ガリレオ先生 第四夜
「真実の行方」


 つい先日のこと、電車に乗ったら、席が空いていたので座れた。ラッキー。つぎの駅で何人か乗ってきて、座席はすべて埋まっていたので、みなさんお立ちになっていたのだけど、ぼくの目の前には、なんとミニスカートのオネーさんが、お立ちになられた(←二重敬語ですが、わざとです)。

 まあ、スタイルのいいオネーさんですこと。お足がきれいなのはよくわかりましたけどね、老婆心ながら申し上げると、スカートをあと5センチも(いや、3センチ!)上げれば、パンツが見えそうですよ!

 ううむ。ぼくもまだ青春中期の男の子ですからね。きれいな足はもちろん、パンツが見えそうな短いスカートも大好きですよ。大好きですけど……ここは公衆の面前なんで、さすがに目のやり場に困るわけですよ。

 で、しょうがないから、オネーさんの隣に立っている男の方に視線を移すと、そのジーンズを履いたお兄ちゃんの股間が、それはそれはご立派に、もっこりと……でかいねえ、あんた!

 ううむ。ぼくもまだ青春中期の男の子ですから、マリモッコリみたいな、男の股間ほど見たくないモノもないわけですよ。

 要するにですね、右を見ても左を見ても、目のやり場に困るわけですよ。こういうのも天国と地獄っていうんですかね?

 もちろん、本当の地獄はこんな生やさしいモノではない。1600年の2月17日に炎に焼かれて命を落としたジョルダーノ・ブルーノが見た地獄に比べれば。

 というわけで、いつも通りの強引な前ふりが終わったところで(苦笑)、ガリレオ先生の第四夜をお届けしよう。前回から、ずいぶんお待たせしてしまったね。

 前回の第三夜では、時間軸を柱として、ガリレオとケプラーの人生に、ブルーノの生き様を重ね合わせてみた。火刑で命を絶たれたブルーノを、ぼくらは忘れてはならない。同じ悲劇を、同じ過ちを繰り返さないために。そういえば、前回のエッセイでうっかり書き忘れたけど、ブルーノを焼き殺したカトリックの教会こそ、彼のことを忘れていなかった。
前ローマ法王の、ヨハネ・ハウロが、ブルーノの裁判を無効として、彼の名誉を復活させたんだ。

 さあ、そろそろブルーノのことはいいだろう。科学史の主役はブルーノではないんだ。ブルーノがこの世を去った1600年から少しだけ時間を巻き戻して、このエッセイは1597年からはじめよう。

 1597年。この年は、ほとんどの人にとって深い意味はないだろう。でも、いまこのエッセイにとっては、とても重要な年なのだ。なぜなら、後に宇宙の真理に触れることになる二人の科学者が、はじめて交流を持った年だから。

 キッカケはケプラーだった。

 ケプラーはその年、「宇宙の神秘」と出した本を出版した。この本でケプラーは、多面体太陽系モデルという、独自のアイデアを披露している。ケプラーは、この本を、ぜひともガリレオに読んでもらいたいと思って、ちょうどイタリアを旅行する友人に頼んで、ガリレオに届けてもらったんだ。

 本を受け取ったガリレオは、大急ぎでお礼の手紙を書いた。本を届けたケプラーの友人が、すぐにイタリアへ戻るというので、ガリレオは序文をさっと読んだだけで、手紙を書かなければいけなかったんだ。

 このときガリレオがしたためた手紙には、興味深いことがいくつも書かれている。

 まず、手紙の内容を理解するために、ケプラーの本の序文と第一章には、コペルニクスの宇宙体形を信じることが宣言されていることを覚えておいていただきたい。

 この部分に関してガリレオは、こう述べている。

『これまでのところ、御本の序文に目を通しただけですが、序文から御本の内容の一般概念を得ました。真理の学問において、真理の友である僚友を得まして、わたしはこの上もなく幸福者であると思っております』

 この文章から、ガリレオもコペルニクスを支持しているとわかるが、それは手紙の後半に明言されるので、ここではまだ触れない。それより、つぎの文章が興味を惹く。

『――と申しますのも、真理の追究に向かいながら、哲学的理性を悪用しないような人は非常に少ないと言うことが苦痛であるからなのです』

 哲学的理性を悪用しないような人は非常に少ない……とは、いささか遠回しな表現だが、要するに、間違った思想で世の中を支配している連中を批判しているわけだ。

 と書くと、当時の権威であるキリスト教を批判しているように聞こえるけど、おそらくそうではない。ガリレオは敬虔なキリスト教徒だったから、キリスト教という宗教が、生きる上で重要だと信じていたはずだ。

 だが同時にガリレオは、教会の教えを科学に持ち込むべきではないとも考えていた。それが人生の後半で、教会との深刻な対立を生むことになるのだけけれど、当時のガリレオには、まだ教会との軋轢はなかった。それどころか、何人もの枢機卿と、親しく交流していたくらいだ。だから、このときのガリレオが批判している相手は教会ではなく、当時の知識階級であっただろう。

 落体の実験を思い出していただきたい。この実験でガリレオは、およそ2000年近くも盲目的に信じられてきたアリストテレスの教えを、疑問の余地なく否定した。

 ここでの問題は、アリストテレスの教えが、強大な権威を持っていたことだった。アリストテレスを利用して世の中を牛耳る連中が、たった一人の若者に、利権を奪われたいと思うだろうか? 手紙に書いてあるとおり、ガリレオが権威との対立に苦痛を感じていたとしても不思議はない。

 しかし――と、ガリレオは続ける。

『しかしここは、現世紀の不幸を嘆き悲しむ場ではなく、真理の証明にあたって独創的な議論を見いだされたことのお祝いを貴下に申し上げる場です』

 このあと、いかにもお祝いらしい、いくつかの美辞麗句が続いたあとに、ガリレオは、ついに宣言する。

『わたしは何年も前にコペルニクスの教えを採用しております〜〜中略〜〜彼の見地をとれば、世間により通用している仮説ではどうしても説明不能なままの自然現象の多くが説明できるものとわたしは思います』

 第三夜でも少し書いたけど、問題は「何年も前」と言っているところだ。それが正確に何年前のことかはわからない。だが、このときガリレオは、まだ33歳だったのだから、20代のころからコペルニクスを信じていたのは間違いないと考えられている。ガリレオは手紙の中で、コペルニクスを支持する文章をいくつも書いてきたと告白している。

 しかし――と、ガリレオの告白は続く。

『しかしこれまでのところ、それらを公の場に持ち出す気にはなれませんでした。われらが師コペルニクス自身の運命を思って、恐ろしかったのです。ある人々にあっては不朽の名声を得たと言いましても、他の大多数――愚か者の数が大多数ですから――の人々にとっては、彼はまだ冷やかしと、あざけりの対象であります』

 これだけ読むと、ガリレオはコペルニクスが受けた宗教的迫害を恐れているように読み取れなくはない。でも違うんだ。手紙でハッキリ書かれているとおり、ガリレオは大多数の愚か者が、いまだコペルニクスの説を理解せず、彼を冷やかしの対象にしていることを恐れたのだ。

 どういうこと?

