マトリックス



 ここで言う「マトリックス」とは数学的な意味ではなくて、キアヌ・リーブス主演の映画のことなので、みなさん、どうかご安心を(笑)。

 さて、ついに三部作が完結したマトリックス。さっそく最終話であるレボリューションズを見てきたので、その感想を書きたいと思う。いままで映画の感想に、一つのエッセイをすべて使うことは稀なので、ぼくの、とってもお気に入りの映画なんだなと思ったあなたには申し訳ないが、じつはその逆なんだ。

 ところで、二つお断りを申し上げておきたい。まず、マトリックスをまだ見ていなくて、これから見ようと思っているあなたは、このエッセイをお読みにならないほうがいいと思う。ネタバレも書くだろうし。

 もう一つは、お断りというより忠告なんだけど、マトリックス三部作が大好きな人も、このエッセイを読むべきではない。とくに、マトリックスをけなされて殺意を感じるほどなら、絶対に読まないでほしい。たぶん、あなたはぼくを殺したくなるだろう。

 となると、このエッセイは、マトリックスを見るつもりもなく、また見たとしてもつまらない映画だったと思った人が対象なわけで……まあいいか。そういう人も、きっといるさ。

 でははじめよう。

 この映画で言う「マトリックス」とは、仮想世界のことで、現実だと思っていた世界が、じつは、マシン(機械)によって、人間に与えられた仮想世界だったという世界設定になっている。人間は、カプセルの中に入っていて、じつはみんな眠っているんだよ。で、キアヌ演じるネオがそのことに気づき(いや、気づかされ)、マシンの管理するカプセルから救出されて、現実世界の人間たちの仲間になる。

 というのが、まあ第一作の大雑把なストーリーだ。

 まず、マトリックスの第一作目を見たとき、「壮大な失敗」と感じた。キアヌはかっこカッコいいし、ヒロインのキャリー・アン・モスもいかしてる。ローレンス・フィッシュバーンも、文句はない。特筆すべきは、その衣装だ。ホントにみんなカッコいい。映像も漫画的といってしまえばそれまでだけど、十分に斬新だった。

 ところがだ。マシンが人間を管理しているというのが気に入らない。ローレンス・フィッシュバーンが演じるモーフィアスが、重々しく登場し(この登場の仕方がまたカッコいいのだが)、なんだか哲学的なことをぼそぼそしゃべるもんだから(いや、そのセリフがまたカッコいいのだ)、どんな謎が隠されているのかと、ドキドキしながら見ていると、マシンが、人間の出す、なんとかエネルギーを吸収するために、人間を生きたまま、カプセルの中で眠らせている謎が明らかになる。しかも、ネオはマトリックスから人々を救う救世主だったのだ。

 ああ、もう、なんじゃそりゃ。ってなもんだ。SF好きをバカにすんな。そういうアイデアをまったく知らない人が見たら、まあ、斬新かと思うかもしれないが、そんなもん、とっくのむかしに小説になってて、目新しくもなんともない。いや、そこまではまだいい。許す。許せないのは、人間の出す、なんとかエネルギーが、マシンに必要だとかなんとかいう、こじつけだ。そんなもん、無理やり理由なんかつけないで、謎のままにしといたほうが、百万倍もマシだぜ。なあ、そう思うだろモーフィアス?

 その点で、ブレードランナーは、文句のつけようがない映画だった。原作はフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」だから、ストーリーに文句はない。それに加えて、ディックの世界観を、あれほどすばらしい映像で見せられては、自分の想像力が貧困であったとさえ反省してしまう。あれこそまさに、ディックの世界だろうと思ってしまうのだ。だから、その後作られた、ディックの原作の映画化が(ポール・バーホーベン監督のトータルリコール)、陳腐に見える。

