小さな小さなブラックホール


 またギックリ腰をやってしまった。ウィキペディアによると、欧米では「魔女の一撃」なんて呼ばれているそうだ。なるほど、たしかに一撃を受けたように、激しい痛みで、一歩も動けなくなることもある。

 今回は、そこまですごい一撃じゃなかった。魔女の一撃のときは、まさに「ギクッ!」って感じだけど、今回は「ピキッ」って感じかな。椅子から立ち上がろうとしたとき来たんだ。ピキッと。

 そう。ギックリ腰には、魔女の一撃で、いきなり一歩も動けなくなるときと、ピキッぐらいで、その直後は動けるけど、徐々に痛みがひどくなって動けなくなるときの二種類があるのだ。いきなり一歩も動けなくなるのは、もちろん最悪。あの辛さは、二度と味わいたくない。トイレにも這いつくばって行くんだぜ。そのあと、激痛に耐えながら便器によじ登らなきゃいけないんだから、マジで泣きたくなる。だけど、徐々に動けなくなるのも辛いもんだよ。いやホントに。少しずつ自分の体が壊れていくのを感じるのは。

 しかしまあ今回は、友人のフォトグラファーに仕事の一部を代わってもらい、執筆の仕事もお休みして(あんた最近、いつ執筆の仕事をしているんだという、読者様&関係各位の突っ込みは受け付けません)、さらにさらに、驚くべきことに約束していたデートまでドタキャンして(腰が動かなきゃデートの意味がないという下品な意見も受け付けません)安静にしていた結果、三日ほどで回復しました。その節は、ご迷惑をお掛けしました。(ちゃんと書いてますってば。←読者様&関係者各位)

 さて。ぼくの腰の具合に関係なく、世の中は動いている(当たり前だ)。中でも注目すべきなのは、福田首相の辞任でも、リーマン・ブラザースの倒産でもなく、欧州原子核研究機構(略してCERN。セルンと読む)の大型ハドロン衝突型加速器 (略してLHC)が、とうとう稼働をはじめたことだ。

 あ、欧州原子核研究機構なんていわれた時点で、もう読む気がなくなったあなた。まあ、お待ちなさい。まだチャンネルを変えちゃダメよ。だって、この恐るべき機関が開発した、恐るべき装置が、地球を破壊するかもしれないといわれているのだから!

 そうなのだ。彼らは恐るべき装置で、小型のブラックホールを造り出し、地球を飲み込んでしまおうという、ものすごい野望を持っているのだ。

 だから説明せねばなるまい。そして、あなたは読まねばならないのだ! ドーン!(←効果音)

 大型ハドロン衝突型加速器(以下、略称のLHCと記す)とは、文字どおり、ハドロンを衝突させるタイプの加速器だ……って、これじゃあ、なんの説明にもなってないな。

 まず加速器とはなにかを説明しよう。

 どんな物質も、どんどん細かく分割していくと、いつしか、非常に小さな素粒子というモノに行き当たる。素粒子は「素」というわりに、いろんな種類があって、たとえば、陽子とか中性子、あるいは電子なんてのは、素粒子の御三家だから、みんなも名前ぐらいは聞いたことあるだろ。いやいや、Script1の読者様なら、中間子だって知ってるかも。

 加速器は、そういった素粒子を、すごいスピードでぶっ飛ばす、ピストルのようなモノなんだ。

 その加速器にも、実験の種類によって、いろんなタイプがある。まさにピストルの弾のように、素粒子を直線的に打ち出すモノもあれば、加速器の内部をドーナツ状にして、その中で素粒子をぐるぐる走らせる装置もある。

 え? どうやって走らせるんだって? それは磁石の力を使うんだ。粒子の中には、磁石に引っぱられたり反発したりするのがあるから、その性質を利用して、ビューンとぶっ飛ばすわけ。

 今回、欧州原子核研究機構(以下、略称のセルンと記す)が、製造した加速器も、ドーナツ型の装置だ。もっとも、その1周は、27キロもあるから、だいたい山手線の1周と同じくらいの大きさ。なんとも、食べ応えのあるドーナツだ。

 なんで、そんな巨大にしなきゃならないのか?

