その美女の謎

 感想掲示板で、ブラッド・ピット主演の映画「トロイ」を観た女性から、トロイについてのエッセイを書いてほしいと要望があった。みなさんもよくご存じだと思うけど、ぼくは、そのような要望を拒んだことはないし、しかも、ぼくが得意とするところのギリシア神話なのだから、答えは決まっていた。

 ところで……

 少し前、彼女と映画を観にいったときのことだが(ここんとこ、エッセイの前書きで私生活を暴露し続けている気がするな)、映画のはじまる前に、ブラッド・ピット主演の「トロイ」と、俳優の名前は知らないが「キング・アーサー」という映画の、予告編をやっていた。

 正直いって、「トロイ」には、あまり興味を持てなかった。ストーリーうんぬんではなく、どうもその、男の肉体美を見せつけられる映画は、好きじゃないみたいだ。その点、「キング・アーサー」には、大いに興味を持った。主演の男優はだれだか知らないが、ヒロインであるだろうはずのギニヴィア役が、ぼくの好きな女優だったからだ。(彼女がヘレネ役だったら、おそらくトロイの方に興味を持っただろう)

 そのとき観た「レディー・キラーズ」という映画は、期待したほどおもしろくなかったので、ぼくは早速、つぎは「キング・アーサー」が見たいね。と彼女にいってみた。

 ところが……

 彼女は、まるで興味を見せなかったのだ。そこでぼくは、一計を案じた。このエッセイでやるように、アーサー王物語を、おもしろおかしく、しかし最後に訪れる悲劇は情緒豊かに語ってみたのだ。

 作戦は成功した。

 彼女は、がぜん「キング・アーサー」に興味を持って、観に行くことによろこんで同意したのだ。

 このことは、ぼくに少しばかり自信をつけさせる。だから、今回書こうとしているトロイについても、同じ才能が発揮されることを祈ろう。

 では、よろしいかな? トロイのお話をはじめますぞ。

 そもそも、トロイが有名になったのは、ホメロスという古代ギリシアのオッサンが「イリアス」と「オデュッセイア」という物語を作ったからだ。

 イリアスには、トロイ戦争が十年目を迎えたころ、ある事件で激怒したアキレウスが、戦争に再び参加するところから、好敵手であったヘクトルが死ぬところまでの、約二カ月間が描かれている。オデュッセイアは、トロイ戦争で活躍した、オデュッセウスの、その後の放浪物語だ。(トロイ戦争のその後と結末は、ホメロスではない作者の、べつの物語に描かれている)

 ところで、ホメロスというオッサンの正体はよくわかっていない。まあ、たぶん吟遊詩人だったのだろう。彼は、古いギリシア神話をうまいこと編集して、壮大な物語に仕上げたわけだ。その才能は、天才的。人類最古の神話作家といえる。(伝説をうまく編集したという意味で)

 そのホメロスがイリアスを作ったのは、紀元前8世紀ごろのことだと思う。そのイリアスで語られるトロイ戦争は、紀元前12世紀ごろのことだろうと思われるので、ホメロスの時代でも、すでにそれらは「伝説」だった。だから、ホメロスは、いくらでも自由に脚色できたことだろう。

 ああ、ちょっと余談だけど、ホメロスの叙事詩をなんで「イリアス」と呼ぶかというと、当時、トロイは「イリオス」と呼ばれる都市国家だった。イリアスとは、「イリオスの物語」って意味なんだ。だから、トロイのことをイリオスと表記する文献もあるし、たいていの場合、多少とも格調高くトロイアと表記する。ぼくのエッセイは格調高くないので、もっとも一般的な「トロイ」で今後も統一するね。

 さて。その後、イリアスは、紀元前6世紀ごろのアテネで文字にされ(ホメロスは吟遊詩人なので、文字にはしなかったのだよ)、さらに紀元前2世紀ごろ、アレキサンドリアで編集されて、いま、われわれが目にするような形になったといわれている。

 そして、時代はずっと現代に近づき、1822年のある日、ドイツのノイブコーという町に、ハインリッヒ・シュリーマンという男が生まれてしまった。このオッサン、貧しい牧師の家に生まれたのだが、8才のクリスマスのとき、父親から「子供のための世界史」という本をプレゼントされた。その本に、トロイのことが書かれていたのだ。

 これが悲劇のはじまりだった。

 シュリーマンは、トロイ戦争は、じっさいにあったことだと思い込んでしまった。これだけ生き生きと描写された物語が、虚構であるはずがないと。なんたる単細胞か!

 単純ではあるが、恐るべき熱意にかられたシュリーマンは、語学の才能を生かしつつ、商人として成功し、かなりの金持ちになってから、その財力を使って、トロイ遺跡の発掘に乗り出してしまった。この辺のくだりは、ほとんどの一般的な文献で(専門書はのぞく)シュリーマンを美化して書いているので、みなさんもシュリーマンを偉大な人物と思っているだろう。

 ふつう、シュリーマンのような企ては失敗するし、失敗してほしかった。

 ところが、不幸にもシュリーマンは成功してしまった。イスタンブールから、ちょいと南下したあたりで、遺跡を見つけてしまったのだ。

 なんで、その場所を掘ったかというと、アキレウスがヘクトルを追い回すには好都合な場所に見えたし(この物語は、あとで紹介するね)、イリアスには、スカマンドロス河っていうのが書かれていて、そこは、それらしい川の近くだったんだ。

 ここっきゃない! と、シュリーマンは思ったわけだ。すると、出てきちゃいましたよ。遺跡が……

 シュリーマンは、出てきた城壁をみて、ここが伝説のトロイに違いないと、いよいよ確信した。じっさい宝も出てきた。さっきも書いたとおり、イリアスに書かれた地形に似ているから、そこがトロイである可能性は、充分にあることはある。

 ところが、その遺跡は、9つもの層になっていた。どういうことかというと、ある都市が栄え、それが滅亡したあとに、べつの都市が造られ、さらに同じことが繰り返されて、いくつもの年代の都市が折り重なっていたのだ。

 シュリーマンがトロイだと確信したのは、第2の都市だった。ところが、後になってわかったことだが、そこは紀元前2500年ごろのもので、トロイではなさそうなのだ。いま現在は、7層A(Bもあるのだ)の都市がトロイだと思われているのだが……

 シュリーマンは、そんなことを知らなかった。彼は考古学者的な活動をした人物ではあるが、それ以前にイリアスという夢物語の大ファンだったから、自分がトロイだと信じたもの以外に、あまり興味はなく、第2層より上の層(現在トロイだと思われている、7層Aも当然含まれる)を、がんがん破壊しながら掘り進んだ。なにしろ7層Aは、シュリーマンから見れば、貧弱で、どうでもいい遺跡だったのだ。

 そう。彼は破壊したのだ! 貴重な遺跡を!

 だからぼくは、シュリーマンを考古学者と紹介することに(広辞苑をひいてみたまえ。彼のことを考古学者といっている)、断固として反対する。まったくの素人が、神話を信じて遺跡を発見するという快挙には、渋々ながら拍手を送らざるを得ないかもしれないが、彼は商人として、裕福で幸せな人生だけに満足するべきだった。

 まあ、シュリーマンは、悪意を持って遺跡を破壊したわけではないという人もいるだろう。彼は考古学の素人で、正しい発掘方法を知らなかっただけだと。それを批判するよりも、神話や伝説から史実を読み取る手法を採用した功績を讃えるべきだと。

 そうかもしれない。ぼくの意見はおそらく辛辣すぎるのだろう。それでも、失われた過去の記憶は、二度と蘇りはしないのだと申し上げておきたい。ドラえもんがタイムマシンを出してくれないかぎり。

 というわけで、トロイの遺跡と思われるモノを発見した、その人物自身の手によって、トロイ遺跡は破壊されたかもしれず、当然ながら、詳しい研究は進んでいない。

 さらに、シュリーマンは、発掘した数々の出土品をドイツに持ち帰った。それらは、第二次世界大戦の空襲で消失した(それはシュリーマンの責任ではないが)。一部はロシアの美術館で発見されたけれども、シュリーマンが発掘した出土品のほとんどは、もうこの世にはないのだよ。

 ああ……なんという悲劇。

 シュリーマンがいなければ、トロイ遺跡は、いまも発見されていなかったかもしれない。しかし、破壊されてもいなかっただろう。現代の本当の考古学者ならば(出土品をねつ造する人もいるが)、もっと慎重に発掘しただろうに……

 だから、トロイの木馬なんてものは発掘されていないし、そこで十年にも及ぶギリシアとの戦争があったという記録も発見されていない。

 ハッキリいうと、トロイ遺跡だとわれわれが思っている場所は、イリアスに描かれたトロイとは無関係な都市かもしれない。(しかし、シュリーマンのアプローチは、それまでにないモノだったので、トロイ遺跡といわれる場所は、一応、世界遺産になっている)

 というわけで、トロイについて、その「歴史」を語ることはできない。史実が存在しないので語りようがないんだ。それは現代でも伝説のままであり、そして神話なのだ。ブラピ主演の映画は見ていないが、映画の紹介ページを見るかぎり、神様の出てこない人間ドラマになっているらしい。しかし、それは史実をもとにした物語では断じてない。神話をもとに、ハリウッドの脚本家が勝手に作った物語だ。

 といった背景がわかったところで、その神話を語ろう!

