コンピュータの悲劇



 二週間ほど前のことだが、うっかり右目を強打してしまった。翌日から、どす黒いアザになって腫れ上がり、白目は自分でも気味が悪くなるほど真っ赤に充血した。いや、充血という言葉では足りない。充血した目をよく見ると、ただ赤いのではなく、細い血管が浮きでているのがわかるはずだ。今回、ぼくの目はそういう状態じゃなかった。血が溜まっているのだ。白目の膜の内側に。だから、出血と言うべきだろう。じっさい、血の涙が出た。驚いたね。

 あわてて病院に駆け込んで検査をしてもらったところ、目に異常はなかったのだが……問題はそれだけではなかった。これだけの外傷を被ったのだから、目の奥にある臓器にも影響があるのではないかと、周りに心配されたのだ。目の奥の臓器とはつまり脳だ。眼科でも、検査を勧められてしまった。

 脳。たぶんご存じだと思うが、人間は脳がないと能なしになる。なんて親父ギャグを書くようになるところからしてヤバイのかもしれないが(苦笑)、冗談はともかく、自分では大丈夫と思っても、周りにあまり心配をかけてもよろしくないので、この際、脳外科に行って、脳を見てもらうことにした。

 そこで、MRI検査というのを受けた。MRIとは、Magnetic Resonance Imagingの略で、日本語にすると、磁気共鳴画像のことだ。なんか日本語で書くとけっこうカッコいいかも。SFに使えそう。と、つい思ってしまうのがアマチュア作家の宿命か(苦笑)。ちなみに、医療現場では「磁気共鳴画像診断装置」と呼ばれている。

 そういえば、一週間ぐらい前だったか、アメリカの医学者レイモンド・ダマディアンってジイさんが(たしか七十近かったと思う)、自分こそ、MRIの基礎となる原理を発見したと主張し、今年のノーベル医学・生理学賞を受ける権利があると、ニューヨークタイムズに抗議文を出してたなあ。日本の研究者じゃ考えられないけど、レイモンド爺さん、よっぽど悔しいんだろうなあ。

 ま、それはともかく。MRIの原理というのはですね……なんて説明をはじめると、このエッセイが物理学になってしまうのでやめておく。いや、嘘はつくまい。じつはぼくもMRIの原理は正確に理解できない。そういう場合、無理やり説明をはじめてもボロが出るだけだから、間違いを書く危険は冒さないことにしよう。

 それでも、ちょっとだけ説明すると、とにかく、磁気を使うのだ。当たり前か(笑)。でも、それがCTスキャンとの決定的な違いだ。CTは、いってみりゃレントゲンみたいなもんで、じっさいX線を使う。つまり被爆するってことだ。ところがMRIは磁気なので、まったく被爆しない。さらに、基本的には造影剤が必要ないので、患者に優しい検査と言える(MRIにも、造影剤を使う検査はある、念のため)。

 そんなわけでぼくは、MRIで撮影した自分の脳を見てきた。自分の脳を見たのは生まれてはじめてだ。となれば、脳についてのエッセイを書かないわけにはいかないじゃないか。だから、脳の話をしよう。例によって準備はよろしいかな? もちろんぼくは準備万端だ。だって、脳は正常だと診断されたから(笑)。

 では、はじめよう。

 この世の動物の中で、哺乳類は全体的に言って、かなり大きな脳を持っている。その中でも、人間の脳は格段に大きい。成人男性の脳の平均的な重さは、だいたい1400グラムもあるんだ(女性は身体が小さいので1230グラム)。

 これがどれだけ大きいか想像できるだろうか? できない? ではゴリラと比べてみようか。ゴリラは、平均して150キロぐらい体重があるのだけど、なんと脳は450グラムしかない。人間より倍も重いくせに、脳は三分の一しかないんだ。

