大航海時代



 こんなユーモアを知っているだろうか。

 江戸城を造ったのはだれ?
 徳川家康。じゃなくて、太田道灌ってオチだろ?
 違います。大工さんでーす。

 くだらないといえばそれまでだけど、ぼくはこういう話が大好きでねえ。それに多少なりとも、真実を含んでいる。じっさい、大工がいなければ城は建築できない。

 さて。先日、掲示板で「大航海時代」についてのエッセイが読みたいというリクエストをいただいた。このときぼくは、そもそも、ポルトガルとスペインに、危険な航海を決意させた理由はなんだったろうと考えた。

 香辛料が欲しかったから? 領土を拡大したかったから? それとも、イスラムとの戦争が一段落ついて、航海に必要な資金を捻出できるようになったから?

 どれも正解だ。もしテストの空欄を埋める気なら、一番の「香辛料」を書き込むだろう。でもぼくは、徳川家康と大工のジョークを思い出した。ポルトガルとスペインが、海原に舟をこぎ出した本当の理由は……

 コンパス(羅針盤)が発明されたからさ!

 だから、コンパスの話からはじめようじゃないか。

 コンパスが発明される以前の航海は、近海航法という方法をとっていた。読んで字のごとしだけど、船をあまり陸地から遠ざけないで、陸地を見ながら船を進めていたんだ。だって、陸地が見えなきゃ怖いじゃんか。迷子になっちゃうもん。

 え? 星の位置を見て航海すればいいじゃないかって?

 もちろん、その通り。コンパスが発明される以前の船乗りたちは、太陽と星を利用していた。太陽は東から出て西に沈むから、ひとつの方角がわかれば、あとの方角もわかる。朝と夕方だけでなく、正午の太陽は南を知るのに役立った。夜になれば、北極星があった。これはもちろん、北を知るのに役立った。

 これでオッケイ? よし、さっそく太陽と星を頼りに、海原にこぎだそう!

 いやいや、船乗りたちは、太陽と星だけでは満足しなかった。だって、長い航海の間中、いつも晴れているはずだとだれが思う? じっさい、雲が出ている日のほうが多いから、こんな神頼みの方法で、陸地の見えない大海原に出る気はまったく起こらなかったんだ。

 想像してごらんよ。辺り一面、海しか見えない。方角もわからない。それどころか、正確な地図もないから、どこに行き着くかもわからない。どこかに行き着いたとしても、たぶん、帰ってはこれないだろう。こんな旅に出たいと思うかい? あなたが十分に勇気があるなら、思うかもしれないけど、ヨーロッパの船乗りたちは思わなかった。まあ、ポリネシア人はやってたぞという人がいるかもしれないけど(たしかにその通りだけど)、彼らのは計画的な航海じゃなかった。ひどく危なっかしくて、じっさい、ほとんど成果はなかった。やはり、本格的な航海は、コンパスの登場を待たなければならない。

 じつは、コンパスを作るのに必要な磁石は、はるか太古に発見されていた。なんと紀元前五八五年ごろまで遡れるんだ。見たり聞いたりしたことをすべて記録したといわれる、ローマの博物学者プリニウス(紀元二三〜七九年)の著書に紹介されてるんだけど、ギリシアの羊飼いが、鉄のほかにはくっつかない鉱物を見つけたらしいんだ。その羊飼いは、ギリシアのマグネシアという街に住んでいたから、その鉱物は「マグネシアの石」と呼ばれた。ぼくらが磁石のことを「マグネット」と呼んでる理由がわかってもらえたかな?

 なんか、豆知識って感じになってきたけど、このマグネットをコンパスに利用するようになるまでには、人間は長い長い時間を必要とした。最初に、磁石が北を示すことを見つけたのは中国人かもしれない。紀元一二一年に書かれた書物に、そのことが載っている。ところが、中国人は、コンパスを航海には利用しなかった。そもそも、中国人はあまり航海が好きじゃなかった。陸を歩くのを好んだんだ。もしも中国人が、海にすごく関心を持っていたら、シルクロードは、「シルク航路」になっていたかもしれない。でも、じっさい、そんなことにはならなかったから、中国人のことは忘れよう。(わかってる。たしかに中国人も海を利用してはいた。海のシルクロードと呼ばれる道もあったろう。でも大規模ではなかったのだ)

 じゃあ、本格的に、コンパスを航海に使った最初の人物はだれだろう?

 残念ながら、それはよくわかっていない。一二〇〇年ごろ、イギリスの学者アレクサンダー・ネッカム(ベッカムじゃないよ)が、海上で方向を知るために、磁石を使う方法を述べているけど、ネッカムは、中国から伝わった方法をそのまま書き記しただけで、自分では研究しなかったらしい。

 一二六九年になると、もうちょっとマシな学者が現れた。ペトルス・ペリグリヌスというフランスの学者だ。この人は、ルイ九世の軍隊の技師だった。ルイ九世といえば、六回目と七回目の十字軍を指揮した王さまだ。ペリグリヌスは、どうやら、その退屈な戦争の間に、磁気の研究をしたらしい。彼は、その実験について、友人への手紙に書き残した。というか、その手紙しか残ってないんだ。大々的に研究を発表すれば、もっと有名になれたろうに。

 ともかく。ペリグリヌスの手紙には、今日のわれわれが、「磁場」と呼ぶものを推論したことが書かれている。また、船のコンパスをただの無地じゃなくて、各方位を記したものの上に支えるというアイデアを考え出した。われわれがよく知っているコンパスの原型は、彼が考えたものなんだ。