 つまり、コペルニクスを支持することで、自分も「笑い者」になるのを恐れていたんだ。けっして宗教的迫害におびえていたわけではない。

 じつは、聖書の教えから外れる発見や理論に対して、過敏に反応していたのは、ルター派という人たちで、ガリレオが属するカトリック教会は、新しい理論に対して、わりと寛容だった。いやむしろ、カトリックは新しい理論を、教会の教えに取り込むことに積極的とさえ思えるときがあるくらいだ。

 アニメのヤッターマンだったら、ここで「説明しよう」というナレーションを入れなければならない。そういえば、つい最近、実写版のヤッターマンを見たけど、深田恭子のドロンジョ様は、思っていたよりよかった。本当は、土屋アンナが青いカラーコンタクトして演じたらハマったと思うけど(笑)。って、笑ってる場合じゃなーい!

 失礼しました。とにかく説明しよう。

 人は、二人集まれば派閥が出来るなんて言われるとおり、一口にキリスト教と言っても様々な会派がある。現在のキリスト教は、大きく分けて、カトリックとプロテスタントの二派がある。オーソドックス(正教)も含めて、三つに分けるべきかも知れないが、いまはカトリックとプロテスタントに注目しよう。

 非常に簡単な説明で申し訳ないけど、カトリックとは、ローマがキリスト教を国教としたときからの流れを汲む組織だ。だから、世界中にあるカトリックの教会は、そのすべてがバチカンに属していて、その総本山はバチカン市国の、サン・ピエトロ大聖堂だ。

 で、プロテスタントは、そのカトリックから分派した組織の総称で、どこかに総本山的な組織があるわけじゃない。それぞれの組織が、それぞれの教義をもって運営されている。

 とはいえ、プロテスタントと呼ばれる人たちには共通点がある。それはカトリックとは違うってこと。いや、だから分派なんだけど(苦笑)、そのカトリックとの相違点の中で、もっとも大きいのが、教会と聖書の扱いだ。

 カトリックでは、教会がもっとも大事なんだ。まず「教会」ありき。聖書は、その教会が定めたものであって、教会を超えるモノではない。

 ところが、プロテスタントの多くは(すべてではない)、聖書こそもっとも大事と考えている。教会なんて、しょせん人間が作った組織だから、そんなものに大した価値はないと考える。要するに、根本的なところが、まったく違うわけだ。この違いから、さまざまな相違点が生まれる。

 たとえば、カトリックの教会は豪華で荘厳だけど、プロテスタントの教会は、その多くが質素に作られている。あるいはまた、カトリックの神父は、教会が任命するわけだから、それは神さまの代理としての資格を持つ。ところが、プロテスタントの教会は、ただの建物にすぎないので、そこにいる牧師は、信者の代表ではあるけど、あくまでふつうの人だから、結婚だってふつうにできる。もう一つ例を挙げると、プロテスタントの源泉は聖書だから、彼らは「言葉」を非常に大切にする。カトリックの源泉は教会だから、彼らは「儀式」を大切にする(カトリックにはミサがあるだろ)。などなどだ。

 そもそも、プロテスタントが「教会」という組織を嫌うのは、カトリック教会が、ものすごく腐敗していたからなんだ。多くの人たちが、教会の腐敗に怒っていたんだよ。中でも有名なのが、マルティン・ルターだ。彼は教会を強烈に批判して、けっきょくカトリック教会から破門されるのだけど、ルターの元には多くの信者が集まり、ルター派として成長し、プロテスタントを代表する会派になっていく。それがいまのルーテル教会ってわけ。

 さて。やっと説明の肝心な部分に到達した。ルターは教会ではなく、聖書をキリスト教にとって唯一の「源泉」にしようと考えたんだ。彼はこう言った。「聖書に書かれていないことは認めることができない」と。

 なるほど、聖書には「農民から税金を搾取して苦しめてよい」とは書いてない。だから教会の圧政に苦しむ人々はルターの元に集まった。でも考えてみれば――いや考えるまでもなく――ルターの教えは、大きな問題をはらんでいる。旧約聖書はすべて紀元前、新約聖書だって、紀元100年までの間に書かれたモノだから、ルターの時代から見てもおよそ1500年前の書物だぜ。

 つまりだ、一番新しくても、1500年前のことしか書かれていない書物だけ信じて生きると言うことは、精神を1500年前に固定し、一切の進歩(変化?)を認めないと言うに等しい。本気でそれを実行すると、文明は発展しなくなってしまう。われわれは、1500年前の――現代から見れば、およそ2000年前の――生活を永遠に続けなければならないのだ。

 たとえば、聖書には細菌やウイルスについて書かれていない。だから聖書を信じる限り、抗生物質を作るわけにはいかない。抗生物質があれば救える、何万、何億という人々は見捨てるしかないのだ。あるいはまた、蒸気機関の発明が人間を重労働から解放し、その結果、奴隷制度の崩壊につながったけれど、もちろん聖書に蒸気機関システムについての解説はない。

 ここで思い出していただきたい。聖書を信仰の源泉にしているのはプロテスタントであって、カトリックではないと言うことを。カトリックにとって聖書とは、教会が定めた書物にすぎないから、もし、なにか新しい発見があって、それが教会の意に沿うモノなら、聖書に書き足してもいいわけだ。ガリレオが、教会からの迫害を恐れていなかった理由はここにある。ジョルダーノ・ブルーノのように、科学ではなく哲学として、カトリックの教えを批判してはマズいけど、哲学ではなく科学(数学)として、思想ではなく、単なる計算として宇宙を見ることは、カトリック教徒にとっては、それほど危険な行為ではなかったのだ。

 ちなみに、聖書しか信じないルターと、聖書に書いてないことを信じたコペルニクスとは、その生きた年代がほぼ重なる。ルターは、1483年に生まれて1546年に63歳で亡くなった。コペルニクスは、1473年に生まれ、1543年に70歳でこの世を去った。生まれた年は10年違うけど、没年は3年しか違わない。そして、コペルニクスの生きたポーランドと、ルターのドイツ(当時は神聖ローマ帝国)は、陸続きの隣同士だ。これもまた歴史の皮肉と言えるだろうか。

 説明が長くなった。以上のようにガリレオにとって、教会は恐れる対象ではなかったのだ。また、問題のプロテスタントも大きな勢力ではなかった。ケプラーに手紙を書いた、33歳のときには……

 さて、話を戻そう。ガリレオからの手紙を受け取ったケプラーは、大喜びで返事を書いたのだけど、このときケプラーは、ちょっとしたミスを犯した。自分は、天体を観測する器具を持たないことを告白し、ガリレオに対して、コペルニクスを支持しているのなら、それを証明する観測を行ってくれないかと頼んだんだ。そして観測結果を公表するのがイヤなら、内密でもいいから教えて欲しいと。