 その前に、いつものとおりのお断り。これから紹介するのは神話であるので、当然ながら、いろんな解釈が存在する。ぼくの書く神話エッセイは、その中からもっとも好きな解釈(あるいは逸話)をつなぎ合わせるのが常だから、みなさんがご存じの物語とは、少し違うところがあるかもしれない。

 さらに、人物の名前にしても、みなさんがよく耳にする(あるは目にする)表記とは違うかもしれない。たとえば、ヘレネは、ヘレンと表記する人もいるだろう。それはそれで間違いではない。そのことを充分に承知した上で読んでくださいね。

 ってことで、話を続けよう。

 そもそもの発端からして、さまざまな説があるのだけど、ぼくの一番好きな話は、テティスがペレウスに恋をするところからはじまる物語だ。

 こういうことなんだよ。

 ネレウスとドリスという神様は、たくさん娘がいるんだけど、その中でもテティスが一番美しかった。だから、ポセイドンは彼女に恋をしちゃった。テティスはポセイドンのことが好きじゃなかったから、ずっと逃げ回っていたんだけど、事態は、まったく予想しない方向で解決した。

 なんと、テティスが生む子供は、「父よりも優れたものになるであろう!」という予言があったんだ。

 それを知ったポセイドンは焦った。ヤバイじゃん。諦めよう。自分よりすごい子供を生まれちゃたまらんぜ。

 ってわけで、テティスはポセイドンの魔の手から逃れた。よかったよかった。そのテティスさんには、じつは好きな男がいたのだよ。

 彼の名はペレウス。当時、とっても勇敢な英雄と有名だったけど、彼には一つ困ったことがあった。彼は人間だったのだ。

 神様たちはビックリした。女神が人間に恋をしたですって! マジですか?

 マジなんです。テティスは、驚く神様たちを無視して、人間と結婚すことを宣言した。ここで本来なら、あの好色一代男(だれだ、いまどこかの小説サイトの管理人を思い浮かべたのは?)、そう、ゼウスのオッサンが黙っているわけはない。美しい女神が、人間と結婚するなんて許せーん!

 でも許す。

 ガクッと、腰が砕けそうだけど、ゼウスは、あっさりとテティスの結婚を許した。だって、彼女が男神と結婚したら、必ずその男神よりも優れた神様が生まれちゃうわけで、それはゼウスにも困ったことなのだ。一番恐ろしいのは、自分がテティスと浮気して子供を作っちゃうこと。そうしたら、生まれてくる子供は、ゼウス以上の神様なのだから。だから、ゼウスは絶対にテティスにだけは手が出せないのだ。

 ゼウスは、バカでマヌケで、おまけに性格破綻者だけど、かなりズル賢い。テティスが人間と結婚すれば安心じゃん。ってわけで、テティスとペレウスは、ゼウスに許されて、めでたく結婚できることになった。

 一説には、テティスが男神と結婚されるのを恐れたゼウスが、強引にテティスを人間と結婚させようとしたってのもあるけど、ぼくは、その説は嫌いだ。テティスが人間に恋をした物語の方が、ずっとロマンチックだもんね。

 テティスとペレウスの結婚式は、盛大に行われた。ところがだ。以前、ヘラのエッセイでも書いたけど、争いと不和の神エリスだけは招待されなかった。当たり前だ。だれが結婚式に不和の神を招待しようと思う?

 でもまあ、そこは不和の神様。招待されなかったらされなかったで、きっちり、おとしまえをつけてくれた。結婚式の会場に、黄金(不和)のリンゴを投げ入れたんだ。そのリンゴには、こう書かれていた。

「もっとも美しい女神様へ」

 当然ながら、そのリンゴには、三つの手が伸びた。彼女たちの名は、ヘラ、アテネ、アフロディーテ。いうまでもなく、自分の美貌に自信満々のみなさんだ。ぼくはヘラ姉さんが、もっとも美しいと思っているけど、そんなことを、アテネとアフロディーテが認めるわけがない。

 そこで、彼女たちは、ゼウスに審判を求めた。

「なにーっ! わしに決めろってか? 冗談でしょ?」

 さすがのゼウスも腰が引けた。自分の奥さんを選べばいいじゃんかと、ふつうは思うわけだけど、このオッサン、アテネには負い目があるし、アフロディーテとは浮気の真っ最中だったりして、どうにもこうにも決められない。

 そこでゼウスは考えた。このオッサンがなにか考えるとろくなことがないわけだけど、今回は、まさしくろくでもないことになった。

 まあそれはともかく、なにを考えたかというと、トロイの王子、パリスに判定してもらえばいいじゃんと、考えた。なんでパリスなんだかしらないけど。

 当然ながら、呼び出されたパリスも決められない。女神たちは、そんなパリスにささやきます。

 まずヘラ姉さん。

「ねえパリス。わたしを選んでくれたら、権力と富を約束するわよ」

 つぎにアテネさん。

「パリス。わたしを選びなさい。そうすれば、戦場での名声を約束しよう」

 最後にアフロディーテ。

「パリスぅ~。あたしを選んでくれたら、いいものをあげるわ。なんだと思う? うふふふ。人間に中でね、一番きれいな女を、あなたの妻にしてあげる。どう?」

 パリスが選んだのはアフロディーテの提案だった。これが有名な「パリスの審判」だ。なにが審判だかね。ただアフロディーテの賄賂が気に入っただけじゃんかよ。

 さて。ここで時間を少し巻き戻して、人間界のことについて話そう。

 上でアフロディーテがいった、人間の中で一番美し女性とは、ずばりスパルタのヘレネのことなんだけど、とにかく彼女は美しかったので、求婚者が引きも切らずで、えらい大騒ぎになっていた。

 しかしだ。

 どうもヘレネは美しすぎる。その美しさは人間離れしてるんだよね。だから彼女は人間と神様のハーフなんじゃないと思われるフシがある。ねえ、そう思うよねゼウスさん?

「こら。なぜ、わしの名を出す」

 だって、あんた以外にいないじゃんか。人間だろうが女神だろうが、見境なくレイプして子ども生ませるような性格破綻の犯罪者は。

「バカタレ! 神様に対して、なんちゅーことをいうんじゃ! だいたい、わしだけじゃなく、ほかの男神もやっとるわい!」

 まあ、それはそうだけどさ。ネタは上がってるんだよゼウス。あんた、スパルタの王妃と浮気するために、白鳥の姿になったんだって?

「ギクッ……き、記憶にないな」

 あ、そう。じゃヘラ姉さんにチクっちゃおうかな。

「すいません。わしがやりました」

 ふん。最初から素直にゲロしてりゃいいものを。で? 具体的にはどういうふうに犯行に及んだんだ?

「はい、ダンナ。おっしゃるとおり、レダのところに、白鳥の姿になって行きまして、そのまんま、その、まあ、いいことやりましてね。そしたら、レダが卵を生んだんですよ。まあ、わしが白鳥でしたからね。でもって、その卵からヘレネが生まれたって寸法でさあ」

 ひでえ話だなあ。白鳥の姿でやったのかよ? で、卵を産ませたと。おまえ人間じゃねえな。

「はい。神様です」

 ああ、そうか……って、納得すると思うか? 神様のくせに、そういう態度でいいのかよ。いいかげん反省してヘラ姉さんを安心させてやったらどうだ。ん?

「はい……ダンナ。すいません。女房には苦労ばっかりかけて……こら! 待て、なんでわしが人間に頭を下げなきゃイカンのじゃ!」

 あのな。あんたのせいで、いったい、何人の人間が死んだと思ってるんだ。

「ふん。人間なんぞ、何匹死んだってかまうもんか」

 何匹って……匹かよ、人間は。

「そうじゃ。人間なんぞゴキブリと変わらん」

 う、うーむ。どこかの低能ナンバー1の大統領と、どこかの糞ったれナンバー2の大統領を見てると、思わずうなずきたくなる発言だが、性格破綻者の神様にいわれたくないね。

 というわけで、ゼウスのバカ親父のせいで、絶世の美女として生まれてしまったヘレネ。彼女には、過酷で悲劇的な運命が待っているのだった。

 と、いいたいところだけど……

 ここで、ぼくの神話エッセイをいままでお読みの方なら、なぜそれほどの美女の話を、いままで書かなかったんだ? と疑問に思われるかもしれない。じつは、理由があるのだ。ヘレネを書けなかった理由が。

 なんて、もったいぶっていうほどのことでもない。その理由は単純。神話には(具体的にはイリアスだが)、ヘレネがどんな人物なのか、具体的に書かれていないのだ。もちろん、絶世の美女とは書いてある。でも、どういう性格で、なにを考え、どんな意志を持っていた女性なのか書かれていない。ハッキリいって、ただトロイ戦争を引き起こす理由のためだけに用意された、とくに人格とかは設定されていない人形みたいなもんだ。だから、このエッセイのタイトルは「その美女の謎」とした。そう。ヘレネは謎なんだ。

 ぼくの想像ではあるが、たぶん、ヘレネという女性は、ホメロス先生がイリアスを作る題材にした、それまでの神話にはいなかった人物ではないかと思う。

 壮大ではあるがバカバカしく、勇猛ではあるが呆れるほど単純で、悲劇ではあるが恥ずかしいほどくだらない「トロイ戦争」という題材を、少しでも盛り上げるために作り出したキャラではないだろうか?