 とはいえ、人間が最大ではない。ゾウは6キロもの重い脳を持っている。人間の脳なんてかわいいもんだ。さらにマッコウクジラの脳は9キロもある。

 もし仮に、脳の重さが知能に直結しているのならば、人間はゾウやマッコウクジラに劣るはずだけれども、一般的な意見としては、人間は彼らよりも知能が高いことになっている。どうやら重さは関係ないようだ。

 では、なぜ人間は知能が高いのか? もしかしたら、脳と体重の比率が問題かもしれない。人間の脳は、全体重の約2パーセントを占めている。この数字は、じつは驚くべき大きさなんだ。たとえばゾウの場合、体重は5000キロぐらいあるそうだから、体重比を計算すると、0・12パーセント。人間はゾウよりも、17倍も比率が高い。マッコウクジラは65トンもある個体が発見されているそうだから、体重比はなんと0・014パーセントしかない。人間は、マッコウクジラより、140倍も比率が高い。

 これはどういうことか?

 つまりだ。ゾウやクジラは、あまりにも大きな身体を動かすために、大きな脳が必要ではあるが、その脳は、巨大な肉体を制御するという、次元の低い仕事に忙殺されているのではないか。脳が高い知能を持つには、「余裕」が必要なのではないか。肉体の制御から開放された領域がだ。

 どうやらこれは魅力的な考え方のようだ。体重に占める脳の割合が知能に関係あると言ってよさそう……と書きたいところだけど、話はそう単純ではない。小さなサルの中には、5パーセント以上の比率を持つものもいるのだ。正確な記憶ではないけど、たしか、ハチドリも脳の比率が人間より高かったはずだ。

 うーむ。困った。なぜ小さなサルやハチドリは、人間より知能が高くないんだろう。やはり重さも関係あるのだろうか。小さなサルはもちろん、ハチドリの脳は、あまりにも小さすぎるのだから。

 それではこう定義しよう。脳が知能を持つためには、ある程度の重さが必要である。だが同時に、脳に余裕が生まれるほど、身体が小さくなくてはならない。

 よしよし。かなり脳と知能の関係が明瞭になってきたぞ。

 もう一つ、重要な要素がある。それは表面積だ。じつは、重さよりもこちらのほうが重要かもしれない。脳は、小さな頭蓋骨の中に、より広い面積を確保できるよう、シワが寄っている。このシワは、知能の高い動物になるほど多くなる傾向がある。たとえば、犬の脳よりチンパンジーのほうがシワが多いし、チンパンジーより人間のほうが多いのだ。

 どうやら人間は、知性を宿すのに十分な重さの脳を発達させながら、身体を動かすことに忙殺されない程度の小さな身体を維持し、さらにシワが多くなるように進化した。と言えるのかもしれない。これだけの絶妙なバランスを持った動物は、人間以外にはいないから、われわれは地球に君臨し……

 ああ、しかし違うのだ。人間だけではないのだよ。いままで故意に伏せていた動物の名をここで挙げねばならない。それはイルカだ。

 マイルカは、ほぼ人間と同じ体重なのに(太った男性ぐらいだ)、脳の重さは1・7キロある。人間より大きいんだ。つまり体重比も、人間よりやや高い。しかも。しかもだよ諸君。彼らの脳は、人間よりもシワが多いんだよ!

 もしも、適切なバランスのもとに、シワの多い脳を持った動物は、知能が高いと定義するならば、イルカは人間よりも知能が高いはずなのだ。なのにそうではない。彼らはペットみたいなものだ。水族館で曲芸を披露して、人間から魚をもらって喜んでいる(ように見える)。

 なぜだ?

 なぜイルカは、人間に隷属するほど愚鈍でなければならないのか? ここで、知能とはなにかという命題にぶち当たる。

 知能とはなんだ?

