たまには小説の話を



 ここのところ、科学エッセイを続けざまに書いてきた。創作小説サイトに神話や歴史のエッセイがあるのは、まあ、それほどおかしなことでもないだろうけど、これだけ科学エッセイがある創作小説サイトも珍しいかもしれない。

 とはいえ、ここは創作小説サイトなんだから、たまには小説の話もしなくてはいけないよね。というわけで、今回は久しぶりに小説のお話です。

 ところで、前回のエッセイ「神さまの証明」で、もんじゃ焼きの話をしたのだけど覚えているだろうか。じつは、あの話には後日談がある。いや、後日談が「できて」しまった。ぼくは望んでいなかったのだが(苦笑)。

 ぼくが、もんじゃ焼きを食べたという話は、彼女から光速よりも速やかに各方面に伝わり、彼女の友人夫婦からも、もんじゃ焼きを食べにいかないかと誘いを受けた。なんでも、大好物なんだそうだ。

 なんで、あんなものが好きなんだ? 勝手に行きたまえ。

 と、丁重にお断りしたいところだが、これでもぼくは、常識ある社会人なのだ。彼女の手前もあるし、どうやら、お誘いを受けないわけにはいかないようだ。

 さて。そんなわけで、彼女の友人夫婦がお勧めの店に行ってきた。ぼくは、頑としてお好み焼き「を」食べると……いや、お好み焼き「も」食べると主張し、例によって、調理される前のお好み焼きを攪拌して、今度はキチンと油を引いた鉄板の上に流し込んだ。二度目ともなれば慣れたもんだ。任しておきたまえ。すでにエキスパートだよ。

 そう! もちろん、ひっくり返すのに成功したとも。彼女は再び拍手をしてよろこんでくれた。ところが……友人夫婦の奥さんが呆れた顔でいった。

「あらま、恋人は優しくていいわね」

 どうやら奥さんにとって、日本男児は、お好み焼きをひっくり返せて当たり前らしい。青春中期に差しかかるほど生きてきたが、まだまだ修行が足りないなと思った次第だ。

 まあ、それはともかく。友人夫婦お勧めのお店は、ぼくの彼女にはあまり好みではなかったらしい。もんじゃなんて、どこで食べても同じだと思うが(というか、前にいった店も、今回いった店も、同じようにおいしくなかった)、彼女の基準は厳しいのだ。それで、友人たちと別れたあと彼女がいった。

「あのね。神田においしいお店があるんだって。こんど行こうね」

 勘弁してくれ……(涙)。どうやら、ぼくを洗脳して、もんじゃ好きにするつもりらしい。もしかしたら、ぼくの苦難は、はじまったばかりなのかもしれない。人生とはいばらの道だな。

 いばらの道といえば、趣味であるはずの小説を書いているときも、そう思うことがある。
よほど調子がよくなければ、うまく書けない。悩み、迷い、何度も書き直して、それでも気に入らずに、書くのがイヤになる……

 なんだか、強引に本題に入ったような気もするが(苦笑)、冗談抜きで、小説を書いてる人なら、みんな同じ思いをしているはずだ。

 じつは、いまこのエッセイを書こうと思ったキッカケは、2004年4月3日の、朝日新聞の夕刊に載っていた科学欄なのだ。

 え〜っ、また科学ぅ?

 と、眉をひそめたみなさん、ご安心を。いまから科学の話をするわけじゃないから。まあ、説明させていただきたい。

 その科学欄の記事は、日本のタンポポは、雑種が多数派になったという記事だった。雑種が多いというのは以前から指摘されていたが、だいぶ、その実体が分かってきたらしい。そもそも日本のタンポポの在来種は、染色体が2倍体で……

 おっと、失礼。科学の話はしないんだった(笑)。その科学欄の下に、いつも短いコラムがあって、今回は、芥川賞作家の小川洋子さんが寄稿していた。その内容が、じつに興味深かったんだよ。

 コラムの題名は「数学者の『正しい間違い』」だった。書き出しから、「フェルマーの最終定理」なんて言葉が飛び出すので、なにをいいたいのかと思ったら……読んでみて深い感銘を受けた。

