ガリレオ先生 第二夜
「大天文学者の誕生」



 おや? エッセイのサブタイトルが、前回の予告と違うぞ?

 と、賢明な読者さまは思ったことだろう。申し訳ない。書きはじめたら予定が変わっちゃった。またまた風邪を引いて、頭がボーッとしていたせいかも(苦笑)。

 いや、まいりましたよ。前回は正月休みに家族からうつされたんだが、今回はわが彼女さまが感染源らしい。おかげさまで、まあ、強力だったこと(笑)。今回は高熱にうなされ、ウイルスを退治するのに一週間もかかった。もちろん、仕事を休むわけにいかず(フリーランスの辛いところだ)、ホントきつい一週間だった。

 というわけで、ガリレオ先生の第二夜を、なかなかお届けできなくて、すいませんでした。やっとウイルスを退治して、頭もシャキっとしてきたので、がんばって続きを書くことにしよう。

 よろしいかな? では、さっそくタイムマシンに乗って、コペルニクスが亡くなったころの時代に戻ろう。

 コペルニクスの死後、新しい宇宙論に貢献することになる人物が、ぞくぞくとこの世に生を受ける。そのトップバッターは、ティコ・ブラーエだ(Tycho-Brahe 1546‐1601)。彼は当時デンマーク領だったヘルシングボリ(現在はスウェーデン)に、貴族の子として生まれた。

 デンマークと言えばハムレットだよね。ハムレットはデンマークの王子様なのだ。ティコが生まれた当時、まだハムレットは書かれていないけど(そもそもシェイクスピアが生まれるのは、1560年頃だ)、かの大作家が代表作の主人公に選ぶくらいだから、当時のデンマークは、なかなか強国だった。そんなデンマークの貴族の中でも、ブラーエ家は、かなりの名門だった。なにしろ、国政を預かる少数の貴族集団に、ブラーエ家も入っていたんだ。彼らは、デンマーク王を選出する権利さえ持っていた。

 そんなわけで、超名門貴族として生を受け、しかも伯父さんに引き取られたティコは、大事大事と育てられて、かなり尊大な性格になったらしい。しかもブラーエ家は、短気な性格が多いらしく、ティコは若いころに従兄弟のマンデルップ・パースベルクと決闘して、鼻をそげ落とされてる。

 もっともティコは、瞬間湯沸かし器のように、怒るのが早かっただけでなく、ケンカした相手と仲直りするのも早かったらしい。自分の鼻をそぎ落とした従兄弟のパースベルクともすぐに和解して(そもそもケンカの理由が些細なモノだったらしい)、以後、親しい友人になった。

 彼は短気なだけではない。じつに寛容な人物であり、人生の多くの場面で(とくに宇宙の神秘に挑む仲間とは)、永続する友情を築く才能を持っていた。と、伝記は彼のことを伝えている。

 うーむ。後生の人物が書いた伝記というのは、どこまで本当なのかは、いまいち確信が持てない。というか、ふつうは、多少なりとも脚色されていると疑うべきだ。

 ちなみに、ティコの伝記は、自身もデンマーク生まれの天文学者であり、また天文学史家でもあった、ヨハン・ルイス・エミール・ドライヤー(1852−1926)が、1890年に出版した本に負うところが大きい。このエッセイも、主にドライヤーが記した伝記を元にしている。

 失礼。話が少し逸れた。まあ、なんにせよ、一つだけたしかなことは、人類は無謀な決闘で大けがをした、若者を失わずにすんだと言うことだ。幸いティコは、重い感染症にかかることもなく、生き延びてくれたのだ。

 さて。それはそうと、貴族の息子として将来が約束されていたティコは、なぜ天文学に目覚めたのだろうか。当時、高貴な生まれの者は、戦争と政治を学ばねばならず、ティコの親もそれを望んだ。

 ところが、ティコは天文学に目覚めてしまったのだ。14歳の時に見た日食がそのキッカケだったという説があるけど、本当にそうだろうか?

