歩んだ道か、歩む道か



 相互リンクしている、BUTAPENNさんのABOUNDING GRACEで、暦についての話題が出た。ぼくもちょこっと掲示板に書き込ませてもらったが、こいつは、もっとじっくり考えてみる必要のある話題じゃないか。だから、暦の話をしよう。

 われわれは、いったい、いつから「時間」に縛られるようになったのだろう。正確なことはわからないが、人類が最初の文明を築いたとき、すでに時間に縛られていた証拠がある。

 彼らはシュメール人と呼ばれているが、まあ、あわてないで、それ以前の話からしよう。人類は文明以前から、太陽が昇って朝がきて、それが沈んで夜になること知っていた。これは「一日」という単位だ。

 ちょっと考えてみればわかることだが、人類が「数を数える」ことを覚えた瞬間から、すでに「暦」は存在していたはずだ。なぜなら、「一日」という単位は、非常に数えやすいことに注目してほしい。朝、日が昇ったら一つ、つぎの日には二つ、そのつぎは三つ……これを続けるだけだ。夜が終わり、朝が来る天文学的現象は、猿よりもちょっとお利口になった程度の段階にある人間(の祖先)でさえ、明確な事実として認識できただろう。

 人間が、もっとお利口になると、一日をどんどん足していくと、やがて季節が循環していることに気づいただろう。春に一日を数え始めて、夏がきて秋がきて、冬が訪れ、やがて一日が三六五個に達したとき、また春に戻る。

 そしてついに、文明と呼ばれるものが発達する程度に人間がお利口になると、もっと細かい区分が必要になった。一日という単位では長すぎたんだ。シュメール人は、午前中に仕事をすませて、午後に集会に出かけるとか、複雑になった生活が、否応なしに、より正確な時間区分を要求した。そう。「午前」と「午後」を必要とした。

 そこでシュメール人は「12」という数字に注目した。文明を作り出したとはいえ、彼らはまだ、十分にお利口ではなかったから、分数が苦手だったんだ。ところが12という数字は、たまたま、2、3、4、6で割り切れる。なかなか分数にならない。これに近い数字で、4つもの因数で割り切れる便利な数字はなかった。

 もうわかったよね。どうか驚いてほしい。いまや月に人間を送り込み、インターネットで世界中を駆けめぐっている、われわれ現代人も、なんとシュメール人が採用した12という数字を使っている。一日は、12時間で二つに分けられ、一年は、12ヶ月に分けられた。

 それどころの騒ぎじゃない。われわれは、1時間を60分としているけれど、これだってシュメール人が採用した方法なんだ。さっき、12はなかなか分数にならないと言ったけど、60も、分数になりにくい便利な数字だ。これは、2、3、4、5、6、10、12、15、20、30で等分に分けられる。

 ここまではいい。ところが、シュメール人は、一つ、厄介なことをやらかした。太陽は魅力的な天文現象で、朝と夜を明確に区分するけれども、残念なことに、短期的に理解できるのはそれだけだった。三日後の約束をするには役立つが、三ヶ月後の約束をするには、90以上の数字を数える必要があって、数字が大きくなりすぎた。そう「一ヶ月」という単位があれば便利だと気づいたんだ。

 ここで、なにかの偶然か、地球には「月」という、あまりにも巨大で魅力的な衛星があったことが災いした。太陽系の惑星で、主惑星と比べて、これほど大きな比率の衛星を持つのは地球だけだ。それは、太陽の見かけの大きさと、同じ大きさの円盤として、夜空に妖しく輝いていた。

 そう。いまぼくらが一ヶ月を測るのに、「月」という言葉に使っていることからわかるように、彼らは、一ヶ月を区分する単位に月を利用した。月は29・5日ごとに満ち欠けを繰り返す。シュメール人は、この約「30日」を一月の単位とした。これなら、太陽の昇る数を90回数えなくても、月の満ち欠けを三回数えるだけで、「三ヶ月後」がわかるのだった。

 これが「太陰暦」であり、29日と30日の月を相互に繰り返せば、約12ヶ月で、一年を区分することができた。

 ところが、この方法では、一年の長さは354日しかならず、すぐに季節がずれてしまうことがわかった。彼らは、円周を360に等分することを思いついたはずなのに、季節が巡る一年を「354」などという、不細工な数字に押しとどめるほうを選んだ。

