宇宙の秘密 その1



 前回の科学エッセイでは、「反物質」をネタに、原子論が確立されていく歴史を追ってみた。つまり、理論的なことには、ほとんど触れなかったわけだ。何年になになにが発見されたと書いてる分には、ぼくの無知を、それほどさらけ出さなくていいからね。

 でも、このエッセイのタイトルにした「宇宙の秘密」を知るためには、どうしても理論を理解しないといけない。つまり、理論を解説しなきゃいけないってことだ。

 やれやれ……

 ぼくは、科学者ではない。それどころか、物理学や数学の専門教育を受けたことさえない。そんな怪しげな人間が、理論を語るなんてことが出来るんだろうか?

 答え。できませーん。

 いや、冗談事ではなく、ぼくにはできない。数学を理解していないんだから不可能だ。でも雰囲気だけでも伝えられないだろうか? それすら無理かもしれないけど、最初から諦めるのもシャクだから、挑戦だけはしてみよう。とにかく、理論を解説しないことには、一歩も先へ進めないからね。

 さて。そうと決まればなにから始めようか。ふむ…… 十九世紀を通じて、科学者を悩ませた、とある幽霊の話をしてみよう。こいつに取りつかれ、退治するまでのお話。なんて書くとホラーみたいだけど、怖くないから安心して読んでください。

 その幽霊の名は、エーテルという。

 エーテル。Script1に来ているみなさんは、この言葉を聞いて銀河鉄道999のメーテルを思い出すかもしれない。最初にお断りしておくけど、まったく関係はないので、銀河鉄道999は、忘れるように(笑)。

 さて、エーテル。これは、いったいなんぞや?

 それを理解するには、なにかを動かすことを考えてみよう。たとえば、机の上にコップがある。これを持ち上げるにはどうしたらいいか? 答えは簡単だよね。机のところまでいって、コップを手でつかんで、そのまま持ち上げればいい。あるいは、野球のボールがあったとしよう。そのボールを、自分のいる場所から、遠くへ飛ばしたいときは、どうしたらいいだろうか? これも答えは簡単だよね。ボールを手に持って投げてもいいし、自信があるなら、バッドで打ってもいい。

 では、離れた場所にある物はどうしようか? たとえば、さっきの机の上に乗ったコップを、机に近づかずに動かす方法はあるだろうか?

 もしも、持ち上げるという特定の動きじゃなくて、ただ単に、机の上から動かせばいいだけなら、手に持ったボールを投げて、そのコップに命中させたらどうだろう。コップは机の上から落ちて割れるだろう。

 ではでは、さらに思考を広げてみよう。物を投げたり、机を揺らしたりと、とにかく、直接的なことをなにもしないで、コップを動かすことは可能だろうか?

 超能力者か幽霊なら可能だなんて答えはやめてくれたまえよ(笑)。

 さあ、どうかな。まったくコップに触れず、もちろん超常的な現象に頼らず、コップを動かす方法はあるかな?

 じつはある。超能力者もビックリの方法が。しかも、だれにでもできる。ただし、ちょっとだけ、条件を変える必要があるけどね。

 このようにしてみよう。あなたはいま、コップを持っている。コップはあなたの手の中で静止している。ここまではオッケイ? それでは、コップから手を離そうじゃないか。コップはどうなった?

 地面に落ちて割れた。そうだね。コップは地面に落ちる。

 でも、なんで? あなたがコップを持っていたときまで、コップはたしかに静止していた。あなたは、だた手を離しただけだ。なにもしていない。なのに、なぜコップは勝手に、地面に向かって「動いた」んだろう?