 小川さんは言う。フェルマーの最終定理を証明したのは、プリンストン大学の教授アンドリュー・ワイルズだが、その証明を根幹で支えたアイデアのひとつは、「谷山・志村予想」という、日本人数学者の研究だった。

 ここで、少しだけ説明させていただきたい。

 フェルマーの最終定理が証明された過程を一般向けに解説するとき、欧米では、谷山・志村予想に触れる人は少ない。ほとんど無視されているといってもいいほどだ。しかし、小川さんがいうとおり、この二人の研究は、非常に重要なのだ。

 そもそもフェルマーの最終定理が証明されるまでの長い長いドラマは、17世紀の数学者、ピエール・ド・フェルマーが、古代ギリシアの数学者、ディオファントスの『アリスメティカ』という数論の本を読みはじめたときにはじまる。その時期は、正確にはわかっていないが、一般的には、1637年ごろといわれている。

 フェルマーは、『アリスメティカ』を読みながら、その欄外に、気づいたことをメモっていった。そこには、こんなメモが残っていた。

nが2より大きい自然数であれば、「Xn+Yn=Zn」を満たす、自然数X、Y、Zは存在しない


 なんのことかサッパリわからんといわれると困るが、もしも、n=2の場合は、みなさんも名前ぐらいは知っているだろう、ピタゴラス(三平方)の定理になる。ところがだ、そのnが2よりも大きい場合は、整数解はありませんぜ。と、フェルマーは予想したのだ。

 こいつは、じつにすばらしい発見だった。中学生だって計算できる簡単な式なので、ちょっと計算してみれば、この予想が正しそうだと、だれもが思った。ところが、なぜそうなのかという理由がわからない。数学的にいうなら、「証明」できないんだ。なぜ証明できないのかすらもわからない。例えていうなら、物が地面に落ちるということは原始人だって知っていたが、その理由を説明するには、ニュートンが生まれるのを待つ必要があったようなものだ。

 もちろん、この「予想」に、最初に挑戦したのはフェルマー自身だった。フェルマーは欄外に、この予想のすばらしい証明方法を思いついたが、欄外が狭くて、これ以上は書けないと書き記した。

 ホントかよ、フェルマーさん。あんたマジで証明したの?

 いや、彼は証明していない。当時フェルマーは、たしかに解けたと思ったらしいのだが、その後、彼自身、自分の考えた証明は間違いだと気づいたらしい。もそっと正確にいうと、フェルマーはたしかに、nが4の場合は証明した。しかし、そこまでだった。フェルマーの時代の数学的知識では、この問題は解けないのだ。

 それから350年。フェルマーが欄外に書き残した、超難解な予想は、数々のドラマを生み出してきた。

 18世紀に入るとスイスの数学者、レオンハルト・オイラーがn=3を、19世紀に入ってドイツの数学者、ピーター・グスタフ・ルジューン・ディリクレがn=5の場合を証明した。

 ああ! 科学の話をしないといったのに、してるじゃんか! ダメだ止まらない。もうちょっとだけ語らせて。必ず小説の話題に戻ることを約束するから!

 では続けよう。

 ここで数学者としては珍しい女性の名を挙げるよろこびを、みなさんと共有したいと思う。彼女の名は、ソフィ・ジェルマン。フランスの富裕な家庭に生まれた彼女は、ドイツの大数学者、カール・フリードリッヒ・ガウスの「整数論」を読んで、数論の魅力にとりつかれ、独自に研究をはじめた。

 そして1823年。彼女はなんと、はじめて、同時にいくつもの、nに対してに成り立つ証明を考え出した。しかし当時、女性の数学者というのは珍しいだけでなく、まともに相手にしてもらえなかった(ちなみに、広辞苑にもソフィの名はない)。そこでソフィは、ルブランという男性名で、書簡をガウスに送った。

