地獄の沙汰も恋しだい




 もう一つ、メソポタミアの神話を紹介しましょう。

 で、いつものように最初にお断り。今回紹介する神話は、「ネルガルとエレシュキガル」というお話なんですが、お話そのものが短いうえに、「ギルガメシュ叙事詩」ほど文学的な作品でもないです。古代にこの話を書いた神話作家の先生、あんまり才能なかったみたい。心理描写とか、てんでダメ。そういう意味じゃ駄作だね。

 でも。メソポタミアの神話にしては、珍しく純愛物なんだよねえ。だから、ぼくのお気に入り。なにせほら、ぼくは恋愛小説家だから(笑)。

 というわけで、不祥、わたくしTERUが、この「ネルガルとエレシュキガル」に、大幅に手を入れて、独自解釈てんこ盛りでお送りしたいと思います。今回は大胆にも、筋もちょっと変えちゃう。でも、本当の筋を最後に解説しますからご勘弁を。

 さあ、行こう。

 今回の主役は、冥界の女王エレシュキガル。彼女、イシュタルのお姉さんと言われてますが、最初は、そうじゃなかったかも。早い話、よくわかんない。なにせ最古だからね。でもこのエッセイでは、イシュタルのお姉さんってことにしときます。文句は言わないでくださいね。

 さて。

 話は、天界の神様の飲み会…… 失礼。パーティーから始まります。毎年、主神であるアヌは、神様たちを集めて、盛大なパーティーを催していました。ですが、ここに一人だけ顔を出さない女神さまがいた。そう。彼女の名はエレシュキガル。

 誤解のないように申し上げますが、エレシュキガルは、べつに天界の神々と仲が悪いから出席しないというわけではなく(仲がよいわけでもないですが)、彼女は冥界の外へは出られないのです。なんと不憫な……

 そこでアヌは、エレシュキガルにも、彼女の分の美味しい料理を届けようと考えました。エレシュキガルはアヌの娘ですからね。親心。

 はいはい、彼らが親子だったというのにも異論があることは充分承知してます。でもこのエッセイでは、親子説を採用。以後、そのつもりで読んでね。

「カカよ」
 アヌは、カカという従者を呼びます。
「エレシュキガルのところへ行って、使者を遣わすよう伝言してまいれ。彼女の取り分のごちそうを持って帰らせるのだ」
「はい。アヌさま」
 カカは、深くお辞儀をしてから冥界にでかけていきます。

 なんでアムは、カカに、ごちそうを持っていかせなかったのか。その理由がぼくにはわかりません。だって、カカがアヌの伝言を伝えて、それから、エレシュキガルの部下がごちそうを取りに来るなんて、二度手間じゃん。カカが最初から持っていきゃあ、一度の手間ですむでしょ? 最初にも書いたけど、この話を書いた古代の先生、物語のプロット作るの下手だよ。いまどき、素人だって(ぼくのことだけど)、こんなヘボい話書かないよな。ついでに言うと、このお話より古い時代に作られた「イシュタルの冥界下り」は、もうプロットどころの騒ぎじゃなくて、起承転結で言えば、「承と結」しかない。シュメール語版は、まだマシだけど、それが後世に伝えられて書かれた、アッカド語版は、出来そこないもいいとこで、このエッセイで紹介しようなんて気にもなりません。

 と、当時の神話作家先生たちに文句を言ったところで、先に進もう。

 とにかく、カカは冥界の門にたどり着く。冥界には七つの門があるのです。むかしイシュタルが冥界に下ったとき、この門で、一つづつ着ているものを剥ぎ取られ、七つの門を過ぎたときには全裸になっていたのですが、カカは、そんなことはされず、逆に歓迎されます。ま、そりゃそうだ。じつはイシュタルのときは、彼女、冥界を自分のモノにしようという野心を持っていたから、そんな仕打ちを受けたんだけど、カカは、ちゃんとした用事があって来たんだからね。

 ごめん。また脱線させて。じつは、「イシュタルの冥界下り」で、イシュタルが冥界に降りていった理由は、定かじゃないんです。ある日突然、イシュタルが冥界に降りていくってところから始まる。だから冥界を支配しようと企んでいたなんて、後世の人間が勝手に考えたことなんです。でもさ、そう考えたくもなるよ。イシュタルの性格じゃ。だいたい、理由もなく冥界に降りていくなんて物語を書いた、古代人が悪い。本当にヘボい神話だよ、「イシュタルの冥界下り」は。

 はい。本筋。

 カカは、無事(というか、むしろ歓迎されて)七つの門をくぐった。で、いよいよ、女王様であるエレシュキガルの前に通されます。

「エレシュキガルさま」
 カカは、彼女の前にひざまずく。
「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じたてまつります」
 なんて、江戸時代みたいなセリフじゃなかっただろうけど、たぶん、似たようなことを言ったはずだね。カカは、エレシュキガルの足元の床にキスをして、お目にかかれたことを感謝してるんだから。

 たぶんカカ、内心ビックリしたろうね。冥界の女王なんて言うぐらいだから、どんなおっかないお姉さんかとビクビクしてたはずなんだ。ところが、会ってみると、美貌のイシュタルのお姉さんだけあって、すっごい美人だし、しかも性格は妹なんかよりずっと温和。やっぱり、長女だからかね。ワガママじゃないんだ。