 重力があるからさ。と、答えるのは簡単だけど、机の上にあったコップを動かすには、ボールをぶつけるなりなんなりして、なにかの作用を「直接」与えなければならなかった。ところが、地面とコップの間には、なにか「直接的」な作用は、なにも働いていないように見えるじゃないか。重力は、いったいどうやってコップを動かしたんだろう。

 重力は、なにもなくても伝わる。と、ふつうは考えたくなる。でもそれでは、超能力者が、むーん、と唸ってコップを動かすのと同じじゃないか。あるいは幽霊が勝手にやったこととか。

 物理学は、そういう現象を許さない。「なにもないのに勝手に」なんて、いいかげんな解釈ではダメなんだ。理由がなければ理論とはいえない。そして、理論を実験的あるいは観測的に確かめて、本当に正しいということを証明するのが科学の根本なんだ。神秘主義、あるいは、実験的にも観測的にも確認できないのに、ただおもしろい(あるいは金儲けになる)という理由で不思議な物を勝手に理論化するオカルト主義とは違うんだよ。

 よろしい。科学的立場としては、間になにもないのに作用が及ぶことを、いまは「遠隔作用(えんかくさよう)」と呼ぶことにしよう。

 間違っても、超常現象だと思いたくないが……

 こんどは、「光」を考えてみよう。暗い部屋で、電灯のスイッチをつければ、部屋の中はとたんに明るくなる。でも、電灯の光を伝える、なにかが、部屋の中に充満しているだろうか? さらに、あなたが、その電灯に近づくと、きっと温かいと思うだろう。電球の中のフィラメントが熱せられているからだ。でも、あなたが熱を感じるのはなぜなんだろう? 熱を伝えるなにかが、電灯とあなたの間にあるだろうか?

 ふむ。光と熱も、遠隔作用の一種と考えられそうだよ。

 さらに、磁石を考えてみよう。いうまでもなく、間になにもないのに、磁石は鉄を引きつけるわけだから、これも遠隔作用に分類できそうだ。

 もう一つある。いまの子供は使ってるかどうかしらないけど、プラスチックでできた下敷きってあるじゃない。あれをゴシゴシこすって、髪の毛が吸いつけられるようにしたことはない? そう。静電気やつだね。これと同じことを、紀元前600年ごろのギリシアの哲学者タレスが、琥珀で発見した。じつは琥珀というのは、ギリシャ語で「エレクトロン」というんだ。電気が「electricity」と呼ばれてる理由がわかったかな?

 ともかく、電気も遠隔操作に加えよう。

 まだあるぞ。ラジオから、音楽が流れてきた。音はどうやって伝わるんだ? こいつも遠隔作用に分類しておこう。そうそう、台所で、あなたの彼女か、あるいは奥さん(彼氏か夫でもいいけど、あるいはお母さんでも)が、料理をはじめたようだ。肉を焼く匂いが漂ってきたよ。匂いも、遠隔作用に分類しようじゃないか。

 さあ、これで全部だ。まとめてみよう。

 重力、光、熱、磁気、電気、音、匂い。

 ぜんぶで七つだね。奇しくも世界の七不思議と同じ数だ(笑)。

 そろそろ、ぼくがなにを話したいか、察しがついてきたんじゃないかな。なにも作用を伝える物質が存在しないのに、作用が伝わることを、ぼくは遠隔作用と呼んできた。さらにぼくは、遠隔作用と思われる現象を、ぜんぶで七つ挙げた。はたして、これらは本当に遠隔作用だろうか?

 そう。明らかに、「伝えるもの」が存在する現象が、七つの中に含まれているよね。

 一番簡単なのは、匂いだ。肉を焼くところをじっくり観察してみよう。ほら! なにか煙が出てるじゃないか。煙は細かい粒子のあつまりだ。それが、鼻に到達したときに、匂いを感じる。どうやら、匂いというのは、細かい粒子が漂っているときにだけ起こるようだよ。

 だから、匂いは、遠隔作用から外そう。

 つぎは音だ。ぼくらは、音が空気の振動だと知っている。ここで、ドミノ倒しを想像してみよう。ドミノは、最初の一個が倒れれば、それが隣のドミノを倒し、さらにそれが隣のドミノを倒してと、伝わっていく。音も同じようなものだと考えられる。空気という粒子が震えて、その震えが隣の粒子に伝わって、さらにそれが…… と、ドミノのように繋がってわれわれの耳に到着したときに、音として感じるわけだ。ちょっと難しくいうと、音は空気を媒介として伝わる「波」だといえる。だから「音波」というんだね。