 オッケイ! ペリグリヌスくん、よく考えてくれた。きみのおかげで、コンパスはほぼ完成したよ。

 ここで、ちょっとコンパスのことは忘れて、大航海時代の基礎を作った人物に登場してもらおう。彼の名は、エンリケ(1394〜1460)。

 このオッサンは、ポルトガル王ジョアン一世(1357〜1433)の王子で、ヨーロッパ中から腕利きの船乗りを集めて、一四二二年から、アフリカ沿岸の探検航海を指揮したもんだから(しかも、何度も)、ごたいそうにエンリケ航海王子なんて呼ばれてたけど、じつはご本人は船酔いがひどくて船には乗れなかった。

 まあ、それはそれとして、このエンリケ船酔い王子…… 失礼。航海王子の時代に信じられていた世界をみなさんにお見せしよう。こいつは、プトレマイオス世界地図ってやつだ。


 いかがかな? ごらんのように、アフリカが、ぐるーりと、キタイ(当時中国はキタイと呼ばれていた)と繋がっちゃっている。これじゃ、船でインドまでは行けない。いくら、コンパスがあっても、もともと「行けない」と思い込んでるなら、行かないわけだ。

 それでもエンリケは船を出した。なぜだ?

 これには三つの理由がある。アフリカの沿岸調査。早い話、アフリカに攻め込める場所を探してたんだ。この説は、まさにその通りだろう。当時のポルトガルは、長いことレコンキスタ(国土回復運動)を行っていた。イスラムに取られた領地を取り戻す戦争だ。この戦争は、十字軍とは性格が異なるんだけど、イスラム教徒と戦争してることに変わりはなく、海からアフリカを攻撃できれば、かなり都合がいい。だからこそ、ポルトガルの国家事業として行ったのもうなずける。

 と、これだけでも、アフリカの沿岸を調査するのに十分な動機ではあるんだけど、じつはこの時代でも、アラビア人の中には、アフリカの南側は航海できると信じてる連中がいたんだ。エンリケも、その説を信じていたらしい。アフリカに南端があれば、そこは海のはずで、そこからインド洋に入れる。すると、香辛料ががっぽりあるインドと、直接貿易ができるではないか。これは魅力的だ。あとで詳しく述べるけど、ヨーロッパでは、十字軍がイスラムへの遠征で持ち帰った香辛料が、大流行だったんだよね。

 そして、三つ目の理由。なんとエンリケは、遠き東方にあるといわれた、巨大なキリスト教の国、「プレスター・ジョンの国」を探したかったらしい。これはただのファンタジーなんだけど(しかも悪質な)、エンリケは信じてたみたいだね。気になるだろうから、一応、プレスター・ジョン伝説を説明しておくと、十二世紀ごろ、十字軍がイスラム教徒に負け続けてたもんだから、どこか遠くに、強大なキリスト教の国があって、その国の司祭(兼国王)である、プレスター・ジョンが、ヨーロッパの人たちを助けてくれるというおとぎ話が生まれたんだ。で、一一七〇年ごろ、どっかのイタズラ者が、プレスター・ジョンの手紙を捏造して、ビザンツの皇帝やら、ローマ法王やらに送ったもんだから、さあ大変。けっこう本気で、信じられちゃった。はたして、エンリケが、どこまで信じていたのかは諸説あるけど、もしかしたら、こいつが、一番の動機だったかもね。

 ところがどっこい。エンリケは、アフリカの南端を発見することはなかった。まだコンパスによる遠洋航海は一般的じゃなかったんだ。もしも、エンリケ自身が、優秀な船乗りで、さらに、最新技術を駆使できるだけの頭脳があったなら、話は違っていたかもしれないけど、彼は船に乗れない船酔い王子だからね。集めた船乗りたちは、自分たちがむかしから慣れ親しんだ、近海航法(陸地を見ながら進むってやつだ)から離れることはなかった。だから、アフリカ沿岸の調査にはえらく時間がかかった。

 もちろん、近海航法による、船の座礁が一番の敵だったのはいうまでもない。陸地が見えるのは安心だけど、浅瀬に乗り上げる危険が常にあったんだよ。だから、何十隻という船が無駄になった。こんなことを繰り返していては、アフリカの南端に到着するのに、何百年かかることやらだ。

 しかもだよ、諸君。水夫たちは南に行きたがらなかったんだ。現代人には笑うしかないようなバカげた理由で。南に行くと暑くなるよね。赤道に近いわけだから。だから水夫たちは、そのうちに、海がぐつぐつと煮え始めて、自分たちが燃えてしまうと恐れたんだ。いや、ちゃんとその証拠はあったんだよ。だって、現地の人たちは、みんな肌が真っ黒く焦げてたんだから! アホか。というわけで、アフリカの南端を探し求める旅は、なかなか進まずに、エンリケは死んじゃった。

 あとを継いだポルトガル王のジョアン二世は、もうちょいマシだった。彼も、自分で船に乗ったわけじゃないけど、まず、ゴンサルベスという船乗りが、一四七三年に赤道を超えた。そして十五年後の、一四八八年。バルトロメウ・ディアズがついに、南端に近い場所で岬を発見した。じっさいは、航海の帰り道で発見したんだ。というのは、最南端を目指している最中に、すごい嵐に遭って、十三日間も漂流してしまった。船が東に流されてるのはわかっていたから、嵐がやんで北上してみると、そこはアフリカ大陸の東海岸だったんだ。

 ワーォ! やったぜ。最南端を見つけるだけでなく、航路を見つけた!

