに神さまのことだ)、生物の変化を人間の理性で理解できると考えた。具体的には、自然選択(自然淘汰)という概念を生物学に持ち込んだんだ。

 ダーウィンの理論は、あまりにも画期的だった。コペルニクスが地球を宇宙の中心から追いやったように、ダーウィンが人間を世界の中心から追い出してしまったんだ。ぼくは、ついつい大げさに書いてしまう癖があるけど、ダーウィンは掛け値なしに、世界を変えてしまった。おかげさまで、現代のぼくらは、ダーウィン的な考え方しかできなくなったと言っても、言い過ぎじゃないくらいだ。

 え? わたしダーウィンなんか知らないから、彼の理論に影響なんかされてないわと、あなたは思ったかも知れない。いや、あなたは確実にダーウィンの影響を受けている。だって、あなたの教育を担当した教師が、ほとんどダーウィンの影響を受けているはずだから(もっと言うと、その教師の教師がダーウィンの影響を受けている)、あなたも知らず知らずのうちに、ダーウィン的な考え方をするように育ったはずだ。

 たとえば、あなたが「進化」という言葉を使うとき、それはダーウィン的な意味で使っているはずだ。自民党の一党独裁を解消して、日本の政治は進化しなきゃいけないとか、今度のデジカメは二年前に買ったヤツより進化してる……とかとか。

 ぼくらは、進化という言葉をなにげなく使うけど、じつはダーウィン以前の進化(evolution)という言葉には、変化が積み重なって、よりよいモノに変わっていくという意味合いは薄かったらしい。ダーウィンご本人も、進化について解説した『種の起源』を出版したとき、進化という言葉を積極的には使わなかったと言われている。

 自然選択による変化の積み重ねが生物を進化させる。彼のこの理論が、これほど人類の思考に影響するとは、ダーウィン自身、思ってもいなかっただろう。それどころか、『種の起源』を発表したとき、人々の反発があまりにも激しくて、「この理論が受け入れられるのには種の進化と同じだけの時間がかかりそうだ」と言ったそうだ。

 実際には、かなり急速にダーウィンの説は世界に広まっていった。理論そのものは、いくつかの修正を迫られたけれど、彼の進化についての考え方はオリジナルのまま生き残った。150年の長きにわたって、さまざまな批判に耐え続け、あらゆる審査にパスしてきたんだ。

 それでは、ダーウィンに登場願おう!

 いや待って。ごめん。ダーウィンの登場の前に、例によってタイムマシンをもっと過去に送り込みたい。

 それは古代ギリシアだ。地動説も原子論も、思えばみんな古代ギリシアに最初の痕跡があった。でもまさか、進化論はないだろう?

 あるんだな。しかも古代ギリシアの中でも、とびきり古い時代に。

 紀元前610年ごろ、後に古代ギリシア最初期の哲学者と呼ばれることになるアナクシマンドロスが生まれた。タレスと並んで、彼は歴史に記録の残っている、最古の哲学者だ。ダーウィンに先立つこと、約2400年前の生まれだよ。

 アナクシマンドロスは、すべての生命体は、海に生息する魚から進化したと考えた。魚はやがて陸に上がり、そこで変異のプロセスを重ねてきたのだと。なぜ、そんなふうに考えたのかは、よくわからない。さらにアナクシマンドロスは、先へ進み、人間すらも、ほかの動物から変化して、いまのようになったと考えていたらしい。人間の子供は、かなり長い間、大人の保護を受けなければ生きていけない。もし人間が、最初からそういう生物だとしたら、いままで生き残っては来られなかっただろうと、アナクシマンドロスは考えたようだ。だから人間は、もっと野性的な動物から変異して、いまのようになったのだと。

 すばらしいじゃないか! アナクシマンドロスの考察は、ほぼ当たっている。しかも、人間を特別な存在とは考えず、ほかの動物と区別しなかったところが先進的だ。時代に2400年先んじていたという、些細な欠点さえなければ、アナクシマンドロスが、ダーウィンに代わる賞賛を受けていたかも知れない。

 なんて持ち上げといてなんだけど、アナクシマンドロスの考えは、単なる思いつきでしかなかっただろう。ソクラテス以前の哲学者である彼の時代は、博物学の知識が充実していたとはとても思えない。古代ギリシャで、はじめて博物学的な仕事をする哲学者が現れるには、まだ200年も待たなければならない。

 というわけで、アナクシマンドロスのことは忘れよう。

 つぎに登場してもらう人物は、カール・フォン・リンネだ。1707年にスウェーデンに生まれた博物学者。いきなり時代が進んだな。

 彼は1735年に『自然の体系』という本を出版して、分類学の基礎を築いた。その本の中でではないけれど、後にリンネは、植物は、ある共通の祖先から枝分かれしたという説を提唱した。いまの科学水準に照らすと、リンネの研究は間違いも多い。それでも、アナクシマンドロスと違って、豊富な博物学の知識を元に、植物進化を考えたという点で、リンネは正真正銘の科学者と呼べる。

 さあ、だいぶ時代がダーウィンに近づいてきたぞ。いよいよ真打ちの登場か!

