宇宙の秘密 その2



 みなさんもご存じのとおり、日本人が、またまたノーベル賞をもらった。しかも二人も! 化学賞と物理学賞だ。同じ年に二人の受賞者を出すのははじめてなんだってさ。まるでこの快挙を予測するかのように(してない)、最近のぼくは、すっかり物理マニアだ。どうやら、物理学菌に冒されたらしい。素人がこの菌に感染すると知恵熱にうなされる。病状が悪化すると、デートの最中にも、アインシュタインの相対性理論について語り出したりするから(しかも熱く!)、かなり危険だ。

 重症だな。と、われながら思ったね。

 ところが、その翌日の晩、彼女から電話がかかってきて(しかも、やや興奮気味に)、買ったばかりの桑田佳祐のソロアルバムに、アインシュタインのE=mc2という公式が出てくる曲があったそうなんだ。タイトルは、そのものズバリ「質量とエネルギーの等価性」。彼女いわく、ぼくに相対論の話を聞いていたから、その曲を興味深く聴いたそうだ。

 役に立ったじゃないか(そうなのか?)。だからこのエッセイが、みなさんにとっても、なにかの役に立つことを祈らずにはいられない。

 前回のエッセイは、重力を扱うことの難しさを示唆して終わった。確かにこいつは難しい。だが、それに挑戦した科学者がいた。

 彼の名は、アルベルト・アインシュタイン。

 アインシュタインは、じつに科学者らしい風貌をしている。天才に対して失礼ながら、オシャレには無縁というか、無頓着というか、しったこっちゃないというか、まあ自分の外見を気にするような人ではなかったようだ。彼にとっては、方程式がすべてだった。

 そんなアインシュタインを、人々は愛した。アイザック・ニュートンをのぞいて、一般大衆や若者や(たとえば、ぼくのような!)、それどころか、他の大科学者たちからさえ、生前にこれほどの尊敬を受けた科学者はいない。だがもちろん、アインシュタインは、すべての人から愛されたわけではなかった。それどころか、これほど憎まれた科学者もまた、いないかもしれない。

 アインシュタインは、平和主義者だった。第一次大戦中、ベルリン大学の教授だった彼は、はじめて政治活動を行った。戦争が、人命の浪費にしか思えなかったんだ。それから彼は、反戦デモに加わり、徴兵を拒否するように公然と呼びかけた。第一次大戦中のドイツで、それがどれほど勇気ある発言だったか考えてほしい。

 第一次大戦が終わると、こんどは反ユダヤ主義がドイツに巻き起こる。血統的にはユダヤ人だった彼は、徐々にユダヤ人社会に一体感を抱くようになり、のちには、シオニズム(パレスチナにユダヤ人国家を建設しようという運動)の、公然たる支持者になった。

 これで、アインシュタインは決定的に世間の反感を買った。それまでにも、世間の不評を気にして本心を語るのをためらうような人じゃなかったから、反アインシュタイン組織さえ作られて、アインシュタイン暗殺計画まで立てられた(その計画では、男がひとり捕まって有罪判決を受けた。ただし、たった六ドルの罰金で釈放された)。

 ついには、アインシュタインの政治活動だけでなく、彼の物理理論にも攻撃が加えられた。「アインシュタインに反対する100人」なんて本も出版されたぐらいだ。彼はそのとき、こう言い返した。

「わたしが間違っているなら、一人で十分じゃないかね?」

 そのとおり! 彼の理論の誤りを指摘する、たった一人の人間は、いまも現れていない。彼は間違っていなかった。だからこのエッセイを、アインシュタインのためにだけ費やすのも、きっと間違いじゃないだろう。

 長い前ふりはこのくらいにして(苦笑)。そろそろ、アインシュタインの深遠なる相対論の世界に旅立とうじゃなか。準備はいいかな? おやつは三百円までだよ。

 1905年。アインシュタインは、特殊相対性理論(以下、略して特殊相対論)を発表した。ガリレオ・ガリレイが、それまで二〇〇〇年近く信じられてきた、アリストテレス的宇宙観を叩き壊し、彼に続くアイザック・ニュートンがモダンな物理学を構築したけど、そのニュートン的宇宙観から見ても、アインシュタインの理論は、まったく予想することのできない、革新的な考え方だった。(1905年を奇跡の年と言う人もいるぐらいだ)

 アインシュタインは考えた。マックスウェルの方程式から予測される結果として(エーテルなんてものはないのだから)、光源の速さがどれほどであっても、光の速さは同一ではないかと。これを、ぼくにできる多少なりとも正確な言い方にすると、アインシュタインは、「真空中の光速度は、観測者に対する光源の相対速度のいかんに関わらず、常に同じ一定の値をとる」と考えたんだ。

 これは、とても不思議なことだ。たとえば、こんな状況を考えてみよう。あなたが新幹線に乗っているとしよう。しかも幸運にも、運転席に座らせてもらったとしよう。さらにシャレでその新幹線は「ひかり号」だっとしよう。

 ひかり号はいま、時速三百キロで走っている(本当はもっと遅い? まあ、細かいことは言わないでね)。外の風景が、矢のように流れていく。わあ、早いなあ。

 そのとき、反対の車線から、同じくひかり号が、向かってきたとしよう。速度も同じく三百キロだ。でも、あなたの、ひかり号も三百キロで走っている。となると、三百キロで向かってくるひかり号は、あなたが見ると、何キロに感じるだろう?