 だから、ディアズは、本当はもっと航海を続けて、インドまで行ってしまいたかった。ところが、水夫たち(あえて船乗りとは書かない)の、強い抵抗にあった。もうこれ以上、知らない場所に行きたくなかったんだ。水夫って、屈強な男たちってイメージがあるけど、意外とロマンチストだから(皮肉で言ってるんだよ)、魔物とか信じちゃってるんだよ。ディアズは、水夫たちのストライキというよりも、殺気だった反乱を止めることができなくて、泣く泣く帰路についた。そんな帰り道で、南西端の岬を発見…… というか確認した(すでに、通りすぎちゃっていたけど、嵐で見えなかったんだよ)。

 だから、彼はここを「嵐の岬」と命名した。のちにジョアン二世が、インド航路の希望はもはや達せられたとして「喜望峰」と改名した。

 この命名の仕方に、じっさいの船乗りと、ただ金を出していただけのオーナーの認識の違いが見て取れるね。そこへ行ったディアズが「嵐」と名付けたのは、大変な嵐に遭いながら、苦労して到達したからだ。一方、オーナーは、インドに行って、がっぽり儲ける道を発見したわけだから、「希望」と名付けた。おもしろいねえ。

 さてさて、ディアズは、インドまではいけなかったけど、もちろん、ポルトガルに戻ると、英雄として迎えられた。インドへいたる航路を発見したんだから、そりゃ、大歓声で迎えられるさ。ディアズは、航海の様子を宮廷で報告した。この席に、のちに有名にあることになる、ある男がいた。その男の名は…… 以下次号。乞ご期待。

 うそうそ(笑)。ちゃんと書くよ。彼の名は、クリストファー・コロンブス。

 コロンブスは、「コロンブスの卵」でも知られるとおり、天の邪鬼だった。人と同じことをやるんじゃ気が済まない性格だな。なんていうと、コロンブスのファンに怒られそうだから、もうちょいマシなことを書くと、彼は、頭がよかったんだよ。当時、地球は平べったいとだれもが信じていたけど、コロンブスは、地球が丸いと信じていた。だから、南ではなく、西に進めば、インドに行けると考えたんだ。つまり、地球は丸いから、アフリカを、ぐーっと迂回するような、遠回りをしなくても、大西洋を横断しちゃえば手っとり早いと思ったんだ。当然ながら、そこにはアメリカ大陸が鎮座していて、インド洋には抜けられないんだけど、彼がそんなことを知ってるわけがなかった。だって、当時はまだ、衛星写真なんかなかったもんな。

 でもまあ、着想は悪くない。

 コロンブスは、イタリアのジェノバで生まれた。ジェノバは、海運が盛んなところだから、コロンブスも船乗りになった。そして、ポルトガルの金持ちの娘さんと結婚したんで、ポルトガルの船団に乗って、アフリカの沿岸航海なんかの経験もあった。と、ここまでは、ふつうなんだけど、じつはコロンブスは、ほかの船乗りと大いに違う点があった。さっきも書いたけど、彼は、頭がよかったんだよ。当時の知識水準からすると、科学者と呼んでも差し支えないぐらいに。

 コロンブスはとくに、地理学を研究していて、マルコ・ポーロの出版した「世界の記述」とかを子細に研究していた。コロンブスの買ったマルコ・ポーロの本が現存してるんだけど、そこにはコロンブスのメモ書きが、びっしり書き込まれているそうだよ。

 そしてなによりコロンブスは、同じイタリア人の、トスカネリという天文学者であり地理学者でもあったオッサンが唱えた、「地球球体説」を信じていた。じっさいコロンブスは、トスカネリと連絡を取って、西まわりでインドに行けるだろうかと意見を求めた。すると、彼に賛成されたので、自分の考えにいよいよ自信を持った。よし、西まわりでインドに行こう!

 そこでコロンブスは、自分の計画を、ポルトガル王のジョアン二世に売り込むんだけど、軽くあしらわれた。早い話、断られたわけ。この話をはじめてジョアン二世が聞いたのは、まだディアスが喜望峰を発見する前だったけど、ジョアン二世は、当時の一般人と同じく、地球は平べったいと思っていたし、なにより彼は、アフリカまわりに固着していた。エンリケ航海王子からの歴史があるから、当然といえば当然だ。彼が、いかにアフリカまわりに固着していたかを知る手がかりがある。ジョアン二世は、喜望峰を発見する七年も前から、他国の船団がアフリカ西岸を南下しないように手を打っているんだ。ジョアン二世は一四八一年に、こんな布告をした。

「ギニア海岸に接近した外国船はたちどころに撃沈または捕獲すること。捕らえた船の士官と乗組員は、この方面に棲息するサメ群のなかへ投げ込まれるであろう!」

 おお、怖い。

 こんな調子だから、ディアスが喜望峰を発見してからは、もう、まったくコロンブスの相手なんかしなかった。

 そこでコロンブスは、自分の計画を、ポルトガルに後れをとっていた、イギリス、フランス、スペインなどに売り込んだ。

 まず、イギリスとフランスはダメだった。そんな、成功するかどうか、まったく保証のない(どちらかというと、バカバカしいとさえ思える)計画に、莫大な資金を出す気はなかったんだ。彼らはまだ、それほど、ヨーロッパ以外の土地に、領土を拡大する意欲も強くなかったからね。

 ところが、スペインは、ちょっと事情が違った。かの国は、ポルトガルと同様に、レコンキスタを戦っていて、国土回復はもちろん、領地の拡大に、大きな関心があったんだんだ。それでも、コロンブスの計画には懐疑的だったけど、一四九二年に、そのレコンキスタが、グレナダの陥落で、ついに終わった。これで、コロンブスの航海に援助する余裕ができたんで、ときのスペイン女王イザベラが、当たれば儲け物ぐらいの気持ちで、コロンブスにゴーサインを出した。