 これにガリレオは激怒した。ガリレオは、ケプラーからの厚かましいお願いを、コペルニクスへの支持を公表しない自分を、臆病者と非難していると感じたらしい。だからガリレオは、この最初の接触ののち、ケプラーとの文通を断絶した。

 大喜びで返事を書いたケプラーにしたら、ガリレオが、こんな反応をするとは夢にも思わなかっただろう。このときのケプラーは、よくいえば、天真爛漫にすぎたらしい。悪く言えば、いつもの「熱しやすい」性格が災いして、ガリレオに「これをやれ、あれをしろ」と、指示する立場に自分がないことを、すっかり忘れていたんだろう。加えてケプラーは、ガリレオの気むずかしい性格を知らなかったから、なおさら間が悪い。ガリレオへの手紙の最後に、つぎの返事は「長い長い手紙」をよこすようとさえ書いている始末だ。(もちろん、ケプラーに悪気はないのだが)

 というわけで、ケプラーが待てど暮らせど、ガリレオからの返事はなかった。長い長い手紙どころか、たった一行の手紙さえ。ケプラーが、ガリレオからの2通目の手紙を受け取るのは、最初の文通から、なんと13年もあとのことなんだ。

 その13年間は、ガリレオとケプラーが、別の方法で、同じ真理にたどり着くのに必要な時間でもあった。彼らが、それぞれなにをしたのか見ていこう。

 まずケプラー。ガリレオへの手紙に書いたとおり、彼には自分の理論を証明するために必要な、観測器具がなかった。多面体太陽系モデルを証明するには、実際に天体(惑星)を観測するしかないのだ。

 当時、ケプラーが熱望する観測データを持っている男がいた。彼こそが、第二夜に登場してもらった、ティコ・ブラーエだ。しかし、何年もの時間と、膨大な資金をかけて観測したデータを、簡単に教えてくれるはずがない。

 ところが、そのティコも、ケプラーを必要としていた。ティコには数学的才能がなかったんだ。だから、自分の観測データを生かす手段がなかった。そのことにティコは、焦りを感じていた。実際、数年分の観測結果は、RAWデータ(生のままのデータ)で、整理さえされていなかった。情報(データ)がどれほど重要だと言っても、それを活用しなければ、なんの意味もない。そのことを、だれより知っていたのはティコ自身だ。

 こうしてケプラーとティコは、お互いがお互いを引き寄せあって、2年間ほど手紙の交換をした後、いよいよ直接会うことになった。それは1600年の2月に起こった。これまた歴史の皮肉と言うべきか、第三夜で解説した、ジョルダーノ・ブルーノが、まさに火で焼かれているころだ。

 それはともかく。ケプラーとティコの出会いは、プラハから北東へ35キロほど行ったところにある、ベナテク城で行われた。この城は、ティコが長年住んだヴェン島から追い出されるように出た後で、移り住んだ場所だ。ティコは、ここに第二の天文観測所を作るつもりだったのだけど、じつのところ、ティコの仕事は、もう終わりに差し掛かっていた。もっと正確に言うと、ティコの仕事の「重要性」は終わっていたのだ。

 というのは、ティコの作ろうとしていた新しい観測所は、「いままで使っていた観測機器を新しく設置する場所」でしかなかったからなんだ。ティコが作った観測機器は、肉眼で夜空を観測するためのモノで、それ以上の性能はなかった。

 ところが、すでに望遠鏡は11年前(1589年)に発明されていた。そして、オランダの眼鏡職人が見よう見まねで望遠鏡を組み立てるのが1604年。さらに1608年には、やはりオランダのレンズ職人だったハンス・リッペルスハイが、望遠鏡は自分の発明だとして、特許を申請している。その特許を知ったガリレオが、望遠鏡を夜空に向けるのは、1609年のことなんだ。ティコが行っていた「肉眼」の時代は、終わろうとしていたんだよ。

 ティコが、そういう時代の雰囲気を感じ取っていたかどうかは定かではないけど、すでに54歳になっていたティコは、そろそろ自分の仕事をまとめ、歴史に名を残したいと願うようになっていた。観測技術の陳腐化というだけでなく、ティコ自身が、自分の研究のラストスパートに入ろうとしていたわけだ。

 そこで、ケプラーを、自分の新しい城へ招いた。

 ケプラーはケプラーで、ティコの観測データを、喉から手が出るほど欲していたから、ティコからの召還を断る理由はなにもない……はずなんだけど、どちらも頑固で、さらに熱しやすい性格だから、最初の出会いから、二人は気が合わなかった。唯一の救いは、お互い冷めるのも早く、ケンカをしても和解するのも早かった。それよりなにより、お互いに、どうしても必要な人材だから、どんなに大きなケンカをしても、けっきょく和解するしかないんだ。

 それでも、ティコが長生きしていたら、この二人は決定的な破局を迎えただろう。ティコは、ケプラーを弟子にして、共同研究者としての地位を約束したのに、いつも、なにかと理由を付けては、ケプラーにこれまでの観測結果を渡すのを拒んだ。ケプラーは、そのことに何度も腹を立て、そのつどティコと言い争っている。

 ここでみなさんは、ある疑問をお持ちになるだろう。そもそも、ケプラーを呼んだのはティコ自身だ。自分の仕事を完成させるために呼んだケプラーに、なぜデータを渡すのを拒んだのだろう?

 ティコの心の中をのぞくことは出来ないけれど、おそらくケプラーへの嫉妬が、ティコの心をかき乱していたのだろう。自分にはない才能を持ち、自分の仕事の成果を盗み取る若者……ティコはケプラーをそう見ていたに違いない。と同時に、ケプラーにしか、自分の仕事を完成させられないという諦め。この二つが混ざり合って、どうせケプラーに成果を盗み取られるなら、せめて、それを困難なモノにしてやりたかった……のかもしれない。と、後生の科学史家たちは推測している。

 というわけで、このイジワルなオッサンが長生きしていたら、ケプラーの忍耐は限界を超えていただろう。ところが、幸いと言ったらティコに失礼だけど、彼らの出会いから18ヶ月後に、ティコは急死するんだ。パーティーの席で、おしっこを我慢しすぎて膀胱が破裂して死んだなんて不名誉なことを言われていたけど、そんなバカなことではなく、本当の死因は、急性の水銀中毒だろうと考えられている。

 問題は……それほど多量の水銀を、なぜ飲んだかだ。彼は自分で自分の薬を調合していたから、水銀の扱いも心得ていたはずだ。という疑念から、じつはケプラーに毒殺されたのだなんてミステリを考える人もいる。ミステリ好き(ぼくも含めて)には悪いけど、ケプラーにその機会があったとは思えない。まあ、たとえ機会があっても、ケプラーがティコを殺害したとは思えないけど。

