見てはいけない人

 今回のエッセイは神話。しかも、ギリシア神話。なつかしーい。最後にギリシア神話書いたのいつだよ。二〇〇〇年の五月二十日? うわ、二年ぶり? マジ? なんだか、時間の経つのは早いねえ。しみじみ。おーい、バアさんお茶。なんて、老け込んじゃう気分だね。

 え? なんで二年間も書かなかったのかって? いや、べつに書きたくなかったわけじゃないんだよ。神話のなかでも一番詳し分野だから、ネタは尽きないほどあるしね。ただ、ほかの神話に浮気してたら、二年も経っちゃっただけ。

 で、今回、ゲストブッック(掲示板だよ)で、ギリシア神話のエロスとプシュケの話が読みたいなあってリクエストをもらったので、久々にギリシア神話を書く意欲がわいたってわけさ。

 では、始まり始まり~

 ところで、エロスって知ってる? ローマ神話では、クピドと呼ばれてる神様だよ。よけいわかんないか。クピドを英語読みすると、キューピッド。もうわかったよね。そう、よく公園で立ちションベンしてるアレだよ。

 うそうそ。あれは違うよね。しかし、小便小僧なんてだれが考えたのかね。

 なんだか、いきなりイメージぶち壊しだけど、どうしたわけか、エロスは中世ヨーロッパの画家たちに、幼い子供の姿で描かれることになって、ションベン小僧に成り下がってしまった。違うな。マヨネーズのパッケージに成り果てた…… いいかげん、しつこいから、このギャグはやめるけど、とにかく、ルネッサンス時代の画家たちのせいで、「キューピッド=子供」というイメージが出来上がってしまったんだ。でも本当はね、エロスって、すごい美男子なんだよ。少女漫画の主人公も真っ青さ。

 というわけで、大人のエロスの話をしよう。彼の名前の意味は、ずばり「愛」。その名の通り、愛の神さまなんだ。ちなみに、察しがつくと思うけど、「エロティック」という言葉は、エロスがもとだよ。でも勘違いしないでほしい。エロスがスケベだったわけじゃない。じつは、エロスくんのお母さんは、アフロディーテなんだ。アフロディーテといえば、美と愛の女神さまだけど、その実態は、超浮気者で、胸なんかポロンと出した姿で男を誘惑するイケイケ姉さんだから、そんなところから、いつもアフロディーテのそばにいたエロスがとばっちり受けて、「いやらしい」なんて意味の言葉のもとになっちゃったんだろう。かわいそうに。

 ここで、ちょっと補足。さっきからぼくは、「エロス」「アフロディーテ」と書いているけれども、上の説明は、むしろ、ローマ神話の「キューピッド」「ヴィーナス」と書いた方が正確だね。ローマ神話はギリシア神話の翻訳だから、まあ、ほとんど同じなんだけど、どうしてもローマ人の思想というか、道徳観が反映されていて、まったく同じというわけでもないんだ。そもそも、エロスがキューピッドと呼ばれるようになったのは、ローマ神話だからね。

 補足ついでに、もう一つ書いとこう。じつは、エロスはもともとは、アフロディーテよりも古い神様だったという説があるんだ。それどころか、ギリシア神話の神様の中で、最古参の一人なんだ。カオス(混沌)から生まれた、ガイアと同じ、一番最初の神様の一人なんだよ。そのご、ガイアがギリシア神話の神様たちの、一番最初のお母さんになるんだけど、このとき、ガイアとウラノス(ゼウスの爺さまだね)の愛を実らせたのが、じつはエロスだったと、そんな説もあるのだよ。なにせ、愛の神さまだから、最初からいなきゃ、つじつまが合わんだろうという発想だね。たぶん、この説は正しいと思う。

 じつは、これから語る「エロスとプシュケ」のお話は、紀元二世紀の作家、アプレイウスの作品に登場したものだと言われてるんだ。ギリシア神話の中では、新しい方なんだよ。だから、むかしの神様だったエロスが、アプレイウスの手で、新たなキャラクターに書き換えられた可能性があるんだよね。

