数えたかったからだ!



 前回、「歩んだ道か、歩む道か」と題したエッセイで、いつもどおり調子に乗って、物知り顔で講釈をぶった。少なくとも暦に関する考察は、これですっかり終わったと思った。それは、本質的には正しい知識であったはずで、深刻な反論にさらされる危険はないはずだった。知識を押し売りするという、ちょっとしたお節介と、説明したいテーマに固着するあまり、その他を無視しがちになるという、これまたちょっとした欠点をのぞけば……

 いや、ちょっとした欠点ではなかったのだ。「歩んだ道か、歩む道か」では、本来論じたいテーマとはべつに、太陽暦について解説した。そこで月が地球に及ぼす作用についての知識不足(まあ、それはいつものことだが)から、月の重要性を不当に無視した。エッセイの終わりに、それについて付記したので、よろしければ、もう一度目を通していただきたい。

 さて。それはそれとして……

 ぼくのエッセイを読んだ、愛する一人の女性が、以前から気になっていることを告白した。彼女は、「文字の出来た経緯」を知りたかったのだ。

 文字……この深遠にして偉大なる発明は、われわれ人類の知性を、それが発明される以前に比べて、はるかなる高みへ押し上げた。にもかかわらず、じつは文字がどのようにして発明されたかは、説得力のある仮説はあっても、完全に解明されてはいないのだ。

 おお、神よ……ぼくはどうするべきなのか。それはまだ研究の途中だと、愛する彼女に告げなければならないのか。

 まさか!

 道に迷い、救いを求めている女性を見捨てることなどできようか! だから、心優しき読者のみなさんは、これからぼくが、文字の発明についてヨタ話をするのを、よろこんで許してくださると思う。もっとも、許してもらわなくても話すつもりだが(苦笑)。

 さあ行くぞ。

 たぶんご存じだと思うが、人間の指は片手に5本。両手で10本ある。モノを数えたいという切実なる欲求と必要に迫られた原始人は、たぶん、最初に自分の指を使っただろう。というか、モノを数える道具としては、それしか思い浮かばなかっただろう。このことから、人類は十進法に慣れ親しんだはずだが、今回はその話をするつもりはない。また、なんらかの理由で、指を失った人が、この表現をご不快に思われるのも本意ではない。

 というわけで、人間は構造的に、10個までは容易に数えられるけど、それ以上になると……足の指を使うしかなかった。

 しかし……これまたご存じだと思うが、足の指には大きな欠点があった。一本一本が独立してはうまく曲がらないので、あまり役に立たなかったのだ。もっとも、原始人の足の指は、もっと器用に動いたはずだと反論される方がいるかもしれないから申し上げておくが、それはこの問題を本質的に解決する方法ではない。なぜなら、足の指を足しても、たった20個までしか数えられないのだから。

 そこで、原始人から少し進化した人間は、数えるべきモノの数が10個以上になったら、どこかに印(しるし)でもつけておいて、また指で10個数えた。あとで、その印の数を数えれば、全体として、かなり多くの数を数えることができた。

 さあ、お立ち会い!

 賢明な読者の方は、もう気づいたと思う。古代の人類は、モノを数えるのに「印」をつけたのだ。それは、木片に石器で傷をつけたものかもしれない。あるいは、石を地面に置いたのかもしれない。その方法はわからないが、それが「印」であったことが重要なのだ。

 ぼくは、かなりの確信を持って主張したい。この「印」こそ、後に文字を発明する基礎になったということを。

 ところで、文字の発明に関しては、個人的に一つの疑問を持っている。あとで詳しく説明するけど、この世で最初に文明を築いたシュメール人が、文字を発明したのは、ほぼ間違いのないところだと思う。それは、5千年から、5千5百年ほど前だと考えられている。

 彼らはすでにかなり高度な文明を持っていた。少なくとも文字を発明するはるか昔から、彼らには「言葉」があった。言語だ。彼らはいつから言葉をしゃべっていたのだろう?