「遠き、冥界の地までごくろうでした」
 エレシュキガルが、優しく言います。
「さっそくですが、そなたは父からの伝言を賜っているとか?」
「ははーっ」
 カカは、平伏しながら言う。
「エレシュキガルさまに、お父上さまからの伝言をお伝え申し上げます」
 カカは、アヌからの伝言を、そのままソックリ伝えます。
「そうですか」
 エレシュキガルはうなずく。
「お父さまのご配慮。とてもうれしく思います」
 本当にうれしそうなエレシュキガル。
「さっそく、使者をつかわして、お父さまの命に従いましょう」
「ははーっ」
 カカは、また平伏。なんて素晴らしい女神さまなんだろう。イシュタルと立場が逆転してくれないかなあ、この人。と彼は思った。と、TERUは勝手に解釈した(笑)。

 カカが天界に帰ると、さっそくエレシュキガルは使者を選びます。このとき選んだのがナムタルという男。こいつを選んだところからして、エレシュキガルが、いかに父親の好意に感謝していたかがわかる。だって、ナムタルは、冥界の宰相なんだもの。たかが、食べ物を取りに行くだけなんだから、もっと身分が低い者でも問題なかったはずなんだけど、エレシュキガルは、冥界のナンバー2を選んだわけ。

 ところが。これが裏目に出た。ナムタルにしてみたら、おもしろくないわな。だって、パシリだぜ。「天界に行って、わたしの分の食べ物をもらってらっしゃい」と言われたんだから。宰相なのに!

 でも女王様の命令には逆らえない。ナムタルは、ぶつくさ言いながら、天界にでかけていく。

 天界に上がったナムタルは、さすがに宰相という地位だけあって、神々から、それ相応の歓迎を受けることになる。なにせ、彼がパーティの席に現れると、椅子に座っていた神々が、みな立ち上がって、「おお、よく来たなナムタル」と、握手したり、肩を叩いてくれたりしてくれた。悪くない待遇だよね。

 ところがどっこい。このとき、一人だけ(神だから一神か)、席から立ち上がらないヤツがいた。彼の名はネルガル。

「ネルガル殿」
 と、隣にいる神様。
「どうなさった。冥界からナムタルが来たのですぞ」
「わかっている」
 ネルガルは、不愉快そうに言った。
「だが、ナムタルの顔を見たまえ。まるで、楽しそうでもうれしそうでもない。アヌさまがエレシュキガルにご馳走を取らせようというのに、なぜ、あの男は、あんな不機嫌な顔をしているのだ」
 その話し声を聞いたナムタルは、ネルガルのところに行って、うやうやしく頭を下げる。
「これはこれは、ネルガルさま。ご機嫌麗しゅうございます」
 ナムタルは、これでネルガルも立ち上がって挨拶するしかないだろうと思った。ナムタルにもプライドがあるのだ。
 ところが、ネルガルは立ち上がらない。
「ふん。この場に来たくなかったヤツに挨拶するつもりはない。用事をすませて、とっとと冥界に帰れ」
 これで終わり。ネルガルもプライド高いよねえ。ちょっと立ち上がって、挨拶するだけだぜ。そのくらいしてやれよ。

 さあ、ナムタルは怒った怒った。もちろん、その場で怒りをあらわにするわけにはいかないから、取り敢えず、穏便にすませたけど、冥界に戻ってから、エレシュキガルに訴える。

「エレシュキガルさま! 天界の神に無礼者がおりまする!」
「ど、どうしたのです、血相を変えて。詳しくお話なさい」
 エレシュキガルは、そう言ってナムタルの話を聞く。
「ネルガルでございます! かの者はわたくしを、バカだ無能だアホだと、神々の前で罵ったのでございます! こんな侮辱を受けたのは初めてです! いや、これは、わたくしへの侮辱ではございません! あの男は、冥界を侮辱しているのです! そう、エレシュキガルさまを侮辱しているのですぞ!」
 話が大きくなるのは世の常。もとは自分が悪いのに、こういうヤツって現代にもいるよね。人のせいにして自分は悪くないって言い張るヤツ。

「なんということでしょう……」
 事情(というか真相)を知らないエレシュキガルは、さすがに眉をひそめる。
「わかりました。わたくしからネルガルに注意をいたしましょう。ナムタル。もう一度天界に行って、お父さまに、ネルガルを冥界によこすよう、伝えてちょうだい」
「ははーっ。喜んで!」
 こんときのナムタルは、そりゃ矢のように飛んで行ったろうね。

 さて、大人げなかったとはいえ、それほど非難されることはしていないネルガル。エレシュキガルに冥界に呼びつけられて、御機嫌斜め。ネルガルとエレシュキガルは、どちらかっていうとエレシュキガルの方が偉いから(なにせ、主神アヌの長女で、冥界の支配者だからね)、呼びつけられたら行かないわけにはいかない。ったく、オレがなにをしたって言うんだよ、ぶつぶつ。と思ったろうね。

 ここで、エア神登場。この人、知恵の神様でなんでもご存じ。メソポタミアの神話では、事あるごとに現れて、だれかに知恵を授けたり、紛糾する議題に決着をつけたりする神様。ま、神々のブレーンってとこかね。あ、名前から女神みたいな印象受けるけど、一応男神です(一応?)。

「ネルガル」
 とエア。
「これは、ナムタルの罠だ」
「罠?」
「そう。おまえに侮辱された憂さを晴らすつもりだろう」
「ふん。わたしもバカではない。ナムタルごときに負けはしないよ」
「油断してはいけない。わたしの忠告を聞いてくれ」
 そう言ってエアは、ネルガルにいくつか忠告を与える。
「まず、椅子が運ばれてくるはずだ。だが、それに座ってはいけない。二度と立てなくなる。つぎにパンが運ばれてくるはずだが、それを食べてはいけない。冥界の住人になってしまう。肉も運ばれてくるが、それも同様だ。そして、ビールも運ばれてくる。決して飲んではいけない。最後に、足を洗う水が運ばれてくるはずだが、その水で、足を洗ってはいけない。やはり、天界に帰れない身体になってしまう」
「なるほど」
 とネルガル。
「オレを冥界に縛りつけようということか」
「そうだ。ナムタルには気をつけろ」
「わかった。ありがとエア」
「いいんだ。それより、一番心配なのは……」
「なんだ?」
「エレシュキガルだよ。彼女はとても魅力的な女神だ。彼女の魅力に屈しないことを願っているよ」
「ははは! そいつは自信がないな。とにかく、ありがとう。せいぜい気をつけるとしよう」