 最初にそう考えたのは、ギリシアの哲学者アリストテレスだった。紀元前350年ごろだ。彼は正しかったが、実験で自分の説の正しさを示すことができなかった。当時は、真空を作ることができなかったんだ。真空を作って、空気のないところでは音が伝わらないのを確かめるのは、なんと、1657年まで待たなければならなかった。

 1644年。イタリアの物理学者エヴァンジェリスタ・トリチェリが、水銀を満たした長い管を使って、人間の手ではじめて真空を作り出した。彼の装置は小さく密閉されていたから、実験にはあまり役に立たなかった。1650年に、ドイツの物理学者オットー・フォン・ゲーリエが、容器から徐々に空気を抜き出すポンプを発明した。この発明で、科学者は、やっと真空を使って実験できるようになった。

 1657年、アイルランドの物理学者ローバート・ボイルは、空気を抜いたガラス容器の中で、鐘を鳴らす実験をしてみた。鐘は鳴らなかった。ところが、空気を中に戻したとたん、鐘は鳴り出したのだ。ついに、空気が音を伝えるのだと証明された(もちろん、水の中も、金属にも音は伝わることができる)。

 ぼくらが、当たり前と思っていることにも、こーんなに長いストーリーがあるわけだ。科学者たちの地道な努力に拍手。

 さあ、音も伝わる謎が解けた。だから、遠隔作用から外そう。

 さて。ぼくらは、地球と太陽の間には、空気がないことを知っている。そこは「真空」なんだ。なにもない。なのに、太陽からは光と熱が伝わってくる。さらに、真空の中でも磁石は鉄を引きつける。電気も同じだ。もちろん重力も。どうやら、これらを伝える「なにか」を発見するのは難しいようだ。作用を伝える媒介がないんだよ。

 よろしい。では「重力、光、熱、磁気、電気」の、五つを遠隔作用と認定しよう。

 と、思うんだけど、さっきも書いたとおり、科学者は「遠隔作用」なんて、超能力というか、幽霊のような不思議な現象は嫌いなんだ。必ず作用を伝えるなにか(媒介)があるに違いない。そう考えた。

 ここで、エーテルが登場する。この言葉を作ったのもアリストテレスだ。彼は、天上に輝く星々を、「輝くもの」という意味合いで「アイテール」と呼んだ。

 このギリシア語は、ローマ人に受け継がれた。当時のローマでは、ギリシア語は教養言語だったから、学者たちは、できるかぎりギリシア語を使いたがった。のちに、教養言語はラテン語に変わり、現在は、英語がその地位にある。という、言語の移り変わりを経て、アイテールは、エーテルと発音されるようになった。

 科学者たちは、遠隔作用をどうしても認めたくなかったから、作用を伝える謎の「モノ」に、このエーテルという言葉を使うことに決めた。

 エーテルとは、非常に不思議なモノだった。なにしろ、真空に思える空間にも、それが充満しているはずなんだけど、少しも観測できない。遠隔作用と同じくらい、謎に満ちていた。だが科学者は、自分たちの技術では、エーテルを発見できないだけで、いつか未来の優れた観測技術が、エーテルを発見すると信じることにした。そこまでしても、遠隔作用だけは認めることはできないのだよ。

 とにかく。物理学者たちは、エーテルが磁気や電気を、そして重力を伝えるのだと考えて、心を落ち着かせることにした。彼らにできることは、それだけだった。最初に結論をいうと(というか、みんな知ってるだろうけど)、エーテルという考えは間違っている。そんな物は存在しない。エーテルを科学から消し去るには、天才の頭脳が必要だった。いうまでもなく、天才は、そう簡単に現れる物ではないのであって……