 このほか、エロスだけでも、いろーんな説があるんだ。言うまでもないことだけど、神話っていうのは、一人の作家が体系立てて書いたものじゃない。伝承や信仰が、時代とともに入り交じったり、ある時代の作家が書き換えたりと、さまざまな遍歴をたどっていまに至っているんだ。だから、ぼくのエッセイで読んだこととは違うことが書いてある本も、きっとあると思う。もちろんぼくは、なるべく「定番」の説や逸話をもとに書くつもりだけど、ぼくも「気に入っている説」を優先することが多々あるから、その辺は、あらかじめ断っておくよ(重要な部分は、その都度、指摘するけどね)。

 失礼。補足が長くなった。

 ある日、アフロディーテは、ゼウスと浮気して、子供を作っちゃうんだけど、それがエロスだったんだ。またゼウスだよ。あのクソオヤジ。

 ここで、ヘラの名を思い出してほしい。覚えてるよね? ゼウスの奥さんだよ。ぼくは個人的に、ギリシア神話で、いや、世界の神話すべての中で、もっとも美しい女神さまだと思っているけど、それと同時に、もっとも怖い女神さまでもある。ただし、わが愛するヘラ姉さんの名誉のために言っとくけど、彼女が怒るのは(怖いのは)ゼウスが浮気したときだけだよ。ふだんは、気のいいアネゴなんだ。

 それはそうとエロス。

「できちゃったの」
 と、アフロディーテに言われたゼウスは、真っ青だ。例によって例のごとく、浮気して作った子供だからね。ヘラにバレたら、もう大変。だからゼウスのオッサン、エロスを認知しなかった。
「違う! わしの子じゃない! えーと、えーと…… そうだ! この子は、イリスとゼピュロスの子供ってことにしよう! そうしよう! 決定!」
 まったく、このオッサン、神様どころか、人間としても大失格な性格なんだけど、いちおう、全知全能の神さまなもんだから、書類の書き換えはお手のもん。そんなわけでエロスは、戸籍上、イリスの子供ってことになっちゃったんだ。ちなみに、イリスは虹の女神さま。父親のゼピュロスは、西風の神様だよ。(この逸話から、エロスはイリスの息子だとしている本もあるよ)

 もちろん、赤の他人…… いや、他神を押しつけられたんじゃ、イリスも困っちゃうわけで、アフロディーテが、ちゃんと自分の子として育てた。なにせ、カワイイ子供だったからね。アフロディーテもお気に入り。しかも、成長するに従って、どんどん美少年になっていくじゃあーりませんか。美しいものが大好きなアフロディーテが、エロスを手放すわけもなかった。

 そんなこんなで、すっかり成長したエロスくん。彼は、みなさんもよくご存じの特技を持っていた。知ってるでしょ? 愛の弓矢。その、黄金の矢に射られた者は、エロスが選んだ相手を激しく恋しちゃうんだ。逆に、鉛の矢で射られた者は、相手を激しく憎むようになる。愛と憎しみは、表裏一体なんだね。恐ろしい特技だ。

 アフロディーテは、この息子の特技を、大いに利用した。黄金のリンゴ事件では、ヘレネをパリスに恋させたりと、政治的(?)に利用しまくり。そう。あの事件では、裏でエロスが暗躍していたのだよ。黄金のリンゴ事件については、ぼくのエッセイ「もっとも美しい女神」に書いてあるから、知らない人は、そっちも読んでみてね。

 そのほか、アポロンや、母親のアフロディーテさえも、エロスの愛の弓矢の威力には逆らえない。この弓矢の威力は絶大なんだ。神様だってメロメロになっちゃうんだから(なるほど、エロスがアフロディーテより古い神様だという説に説得力があるかも)。

 ところが。そんな、「愛」に関して、絶大な力を持っていたエロスも、大失敗をやらかすときがきちゃうんだ。

 その失敗の発端は、プシュケという女性だった。プシュケは、ある王国の王女さま。その国の王さまには、娘が三人いて、プシュケは末娘。それぞれ、美人だったって噂だけど、中でもプシュケは、一番きれいで、すごーい美人だったらしいよ。しかも、性格もよかったんだ。「器量がいい」とは、プシュケにあるような言葉だ。いやまあ、わが愛しのヘラ姉さんには負けるけどさ。