 うん。ここでダーウィンに登場していただこう。ただし、われらがチャールズ・ロバート・ダーウィンではなくて、彼の祖父である、エラズマス・ダーウィンに。

 じつはエラズマスも、進化論を発表していた。ダーウィニズムという言葉は当時からあって、それはダーウィンの祖父エラズマスの理論を指す言葉だったんだ。

 しかしエラズマスの理論は不完全だった。それどころか、エラズマスは観察や観測などの実践的で科学的な手法にあまり執着しなかったから、彼の理論は科学的と言うより、むしろ哲学的と呼ぶべきかも知れない。孫のダーウィンは、そのことで、祖父のことをずっと批判していたらしい。

 長々と説明してなにが言いたいかというと、ダーウィン以前にも、進化という考え方はあったということなんだ。ダーウィンの時代には、すでに進歩的な科学者たちが、活発な議論をしていた。ニュートンが万有引力の法則を考えついたのは、彼以前に、ケプラーやガリレオの研究があったからだ。ニュートンはそのことを、「わたしが人より遠くを見通せるのは、巨人の肩の上に乗っているからだ」と表現した。ダーウィンも同じなんだね。彼もまた、巨人の肩の上に乗っていた。

 では、いよいよ、ダーウィンに登場してもらおう。タイムマシンを、1809年のイングランド、シュロップシャー州シュルーズベリーに向かわせよう。彼はそこで生まれた。

 チャールズ・ロバート・ダーウィン。六人兄弟の五番目の子供だ。男の子としては二人目だから、彼は次男だ。ちなみにお兄さんは、祖父と同じエラズマスという名前だから、科学史のエッセイを書く身としてはややこしくて困る(苦笑)。

 まあ、それはともかく。父親は裕福な実業家(医者でもある)で、家は裕福だった。くわえて、祖父は有名な博物学者。それで幼少のころから博物学に興味を持ったようだ。

 余談だけど、母方の祖父は、かの有名なジョサイア・ウェッジウッドなんだよね。聞いたことあるでしょ、ウェッジウッド。そう、イギリスの陶磁器メーカーだよ。ウェッジウッド社は、1759年に、ジョサイア・ウェッジウッドが作った会社なんだ。

 さて、父も母の実家もお金持ちだから、ダーウィンはなに不自由なく育って、医学を勉強するためにエディンバラ大学に入学した。ところが、医者になるには大きな問題があった。なんと彼は、血を見るのが苦手だったらしいんだ。気持ちはわかる。ぼくも血を見ると、ちょっとクラッとするから(苦笑)。

 だからダーウィンは、本業の医学そっちのけで、大学でも好きな博物学に没頭していたらしい。間の悪いことに(?)、エディンバラ大学の博物館は、当時ヨーロッパで最大の植物コレクションを誇っていたから、それを目にしたダーウィンには、医学どころの騒ぎじゃなかっただろう。

 どーも、エディンバラ大学ではいい成績が残せないので、息子を心配した父親は、ダーウィンをケンブリッジ大学(クライスト・カレッジ)に転入させることにした。医学にもビジネスにも興味がないなら、牧師になるのがいいだろうと考えたようだ。ダーウィン自身も、牧師なら空いた時間に研究活動ができるから、父親の提案に喜んだらしい。

 これが転機だった。ケンブリッジ大学で、後にダーウィン自身が、もっとも影響を受けた人物と称した、ジョン・スティーブンス・ヘンズローと出会ったんだ。

 聖職者で博物学者のヘンズローは、ケンブリッジ大学に庭園を持っていた。彼の弟子になったダーウィンは、師匠とよくその庭を散歩したそうだ。そんなこんなで、ケンブリッジ時代のダーウィンも、父親の心配をよそに、本業の神学より、博物学にのめり込んでいった。このころ地質学も学んで(しかも優秀な成績だったらしい)、将来の研究に必要な知識を、着実に身につけていったのだけど……彼はまだ自由思想家ではなかった。要するに神さまを信じていたんだ。