 ティコ自身が学生時代を振り返って記しているところによると、15歳のころに入れられたライプチッヒの学校で、いよいよ天文学に傾倒したらしい。監督殿(ティコは自分に付けられた家庭教師をそう呼んだ)に内緒で天文学の本を買い、こっそりと読んでいたそうだ。

 まあ、キッカケはなんにせよ(確信がないので、このエッセイでは伏せておく)、15歳にして天文学に目覚めたのは間違いないようだ。そして、天文学者としての出発点が16歳の時に訪れる。それは木星と土星の合だった。

 ここでいう「合」とは、ごく簡単にいうと、地球から見て、二つの天体が一直線に並んでいる状態のことだ。地上からその様子を観測すると、二つの天体が徐々に近づき、やがて一つの点になる(重なる)だろう。

 当時も、この現象は知られていて、占星術師たちが使っていた天体の運行表でも、いつ合が起こるか計算できるはずだった。当時使われていた運行表は、13世紀にスペインのカスティーリャ王アルフォンソ10世が作らせた「アルフォンソ天文表(Alfonsine tables)」で、これは要するに、ローマ帝国時代のプトレマイオスが残した盲腸……失礼。遺産のようなものだ。

 さてさて、なにがティコの天文学者としての出発点になったかというと、当然ながらティコもアルフォンソ表を知っていて、その表に基づいて、木星と土星の合を計算した。ところが、実際の合が起こったのは、アルフォンソ表で計算したそれと、一ヶ月も食い違っていたのだ。

 当時は、さらに優秀な天文表として、プロイセン表というのも知られていた。これは、ドイツの天文学者エラスムス・ラインホルト(Erasmus Reinhold、1511 - 1553)が、かのコペルニクスが残した著書を元に計算して作った表だ。(プロイセンの公爵に贈られたのでプロイセン表と呼ばれている)

 じつのところティコは、コペルニクスの地動説は信じないにしても、コペルニクスモデルを使った方が、天体運行についてははるかに正確な計算ができると信じていた。

 ところが!

 そのプロイセン表で計算しても、なお実際の合は、数日の食い違いがあったのだ。

 若きティコは、過去の天体運行表が、じつに不正確だと思い知ったわけだが、彼以外の占星術師にとって、そんなことは、どうでもよかった。実際の星がどこにあろうと、手元の運行表を適当にいじり回し、お客(国王や貴族たち)に適当なことを言って金を巻き上げられれば、それでいいのだから。

 ティコには、それが許せなかった。自分以外の占星術師を、山師と呼んで軽蔑しながらも、ティコだって星の運行が、人間の運命を左右すると本気で信じていた(その意味でティコも占星術師なのだ)。でも彼は、正確な星の位置がわからなければ、正確な占星術などあり得ないと思ったのだ。正確な占いのために、正確な観測が必要だ。

 観測。それはつまりデータだ。現代人のわれわれは、科学にとって、正確なデータがどれほど大事かよく知っている。ところが、ティコの時代は、だれも知らなかった。気づきさえしなかった。アリストテレスの世界観にどっぷりと浸かり、プトレマイオスが残した(コペルニクスがだいぶマシにしたとはいえ)間違いだらけの本が一冊あればそれでよかったのだ。

 しつこいようだけど、ティコは違った。彼自身、この木星と土星の合が、自分の「出発点」だったと書き残している。ティコは、理論は事実(正確なデータ)という基礎の上に構築されるモノだと気づいた、人類史上、最初の占星術師になったのだ。ブラボー!

 おもしろいことに、ティコが天文学の出発点を通過したころ、イタリアのトスカナ地方で、一人の男の子が生まれていた。だれだと思う?

 そう!

 察しのいい人なら気づいただろう。彼こそは、われらがガリレオ・ガリレイだ。ティコより18歳若いガリレオの活躍は後に語るとして、いまはティコに戻ろう。

 戻ったところでなんだけど、ティコは、ちょいと寄り道をする。なんと錬金術にハマっちゃったのだ。とはいえ、正確なデータが大事だと気づいたティコは、極めつけの現実主義者だから、鉛を金に変えるような錬金術には陥らなかった。彼が研究したのは、いまで言う「化学」だ。さらに言うなら、当時は天文学と錬金術は、別々の学問ではなくて、どちらも神の技を知るための行いであって、ティコ自身、錬金術のことを「地球の天文学」と呼んでいた。

 そんなティコが、ふたたび天空に目をやる事件が起こった。

 それは、ティコが26歳の、1572年11月11日に起こった。その日の夕方、錬金術工房から食事に戻る途中、歩いていてふと空を見上げると、一番明るくなったときの金星より、さらに明るい星を発見した。錬金術にハマっていたとはいえ、長年天体を観測してきたティコは、そこに「星」がなかったことを知っていた。

