月の魔力


 賢明な読者のみなさんはご存じだと思うが、ぼくの書く文章には、母親が子供に教え伝えるような、重要な教訓が多く含まれている。たとえばそう、音もなく忍び寄って殺せとか、殴り倒してから尋問しろとか……まあ、そんなようなこと。

 すいません。のっけからバカなこと書いてます(苦笑)。この間、NHKのBS2でやってた、ヒッチコック劇場を見たもんだから、ついマネをしてみたくなったのだ(ヒッチコック劇場は、彼のウイットある語りからはじまるのだよ)。

 さあ、それはともかく、さっそく本題に入ろう。

 タイトルからお察しいただけるとおり、今回の話題は「月」だ。なにせ、JAXA(宇宙航空研究開発機構)が、月探査機の打ち上げを予定しているからね。

 ぼくは、科学的なことについて見たり聞いたりするのが好きで、ついでに書くのも好きなんだけど、中でも「惑星探査」は大好きだ。ついでにヒッチコックのミステリも大好きだから、ぼくは月について語る資格が大いにある。だって、満月の晩には、殺人事件が多く発生するそうじゃないか。

 だから、今夜は大いに語ろう。もちろん、音もなく忍び寄って殺す方法……じゃなくて、月について。

 月はミステリアスだ。ヨーロッパでは、月は人を狂わしたり、魔女と関連した伝説も多い。ギリシア神話で月の女神はセレネだけど、それがローマ神話のルナと同一視されて、いまでも西洋の人々は、月のことを「ルナ」と呼び、精神に異常を持つようなことを、ルナティックと呼ぶ。

 中でも、もっとも有名なのは狼男だろうね。どうして、狼男の伝説が生まれたのかよくわかっていないけど、ひとつだけ確かなことがある。それは、人は月を見てもオオカミに変身したりしないってことだ。

 だいたい、中国や日本では、月は愛でるものであって、嫌うものではなかった。中秋の名月って言葉もあるくらいだ。満月は、お団子食べながら鑑賞するものなんだよ。なんなら、一句詠んだっていいぜ。

 名月や池をめぐりて夜もすがら……

 これは松尾芭蕉の句で、月を眺めながら池の周りを歩いていたら、いつの間にか夜が明けてしまったという、夜更かしのいいわけをしている、身も蓋もない句……じゃなくて、時間を忘れるほど月が綺麗だったよって意味の、名句だ。

 まあ、嫌うにしても愛でるにしても、月はなぜ、人間の精神にこれほど影響を及ぼしてきたのだろうか? 月にどんな魔力が潜んでいるというのだ? なんて、なぞめかして書いているけど、ぼくには、その理由がわかる。

 でかいんだ。

 そう、月は大きいんだよ。夜空を見上げてみると、月以外の星は、どれも「点」にしか見えない。ところが月だけは「円盤」に見える。月は桁違いに大きいのだよ。もしも、これだけ大きな天体を無視するほど、人間が鈍感な生物だったら、この世は、すごくつまらないだろうね。

 天空に浮かぶ天体で、月に匹敵する大きさなのは、太陽だけだ。もっと正確に言うと、月と太陽は、見かけの大きさが、ほぼ等しい。たまに月が太陽を隠す位置にくると、皆既日食が起きるのは、みなさんご存じの通りだ。だからこそむかしの人は、月を太陽の対になるものとして、「太陰」とも呼んだ。陰と陽だね。

 科学者にとっても、月の巨大さは、大きなミステリだ。もちろん、「絶対値」として言うなら、月はそれほど大きくはない。見かけの大きさは同じでも、本当は太陽の方が、はるかに大きいんだ。月はただ地球の近くにあるというだけ。

 でも、ここが問題なんだよ。月は、地球クラスの惑星を回る衛星としてみたとき、とてつもなく大きい。惑星と衛星の比率は、太陽系中で最大なんだ。月の質量は、地球の1/80もある。ほかの惑星の衛星は、大きくたって親惑星の1/1000ぐらいだから、まさに桁違い。(冥王星とカロンのコンビは、惑星ではなくなったので、念のため)

 なんで地球は、こんなに大きな衛星を持っているんだろう? 