 まず、登場した天才は、アイザック・ニュートンだった。知ってるよね? 万有引力の法則を発見した天才だよ。ついでに彼は、微分学を発明するという、面倒なこともしてくれちゃったから、ぼくは高校時代、数学の時間にずいぶんひどい目に遭ったもんさ。恨むよ、ニュートンさん。(ニュートンとはべつに、微分を考案した数学者がいたから、ニュートンがいなくても、ひどい目に遭っていたけどね)

 まあ、それはともかく、ニュートンは、光はとてつもないスピードで飛んでくる「粒子」だと考えた。光が匂いと同じく、粒子が飛んでくる現象だとすれば、光は遠隔作用ではなく、しかもエーテルなどという、怪しげな概念を持ち出さなくてもよくなる。

 じっさい、光が粒子だとすれば、光のさまざまな現象が説明できた。反射したり屈折したり、とくに、不透明な物体に影を作る現象の説明にはうってつけだった。

 影ができる現象が、そんなに不思議なんだろうか?

 ここで、水の上にできる波を考えてみよう。波立つ水の中に、一本の棒を立てたらどうなるだろうか。棒の後ろ側には、まったく波が現れなくなる?

 残念ながら、そうはならない。波は、棒の後ろ側に回り込んで、やはり波を作る。光がもしも波だとしたら、棒の後ろに回り込んでしまって、「影」を作ることはないだろう。いや、まったくできないとは言わないが、影は鮮明ではなく、かなりボヤけるだろう。

 これは「回折」と呼ばれる現象なんだ。回折は波動に特有な現象で、波動が障害物の端を通過して伝播(でんぱ)する時に、その後方の影の部分に侵入することをいうんだよ。

 ところが、光の作る影は、ものすごく鮮明だから、光が回折現象を起こしているとは思えなかった。だから、光を粒子と考えると、その説明がうまくできるってわけさ。

 でも、ニュートンの学説に疑問を持った科学者もいた。光が粒子だとすると、プリズムによって、光が虹色に分離する現象がうまく説明できなかった。この問題には、なんとかコジツケの説明を加えたけど、もうひとつ、複屈折という現象があることがわかった。詳しくは説明しないけど、結晶に入射する光に、二つの屈折光線が現れる現象のことだ。こいつを粒子論で説明するのは、かなり難しい。

 ニュートンは、複屈折の問題を解決するために、超人的な努力をした。なんとか光の粒子論に当てはめようとしたんだ。その過程で、ニュートンという天才は、人々から、二百年も先んじて、光が、粒子と波動の両方の性質を持つことの片鱗をかいまみていた。彼は真理の一歩手前までいっていたんだ。だが残念ながら、正しい答えを見つけることはできずに、この世を去った。

 ニュートンに続く科学者は、もっと簡単な方法を発明した。あまりにも問題が難しすぎるので、無視することにしたのだ。ニュートンが粒子だといったんだから、それで正解なんだよと。それ以後、科学者はこの問題に対して沈黙した。

 沈黙を破ったのは、ニュートンと同じイギリスのトーマス・ヤングという科学者だった。彼は、1801年からの一連の考察と実験で、光が「波」であることを証明した。波長という考えで、光が虹色に分離することを説明できる。色が分離するのは、波の長さが違うからなんだ。(このことからは、色の分離だけでなくさまざまな推論が生まれるけど、まあ、それは割愛)。

 では、光が波だとしたら、なぜ不透明な物体に影を作ることができるんだろう。それは、光の波長が非常に短いと考えれば、説明することができた。それどころか、光の作る影をよーく観察すると、影はけっして鮮明ではなく、少しぼやけていることがわかった。光にも回折があったんだ。こうして、いよいよ、光は「波」だという証拠がそろったわけだ。

 これは困ったぞ。波は、なにかそれを伝えるものがなければならない。またまたエーテルに頼らなければならないようだ。

 しかし、エーテルに頼るにしても、それは恐ろしく難しい問題を科学者に投げかけることになった。もしも、光が縦波であったなら、問題は簡単だったろう。ところが、光は横波だったんだ。これは大きな問題だった。

