ガリレオ先生 第三夜
「ジョルダーノ・ブルーノの悲劇」


 あらイヤだ……うっかりしてたら、三月も、もう半ばよ、奥さん。

 いやあ、自由業なんてやってますとね、この時期は、確定申告の準備に忙殺されるわけですよ。ふだんの怠慢のツケが、どっと回ってくる感じ。その申告も無事に終わり、こんどはどっと疲れが襲ってくる感じ。

 まったくねえ。年中行事なんだから、効率的な申告作業ができるように、日々ちゃんと準備をしておけばいいのに……って、自分で自分に言ってるんです(苦笑)。

 というわけで、科学エッセイの続きがなかなか書けなくて、ごめん。なんて言い訳がましい前置きはこのくらいにして、さっそく、ガリレオ先生の第三夜をお届けしましょう。

 みなさん、暗黒時代という言葉をご存じだろうか? 釈迦に説法だとは思うけど、一応説明しよう。暗黒時代とは、一般になんらかの理由で(戦争とか疫病とか)、文化の進歩が停滞した時代を示す言葉だ。

 このエッセイを読んでくれているあなたが、三十代、四十代なら、当然のごとく、あるいは、あなたがまだ、お酒もタバコのたしなめない年齢だとしても、中世ヨーロッパを、暗黒時代と表現している書籍などに出くわしたことがあると思う。

 でも、そういう見方は、もう古いとされている。中世ヨーロッパが暗黒時代だったという歴史観は、20世紀の初頭に広まったらしい。それから約100年。現在では研究が進んで、中世のヨーロッパも、決して文化が停滞していたわけではないと考える歴史学者が多数派だ。

 たしかに、中世のヨーロッパでは、美術、文学、建築などの分野で、さまざまな発展があったと思う。それでも、あえて申し上げたい。こと科学に関しては、中世ヨーロッパの末期に至るまで、決して進歩的だったとは言えないのだ。

 思い出していただきたい。ぼくは第一夜で、古典的な宇宙観を説明した。それは宗教に深く根ざすモノで、最初は素朴な気持ちで神の偉業を称える感覚だったかも知れないが、宗教が権威として、為政者の利益を守るようになると、神の偉業である宇宙に、新しい理論を唱えることが難しくなってしまった。

 しかし、時代は止まっていたわけじゃない。キリスト教支配によって文化の多様性が失われ、その反動でルネサンスが起こったように、中世の末期には、科学の世界でも、進歩を望む者と、停滞を望む者の思惑が絡み合い、それぞれに、もがき苦しんでいたんだ。

 最終的には、新しい思想が古い概念を打ち負かし、ぼくらは暗い井戸の底から出ることができた。このエッセイで語りたいのは、ぼくらを暗い井戸から、新しい世界へ導いてくれた人たちだ。たとえば第二夜で語ったティコ・ブラーエ、惑星の運動を解明したヨハネス・ケプラー、エッセイのタイトルにもなっているガリレオ・ガリレオ、そして、真打ちのアイザック・ニュートン。

 でもその前に……

 少し立ち止まることを許していただいて、ジョルダーノ・ブルーノのことを思い出そう。

 ジョルダーノ・ブルーノ。彼は1548年にこの世に生を受けた。ティコ・ブラーエに遅れること2年、ガリレオに対しては16年早く生まれたわけだ。

 ブルーノは、15歳でドミニコ会(カトリックの修道会)に入った。ちょいと余談だけど、ブルーノは、生まれたときはフィリッポという名前だった。ドミニコ会に入ったときにジョルダーノと改名したんだ。

 さて、24歳のときに、ドミニコ会で司祭にまでなったブルーノは、そのまま宗教家の人生を送ればよかったものの、どういうわけか神学よりも哲学に目覚めてしまった。とくにコペルニクスや、宇宙は無限だと考えたクザのニコラウスに影響を受けてしまったのはマズイ。しかも、コペルニクスの地動説を喧伝して回ったのだから致命的だ。

 ここでひとつの疑問が浮かぶ。なぜ彼は、異端の迫害を受けるのを承知で、そんなことをしたのだろう? なぜ、頑迷に地動説や宇宙の無限説を彼は唱え続けたのだろう?