 ともかく、ティコは死んだ。ケプラーの元には、彼が溜め込んだ生データが、ごっそりと転がり込んだ。さあ、これで多面体太陽系モデルの正しさを証明できるぞ! と意気込んでみたモノの、その仕事は想像以上に困難だった。それには8年の歳月を必要とし、さらに当初ケプラーが思い描いていたモノとは、まるで違う法則を見いだすことになるんだ。

 8年も待っていられないので、ガリレオの様子を見てみよう。

 最初の文通で、すっかりケプラーのことが嫌いになったガリレオは、彼独自の研究を進めていた。このころのガリレオは、天文学よりも物理学に没頭していた。彼が発見した物理法則は、振り子の等時性と落体の法則だ。第三夜でも少し説明したけど、もう一度おさらいしておこう。

 まず振り子の等時性。これは第三夜には書かなかったが、この法則は、ガリレオが若いころに思いついたというのが一般的だ。どういう法則かというと、振り子は、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じという法則。いやホントだって。あなたの家に(ぼくの家にも)振り子時計なんかないけど、調べてみれば、ガリレオが言うとおりなんだよ。

 続いて落体の法則。これには二つの要素がある。まず最初に、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量に依存しない。重い物も軽い物も、落ちるスピードは同じってことだ。こいつは第三夜で解説してたよね。

 もう一つの要素は、物体が落下するとき、その落ちる距離は、落下する時間の2乗に比例するという法則。

 なに? 難しいって? い、いや……そんなに難しい話じゃないけど、まあ、べつに理解してくれなくてもいい。とにかくこのエッセイでは、ガリレオが「重力」に関する正しい法則を発見したのだということを覚えていただきたい。

 さて、ここでまたコペルニクスだ。彼は地球が回転していると主張した。コペルニクスをバカにする連中は、こう言ったモノだ。地球が回転しているなら、その上に乗っている人間は、振り落とされてしまうじゃないかと。

 いやまあ、コペルニクスには悪いけど、彼をバカにする連中の気持ちもわかるよ。なにしろコペルニクスの説には、物理的な裏付けがないんだ。

 ところが……

 地球の上に乗っている人間も、地球と同じように等速運動をしているので、振り落とされるどころか、まるで地球が止まっているように感じるだろう。ということを、ガリレオは重力の法則から導き出してしまった。

 さあ、みなさん。ここが重要なところだよ。ガリレオの発見した法則について理解しなくてもいいけど、これだけは覚えていってちょうだい。

 つまりだ。数学的技巧にすぎないコペルニクスの説を、人類史上はじめて、物理的に説明できちゃったのが、ガリレオ・ガリレイだったのだ!

 しかし、そのガリレオには数学が足りなかった。数学の知識がなかったんじゃない。当時はまだ、ガリレオの物理学を表記できる数学がなかったんだ。だからガリレオは幾何の知識だけで、自分の実験を表現するしかなかった。ガリレオの物理学を表現する数学を考えついたのはフランス人のルネ・デカルトなんだけど、デカルトはこのとき、まだ10歳にもなっていなかった。彼が解析幾何学を思いつくのは、まだまだ先の話なんだ。

 失礼。話が飛んじゃった。

 ともかくガリレオは、コペルニクスの説を、物理的に説明できることに気がついた。ケプラーが、ティコの残したデータと格闘しているころ、ガリレオの頭の中には、重力の法則に従って、太陽の周りを回っている地球の姿がイメージできていたに違いない。

 それでも、ガリレオはまだ、自分の考えを公言する気持ちになれなかった。重力の法則は簡単な実験でだれにでも検証できるけれど、地球が回っているという直接の証拠がないのだ。このときのガリレオは、まだ望遠鏡のことを知らなかったのだ。

 さて。そろそろケプラーくんは、ティコのデータを解析し終えたかな?

 ティコが生きていたころから、ティコも、そしてケプラーも共通して注目していたのは火星の軌道だった。火星は一番厄介で、すごく変な動きをするんだよ。まさに惑星の名にふさわしく、ふらふらとした動きで人を惑わす。なんとかして、火星が変な動きをする理由を説明したい。

 この仕事に、ケプラーはものすごく苦労した。あまりにも苦労して、あまりにも長い話なので、いつか、このためだけに、エッセイを一本書きたいと思っているくらいだ(たぶん書くよ)。だからいまは簡単な説明で済まそう。

 ケプラーが、ティコのデータの解析に手間取ったのは、多面体太陽系モデルという間違った前提から出発していたからだ。ケプラーは、このモデルの美しさに陶酔していたから、すぐに正しいことが証明できるだろうと思っていた。

 ところが、まったく歯が立たない。どんなに計算しても、火星の軌道を説明することが出来ないんだ。大きな挫折を味わったケプラーは、いったんすべてを白紙に戻して、計算をやり直すことにした。ところが、つぎのチャレンジでも、最初に間違いを犯し、さらに途中でやらかした間違いが、最初の間違いを打ち消すように作用してしまって、間違っていることに気づかないまま、二年以上も、間違った計算式で苦労するなんてことまであった。そして、とうとう、一つのことに気がついた。

 火星の軌道を決めるのは、チョー難しい!

 なんでじゃ? それは地球が動いているからだ。動いている地球から、動いている火星を観測しているから、火星の軌道を決めるのが難しいのだ。なにしろティコのデータは、本当に生データなので、火星の軌道も地球の軌道も、みんな混ざった状態になっている。

 そこでケプラーは、またまた、すべてを白紙に戻して、まず地球の軌道を決定することにした。地球の動きがわかれば、そこから観測する火星の位置を正確に決められる。

 こうして、ふたたび計算に取り組んだけれど、やっぱりうまくいかない。その理由は、惑星の軌道が、完全な「円」だと思い込んでいたせいなんだけど、さすがのケプラーも、そのことに気づくのには時間がかかった。

 とにかく、なにをやってもうまくいかず、このころのケプラーは、精神的にボロボロだった。しかも生活は相変わらず貧しく、おまけに奥さんが、ひどい女でね。名前はバーバラって言うんだけど、彼女は自分の容姿をかえりみないほど食欲が旺盛で、祈祷書以外の本は小説でさえ読まず、夫の仕事に関して理解しないどころか(そもそも愚かで理解できなかっただろうが)、バカにさえしていた。しかも怒りっぽい性格で、いつも文句を言ってケンカしていたそうだ。ケプラーも、最初は彼女とのケンカで張り合ったそうだけど、徐々に忍耐を覚え、自分が妻の気に障るようなことを言ったときは、それ以上のことを言って事態を悪化させないよう、自分の指を噛んだそうだ。

 余談ついでに書いておこう。ケプラーには結婚相手を決める「理論」があって、その理論に当てはめて最高得点だったバーバラと結婚した。ところが、彼女は最低得点の女性だった。なーんて言われることが多いけど。これは間違い。バーバラとの結婚は、ケプラーの友人や知人が勧めて、半ば彼らが強引に決めたことなんだ。

 失礼。余談はこのくらいで先へ進もう。

 どーしても、うまく計算できないケプラーは、当時有名だった数学の先生とか、むかしの恩師とかに手紙を書きまくって、助けてくれないかと懇願すらした。この地獄のような仕事を手伝ってくれないかと。

 でも、だれも手伝ってはくれなかった。それどころか、手紙の返事さえ返ってこない有様だ。仕方なくケプラーは、たった一人で孤独な計算を続け、ある日、とんでもないアイデアを思いつく。

 もしかして……火星の軌道は、円と円の組み合わせではないだろうか?