 このことを、説明させていただきたい。

 音波は縦波だ。こいつを描写するのは難しいけど、粒子が前後に振動しながら伝わっていく波を縦波という。水は横波だ。横波では、粒子は上下に振動している。縦波が前後で、横波が上下? それって逆じゃない? そう思うかもしれないけど、この点はぼくを信じてほしい。

 さて。縦波は、あらゆる物質の中を伝わることができる。気体でも液体でも固体でもオッケイだ。ところが、横波は、固体の中にしか伝わらない。ちょっと待った。さっきTERUさんは、水は横波だと言ったじゃないか。水は液体だぞ。そう思われたあなた。たしかにその通り。でも、水の波は、水面を揺れるだけで、水自体の中を伝わるわけではないのだよ。海の中には水流はあるだろうけど「波」は存在しない。インチキ臭いと思うかもしれないけど、この点も、ぼくを信じてくれていい。

 というわけで、光が横波だとわかると(なぜわかったのかを説明する衝動は抑えることにしよう)、エーテルは固体でなければならなくなる。

 状況は悪くなる一方だ。波が物質を伝わる速度は、その物質の密度に左右される。空気中よりも、金属のを伝わるほうが早くなるんだ。つまり、振動を伝える粒子が、たくさん詰まっている物のほうが、振動をよりよく伝えるということだね。

 さあ、それでは、秒速三十万キロメートルですっ飛んでくる光を伝える物質は、どれほど固くなければならないんだろう。ところが、真空中に、そんな固い物質がないことは明らかだから(それどころか、われわれの周りにも!)、物理学者は、大いに頭を悩ませることになった。

 高密度の真空! こんなとんでもない物を、科学者たちは扱わなければならなくなったんだ。彼らの苦悩は大きい。そんなことが可能なんだろうか。

 ところが、数学者たちはがんばった。高密度と真空という、互いに相いれない物をうまく結びつける、数学を一世代かけて完成させた。物理的には、エーテルは、物体がその中をゆっくり動くときは(われわれが歩くように)、十分に柔らかいけど、光のように、とんでもない早さで移動すると、とたんに固くなる。と、説明された。

 エーテルが、遠隔作用をうまく説明できるからこそ、こんなバカげた解釈がされたんだけど、できることなら、エーテルなんて捨て去ってしまいたい。というのが、科学者の本音だったろうと思う。

 でも、エーテルがなければ、遠隔作用が説明できないんだから、しょうがない。べつのアプローチを試みよう。そう。せめてエーテル理論を、もっと簡単にできないだろうか。

 最初のほうで、ぼくは遠隔作用として「重力、光、熱、磁気、電気」を挙げた。これらは、それぞれに違って見えるから、エーテルが光を伝えるときは、こんなふうになる、磁気を伝えるときは、こう変化する。さらに重力のときは…… と、エーテル理論は、どんどん複雑になるばかりだった。

 こういうことなんだ。エーテルは一種類しかないとしよう。そうすると、とても困ったことが起こる。たとえば重力は、ものを引っ張ることしかしない。ところが磁気は、引っ張るだけでなく反発力もある。重力は反射しない。ところが光は反射もするし屈折もする。どうしても、たったひとつのエーテルでは説明できないんだ。

 だから物理学者は、たくさんの種類のエーテルを考え出さなければならなかった。光を伝えるエーテルは、「導光性エーテル」なんて呼ばれるようになった。こいつは、さっき話した高密度のエーテルだ。

 もう、物理学者は頭が混乱していた。エーテルをもっと簡単(単純)にできれば、せめてもの救いなんだが……

 まず、熱を考えてみよう。熱ってなんだ? 結論を書こう。物質の中の分子が振動すると、それが熱となって感じられる。つまり「熱」という物が、存在するわけではないんだ。それは、分子の運動にすぎない。その分子運動が、気体や液体や固体を伝わるわけだ。

 でも、真空中を伝わる熱は、やはりエーテルを考えないと解決できないではないか。

 いや。ここで光の波長を思い出そう。光には、赤外線と呼ばれる波長がある。この波長の光が、皮膚に当たると、皮膚の分子にエネルギーを与えて、分子が振動する。結果的に、人間は赤外線を浴びると、わあ、あったかい。と感じるわけだ。つまり、真空中を伝わる熱は、じつは光だったんだ(厳密には違うぞという意見は、いまは持たないでいただきたい)。

 すばらしい。熱と光を、同じ物として扱えるようになったではないか!

