ケルト人の神話



 ゲストブックで、ケルト人の神話について書いてほしいとリクエストをいただいた。ありがたいことでございます。

 さて。ケルト人の神話から誕生した物語のなかで、最も有名なのは「アーサー王伝説」じゃないだろうか。少なくとも、ぼくの中では「ケルト神話=アーサー王」という図式があったわけで、アーサー王に関しては、エッセイのページにカテゴリを設け、三回に渡って解説した。

 ところが。ぼくはアーサ王を語るとき、ケルト神話そのものを説明しなかった。それは、まったく理由のないことでもないのだけど、ここに一章を設けて、ケルト神話を説明しておくのも悪くないだろう。

 そもそもケルト人とは何者だ?

 この質問に明確に答えるのは難しいかもしれない。彼らは古代民族の中では、比較的新しい部類にはいるけど、まだまだ研究の途中ってとこかな。それでも、歴史をふり返るところからはじめよう。

 最後の氷河期が終わって、ヨーロッパの原野に人が住めるようになると、いろんな民族がぼつぼつ移り住むようになって、その中にケルト人もいたらしい。まあ、いわゆる、インド・ヨーロッパ語族って人たち。余談だけど、ドイツ人はプライドが高いっていうか、融通が利かないから、インド・ゲルマン語族って言わないと怒るらしいよ。

 さて、そのケルト人だけど、じつは彼らってば、なかなかカッコよかった。背が高くて金髪で、しかも青い目をしていたんだ。ぼくらが西洋人をイメージするときの特徴を彼らは持っていたんだね。(ケルト人には大きく分けて二系統あって、ずんぐりした連中もいる)

 しかし、ここで金髪の美しいお姫さまや、白馬の王子さまを連想してはいけない。それは少女漫画家に任せておこう。じっさいのところ、ヨーロッパに移り住んできたケルト人は、少女漫画家が腰抜かすような連中だった。いやはや、野蛮という言葉は彼らのためにあるようなもんだ。紀元前1200年ごろには、ヨーロッパのかなり地域に広がっていたみたいだけど、ほかの連中がまだ青銅器使ってたもんだから、どこから教わったのか知らないけど、すでに鉄器を知ってたケルト人は、アホなほかの民族をプスプスおもしろいように刺し殺して、いよいよヨーロッパの支配的民族になった。もっとも、地中海のほうは占領できなかったから、あちらには、ケルト人より、ずーっとお上品で優雅なギリシア文明が栄えた。当然ながら、ぼくはギリシア神話のほうが好きなわけだ。

 あ、そうそう。ケルトっていうのは、ギリシア人が彼らのことを、「ケルトイ」(よそ者って意味)と呼んでいたことに由来するんだ。ローマ人は彼らのことを、「ガリ」と呼び、彼らの住む地を「ガリア」と呼んでいた。

 彼らの住む場所が「ガリア」だとしたら、ヨーロッパ中「ガリア」になっちゃって具合が悪いんで、もうちょい専門的な話しもしておくと、イタリア北部ピエモンテ・ロンバルディア二地方を、「ガリア・キサルピナ」と呼ぶ。そして、フランス・ベルギー両国の全土と、オランダ・ドイツ・スイス諸国の一部を、「ガリア・トランサルピナ」って呼ぶことになっている。これは忘れてくれてもかまわないけど、念のため。

 ここまで読んで、そういえば、ケルト文明って聞かないなと思ったあなた。なかなかするどい。じつはケルト人たちは、どういうわけか文字を持たなかった。もちろんケルト語はあったけど(というかケルト語を話す人たちがケルト人だ)、それを文字にしなかったんだよ。

 いや、文字を持たなかったのには、彼らなりの言い分がある。なにか覚えたいことがあって、それを文字で書いて残すと、あとでそれを読めば思い出せるから、忘れちゃってもよくなる。それじゃあ、頭を使わなくなるから、やっぱり文字なんかないほうがいいと考えたらしい。彼らの文化は「口承伝承の文化」と呼ばれている。早い話し、伝言ゲームが好きだったわけだ。こいつは、文字を使うことを選択したわれわれとはずいぶん思想が違う。異質な文化といってもいい。だからこそ彼らは、独特の芸術を生み出したとも言えるわけで、当時のギリシア人やローマ人が考えているような野蛮な民族ではなかったと考えられる。

 しかしまあ、こうして文字を書くことを趣味にしているぼくとしては、文字のない文化は寂しいね。文化は研究に値する価値があることを認めるのはやぶさかではないけれどね。

 そんなわけで、伝言ゲームしか知らないケルト人自身が残した、ケルトの歴史の記録というのはほとんどない。ところが幸いなことに、文字をとっても大事にしていた、ギリシア人やローマ人が、彼らのことを書き残しておいてくれた。ギリシア人はえらい! みんな拍手。もっとも、ギリシア人やローマ人は、勝者の側からとして記録を残しているので、その点は考慮して読まなければならないけどね。

 とはいえ、ケルト人自身が残した文明の記録が、まったく残っていないわけじゃない。それは遺跡という形で残っている。たとえば、オーストリアのハルシュタットってところで見つかった遺跡は、見つかった場所にちなんで、ハルシュタット文明と呼ばれているんだけど、こいつは紀元前800年ごろのものらしく、このへんが、ケルト人が文化と呼べるものを最初に(体系的に)作った時期らしい。だからハルシュタット文明は、第一期ケルト文明とも呼ぶ。

 そのあと、スイスのラ・テーヌでも遺跡が見つかって、やっぱり地名からラ・テーヌ文明と呼ばれてるんだけど、こいつはどうも、紀元前500年ごろらしくって、こっちは第二期ケルト文明とも呼ぶ。文字がなかった致命的欠陥をのぞけば、まあ、それなりに洗練された文化だったらしい。