 六百キロと答えるのがふつうだろう。ところが、「光」が相手だと事情が違う。アインシュタインは、そのような条件でも、光のスピードに変化はないと考えた。これが、観測者の相対速度に関わらずという部分だ。

 アインシュタインの前提を受け入れると、必然的な論理の積み重ねによって、われわれの宇宙の万物にとって、光速度が速度の限界であるという結論が導き出される。どのような条件でも、光よりも速く移動するものはこの宇宙には存在しない。

 すると、いよいよ不思議なことが起こる。物体が運動すると、運動の方向に対して、長さが縮まってしまうんだ。さらに、その物体の時間の進み方が遅くなる。もういっちょ、質量も大きくなる。そして、かの有名な、E=mc2という公式が導き出される。

 なにがなんだか……

 しかし、光速が一定ならば、そう結論せざるをえない。あなたが仮に、光速に近いスピードで飛行する宇宙船に乗っていたとしよう。反対側から、やはり光速に近いスピードで向かってくる宇宙船とすれ違うとすると、もし、時間が一定の早さで進むのならば、宇宙船は、光速の二倍のスピードですれ違わなければならない。ところが、現実には光速のほうが一定なのだから、すれ違うスピードは、光速以上にはなれない。となると、必然的に時間のほうをゆっくり動かすしかない。それが、どんなに不思議でもだ。(この説明であっているかどうか不安だが……)

 ではなぜ、新幹線は大丈夫なのか。新幹線は縮んでもいないし、中に乗っている人の時計が遅くなることもないし、ナイスバディなあなたの体重が増えることもない。

 新幹線は遅すぎるんだ。相対論の影響がでるには、あまりにも遅すぎる。特殊相対論の効果は、日常生活をはるかに超える超高速の世界でしか感知されないんだよ。それでも、とんでもなく精密な観測ができるのならば、新幹線は縮んでいるし、時間は遅くなっているし、あなたの体重も…… 申し上げにくいが、じつは増えているのがわかるだろう。彼氏とは一緒に乗らないほうがいいかもよ。

 アインシュタインが、特殊相対論を発表した当時、彼の理論の出発点となりそうな観測データはなにもなかった。なるほど、マイケルスン=モーリーが、エーテルによって光速が変化しない(実際は、エーテルなんてなかったからだけど)という観測はしていたけど、アインシュタインは、そのデータを知らなかった。アインシュタインは、純粋に思考的考察だけで、特殊相対論を作り上げたんだ。(と、彼自身が言っている)

 ニュートンが運動の法則を考え出す前には、ガリレオによる一連の重要な実験があった。マックスウェルが電磁波に関する公式を作る前には、ファラデーやガウスの研究があった。理論は、そういった過去の研究の積み重ねの上に成り立つ。だが、ときとして、過去の考え方を突然、根底からぶち壊してしまう発見がある。というと、過去の何もかもが無意味になるように聞こえるかもしれないが、もちろん、そんなことはない。発想の転換を必要とするときがあるってことなんだ。

 1905年が、その年だった。それまで無名だった、スイスの特許局の一職員だったアインシュタインは、すべての物理学者に、空間と時間の観念を根本的に変えるように要求した。(じつは数週間遅れて、フランスの数学者アンリ・ポアンカレも同じことを主張した)

 それはすごい。でも、それだけだったら、ギリシアの哲学者と一緒だ。理論は哲学とは違う。どんなに弁舌爽やかに主張しても、それだけではダメなんだ。科学には「証明」が必要とされる。

 もしも、アインシュタインが、相対性理論を考えついたのが十年早かったら、彼の理論は、なかなか証明されなかったかもしれない。ところが幸運にも、アインシュタインの時代には、素粒子の世界が知られていた(ぼくのエッセイ「鏡の国」を参照されたい)。素粒子ならば、とんでもない速度ですっ飛んでいるから、特殊相対論の影響を受けるはずだった。

 その通りだった。特殊相対論による推論のすべてが存在した。光速度の十パーセントのスピードで運動する電子は、質量が増すだけでなく、その質量はまさに、理論が予測したとおり0・5パーセント増えた。(念のため申し上げると、このエッセイでは読みやすさを優先して概算値を用いている)

 特殊相対論は、過去百年近く、数えきれないほどの検証をされて、そのすべてに合格した。巨大な粒子加速器は、アインシュタインの方程式が要求するとおりに、厳密に相対論的効果を考慮しなければ、満足な効果をあげることはなかったはずだ。例のE=mc2という方程式がなければ、素粒子の相互作用のエネルギーも、原子力発電も(残念ながら原子爆弾も)、太陽の輝きも、いっさい説明がつかない。

 ゆえに、アインシュタインの特殊相対論を疑う科学者は、この世に一人もいない。もしいるとしたら、その科学者には、研究室よりも、病院のベッドのほうが必要だろう。とはいえ、それが特殊相対論が究極の真理を表していることにはならない。未来のいつの日か、もっと広い範囲を扱える理論が登場して、特殊相対論が説明するそれ以上のことを、われわれに知らせてくれるかもしれない。でもまあ、ぼくの、アインシュタインびいきは変わらないわけで……(笑)。

 さて、みなさん。ここまでの解説が難しかったらごめんなさい。でも、これからもっと、難しい話をしなくちゃいけないんだ。だから「へえ、そうなんですか」っていうぐらいの気持ちで読んでくれるとうれしいな。