 じつは、これこそ、だれにもわからない。化石から推測されるのは、200万年前のホモ・ハビリスの段階で、すでに、脳に言語能力をつかさどる部分があったかもしれないということだけだ。少なくとも、音声によるごく簡単な意思表示はできただろうが、それが言語と呼べるかどうかはわからない。

 よく考えてみてほしい。もし仮に、200万年前の、人間と呼ぶにはまだほど遠い段階ですら(今日のチンパンジーよりだいぶマシだったはずだが)、言葉に近いものを持っていたとしたら……文字の発明が、たった五千年前というのは不自然ではないだろうか。50万年ぐらい前に発明されていてもよさそうなもんだ。

 いや、それはさすがに言い過ぎだとしても、5万年から3万年ほど前にホモ属の勝者となったホモ・サピエンスは、すでに抽象概念を理解できるようになっていた。彼らは洞窟の壁に動物の絵を描くほど進化していたし、もちろん、それを描くほど暇人だった。だったら、ついでに文字を発明していてもいいんじゃないか?

 さて。その疑問はいったん置いといて、またモノを数えるときの「印」に戻ろう。

 原人から原始人に進化した彼らは、なぜモノを数える切実な欲求を感じたのだろうか。これまた、かなりの確信を持って、それは「ビジネス」がしたかったからだと主張したい。

 当時、彼らは石器という道具を持っていた。それは、マンモスを見つけたら、ただちに襲いかかって、夕食のおかずに変化させられるほど彼らの生活を豊かにしただろう。

 ここでちょいと余談だけど、石器を作ったのは、ホモ・ハビリスだと考えられている。ハビリスとは、「器用な」という意味のラテン語からとったものだ。

 彼らは、アウストラロピテクスから進化(分化)したはずだが、ある日突然入れ代わったのではなく、ある期間、共存していた。進化の過程はゆるやかなのだから、それは当然のことだと思う。

 で、ホモ・ハビリスは、石器を持ったことによって、食料採集者から、狩猟者になったはずだが、ホモ・ハビリスの獲物には、アウストラロピテクスも含まれていたと考えられている。アウストラロピテクスは、進化の袋小路で、それ以上は進化できなかったかもしれないが、もしかしたら、彼らが絶滅した直接の原因は、ホモ・ハビリスに食われたせいかもしれない。

 しかし、ホモ・ハビリスは、じつはアウストラロピテクスよりも早く、この世からいなくなった。アウストラロピテクスに負けたのか? いや、そうじゃない。彼らはより進化して、ホモ・エレクトゥスになったのだ。160万年ほど前のことだ。彼らはついに、現代人と劣らぬ体格になり、脳の大きさも、現代人の4分の3ぐらいになっていた。この段階で、アウストラロピテクスは、完全にホモ属に負け、消滅して絶滅した。

 余談終わり。

 石器に戻ろう。ここでもまた、考えてみてほしい。その「石器」はだれが作っていたのだろうか? すべての原始人が、すべて等しい器用さで、自分自身のために道具を作ったのか?

 もちろん、最初はそうだっただろう。しかし、器用な者と不器用な者がいたのも、また間違いないことだと思う。不器用な者は石器をうまく作れず、よって獲物を捕らえるのも下手で、早死にしたかもしれない。それで器用な者だけが残った。いわゆる、自然淘汰だ。そういうことがあって、ホモ属はより進化したはずだが、不器用ではあるが、腕力に長けた者は、器用な者から石器を奪ったかもしれない。それで、お互いに争い、怪我をして、ときには命も落としただろう。

 そこで、ある時期、ある時点で、だれかがこう考えたはずだ。

「ねえきみ。きみは石器を作るのがうまいね。どうだろう、その一個をぼくに譲ってもらえないかね? 十個もあるんだから、その全部が必要なわけじゃないだろ。もちろんタダとは言わないよ。狩ってきた獲物をちょっとあげるよ。どうだろう。お互い悪い取引じゃないと思うな」