 まあ、建前とはいえ、牧師になる勉強も続けていたはずなので、神さまを否定するなんてありえないけど、それにしても、神学の権威だったウィリアム・ペイリーが書いた『自然神学』を額面通り、そのまま信じ込んでいたようだ。自然神学を要約すると、「すべての生物は神さまが作って、しかも作られたときから、いまの姿でなにも変わっていない」というものだ。まだ二十歳前後のダーウィン青年は、純朴な宗教観の世界で生きていた。

 そして1831年。ダーウィンはケンブリッジ大学を無事に卒業した。成績は、たいしてよくなかったらしい。と書くと、勇気づけられる大学生が、Script1の読者にもいるだろうか(笑)。冗談はともかく、この年はダーウィンにとって、彼の人生を決定づける、もっとも重要な年になった。その年の暮れに出航予定の、測量船ビーグル号に、恩師ヘンズローの紹介で乗船できることになったんだ。

 ところが父親は反対した。ビーグル号は世界一周の旅を計画していて、五年間も航海を続けるはずだった。その航海は危険だし、第一、海軍の船に乗ることは、聖職者になるはずの息子の経歴に傷がつくんじゃないかと心配したんだ。けっきょく父親は叔父の説得でダーウィンの旅を許した。

 こうしてダーウィン青年の冒険が始まる。

 ビーグル号には、専任の博物学者がべつに乗っていた。ダーウィンの仕事は、船長の話し相手になることで、客員という立場で乗船を許可されたんだ。おかげで不慣れな軍隊の規則に縛られることはなかったけれど、肝心の船長の話し相手としては失格だった。

 というのは、当時のイギリスは、奴隷制度を持っていて、ダーウィンは奴隷制度に反対していたんだ。バリバリの海軍将校であるビーグル号の船長とは、そのことで意見が合わなかった。いや合わないどころか対立していたんだ。理想に燃える若き青年と、頑固で保守的な軍人が仲良くなるのは、むずかしいだろうな。後にダーウィンは、ビーグル号での五年間を回想してこう述べている。

「はじめて体験した本当の意味での精神の鍛錬、あるいは教育」

 なるほど……ダーウィンほど過酷な経験をしたわけではないけど、彼の気持ちはなんとなく理解できる。ぼくも学校を出たばかりの青年から、師匠のアシスタントになっての四年間を、ダーウィンと同じ言葉で表現したい。当時はただ辛く苦しいとしか思えなかったことも、年月がたつと、あれは精神の鍛錬であり、あるいは教育だったと思えるようになった。

 失礼。話がそれた。

 ともかくダーウィンは、ビーグル号での居心地の悪さもはねのけ、たっぷりと自然観察の時間を楽しんだ。ブラジルの熱帯雨林で種の多様性に驚き、ブエノスアイレスの659キロ南では、オオナマケモノの化石を発見した。この発見は、いかにしてこれらの生物が絶滅に至ったかを考えさせた。アルゼンチンの草原に暮らすカウボーイが、先住民を殺す場面にも出くわした。文明人には耐え難い残忍な行為だが(だって殺人だぜ)、人間には動物の本能としての、縄張り意識があるとダーウィンに考えさせた。

 そして……

 ガラパゴス諸島だ。諸島の滞在はたった五週間だったが、ここでの体験こそが、ダーウィンの人生を決定した。いくつかの諸島に生息するカメやマネシツグミは、共通の祖先を持つんじゃないだろうかと考えるようになったんだ。

  船の中にいるとき、ダーウィンはチャールズ・ライエルの著書『地質学原理』に熱中していた。ライエルの理論は、斉一説と呼ばれるもので、過去に起こった変化は、現在観察される変化と同じという前提から出発する。ごくごく簡単に言うと、地質の変化のプロセスは、過去から起こっている浸食や火山活動などによって、徐々に進行するという考え方だ。現代のわれわれには、当たり前に思えるけれど、ダーウィンの時代は違った。地質の変化も、神の起こす天変地異によるものだと信じられていて、牧師になるはずのダーウィンもそう思っていた。

 ところが、ビーグル号で見る世界は、なんと変化に満ちていることか!

 5年にも及ぶ航海は、ダーウィンに自然の観察だけでなく、深く深く、物事を考えさせる時間を与えてくれた。しかし、ビーグル号での黙考では、その後の生物学を変えてしまう「ひらめき」は、ついに訪れなかった。

 ビーグル号での体験は、ダーウィンにとって巨大なデーターベースだったんだ。このデータを解析し、進化についての考えをまとめるのに、なんと20年もの年月を必要とした。

 20年だって? いくらなんでも長すぎない?