 特殊相対論は、なぜ、特殊と呼ばれるんだろう? じつは、特殊相対論は、一定の速度で運動している場合だけを考えているんだ。等速度ってヤツ。たとえば、さっきの新幹線でいえば、発車するときと、停車するときのことは考えていない。ずっと三百キロで動いている場合だけを対象にしている。考えてみると、これは特殊な状況だよね。物が動き出すときには、最初はゆっくりで、だんだんスピードが上がって、そして一定の速度になる。止まるときは、だんだんとスピードが遅くなる。つまり加速があるのが一般的だ。だから、一定の速度しか考慮していない相対論を、「特殊相対性理論」と呼ぶわけだ。

 厳密にいえば、運動が一定ということは絶対にない。どんな物体が運動する場合も、速度または方向(方向の変化も加速だ)、あるいは速度と方向の両方に変化をもたらすような力が常に存在する。ということは、特殊相対論は、常に不十分な理論なんだろうか?

 そのとおり。でも、その不十分さは無視できる場合がある。短距離を途方もないスピードで動く素粒子には、あまり加速される余地はないから、特殊相対論が適用できる。

 ところが宇宙はどうだろう。地球のような惑星。太陽のような恒星。さらに恒星が集まった銀河系。このような巨大なレベルでは、大きな加速が問題になる。巨大な重力場で、常に加速が生み出されるからだ。そう。素粒子の世界では、重力の効果は無視できるほどに小さいけど、宇宙は違うんだ。宇宙では重力が無視できない。それどころか、重力のほかは、なにもかも無視できると言ってもいいくらいだ。

 どうやら、宇宙の秘密を知るためには、一般的な運動、つまり重力をも加味した理論が必要になりそうだよ。それが、一般相対性理論だ。こいつはなかなか難しく、アインシュタインといえども、そう簡単に作ることはできなかった。特殊相対論を発表してから十年もかかったんだ。というわけで、1915年。ついに一般相対性理論(以下、略して一般相対論)が完成した。

 じつは重力には、ニュートンの時代からの謎がある。まず、その話をしよう。

 ニュートンがガリレオの測定をもとに考えた物体の間に働く作用の公式によれば、重力の強さは質量に依存している。たとえば、地球は二キロの質量を持つ物体を、一キロの質量を持つ物体の、ちょうど二倍の強さで引っぱる。ここまではわかるよね? では、地球の質量が二倍になったらどうなるだろう。答えはもちろん、いままでの二倍の力で物を引っぱるようになるんだ。

 では、いまここに、質量がわかっている物体があったとしよう。その物体を地球がどのくらいの力で引っぱっているかを測定すれば、地球の質量を測ることができるんだ。その逆も、もちろんできる。地球の質量がわかっていて、なにか質量のわからない物体を、地球がどのくらいの力で引っぱっているかを測定すれば、その物体の質量がわかる。

 上のような方法で決定された質量を「重力質量」と呼ぶ。難しい? まあ、そういうことができるんだと思ってくれればいい。

 ここであなたは、ガリレオの落体の実験を知っていて、いまのぼくの説明に疑問を持つかもしれない。ガリレオは、重い物体も軽い物体も、同じ高さから同時に落とせば、やはり同時にドシンと、地面に落ちることを証明した。ところが、ニュートンは、重い物体は、重い分だけ、よけい地球に強く引っぱられるという。とすると、重い物体は、軽い物体より、早く地面に落ちるのではないか? でもガリレオが正しいのは間違いないから、ニュートンは頭がおかしくなったのだろうか。まあ、そう焦りなさんな。つぎを読めば、その疑問が氷解するはずだ。

 では、つぎに行こう。ニュートンは、ある物体に作用する力は、その物体に加速度を生じさせると主張した。これが運動の第二法則だ。

 意味はわかるよね? 手に持ったコップを離すと、コップはだんだんとスピードを上げながら床に落ちていく。だから、床から三十センチのところで手を離せば、十分にスピードが上がらず、コップは無事かもしれない。だけど、一メートルから落とせば、コップのスピードはかなり速くなって、パリンと割れるかもしれない。そういうこと。

 この加速度の大きさは、物体の質量に反比例する。はいはい、心配しないで。もっと簡単に説明するから。つまりね、二キロの質量と、一キロの質量の物体に、同じ力が作用すれば、二キロの物体は、一キロの物体のちょうど半分だけ加速されるわけ。まだ難しい? じゃあ、こう言おう。二キロのほうが、一キロより、二倍も動かすのが大変ってことさ。よっこらしょだ。この加速に対する抵抗力を、ニュートンは「慣性」と呼んだ。

 さて。ガリレオの疑問は解けたかな? 重い物体は、重い分だけ強く地球に引っぱられるけど、重い分だけ動かすのが大変なんだ。逆に、軽い物体は、地球に引っぱられる力が弱いけど、軽いから動かすのが容易だ。けっきょくのところ、地球に引っぱられる力と、それに抵抗する力が、ちょうどぴったり相殺されて、重かろうか軽かろうが(空気抵抗を無視するとして)、同じ高さから落とせば、その二つは同時に落ちるわけ。おわかりいただけたろうか?