 いわゆる物々交換だな。相手の所有物を、略奪以外の方法で手に入れる方法を思いついたら、おそらくそれは、かなりのスピードで普及しただろう。命の危険を冒さなくてもいいのだから。

 取引の内容は急速に多様化しただろう。木の実と肉だったかもしれないし、肉と魚だったかもしれない。それほど間をおかず、その全部が取引されただろう。

 これだけ紳士的な考えを思いつくまでの間に、人類は、どれだけの年月を必要としたのだろうか。それはハッキリとはわからない。50万年前であっても不思議じゃないが、人科の生物が、われわれと劣らぬ大きさの脳を持つに至った30万年前まで待たなければならないかもしれない。あるはもっと遅く、15万年前かもしれない。ただ、少なくとも5万年前のホモ・サピエンスが、すでに、そういう取引をしていたのは、疑いのないところだと思う。彼らに文明はなかったが、社会はあったのだ。

 これで、モノを数える必要に迫られたのがわかってもらえた思う。「モノ」と「モノ」を交換するとき、その「数」を比較するのは重要なことであったはずなんだ。そして、最初に書いたとおり、モノを数え始めたら、すぐに指の数では足りなくなったろう。だから、印をつけることを考えた。そろそろハッキリ言おうか。それは「数字」と言っていいはずだ(もちろん初期は、ただの印だったわけだが)。そう。人類は、文字に先立って数字を発明した。いつ、だれが、どこで、という直接的証拠はなにもないが、どう考えても、そう仮定するのが理に適っている。

 そういえば思い出した。「ケルト人の神話」というエッセイで、ケルト人は文字を持たなかったと書いたが、じつは「数字」だけは持っていた。それは、それこそ木片に傷をつけるような幼稚なモノだったが、数を数えるための、数字の役割は十分に果たした。文明にとって、必ずしも文字は必要絶対条件ではないが、数字だけは絶対に必要なのだ。

 さて。原始人たちは、洞窟で動物の絵を描いた。彼らは暇人だったのだ。暇人という言葉が悪ければ、年がら年中獲物を追いかけて、肉をむさぼり食い、子孫を残すことだけに人生を浪費しなくなったとでも言うか。

 その中でも有名なのが、クロマニヨン人の描いたラスコーの壁画だが、こいつは1万8千年前と言われているから、じつはあまり古くない。現在見つかっている原始人の描いた絵で、一番古いのは、だいたい3万年ぐらい前のものだ。それもクロマニヨン人のものだと思われるが、この時代、世界に広がったホモ・サピエンスは、みんな同じような段階まで達していたと考えられる。たとえば、オーストラリアでは、2万4千年前の洞窟壁画が見つかっている。

 ここでの問題は、世界中に散らばったホモ・サピエンスたちが描いた壁画は、いったいどんな意味があったのだろうかということだ。ただのイタズラ書きか? まさか。それにしては、ラスコーの壁画は大規模すぎる。クロマニヨン人が、かなり高度な言語を持っていて、やはり高度な精神活動をすでに行っていたことは、疑いのないところだから、戯れに動物の絵を描いてみようと思っただけではないだろう。

 では、なぜ絵を描いたんだ?

 これまた、だれにもわからない。いろんな説があるけど、決定的なものはない。研究者が、勝手な想像を巡らせているだけだ。

 しかし。ここでもぼくは、ある程度の確信を持って申し上げたい。たとえば、水牛の絵を描いたとしよう。それがどんな目的で描かれたのか知らないが、「水牛」を表していることが重要なのだ。「水牛」を示す記号なのだから。

 ここで、少し時間を巻き戻して、「言語」に注目してみよう。

 おそらく、言語能力を持ち始めた初期の人類は、自分たちの感情を、より的確に相手に伝えることに専念しただろう。そのつぎの段階に進むと、彼らはモノに固有名詞を与えただろう。これは、アームストロング船長が、月に足を踏み下ろした瞬間より偉大な進歩だ。

