報道のような決定をした事実はありません……の謎


 タリーズというカフェがある。このカフェは、毎年冬になると「ティラミス・ラテ」という飲み物を、季節限定で売り出す。

 ぼくは、これが好きなのだ。そもそもティラミスが好きなのだ。だから、ティラミス・ラテがあるうちは、カフェに行きたくなったら、ちょっと遠くて、ちょっと無理をしてでも、タリーズに行く。でも、こいつは季節限定だから、しばらく前にメニューから消えてしまった。残念。

 と、思っていたら、デートのとき彼女が、聞いてみればまだあるかもよと言って、店員に聞いてみてくれた。

 そしたら、あったのだ!

 それから、二週間ぐらいは、ティラミス・ラテを継続して飲むことができたのだが、いよいよレジのコンピュータから削除されたらしく、「ティラミス・ラテ」という飲み物としては、注文できなくなった。

 しかし、タリーズの店員は、ある妥協案を提示してきた。普通のラテに、ティラミス・シロップを入れて、そこにホイップクリームを乗せれば、同じ味になるというのだ。だが、ホイップを乗せる分、値段は高くなってしまうと言われた(正確には、交渉を担当したのは、ぼくの彼女なのだが)。

 もちろん、それでもいい。多少高くても、ティラミス・ラテを飲みたいのだ。この方法で、さらに二週間ほどは「ティラミス・ラテと同じ味のラテ」を飲めたのだけど、ついに、そのティラミス・シロップも在庫がなくなり、どのタリーズに行っても、ティラミス・ラテ(もどき?)は飲めなくなった……

 だから、自分が好んでいたモノが市場から消える悲しさを、ぼくは理解できる。もっとも、来年の冬になれば、またティラミス・ラテを飲めるだろうと期待できるけど、どうやら、東芝が売り出した次世代DVDに、未来はなさそうだ。

 2月16日の夜にNHKが報じて、翌朝の朝刊にも一面トップで出ていたから、このニュースをご存じの方も多いだろう。そう。東芝がHD DVDから、撤退する方向で調整しているという報道を。

 ところが東芝は、すぐさま声明を発表し、「現在市場の反応を見ながら今後の事業方針について検討はしているが、報道のような決定をした事実は無い」と、報道を否定した。

 いやまあ、表面的には否定だけど、「市場の反応を見ながら今後の事業方針について検討はしている」と言ってるわけで、要するに、撤退しますと認めたに等しい。本当に報道が間違いで、やめる気がないなら、やめませんと言えばいいんだから。

 とはいえ、東芝の言い分と、NHKの報道内容が食い違っているのは事実だ。NHKは、撤退すると言っているのに、東芝は、そんな決定をした覚えはないと言ってるわけだから。

 なんで、こんなことが起こるんだろう? NHKは、ガセネタをつかまされて、間違った報道をしてしまったのだろうか?

 もちろん、その可能性は、常にゼロではない。けれども、この場合は、そうは思えない。ふつう、ガセネタで間違った報道が流れる場合は、1社、多くても2,3社ぐらいで止まるものだ。メジャーな新聞社が、一斉に、ガセネタを、しかも一面トップで報道する可能性は、それほど高くはない。しかも今回は、さっきも書いたとおり、東芝自身が、否定声明の中で「事業方針について検討はしている」と、微妙な表現をしているのだから、ガセネタの可能性は、きわめて低いと考えられる。

 じゃあ、NHKの情報ソースはどこだ?

 ぼくはNHKの記者じゃないから、その真相はわからないが、一般的に考えて、今回の報道は、東芝の幹部からのリーク情報だろう。

 またか。って感じだね。大企業や、政府(とくに金融)関係者は、よくやる手だ。なにか重大な決定を下すとき、いきなり公式の記者会見を開いてしまったら、もう撤回できない(できるにしても、かなり困難になる)けど、情報をリークしてみて、市場の反応が、想像以上にネガティブだったら、「そんな決定はしていません」と言って、逃げちゃえばいいからね。

 いやいや、逃げちゃうなんて書くと、ネガティブだけど、実際のところ、情報のリークは、どの国でも、当たり前に行われていることで、かつ、資本主義社会には、必要不可欠とさえ言える。

 たとえば、情報のリークとは少し違うけど、金融市場のことを考えてみよう。ある国の中央銀行(日本の場合は日銀ですな)が、公定歩合を上げ下げするとき、ほとんどの場合、いきなりはやらない。総裁や議長と言った最高責任者(あるいは上級幹部)が、定例記者会見の場で、「いまの景気はこんなだから、将来こんな風にする可能性は否定できませんなあ」みたいなことを言ってみて、市場がどう反応するか見たり、あるいは、市場に「覚悟」をもたせて、実際にそうしたときのショックを和らげたりする。もちろん、荒療治が必要なときは、いきなり、なんの前触れもなく、金利を下げたり上げたりして、市場にショックを与えることもあるけど……中央銀行のトップには、そういう心理的な市場操作の手腕が求められるわけだ。