 自分が正しいと思ったことを曲げられない性格だったから? まあ、そうかもしれないが、いくら融通の利かない性格でも、自分の命を危険にさらすだろうか? しかも、地動説や宇宙の無限説を支持するためには、当時はまだデータが足りず、そのことをブルーノも知っていた。

 そこで、彼の信仰の強さが、一番の理由だと分析する人もいる。信仰の強さが理由だって? そんなまさか。信仰が強ければ、地球が宇宙の中心にあって、その周りを、お椀のような天球が覆っているという、古代ギリシアからの宇宙観を信じるべきだ。

 ところが、ブルーノはそう考えなかった。神とは――古くさい言葉で言うなら――全知全能の存在なわけで、人間などと言うちっぽけな存在をはるかに超越しているはずだ。

 ふむふむ。それで?

 そこでブルーノは考えた。神がちっぽけな人間の住む地球を、宇宙の中心にするわけがない。そもそも、神にとって人間は、特別な存在ではないはずだ。極論すれば、ゴキブリも人間も、神にとっては同じようなもんだ。

 ぼくは、宗教に対して自由思想家なので、ブルーノの考え方を、先進的な思想のように思える。人間を特別扱いしないところがいいじゃないか。

 さらにブルーノは先へ進んだ。あらゆるモノを超越した神という存在が、宇宙を作るとき、天球などという有限の球に固着するだろうか? いや、そんなことはない。神には有限の宇宙などふさわしくない。神こそが無限を扱えるはずだから、宇宙を無限としてお作りになったに違いない。

 宇宙は無限。この考え方は、当時としては悪くない発想だ。ブルーノより100年近く前の、クザのニコラウスが似たようなことを思いついていたとはいえ、そういう考えをハッキリと表明し、かつ喧伝したのは、古代ギリシアから、はじめての進歩かも知れない。

 いや……本当にそうだろうか?

 残念ながら、古代ギリシア人とブルーノに大きな違いはないようだ。古代ギリシア人は、球こそが完全な形と考えて、だから神は球を用いると思った。そしてブルーノは、神はすべてを超越した存在だから、有限より無限を好むと思った。

 けっきょくのところ、神という超越的な存在を仮定した時点で、哲学としては古典的だし、あるいはまた、神という存在を含むあらゆる理論は、科学として成立しない。科学のもっとも重要な目的は「なぜ?」という問いかけに答えることだが、そこに神が存在したら、最終的な結論はすべて「神がお望みになったから」で終わってしまう。

 とはいえ、ブルーノを責めるのは酷ってもんだ。彼が生きた時代は、科学と宗教は完全に分離されていなかった(現代だって、完全に分離しているか怪しいもんだが)。当時は、神学と哲学と科学は同じ鍋の中で煮込まれた「ちゃんこ鍋」みたいなモノだった。

 だから、ブルーノを科学者としてではなく、宗教家として見て、その思想の飛躍を賞賛するのは正しい理解かも知れない。彼は人間が神にとって特別な存在ではないという思想と、宇宙は無限という思想を組み合わせ、この宇宙には地球のような惑星がたくさんあり、そこに人間のような生物が住んでいると考えたのだ。まさに、地球は(そして人間は)特別な存在ではなく、宇宙のありふれた惑星に住む、ありふれた生物なのだ。

 なるほど。信仰の深さゆえに、そういう哲学を持ち得たのなら、容易に自分の哲学を曲げることはできないだろう。自分以外のだれも神の真実に気づいていないという理由で、その真実を黙殺するのは神への裏切りでもある。

 という分析が、たしかに成り立つように思える。つまり、彼は科学者ではなかったのだ。その証拠に、彼はこう言っている。宇宙は数学的計算によって分析できるものでなく、星たちの意志によって運行していると。彼はまた、彗星は神の意志を伝えるために、天界からやってくるとも言った。どうやら、ブルーノの哲学は、彼の強い(強すぎる?)信仰心が出発点だったと解釈してよさそうだよ。

 ところが!