 いい感じだぞ。つぎは磁気と電気に注目しよう。いままで話していた電気は、じつは静電気のことなんだけど、電気は針金の中を流れることができる。1820年の春、デンマークの物理学者ハンス・クリスチャン・エルステッドが、針金の中に電気を流すと、近くにあったコンパスの針が動くことに気づいた。

 エルステッドは、あまり実験が好きではなかったから、彼自身はこの実験をそれ以上続けなかったけど、ほかの科学者は違った。

 その年が終わるまでに、フランスの物理学者アンドレ・マリー・アンペールが、針金を曲げて、ベッドのスプリングのような形にしてから、電気を流してみた。すると、磁気効果はまっすぐな針金のときより強くなり、N極とS極ができて、まるで棒磁石と同じような働きをした。

 ここで疑問が生じた。電気が磁気を生み出すのなら、磁気が電気を作ることはできるだろうか?

 その回答を見つけたのは、イギリスの科学者マイケル・ファラデーだった。ファラデーは、1831年に、アンペールが作ったようなスプリング状の針金の中に、棒磁石を入れてみた。すると、針金に電気が流れたのだ。いまや、電気と磁気は密接に関係していて、電気が磁気を生み出し、その逆もまた正しいことは確実だった。

 すると、また疑問が生まれる。

 電気が電気だけで、磁気が磁気だけで存在するようなことは可能なんだろうか? つまり、この二つを切り離すことはできるのかだろうか?

 この回答を見つけたのは、スコットランドの数学者、ジェームズ・クラーク・マックスウェルだった。

 1864年。マックスウェルは、電気と磁気の相互作用を表す、比較的簡単な四つの方程式を考え出した。マックスウェルの方程式が、あらゆる条件のもとで成立し、あらゆる電磁気的な振る舞いを説明できることが、すぐに明らかになった。しかもマックスウェルの方程式は、彼の死後に登場することになる、相対論にさえ影響を受けなかった。

 マックスウェルの方程式から導き出される答えは、電気の作用と磁気の作用が、単独では存在しないことを証明した。つまり、電気と磁気は、ぜったいに切り離せない。電気と磁気は、「電磁気」という、単一のものだった。つまりわれわれは、同じ物の、べつの側面を見ていたんだ。

 これだけでも、たいした業績だけど、マックスウェルは、これだけでは終わらなかった。

 彼は、自分の方程式を検討しているうちに、電場の変化が磁場の変化を生じ、それがまた電場の変化を生じて、というように、この二つが、互い違いに起こりながら、前に進むことを発見した。つまり電磁場は、横波の形をとりながら、四方八方へ飛んで行くはずだった。そのスピードは、秒速三十万キロメートルに達するはずだった。これが電磁放射の正体だ。

 ちょっと待て。秒速三十メートルの横波だって? これって、どこかで聞いたことないかい? そう。幸運にもわれわれは、光が秒速三十万キロメートルの横波だということを知っている。

 とすると、ひょっとして?