 こうして、ネルガルは冥界に降りて行く。

 ネルガルが門に到着すると、門番はネルガルを待たせておいて、ナムタルに報告に行く。
「ナムタルさま! ネルガルが来ましたぜ!」
「ぐふふふ。来たか。罠とも知らずバカなヤツめ」
 ナムタル。すっかり悪役だねえ。

 じつは、こっからTERUの独自解釈が本格的に始まります。本当は、以下に書くほど複雑なお話じゃないんです。というか、あまりにもあっさりしていて、登場人物の思惑とか行動が意味不明。ま、たぶん当時の独特な「思想」とか「信仰」とかあったんでしょうけど、現代人にはサッパリわからないので、きちんとプロット組み直して、現代風に書き直します。もちろん「大筋」と「エンディング」は変えないけど、あくまでも、TERUの創作であることはご承知くださいませ。(正直だね、オレも)

 と、断りを入れたら安心したぞ。さあ書こう!

 ナムタルは、門までネルガルを迎えに行く。
「これはこれは、ネルガルさま。ようこそおいでくださいました」
「ふん」
 ネルガルは苦笑い。
「オレがここにいるのは、だれにせいだ? まあいい。さっさとエレシュキガルに会わせてもらおう」
「ははっ。どうぞ、こちらに」
 不敵に笑うナムタル。
 ネルガルは、取り敢えず、澄ました顔でナムタルについて、門をくぐって行く。七つ目の門をくぐると、そこは広い庭だった。なかなか美しい庭。ナムタルは、ネルガルをテラスに案内した。そして、部下に椅子を持ってこさせる。
「さあ、ネルガルさま。お疲れでしょう。どうぞお座りください」
「いやいい。立っている」
「は?」
「立っていると言ったんだ」
「そ、そうおっしゃらず、どうぞ座ってください」
「くどいぞ」
「で、ですが……」
「ナムタル。この椅子に何か細工がしてあるのかな?」
「ま、まさか! わたくしは、お客様をもてなそうと思っただけでございます!」
「その客が座りたくないと言っているんだ」
「は、はい。わかりました」
 くそっ。ナムタルは舌打ちすると、今度はパンを持ってこさせる。
「どうぞ、お召し上がりください」
「いらん」
「は?」
「食べたくないと言ってるんだ」
「しかし、お腹がお空きでしょう?」
「空いてない。満腹だ」
 ちくしょう…… ナムタルは歯ぎしり。よし。今度は食べたくなるようなものを。そう思ったナムタルは、今度は肉を持ってくる。
「美味しいステーキでございます」
「ぜんぜん、旨そうじゃない」
「は?」
「そんなものは、食べられないと言ってるんだ。下げろ」
「しかし、これは、最高級の松坂牛でございますぞ!」
「バカタレ。この時代に松坂牛なんかあるか」
「失礼しました。ですが、本当に美味しいんですよ」
「じゃあ、おまえが食えよ」
「うっ……」
 くそう! こうなったら、酒だ、酒! さすがにビールなら飲むだろう。ナムタルは、そう考えてビールを持ってくる。
「どうぞ! 冷えたビールでございます!」
 冷えてたかどうかは知りませんが、この時代にビールがあったのは事実。というか、ビールを発明したのはシュメール人なんですよ。なにせ彼ら、麦を主食にしてましたからね。いやはや、いいもの発明してくれた。これからの季節、ビールは欠かせません。
 ところが、ネルガルは、例によって首を振る。
「いらん」
「えーっ!」
 もうナムタルはビックリ。
「ビールも飲まないんですかあ?」
「うるさいな。いらんと言ったらいらなんだよ」
「わかりましたよ。ふん、下戸野郎め」
 ナムタルは小声で言う。
「なんか言ったか?」
「いいえ、なんにも!」
 思惑が、ことごとく外れるナムタルは、さすがに焦ってくる。そろそろエレシュキガルも、ネルガルが来ていることに気づくころだ。
 そうだ!
 ナムタルは、最後の手を思いつく。冥界の水で足を洗わせれば、神は冥界から出れなくなる。これだ。これだよ。ひひひ。
 ナムタルは、さっそく足を洗う桶に、水を入れて持ってくる。
「ネルガルさま。おみ足を洗う水でございます」
 ナムタルは、そう言って侍女に命令する。
「なにをしておる。ネルガルさまの足を洗わせていただきなさい」
「はい」
 侍女がネルガルの足元に平伏すと、ネルガルは、一歩後ずさった。
「その必要はない」
「なんですと?」
 ナムタルは、眉をひそめた。
「まさか、その汚れた足で、エレシュキガルさまの前にお立ちになるというのですか?」
「考えたな、ナムタル」
 ネルガルは苦笑した。
「だが、そうはいかんぞ。この汚れた足は、一刻も早くエレシュキガルに会うために、急いで野を駆けてきた証拠。なにを恥ずべきことがあろうか。さあ、早くエレシュキガルの前に連れて行け!」
 ネルガルは、ナムタルに凄んだ。
「あう……」
 ナムタルは、なんとか反論しようとするが、なにも名案が浮かばずに、ただ口をパクパクさせる。
 すると。
「なんの騒ぎですか?」
 騒ぎを聞きつけた、エレシュキガルが、テラスにやってきた。
 おおおお!
 ネルガルは、ビックリ仰天。たしかに美人!
「あら……」
 と、エレシュキガル。
「あなたが、ネルガルですか?」
「はい」
 ネルガルは、さっと紳士らしく頭を下げる。
「先刻到着いたしました」
「まあ。ナムタル。なぜ、すぐに知らせないのです?」
「いや、これはその……」
 ナムタル冷や汗。
「ネルガルさまを、おもてなしいたそうと、いろいろ考えていたしだいでして」
 たしかに、考えていたな。いろいろと。
 ネルガルは、苦笑いでナムタルを見てから、エレシュキガルに向き直った。
「ナムタルを責めないでいただきたい」
 と、ネルガルは、とびきり爽やかな笑顔を浮かべた。ネルガルくん、エレシュキガルがあんまり美人だから、もうことを荒立てる気はなくなっちゃった。
「この度のことは、わたしの大人げない態度が原因。エレシュキガルさまのご気分を害したことに、深く反省をしております」
「まあ……」
 エレシュキガルは、ネルガルの真摯な態度に感激。
「そのようなお言葉をいただけるとは…… わたくし、ネルガルのことをずいぶん誤解していたようですね」
「わたしは誤解されやすい」
 ネルガルは、またニッコリ。
「ですが、きちんと話をすれば、いつも誤解は解けます。エレシュキガルさまも、そうであってホッとしました」
「わたくしもです」
 すっかりいい雰囲気の二人。
「ネルガル。あの……」
 エレシュキガルは、少しはにかみながら言った。
「なんの、もてなしもできませんが、よかったら、あとでお茶でもご一緒にいかが?」
 うわ、カワイイ。
「もちろん、よろこんで」