 さて。ケルトの絶頂期には、なんとやつら、よせばいいのに、ローマやギリシアまで出かけていっちゃった。ミラノやボローニャは、ケルト人が作った町らしいよ。そしてついに、紀元前387年。連中ってば、ローマを占領しちゃった。ローマだぜ。大丈夫かよ。あとが怖いのも知らずに……

 もちろん、ローマ人は怒って反撃するけど、ここでちょっと脱線しよう。脱線とは言っても、あとで説明するケルト神話を理解するのに重要な部分だから、飛ばさずに読んでね。

 さっきからケルト人、ケルト人って言っているけど、彼らはけっして、一つの国の国民ではなかった。ケルトという国があったわけじゃないんだ。ケルト語をしゃべり、共通した宗教観は持っていたけど、部族単位以上の統一国家を形成することはなかった。ケルト帝国は作らなかったんだ。だから、同じケルト人でも、インブレース族とか、ボイイ族とか、セノネース族とか、まあ、いろいろあったわけよ。ローマを侵略したのは、ポー川あたりでうろうろ(流浪)してた、セノネース族と言われている。

 さあ、話を戻そう。ローマ人は怒って反撃したけど、すぐってわけじゃないかった。ケルト人はなかなか強い。

 そのケルト人が、つぎに目をつけたのがギリシアだった。当時ギリシアを支配していたのは、かの有名な、アレクサンドロス大王だ。シリア、エジプト、ペルシアを征服して、さらにインドにまで攻め入って、バビロンに凱旋したとんでもない王さま。さすが大王って呼ばれることはある。こんな王さまがいては、さすがのケルト人も分が悪い。

 ところがどっこい、よっこらしょ。

 記録によると(といっても、伝説に近いという気もするが)、紀元前335年に、ケルト人の使節が、ドナウ河でアレクサンドロス大王に謁見したらしい。そのときアレクサンドロス大王は、「おまえたちが一番恐れているものはなにか?」と聞いたんだってさ。大王は、「あなたさまでござりまする〜」という答えを期待してたらしいんだけど、ケルト人ったら、「怖いもんなんかねえよ!」って豪語した。あーあ。またバカやってるよケルト人。

 いや、彼らの発言は、ただ野蛮だったからというわけじゃないらしい。現代のインテリジェンスな人たちは、彼らの宗教観こそが重要だと考えている。

 ケルト人は、死後の世界を信じていた。ドルイドと呼ばれる、ケルトの聖職者たちは、物質と霊魂は永遠であって、宇宙の実体は、水と火が交互に支配する現象の、絶え間ない変動のもとで不変であると考えた。ゆえに、人間の魂も転生する。へえ。そうなんだ。

 つまりだね、ケルト人は、戦いで死んでも、朝がきて目が覚めるように、ある日また生まれ変われると信じていた。たしかに、いくら死んでも大丈夫だと思ってれば、怖いものはないよな。それどころか、自ら進んで、神の生贄になるため死んでいくヤツも多かった。ちょいと病気になったりして、なんか生きてくのしんどいなと思ったら、死んじゃえばいいわけだ。転生が早まるからね。かなり原始的な宗教観だね。

 もっとも、けっこう進んだ宗教でも転生思想はある。でも、進んだ考え方って言うのは、教育的なのであって、生のある時間を充実して生きた者こそ、よりよい転生が得られると説く。だから、一生懸命生きなさいねと。

 その点、ケルト人の転生は原始宗教に近かった。じっさい、戦場でのケルト人は、まったく怖いもの知らずで、都会人のローマ人やギリシア人を震え上がらせ、かつ野蛮人だと思わせるに十分だった。こんな連中だったから、鉄器を使い、戦車まで持っていたケルト人の文明は、けっして洗練されていなかったわけじゃないのに、ローマ人の記録では、ただの野蛮人に成り下がるわけだよね。

 では、また歴史に戻ろう。

 えっと、ギリシアに目をつけて、アレクサンドロス大王と謁見したところまで書いたよね。怖いものはなにもないケルト人も、アレクサンドロスが存命中は手が出せなかった。だから、彼がご昇天なさってから、よし行くべって感じで、デルフォイを攻めた。

 おい、マジかよ。デルフォイって言えば、アポロンの神殿がある聖地だぜ。やめてくれ。ぼくの好きなギリシア神話の街を壊さないでくれ〜。

 大丈夫。やつらはコケた。紀元前279年のことなんだけど、なんとこの進攻は失敗に終わったんだ。やったぜ! このあたりが、ケルト人の凋落のはじまりだ。ローマを侵略されて、頭から湯気が出るくらい怒っていたローマ人は、紀元前225年に、ケルト人を追い出すことに成功した。

 勢いに乗ったローマ軍は、がんがんケルト人をやっつけていった。ケルトのインブレース族は、首都ミラノでローマ軍に負けた。ボイイ族は、ローマに服従しちゃって、一部はアルプスの北に帰っていった。カルタゴでも、ハンニバルに負けちゃった。

 しかし。なんといっても決定的なのが、かの「ガリア戦記」で有名な、ガリアでの戦いに負けたことだった(ちなみに、このときのガリアは、フランスあたりのこと)。

 そうなんだよ。ついに、ジュリアス・シーザー登場。ヤバいぜ、このオッサン(執政官になったのは41才のころだから、マジでオッサンだった)、むちゃくちゃ強いもん。

 え? ジュリアス・シーザーじゃなくて、カエサルと呼んだほうがいい? 彼の残した「ガリア戦記」は、カエサル著と言われているじゃないかって? まあそうだな。んじゃカエサルと呼ぼう。この人、武将としても政治家として有能だったわけだけど、なんといっても文筆家としても卓越していた。彼の書いた、「ガリア戦記」や「内乱記」はラテン文学の名著って言われている。たいしたもんだ。