 たぶん、最初は仲間に危険を知らせるために、固有名詞を利用したのではないかと思う。彼らの驚異になる動物が、何種類かいたとしよう。言葉がないころ、そいつらが近づいてくることを知った原始人は、チンパンジーやオランウータンがやるように、キーキーと意味不明な奇声を発して、仲間に危険を知らせた。ところが、言語能力が発達すると、動物の鳴き声をマネできるようになったと思われる。

 いや、もしかしたら、猿やイルカなども、似たようなことをやっているかもしれないが、まあ、それはそれとして……(いまは、人類の進化を語っていることをお忘れなく)

 動物の種類を識別する発声ができるようになると、当然のことながら、どんな種類の動物が近づいているかまで伝えることができただろう。この過程は、われわれも成長途中で体験することだ。たとえば、赤ん坊が成長して、アーとか、ウーとか、以上のことを言えるようになると、犬のことは「わんわん」、車のことは「ぶーぶー」などと言い始める。親がそう教えるから、子供もそう発音するわけだが(自発的に、発音する子もいるかもしれない)、これは知能の低い段階では、その物体が発する音を、固有名詞の代わりに使えるという典型的な例だと思う。だったら、原始人が同じことをしたと考えてはいけない理由があるだろうか?

 さあ。ついに人類は、「なにか」に、固有名詞を与える段階に達した。このことが、原始人の抽象概念の把握能力に、大きな影響を与えたのだとぼくは思う。「なにか」について語るとき、その「なにか」が目の前あり、それを指し示す必要はなくなった。言葉で代用できる。これが、抽象概念発達の、ごく初歩的な段階であっただろう。そして、その初歩の段階で、たぶん「嘘」も発明されただろう(苦笑)。

 ここまでくれば、つぎの段階で、彼らが絵を描いたのも納得できるというものだ。すでに、モノを数えるための印は使っていたはずだから、伝えたいことを、「形に残る」モノにするという発想は、ごく自然に生じただろう。それは言葉より正確で、かつ、多くの仲間に、同じ意味を伝えることができた。(同じ意味に受け取らない人は、いつの時代でもいただろうが)

 これもまた、だれが、いつ、どこで、はじめたかわからないが、ひとたびはじまってしまえば、その便利さに気づかないわけにはいかなかったろう。それは急速に広まった。3万年前、世界に広がっていたホモ・サピエンスが、ほとんど時を同じくして(といっても、千年単位だけど)、似たような技術(壁画)を持っていたのがその証拠ではないか。「形に残る」意志の伝達手段は、すごく便利だったのだ。

 これで、言語(抽象概念)、数字、記録、という三つの要素が揃った。文字が発明される下地ができたわけだ。

 しかし……

 最初のほうで、言語が発達してから、文字が発明されるまで、すごく時間がかかったのが疑問だとぼくは言った。壁画を描きはじめた、3万年前の段階で、文字があってもよかったのではないかと。

 たしかに、これは謎だと思う。壁画が3万年、文字が5千年前だとすれば、その間には、2万5千年という、気の遠くなるような時間が横たわっているのだ。なんとしても、この謎に取り組まなければならない。

 その2万5千年の間に、なにか劇的な変化があったのだろうか? じつはあるんだ。とんでもなく劇的なことが。

 約1万年前に氷河期が終わり、まず、放牧がはじまって(氷河期の最中も放牧はあったが、より規模が大きくなったと思われる)遊牧民がより広範囲に移動をはじめた。このことは、それほど劇的ではなかった。もっとも人類の生活を劇的に変化させたのは……農業の発明だ。

 たぶん、8千年ほど前。現在のイラクの北部あたりで、ついに人類は農業をはじめた。それまでの食物採集者でも狩猟者でもない、本当の意味での「収穫者」になったのだ。その最初の栄誉をモノにした人たちが、シュメール人と呼ばれる民族になっていったのだろうと思われる。