「驚きのあまり茫然と立ち尽くし、空を見つめていた。その星が以前そこになかったことは確かである。わたしは信じられない光景に当惑し、自分の目を疑いはじめた」

 彼は当時のことを、そう書き残している。ティコは本気で自分の目を疑ったのだろう。屋敷に戻ると、まずは何人かの召使いを、さらに何人かの農夫も呼んできて、そこに星が輝いていることを確かめさせたのだから。

 ティコが見た星は「新星」と呼ばれるモノで、文字どおり、なにもない場所に、突然生まれるから「新星」と呼ばれるのだけど、現代の天文学では、それは「新しい星」ではなくて、星の最後(末期)に起こる現象だとわかっている。

 まあ、それはともかく、新星が現れるのは非常に希で(肉眼で観測されるような規模では)、かつ非常にドラマチックなので、ティコの心を錬金術の工房から、天空に引き戻すには十分すぎるドラマだった。

 さて、このままティコの話を続けたい欲求に強く駆られるが、まあ、落ち着いて世の中を見渡してみることにしよう。じつは、ティコが新星を発見して驚愕する前年(つまり1571年)、のちにティコの運命を変えることになる人物が生まれている。

 彼こそは、ヨハネス・ケプラー。

 誤解を恐れずに言おう。ティコは肉眼の時代における、世界で最高の天文学者だったけれど、自分の観測結果が持つ本当の「意味」を知らなかった。ケプラーこそが、ティコの残した膨大かつ正確な観測結果を、唯一正しく理解し、人類史上初めて、正しい惑星の運行を知った男なんだ。われらがガリレオ先生でさえ、ケプラーの正しさを理解できなかったくらいだ。

 ちなみに、ケプラーが生まれたとき、われがらガリレオ先生は、まだ7歳。現代では、7年も違えば、見ていたテレビ番組も違うし、好きだったアイドル歌手も違うだろうが、いまより時間がゆったり流れていた中世のヨーロッパにあって、ケプラーとガリレオは、同世代人と解釈していいだろう。彼らは、ほぼ同じ時を生きたのだ。そう思うと、やはりこのときが、科学の黎明期だった気がしてならない。2000年もの昔、アリストテレスが閉じてしまった科学の扉を、ふたたび開けようとする人物たちが生きた時代だ。

 話を戻そう。

 26歳のティコは、ケプラーが貧しい商人の息子として生まれていることも、ガリレオが音楽家の息子として生まれていることも知らない。彼の頭上には、いま明るく輝く新星があるだけだ。

 じつは、新星という現象は、人類史上、ティコがはじめて目にしたわけではない。古代ローマの博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥスが残した記録によると、ティコの時代から数えて、だいたい1800年ぐらい前に、古代ギリシアの天文学者ヒッパルコスが、新星を見て観測しているらしい。

 でもまあ、1800年も前のことだし、その記録を残したプリニウスだって、ティコの時代から数えて、1500年くらい前の人だ。ヒッパルコスは、彗星かなにかを見たんだろうってことで、マトモには取り上げられなかった。何もないところに、突然新しい星が生まれるなんて、あってはならないことだからだ。

 さっき、アリストテレスが2000年も前に科学の扉を閉じたと書いたけど、これは大げさな表現じゃない。ティコの時代にあって、アリストテレスの哲学と科学的な見解は、当時のもっとも偉大な知性でさえ、畏怖すべき議論する余地のない権威だった。

 前回のエッセイを思い出していただきたい。天空は固定された固体のドームで、星たちは、そのドームになんらかの方法で描かれた「輝く点」なのだ。それは固体のドームと同じように、空に固定されていて、だから恒星と呼ばれる。

 アリストテレスの宇宙観で言えば、なにか新しい現象は、地球と月の、ごく近所でだけ起こるモノであって(彗星も月より近いと思われていた)、恒星が描かれている天空のドームは、永遠不変だと考えられていた。そこに、新しい星が誕生するなんてことは、あり得ないことなのだ。

 ティコも、そんなことは百も承知だったから、新星の出現に心の底から驚き、自分の目を疑ったのだ。それでも彼は、自分の頭上に、「新しい星」が輝く姿を認めないわけにはいかなかった。ティコにとっては、自分が見たもの、つまり、自分が観測したものが、すべてなのだ。

 さあ、どうする? 畏怖すべき議論する余地のない権威に逆らうべきか? それとも新星なんてものは、見なかったことにするか?