 また、ウィリアム・ギブスンの原作、「記憶屋ジョニー」を映画化した「JM」も悪くはない。こちらは脚本もギブスンが書いてるから、よけいそう思うのかもしれないが、重々しい原作の雰囲気が壊れていない。主演は、偶然にも、キアヌ・リーブスだ。

 マトリックスも、これら、ぼくのお気に入りSF映画の一つになる可能性は十分にあった。とくにはじまってから30分は、そうなることを疑わないほど期待した。これはすばらしい映画かもしれないぞと。

 ところが、さっき話したマトリックスの謎が明かされると、あまりの陳腐さに、幻滅してしまったのだ。なんだこれは? オレはウォシャウスキー兄弟(脚本/監督/製作総指揮)に、バカにされているのか? こんなストーリーで喜ぶシロウトだと?

 いや……そんな陳腐なアイデアのSF映画はいくらでもある。なのに、マトリックスに関しては、そう思う度合いが強い。あまりにも荘厳に、謎を謎らしく隠されていたためだろう。だったら、謎のままのほうがよかった。(それはそれで文句を言っただろうから、結果論だけど)

 かなり酷評したけれど、それでも、この映画はカッコいいと思う。スタイリッシュだ。いままでにない映画スタイルかもしれない。お気に入りとまでは言わないけど、まあ駄作とまでは言わないでおこう。

 そこで、第二作目のリローデッドが公開された。

 この二作目を見て確信した。この映画は、まさに「スタイル」が命なのだと。逆に言えば、それしかない。よく「形から入る」というのがあるけど、この映画もそうで、さらに形だけで終わっている。だからもう、ストーリーのことは忘れよう。派手なアクション(マトリックス・スタイルと呼べる独特のものだ)と、モーフィアスの(じつは内容は無意味だが)カッコいいセリフに、単純に陶酔しよう。それができる人だけ、この映画を好きになれるだろう。ぼくは、ちょっとだけできた(笑)。

 とくに、絶望的な作戦を行おうとしているモーフィアスが、参加を渋る仲間に言うセリフがいい。「I'm believe……」と話し始めるところなんか、ちょっと痺れますぜ。達観しているというか、その揺るぎない信念に、ぐっとくる。彼は、仲間を無理に説得なんかしない。モーフィアスの言葉を借りるなら、それは「選択」なんだ。淡々と自分自身に語りかけるような演技もすばらしい。このシーンを見るためだけに、ビデオを借りてこようかと思うぐらいだ。(あのシーンのセリフをすべて書き出して、今後の小説技法のために分析したいから、じっさい借りてくると思う)

 それでも、第二作は退屈だった。いくら売りとはいえ、アクションシーンが長すぎるし、ネオとヒロインのトリニティの恋は燃え上がらない。登場人物も一気に増えて、すべてのキャラを記憶しているのが困難だ。とくに、あのフランス人はなんだ? いや、存在の意味を解説してくれとは言わない。謎のままでもいいさ。ただ、存在理由がないという欠陥を除けば。フランス人の奥さんに至っては、もっと存在理由がない。ただ「謎の美女」を登場させたかったにすぎなかったのだろう。

 しかし、その手の不満は、じつは許せる。謎の美女は大好きだ。二作目の最大かつ許しがたい不満は、現実世界の人間が暮らす「ザイオン」という場所が明かされことだろう。

 ザイオンには、さまざまな人種が暮らしている。彼らの食料は、どうやって供給しているのか、マシンと戦うために、高度なマシン(兵器)に囲まれているが、兵器を作るための機材や弾薬はどこで手に入れているのか……等々の細かいことを言うつもりはまったくない。安心してくれていい。ぼくはそんな無粋ではないんだよ。

 しかし、しかしだ! こいつら、原始人みたいなんだよ、基本的に!

