東京シティの夜


 その日オレは腹が減っていた。朝からなにも食わず、夜まで仕事に没頭していたのだ。育ち盛りのお子さまじゃあるまいし、この年になればコーヒーとタバコだけで一日を乗り切ることも不可能じゃないが、さすがに、過酷な労働をしたあとは、体中の細胞が、酒よりも炭水化物を要求してやがる。気力も体力もエンプティーだ。

 そういやあ、車のガスもそろそろエンプティーマークが点きそうだ。リッター130円だって? ったく冗談じゃないぜ。満タンにしたら、オレの食費が三日分は消える。ただでさえ、もう十年も乗っているステーションワゴンは燃費が悪いんだ。まずは、オレの腹を満タンにしなくちゃいけない。車はあとだ。まだ動くという理由だけで乗っている荷物を運ぶだけの機械に、オレの食費を取られてたまるか。
 オレはそう思いながら、梅雨の雨に濡れた国道を走っていた。道沿いのビルのネオンが反射している。道を濡らす雨はトラックの排気ガスにまみれ、客を拾おうと、側道ギリギリに走るタクシーが、オレの進路を妨害する。まったく東京シティは、薄汚いゴミの集まりだな。ま、考えてみれば、オレだってそのゴミの一部だ。

 ここまでお読みの読者は、いつものエッセイと調子がちがうことに戸惑っているだろうな。あるいは、JunkCityの竜一に似ていると気づいているかもしれない。そうなんだ。今回のエッセイは、わざと竜一調で書いている。なにせ作者だからな。竜一の口調を真似るのは得意だぜ。

 だが、一つ断っておきたいことがある。べつにこのエッセイは、JunkCityに関係しているわけじゃない。むしろ無関係と言うべきだ。じゃあ、なぜ竜一調で書いているのかって? それは続きを読んでくれ。

 じゃあ続きだ。

 オレは夜の国道を走りながら、腹ごしらえが出来る場所を探していた。こう見えてもオレは、交通マナーを守る紳士だ。路上駐車は、よほど緊急か、あるいは短時間でなければやらない。ま、正直に告白すると、免許の点数がヤバくて、これ以上違反が出来ないってのが本当のところなんだが……とにかく、車の止められる場所でなければ、ゆっくり食事をする精神的余裕はないわけだ。

 となると、場所はおのずと限られてくる。もっとも安全なのはファミレスだ。駐車場があるからな。いま走っている国道沿いにも、いくつかファミレスがある。だが、ファミレスは飽きた。高いばかりで、少しも旨くない飯を食い続けていると、人生の無駄遣いという気さえする。

 けっきょくオレは、いくつかのファミレスを通り越して、家まで戻ることにした。まだ夜の9時前だ。駅前のイタリア料理店が開いている。その店は、3年ほど前に開店したときから贔屓にしている。なかなか旨いピザとパスタが食えるからだ。その代わり値段も安くはないんだが、まあ、ワインを頼んでも、3000円ぐらいで収まるんだから、許せる範囲だろう。都心の高級店なら、その倍ぐらいは軽くふんだくられるからな。

 そんなことを考えながら、オレは国道から脇道に入った。あと交差点を二つ曲がれば家に着く。そして、その一つ目の交差点を曲がろうとしたとき、古びたラーメン屋が目にとまった。

 もちろん、前からその存在は知っている。だが、いままで入ってみようと思ったことは一度もないのだ。オレの自宅から一番近いラーメン屋というだけでなく、一番近い飲食店なのにだ。

 理由は単純だ。店がいささか古めかしくて、とても旨そうには見えないんだよ。こう見えても、オレはグルメなんだ。ガキじゃあるまいし、安くて腹一杯食えればいいなんて年じゃないしな。

 だが、その日は違った。まあ、安くなくてもいいが、腹一杯食いたい気分だったし、ラーメン屋の屋台を見たら、チャーハンが食いたくなったのだ。ものは試しだ。チャレンジしてみるか。

 そんなわけでオレは、自宅の駐車場に車を止め、荷物を下ろすのはあとにして、すぐに、そのラーメン屋に向かった。幸い雨は上がっている。二分も歩くと、そのラーメン屋が見えてきた。まじまじと見ると、本当に古い建物だな。

 店の前に立って、オレは軽い感動を覚えた。引き戸のドアは、さすがに木製ではなくアルミサッシだが、取っ手の近くのガラスが、弧を描くようにひび割れていて、その割れ目に沿って、幅広のセロテープで補強してあるのだ。

 すばらしい!

