グッバイ、神さま



 もう、新聞報道から一ヶ月も経っているので、やや旧聞に属するが(朝日新聞では2002/7/12の一面に掲載された)、ニューヨーク州立大学の、エッカード・ウィンマー教授が、合成したDNAの断片から、ポリオウイルスを作り出したのを覚えておられる方もいるだろう。

 覚えておられない、あるいは、もともと知らない人のために書くと、ウィンマーは、まず、ポリオウイルスとは、まったく関係のない核酸から小さなDNAを合成して、それらをつなぎ合わせて、最終的にポリオウイルスとまったく同じリボ核酸(RNA)を作り出した。こいつを、あわれなマウスに(ポリオは人間にしか感染しないので、このマウスは遺伝子操作されていた)ぶちゅっと注射したところ、そのマウスは、感染しちゃったのだ。つまり、ウィンマーの作ったウイルスは、正真正銘、ポリオウイルスだったことが確認されたわけだ。(ただし、感染力はやや弱かった)

 さあ、大変。ついに、人間が、生命を作ってしまいましたよ、ダンナ。とうとう人間は、神の最後の領域に踏み込んだわけだ。

 人間は、神から「火」を奪い(ギリシア神話のプロメテウスを知ってるかい?)、宇宙誕生の謎をある程度解きあかし(もちろん、全部じゃない)、聖書で神の奇跡とされる数々の事柄を、自然科学という名に変えてきた。でも「生命の誕生」だけは、人間に手にはおえないような気がしていた。漠然と。

 そうじゃなかったんだ。科学者は、着々と準備を進めていた。ポリオウイルスは、手始めにすぎない。彼らは、これからもっともっと複雑な「生命」を創ろうとしている。

 人類は、ずいぶん、大それたことをはじめたもんだ。新聞報道が言うとおり、テロリストが、ウィンマーと同じ手法で、じゃんじゃかウイルスを製造して、何万人何十万人という人々を殺す危険があるかもしれない。いま現在、その心配をする必要はないけど(ウイルスの合成は、とんでもなく難しい)、遠い未来には、真剣に考慮しなければならないときが来るかもしれない。そのむかし、権力者だけの特権(秘密)だった火薬を使った武器は、いまのアメリカ人なら、かなり自由に買えるじゃないか。それはピストルという名で知られている。

 もっとむかしに遡れば、鉄こそが、権力者の特権(秘密)だった。それは、硬くて切れ味のいい武器を作ったから、鉄を作る技術を紀元前一五〇〇年ごろに見つけ出した、ヒッタイト人は、それを大いに戦争に利用した。青銅の剣と鎧しか知らない敵国を征服するのに使ったのだ。だから、鉄の精錬方法は、ヒッタイト人によって重要機密として守られていたから、なかなか普及しなかった。ところが、現代は、鉄を使った包丁なんて、どこででも買える。それどころか、鉄と炭素を合成すると、鉄だけよりも、もっと強くて便利な「鋼」ができて、われわれ現代人は、それさえも、ごく普通に利用できる。たまに利用の仕方を間違えて、それで他人を傷つける輩もいる。

 というわけで、ウイルスの合成技術が、いまの技術水準ではどんなに難しくても、将来にわたって、それを悪用する連中が登場しないとはいえない。ただし、この技術が、人類をウイルスの脅威から救うかもしれない。そうであってほしい。爆薬も鉄も、だれかを殺すより、生かすことに使われているのと同じように……

 ここで仕切り直し。つい、筆が走っちゃったけど、ぼくはこのエッセイで、その問題を語ろうと思ったんじゃないんだ。人間が「生命」を合成したという報道に触れて、では、そもそも「生命」は、どうして生まれたのかと思ったんだよ。

 ぼくは、何度かこのエッセイで、「知能」について語った。とくに興味があるのは、コンピュータのような人工的な機械に、人間と同じ「知能」が芽生えるかという問題だ。だったら、なぜ、もっと掘り下げて「生命」そのものについて考えなかったのだろう。

 だから、いまこそ考えようじゃないか。

 大丈夫。小難しい科学用語なんかなるべく使わないから(使ってくれてけっこうと言われても困るけど)、あんまり警戒しないで、この先を読んでほしい。読み終わったあと、だれかに、その知識を自慢げに話したくなるような気分にさせてあげるから。(もっとも、万が一、そういう気分にならなくても、苦情は受け付けない。あしからず)

