馬車馬の休日 その2



 べつに書くつもりはなかったのだけど、このエッセイは、前作の「馬車馬の休日」の続きものという趣向になると思う。

 というのは、つい先日、実家の親父から電話がかかってきた。またExcelの使い方で質問でもあるのかと思ったが違った。(彼はいま、無謀にもExcelを使いこなそうと必死の努力を続けているのだ。その野望が達成されることを祈ってはいるが……)

 親父の連絡してきた用件は、思いもかけないことだった。いや……ことによると、それほど思いがけないことでもないような気もするが、彼は、日産自動車が販売している、フェアレディZというスポーツカーについて、ぼくがどう思うか聞きたがった。

 念のために申し上げておくと、ぼくは車のことについて、とくに詳しいわけではない。むしろ、疎い方だ。子供のころはそうでもなかった。車雑誌を買いあさるようなことはなかったが、中学生のころは、街を走る車の車名をほとんど空でいえた。だが、いまは、ほとんどわからない。その車のマークを見なければ、ベンツとトヨタの区別もできないほどだ。唯一、アルファ・ロメオだけは好きなので、一目でわかるが、トヨタの高級車を見て、ベンツも日本車っぽくなったね、と人前で発言して、恥をかいたことがある。

 だから、当然の疑問として、なぜ、ぼくにスポーツカーの評価を聞くのかと尋ねた。薄々、理由はわかっていたが、聞く権利はある。

 理由は、予想した通りだった。要するに親父は、フェアレディZがほしいのだ。すでに試乗までしてきたという。しかし、彼が助手席に乗せるべき女性(つまり、ぼくのお袋だが)の賛同がえられずに困っているのだそうだ。

 まったく……

 今年いくつになると思ってるんだ? 70才になるには、まだ数年あるとはいえ、孫もいる立派なジイさんだぜ。お袋でなくても、息子だって充分に、黒いサングラスをかけてスポーツカーを運転する親父の姿を想像したくはないのだ。ちょうど数日前、高齢者の運転に関する危険についてのテレビ番組を見てたので、なおさらだ。いや、車を運転するなとはいわない。でも、それがスポーツカーである必要はないはずだ。

 と、申し上げたところ、例によって予想どおり、おまえよりも運転はうまいぞと、不機嫌に答えて、話し合いは平行線に終わった。(またまた念のために申し上げておくが、息子は息子で、親父より運転がうまいと思っているし、それが真実であると強く主張するものである)

 わが親ながらというか、わが親だからというか、ジジイになってもやんちゃで困る。たしかに、70になろうが80になろうが、スポーツカーを運転している自分の姿を想像するのは楽しい。でもそれが、自分の親となるとねえ。丈夫なセダンに乗ってほしい(その車が、自分でハンドルをにぎらないタクシーなら、なおよろしい)と思うのだから、人間ってのは身勝手なものだな(苦笑)。

 まあ……しょうがない。お袋との交渉が暗礁に乗り上げて、性懲りもなくまた電話してきたら、多少は、親父の肩を持ってやるとするか。息子が加担した程度では、どちらが勝つか、予想するまでもないことなので、安心はしているが(苦笑)。

 と、それはともかく。

 親父から電話があった翌日、久しぶりに、自動車雑誌を買ってみた。ちょうど、フェアレディZとスカイラインを比べる記事が乗っている雑誌があったので好都合だった。

 相変わらず、車好きの人たちが、車のことを語るときは熱い。ぼくもメカは嫌いな方ではないので気持ちはわかるが……その同じ雑誌に載っていた、マツダとボルボが、フォードグループの一員であるとか、日産のゴーン社長が、アメリカで展開している高級ブランド路線を、世界で展開する計画であるとか、そういった、自動車業界のグローバル化のほうに、より強い興味を感じたというのが正直なところだ。

 このことによって、わが家では、父よりも息子の方が車の運転がうまく、かつインテリジェンスであることが証明されると、ぼくは強く主張するのである……

 って、そんなことがいいたいのではなく!

