ヘルパンギーナです


 その異変は、8月5日日曜日の、午前三時に起こった。小説を執筆中(なにを書いていたかは秘密だ)に、急にめまいを感じたのだ。

 あれれ〜、なーんか、頭がクラクラするぅ。

 ぼくは、モニターを見つめていた瞳を閉じた。知恵熱かな? おいおい、知恵熱なんてホントにあるのかよ。でも、風邪ぽくないんだよな。のども痛くないし。

 などと考えているうちに、どんどん熱が上がってきたらしく、起きているのが辛くなってきた。もっとも、午前の三時過ぎという時間は、一般的には起きていてはいけない時間なので、素直に寝ることにする。

 が!

 眠れないのだ! いよいよ、熱が上がって、身体のあちこちが痛い。この猛暑で、寝苦しいのと重なって、もう最悪。ぜんぜん眠れない。ちょっとウトウトすると、すぐに身体の痛みで目が覚める。

 そんなこんなで日曜日は、昼過ぎまでベッドでうだうだしていたのだけど、午後からはベッドから這い出た。熱が少し下がってきたし、寝ているのも辛い。ちょっとクラクラするけど、相変わらず、のどが痛いわけでもないし、風邪っぽい症状はない。うまいものでも食べれば治るかな。なんて、そのときは軽く考えていた。

 が!

 日曜日の日没あたりから、のどが痛くなってきた。いよいよ、風邪っぽい症状が出てきたのだ。うーむ。やっぱり夏風邪か……まいったな。

 のどが痛くなってきたら、病状は、どんどん悪化していった。日が変わり、月曜日になる頃には、熱もさらに上昇して、頭痛もひどくなってきた。発熱を薬で抑えちゃいかんと思うのだけど、もう、どうにも辛くて、バファリンを飲んだ。これで、少し眠れた。

 陽が昇り、のどの痛みは、いよいよ絶好調。熱のせいで身体のどこもかしこも痛い。特に背中が痛い。頭痛もひどい。これはたまらん。ベッドから這い出て、行きつけの医者に向かった。

 その医者は、いつも空いている。いや、この表現は正確じゃないな。ぼくが行って、混んでいたことがない。まあ、たぶん夕方は混むのだろう……わかんないけど。ともかく、この日も、客(患者か?)は、待合室に一人もいなくて、保険証と診察券を受け付けに出したら、十秒もしないで呼ばれた。

 もっと正確に言うと、受け付けにはおばちゃんがいるんだが、客(患者)が一人もいないもんだから、医者とそのおばちゃんは、雑談していやがったのだ。だから、おばちゃんがぼくのカルテを戸棚から出すと、医者はそれを手にとって、「どうぞ!」とぼくに声をかけた。その間、約十秒ってところ。

「どうしたね?」
 五十代半ばぐらいの医者が聞いた。
「風邪を引いたみたいです」
 医者の前に座りながら、ぼくは病状を説明した。
「昨日から熱が出て、そのあとのどが痛くなってきた」
「どれ、口を大きく開いて」
 医者は、懐中電灯を手に持って、ぼくの口の中をのぞき込んだのだが、そのとたん、懐中電灯が切れた。いや、マジで。ホントに。
「あら……」
 医者は、何度か懐中電灯を振った。そうしたら、また点灯した。マジで。
「失礼。はい、口開けて」
 こんどこそ、医者はぼくののどをのぞき込んだ。
「ああ、こりゃ痛いだろ。真っ赤だよ。はい、じゃあ腕を出して」
 医者はこんど、ぼくの腕を握って、脈を診た。
「うん。こりゃヘルパンギーナだな」
「ヘル?……なんですかそれ」
「夏風邪だよ。子供が掛かるんだけどね。どっかでもらってきたんだろ」
「はあ……」
 子供? 神に誓って言うが、子供と遊ぶ趣味はない。要するに、子供から感染した経路に記憶はない。
「で、治療だがね」
 と、医者。
「対処療法しかないんで、いつもの漢方を五日分だしとくから。途中で治ったら、飲むのやめていいよ。はい、お大事に」

 いつもの漢方。それは葛根湯だ。それと、もう一種類、長い名前で覚えられない漢方薬。その二種類を、朝と夕方、食前に飲む。それだけ。この医者から、ほかの薬を処方された記憶がまったくない。ホントにいつもの漢方だよな。

 これが効かねえんだ!

