無限なものは二つある


 ご存じの方は多いと思うんだが、念のために申し上げておくと、ぼくは頭がいい。なんて、自分で言っちゃうところが、いきなり怪しいけど(笑)、ぼくに会った人の多くは、そう思ってくれるようだ。

 とはいえ、一人の人間の知識が及ぶ範囲は限られている。たとえばぼくの場合、甘いお菓子の作り方についての知識は、ほぼ皆無だ。そもそも、自分で作ろうと思ったことは一度もない。

 前々回に、SoftBankの謎と題したエッセイを書いたとき、ぼくの彼女がカップケーキを焼くという話をした。そうしたら、材料を「混ぜて焼くだけ」の簡単なケーキがあることを、掲示板で教えていただいた。

 その話を、そもそも話題の提供者である彼女にしたのだが、ぼくの知識の欠落を彼女はよく知っているから、ある疑念をお持ちになったようだ。彼女は疑いのまなざしを向けながら言った。

「ケーキだったらなんでも、混ぜて焼くだけだと思ってないでしょうね?」

 えっ、違うの? とは、賢明にも答えなかったが、たいていのケーキは、ただ混ぜて焼くだけだと思っていたので、交渉術に長けたぼくは答えた。

「まさか、そんなわけないだろ。でも違うの?」

 そしたら怒られた。ふつうは、そんな簡単なもんじゃないらしい。いや、混ぜて焼くだけと言えば、その通りなんだろうが、そもそも、その「混ぜる」という行為自体に、高度な技が必要で、かつ体力がいるんだそうだ。混ぜる機械はあるらしいんだが、それがまた重いそうで、けっきょく体力(筋力?)を使うんだとか。

 なるほどねえ。それで腕のいい菓子職人が、世界中で引っ張りだこになるわけだ。

 ところが、話はこれで終わらない。原材料高騰のため、ケーキ製造を臨時休業中の彼女が、本当に「混ぜて焼くだけ」のケーキを作ってあげると言って、臨時休業中のオーブンを臨時に稼働させ(哲学的だな)、ブラウニーというお菓子を作ってくれた。一口にブラウニーと言っても、いろんなレシピがあるらしく、彼女が作ったのはバターを使わないレシピだ(植物油は使う)。

 ううむ。バターを使わないレシピを研究するあたり、さすが、原材料高騰のため、臨時休業している人だけのことはある。

 まあ、それはともかく。できたブラウニーは、チョコがしっとりしていて、なかなか美味しいと思った……のだが、当の制作者には本意でなかったらしく(よくわかりませんが、もうちょっと違うモノを作りたかったらしい)、後日、レシピを独自に改良して再挑戦なさった。

 こんどは、前回よりもさっくりしていて、なるほど、比べてみれば、こっちの方が美味しいかなと思って、素直にそう申し上げたら、レシピの改良は成功だったと、満足していらっしゃった。

 だが……

 ここに一つ大きな問題がある。ぼくの彼女は、同じものを二度と作れないという哲学的な特殊技能をお持ちなので、次回もまた、同じものが食べられる保証は、限りなくゼロに近いのだった。

 というわけで、ゼロの話をはじめよう。(すごく強引だな……)

 その前に少しお断りを。前回のエッセイでは、いくつか簡単な数式をご紹介したが、心配していたとおり、あまり評判はよろしくなかった。今回はなるべく数式を使わずにがんばってみたい。また、いままでは多少横道にそれることも本文の中で説明していた。横道にそれるのは、ぼくのエッセイの特徴と思っているが、今回は本題を邪魔しないように、横道の部分は、なるべく注釈として、本文の外に追い出すことにする。

 さあ、お断りもすんだところで、まずは前回のエッセイを、軽く振り返ってみよう。前回は、数学とはなんであるかという話をしたね。覚えてる?

 そもそも、数字は「ものを数える」ための道具として発案された。人類は、その道具を使って、より高度なことをはじめた。たとえば土地の広さを測ったりとか。

 しかし、その段階では、まだ「数学」は生まれていない。土地を測るのには、幾何学という発想が必要で、それには高度な知識と知能を必要とするにも関わらず、まだ「数学」でないのだ。それは算術という道具なのだ。なぜなら幾何学を生んだエジプトやバビロニアの人たちは、算術によって必要な結果が得られるならば、その「わけ」を追求しようとは思わなかった。

 しかし、それを知ったからと言って、金持ちになるわけでも、生活が向上するわけでも、病気が治るわけでもないことを、深く深く、どこまでも深く考える人たちが古代のギリシャに出現した。彼らは哲学者と呼ばれ、算術を数学へと昇華させていく。

 記録に残る最初の哲学者は、最初の数学者としても、その名を残した。その人物は、古代ギリシアのタレスだ。彼はエジプト式(あるいはバビロニア式)の算術によって、ピラミッドの高さを世界ではじめて測った人物とされているが、本当の功績は「測った」ことではなく、その測り方が、本当に正しいという「根拠」を示したことだ。つまりタレスは、数学にとって非常に大事な、「証明」という概念を、この世に示したのだ。

 その後、ピュタゴラスが登場し、彼によって、いよいよ数学が花開く。ピュタゴラスは言った。「数には数の論理がある」と。これこそまさに数学だ。ピュタゴラスにとって、数字はもう、道具ではないのだ。それ自体が、神聖なる研究の対象となった。ピュタゴラスの唯一にして最大の失敗は、数字を、神秘的なモノと考えすぎたことだ。彼にとって数学は宗教であり、その思想がエスカレートした果てに、彼の宗教を恐れた人々によって、命を奪われた(※注1)。

 というのが、前回のエッセイだ。なんだ、まとめてみると、たったこれだけのことを、長々と説明したもんだ……と、われながら思ってしまうが(苦笑)、数学については、どれほど説明しても長すぎることはない気がする。現にいまだって、前回のエッセイを読み返して、補足の説明を加えたいところが山ほどあってウズウズしているが……とにかく先へ進もう。