 えーと、なにがいいたいかというと……というか、なんで、こんな前置きを書いたかというと、つい最近、感想掲示板で、久しぶりに歴史エッセイを書いてみてはどうかといわれ、なにかネタはないかなあと考えていたら思い出したのだ。

 だから、強引に本題に入ろう。今回は、自動車の歴史だ。

 自動車の歴史なんていうと、車輪の発明にまで歴史をさかのぼる必要があるのだけど、今回は、ざっくり割愛して、前回、「馬車馬の休日」と題したエッセイでも話した、蒸気機関からはじめよう。

 まず、馬を必要としない「車」を作ろうと思ったのはアイザック・ニュートンだった。ところが彼の発想は、発生した蒸気で車輪を回そうというのではなく、蒸気がピストンを押す力を利用して、バッタのように、ピョンピョン飛び跳ねさせようというものだった。今日の常識から考えれば、この方法は不格好であり、事実、実用的な車を作ることは不可能だったので、ニュートンは忘れよう。

 蒸気機関そのものを改良したのは、ワットだった。彼の蒸気機関は、1769年に世に登場した。それから12年後の、1781年。同じくワットが蒸気機関のピストン運動を回転運動に変える装置を考えた。

 それからリチャード・トレビシックが、ワットのものよりずっと効率のいい装置を開発して、蒸気機関車を完成させた。ところが、トレビシックには運がなかった。ワットから執拗な嫌がらせを受けただけでなく、当時、鉄の塊である蒸気機関車をうまく走らせるような、レールを作るのが難しかった。けっきょく、その蒸気機関車は、粗末なレールの上で、ガタゴトと、不愉快なほどの騒音と、冷笑を受けるほど遅いスピードしか出せず、トレビシックは失意のうちに、この世を去った。

 だから、蒸気機関は、汽車よりも船の方が早く実用化された。商業的に使える最初の蒸気船が誕生したのは、1807年だった。汽車の方は、1825年になって、やっと実用的なものが作られた。

 ここまでくれば、人々が、レールという呪縛から開放され、自由に、どこへでも走って行ける、「蒸気車」を夢見ないはずはなかった。ボイラーは、徐々に小型化され、馬が引く程度の場所にも取り付けられるようになり、いよいよ「蒸気車」が登場した。

 のだけど……

 その乗り物がすばらしい未来を約束すると思ったのは技術者だけで、イギリス政府はそうではなかった。とくに、馬車屋(という用語があるかどうかしらないが)のロビー活動が功を奏した。馬を駆逐しようとする蒸気機関に対して、彼らは、その乗り物が馬を怖がらせると主張したのだ。

 けっきょく、イギリス議会は反対論が優勢になり、イギリス政府は1865年に、あらゆる蒸気車は、農耕地では4マイル(人が急いで歩く程度の早さ)、都会では2マイル以上のスピードで走ってはならないという法律を作った。しかもその法律は、蒸気車の前に、いつもだれかが赤い旗を持って立ち、人々に注意を呼びかけねばならないという厳しいものだった。その法律は、1896年まで廃止されなかった。

 しかし、その間も、蒸気機関の研究は続けられていた。1897年。例の悪名高き法律が廃止された翌年、フランシス・エドガー・スタンリーと、フリーラン・O・スタンリーという兄弟が、のちに有名になる、スタンリー・スチーマという蒸気車の製造をはじめ、1906年に彼らの蒸気車は、それまでの世界記録を破るスピードを出した。

 何キロだと思う?

 驚くなかれ、なんと、スタンリー・スチーマは、204キロものスピードで走ったんだ。今日の自動車と比べても、それほど遜色がないじゃないか。すごいね。

 でも……

 蒸気機関には、欠点があった。それは「外燃機関」なのだよ。ピストンを動かすシリンダーに送る蒸気を作るために、いつも湯沸器を背負って走らなければならない。1900年には、フラッシュボイラー(瞬間湯沸器だね)が発明されていたから、お湯が沸くまで、えらく退屈な時間を過ごす必要はあまりなかったけれど、それでも、湯沸器には違いなかった。

 だから、当然のごとく、ピストンを入れたシリンダーの中で燃料を燃やし、化学的な燃焼でピストンを直接動かすことができれば、すごく小型で便利な機械になりそうだと思いついた者がいた。

 そう! 内燃機関の登場だ!

 じつは、内燃機関の登場は、商業的な蒸気機関車が登場するより、5年も早かった。ぼくが調べたかぎり、1820年に、水素と酸素を混ぜて、それをシリンダーで爆発させる水素エンジンを作った人(名前はわからなかった)がいる。しかし、その水素エンジンは、実用にはならなかった。

 なんとか使えそうなエンジンを作ったのは、ベルギー系のフランス人発明家、ジャン・ジョーゼフ・エティエンヌ・ルノアールだった。彼は1857年に、照明用ガス(空気を遮断して石炭を加熱し、そこから出る可燃性の蒸気)を燃料にしたエンジンを開発した。