 そう。じつは、ガンマ線から電波に至るまで、あらゆる波長の光は、電磁放射だと結論しないわけにはいかなくなった。それら全部が、電磁スペクトルをなしていたんだ。いわゆる「光(可視光線)」は、電磁放射の一部なんだ。電磁放射の一部が、光として感知できるように、人間は進化したともいえる。宇宙のどこかには、もしかしたら、われわれが電波と呼ぶ領域を、可視光線として見ている宇宙人がいるかもしれないね。いや、なぜ宇宙人に限定しなければいけないのか。地球にだって、節足動物(昆虫)、爬虫類、両生類、魚類、鳥類などに(あるいは一部の哺乳類にも)、人間が視覚できない電磁波を見ることのできる種がいるかもしれない。彼らは地磁気の微妙な変化を見る(感じる)ことができるのかもしれない。そういう変化は、大きな地震が起こる前に現れるのかもしれない。だから彼らは、人間が気づく前に、そこから逃げ出して……

 話がそれた。

 というわけで、マックスウェルという天才が、磁気と電気をひとつにまとめ、さらに光さえも、電磁波なのだということを突き止めてくれたわけなんだよ。

 閑話休題。ちょっと、お休みしよう。

 ぼくは、独断と偏見で、マックスウェルが、科学史上、十本の指に入る科学者だと思っている。彼の存在を抜きに、現代物理学を語ることはできない。マックスウェルは早く死にすぎた。四八才だったんだよ。七五まで生きれば二十世紀に革命を起こした量子論と相対論の誕生を目にしただろうに……

 閑話休題おわり。さあ、戻ろう。

 これで「光、電気、磁気」をひとつにすることができた。整理しよう。いまや、エーテルに頼らなくてはならない遠隔作用は、電磁気と重力の二つになった。だいぶシンプルになったぞ。よしよし。これで科学者は安堵した。複雑になる一方だったエーテルが、すいぶんシンプルに説明できるようになったのだ。

 でも……

 いつまでエーテルなんてものに頼らなければならないんだろう? さっきも書いたけど、エーテルという考えは間違っており、この科学者を悩ませ続けてきた幽霊を追い出すには、天才の頭脳が必要だった。その天才の名は……

 アルベルト・アインシュタイン。(と、マックス・プランク)

 おお、ついに出ましたよ〜 われらがアインシュタイン先生。頼みますぜ。

 でも、アインシュタインに先立って、マイケルスン=モーリーの実験を書き記しておかなくては不公平だろう。

 マイケルスンとモーリーというふたりのアメリカの科学者は、エーテルを観測する方法を考え出した。正確には、彼らは、エーテルによって光速度が変化するはずだから、そこから、地球が動く速度を割りだろうとした。どちらにしても、エーテルが存在していることが前提だった。(それほど難しくはないけど、退屈なので詳しい説明は割愛)

 彼らの実験には、少しも怪しいところがなく、注意深く整備されていたから、かなり正確な値を観測できるはずだった。

 ところが、マイケルスンとモーリーは、長い時間、かなりの回数、観測を続けたが、満足な結果がえられなかった。なんと、エーテルによって変化するはずの光速度は、少しも変わらなかったんだ。つまり、実験は大失敗だった。その理由はいくつか考えられるが、その中に、じつは「エーテルなんて存在しないのではないか?」という疑問があった。

 その疑問を、声だかに主張したのは、オーストリアの物理学者エルンスト・マッハだった。彼がエーテルを否定したのは奇抜なことじゃない。彼は観測できる現象のみが科学的研究にふさわしいものであり、科学者は直接観測できないもののモデルを構築してはいけない。そういうものの存在を信じてもいけない。と言ったんだ。(ただ彼は、原子も見ることができないので、原子論さえも否定したんだけどね)

 マッハの主張の誘惑は、どれほど強かったことか! エーテルは十九世最高の物理学者たちが説明しようとして神経をすり減らした、自己矛盾をたっぷり含んだ、じつにバカバカしい存在だったからだ。

 ああ、エーテルなんて、捨ててしまいたい! でも、エーテルがなければ、光が真空を伝わるという事実をどう説明したらいいんだ? 光は波でできている。これを否定することはできない。となると、光は「なにかの」波でなければならない。もしエーテルが存在するなら、光はエーテルの波だ。だが、エーテルが存在しないなら……

 光は、なにで構築されてるというんだ!