 監督の気持ちはわかる。マシンとの対比で、人間を人間的(いや、動物的?)に描きたかったんだろう。よく言えば生命の躍動だ。

 だからって、よくも恥ずかしくもなく、あんなダサいシーンを撮影できたもんだ。なぜ、そうまでして人間を人間として描写したいんだ。あのカッコいいモーフィアスに、腰蓑(こしみの)みたいな、原始人のカッコさせなくてもいいじゃないか。マトリックスという映画の良さは、スタイリッシュのほかに、哲学的な難解さじゃないのか? なんて言うと皮肉に聞こえそうだけど、たしかにそういう部分はあるはずだ。腰蓑巻いた人間が、人間らしく見えるというなら、それは単なるステレオタイプだと主張したい。安易だ。あまりにも。マトリックスに潜入するときは、みんな革のコートとか、エナメルのジャケットとか着てるのに、なんでザイオンでは腰蓑なんだ? 破れたセーターなんだ? 汚れたズボンなんだ? やめてくれよ、ホントに。

 なに? それこそ、現実世界と仮想世界の対比?

 ああそう。じゃあ、百歩譲って、ザイオンの住民がそうなのだと許そう。それでも頼むから、モーフィアスだけは原始人にしないでくれと叫びたい。革のコートを着たローレンス・フィッシュバーンは最高にカッコいいが、腰蓑を巻いたローレンス・フィッシュバーンも、それなりに似合ってしまうから、かえって苦笑するしかない。

 ところで、ここでも謎がまた明かされる。救世主であったネオは、じつはマトリックスのアーキテクト(設計者?)によって作り出されたひとつのコントロール・システムにすぎなかったんだ。

 このアーキテクトというのが、これまた謎で、こいつが何者なのかを詳しく説明しないところはよかった。

 さてさて。こうして迎えた第三作目。レボリューションズ。まず最初に言っておくと、二作目で謎だったアーキテクトや、マトリックスの世界でモーフィアスが信じている「予言者」の謎まで、一気に明かされると危惧していたのが、いい意味で裏切られたのにはホッとした。彼らは(予言者は黒人のバアさんだが)シリーズが完結しても、いまいち謎の存在だ。こいつらに納得できる説明が加えられたら、それこそ駄作になっていただろう。(ちなみに、予言者のバアさまは、グロリア・フォスターが演じていたが、撮影中に亡くなってしまったので、メアリー・アリスに代わった)

 それでも、残念ながら、最終話である三作目こそ、最大の駄作だと思う、ぼくの考えに変わりはない。マシンと人間の対決という構図に、「プログラム」も加わって、三つ巴の戦いが繰り広げられるから、ややこしくて大変だ。

 二作目でキャラも増えているから、さらにややこしい。ナイオビ(ジャダ・ピンケット・スミス)が再登場したときは、あんただれだっけ? と思わず思ってしまったが、そういえば、第二作で、モーフィアスと密かな恋愛関係にありそうな雰囲気だったなと思い出しつつ見ていると、おやおや、ナイオビさんたら、カッコいいじゃないですか。この人、天才的な船の操縦者で、ちょっとケイン(拙作の小説の天才パイロット)を思い浮かべてしまった。ナイオビが女性なのもいいね。そうなんだ。部分的にはカッコいいし、たまにはドキドキもさせられる。

 それに比例して、モーフィアスがただのオッサンに成り下がったのにはまいった。彼はザイオンにいると、本当に精彩を欠く。船の操作でもたついていると、ナイオビに叱られて、「I'm try!」(字幕では「やってるよ!」)なんて答えるどんくささ。二作目の最後で、その信念が揺らぐシーンがあるのだけど、それも含めて、レボリューションズのモーフィアスは、ただのオッサンだ。あんたが信念を忘れてどうする。マトリックスだろうがザイオンだろうが、あなたは苦虫をかみ殺したような顔の哲学者であり続けてほしかった。かたくなに。そうでなければモーフィアスの価値はない。