 企業のやる情報リークも、これと同じ効果がある。市場の反応を見ることと、実際に公式発表したときのショックを和らげる作用だ。会社にとってネガティブな発表をするとき、株価に与える影響を最小限するのが、経営者の腕の見せ所でもある。つい最近の例を挙げると、三洋電機が、携帯電話事業を売却するときにも、この情報リークを使って、市場のショックを和らげていたと推察される。(三洋は最初、報道されたような事実はないと否定していたが、けっきょく京セラに携帯電話部門を売った)

 で、話を東芝のHD DVDに戻そう。

 ご存じない方のために、念のために書いておくと、HD DVDとは、東芝が規格を作った、次世代DVDの名前だ。これと、ソニー・松下の作った、Blu-ray(以下BDと表記)と、いわゆる、フォーマット戦争というのをやっていた。

 このフォーマット戦争で東芝は、去年のアメリカでのクリスマス商戦あたりから、かなり旗色が悪くなっていた。要するに、思ったほど売れないのだ。ハードウエアは赤字覚悟(本当に大赤字)で叩き売ったのだけど、肝心のソフト(映画タイトル)が売れない。

 そこで、映画会社の最大手であるワーナーが、とうとう今年になってから、うちはBD一本で行きますと発表してしまったから、東芝は大ショック! さらに、アメリカの量販店も、次々に、うちもBDだけ、うちも、うちも……と、雪崩を打ってしまって、さあ、東芝さん、あんた、いつHD DVDをやめるんですか? という状況にあった。

 BD陣営が、ワーナーに金を渡して、BD一本にしてくださいと頼んだ……なんて噂もあったけど、ワーナーを動かすには、少なくとも一千億円ぐらい必要らしく、さすがのBD陣営も、そこまで金を使わないだろうと言われている。でも、去年のクリスマス商戦では、ハリーポッターの売り上げが、ワーナーの意志決定を左右するなんて噂が流れたもんだから、BD陣営の社員が自腹を切って、ハリーポッターのBDディスクを、何枚も買ったんだとか……勝った方のBDにも、なんとも、涙ぐましい努力はあったわけだ。

 さて、ひるがえってHD DVD陣営。彼らだって、涙ぐましいどころか、血を流すほどの努力をしてきた。それでも、BDには勝てなかった。彼ら自身、ワーナーがBDへの一本化を発表してから、引き際を考えはじめたのは間違いない。

 ところが、映画会社の中で、ユニバーサルとパラマウントが、いまだにHD DVD陣営で、BD用のソフトは出していない。東芝としては、この2社を裏切れないのだ。だから、本音としては、ユニバーサルとパラマウントに見切りを付けられてから、「ユニバーサルとパラマウントにダメ出しを食らったので、仕方なく、HD DVDから撤退します」と、発表したかったろう……

 が!

 それは、ユニバーサルとパラマウントだって同じだ。東芝が止めるって言うから、うちも、しかたなくBDにしますよと、発表したいに違いない。もしかしたら、東芝とMicrosoftから金をもらっていて、BDに寝返ることができないだけなのかも知れないが、その辺の事情は、さすがに、ぼくにはわからない(いまは会計監査が厳しいから、金を横に流すのは難しいと思うけど、東芝には無理でも、Microsoftなら可能なのかも知れない。まあ、ただの憶測だけど)。

 どちらにしても、東芝としては、非常に辛い決断だ。しかも影響がデカイ。やめますって、一言でも言っちゃったら、出荷したHD DVDドライブは返品の嵐だぜ。さらに事情を複雑にしているのは、HD DVDを実際に作っているのは、東芝デジタルメディアネットワーク社という、東芝の中の社内カンパニーだからだ。東芝デジタルメディアネットワーク社としては、なんとしてもHD DVDを続けたいわけで、売れないから、もうやーめた。とは、絶対に言わない。意地でも言わない。

 そこで東芝(親会社)は、市場の反応を見るだけでなく、子供(東芝DM社)に、引導を渡す必要もあったと推察される。きみらの事業は失敗したのだから、そろそろ諦めなさいというメッセージなのだ。だから情報のリークは、東芝デジタルメディアネットワーク社ではなく、親会社の幹部からだろうと、ジャーナリストの間ではささやかれている。

 そもそも、いまのDVDが規格化された当時のことを思い出してみると、東芝のHD DVDに勝ち目は、最初からなかったと思えてならない。

 というのは、じつは、いまのDVDは、東芝が作った規格なのだ。それ以前のCDは、ソニーとフィリップスが作った規格で、さあ、新しい規格が必要だと言うときに、ソニーは、当然CDと互換性のあるMMCDという規格を作り上げた。

 さて、東芝の方はというと、CDの縛りがないし、むしろ、CDなんてものをこの世から葬り去って、自分の作った規格を世界共通にしたいわけだから、CDとは互換性のないSuper density Discという規格を作った。

 けっきょく、勝ったのは、過去のしがらみがない、東芝の方式だった。東芝の方は、CDとの互換性を犠牲にしたおかげで、記憶容量が大きかったのだ。

 ところが!