 そのとき。

『エレシュキガルの魅力に屈しなければいいが……』

 ネルガルは、エアの言葉を思い出した。やばい。屈しそうかも。でもまあ、お茶くらいいだろ。大丈夫だよ。お茶ぐらいなら……

「ではのちほど」
 エレシュキガルは、ネルガルに笑顔を浮かべて、宮殿に戻っていった。
「ネルガルさま」
 ナムタルが、エレシュキガルの後ろ姿に見とれているネルガルの名を呼んだ。
「ん? なんだおまえ。まだいたの?」
「いましたよ!」
「怒るなよ。なんか用か?」
「ったく…… これだから天界の神は」
 ぶつぶつ。
「まあいいでしょう。ネルガルさま。宮殿の廊下を進むと、大きな沐浴場がございます。よろしかったら、お入りなさりませ」
「風呂か。またなんか企んでるんじゃなかろうな?」
「滅相もない」
 ナムタルは首を振った。
「わたしは、最初からなにも企んでなどおりませんが、万が一、そうだとしても、いまやエレシュキガルさまに気に入られたネルガルさまを、陥れようなどと考えるわけもございません」
「ま、信じてやろう」
「ありがとうございます。エレシュキガルさまとお茶をなさいます前に、お汗を流されませ。少し汗臭いですぞ」
「ふむ。言われてみれば、ここまで来るのに汗をかいたからな」
 ネルガルは、エレシュキガルとお茶をする前に、汗を流しておこうと思い、ナムタルの進め通り、沐浴場に向かった。
 ニヤリ。と不敵な笑いを浮かべるナムタルだった。
「ああ、ナムタル」
 ネルガルが振り返る。
「わわっ! な、なんでございましょう!」
 あわてて、にやけた顔を消すナムタル。
「いや、なんでもない。振り返ってみただけ」
 がくっ! ナムタルはズッコケた。

 そのころエレシュキガル。
「ああ、どうしましょう……」
 ネルガルと別れたエレシュキガルは、ひとり胸を押さえていた。
「ネルガル…… あんなに凛々しい方だったなんて。笑顔がステキだし、とっても知的だし、ああ、どうしましょう。胸が苦しい……」
 一目惚れだよ、おい。

 冥界の女王エレシュキガル。じつは彼女は可哀想な女性なのです。これはぼくの創作じゃなくって、ちゃんと神話に書いてあることなんですが、彼女は幼いころから冥界を支配することを運命付けられていたため、とても厳しく育ったんですね。

「わたしは、子供で幼かったときから、少女の遊びを知りませんでした。子供らしくふざけることを知りませんでした」

 と、彼女自身が神話の中で告白してる。妹のイシュタルのように、自由奔放な少女時代がないのです。しかも、彼女は冥界から出ることができず、神々の中でも一人だけ孤立した存在なんです。そんな彼女が、天界の神、ネルガルに会って心ときめいてしまうのも仕方のないことかも。ネルガルくん、垢抜けてるからね。シティボーイだもん。ところで、シティボーイって死語かね?

「ああ、ネルガル。あなたはどうしてネルガルなの」
 シェイクスピアが生まれるには、まだ四千年ほど早いんですけど、エレシュキガルってば、すっかりジュリエットでございます。
 エレシュキガルは、ふと自分の姿が気になって鏡を見ました。鏡なんか、この時代にないよという突っ込みは受け付けておりません。
 いままで恋なんかしたことないから、とくに身だしなみを気にしてなかったんだけど、いまの彼女は恋する乙女。ま、気にしようが気にしまいが、充分すぎるほど美しいんですが、それでも気にするのが女心。
「いやだ…… 髪が乱れてる。恥ずかしい」
 ぜんぜん恥ずかしくないんですが、それでも気になるんだよねえ。
「そうだわ。ネルガルとお茶をする前に沐浴をしましょう。きれいに身体を洗って、美しいわたしを見てもらおう…… いやだ、わたしったら…… きゃっ」
 こらこら。なにを勝手に期待しておるんじゃ。