 皮肉なことにブルーノの信仰は、当時のカトリック教会の教義から外れまくっていた。教会が認める宇宙は有限の球であり、その中心に地球がなくてはならない。ブルーノには、彼らの古くさい考えは、信仰ではなく人間の傲慢に見えたかも知れない。

 そんなこんなで、28歳のときに、ブルーノはとうとうドミニコ会から追い出されてしまった。そのすぐ後、カトリック教会からも破門。ここから、彼の放浪の旅がはじまる。

 このとき、ガリレオはまだ12歳。ケプラーに至っては、たった5歳だ。社会に影響力を行使するどころか、まだ、何者になるかもわからない子供だ。

 話を戻そう。さすがのブルーノも無駄な死を恐れて、生活していたナポリから逃亡し、ローマやジェノバをうろついたのだけど、追っ手もしつこく、イタリア国内にいたらマズイってんで、フランスへ向かった。幸い、彼の記憶術を聞きつけたフランス王アンリ3世の庇護を受けられたので、フランスでは、7年間にわたって活動することができた。

 話が前後するけれど、じつは、このフランス時代に、先ほどから説明しているブルーノの思想が完成されていったのだ。このとき発表した著書、「灰の水曜日の晩餐」では、コペルニクスの地動説をハッキリと支持し、さらに「無限宇宙・諸世界について」では、文字どおり、宇宙の無限性を論じた。

 ちなみに、ブルーノがフランスで過ごした最後の年に、ガリレオはまだ19歳で、ピサ大学の学生だった。しかも医学生だったのだ。最初は医者になろうとしたのだけど、すぐに数学と物理に興味が移って(そもそも、数学の方が好きだったのだ)、本格的な勉強をはじめる。

 ガリレオは、そろそろ頭角を現してきそうだけど……

 ケプラーは、まだ12歳。しかも家が貧しかったため、9歳から11歳まで学校へは行けず、田舎で重労働につながれていた。言うまでもないことだけど、当時は児童労働に対する規制などなかった。ケプラーの子供時代は、聞くも涙なんだよね。彼が、アーデルベルクにある神学校に入ることができたのは、やっと13歳になってからだった。

 またまたブルーノに話を戻そう。

 フランスで7年過ごしたブルーノは、こんどイギリスに渡った。オックスフォード大学の教授になりたかったらしく、そのためにフランス王アンリ3世の推薦状まで持っていたのだけど、残念ながら教授の職には就けなかった。そのころは、ロンドンの情勢もよくなかったので(イギリスはフランスと仲が悪いのだ)、ブルーノは、1585年パリに戻ることにしたのだけど、パリでもトラブルが待っていた。アリストテレスの批判とカトリック教会お墨付きの数学者を批判したことで、パリにいられなくなったんだよね。

 さあ、そこいくと、われらがガリレオ先生は、いよいよ頭角を現してくる。ガリレオは1586年に最初の論文『小天秤』を発表したんだ。この論文は、アルキメデスの原理について伝わっている逸話を、ガリレオなりに解釈して、厳密に再現してみせた……というような内容だ。ここでは詳しく解説しないけど、このころからすでに、ガリレオが「実験」を重んじていたことがうかがい知れる。

 そして翌年の1587年。23歳のガリレオは、はじめてローマを訪れて、現在でも世界中で使われているグレゴリオ暦を策定した、クリストファー・クラヴィウスを尋ねている。クラヴィウスは、学会の重鎮だったから、教授職を斡旋してもらえないか頼みに行ったんだ。その甲斐あって、ピサ大学の教授に推薦してもらうことができた。やったね。クラヴィウスの推薦状はバッチリ効果を発揮して、ガリレオはピサ大学と三年の契約を結び、1589年に、ついに大学の教壇に立つ。

 そのころのブルーノは、パリから逃れたドイツの大学で、アリストテレスについて講義していた。ところが、ここでもトラブルの嵐。しかも自業自得。いくら自説を曲げたくないからと言っても、古くさい考えに固着した連中を、片っ端から批判しまくって――しかも言葉が辛辣だったらしく――敵ばかり作っちゃイカンよ。彼の思想うんぬんではなくて、社会人として、ちょっと問題あるかも。それともマゾヒストなのかね? 自分を窮地に追い込んで喜んでるのか?

