音楽の魔力



 いままでにも何度か告白しているけど、ぼくのエッセイは苦し紛れからはじまった。ご存じのとおり、ぼくは小説をほとんど連載しないから、どうしても更新の間隔が長くなる(いまだれかが、連載をしてもだろ。といった気がする)。その空白の時間を、書く方も読む方も気楽な文章で埋めようと思ったのが、エッセイを書きはじめた理由なんだ。

 ところが人間の欲望とは果てしがないもので、Script1に来てくれる、知的で好奇心にあふれる読者のみなさんに、チャーミングだといってもらえるようなエッセイを書きたくなった。こうして、いつの間にか、気楽だったはずの文章が、ぼくの知ったかぶりを披露する場になった。その試みを自己採点すると、大部分のエッセイは不合格で、なんとか合格ラインを超えたものでも、満足できる内容になってはいない。

 でも……失敗というわけでもなさそうだ。その証拠に、なにかについて調べたいと思い立ってネットを検索したら、ぼくのエッセイがヒットし、読んでみたらおもしろかったという感想を何度かいただいた。さらに、エッセイの主題について、みなさんからご要望をいただくことすらある。エッセイを読んでもらえるだけでもうれしいのに、主題のご要望までいただけるとは、これを望外の幸せと呼ばずして、なんと呼ぶべきだろうか?

 そして今回は、ゲストブックで、音楽についてのエッセイを書いてもらえないかとご要望をいただいた。ありがとうございます。

 と、お礼をいったそばからなんだけど……正直いって、いままで音楽についてなにかを語ろうと思ったことは一度もないんだ。音楽に関する知識はないに等しいし、センスについては自信を持って皆無といいきれる。いまより少しだけ若かった(笑)20代のころは、せめてカラオケで人並みに歌えたらと、ささやかな努力をしたこともあったけど、天性の才能である“音痴”が簡単に治癒するはずもなく、いまではすっかり治療を諦めた。

 なのに、厚かましくも音楽について論じるつもりだって?

 そうなんだよ(悪びれることなく)。どうか覚悟していただきたい(嬉々として)。この先を読もうと思うみなさんには、音痴の歌をがまんして聴くのに近い試練が待っているかもしれない。ジャイアンの歌を聴かされるのび太の気持ちが理解できるかもしれない。しかも、ぼくはジャイアンと同じように、一度握ったマイクを放さないタチだからね。みなさんには、心よりご同情申し上げる。

 とはいえ、これから音楽の特定のジャンル(あるいは個人)について、批評をするつもりはない。音楽の好き嫌いは主観的判断なので、ぼくが好きな曲をあなたが好きとはかぎらないし、むしろそうでない可能性の方が高い。だから、ぼくがいつもやらかす方法で音楽について論じさせていただくことをお許し……いただかなくても書く(笑)。

 さあ、はじめるぞ!

 まずは得意な古代ギリシアからはじめよう(さっそく、いつものやり方だ)。音楽といえばアポロン……といいたいところだけど、いまは神話を語るつもりはない。古代ギリシアには、このエッセイに適した興味深い逸話があるんだ。

 ある日、アテネの市民は、あまり展望の明るくない戦争で、どうすれば負けずにすむか神さまに聞いてみることにした。さっそくデルフォイに使者を立てて神託を問うと、スパルタから軍人を一人借りてこいという答えが返ってきた。アテネ人は、もちろんそうした。

 困ったのはスパルタ人だ。スパルタにしてみればアテネはライバルの都市だから、戦争に勝ってもらいたくない。しかし、神託に背くわけにもいかない……

 そこでスパルタ人は、有能な戦士や、高名な将軍は貸さずに、足の悪い軍隊付きの音楽家をアテネに送ったのだった。まあ、軍人にはちがいないが……

 戦闘がはじまると、予想どおりアテネは劣勢だった。ところが、スパルタから来た音楽家がすこぶる感動的な曲を弾き語りはじめたのだ。アテネの市民は、彼の曲を聴いて奮い立ち、みごとに戦争に勝利したのだった。