 スペインが、コロンブスの「西まわり計画」に金を出した大きな理由として、先行したポルトガルとの関係がある。上でも書いたけど、一四八一年に、ポルトガルは、利権を守ろるために、他国を脅すような布告をしている。だからスペインとしては、ポルトガルとは違う航路を見つける必要があったんだ。

 話はわき道にそれるけど、コロンブスの映画があったよね。イザベラ女王役は、エイリアンで有名になった、シガニー・ウィバーだった(コロンブス役は、たしか、鼻の大きなフランス人だったと思うけど、いまいち覚えてない)。あの映画では、イザベラ女王が、コロンブスに恋をして(妻子持ちだぜ、彼は)、彼の計画を支持したという筋書きになっていた。うーむ。一介の船乗りに女王が恋をするなんて、じつに映画的な解釈だけど、ぼくは、そういう話が大好きだったりする(笑)。

 ご参考までに、イザベラ女王の、肖像画を掲載しておこう。あんまり美人じゃないなあ。(苦笑)。と、思いきや、当時の基準では、とっても美人だったとか。美の基準も移り変わるわけですな。ちなみに、むかしは、ちょっとぽっちゃり目が人気があったらしいね。

イザベラさん。いかが? 男性諸君。


 そんなわけで、コロンブスは、やっと自分の計画を実行する機会を得た。旅が成功した暁には、インドで発見した宝の十分の一と、発見した土地の総督と副王の地位。そして、大洋提督の称号なんかを要求した。スペイン貴族にしてもらう約束までした。ところがどっこい、乗員が集まらない。だれも行ったことのない西まわりの航海だから、常識的な水夫は、みんなコロンブスを信じていなかった。当時の常識では、地球は平べったい円盤だと思われていたんだ。だから、途中で、海の端っこに行き着いて、大きな滝から落ちると、水夫たちは恐れて(信じて)いた。

 そこで致し方なくコロンブスは、囚人を、航海の終了時には恩赦を与えるという条件付きで(まあ、生きてたらだけど)船に乗せ、あとは新人でまかなった。

 こうして、ついに、一四九二年の八月三日。コロンブスは、三隻の船団を組織して、スペインのパロスを出発した。フラッグシップは、かの有名なサンタ・マリア号だ。積載能力一五〇トン、全長二十三メートル、幅七・五メートル。三本マストの当時としてはごく普通の船だった。残りの二隻は、ピンタ号とニーニャ号。こっちは、サンタ・マリア号の、だいたい半分の大きさだった。

 さて。コロンブスが科学者と呼べるほどの知識人だったと書いたけど、覚えているかな。地理学はもちろん、コンパスに関しての知識も第一級だった。

 ここでまた、コンパスの話をしよう。

 じつは、かなりむかしから(中国人は、七〇〇年ごろ)コンパスが真北を示さないことが知られていた。コンパスなしでも、太陽の落とす影から(あるいは北極星の位置から)、正確に北を決定できるんだけど、コンパスは、いつも、ちょこっとズレていた。つまり天体観測という手段でえられる「地理学上の真北」と、「磁気的な北」が一致しないんだ。この現象は「偏角」と呼ばれている。いまでは、地磁気がズレているから、そういう現象が起こるとわかっているんだけど、コロンブスの時代には、もちろん謎だった。

 この「偏角」を、はじめて体系的に調べたのが、コロンブスだったんだよ。それは一四九二年の、有名な発見の航海のときに行われた。コロンブスは、アメリカを発見しただけじゃなかったんだ。のちの研究に役立つ、重要な科学的発見もしていたんだ。この話は、あんまり話題にならないね。(ぼくには理由がよくわからないけど、重大な科学的発見より、ただの地理的発見のほうが、人々には受けがいいらしい)

 さて。コロンブスは、航海の途中で、磁気的な北の方向が(つまり、コンパスが示す北が)、真北からズレるだけでなく、自分が進むにしたがって、ズレの大きさや方向まで変化することに気づいた。彼は、その変化を注意深く観測したんだけど、それは秘密にしておいた。コロンブスは、水夫たちに西への航海を続けさせるのに、えらい苦労をしていたから(覚えているかい? 水夫というのは、けっして冒険を好まないことを)、このうえ、コンパスが真実を知らせないことを水夫たちが知ったら、ものすごい騒ぎになることはわかりきっていた。なにせ囚人を無理やり働かせてるんだから、コロンブスは海に投げ込まれて、水夫たちは、勝手にうちに帰っただろう。もっとも、コロンブスというたしかな腕を持った船乗りがいなきゃ、もう、帰ることさえ不可能な場所まで来ていたんだけど、恐怖に駆られた(駆られていなくても)水夫たちが、その単純な事実に気づいてくれるわけがなかった。ハッキリ言おう。当時の水夫は、ボスを血祭りにあげる程度には勇ましかったが、永遠の迷子になるのを恐れる程度には臆病者で、そのうえ、かなりバカだった。

 そんなコンパスの問題があったけど、星の観測で、真北がわかるし、コンパスが示すズレの大きさもわかるから、コロンブスは、問題なく船を西に向かわせて航海を続けた。

 もう一つ、コロンブスを悩ませた問題があった。壊血病という、ビタミンC が不足することで起こる病気だ。歯ぐきから出血して歯がゆるみ、関節の痛み、虚脱感が生じ、傷ができやすくなる(もちろん、コロンブスは壊血病の原因を知らなかった。その原因がわかったのは、なんと四二〇年後の、一九一二年のことなんだから!)