 そんな性格が災いして、ブルーノはドイツにもいられなくなる。彼がドイツの大学で教授職を解かれたのは、皮肉にも、ガリレオがピサ大学の教壇に立った翌年だ。まるで、これから咲き誇ろうとしてる花と、枯れていく花のような対比だ。

 そういえば、ケプラーはどうした?

 彼は苦しかった少年時代から抜け出し、こんどは苦しい青年時代を送っていた(苦笑)。やっと入った神学校で、鼻持ちならないインテリと見なされ、仲間たちから、ことあるごとに攻撃されていた。当時の彼の日記に「心痛のあまり、ほとんど死ぬほどであった」と書き残されている。1590年に19歳で学士クラスに進級しても、同期生たちとの関係は、さらに悪化する。ホントにもう、ケプラーの記録をたどっていると、読んでるこっちが憂鬱になるぐらい暗い人生だよ。

 どうやら、ケプラーに登場してもらうのはまだ早いようだ。だからブルーノに戻ろう。

 ドイツを追われたブルーノは、こんどはプラハに向かった。そこで、またまた大学の教授になりたくて八方手を尽くしたのだけど、まるでダメ。どこへ行っても厄介者。とうとうブルーノを雇ってくれる学校はなくなった。

 そんなこんなで、放浪を続けていたブルーノだったが、祖国を出てから15年後の1591年、ついにイタリアへ戻る決心をする。ヴェネチアのズアン・モチェニゴという貴族から、記憶術を教えて欲しいという招請を受けたからだ。

 お、おい待てよ! 異端審問所から逃げるためにイタリアを出たんじゃないか! いいのか戻っちゃって?

 もちろんブルーノだって心配しただろうが、ヴェネチアには、イタリアで二番目に歴史のあるパドヴァ大学がある。そう思ったらもう止まらない。パドヴァ大学の数学教授になりたくて仕方なくなっちゃった。そのためにはイタリアへ戻って就職活動をしなくちゃならない……さあ、どうする?

 けっきょくブルーノは、もう15年も経ってるんだから大丈夫だろうと思って、イタリアへ戻ることにしたんだ。もちろん最初に向かったのはパドヴァ大学だ。あの〜、すいません。わたくしを教授にしていただけないでしょうか?

 ここで歴史は、おもしろいニアミスを起こした。そのころ、ガリレオもピサ大学との三年契約が切れて、フリーになってたんだよね。で、ガリレオもパドヴァ大学の教授職を望んでいたんだ。

 ここまで書いたらピンときたかな?

 そう、パドヴァ大学の教授になったのは、ガリレオの方だったんだ。夢破れたブルーノは、自分を呼んだモチェニゴの家庭教師をすることになったのだけど……

 その二ヶ月後に、ブルーノはヴェネチアの官憲に逮捕され、ローマの異端審問所へ引き渡された。どうやら、モチェニゴがブルーノを呼び寄せたのは、異端審問所の罠だったらしいんだ。念のために書いておくと、異端審問所の計略に、ガリレオは関係していない。ブルーノとパドヴァ大学の教授職を競ったのは、本当に偶然だったんだ。

 ブルーノは、逮捕されてから7年間も牢屋に閉じこめられた。だから、しばらくブルーノから離れよう。

 ここでケプラーに登場してもらおう。というのは、ブルーノが逮捕された翌年の1593年に、ケプラーの運命が大きく変わるんだ。

 神学校に入ったケプラーは、当然のごとく聖職者になるつもりだった。ところが、彼にとっては運命の1593年に、オーストリアはグラーツにあるプロテスタント大学の数学官が亡くなった。さあ大変。だれか後釜はいないか?

 はい、お察しの通り、候補者に上がったのはケプラーだった。どうやら当時ケプラーが在籍していたチュービンゲン大学の評議会は、口うるさい若者だったケプラーを追い出したかったらしいんだよね。なにしろケプラーときたら、神学討論会の席上で、しばしばコペルニクスを弁護するような発言をしていたんだ。こいつは牧師に向いてないと評議会が考えても無理はない。

 ところが、候補になったケプラーは、突然のことにビックリして、最初は断るつもりだった。グラーツで数学の教師になるのは、高い地位とは言えないし、それ以前に、それまで学者になろうなんて考えたことは一度もなかったからだ。たしかにコペルニクスには関心があったけれど、それは天文学者になりたかったからではなく、興味を惹かれる多くのことのひとつにすぎなかった。