 書簡を見たガウスは驚いた。こいつは、すばらしい! と。

 その後ソフィは、ガウスに正体がバレちゃうんだけど、ガウスは性差別はしなかった。彼女の才能と努力に、最初の驚きと同じく、賞賛の言葉を送っている。

 しかし、彼女の研究が公にされる日はなかなかこなかった。ディリクレより2年ほど早く、多くのnに対して証明したのに(しかも当時、ディリクレはnが5のときを証明しただけだった)、ディリクレの論文が評判になるのを見ているだけだった。いくら女性が重んじられなかった時代とはいえ、これは不当だ。ガウスは、ゲッチンゲン大学教授会に対して、ソフィに名誉博士号を送るように勧告した。しかし遅かった……彼女は、学位を受ける前に、パリで亡くなった。

 その後、ディリクレの証明にも協力した、整数論の大家、フランスのルジャンドルが、ソフィの研究を拡張して、n=197よりも小さい場合について証明した。

 あ、なんかこの書き方だと、ディリクレが凡人のくせにソフィを差し置いて有名になったと思われそうなので、彼の名誉のために書いておくと、ディリクレは、解析的整数論を考え出し、その後、フーリエ級数、境界値問題、力学、流体力学などなどに、重要な業績を残している。しかし、n=5の場合の証明が評判になって、大学講師の仕事を得たのは事実なのだった。もしも、ソフィの努力が、もっと早く認められ、彼女がもっと長生きしていたら……どうなっていたか、それはだれにもわからない。

 というわけで、どうしてもソフィのことを話したかったんだよ。さあ、いい加減、小説の話題に戻りたいから、先を急ごう。

 フェルマーの予想は、その後も多くの数学者が挑戦し続けた。ノルウェー生まれのニールス・H・アーベル、フランス生まれのエヴァリスト・ガロアなどの研究をへて、いよいよ、ドイツのエルンスト・エドワード・クンマーが登場する。彼は、理想数という新しい方法で、新たな道を切り開いた。しかし、根本的な解決にはまだ遠かった。いくら、たくさんのnに対して証明してもダメだ。キリがない。だって、nはいくらでもあるのだから。ぼくらが知りたいのは、「すべての自然数」に対する証明だ。

 こうして、この問題はついに20世紀まで持ち越された。20世紀に入って、最初の成果は、モーデルとファルティングスの仕事だった。

 そしてそして、1955年9月。日本の、日光で開かれた数論の国際シンポジュウムで、最終的な証明に関わる、重大な一歩が記された。

 このとき、東京大学の大学院生だった谷山豊は、「アーベルの多様体の虚数乗法の研究」を発表した。谷山は、ここでいくつか未解決の問題を提起した。これらは「谷山予想」と呼ばれた。しかし、彼の仕事は当時、それほど重要視されなかった。彼の残した予想をごく簡単に言うと、楕円曲線上に定義されるゼータ関数は、重さが2の保型形式のゼータ関数だろうね。ってことだった。

 残念ながら、谷山は若くして亡くなった。谷山予想を発表したあと、自殺してしまったんだ。しかし、彼の仕事は死ななかった。谷山の死後、プリンストン大学にいった志村五郎によって研究され、1965年、より洗練された形で発表された。このとき「谷山・志村予想」と呼ばれるようになった。これでやっと、彼らの仕事は、数論にとってかなり重要な問題だと、世界中の数学者に意識されるようになった。

 時は流れて、1984年。非常に重要な、第二歩が刻まれた。

 その重要な発表の2年前。ゲアハルト・フライは、ハーバード大学で数週間を過ごしていた。このとき、バリー・メイザーと議論した。フライは、楕円曲線に関心を持っていて、「フェルマーの予想」と「谷山・志村予想」の間にある重要な関係に、漠然とだが気がついていた。彼は自分のアイデアを研究して、オーベルバッハで行われた、数論の国際的な会議で驚くべき発表を行った。

「谷山・志村予想が正しければ、フェルマー予想は正しい」

 いやはや、ビックリ仰天だ。誤解を恐れずにいうのなら、「フェルマーの予想」が証明されたところで、あまり意味はない。難しいパズルが解けてよかったねってぐらいのものだ。ところが、「谷山・志村予想」が証明されるというのは、ちょっと意味が違う。ぼくの知能ではうまく説明できないのだけど、木を見て森を見ないという感覚に近いかもしれない。フェルマーの予想は、一本の「木」なのだが、谷山・志村予想は、もっと大きな「森」だった。もちろん、森の全体像が見渡せるようになる方が、数学の発展に貢献することは間違いない。

 そして、もうひとつ。木を見ているだけでは解けなかった問題が、森を見ることで解けるのかもしれなかった。

 1986年。カリフォルニア大学のケン・リベットは、このフライの予想を聞いたとき、ただの冗談だと思った。しかし、どうしても気になってしょうがなかった彼は、フライの研究をさらに子細に検討して、その予想が正しいことを証明した。

 これで決まった。谷山・志村予想が証明できれば、あの超難問な、フェルマーの予想が証明できるのだ!