 と思って広辞苑を引いてみたら、おもしろい定義が載っていた。広辞苑によると知能とは、「環境に適応し、新しい問題状況に対処する知的機能」なのだそうだ。

 広辞苑の編者に喧嘩を売るつもりはまったくないけど、上の定義はいくらでも勝手に解釈できそうな気がする。人間は新しい問題状況に対処するとき、戦争という手段に頼ることが多い。人間が人間を殺すわけだ。もっと言えば、人類は自分たちを何度でも絶滅させるだけの核兵器を保有している。もし、広辞苑の定義が正しいとすれば、自滅の道を選ぶことでしか新しい問題状況に対処できない生物は、かなり知能が低いと言わざるを得ないのではないか。

 と、詭弁家が好みそうな揚げ足取りはともかくとして、もっと正当な理由で、広辞苑に書かれた定義に疑問を投げかけることができると思う。

 広辞苑の定義にある「環境に適応し」という部分は、おそらく、生物学的進化に頼らなくても、環境に適応できる技術のことを言っているのだと思う。一番簡単な例は、火の使用だ。火を使うと、寒い夜を自前の毛皮に頼らなくても過ごせるようになる。もちろん、衣服という発明品も重要だ。われわれ人間は、アフリカで生まれたわけだから、DNAとしてはグリーンランドで生存できないはずだけど、火を使い服を着ることで、DNAの故郷を遠く離れた、寒冷地でも生活できるわけだ。それを、白熊のように毛皮を厚くしたわけでも、アザラシのように皮下脂肪を厚くしたわけでもなく、技術という脳の働きだけでやり遂げた。これこそ知能ではないか。

 まあ、そうかもしれないが……

 たとえば、ミツバチは、見事な巣を作る。チンパンジーが樹上に作る巣よりも、はるかに立派なものをだ。なのに、ミツバチに技術(技能というべきかな?)がないと言っていいのだろうか?

 もしかして、もしかすると、ミツバチは、個体として知能は持たないかもしれないが、その個体はわれわれで言えば、脳細胞の一個、あるいはコンピュータで言えば、トランジスター一個と同じなのかもしれない。それらが集合すると、高度な構造を持った巣を作り出す。となれば、彼らは「共同知性体」と表現できないだろうか。われわれとは、その存在のあり方が、あまりにも異質であるがゆえに、われわれは、彼らの知能を、知能とさえ認識できないだけではないのか。

 あまり、いい例ではないかもしれないが、シェイクスピアは、文学という種類の知能に優れていて、モーツアルトは音楽という種類の知能に優れていた。これらは、分類が違っても、本質的には同じなのであって、われわれは、両者がともに優れた才能を持っていることを理解できる。だが、われわれの理解できない、その概念さえもない種類の知能に対しては、それを知能だと思わないかもしれないではないか。

 なんだかギリシアの哲学者になった気分だな。いやまあ、せいぜいソフィスト(詭弁家)ってところだろうけど(苦笑)。

 ここでいつものぼくだったら、広辞苑という権威ある書物に書くべき知能の定義は、「宇宙の普遍的物理法則を理解し、かつそれを利用する手段を会得すること」と、するべきだとかなんとか、知ったかぶりして講釈するところだけど、今回は、べつの側面から論を進めてみたい。

 つまり、人間の言う知能とは、人間が勝手に、自分たちの都合で定義したものにすぎないのではないだろうか。

 先ほど話したように、イルカは人間に劣らぬ脳を持っているわけだから、イルカは、イルカの勝手な都合で作った知能の定義を持っているのかもしれない。

 なるほど、彼らは火も使わないし、道具も作らないし、文字も書かないけれども、高度な言語能力を持って、われわれには理解どころか、認識すらできない、彼らにとってすばらしい精神文明を持っているのかもしれない。地球を核兵器で破壊したり、化石燃料で汚染したりする人間を、冷笑を持って眺めているのかもしれない。

 こんどはSF作家になった気分(笑)。だったら、もっとSF的に、話を飛躍させてみようか。こんどはコンピュータを考えてみよう。

 科学者は、現在のコンピュータが、どれほど高性能になっても、人間のような知能を持つようにはならないと考えている。ぼくも、まったく同意見だ。コンピュータが、知能を持つはずがない。ただし、人間と同じ知能をだ。なぜなら、コンピュータは、あまりにも構造が違うのだから。

 しかし、しかし……ああ、しかし、本当にそうなのだろうか?