 さて、タレスが「証明」という概念を世に示したと書いたけど、現代の数学は、言うまでもなく、もっとキッチリ整理されていて、「定義、公理、定理、証明」の四つで構成されている。どれも、学校の授業で聞いたことのある言葉ばかりだろ? しかも、これからの言葉を聞くと、条件反射的に頭痛がするという人も珍しくないだろう(笑)。

 まあ、あわてることはないので、今回のエッセイも、また古代の話からはじめよう。

 数学そのものが発明されたのが古代ギリシアだとすれば、現代数学の基盤を作ったのも、また古代ギリシアだ。こんどは、ピュタゴラスに代わって、エウクレイデスにご登場願おう。

 エウクレイデスは、かのピュタゴラスが亡くなってから、120〜130年後に生まれた。古代ギリシアの哲学者の半生は、信頼できる記録が残っていないことがほとんどだが、エウクレイデスについても事情は同じ。プラトンに数学を教わって、その後、数学の教師をやっていたこともあるとかないとか……まあ、詳しいことはわかっていない。

 しかし、彼の残した功績はわかっている。しかも、すさまじい功績が。彼は「原論」という本を書いて、その後の世界を変えてしまったのだ。

 そろそろ、エウクレイデスの正体を明かそう。彼はふつう、英語での表記と発音で「ユークリッド」と呼ばれる人物なのだ。さあどうだ。ユークリッド幾何学と言う言葉を、聞いたことがないとは言わせませんぞ。

 え? 聞いたことない? うっ、失礼しました……がんばって説明します。

 ユークリッド(今後は、一般的な呼び名で書きます)の業績というか功績は、「原論」という本をを書いたことだって、さっき言ったよね。では、その原論とはなんだ?

 じつは、この原論という本は、ユークリッド幾何学の教科書だったのだ。前からさんざん話しているように、土地を測ったり、建物を建てたり、あるいは宇宙を観測したりするのに使う幾何学は、バビロニアやエジプトで発展して、それをタレスやピュタゴラス、あるいはアルキメデスなんかが、証明という新しい手段で、どんどん洗練させていった。

 でも、それらの知識は、バラバラだったんだよね。そこでユークリッド先生が重い腰上げて、それまで、バラバラだった知識を一つにまとめ上げたんだ。数学と言うより、博物学的な仕事だね。

 ところが!

 知識をまとめてみると、ユークリッドは驚くべきことに気づいたんだ。どうやら図形の法則というモノは、簡単な法則から、より複雑な図形を、導き出せるようなんだよ。

 どうやら、図形の法則には、無条件で信じていいと思える、とっても基本的な法則が5あるらしい。これらをユークリッドは「公理」と呼ぶことにした。さらに、公理ほど信じていいか自信を持てないけど、でも、間違いなく成り立ちそうな法則も5つあって、それらは「公準」と呼ぶことにした。

 で、ユークリッドは、5つの公理と、5つの公準を使って、とっても簡単な図形から、どんどん複雑な図形の法則を「証明」していけると考えて、それらを「原論」という本にまとめたんだ。だから、原論に書かれた範囲で扱える図形のことを、ユークリッド幾何と呼ぶんだ。

 でもね。ここでも注意して欲しいことがある。ぼくは何度も何度も、タレスの本当の業績は、ピラミッドの高さを測ったことではなくて、その測り方に根拠(証明)を与えたことだと書いたよね。ユークリッドも同じなんだ。彼の業績は、図形の法則を体系化したことに留まらない。本当の功績は、それによって「公理系」と呼ばれる、現代数学のスタイルを作り上げたことなんだ。もっと大胆に言うなら、ユークリッドは、数学の「あり方」を決定づけたのだ。こう言えば、ユークリッドの功績が、どれほど大きいか、実感してもらえるよね?

 では、もう少し具体的に、ユークリッドの考えたことを説明しよう。ただし、ユークリッドが実際に行った、図形を使っての公理系を解説をしても、みなさん混乱されると思うし、例によって、このエッセイは数学の教科書ではないので、具体的な話は避けて、エッセンスを感じてもらえるような説明にとどめようと思う(だいたい、学校で公理系の学習に幾何を使うことが間違っているよ)。

 まずユークリッドは、公理という、無条件に信じていい法則を定めた。これがスタート地点だ。ゲームで言えば、これから冒険に旅立つ若者が、鎧と小さな剣を持ったところ。

 じつは、数学の世界には「予想」という名の敵が、うようよいる。こいつらを倒していかなければならないんだ。ぼくらは、スタートの時、五つの公理しか持っていない。だから、最初に倒せる敵もも、小さなヤツだ。

 ちなみに、数学の世界で敵を倒すとは、その「予想」という敵を証明して、「その予想は正しいのです」という根拠(お墨付き)を与えることだ。すると、いままで敵だった「予想」は、「定理」と名を変えて、こっちの味方になってくれるのだ。これは、ちょっと将棋のルールに似ているかも。将棋は、相手の駒を取ったら、それを自分の駒として使えるようになるからね。

 さて。最初は戦い(証明)に使える武器は、たった五つの公理だったのに、戦いに勝つことによって手に入れた定理で、さらに強い敵に挑むことができるようになる。このように「単純な公理から出発して、どんどん論理を積み重ねていく」というスタイルを、ユークリッドが作り上げ、現代数学も、そのスタイルのまま発展してきた。

 そう。いまだに、われわれはユークリッドが確立したスタイルを使っているんだ。これほどまでに世界を変えたユークリッドの「原論」は、聖書を除けば、世界でもっとも読まれた本だと言われている。

 ここまで読んだあなたが、「ふーん、そういうものなの?」と思ってもらえたら、しめたもの。ぼくはつぎの説明に進むことができる。逆に言えば、その程度の理解でいい。

 では、多少なりとも、みなさんの理解が深まったと信じて、先へ進もう。

 いままでぼくらは、古代ギリシアの数学を見てきた。タレスにはじまり、ピュタゴラスによって育まれ、ユークリッドによって完成された過程をだ。

 ということは、数学はもう完成したのか?