 紀元前58から51年ごろ。カエサルが攻めてきたってんで、慌てふためいたケルト人たちは、若き指導者、ウェルキンゲトリクスのもとに団結して、必死に戦ったんだけど、ボロ負け。それからあと、ヨーロッパ大陸にいるケルト人は、もう領土を維持できなくなって、消えていく運命だった。彼ら自身だけでなく、彼らの文化も。まあ、最終的にケルト人を追い払ったのはゲルマン人だけど。

 しかし。ここでやや事情が異なるのがブリテンだ。イギリスだね。さあ、だんだんケルト神話に近づいてきたぞ。みんなもうちょっとの辛抱だ。

 ご存じのようにイギリスは島国なので、ちょいと大陸とは違う。最初にイギリスに移り住んだ民族がなんだったのかよくわかっていないけど、じつは、そのころは島国じゃなかった。紀元前5000年ぐらいに大陸と別れて、彼らの大嫌いなフランスと離れられたんだから、万々歳だったろうね。

 で、かなりの暇人だったイギリスの先住民族は、ストーンヘンジとか、エイベリー(石の輪があるんだ)とか、でかい石を積み上げて、意味不明の遺跡を残したりしてる。なんなんだアレは。まあ、いろんな解釈があるけど、それはこのエッセイでは関係ない。

 それから、紀元前4000年ぐらいだと思うけど、船を作ってやってきた大陸の連中に侵略されて、でかい石を積み上げてた暇人たちは、あっさり負けた。その新しい連中も、紀元前650年ごろ、こんどはケルト人にやられちゃった。

 そこでケルト人は呑気に暮らしていた。彼らは、いまのロンドンを「ロンディノス」と呼んでいたらしくって、これがどこかでどうかなってロンドンになったらしい。イギリスの地名は、けっこうケルト語が語源になっているんだってさ。

 とはいえ、さっきまで書いていたとおり、大陸ではえらいことになっていた。ローマにがんがん滅ぼされちゃってる。イギリスも無縁じゃなかった。そう。またまたカエサルくんだ。紀元前55年ごろ、ローマから二軍団ほど引き連れて、ケルト人を懲らしめにやってきた。

 ところが!

 驚くなかれ、イギリスのケルト人たちがんばったんだよ。ローマ軍を破ってしまった。それで逃げ帰ったローマ軍は、もうイギリスを攻めるのは懲りたかっていうと、そうじゃない。一年後に、こんどはもっと大勢で攻め込んだ、

 ところが!

 またまた驚くなかれ。このときもローマが負けちゃった! わーぉ。すごいじゃん。

 これで、さすがのローマ人も懲りたんだけど、ローマ人はケルト人よりずっと悪賢いから、武力で侵略より、友好的なふりをして、自然に入り込む方法を選んだ。でも、この少しずつ入り込む作戦は思ったより長くかかっちゃって、かの悪名高いネロの義父、皇帝クラウディウスのおっさんは、ついに痺れを切らして、やっぱり征服しちまえって命令を出した。こんどは成功。

 ところで、さっきからイギリス、イギリスって書いてるけど、この当時、ローマ人はイギリスをブリタニアと呼んでいた。イギリス人はブリトン人だ。「イギリス」なんて国はなかったし、もちろん「イギリス人」もいなかった。その辺、間違いないようにしてね。

 さーて、こんどはキッチリ占領されちゃったケルト人。ローマに抵抗を続けたかと思いきや、なんと仲間になることを選んだ。ローマ風の暮らしを受け入れたんだね。いや、それで正解だと思うよ。だって、ローマ人は道を造ってくれるし(まっすぐな道を作るしか能がなかったのが欠点だけど!)、しゃれたモザイク屋根の家は建ててくれるしで、彼らにうまく取り入れば、ケルト人も同じような生活ができた。考えてもごらんよ、ローマ人は、お風呂も、ガラス窓も、水泳プールも、水道も、おいしいワインも持ってきたんだぜ。これに抵抗できるヤツがいるかい? しかもだ。ちゃんとした文字まで教えてくれたんだからいうことないね。

 まあ、そうは言っても、みんながみんなうまくやったわけじゃなくて、ほとんどは百姓か奴隷だったけど、それまでの暮らしと比べて、そんなに悪くなかったのかもよ。

 ところがだ。ローマ人に徹底的に抵抗した連中もいた。いまでいう、スコットランドのハイランド地方には、ピクト族とスコットランド人が住んでいて、いやはや、こいつらの野蛮さといったら、もうケダモノ並みで、とてもじゃないけど、垢抜けたローマ人が入っていこうなんて思う場所じゃなかった。だいたい、ケルト人だって、やつらの野蛮さには手を焼いていたんだから。だから、やつらとの境界線に、でかい壁を作って、こっち側に入ってこれないようにした。

 で、ウェールズはどうだったかというと、山で金が見つかって、ちょいとおいしい場所だったけど、どうも土地がやせてて、移り住みたくなる場所じゃなかったみたいだね。アイルランドも寒くてごめんだ。だからローマ人は、もっぱらイングランドを統治した。

 そんなわけで、イングランドのケルト人は、ローマの「準市民」として、三百年ぐらいは、けっこう楽しく暮らしてた。

 そんなこんなで、時はたち、西暦367年。壁の向こう側で虎視眈々と、略奪を狙っていたピクト族やスコットランド人が、ついに壁を超えて侵略してきた。しかも、間が悪いことに、大陸からは、サクソン人が攻めてきた。こいつら、デンマークやドイツのアングル族なんかと一緒に、ぞろぞろゴキブリみたいに上陸してくるところだった。いわゆる総括してゲルマン民族と呼ばれるご一行さま。

 大変だ! 本国ローマに助けを求めよう!