 それでもケプラーは、よくよく考えて、この申し出を受けることにした。数学の教師になれば経済的に独立できるし、まだ23歳の彼には、ちょっとした冒険も悪くないと思えたんだ。ただケプラーは、教師の役目を終えたら、いつでも神学の勉強に復帰できることを条件にした。彼の出した条件は受け入れられたけれど……このときが、神学との永遠の決別だった。ケプラーは自ら望んで、二度と神学に復帰することはなかったんだ。

 さて、一方のガリレオも、パドヴァ大学の教授として、驚くべき成果を上げていた。いや、恐るべき成果と言うべきかも知れない。なにしろ、それまで絶対の権威として信じられていたアリストテレスの間違いを、注意深く準備された実験によって、議論の余地がないほど完ぺきに指摘したんだよ。

 それは、かの有名な「落体の実験」だ。ピサの斜塔から、大小2種類の球を落として、それが同時に落ちることを観測した……なんて言われているけど、これはただの逸話で、本当は緩やかな斜面を作って、そこを大小2種類の玉を転がす実験をやったんだ。

 アリストテレスは、物が落下するのは、その「物」が、地球の中心へ帰ろうとする情熱の強さだと思った。だからアリストテレスは、古代ギリシアでも出来た簡単な実験をする気などまったく起こらず、ただ単純に、重い物の方が情熱が強くて、早く落下すると結論し、それを人類に信じ込ませることにも成功した。もしもアリストテレスが、悪の秘密結社の総統になったら、世界はあっという間に征服されるだろうな。

 現代人でさえ、重い球と軽い球では、重い球の方が早く落ちると思っている人がいるけれど、それはとんでもない誤解で、質量にかかわらず、落下する速度は同じなんだ。たとえば、ボーリングの球と羽毛も、まったく同じスピードで落ちる。

 えーっ、うそだ! ボーリングの球は、ドシンとあっという間に落ちるけど、羽毛はふわふわと空中を漂って、ゆっくり落ちるじゃないか。

 いや、うそじゃないって。この場で実験してみよう。A4のコピー用紙を2枚用意してくださいな。その1枚をギュッと丸めて、出来るだけ小さな球にしてください。さあ、その丸めた紙と、丸めていない紙を同じ高さまで持ち上げて、同時に手を離そう。丸めた紙は、ストンと落ちたけど、丸めてない紙は、ゆらゆらとゆっくり落ちたよね。

 なんで? もとは同じコピー用紙だぜ。重さは変わらないのに、なんで落下するスピードが違うんですか?

 答えは空気抵抗だ。丸めた紙は表面積が小さいので、空気の抵抗をさほど受けずに落下した。丸めてない方は、表面積が大きいから、空気に邪魔されて、なかなか落ちなかったんだよ。だから真空中で同じ実験をすれば、丸めた紙と、もとの紙は同じ速度で落ちる。(もっとも、ガリレオが真空を使って実験をしたわけじゃないからお間違えなく。ただ、奇しくも世界ではじめて真空を作り出した科学者は、ガリレオの弟子だったエヴァンジェリスタ・トリチェリなんだよね)。

 というわけで、落下のスピードは、物体の重さに関係ない。ガリレオは、アリストテレス以後、2000年近く信じ込まれていた説を、実験によって否定した。

 さあ、ガリレオが、とんでもない大発見をしているころ、ケプラーも大変なことになっていた。グラーツの大学で数学の教師になったまではよかったけど、集まった生徒はほんのわずかだった。しかも、二年目になると、生徒は一人もいなくなってしまったんだ。ケプラー自身が自己分析するところによると、彼は牧師になる以上に、教師に向いていなかった。なにしろちょっと興奮すると――しかも、すぐに興奮する――やみくもにしゃべり出して、正しいことを言っているのか自分でもわからなくなるんだそうだ。

 もう少し客観的に説明すると、ケプラーは授業中にも関わらず、なにか思いつくと、すぐに横道に逸れて、少しも授業が進まないばかりか、彼の講義は非常に難解だったらしい。

 そんなこんなで、二年目の授業は、教室に生徒が一人もいなかった。それでも彼がクビにならなかったのは、大学の理事たちが数学は難しくて当たり前みたいに思ってくれたことと、ケプラーが最初の年に、予言歴をバッチリ当てたからだった。

 予言歴?