 余談だけど……

 ぼくが中学のとき、担任の教師が、ニュートンはリンゴが落ちるのを見て「引力」を発見したといった。ぼくはどうやら、大人をヘコませることに喜びを感じる生意気な年頃だったらしく、それを聞いたとたん、手をあげて先生に反論した。ニュートンが発見したのは「引力」ではない。物が地面に落ちるなんてことは、北京原人だって知っていた。ニュートンが提起したのは「万有引力の法則」なんだ。万有とは、「宇宙にある、あらゆるもの」という意味だ。地球だけのことじゃない。つまりニュートンは、質量を持つ宇宙のあらゆる粒子は、ほかの質量を持つ宇宙のあらゆる粒子を引きつけ、それは二つの質量の積に比例し、両者の距離の二乗に反比例することを明らかにしたんだ。

 ニュートンは1687年に、これらの法則と、そこから推論されることを述べた、『プリンキピア・マセマティカ(略称)』という本を出版した(ふつうは、プリンピキアで通じるけど、ぼくは、マセマティカまで発音するのが好きだ)。原題を日本語にすると「自然哲学の数学的諸原理」って感じ。それは世界に提供された、もっとも偉大な科学書の一つだとぼくは思う。ゆめゆめ、ニュートンはリンゴが落ちるのを見て「引力」を発見したと誤解することなかれ。

 余談終わり。

 ぼくはさっき、重力が物を引っぱる力から、その物体の質量(あるいは地球の質量)を測定できると書いたよね。それを「重力質量」と呼ぶと書いた。では、同じことが慣性でもできないだろうか。つまり、慣性を測定すれば、その物体の質量を測ることができないだろうか?

 もちろんできる。慣性を測定すれば(つまり、一定の力で生じる加速度を測定すれば)、その物体の質量を知ることができるんだ。こうして決定された質量は「慣性質量」と呼ばれる。

 さあ、お立ち会い。ぼくはこれまでの説明で、質量には、「重力質量」と「慣性質量」の二つがあることを述べた。ニュートンの時代からの謎が、これなんだ。この二つは、別々の方法で測定されたけど、べつのモノなのだろうか? だって二つの質量を測ると、いつも同じになるんだ。うーむ。どうも、本質的に同じモノのように感じるんだけどなあ……

 いやいや、簡単に結論しちゃいけない。べつの方法で決定した質量なんだから、なにかの偶然で似ているだけで、じつは、すごく精密に測れば、微妙に違うのかもしれない。

 ハンガリーの物理学者フォン・エトヴェシュ・ローランドは、1909年に、重力質量と慣性質量に、違いがあるのかどうかを観測する実験を行った。エトヴェシュの作った測定器は(きわめて細い糸のねじれを利用した)、二つの質量の間に、二億分の一の違いがあれば測定できるほど精密だった。違いは測定できなかった。それ以後も、彼の実験はさらに感度を高めて繰り返されたけど、一兆分の一まで測っても違いはなかった。(いま現在、どこまで測定されているのかぼくは知らないけど、違いは検出されていないはずだ)

 ふう。やっと、ここまでたどりついたぞ。少し駆け足だったかな? みんなついてきてる? 先へ進むよ。

 アインシュタインは、一般相対論を組み立てるに当たって、重力質量と慣性質量は、完全に同一のモノだから、その値はちょうど等しいと仮定するところからはじめた。これは「等価原理」と呼ばれている。もちろん、ニュートン力学にはなかった主張だ。思い出してほしい。アインシュタインは特殊相対論で、光速度が一定という前提から理論を組み立てた。「等価原理」は、それと同じ役割を一般相対論で果たすものなんだ。

 等価原理。こんな言葉を聞くと、このエッセイを読むのがイヤになるかな? でも大丈夫。そんなに難しいことじゃないんだ。本当だよ。だって、みんな一度は(たぶん一度どころか何度も)、等価原理を体験しているはずだから。

 ここで、よく引き合いに出される説明をぼくも使おう(というか、これ以外の説明は思いつかない)。

 あなたはいま、高いビルの上にいる。なんて書くと、ニューヨークのテロを思い出すな。いまは関係ないから忘れてね。さあ、用事がすんだから(たぶん、彼女と展望レストランで食事しにちがいない)、エレベーターに乗って帰ろう。ダメダメ。エスカレーターなんか使っちゃ。エレベーターに乗ってください。

 乗った? じゃあ、一階を押して、ドアを閉めて。

 エレベーターが動き出したね。下に降りはじめたよ。さあ、どんな感じ? なんとなく身体が軽くなったように感じなかった?

 なんにも感じなかったという人はほっといて、身体が軽く感じた人は先を読んでください。どういうことが起こったかというと、下へ向かう加速は、重力が減るのと同じことなんだ。

 さてさて。エレベーターは下降を続けている。でも、いつまでも加速はしていない。スピードが上がりすぎちゃ、地面に激突だ。だから、あるところで一定のスピードになるよね。そうすると、もう身体が軽いとは感じなくなる。エレベーターは動いているけど、あなたは、地面に立っているのと、まったく同じに感じるはずだ。もしも、そのエレベーターが、ものすごくよく出来ていて、振動をぜんぜん感じなかったとしよう。風を切る音も聞こえてこないとしよう。すると、あなたは、そのエレベーターが動いているのか、それとも、ただ地面に置かれた「箱」の中に入っているだけなのか、区別ができない。

