神さまの証明



 仕事が忙しい。どんなに忙しくても、懐が暖かくなるのなら大歓迎だが、いまやっている仕事は、経費がかかるだけで赤字なのだ。まったく信じがたい。あまり詳しくは話せないのだけど、デジタルで撮影した写真を、印刷所に直接納品するために、PDFファイルに変換しなくてはならなくなった。要するにクライアントの経費節減のしわ寄せだ。

 おかげでぼくは、カメラマンが使う必要のないInDesignというDTPソフトを購入せざるをえなくなった。DTPソフトの中では比較的に安価だが、それでも10万円前後するソフトだ。定価がではなく売値がだよ。さらに、高解像度のプリプレス用のPDFを作るには、Acrobat 6.0 Professionalも必要だ。こちらは6万円ほど。

 これら、ぼくにとって未知のアプリケーションの使い方を覚えるだけで気が遠くなりそうなのに、この作業にギャラは出ないのだ。アプリケーションの購入費用も、ぜんぶ自腹。泣きたくなるね。

 ふう……

 今月(2004/03)に入ってから受難続きだ。ハードディスクはクラッシュするわ、一つ年をとるわ、召しませMoney!の続編の書き直しをやっと本格的にはじめたら、儲からない雑用に忙殺されるわ……

 こんなことなら、お彼岸にちゃんとお墓参りしとけばよかった。天国のじいちゃんばあちゃん、祖父母不幸なぼくをお許しください。謝るからさ、心穏やかな日々を送らせてください。アーメン。じゃなくて、南無妙法蓮華経。チーン。

 と、かえってご先祖様を怒らせるようなことを書いてる場合じゃないよな。マジでいまの仕事はストレスがたまる。ストレスがたまったときは、趣味に走って気分を変えるのがいい。

 デートしまくる?

 それは名案ではあるが、あまり派手な行動は、高額なソフトだけでなく、ホワイトデーのお返しに今月の軍資金を使い切ったので無理だ。幸いぼくには、もっと手軽に、椅子に座ったままできる趣味がある。もう、いいたいことわかるよね? こうしてエッセイを書くのが、ぼくにとって一番のストレス発散になるのだ(ある意味、デートよりも!)。

 というわけで、さあ書くぞ! 心優しき読者のみなさまにはご面倒さまですが、どうか、いましばらくおつきあいいただきたい。こんな気分のときは、少しばかり刺激的な話題がいいよね。

 といいつつ、軽い話題から(笑)。

 つい先日のことなのだけど、例によってデートに出かけた。どんなに忙しくても女性に寂しい思いをさせないのがぼくの取り柄だ。それがぼくの運命であり宿命で……まあ、みなさん、とっくにご存じだろうだろうから、これ以上言わないが。

 しかし、その晩は困ったことが起こった。ディナーを決める段階になって、彼女が、もんじゃ焼きを食べたいといいだしたのだ。

 ぼくは過去に、二、三度もんじゃ焼きを食べたことがあるが、どの記憶も芳しいものではなかった。その当然の結果として、もんじゃ焼きは、べつに食べられないほどマズくはないが、できれば食べたくない食物のリストに加えることを決定していた。賢明にも彼女はそのことを知っており、いままでのデートで、もんじゃ焼きを食べたいといいだすことはなかった。つまり、彼女とは、一度も行ったことがないわけだ。

 ところが……

 なんの拍子か知らないが、その日にかぎっては、もんじゃ焼きを食べなければ、いても立ってもいられないって気分になったらしい。

 ぼくは、慎重かつ丁重に軌道修正を試みた。多少、予算オーバーになるのを覚悟の上で、彼女の好物を、二、三あげて、そちらに誘導しようとした。

 むだな努力だった。

 べつに、無理にもんじゃ焼きを食べろとはいわない。あなたは、お好み焼きでも食べてればいいじゃない。という彼女の合理的かつ心優しい提案の前に、なす術もなかった。

 さて困った……

 ここで、告白しなければならないことがある。過去のエッセイにも書いたことがあるかもしれないけど、ぼくは、料理がてんでダメなんだ。男子厨房に入るべからず。なんて、レトロな環境で育ったわけではないのだけど(むしろその逆だ)、これほど料理の才能が欠落した男も珍しいかもしれない。お好み焼きすら、うまく焼けないのだよ。