 それでも、季節がズレるのは困る。

 そこで、ときどき一年に13番目の月を足して、体裁をつくろうことにした。19年のサイクルで、12ヶ月の年が、12年。13ヶ月の年が、七年分あれば、全体として、一年は365日になった。

 なんで、こんな複雑な暦を作らなければならなかったのか不思議といえば不思議だけど、夜空に輝く月を利用する以上、そうするしかなかった。太陽が「季節」を測る基準にできることを知っていたにも関わらずだ。それほど月の妖しい輝きは魅力的だった。

 哲学を生み出し、人生についてたっぷり考える時間があったギリシア人さえも、月の魔力には勝てなかった。ユダヤ人もそうだった。驚くなかれ。ユダヤ人は今でも、礼拝用の暦にシュメール人が開発した方法を利用している。

 しかし。べつの文明が、もっとマシな方法を考えついた。エジプト人だ。太陽を神と崇めた彼らは、月よりも太陽を愛した。

 いや、正確には彼らも最初は太陰暦を利用していた。ところが、彼らにはシュメール人にはない、切実な理由で、太陰暦を使い続けることに不便を感じていた。

 それはナイル河だった。

 ナイル河は、一年ごとに氾濫して、あとに肥沃な泥を豊かに残す。このサイクルを正確に知ることは、エジプト人にとって生死にかかわるほど重要なことだった。

 だからエジプト人は、氾濫を何年も何年も注意深く観察した。すると、それが365日のサイクルであることに気づいたんだ!

 いいぞエジプト人。彼らは天文現象とは無関係に、一年の長さが365日であると気がついたんだよ。それは現代でも通用する正確な数字だ。これを快挙といわずしてなんと呼べばいいだろう。

 そのころエジプト人も、円周を360度に分割する方法を知っていたから、一月を30日として、それが12回分で、一年を360日とした。おい、5日足りないぞ。

 大丈夫。エジプト人は、ごきげんな方法を考えた。360日たって一年が終わったら、そのあとに5日の休日を加えたんだ。

 なんとまあ、ハッピーな解決方法であることか! 余分な5日を休日にしようなんて、よく思いついたもんだ。エジプト人が好きになっちゃうね。

 これで正式に一ヶ月は30日になった。当然、月の満ち欠けとは関係なくなるけれど、「季節」には揃うようになった。これが「太陽暦」だ。月よりも太陽のほうが、自分たちの生活をずっと便利にしてくれるから、彼らは月よりも太陽を愛したのだと思う。後に、太陽は神になり、ファラオがそれを国の統治に利用した(一神教の発明者はエジプト人なのだ。だから、エジプトにいたユダヤ人も、一神教の政治的優位性に気づき、ユダヤ教を作った。なぜか、エジプト暦は採用しなかったが……)。

 ともかく。太陽は、短期的には「一日」しか計れないが、長期的には、「季節(一年)」を測ることができる非常に優れた、かつ合理的な基準だから、もっと早くこうすべきだった。われわれは、月に不当な優位性を与えた時間が長すぎた。まあ、合理的でないところが「人間的」と言えなくもない気もするけど(笑)。注1)エッセイの終わりに付記があります。

 余談だけど、おそらく、この宇宙のどこかにいるだろう異星人も、文明が十分に発達したら、自分たちの「太陽」を基準にするだろう。太陽を基準にするのは、どの惑星にとっても、その惑星の季節を計れるので、生活に密着した基準なんだ。

 話を戻そう。

 じつは、驚くべきことに、一年の長さは、正確には365日ではなかった。それにさらに、四分の一日(約6時間)を足さなければならない。現代の天文学でやっとそれがわかったと思ったら大間違い。エジプト人は、たった6時間の狂いさえも気がついてしまった。

 すごいなエジプト人……

 いや、すごいのはナイル河かもしれない。なんとナイル河は、エジプトが太陽暦を採用して、それで氾濫のサイクルを数え始めてから、なんと、氾濫の時期が、平均して6時間遅れたんだ。むちゃくちゃ正確な(平均値とはいえ)サイクルで洪水が起きていたんだなあ。時計みたいじゃないか。

 いや。じつはそれほど驚くべきことではない。ナイル河は、毎年、同じ日時にピッタリ洪水を起こしたわけではないが、6時間の誤差は、かなり決定的なのだ。それは4年で1日分の誤差であり、40年では10日、80年では20日の狂いとなって現れる。120年で約一ヶ月分もズレてしまう。これでは、さすがに「誤差」ではすまない。エジプト人にはナイル河を観察する時間がたっぷりあったから(もちろん、何世代にも渡って)、それらの平均値を求めれば、一年が365日と6時間であることが容易にわかったはずなのだ。