 この逸話が史実かどうかぼくは知らない(たぶん学者も知らない)。少なくとも、一字一句事実に基づいているとは思えない。古代ギリシア人の美意識は、事実を重んじて、物語性を損なうことを許さないからね。しかし、古代ギリシア人が、戦士の士気を高めるために音楽を利用していたのはまちがいないだろう。古代ギリシアどころか、人類最初の文明を築いたシュメール人も、音楽に人の心をコントロールする力があることを知っていただろう。

 でも、どうしてだ? なぜ音楽には人を奮い立たせ、あるいは涙させる力が備わっているのだろう。黒人も白人も、われわれ黄色人種も、みんな(人種による差はあるが)音楽に反応する。すべての人類が、音楽に魅了されるのだ。

 その謎の答えは、おそらく脳にある。と、みんな思っているから研究が行われているけど、いまのところ、なにか決定的なことをいえるような成果はないようだ。音楽にかぎらず、脳の働きを解明するのは一筋縄ではいかないんだよ。

 うーん、困った。学者の先生が脳の働きを解明していないとなると、ぼくはこのエッセイをどう進めればいいんだ?

 では、視点を少し変えてみよう。人類はいつ音楽を「発明」したんだろうか? 発明という言葉に違和感を覚えるだろうが、まあ、先を読んでほしい。

 文献を調べる時間がないから、あんまり自信がないんだけど、おそらく、人類の祖先が、いつどこで火を使うこと覚えたのか、明確な時期と場所を特定できなのと同じように、人類の祖先が、いつ音楽を発明したのかも謎だと思う。火の使用なら証拠が残るから(焦げ跡があるとか)まだ研究もしやすいが、音楽は証拠が残らないので、より研究が難しいと想像できる。

 そもそも、火の使用と、音楽の発明には大きなちがいがある。音楽を、ダンスやリズムなど、もっと原始的なものまで含めて広義に解釈すると、じつは人間だけの特権ではないことに気づく。求愛行動でダンスを踊る動物はたくさんいるし、鳥のさえずりにはメロディがあるかもしれない。ところが、火の使用に関しては、明確に人間だけの特権だといい切れる。火を使うのは人間だけだ。その意味で、火の使用は「発見」と呼んでいいだろう。

 ところが音楽はそうじゃない。さっきからぼくは、音楽を「発明」と呼んでいるけど、みなさんもこの言葉に違和感を覚えたとおり、ぼくも正しい言葉じゃないと思う。程度の差こそあれ、人間以外の動物も、音楽らしきものを持っているように思えるから、音楽は人間の知性が「発明」したものではなく、地球上の生物が、普遍的に持っている才能と思えてならない。

 いや、才能というのも変だな。本能と呼ぶほうがまだ近いかもしれないが、それもちがう気がする。本能という言葉を「行動を伴う反応」と定義するならば、音楽への反応は、必ずしも行動を伴わないから、どうもしっくりこない。

 そうだな……こういう説明はどうだろう。われわれの体液には塩分が含まれているけど、それは、われわれが海から生まれた証拠かもしれない。音楽も「塩分」のようなものじゃないだろうか。とすれば、音楽とは、生命が進化するのに必要な「要素」だったんじゃないだろうか。

 大げさすぎる?

 そうかもしれない。しかし、われわれ人間の中には、自然界に存在するのと同じ「ゆらぎ」があるといわれている。

 ゆらぎというのは難しい言葉だね。広辞苑をひもとくと「揺らぐ」という言葉は載っているけど、「ゆらぎ」はない。広辞苑のレベルを一般教養と解釈するなら、それに載っていない「ゆらぎ」は、一般教養を超えているかもしれない。たとえば、物理学でいう「ゆらぎ」は、素粒子やエネルギーの状態を理解するために必要な概念で……いやまあ、ここで物理の話をしてもしょうがないから、先に進もう。