 誤解を受ける前にいっとくけど、だれかに料理を作ってもらったら、よろこんで後片付けもするし……いや、嘘は言うまい。よろこんではやらない。それでも、掃除だって洗濯だって、なんだってやる。やりますとも。ええ、やりますよ。

 話が微妙にそれたな(苦笑)。まあ、そんなわけで、もんじゃ焼きの店に行かねばならなくなった。女性の望みをかなえるのがぼくの運命であり宿命であり……って、いいかげんしつこいから、話を先に進めよう。

 店に着いて、ぼくは当然の権利として、お好み焼きを注文した。まず、そのお好み焼きが来たのだが……予想された通り、それはまだ、お好み焼きではなかった。生の野菜と肉が、えたいの知れないドロリと白濁した液体の上に乗っている状態だった。

 これをどうするべきか?

 と、えたいの知れない液体を眺めていてもしかたないので、まずは攪拌してみた。ここまでは、ぼくにだってできる。つぎに、それを鉄板の上にドロッと乗せた。そのとたん、彼女がビックリした顔でいったのだ。

「まだ鉄板熱くなってないよ! それに油も引いてないじゃない!」
「そ、そうか。そういうものなのか……哲学的だな」
 ぼくは、おどおどした声で答えた。
「もしかして、お好み焼きって焼いたことないの?」
 彼女が怪訝そうに聞いた。
「あるとも!」
 ぼくは、胸を張った。
「自慢じゃないが、うまく焼けたことは一度もない。すごいだろ?」
「ホントに自慢じゃないよぉ〜」
 彼女は、呆れていいのか哀れんでいいのかよくわからないという顔だった。

 その後、お好み焼きになる前のジェル状の物体を、油を引いた方に、なんとかうまく移し、彼女に監督されながら焼いてみた。このときはじめて知ったのだが、お好み焼きになる前のジェル状の物体は、ピザのように平べったくしてはいけないらしい。いわれてみれば、厚みがないとおいしくないよな。

 さあ、みなさん。それで、お好み焼きがどうなったのか?

 なんと! ぼくは生まれてはじめて、お好み焼きをうまくひっくり返すことに成功したのだ! 彼女が拍手をして絶賛してくれたことはいうまでもない。

 ああ、心優しい読者のみなさんも、いま拍手をしながら、これを読んでくれていることだろう。ありがとう。ぼくは少しばかり人間として成長したらしいよ。だれだ、呆れた顔で読んでる人は?

 いや、なにが言いたいかというとだね、べつにデートでのノロケ話をしたいわけじゃなくて、だれにだって愛すべき奇行や、ほほ笑ましい無知の、ひとつや二つあるってことなんだよ。

 そこで本題に入ろう。世の中には、愛らしくも、ほほ笑ましくもない無知がある。今回はその話をしたいと思う。

 どうも最近、天文学づいているから、占星術からはじめよう。占星術の歴史はきわめて古く、人類最古の文明であるシュメール人が残した粘土版にも、きわめて素朴な占星術の方法が残っている。

 しかし、もっとも発展したのは、古代ギリシア時代だろう。彼らは惑星を神格化した。アフロディーテは美の女神であり、ゆえに金星の影響下に生まれた人間は、美を愛し情感豊かな人になるそうだ。水星はその動きを予測することが難しく、「知性がありすばやく動くもの」と思われた。ギリシア神話においてそのような存在は、ヘルメスだと想像されたから、水星は人々の頭をよくするわけだ。ヘルメスは泥棒の神さまでもあるから、水星の影響下に生まれた人は泥棒になるはずだが、なぜかそういう話はあまり聞かない。

 これらに、なんの科学的根拠もないのは、みなさんもよくおわかりだと思う。それがわかっていないのは、占星術師だけだ。

 じつは、数年前のことなのだけど、ある雑誌の仕事で、主に女性誌などで活躍する、著名な占星術師を取材をしたことがある。彼はいった。占星術は、数千年の歴史の中で、実践的かつ科学的な観測のもとに体系づけられた、立派な科学なのだと。

 もちろん、そのときのぼくは、彼に反論が許される立場にはなく、嘘八百を一時間近くしゃべり続ける彼を、じっと黙って見ているしかなかった。まあ、五分くらいは彼の写真も撮ったので、耐えがたい一時間を耐えた当然の報酬を出版社に要求して、それが要求どおり振り込まれたので、まあ総体として不満はない。