 つまり、大げさに言うと、二つの円が重なって、8の字を横にしたような、あるいは雪だるまを横に倒したような軌道を描くのではないか?

 すぐそのアイデアを実行してみたけど、うまくいかない。でも、一部分はうまく計算できるようだ。なぜだろう? ここでケプラーは、さらにとんでもないアイデアを思いつく。

 も、もしかして、もしかすると……火星の軌道は「楕円」かもしれない!

 ギャーッ! 楕円とは、簡単にいうと潰れた円だ。つまり古代ギリシアから信じられてきた、完全な形である「円」とは別物なのだ。いや、本当は「円」も「楕円」も同じもので、楕円の特殊な例が「円」であるにすぎないんだけど、神聖ローマ帝国で神学を学んで育ったケプラーにとって、完全な形である円を捨て去るのは、とんでもない愚行に思えた。

 ところが……

 軌道が楕円だとして計算すると、あんなに計算に苦労していた火星の軌道が、簡単に導き出され、もちろんそれは、ティコのデータとピッタリ一致していた。もはや疑いの余地はなかった。火星の軌道は楕円だったのだ。

 こうしてケプラーは、自分が到達した新しい説を、文学的かつ哲学的な、要するに一般の人が読んでも、なにが書いてあるのかサッパリわからない、チョー難解な文体で本にまとめて出版した。その本の題名は「新天文学」。まさに新しい天文学の幕開けだ。ときに1609年のことだった。

 これもまた運命のイタズラだろうか。この1609年こそ、ガリレオが望遠鏡を夜空に向けた年なのだ。そして、その400年後の今日、ぼくらはガリレオの業績を讃えて、2009年を世界天文年と定め、さまざまな天体観測の企画が計画されている。このエッセイだって、世界天文年を記念して書きはじめたのを、どうぞ、お忘れなきように。

 というわけで1609年だ。

 ガリレオは、オランダで特許紛争が起こっている望遠鏡のことを知り、自分でも作ってみる気になった。ガリレオ自身が書き残したところによると、オランダ人の発明に関する報告を読んだだけで組み立てたことになっている。ところが、それは事実ではないと疑う研究者もいる。ガリレオは、望遠鏡の実物を見て、触る機会があったから、すぐに組み立てられたのだと。

 しかしまあ、ガリレオは、望遠鏡を自分の発明だといってるわけじゃないので、そのことは大きな問題ではないだろう(いまのところはね。あとでケプラーの手紙で少し問題になるんだけど)。とにかく、ガリレオは望遠鏡を手に入れたのだ。

 それを夜空に向けて、まず最初に見たのは「月」だって。月はそれまで、なめらかな表面を持つ天体だと思われていたけど、本当はひどくデコボコしていることを知った。

 ガリレオはそれから、まるで憑かれたように天体観測に夢中になった。ガリレオはすぐに望遠鏡を改良して倍率を上げ、こんどは木星を見た。それが自分の人生を大きく変えることになるとも知らずに……

 それは、1610年のことだった。驚くべきことに、木星には「衛星」があったのだ。その衛星は、木星の周りを回っている。そんなことが、どうして起こり得るだろうか? だって、キリスト教が信じるところの宇宙は、すべての――すべてのだ!――星が地球の周りを回っていなければならない。地球こそが宇宙の中心なのだから。

 ところが現実は違った。木星にある衛星は、木星を回っているのであって、彼らの中心は地球ではないのだ。

 ガリレオは、ついに地球も他の惑星と同じように、太陽を回っている直接的な証拠を得たと思った。これだけ明確な証拠があれば、もうコペルニクスを信じていることを隠す必要もないだろう。そう考えて、自分の発見した衛星を、当時のパトロンだったメディチ家にちなんで「メディチ家の星」と名付け(いまはガリレオ衛星と呼ばれている)、そのことについて、学者が使うラテン語ではなく、ふつうのイタリア語で、しかも、だれが読んでも理解できる平易かつ美しい文体で、「星界の報告」と題した本を出版した。意外なことに、これがガリレオの出した最初の本なのだ(簡単なパンフレットでの研究報告は出している)。

 とたん、ガリレオは批判の的になった。

 ガリレオが発見した現象は、望遠鏡というレンズを通して見たときだけ起こる錯覚と片付けることもできる。あるいは、自分はなにも見なかったことにして、うちに帰って、酒飲んで寝てしまうという手もある。実際、多くの知識人が、そのどちらかの方法を採用したのだ。また、そうでない者は、望遠鏡をのぞきもしないで、ただガリレオを嘘つき呼ばわりした。

 ケプラーの新天文学は、それほど話題にならなかったのに、なぜガリレオの本は、それほど批判にさらされたのか? それは本の文体によるところが大きい。ケプラーは、一般人が読んでも理解できない難しい本を書いたが、ガリレオは、だれが読んでも理解できる本を書いたのだ。

 なぜ、二人のスタンスは、こんなに違うのだろう?

 それを説明するのにも、また宗教を持ち出さなければならない。ケプラーは神学を学んでいただけあって、神を心の底から信じていた。だから、研究が進まずに辛い思いをしたときには、素直に神さまに救いを求めて、自分を慰めていた(だからといって、神に救われたことは一度もないんだが)。

 ガリレオだって、もちろん神を信じていた。ところが、彼の精神は当時としてはすごく近代的で、非常に辛い次期にあっても、すべてを超越した神の領域に逃げ出すということがなかった。こういったら言葉は悪いけど、ガリレオには、ケプラーのような神秘主義的な趣味は、まったくなかったんだ。

 もっとわかりやすく極論するならば、ケプラーにとって、宇宙の神秘を知ることは、神の御心に近づくことだった。彼の研究は、神との一対一の対話なのだ。そしてまた、ジョルダーノ・ブルーノがそうであったように、ケプラーにとっての神も、教会が教えているような「小さな」存在ではなかった。

 ところが、ガリレオは違う。彼の心の中では、神と科学は分離していた。神は人の心の中に宿るものであって、望遠鏡で見える宇宙の先に、神は存在しないのだ。たとえば、こんな逸話がある。

 ある日、ガリレオは友人を招いて、自作した望遠鏡で夜空を見せた。するとその友人はたいそう感心してから言ったのだ。
「それで? 神さまはどこにいるんだい?」
 ガリレオは、友人の質問に少し戸惑ったあと、自分の胸に手を当てて答えた。
「ここだよ」

 この逸話は、もちろん後世の人による創作だ。ガリレオが友人にそんな話をしたという記録は残っていない。でも、ガリレオのスタンス(立ち位置)を示すのに、わかりやすい説明だと思う。