 では、はじめよう。

 いうまでもないことだけど、生命は、地球で誕生した。ほかの惑星にも(たとえば火星とか)生命がいるかもしれないという問題は、いまは忘れよう。われわれは、まだ地球以外に生命がいるのかどうか、知らないからね。

 さて。いきなり結論を書こう。最初の、ごく単純な「原核細胞」しか持たない生物が現れたのは、われわれが現在知る限りでは、三十六億年前だ。地球が誕生したのは、四十六億年前と推測されているから、地球が誕生してから、十億年間の間に、なにかが起こって、生命が誕生した。

 いったい、なにが起こったのか?

 その謎を解くには、とにかく、当時の地球がどんな状態だったかを知らなければならない。まず、決定的に違ったのは、大気の成分だった。いま、われわれの住む地球にある大気は、酸素がいっぱいあるよね。だいたい二〇パーセントが酸素だ。たぶん知ってると思うけど、われわれ人間は、この酸素がないと生きていけない。人間だけでなく、ほぼすべての動物が(ほとんどの微生物も含めて)、酸素のある環境でしか生きていけない。ところが……

 さあ、ここから驚いてもらおう。生命が生まれた当時、地球の大気には酸素がなかったんだ!

 驚いた? 驚いたよね?

 いま、動物たちが切実に必要として、ほんの数分でさえ、それなしには生きていけない酸素が、原始の地球には存在しなかったんだ。なのに、生命はそこで生まれた。

 こんな状況で、いったいどうして生命がが生まれたんだろう。ははん。わかったぞ。最初は「動物」ではなくて、「植物」が誕生したんだろ?

 そう思ったあなた。なかなか着眼点がよろしい。聖書にだってそう書いてある。たぶん知らないだろうから、創世記の一章十一節になんて書いてあるか教えてあげよう。神は、この世を作った三日目に、つぎのように言ったそうだ。

『地は青草と、種子を生じる草と、果実を結ぶ果木を生み出すべし』

 なるほど。やっぱり植物を作ったんだな。でも、ここで気になるのは、神は植物のことを「生命」とは言ってないことなんだ。神は植物をただの「食物」として作った。その神が、はじめて「生命」という言葉を使ったのは、なんと五日目になってからだった。この日、神は水の中に(海のことだ)生命を作った。とくに、鯨がお気に入りだったらしい。そして陸地にも、人間以外の、すべての生命を作った。神は、神が「生命」と呼ぶ動物たちに対して、三日目に作った「植物」を食べて生活しなさいと言った。(人間は特別なのだそうで、神さまは日を改めて、とくに念入りに人間を作ったそうだ)

 ハッキリ申し上げよう。植物は紛れもなく生命であり、神は、この点で大きな勘違いをしている。植物をただの「食物」として扱うのは、いかにも不当だ。聖書が編纂された当時、科学という概念すらなかったのは認めるけど、あまりにも大きな過ちではないか。(もっとも、科学がなんだというんだ。現代だって、聖書の言葉をだれも修正しようとはしない)

 ところが……

 意外なことに、じつは最初の「生命」は植物ではなかった。酸素がなかった原始の地球で、植物以外の生命が生まれたのはいったいなぜなんだろう? 

 これを読んでいるあなたが、十分に思慮深ければ、ぼくが「動物」と言ってないのに気がついているはずだ。そう。最初に生まれた生命は「動物」とも「植物」ともいえないものだった。

 いったい、なにが生まれたんだろう。ちょっとオカルトチックだねえ。

 いいから、早く結論をいいなさいという声が聞こえてきそうだけど、まあ、あわてなさんな。足し算を覚えてからじゃなきゃ、1+1の答えはわからない。基本的なことから説明しよう。

 酸素のなかった原始大気の成分から考えよう。それは、アンモニア、メタン、水蒸気。そして、ほんのちょっぴりの水素でできていた(※注1)。だれも原始の大気を吸い込んだ人はいないけど、そう考えるに十分な証拠がある。宇宙空間にある、もっとも普遍的な物質は水素だ。たとえば太陽は、その八五パーセントが水素の固まりだ。この水素が、原始の大気の成分に影響したのは間違いない。というのは、水素と窒素が化合すればアンモニアになるし、水素と炭素が結合すればメタンになる。酸素と結合すれば、ご存じのとおり、それは水になるんだ。地球の重力では、水素を大気中に押しとどめてはおけないけど、上にあげた化合物は、どれも水素よりずっと重くなるから、地球の重力で、十分に引きつけておくことができる。