 それがダメだった。じつは本家本元のローマでは、年がら年中宴会やってる暮らしになっちゃって、すっかり帝国全体のことなんかどうでもよくなって、国が傾いて崩壊し始めてるのに気がつかなかったんだ。いや、本国でもゲルマン人に悩まされてたから、凋落に気づいてはいたろうが……それでも宴会やってるほうがよかったらしいよ。

 さあマジで大変ですぜ。北からも(スコットランドだよ)海からも、ヤバそうな連中がじゃんじゃかやってくる。イングランドのローマ人も(ケルト人もね)本国に負けず劣らず、すっかり平和ボケだから、戦うどころの騒ぎじゃない。なにせ、殺し合いの練習するより、スターバックスでカフェラテ飲んでた時間のほうが長いんだから(冗談だよ)、やつらにかなうわけがない。

 それでもイングランドのローマ人たちは、なんとか十数年、抵抗したんだけど、本国ローマでは、テオドシウスがローマを東と西に分裂させちゃうしで、にっちもさっちもいかなくなって、ついに力尽きた。ローマ人は、イングランドを放棄した。荷物まとめて、ローマに帰っちゃったんだよ。西暦407年ごろの話だから、すでにローマは東と西に分裂していた。ちなみに、東の皇帝も西の皇帝も、かなり出来の悪いおバカさまだったから、故郷に帰っても、あんまりいいことなかったかもね。

 ここで、本国ローマに関して、もう一つ重大なニュースがある。ずいぶん長いこと、ローマ人はキリスト教徒をライオンの餌にして楽しんでいたのだけど、彼らがイングランドを放棄する27年ほど前。コンスタンティヌス帝が、ついにキリスト教を認めて、それどころか国教としちゃった。これでキリスト教大流行。

 それはそれとして、ローマ人が帰ったあとのイングランド。困ったのはケルト人だ。なんだかスコットランド人はいるわ、ゲルマン人はいるわ、キリスト教は入ってくるわで、なにがなんだか、サッパリ事情が飲み込めなくて、でも、このままイングランドにいたら殺されちゃうのはわかったから、アイルランドや、ウェールズや、コーンウォール半島に引っ込んで(スコットランドにも、ちょこっと)、そこでまた、スターバックス開いたらしいよ(笑)。

 バカ言ってないで、そろそろ歴史の話は終わりにしよう。いままでの説明で、だいたい歴史背景はわかってもらえたかな。大陸のケルト人は、ローマにやっつけられ、ゲルマン人にいじめられ、徐々に彼らの中に同化して、消えていった。

 ところが。イギリスでは、アイルランドやウェールズに逃げたケルト人が、その文化を守ったんだ。だから、ケルト神話のほとんどは、この二つの地域で発展した。

 さあ、お待たせ。いよいよ、神話の話をしよう。

 ここで複雑なのは、アイルランドとウェールズでは、その根幹(宗教観というべきか)は同じであっても、発展した神話は別物に近いことなんだ。一口にケルト神話といっても、いろいろ枝分かれして、さらにそれが繋がって、しかも困ったことに、ローマ神話も混ざって、いよいよ頭が痛いのは、キリスト教の影響まであることなんだ。いやはや、厄介なんだ。

 と、困っていてもしょうがないので、このエッセイでは、すっごく単純化して、だいたい、どんな感じに枝分かれしたか箇条書きにしてみよう。

アイルランド(十世紀ごろにまとまる)

ダーナ神族の神話。それからずっと後の世に、「クー=ホリン」という英雄が出てくる、アルスター神話も生まれる。
ウェールズ(マビノギは十一世紀、アーサー王伝説は十五世紀ごろまとまる)

古伝承は「マビノギ」と呼ばれる。それらをもとに作られた物語の一つが、かの有名なアーサー王伝説。五世紀ごろブリテンの王さまだったというオッサンの話。関連して「トリスタンとイゾルデ」の物語も有名だね。
スコットランド(十八世紀ごろにまとまる)

フィアナ神話。アイルランドのアルスター神話(クー=ホリン)から、さらに後の世、「フィアナ」の騎士団という連中のお話。


 こんな感じ。神話としては、ダーナ神話、マビノギ(アーサー王伝説)、アルスター神話、フィアナ神話。これからをまとめて「ケルト人の神話」と言っているわけだ。

 ぼくは、「アーサー王伝説」を書いたとき、それをとくに「ケルトの神話」と強調しなかった(ケルト人の英雄とは書いたけど)。体系的なことを解説するには、上の四つを、すべて話さなくちゃいけなくて、かえって混乱すると思ったんだ。なんとも複雑で申し訳ないけど、べつにぼくが悪いわけじゃないので、謝ってもしょうがないな。

 ところで、上の表をみてもらうと、それぞれの物語がまとめられたのが、みんな中世になってからなのがわかるよね。歴史の解説でも書いたとおり、ケルト人の文化は、伝言ゲーム……じゃなくて、口承が伝統だから、文字として残っていたのではなくて、吟遊詩人に語り継がれていただけなんだ。

 こりゃイカンと思ったのが、初期キリスト教時代の、修道院の学者たち。口伝えだった詩や伝説をせっせとまとめて、それがいま、われわれの読める「文学」として、残っているわけなんだ。だから、まとめられた(編成)時代が古いからと言って、必ずしも、その伝説の成立年代も古いとは限らないけど、まあ、おおざっぱに言って、編成年代が古ければ、元のお話も古いと考えられる。