 ルノアールは、1860年に、自分の作ったエンジンを小さな車に取り付けて、ついに道を走ってみた。これが、世界最初の内燃機関による「自動車」だった。だから、自動車の発明の名誉を、イギリス人ではなく、フランス人に与えることに、ぼくは心から同意するものである。

 さて、そうはいってもルノアールの自動車は、お世辞にも性能がよくなかった。なにせ燃えた燃料の4パーセントしか利用できなかったからだ。それでも彼は、5年間で300台のエンジンを売った。

 ルノアールのエンジンは、ピストンの運動が往復で2行程の、いわゆる2サイクル・エンジンだった。

 そこで、同じくフランス人の技術者、アルフォンス・ウージューヌ・ボー・ド・ローシャは、ルノアールのエンジンが、4行程、すなわち4サイクルであれば、もっと効率がよくなるだろうと考えた。彼は、そのアイデアを1862年に発表した。

 しかし、最初の発明の多くがそうであるように、アイデアが実用になるのは、またべつの話で、ローシャのアイデアが、本当に実用になるには、それから14年も待たねばならなかった。

 ところで。このころ、イギリス人のロバート・ダビットソンが、電気自動車を作っていた。1873年のことだ。内燃機関が、なかなか進歩しなかったせいもあって、電気自動車は、意外にもけっこう売れていた。まあ、束の間の運命だったが……内燃機関は、その後急激なスピードで進化したのだ。電気自動車が、「性能」とはべつの理由で注目を集めるようになるには、その後、一世紀ほど待たなければならないが、それはべつの話なので、今回は割愛しよう。

 さて、その内燃機関。

 本当の意味で、4サイクル・エンジンを作ったのは、ドイツの発明家、ニコラウス・アウグスト・オットーだった。1876年、オットーはじっさいに動作するエンジンを完成させたので、4サイクル・エンジンは、ときにオットー・サイクルと呼ばれることがある。だから、オットー・サイクルを使った内燃機関を、「オットー機関」とも呼ぶ。

 オットーは、1877年に特許をとり、数年の間に、そのエンジンを3万5千台も売った。だが、彼の作ったのはエンジンであり、それを搭載する「自動車」ではなかった。

 オットー機関は、当時、とにかく最高の性能を持つ内燃機関だったから、それを積んだ車を作ろうと思うのは、自然なことだった。しかし、速やかにではなかった。当時は外燃機関である、蒸気車もあったから、それほど差し迫った必要はなかったのだ。

 だから、オットー機関を使った自動車が登場するのは、オットーがエンジンの特許をとってから、8年後の1885年だった。

 それを作ったのは、ドイツの機械工学者、カール・フリードリッヒ・ベンツだった。彼が最初に作ったのは、バギーのような形の「三輪車」で、いま現在、自動車のもっとも普及している形である「四輪車」ではなかった。

 でも、それは重要なことではない。ベンツがやったもっと重要なことは、オットー機関に使う燃料を、ガソリンに変えたのだ。

 ガソリンは、そこに含まれる炭素原子の数が少ないから、沸点が低く、容易に気化する。だから「ガス」と呼ばれるくらいだ。もちろん、常温では本当のガス(気体)でないことは、みなさんご存じだと思うけど、この「容易に気化する」という性質は、内燃機関の燃料としては理想的だった。なにせ、シリンダーの中で、ガスを爆発させるというのが、内燃機関の原理なのだから。

 というわけで、ベンツの作った三輪車が、現在われわれが乗っている自動車の原型であり、よって、自動車発明の名誉を、フランス人だけでなく、ドイツ人にも与えることに、ぼくはよろこんで同意するものである。

 ところで、ベンツに関してはほほ笑ましい話がある。彼は、最初の自動車(三輪車だけど)を、自分の工場の周りで走らせた。ベンツの奥さんと工員は興奮して、彼の運転する自動車の後ろについて、いっしょに走り回った。

 ベンツは、いよいよ、公開運転をはじめようと思い、大勢の人を集めて運転席に座った。ところが、車の調子が悪かったのか、緊張しすぎていたのか、彼の運転する自動車は壁に激突して壊れた。でも心配はいらない。なにしろ、当時の車は遅かったのだ。だから、運転者のベンツに怪我はなかった(笑)。

 こうして、2年後の1887年。ついに、最初の車が発売された。ベンツの一号車。それはまだ三輪車だったけど、けっこうよく売れて、ベンツの事業は拡大し、1890年に、とうとう四輪車の発売にこぎ着けた。