※注1 2007年4月8日追記
現在、原始大気の成分は、窒素と二酸化炭素が主成分だと考えられている。


 つまり、原始の地球の大気を構成していた気体は、すべて水素原子が含まれるものだったわけだ。こういう大気のことを、『還元性大気』と呼ぶんだけど、まあ、理科の授業がお嫌いな方も多いことだろうから、この言葉は忘れてもらっていい。その代わり、わかりやすい名称をつけようじゃないか。原始の大気のことを『大気 I 』と呼ぼう。「 I 」はギリシア数字の「一番」のことだよ。(インターネットでは、ギリシア数字は、機種依存文字なので、ここでは、アルファベットの「 I 」で代用しているけどね)。

 そして、もうひとつ重要なのは、原始の地球にも、いまと同じように大量の水があったってことだ。もちろんその水は、「海」という形で存在していた(なぜわかるって? だったら聞くけど、いまの「海」は最近できたものかい?)。で、上にあげた大気 I の成分の中で、アンモニアはすごく水に溶けやすいから、「大気」という形ではなくて、そのほとんどが、海の中にあっただろう。

 さあ、これで舞台はそろった。メタンと、若干の水素が含まれる大気と、アンモニアがたっぷりと溶けた海。これが、原始の地球の姿だ。生命はここから誕生した。

 ところが、この大気 I とアンモニアの海を、そのまま置いておいても、なにごとも起こらない。アンモニアにしろメタンにしろ(ちょこっとだけ難しい言葉を使わせてもらうと)、熱力学的に安定した物質なんだ。なにかエネルギーがないと、それ以上べつの物に変化しようとはしない。原始の地球に、エネルギーはあっただろうか?

 あったとも! そんな心配をするのがバカバカしくなるほど、原始の地球はエネルギーに満ちあふれていた。

 たとえば、火山活動は、いまの地球より、はるかに激しかったはずだし、大気 I の成分でも、もちろん雲ができるから、激しいカミナリもあっただろう。放射性物質の放射能は、いまよりずっと強かったし、さらに、太陽から降り注ぐ紫外線は、いまでは信じられないぐらいに強かった。

 どう? これだけエネルギーに満ちていたら、なにか起こりそうじゃない?

 と、そう考えた科学者がいた。一九五二年。アメリカの化学者スタンリー・ロイド・ミラーは、原始の大気に近い成分をフラスコの中に閉じ込めて(ほかの物質が入り込まないように注意したのは言うまでもない)、そのフラスコの中に、カミナリと同じような、電気放電ができるように、電極を入れておいた。

 さて。ミラーは、電極に電気を流して、電気放電を開始した。すると、たった一週間で、透明だったフラスコの中のガスが、茶色く変色した。それを分析すると、なんと驚くなかれ、そこには、糖やリン酸、そしてアミノ酸が含まれていたんだ。

 それから、多くの化学者が、ミラーの実験を押し進めて、大気 I とアンモニアを溶かした水とエネルギーから、生命に必要な物質がすべて作られることを確認した。とくに、エネルギーの中で有益なのは、太陽光に含まれる紫外線だと思われた。なぜなら、火山やカミナリは局地的だけど、太陽光は、さんさんと、どこにでも(夜以外は)降り注いでいるからだ。でも、なぜ紫外線なのか? それは、いわゆる可視光線は、紫外線よりエネルギーが低くて、アンモニアやメタンなんかの、安定した物質を化合させるには不十分なんだ。でも紫外線にはそれができる。(※注2

※注2 2007年4月8日追記
原始大気の成分が、窒素と二酸化炭素であるならば、カミナリや紫外線のエネルギーでは、反応が起こらない。現在は、宇宙線など、より高いエネルギーによって反応が起きただろうと考えられている。横浜国立大学の教授、小林憲正は、窒素、二酸化炭素、一酸化炭素、そして水蒸気などを含んだガスに、陽子ビーム(宇宙線の代わり)を当てて複数のアミノ酸ができることをたしかめた。