 じつは当時、数学官は毎年、占星術に乗っ取って「歴」を作ることが義務づけられていた。要するに、来年は雨が少ないから飢饉が起こるであろーとか、そういう予言を占いで行うわけだ。

 で、ケプラーも占星術師として予言歴を作ったのだけど、それが当たっちゃった。来年は寒波が襲い、トルコ人が攻めてくるであろーと予言したら、その通りになっちゃったんだよね。

 この予言が的中したことは、空っぽの教室で、みじめな講義を続けるより、はるかにケプラーの名を高めるのに役立った。まあ、当たり前だけど(笑)。16世紀は、占星術への興味が――興味と言うより信頼と呼ぶほど――高まっていたから、いよいよケプラーの名は、世間に広まっていった。

 さて、そうはいっても、普段の仕事は数学の教師だ。教師になって2年目のある日――――いや、じつは正確な日付がわかっている。ケプラーは注意深く、その日の日付を書き残しているんだ。それは1595年の7月9日だ――例によって、だれもいない教室で、孤独に身勝手な講義をやっていると、突然ひとつの着想がケプラーを襲い、いつにも増して、とんでもない興奮状態に陥った。彼は後にこう書いている。

「わたしがこの発見で得たよろこびを言葉にして表すことは、わたしには決して出来ないだろう」

 いったい、なにを発見して、なにをそんなに喜んだのか?

 それは宇宙がある種の対称的な図形、たとえば3角形であり、4角形であり、5角形などなどの積み重ねを、目には見えない骨格として組み立てているというものだった。もうちょい簡単にいうと、惑星が6個あるってことは、正多面体が5種類しか存在しないことと関係しているに違いないと気づいたのだ。

 はじめに書いておくと、この着想は間違っている。そもそも太陽系の惑星は、6個ではない。当時は6個しか見つかっていなかっただけなんだ。だから、この着想は、そもそもの出発段階から間違っていたわけで、誤解を恐れずに言えば、ほとんど荒唐無稽ですらある。しかし、この着想があったからこそ、ケプラーは、その生涯を数学と天文学に捧げたのだ。

 こうしてケプラーは、26歳になった1597年に「宇宙の神秘」という本を出版する。その本の第一章ではコペルニクスの地動説を熱心に擁護し、章が進むごとに、議論は数学的な――すなわち、彼が生涯信じて疑わなかった――多面体太陽系モデルを論じた。

 ああ、1597年! この年は忘れがたい。ケプラーはイタリアへ旅行に出かける友人に「宇宙の神秘」を数部渡し、ガリレオ・ガリレイという数学者へ送ってもらうよう頼んだんだ。ガリレオは、本を受け取ると、すぐにお礼の手紙を書いた。そこには、驚くべきこと――あるいは当然というべきこと――が書かれている。ぼくは、その全文の日本語訳を手元に置きながら、このエッセイを書いているけど、あえて要約させていただきたい。そこには、こう書かれていたのだ。

「わたしも、何年も前から、コペルニクスの地動説を信じています」

 ブラボー! じつはガリレオは、それまで地動説を信じていることを、世間に対して公言したことはなかった。それどころか、ケプラーに手紙を書いた後も公言しなかった。それは一部の研究仲間や、ケプラーのような文通仲間との間でだけ伝えられていた。ガリレオがとうとうコペルニクスの支持を公言したのは、ケプラーに手紙を書いてから16年後の、1613年になってからだ。

 というわけで、この手紙は、ガリレオという人物を研究する上で、とても重要な資料になっている。手紙には、1597年8月4日の日付がある。問題は、「何年も前から」と書かれているところだ。いったい、それは何年前のことなのだろう? ハッキリとはわからないが、手紙を書いたのが33歳のときだから、20代でコペルニクスを支持するようになったのは間違いないだろう。

 なのにガリレオは、大学では地動説を否定し、むかしながらのプトレマイオスによる宇宙体形を生徒たちに教えていた。ずっと自分の良心に背いていたわけだ。そこが、例のあの人と大きく違うところだ。

 例のあの人?