 ホメロスは、バカバカしいとも、単純だとも、恥ずかしいとも思わず、嬉々としてイリアスを作ったはずだが、どこかの大統領以外の、マトモな現代人の感覚からすれば、トロイ戦争はバカの集まりとしか思えない。だからこそ、現代の戦争にも当てはまりそうなリアルさがあって(戦争とはいつの世もバカバカしいことか!)、けっこう悲しくなるのだけど……

 失礼。話がそれた。

 たしかに、イリアスを作ったホメロスは偉大だと思う。天才だとも思う。お話を盛り上げるという意味で、ヘレネはうまいキャラだ。しかしですね、オデュッセイアを読んでも思ったが、どうも、ホメロス先生の、女性の描き方は淡白だ。そのなかでも、とくにヘレネに関しては、これほど重要な役なのに、おざなりな印象を受ける。

 だから、ぼくのエッセイではもちろん、ほかの人(プロの著作家たち)のギリシア神話に関する著作も、ホメロス先生の描く女性については、けっこう主観や想像で補わなければいけない苦労がある。ヘレネについては、とくにその傾向が強い。

 マジで、みんな苦労してると思うよ、ヘレネの描写は。そういうわけで、彼女に関しては統一的見解というものがない。ときに、運命に翻弄された悲劇の女であり、ときに、ただのワガママ娘であり、ときには悪女ですらある。もっというと、ヘレネを題材にした物語自体が少ない気がしてならない。これほどの過酷な運命に弄ばれ、これほどの美女なのにだ。みんな、ヘレネには感情移入できないせいか、書きたがらないんじゃないかと思われる。

 では、ぼくはヘレネをどう描写するべきか?

 これは悩んだ。そこで、この物語に登場する、もうひとりの美女の立場に立って、ヘレネを見つめてみることにした。その女性は、女性に淡白なホメロス先生とはいえ、わりと想像しやすい描写がなされているからね。

 彼女の名は、アンドロマケ。この人こそ、運命にもてあそばれた女性だ。イリアスのクライマックスで、アキレウスに殺される、ヘクトルの奥さんだから、彼女にとってヘレネは、愛する夫が殺された元凶でしかない。となれば、ぼくのギリシア神話エッセイでは、ついに美女を、本当の悪女として扱うことになるかもしれない。どうなることやら……

 では、物語の続きに戻りますぞ。みなさん、心してお読みいただきたい。

 ヘレネは、たしかに美女であった。しかし、その美貌はゼウスという悪の権化から与えられたものなので、当然のごとく悪魔的だ。彼女は魔法使いではないが、その美貌がじつは、魔法なのだ。男を狂わせるという。

 だから、狂った男たちが、わんさかとスパルタにやってきた。みんな、彼女を自分の妻にと欲した。そのなかには、かの有名なオデュッセウスもいた。

 さすがにオデュッセウスは腹黒い策士なので、集まった者たちの前で、スパルタの王、つまりヘレネの育ての父に対して、ひとつの提案をした。

「お集まりのみなさん。どうだろう。われわれが争っても無益なだけだ。ここはヘレネのお父さんである、テュンダレオス王に決めてもらおうではないか。そして、だれも王の決定に逆らわないと誓おう。さらに、ヘレネを、その夫から奪おうとするヤツが現れたら、われわれが一致団結して戦おうではないか」

 スパルタの王さまテュンダレオスは、オデュッセウスの提案を、これ幸とばかりに受け入れた。なにしろ、集まってきたのは、それぞれ有力な都市国家の王さまばかり。だれを選んでも、いがみ合いがはじまって、下手をすれば戦争にまで発展しかねない勢いだったからだ。

 一説には、ヘレネ自身に夫を選ばせたというのもあるけど、まあ、当時の風習を思えば、王である父親が娘の配偶者を決める方が自然だろうね。

 というわけで、テュンダレオスが選んだのは、メネラオスという、わりと平凡な男だった。オデュッセウスは大ショックだ。自分が選ばれる自信があったからこその提案だったのに、まったく鼻にもかけてもらえなかった。

 しかし、自分で提案したことなのだから、こんちくしょうと、メネラオスをぶっ殺すわけにもいかない。オデュッセウスは、泣く泣く引き下がった。じつは、集まった者の中で、オデュッセウスが最大の実力者だったから、ほかのものも、やはり泣く泣く引き下がった。

 こうして、ヘレネの夫選びは、平和に解決した。メネラオスは、そのままスパルタの後継者となり、ヘレネと幸せに暮らして、男の子も生まれた。

 おそらくヘレネは、父親に感謝するべきだろう。テュンダレオスは、人を見る目があった。ヘレネが自分で選んでいたら、顔がいいとか優しいとか、そんな理由ぐらいで夫を選んだだろう。たしかに、メネラオスは、ほかの英雄たち(とくにオデュッセウス)に比べると見劣りする。ところがだ、実際はじつに堅実で正義感が強く、しかも兄貴肌で部下を大切にするナイスガイだったんだ。ヘレネは、そんな優しくて頼りになる夫のおかげで、本当に幸せな日々を送った。

 そんなとき……

 さっき話した、黄金のリンゴ事件が、神々の国では起こっていたのだ!

 アフロディーテに、ヘレネを与えると約束してもらったパリスは、奥さんのオイノネをさっさと捨てて、スパルタに出かけていって、ヘレネを誘拐してしまう。というか、ヘレネが、ほいほいと、パリスについていってしまったというべきか。

 これにも諸説あるけど、パリスを見たヘレネは、一発で彼に恋をしてしまったというのが有力だ。

 この説は支持しよう。だって、アフロディーテには、エロスという息子がいる。ご存じのとおり、愛の弓矢を持つ息子さんだ。そう。エロスの弓にいられたものは、恋の魔法にかかってしまうのだよ。アフロディーテが、エロスに命じて、ヘレネがパリスに恋をするように仕向けても不思議じゃない。イリアスに、そんな描写はないけど(苦笑)。

 というわけで、ヘレネは、夫も子供も捨てて、パリスと一緒にトロイにいってしまう。

 これには、さすがに温厚なメネラオスも怒り狂った。パリスに対して、何度も何度もヘレネを返すように迫った。

 ここで、そのトロイ側に視点を変えよう。

 パリスはトロイの王子だ。でも王位継承権第一位ではない。なにしろ、彼には兄弟が40人以上いたんだ。だから、王子なのに羊飼いをして生計を立ててたというんだから、なんとも泣かせる話じゃないか。

 いやじつはね、パリスは生まれるとき、「この野郎は、将来国を滅ぼしますぜ」と予言されちゃったもんだから、ポイと捨てられた。それを哀れに思った羊飼いが、自分の子として育てたんだ。だから彼も羊飼になった。で、成長して大人になると、王家で開かれた弓の競技に参加して優勝しちゃった。王女のカサンドラが、あら、この子ってば王族じゃないと気づいて、パリスはめでたく王子さまになりましたとさ。ぜんぜん、めでたくない結末が待っているんだが(苦笑)。しかし、ゼウスも、なんでこんな男に、黄金のリンゴ事件で審判をやらせたかねえ?

 だいたい、トロイ人も変だよ。こんなことで、戦争するかふつう? 暴れるパリスをふんじばって、騒ぐパリスの口に猿ぐつわでもして、ヘレネを返した方が得策じゃないか。

 ところが、そうはならなかった。思い出してほしい。ヘレネには、ゼウスという悪魔から授かった、悪魔の美貌があることを。彼女の美貌は、男を狂わせるのだ。だから、パリスの兄弟たちは、みーんなヘレネに恋をしてしまって、だれもヘレネを返そうとはしなかった。(まあ、たとえそうでなくても、戦争の理由なんてバカバカしいほど単純でもよいのかもしれないが)

 いや……じつは、一人だけ例外がいた。

 彼の名は、ヘクトル。パリスのお兄さんだ。この人こそ、王位継承第一位。彼だけは、ヘレネの美貌に、まったく惑わされなかった。彼だけが、ヘレネをスパルタに返すべきだと主張した。彼だけが、他国の王妃をさらってくるなんて、信じられない犯罪だと主張した。これは、ぼくの誇張ではない。ちゃんと彼は、そのような意味の発言をしている。

 いったい、ヘクトルはなぜ、悪魔の美貌に惑わされなかったのだろうか?