 よろしい。これで生命に必要な材料はそろった。アンモニアの溶けた海は、メタンの大気と徐々に反応して、リン酸や、アミノ酸などの分子が溶けた、「生命の材料のスープ」のようになったはずだ。

 ここから先も紫外線というエネルギーに頼らなければならない。とにかく紫外線は、小さな分子から大きな分子を作るのに十分なエネルギーを持っているから、紫外線のもとで、小さな分子は、どんどん大きな分子になっただろう。

 と、言いたいところなんだけど、じつは、そうはならない。大きな分子になればなるほど壊れやすいから、紫外線が作った大きな分子は、同じ紫外線によって、また小さな分子に分解させられてしまうんだ。料理を作ったはしから味見しちゃって、けっきょく、いつまで経っても料理が完成しないようなもんだ。

 うーむ。これはマズイぞ。どこかに逃げ道はないだろうか?

 もう、わかってるよね? もちろん、逃げ道はある。それは「海」だ。海の水は紫外線を吸収する。その表面では、紫外線による反応が強力に起こるだろうけど、たった数センチ潜っただけで、反応はゆるやかになる。それが、数十センチも潜れば…… 最後まで言う必要はないよね。

 海の表面で、紫外線によって作られた大きな分子は、やはり紫外線によって分解されちゃうけど、何百個か何千個かに一個は、分解される前に、海の下の層に沈むことができただろう。だから、海の中では、表面から下に行くほど、複雑な分子が存在していたと思われる。

 ところで、アミノ酸がいくつかくっついた複雑な分子を、なんと呼ぶか知っているかい? 大丈夫。あなたが調べる必要はない。ぼくが教えてあげよう。それは「蛋白」と呼ばれる分子のことだ。ぼくらの身体を作っているのはこの蛋白だから、いよいよ生命に近づいたことになるわけだ。この蛋白が、核酸と結びつくことができれば、それは「核蛋白」になれる。じっさい、そこで核蛋白ができたはずだ。それは、きわめて単純なモノだったろうけど、それでも「核蛋白」の誕生は大事件だ。それがより複雑になれば、われわれがDNAと呼ぶモノになるのだからね。

 ここで、ひとつ問題が発生する。

 アミノ酸の種類が多すぎるんだよ。アミノ酸には、およそ二〇種類があるんだけど、これらが組合わさって蛋白になるとき、その組み合わせが、膨大なんだ。キャッシュカードの四桁の数字でも、貯金口座を守るのに十分な組み合わせがあるけど(まあ、守りたいほど残高はないけど)、アミノ酸の結合する組み合わせは、キャッシュカードの比じゃない。

 たとえば、人間の体を作っている蛋白の中で、平均的な大きさのヘモグロビンを考えてみよう。アミノ酸が、偶然による結合でヘモグロビンになる可能性は、どのくらいあるだろうか? ぼくは不幸にも、その組み合わせを計算した数を見たことがある。気は進まないけど、みなさんにもお教えしよう。その答えは「4×10の619乗」だ。

 え? どんな数字かわからない? 4のあとに、0が、619個つながった数字を想像してくれれば、それが「4×10の619乗」だよ。

 それでもまだ想像がつかないなら、こういう説明をしよう。もしも、この宇宙空間にある、すべての原子が独立したコンピュータだったとして、その一つ一つが、アミノ酸の違った組み合わせを計算して、正しいヘモグロビンの組み合わせかを調べると仮定しよう。さらに、そのコンピューターは、一秒間に、十億通りの組み合わせを調べられるとしよう。

 さあ、これだけ気前よく、超、超、超、巨大なコンピュータを作れば、簡単にヘモグロビンの組み合わせを見つけられそうだけど、残念ながら、五千億年かかっても、一兆年かかっても、正しい組み合わせは見つけられない。それほど、アミノ酸の組み合わせは多すぎるんだよ。

 このことを、神学者が知ったら、きっと、得意顔でこう言うだろう。

 それ、みたことか。こんな膨大な組み合わせの中で、正しく「生命になり得る」蛋白を、自然が偶然に作ったはずはない。そこには、「絶対なる知性」が働いたはずだ。言うまでもなく、その「絶対なる知性」とは「神」のことだ。