 うん。そろそろ思い出そう。ジョルダーノ・ブルーノのことを。

 1592年に逮捕されてから、ブルーノはずっと監獄につながれていた。彼の裁判はなかなか始まらなかったんだ。彼自身は、自説の一部を撤回すれば許してもらえると考えていたようだけど、そうは問屋が卸さない。石牢に捕らわれて7年後、やっと異端の審問が行われると、当時の責任者だったロベルト・ベラルミーノ枢機卿は、ブルーノに自説の「完全」な撤回を求めた。

 なーんて書くと、ブルーノはものすごく迫害されていたように思えるけど、実際は彼の人権は十分に(当時としては)考慮されていたようだ。ブルーノの研究で有名な清水純一氏によると、食事は十分に与えられ、ぶどう酒も自由に飲めたらしい。週に二回はタオルやシーツを交換してもらい、囚人同士の会話も自由だったという。また裁判も公正なモノだったらしい。ふつう異端審問の裁判では、最終的な裁決のまえに、40日間の猶予が与えられ、そこで懺悔すれば死罪は免れることができたらしい。ブルーノは、その40日をすぎても懺悔がなかったので、さらに40日の猶予が与えられたそうだ。

 先ほど書いたように、ブルーノの説は自身の深い信仰から出た哲学だ。ちょいと望遠鏡をのぞいて発見したものじゃない。ブルーノの生きている証そのものだから、彼は最後の40日を沈黙の中で過ごした。つまり、最後まで悔い改めなかったわけだ。

 こうして……1600年の1月20日に、とうとうブルーノに死刑が宣告された。

 ブルーノは、ローマのカムポ・デ・フィオーリ(花の広場)で裸にされ、柱にくくりつけられた。そして、柱の下に火が付けられ……立ち上る炎と煙の中で52年の生涯を閉じた。

 逸話によると、ブルーノは死に際して、「私に宣告を下しているあなた方のほうが、宣告を受けるわたしよりも恐怖に震えているのです」と言ったそうだ。歴史的人物の逸話は、ほぼ後世の人による、ねつ造と考えた方がいいけど、ブルーノの研究家、清水純一氏は、この逸話が本当にあった話だと信じていたようだ。

 いかがだったろうか。こうしてブルーノは悲劇のうちに人生の幕を閉じた。ふと思うのだけど、彼の哲学と信念を見るに、ブルーノは16世紀という時代を精一杯生きたのだろう。

 ぼくは第二夜の最後で、ブルーノは、悪い時代に生まれたとしか思えないが、じつはそうではないのかも知れないと書いた。安易でオカルトチックな運命論に興味はないけど、ブルーノは、生まれるべき時代に生まれた気がしてならないと。

 なんでそんなことを書いたかというと、彼が科学者としてではなく、哲学者として、その命の炎を燃やし尽くすには、16世紀という時代しかなかったと思ったからなんだ。もしもブルーノが死罪を免れて、どこかの大学で教授としての人生をまっとうしても、科学者として名を残すことはなかっただろう。あるいは、もしもブルーノの生まれたのがあと100年遅かったら、少し変わった数学の先生ぐらいで終わったかも知れない。

 さて……そろそろ今回のエッセイを締めくくりたいと思う。

 こう言っては、ブルーノを敬う人たちには悪いけど――彼の祖国イタリアだけじゃない。ブルーノの思想を仏教的だと解釈して、彼を賞賛する仏教家が日本にもいるくらいだ――宇宙の真実のまえにブルーノは必要なかった。宇宙の真実が本当に必要としたのは、ティコの集めたデータであり、ガリレオの落体の実験であり、そしてケプラーの忍耐強い計算だった。

 次回の第四夜を、ガリレオ先生シリーズの最終話として、占星術師が天文学者に、錬金術師が科学者になっていく、自然科学の黎明を語りたいと思う。ガリレオがコペルニクスを信じていながら、何年もそれを公言しなかったのは、ブルーノのように異端審問を恐れていたからと思うだろ? いやいや、じつはそうじゃないんだ……なーんて、逸話も交えてお届けできると思う。また少し時間が開くかも知れないけど、待っててね。


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