 こうして、最後の栄冠を手にすることになる、アンドリュー・ワイルズが登場する。

 プリンストン大学のワイルズは、日本の数学者、岩澤健吉が残した予想を、1984年に証明していて、すでにその分野での第一人者だった。彼は、谷山・志村予想の証明に取りかかっていた。そのことを知っている人間はほとんどいなかった。自宅の屋根裏にある書斎で、七年間も孤独な戦いをしていたのだ。

 1993年6月。ケンブリッジ大学で、国際会議が開かれることになった。ケンブリッジはワイルズが大学院時代をすごした場所だ。国際会議の主催は、ワイルズの指導教官であったコーツ教授だった。そして、会議のテーマは「岩澤理論」についてだった。これだけの条件が揃えば、ワイルズに公演の依頼がきて当然だった。

 コーツは、ワイルズに、一時間程度の公演を依頼した。しかしワイルズは、三日間にしてくれないかと打診してきた。コーツは驚いたが、ワイルズの申し出を受け入れることにした。

 こうして、運命の日はやってきた。

 6月21日午前10時。ついにワイルズの講演がはじまった。場所は、当時オープンしたばかりの、アイザック・ニュートン数理科学研究所だった。しかしこのとき、ワイルズが世界中の新聞の一面トップを飾るような発表を行うなど、だれも知らなかった。だから、講演を聞きに来た聴衆は、たった20人だった。ここでワイルズは、非常に興味深い成果を発表したが、まだ核心には触れなかった。

 6月22日午前10時。前日の内容を聞きつけて、聴講者が大勢やってきた。ワイルズはこの日、新しい定理を発表した。だがここでもワイルズは、研究の全容を示すことなく会場を立ち去った。

 6月23日午前10時。3日目は、もはや会場に入りきれないほどの聴衆が集まっていた。ワイルズは、人混みをかき分けて演壇に向かった。そして、「谷山・志村予想」を慎重に解説した。ワイルズは証明を黒板に書き終えたあと、最期に1行を書き加えた。

「このことから、フェルマーの最終定理は証明されます」

 一瞬の沈黙のあと、聴衆から称賛の声があがり、カメラのフラシュが焚かれ、全員が総立ちでワイルズの証明を祝ったそうだ。いうまでもなく、数分以内に、電子メールが飛び交い、ファックスは世界中にニュースを伝えた。フェルマーの予想が証明されたニュースは、光の速度で地球を駆けめぐったのだった。

 ところが!

 劇的な発表にも関わらず、ワイルズは間違っていた。彼の証明を、6人の数学者が検証した結果、間違いが発見されてしまったのだ。ワイルズは必死に努力したが、問題は簡単に解決できそうもないと悟った。そこで、その問題を解決した完全な証明を、翌年の2月からはじまる、プリンストン大学での講演までには発表すると声明を出した。

 こうしてワイルズは、教え子だった、リチャード・テーラーと共同で問題の解決に取りかかった。

 しかし……

 問題は解決できなかった。約束の2月に入っても、3月になっても、4月をすぎても……時間だけが虚しく過ぎていった。ワイルズは落ち込んだ。とうとう夏になって、あきらめようとさえ思った。しかしテーラーに励まされて、もう一ヶ月だけ頑張ってみることにした。

 そして、9月19日。もうダメだと思った。問題は解決できない。彼は敗北宣言をする気になっていた。そのときの、せめてもの慰めに、自分の理論の、どこが敗因だったのかを調べておくことにした……

 そのとき!