 幸い、壊血病がそれほど深刻な問題になるまえに、コロンブスは小さな島を発見した。十月十二日に、現地ではグアナハニと呼ばれる島に上陸したんだ。現在のサン・サルバドル島だね。本当に小さな島だけど、ちゃんと原住民が住んでいた。そこでコロンブスは、彼らと親交を温め…… るわけはなくて、勝手に、スペイン領と宣言して、現地人をとっ捕まえて奴隷にした。コロンブスは、この場所を、マルコ・ポーロのいう、黄金の国ジパングの近くだと確信していたから、黄金のありかを、現地人に吐かせようと苦労をした。現地人がちょっとだけ金(きん)をもっていたから(砂金を細々と集めて、やっとイヤリングにできる程度)、事態はますます悪化した。正確なことはわからないけど、金(きん)のありかを教えなければ仲間を殺すぞと脅して、じっさい、何人かは殺してみせたかもしれない。もちろん、どんな恐ろしい目にあわされても、現地人が、コロンブスの満足するような黄金のありかを教えることはできなかった。

 それどころか、この場所には、香辛料さえなかったんだ!

 もしも…… コロンブスが、なにかの失敗(幸運?)で、ジパング(日本)に到着してしまって、さらに、当時の日本が、百人か二百人そこそこのスペイン人を追い払う力がなかったら、われわれはどうなっていたろう? たぶん、スペインで奴隷というちっともありがたくない待遇を約束されて、われわれはスペイン語を話していただろう。

 歴史の「if」はともかく。コロンブスは、香辛料がないので、この場所はまだ香辛料の取れる島から遠いのだと考えた。コロンブスほどの頭脳の持ち主でも、ここがインド周辺の島ではないという理論には到達しなかった。とにかく彼は、インドに行きたかったのだ。そして、インドの近くにあるはずのジパングに行きたかったのだ。だから、まったくべつの場所にいるという、彼にとって絶望的な考え方は、いっさいできなかった。盲信と呼ぶべき状況だった。

 そこでコロンブスは、サン・サルバドルを出て、三カ月間も周辺の島々を探索しまくった。

 その探索をはじめた一月後に、ピンタ号が行方不明になった。理由はわかっていないけど、おそらく、探検に嫌気が差した水夫たちがスペインに帰ろうとしたのだろう。もちろん、コロンブス抜きで帰れるわけはないから、どこかの海で沈んだはずだ。

 二ヶ月後には、サンタ・マリア号がハイチで座礁してしまった。残りはニーニャ号一隻だけ。これだと全員が乗れないので、サンタ・マリア号の材木を利用して砦をつくって、そこに三九名を残して、コロンブスは、つぎの月に帰路についた。

 スペインに戻ったコロンブスは、香辛料も黄金も発見できなかったわりには、破格の大歓迎を受けた。とにかく、「西まわり」の航海は成功したのだ。わざわざアフリカをまわらなくてもインドに行けることを証明した功績は大きい。コロンブスが到達した場所が、インドじゃないとは、コロンブス自身も含めて、だれもしらないんだから。

 一番喜んだのは、もちろんイザベラ女王だろう。コロンブスが持ち帰ったわずかな金を受け取って大喜び。ついでにコロンブスは、誘拐してきた現地人七人に、賛美歌を歌わせるという余興までやった。帰りの航海の途中、一生懸命覚えさせたんだね。

 なんだか、一発で、コロンブスが嫌いになりそうなエピソードだけど、安心してくれていい。このあとに登場するヴァスコダ・ガマは、もっとひどかった。(もし、その気があるなら、ずっとのちの世の日本軍がアジアの人々になにをやったかと比較してくれてもいい)

 翌年の一四九三年に、コロンブスは第二回目の航海に出発する。今度は十七隻の大船団ですぜ。総勢一五〇〇人。なにせ一回成功してるからね。臆病者の水夫たちも、大金持ちになる夢を思い描いて、こんどはわれ先にと、コロンブスの航海に参加した。

 で、ハイチの砦に戻ってみると、残していった船員は原住民の襲撃をうけて全滅していた。あたりまえだね。そりゃ、現地人だって怒るよ。

 その後、いくら探しても香辛料は発見できなかった。このときに到着したのはジャマイカだった。インドじゃないんだから、香辛料はない。そんなわけで、期待は一気に不満に変わっちゃった。またもや、なんにも持ち帰らずに帰国。

 つぎの一四九八年には、南アメリカ北部。そして、一五○二年に中部アメリカに到達した。どこもかしこもインドじゃない。アジアですらない。

 結論を書こう。コロンブスは、いま書いたとおり、合計四回の航海をするんだけど、けっきょく、香辛料も黄金も発見できず、しかも、自分が行ったのはインドだと信じてるせいで、アメリカを発見したんだという(正確には、現地人がいるので発見ではない)名誉も与えられることはなく、地位も名誉も失って、失意の晩年を送った。

 さあ、コロンブスはもういい。こんどは、アフリカまわりを探しているポルトガルに話を戻そう。

 一四九八年。コロンブスが、南アメリカをうろうろしているころ。ヴァスコダ・ガマという船乗りが、ついに、ついに、インドに到着した。このときの航海は十一ヶ月もかかった。約一年だ。ここまで航海が長くなると、壊血病が大きな問題になった。リスボンを出港するときは一七〇人の船員がいたんだけど、帰ってきたのはたったの四十四人。あとの船員は壊血病で死んだ(まあ、事故で死んだのもいるだろうけど)。このときの航海では、ガマの弟も参加していたんだけど、弟も壊血病で死んだ。

 どうも、当時の人々は、「食べ物」のせいで病気になるという概念がなかったらしい。じつは壊血病というのは船乗り特有の病気ではなくて、十字軍が遠征していた時代から、よく知られた病気だった。野菜や果物のない決まった食事をするときに限って壊血病にかかるのに、どうしても、食べ物が原因だとは考えつかなかったんだ。正確には栄養素が足りないからとは考えられなかったのだ。