 さて、また説明が長くなったけれど、ガリレオが、一般の人にもわかりやすい言葉で、科学の本を書いた理由が、おぼろげながら見えてきたと思う。そもそもガリレオは、自分の実験や観測が、第三者にも簡単に検証できることを望んだ。そうすることで、自分の学説の正しさを証明したいと思ったからだ。だからこそ、落体の実験も、実験装置を簡単に制作できるように工夫したし、望遠鏡だって、たくさん作って配って回ったのだ。

 ガリレオは、いままで黙っていたのがうそのように、地動説を公言して回るようになった。彼は地動説を物理学的に説明できるし、望遠鏡で証拠まで集めたのだから、もう黙ってなどいられない。

 ところが、ガリレオの期待に反して、ほとんどの学者は彼に反対を表明した。いまでは、すばらしい文体で、詩的ですらあると絶賛されている「星界の報告」も、当時の評判はさんざんだった。たとえば「まったく哲学の欠如したそっけない講話。そうでなければ鼻高々の自慢話」なんていう連中までいたくらいだ。

 くどいようだけど、ガリレオの書いた「星界の報告」は、当時としては、まったく新しい文体で書かれていた。それは簡潔なのだけど、注意深く事実に基づいた記述がなされていた。ガリレオ以前に、そんな文体で学術書を出版した人間はいないんだ。研究を発表するのに、近代的な方法を採用したことこそ、ガリレオの最大の功績と評価する人もいるくらいだ。

 こうしてガリレオは、新しい発見を、新しい方法で発表したのだけど、新しいことをすると、必ず批判を受けるのは古今東西、どの国でも同じだ。ガリレオも多くの批判を受けたどころか、味方は一人もいなかった。

 いや……一人だけいた。13年前にガリレオの方から、一方的に断交した、あの男が。

 いうまでもなく、その男はケプラーだ。そのころのケプラーは、神聖ローマ帝国の帝国数学者としての権威を確立していた。「新天文学」によって明らかにした、二つの法則が評価されて……というわけではなく、ティコ・ブラーエの後継者という地位のおかげだ。なんにせよ、天文学者として名の売れているケプラーから援護してもらえれば、ガリレオにはありがたい話だ。

 なのにガリレオは、意固地にも自分からケプラーに救いを求めることせず(頑固だよなあ)、知人を通して、間接的に「星界の報告」への論評を頼んだ。

 ケプラーが、自分宛に送られた「星界の報告」を受け取ったのは、1610年の4月8日だった。そのときケプラーは、望遠鏡を持っていなかったので、ガリレオの主張を直接確かめる手段はなかったが、彼は直感的にガリレオを信じてもいいと思った。そして、すぐさまガリレオを擁護するために「星界からの報告者との対談」という小冊子を書き、翌月にはプラハで印刷して配った。もちろんそれを、手紙に添えてガリレオにも送った。

 ケプラーの手紙には、こんなことが書かれていた。

「意地の悪い反動主義者は、未知であるモノすべてを信じがたいと突き放し、アリストテレスの道から外れるモノすべてを、神への冒涜とみなします。彼らを相手とする戦いでは、たぶんわたしは向こう見ずだと思われるでしょう。わたし自身の観測結果を付け加えられないのに、貴下の主張を真理と見なしているのですから。しかし、その言語技術だけでも、判断の正直さを示し、信頼すべき数学者を、わたしが信頼しないということが、どうして不可能だというのでしょうか……」

 まったく、ケプラーの文体ときたら、手紙ですら回りくどくて読みづらい(上の訳文は、ぼくが手を加えて、少し読みやすくしている)。

 ともあれ、こんな調子でガリレオを持ち上げて、さらに、ガリレオの意見はだれよりも重要だから、ぜひ自分の「新天文学」にも、論評をくださいとケプラーは書いてきた。そして、13年間も止まっている文通を再開したいとも。

 ところが!

 ガリレオは、彼からの支持を、仲間たちに自慢して回ったのに、ケプラーに謝意を表明するどころか、手紙を受け取ったという連絡さえしなかった。それどころか、ケプラーに望遠鏡を送ってあげなさいと、帝国の大使から勧められても、ガリレオはその提案を無視した。

 なんとまあ恩知らずなヤツ。

 うん。たしかにガリレオは恩知らずだ。ケプラーに対して、意固地になっているところも見受けられる。でも、ガリレオがケプラーの「新天文学」に対して、沈黙し続けたのには、別の理由もあるかもしれない。

 というのは、ガリレオはケプラーの提唱した、惑星の「楕円軌道」を、どうしても信じる気になれなかったんだ。ガリレオほど近代的な精神の持ち主でも、まだ古代からの固定観念に捕らわれていたわけだ。

 このあと、ケプラーはもう一度、ガリレオに望遠鏡を送ってくれという手紙を出した。それまでの手紙は、ガリレオがついに地動説を認めたことで、わりと陽気な文体だったけれど、このときの手紙は、いささかシリアスだった。要約すると、「そろそろ望遠鏡を送ってくれないと、あなたのことを支持するのが難しい」というような内容だ。

 これには、さすがのガリレオもビビった。唯一と言っていい支持者を失うことを恐れて、あわてて返事を書いたのだ。それまで13年間も書かなかった手紙を。

 ガリレオはまず、ケプラーからの手紙をちゃんと受け取っていることを告白し、その上で、自分を支持してくれたことへの礼を述べた。ところが、望遠鏡について話が及ぶと、急に言い訳がましくなり、あれやこれやと理由を付けて、望遠鏡を送れというケプラーの依頼を断っている。

 そして、この手紙が本当の最後になった。ケプラーは、その後も何通かガリレオに手紙を送ったけれど、ガリレオは頑として返事を書かなかった。

 まず、その後のケプラーについて駆け足で紹介しよう。彼は、帝国数学者として実りのある人生を送っていたけれど、1612年に皇帝ルドルフ2世が死去すると、ケプラーの栄光にも陰ってくる。皇帝を引き継いだルドルフの弟は、兄ちゃんほど帝国数学者を必要としなかったから、ケプラーはプラハを離れ、リンツという田舎町へ引っ越すんだ。

 なんて書くと、まるで都落ちだよな。まあ、そうなんだけど、それほど悪い生活でもなかったようだよ。例の愚妻を通り越して、悪妻とさえ言える奥さんに先立たれて、17歳も年下のお嬢さんと再婚するんだ。ケプラーは41歳、お相手は24歳。まるで高橋剛と沢尻エリカみたいだな(苦笑)。

 駆け足と言いつつ、ここでまた余談。じつは、二回目の結婚で、ケプラーの逸話としてよく語られる「結婚相手を決める理論」が登場する。前の奥さんと結婚したとき、ケプラーには相手を選ぶことができなかったけど、今回は違う。なにせプラハの宮廷から田舎に引っ越したとはいえ、彼はご立派な帝国数学者だからね。今回は11人もの候補から選ぶことが出来た。11人もいたから、だれを選んだらいいか、彼なりの理論を考え出したってわけだ。真相は、健康で器量がいい人を選んだだけらしいけどね(笑)。