 それは、中で走らせる(飛ばす)素粒子のスピードを十分に上げるために、時間(距離)が必要だからなんだ。どんなに高性能な車だって、アクセルを踏んで、1秒後に時速100キロにはならないだろ? 素粒子も事情は同じで、スピードを出すには、十分に長い時間(距離)が必要だ。それが直線では限界があるけど、円になっていれば、いつまでもいつまでも、その中で走っていられるので、無限の距離を地球上に作ることが出来る。

 なに? 円なら、小さくても繋がっているんだから、山手線ほど大きくする必要はないじゃないかって? それはいい質問ですな。では急カーブを曲がる車を想像してみて欲しい。向き(方向)を変えるために、車はブレーキを踏んで速度を落とすよね。これと同じで、円が小さいとカーブがきつくなって、向き(方向)を変えるのに貴重なエネルギーを消耗するんだ。速度を上げるだけなら、本当は直線が一番いい。だから加速器は、円を大きくして、なるべくカーブをゆるくしたいってわけ。

 だんだん、読むのが辛くなってきた? もうちょい、がんばって!

 つぎに、その加速器を作る目的を説明しよう。

 素粒子を加速させて(スピードを上げて)、なにかの試料にぶつけると、いろいろ興味深い現象が起こるんだ。

 そうだな。車がコンクリートの壁にぶつかるところを想像してみて欲しい。車のスピードが速ければ速いほど、ドカンと派手に衝突して、車はぺちゃんこになるよね。素粒子の場合は、その壊れる過程で、べつの粒子を放出して、ぼくらにとって未知の現象を見せてくれることがある。その様子を注意深く記録して、あとでじっくり解析すると、宇宙の秘密が、ひとつ、またひとつと、解明されていくんだよ。

 そう。宇宙の秘密を解き明かすのが、加速器を作る理由だ。いや……嘘は付くまい。世の中には、産業目的の加速器もたくさんある。たとえば、有用な物質の立体構造を解明したりするのにも、加速器を使うからね。でも、セルンが作ったLHCに限っていえば、宇宙の秘密を解き明かすのが、もっとも大きな動機といって間違いではない。

 宇宙の秘密を知りたい科学者は、もっとエネルギーを、もっともっとエネルギーをと切望してきた。エネルギーが高ければ高いほど、宇宙がまだ赤ちゃんだった、初期のころのようすを再現できるからなんだ。

 そこで、加速器はどんどん大型になっていき、セルンのLHCは、とうとう山手線の1週と同じくらいにまで巨大化した。さらに加速させる粒子を、重いモノにすることにしよう。だって、同じスピードで衝突させるなら、軽自動車よりトラックの方が、ずっと規模が大きくなるだろ。それと同じ理屈だ。

 さらにさらに、トラックをコンクリートの壁に衝突させるのではなく、同じスピードのトラック同士を、正面衝突させたらどうだろう。もっと衝突の規模は大きくなるんじゃないかな。

 これがLHC、すなわち「大型ハドロン衝突型加速器」という名前の理由だ。ハドロンとは素粒子の分類名なんだけど、そのハドロンに属する粒子の中で、陽子は重粒子と呼ばれるくらい重い。こいつはまさに、素粒子界のトラックだ。正面衝突させるには、もってこいだぜ。じっさいLHCでは、陽子をほぼ光のスピード(この宇宙で出せる最高スピード)まで加速して、正面衝突させる(そのときのエネルギーは、単純計算で、もとの陽子が持っているエネルギーの、約1000倍にもなるはずだ)。

 その瞬間!

 一部の科学者は、加速器の中にミニブラックホールが出来ると期待している。

 ミニブラックホールだって? おいおい、そんなSFじゃあるまいし……と、みんなは思うことだろう。でも、一部の科学者は本気だ。彼らの理論によると、この宇宙は多次元世界なんだそうだよ。ぼくらと同じような宇宙が、いくつもいくつもあって、それが反物(たんもの・着物の生地)を、たたむように折り重なって存在しているんだってさ。

 ところが、その理論によると、ぼくらは、となりの次元へ旅をすることが出来ない。電波を飛ばして、無線で話をすることもできない。あらゆる物質(相互作用をするしないに関わらず、あらゆる粒子)は、べつの次元へ移ることが出来ないらしいんだ。

 おい、待てよ! だったら、その理論がたとえ正しくても、別の次元があることを証明できないじゃないか!