 しかし、ぼくはあのとき、もしも反論が許される立場にあったなら、彼にケプラーの第三法則を知っているか聞いてみたことだろう。もしも知っていると答えたら、紙とペンを渡して、惑星の軌道を計算させたことだろう。残念ながら、それは行われなかったが、それでも断言できる。彼には計算ができなかったはずだ。なにやら、あやしげな記号の書かれた円盤を適当に回して、適当な記号と適当な記号を組み合わせて、適当な話をでっちあげることしかできなかったはずだ。占星術を科学だと偽る彼には。

 いまの占星術はおおむね、紀元150年ごろの、プトレマイオスの影響を受けている。プトレマイオスは天文学者ではあるが、同時に占星術師に近く、後の世に(本当の天文学者にさえ)多大な影響を与えたのだから、それはまあ、当然のことだろう。しかし、天文学は新しい理論を受け入れることで発展してきたが、占星術師は、新しい理論を拒むことで発展してきた。この違いは、それこそ天と地よりも大きい。

 そのことを示すいい例が、星座の位置だ。今回は詳しく説明しないが、地球は自転軸をゆっくり揺らしながら回転しているので、いまから2000年以上前に、ヒッパルコスが星座を定めてから、いまの星座の位置は、まるまる一つぶんくらいズレている。(星座の形は、ほとんどズレていないが)

 もちろん、天文学はニュートンが天の軸の揺れの理由を説明してから(カッシーニが反論したので、その後1世紀ほど論争があったが、けっきょくニュートンが正しいことが判明した)、ただちに、その新しい理論を受け入れた。ところが占星術師たちは、2000年前のまま、頑固に時間が停止しているから、いまも、現在の星座とは違った位置の星座で占いを行っているらしい。これに対して、ある著名な占星術師は、こう答えたそうだ。

「現在の星座は、2000年前に、位置が正しかった時期の影響を記憶しており、ゆえに、その記憶が優先される」

 ほーう。それでは聞くが、2000年前の星座は、さらに2000年前の記憶はとどめていないのかね? と、良識ある人間なら占星術師に聞くことだろう。じっさい聞いた人がいた。しかし占星術師は、けっしてそれを説明しようとはしない。

 いまから三十年ほど前のことだが、大衆向け占星術の本で大儲けしたリンダ・グッドマンは、誇らしげにこういったものである。

「科学にもいろいろありますが、占星術だけは何世紀も続いておりまして、その間一度も内容を変えていないのです。占星術は真理を語るものです。そして真理は永遠不変のものです。ですから、占星術が不変なのも、なんら驚くべきことではありません」

 いや、十分に驚くべきだよ、リンダ。あなたの無知を。

 いいかいリンダ。あなたがたの占星術には、地球以外の、太陽系の天体が7つしかない。なにしろ、2000年前は、天王星も海王星も冥王星も発見されていなかったのだからね。しかし、いまわれわれは、2000年前には存在しなかった惑星を、疑問の余地なく観測することができる。なのに、あなたがたの言う「真理」とやらは、それを無視して占いをやっていたのかね?

 こういう問いが、リンダ・グッドマンにされたのは当然だ。それに対してリンダはこう答えたそうだ。

「それらの新しい惑星は、発見されるまで占星術的影響を及ぼしていなかったので問題はありません」

 呆れて開いた口がふさがらないとはこのことだ。まじめな顔でそんなこと言って、恥ずかしくないのかね?

 ところがリンダは、さらに先に進んだ。よせばいいのに、占星術が真理であろうことを世に知らしめるために、太陽系には、まだ発見されていない惑星があると主張したのだ。これは明らかに、今後発見されるかもしれない惑星が発見されたとき、「ほら、占星術は、ちゃんとそのことを知っていたわよ」と、主張したいがためだ。

 気持ちはわかるがねリンダ。しょせん、あなたは無知だった。その発見されるかもしれない惑星を「ヴァルカン」だと言ったのだから。

 ヴァルカンは、水星の奇妙な軌道を説明するために、19世紀に予想された惑星だった。そんなものはこの世に存在せず、アインシュタインが、一般相対性理論によって水星の軌道を説明したのだが……

 残念というか当然というか、リンダには、アインシュタインの理論はほんの少しも理解できないらしい。それにしたって、善良な天文学者が、とっくのむかしに捨て去ったヴァルカンを何十年もたってから持ち出す当たり、驚くべき無知を、恥ずかしげもなくさらしていることすら理解できない、途方もない無知を証明しているだけなのだ。