 食料の供給が計画的に、かつ大量に見込めるようになって、人口の増加は、それまでのペースがまるで亀の歩みのように感じられるほど加速された。

 さらに、農地は固定されているから、シュメール人たちは「土地」に縛られるようになった。それまでは、ならず者が襲ってきても逃げればよかったが、農地の略奪を防ぐには、組織的に対抗しなければならなかった。敵のいないときには、囲いを作り(人類最初の公共事業だ)、敵がきたら戦わなければならなかった。これで「国」ができる準備が整った。

 おそらく、こういうことが起こっただろうと想像できる。敵と組織的に戦うために、彼らにはリーダーが必要だったろう。土地の周りに囲い(城壁)を作るには、多くの労働力を必要とした。最初は全員が、仕事の合間に、交代でやっただろう。しかし、常習的に防衛に従事する者がすぐに必要になっただろう。彼らは農業に従事できないから、だれかが、彼らのための食料を提供しなければならなかっただろう。リーダーは、それを集める役割も引き受けただろう。それが「税」と呼ばれるものになっただろう。そういうことが、ユーフラテス河の周りで、シュメール人によって最初に行われただろう。

 ここで余談だけど、エジプト人にはナイル河があった。ナイル河は氾濫した。それは肥沃な泥を豊かに残す恵みの洪水だった。ところが、この洪水は、土地の区分をすべて洗い流してしまった。洪水が去ったあとは、ここから、ここまでがオレの土地だという、仕切りが消えてしまったのだ。そこでエジプトでは幾何学(ジオメトリー)が発達した。幾何学とは、簡単に言うと、物の形、大きさ、位置などを研究する数学の一部門だが、ジオメトリーは、「土地を測る」という意味の言葉からきている。

 余談終わり。

 民衆から「税」を徴収するようになれば、それはすなわち「国家」の概念が確立したのと同じことだった。リーダーは税を集め、その税を使って、民衆の生命と財産を守るというサービスを提供した。もちろん、民衆が黙ってがまんしている限り、リーダーは腐敗という甘い水を飲むことも覚えただろう。(世界最古の神話、ギルガメシュ叙事詩の最初では、王さまであるギルガメシュが暴君になるさまが描かれている)

 国家が形成され、社会構造が複雑になると、当然、商売のほうも複雑になっていった。相変わらず物々交換が主流だったはずだけれど、「サービス」と「物質」の交換も行われるようになっていたはずだ。まあ、最初に思い浮かぶのは売春だけど、それはともかくとして、単純な物々交換にしても、A氏が先にモノを提供して、B氏がその支払いを、食物の収穫のある時期まで待ってもらうとか、ビジネスの形態は、現代社会にも当てはまるほど複雑化していったと思う。

 そのとき必要なものはなにか?

 それは「契約」だ。これだけの「サービス」を提供するから、これだけの「食料」と交換してくださいとか、そのサービス提供期間は、いつからいつまでですとか、支払いはいつまでに行い、それが遅れたら、利息がつくとか。

 それまで、口頭と、簡単な数字だけですんでいた社会が、とても、それだけでは維持できなくなった。とくに言葉を発明してから、ほぼ同時に「嘘」も発明(苦笑)されていたはずなので、契約を口約束ですませるのには、非常に大きな問題があり、じっさいそれで、争いが絶えなかったと思う。そこで、いつの段階かわからないが、だれかが、こう考えた。

「ちくしょう。あの野郎、約束を守らなかった。それどころか、そんな約束はしなかったといいやがる。なんとか、約束を形に残しておけないものか……」

 これが、いつ考えられたかはわからない。でも「だれ」が考えたかはわかっている。それは、やはりシュメール人だっただろう。

 話が前後して、かつ複雑化して申し訳ないけど、それらをはじめたのがシュメール人だったというより、そういうことをはじめた人たちが「シュメール人」になったというべきなのかもしれない。この点については、またあとで考察する。