 うん。数学はユークリッドによって完成している。でもそれは、数学というものの「あり方」が決定されたという意味だ。決して、数学の進歩が古代ギリシアで終わったわけじゃない。

 その証拠に、古代ギリシアには、ゼロがなかった。無限もなかった。負の数(今後はマイナスと書く)もなかった。無限はともかく、ゼロとマイナスなんて、ぼくらにとって、ごく日常的な数字だ。それが古代ギリシアになかったというんだから、驚きじゃないか。

 ゼロの前に、マイナスを考えてみよう。ゼロを境にして、その反対側がマイナスだから、ゼロより先にマイナスの説明をするのはおかしい……と思うかい? いやいや、じつは、歴史的にも、ゼロより先にマイナスが早く誕生したはずなんだよ。

 だって考えてごらん。いまあなたは、1000円持っていたとしよう。そして友だちとお昼を食べに言ったら、そのお店のランチは1200円だったとしよう。200円足りない。さあ困った!

 ここで、そもそも、そんな高い店には行かない。なんて答えないでくれよ(苦笑)。あなたには、友人から200円借りて、ランチを食べていただきたいのだ。そうすれば、あなたには200円の借金ができる。

 さて。もう、ぼくがなにを言いたいかわかるよね。数字とは、そもそも、ものを数えるためにできた。それはビジネスをするためだ。となれば、非常に早い段階で「借金」も発明されたはずなのだ。この借金は、算数的には、マイナスの数になり、その算術は、プラスの数のときと変わらない。

 つまり、「1000-1200=-200」という式ができるだけ。あなたが翌日、その友人に200円を返せば、借金はなくなるので。「-200+200=0」という式になる。まったく、なんの不思議もない。

 ところが……

 数学者は、これを認めなかったのだ。マイナスの数と言うのが存在することを、経済的には認めても、数学として認めることがどうしてもできなかった。古代ギリシア時代どころか、マイナスの数が公式に認められたのは、なんと19世紀に入ってからなんだ。17世紀の数学者、ブレーズ・パスカルはこんな言葉を残している。「0から4を引いても0だ」と。彼はマイナスの世界を認めていなかった。パスカルの原理を発見し、天気予報でもよく聞く圧力の単位(パスカル)に名を残す、優秀な科学者であったにも関わらずだ。

 まあ、よくよく考えてみると、数学者の気持ちも理解できる。だって、ゼロは「なにもない」ことじゃないか。そこから2とか4とかを「引く」という考え方自体がおかしい。たとえば、食卓のテーブルになにも乗っていない状態を想像してみよう。この、なにも乗っていない食卓のテーブルから、四個のリンゴを引くことができるだろうか?

 待ってくれ。なにも、そんな哲学的なテーブルを想像しなくたって、マイナスを借金と考えれば、簡単なことじゃないか。あなたはいま、そう思っているだろう。そう言うぼくも、ついさっき、マイナスの数の足し算と引き算をご披露した。1000円の持ち金で、1200円のランチを食べるには、200円の借金をしなくてはいけないと言うヤツ。たしか、なんの不思議もなかったはずだ。現にインドでは、紀元7世紀にはすでに、負債を表す数字にマイナスを使っていた。

 しかしだ、マイナスのお金というのは、この世に存在していないので、経済的にはともかく、代数的(数学的)には、意味のない数字ではないのか? ヨーロッパでは、ずっとそのように考えられてきて、なかなか受け入れられなかったのだよ。

 ところが!

 マイナスという概念は、非常に重要だったんだ。というか、マイナスを受け入れたからこそ、数学は世界を正しく表現できるようになったんだ。

 その説明のために、マイナスとマイナスのかけ算を考えてみよう。

 みんな学校で習ったはずだよ。マイナスの数とマイナスの数を掛けると、プラスになると。たとえば、こんな式があったとしよう。

 −2×−2=?

 わざと答えのところに?マークを入れたけど、答えはは「4」だよね。−4じゃないよ。プラスの4だ。あれれ? 変だぞ。借金に借金を掛けると、それは財産(プラス)になるのか?

 いや、そうではない。

 こういうことなんだ。まず「マイナス=借金」という、固定的な考え方を捨てて欲しい。マイナスとは、文字通り「負」をイメージする言葉だから、なかなか固定概念を捨てるのは難しいだろうけど(このエッセイで負数と書かないようにしているのは、そう言うわけなのだ)、マイナスとは、負債という性質の数字ではないんだ。マイナスは「方向」を示す場合に便利な数なんだよ。

 たとえば、いまここに、気球があったとしよう。この気球が、1分間に2メートル上昇する能力があったとすると、5分後には10メートル上空にいるはずだ。式にすると「2×5=10」だね。

 では、このモデルを変形してみよう。1分間に2メートル下降している気球は、5分前には、どこにいただろうか? さあ考えて。

 答えは簡単。10メートル上にいたはずだよね。これを式にすると「-2×-5=10」だ。どうだろう。これでマイナスとマイナスを掛けて、プラスになるモデルを理解していただけただろうか。もしあなたに、マイナスとマイナスを掛けると、プラスになる現象が、少しも不思議じゃないと思っていただければ、このエッセイを書いた意義があるってもんだ。

 こんな説明では物足りない人のために、もうちょうい補足しようか。

 ぼくらは日常生活でも、さまざまな数字を扱うよね。金額が高いとか安いとか、土地が広いとか狭いとか。新しいビルが高いとか低いとか。これは「大きさ」だけを持った量だ。こういった、大きさだけを持った量を、スカラーと呼ぶ。これを表すのには、ぼくらがふつうに使っている数「実数」があればいい(実数については、このエッセイの最後の方で、また出てくるが、いまは「加減乗除」ができる数と言っておこう)。

 これに対して、大きさと方向を持った量を、ベクトルと呼ぶ。よくよく考えてみると、この世のほとんどの現象はベクトル量だ。なにしろ、運動している物体は、ベクトルでなければ量として表せないからね。じつは、このベクトルを表現するのには、上に挙げたスカラーを表現する「実数」だけでは足りない。