 では、順番にやっつけよう。まずはアイルランドからだ。たぶんここが、一番古い。

 アイルランドに残る神話には、ひとつ大きな特徴がある。神話っていうのは、地域を問わず、たいてい天地創造の話からはじまる。ところがだ。アイルランドの神話には、天地創造がない。この世は、すでに最初からあった。そこはエリンと呼ばれた。このエリンが、ずばりアイルランドのことなんだ。

 神話は、エリンに、つぎつぎと種族がやってきたところからはじまる。このことは、十世紀にまとめられた、「侵略の書(レバ=ガバーラ)」に残されている。それによると、つぎのような順番で、五つの種族がやってきては繁栄し、そして滅亡していった。

1番) パーソロン
 
2番) ニュウズ
 
3番) フィルボルグ
 
4番) トゥアハ・デ・ダナーン
 
5番) マイリージャ

 ここで、1番と2番は忘れてくれていい(乱暴だね、われながら)。というのは、神々の種族として、神話の中心を担っているのは、4番のトゥアハ・デ・ダナーンなんだ。

 とはいえ、トゥアハ・デ・ダナーンの一つ前、3番のフィルヴォルグは忘れるわけにはいかない。トゥアハ・デ・ダナーンは、このフィルヴォルグと戦って、滅ぼさなきゃいけなかったからだ。神話には、その攻防戦が描かれている。

 ここで、言葉を単純にしよう。トゥアハ・デ・ダナーンは、女神ダヌ(ダーナ)を母とする種族なので、ダーナ神族と呼ばれていて、そちらのほうが一般的な名称なんだ。だからぼくも、これからトゥアハ・デ・ダナーンのことを、ダーナ神族と書くよ。ちなみに、女神自身の名は「ダヌ」とするのが一般的だから、神族の名称と同じダーナとは書かない。

 さて。ダーナ神族のみなさん。ダヌさんを母とすると書いたけど、このダヌさんが最初の神かというとそうじゃない。ダグダというお父さんがいる。じゃあ、ダグダ神族と名乗ればよさそうなもんだけど、なぜか、娘のダヌの名前が神族の名称になっている。なんでだ? ぼくは知らない。アイルランド人に聞いて。

 ちょっと待て。詳しい方なら、ダグダも、ダヌの息子だろという人がいるかもしれない。たしかに、ダヌがすべての神の母で(つまり、はじまりで)、ダグダも息子の一人と解説している人もいる。

 でもね。ダグダは、ダヌの父とするほうが、おそらく正しい。ダヌを祖とするからダーナ神族なのであって、その意味ではダグダも、ダヌの息子にしたほうが矛盾が少ないから、そう解釈したいのはわかる。ぼくもその説を採用したいくらいだ。

 さらに歯がゆいのは、名称の由来になったダヌさんの影が薄い。ギリシア神話のヘラ姉さんみたいに、存在感ありまくりならおもしろいのに、ダヌさんたら、いてもいなくてもいいというか、いっそ「いない」と言ってもいいぐらいだ。どんな人かもサッパリわからない。怖かったのか慈悲深かったのか……まったくわかりません。

 わたしはアイルランド人に申し上げたい! ダヌを母神として、なんだか、わけわかんない神さまのまま放置プレイを楽しむつもりなら、ギリシア神話のガイアのように、まぎれもない「すべての神の母」とするべきではないか! ガイアはウラノスを生んだが、そのときガイアしかいなかったので、もちろん、ウラノスには「父」はいない。ガイアが、ひとりで生み出したんだ。そうするべきじゃなかったのか?

 しかし、彼らはそうしなかった。なぜだ?

 これはぼくの勝手な推論なんだけど、おそらく彼らの信仰した、輪廻転生にその原因があると思う。さっき歴史の途中で解説したけど、彼らは、「宇宙の実体は、水と火が交互に支配する現象の、絶え間ない変動のもとで不変である」と考えた。これはつまり、終わりもはじまりもない、いつまでもぐるぐると、永遠に輪廻する輪の、どこかの一点が「現在」であると解釈することもできる。となれば、ダヌが「はじまり」ではないのだ。ダヌもまた、なにかの輪廻した姿であり、彼らの想像できる一番最初(母親として)が、ダヌであったにすぎない。だから、ダヌに父親がいてもいいのだよ。彼らにとって、それは矛盾ではなく、もしかしたら必然ですらあったかもしれない(同じ理由で、天地創造神話が存在しない理由も説明できる)。というわけで、母として最初に想像できたのがダヌだから、彼らはダーナ神族になった。アイデンティティというか、ルーツは「父」ではなく「母」に求めたくなるんだろうね。人間の心理として。母はいつの時代も偉大なのだ。

 いかがなもんでしょう? そんなに悪くない解釈だと思うけど。これと同じことを、だれかが(学者ならうれしいね)書いているかもしれないけど、ぼくはそれを読んでいない。ぼくの勝手な思いつきを書いただけだから、間違ったことを書いている可能性も大きい。本格的にケルトの神話を調べたい人は、自分で文献を当たってください。ぼくは、日本語に翻訳された神話を読んで、日本人の学者が日本語で書いた解説を読み、それらを多少なりともわかりやすい言葉に変換して、たまに、ちょっとした思いつきを披露することぐらいしかできない。そこから先はまったく進めないんだ。

 では、そろそろ各論に移ろう。ダーナ神族の神話には、物語には加わらない(つまり神話が残っていない)ダヌをべつにすれば、けっこう個性豊かな神さまたちが登場する。こちらも箇条書きにしてみよう。

大地の神 ダグダ
ダーナ神族の王 ヌァダ
万能の神 ルー(長腕のルーともいう)
海神リルの息子 マナナン・マクリル
医術の神 ディアン・ケヒト
鍛冶の神 ゴブニュ
愛と若さの神 オィンガス
雄弁と霊感の神 オガム(オガム文字の発明者とされる)
戦いの女神 モリガン(偉大なる女王という意味)
10 同じく戦いの女神 ヴァハ(モリガンと同一視されることが多い)
11 地下の神 ミディール
12 河の女神 ボアーン