 ここで、少し時間を巻き戻そう。

 ドイツの発明家、ゴットリープ・ウィルヘルム・ダイムラーは、オットーに協力して、オットー機関の開発をしていた。彼は、オットーの会社「ガスモトーレン・ファブリーク・ドイツ」の工場長だったのだ。ところが、彼らは意見が合わず、1883年にダイムラーはオットーの会社を辞めた。

 こうしてダイムラーは、独自に高速エンジンを製造して、それをまず船に取り付けた。これが世界最初の「モーターボート」だった。その2年後の1885年、今度はエンジンを自転車に取り付けた。これが世界最初の「オートバイ」だった。

 その後ダイムラーは、自動車も製造した。ベンツに2年ほど後れをとったけれど、彼の作った自動車は、最初から四輪車だった。その意味では、ベンツより三年ほど先をいっていた。だから、自動車発明の名誉を、ダイムラーにも分け与えることに、ぼくは反対をしない。

 しかし当時、反対した者がいた。アメリカ人のジョージ・ボールドウィン・セルダンが、自動車を発明したのは自分だと主張した。彼は特許もとっていたが、彼が持っていたのは設計図だけだった。動く車はなかった。彼の特許は、その後、無効として取り消された。

 ところで、ダイムラーとベンツの自動車には違いがある。ベンツの自動車は、エンジンが後ろについていた。ところが、ダイムラーの自動車は、今日、われわれがよく目にするとおり、エンジンが「前」についていた。

 いうまでもなく、彼らはライバルになった。競争者がいるというのは、商売が難しくなるという(独占できない)問題はあっても、製品の質が高くなるスピードが加速されるという利点を持つ。

 けれども……

 勝ったのはダイムラーだった。当時ベンツは、世界初のディーゼルエンジンを開発したりして、相変わらず発明者としての名誉を守っていたけれど、自動車の性能としては、ダイムラーの方が、ずっと優れていた。

 なぜなら、ダイムラーには、フェルディナント・フェリー・ポルシェがいたのだ。あの有名なスポーツカーメーカーの創業者といえば、彼の能力が、どれほど高かったか説明の必要もないだろう。

 余談だけど、ダイムラーは、1900年にこの世を去っているので、ベンツとダイムラーは、顔を合わせたことがないといわれている。

 ま、それはともかく。

 その後、第一次世界大戦が勃発した。ドイツは敗戦国となった。当時、最高の性能を持つ自動車を製造し、レースでも華々しい活躍を続けていたダイムラーは、経営の危機に陥った。ベンツは富豪だったのでそれほどでもなかった。そこで、ベンツが財政面を負担し、ダイムラーが技術を提供するという関係が生まれた。

 そしてついに、ライバル関係だった両社は、1926年に合弁し、ダイムラー・ベンツという会社になった。ベンツは、その3年後の、1929年に他界した。

 ちなみに、ポルシェが独立して会社(最初は、自動車の設計事務所だった)を作ったのは、1931年だ。

 おっと、べつにドイツ車の歴史を話しているのではなかったね(笑)。

 話を戻そう。フランス人のルノアールが自動車を発明し、ドイツ人のオットーが、4サイクル・エンジンを発明し、ベンツがガソリンで動く自動車を発明し、ダイムラーがエンジンを車のフロントに取り付けた。

 これによって、ヨーロッパでは、自動車メーカーが、どんどん誕生してくるのだけれど、つぎに語りたいのはアメリカ人だ。

 もう察しはついてるよね? 自動車を高価な道具から、一般大衆の道具へと変えた、ヘンリー・フォードの名前を、いま思い浮かべたんじゃない?

 でも待ってほしい。彼の前にいるのだ。アメリカで、最初に自動車を作ったのはチャールズ・エドガー・ドゥリェーだけど、彼のことではない。

 ぼくが話したいのは、ヘンリー・マーティン・リーランドだ。ヘンリー・フォードとファーストネームが同じだけれど、もちろん別人。

 リーランドは、自動車の部品を「規格」という型にはめることを考え出した。完全に設計どおりの部品ならば、一台の自動車が壊れても、その壊れた部品を外して、べつの同じ型の自動車から、同じ部品を抜き取って取り替えても、まったく同じように動作するはずだった。こういう方法は、どの産業でも行われていたのだけど、それを自動車にも適用したのは、リーランドが最初だった。

 彼は1903年に、それをやってのけた。その車の名は(会社名も同じ)「キャデラック」だった。リーランドは、1908年、3台のキャデラックを分解し、部品を混ぜ合わせて一台のキャデラックを組み立て直し、それに乗って、なんの支障もなく800キロを走って見せた。なんてことないように聞こえるかもしれないけど、当時、そんなことができる自動車は(つまり、部品レベルで完全に規格どおりに作られた車は)キャデラックだけだった。