 まあ、対処療法だからな。下手に効いて、病状を抑えてしまうと、かえって治癒が遅くなるというのは、医学界の常識だ。気休めの漢方飲んで、あとは、自分の身体の免疫力にがんばってもらうしかないのだ。

 で、ふらふらしながら、こんどは処方箋薬局に向かった。受け付けに処方箋を出す。どうでもいいが、この薬局の受け付けのおばちゃん、すごい体格なんだよな。ぼくの三倍は体重がありそうだ。だから、あごがないんだよ。お肉がタプタプしてて、あごと首の境目がないんだよね。これで黒人だったら、ニューヨークだよな。

 などと思いながら、待合室に行くと、驚いた。医者はガラガラだったが、ここは満員だ。それほど広い待合室じゃないが、明日葬式があってもおかしくなさそうな……失礼、人生の大先輩である、ジジイとババア……ふたたび失礼。お爺さまとお婆さまで、席はすべて埋まっていた。ここは人生の終着駅か……

 仕方ないので、少し立って待っていた。ジイさんが呼ばれて、席が空いたので、そこに座った。風邪を引いてるとき、長く待たされるのは辛いね。なかなか順番がこない。それもまあ、仕方ないかもしれない。薬剤師が、薬を渡すときに、いろいろ説明するんだが、ジイさんもバアさんも、ほとんど聞いちゃいねえんだよ。こんな感じだ。

「はい、山田(仮名)さん」
 と、薬剤師。
「以前、こちらのお薬を飲んで、胃がむかついたりとかありませんでしたか?」
「はい?」
 と、バアさん。
「わたしね、先生に言われたとおり飲まないんですよ。朝が遅かったりするとね、午前中は飲むのをやめて、その日は一回減らすんですよ」
「そ、そうですか……それで、胃の方は大丈夫ですか?」
「夜はね、時間がハッキリしないんですよ。いつもね、寝る時間が同じじゃないでしょ、だから、よくわからないんです」
「胃の方は!」
 薬剤師は、少し声を張り上げた。
「大丈夫ですか!」
「大丈夫ですよ。ですからね、わたしね――」
「それは、よかったですね!」
 薬剤師は、バアさんが、関係ないことをしゃべり出す前に、薬の説明をはじめたのだが、バアさんと、薬剤師のやりとりは、こんな調子で平行線をたどり、普通なら2、3分もあれば終わってるだろうに、薬剤師は、なかなかバアさんに薬を渡せないのだ。さすが人生の終着駅に集まる客たちだ。だれも急いじゃいねえ。ある意味、うらやましいね。

 そんなやりとりを聴きながら、ぼんやり数えてみたら、この薬局には、薬剤師が五人ぐらいいる。わりと繁盛してるんだな。近くに総合病院があるしな。

 そんなこんなで、やっと順番が来た。ぼくの薬を準備したのは、三十前後の女性の薬剤師だった。受け付けのおばちゃんとは対照的に、ガリガリに痩せている。ぼくのお腹のお肉を300グラムほど、分けて差し上げたい感じ。
「どうなさいました?」
 と、薬剤師。
 葛根湯を処方された患者に、どうもこうもねえだろうと思ったが、まあ素直に風邪ですと答えておいた。
「以前も、同じお薬を処方されていますが、このお薬を飲んで、身体に不調とかありましたか?」
 効かないのは不調か? と、聞き返したかったが、ここでも素直に、べつに不調はないと答えた。
「そうですか。では、730円いただきます」
 あの医者の出す薬は、安いのだけが取り柄だな。
「ところで」
 と、ぼくは金を払いながら、スレンダーな薬剤師に聞いた。
「朝と夕方の食前に飲めと書いてあるが、いまはもう昼過ぎだ。これから家に戻って、すぐに飲んでもいいのか?」
「え、えっと、そ、それは……」
 薬剤師は、なぜかぼくの質問にうろたえた。
 こんな質問を受けると思っていなかったのか、それとも、数日ひげを剃っていないせいで、ちょい悪オヤジ風味になってるぼくの態度にビビったのか?

 まあ、熱がある上にのどが痛くて、さらに三十分近く待たされた挙げ句なので、あまり、友好的な態度ではなかったかもしれないが、Script1の読者の方ならご存じの通り、ぼくが、女性に対して、威圧的態度に出るなどということはあり得ない。だから、スレンダーな薬剤師は、ぼくの態度にではなく、意外な質問にとまどったのだろう。

 薬剤師は、ちょっとお待ちくださいと、調剤室に戻ると、どうやら、そこにある時計を見に行ったらしく(調剤室はガラスで仕切られているので、待合室から、薬剤師の行動が丸見えなのだ)、すぐに戻ってきた。

「え、えっと……もうお昼過ぎですので、戻られてすぐにお飲みになったら、夕方の分は、少し時間をずらしてですね、夜になってから飲んでください」
「わかりました」
 と、ぼくは、うなずいた。薬剤師の返答は、模範的な答えというか、予想の範疇というか、こんな簡単なことを答えるのに、なぜ、あんなにうろたえたのか……やっぱり、ぼくの態度が悪かった?

 ううむ。だとしたら、ちょっとショックだ。待てよ。いっそのこと、ちょい悪オヤジに磨きをかけてみるか。なんて、バカなことはどうでもよろしい。

 こうして、薬をもらい、家に戻ってさっそく飲んで、さっさと寝ようと思ったが、その前にペルパンギーナについて、ネットでちょっと調べてみた。

「ヘルパンギーナとは乳幼児の間で流行しやすい夏かぜの一種で、38〜40度の高熱が2〜3日続きます」

 オレは乳幼児並かい!