 失礼。こんどこそ駆け足で行こう。

 このあとのケプラーは、母親が魔女裁判にかけられて弁護に奔走しなければならず、お世辞にも心穏やかな生活ではなかった。それでも、1619年には惑星の運行に関する三番目の法則を明らかにしているから、頭脳の冴えに衰えはなかったようだ。

 1625年には、ルドルフ表の印刷をはじめたけれど、翌年の1626年に、リンツは一揆を起こしたルター派の小作人たちに包囲されてしまう。この事件をキッカケに、ケプラーは14年住んだリンツを出ることになった。それからの彼は、三十年戦争という動乱の中を3年間も放浪することになる。

 1630年11月2日。レーゲンスブルクという町へ着いてから3日後に、ケプラーは熱を出して床に伏した。病状はよくなるどころか、どんどん悪化していって、11月15日に息を引き取った。享年60歳。

 ケプラーの遺体は、11月19日に、町外れの共同墓地に埋葬されたことが記録に残っている。だが、その共同墓地は三十年戦争によって破壊され、ケプラーの遺体は永遠に失われることになった。

 そういうわけで、現在もケプラーの墓はない。でも、ケプラーゆかりの地には、彼の足跡が残っている。たとえば、ヴァイル・デル・シュタットには生まれた家が(現在はケプラー博物館)、グラーツとリンツにはブロンズ像が、そして息を引き取ったレーゲンスブルクの家には、記念版が掲げられているそうだ。

 本当に駆け足だったな。ケプラーは、このエッセイのように、歴史の流れを追っているだけでは、とても語り尽くせる人物ではないし、そもそも論点が定まらない。ケプラーについては、いつか彼のためにだけエッセイを用意することにして、いまはガリレオに戻ろう。

 ガリレオもまた、愉快とはほど遠い晩年を送ることになる。ご存じの通り、異端の烙印を押されて、異端審問所から呼び出しを食らってしまうからだ。

 ガリレオは、地動説を唱えることで「笑い者」になるのは恐れても、宗教的迫害は恐れていなかったはずだ。なのに、なぜ異端の烙印を押されたのだろうか?

 そもそもガリレオが、教会からの迫害を恐れていなかった理由を覚えているかな?

 その理由は、カトリックが科学(数学)には寛容だったからだ。もっと言うなら、科学は占星術という形で、推奨されてさえいた。しかしそれも、教会の権威を脅かさなければだ。ところがガリレオは、教会の冒してはならない領域に踏み込んでしまった。

 思い出していただきたい。ガリレオは望遠鏡で木星に衛星を発見してしまったのだ。教会の教えでは、すべての天体は、ひとつの例外もなく、地球を回っていなければならないのに、ガリレオはその例外を見つけてしまった。

 教会は間違っている!

 なのに、カトリック教徒のガリレオは、そのことに衝撃を受けなかった。天動説が間違っていることは、若いころから確信していたし、そもそもガリレオは、神(教会)のために科学を探究していたわけでもない。彼が求めていたのは「事実」であり、そこから得られる真理なのだ。

 あまり強い言葉を使うと怒られそうだけど……あえて断定してしまおう。ガリレオは、宗教に染まらない世界で最初期の「科学者」の一人なのだ。(ほかに、ウィリアム・ギルバートなど、何名かの科学者も近代科学の先駆けとして忘れてはならないが)。

 これまた怒られそうなことを書くと、近代科学という観点からは、コペルニクスも、ティコ・ブラーエも、あるいはケプラーも、みな占星術師でしかなかった。

 まあ、それはともかく。当時のガリレオは、地動説を唱えて教会から迫害されるとは思っていなかったのだけど、どうも風向きが怪しくなってきた。かつて、ブルーノを破門したドミニコ会から、異端の嫌疑をかけられたんだ。ドミニコ会が、ガリレオを告発したという公式な記録は残っていないんだけど、なぜか裁判は開かれた(らしい)。

 このとき、ガリレオの裁判を担当した裁判官は、皮肉にも、ブルーノを火刑に処した、ベラルミーノ枢機卿だった。だから、さぞかし厳しい判決が下されたと、このエッセイを読んでいるみなさんは心配されるかも知れない。

 ところが、ベラルミーノ枢機卿が下した判決は、ガリレオの無罪だった。じつは、ガリレオとベラルミーノは友人だったんだよね。とはいえ、それが無罪判決の決定的な理由ではない。ベラルミーノは、ブルーノを火刑にするほど、教会の権威を守ることに必死だったから(じつは、すでに教会の権威が揺らいでいたのだ)、いくらガリレオが友人でも、本当に異端と判断されるなら、断固とした態度をとったかもしれない。

 しかし、そうはならなかった。ベラルミーノは、それまで教会が許してきた通り、新しい理論を許すことにした。ただし地動説が、神や、神が行ったとされる天地創造と結びつかなければという条件を付けた。さらにベラルミーノは、友人としてガリレオに忠告した。あんまり人を刺激するような発言はしない方がいいよと。

 この裁判が行われたのは、1616年。ガリレオは、ベラルミーノの忠告を受け入れて、しばらくおとなしくしていたのだけど……

 それから14年後の、1632年に、ふたたび禁を破った。地動説の解説書とも言える、『天文対話』を出版したんだ。この本は、すごい名著だと思う。ガリレオの文体には、正確にして簡潔、そして読みやすいという特徴があるのだけど、この『天文対話』は、それに加えて、対話形式という、さらに読みやすい構成になっていた。具体的には、天動説を信じる者と、地動説を信じる者が、それぞれの立場を主張し合い、語り合うという内容なんだ。本当にすばらしい本だよ。アマゾンで『天文対話』と検索すれば買えるから、興味のある方は、ぜひ読んでみていただきたい。

 ところで、天文対話を、対話形式で書いたのは、読みやすさだけが理由ではない。むしろ、ベラルミーノの忠告が、ガリレオを慎重にさせたせいかもしれない。対話形式にすることによって、ガリレオは地動説を一方的に主張するのではなく、天動説の立場にも配慮しようと思ったのだろう。

 ところが……本の出来がよすぎたせいもあって、ガリレオはまた、窮地に立たされる。またもや異端の嫌疑をかけられるのだ。天文対話の出版の翌年(1633年)、ガリレオは、早くもローマの異端審問所から呼び出しを食らった。

 ちょっとだけ余談(蛇足?)。

 いままでぼくは、あえて一般的に有名な『異端審問所』という言葉を使っていたけど、正確には『検邪聖省』と記すべきかも知れない。というのは、異端審問所(正確にはローマの異端審問所)は、後に改称されて『検邪聖省』と呼ばれるようになったからなんだ。その検邪聖省は、さらに『教理省』と改称されて、いまでもバチカンに存在する。いやいや、存在するどころか、1981年の11月から、2005年4月まで教理省の長官だったラッツィンガー枢機卿(当時)は、いまなんと呼ばれる人物かご存じかな? そう、お察しの通り、第265代ローマ教皇、ベネディクト16世だ。いまのローマ教皇だね。