 ティコは悩んだ。といっても、アリストテレスの権威に逆らうことにではない。思い出していただきたい。ティコが天文学者としての出発点になったのは、そもそも古代ギリシアの古い考えでは、正しい星の運行を計算できないと悟ったからだ。17歳の時に。それからさらに、10年ほどの経験を積んだ彼が、アリストテレスの権威に縛られるわけがない。

 では、なにを悩んだか? それは、貴族である自分が、新星についての本を出版することに対してだ。当時の貴族にとって、本を出版するなんてのは下品なことだった。それは貧しい学者のすることであって、自分たちとは世界が違うのだと。

 ティコは、怠惰な貴族仲間を軽蔑していたけれど、高貴な生まれである自分の血筋を誇りにも思っていた。彼もまた、封建社会の風潮に捕らわれていたのかも知れない。あるいは、本来は学識者の領域である学究の世界を侵害することに戸惑ったのかも知れない。

 それでもティコは、友人たちの勧めもあって、自分が観測した新星についての本を出版した。相当な決意だったようだ。新星の観測について、27ページにわたって詳細な記録を残しているけど、その本には、べつの記述も多かった。ティコには詩的な才能はなかったようで、下手な詩で堕落した貴族社会を批判し、彼らと決別する意志を示したのだ。その本のエピローグで、ティコはこう述べている。

「怠け者の嘲笑も、任務による脅しも、もはやわたしの天体観測をやめさせることはできない」

 こうして27歳のティコは、貴族にあるまじき「本の出版」を契機に、本格的な天文学者としての道を歩み始める。そのスタートは、申し分ないものだった。出版した本は、たちまち話題になり、彼の天文学者としての地位を揺るぎないものにしたからだ。

 皮肉なことに、だからティコは、貴族社会と決別できなかった。デンマーク王が、ティコを手放さなかったからだ。デンマーク王は、破格の条件でティコをつなぎ止めた。その条件とは、ティコに島を一つ与え、その島の住民を、みな家来にする権利と、そこから上がる税収を得る権利と、デンマークの国費で好きなだけ観測装置を作って良いというものだった。

 貴族として贅沢三昧をしてきたティコが、こんなすごい条件を蹴るだろうか? まあ、そこはそれ、政治にも長けたティコのこと、一週間ほど迷ったふりをしてから、デンマーク王の申し出を受け入れた。

 ガリレオが、空に望遠鏡を向けるのは、まだ30年以上も先の話だから、ティコは肉眼でしか星を観測したことがなかった。そんな時代に、どんな観測装置が必要だというのか?

 じつは、肉眼の時代も、観測装置は大きければ大きいほどよかった。円は360度なのをみんな知ってるよね? てことは、天球が丸い円だとすると、そこは360個に区分できるってことだ。その区分した一コマを、さらに六十個の「分」に分ける。その「分」を、さらに六十個の「秒」に分けるとすると、空は129万6000個に分けられる(360×60×60=1296000)。

 さあ、みなさん。それでは天球図を書いて、そこに129万6000個の目盛りをつけようじゃないか。できるかなあ?

 ね、わかったでしょ。小さな円に、129万6000個の目盛りをつけるのは大変なんだ。たとえばいま、直径10センチの円をコンパスで描いたとしよう。あなたはそこに、129万6000個の目盛りをつけられる? よほど器用で目のいい人でも至難の業だろうね。でも、直径が10メートルの、巨大な天球図を描いたとしたらどうだろうか。当然ながら、一つの目盛りも大きくなるわけで、129万6000個の目盛りを描くのも容易になる(ということは、より正確になる)。

 このように、精密な観測をしようと思えば、巨大な観測措置が必要なんだ。それはティコのような金持ちでなければできないことだった。ティコの業績として特筆すべきは、正確な天体観測に加え、観測のための装置を、数多く「発明」していることだ。切実な問題として、巨大な装置は重いから、装置がたわんで、目盛りが狂わないようにしなきゃいけない。目盛りの狂いは、そのまま観測の不正確さに繋がるから、ティコは細心の注意を払って装置を設計(発明)し、かつ当時としては最高の職人たちの技能を、さらに押し上げた。とんでもなくお金のかかる作業だったんだよ。

 ふう……

 まいったな。こんなにティコについて書くつもりじゃなかった(苦笑)。もしかして、日本語で読めるウェブページとしては、もっともティコについて詳しい科学エッセイになっちゃうんじゃないか?