 その理由をここに書ければいいんだけど、残念ながらそれは無理だ。なぜ、あんなに月が大きいのか、だれもその答えを知らない。

 要するに、ぼくらは月の起源を知らないのだ。双子のように同時に作られたのか、それとも、ある程度できあがった地球から、細胞分裂のように分離したのか、あるいは、巨大な固まりが地球に衝突して、その衝撃で分離したのか……いや、もしかしたら、そのどれでもなくて、外からきて地球に捕まった天体の可能性だって、ゼロじゃない。

 とにかく月にはなぞが多い。角運動量もなぞだ。地球の自転と、月の地球周りの公転を合わせると、その角運動量は、ほかの地球型惑星と比べて、すごく大きいんだ。

 月の磁場も不思議だ。現在、月に磁場はほとんどないけど、過去にはあった形跡がある。むかし月に磁場があった理由も、それが消えた理由もわからない。

 月震もなぞだ。月震とは月の地震。むかしアポロ計画で月に地震計を設置したんだ。そのデータから、月にも地震があることがわかったんだけど……

 月に火山活動はないから、内部的には死んだ天体だと思われている。なのに、なんで地震が起こるんだろう? 月は地球から受ける朝夕力で、伸びたり縮んだりするから、それが原因だと考えられたけど、どうも、それだけでは説明できない大きさのようなんだ。そもそも月の内部構造が、まだよくわからない。

 そして、水が存在するかどうかも、最近の大きな話題だ。月に水はないと思われていたのだけど、1994年の探査で、月の極地付近には水があるかもしれないと予想できるデータが得られたんだ。そこでNASAは、1998年に、ルナ・プロスペクターを打ち上げて、さらに詳しく観測したんだけど、氷の存在を直接観測することはできなかった。ただ、「氷が存在する証拠らしきもの」は見つけたので、こいつは、ぜひとも確認しなきゃいけない。

 ほかにも、なぞは、まだまだある。揮発性元素が少ないのもなぞだし、表と裏で地表の様子が大きく違うのもなぞだ。

 という、数々のなぞを解くために、JAXAは、探査機を計画した。ルナAとセレーネの2つ。ルナAは計画中止になったけど、セレーネは、いま打ち上げを待ってるところだ。

 ところで、セレーネは「SELENE」と書くのが正しい。これは「SELeneological and ENgineering Explorer」の略なんだそうだ。日本語にすると「月の科学観測と基盤技術の検証を行う探査機」の意味なんだってさ。

 え? 月の女神セレネが、名前の由来じゃなかったの?

 いや、JAXAは公式に言ってないけど、セレネに発音を近づけたくて、むりやり略したのは明らかだ。それが悪いと言ってるんじゃない。無理してでも、月の女神の名をつけたかった気持ちはよくわかるし、そうしてくれて、ありがとうと言いたい。

 さらにセレーネ計画では、愛称を一般から公募した。一番応募数が多かったのは「かぐや」だ。これもすばらしいね。日本の月探査衛星の名にふさわしいじゃないか。

 さて、そのかぐや。彼女には(彼女だろ?)、いままで書いてきた、数々のなぞを解明するための観測装置が取り付けられている。その数は15個。マルチバンドイメージャとか、スペクトルプロファイラとか、なんともSF心をくすぐる名前の観測機器を、15個も搭載して、さまざまな観測を行うんだ。

 しかも、かぐやの目的は、観測だけにとどまらない。彼女には、技術試験衛星の意味合いもあって、今後の月観測のための基礎技術を検証もする。なにせJAXAは、近い将来に、月にローバー(探査車)をおろしたいと考えているし、究極的には、人が常駐する、月面基地を作る野望さえ持っている。月から地球を侵略するのだ。というのは、もちろん冗談で(笑)、月面基地は宇宙探査の重要な拠点になるだろう。

 月開発は、研究のためだけでなく、経済的な実益もあるかもしれない。というのは、月には核融合の燃料になる、ヘリウム3が豊富に存在しているからだ。ヘリウム3を核融合に使うと、効率がよく、かつ放射性廃棄物も少ないという利点がある。

 でもね、ヘリウム3を使うのは、とても難しいのだよ。いまの技術では、商用化の見通しは立っていない。おそらく、まだ数十年かかるだろうね。それでも中国とロシアは、国家として、月のヘリウム3資源に興味があると表明している。

 ちょっと怖いね。50年後の未来、そろそろ石油資源の枯渇が現実的になってきたころ、ヘリウム3の争奪戦が繰り広げられ、世界大戦が勃発する……なんて、ことにもなったりしてね。でも、SF小説の題材になる? うん。なるよ。ぼくの書いたSTARSEEDでは、ヘリウム3が火星で発見されたという設定になってる。

 なんか暗い未来の話になってしまったけど、もし仮に、そんな未来があるとしても、ずっと先のことだし、そもそも、月を研究しなければ、どんな未来もやってはこない。

 最後にかぐやの現状を書いておこう。2007年8月16日が、打ち上げ予定日だったけど、このエッセイを書いている3日前の7月20日に、打ち上げの延期が決まった。コンデンサの取り付けを間違ってたのに気がついたんだってさ。危なかったね。気づいてよかったよ。次回の打ち上げ予定日は、まだ公式に発表されていないけど、たぶん9月だろう。

 なんにせよ、もうじきだ。探査機を飛ばすのは、それだけで夢のある仕事だし、月を知ることは、地球を知ることでもある。かぐやの打ち上げと、その観測結果を、楽しみに待つことにしよう。


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