 じっさい、ルコンド・ドゥ・ニュイという人物が、一九四七年に、『人間の運命』という著書で、得意気にそう主張している。

 なるほど。こんどこそ、科学の敗北かもしれない。科学者は、試験管も遠心分離機も電子顕微鏡も捨てて、教会に通うべきかもしれない。

 ちょっと待った。まあ、そう悲観することはない。まともな科学者なら、ドゥ・ニュイの指摘が間違いだと知っているんだ。

 たとえば、水素原子と酸素原子を考えてみよう。日本のかなり高級な(でも味気ない)義務教育を受けた者なら、水素と酸素が化合すれば、水ができるのを知っているはずだ。水は、水素原子二個と、酸素原子一個からなる三個の原子が、V字型に配列している。酸素原子に、水素原子が二個くっついてるから、そのシルエットは、ちょっとミッキーマウスに似ているかもしれない。(顔が酸素で、二個の耳が水素だ。V字型だろ?)

 でも、われわれは、その事実を知らなかったとしよう。三個の原子が結合しているとはわかっても、その配列がまったく謎だったとしよう。水素が一個で、酸素が二個かもしれない。またつながり方は、「水素−酸素−水素」かもしれないし、「酸素−酸素−水素」かもしれない。

 さて。その組み合わせはいくつあるだろう? さあ、みなさん。メモを用意して、組み合わせを書き出してみてくださいな。といっても、やってくれる人はいないだろうから、ぼくがやろう。水素が「H」で、酸素が「O」だよ。

 H−H−O , H−O−H , O−H−H

 O−O−H , O−H−O , H−O−O

 以上の六通りだ。よかった、少なくて(笑)。

 この中で「正しい」組み合わせは「H−O−H」だ。水素と酸素は、六通りもの組み合わせを自由に選ぶことができるはずなのに、なぜか「H−O−H」にしかならない。水素と酸素は、化学的特性をもっていて、いつでも、きちんと「H−O−H」に納まるようになっているんだ。つまり「水」という分子は、「偶然の結果」、そこに存在しているのではなくて、きちんと定められた物理法則によって、「必然の結果」存在しているんだ。

 では、アミノ酸に戻ろう。もしも、アミノ酸をただのブロックだと考えれば、上に書いたとおり、不愉快なほどに、その結合の組み合わせは多い。ところが、幸いなことに、アミノ酸は「ただのブロック」ではないのだ。それらは、結合のパターンを持っていて、けっして、無秩序な結合をいくらでもできるわけではない。

 それでも、アミノ酸ほどの複雑さと、さらにアミノ酸がおよそ二〇書類あるという事実は認めなければならない。組み合わせの数は限られているとはいえ、それでもかなり多い。だからこそ、人体に必要な、何百万種類ものタンパク質ができるんだけどね。

 では、やはり、神がアミノ酸の配列を決めたのだろうか。

 いやいや。その考え方も、いや、この考え方こそ、大きな間違いなんだ。聖書には、神は自分自身の姿に似せて人間を作ったとある。どうしてそう思うんだ?

 そう。われわれは、自分たちのことを「正しい姿」だと思っている。まず「人間」があって、自然が(あるいは神が)、その「人間」を作ったのだと。

 そうじゃないんだ。われわれは、地球が何十億年という時間をかけて、数あるアミノ酸の配列から、使えそうなものだけが残った「結果」でしかない。ヘモグロビンの話しに戻って説明すると、自然は、ヘモグロビンを作りたくて作ったわけじゃないんだ。たまたまそれが、使える蛋白だったから、使ったにすぎない。それを模索する時間は十分にあった。だから、自然は「人間」を作ったのではなくて、さまざまな組み合わせを試しているうちに、まあ、「人間」ができちゃっただけなんだよ。

 いつの間にか、話が人間になっちゃってる。まだ、われわれは、最初の生命の誕生すら見ていなかった。だから話を原始の地球の海まで巻き戻そう。

 海の表面で、紫外線によって作られた大きな分子は、やはり紫外線によって分解される前に、海の下の層に沈むことができたと書いた。だから、海の中では、表面から下に行くほど、複雑な分子が存在していたと思われる。覚えてるよね?