 でも、もしかしたら一番期待してるのは読者だったりして(笑)。はい。ご期待に添いましょう。わたくし読者の味方です。

 いそいそと沐浴にでかけたエレシュキガル。彼女は大きなお風呂場で美しい着物をするりと脱ぎます。脱ぎ方も上品なんだこの人。

 もうおわかりでしょうけど、っていうか、ベタな演出ですんません。ここにネルガルくんがいるんです。でもね、ぼくの責任じゃないよ。神話が、一応そういう筋書きなんだもん。怒らないで。

「ふう。いい湯だ」
 とか、いい気にお湯に漬かってる…… 漬かってる? 漬け物じゃあるまいし、なんちゅうアホな変換をするんじゃ、この日本語変換ソフトは。ぶつぶつ。

 失礼。湯につかっているネルガルくん。そこへだれかが入ってくる気配。

「ん?」
 ネルガルは、湯気の立つ先に目を凝らしました。そこには、な、な、な、なんと!

 ごめん。ついクセで、驚きの表現とかしてみましたけど(しかも下手な)無駄だよね。はい、エレシュキガルが入ってきたのでした。

 げーっ! マジかよ! なんで!

 ネルガルはビックリ。そりゃ、驚くわな。それにしても、エレシュキガルの美しいことといったら! しかも、その美しい身体を、上品にタオルで隠したりしてるもんだから、そのチラリズムが、これまたなんとも、男心をくすぐるって言うか、下半身に血が集まるっていうか。下品だなオレも。

 ごくり…… ネルガルは唾を飲み込んで考える。

 ど、どうする? このまま隠れてるか? それとも、いまのうちに声をかけて出て行こうか? 待て。この下半身の状態で出て行ったら…… ああ、変態だと思われる。イヤだ。エレシュキガルに嫌われたくない。

 だれも変態だなんて思わないって。男ならそれで正常なんだよネルガルくん。ま、嫌われるかもしれないけどな。

「ああ、どうしたらいいんだ! To be or not to be!」
 出て行くべきか、出て行かざるべきか! いや、生きるべきか死ぬべきか。だったかな? シェイクスピアにはまだ早いけど、すっかりハムレットな気分のネルガル。くどいかな、このギャグ?

 くどいついでで悪いんですけど、ハムレットの恋人ってオフェーリアだっけ? それともオフィーリア? 気になるな。調べよう。えっと、電子辞書は…… ああ、オフィーリアだ。コンピュータって便利だよね、こういうとき(マジで、調べたTERUでした)。どうも脱線するなあ。

 なんとか、理性を保っているネルガルですが、エレシュキガルが、タオルを落として、湯を身体に浴びるころには、もうすっかりヤバイ状態。言っとくけど、湯あたりしてるわけじゃないよ。わかるよね、大人なら。十五歳以下の読者は、この先読まないように。

 だって、ヤバい状態にもなるよ。エレシュキガルが、湯を浴びながらつぶやくんだぜ。
「ああ、ネルガル…… あなたに愛されたい……」
 どうよ! これでヤバイ状態にならなかったら男じゃないね。
 ネルガルは、ついに意を決して立ち上がった。
 ザバッ。と湯の音がする。
「だ、だれ!」
 エレシュキガルは、あわててタオルで身体を隠す。
「ネルガルです」
「えっ……」
 エレシュキガルは、一瞬言葉を失う。
「ネ、ネルガル!」
「はい。ぼくです」
「あ、そんな……」
 エレシュキガルは、かーっと顔が赤くなりました。
 見られた! 聞かれた!
「すいません!」
 ネルガルは、あわてて言った。
「黙っているつもりはなかったんです。でも、あなたが、あまりにも美しくて、声をかけられなかったのです」
「いや…… 恥ずかしい……」
 エレシュキガルは、恥ずかしさのあまり、うずくまりました。
 ああ、このまま抱きしめたい!
 でも、それはできない。彼女は自分より高位の神様。
「ごめんなさい」
 ネルガルは、頭を下げた。
「もう出て行きます。天界に帰ります。このことはだれにも言いません。どうか、あなたも忘れてください」
 まともな思考だね。相手はアヌの娘。そして冥界の女王。ネルガルも地位の低い神様じゃないけど、いくらなんでも立場が違う。ここでガオーッとか言って、襲ったりしたら電気椅子もとい、絞首刑が待っている。いや、ギロチンかも。
 ネルガルは、沐浴場を出て行こうとした。
 さあ、どうするエレシュキガル。愛しいネルガルが帰っちゃうぞ。
「あ……」
 こちらも「To be or not to be」状態。引き止めるか、引き止めないか。
「待って!」
 引き止めました。
「行かないで、ネルガル!」
「え?」
 ネルガルは振り返った。
「お願い……」
 エレシュキガルは、まだ恥ずかしさでうずくまったままだけど、その美しい瞳に涙を一杯溜めて、精一杯の勇気を振り絞った。
「行かないで、ネルガル。お願い。わたし…… あなたのことが……」
「ぼくのことがなんです?」
 どうでもいいが、前を隠せネルガル。その、やんちゃな息子さんを!
「わたし……」
 エレシュキガルは、最後の勇気を出した。
「あなたのことが好きなんです!」
 やった。
「エレシュキガルさま」
 ネルガルは、エレシュキガルのそばによって、自分も膝を落とした。
「ぼくも、あなたのことが好きです」
「本当に?」
「はい。エレシュキガルさま」
「いや…… 様なんて呼ばないで」
 エレシュキガルは、ちょっと拗ねたように言う。
 た、たまりません。女の「イヤイヤ」には魔力がある。破壊力がある。下手すると殺傷能力もある。