 さてさて。プシュケは末娘ってこともあって、王さまったら、一番かわいがったんだろうね。自慢の娘だったわけだ。だからある日、「プシュケは、あの美の女神アフロディーテより美人だぜ。うひゃひゃ」なんて、言っちゃったんだよ(王妃が言ったという説もある)。

 これを聞いたアフロディーテさん。もう、怒った怒った。怒り心頭。美人が怒ると怖いよ。
「に、に、人間の分際で、あたしより美人ですって! 冗談じゃないわ!」
 怒ったアフロディーテは、エロスを呼んだ。
「エロス! あの分別をわきまえない娘に、矢を使いなさい!」
「まったくもう」
 エロスは、タメ息をついた。
「また母さんの癇癪がはじまったよ。しょうがないなあ。で、プシュケには、だれに恋させるの?」
「そうね…… ふふふ。いいこと思いついたわ。あの娘には、豚に恋をするように仕向けなさい」
「ぶ、豚? 豚って、しょうが焼きにするとおいしい豚のこと?」
「そうよ。カレーに入れてもおいしいわ。最近、牛肉は危ないしね。まったく、主婦は大変だわ。って、なに言わせるのよ」
「自分で言ったんじゃないか。それはそうと、さすが母さん。えげつないこと考えるなあ」
「うるさいわね! さっさとお行き!」
「はいはい。行きますよ。行きゃあいいんでしょ」

 いくらなんでも、豚ってことはないだろう。と、エロスは思わないでもなかったけど、アフロディーテには逆らえない。というか、エロス自身、けっこうイタズラ好きなんで、喜んでアフロディーテの言うことを聞いていたフシもあるんだけどね。

 そんなわけで、エロスは、プシュケの寝室に忍び込んで、寝ているプシュケに向かって矢をつがえた。

 ところが!

「うわ、ホントだ。噂どおりの美人だな」
 なーんてエロスが、プシュケに見とれてしまったとき、自分の矢で、自分を傷つけてしまったんだ。
「あ、痛てて!」
 とたん。
「わわわわわ! な、なんてことだ!」
 エロスは、プシュケのベッドから、あとずさった。なんと、そこに寝ているプシュケに、恋をしてしまったんだよ。恐るべし愛の弓矢。その威力は、エロス自身も逆らえなかったんだ。

 エロスは、あわててオリュンポスに帰った。母親が、豚に恋するようにしてしまえなんて怒ってる相手に恋しちゃったんだか、そりゃもう大問題だ。それに、問題はそれだけじゃない。じつは、人間は神様の姿を直接見ることは許されないんだ。だからゼウスなんか、人間の女の子と浮気するときは、いつも変身してたりする(まあ、この辺はいいかげんだから、そうじゃないこともあるけどね)。

 さあ、エロスくん、それから毎晩、思い悩みましたよ。
「ああ、プシュケ。愛しのプシュケ…… きみはぼくの太陽だ。夜空を美しく飾る星だ。きみと結婚したい。でも、ぼくはきみの前に姿を現すことはできない。どうしたらいいんだ。どうしたら……」

 そのころプシュケさん。天界で、そんなことになってるとはつゆ知らず、ふつうに生活してたんだけど、どうも、彼女には縁談がこない。上のお姉さんは、つぎつぎ結婚していったんだけど、一番美人で性格もいいプシュケだけ残されたままなんだ。

「変じゃのう? なんでプシュケは結婚できないんじゃ?」
 そう思った王さまは、プシュケを連れてアポロンの神殿に相談に出かけるんだ。
「アポロンさま。わしの末娘のプシュケが、なかなか結婚できないんですよ。なんか問題があるんでしょうかねえ。こんな、器量がいい子なのに」
 すると、アポロンが、神託を下した。
「むむ。こりゃヤバいぞオッサン。この娘は、人間とは結婚できないな」
「えーっ! な、なんでですか?」
「いや、なんでと言われても困るが、占いにそう出てる。山の頂上で待っているのが彼女の夫だが、そいつは、人間どころか、神々も抵抗できない怪物だな」
「そ、そ、そんなバカな!」
 王さまは、ビックリ仰天。
 プシュケも、その美しい瞳に涙をためた。
「お父さま。これはきっと、アフロディーテさまのお怒りに違いありません」
「おおお、プシュケ。すまない。わしのバカな言葉のために……」
「いいえ」
 プシュケは、顔を伏せた。
「お父さま。アフロディーテさまの、お怒りを鎮めなくてはなりません。わたしをその山に連れていってください」
「なにをいうか! 怪物の妻になど、絶対にさせんぞ!」
「ですが、このままでは、王国にアフロディーテさまの呪いがかかるかもしれません。そんなことになるぐらいなら、わたしは、喜んで生贄になります」
「いい子だなあ」
 と、アポロン。
「こんな娘を持って、幸せだなオッサン」
「いま、不幸のどん底ですよ!」
「ああ、そうか」