 さっき、マイナスのかけ算で説明した気球の運動は、ごく単純化してあるから(一次元しか扱っていないのだ)、実数だけで方向算ができるけど、本当にベクトルを表すには、虚数が必要だ。

 虚数とは、2乗すると−1になる数のことだ。学校では、二次方程式の解に必要だからという理由で(※注2)、むりやり、そういうモノだと教え込まれるかも知れないけど、マイナスの数が存在するのと同じように、虚数も本当に存在するんだよ。ここでは詳しく説明しないけど、実数と虚数を含む、複素数という数を使わないと、ベクトル(大きさと方向)を表現できない。

 虚数の説明でよく使われる、十字の図形をぼくも使おう。水平と垂直の線が交わった、十字を思い浮かべて欲しい。交わったところはゼロだ。そして、水平方向の右側がプラス、左側がマイナス。これが実数で表せる世界だ。ここまでいいかな?

 こんどは上下だ。ゼロから上をプラスの虚数、下をマイナスの虚数とする。これが虚数で表せる世界だ。それぞれは一次元しか表現できないけど、この二つの組み合わせは、平面(二次元)を表現することができる。言い換えると、実数も虚数も、複素数の「特殊な例」でしかないので、この世の、ほんの一部しか表現できない。複素数こそが、われわれの実世界を表せる数なのだ(※注3)。

 なんだか、虚数の説明だけで、エッセイが数本書ける気がしてきた(笑)。いつか、気が向いたらそれに挑戦するとして、いまは先を急ごう。

 いよいよ、マイナスの世界からプラスの世界に行く境界「ゼロ」について語ろう。古代ギリシアにゼロはなかったと書いたけど、もっと正確に言うと、算術のために「位」が上がるときの記号としてのゼロはあった。古代ギリシアどころか、記号としてのゼロならば、世界最古の文明が発祥した、メソポタミアにすらあった。古代文明で、記号としてさえゼロがなかったのは、エジプト文明くらいだろう。

 でも、彼らはゼロをただの記号としてしか使わなかった。数字ではなかったんだ。だから数学に組み込まれることもなかった。先ほど、マイナスを説明するときに、17世紀の科学者パスカルの言葉を引用したのを覚えているかな? 彼は「0から4を引いても0だ」と言った。パスカルは、この言葉によって、マイナスはもちろん、ゼロも否定したのだ(※注4)。

 ところが、ゼロは数学にとって、非常に大事なモノだと、現代の数学者は考えている。しかもゼロというのは、まったく正反対な性質と思える「無限」とセットで考えると、とてもチャーミングなのだ。ゼロと無限のセットは、さまざまな科学に応用され、いまや、それらが現代社会を支えていると言っても、決して大げさではない。

 そもそも、歴史的に見ても、ゼロと無限はセットで考えられていた。ここでまた、古代ギリシアに戻ろう。

 かの有名なソクラテスも講義を聞いたことがあると言われる、古代ギリシアの哲学者ゼノンは、ゼノンのパラドックスというのを考え出した(※注5)。そのパラドックスは、全部で8つ知られているけど、ここではゼロと無限に関係し、かつとくに有名な「アキレウスと亀」をご紹介しよう。

 ある日、アキレスと亀が競争をすることになった。アキレスは足が速くて有名な、ギリシアの英雄だ。亀は、もちろんみなさんご存じの通り、あの甲羅を背負った亀のことだ。

 だれの目にもアキレスが有利なのは明らかなので、亀にはハンデが与えられた。アキレスよりも、ゴールに近いところから、スタートできるようにしてもらったのだ。

 さて。いま仮に、彼らの競争を10メートルで行うとして、亀は5メートルの地点(つまりアキレスの半分の距離)からスタートするとしよう。

 よーいドン!

 とスタートした両者だが、ふつうはアキレスが勝つと思うだろ? いくら距離が半分でいいからって、亀が勝てるわけがない。

 ところが、古代ギリシアでは、そうならないのだ。なんとアキレスは亀に永遠に追いつくことができない。どうしてかというと、アキレスは1,2秒で亀がもといた5メートルの地点に到達するが、そのとき亀は、すでに数センチ動いている。アキレスは、またわずかな時間をかけて、亀が進んだ距離を走るけど、そのとき亀は、また少し動いている。アキレスは、またまた、ほんの一瞬の時間を掛けて、亀が進んだ距離を走るけど、亀もほんのわずかではあるが進んでいるのだ! これを永遠に繰り返すことによって、アキレスは、永遠に亀に追いつくことはできない(※注6)。

 このパラドックスが、どうして成立するかというと、ゼノンが「無限の足し算は無限である」と考えていたからだ。現代人のぼくらでさえ、そんな錯覚に陥るときがある。

 ここで話を単純にするために、アキレスが、最初に亀がいた地点(亀のスタート地点)に到達する時間を1秒としよう。そして、つぎに亀がいる地点には1/2秒、そのつぎには1/4秒かかるとすると、こういう計算式になる。ごめん。数式を使うことを許して欲しい。

 1+1/2+1/4+1/8+1/16……

 と、無限に足し算を行うことになる。この足し算の答えは、無限ではないのか? そんな風に現代人でさえ錯覚するかも知れない。もし、あなたがそんな錯覚に襲われたら、アキレスが亀を(実際は)追い抜くことの方が、不思議に思えてくるかも知れない。それによって、人間の感覚が当てにならないと悟ったとしたら、あなたはゼノンの属した哲学の学派である、エレア派に入るべきかも知れない。紀元前5世紀ごろに、タイムスリップできるならだけど(笑)。