 あう〜、頭が痛い。物理学者たちは立ち往生した。もう、これ以上のことは神でなければ知り得ないのだろうか。ここまでが人間の知識の限界なのか。

 とんでもない! ここで、ついにこの状況を救うふたりの物理学者が現れた。彼らの名は、マックス・プランクと、アルベルト・アインシュタイン。どちらもドイツ人だ。

 まずはプランクに登場願おう。

 彼は、十九世紀最後の年、つまり1900年に、黒体輻射(放射)の性質を説明するために「量子」という考え方を提唱した。エネルギーは、じつは不連続なのであり、不連続の粒子、つまり「量子」で構成されていると考えたんだ。量子論の幕開けだ。

 プランクは息子に、自分の発見は、ニュートンの業績に匹敵するかもしれないと語ったらしいけど、それは誇張ではなかった。彼のもたらした新しい視点は、あまりにも決定的だったから、プランク以前の物理学を「古典物理学」、プランク以後を「現代物理学」と呼ぶぐらいなんだよ(プランクは、1918年にノーベル賞をもらっている)。

 そして、五年後の、1905年。アインシュタインが登場する。

 彼は光電効果を研究していた。光電効果というのは、金属に光を入射させると、その面から電子が出てきたり、または内部の伝導電子数が増加する現象のことだ。

 わけがわからんと思われるだろうが、まあ、先を読んでちょうだい。

 アインシュタインは、この光電効果がなぜ起こるのかを説明するのに、プランクが提唱するよりも早くに、量子論を使った。じつは、光を波動とする古典的な考え方では、光電効果をうまく説明できなかったんだ。

 アインシュタインは「量子」を使うことで、光が「粒子」でもあることを明らかにした。光は波動であるけど、じつは粒子でもあったんだ。だから光は「光子」と呼ぶべきものなのだった。アインシュタインは、この研究によって、ノーベル賞をもらっている。

 すっごく、難しいよね。だからここでは「そうなんだ」というぐらいに読んでおいてほしい。というか、本当に理解するためには、数学を勉強しなくっちゃいけないんだよ。

 さて。アインシュタインは、光(電磁波)は、粒子だと明らかにした。思い出してほしい。光が粒子だとしたら、エーテルは必要なくなる! マイケルスン=モーリーの実験は、じつは、失敗ではなく、エーテルの存在を否定し、かつアインシュタインの理論を裏付けるものだったんだよ。そのことが判明して、大失敗をやらかしたと思っていたマイケルスンの手には、アメリカ人の科学者として、はじめてノーベル賞がころがりこんだ。おめでとう。(アインシュタインは後に、のんきにも、マイケルスン=モーリーの実験を知らなかったと語っている)

 こうして、いよいよエーテルが葬り去られるときがやってきた。エーテルに代わって物理学者は『場』という概念を採用した。

 この『場』を言葉でいい表すのは極めて難しい。数学的な抽象的概念としかいいようがない。考えようによっては、エーテルよりも、もっと摩訶不思議だ(だからこそ、天才の頭脳を必要とした)。「場」にはエーテルにないすばらしい特性が備わっていた。インチキ臭いこじつけをひねくり出さなくても、ずっとうまく、自然の振る舞いを説明できるんだ。正確には、数学的に無理なく現象を表記できるというべきだろうか。

 こうして、エーテルは消え去った。もともと存在すらしていなかったのだから、当然の運命だ。「電磁波」は量子化されて「電磁場」が誕生したんだ。もう一つ、統合されないで残っている重力は、「重力場」と考えられるようになった。しかし、重力も量子化して、電磁場と統合し、最終的には「電磁重力場」にできないだろうか。いや、するべきではないだろうか?

 もちろん、そうするべきだけど、それは簡単な仕事じゃないんだ。重力ってのは、強情なやつでね。まったく、こいつは大物ですぜ、ダンナ。

 この話は次回のエッセイに譲ろう。おそらく、アインシュタインの、もう一つの偉大な業績、相対性理論の解説からはじまるだろう。

 不安だ…… ぼくに相対論が説明できるんだろうか……


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