 この、ありがちな演出がたまらんね。気分は「昭和」だよ、昭和。それも昭和四十年代。オレがガキだったころの時代だ。裏さびれたラーメン屋はかくあるべきという見本だぜ。ラーメンの味にも、いよいよ期待がしぼむ……失礼。膨らむってもんだ。

 ガラスの割れた引き戸を開けると、客は一人もいなかった。ふたたび、ラーメンの味に期待がしぼむが、まあ期待しない方がショックも少ないわけで、さらに、いまのオレには空腹という、最良の香辛料が用意されているのだ。豚のえさでも出てこない限り大丈夫だろう。

 店に足を踏み入れると、建物を外から見る印象どおり、中は狭い。テーブルが4つあるだけだ。入り口の近くに、厨房の出入り口があり、中では背中のやや曲がった老人が皿を洗っていた。こちらに背中を向けているし、仕切りのガラスが油で曇っていていまいち判別がつかないが、おそらく女だろう。つまりバアさんだ。

 バアさんは、オレが入ってきたことに気付いていない様子だが、ふいに声をかけて、驚いたバアさんの心臓が止まっちゃったら困るんで……というのはさすがに冗談だが、注文を決めてから声をかけようと思い、そのまま店に入った。

 オレはだれもいない店の、4つあるテーブルの一番奥の席に腰を下ろした。とたん、軽いめまいに襲われた。おかしい。三半規管が変だ。身体が傾いている気がする。

 ちがう。傾いているのはオレじゃなかった。テーブルが傾いているのだ。

 待て! それもちがう。いや、テーブルも傾いてはいるが、建物全体が、少し傾いているのだ。テーブルの水平と、建物の垂直がおかしい。すばらしい。場末のラーメン屋のたたずまいとして、これ以上の演出は考えられない。まるで映画のセットだ。

 と、感動にうちひしがれていたが、オレにはまだ驚きと感動が待っていた。まったく、サプライズの多い店だ。テーブルにメニューはないんだが、壁に貼られた黄ばんだメニュー表を見て(これも微妙に傾いているのは言うまでもない)、本当に驚いた。

 安い!

 ラーメンが一杯400円だ。いまどきないぜ。一応東京シティだよ、ここは。もっと正確に言えば、バッチリ東京23区内だぜ。

 軽いめまいと大きな感動を胸に抱きながらメニューを見ていると、オレはあることに気がついた。チャーハンがメニューにないのだ。隅から隅まで探したが、それらしき文字は見当たらない。何たることか。場末のラーメン屋にチャーハンがない? そんな理不尽なことが許されるだろうか。オレは腹が減っているんだ。チャーハンが食いたいんだよ。などと思っていると、調理場からバアさんの声がした。

「あれ? お客さんかね?」

 どうやら、声をかける前に気付いてくれたようだ。バアさんの心臓を止めずにすんでなによりだ。

「いらっしゃい」
 と、バアさんが調理場から出てきた。マジかよ。本当にバアさんだ。みたところ、80はいってるぜ。高齢化社会とはよく言うが、この歳でラーメン屋をやってるなんて元気だよなあ。

「ラーメンと餃子」
 と、オレは言った。
「はい、ラーメンと餃子ね」
 バアさんは、注文を繰り返して調理場に戻ろうとしたが、オレは60年前にはうら若き女性であっただろうバアさんに声をかけた。
「チャーハンがメニューに載ってないが、ここにはないのか」
「チャーハン出来ますよ」
「そいつはよかった」
 オレはホッとした。
「じゃあ、チャーハンもくれ」
「はい、チャーハンね」
 バアさんは調理場に戻ると、だれかに声をかけた。
「ラーメンと餃子にチャーハンだよ」
 すると……
「はいよ」
 と、ジジイの声が答えた。

 JunkCityをご存じの方なら、ここまで読んで、オレがどうして竜一口調でエッセイを書いているか、もう察しがついているだろう。そう。この店は、JunkCity - Case 3に出てきた、ラーメン屋にそっくりなのだ。

 神に誓って言うが、この店をモデルにして、JunkCityのラーメン屋を書いたわけじゃない。いや、オレには誓うべき神はいないんだが、それ以前に、あれはブレードランナーをパロッたのは明らかだから、神に誓う必要もないはずだ。

 しかし、われながら苦笑するね。まさか、自分の家の近くに、自分の小説に出てくるラーメン屋そのものと思える店が存在していたなんて。ただ、オレの小説のラーメン屋は、味がいいことになっている。はたして、実在するこの店はどうだろうか。