 ここでエジプト人が、その6時間を暦に組み込んで、より正確な太陽暦を作り上げていたら、本当にすごいのだけど、彼らはそこまでやらなかった。

 やったのはローマ人だ。彼らも太陰暦を使っていたけど、エジプト暦(太陽暦)のほうが、合理的なことに気づいて、それを採用した。このとき彼らは、エジプト人が休日にしていた、よぶんな5日を一年に分配した(余計なことを!)。だから、ある月を31日にして、ある月は30日のまま残した。そして、さらによぶんな6時間は、四年に一度「一日」を足すことに決めた。こんどこそ、正式に一年が「365日」と決まった。

 このローマ人の作った暦が、若干の修正を加えて(うるう年の計算は、より複雑になった)いまも世界中で使われている。

 さて。こんなことを言うとビックリするかもしれないけど、いままで書いてきたことは、じつは単なる前書きで、このエッセイの主題ではない。ぼくは「一年の数え方」を書きたかったわけではなく、その一年を、どのように積み重ねていくかを考えたいんだ。そう。「暦」ではなく「元号」を考えたい。(一年を区分する暦と混同しないため、これからは元号という言葉を使うよ)

 太陽暦は、天文現象という科学的根拠にもとづいて決められている。でも、その一年を積み重ねる元号はどうか。

 たとえば、われわれ日本人も日常的に使っている「西暦」は、キリストが生まれた年を元年としてはじまった。じっさいには、キリストが生まれた年は、紀元前4年と信じるに足る証拠があるし(太陽暦を修正したせいでもあるけど)、生まれた日は12月25日ですらないが(聖書にそんな記述はない)、まあ、それはいま論じる問題ではない。

 もう一つ、俗に和暦と呼ばれる元号は、天皇の即位と崩御に関係しているのは言うまでもない。これらはどちらも宗教的理由にもとづく積み重ね方だ。

 どうだろう。現代社会に、そういった方法論で積み重ねられた元号が必要だろうか。ぼくは、もっと科学的な方法を採用するべきだと思う。元号は、その国の歴史であり、極論すれば、独自の元号を捨てることは、文化を捨てることになると言えるかもしれないが、そんなことを言っていては、いつまでたっても、ユダヤ人とイスラム教徒は戦争をやめないだろう(もちろん、イスラムにもイスラム暦がある)。

 そうなんだ。すべての民族が、等しく採用できる元号は、歴史とも宗教とも関係のない、科学の力でしか生み出すことはできないと思う。考えてみてほしい。イスラム教徒が、心から喜んで、キリストの生まれた年を起源に持つ元号を使うか? アジアの人々が天皇の即位に関係のある元号を使うか?

 使わない。絶対にだ。宗教ではダメなんだ。恨みつらみがありすぎる。こんなことを言うと宗教家に怒られちゃうけど、宗教ではなにも解決しない。この世から奴隷を解放したのは宗教ではなく科学だった。

 戦争をより深刻なものにしたのは科学ではないかというお叱りの声に応えるため、多少なりとも文学的な表現として、いままで歩んできた道ではなく、これから歩む道を見つめようと言っておきたい。

 そうは言ってもこれは難しい。未来になにが起こるかわからないので、どんな科学的発見が新しい元号の候補になるか、想像もつかない。一つだけたしかなことがあるとすれば、「UFOを探せ!」というエッセイにも書いたとおり、SF小説にありがちな、宇宙人とのファーストコンタクトのような、あまりにも劇的な科学的発見は期待できそうもないということだ。こいつは、賭けてもいい。あとどれだけ、人類が地球に存在していようとも、地球に起源を持つ以外の(つまり火星に移民した地球人とか)、異星人に出会うことはあり得ない。絶対にだ。だから、こいつは候補から外そう。(なんらかの信号を受信する可能性は皆無ではないが)

 将来、すべての国が「地球連邦」のもとに、ひとつにまとまったらがどうか。これなら、もしかしたら、万に一つ、いや億に一つぐらいのかすかな可能性ではあるかもしれないけど、絶対にないとは言い切れない。連邦の樹立した年が新しい「元年」だ。名称はなにがいいかな。やっぱり「地球暦」かな?