 では、この複雑な分子が、どういう振る舞いをしただろうか。適度な深さの水の中では、紫外線のエネルギーが適度に弱められて、分子同士の結合は促しても、分解はしない場所があったかもしれない。そういう場所には、より複雑な分子が誕生しただろう。その分子は、結合するための「自分より小さい分子」を捕食しているように見えるだろう。つまり、小さい分子を食べてるわけだ。でも、これではまだ生命とは呼びたくない。われわれの概念による生命には「自己複製」という特性があるからだ(どこか遠い宇宙に、そういう概念とは無縁の生命がいるかもしれないから、あえて、自己複製が、生命の普遍的な特性だとは言わないけど)。

 ここで、おもしろい蛋白が登場した。小さな分子と結合するとき、自分の分子のとなりに、自分と同じ分子を並べようとする連中が出てきたんだ。難しい理屈はぼくにもわからないけど、そういう化学的特性は、驚くものではないらしい。

 さて。自分と同じ分子を並べていくと、結果的に、自分と同じ姿がとなりに出現する。そうすると、分子が大きくなりすぎて(一気に体重が二倍になったと思えばいい)、それらはパカンとふたつに割れて、分裂した。

 できたじゃん。じつは、自己複製というのは、すごく高度に思えるけど、それほど難しいことではなかったのかもしれない。なにしろ地球には、気の遠くなるような時間があったから、そういう組み合わせを持った蛋白ができるのは、必然的でさえあっただろう。

 いったん、自己複製の特性を持った蛋白ができると、あとは話が早い。なにしろ、そいつらは時間と偶然と幸運を待つ必要はなく、どんどん、自分と同じものを複製できるからだ。海の中には、自己複製する蛋白で満ちあふれたことだろう。でも、ネズミ算式に埋めつくされはしなかった。彼らが利用できる小さな分子は、依然として、太陽の紫外線が作っていたので、数に限りがあったからだ。だから、小さな分子と、それを捕食して自己を複製する蛋白は、あるレベルで、釣り合いがとれて、どちらも増えもしなければ減りもしない状況が訪れたはずだ。なんと平和な時代だろう。この時代が続いていれば、生命はそれ以上進化することはなく、たぶん、いまも海の中で小さな蛋白として漂っていただろう。

 ところが、平和は長続きしないと相場が決まっている。この原始的な生命ともいえる蛋白たちの生存を脅かすような恐ろしい事件が、少しずつ進行していたんだ。

 その事件の犯人も、やはり太陽だった。大気 I の成分を覚えているだろうか。アンモニアが海に溶けて、メタンと水素が大気に存在している状態だったよね。この環境で生命は誕生したんだけど、この大気の成分が変わってしまったらどうだろう?

 太陽は、それをやった。やつの犯行の手口は、こういう具合だ。

 まず、水が蒸発すると水蒸気になる。その水の分子は、ふわふわと、大気の上層にまで上がっていく(もちろん、上がらないやつもいる。その動きは無秩序なんだ)、すると、いよいよ太陽の紫外線が強烈なので、水の分子は叩き壊されて、水素と酸素に分解する。これを『光分解』と呼ぶ。

 さあ、お立ち会い。われわれになじみ深い「酸素」が登場したぞ。最初のほうで、アンモニアとメタンは、熱力学的に安定した物質だと書いたけど、酸素があれば、話がまったく変わってくる。メタンは、酸素原子と出会うと、すぐさま意気投合して、二酸化炭素と水になってしまう。アンモニアも酸素とは仲よくしたいらしく、やぱり酸素原子に出会うと、水と、窒素に変身する。

 つまり、大気 I は、太陽の「光分解」のおかげで、徐々に徐々に、二酸化炭素と窒素と水蒸気の大気に変わっていっていたんだ。これを『大気 II 』と呼ぼう。(くどいようだけど、この「 II 」は、ギリシア数字の二番だ。インターネットの関係上、アルファベットの「 I 」を重ねているだけだから、このエッセイを、縦書きでご覧になると、大変見苦しくなる)

 大気 I のもとで生まれた生命は、ずいぶん困っただろうね。二酸化炭素も窒素も、アンモニアやメタンより、すっと安定しているから、紫外線の力だけでは、食物になるような分子には変身してくれない。さらに悪いことに、大気の上層で光分解される水蒸気が、どんどん酸素を作っているから、それがオゾン層を形成して、紫外線を遮断し始めたんだ。大気 I の生物は、残ったわずかなアンモニアとメタンを利用する手段(紫外線)さえ奪われつつあった。彼らは、絶滅する運命だったのだよ。