 当時から「毒」は知られていた。それが食事に混ぜられれば死んでしまうことも知っていた。つまり、毒を「足された」ときにだけ「食事」で死ぬわけだ。これが壊血病や脚気など、ビタミン不足で起こる病気の解明を遅らせた原因だといわれている。

 そう。壊血病というのは、「足される」のではなくて、「足りなくて」起こる病気だからだ。どうしても、この「逆転の発想」ができなかったようなんだ。その発想ができるまでには、この大航海時代の初期の時代から、さらに四百年以上待たなければならなかった。

 ここで少しだけ、ビタミンの話をしよう。

 ヨーロッパの船乗りは壊血病に悩まされていたけど、どういうわけか、日本の船乗りは壊血病にかからなかった。日本の水夫は、白米と魚。そして野菜を食べていたから、壊血病の原因である、ビタミンC の不足は起こらなかったんだ。その代わり、日本の船乗りを悩ませたのは脚気だった。この病気は神経を冒し、両手と両足の衰弱と倦怠感が起こって、重傷の場合は死に至る。脚気の原因は、ビタミンB1の不足だ。

 一八八四年。日本海軍の軍医だった高杉兼寛は、脚気の蔓延に頭を悩ませた。なにしろ、日本のどの時期の水夫も、その三分の一が脚気に冒されていたんだ。これで憂慮しない医者はいない。

 高杉は、ある日、食事が原因ではないかと思った。水夫よりも士官が脚気にかかる確立は格段に低く、水夫と士官の海の上での違いは、食事だと思ったからだ。もちろん士官のほうが、ずっとマシな食事をしていた。さらに、ヨーロッパの水夫が脚気にならないことも知っていたから、その場合の違いも、やはり食事しか思い浮かばなかった。

 そこで高杉は、日本の水夫の食事を、若干、ヨーロッパふうに変えてみようと思った。具体的には、白米に麦をまぜて、いわゆる麦飯にした(←注)。ヨーロッパではパン食が中心だったことから、そうしたのだろう。また、おかずに肉とエバミルクも加えた。この食事で、日本の水夫から脚気が消えた。きれいさっぱり。まるでうそみたいに治った。

(注)
エッセイアップ後、麦飯の表記が欠けていることを、ご指摘いただいて修正しました。
2003/01/18


 というわけで、高杉は日本の水夫から脚気を追放したけれども、なぜ食事を変えたら脚気が発生しなくなったのかのかはわからなかった。もしも高杉が、さらに研究してくれれば、ビタミン発見の名誉は、日本人の科学者の手に握られたのかもしれない。ところが高杉は、食事にタンパク質が増えたからだとしか考えず、しかも脚気が治ったのだから、そこで十分に満足してしまった。

 惜しいなあ。高杉のつぎに食事に関心を持った人物が現れるのは、一八九八年だから、高杉は、十二年も先行していたのに……

 その人物は、クリスチャン・エイクマンというオランダの医者だった。高杉の同業者だぜ。彼は、脚気の原因を調べていて、ちょっとした偶然から(科学の発見ってのは偶然が多い)、脚気の原因が食事にあり、食事で治すことができて、細菌が原因ではないことを証明した。いっとくけど、高杉と同様に、ビタミンを発見したわけではない。ただ、食事を代えると(正確には、精米する前の米を与えると)、脚気が治ることを見つけたにすぎない。それでも彼は、その功績で、一九二九年に、ノーベル賞をもらった。

 なんとも大脱線してしまった。もうしわけない。大航海時代に話を戻そう。

 どこまで話したっけ? ああ、ヴァスコダ・ガマがインドに到達したところまでだったね。じつはガマは、喜望峰をまわったのちに、アフリカの東海岸の港に立ち寄った。そこにはイスラム商人がいたから、彼らを雇って、道案内をさせたんだ。そしてついに、インドのカリカットに到着した。

 さっそくガマは、カリカットの太守に挨拶に行った。するとガマは、とんでもない光景を目にすることになった。宮殿に入って太守に謁見すると、なんと太守は、金や宝石をちりばめた天蓋つきのソファに寝そべって、ビンロウジの実をつまんではタネを金の杯にペッペッと吐いていた。

 どひゃ〜っ、すごい金持ち!

 ガマはビックリしたんだけど、太守のほうは、めんどくさそうな顔で、「なんの用だ?」と聞いてきた。ガマは、ここで半分嘘をついた。自分はポルトガル王の使者で、キリスト教の王国を探しにきたのだと言ったんだ。まだ、プレスター・ジョンの国を探してたんだね、この人は。まあ、ここまでは本当だろう。ところがガマは、このあと、金銭が目的ではないのだと言って、太守を安心させた。ここはまったくの大嘘だ。香辛料がほしくてほしくて、もう、喉から手が出るどころか、じっさいに出ちゃってるぐらいにほしかったんだから。そのあとガマは、ポルトガル王からの親善のしるしとして、ポルトガルの民芸品や毛皮、毛織物なんかを差し出した。太守は、まったく興味を示さなかった。そんなもの、田舎の商人だってもってくるようなもので、王さまがもってくるようなものじゃなかったのだ。

 ガマは、その屈辱に耐えながら、ちょびっとだけ、貿易をやらせてもらえないかとお願いした。太守は、勝手にしろといってガマを追い出した。

 ガマは、もってきた民芸品や毛皮なんかをカリカットの街で売り払った。雀の涙ぐらいにしかならなかったけど、それで、さらに雀の涙のような量の香辛料を買ってポルトガルに戻った。すると、その香辛料は、買いつけた値段の六十倍で売れた。

 ここで、コショウの話をしよう。なんで、ヨーロッパの人たちが、そんなにコショウをほしがったのか?