 なんて、会話があったかどうかしらないけど、こうしてプシュケは、山の頂上に連れて行かれて、ついに一人になったんだ。

「こ、怖い……」
 さすがに、心細くなったプシュケは、その瞳から、涙を流してたたずんでいた。
 そこへ現れたのが、エロスの、戸籍上の父親にさせられた、西風のゼピュロス。
「迎えに来たぞプシュケ。さあ、わたしに乗りなさい」
 プシュケは、西風に乗って、森の中に運ばれた。そこは、花の咲いた谷間で、とっても美しい場所だったんだ。
「ここはいったい……」
 プシュケは、あたりを見回した。西風は、もうどこかに行ってしまって、またプシュケ一人。でも、そこがあんまり美しいところだったんで、怖くはなかった。そんな森の中を少し歩いていくと、そこには、立派なお屋敷があった。いや、お屋敷というより、そこは宮殿と呼んでもいいほどすごい建物だったんだ。
「なんで、こんな場所にお屋敷があるのかしら?」
 プシュケは、そう思いながら、門を開けて屋敷の敷地に入ると、その大きなドアをノックした。すると、ドアが音もなく開いた。自動ドアだな。
「あの……」
 プシュケは、恐る恐る、屋敷の中に入って声をかけた。
「どなたかいらっしゃいますか? ボンジュール? ハロー? ニイハオ?」
 屋敷の中は、黄金の柱に、立派な絵画や彫刻、そして美しい宝物などなど、そりゃもう、素晴らしい品々で飾られいたんだけど、どういうわけか、人の気配がない。
「どなたもいらっしゃらないのかしら?」
 プシュケが首をひねったとき。
『王女さま』
 と、声が聞こえた。
「だれ?」
 プシュケは、あたりを見回したけど、だれもいない。
『無駄ですよ、王女さま。わたしたちの姿は、あなたには見えないんです』
「なぜ?」
『まあ、その、神話ですからねえ。なぜといわれても困るんですけど、とにかく見えないんです。ですが、わたしたちは、あなたさまの召使です。どうぞ、なんなりと、ご用をお申しつけください』
「では、ここが、わたしの夫になる方のお屋敷なの?」
『はい。そうです』
「その方はどちらに?」
『お出かけになっています。夜には戻られます』
「そう……」
『ああ、王女さま。そんな辛そうな顔をなさらないで。わたしたち、姿をお見せできませんが、心を込めてお世話しますから』
「ありがとう…… みなさん、これからよろしくお願いします」
『もちろんですとも! 王女さま、お腹はお空きではございませんか?』
「そういえば、少しお腹が減ったかも」
『では、食堂へご案内します』
 すると、プシュケの前に、ぽっと松明の明かりが輝いて、プシュケの道案内をした。食堂には、お酒や食べ物がたくさん並べられていた。
「まあ、すごい!」
『さあ、王女さま。どうぞ、お座りください』
 見えない声が、椅子を引いた。
「ありがとう」
 プシュケは、椅子に腰を下ろした。
 すると、どこからともなくステキな音楽が聞こえてきた。
 こうしてプシュケは、楽しい晩餐の時間をすごしたのでした。

 なんだか「おとぎ話」っぽくなってきたけど、もう、察しはついてるよね? そう。ここはエロスがプシュケのために用意した離宮なのさ。人間は、天界の住人を見ることができないから、エロスは、召使たちの姿を消して、プシュケの世話をさせたんだ。

 ところで、プシュケがエロスの屋敷に行く原因になったアポロンの神託なんだけど、ギリシア神話には、なんでアポロンが、あんな神託をしたのか、その理由が述べられていないんだ。だから、ぼくが勝手に想像してみよう。