 これで、生命は絶滅したのか? いや、そうではないんだ。光分解の速度は、亀の歩みよりも遅いから、大気 I を、大気 II に変えていく過程は十億年もかかった。大気 I は、あるとき、突然、大気 II に変わったわけじゃないんだよ。もっと正確にいえば、光分解だけで、大気がすっかり大気 II に変化したわけじゃないはずだ。なぜなら、その変化の間に、生命はただ手をこまねいていたわけじゃなかったからだ。たぶん、同時進行の形で、生命によるべつの変化も加わることになった。

 それがどのようにして、いつごろ出現したのか、ハッキリしたことはわかっていないけど、大気に二酸化炭素が増えてくると、生命の誕生に匹敵するぐらいの大事件が起こったんだ。なんと、原始的な酵素系と協力して、二酸化炭素と水の化合を触媒して、食物分子を作る能力のある連中が誕生したんだよ。それは、いまの葉緑素のご先祖さまだ。そう。ついに『光合成』がはじまったわけさ。

 このようなわけで、大気 I の生物に支配されていた地球は、徐々に(大気の成分の移り変わりと比例しながら)、大気 II の生物に取って代わられるようになった。

 もっとも、大気 I の生命が隆盛を極めていたときも、将来、大気 II の生命と呼ばれることになる光合成生命のご先祖さまは存在していただろう。ただ、大気 I の生命の勢力が大きすぎて、大気 II の生命は主役にはなれなかった。このとき生きていた光合成生命は、まだ効率よく光合成ができなくて、酸素を捨てるようなことはなかった。

 でも、そんな彼らも、より効率的に光合成が行えるように進化した。酸素発生型の光合成が行われるようになったんだ。

 ぼくにわかる範囲で、少しだけ光合成につて書いてみよう。光合成は、光のエネルギーを化学エネルギー(電子エネルギー)に変換しなくちゃいけない。まず、アンテナ系と呼ばれる色素が、光のエネルギーを中心に集める。その中心には、光のエネルギーを変換する、赤や黄色に色づけされた色素があるんだ。その場所を「反応中心」と呼ぶ。

 じつは、この反応中心には、ふたつの種類があるんだ。ひとつは「鉄硫黄型」と呼ばれ、もうひとつは「キノン型」と呼ばれる。

 おそらく、大気 I の生命が地球の生命の主役だったころ、それぞれの反応中心を持つ光合成生命が生まれていたと思われる。つまり、彼らはどちらか一方の反応中心しか持っていなかった。その彼らが、いつのころか、協力しあうようになった。いや、それは、協力ではなかったかもしれない。どちらか一方が、もう一方を自分の中に取り込んでしまったのかもしれない。

 ともかく。二つの反応中心は、ひとつの光合成生物の中で共存するようになった。それこそが、酸素を大気に放出することができるタイプの、植物のはじまりだっただろう。このエッセイでは、なるべくわかりやすく話を進めるために、この光合成生物を、大気 II の生命と呼ぶことにしよう。

 大気 II の生物は、大気 I の生物と比べると、格段に優れていた。なにしろ、食物を探し回る必要がなかった。太陽の光と二酸化炭素と水さえあれば、いくらでも食物を生産できるんだ。狩猟民族と農耕民族の、どちらが繁栄したか考えてみればいい。もちろん、農業を発明したほうが、いいに決まってるんだ。

 ここで大気 I の生物は、ただ指をくわえて、大気 II の生物の繁栄を見ているしかなかった。いや、ただ見ているだけなら、静かに絶滅のときを待てばいいのだけど、彼らは、さらに追い打ちをかけられた。

 大気 II の生物は、さっき説明したとおり、効率よく光合成を行えるようになっていたから、二酸化炭素と水から食物を作るとき、どうしても、酸素が余ってしまうんだ。だから大気 II の生物は、その酸素を外に捨てた。これは、太陽の行う光分解より、はるかに早いスピードで、大気に酸素を供給したはずだ。ところが、大気 I の生物は、酸素を捕らえて暴れ出さないようにする酵素(こうそ)を持っていなかったから、酸素は彼らにとって猛毒なんだ。なぜって、自分の身体にあるアンモニアやメタンと結合してしまうから、大気 I の生物は、酸素に出会うと、確実に死をもたらされる。