 彼らダーナ神族は、四つの宝物を持っていた。これも箇条書きしよう。

ファールの聖石 アイルランド王になるべき人物が座ると、
叫び声を上げて知らせた
ルーの神の楯 これに勝つものはなかった
ヌアドゥの剣 どんな敵も逃れることができなかった
ダグダの大鍋 どんな大軍も満腹にさせることができた


 これら、四つの宝物を持ってアイルランドにやってきたダーナ神族は、一つ前のフィルボルグ族に、島を譲るように迫った。そりゃもちろん無茶な注文であって、フィルボルグにしてみたら、バカ言ってんじゃねえよってことになるんで、もちろん戦争になった。

 ダーナ神族の大将は、ヌァダ。この戦争で、ヌァダは片腕を失ってしまって、フィルボルグと相討ちってことで、島を分け合って和平を結んだ。ダーナ神族には、五体満足でなければ王になれない掟があったから、ヌァダは、ブレスってやつに王座を譲った。

 さてさて、このブレスがくせもんで、母はダヌなんだけど、父は悪神の種族、フォモレイの王さまだったから、ダーナ神族は、ブレスの支配に苦しむことになった。早い話し、悪い王さまだったわけだ。(ちなみに、フォモレイは、アイルランドの、土着民だとも考えられている)

 人気を失ったブレスは王座を追われ、医術の神さまディアン・ケヒトに銀の腕を作ってもらったヌァダが、王座に返り咲いた。

 そんなある日、王都タラで呑気に宴会をやっているところに、万能の神、ルーが現れたもんだから、ヌァダは、ルーに王座を譲った。

 ルーを王として、ダーナ神族は、ふたたびフィルボルグ族と戦った。敵の大将は、ルーの祖父バロルで、このジイさん、敵を麻痺させる魔力を持っていた。しかし、ルーは万能の神なんで、ジイさまの魔力を封じて、ダーナ神族は、ついに勝った。これでアイルランドの支配者だ。めでたしめでたし。

 そのあと、ダーナ神族はけっこう長い間アイルランドを支配したんだけど、そこへ五番目の種族が入ってきた。マイリージャ族。ミールの子供たちとも呼ばれている種族。なんのことはない、こいつらは人間のことだ。もちろんケルト人だろうね。

 さて。ダーナ神族はどうしたか。ぼくは、ダーナ神族が人間に負けて、アイルランドを出ていったと書かれた本を読んだ記憶がある。本のタイトルも作者名も覚えていないけど、読んだ瞬間、そんなバカなと叫んだね。

 だって、相手は神さまだぜ。人間ごときがなぜ神に勝てる?

 まあね。意地の悪い言い方をすれば、人間は科学で神を滅ぼしたと言える。ダーウィンが進化論を唱え、ガリレオは地球が動いていると主張し、ニュートンが万有引力の法則を明らかにし、アインシュタインが宇宙を数学的に表記した。自分の理論が間違っていたらどうするかと問われたアインシュタインは言ったものだ。わたしは、正しくない原理にもとづいて宇宙を創造するという誤りをおかした神を、気の毒に思っていただろう、と。

 それでもぼくは主張したい。ケルト人が、剣と斧で、神さまを滅ぼせたはずがない。だから、名前も忘れた作者の主張は却下。

 では、神さまたちはどうしたか?

 なぜだか知らないけど(注)、人間たちがやってくると、彼らは気持ちよくアイルランドを譲った。そして自分たちは天上にあがった……と、思いきや、これまたなぜか、地下にもぐって、妖精になったそうだ。ちなみに、その地下の国は、ティル・ナ・ログ(常若の国)って言うんだよ。

(注)
 この点に関して、エッセイを読んだ方からメールがあった。どうやら、アイルランドに移り住んだケルト人が、先住民族を滅ぼしちゃったもんだから、ちょいと罪の意識が芽生えたみたい。先住民族は用途不明の巨石遺跡なんかを残していたから、不気味にも感じただろうとのことだ。だから、滅ぼした先住民族を神格化して、彼らの霊を祭った。なるほど、平将門みたいな話で、説得力がある。ダーナ神族は、滅ぼされた先住民族だから、地下の世界に(死者の世界)にいるという説明にもなるしね。

 以上が、ダーナ神族の物語だ。

 これから後、アルスター地方(北アイルランドですな)の王さまと、戦士と女性をめぐる叙事詩群(群です。一つじゃありません)が生まれて、それらがアルスター神話と呼ばれている。中でも、英雄クー=ホリンの話が有名だね。アルスター神話は、ダーナ神族からアイルランドを譲ってもらった、人間たちの歴史と言ってもいいだろうね。

 では、ウェールズに移ろう。

 ウェールズに残っている古伝承は、全体的には、たぶんアイルランドのダーナ神族の神話より少しばかり新しい。それらは、一般的に「マビノギオン」と呼ばれている。

 これからも中世の修道院で、ウェールズの修道士たちによってまとまられたのだけど、そのころは「マビノギ」と呼ばれていた。それが、十九世紀に入ってから「マビノギオン」になっちゃった。まず、そのわけを解説したい。

 犯人は、シャーロット・ゲスト夫人だ。彼女は、中世ロマンスの研究家で、どういうわけか、マビノギを英語に翻訳しようと思った。ウェールズ人じゃなく、イングランド人なんだけど、ウエールズ人の大富豪と結婚したもんだから、夫の故郷に興味を持ったのが、そもそもの動機だろう。たぶん。それが自身の研究テーマと結びついたわけだ。

 そんなわけで、シャーロットおばさんは、1838年〜1849年にかけて本を出版した。それらはけっこう話題になった。マビノギを世界に知らしめるのに役立ったわけだ。

 ところが。シャーロットは、大変な間違いをやらかしてしまった。彼女はマビノギを複数形にするべきだと思った。だから、本のタイトルを「マビノギオン」にした。もとの「マビノギ」が、すでに複数形だったのを知らなかったんだ。と、言われている。

 本当にそうだろうか?