 と、ひとりボケつっこみをやって疲れたので、ベッドに転がり込んだ。

 いや、それから三日ほど、熱が下がるまでの間は、かなり苦しんだ。のどは痛いわ、背中は痛いわ、頭痛も治まらないわ……あまり苦しくて、なんどかバファリンを飲んだ。本当に葛根湯なんて、効きゃしない。

 でもまあ、熱が下がると、だいぶ楽になった。のどの痛みは相変わらずなんだけど、熱が下がると眠れるのだ。眠れるのはうれしい。身体がずいぶん楽だ。

 で、のどの痛みも取れてきたのが、発病から一週間後ぐらい。それでも、まだ咳が止まらない。だから、彼女とのデートでも、キスは禁止。ヘルパンギーナは、空気感染はしないけど、唾液からは感染するのだ。

 いまこれを書いている時点で、発病から、約二週間が経過した。いやあ、二週間も経てば、さすがに全快した……と言いたいところだけど、じつは、まだ少し咳が出る。寝てると、ゲホゲホなるんだよ。夏風邪はしつこいって言うけど、ホントだねえ(涙)。

 さて、せっかくだから、ヘルパンギーナについて、少し勉強しておこう。

 こいつは、エンテロウイルスという、RNAウイルスが引き起こす夏風邪だ。

 ちょっと待て。エンテロウイルスって何だ?

 じつは、エンテロウイルスという、単体のウイルスがいるわけではない。こいつは、ピコルナウイルス科に属するウイルスの総称なんだ。たとえば、ポリオウイルスも、エンテロウイルスの仲間だ。エンテロとは「腸」という意味で、その名の通り、感染すると、主に腸で増えるウイルスなのだよ。

 現在、ヒトに感染症を起こすエンテロウイルスは、66種類が知られている。その内訳を簡単に記すと、3種類のポリオウイルス、23種類のコクサッキーAウイルス、6種類のコクサッキーBウイルス、30種類のエコーウイルス、その他、4種類のエンテロウイルス。

 こんなところ。このうち、流行性の夏風邪を引き起こすのは、コクサッキーAウイルスだ。コクサッキーAなんて言う通り、コクサッキーウイルスは、A群とB群に分けられる。いまさっき書いたとおり、夏風邪を引き起こすのは、A群で、中でも2、3、4、5、6、8,10、22型が病原ウイルスである場合が多い。

 さて、その症状だが、ぼくは、まず発熱があって、その後、のどの痛みと頭痛に悩まされた。コクサッキーウイルスAに感染すると、まさに、この症状が出る。熱は38度から40度くらいが、二、三日続く。子供の場合は、のどに水疱が何か所かできて、やがて小さな潰瘍となり、これが飲食のときに痛むそうだ。ぼくも、水疱ができていたのかもしれないが、食事の時に、のどが痛むことはなかった(というか、ずっと痛かった)。行きつけの医者が言うには、大人は、子供ほど、ひどいことにはならないらしい。

 そうそう。コクサッキーって、アメリカ合衆国、ニューヨーク州の東部にある町の名前なんだそうだよ。ここにいた患者から、最初にウイルスが見つかったために、1949年に名付けられたんだってさ。

 ちなみに、特効薬はない。解熱剤で、熱を下げるくらいしか治療法はないのだ。ぼくの行きつけの医者は、葛根湯を処方したが、まったくもって、気休めでしかないわけだ。

 ついつい、抗生物質で一瞬のうちに治してくれ! と思ってしまいがちだが、抗生物質が効くのは細菌であり、ウイルスには効果がない。抗ウイルス物質を作るのは容易ではないのだ。現在の科学では、ほぼ不可能と言っていい。

 さらには、ワクチンによる予防も難しい。コクサッキーウイルスを含む、エンテロウイルスは、RNAウイルスなので、変異が激しいのだよ。天然痘のようなDNAウイルスは、変異が少ないので、一度作ったワクチンが、長期にわたって使える(効き目が衰えない)ので、根絶することも不可能じゃないんだが、RNAウイルスは、なかなか難しい。中でも、ポリオウイルスは、かなり成功した例だろう。

 うーむ。薬に頼れないとなると、どうするべきか?

 それは、手を洗うことだ。さっきも書いたけど、コクサッキーウイルスは、空気感染はほとんどしない。患者の唾液や便から感染するのだ。たとえば、患者の使ったタオルだとかを手にとって、その手についたウイルスが、口に運ばれて感染する。

 というわけで、夏風邪の予防には、手洗いが重要だとされている。みなさんも、よく手を洗おう。もちろんぼくも、ヘルパンギーナに感染してから、手洗いは、いつもより厳重にやっている。もう遅いけど(苦笑)。

 あ、そうそう。ヘルパンギーナを引き起こすウイルスは、コクサッキーウイルスだけではないので、一度掛かったから、もう免疫ができて大丈夫。というわけには、行かないそうだ。下手すると、一夏に何度も掛かるんだとか……やっぱり手洗いは大事だな。

 みなさんも、重々、お気をつけあれ。幼児じゃなくても掛かるのだよ(苦笑)。


≫ Back


Copyright © TERU All Rights Reserved.