 もうネルガルには、エアの忠告を思い出す理性はなかった。

「エレシュキガル。きみが好きだ!」
「ああ……」
 エレシュキガルは涙を流した。喜びの涙を。
「きみの涙は、宝石のように美しい」
 よく言うよ!
 ネルガルは、優しくエレシュキガルの涙を指でぬぐうと、そっと顔を近づけて、彼女の唇にキスをした。
 熱い口づけ。エレシュキガルにとってはファーストキス。
「ああ。ネルガル…… 大好き……」
「ぼくもだよ、エレシュキガル。いまはただ、きみの鼓動を感じていたい」
 二人は力強く抱きあった。

 ここから先は十八歳未満の読者はお読みになれません。

 いや、冗談抜きで、神話に「あらゆるためらいを振り捨てて、エレシュキガルとネルガルは、情熱的にベッドで過ごした」って書かれてるんだもん。ベッドがあったかどうかは知らないけどさ。(つまり、そういう意味のことがってこと)

 しかもあんた、一晩だけじゃないぜ。一日目、二日目。そして三日目と四日目、五日目と六日目も。つまり、一週間も!

 猿か、おまえらは! 限度ってモンがあるだろうに! 限度ってモンが!

 まったく。原作がヘボいと、翻訳に苦労…… いや翻訳はしてないか。解説に苦労するぜ。ぶつぶつ。だいたい、恋愛小説のなんたるかを理解しとらんよシュメール人は。ぶつぶつ。と、愚痴ってても前に進まないな。ま、がんばって「意訳」しますか。

 さて。神様だけあって、体力のあり余ってらっしゃるお二人ですが、限度を知らないラブラブも永遠には続かない。

 一週間目。

 ネルガルは、彼の胸に顔を埋めて、カワイイ寝息を立てているエレシュキガルの髪を撫でていた。

 このまま、彼女の寝顔をずっと見ていたい。
 このままずっと、甘美に身をゆだねていたい。
 このままずっと、彼女に寄り添っていたい。

 って、よく書くねぼくも。さすが恋愛小説家。アマチュアだけど。

「ん……」
 エレシュキガルは、まどろみの中で、瞳をゆっくりと開いた。
「おはよう」
 ネルガルは、夢の中から戻った彼女を笑顔で迎える。
「おはよう」
 エレシュキガルも笑顔を浮かべ、自分からネルガルにキスをする。
「うふふ。ネルガルったら、すごいんだもの。わたし壊れちゃう」
 そりゃ、一週間もやれば……
「ははは」
 ネルガルも笑った。
 だが。
 すっかりネルガルのことを知りつくしたエレシュキガルは、彼の笑い顔に、わずかな曇りを見て取った。
「どうしたの?」
 エレシュキガルが聞く。
「なにか心配事があるの?」
「いや……」
 そう言って首を振るネルガルだが、その顔から、いよいよふだんの明るさが消えてゆく。
 エレシュキガルは、胸がざわついた。
「どうしたの? お願い。言って。わたしにできることならなんでもするから」
「今日で一週間だ」
 ネルガルは、エレシュキガルから顔を背けながら言った。
「もう…… ぼくは天界に帰らなければならない」
「え?」
 エレシュキガルは、一瞬、自身の耳を疑った。永遠にこの幸せなときが続くと思っていたのだ。
「帰らなければならない」
 ネルガルは、もう一度言った。
「そ、そんな…… いや。いやよ」
 震えた声のエレシュキガル。
「わかってくれ、エレシュキガル。ぼくは天界の神だ。冥界にいつまでも留まっていることはできないんだよ」
「いや!」
 エレシュキガルは、ネルガルに抱きついた。
「お願い! 行かないで!」
 ネルガルも、エレシュキガルを抱きしめる。
「ぼくだって、帰りたくない。でも、これは掟だ。掟は破れない」
 ネルガルの言葉に嘘はなかった。天界の神は、本来冥界に行ってはならないのだ。一週間も滞在したネルガルは、まさに例外中の例外。ああ、可哀想に。二人は元祖、ロミオとジュリエットになる運命だったんですね。
 掟のことは、エレシュキガルだって、充分承知してます。そして、自分が天界に行けないことも。エレシュキガルは、ネルガルと天界で暮らすこともできない。

「すまない。エレシュキガル……」
 ひどく辛そうに言うネルガル。
 その声を聞いたエレシュキガルは、もう「行かないで」とは言えない。これ以上ワガママを言ったらネルガルを苦しめるだけ。
「ネルガル。お願い。最後に、もう一度愛して。永遠に消えないほど、あなたをわたしに刻み付けて」
「ぼくだって、きみを永遠に忘れない」
 二人は、いままで以上に情熱的に激しく、でもどこか刹那的に愛を確かめ合った。

 こうしてネルガルは、とうとう天界に帰って行ったのです。あ、このシーンのBGMはモーツアルトのレクイエムね。場所が冥界だし。

 終わり。

 いやあ、悲しかったですねえ。なんてね。じつは終わりじゃないんだ。まだ続くんだよ、この神話。しつこく。

 さて。ネルガルが天界に帰っていってしまったあとのエレシュキガル。もう大変です。彼の前では、ネルガルを苦しめまいと、いい女を演じたエレシュキガルですが、いざ、独りになると、もうダメ。涙がとめどもなく溢れてくる。

「ああ、ネルガル! わたしの最愛の人! あなたと、もう二度と会えないなんて!」

 彼女の涙は、本当に涸れることを知らず、毎日毎晩、泣き崩れた。

 いやはや、こうなっては、ネルガルを苦しめてやろうと画策したナムタルも、さすがに後味が悪い。ネルガルどころか、自分の主人を苦しめることになってしまった。しかもこれほど強烈に。