 アインシュタインは、もしも自分の理論の正しさが証明されなかったらどうしていたかと、記者に問われたとき、こう答えた。

「正しくない理論によって、宇宙を創造した神を気の毒に思ったことだろう」

 では、同じ質問をリンダにしたらなんと答えただろうか。ぼくは、おそらくこう答えたんじゃないかと思う。

「占星術の真理を理解できないあなたがたを、気の毒に思いますよ」

 まあ、そうなのだと思う。こんな文章を書いているぼくには、本来の仕事が延滞するという不利益しかないのだけど(それを不利益とは思わないが)、極めつけの無知を誇るリンダが、占星術の本で金持ちになったのだから、彼女は真理を知っていたのだ。大衆をだませば、手っとり早く金が儲かるという真理を。

 話題を変えよう。

 古代ギリシア時代のように、多少なりとも自由な発言が許された時代でも、神が宇宙の管理者であるという観念にゆるぎはなかった。となれば、その後、聖書という書物が書かれ、キリスト教が西洋文明の精神を支配するような観念に成長した時代には、いよいよ神は宇宙の管理者として、絶大な力を持つに及んだ。

 コペルニクスやガリレオが、果敢に宇宙の支配者に挑戦して、どうやら地球は宇宙の中心ではないと思われるようになっても、まだ、人間そのものについては、神の影響力が弱まることはなかった。

 ついに、神のもっとも神聖な領域に踏み込んだのは、イギリスの生物学者チャールズ・ロバート・ダーウィンだった。ここで、彼の行った探検や主張について、細かく説明するつもりはないが、ダーウィンが開拓した進化論というアプローチに、致命的な欠陥があるとは思えない。時は流れて、21世紀の現在。定説となっている説にすら、まだ疑問点がいくつかあり、将来なんらかの修正が必要なのは認めるのにやぶさかではないが、たとえそうだとして、ぼくが、人間は神さまに作られたという主張に戻ることはないだろう。

 しかし、一部の人間にとっては違う。たとえ、科学がどれだけ発達しても、信仰という名の宗教の価値が、少しも半減するわけではないのに(なぜ、それに気づかない者がいるのか不思議でならないが)、進化論など、できることなら、ねじ伏せてたたき壊して、永遠にこの世から消し去ってしまいたいらしい。

 そんな彼らの中には、どういうわけか「科学」を利用して、進化論を消そうとする者がいる。ぼくが知る中で、傑作的に無知なのが、熱力学の第二法則を引き合いに出した議論だ。こいつはおもしろいですぜダンナ。簡単に表現すると、彼らの主張はこうだ。

「進化という概念は、熱力学の第二法則に違反する」

 おやまあ。ずいぶんな言われようじゃないか……これほどひどいと、ぼくの捏造だと思われるかもしれないので申し上げておくが、この主張は、SF作家で科学の解説者でもあったアイザック・アシモフが進化論に関するエッセイを書いたときに、アシモフに反論する投書の中にあったそうだ。

 もっとも、それはずっとむかしのことだから(三十年はたっているだろう)、いまこのエッセイを読んでいるみなさんは、おそらく、ぼくと同じように、苦笑するしかないだろうが……

 もしかして、もしかしたら、21世紀に入ってさえ、まだ似たような主張をする人がいたら憂慮すべき事態なので(Script1の読者には、そのような人はいないと断言できるが)、アシモフの論議の焼き直しという批判を受けるのを覚悟のうえで、説明させていただきたい。

 熱力学は三つの法則からなっているが、主に、第一と第二の法則が中心だ。この二つの法則を発見したのは、ポーランド生まれのドイツの物理学者、ルドルフ・ジュリアス・エマニュエル・クラウジウスだった。彼は、1854年に発表した論文の中で、いまや一般名詞にもなっているエントロピーという言葉をはじめて使った。この言葉は、ギリシア語の trope (変化)に由来する。

 エントロピーというのは、なかなか難しい概念だ。こいつの意味を、正確に説明できる人は、21世紀になっても、たぶん少ないだろう。じつは、ぼくにもできないが、挑戦はしてみよう。

 まずもって熱力学の、三つの法則を簡単に説明すると、第一法則は、エネルギー保存の法則。第二法則が、エントロピー増大の原理について。第三法則は、絶対エントロピーの定義で、簡単に言えば、絶対零度よりも低い温度はありえないってこと。

 さて、いよいよエントロピーだ。思い切って、むちゃくちゃ簡単に「乱雑さ」と言ってしまおう。

 たとえば、あなたが新しい部屋に引っ越したとしよう。まだなにもない、きれいな部屋だ。ここに家具やなにやら運び込んで住みはじめたのはいいが、あなたがズボラで掃除をしない人だとしたら、部屋はどうなるか?