 その理由は、彼らの食生活にある。当時のヨーロッパ人は、あんまりグルメとはいえないモノを食べていた。もともとヨーロッパはあんまり農業に向いた土地柄じゃない。だから豚や牛をたくさん飼っていた。とくに豚は手頃な大きさで成長も早く、理想的な家畜だった。こいつらは、そのへんに放しとけば、勝手に草を食って成長してくれるんで、太ったころにとっ捕まえて屠殺すればよろしい。そのあと肉は塩漬けにして保存する。この肉がどんなものかは想像にお任せするけど、まあ、自尊心のあるバクテリアが見向きもしないシロモノだったのは間違いないね。

 いくら塩で保存するといっても、そこはそれ、冷蔵庫のように理想的な保存はできない。やっぱり痛んでくる。でもほかに食料はないから、がまんして食べた。ところが、そんな、ちょっと臭ってきちゃったお肉にコショウを振りかけたら臭みが消えて、おいしいお肉に大変身。

 最高じゃん! と、ヨーロッパの人は思った。たちどころにコショウの虜。

 だから、十字軍で戦ってたころも、もちろん、そのあとも、イタリアの商人がイスラム商人からコショウを買ってたんだ。こいつは、地中海貿易の重要な取引だったんだよ。

 しかし。イスラム商人と香辛料の取引をするのは、大きなジレンマだった。彼らは異教徒であり、憎むべき敵だ。そんな連中から、なんで高価な香辛料を買わなければならないのか。どうにかして、直接手に入れる方法はないもんだろうか。

 もちろん、ヨーロッパの人々は香辛料が、アジア(インド)からもたらせることを知っていたから、そこへ直接足を運べばいいじゃんか! と思った。思ったのはいいけど、陸続きでいくには、イスラム教徒の支配地域を通らなきゃいけないから無理。すると残された道は海しかない。

 話が前後したけど、これが大航海の動機だ。そして手段は、何度も言ってるようにコンパスが発明されたことだよ。

 さあ、ガマに話を戻そう。

 おっと、その前に、ポルトガルには、カブラルがいた。ガマに続く二回目の航海を命じられたのは、このカブラルなんだ。フルネームは「Pedro Alvares Cabral」と書くんだけど、なんと読んだらいいのかわかんないんで、適当に読んでちょうだい。

 さて。このカブラルくん。一五〇〇年にポルトガルを出たんだけど、途中、嵐に遭って遭難しちゃう。そこでうかつにも大西洋を横断しちゃった。おいおい、コロンブスが、あんだけ苦労したのと同じことを、ただ遭難しただけでやっちゃうなよ。でもカブラルが漂着した場所はアメリカじゃなくてブラジルだった。彼は漂着ついでに、そこを占領してポルトガル領とした。アメリカ方面は、コロンブスのおかげで、スペインの勢力圏内なんだけど、ブラジルだけは、ポルトガル語をしゃべってるのは、そういうわけだったんだ。

 で、ふたたびガマ。

 やっぱり、この男じゃないとインドには行けないというわけで、ふたたびガマに航海の命令がでた。

 そこでガマは、一五〇二年に、ポルトガルを出航した。こんどは、一度目のような屈辱を味わいたくなかったから、インドの金持ちの太守が心のそこから喜ぶようなものを持っていった。

 なんだと思う?

 軍艦だよ。十五隻の船団を率いて、前回バカにした太守を軍事力で屈伏させたんだ。インドに到着すると、沿岸で見つけた船を片っ端から焼いて、乗っている連中を虐殺した。カリカットの街には大砲を撃ち込んだ。そして、住民を船に吊るし、その手足を切り取って、太守に送りつけた。どうだ。前回、バカにした復讐だせ! ざまあみろ!

 いやはや……

 コロンブスもエレガントとはいえなかったけど、ガマはもっとすごい。まさしくヨーロッパの人々の悪魔的側面そのまま。こうしてガマは、香辛料を買い放題。というより、奪い放題? で、もちろん大儲けして、さらに、インドとヨーロッパの、ゆがんだ関係の幕を開けた。

 こんどはスペインだ。この両国は、まさに競うように(いや、競ってたんだけど)、航海を繰り返す。

 スペインは、イタリアの船乗りの、アメリゴ・ヴェスプッチに、西まわりの航海を命じた。コロンブスが失敗してるんだけど、アフリカまわりはポルトガルに押さえられてるから、なんとか、こっちのルートで、インドを目指さなきゃいけないんだ。

 アメリゴは、コロンブスの航海の記録を調べて(コロンブス以外の航海者の記録も全部調べた)、じつは、このインドの一部か、あるいはアジアだと思っていた場所は、じつは、いままでに知られていない(ヨーロッパ人が知らないだけだが)大陸であると証明した。だから、アメリゴの名を取って、「アメリカ」と命名した。

 アメリカの原住民のことをインディアンと呼ぶのは大きな間違いだけど(インドだと思っていたから、そう名付けられたんだもんね)、ネイティブ・アメリカンと呼ぶのも、じつは、それほど正確じゃないわけだ。ぼくは、彼らが自分たちの土地をなんと呼んでいたのか知らないけど、「アメリカ」という名前が、そもそも、ヨーロッパの航海者の名前から押しつけられたものだからね。

 いよいよ大航海時代も後半だよ。このポルトガルとスペインの航海競争の間に、イギリスとフランスも、じつは新しいルートを探していた。彼らは、北まわりを探したんだ。もし船ではなくて飛行機なら成功したろうけど、残念ながら北極海の氷に阻まれて、先へは進めなかった。

 その間に、ポルトガルは、ちゃくちゃくと、香辛料貿易で大国になっていった。スペインは焦った。なんとか、西まわりで挽回したい!