 これは、上下の移動だけでなく、横だろうが斜めだろうが、どの方向でも同じなんだ。ためしに、あなたが電車に乗っているときを想像してみようか。電車が動き出すとき、あなたには慣性が掛かるから(あなたも質量だ)、電車の進行方向とは逆に引っぱられるように感じるはずだね。もっと正確に言うと、あなたは、静止したままでいたがっているんだけど(加速に抵抗している)、まあ、それはそれとして、電車が一定のスピードになると、もう引っぱられる感じはなくなるよね。またまた思考を広げてみよう。その電車が、ものすごくよくできていて、ぜんぜん振動を感じなかったとしよう。風を切る音も聞こえない。電車が動いていることを示すのは、窓の外の風景が流れていることだけだ。

 よし。ぼくはイジワルだから、窓もぜんぶ締めよう。さあ、あなたは電車に乗って動いているんだろうか。それとも、地面に置かれた静止した電車のハリボテの中にいるんだろうか? これも、静止した状態と区別はできない。

 よーし、筆が乗ってきたぞ。じつは、ぼくらは、人工的な乗り物を考えなくても、ぜんぜん振動しないし(ほかの原因で揺れるけど)、風を切る音もしない乗り物に乗っている。それは地球だ。地球は静止しているかい? コペルニクスは間違ってた? ガリレオは間違っていたかな? そんなことないよね。地球は太陽の周りを一定に近い速度で公転している。そしてほぼ同じ方向に(短い距離で考えれば)動いている。だからわれわれは、地球が動いているのか静止しているのかわからない(なるほど、アリストテレスが地球は宇宙の中心であり、『静止』していると考えたわけだ)。

 このことを突き詰めて考えると、ちょっとおもしろいことが起こる。あなたがいま、静止しているのか動いているのかわからない電車に乗っているとしよう(本当は一定のスピードで動いている電車だよ)。そこであなたは、手に持ったコップを、そっと離して電車の床に落としたとしよう。すると、コップはあなたの足元に落ちる。コップの落ちる前と落ちたあとの位置は、高さが違うだけで、水平には動いていない。これで間違いないよね。

 ところが、その様子を外で眺めている人がいたとしよう。あなたがコップを離した瞬間、その人の前を通りすぎたとすると、その人にとって、コップが落ちた位置は、電車が動いた分だけ、水平に移動しているはずだ。

 あなたは、コップが水平に移動したとは思えない。ところが、外にいる人は、コップが水平に移動したように見える。どちらが正しいのだろう? 外にいる人は、自分は地面に立って、間違いなく静止しているんだから、あなたのほうが間違っていると主張するかもしれない。そうだとすると、その人は重大な事実を忘れている。その人が立っている地面も(つまり地球も)じつは動いているんだ。電車に乗っているあなたも、外にいる人も、条件は同じであり、どちらかが優先するということはない。この宇宙には、絶対に静止していると言いきれる空間は存在しないんだよ。(いまは、横移動で説明したけど、この原則は縦の移動でも同じだよ)

 わーぉ、なんか宇宙の秘密ってタイトルにふさわしくなってきたじゃないか。科学エッセイって楽しいなあ。病み付きになるなこりゃ(笑)。

 半分本気の冗談はさておき、またエレベーターに戻ろう。

 さっきのエレベーターは、一定のスピードに達すると加速が止まった。でも、思考を広げて、地面に激突する心配がないエレベーターがあったとしよう。エレベーターは、どんどん加速していく。すると、あなたの身体も、どんどん軽くなって、いつか体重をまったく感じなくなるときがくるだろう。この状態が「自由落下」だ。あなたは、エレベーターの中で、ぷかぷか浮かぶ。

 よし。ぼくはイジワルだから(笑)、もっと加速しよう。すると、あなたはいままで天井だと思っていたほうへ引っぱられるはずだ。

 そう! 天井に向かって落ちるんだ!

 もっと加速すれば、天井が床と同じになるだろう。あなたは、ひっくり返っているんだけど、エレベーターの中では、それを感じることはない。あなたではなく、エレベーターの箱のほうがひっくり返っているように感じるはずだ。

 もちろん、こんな実験は現実には不可能だ。下に向かっていつまでも加速するなんて、とてつもない長さのエレベーター・シャフトが必要だからね。もしかしたら、一光年とか二光年とか、そんな単位になっちゃうかも。もし仮に、そんなモノが作れたとしても、エレベーターのスピードは、光速に近づいちゃうだろうから、相対論的効果が生じて、かなりややこしいことになっちゃう。

 でも、自由落下だけなら、べつの方法でずっと持続することが出来る。察しのいい人なら、ぼくがなにをいいたいかわかるよね。そう。スペースシャトルを考えよう。スペースシャトルは、軌道上に打ち上げられたあと、地球の重力による加速を受けて落下する。でも、その落下を地球の表面と水平になるように調節できれば、地球は丸いから、その表面は湾曲して逃げていく。つまりスペースシャトルは、たえず落下しているんだけど、永遠に地表に到達することはない状態になる。(わずかな空気抵抗をロケットで調節する必要はあるだろうけど。そして、加速によるエネルギーの損失は…… まあ、それはいまは考えなくてもいいだろう)

 この状態になると、スペースシャトルの中にいる人は、スペースシャトルと一緒に自由落下を続けることになるので、いつまでも無重力状態を楽しむことが出来る。うらやましいな。無重力って、どんな感じなんだろう。体験してみたいね。