 失礼。余談終わり。

 ガリレオが受けた、二回目の裁判は、じつは謎が多い。まず、『天文対話』は、ローマ教皇庁の出版許可をもらっているから、そもそも告発されるなんておかしい。

 ところが検邪聖省は、ガリレオが、ローマの担当者に、序文と本文の終わりだけしか送らなかったことを問題視した。でもね、そもそもガリレオは、本書が数百ページもあるから、本の審査はフィレンツェの修道士に任せ、ローマには序文と本文の末尾だけ送ればいいと言う許可をもらっていたんだ。

 そこでガリレオは、最初の裁判で、ベラルミーノ枢機卿から無罪の判決を受けたので、その判決文を持って、自分の潔白を主張した。ところが、ベラルミーノはすでに故人だったので(1621年に亡くなっている)、検邪聖省は、ベラルミーノがガリレオに無罪を言い渡した根拠がわからないという理由で、その判決文は無効とした。

 そんなバカな。と、現代人の感覚では思うわけだけど、それどころか検邪聖省は、最初の裁判で、ガリレオを有罪とする判決文があると主張して、なぜか担当判事の署名がない判決文を、証拠として持ち込んだ。

 判事の署名がなきゃ、それこそ無効じゃないか! と、現代人の感覚では思うわけだが、なぜかこの判決文が証拠として採用された。

 うーむ。どうも正常な裁判だったとは思えない。ガリレオの有罪は、どこか上の方で、最初から決まっていたんじゃないだろうか? と、思うのも無理がない話で、当時のローマ教皇だった(要するにカトリック教会の大ボス)ウルバヌス8世が、ガリレオを罰するように陰で命令した……という陰謀説もささやかれている。

 じつは、このウルバヌス8世とガリレオは友人だったから(ウルバヌス8世が、まだ枢機卿だったころにね)、ガリレオは、教皇が助けてくれるんじゃないかと期待していたらしい。少なくとも、教皇と会って話をすれば誤解は解けると思っていた。でも、もしも裁判の黒幕が、その教皇だったとしたら……

 なんてミステリはたしかにおもしろいな(笑)。でも真偽のほどは定かではないので、小説ならともかく、エッセイではこのくらいにしておこう。ただし、事実としてガリレオは二回目の裁判で、ウルバヌス8世から、なんの庇護も受けられなかったことは記しておこう。

 こうしてガリレオは有罪の判決を受けた。死刑こそ免れたけれど、無期刑という重い罰を与えられた。とはいえ、最初から減刑されるのが決まっていたらしく、すぐに監視付きの家での軟禁処分になった。散歩のとき以外、家の外に出られないとはいえ、冷たい牢屋に閉じこめられるよりは、かなりマシだ。とはいえ、家と言っても自宅じゃないよ。フィレンツェの自宅へは、生涯帰ることが許されなかった。もちろん判決と同時に、すべての役職は剥奪され、名著の誉れ高い『天文対話』は発禁処分になった。

 当時、ガリレオの裁判は、けっこう話題になったらしい。解析幾何学を思いついたルネ・デカルトも、このころには、もう37歳になっていて、『世界論』を1633年には書き上げていた。ところが、本の内容に地動説を認める部分があったから、ガリレオ裁判の影響で出版を諦めたそうだ。この本が世に出るのは、デカルトの死後14年も経った、1664年を待たなければならなかった。

 しかーし!

 1633年の有罪判決のとき、すでに70歳になろうとしてガリレオじいさんは黙っていなかった。異端審問所(検邪聖省)を出るとき、それでも地球は回っているなんてつぶやいたのは有名な話だけど、まあ、実際にガリレオが、そんなことを言ったわけはない。

 そうじゃなくて、ガリレオは軟禁中にも本を書いていたんだ。残念なことに失明していたので、弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリ(トリチェリも真空の実験で有名な科学者なのだ)に口頭筆記させて、1638年に『新科学対話』を出版した。この本もすばらしい。先の『天文対話』が天文学なら、こんどの『新科学対話』は、主に力学の本だ。

 あれ? ガリレオは軟禁されているのに、本なんか出版できるの?

 その疑問はごもっとも。ガリレオは祖国イタリアでは、もう本を出せなかった。だから何者かがガリレオの原稿を持ち出して、オランダで勝手に出版されたことにしたんだ。

 やるね、ガリレオ(笑)。

 異端審問所の前で、それでも地球は回っているなんて捨て台詞を言うより、はるかに効果的で、はるかに痛快なしっぺ返しだ。教会が、どんなにあらがおうと、もう新しい時代への扉は、ガリレオたちの努力によって、開いていたんだよ。

 しかし、最後に気を吐いたガリレオも、これが最後だった。『新科学対話』を出版した4年後。1642年にこの世を去る。この1642年は、ぜひ記憶しておいていただきたい。ガリレオが没した年として、そして……アイザック・ニュートンが、この世に生を受けた年として!

 そう。ガリレオという巨人が世を去ると同時に、ニュートンが表れたんだ。単なる偶然だけど、ぼくはこの偶然に感謝したい。ガリレオの没年と、ニュートンの生年を別々に覚える必要がないもんな(笑)。

 なんて冗談はともかく。なかなか興味深い偶然じゃないか。歴史はときに、こんなイタズラをするってわけだ。そのニュートンが、ケプラーとガリレオの業績をひとつにまとめたような、万有引力の法則を、『プリンキピア・マセマティカ』(一般的にはプリンキピア)として発表するのは、ガリレオが世を去った45年年後の1687年だ。

 以上、すごく長くなったけど、ガリレオ先生と題したエッセイを終わりにしたいと思う。

 あ、そうだ。最後に、補足情報として書いておこう。

 1992年に、ときのローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が間違いだったと公式に認めて、ガリレオに謝罪するとともに、彼の名誉を回復した。そして、現在の教皇であるベネディクト16世も、このエッセイを書く動機にもなった「世界天文年2009」に関する説教で、ガリレオの業績を称え、さらに地動説を改めて公式に認めた。

 もう一つ。

 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、火刑にされたジョルダーノ・ブルーノに対しても裁判の再検証を指示した。その結果、カトリック教会は、公式に「ブルーノに対する処刑判決は不当であった」として、有罪判決を取り消した。

 己の信念によって、炎に焼かれて死んだブルーノ。彼もいまでは名誉を回復しているのだ。そのことを記して、このエッセイの幕を閉じたいと思う。

 もっとも、「世界天文年2009」はまだまだ続く。しかも今年は、ダーウィンが『種の起源』(進化論)を発表して150周年でもあるのだ。だから、もっともっと科学エッセイを書かなくちゃね。この手の話がお好きな人は、次回の科学エッセイもお楽しみに!


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