 といっても、みなさんも容易に想像できるよね。ことの経緯から察するに、恋の病に苦しむエロスを見かねて、プシュケが彼のもとに行くように仕向けたと考えるのが、一番合理的だ。っていうか、そう思うことにしようよ、みなさん。アポロンって優しい神様だからさ(優しい神様なのは本当だよ)。

 え? それにしちゃあ、「恐ろしい怪物」なんて言って、プシュケを脅したじゃないかって? いやいや、これにもキチンとしたわけがあるんだよ。だって、考えてごらんよ。プシュケは、エロスを見てはいけないんだよ。もし「美しい男」なんて言われたら、いや、たとえ「ふつうの男」でも、見たくなっちゃうじゃない。自分の夫なんだから。だからアポロンは、わざと「怪物」なんて言って、プシュケに、エロスを見ようとする気持ちが芽生えないようにしたんだよ。アポロンって頭いいんだ(頭のいい神様なのも本当だよ)。

 それはそうと、ついに夜がやってきた。

 プシュケは、ベッドに座って、「主人」の帰りを待っていた。うーん。いわゆる結婚初夜ってヤツですか。そーですか。うひひ。じゃなくって、プシュケは、どんな怪物が現れるのかと、それはもう、恐怖におびえながら待っていたわけ。

 すると、部屋の明かりが消えた。真っ暗闇になる。同時に、ドアの開く音がして、だれかが入ってきた。

「だ、だれ?」
 プシュケは、震えながら聞いた。
『この屋敷の主人だ』
 やはり、姿の見えない声が言った。
「あ、あなたが…… わたしの夫になる御方なのですね」
『そう』
 見えない声が、プシュケのとなりに座った。
 プシュケは、ビクッとなって、身体を引いた。
『怖がらなくていい』
 その声は、とても優しい口調で言った。
『なにもしないから。どうか、おびえないでほしい』
「は、はい……」
『この屋敷は気に入ったかい?』
「はい……」
『そう。それはよかった。ここはきみの家だからね。自由にお暮らし』
「あ、ありがとうございます」
『でも、ひとつだけ約束をしてほしいことがあるんだ』
「なんでしょうか?」
『ぼくがいるとき、けっして明かりをつけて、ぼくの姿を見ようと思わないこと。これだけは守ってほしい』
「は、はい……」
 その夜、プシュケは、この姿の見えない夫の、楽しい話に耳を傾けた。

 って、それだけかいエロス! それでもおまえ男か? と、お思いの殿方もいらっしゃることでござりましょう。でもね。エロスは、心からプシュケを愛しているので、彼女がおびえたり、悲しんだりする姿を見たくないのですよダンナ。もとはといえば、てめえの矢の魔力なんだけどさ。これも自業自得というのかね?

 そんなわけで、相手が嫌がろうが泣き叫ぼうが、ベッドに押し倒しちゃうゼウスと違って(あのオッサンは強姦魔か)、とっても紳士的なエロスくん。毎晩、屋敷に通っては、暗闇の中でプシュケと会うんだけど、けっして、手を出したりはしない。

 でも、そのおかげで、プシュケの方も、日が経つにつれ、少しずつ、この姿を見てはいけない夫に心を開いていったんだ。次の日も次の日も、夜になると現れて、楽しい話をいっぱいしてくれる。こんな、優しい人が恐ろしい怪物なんかであるはずがない。いいえ。姿は恐ろしいのかもしれないけど、心はとてもすばらしい人だわ。と、そう思うようになった。

 やったじゃんエロス。えらい。伝家の宝刀、愛の弓矢を使わずに、プシュケの心を射止めたぜ。こうしてエロスとプシュケは、ついに、名実ともに結ばれたんだ。どういうことかって? そりゃあんた、ベッドの上で、例の、楽しいことをやったに決まってるジャンか。ただし、真っ暗闇の中で、お互いの姿を見ないようにしてね。

 こうなると、最初は自分の運命を悲観していたプシュケも、恋する乙女…… 失礼。もう乙女じゃないね。とにかく、幸せいっぱいの新婚さんなわけよ。

「だってぇ、あの人ったら、とっても優しいんですもん。きゃっ♪」

 と、ラブラブでございまして、見てる方は、ああ、そうですか。勝手にやってなさい。という感じ。おーい、だれか部屋の冷房いれてくれ!