 もちろん、もともと誠実で正義感が強い立派な人格者であったからだけど、彼には、すばらしい奥さんがいた。そう。アンドロマケだ。ぼくの中で彼女は、ヘレネにも負けない美人なのだけど、残念ながら、ヘレネより美人なわけはない。

 でも、顔なんか関係ない。ヘクトルは愛していたのだよ、アンドロマケを。本当に深く愛していた。男は浮気して当たり前、外に妾を作るのが当然。と考えられていたミケーネ時代にあって(ああ、いい忘れてたけど、トロイ戦争の時代は、古代ギリシアと呼ばれる時代より、一世代前なのだ)、ヘクトルは例外的といっていい。

 そんなヘクトルだから、ヘレネの美貌を見ても、なんとも思わなかった。うちに帰れば愛する優しい奥さんが、エプロンして待ってるもんね。おいしい夕飯なんか作っちゃったりしてさ。ヘレネなんか、アウト・オブ・眼中だぜ。

 しかし、そんなステキな奥さんを持つナイスガイでも、トロイの王(ヘクトルの父親)と兄弟たちを説き伏せることができなかった。

 あ、ヘクトルの親父さん、トロイの王は「プリアモス」っていうんだけど、この人の名はイリアスの後半で出てくるから、ちょっと覚えといてね。

 では、こんどはスパルタに戻ろう。

 みなさん、オデュッセウスが提案した「誓い」を覚えておいでだろうか。ヘレネに求婚した彼ら英雄たちは、ヘレネとメネラオス夫婦に危機が訪れたとき、どこにいようとも駆けつけて、彼らを助ける誓いを交わしていた。

 いまが、まさにそうではないか!

 ところで、オデュッセウスについて、ちょっとだけ語りたいのだけど、誤解を恐れずにいうならば、彼はギリシア神話における、ロキのような存在だ。ロキは、肉体だけに頼る筋肉バカの集まりである北欧神話で、唯一といっていい知性派だった。力よりかは知性で困難に立ち向かった。オデュッセウスもそうなんだよ。

 ギリシア神話は、北欧神話に比べれば、ずっと複雑で抑揚に富む物語だけど、それでも英雄たちは、現代の感覚からすれば、充分に筋肉バカだった。あとで説明するアキレウスしかり、さっきからほめているヘクトルも、基本的にはそうだ。

 ところが、オデュッセウスは違う。この人物は非常に複雑で、高貴で勇猛なのだけど仲間を裏切るような残忍なところもあった。「イリアス」と「オデュッセイア」に描かれた彼だけが、オデュッセウスの姿ではないんだ。彼の性格を知る手がかりは、ホメロスの作品以外に多く残っていたりする。

 となれば、ぼくがオデュッセウスびいきなのは、容易に想像がつくと思う。だから「愛しい人」と題するエッセイで、オデュッセウスに一章を捧げているわけだ。

 さて、そんなわけでヘレネ誘拐の報を受けた英雄たちは、ぞくぞくとスパルタに結集した。もともとの提案者であるオデュッセウスは、われ先にスパルタに駆けつけた……

 といいたいところだけど、そうじゃない。

 オデュッセウスは、もしトロイと戦争を始めたら、二十年間は帰ってこれず、しかも帰ってきたときには、ただの貧乏な男に成り下がっているだろうという予言を受けていたのだよ。

「マジかよ! 冗談じゃねえよ!」

 と、オデュッセウスは思った。べつにぼくが誇張しているわけじゃない。本当にオデュッセウスはそう思ったもんだから、パラメディウスという、オデュッセウスにも匹敵するといわれる優れた武将と、メネラオスの兄さんであるアガメムノンがオデュッセウスを迎えにきたとき、彼は気が狂ったふりをして、徴兵を免れようとした。

 迎えにきたのが、バカとマヌケを探すのに苦労しないトロイ戦争にあって、筆頭バカといってもいいアガメムノンだけなら、オデュッセウスは、だまし通せたかもしれない。しかし、パラメディウスは、そうじゃなかった。彼に演技を見破られ、けっきょく戦場に引きずり出されてしまうんだ。

 オデュッセウスは、このことを、ずーっと恨んでいて、のちに、ものすごく陰険な方法でパラメディウスに復讐をする。復讐……っていうか、八つ当たりですな。パラメディウスは、オデュッセウスの計略で業務上横領の罪をなすり付けられて、投石による死刑になっちゃうんだ。

 この逸話は、オデュッセウスの名声を、著しく傷つけるものなので、ホメロスは自分の作品では、いっさい、この事件に触れていない。

 失礼。また話がそれてきた。オデュッセウスのエッセイじゃないんだよね、今回は。

 こうして、スパルタ側は役者が揃った。当時の都市国家の長たちが集まったわけだから、いまでいえば多国籍軍ってところか。まあ、これらをまとめてギリシア軍と呼ぶことにしよう。

 じゃ戦争だ。

 ヘレネ奪回に燃えるギリシア軍の総大将は、ヘレネの夫メネラオス……ではない。彼の兄さんで、バカとマヌケを足して2で割るどころか、そのまま掛け算しちゃったようなアガメムノンが総大将。こいつ、ただのバカならまだよかったが、それだけじゃなく、冷酷な男でもあった。戦争に勝つための生贄にと、自分の娘イフィゲネイアをアルテミスの祭壇に差し上げてるんだからたいしたもんだ。

 対するトロイのほうは、かの有名なヘクトルくんが総大将。こちらも当事者パリスのお兄さんだ。ヘクトルは、さっきも少し話したけど、バカとマヌケと裏切り者を大量生産したトロイ戦争では、勇気と誠実さを併せ持った貴重な存在だ。

 古代の神話作家の先生方が狙って設定したのかどうか知らないが、ここでみなさんは、あることに気づくだろう。ギリシアとトロイでは、左右対称というか、関係が逆になっているのだ。

 つまり、ギリシアは、兄がバカで、弟は利口でいいヤツ。トロイは、兄が利口でいいヤツだけど、弟がバカ。おもしろいね。

 さて。ヘクトルは、こんな戦争をしたくなかった。バカバカしいにもほどがある。しかし、低能の集まりである兄弟たちを説得して、ヘレネをスパルタに返せなかったんだからしょうがない。戦争が回避できないのならば、トロイを守るために戦わなければならないではないか!

 奥さんのアンドロマケも、夫の複雑な心中に心を痛めた。戦いたくはない。だが戦わなければならない。彼女は、苦悩する夫を陰で支えるのが自分の使命だとも思った。じっさいアンドロマケは、夫を必死に支えた。政治に関してでしゃばることはなかったが、妻として、夫のためにできることはなんでもやった。ときに、それとなく助言し、ときに力強く励ました。献身という言葉が、もっともふさわしい女性だ。

 おかげで、ヘクトルはギリシア中から集まった英雄たちとよく戦った。

 こうしてトロイ戦争は、ベトナム戦争というかイラク戦争というか、泥沼の様相を呈することになった。十年戦っても決着がつかないんだよ。

 このとき、当事者のパリスは、どうしていたか知ってるかい? 兄のヘクトルと一緒に勇猛に戦った……わけはなく、ヘレネとベッドの上で楽しいことをやっていた。パリスは弓の腕だけはよかったけど、ただそれだけ。女の子とイチャイチャしてるほうが、ずっと好きだったんだ。

 ヘレネの方はどうだろう? 自分がパリスに、ほいほいついてきたせいで、ギリシア軍とトロイ軍に、戦死者が山のように積み重なっていくのを見てどう思っただろうか? もちろん、自分の罪深さに心を痛め……るわけもなく、やっぱりパリスとベッドの上で楽しいことをやるのに忙しかった。

「うーむ。マズイ」

 と、オデュッセウスは思った。このままでは、戦争が終わらん。ここはひとつ、ギリシアでもっとも勇猛な英雄に参戦してもらうしかない。そう考えた。

 その英雄とは……

 そう、かの有名なアホの大将アキレウスくんだ。少し時間を巻き戻して、そもそも、トロイ戦争が起こる原因となった、黄金のリンゴ事件を思い出してほしい。この事件は、テティスとペレウスの結婚式で起きた。

 じつは、アキレウスくん、そのテティスさんの息子なのだよ。テティスさんは女神様だから、アキレウスくんは、神様と人間のハーフ。

 でも、人間の血が混じっているから不死身じゃない。そこで母のテティスさん、アキレウスが子供のころに、冥府を流れるステュクス川に連れて行き、アキレス腱のあたりを持って宙づりにし、その川の水に浸した。この水に浸かると不死身になるんだ。でもアキレス腱のところは水につけなかった。だからアキレウスの弱点はアキレス腱だ。

 それはそれとして、アキレス腱以外は不死身だから、アキレウスくんは、どんなに無茶をしても死ななかった。これで筋肉バカにならない方がおかしい。だからアキレウスは、筋肉バカになった。

 オデュッセウスは、そのアキレウスをトロイ戦争に参戦させようとしたのだけど、テティスさんが許さなかった。なぜなら、トロイ戦争にいけば死んじゃうという予言があったんだよ。かわいいかわいい息子が死んじゃったら困るので、テティスさんは、アキレウスをスキュロス島に送り、女装させてオデュッセウスから隠した。

 筋肉バカのアキレウスくんの女装した姿……うーむ。思わずブラピの女装を思い浮かべて気持ちが悪くなるけど、まあ、彼は美男子だったので、女装も似合ったのだろう。

 ちなみに、女装してオデュッセウスから隠れてるくせに、やるこたぁ、ちゃんとやってて、スキュロスの王さま、リュコメデスの娘、デイダメイアさんといい仲になり、ネオプトレモスって子供まで作っちゃった。テティスさん、おばあちゃんになっちゃったのね。

 しかし、オデュッセウスはバカじゃない。アキレウスが女装してるという情報を得た彼は、商人に化けて(この人、変装の名人でもあるんだよ)スキュロス島に潜入し、女向けの商品にまぜて、すばらしい武器の数々も展示した。