 待てよ。どうして、未来にばかり期待しなければならないのか。それは単なる問題の先送りではないか。いったい、何年先になるかわからない。いま考えうる科学的解釈で、元号を決められないか。

 よし、考えよう。

 地球暦という言葉を使うなら、相手は、本当に地球でなければならない。そう。地球が生まれた年を「元年」にしよう。これは合理的な考え方だ。

 話はそれるけど、ここでメートル法について、ちょっとだけ話をしたい。メートル法が作られるまで、国によって、バラバラの単位系を使っていた。それは、国王自身の人体寸法を基準にしたりと、じつに非科学的で、しかも、国王が変われば、基準が変わり、それまでの「長さ」を改めるなんてことまで行われた。国民に新たな定規を売り付けて金を集めるためでもあっただろう。

 これでは、非常に不便だ。その国の中でだけでも不便なのに、べつの国と取引をしようものなら、それは不便という言葉では足りないほどの苦痛を伴った。

 そこで、世界中で通用する単位系を考える必要が生じた。問題は基準をなににするかだ。そのとき、世界で一番の大国の王さまの寸法か?

 まさか。そんな方法では意味がない。そこで、基準を地球に求めることにした。これなら、すべての人類が共通して許容できる。具体的には、地球の子午線の極と赤道間の距離の1千万分の1をもって1メートルとした。だが、子午線は不変ではない。多少変動する。厳密な単位系の基準になるべき長さに揺らぎがあっては問題ではないのか? それは、非科学的ではないのか?

 じつは、「メートル法」という「法則」それ自体には、なんの問題もない。メートル法の価値は、基本単位の「実際の長さ(あるいは大きさ)」にあるのではない。地球を基準にしたのは便宜的な理由……もうちょい高級に言うと哲学的理由でしかない。誤解を恐れずに言うなら、それ自体が科学的である必要はない。メートル法は、論理的な「体系」であることこそが、本当の価値なんだ。注2)こちらも、エッセイの終わりに付記があります。

 どういうことかというと、たとえば距離の場合、マイル、フィート、インチ、ロッドなどなどを今でも使っている国があるけれど、これらの単位に論理的体系はない。たとえば、1マイルが何インチが考えてみてほしい。日本人で、これを答えられる人はいないだろうけど、アメリカ人だって答えられないはずだ。計算機がない限り。ところが、1キロメートルは、100万ミリメートルであると、即座に答えることができる。メートル法では、長さであろうと重さであろうと広さであろうと、エネルギーでさえ、すべて10のn乗で表されるから、その単純な法則と、あとはキロ、ミリなどの接頭辞を覚えれるだけでいい。本来の取り決め通り、10のn乗で表すなら、接頭辞を覚える必要さえない。(時間だけは、メートル法から取り残されている。ミリ秒以下にしか適用されていない。それ以上は、いまだにシュメール人の慣習を使っている!)

 世界の商取引はもちろん、メートル法が科学に寄与した功績はあまりにも大きい。マイルやインチを使っている国でも、科学者はメートル法を使う。それでもアメリカ人は、妙に原始的というか保守的なところがあるから、ヤード・ポンド法で火星探査機を作ったりしている。探査機を製造したロッキード・マーチンがヤード・ポンド法で提出した書類を、NASAがメートル法と勘違いして、その探査機は火星軌道の投入に失敗した。アホだね。

 余談終わり。

 メートル法は、地球という人類にとってすべての「家」を基準にして成功した。余談で説明したとおり、そのこと自体はそれほど科学的ではないかもしれないが、権力者や宗教的理由とは無縁の人類にとって共通の基準を採用した点に、モダンな精神性を認めることができる。

 だから、元号にも地球を基準にする考え方を導入するのは理に適っているように思える。たとえば地球の誕生を46億年と決めれば、それが基準になる。しつこいようだけど、保守的なアメリカ人を説得するのは大変だろうが(苦笑)。

 さて、地球の誕生は、46億年前だから……ごめん。イキナリだけど却下する。数字が大きすぎる。来年から、請求書の日付に、4,600,000,000年10月12日とは書きたくないものな。

 じゃあ、生命が生まれた年はどうだ。これなら36億年前で、10億年も数字が若くなるけど……しょうがないよな。桁がいっしょなんだから。ちくしょう。

 よし。元号なんてモノは、しょせん人間の使う便宜的な区分なんだから、人間だけを対象にしよう。学説が完全には定まっていないけれど、まあ500万年前の、アウストラロピテクスが人間の共通の先祖と考えていいだろう。だいぶ、数字が減ってきたぞ。それでもまだ多いけど。