 話を「文字」に戻そう。

 というわけで。もはや、文字が必要なことは明らかだった。しかし、文字の発明は難しい。それまで「絵」だったものが、ヒントになっただろが、それを「絵」ではなく「記号」として扱うアイデアは、そういう方法を知らない者にとって、なかなか発想できないことだったと思う。

 しかも、絵そのものを描いていたのでは大変だ。それは、記号として簡略化される必要があったし、言語に対応させるためには、もっと高次に抽象化される必要があった。文字を生み出すというのは、想像以上に骨の折れる作業だったろう。シュメール人のだれかが、軟らかい粘土版に、棒切れかなにかで、短い線を引き、その線の数と角度の組み合わせで、何種類かの記号を表現するアイデアを思いつくまでに、相当な年月を必要としただろう。どのくらいだろうか。2千年? 3千年? ハッキリとはわからない。5千年はかからなかっただろうが。

 このように、言語を持ち、絵を描くようになった人類は、それでも「文字」を必要とするほど社会構造が複雑化するのに時間がかかり、なおかつ、「絵」を、より抽象的な「記号」に変化させるのに時間がかかった。それで、3万年前には文字はなかったのだとぼくは思う。新たな考古学的発見で、この辺の見解が変わるかもしれないけど……

 さて。ひとたび文字が作られてしまえば、これまた普及するのは早かった。文字の発明から、ほとんど間をおかずに、図書館まで作られたほどだ。これは、後世のわれわれにとって、かなりラッキーだった。粘土版が一カ所に集められたおかげで、われわれはそれを発掘することができたのだ。大量に。だから、文字の発明が5千年前と言われているのは、じつは、文字が大規模に利用された時代とも言えるのかもしれない。文字の発明そのものは、少なくとも、もう500年。もしかすると、千年ぐらいは、遡れるのかもしれない。それら、作られる過程にあった文字は、なかなか発見できないかもしれない。

 以上が、文字が作られた経緯だ。文学の薫り高い崇高な世界を期待していたら申し訳ないが、出土している、もっとも古いと推測される文章(粘土版)のほとんどは、商取引に関するモノなんだよ。よって、ビジネスが最初だった。いや、ビジネスが「動機」だったと考えるのは、非常に強力な仮説で、おそらく正しいと思う。

 ここで、視点を変えて、シュメール人について語りたい。というのは、彼らは謎の民族と呼ばれているからだ。いったいどこから来たのかわかっていない。シュメール語の系統もわかっていない。

 だから、大胆にも彼らのことを宇宙人だと主張する人もいるくらいだ。もちろん、彼らの主張は、それなりに複雑で、一部うなずいてしまいそうになる部分もないわけではないが、幸いなことに、シュメール人を宇宙人の子孫(あるいは、宇宙人から文字を教わった人たち)と考える科学者は少ない。真剣にそう考える人は、地道な研究で自説を証明する誠実な科学者として人生を浪費するより、手っとり早く、オカルトチックな本を書いたり、テレビのディレクターになる傾向が強いようだ。

 たぶん、ぼくのエッセイを読んでくれている方なら、ぼくがそういう説を支持しないのをご存じのはずだ。それでは、シュメール人とは何者なのか?

 この問いに対して、ぼくは常識的な回答しか提示できない。

 ぼくの勝手な推測では、シュメール人は、純粋な単一民族ではなかったと思う。広い地域から、さまざまな遊牧民族が、農地という固定された土地に集まってきて、そこに住み着き、「シュメール語を話す人たち」という集団を形成していったのだと思う。彼らは遺伝的に混血が進んだろう。そして、さまざまな言語が、はじめて一つの土地に混ざり合い、言語の「混血」も進んだと思う。この過程には、それなりに時間がかかったろうし、まだ文字がなかったのだから記録も残っていない。この辺りが、シュメール語の系統を推察するのを困難にしている理由かもしれない。

 そして、いままで説明したとおり。自己主張の強い遊牧民の集まりであった彼らには、契約という「強い約束」が必要だった。それが文字の発明を促した。そう考えてはいけないだろうか。宇宙人に起源を求めるよりかは可能性が高いと思うが……