 アキレウスは、ただのバカだから、「わぉ! すげえじゃん、この剣!」とかいって武器に手を伸ばし、オデュッセウスに見つかって、戦争に駆り出されることになった。

 と、この辺までが、ホメロスの「イリアス」につながる神話だ。そう、じつはまだイリアスは、はじまっていないのだ。

 では、いよいよ、イリアスを語ろう。

 アキレウスが参戦してからというのも、ギリシア軍は、つぎつぎにトロイの街を侵略していった。なにせ、ギリシア神話の中では、ヘラクレスに継ぐ筋肉バカのアキレウスが参戦したんだ。そりゃもう、破竹の勢いってもんよ。

 ここで、バカとマヌケを足したあとに掛け算したアガメムノンの大バカが、厄介ごとを起こした。彼は攻略したトロイの街から、女をかき集めて、自分の妾にした。そのなかにクリュセイスさんがいた。

 このクリュセイスさんは、アポロン神殿の祭司の娘で、父親はなんとか娘を取り戻そうと、膨大な身の代金を持ってアガメムノンを訪れた。ところがアガメムノンってば、すごい女好きだったもんだから、その父親を侮辱して追い返した。

 怒ったのは司祭の父親。アポロンに復讐を頼んだ。アポロンは父の願いを聞き入れてギリシア軍に疫病を流行らせた。

「こら、アガメムノン! 困るじゃないか! さっさとクリュセイスを返せ!」

 と、アキレウスが迫った。アガメムノンは、さすがに疫病でギリシア軍が全滅しちゃ困るので、渋々クリュセイスを返した。しかーし、それでは腹の虫が収まらぬ。

 アキレウスも、人のこと怒ってる割りには、自分もちゃっかりトロイの娘をかっさらって、妾にしていた。そのなかでも、とくにお気に入りはブリセイスちゃんだった。いや、ちゃんってことはないか。この人、ミュネス王の妻だったんだから。でもご安心。いまは未亡人なんだ。だって、彼女の夫を、アキレウスがぶち殺してるから(苦笑)。

 ま、これにも諸説あって、ブリセイスは未婚の女性だったという説もあるけど、アキレウスの性格からして、自分が殺した男の妻を、平気な顔してレイプしても、ぜんぜんおかしくはない。ブラピがどんな演技でアキレウスを演じたか知らないけど、こういう負の側面は、映画には登場していないだろうね。ブリセイスちゃんは、けっこう重要な役で出ているみたいだけど。

 さて、そのブリセイスちゃん。自分の妾を泣く泣く返したアガメムノンが、その腹いせに、アキレウスから、ブリセイスちゃんを奪っちゃうんだ。

「この女はオレのもんだ! なせかって? オレが総大将だからだ! 文句あっか!」

 ってなもんだ。これにアキレウスが怒った怒った。プチヘレネ事件だね。けっきょくおまえらは、どこでもかしこでも、女の奪い合いかよ。まあ、バカだからね。低能だからね。しょうがないけどね。

 で、怒ったアキレウスは、もう、戦争なんかやーめた。と、戦線から離脱。それだけならまだしも、母親に頼んで、自分が抜けたギリシア軍が負け続けるようにと頼んだ。

 このアキレウス戦線離脱事件は、アキレウスが戦士としてのプライドを著しく傷つけられた当然の結果として起こったのだと、マジメなギリシア神話の本では、もっともらしい解説がなされている。なるほど、アキレウス擁護の立場から見ればそうだろうし、アキレウスを擁護しなくても、当時の常識ではそうだったかもしれない。戦士は気位が高いのだ。

 それでも、ぼくは申し上げたい!

 ママに頼んで、気に食わないヤツをこらしめるのは、戦士のプライドを傷つけないのか? そうとは思えない。だから、アキレウスがテティスに頼んだときの様子を、ぼくは、こんなふうに想像してしまうのだ。

「ねえママ! 聞いてよ。アガメムノンくんってばね、ぼくのブリセイスちゃんを、横取りしちゃったんだ。だからもう、戦争するのやめる。その間、アガメムノンくんが、すごく困るようにしてやって!」

 こんな頼みを聞く母親はいない? いるさ。

「わかったわ、かわいいアキレウスちゃん。ママがゼウス様に頼んで、ギリシア軍がうんと困るようにしてあげる」

 と、テティスさんは、かわいい息子の頼みを快諾した。やれやれ……さすがのゼウスも、こんな頼みごとを聞かないだろうと思うけど……

「おう、いいよ。任せとけ」

 やっぱそうかよ。あんたら、人生なめくさってませんか?

 しかし、この話にはまだ続きがあるのだ! 思い出してくれたまえ諸君。そもそもこの戦争は、三人の(人ではないが)女神のいさかいから起こった。アフロディーテは、自分を一番美しいと認めたトロイの味方だ。ところが、ヘラとアテネは、ギリシア軍の味方なのだ。ゼウスが、ギリシア軍を困らせるということは……つまりヘラが怒るってわけ。

「あんた! 聞いたわよ! テティスの願いを聞いて、ギリシア軍を困らせるんですってね! どーいうつもりなのよ!」
「ま、待てヘラ。わしにも立場ってもんがあってだな……」
「なによ、あんたの立場って?」
「う、うーむ。自分でもよくわからんが、意味もなく浮気して子供を作り、それで困る人間を見てよろこぶとか、無意味に物語を引っかき回して話を長引かせて、それで困る人間を見てよろこぶとか、まあ、そんなとこかな?」
「ほう。そういうことをおっしゃるわけね。よくわかりました。実家に帰らせていただきます!」

 と、こんなやり取りがあったのだけど、息子のヘパイトスが、なんとかお袋さんのヘラを取りなして、彼女の怒りを鎮めた。

 ってわけで、いよいよ、ゼウスはギリシア軍を困らせる計画を実行した。

 ゼウスは、まずアガメムノンを夢で惑わすことにした。ネストルというジイさんを夢に出させ(このジイさんは人望厚かったのだよ)、「アガメムノンくん。オリンポスの神々は、みーんなギリシア勢の味方をすることになったらしいよ。だからね、全軍で攻めればトロイを攻め落とせるってさ。やっちゃえ、やっちゃえ」と、いわせてみた。

 目が覚めたアガメムノンくんは、大よろこび。すぐに全軍あげて総攻撃。とうとう両軍は最後の激突のときを迎えたのだ!

 さすがに、このときになって、当事者であるパリスも戦いに出てきた。そして、ギリシア軍を前に、高らかと宣言しやがった。

「だれか、オレと勝負しろ!」

 薬でもやってたのか、酒に酔ってたのかしらないが、まあ、このときばかりはパリスくんってば勇ましい。そんな挑発を受けて、ギリシア軍も黙ってはいなかった。というか、黙っていられない人がいた。もちろん彼の名は、ヘレネの夫、メネラオスだ。

「パリス! わたしが相手だ!」

 勇ましく一騎討ちを申し込んだパリスは、メネラオスが出てきたんで、すいません、さっきのは冗談でした、ごめんなさいと謝って、トロイの陣営に戻った。なに考えてんだこいつ?

 これを見た、兄貴であり総大将のヘクトルは、呆れるのを通り越して、弟に殺意を覚えるほど激怒した。人格者のヘクトルも、ついに堪忍袋の緒が切れたわけ。

「お、お、おまえってやつは……女好きのアンポンタンであるばかりでなく、敵に一騎討ちを申し込んで、おめおめと逃げ帰るとは、なにを考えてるんだ! 待て。わかったぞ。なにも考えてないんだろ? そうだろ? その頭の中は空洞なんだろ? 脳味噌入ってないんだろ? おまえのようなカッコしか気にしない軟弱野郎は、さっさとメネラオスに殺されてしまえばよかったんだ。というか、頼むから殺されてくれ。そうすれば、なにもかも丸く納まる。な、死んでこいよ。死んでしまえ、この、クソバカ野郎」

 さすがにパリスは、兄貴にここまでなじられて、カッとなった。

「わかったよ! メネラオスと一騎討ちをする! そして勝った方が奪った財宝とヘレネを取ることにしたい!」

 これを聞いて、ヘクトルはよろこんだ。

「そうか、そうか。やっと死んでくれるか。これでヘレネをスパルタに返せる。ホッとしたよ。おまえのおかげで、何千、何万の兵が死に、トロイの街は荒廃した。ついに責任をとって死んでくれるか。ああ、よかった」

 ヘクトルは、すぐさま、この申し出をギリシア軍に伝えた。アガメムノンも、そりゃおもしろいってんで(弟のメネラオスが、軟弱パリスに負けるわけがない)、パリスの一騎討ちを承諾した。いうまでもなく、メネラオスに異存があるはずもない。

 こうして、両軍が見守るなか、パリスとメネラオスの一騎討ちがはじまった。これまたいうまでもないことだけど、パリスが勝てるはずがない。パリスは、メネラオスから逃げ回った。どこまでも情けない男だ、パリスって野郎は。