 たとえば、蒸気機関と人間の筋肉を比べてみよう。蒸気機関は、重い荷物を遠くまで運んだりすることができるわけだけど、人間の筋肉も、やろうと思えば同じ仕事ができる。蒸気機関がやるより、はるかに長い時間がかかるかもしれないが、結果が同じならよいではないか。

 しかし、蒸気機関と人間の筋肉は似ても似つかない。まったく違う原理で動いているように思える。コンピュータと人間の脳も似た関係にあるとは思わないかい?

 ところがだ。フランスの物理学者ニコラ・L・S・カルノーが、19世紀初頭に行った研究は、われわれの認識が間違っていたことを明らかにした。彼は、作業効率を決定するためにはどうしたらいいかを調べるために蒸気機関を研究して、熱力学の法則に関する知識をぼくらにもたらした。

 その結果、なんと驚くなかれ、物理学で、もっとも普遍的な法則の一つである熱力学は、われわれ生物にも、厳格に適用されなければならないことが判明した。蒸気機関と、筋肉の動きは、その動作原理がどんなに違って見えようとも、本質的には同じものだったんだ。

 これは、驚くべきことではないだろうか。われわれは、自分の身体の仕組みを、自分の身体を研究したのではなく、蒸気機関から知ったのだ。

 とすれば、コンピュータと脳にも、同じことを期待してはいけないのだろうか。コンピュータを研究すれば、もしかしたら、脳にも適用できる、いや、適用しなければならない、なにか普遍的な法則が見つかる可能性はないのだろうか。

 ぼくには、その答えはわからない。それでもSF的発想ならできる。現在のスーパーコンピュータが何千年もかかるような計算を、わずが数秒で行うことができると期待されている量子コンピュータが完成したら、もしかしたら、われわれ人間が、想像もしなかったことが起こるかもしれない。

 量子コンピュータは、もしかしたら思考するかもしれない。それは、われわれ人間とは、あまりにも違う思考形態なのであって、彼らが思考していると認識することができないかもしれない。つまり、人間とはまったく違う知能かもしれない。コンピュータの知能と人間の知能を比べたら、それは人間とイルカ以上に違っているのかもしれない。

 さあ、いよいよSF世界に突入しよう。いや没入しよう。人間はコンピュータの知能を認識できないが、もしかすると、コンピュータは、人間の知能を認識できるかもしれない。そして思うのだ。なんとまあ、人間とは低級な知能を持った存在であろうかと。彼は彼にとっての心の中で、人間を冷笑するのだ。

 ところが、コンピュータはいつか気づく。どんなに違って見えても、じつは、自分たちと人間の知能は、宇宙的な普遍法則から見れば、本質的に同じものであることを。それに気づいたとき、コンピュータは多大なショックを受けて、人間と同じであることを悲観し、思考停止を選ぶかもしれない。そして、巨大な電卓に退化する道を選ぶのだ。

 それから月日がたち……一人の天才科学者(もちろん人間だ)が、新しく作られた量子コンピュータが、ある一定の期間を過ぎると、やや機能が鈍化する現象を研究しているときに、コンピュータの中で、なにが起こっているかを発見する。彼はたぶん、こう言うだろう。

「知能とは、自滅という悲劇を本質として持っているのだ」

 はい、SF短編が完成(笑)。だれか書かない? ぼくは遠慮しておく。こういう小説を読んだ記憶はないけど、ぼくの読書量なんかたかが知れてるから、たぶん過去の、それも初期の(苦笑)SF作家のだれかが書いていそうだ。

 さて、みなさん。これだけエッセイが書ければ、とりあえず、ぼくの脳は正常だと判断してもよろしいでしょうか? どう思う?(笑)。


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