 いまこのエッセイでは「ゆらぎ」を、「無秩序でも単調でもない不規則な変化」と理解しておこう。

 なに? それでもまだ難しい? じゃあ自然界を眺めてみよう。もっともわかりやすい例が「風」だ。風は吹いたと思ったら止まり、また吹きはじめる。その繰り返しは単調ではなく、気まぐれ(無秩序)のようだが、じつは注意深く観察すると、一定の『リズム』のようなものがある。学者はそのゆらぎを、いくつかの理由から「1/fのゆらぎ」と名付けた。

 1/fのゆらぎ……これは「エフ分の一のゆらぎ」と読む。たぶん聞いたことがあるんじゃないかな。この高尚な(そうだろ?)エッセイで、あまり俗っぽい例は出したくないが、そのむかし、1/fのゆらぎが話題になったとき、流行に敏感などこかの電機メーカーが、1/fのゆらぎを再現できる扇風機を販売したことがある。そのメーカーがいうには、自然の風のように心地よいのだそうだ。

 じっさい、自然界には1/fのゆらぎが多く存在する。たとえば小川のせせらぎ、たとえば木目の間隔……これらはみな1/fのゆらぎだ。じつは、その自然界にはわれわれ自身も含まれている。たとえば、われわれの心拍は、リラックスしているとき規則正しく脈打っているように思えるが、注意深く観察してみると、1/fのゆらぎがある。また、ある種の神経細胞が出す信号にも1/fのゆらぎが存在する。

 どうやら、ぼくらの身体には、1/fのゆらぎがリズムとして存在するらしいんだ。だからわれわれは、刺激として1/fのゆらぎを与えられると、それを心地よいものと感じる傾向があるように思われる。

 そして、いまこのエッセイにとって重要なことは、音楽にも1/fのゆらぎがあるということなんだよ。どうやらわれわれは、音楽を作るとき、無意識のうちに1/fのゆらぎを利用しているらしい。それが事実だとすれば、われわれの身体の中には、あるリズムを持った音を、音楽と感じる仕組みが、生まれながらにして組み込まれていることになる。

 本当にそうだろうか? ぼくにはわからない。ちょっと眉唾っぽい気もする。でも、本当だったとしてもぼくは驚かないだろう。ぼくらは、学習をしなくても雑音と音楽を聞き分けることができるのを、だれでも経験的に知っている。そこには、なにか未知の「メカニズム」が存在するはずで、それはまだ解明されていないが(だから未知と書いた)、そのメカニズムを構成する要素のひとつが1/fのゆらぎなのかもしれない。

 さらに、もうひとつ、眉に唾をつけたくなる研究を紹介しよう。いや、誤解しないでほしい。べつにオカルトじゃない。反論の余地なく証明された研究ではないという意味で眉唾なんだ(事実、反論はあるようだ)。

 その研究は、1993年にネイチャーで発表された。研究者の代表は、フランシス・H・ラウシャーという女性だ。ネイチャーに載っているタイトルは「Music and spatial task performance」という。どう訳したらいいんだろう? 音楽と空間的な仕事の能力とか? これじゃあ直訳すぎて意味不明だな(苦笑)。うまい訳が思いつかないから、それは知的な読者のみなさんにお任せするとして、どういう研究かというと、フランシスは、36人の学生に音楽を聴かせてから知能テストを受けさせたら、成績が伸びたと主張したんだ。

 ちなみに聴かせた曲は「Sonata for 2 Pianos in D major, K.448」だそうだ。これはどう訳すんだ? いや大丈夫。こっちはGoogleで検索したら出てきた。日本語では「2台のピアノのためのソナタニ長調、K.448」というんだそうだ。モーツアルトの曲だから、フランシスの研究は、俗に「モーツアルト効果」なんて呼ばれた。こんな俗っぽい呼ばれ方をすると(フランシス自身、この言葉を使ったようだ)、いかにも眉唾だろ(苦笑)。

 もし原文をお読みになりたいなら、ウィンスコンシン州・オシュコッシュ大学・心理学学科のホームページに、フランシスのバイオグラフィーがあって、そこにネイチャーのページをスキャンした(と思われる)PDFがリンクされている。そちらを検索していただきたい。なに心配しなさんな。ラテン語じゃなくて英語だから(笑)。

 さらにフランシスは、1997年にも、音楽を子供に練習させると、数学の成績が伸びるとも主張したらしい……こちらは研究内容の原文を読んでいないので、「らしい」としか書けないんだけど、おそらく、彼女がいう数学とは幾何学だと思う。

 それにしても、音楽で数学の成績が伸びるなんて、いよいよ眉唾じゃないか?