 しかし! パリスには、アフロディーテが味方しているのだ! これは人間たちの戦いであるのと同時に、女神たちの戦いでもあるのだよ。

 アフロディーテは、パリスのために深い霧を起こして、その姿を隠してやった。これでパリスは、メネラオスから、まんまと逃げおおせた。アフロディーテは、戦いの女神じゃないから、彼に勝利を与えることはできなかったわけだ。

 とにかく、どこを探してもパリスがいないんで、アガメムノンは、それをもってメネラオスが勝利したと宣言した。

「さあ、財宝とヘレネをよこせ!」

 ところが、ヘクトルはこれを断った。

「返したいのはやまやまだが、パリスが負けたという証拠がなければ返せない。いや、本当に返したいんだよ。だが、神聖な一騎討ちの結果があやふやなのにそうすることは、戦士としての誇りが許さないのだ。すまん」

 どこまでもマジメな男よのう……

 こうして、また戦争だ。アキレウス抜きでも、ギリシア軍は、けっこう優勢に戦いを進めたのだけど、けっきょくは、徐々にトロイに押される結果となった。

「うーむ、マズイ」

 と、オデュッセウスは思った。せっかく勝てそうだった戦争が長引くばかりではなく、もしかしたら負けちゃうかも。

 そこで彼は、得意の陰謀を企てることにした。アキレウスの親友であるパトロクロスに、アキレウスの鎧を着せて、戦場に向かわせたのだ。一説には、パトロクロス自身が、いつまでもイジけて戦争に参加しないアキレウスに怒って、彼の鎧を奪うようにとって、戦場に向かったとされているけど、オデュッセウスの陰謀だったとする説の方が、ずっとおもしろいので、ぼくは、こちらを採用する。

 アキレウスの鎧は黄金だった。黄金は柔らかいし重いので、鎧になんかしたら、それは飾り以外のなにものでもないのだけど、アキレウスの鎧は特別だ。神様が仕立てたんだからね。

 で、黄金の鎧をきた戦士がやってきたんで、トロイ軍はビックリした。アキレウスが、ふたたび戦いに復帰したと思ったんだ。それでトロイ軍は大崩れ。

 でも大丈夫。トロイ軍には、ヘクトルがいる。彼はまさしく戦士だ。黄金の鎧をきた男なんか恐れない。それがアキレウスであったとしてもだ。もっとも、ヘクトルは、あいつはアキレウスじゃないと思っていた。アキレウスはもっと強い。これは、われわれを惑わすギリシア軍の作戦に違いない。

 そこで、ヘクトルは自ら打って出て、その黄金の鎧をきた男を打ち破った。ヘクトルが思った通り、それはアキレウスではなかった。

 親友の死を聞いたアキレウスは激怒した。

「パトロクロスが、ヘクトルに殺されてって! マジかよ! 許せねえ! オレが復讐してやる!」

 こうして、アキレウスは、それがオデュッセウスの陰謀だとは知らず、まんまと戦場に復帰させられた。

 その夜……

 トロイのお城では、ヘクトルの妻、アンドロマケが心を痛めていた。じつは、彼女の親兄弟はアキレウスに殺されていた。そしていま、最愛の夫さえも、アキレウスに殺される。そう悟ったのだ。

「あなた……」
 それまで、けっして、でしゃばったことはいわなかったアンドロマケだったが、今度ばかりは、耐えられなかった。
「イヤな予感がするのです。どうか、アキレウスとだけは戦わないでください」
「おいおい」
 ヘクトルは、苦笑した。
「そういうわけにはいかない。まわりを見てくれ。トロイでギリシア軍に戦いを挑めるのは、わたしだけなのだ」
「存じています」
 アンドロマケは、顔を伏せた。
「でも……でも……どうか、今度ばかりは、思い止まってください。あなたは、トロイの英雄ですが、その前にわたしの夫です。そして、わたしたちの息子の父です」
「わかっている。それは、わかっているよ」
「お願いです。わたしは、父も兄弟も、みなアキレウスに殺されました。わたしに残されたのは……ヘクトル、あなたしかいません。わたしにとってあなたは、父であり兄であり、そして夫なのです。どうかお願いです。幼い息子を孤児にしないでください。わたしを寡婦にしないでください」
 アンドロマケの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「アンドロマケ……」
 ヘクトルは、胸が痛んだ。張り裂けそうだった。あの奥ゆかしい妻が、ここまで懇願するのははじめてだった。この戦争は、妻をそこまで追い詰めたのだ。
「おまえの気持ちは痛いほどわかるのだ。しかし、もはや引けない。父の名誉のため、そしてわたし自身の名誉のため、戦場に背を向けることはできない」
「あなた……」
「許してくれアンドロマケ。せめて……せめて……トロイが陥ち、おまえがギリシア軍の慰み物になるところだけは見たくないものだ」
「どうあっても、わたくしの願いを聞き入れてはくださらないのね……」
「すまぬ」
 ヘクトルは、そばにいた幼い息子を抱き上げた。
「わが子よ。強くあれ。父が死んでも、母を守れるほどに!」
「あなた……」
 ヘクトルは、愛しい妻も抱き抱えた。
 こうして、ヘクトルとアンドロマケの最後の夜は一陣の風の如く、あっという間に過ぎ去っていった。

 一方、アキレウス。彼は彼で、ヘクトルを殺すことはできても、その後、三日以上は生きられないという予言を受けていた。

「かまうもんか! 親友を殺したヘクトルをぶっ殺してやる!」

 まったく、聞く耳持ちません。このバカタレは。

 こうして、宿命のライバル、ヘクトルとアキレウスの戦いがはじまった。猛牛がごとく進撃するアキレウス。その前にトロイの戦士は、つぎつぎと倒れていった。形勢不利と見たトロイ軍は、城内に逃げ込んだが、ひとりヘクトルだけが残った。

「ヘクトル。やっと大将のお出ましか。ぶっ殺してやるぜ!」
「おまえとは、戦いたくなかった」
「うるせえ!」

 アキレウスはヘクトルに飛びかかった。さすがに神の子アキレウス。ただの人間であるヘクトルが、どんなに強くても、かなうはずがない。ヘクトルは、なんとか勝機を見いだそうと、アキレウスの剣をかわしながら、城壁のまわりを逃げた。

「ちょろちょろと、逃げ回るんじゃねえよ!」

 狂ったように(まあ、狂ってるんだが)追い回すアキレウス。ヘクトルは、城壁のまわりを三周したところで、ついにアキレウスに捕まった。

 激しい剣と剣のぶつかり合い。しかしヘクトルに勝ち目はなかった。相手は不死身のアキレウス。しかも、今度の戦いでは、ママのテティスから、新しい鎧をもらってたから、ヘクトルが、どんなにその身体を突いても、まったく歯が立たなかった。

 こうして、ついにヘクトルはアキレウスに討たれた。

「ざまーみろ! ヘクトル!」

 アキレウスは、殺したヘクトルの踵に穴をあけて縄を通した。そして、その縄を馬に引かせて、ヘクトルの身体を引きずり回した。

「どうだ! これがトロイ一の戦士の最後だ! オレに掛かれば、こんな野郎、ただのボロ雑巾と一緒だ! よく見ろ! これがトロイ一の戦士の最後だ! オレが一番だ。ナンバーワンだ! だれもオレにかなうやつはいねえ!」

 アキレウスの行動は、もはや常軌を逸していた。完全に狂っていた。これがギリシア神話でも、もっとも勇敢な戦士の姿かと思うと、気が滅入るどころか、胸くそ悪くなって、アキレウスを一発で嫌いになりそうだ。

 何度もくどいようだが、ブラピ主演の映画は見ていない。だから、映画でアキレウスがどのように描写されているのか、ぼくは知らない。

 まあ、想像はできるけどね。ハリウッドのことだから、戦いに悲しみながらも、戦わざるをえない、愁いを帯びた戦士として描かれているのだろう。ぼくが、お気に入りのヘクトルとアンドロマケを美化して書いているように、アキレウスは美化され、それをブラピが情感たっぷりに演じているのだろう。

 だから、ブラピのファンが、ぼくのエッセイを読んだら怒るだろう。読む可能性は多分にある。映画のせいで、このエッセイが検索に引っかかるだろうからね。だから、いまのうちに、アキレウスのファンのみなさんごめんなさいと謝っておこう。ぼくはヘクトルのファンだから、アキレウスをいいヤツだと思えないんだよ。

 さて……ヘクトルは死んじゃったし、ここから先もアキレスの悪口を書くことになるから、あまり気は進まないが、話を進めよう。

 トロイの王であり、ヘクトルの父親でもあるプリアモスは、息子の無残な死にざまに悲しんだ。そして、恥も外聞も捨て、財宝を持ってアキレウスに懇願した。

「どうか、息子の亡骸を返してください。お願いします、アキレウスさま。この財宝をすべて差し上げますから」

 イリアスでは、ホメロスの演出で、アキレウスはわりと善人に描かれ、王という立場を捨ててまで息子の亡骸を引き取りにきたプリアモスをいたわって、その亡骸を返したことになっている。そして、イリアスという物語そのものは、ヘクトルの葬儀がしめやかに行われるところで終わっている。その後は書かれていないのだ。

 しかし! トロイ戦争は終わらない!