 東芝には、そうやって勝利した経験があるにもかかわらず、DVDのつぎでは、DVDと製造面で互換性のある規格にこだわり、BDよりも記憶容量の少ない、HD DVDなんてものを作ってしまった。しかも、容量が少なくたって大丈夫。むしろBDの容量は使いこなせないから無駄だとさえ、言い出す始末。容量がどんなに多くても困らないのは、ハードディスクが証明しているのにも関わらずだ(容量が1テラバイトあったって足りない)。

 だからぼくは、今回のフォーマット戦争とやらを眺めながら、人間ってのは、私利私欲が絡むと、過去の経験が生かせない生き物なのだなあと、つくづく思った。東芝が、どんなに、HD DVDの良さをアピールしても、いや、必死にアピールすればするほど、当時CDとの互換性を守りたくて必死だったソニーを思い出す。そんな思いを抱いていたのは、たぶん、ぼくだけではないだろう。東芝の中にだって、正気のある社員は、そう思っていたかも知れない。

 なんてことを書くと、東芝の関係者は怒るだろうな。当時と今とでは、事情が違うと。HD DVDの記憶容量は、必要十分なのであって、数ギガバイトを争っていた昔と同じにするなと。さらにHD DVDには、優れたインタラクティブ技術があり、Microsoftを筆頭に、ソフトウエア会社の求める、最良の規格なのである……なんて感じ?

 でもまあ、東芝がどんなにがんばっても、けっきょく、過去に縛られた規格は成功しないと言うことを証明することになりそうだ。早ければ今週中にも、どんなに遅くても、今年度中には、東芝から、なんらかの公式な発表があるだろう。それは、事実上の敗北宣言になるはずだ。そのとき東芝は、どんな表現を使うのだろうか……うーむ。もしぼくが、その発表のスピーチライターを頼まれたら悩むよなあ。まあ、頼まれないので、悩む必要もないのだが(笑)。

 とりあえず、これで、ほっと一息と言うところかな。販売店は、もうなんの迷いもなくBDを売ればいいし、お客さんも、迷わずBDを買えばいい。十年後には、また別の規格が出てくるだろうが、それはまた、未来の自分に悩ませればいいのだ。

 ということで、いまは、BDで決まり! ソニーさんおめでとう! こんどは勝ったね。

 え? なんでこんなエッセイを書いたのかって? だって好きなんだもん、大企業や政府同士の駆け引きって。つぎは、MicrosoftのYahoo!買収が見逃せないドラマだね。MicrosoftがYahoo!を買収したって、うまく運営できるわけがないと思うけど、はてさて、どうなりますやらだ。


後日談 2008年2月19日記
さっそく東芝は、公式発表を行ったので、ここに「後日談」としてご紹介しておく。

2008年2月19日、午後5時からの会見で、東芝の西田厚聡社長は、HD DVD関連事業からの撤退を決定したと、公式に発表した。開発と生産を即座に停止し、3月末をめどに事業を終息するそうだ。この決定は、家庭用のHD DVDレコーダとプレーヤーだけでなく、パソコン用のHD DVDドライブも含まれる。終息って言葉が、負け惜しみぽくてナイス(苦笑)。

ちなみに、すでに売っちゃったHD DVDレコーダとプレーヤーに関しては、ちゃんとサポートしますとのこと。まあ、企業の責任として、当然でしょうなあ。

さて、肝心の撤退を決めた理由だけど、やはり「ワーナーの決定」なんだそうだ。いまでもHD DVDの技術には自信を持っていらっしゃるそうで、決して技術的な理由でBDに負けたんじゃねえぞと、おっしゃっておられた。まあ、ふつう、だれでもそう言うわな。だからなのか知らないが、いまのところBDを東芝から出す予定はないそうだ。

そりゃまあ、気持ちとしては出したくないでしょうよ。いままで敵だったんだから。お互い、悪口をさんざん言い合ってたもんね。いまさら、仲間にしてくださいとは言いにくいでしょうよ。

でも、東芝だって、株式会社だからね。株主から、そんな事でいいのか! って怒られたら、BDプレイヤーだろうが、BDレコーダーだろうが、出さないわけにはいかないでしょ? って、傷に塩をなすりつけるような書き方で、ちょっと申し訳なく思うけど、こればっかりは市場原理なんだから、しょうがないですよ、西田社長。

でも、西田社長が言うとおり、BDなんかやらないのも手かも。この際、もう光ディスクから完全に撤退しちゃったらどうですかね、西田社長。東芝は、フラッシュメモリーのメーカーだから、これからは、光ディスクなんて、低速で低容量のデバイスにこだわらず、それこそ、過去との互換性を犠牲にして、また新しい規格に挑戦していただきたい。

実際に、西田社長の会見でも、「フラッシュメモリやハードディスクドライブなどのストレージ技術、次世代CPU、画像処理、ワイヤレス処理などの技術を生かした、新たなデジタルコンバージェンス時代に適した次世代映像事業の中長期的な新戦略を再構築していく」なーんて、いまいち、意味不明なことをおっしゃっていたようなので、光ディスクのことを、もう忘れてしまいたいという気持ちは、にじみ出てる気がする。

まあ、なんにしても、お疲れ様でした、西田社長。今夜は、愚痴でもこぼしながら、どこかの飲み屋で、一杯やってください。


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