 そりゃそうと、ここまでの話って、なんとなく、ディズニーの「美女と野獣」に似てると思わない? 神話作家の先生ったら、ディズニーの物語をパクったんじゃないのかな。ディズニーは著作権うるさいから、訴えられるぜ。わかってるって、逆だよね。ディズニーが、エロスとプシュケの神話から、ヒントを得たんだろうね。

 ごめん。話がそれた。

 そんなある日。プシュケは、娘が怪物の妻になって、泣き暮らしていると思っている父親のことを思い出したんだ。いまごろ思い出すなよ。

「そうだわ。わたしが幸せに暮らしていることを知らせて、お父さまたちを安心させて上げなきゃ」

 そこでプシュケは、二人の姉を、屋敷に招待することにしたんだ。父親が病に倒れたから、いったん里に帰ったって説もあるけど(こっちの方が、美女と野獣っぽいね)、まあ、どっちにしても、なんだかトラブルの予感がしないかい? だって、おとぎ話…… じゃなくて、今回は神話だけど、この手の物語に登場する「お姉さん」って、たいてい悪いヤツでしょ?

 そうなんだよ。プシュケの場合も例外じゃなかった。姉たちは、プシュケの屋敷に招かれて、まずビックリ。自分の家なんかより、はるかに立派なお屋敷だった。そして、ものすごいごちそうと、おいしいお酒と、優雅な音楽に迎えられて、妹が幸せに暮らしていることを喜ぶどころか、激しい嫉妬を覚えたんだよ。ある意味、とっても人間的かも。

「本当は、十マイルごとに屋敷を持っていて、そこに一人ずつ花嫁をおいてるような浮気者なんじゃないの?」
 と、姉の一人が言った。
「でも、姿を見せないなんて、おかしいじゃない」
 もう一人の姉が言った。
「やっぱり、アポロンさまが言うとおり、恐ろしい怪物なんだよ」
「そんなことないわ」
 プシュケは答えた。
「とても優しい人よ。わたしを大事にしてくれるわ」
「だったら、なんで姿を見せないのよ」
「さあ?」
「あんたも、のんきな子だね。いまは優しくても、そのうち恐ろしい大蛇になって、あんたを頭から飲み込んでしまうかもしれないよ」
「そんな、まさか」
 プシュケは、苦笑した。
 でも、嫉妬に狂った姉たちは、疑惑という名の毒を、一滴一滴、プシュケの心に染み込ませていったんだ。
 そして最後に、姉の一人がプシュケに小刀を渡した。
「プシュケ。食べられてしまう前に、その怪物が寝入ったところで殺してしまいなさい。あんたが無事に帰って来たら、お父さまも喜ぶわ」

 こうして、意地悪な姉たちは帰っていったんだけど。プシュケの心には、夫に対する疑念が芽生えてしまったんだ。みなさんご存じのとおり、一度芽生えた疑いの心は、なかなか消えないどころか、日々大きくなっていくもの。プシュケも、ついに耐えきれなくなって、ある晩、一大決心をしてしまう。いや、べつに夫を殺そうと思ったわけじゃないんだけど、けっして見てはいけないといわれている、夫の顔を見ることにしたんだ。

 夫が寝静まったころ、プシュケは、そっとベッドから起き上がって、ロウソクに火をともした。そして、夫を照らしながら、かがみこんで、その顔を見ると……

 そこに寝ていたのは、恐ろしい怪物どころか、見たこともないような美しい青年だった。肌は大理石のように白く、髪の毛は淡い炎のような色に輝いていた。そして、なによりプシュケが驚いたのは、彼の背中に、一対の、大きくて白い、なめらかな羽の翼がついていたことなんだ。

 夫は、神様だった!