 いや、そうともいえない。さっきから、眉唾眉唾なんて、フランシスに失礼なことを書いているけど、じつのところぼくは、音楽には、空間認識能力を高める効果があるかもしれないと、密かに思っているんだ。もっと正確にいうと、空間認識と音楽には関係があると思っている。

 というのは、人間は音楽の能力だけでなく、どうやら幾何学を直感的に理解する能力も生まれながらにして持っているらしいんだ。フランシスが音楽と空間認識能力の研究を発表した当時、それはまだ経験的な推測でしかなかったが、つい最近になって、フランスの、フレデリック・ジョリオ病院に勤めるデハーネ博士らのグループが、2006年、1月20日号のサイエンスに(本当につい最近だ)、幾何学的な直感が、人間には普遍的に備わっていることを強く示唆する研究を発表した。デハーネ博士は、アマゾンの外部から遊離された地域に住む部族に幾何学のテストを行ったんだ。そしたら、幾何学のきの字も学んだことのない部族の人たちは、ハッキリと幾何学の才能を示したらしい。(ごめん。論文の原文は読んでないから「らしい」という表現にさせといて)

 どうだろう。音楽と幾何学が、本当に人間の普遍的な能力だとしたら、そのメカニズムは、われわれの脳の、かなり原始的な部分に組み込まれている可能性はないだろうか。さらに想像を膨らませるなら、音楽と数学(幾何学)には、密接な関係があると考えられないだろうか。

 本当にそうだろうか? ぼくにはわからない……って、さっきから、このセリフの繰り返しだな(苦笑)。でも、これまた、もし本当にそうだとしてもぼくは驚かない。ぼくの乏しい経験からいわせてもらうと、音楽を聴くと(特にクラシックで顕著だ)、空間的な広がりを感じるような気がするんだ。あるいは、奥行き感というべきかな。うまく説明できないけど、音楽は立体的なのだと思う。そういえば関係ないかもしれないが、コウモリは超音波を利用して、彼らの見る「世界」を立体視(?)しているな……

 さて。ぼくはさっき、人間の生体に組み込まれた1/fのゆらぎと、音楽の関係について指摘した。これは、脳を語る以前に、もっと細胞レベルで、人間には音楽のリズムに反応するメカニズムがある可能性を示唆している(と思う)。さらにいま、音楽と幾何学が、人間の普遍的能力である可能性も指摘した。こちらは、音と空間を認識する能力が密接に関係して、われわれの脳を進化させたのではないかと想像させられる。

 よし。だったらもっと大胆に、これまで指摘した可能性が正しいと仮定して話を進めてみよう。

 さっき、求愛のためにダンスを踊る動物は地球上にたくさん存在するという話をちょっとしたよね。もしかしたら、人間も、サルに近かったころは、ダンスが女性(雌)のハートを射止める手段だったかもしれない。証拠というほど強い確証ではないけど、いまでもアフリカやジャマイカなどで、ダンスが生活において重要な役割を果たす部族もいる。なんていうと、ダンスと音楽を混同するなって怒られそうだけど、どちらにもリズムがあることを思えば、それほどかけ離れてもいないだろ?