 そう。アキレスは亀を追い抜くのだから、上に挙げた「無限の足し算」が、無限であるという考えの方が、本質的に間違っていると疑った方がいいだろう。

 じつは、上の式の答えは無限ではなくて、「2」なんだよ。正確に表現すると、「限りなく2に近づき、決して2を超えることはない」というのが答えだ。それはつまり「2」と表現していい。この限りなく近づくというのがキモだ。われわれは上のような式を、2に「収束する」と表現し、この場合の2を「極限」と呼ぶ。

 ここまでをまとめよう。

 1+1/2+1/4+1/8+1/16……

 上記の、アキレスが亀を追いかける式には、極限という答えが存在する。計算すると、2に収束するので、この式の場合は、2が極限だとわかる。よって、答えは「2」としてよい。だから紙の上の空想ではなく、本当に競争させて、本物の時計で計ったら、2秒カッキリでアキレスは亀に追いつき、3秒後には抜き去っているのだ。

 とはいえ、あなたが理想主義に燃える高潔なる人物だとしたら、「限りなく近づく」というのは、けっきょく近づくだけで、求めたい「値」の真の答えではない。上の式で言えば、2にどれほど近くても、決して2ではないのだ。と反発なさるかも知れない。本文での詳しい説明は省略するけど(※注7)、現代数学では、キチンと論的な適合性が与えられているので、どうかぼくを信じて、先へ進んでいただきたい。

 こうしてぼくらは、古代ギリシア人を悩ませた、ゼノンのパラドックスを、うまく説明できることができるようになった。要するにゼノンの例は、一見、無限に見えて、じつは有限の数なのだ。有限になるのなら、不思議なことはなにもない。

 ところが、この世には、本当に無限の数が存在する。それはじつに、謎に満ちた存在なのだ。それらの持つ「性質」がわかったのは、ドイツの数学者、ゲオルク・カントールが、集合論を完成させてからなので、さっそくカントールに登場願いたいが……

 まあその前に、そもそも無限とは、どんなものなのかを考えることからはじめてみよう。

 たとえば……そうだな。こんな例えはいかがだろう。

 あなたの街には、公民館はあるだろうか? ないとか知らないとか答えた人も、あると思っていただきたい。さらにその公民館には、100人が座れる椅子が並べてあると想像していただきたい。しかも、その公民館で売れない演歌歌手の(昔は売れていた演歌歌手でもいいが)演奏会があると考えていただきたい。あなたは、その演奏会の準備をしなければならないのだ。

 さあ、がんばろう。

 地元のジイさんバアさんが、続々集まってくる。あなたは、椅子が100人分しかないことを知っているので、ジイさんバアさんを公民館の外に並ばせて順に入場させ、その数が100人に達したら、そこで入場を打ち切ることにした。あなたは融通の利かない性格なので、立ち見は許さないのだ。

 しかし、ここで問題が発生した(なんにでも問題はあるさ)。あなたは、別の仕事をしなければならず、入場者の数を数えることができないのだ。だれかに頼もうにも、手伝ってくれるのは、ボランティアで来てくれた、少年しかいない。十二歳くらいかな? ちょっと不安だが、その子は、十分に頭がよさそうだ。信じて任せるとしよう。

 そこであなたは、その子が忘れないように指示を紙に書いて渡した。。

 きみは、入ってきた聴衆を、1、2、3、4と順番に数えて100人に達したら、それ以上は中へ入れないように。

 うん。悪くない指示だ。だが、その少年は、とても賢そうに見えるから、いっそ、こう書いてみたらどうだろうか。

 入場者を「1、2、3……98、99、100」で止めなさい。

 かなり簡素になってしまったが、その子が本当に賢ければ「……」の部分が「順番に数えて」を意味すると、推測できるだろう。

 しかし、あなたは公民館の外を見て気が変わった。集まっているジイさんバアさんは、120人か130人ぐらいだ。立ち見を許せば、全員が入れるだろう。せっかく来てくれたのに追い返すのも忍びないから、全員を入れることにした。

 となると少年への指示を変えねばならない。全員入れなさいと言えばいいだけだが、何人集まったかの正確な数は把握しておきたいので、あなたはメモにこう書くことにした。

 入場者をつぎのように数えなさい。「1、2、3……nー2、nー1、n」

 少年は賢いから、この「n」が、未知の、だが限定された整数を表していると気づくはずだ。

 ところが、ここで大変な問題が発生した。その公民館は、表の入り口からロビーに入ったあと、講堂に入る入り口がわかりにくく、ロビーの出口から外へ出る方が容易だったのだ。みなさんはいま、いったいどんな構造の公民館だよと、苦笑を浮かべていらっしゃるだろうが、むりやり、そういう公民館があると想像していただきたい。

 いよいよ、入場という段になって、最初のジイさまが、出口と入り口を間違えて、外へ出てしまった。うしろのジイさんバアさんも、そのままついていくから、全員が出口を間違えて外へ出てしまう。さらに最初のジイさんは、列の最後尾に追いついて、まるで輪のように循環するとしよう。最近のジイさんバアさんはみんな元気だから、この輪をずっと維持できるとしよう。100年でも200年でも、いやいや、1億年でも歩き続けられるのだ。そして少年も十分に忍耐強くて、100年でも200年でも、いやいや、1億年でも数えられるとしよう。

 ここまで突飛な状況を想像していただければ、この作業が、永遠に終わらないことを理解していただけると思う。1億年どころか、宇宙が消滅してなくなるまで(なくなるとしたらだが)続くのだ。

 こういった場合、少年に書いた「1、2、3……nー2、nー1、n」というメモは、意味を成さなくなる。nは未知だけれど、限定された整数を表すからだ。100か、250か、318か知らないが、とにかく、ある決まった整数にならなければ、nという記号は使えない。いまの場合、最終的な数が未知なのは同じでも、永遠に大きくなり続けるので、そういう性質を表現しなければならない。

 われわれは、そういう性質を表すとき8の字を横に寝かせたような、「∞」という記号を使う。だから、上のメモはこうなるのだ。

 1、2、3……∞

 ここで問題です。上の記述は、なんと読むべきでしょう?