 いやもちろん、20年間書斎にこもって、考え続けていたわけじゃない。この間ダーウィンは、様々な研究活動と、研究の断片的な発表を繰り返して、徐々に自分の理論を完成に近づかせていった。とくに、ライエルの斉一説は、ダーウィンのインスピレーションを刺激するのに重要だった。自然の地形が、常に起こっている変化の積み重ねなら、生物の進化も同じではないか?

 研究だけではない。20年の歳月は、ダーウィンの心も少しずつ変化させていった。中でも語っておかなければならないのは、その宗教観だろう。

 積極的ではなかったにせよ、ダーウィンは神学の学位を取って大学を卒業した。そのころは、もちろんキリスト教への信仰を持っていたのだけど、ビーグル号の航海から戻ると、彼の信仰はしだいに薄れていったようだ。

 ダーウィン家はそもそも、信仰に厚い家系ではなかった。祖父も父も自由思想家で、慕っていた兄も、ダーウィンがビーグル号の航海から戻るころには、父たちと同じく自由思想家になっていた。そんな家族に影響されて、しだいに信仰が薄くなっていくダーウィンを妻は心配していたようだ。ダーウィン家の母方はみな敬虔な信仰を持っていて、ダーウィンの妻もそうだったんだ。

 でもまあ、ダーウィンも辛いところだったと思うよ。信仰を保ちつつ、種の起源を考えるのは、容易なことではないはずだ。事実、博物学の友人たちが、種の変化を調査することは、異教徒か急進的な無神論者の反体制的な行動だと考えているのを知って、落胆したらしい。

 そんなおり、1851年(種の起源を発表する8年前)に、決定的な衝撃がダーウィンを襲った。溺愛していた10歳の長女が亡くなったんだ。献身的な看護も虚しく、幼い少女はこの世を去った。キリスト教的には、身体の痛みなどの病も、神が人間に与える試練と言うことになっている。だが、悲しみに暮れるダーウィンは思った。なぜ、10歳の少女に試練を与える必要などあるのかと。

 ダーウィンの達した結論は、単純明快だった。人が苦しむ病や死は、神が与えるものではない。それは自然現象の一つなのだ。自然の法則によって、生物は生まれ、そして死んでいく。ただそれだけのことだと。

 娘の死を境に、ダーウィンは信仰を完全に捨てた。敬虔な信仰を持つ妻は、相変わらず日曜日には教会に通っていたが、ダーウィンが教会に行くことはなかった。1870年代に書かれた『自伝』では、宗教と信仰を強く批判している。

 進化論と宗教は、残念なことに水と油なので、あえてダーウィンの宗教観を説明した。娘の死が、進化論を生んだとさえいう人もいる。ぼくは、そこまでドラマチックではなかったと思っているけど、彼の心の中を覗き込むことはできないので、この話題はこの辺にしておこう。

 娘の死の悲しみを乗り越えて、ダーウィンは研究を続けた。当時の進歩的な科学者は、すでに進化という概念を持っていて、彼らは無生物から植物や動物が個別に発生して、それらが階段を上るように、より複雑で完全なものに進化していったと考えていた。この考え方では、たとえば猿は、原始的な猿がどこかで誕生して、その猿がより高等にはなっていくけれど、猿は猿のままと解釈していた。

 ダーウィンは、いよいよ自分の理論を世に出す決心をした。彼はいま説明したような、直線的な進化を否定し、種は共通の祖先から、枝分かれして進化していくと訴えた。それはまるで、大きな木のように、幹から無数の枝が伸びていく姿に似ている。そういう進化の仕方を「系統樹」と呼ぶ。まさに木に見立てた言葉だ。

 しかし、系統樹だけではダメだ。それは博物学の知識を写し取ったスケッチに過ぎない。なぜ、系統樹のような進化をするのかという説明が必要だ。そこにダーウィンは、世界を変えることになる、画期的なアイデアを持ち込んだ。

 それが「自然選択」だ。

 種は常にわずかな変化をランダムに起こしていて、その変化が生き残るのに有利な変化ならば、その変化を得られた種は生き残るだろう。これが自然選択の基本概念だ。

 イギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリーは、ダーウィンの理論を読んで、「どうしてこの考えを思いつかなかったのか!」と頭を抱えたそうだ。彼は後に、「ダーウィンのブルドッグ」と呼ばれるほど、ダーウィンの進化論を弁護した。

 もちろん、自然選択は大きな反論にさらされた。中でもダーウィンがショックを受けたのが、心から尊敬していたジョン・フレデリック・ウィリアム・ハーシェルからの反論だった。

 ハーシェルは、種の誕生を自然界における「神秘中の神秘」と表現していた。ダーウィンは、わざわざ『種の起源』の序文でハーシェルの言葉を引用した。それは、神秘中の神秘に対する、自分の独創的な考えを表明する決意であったと思う。

 ところが、ハーシェルは、種がランダムは変化を常に起こしているという考えをどうしても信じることができなかった。いったいなぜ、ランダムに変化が起こるのだ? 目的もなく、ただデタラメな変化を引き起こす理由はなんだ?