 いや。じつは、ぼくらも常に自由落下を体験している。またわれらが乗り物、地球を考えよう。地球は太陽の周りを公転しているよね。これは、ちょうどスペースシャトルと同じように、太陽に対して、自由落下している状態なんだ。だから、太陽はあんなに大きくて、強い重力を持っているけど、われわれは、ぜんぜん太陽の重力を感じない。感じるのは地球の重力だけだ。

 いかん。いい気になりすぎて、アインシュタインを忘れていた。

 というわけで、あなたは、またエレベーターに乗っている(好きだね、エレベーター)。こんどは下向きじゃなくて、一階から屋上に上るエレベーターに乗ろう。加速が加わっている間、身体が重くなるよね。そのまま加速が続けば、いつか、身体がつぶれちゃう。

 ここでも思考を広げよう。地球上じゃなくて、宇宙空間にあるエレベーターだとしよう。まあ、小さなロケットだと思ってくれてもいい。

 エレベーターが上に向かって加速しているとすると、あなたは重力に相当するものを感じるはずだ。たとえばその加速が、地球の重力と同じ、毎秒毎秒9・8メートルだったとしたら、あなたは、そのエレベーターの中で、地球にいるのと同じように、快適に歩き回れるだろう。

 アインシュタインは、慣性質量と重力質量は、完全に同じものだから、加速が毎秒毎秒9・8メートルだったとしたら、動く小部屋に閉じ込められているのか、地球上にいるのかを区別する方法は、絶対にないと仮定したんだ。動いているエレベーターに乗っているのも、地球上にいるのも、まったく同じなんだ。これが等価原理だ。

 しかもアインシュタインは、われわれ人間がそう感じるだけではなく、あらゆるものすべてが、その原則に当てはまり、例外はいっさいないと考えた。素粒子も電磁波も、すべてが等価原理に支配されるはずだと。

 では、こんな実験をしてみよう。いまエレベーターの隅っこで、一本の光線を水平に送ったとしよう。すると、その光線は、反対側の壁に向かって進むよね。ところが、光線が反対側の壁に到達する前に、エレベーターは少しだけ上昇している。ということは、その光線は、下向きに曲がって見えやしないか? その曲がりは、ほんのわずかだろうけど……

 曲がるんだ! 間違いなく。

 さあ、アインシュタインの仮定を思い出そう。彼は、動いているエレベーターに乗っているのも、地球上にいるのも、まったく同じと考えた。とすると、光は地球の重力でも下向きに曲がるんじゃないのか? 地球の重力では弱すぎて観測できないかもしれないけど、たとえば太陽とか重力の強いところでなら、観測できる程度に曲がるかもしれない。あるいは、太陽よりもっともっと重力の強いところなら、その湾曲が十分に目立つようになるかもしれない。

 実際そうだった。そう。アインシュタインは、光が重力によって曲がると予想して、そのとおりだったんだ。

 このことからは、さまざまな推論が生まれる。ぼくには、アインシュタインの行った推論を解説する知識は(あるいは知性も)ないことは明白だから、先を急ごう。

 一般相対論における、すべての推論を考慮すれば(くどいようだけど、ぼくが考慮してるわけじゃない)、時空が湾曲していると考えるのが理屈にあっているらしい。いっさいのものが、曲線をたどるのだから、重力場の作用は、引力によるものというよりも、時空の幾何学的性質によるものだと考えたほうがいいんだ。

 時空が湾曲しているだって?

 言葉ではなかなかイメージできないと思うけど、ここでよく引き合いに出されるのが、とてつもなく大きなゴムシートを張ったところだ。そのゴムシートに地球を乗せてみよう。ゴムは地球の重みでくぼむよね。重いものを乗せるほど、くぼみは深くなって、その側壁は急斜面になる。そのくぼみの近くを通る物体は、くぼみに落ちそうになりながら、でも速度が十分にあれば、うまく抜け出して、外に出てくるだろう。速度が十分になければ、その物体は、くぼみの中に落ちる。

 これが重力の秘密だ。

 アインシュタインは、これらの一般相対論から考えられる結果を総合して、宇宙全体に適用される「場の方程式」を作ることが出来た。その方程式は、いま現在の宇宙論の基礎になっているんだよ。彼は、宇宙の秘密を、ひとつ解きあかしてくれた。ぼくらは湾曲した時空に住んでいるんだ。

 ところが……

 特殊相対論のときと違って、一般相対論は、すぐには証明されなかった。特殊相対論のときは、素粒子という、その効果が顕著に現れる現象を観測することができたけど、一般相対論には、そういう運は向いていなかった。(しかも一般相対論が発表された1915年は、第一次世界大戦の真っ只中という不幸も重なった)

 だから、アインシュタインの一般相対論は、長い間、論争の的になったんだ。ほかの科学者が、等価原理にもとづく数式を考案して、アインシュタインのものとは違う、たくさんの一般相対論が誕生した。アインシュタインより、自分のほうが正しければ、ノーベル賞がもらえるかもだ!

 でも、さまざまな一般相対論の中で、アインシュタインの数式がもっとも美しかった。エレガントだったんだ。エレガントであることは、強烈な魅力だったけど、それは真実である保証にはならない。むしろ、方程式の美しさにこだわるのは、古典的すぎるのかもしれなかった。

 はたして、この論争に終止符を打つ方法はあるんだろうか?