 あなたはいま、「いち、に、さん、無限」あるいは「いち、に、さん、無限大」とお読みになったんじゃないだろうか? 慣習的にはそれで間違いとは言わないが、無限の性質を考えれば、正しいとは言えない。上の記述は、こう読むべきなのだ。

「いち、に、さんと続けていって、順番に限りなく続ける」

 そもそも、無限を表す英語「インフィニティ」は、ラテン語の「際限なく」から来ているので、無限という言葉を使っても間違いじゃなさそうだけど、「いち、に、さん、無限」という言い方は、どこか、いつかは「無限」というモノに、行き着くような印象を与える。これに対して「限りなく続ける」という表現なら、その行為に終わりがないことを、キチンと伝えられるはずだ。

 つまり「無限」というのは、「際限がない」という性質なのだ。それは、いかなる整数でも、それどころか、ぼくらの知るどんな種類の数でもない。数字ではないんだよ。

 とはいえ、∞という記号は、特定の算術として、式の中に入れることができる。このとき気をつけなければいけないのは(どんな記号にも言えることだけど)、ぼくらの常識が、記号に当てはまらなくても驚いちゃいけないってことだ。

 たとえば、4ー2という計算の答えは2だけれど、∞ー2という計算の答えは∞だ。無限からなにかの数を引いても、そこには無限が残るだけなんだよ。

 ここまでは理解できたかな? じゃあ、もっとすごい引き算をやってみよう。

 12345678……と続く整数を見ると、そこには偶数と奇数があるのをご存じだよね。では、1から数えて、際限なく続く整数から、偶数をすべて引くことにしよう。

 すると、あなたはすぐに、偶数の列も無限なのだと気づくだろうから、整数から偶数を引くときの式は「∞ー∞」になると答えていただけるはずだ。そして、無限から無限を引いても、そこには、依然として無限が残るので、けっきょく「∞ー∞=∞」なのだと気づき、いささかショックを受けるかも知れない。足し算でも同じだ。∞+∞=∞なのだ。

 しかし、あなたは首をひねるかも知れない。整数から偶数を引けば、その整数は半分になるのだから、正確には「1/2∞」と書くべきじゃないかと。

 そうではないのだ。もし、そのようにお考えになるとしたら、あなたはまだ「∞」を数として扱っていらっしゃる。そうではなく、これは「性質」なのだ。整数の列と、偶数の列を一対一で対応させてみればおわかりになると思う。

1→2
2→4
3→6
4→8




 いかがだろう? この関係を、どこまでも際限なく続けていけることを理解してもらえるよね。偶数の列は、整数の列の半分しかないように思えても、偶数の列が、いつか尽きてなくなるわけではないので、「半分」という表現が無意味だとわかっていただけるだろう。整数に限りがないという性質と、偶数に限りがないという性質は、まったく同じものと表現できるわけだ。

 いまは整数と偶数で比べたけれど、これはどんな数列にも言える。たとえば、整数の間に、分数を入れてみよう。1、11/2、2、21/2……こんな具合だ。これで整数は、2倍になったはずだが、もう、おわかりの通り、∞+∞だって、∞なのだ。

 ここで、こんな想像をしてみよう。いまここに、1センチの線があるとしよう。その線は、1/2センチの線に切ることができる。さらにそれは1/4に、さらに1/8に、と、どこまでも際限なく分割できるので、1センチの線は、無限の「点」の集まりと考えることができる。

 では、あなたは抜群の想像力を駆使して、地球から火星まで線を引くことにしよう。その線の長さは、7830万キロメートルになるはずだが、その線の中にある点と、1センチの中にある点には、違いがないことも想像していただけるだろう。つまり、1センチの線の中に含まれる「点」は、たとえ、この宇宙の果てまで線を引いたとしても、同等なのだよ。

 いったい、なにが言いたいかというと、「終わりのなさ」という性質は、どんな場合でも同じであって、なにをしたって(引いても足しても、掛けても割っても)、無限は無限のままなのだ。

 ところが、そうじゃなかったんだよ!

 ふたたび、線を想像してみよう。さっきぼくは、線をどんどん、細かく分解していって「点」を作った。これは言い換えると、分数で表せる「点」だ。定規で測れば、1/2とか1/4の位置に、しるしを付けていけるよね。そういう点のこと。

 ところが困ったことに、この世には分数で表せない点がある。

 ここでまた、古代ギリシアのピュタゴラスにご登場願おう。彼は、多くの神秘的な「数」を発見してきたが、じつは、彼の人生そのものを崩壊させるほど強烈な発見をしている。それこそは、悪魔の数字「ルート2」だ。その値は、1.4142135……と永遠に循環しない少数が続いていく(※注8)。

 つまり、線の中にある「点」を、すべて分数に対応させるとすると、そこには、分数で表せない「点」が残ってしまうことになる。ちなみに、分数で表せる数を有理数。分数で表せない数を無理数と呼ぶので、このエッセイでも、今後そう呼ばせてもらう。

 さて、困ったね。無理数が残っちゃうのを、どうしようか? でもまあ、それほど気にすることもないか。無理数は、めったにないだろう。ルート2ぐらいのものじゃないか?

 いや、そうじゃないんだ。ルート2は、最初に発見された無理数と言うだけで、実際のところ、無理数は、ものすごくたくさんある。たいていの平方根は無理数だし、たいていの立方根も、たいていの四乗根等々もそうだ。たいていのサイン、コサイン、タンジェントも無理数だし、パイ(円周率)を含む数は無理数だし、対数だって無理数だ。

 もっとハッキリ言おう。気の遠くなるほど細かく分数で分割し、気の遠くなるほど近い2点の間にも、少なくともひとつは、必ず無理数の「点」が存在すると、現代の数学者は証明することができる。

 ここで、また新しい言葉を紹介しよう。上に挙げた有理数と無理数を合わせて「実数」と呼ぶことにするのだ。そうすれえば、線の中に存在するすべての点は、「実数」で表すことができると、言えるようになる。有理数じゃない点は、無理数で表せばいいんだから。