 では、ずっと新しい時代、人類が石器を使った時代はどうか。ここなら、すでにアウストラロピテクスではなく、ホモ・ハビリスという「ホモ属」に分類される、さらに人間に近い動物になっていた。だいたい160万年前だ。

 うーむ。まだ数字が大きいし、石器の使用を前提にするのには、若干の問題がある。だって、石を使う動物がいるじゃんか。ラッコとかさ(笑)。

 大丈夫。まだ決定的な、動物と人間を分ける重大な違いが残っている。それは、火の使用だ。地球上の動物をどんなに丹念に観察しても、火を使うのは人間だけだ。これこそ、人間と動物を分ける、決定的な違いではないか。それに、これなら、50万年まで数字を若くできる。

 決まったな。明日から、みんな請求書の日付は、500,000年と書くように。

 え? まだ多いって? 注文が多いなあ。しょうがない。では、われわれの直接の先祖、すなわち「ホモ・サピエンス」が誕生した年を元年にしよう。これなら、数字は30万年より大きくなることはあるまい。

 わかってる。この時代のホモ属は、ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)だ。現代人に繋がるクロマニヨン人(ホモ・サピエンス)は、もうちょいあとだ。しかし、彼らはある程度の期間、共存していたと考えられる。はたして、クロマニヨン人が、ネアンデルタール人を駆逐したのか(つまり滅ぼしたのか)、それとも、交配があったのか。あるいは、その両方が同時に起こったのか。ハッキリとはわからない。

 一時期、ネアンデルタール人は、われわれホモ・サピエンスの亜種と考えられて、「ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス」なんて、ややこしい学名に変えられたぐらいだ。おかげで、われわれ現代人は、「ホモ・サピエンス・サピエンス」なんて、さらにややこしい学名になった。いまは、形態学的相違、遺伝学的証拠により、ネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスとは異なった種とされ、学名はもとに戻ったけど、この辺は、まだ議論の余地がある。だいたい、進化の過程というのは非常にゆるやかなのであり、ミクロ的には計れない。われわれ現代人と遺伝的に相違のない属が誕生したと、明確に言える年代はない。いつまた新しい発見によって、状況が変わるともしれない。確実に言えることは、ホモ属の中では、われわれホモ・サピエンスだけが生き残ったということだけだ。

 しかしまあ、たぶんクロマニヨン人から進化したのが、われわれ現代人だと信じることにしよう。彼らは、物事を抽象的に捉えることができるようになっていた。すなわち、芸術を理解した。ネアンデルタール人には、それができなかった。だからこそ、クロマニヨン人から、われわれ現代人を表す「ホモ・サピエンス」が学名に用いられている。

 たぶん、われわれが、ホモ属最後の生き残りになったのは、3万年から5万年の間のどこかだろう。だとしたら、大きな数字を選択したくなるのが、人間の悪いくせというのもだから、ここは慎み深く、3万年を選ぼう。(5万というキリのいい数字が、とても魅惑的ではあってもがまんする)

 よろしい。ホモ・サピエンスの君臨時代は、3万年前からはじまった。決まり。これなら、ずべての人類が共通して許容できる概念であり、かつ日常での使用にも、なんとか耐えうる数字ではないだろうか。

 それでも、まだ数字が大きいと言うなら、文明(農業)がはじまった1万年前を提示することもできる。さらに、先史時代と歴史時代を分ける、超がつくほどの大発明「文字の発明」を元年にすることもできそうな気がする。これなら五千年前であり、現在使っている西暦と桁が同じだ。

 しかし……文字の発明となると、これまた議論の余地がまったくないわけではない。ぼくはシュメール人が最初に文字を発明したと信じているし、じっさい、ほぼすべての人類学者がそう考えているが、中には違うことを考える人もいそうだ。

 歴史時代のはじまりという考えは、人間が「時を刻む」必要を満たすのに魅力的な考古学的根拠だと思うけど……完全には科学的ではないし、文字を発明したのがだれなのかという論争が皆無ではない以上、将来に遺恨を残す。

 というわけで、ぼくは、ホモ・サピエンスがホモ属の勝者となった、3万年前を、人類の使う元号の「元年」とすることを提起する次第である。来年を「30,001年」にしよう。元号の名称は、恥ずかしげもなく「サピエンス暦」だ。(サピエンスには「賢い」という意味がある。だが、その実態は……なんともお恥ずかしい限りだ)

 さーて。請求書の日付を、ぜんぶ書き換えなきゃ。もちろん生年月日もね。ぼくは、サピエンス暦「29,963年」生まれでーす。よしよし。これで、若い子に昭和生まれって言われなくてすむぞ。

 ただ、あと15年もすれば、「30,016年」生まれの子に、えっ、2万年世代なの? とか言われちゃうんだろうけど。すごく、年取った気分だな(笑)。

 そんなのイヤかい?