 おそらく、徐々に汚くなっていく。要するに「乱雑さ」が増大するわけだ。最後には人が住むには適さない場所になるだろう。

 この乱雑さを解消して、もとの秩序ある、きれいな部屋に戻すにはどうしたらいいのだろうか? 答えは簡単だ。あなたは、いやいやながら身体を動かし、汗をかいて部屋を掃除しなければならない。そうすることによって、あなたの部屋は「乱雑さ」が減少し、秩序を取り戻す。

 これが熱力学の第二法則の言わんとするところであって、エントロピーという概念の、ごくごく簡単な説明にもなっている。部屋を汚すために(つまりエントロピーを増大させるためにも)、あなたの使ったエネルギーを無視する必要があるので、エレガントな説明でないことはたしかだが。

 ここで進化論に戻ろう。

 進化論の反対者は、「進化という概念は、熱力学の第二法則に違反する」と言った。熱力学の第二法則は、乱雑さが増大すると言っているわけだから、この主張は、一見正しそうに聞こえる。

 つまり反対者は、物事は「乱雑さ」に向かって流れるのだから、生物という、高度に秩序ある物体が、なにものも作用しない環境で出来上がるわけはない。熱力学の第二法則を破れるような存在は「神」しかいない。ゆえに「神」は存在すると主張する。

 この反対者の無知を、笑うべきか悲しむべきか悩むね。反対者が言う通り、なにものも作用しなければ、生物は生まれない。しかし、地球は、外部からなんらかの作用がまったく及ばない閉じた系ではないのだ。空を見上げてみたまえ。輝く太陽があるではないか。太陽は、さんさんとエネルギーを降り注ぎ続けている。部屋を整理整頓するために、あなたが汗を流したのと同じだ。太陽は、乱雑さを秩序へと押し上げたのだ。

 このように説明しても、まだ反対者が納得しないならば、冷蔵庫を例にあげることもできる。冷たい水の入ったコップを、室温20度の部屋に置いておけば、それは徐々にぬるくなって、いつか室温と同じになる。「冷たい」という秩序は失われ、つまり、エントロピーは増大するわけだ。

 しかし冷蔵庫の中は、いつまでたっても冷たいままではないか。反対者がもしも、太陽のエネルギーを認めないのならば、冷蔵庫に供給される電気も認めるわけにはいかないだろう。その電力を生み出す発電所もだ。ゆえに人間は「神と同じ力を持ち得た」と解釈しなければならない。ああ、人間とはなんと罰当たりだろう。神の力を、冷蔵庫ごときに使うとは!

 これで、反対者も黙り込むだろう。ざまぁみろ。

 しかし、こんなのは、まだまだ序の口だ。フランスの生物物理学者、ピエール・ルコント・ドゥ・ニュイは、1947年にもっと知的な方法で科学に反旗を翻した。

 彼は典型的な蛋白分子を構成するさまざまな原子が、偶然だけによって適切な配列になる確率を計算して、それがきわめて小さいことを示した。彼の計算によると、この宇宙の寿命がどれほど長くても、蛋白分子が、偶然にできることはありえないと結論した。ゆえに、神は存在する。

 以前、同じことをエッセイで書いた気がするが、ルコントは明らかに間違っている。まったくの偶然によって蛋白分子ができることはないのだ。それらには「結合できる配列」が決まっているので、ざっくばらんにいえば、宇宙どころか、人間の寿命でも十分すぎるほどの時間のうちに、蛋白分子ができるのである。

 それを証明したのは、ルコントが自説を発表してから8年後だった。アメリカの科学者、スタンリー・ロイド・ミラーは、原始の大気に存在しただろう単純な物質をフラスコの中に入れて、そこに電気エネルギーを通し、たった一週間で、蛋白分子に含まれるアミノ酸の二つを作って見せた。

 まあ、それらが、生物にとって有用な蛋白分子をすぐに作るとは言わないが、心配することはない。十億年も時間があれば、有用な蛋白分子を選ぶ時間はたっぷりあるのだ。

 ところが、反対者はまだあきらめなかった。1974年に、ルコントよりもっと強力な論理を駆使する者が現れた(ごめん。調べたけど、名前がわからなかった)。

 その反対者は、DNAに目をつけた。彼は、明らかにミラーの実験を知っており、まず手始めとして、誠実な態度で、原始の地球の海には、非常に複雑な化合物が満ちあふれていたことを認めた。

 ふむふむ。それで?