 大気 II の生物は、そんな隣人の迷惑なんかお構いなしに、光合成を続けて、どんどん酸素を捨てた。こうして大気 II の成分は、またもや変わりはじめた。こんどは酸素と窒素の大気だ。これを、『大気 III 』と呼ぼう。いま、われわれが吸ってる空気は、この大気 III だ。

 マズイじゃんか。大気 II の生物は(もう植物と言ってもいいだろう)、必要な二酸化炭素を吸収し尽くしてしまうのか。生きるために、自分で自分の首を締めるのか。なんという皮肉だ。彼らの繁栄も、そう長くは続かないだろう。

 続いてるじゃないか。いまだって、植物は、地球上のどこにでも繁栄しているぞ。

 そのとおり。大気 II で生まれた「植物」たちは、絶滅を免れるために、ひとつの選択をしなければならなかった。それは、自分では光合成をしないが、その代わり、活発に動きまわって酸素を消費し、二酸化炭素を生産してくれる生物の登場を許すしかなかったんだ。植物にとって、これは残念な取引だった。なぜなら、「動物」と呼ばれる彼らは、光合成をしないので、「植物」を食べるしか能がないからだ。

 こうして「動物」が生まれた。聖書は、植物を動物のための「食料」で、命のないものと扱ったけど、本当は逆なんだ。植物たちが、自分たちの繁栄のために、いくらか仲間の命を奪う、動物という邪悪な存在を許してくれたんだよ。

 なんて、いつものクセで擬人化して書いちゃってるけど、もちろん植物が、それらを計画的に行ったとは思えない。もしかしたら、動物というのは、光合成を失った、もと光合成生物なのかもしれない。自分で食物を作るより、他人の作った食物を奪うほうが楽だから、光合成を捨てて、好気性の(つまり酸素が好きな)、活発に動く動物に進化したのかもしれない。(この辺は「かもしれない」ばかりだね)

 ともかく。動物は生まれた。そして、彼らもまた、さまざまな種類が発生して、共生しながら、より複雑な生物に進化していった。もちろん、植物もさまざまに進化していった。いままで「かもしれない」ばかりが続いたから、ひとつ、確実なことを書くと、動物がエネルギー需要を植物に頼っていることだけは間違いない。植物が生態系を支えているからこそ、いまの地球がある。

 そして、オゾンが紫外線の脅威を弱めてくれたので、植物も動物も、母なる海を離れて陸地に上がり、どういう偶然かゴキブリが生まれ、またさらに、どうしようもない偶然の結果、人間が生まれた。

 え? あわれな大気 I の生物はどうしたのかって?

 うん。安心してくれていい。はじめての「生命」という栄誉をもった彼らも、じつはまだ生きている。

 いままで、大気 I 、大気 II 、大気 III と、地球の大気は変化してきたわけなんだけど、その変化は、じつにゆっくりしていて、どこが境目なのかわからないくらいだろう。それぞれの時代だけを見ると、劇的に違うように感じるけどね。

 だから、大気 I の生命は、海のもっと深いところに逃げる時間が十分にあっただろう。そして、そんな場所には、地底からマグマが噴き出すような場所があった。そこは、彼らの好物のメタンがあった。そしてメタンを利用するためのエネルギー(火山の熱)があった。さらに、そこには、彼らの大嫌いな、酸素がなかった。まあ、そういうことだ。

 最後に、ひとつ問題を提起しておこう。いま、われわれが呼吸している空気は、大気 III だ。これはもう変化しないのだろうか? ずっと、このまま安定なのだろうか?

 いやいや。残念ながらそうじゃないんだ。大気 III は、ここ数十年で、大きな変化をはじめている。なぜか二酸化炭素が増えはじめ、地球に温暖化という現象を生じはじめた。また、なぜか、フッ素と塩素と炭素の化合物であるクロロフルオロカーボンが増えはじめ、それがオゾン層を破壊しはじめた。オゾンが破壊されると、大気 I のころと同じように、強烈な紫外線が地表に降り注ぐことになる。

 なぜだ? なぜ大気が変化をはじめたんだ?

 まあ、その理由は想像にお任せするが、大気 III に適応した生物は、おそらく、少しばかり未来に訪れるだろう、『大気 IV 』の環境では生きていけないだろう。だからといって、人類はもう原始時代には戻れないし……

 どうする?


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