 贅沢を言っちゃいけない。ホモ・サピエンス同士、仲よくしようじゃないか。ホモ・サピエンスが進化して、ホモ・ネオレンシスとかが生まれて(すでに渋谷あたりに生息しているかもよ)、彼らに滅ぼされるまでの間ぐらいは(苦笑)。



注1)
 このエッセイをアップしてから、月は地球の生命体の発生および進化に大きな影響を持っているというご指摘をいただいた。不明を恥じるとともに、ここにそれを要約する。

 地球は自転軸が傾いていることによって「季節」を持っているが、この自転軸はきわめて安定している。そのおかげで、大きな気象変動に見舞われることなく、安定した気候が長期間持続する。その、自転軸の安定をもたらしているのは、どうやら、月らしいのだ。月がなければ、地球の気候は大きく変動し、生命が生まれなかったかもしれない。また生まれても、その進化は厳しい自然環境によって制限されたかもしれない。

 そしてまた、月は地球に潮汐をもたらす。もちろん、太陽からも同様の力を受けるが、それは月の半分程度しかないのだ。生命は海で誕生した。となれば、もし、地球に月がなかったら、海での生命の発生が遅れかもしれない。また、潮の満ち引きによって、海岸線が繰り返し海水につかったり乾いたりすることが、もしかしたら、海から陸へと生命が移動しいくキッカケだったかもしれない。そうだとしたら、海から生物が陸上に上がるのが遅れたかもしれない。もっと大胆に言うと、人類は生まれなかったかもしれない。

 人類が誕生したあとも、月は重要な役割をになっていた。とくに漁業では、月の満ち欠けが漁に出るタイミングを知らせただろう。その意味で太陰暦は重要だった。

 以上のことを、このエッセイに付け加えないのは、この魅惑的な衛星にとって公正とは言えないだろう。よって、月に対する不当な表現を大いに反省する次第である。

 ただ……もう一つ付け加えておきたい。上記の「月がなかったら」に関する考察は、すべて仮説である。証明はされていないのだ。地球から月を取り去って観察するわけにもいかず、また地球以外に、生命の存在する惑星も知らないのだから、比較検討することもできない。

 しかし、上記の仮説がすべて正しいとしたら……われわれの住む地球は、まさに奇跡の惑星なのだ。大気を維持できるだけの質量があり、太陽から適切な距離にあり、磁場の存在によって太陽フレアから守られている。ここまでは、広い宇宙に、同じ条件を持つ惑星はかなりの数が存在するだろう(稀なケースであっても、とにかく宇宙には、数えきれないほど恒星があるのだ)。ところが、月ほど巨大な(主惑星との比較において)衛星を持つ惑星は、想像を絶するほど稀なケースかもしれない。われわれ地球は、たまたま「そうだった」のだ。

 もしも月の存在が生命の誕生および進化の絶対条件であったとしたら、この宇宙に(少なくとも銀河系に)生命のいる惑星は、もしかしたら地球だけかもしれないと思えるほど少ないことだろう。

 地球は……孤独な惑星なのだ。とても残念なことだけれど、故カール・セーガン博士が、パイオニア10号(及び11号)に乗せた、異星人へのメッセージは、だれの目にも触れることはないだろう。永遠に。

 本当にそうだろうか? ぼくにはわからない。正直に告白すると、月が生命誕生と進化の必要絶対条件だと信じたくはない。地球だけが特別なのだと思いたくない。だが、そうかもしれないのだ。われわれは、もっともっと地球を愛するべきなのかもしれない。このかけがえのない、もしかしたら、宇宙に唯一なのかもしれない、生命に満ちた惑星を。

注2)
 もっとも、メートル法という「法則」ではなく、1メートルという長さそのものの「定義」については、厳密である必要があるので、現在(1983年以降)は、2億9979万2458分の1秒の間に、光が真空中を伝わる距離が、1メートルの定義になっている。将来、原子時計の精度が上がれば、この定義も変わる可能性がある。


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