 かといって、情けないオッサンになったモーフィアスを人間的な弱さを持つキャラと認めても、ナイオビとの恋がなにか進展するわけではない。

 前作から不完全燃焼中のネオとトリニティの恋も、まったく不完全燃焼のまま終わる。ぼくには、まったく考えられない展開だ。なぜ、もっと彼らの人間関係に焦点を当てないのか? 大仰な世界設定に酔っているばかりで、ストーリーの定番を無視しすぎだ。ここまでくると、スタイリッシュさにもうんざりしてくる。

 たとえばだ。ネオが仮想世界と現実世界の狭間に捕らえられているところから第三作ははじまるのだが、そのネオを救い出すところが気に入らない。トリニティをもっと全面に出して、ものすごく苦労させるべきだ。そして、世界の狭間から出られないネオと、なにかテレパシーみたいなので、交信だけはできて、トリニティがあまりの苦しさに負けそうになるところを、ネオが励ますとかさ、なんか、やりようがあっただろう。なにも、カッコつけるばかりが能じゃないぜ。だから、ネオとトリニティが、最後の戦いに出かけるところも、ぜんぜん、まったく盛り上がらない。音楽だけは荘厳だけど、それだけだ。

 ザイオンの連中も、まあ人間的によく戦ってはいるが、その映像は、ジェームズ・キャメロン監督が、エイリアン2でやった手法そのままで、見てるとあくびが出てくる。襲いかかるエイリアンと戦う人間たちのほうがハラハラドキドキ。ずっと、はるかにおもしろかった。イカ型のロボット(エイリアンのように、無限とも思える数が出てくるわけだよ)と戦うザイオンの人たちは、こう言っては失礼だが、悲壮感を無理やり高めて、お涙ちょうだいとやってるだけなんだ。ドキドキもハラハラもしない。この人死ぬんだろうなと思うだけ。

 そして、物語はラストに近づき、ネオの直接の敵、エージェント・スミスとの戦いが待っている。いいかげん、この二人の戦いは見飽きたので、舞台に雨を降らせたぐらいでは、新鮮さはまったくない。マンネリという言葉がもっともふさわしい。

 このレボリューションズでは、アーキテクトの作ったシステムにすぎないはずのネオが、本当の救世主に変貌する姿が描かれているのだけど、いかにもキリスト教的展開で、その最後はイエスキリストを連想するようになっている。しかし、自分を犠牲にすることを選択しなければならないネオの心の葛藤は描かれない。ああごめん、ちょっとだけあったかもしれない。30秒くらい。とにかく心理描写は、涙が出るほどおざなりだ。最後の戦いに出かけるとき、トリニティが「あなたの顔を見たらわかった」とか言ってたけど……そうじゃないだろうよ。一緒に悩んで、一緒に選択してくれよ。犠牲になることをさ。どうして、そういうところで盛り上げないかね。ウォシャウスキー兄弟も、ぼくと変わらない凡人だったんだなと、安心はするけど。(いや、ぼくのほうがずっと平凡だろう。この映画の良さがわからないんだから)

 レボリューションズが日本で公開されるときの(50ヶ国、同日同時刻公開なんだそうだ)イベントに、キアヌ・リーブスが来た。そこで彼はこう言った。

「ほかの国では『意味がわからない』と言われるのに、日本人はアクションや人間関係、映像美まですべてを愛してくれる。こんな国はほかにはないよ」

 まあ、そうかもしれないし、キアヌが言いたいことの意味もわかるが……映画館で、となりにカップルが座っていたのだけど、女の子のほうは、途中で寝ちゃったらしいよ。あの大騒音でよく寝られるもんだが、それほど、つまらないと感じた日本人もいることを、どうかお忘れなく。

 さてと。マトリックス大好きな人は、このエッセイを読まなかっただろうね? もしも最初の忠告を無視して、このエッセイを読むことを「選択」してしまったあなたに申し上げておきたい。マトリックスに文句はたくさんあるが、この映画が好きなあなたの趣味に文句はない。まったく、これっぽっちも。本当だよ。


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