 古書を翻訳できる彼女が、なぜ、そんな単純な(そして重要な)ことを知らなかったんだろう。もしかしたら、自分の作った、マビノギオンという言葉の美しさに負けたのかもしれない。そんな気がちょっとする。

 まあ、邪推はこれぐらいにして……

 少し時間を巻き戻そう。中世の修道士たちは、ウェールズの物語をまとめるにあたって、だいたい三つのグループに分けられる、十一の物語を残した。箇条書きしてみよう。

グループ1 マビノギの四つの物語
1−1 ダヴィド公プイヒル
1−2 ヒリールの娘ブランウェン
1−3 ヒリールの息子マナウィダン
1−4 マソンウィの息子マス
グループ2 カムリ(ウェールズ)に伝わる四つの民話
2−1 マクセン・ウレディクの夢
2−2 スィッズとスェヴェリスの物語
2−3 キルッフとオルウェン
2−4 ロナブイの夢
グループ3 アルスルの宮廷の三つのロマンス(騎士物語)
3−1 ウリエンの息子オウァインの物語
3−2 エヴラウクの息子ペレドゥルの物語
3−3 エルビンの息子ゲライントの物語


 これでわかるように、シャーロットのマビノギオンは、グループ1のマビノギの四つの物語が核になっている。ちなみに、グループ2の一部と、グループ3が、アーサー王伝説のもとになったお話。

 さて。マビノギオンに関しては、シャーロットの著書ではなく、さらに、そのもとになった原点の写本から邦訳したものが、JULA出版局から出ているので(マビノギオン・中世ウェールズ幻想物語集。訳、中野節子)、そちらを読んでいただくとして、ここでは、マビノギの中から、最初の「ダヴィド公プイヒル」を少しだけ紹介しよう。なぜなら、美女が登場するからだ(笑)。

 南西ウェールズのダヴィド州に、プイヒルという王さまがいた。彼は、異界アヌーヴェンの王、アラウンから、異界での戦いに助力を求められる。そこで二人は、一年間お互いの姿を変え、プイヒルが、アラウンに変わって、異界で戦った。

 プイヒルは勝った。めでたし。その後、彼は異界の貴婦人、リアノンと出会った。いやあ、彼女ってば、美人だったんだよねえ。だからライバルがいた。そいつの名はグワウル。プイヒルは、リアノンをめぐってグワウルと戦った。ここでも勝った。強いねオッサン。

 これで、めでたくプイヒルはリアノンと結婚したのだけど……このあと悲劇が起こる。

 しばらくして二人には子供ができたのだけど、その子が何者かに奪われてしまうんだ。これだけでも大変なことなのに、なんと、子供をみていた下女たちが、自分たちの落ち度を責められるのが怖くて、リアノンが子供を食い殺したんだと嘘をついた。

 す、すさまじい嘘だな。母親が子供を殺した? しかも食い殺したって? マジかよ。そんなバカな。と、まともな人間なら考えて、嘘をついた下女たちを疑うはずだけど、プイヒルのアホは、下女たちの方を信じて妻のリアノンに罰を与えやがった。底抜けのバカだね。リアノンさん。悪いことは言わない。そんな頭の中に脳みそが入っていないバカとは、すぐに離婚しなさい。ただちに。たったいま。

 と、彼女に助言したいところだけど、そういうわけにもいかず、リアノンは、長い間罰の苦しみに悩まされるんだ。子供を誘拐されただけでもショックだろうに、それを自分が殺したなんて(しかも食ったんだぜ!)いわれない罪に問われたんだから、そら、大変なストレスだったでしょうな。

 しかし。世の中悪いことばかりじゃない。なんと、その子、無事に見つかるんだよ。これでリアノンの無実が証明された。その子は母親の受けた受難から、「悩み」という意味を持つプリデリと名付けられた。そのあと、嘘をついた下女たちがどうなったかは知らない。

 で、この後に続く物語にも、共通してプリデリが登場するので、マビノギ(いまさらだけど、息子という言葉がもとなんだ)とは、プリデリのことだと言われている。だから、マビノギはある意味、プリデリ物語と言ってもいいわけだ、彼がいつも主人公ってわけじゃないけどね。プリデリが一番活躍するのは、三番目の「ヒリールの息子マナウィダン」だろうな。そのむかし、リアノンを奪われたグワウルの恨みを晴らそうとする者たちと(なんとも未練がましいね、グワウルくんも)戦ったりする。

 さて。このマビノギとは、ちょいと別系統で(繋がってはいるが)、民話と英雄伝のほうを、十五世紀のトーマス・マロニーが集大成して、ぼくの大好きな「アーサー王伝説」ができあがった。物語の詳しくは、ぼくのエッセイを読んでいただきたい。

 ただ、せっかくだから少し補足しておくと、アーサー王伝説も、もともとは、キリスト教化される以前の民話だったと思う。そのころには当然、聖杯なんてものはなかったはずで、アーサー王たちが、狂ったように、聖杯を探す旅に出るというのは、後世のこじつけでしかないはず……なんだけど、アイルランドの民話で、ダーナ神族が持っていた四つの宝物を思い出してほしい。思い出せないなら、ページを上にスクロールしてほしい。そこに、ダグダの大鍋ってあるよね。どうも、この大鍋が、聖杯伝説のもとになったんじゃないかと、考えている学者もいるらしいよ。