 いや、じつは、別の次元に移動できる、例外的な粒子があるんだ。その例外こそ、ミニブラックホールを作る犯人なんだよ。そいつはなにかというと、「重力」なのだ。重力だけは(正確には重力を伝える粒子だけは)、となりの次元、もっといえば、隣の隣、さらにその隣の次元……という具合に、次元と次元の間を、行き来している……と、一部の科学者は考えている。

 彼らによると、重力がほかの相互作用に比べて弱く見えるのは、ほかの次元へ漏れちゃっているからなんだってさ。その漏れを防ぐか、あるいは、漏れ出す前に観測すれば、重力が持つ、本来のすごいエネルギーを見ることができるらしい。

 それが、陽子と陽子の衝突で、実現するかもしれないんだって。具体的には、陽子と陽子がぶつかったとき、重力が本来持っている力を発揮して、すごい勢いでまわりを圧縮し、ミニブラックホールが出来ると考えられている。

 つまり、ミニブラックホールができれば、彼らの理論の正しさが(部分的にだけど)証明されて、どうやら、宇宙に別の次元があるのは本当らしい……ってことになって、いまの物理学が、一歩前進するはずだ。その先には、さらに驚くべき知見が待っているかもしれない。なんとエキサイティングなことだろう。科学者の考えることってすごいよね。SF作家の想像力なんか、遠く及ばないな。

 ところが……

 もし本当にミニブラックホールができるなら、そいつが地球を飲み込んでしまうんじゃないかと、心配する人が出てきた。そいつら……失礼。その方たちが、実験を止めろと騒いでるんだ。

 いやあ、これがねえ。冗談じゃなくて、本気らしいよ。いつの世にも、火星人が攻めてくるから逃げろなんて、騒ぐ人がいるってことだな。火星人は信じても(これもある意味で科学的?)、火星人が存在しない科学的根拠は、なぜ信じないのだろう? それとほぼ同じレベルの愚かさ……いや、愚かというと語弊があるか。無知といい直そう。

 もしも、LHCでミニブラックホールが観測できたら、とてもよろこばしいことだけど、もしLHCで、ミニブラックホールができるなら、じつは、地球の上空では、いつもミニブラックホールが作られているはずなんだ。なにしろ、宇宙からは、宇宙線と呼ばれる、ものすごいエネルギーを持った粒子が降り注いでいて(LHCで加速する陽子なんか、まるで子供のオモチャみたいなもんだ)、それが大気の粒子と衝突を繰り返しているからね。たぶん、いまもあなたの頭の上に、ミニブラックホールが作られていることだろう。いやマジで。

 なのに、地球は消滅していない。なぜか?

 答えは、たとえミニブラックホールが形成されても、それはほんの一瞬のうちに蒸発して消えてしまうはずだからだ(と科学者は考えている)。しかも、そのときに放出されるエネルギーでは――わざと俗っぽく表現すると――豆電球さえ点すことは出来ない。

 というわけ。

 だから、どうか安心して、LHCでの実験結果を待っていて欲しい。ミニブラックホールができるかどうかは、LHCが計画している実験の一部に過ぎない(※注1)。さまざまな実験が、多くの仮説の正しさを証明し(あるいは否定し)、この先、何年も掛けて――セルンのコンピューターがハッカーに乗っ取られなければ――ぼくらの知的好奇心を大いに刺激してくれるだろう。彼らはきっと、宇宙の秘密を、いくつか解き明かしてくれるに違いない。


※注1
最近の素粒子物理学は、何年もデータを蓄積して、膨大な解析作業を必要とする実験が多い。そんな中にあって、もし本当にミニブラックホールが作られたとしたら、その結果は、比較的早く報告されるはずだ。ミニブラックホール(それと超対称性粒子)は、特徴的な反応を示すと考えられているから、発見が早いだろうと期待されている。



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