 しかるに彼は、それらの化合物が、どれほど速やかに結合して新しい化合物を作るのだとしても、われわれの知るDNAと認識されるような分子のただの一個も、偶然には作られることがないと主張した。ゆえに「神は存在する」のだそうだ。

 わぉ。こりゃすごい。難しいこと言うじゃないか。ちなみに、アミノ酸からDNAは作れない。ヌクレオチドが必要だ。ここでは、ヌクレオチドが少しばかり複雑なブロックになった、トリヌクレオチドからはじめると仮定しよう。すると、ルコントのときのように、トリヌクレオチドは、ある決まった配列にしか結合できないのだと言って、この反対者を黙らせることができるだろうか。

 できないんだなこれが。RNAには触媒作用が発見されたのだけど、そういった作用が、いま論じている初期のステップにも、積極的に関係していた証拠はないから、いまのところ、われわれが論破すべき反対者は、正しい確率を計算したと、素直に認めるほうがよさそうだ。だとすると、おそらく、宇宙の寿命どころか、宇宙があと、何兆年存在していようとも、われわれを構成するDNAが、偶然によって選択的に作られる可能性は、かぎりなくゼロに近い。

 では、なぜ人間は存在しているのか? 偶然という可能性を排除してしまったいま、われわれは神の存在を認めるべきなのか?

 まさか。認めないとも。反対者は大変な間違いをしでかしているのだ。

 そもそも、なんで作られるべきDNAが、「われわれの知るDNA」でなければならないのか。おっしゃるとおり、偶然によって「われわれの知るDNA」が選択的に作られることはないが、それでもトリヌクレオチドは、さまざまな形に結合を繰り返しているのだ。つまり、「われわれの知らないDNA」が、常に作られ続けているといえる。

 その「われわれの知らないDNA」では、なぜいけないのか? 「われわれの知らないDNA」が、すべて無益だとなぜ言えるのか? どこか遠くにある惑星に、「われわれの知らないDNA」でできた生物がいては、なぜいけないのか?

 この考え方は、将来、遺伝子の触媒作用など、高度なプログラム性がもっと詳しく解明されても有効だと思う。もし仮に、「われわれの知るDNA」が持つ触媒作用が、生命の誕生に必須だったとしても、「われわれの知らないDNA」が、同様の機能を持っていてはいけない理由はないはずだ。

 つまり、反対者は暗黙のうちに「人間」が、宇宙で唯一の存在だという願望を、自分の理論の中に刷り込んでしまっていたのだ。他者を認める寛容性がまるでない。彼にとっては、バルカン人も、クリンゴン人も存在してはいけないのだ。たまたまた、人間以外の知的生命体を知らないという理由だけで。

 この反対者の論理を逆手にとれば、もしも宇宙に生命が満ちあふれているのだとすれば、それは、われわれの想像を、はるかに超える多様性に満ちているだろうと言うことができる。このちっぽけな地球を見たってわかるじゃないか。なんと多様な生物に満ちあふれていることか(それでも、先祖が同じだから、かなりDNAは似ているんだぜ)。

 ここまで読んで、ぼくが宗教(とくにキリスト教)について否定的な考えを持っていると思った人に申し上げておきたい。ときに信仰心は、悲しい結果をもたらすこともあるが、総体としてそれは、人間の生きる支えであることを否定するつもりは、まったく、これっぽっちもない。

 あえて告白しよう。いまよりほんの少し若かった、青春初期のある時期、ぼくは長い時間をかけて聖書を通読したことがある。キリスト教圏の歴史を理解する上で避けて通れなかったと言ってしまえばそれまでだけど、いくつかの寓話は、いまもぼくの心に深く刻まれているのは事実だ。まあ、細かい部分は、ほとんど忘れてしまったけれども……いまも、手を伸ばせばすぐ届くところに聖書が置いてある。

 そのせいで、このエッセイでは、とくにキリスト教だけを攻撃しているような印象を持たれたのならば、心からお詫びを申し上げたい。

 というわけで、ストレス発散……じゃなくて、今回のエッセイはおわり。


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