「エレシュキガルさま」
 ナムタルは、ついに意を決して、エレシュキガルに言う。
「わたくしが、アヌさまの元にまいり、もう一度ネルガルさまが、冥界に降りてこられるよう、頼んでみましょう」
「無理よ……」
 エレシュキガルは、力なく言う。
「たとえ父でも、掟は破れない……」
「いいえ。イシュタルさまの例がございます」
「イシュタル?」
 エレシュキガルは、ここで妹の名が出るとは思わず、涙で真っ赤になった瞳をナムタルに向けた。
「イシュタルがどうしたのです?」
「はい」
 ナムタルは言った。
「イシュタルさまは、無理を通そうとするとき、いつも使うセリフがございます。『もし、望みがかなわぬのなら、死者を蘇らせ、生きている者を食べさせてやる。地上に、生者よりも死者を増やしてやる』と。エレシュキガルさま。本当にそれができるのは、冥界の女王である、あなたさまをおいて、ほかにございません」
「ああ!」
 エレシュキガルは、悲しみの顔に、苦痛の表情をも乗せた。
「どうして、そんな恐ろしいことができましょうか!」
「申し訳ございません」
 ナムタルは、うやうやしく頭を下げる。
「エレシュキガルさまが、そのような企みを行うはずもございません。ですが、この脅しをかけるしか、アヌさまのお心を動かすことはできぬでしょう」
 エレシュキガルは首を振る。
 そんなことはできない。もし、そんな脅しを父上に言ったら、ネルガルもわたしを非難するだろう。ネルガルに嫌われる。それだけはイヤ。

 でも……

 日に日に募るネルガルへの思いは、もはやエレシュキガルの理性を吹き飛ばすのに充分なほどだった。

 ネルガルに会いたい。ネルガルに会いたい。もう一度、彼に抱きしめられたい。もう一度、彼と愛を確かめたい。

 ついにエレシュキガルは、ナムタルの助言を聞き入れ、天界の神々に対して、あの恐ろしくもおぞましい脅しをかけることに同意する。

「お行きなさい、ナムタル。アヌ、エンリル、エアの神々に言うのです。どうか、もう一度、ネルガルをこの冥界によこしてくださいますようにと」

 ナムタルは、さっそく天界に上がって、アヌ神たちに、エレシュキガルの願いを伝えた。そう。あのおぞましい脅しを、たっぷり加えて。

 それを聞いた天界の神々、とくに父親のアヌはビックリ。

「まさか!」
 アヌは、血の気の引いた顔で叫んだ。
「あの美しく優しい娘が、死者を蘇らすなんて言葉を口にするわけがない!」
「いいえ。事実でございます」
 ナムタルは、キッパリと言った。彼だって必死だ。もともとも原因を作ったのは自分なんだから。
「エレシュキガルさまは、本気です。それほどまでにエレシュキガルさまの悲しみは深いのです。これ、すべてはネルガルさまの責任。ネルガルさまを冥界に落としてください」
「む、むう……」
 天界の神々は、腕を組んで考え込んだ。イシュタルが言っても、ただの脅しかもしれないが、エレシュキガルが言うと現実味がある。しかも、ふだん、決してそんなことを口にしない女神が言うのだから、よほどの覚悟があってのことなのだ。
 ここでも事態に決着を着けるのは、知恵の神であるエア。
「どうでしょう。ネルガルを、いま一度冥界にやり、エレシュキガルに、バカなことをしないよう思いとどまらせましょう」
 満場一致。
 ナムタルは、心の中で、ガッツポーズ。

 ところが。世の中は、うまくいかないものと相場が決まっている。

「ネルガルさま!」
 ネルガルの従者が、あわてて、ネルガルの寝室に飛び込んできた。彼もまたエレシュキガルとの別れから立ち直れず、床にふせっていたのだ。
「なんだ、騒々しい」
 ネルガルは、重い身体を起こした。
「ただいま、宮殿から使者がまいりまして、アヌさまのご命令を伝えて来ました!」
「こんなときに仕事か。アヌさまもお人が悪い」
 フッ。と、苦笑するネルガル。
「そ、それが、とんでもないことが起こったのでございます!」
 従者は、ニヒルに決めてる主人にかまわず言う。
「エレシュキガルさまが、ご乱心あそばして、死者を蘇らせ、天界を征服しようと企んでおられるそうです!」
「なに?」
 ネルガルは、眉をひそめた。
「そんな、バカなことがあるものか」
「いいえ! 事実です! 死者を蘇らせ、生きている者を食べさせてやる。地上に、生者よりも死者を増やしてやる。との脅迫状が、アヌさまに届いたご様子!」
「な、なんと、恐ろしい……」
 ネルガルは、目を見開いた。
「あのエレシュキガルが、そんな心変わりをするとは…… いや、あの優しげな顔の下に、恐ろしい本性を隠していたのか」

 ち、違うんだネルガル。誤解だよ。エレシュキガルは、おまえを思うあまり、そんな心にもない脅しを使うことを、つい許してしまっただけなんだよ。

 と、助言してくれる者もなく、ネルガルは、一気にエレシュキガルへの想いが消え、かえって憎悪の念が膨らんでしまった。

「許せん。わたしをダマしていたんだな、あの女!」
 ネルガルは、剣をとって、一目散に冥界に降りていった。七つの門が開かれるのを待つなんてことはしなかった。ぜんぶ、打ち壊しながら進む。