 後にワイルズ自身が語った言葉によると、彼は、「まったく不意に、信じがたい閃きに打たれた」のだった。問題の解決には、彼の専門である、岩澤理論を組み込む必要があることに突如として気づいたんだ。

 ワイルズは、すぐさま、テーラーに電話をした。テーラーは、ワイルズのアイデアをもとに、厳密で完全な証明を作り上げた。翌月、彼らは論文を発表した。

 彼らの提出した論文の審査には、数ヶ月を要した。今回はなんの問題もなかった。彼らの論文は、1995年5月、数学専門誌「数学年報」に掲載され、この号は、まさに飛ぶように売れた。なにせ、発売日前に売り切れてしまったのだから。

 これでわれわれは、フェルマーの「予想」という言葉を使わなくてもすむようになった。350年間、数学者を悩ませ続けた予想は、ついに「定理」になったのだった。

 って……気がつけば、また物知り顔で厚かましくも、科学エッセイを書いている自分に呆れている今日このごろですが、いったい、なんの話をしていたか、みなさん覚えておいででしょうか?

 えーとですね、ぼくは、作家の小川洋子さんが、朝日新聞のコラムに寄稿していた記事について語っていたのでした。

 小川さんはいう。東京大学で出会った谷山と志村。谷山のすごさを志村は、このように表現したそうです。

「正しい方向に間違う才能の持ち主」

 小川さんは続ける。数学者たちは常に正確さを求める。しかし正解にたどり着くまでの間、多くの間違いを犯す。そこでくじけずに間違いによって開かれた、間違った扉の向こうに新たな光を見つけ、より困難な道筋を歩んで行ってこそ、すばらしい真理を発見することができると。

 ここで小川さんは、数学の世界と小説とを結びつけた。以下は原文を引用する。

「小説を書くにも似たところがあると言ったら、数学者は怒るだろうか。書いている間中私は、一語一語、それで本当にいいのか? と自問し続けている。なのにふと気づくと、最初に思い描いていたストーリーとは外れた、間違った場所に放り出されている。そこで慌てず、じっと心を静めていると、自分の思惑を超えた物語の光が、遠くから差してくるのだ」(原文まま)

 ぼくは、この文章に深い感銘と、安堵感を感じた。芥川賞を受賞した作家でさえ同じなのだと。いや……それこそ、アマチュア作家がこんなことを言ったら、プロの作家は怒るかもしれないが、一字一句、ぼくは、小川さんと同じ気持ちなのだ。

 ぼくは、ある程度全体像を決めてから、小説を書き始める。はじまりはこんな感じで、こんなことが起こって、こんなふうに終わると。

 しかし、書き始めてしばらくすると、自分の思惑とは違うところにいることに気づく。そんなとき、間違った道をぜんぶ削除して書き直すこともあるし、小川さんがいうとおり、間違った道に物語の光を見いだして、最初に思い描いていたよりも、ずっとすばらしい小説になるときもある。

 ぼくのエッセイを読んでくださっているみなさんは、ぼくが先月、ハードディスクのクラッシュに見舞われて、執筆中の召しませMoney!の続編を失ったことをご存じだろう。その書き直しをはじめて、改めて思ったのだが、召しませMoney!の続編は、最初の思惑から、かなり変容しつつある。

 失った部分のことは、ぼくの脳細胞に記憶されている。たしかにあるのだ。そこに「なにが書かれていたか」ぼくは知っている。なのに、書き直しをすると、明らかに、失った文章とは違う。物理的にいうと、文章の長さが「短い」。

 これで本当にいいのか? 書き直しがめんどくさくて、無意識のうちに、文章を短くしてしまっているのではないだろうか?

 そう思って、書き直した部分を何度も読み返す。しかし、キチンと必要なことが書き込まれているように思えてならない。となれば、もしかしたら、文書がより洗練された結果なのかもしれなかった。一度すべてを失って、頭の中で反芻されたことで、よりよい表現になっているのかもしれない。

 いやはや……こんな経験ははじめてだ。願わくば、そのとおりであり、もし間違っていても、正しい方向へ間違っていると信じて、今日も召しませMoney!を書いている。まだまだ、いばらの道であることに間違いはないのだが(苦笑)。


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