 また余談だけど、たしか三年ほど前(西暦2000年と記憶している)、中国が、自分たちの文字の発明は、いままでの定説よりずっと古く、じつは5千年以上前だったと発表した。中国の研究者を信用していないわけではないので、おそらく彼らの研究は正しいだろう。それでもぼくは、シュメール人が最初の文字を発見したという名誉に、なんの変化もないと思う。なぜなら、上で説明したとおり、中国で文字の片鱗がうかがえるころには、すでに、かなりの数の粘土版を残していたのだ。

 余談終わり。

 最後に、いまぼくら自身が使っている字について話しておこうかな。ご存じのように、いまぼくらの使う文字には、大きく分けて二つの種類がある。一字一字は意味を持たず、言語音を表すだけの働きをする文字(表音文字)と、一字一字が一定の意味をもった文字(表意文字)だ。表音文字の代表がアルファベットで、表意文字は漢字だろう。

 そもそも、シュメール人が発明した文字は、表意文字だった。これも「絵」を記号化していった証拠だと思うが、まあ、それはともかく、表意文字を、べつの言語に対応させるのは、いささか厄介だ。そこで、シュメール人の文字を、自分たちも使いたい、アッシリア人たちが(シュメールを侵略した連中だ)、彼らの表意文字を、表音文字に改造したと考えられる。

 そんな経緯をへて、紀元前1400年ごろに、フェニキア人がアルファベットを発明した。これは、なかなか優れた発明品だったので、かなり多くの民族が採用して、モノを書くことが驚異的に簡単になった。それから、アルファベットは、さまざまに改良(変形)された。その中にローマ字があった。

 表音文字の優れたところは、言葉さえしゃべれるようになれば、それに対応した文字を覚えるだけで、言葉を表現できるところだ。もっとも、アルファベットが、すべての言語に完全に適応できているわけではないので、スペルという、文字の組み合わせが必要で、それを覚えなければならない。たとえば英語なら、c、q、xという文字は不必要かもしれない。kやsにできることを、cがしているとは思えないし、qはkで、xはksで置き換えられると思う。その逆に、shや、ch、thを表す、単独の文字は存在しない。これが、英語のスペルを複雑化している要因の一つだろう。(言語学者ではないので、詳しいことは知らないが)

 われわれ日本人は、地理的な関係からアルファベットは採用せず、漢字を使うことを選択したが、「かな」を発明した。これは広義には表音文字に分類できる。漢字という表意文字と、かなの表音文字を組み合わせることにしたのだ。「かな」は、日本語に特化した表音文字と言っていいかもしれない。そのおかげで、言葉を覚えたあと、「かな」さえ覚えてしまえば、日本語を表現するのにスペルを覚える必要はない。ほぼすべての文字が、言葉と対応している。もっとも、漢字を覚える必要は依然としてあるので、スペルを覚えるのと、どっちが楽かはわからない。(ぼく個人のことを言えば、どちらを覚えるのも同じくらい苦労したし、どちらを忘れるのも同じくらい容易だった)

 なにが言いたいかというと、まだ「文字」は、完全に完成されてはいないと言えるんじゃないだろうか。時代により言葉も移り変わるので、文字の完成もあり得ないのかもしれないが、人類が、より高次の抽象概念を理解できるようになれば(たとえば、数学者には当たり前でも、一般人が、虚数を実態として把握するのは容易じゃない)、言葉も文字も、より高次に抽象化されて数学的になるのかもしれないし、あるいはその逆に、精神文明の発達を拒否して、幼稚化していくのかもしれない。

 まあ、その考察は、千年後の研究者にお任せすることにして、今回のエッセイを終わりたいと思う。ご静聴ありがとう。

 あ、そうそう。表音文字にも表意文字にも、それぞれに利点と欠点があって、どちらがより優れているという議論をするつもりはないので、その手のご意見は、どうかご遠慮願いたい。


≫ Back


Copyright © TERU All Rights Reserved.