 残念なことに、この点に関してダーウィンは明確に答えることができなかった。種がランダムに変化する理由は、遺伝子の働きと、突然変異という現象を理解していないと説明できない。ところが、ダーウィンが『種の起源』を発表した1859年当時は、まだ遺伝子の働きについて知られていなかったんだ(遺伝現象は知られていた)。グレゴール・ヨハン・メンデルが、遺伝に関する研究をまとめた本を出版するのは1865年のことで、しかも発表してから35年間は、だれもメンデルの研究が重要だとは思わなかった。要するにまったく注目されず、ダーウィンがメンデルの研究を目にすることはなった。

 ハーシェルの批判にショックを受けつつ、ダーウィンはさらに先へ進んだ。1871年に、ある意味では、『種の起源』より大きな論争を巻き起こすことになる『人間の由来』を出版した。この中でダーウィンは、種の起源では言明を避けた人間の進化について論じた。もう、おわかりだと思うけど、人間のルーツは霊長類だと主張したんだ。俗っぽい言葉で言うと、人間は猿から進化したとダーウィンは主張した。

 ダーウィンがビーグル号に乗るキッカケを作ってくれた、恩師のヘンズローでさえ、ダーウィンの意見には反対していたので、『人間の由来』を目にしたら、さすがに怒ったかも知れない。でも、『人間の由来』を出版したときには、ヘンズローはもうこの世にいなかった。

 その後も、ダーウィンは様々な研究を続けた。じつはビーグル号の航海から帰ってきてから、ずっと原因不明の頭痛と動悸、それに筋肉の痙攣に悩まされていたのだけど(そのせいで、ビーグル号での冒険を最後に、ダーウィンは研究のための旅行ができなかった)、そんな病にもめげず、死の間際まで精力的に研究を続けて、進化論だけでなく自然科学の多くの分野に影響を与えた。

 そんな彼も、ついに1882年、73歳のときに力尽きた。彼の最後の言葉は、いろんなのが残っている。「死ぬのはちっとも怖くない」とか、妻に対して「お前はずっとよい妻だった」とか。

 なんで最後の言葉がいっぱいあるのさ(苦笑)。ダーウィンほどの人物になると、死を前にした最後の言葉は、後世の伝記作家のイマジネーションを刺激するんだろうね。要するに、勝手に創作されたものばかり。

 その中で、一番うそっぽいのが、『ダーウィンと家族の絆』を書いた、ランドル・ケインズの創作だ。彼はダーウィンの最後の言葉をこんな風に仕上げた。

「おお、神よ」

 いや、それはないと思うよ、ケインズ。いくらきみが、ダーウィンの2番目の息子、ジョージ・ハワード・ダーウィンのひ孫だからって、あんまりいい加減な創作はしちゃいけないと思うけどなあ。もしかしたら、自分の祖先が信仰を捨てたのが気にくわなかったのかな?

 もっとうがった見方をすると、映画にするときの一般受けを狙ったのかも。世界最大のマーケットであるアメリカでは、進化論はいまだに目の敵にされているからね。事実、『ダーウィンと家族の絆』は、ダーウィンの伝記映画の原作なんだ。ちなみに、映画の題名は「Creation」。なんで「Evolution」じゃないのかは知らないけど、ポール・ベタニーとジェニファー・コネリーの夫婦共演で、2009年の9月25日に、イギリスで公開予定なんだそうですよ。

 失礼。かなり脱線しちゃった。

 ダーウィンは、生涯を掛けて世界を変えた。DNAやコンピューターの時代になっても、自然選択というアイデアは有効なんだ。それどころか、いまもって生物進化を考える上での基本概念だ。

 とはいえ、進化論そのものは、新しい技術、新しいアイデアを付け加えて、いまも進化を続けている。その様子については、またいずれ、べつのエッセイで紹介することにしよう。現代の進化論は、ダーウィンの予想を超えて、さらに興味深いものになっているんだよ。


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