 さて。ここでまた、問題です。

 先ほどぼくは、整数と偶数を対応させて、その「終わりのなさ」という性質に違いはないと説明したよね。

 だったら、整数と実数も、同じように対応させることができると、ふつうは考えるよね。実数には、有理数(整数も有理数だ)だけでなく、無理数も含まれているけど、どちらも「終わりのなさ」は同じはずだから、一対一で、どこまでも対応させられると。

 いやあ、ごめん。そうじゃないんだ。整数に対して、実数をどのようにあてはめても、考えられるどんな方法を使っても、常に対応しきれない実数が残る。

 公民館(売れない演歌歌手の公演)を思いだそう。席は100人分だった。それに比べて観客は120か130人だ。こんどは、ちゃんと講堂に入ってもらうとして、一人ずつ席についてもらうと、20人か30人は、立ち見としてあふれてしまう。

 整数と実数にも同じことが言える。整数が椅子だとすると、実数は人だ。常に余ってしまうんだ。このことから、驚くべきことに、「ふつうの無限」よりも、さらに「果てしなく続く無限」があるようなんだよ。

 ふつうの無限(変な言葉だな)は、「限りなく続く」とか「∞」という記号を使って表したよね。それは、整数や有理数全般と結びついたモノだから、線上の点の連続には使えない。だから自然科学の分野では「C」という記号がよく使われる。これは連続体(continum)の頭文字だ。線上のすべての点は、連続する線を表すことから、この言葉が用いられる。

 さあ、ここでやっと、カントールに登場してもらおう。彼は人類として、はじめて無限に秘められた驚くべき性質に気づいた人物だ。いるんだねえ、こういう天才って。

 彼は連続体の無限は、ふつうの無限より、無限の度合いが強いことに気づいて、それを「濃度」と呼んだ。「終わりがない」という性質の無限にも、濃度の違いがあると見抜いたんだ(※注9)。

 さらにカントールは、濃度の違う無限を区別するために、ヘブライ語の最初の文字「アレフ」を割り当てた。無限性の低い順に、アレフ0、アレフ1、アレフ2と続けて行こうと決めたんだ。

 そうすると、ぼくらがよく知る(知らなかったかも知れないが)、限りなく続く整数の無限は、アレフ0になる。なんとまあ、整数だって、とてつもなく、気の遠くなるほどの無限なのに、無限の中では、一番小さいんだってさ。このことはすでに、数学的に証明されている。

 先ほどCで表した線上の点のような無限は、アレフ1だと考えられるけど、じつは、これはまだ証明されていない。つまり、アレフ0とアレフ1の間に、別の濃度を持つ無限はないと言い切れないんだ。

 では、さらに濃度の高い無限、アレフ2はあるのか?

 どうやらありそうだ。平面に描けるすべての曲線は、線上に書ける点よりも無限性が高いことが証明されているので、この無限の曲線は、アレフ2だと思う……けど、アレフ1とアレフ2の間に中間的な無限がないとは言い切れないので、アレフ1と同じく、ぼくらはアレフ2を証明できていない。

 それじゃあ、アレフ3は?

 いや、ここまでだ。まだだれも、アレフ3以上の無限を考え出してはいない。数学者の中には、ぼくらの頭脳は、アレフ3以上の無限を想像できないとさえ言う人もいる。正直なところ、アレフ2でも、ぼくには荷が重い(苦笑)。

 幸いにして、現実の世界(つまりこの宇宙)を扱う自然科学では、アレフ1より濃度の高い無限を扱う必要はなさそうだ。まあ、それだって、証明されてるわけじゃないので、将来はもっと濃度の高い無限で見ないと、この宇宙の本質はわからないのかも知れないが……

 ふう……

 いかがだったろうか? この辺で、数学のエッセイを終わることにしよう。数学と言いながら、後半からどんどん物理学に近づいてしまったことをお詫び申し上げたい。そのことは、書きながら、十分に注意していたのだけど、ぼくの知能では、どうしても自然科学的なアプローチをしないと、数学に近寄れないんだ。

 また、ゼロについても、解説が物足りなかったと思う。ゼロの発見者はインド人なんだけど、彼らがどのようにゼロを発見したかも書きたかった。書いている途中で、エッセイを三部構成にしようかと本気で悩んだんだくらいだ。でも、一応、このエッセイで区切りを付けさせていただきたい。解説しきれなかった部分は(いくら書いても書き足りないんだが)、いつかまた、別のエッセイで紹介したいね。

 最後の最後に、このエッセイのタイトルを解説しよう。これは、アインシュタインが残した言葉だ。彼は言った。「無限なものは二つある。“宇宙”と“人間の愚かさ”だが、前者については自信が持てない」と。

 さすがアインシュタイン。まさに名言ですな。宇宙が無限であるか有限であるかは、アインシュタインが世を去って、五十年以上経ついまも、物理学者たちは答えることができない。そして人間の愚かさもまた、アインシュタインの時代と同じらしい。

 そうか……アレフ3は、人間の愚かさなのかも知れないね。現在考え得る無限の中で、もっとも濃度の高い無限は、悲しいかな、人間の愚かさなのだ。

 キーン、コーン、カーン、コーン!