 ホメロスが、アキレスの人格を守るため、あえてイリアスに組み込まなかった、ほかの神話が、アキレスというバカ野郎が、どれほど狂っていたかを伝えている。

 主にそれは、詩人のクィントスの書物として残っている。クィントスは、自分の書物にタイトルをつけていなかったので、それらは「タ・メタ・トン・ホメーロン」(ホメロスの続き)とか「ポスト・ホメリカ」(ホメロス以後)と呼ばれている。

 では、その模様をお届けしよう。

 ヘクトル亡きあと、すぐにも陥るかと思われたトロイだが、そこに援軍が現れた。アマゾンの女王、ペンテシレイアがトロイに味方したんだ。これで、またトロイは勢いを盛り返したけど、そのペンテシレイアもアキレウスに殺される。アキレウスはペンテシレイアを殺したあとに、例によって、その亡骸をなぶろうと(こいつは狂人なのだ)、その兜を剥ぎ取って、なかから美人が出てきたんでビックリした。

「ちくしょう! なんだよ美人じゃねえか! 殺すんじゃなかったぜ!」

 それを聞きつけたテルシテスは、またバカいってるぜと、アキレウスを中傷した。それを聞いたアキレウスは(こいつは狂っているから)、テルシテスを殴り殺した。

 こうなってくると、バカの総大将アガメムノンさえ、常識ある人間に見えてくる。アガメムノンとメネラオスは、ペンテシレイアが高貴な人物だと知っているので、もはや正気ではないアキレウスから、ペンテシレイアの亡骸を取り戻して、トロイ側に返した。

 アマゾンの女王も殺され、またまた劣勢にたったトロイだけど、ここでふたたび援軍が現れた。今度はエチオピアの王さま、メムノンだ。彼はヘクトルの従兄弟なんだよ。だから参戦。

 それにしても、こんどの援軍はすごい。このメムノンってば、アキレウスと同じく女神さまと人間のハーフなんだ。メムノンの母は、曙の女神エオスさん。この人も強い。

 まずメムノンは、老戦士ネストルの子である、アンティロコスと戦った。アンティロコスはまずメムノンに槍を投げた。メムノンは、もちろんそれをよけた。ところが、運悪くその槍は、メムノンの親友、アイトプスに当たっちゃった。親友を殺されて激怒したメムノンは、アンティロコスに飛び掛かかり、槍でアンティロコスを殺した。

 老戦士ネストルは、息子を殺されて怒り狂った。残った息子に、メムノンを倒すよう檄を飛ばした。しかし、残った息子は、メムノンとの力の差を思い知って、怖じ気づいた。

 これで怒り心頭に達したネストルは、ほかの戦士より、一世代ぐらいは年寄りなのに(彼はトロイ戦争での最年長)、寄る年波も忘れて、メムノンに一騎討ちを挑んだ。しかしメムノンは、さすがに相手の歳を考えて、その挑戦を丁重に断った。その代わり、ネストルの代わりに自分に挑戦する相手とは、だれとでも戦うと申し出た。

 出てきたのは、われらが狂人アキレウスくんだ!

 神様と人間のハーフ同志の戦い! こいつは激しかった。この戦いで、いても立ってもいられなかったのは、彼らの母親だ。アキレスの母テティス、そしてメムノンの母エオス。彼女たちは、それぞれがゼウスに、息子の命乞いをした。

「うちの子を助けて!」
「いいえ、わたしの子を助けて!」

 という感じかな。困ったゼウスは、アキレウスとメムノンの運命を、天秤にかけてみた。そしたら、メムノンの皿が沈んだ。これでアキレウスくんの勝ち。よかったね、テティスさん。

 さあ、これで邪魔者はいなくなった。アキレウスを止めるヤツはもういない。彼は彼で親友を殺され、さらにメムノンに殺されたアンティロコスとも仲がよかったから、その怒りは頂点に達していた。ただでさえ正気を失っているので、その残忍さといったら、某国の大統領も真っ青だ。

 アキレウスは、どこまでもトロイの兵を追いかけ、彼らを惨殺した。彼の殺した兵士の血で、大地は真っ赤に染まったそうだ。

 さすがに、ここにきてアポロンが立ち上がった。

「もういいかげんにしろ。おまえは正気を失っている。戦場から立ち去るがよい」

 正気を失ったアキレウスが、アポロンのいうことなんか聞くはずない。

「バカ野郎! だれがそんな命令聞くもんか! オレはトロイの兵士を、最後の一人になるまでぶっ殺し、トロイの女をぜんぶレイプしてやる!」

 これでついに、アポロンは、アキレウス殺害を決意した。

「だめだ……あいつは狂っている。このままアキレウスを生かしておけば、この世から人間という人間が消え去るだろう。あいつは、死なねばならない」

 アポロンは、メネラオスとの一騎討ちで逃げ回り、そのまま姿をくらましていたパリスに一本の矢を与えた。

「パリス。わたしがすべて、お膳立てをしてやる。だから、この矢でアキレウスのアキレス腱を射るのだ。さすれば、アキレウスは死ぬだろう」

 パリスは、アポロンのいうとおりに矢を放った。その矢は、アキレウスのアキレス腱に刺さり、その痛みが心臓にまで達して、アキレウスはついに死んだ。

 ここで話は少し横道にそれる。アキレウス亡きあと、母のテティスは、彼の魂を「至福者の島」に運んだという説もあるけど、ぼくはこれを支持しない。

 これは神話なので、当然黄泉の国がある。冥界だ。そこは暗く、どんよりとした空気が支配する死者の国だ。ところが、その黄泉の国には「エリュシオンの野」という場所がある。ここは砂漠のオアシスのような場所だ。そこだけは、年に三度もおいしい果物が収穫できるという、明るくさわやかな気候の土地だった。つまり、ギリシア神話における天国が、エリュシオンってわけ。生きているときに美徳を積んだ人間だけが、エリュシオンに行けるんだ。

 さて、ここで問題です。アキレウスは、エリュシオンに行けたでしょうか?

 答え。行ってません。アキレウスは、いまも黄泉の国を、ゾンビのようになって、さまよっている。ぼくはこの説が好きだ。だって、アキレウスが天国に行けるわけがないだろ?

 さあ、トロイ戦争も、だいぶ佳境に入ってきたぞ。本当は、もっともっと登場人物が多くて、ぼくはトロイ戦争の十分の一も紹介していない。それでも、この文書量だもんな。この物語が、どれだけ壮大かわかってもらえるよね。どうせ、ぜんぶは紹介できないのだから、さっさと先に進もう。

 このあと、オデュッセウスとアイアスが、アキレウスの武具の分配で争ったり、ヘラクレスの孫にあたる、エウリュピュロスがトロイ側に加勢したり、トロイ戦争の一番最初でオデュッセウスが見捨てたピロクテテスがふたたび参戦させたりと、いろいろあるんだけど、ぜんぶ割愛。

 というわけで、アキレウスという優れた殺戮マシーンを失ったギリシア軍は、トロイ攻略の暗礁に乗り上げていた。このあとの流れは、例によって、ごちゃごちゃしている。ホメロスのような天才が、ひとつの物語に仕立ててないから、諸説入り乱れって格好だ。だからこのあとは、ぼくの好きな順番で、さらにぼくの好きな説の組み合わせで解説するから、みなさんがご存じの物語とは少し違うかもしれない(まあ、大きくはズレていないはずだけど)。

 では続けよう。そんなわけで、戦争は再び硬直状態に陥ったのだけど、そうなると登場してくるオッサンがいる。

「うーむ、マズイ」

 と、オデュッセウスは思った。こんなことでは、いつまでたっても戦争が終わらないじゃないかと。

 オデュッセウスがこう思ったときは、ロクなことを考えない。はい、今回もろくでもないことを考え出しました。そう。みなさんもよくご存じのはずの、トロイの木馬だ。

 彼の計画は単純だった。でっかい木馬を作り、そのなかに潜んで、トロイの城内に入ろうというのだ。

 オデュッセウスは、木馬が完成すると、そのなかに入った。ほかに、ネオプトレモス、メネラオス、ディオメデス、ピロクテテス、小アイアスなんかも入った。

 ここでふと疑問に思う。オデュッセウスは、こんな作戦が成功すると、本気で思ったのだろうか? ぼくがトロイ人だったら、憎いギリシア軍が残した木馬なんか、その場で焼いちゃうけどな。もし、そうなっていたら、オデュッセウスたちは、こんがりウエルダンで、戦争はトロイが勝利していただろう。

 いやいや、もちろんオデュッセウスも、それは考えていたのだ。だから、スパイを送り込んで、ギリシア軍は、戦争を諦めたとトロイ人に思わせた。それだけでは木馬を残した理由が意味不明なので、木馬はアテネの怒りを鎮めるために作ったものだといって、トロイ人を欺いた。いくら、敵国が残したものでも、神のために作られたものを、焼き捨てるような不信仰は行わないだろうという計算だ。オデュッセウスに悪巧みを考えさせたら天下一だぜ。

 結果はご存じのとおり、オデュッセウスの思惑どおりになった。

 夜が明けて、ギリシア軍がいなくなったとき、そこには木馬が残されていた。トロイ軍は城内から出てきてよろこんだ。そして、木馬を城内に運び入れようとした。

 もちろん、このとき反対した者もいた。その筆頭はラオコオンだ。彼もトロイの王子だけど、戦士ではなく僧侶だった。すごく頭のいい男で、ギリシア人は油断がならないから、たとえ贈り物であっても、城内に入れてはいけないと主張した。