 要するに音楽とは、進化の過程で身につけた習性なのだ。だからこそ、われわれ人間は、音楽を聴くと身体を動かしたくなり、また気持ちが奮い立ったりするのだろう。それらは、性的興奮に近いものといえるかもしれない。

 おそらく、壁画を描く程度の知能を会得したころの人類は、すでに音楽のパワーを利用しただろう。それは主に宗教的な儀式に使われたかもしれない。原始的な太鼓のリズムを、強く、さらに繰り返し聴かせることで、宗教的指導者は、従えるべき民を一種のトランス状態におき、神秘的な力を持つかのように振る舞ったかもしれない。

 もっとも、音楽の発生が、原始的欲求に関係しているのだとしても、いま人類が『音楽』と定義している高度な音の集まりは、単なるリズムではなく、メロディがあり、ハーモニーがある。火の使用が、われわれの生活をハイテク化したように、われわれの頭脳は、音楽をより立体的に進化させた。

 さらに、われわれは言語も手に入れた。われわれの言語は、ある固有の物体を、あるいは現象を、高度に抽象化できる。たとえば、空から降る水滴を「雨」と表現できる。そう表現できるだけでなく、強い雨を「豪雨」と呼べるし、弱い雨を「霧雨」と呼べる。

 どう? 雨が降る様子が目に浮かぶだろ? 言葉は情緒を呼び覚まし、われわれの心をコントロールする力を持ってさえいる。

 音楽と言語(詩)が融合すると歌になる。さあ、歌を歌おう! そのパワーは計り知れない。エッセイの冒頭で、古代ギリシアの音楽家が、アテネを勝利に導いた話をしたが、それが単なる物語といいきれないのは、近代でも、歌が戦争を勝利させる要因になった例が数多くあるからだ。たとえば――ぼくの乏しい記憶を頼って――アメリカの南北戦争を例にあげようか。この戦争で、北軍は明らかに劣勢だった。

 ところが、北軍は勝った。

 彼らの勝利は、エイブラハム・リンカーン大統領が、どんな逆境でも、けっして諦めない性格だったからか? まあ、そうかもしれない。彼らは、いかなる理由があっても、奴隷制度は廃止すべきだという強い信念を持っていたからか? まあ、そういう人もいただろう。しかし大部分の兵士には、大統領の性格も崇高な理念も関係なかった。彼らにとっては宗教的な情熱の方がずっと大事だったし、そんな彼らには歌があったのだ。

 なかでも有名なのは、「リパブリック讃歌」というもので、1862年に、ジュリア・ウォード・ハウが「ジョンブラウンの死骸」という曲に合わせて歌詞を書いた。それはこんな歌だ。(この讃歌のことを思い出したのはいいけど、本棚から歌詞が載ってる文献を探すのに苦労したぜ!)

 われわれを神に近づける栄光を胸に抱きながら、
 海の彼方で、百合の美しさの中にキリストは生まれた。
 人間に信仰を与えるために彼が死んだように、
 人間を自由にするために死のう!
 神が行進をする間に――

 この歌詞の中で、「人間を自由にするために死のう!」という部分に注目しないわけにはいかない。北軍のすべての兵士が、この言葉どおりの信念で戦っていたと考えるほど、ぼくはロマンチストではないけど、敗戦に敗戦を重ねた北軍が、それでもなお戦い続けた理由のひとつが、この歌の影響力だったと思えてならない。よく戦争映画には、兵士たちが宿営地で大合唱するシーンがあるけど、ああいうシーンが現実にもあったのだろう。

 さて……そろそろ、ぼくの知ったかぶりもネタが尽きてきた。本当はもっと多くの事例を挙げて、音楽がわれわれに及ぼす影響力の強さを証明したいのだけど、ネットの検索と、頼りない記憶では、この辺が限界のようだ。いいかげん、音痴が書いた音楽のエッセイを締めくくるとしよう。

 最後に、ぜひ指摘しておきたいのだけど、いままでの仮説がすべて正しかったとしても、人間になる長い道のりにいた、わが祖先はともかく、現在の人類にとって、音楽の有無は、生きるために必須の条件ではない。それは、耳の不自由な人が、健聴者となんら変わらない知的生産活動をしていることからも明らかだ。モーツアルトを聴くことができる、ちょっとした幸運に恵まれたことをありがたいと思うし、その幸運を手放したくはないけど、だからといって、テストの成績がよくなったりはしないのだ。

 ということで、お粗末さまでした。

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