 というのは冗談だけど(笑)、このエッセイはティコが主役ではないから、そろそろ別の人物に登場願おう。ケプラー? それともついにガリレオ?

 いや、違う。ジョルダーノ・ブルーノに登場願いたい。

 コペルニクスが亡くなってから五年後。ティコに遅れること二年後の1548年に、イタリアのノーラで、ジョルダーノ・ブルーノは生まれた。ちなみに、ガリレオが生まれる16年前のことだ。

 結論から先に書くと、ブルーノは地球が太陽の周りを公転し、しかも宇宙のどこかには、地球と同じような惑星があって、そこに知的生命体がいると喧伝した罪で、火あぶりにされて死んだ。

 時代は、いよいよ寛容さを失っていた。さらに、ブルーノが生まれたイタリアという場所も悪かった。イタリアには、ローマカトリックの総本山があるんだから、その教えに背くことは、きわめて危険だった。当時、ヨーロッパに吹き荒れた、魔女狩りを例に出せば、どれだけ危険かわかるだろう。カトリック教会による魔女狩りは、15世紀から18世紀に行われたんだ。

 ブルーノは、悪い時代に生まれたとしか思えないが、じつはそうではないのかも知れない。ぼくは安易でオカルトチックな運命論に興味はないけど、ブルーノは、生まれるべき時代に生まれた気がしてならない。ティコとケプラーが出会い、ガリレオが同じ時代を生きたのと同じように、ブルーノという人物も、この時代だからこそ生まれたのだろう。

 ブルーノは、15歳でドミニコ会(カトリックの修道会)に入った。ガリレオが生まれたころだ。そこで司祭にまでなったのだけど、彼の知性は、コペルニクスの宇宙論や、宇宙は無限だと考えた、クザのニコラウスに影響を受けてしまった。それだけならまだしも、ブルーノは、コペルニクスの説を宣伝してまわったんだよね。罪のない老婆を、魔女と称して焼き殺していた時代にだぜ。

 そうでなくても、ブルーノは抜群の記憶力を生かして、記憶術なんてものを世間に披露していたから、その驚異的な記憶力は、悪魔の仕業だという噂まで流れてしまった。

 いうまでもなく、ブルーノはカトリック教会を破門された。つぎに待っているのは異端審問所だ。さすがのブルーノも、無駄な死を恐れてフランスへ渡った。幸い、フランス王アンリ3世の庇護を受けられたので、フランスでは、7年間にわたって活動することができた。

 当時の彼の著書の中に、「灰の水曜日の晩餐」がある。この本でブルーノは、コペルニクスの太陽中心説をハッキリと支持している。さらに「無限宇宙・諸世界について」では、かつてニコラウスが述べたように、宇宙は無限であり、星々はすべて太陽と同じで、地球以外にも知的生命体が存在すると論じた。

 当時は、最高の知性を持っていたティコでさえ、地球こそが宇宙の中心だと信じていたわけで、その意味では、ブルーノの先見性はすばらしい。

 ただ残念なことに、ブルーノには観測データがなかった。もっと残念なことに、彼は観測データが、なにより大事だと気づかなかった。宇宙について、ティコよりも現代的な考えを持っていたが、その精神と方法論は、古代ギリシアのアリスタルコス(太陽が宇宙の中心だと唱えて迫害された)と変わらない。手法としては、ティコの方がはるかに現代的で、かつ正しかったのだ。

 というところで、今回のエッセイを一区切りしておきたい。本当はブルーノの話を中心に展開するつもりだったけど(副題に「ジョルダーノ・ブルーノの悲劇」と用意していたぐらいだ)、思いがけず、ティコの話が盛り上がってしまったね。ブルーノの悲劇については、第三夜に持ち越させていただきたい。

 では、次回のエッセイこそ、狂気の時代に起こった悲劇について語ると約束して、今夜は筆を休ませていただこう。


≫ Back


Copyright © TERU All Rights Reserved.