 ふつうは、そう思うし、ラオコオンは人格者だから、みんな彼の意見を尊重するはずだった。ところが、ポセイドンが、ギリシア軍に味方していたのだ。ポセイドンはトロイの海岸に、巨大な海蛇を送り込んで、ラオコオンの二人の息子を殺した。ラオコオンは、息子の敵を討とうと海蛇に挑んだけど、ポセイドンの放った海蛇にかなうはずもない。こうしてラオコオンは死んだ。

 人々は、木馬は神々に捧げる神聖な贈り物であり、ラオコオンは、それを疑ったので神様に殺されたと思い込んだ。マジかよ? どう考えても不自然だけど、おそらくこの逸話は、トロイ人が、木馬をあっさり城内に入れるというプロットを成立させるため、神話作家の先生方が懸命に考えた理由だろうから、彼らの努力に敬意を表して、これ以上文句はいわないことにしよう。

 おっと待った。もう一人忘れてはいけない人物がいたっけ。

 その人の名はカサンドラ。彼女はトロイの王女さま。お母さんのヘカベと並んで、ギリシア悲劇にはなくてはならない人だ。

 カサンドラは、不幸にもアポロンに愛されてしまった。アポロンは、なぜか好きになった女性から嫌われるという天性の才能を持っていたから、カサンドラも、アポロンを好きになれなかった。アポロンは、それでも諦めず、彼女に予言をする力を与えて気を引こうとした。むだだった。カサンドラの心はなびかない。怒ったアポロンは、カサンドラの予言の力はそのままにして、彼女の言葉をだれも信じなくなる魔法をかけた。

 なんとまあ、念の入ったことよ。

 おかげでカサンドラは、愛する人やトロイの運命を予言して、人々を災いから遠ざけようとするのだけど、その言葉はだれも信じてくれない。木馬を城内に入れれば、トロイが滅亡することも知っていたが、やはり、彼女の言葉は無意味だった。

 恐るべきアポロンの呪い。人は、未来を知らないから希望を持つことができる。アポロンは、カサンドラから希望を奪ったといっていい。そして、悲劇を知りつつ、それを伝えられない苦しみまで与えた。ただアポロンに、「あんたなんかタイプじゃないわ」といっただけなのに。

 こうして、木馬は城内に入れられた。でも、すんなり入ったわけじゃない。その理由は反対意見ではなく、物理的な問題。木馬が城門より大きかったんだよ。だからトロイ人は城門を壊して木馬を中に入れた。

 もうお気づきだよね?

 そうとも! オデュッセウスは、城門の大きさまで計算しておいたんだ! そうとも知らず、バカなトロイ人どもは、城門を壊してしまった。

 トロイ人は、戦争の終結に浮かれ騒いだ。国をあげての宴会だ。夜が更けるころには、すべての市民が酔っぱらい状態。もちろん、守衛もへったくれもない。

 そんなころ、木馬の中からオデュッセウスたちが出てきた。計画どおり松明で、テネドス島に待機させているギリシア軍に合図を送った。ギリシア軍は、怒濤のごとく引き返してきて、トロイの城内になだれ込み、殺戮と破壊のかぎりを尽くした。

 一応パリスは戦った。ここでオデュッセウスが、頭を下げて戦争に参加してもらったピロクテテスが活躍する。彼はヘラクレスの弓を持っていた。その弓でパリスを射抜いたんだ。そこで絶命してりゃいいものを、パリスは性懲りもなく逃げ延びた。

 しかし、ヘラクレスの弓で受けた傷は、なんか特殊な魔法でなければ治らないらしく、その魔法を知っているのは、むかし捨てた奥さんのオイノネだけだといわれた。

 パリスは、恥も外聞もなく、オイノネを訪ねて、「帰ってちょうだい!」と拒絶するオイノネさんの足に取りすがって命乞いをした。

 それでもオイノネさんはパリスを許してくれなかった。パリスは、とうとう諦めて引き返した。その途中、傷が悪化して、ついに死んだ。オイノネは、パリスを追い返したあとに後悔して、彼を追いかけた。そこで、すでに絶命しているパリスを見つけた。オイノネは、深い悲しみを感じて自殺した。

 ところで、もうひとり、トロイの城から逃げ延びた男がいた。彼の名はアイネアス。なぜ彼が逃げることに成功したかというと、じつはアフロディーテの息子なんだ。訳あってトロイの王子として、ヘクトルとともに戦ってたんだけどね。

 彼のその後については、「アイネアスの物語」ってのが残されている。けっこう有名人あのよ彼も。なにせ、逃げ延びてからもさまざまな困難を乗り越えて、イタリアの岸辺まで逃げたあと、そこに国を作ったんだ。その国こそが、「ローマ」なのだ。

 ところで、逃げられなかった人はどうなっただろう?

 もちろん、男は全部殺された。女は奴隷としてギリシアに連れて行かれた。そのなかにカサンドラもいた。彼女は、ギリシア軍の総大将、アガメムノンの慰み物として、ギリシアに連れて行かれた。しかしカサンドラさんってば、自分の未来も予言していた。

 アガメムノンの家では、ちょっとゴダゴタが起こっていてね。むかし、戦争に出かけるとき、娘を生贄に捧げたもんだから、奥さんは、ずーっとアガメムノンを恨んでいたんだ。それだけじゃなく、まあ、いろいろ陰謀とかあって、アガメムノンの奥さんは、彼が生きて返ってきたら、ぶっ殺そうと思っていた。

 カサンドラは、そのことを知っていた。そしてアガメムノンと一緒に、自分も殺されることを。でもね、彼女の言葉はだれも信じないから、もうカサンドラさんは諦めていた。いいや、このまま死ぬのが一番幸せだと。だから、アガメムノンとミュケナイ(アガメムノンの治める国)に行って、そこで死んだ。

 問題は、ヘクトルの奥さん、アンドロマケだ。彼女は複雑な人生を送っている。

 まず、幼い息子を殺そうとするギリシア軍に抵抗した。しかし、これ以上抵抗すれば、息子の葬儀をすることさえ許さないといわれ、ついに諦めた。ヘクトルがアキレウスと戦う前の日、強くあれと願った子供は、あっさり殺された。息子の亡骸は、父ヘクトルの柩の中に納められたという。ヘクトルは、いまも息子を抱きながら眠っているのだろう。

 その後アンドロマケは、奴隷となった。なんと驚くなかれ……彼女が仕えることになったのは、あのアキレウスの息子なのだ!

 父も兄弟も、そして夫さえも殺したアキレウス。その息子の奴隷として生きていかなければならないなんて!

 でも、アンドロマケは生きた。アキレウスの息子の正妻にいじめられながらも、妾として三人の子供を産んだ。その、アキレウスの息子もミュケナイ王に殺されたあとは、生き残っていたトロイの王子、ヘレノスと結婚した。彼はカサンドラの双子の兄弟。ここがアンドロマケの安住の地となった。こうして彼女は、三番目の夫とともに、その生涯を閉じた。

 オデュッセウスは、予言されていた通り、戦争が終わると受難が待ち受けていた。その模様は、ホメロスの「オデュッセイア」に描かれることとなった。彼の最後は、ほかのエッセイ(愛しい人)でも書いてるけど、テレゴノスという若者に殺されている。その若者は、オデュッセウスが戦争後の航海で出会った、キルケとの間にもうけた、自分の息子だった。

 最後に、ヘレネのその後を書かねばなるまい。書きたくないけど。

 パリスが死んだあとにも、トロイの王子の間で、彼女をめぐって奪い合いがあるのだけど、どう考えても、それらは物語を長くしたい神話作家の先生たちのせいで、あとの時代に付け加えられたモノだと思われるから、時間の経過が合わない。だからぼくは、このエッセイではいっさい無視することにする(その物語自体はおもしろいから好きなんだよ)。

 さて。トロイが陥ったあと、ヘレネはメネラオスのもとに返された。ついに、もともとの夫のところへ帰って来たわけだ。

 スパルタでは、彼女を処刑しろという声が大多数を占めた。しかし、メネラオスは、それらの声を無視した。ヘレネを許し、ふたたびスパルタの王妃に迎えたんだ。こうして、なに不自由なくくらしていたヘレネは、ふたたび、なに不自由なく暮らせる生活に戻った。彼女は、死んだあとにも、黄泉の国のオアシス、エリュシオンの野にさえ入る権利を神から授かった。だから彼女は、いまも天国で夫のメネラオスとともに、なに不自由なく気楽な生活を送っている。

 けっきょくのところ、ヘレネってのは、どんな女なのかサッパリわからん。美人で災いを起こす元凶ではあるが、本人はあまり不幸にならない。まあ、男たちに運命を弄ばれたという意味では充分に不幸だが……はたして、彼女は不幸だったのだろうか? 後世の作家は、彼女にさまざまな性格設定をして、その謎に挑もうとしたが、どれも、あまり成功してはいない気がするね。

 というわけで、ヘレネについては、謎のままにして、このエッセイを終えたいと思う。ここまで読んでくれてありがとう。お粗末さまでした。