 なぜ、リーランドの業績を紹介したかというと、彼がキャデラックを作ってくれなかったら、ヘンリー・フォードの革命はなかったかもしれないからだ。

 さあ、そういうわけで、もうひとりのヘンリーである、ヘンリー・フォードに登場してもらおう。

 彼は1893年に、自動車を製造した。と同時に、自分が設計した車を製造する会社も設立した。四輪車としては、ダイムラーに遅れること6年。ベンツには3年遅れだから、遠いアメリカの技術者としては、かなり早い動きだ。

 しかも、フォードにはベンツともダイムラーとも、いや、当時のヨーロッパの自動車メーカーのどことも、そして、同じアメリカ人だが、キャデラックを作ったリーランドとも、違う考え方を持っていた。

 彼は、安い車を作りたかったのだ!

 最初に設計したのは、モデルAと呼んだ。つぎはモデルB。合計八種類の自動車を設計したが、そのあと文字の順番はどうでもよくなって、最後のモデルは、モデルSと呼んだ。これらの比較的安いモデルは、売れゆきがよかった。

 そして、1908年。フォードは、ベルトコンベアー方式を考え出した。ベルトの上に部品が並び、その組み立てラインにいる工員は、一つの行程だけを担当して、つぎの工程は、部品がベルトに乗って、となりの工員に渡される。そして、組み立てラインの末端からは、あ〜ら不思議。完成した車がこぼれ落ちるって寸法。

 フォードは、この組み立てラインを使って作る車を、モデルTと名付けた。彼が設計した、9番目の車だった。日本でよく「T型フォード」って呼ばれる車の完成だ。これが、本当の意味で、自動車が中産階級の手の届く道具になった、革命的なモデルであり、また製造方法でもあった。

 当時、モデルTの販売価格は950ドルだった。それが1926年には、なんと290ドルで売っても儲かるほど、コストダウンされた。1926年当時の290ドルは、けっして安い買い物ではなかったが、自動車としては、いうまでもなく破格の値段だった。

 これで自動車が完全に大衆化した……と、いいたいところだけど、まだ若干の問題があった。それは、自動車のエンジンをスタートさせる方法だ。当時の自動車は、クランクを回さなければならなかったのだ。

 現代人は、なんじゃそりゃ? というだろうけど(もちろん、ぼくもだ)、クランクっていうのは、鍵型の金属の棒で、それを手につかみ自動車の前にまわり、ラジエーターの下にある突起にクランクを差し込んで、しっかり握りしめ、渾身の力を込めてグイと回す。

 という、神聖にしてバカバカしい儀式を経なければ、車は動かなかった。

 チャップリンの映画を見ているような世界がそこにある。おそらく、一回では成功しない。二度、三度と、クランクを回すうちに汗が吹き出てきて、このポンコツめ! とか悪態をつきながら、それでも、もう何度かトライすると、突然、癇癪を起こす赤ん坊のようにエンジンが、唸り声をあげる。そしたら、あわてて運転席に駆け込み、エンジンが止まってしまわないように、アクセルを少し踏んでやって……

 この苦行はしかし、車の運転は男の特権であるという、一種の優越感を男どもに与える結果になった。べつに女性差別をする気はないが、とにかく、男の力がないとエンジンはかからないのだ。

 そこで、やはりアメリカの技術者、チャールズ・フランシス・ケッターリングが、電気自動スターターを発明した。もちろん自動スターターは最初高価だったので、1911年のキャデラックに採用されたが、フォードの作る安い車には、すぐに採用されなかった。それでも、これは画期的な技術であり、1920年代が終わるころには、自動車からクランクは消滅した。

 こうしてついに、自動車はだれにでも使えるものになった。性別も年齢も関係なくなった。もちろん、それからもさまざまな改良が加えられた。オートマチック・トランスミッションは、車の運転を、より気楽なものにしたし、サスペンションの改良は車を快適な乗り物にした。しかしそれらは、自動車の大衆化を決定的に促した技術という意味では、付加価値的な要素が強く、自動スターターまでが、もっとも重要な技術革新だったと思う。

 こうしていま、フォードがモデルTを作った当時には夢にも思わなかった高性能な車が、世界中にあふれている。だから、馬車馬は、これで本当にのんびりと休息を楽しむことができるわけで、はからずも続き物みたいになったエッセイの筆も、ここで置くとしよう。


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