 まず、「三つの古典的検証」というのがある。どれも天体観測をもとにした検証で、どれも精度という点では不十分だった。ここで、そのすべてを紹介する誘惑は抑えるけれど、その中のひとつ、1919年に行われた日食の観測は語っておかないといけない。

 一般相対論では、光が重力によって曲がる。たとえば、太陽のような巨大な天体のすぐそばを通るような、星の光なら、わずかに曲がるはずだ。もちろんアインシュタインの一般相対論で、その曲がり具合を計算できる。その計算した値と、観測した値が一致すれば、アインシュタインにとって大きな勝利になるだろう。

 でも太陽のそばの星は、ふつうは見えない。日食のときをのぞいては。そんな日食が1919年にあった。そして観測が行われ、アインシュタインの一般相対論での計算値と一致した。天文学者は興奮した。いままで、考えてもみなかった現象が、本当に起こってしまったんだ。一般相対論は劇的な形で証明され、その知らせは新聞の一面を飾った。アインシュタインは、このおかげで、世界で最も有名な科学者になった。

 けれど……

 残念ながら、これは世間一般で、アインシュタインの知名度を上げるには役立ったけど、厳密な意味で、彼の一般相対論を証明したことにはならなかった。測定の精度が不十分で、理論を厳密に証明するには、不正確すぎたんだ。アインシュタイン自身、そのことは認識していたけれど、彼は自分の理論に絶対の自信を持っていた。1919年の日食のあと、恒星のずれの測定が、自分の説を裏付けなかったら、あなたはどうしていたかと聞かれたという話がある。アインシュタインは、こう答えた。

「わたしは、正しくない原理にもとづいて宇宙を創造するという誤りをおかした神を、気の毒に思っていただろう」

 そんな自信満々のアインシュタインの説が、本当の意味で証明されたのは、じつは彼の死後だった。1958年。ドイツの物理学者ルドルフ・ルートヴィッヒ・メスバウァーが、メスバウァー効果と呼ばれる現象を発見した。彼はこの業績で、1961年にノーベル賞をもらった。

 メスバウァー効果をごく簡単に説明すると、ある条件のもとでは、結晶から放射される光子のビームが、まったく広がらない場合があるんだ。そうした条件のもとで放射されるガンマ線光子は、ほかの同種の結晶に強く吸収される。まあ、そんなような現象だ。もしも、そのエネルギー量が、わずかでもどちらかの方向に異なれば、同種の結晶による吸収は激減する。

 一般相対論によれば、地球の重力に逆らって上昇する光子はエネルギーを失う。それらが失うエネルギー量はわずかなものなんだけど、メスバウァー効果を使えば、そのわずかな量も検出することができるはずだった。このことが重要なわけは、天体観測を必要としない実験室で行える測定だということなんだ。実験室ならば、測定を不正確にさせる要素を極力排除することができるし、装置を改良することで感度を上げることもできる。そしてなにより、だれでも、何度でも行えることだ。多くの科学者が追試して、同じ結果が得られれば、その理論が正しいだろう度合いは増す。

 その実験は行われた。結果は、一般相対論での計算と1パーセント以内の精度で一致した。ところが、これでもまだ不十分だった。たしかにこの実験は、一般相対論を証明はしたけれども、アインシュタイン以外の学者がひねり出した一般相対論を排除するには至らなかった。科学の世界は厳しいのだよ。

 さらに時代が進み、マイクロ波を飛ばして、太陽系の他の惑星に反射させ、その反射波を測定することで、惑星までの正確な距離を測れるようになった。選ばれたのは金星だった。金星は58日の周期で、太陽をはさんで地球とほとんど反対側の位置にくる。その過程で、金星は太陽のわきを通りすぎる。そのときにマイクロ波を飛ばして、その反射を調べれば、マイクロ波は、太陽の重力に曲げられて、わずかに帰ってくるのが遅くなるはずだ。つまり1919年の日食を実験的に観測する試みなんだ。

 もちろんその測定が行われ、一般相対論による計算と、しかも、「アインシュタインの一般相対論」による計算と、わずか0・1パーセント以内で一致した。

 いいぞ。だんだん、証拠がそろってきた。一般相対論から導かれるもう一つの予想は、重力で時計の進み方が遅くなるというものだ。一般相対論は、特殊相対論に矛盾しないように構築されているから、当然そういう現象が起こるんだ。

 これも、もちろん検証された。1962年、給水塔の屋上と、下に置いた二つのきわめて正確な時計を使って両者を比べてみると、アインシュタインの一般相対論と厳密に一致した。

 もはや決着がついたも同然だった。多くの一般相対論は消え去った。残ったのは、アインシュタインによる、もっともエレガントな方程式だった。

 さて。それ以後も、アインシュタインがこの理論を提唱したころには、その存在さえ知られていなかった天体(クエーサーやパルサー)などの観測により彼の理論の正しさは、ますます確かなものになった。

 とくに、1967年のパルサー(中性子星)の発見は重要かもしれない。アインシュタインは質量が加速するとき、重力波を発するはずだと予測していた。振動する電磁場が光波を発するように、加速する質量は重力波を発するはずと考えたんだ。たとえば、地球は太陽の周りを公転している。回っているということは、常に方向が変わっているわけだから、常に加速しているのと同じだ(自由落下のところで説明したよね)。したがって地球は、常に重力波を発している。もちろん、重力波を発するとエネルギーを失う。だから地球は、徐々に太陽に近づいて(公転周期が短縮して)最後にはそこへ落下するはずだ。