 そこで、ついにマゼランが登場した。大航海時代の最後の役者だ。

 アメリカがアジアとは全然べつの土地ならば、インドはさらにアメリカの向こう側ということになるわけだ。当時の地理的知識は不十分だから、アメリカ大陸の形がどうなっているかわからないわけで、アメリカ大陸の向こう側に抜ける道を探さなきゃならない。

 それを最初に発見したのは、スペインのバルボアだった。彼はべつに大西洋から太平洋に抜ける海路を探していたわけじゃなくて、探していたのは黄金なんだけど(まったく、どいつもこいつも……)、たまたま、アメリカ大陸で東西が一番細くなっている、パナマ地峡を見つけちゃった。ここを横断してみたら、そこは太平洋だった。一五一三年のことだ。でも彼は、そこで引き返した。見たこともない海なんか、これ以上進んで行けるかよと。

 そこでマゼランくんのご登場。

 彼はもともとポルトガルの船乗りだったんだけど、待遇があんまりよくないんで、ライバルのスペインに鞍替えした。当時のスペイン王、カルロス一世(カール五世)は、マゼランに五隻の船と二六五人の水夫を与えて、一五一九年、西まわりの最終的な航路決定を託した。

 マゼランは、一五二〇年。南米大陸の南端とフエゴ諸島との間の海峡を発見した。いまではマゼラン海峡と呼ばれている場所だけど、そこは、東西二つの部分からなっていて、全長約五八○キロメートル。西部は多数の島の点在していて、しばしば起る強風のために水路としては危険が多い。だから、現在の航海技術をもってしても、このマゼラン海峡を渡ることはめったにない。

 そんな場所だから、マゼラン海峡を通過する以前に、五隻の船団のうち一隻は難破しちゃって、一隻は逃げちゃった(苦笑)。

 さてさて、なんとかマゼラン海峡を抜けてたマゼランは、アメリカ大陸の西側に出た。ここでしばらく北上するんだけど、じつは、太平洋を広い海とは思っていなかった。このまま北に進めば、すぐインドだと思ってた。

 とんだ、間違いだ。地図を見たまえよ、マゼランくん。大西洋なんかより、はるかにでかい海なんだから!

 もちろん、マゼランが地図を持ってるわけもなく、どこまでもどこまでも、海を進み続けた。さすがのマゼランも、ヤバイと思った。このままじゃ死んじゃうと思った。それでもマゼランは、思い切って進路を西に取ることにした。西まわりの航路を見つけるのが目的だからだ。もう死んでもいいやって気持ちがなきゃ、できないよ、こんなこと。

 その後マゼランは九八日間、いっさい陸を見ることなく航海をすることになった。食糧は当然そこをついた。船の中に巣くっているネズミやアブラムシを捕まえて食べた。アブラムシっていうのは、まあ、ゴキブリですな。ううう。マジ?

 しかもだよ、諸君。そのゴキブリを食べ尽くしたっていうんだから、根性があるじゃないか! いったい、どれだけの水夫が、お腹を壊して死んだだろうか?

 とにかく、ゴキブリもいない、清潔な船になっちゃったから(いや、実際は不潔極まりなかったと思うけどね)、最後には、船材のおがくず、革、帆、などなど、もはや食べ物ではないものまで食べて飢えをしのいだ。

 そして、一五二一年。とうとう、グアム島を発見した。これは単なる偶然だったんだけど、まったく運がよかったとしたいいようがないね。

 マゼランはその後、さらに西へ向かって、同じ年の四月には現在のフィリピンに到着。マゼランはポルトガル時代にアジアに来たことがあったから、フィリピンの言葉を聞いてアジアに着いたことを確信した。

 やった! インドは近いぜ!

 ところがマゼランは、このあたりを征服して、スペイン領にしたいと考えたらしい。だから、セブ島やマクタン島で原住民と戦っちゃった。このマクタン島で、マゼランは殺された。殺したのは、現地の部族の指導者ラプラプ王。

 ご当地では、当然、征服者を撃退したラプラプは英雄だ。いまでも、「マクタン島での戦勝記念祭」で、ラプラプがマゼランを倒す野外劇をやってるそうだよ。

 でも、マゼラン死んじゃったよ。じゃあ、このエッセイも終わりだな。

 いやいや。残された水夫たちのその後を書かねばなるまい。残ったのは一〇八人。指揮はセバスティアン・デル・カーノという人物がとった。指揮する船はヴィクトリア号。こいつが、マゼラン艦隊最後の一隻だ。

 カーノは、さらに西に向かった。そして、ついに十一月。モルッカ諸島に着いた。じつはここは、別名香料諸島と言って、まさに香辛料の原産地なんだ。

 ここで当然香辛料を買いつけて、いよいよ帰還なんだけど、このあたりはポルトガルの勢力圏だ。見つかったら殺される。無事に帰り着けるかどうかは、かなり微妙だ。だから、このまま残りたいという水夫がかなりいた。そいつらを残して、けっきょく四七人で、スペインを目指した。

 カーノは、ポルトガルに見つからないように、思いっきり、進路を南に取ることにした。ほとんどオーストラリアの横を通っていくようなコースだ。でも、この航海は無理があった。沿岸を通らないから、またまた、海をどこまでもどこまでも進むことになって、けっきょく、帰還できたのは一八人だった。

 こうして、マゼランの旅は終わった。彼らは、三年の月日をかけて、マゼラン自身を含む多くの命を失いながら、地球が丸かったことを証明したんだ。なにしろ、ぐるーりと、世界を一周したんだからね。海の謎は解かれたんだよ。

 こうして、「大航海」と呼ばれる時代は終わった。だから、このエッセイの筆も、ここで置くことにしよう。


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