 オレはそんなことを考えながら店の中を見回した。あまり凝視するとめまいを感じるんだが、水が飲みたかったからだ。バアさんは、水を持ってきてくれるんだろうか……

 すぐに、持ってきてくれないことが判明した。「ご自由にどうぞ」と、手書きの紙が貼ってある給水器が置かれていたのだ。要するに、勝手に飲めってことだ。まあ、同じセルフサービスでも、「ご自由にどうぞ」と書かれていた方がいいに決まってる。少なくとも、むかしマクドナルドのメニューにあった、スマイル、ゼロ円より、百万倍はマシだ。人はだれでも偽善者だが、偽善を売りにするようになったらおしまいだ。ゼロ円のスマイルなんて、なんの価値もない。そんなもの、政治家の選挙公約と同じくらいたちが悪いぜ。

 オレは席を立ち、水をコップに注いだ。その給水器の乗った木製のラックには、新聞や雑誌が入っていた。雑誌は油でべとついている。いったい、いつの雑誌だよ。と、文句を言われるぐらいが、場末のラーメン屋としてあるべき姿だから、文句は言わない。だが、まあ、その雑誌を読みたいとも思わないが。もっとも新聞は今日の朝刊だから、油汚れの問題ないようだった。オレは朝日新聞を手にとって、席に戻った。

 一面に、ざっと目を通したところで、まずラーメンが出てきた。400円のラーメンだ。量は普通だった。むしろ、いまどきとしては、器が小振りかもしれない。これで洗面器のような器だったら、それこそJunkCityと同じなんだが……

 いや、そんなことはどうでもいい。問題は味だ。

 オレは、いまどき珍しく「なると」が入っているラーメンに箸をつけた。ちょっと緊張の一瞬だ。

 ズルズル……ラーメンを食べる当然の作法として、オレは音を立てて麺をすすった。

 こ、こ、これは!

 べつに旨くなかった。というか、想像通りの味だった。そうなのだ。店構えと同じく、それは「昭和」の味だった。説明が難しいが、オレがガキのころは、醤油ラーメンといえば、みんな、こんな味だった。その意味で、オレはまた感動していた。この店の時間は、おろらく何十年も前に止まっているのだ。若い人にはわからないかもしれないが、オレぐらいの年になると、ノスタルジックなモノに、妙な安心感を感じるというか、望郷の念に襲われるというか……とにかく、たいして旨くもないラーメンに、本気で感動した。

 バアさんは、つぎにチャーハンを持ってきた。

「どうぞ。餃子はいま作ってます」
「ああ」

 オレはうなずいて、チャーハンにもさっそく口をつけた。これも旨くなかった。むしろまずい部類だと思う。ご飯がべちゃっとしていて、料理が得意じゃなかったお袋が作ったチャーハンみたいだ。もう、完全にノックアウトだ。そう、こいつはお袋の味だぜ。プロの味じゃない。まいった。この店を贔屓にしてしまいそうだ。というか、もっと早くくるべきだった。店の奥の狭い調理場で働いているジジイとバアさんを見ていると、本当にそう思うよ。明日には墓に入っててもおかしくなさそうな年齢だ。オレは、引っ越してから数年の時間を無駄にした。頼むから長生きしてくれ。

 最後に、バアさんは餃子を持ってきた。こいつは、さすがにプロの味……とまでは言わないが、料理が苦手だったオレのお袋より、ずっとまともな餃子だった。それに、肉より野菜が多く入っているようで、わりと旨い。これはこれで気に入った。

 たぶん、ラーメンとチャーハンと、餃子を平らげるのに、オレは十分以上掛からなかったと思う。こんなに早食いをしたのは久しぶりだ。がつがつ食ってしまった。いや、マジで満足した。料金もリーズナブルだしな。

 オレは金を払って、外に出た。雨が降っていた昼間より、蒸し暑い空気がオレの体にまとわりついた。だが、心は晴れやかだった。たぶんオレは、あと数ヶ月もすれば、60年前は、店の看板娘だっただろうバアさんに、「毎度どうも」と見送られる客になっているだろう。もしかしたら、そうなってはじめて、オレはこの街の住人になれるのかもしれない。そんな思いを胸に、オレは家に戻る道を歩きはじめた。

 東京シティも、まだまだ捨てたもんじゃないぜ。なあ、そう思うだろ?



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