 おっと。チャイムが鳴った。お疲れさま。これで数学の授業を終了します。





※注1
ピュタゴラスが数を神秘的なモノと考えた思想は、彼の死後も、ずっと残っている。たとえばピュタゴラスは、「6」という数字を非常に神聖なモノと考えていたので、古代ギリシアの影響を受けたユダヤ人たちは、自分たちの神が世界を創造するのに必要とした時間を「6日」と定めた。そして7日目に神は休みをとったという物語を作り上げたので、われわれも日曜日は休むのだ。
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※注2
二次方程式には、必ず二つの解があると証明されているので、「x2+1=0」という方程式のx2は、-1でなければならない。つまり、二乗して-1になる数が代数的に存在しなければならないのだ。なんて説明を、数学の教師からされた学生のみなさんも、きっといることだろう。お受験用としてはそれでいいのかもしれないが、そのように覚えてしまうと、虚数は、まさに「虚の数」として、数学というゲームの「幻想」と錯覚してしまう恐れがある。本文で説明したとおり、そうではないのだ。虚数はたしかに存在する。もし仮に、実数を方角の「東と西」だとしたら、虚数は「北と南」なのだ。
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※注3
じつは、この「座標」という発想は、まだゼロもマイナスも数学界で認められていなかった17世紀に、フランスの哲学者であり、また数学者であった、ルネ・デカルトが考え出した。彼はヨーロッパの数学者としては、はじめて「マイナス」の世界を認めていた人物でもあるのだ。
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※注4
天気予報(というか気象学)で長らく使われていたミリバールは、CGS単位系なので、国際単位系が、文字通り国際的に採用されてからは、徐々に使われなくなっている(一部のCGS単位系は、国際単位系のサブセットとして、いまも使われているけど)。

そこで、ミリバールに変わって、国際単位系のパスカルが採用されたわけだが、そのままでは、ちょっと使いにくくて、パスカルを100倍にした「ヘクトパスカル」が天気予報では使われている。ヘクトパスカルだと、ミリバールと値が同じになるのだ。

気がつけば、注釈でもうんちくを垂れてるが(苦笑)、国際単位系に名を残す科学者であるにも関わらず、ゼロとマイナスを否定した言葉が、ずっと語り継がれるなんて、パスカルも不名誉な言葉を残したモノだね。そう言えば彼は、数学を捨てて、哲学と神学の研究に没頭してしまったのだ。もしも、数学を続けていたら、もっとすばらしい功績を残しただろうと残念がる人もいる。まあ、それこそ神のみぞ知ることだが。
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※注5
ゼノンのパラドックスのうち、ここに挙げた「アキレウスと亀」は、ゼノンの愛人であった、パルメニデスの発案だという説もある。
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※注6
バカじゃない? と、現代人は思うだろう。いや、古代ギリシアの人たちだって、アキレスが亀を簡単に追い抜けることを知っている。

では、ゼノンはいったい、なにを言いたかったのか? ごく簡単にゼノンの主張をまとめると「感覚なんて疑わしいもんだぜ」と言いたかったらしい。アキレスが亀を追い抜くのは事実だけど、深く考えてみりゃ、おかしなかおとになるじゃないかと。だからもし、ゼノンが無限の性質を正しく理解していたら、無限には頼らずに、べつのなにかを使って、やはりパラドックスを考えたのだろう。

だからこそ、古代ギリシアの哲学者たちは、本質的になにもかも間違っていて、彼らのバカげた考えのせいで、人類は千年以上も間違った思想に苦しんだと、非難したくなるときもあるのだが……
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※注7
たしかに「極限」とは、突き詰めて考えると難しい概念だ。極限の元になる方法を最初に編み出したのは、前回のエッセイでも登場いただいた、フランスのピエール・ド・フェルマーだ。彼は、ゼロではないが、限りなくゼロに近い点という考えを使って、当時は、解法がなかった問題を解くことに成功した。こんなことを考えたのは、彼がはじめてだった。

ここで重要なのは、当時の数学者は、現代の数学者よりおおらかというか、あまり論理に厳密ではなかったということだ。だから、「限りなくゼロに近いがゼロじゃない」なんていう妄想に近い、思弁的な方法を平気で使っていたのだ。フェルマーのあとの、ニュートンやライプニッツも同じで、彼らは微積分という、とてつもなく有益な理論を作り上げたが、それらは、数学的には「怪しい」考え方を基盤にして作り上げたのだ。

でも、やっぱり「限りなくゼロに近いがゼロじゃない」なんていう妄想が元になっていては、それを数学と認めることはできない。

そこで、登場したのが、オーギュスタン=ルイ・コーシーと、同時代のベルナルト・ボルツァーノだ。とくにオーギュスタン=ルイ・コーシーの貢献は大きい。彼らは、ニュートンたちの仕事を、もっとしっかりとした数学的な(つまり論理的な)基盤の上に再構築しようと試みた。残念ながらコーシー自身は、その完成を見る前に亡くなったが(1857年没)、1860年代になってようやく、イプシロンーデルタ論法というのが完成して、ここに「極限」という概念が認められるに至った。

これ以上は本気で難しく、ぼくにも理解できない領域に達するので、数学者の言うことを信じるしかないんだけど、現代の数学者が扱う「収束」や「極限」とは、フェルマーやニュートンが使った「限りなくゼロに近いがゼロではない」という「超微少量」の概念を一切排除して、「すべて」と「ある」という論理記号によって、明確に記述されているのだそうだ。

つまり、「1+1/2+1/4+1/8+1/16……」の式で言うと、極限としての2は、本当に2として扱っていいのだ。その裏には、キチンと論理的な適合性が与えられているから、理想主義に燃える方も、どうか、安心していただきたい。
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※注8
ピュタゴラスは、ルート2を発見したとき、あまりの醜さに驚き、この世は美しい数字で作られているとする自身の信仰にあまりにもかけ離れているから……どうしたと思う?

そう。この数字は封印して、忘れることにした。それどころか、ピュタゴラス教団のだれも、この数字を研究することを禁じ、それに違反したモノは厳しく罰した(ようするに殺しちゃった)。このことからも、ピュタゴラスの数学が宗教だったと断言できるわけだ。
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※注9
そもそも、整数と有理数の無限が、同じだと論じたのは、カントールが最初なのだ。有理数は分数を含むから、整数よりもはるかに大きいと思われていた時代にだ。無限集合に関する結論を得たとき、カントールは友人に宛てた手紙で「自分でも信じられない」と述べている。

それと余談だけど、ぼくは人名を一度は必ずフルネームで表記したい衝動に駆られるタチなので、カントールのフルネームを最後に書いておく。本文中で書くのは、はばかられるほど長いんだ(苦笑)。

ゲオルク・フェルディナント・ルートウィッヒ・フィリップ・カントール
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