 でも、地球が発する重力波は、きわめて小さいはずだから、そういう効果を観測しようとしても無駄かもしれない。観測には、もっと強い重力場と、もっと激しい加速が必要になる。それがパルサーの発見で可能になった。なかでも二重(連星)パルサーの巨大な重力場は、一般相対論の効果がかなり大きいはずだった。そしてその通り、アインシュタインの予測した重力波を考慮しなければ、連星をなすパルサーの公転周期の短縮は説明できなかった。

 さらにパルサーの発見は、一般相対性理論から導かれる、ブラックホールの存在の可能性を強めた。パルサーの直径は、星がブラックホールになる大きさの数倍しかない。パルサーがあるなら、ブラックホールだって、ありそうじゃないか。

 じっさい白鳥座X−1に、ブラックホールらしき現象が見つかった。ブラックホールを研究していた、イギリスのスティーブン・ホーキングは、1975年に、カリフォルニア工科大学のキャップ・ソーンと、白鳥座X−1にブラックホールが含まれているかどうかをめぐる賭けをした。ホーキングは、ブラックホールが含まれていることを信じていたが、含まれないほうに賭けた。もしもブラックホールが含まれないことがわかれば、ホーキングは、自分の研究が無駄だったことを知らなければならないが、賭けには勝ち、「プライベート・アイ」誌を四年分手に入れるという慰めができる。もしブラックホールが存在すれば、ホーキングは自分の研究が正しかったという喜びを味わうが、賭けには負けて、逆にソーンは、「ペントハウス」を一年分手に入れることができるのだった。

 その後、この賭けが、本当に成立したのかぼくは知らないが、ホーキングが勝ったのは間違いないように思える。ソーンは、女の子がいっぱい出ているペントハウスを一年分楽しんだはずだ。科学者も、ときに微笑ましいことをするもんだね。

 このように、これまでの観測や実験は、そのすべてがアインシュタインを支持してきた。ただの一つも、彼の理論に重大な疑問を呈することはできなかった。いまやわれわれは、人工衛星を持っている。人工衛星と信号のやりとりをする場合、もしも一般相対論の効果を無視したら、互いの位置が大きくずれることに驚かなくてはならないだろう。

 では、一般相対論が究極の真理なのだろうか。アインシュタインは、これで満足しただろうか? とんでもない。彼は量子論の扉も開いていた。量子という考え方は、電磁波を理解するのに非常に役立った。それまで、べつのものだと思われていた、光、磁気、電気は統合され、電磁場として理解できるようになっていた。となると、いまだに意地を張って孤独を守っている重力も量子化できないだろうか。そして、電磁場と統合することはできないだろうか。そういう理論ができれば、それは統一場理論と呼ばれるはずだ。(いまだに独身を守っているぼくも、いつか統合されるのだろうか。と、ふと思うが……)

 アインシュタインは、その仕事に取りかかった。彼は重力を電磁場と結婚させたかった。彼の晩年は、統一場理論の研究に費やされた。ところが、彼も人間だ。限界はある。とくに、自らが扉を開く手助けをした量子論に登場した「不確定性原理」が気に食わなかった。いまや、この理論がなければ量子論は語れないが、アインシュタインは、美しくエレガントなものが好きだったんだ(いや、オシャレにうるさいことではなく)。不確定性原理は、彼の美意識に合わなかった。アインシュタインほどの天才も、アリストテレスと同じ過ちをおかしていたのだ。(アリストテレスは、地動説も原子論も笑い飛ばしていた)

 しかも、アインシュタインが努力を続けている間にも、それまで知られていなかった新しい「場」が二つも発見された。どちらも、距離とともに急速に弱まるので、原子核の直径以下に相当する距離でだけ作用する。このような核力は、アインシュタインの存命中には、まだ詳しいことがわからなかった。

 まあ、これらの話は次回に譲るとしよう。いまはアインシュタインのことを語りたい。

 1933年。ヒトラーが権力を握った。シオニズム(ユダヤ人国家を作ろうという運動だよ)を公然と主張するアインシュタインにとって、これは決定的だった。このときアメリカにいた彼は、ドイツには帰らないことを宣言した。すると、ナチの私兵が彼の家を荒らし、彼の銀行貯金を没収した。さらに、ベルリンのある新聞はこんな見出しを掲げた。

「アインシュタインからの朗報! 二度と帰国せぬ」

 こうしたナチの脅威に直面して、彼はついに平和主義を放棄した。ドイツの科学者が核爆弾を製造するのを恐れて、アメリカが独自にそれを開発すべきだと提案したんだ。もちろん彼は、核爆弾がじっさいに使われたら、どれほど恐ろしいことが起こるか十分に知っていたから、最初の原子爆弾が投下される前から、核兵器の国際管理を提唱していた。

 そして、みなさんもよく知っている経緯をへて第二次大戦が終わった。その後、1948年にイスラエルが建国された。建国から四年後の1952年、アインシュタインにイスラエル大統領の地位を提供するという申し出がなされた。彼は、自分は単純すぎて政治には向いていないと、その申し出を断っている。

 だが本当の理由は違うだろう。彼はべつの機会にこう語っている。

「わたしにとっては方程式が重要です。なぜかといえば、政治は当面のことに関わるものですが、方程式は永遠に関わるものだからです」

 1955年。永遠の方程式を探し続けたアインシュタインは、永遠の眠りについた。人生の後半の大半を、統一場理論の研究に費やしたが、ついにその完成された姿を見ることはなかった。

 そしてそれは、まだだれも目にしていない……


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