「エレシュキガル!」
 ネルガルは、ついに彼女の前に立った。
 本当なら、感動の再会となるはずだったそれは、大きな誤解で、まったく意味の違うものになっていた。
 でも、王の椅子に座るエレシュキガルは、ネルガルの怒りを充分わかっていた。彼がひどい誤解をしているのは知らないけど、あんな脅しを使ったのだ。怒って当然。
 だから、エレシュキガルは、喜びの顔を浮かべて、彼に抱きつくことができない。王の椅子に座ったまま、その身を固めていた。
「なぜ、あんな恐ろしいことをするんだ!」
 ネルガルは、エレシュキガルの近くに寄ると、怒りのあまり、彼女の髪をつかんで、王座から引きずり下ろした。
「なぜだ! わたしの知っているエレシュキガルは、もういないのか!」
 ネルガルは、床にうなだれるエレシュキガルを激しく詰問する。

 すると。

 エレシュキガルの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「許して……」
 小さく、震える声。
「どうか、このバカな女を許してください……」
「なに?」
 ネルガルは、自分の知っている美しく優しい、そしてどこか悲しげなエレシュキガルと、少しも変わらぬ彼女を見て、怒りの炎が急速に消えて行くのを感じた。
 エレシュキガルは、顔を上げてネルガルを見上げた。
「あなたにお会いしたいばかりに、恐ろしい言葉を使ってしまいました。でも…… ああ、恐れていたとおり、あなたに嫌われてしまった」
 これでやっとネルガルも、自分がでっかい誤解をしていることに気づく。
「まさか、ぼくをもう一度冥界によこすための作戦だったのか?」
「はい……」
 エレシュキガルは、うなだれたままうなずく。
「許してください…… どうか、どうか、わたしを嫌わないで。この愚かな女を……」
「ああ、エレシュキガル!」
 ネルガルは、剣を投げ棄てた。
「許しを乞うのは、ぼくの方だ!」
 ネルガルは、うずくまっているエレシュキガルを抱きしめた。
「なんということだ! きみのことをほんの一瞬でも疑った自分が許せない!」
「ネルガル」
 エレシュキガルは、ネルガルの力強い抱擁に包まれながら、震えた声で言った。
「わたしを、許していただけるのですか?」
 するとネルガルは、笑顔を浮かべて言った。
「いいや、許さないぞ。つぎは、アヌさまにこう言うんだ。ネルガルを永遠に冥界に留まらせなければ、死者を蘇らすとね」
 エレシュキガルの顔から、悲しみの表情が吹き飛んだ。そして、その瞳から、悲しみではない、喜びの涙が溢れ出た。
「ああ、ネルガル…… やっと、やっと、望みがかなった。愛しています。どうか、わたしをあなたの妻にしてください。この冥界の王になってください」
「いいとも」
 ネルガルは、エレシュキガルの美しい髪を撫でる。
「ともに、この大地で生きて行こう。永遠に」
 二人は抱き合い、何ヶ月ぶりかの、熱い熱いキスをしたのでした。

 こうして、ネルガルはエレシュキガルの夫になり、彼女の持つ知恵の書を与えられ、冥界の王になったのでした。
 子供のころから、幸せとは無縁だったエレシュキガル。でも最後に、でっかい幸せを手に入れました。いまも冥界で、優しい夫とラブラブに暮らしているそうです。

 本当に終わり。

 ふう、終わった。いかがでした? これが「ネルガルとエレシュキガル」というお話です。正確には、アッカド語版ならぬ、「TERU版、ネルガルとエレシュキガル」ですが、一応、大筋とラストは変えてません。そう。ハッピーエンドなんですよ。

 さて。最後に、ぼくが脚色をしてしまった部分を指摘しておきましょう。正確な(といっても、版や訳者によって、変わっちゃうんだけど)筋書きを書いておきますね。興醒めしたくない方は、以下の文は読まないでください。

 まず、ネルガルが冥界に降りて行く(最初の)ところまでは、だいたい正しい。ですがナムタルが、ネルガルにパンを食べさせようとしたりして、陥れようとしますが、じつはこれ、ナムタルではなく、エレシュキガルご本人がやったこと。
 つぎに、沐浴のところで、ネルガルはエレシュキガルの魅力の虜になりますが、これもエレシュキガルが、自分から、ちらりと身体を見せて誘ったんですよ。彼女がどうしてこういう行動をとったのか、ぼくには謎です。そうする必然性が彼女にはない。
 で、一週間の情事ののち、ネルガルは天界に帰りますが、ここでエレシュキガルが嘆き悲しむのは本当です。わんわん泣く。でも、「死者を蘇らせる」という脅しを思いついたのはエレシュキガルご本人。
 一方、ネルガルですが、じつはこいつ、冥界に戻りたくなくて逃げ回ってる。けっきょく見つかって冥界に行くんだけど、エレシュキガルを殺すつもりで行ったんですよ。彼女を王座から引きずり下ろすところなんか、ひどいもんだよ。だって、薄ら笑いを浮かべてたっていうんだから。髪も乱暴に引っ張って、彼女を平伏させたみたい。ひどい男だ。でも、エレシュキガルに例の「わたしを妻にしてください」って告白されて、「それがおまえの望みか!」なんて、偉そうに言いやがって、まあ、一応、彼女を受け入れて冥界の王になったと。そんなお話です。

 どうもね。原典からだと、登場人物の心の動きがわからないし、そもそも、心理描写がないから、動機がわからない。ネルガルは、なんでナムタルを侮辱したの? エレシュキガルは、なんでネルガルを誘惑したの? ネルガルはなんで、エレシュキガルを許したの? と、もう謎だらけなんで、ぼくが、ぼくなりの答えを出したのが、このエッセイです。原典とはずいぶん違いますが、もしかしたら、このエッセイに書かれている内容が正しいかもね。そんなまさか? いやいや、意外とわかりませんよ。

 では。これでメソポタミアの神話の紹介は終わりです。お疲れさま!


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