 補足ついでに言うと、いまわれわれが知るアーサー王伝説は、多少なりとも正確に表現すると、「ローマ化したケルト人の中の、さらにキリスト教に改宗してた連中のリーダーのお話」と言えるんじゃないだろうか。

 よし。これでウェールズも片づいた。最後がスコットランドだ。

 スコットランドには、フィアナ神話が残っている。こいつは、十八世紀の後半に、ジェイムズ・マクファーソンが、「フィン王の息子オシアン歌」として発表した本が(通称、オシアン)ヨーロッパのロマン主義運動に影響力を与えたんだ。ゲーテも、けっこう影響受けてるよね。その意味では、シャーロットのマビノギオンよりインパクトは強い。

 とはいえ、発表当時、彼の作品が絶賛されたわけじゃない。じつはその逆。

 オシアンってのは、三世紀ごろの、アイルランドの吟遊詩人だったらしい。マクファーソンは、本を出版したあと、オシアンのゲール語で書かれた詩を、スコットランドの高地地方を旅しながら、自分で採集したと主張したけど、信じてもらえなかった。けっきょくマクファーソンの死後、彼の作品は、アイルランドの民話を適当に寄せ集めて、でっちあげた創作だったという結論に至った。かわいそうに。マクファーソンは死んじゃってるんで反論もできない。もちろん、真偽のほどはわからない。

 しかしまあ、一般的には、オシアンはスコットランドの伝説ってことになっている。

 ここで告白しなきゃいけないのだけど、じつは、マクファーソンの書いたオシアンの邦訳は……読んだことがないんだ。ごめん。ちょっとアマゾンドットコムを調べてみたけど、なかった。いや、あると思うんだが……探し当てられなかった。だれか知ってるかい? 知ってたら教えて。

 代わりといってはなんだけど、下のURLを参考にあげておくね。デラウェア大学図書館のホームページの中に、やっと発見したよ。こんな本なんだ。紹介文は英語だけど、そんなに難しくないから読んでみて。けっこう参考になると思うよ。

http://www.lib.udel.edu/ud/spec/exhibits/forgery/ossian.htm

 さてさて。原典とも言えるマクファーソンの本は読んだことはないけど、ぼくが、ギリシア神話の資料としてもお世話になっているギリシア神話小辞典を書いた、バーナード・エヴスリンが、「フィン・マックールの冒険」っていう本を書いている。(訳、喜多元子。教養文庫)

 ここでまた告白。その本が見あたらない(苦笑)。もうずいぶん前だからなぁ。記憶が定かではないけど、読んでから十五年は経っていると思う。たぶん、引っ越しかなんかでなくしたな。とにかく著者だけは覚えていたので、その記憶を頼りにネットを探して、やっとタイトル名を思い出せたぐらいなんだ。アマゾンドットコムにもないし、版元(社会思想社)の在庫目録にも載っていないので、絶版になったようだ。

 というわけで、オシアンについて、ぼくに語れることはあまりない。非常に頼りない記憶によると、バーナード・エヴスリンの本では、フィン・マックールは、「フィアナ騎士団」を作って、よろしくやっていたんだけど、ある日、どっかの島で、すごい美女に出会って、彼女をアイルランドに連れ帰る話だったように思う。スコットランドじゃなかった気がするんだよな……

 これでは、あまりにも情けないので、手元にあるケルト神話の解説書を頼りにオシアンについてまとめてみよう。

 フィアナ騎士団を創設したフィンは、ダーナ神族のヌァダの曾孫だ。やっぱりアイルランド系だな。入団の条件は、武術だけでなく詩作も要求されたっていうから、けっこうインテリ集団だったらしい。男には寛大、女には優しく親切だったそうで、フィアナ騎士団は、人々に人気があったんだってさ。ホントかねえ。うーむ。まあ、真偽のほどはともかく、物語ではそうなっているので、ヨーロッパのロマン主義運動に影響力を与えたのもうなずける話だ。物語としては、フィンと、その子供オシーン(オシアン)と、孫のオスカー(オスカル)を中心にしたお話らしいよ。

 以上、スコットランド終わり(苦笑)。

 いかがだったろう。アイルランドを中心に、ウェールズと、スコットランドの高地に(やや疑問はあるが)残る民話を寄せ集めたものが、全体として「ケルト人の神話」と呼ばれている様子がご理解いただけただろうか。ケルトに限らず、神話の世界は、いろんな要素が複雑に絡み合ってできているんだよね。


 追記/2003.11.27

 このエッセイをアップしたあと、ケルト民族のことをお好きな方から、ご気分を害されたという内容のメールをいただいた。エッセイの中でケルト人をバカだとか野蛮だとか連呼したのが直接の原因だ(もちろん、全体的にケルト文化に否定的な内容なのが大きな原因ではあるが)。ぼくの文体がそうなのだと言ってしまえばそれまでだが、真摯にケルト民族を研究なさっている方からすれば当然の反応だろう。

 とはいえ、これからも書くであろう歴史や神話のエッセイで、ぼくのテイストを薄めるつもりはまったくないし、ぼくの偏見も大いに反映されることだろう。それをやめたら、ぼくがエッセイを書く意味はない。しかし、下品な言葉の使用には十分気をつけたいと思う。さらに、ぼくの偏見をいい意味で正してくれるなら、喜んでエッセイを修正したい。

 今回は、大変真摯なメールをいただき、エッセイを修正する必要があると感じたので、「バカ」というような下品な言葉を削除し、また野蛮ということについても、若干の修正をさせていただいた。修正したエッセイと、この追記をもって、気分を害された方へのお詫びとしたい。


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