 それに気づいて、プシュケは驚いた。そして、身を振るわせたとき。溶けたロウソクのロウが、夫の肩にたれてしまったんだ。エロスなんて名前だから、ロウをたらされて「ああ、もっと~」とか、いいそうだけど、もちろんそんなことは言わず、「あちちちっ!」と、下品な声も上げなかったけど、これでエロスの目が覚めてしまった。

「あ……」
 プシュケは、あわててロウソクを消そうとしたけど、時すでに遅し。
「プシュケ」
 エロスは、プシュケを悲しそうな目で見つめた。
「あ…… ご、ごめんなさい、あなた。わ、わたし……」
 エロスは、プシュケを怒らなかった。ただ、深い深い、悲しみの目で見つめていただけなんだ。
「プシュケ。きみは、神の姿を見てしまった。天界の掟を破った」
 エロスは、いったん言葉を切ってから、心底辛そうに言った。
「そして、ぼくを疑ったね。愛と疑いは相いれないものなんだよ」
「ち、違うの! わたしは、わたしは――」
「プシュケ。もう遅いんだ。一緒にいることはできない。さようなら」
 エロスは、白い羽を広げて、屋敷のバルコニーから天に飛んで行ってしまった。プシュケは、あまりのショックで、そのまま気を失ってしまった。そして、プシュケが気づくと、そこに屋敷はなく、彼女は森の草むらの上で寝ていたんだ。

 プシュケは、ひどく後悔した。夫を心から愛していたから、なんとか許してもらおうと、森の中をさまよい歩いて、夫を探し続けたんだ。アフロディーテは、そんなプシュケを夜でも目の利くフクロウに変えて、「フー(だれ?)フー(だれ?)」と、鳴かせているんだとか。

 と、ここで、終わってる物語もあるけど、じつは、このあとにまだ、ロングストーリーがあるんだよ。プシュケという名前は、「心」とか「魂」って意味だから、このあとのロングストーリーがないと、その名前の意味が説明できない。というわけで、ぼくは、まだ先に続く方の説を支持しているので、このエッセイも、まだ終わらない。

 さあ、いよいよ後半いってみよう。みんなついてきてるかな? 疲れてない? お茶でも飲んで、一服してよ。ぼくもいま、コーヒーを淹れたところだよ。

 プシュケが、森の中をさまようところに戻ろう。彼女は、愛する夫を探し続けるんだけど、もちろん見つからない。相手は神様だからね。そんなとき、だれかが片づけ忘れた農具を見つけたんだ。なんで、こんな森に、農具が散らかってるんだよ。という突っ込みをしちゃイカンよ。だって、一番突っ込みたいのは、ぼくなんだからね!

 と、書いてアップしたところ、いやいや、じつは、そこは山の頂の神殿で、べつに森の中に農具が散乱していたわけじゃないよ。というご指摘を、アップした翌日に掲示板でいただいた。うむ。なるほど、それはそうかも。説得力ありますな。(佐藤さん、ありがとう!)

 ともかく。プシュケは、農具をキチンと片づけて上げた。こういう親切はやっとくもんだよ。情けは人のためならずとは、よく言ったもんさ。プシュケの行いを見ていた、デメテルが、たいそう喜んだんだ(その神殿の主は、デメテルだったんだね)。デメテルっていうのは、クロノスとレアの娘で、豊穣の女神なんだ。早い話、ゼウスの兄弟。オリュンポスの神様の中でも、かなり地位が高い御方。なんたって、この人がいないと、地上に農作物ができないんだからね。(冬に農作物ができないのは、デメテルが娘の不幸な結婚に怒ってるからなんだ)

 いま、捨てる神あれば、拾う神ありって思った? はい、そのとおり。プシュケは、デメテルに助けられるんだ。

「あなたがプシュケね」
 と、デメテル。
「わたしを、ご存じなのですか?」
「もちろん知っているわ。わたしは、あなたの知らないことも知っている」
 そう言ってデメテルは、プシュケの夫が、エロスだったことを明かした。
「エロスさま……」
 やっと、夫の名を知ったプシュケ。
「もともと、あなたは、アフロディーテの怒りを買って、このようなことになったのです。アフロディーテの館に行って、彼女の許しを請いなさい。そうすれば、もう一度、エロスと会えるかもしれませんよ」
「はい! ありがとうございます、オバさま!」
「だれがオバサンじゃ!」

 と、デメテルさんが怒る前に、話を進めよう。デメテルに教わった道を通って、プシュケは、ついにアフロディーテの館にたどり着いた。

「アフロディーテさま! どうか、愚かなわたくしと、父の暴言をお許しください。お願いです、アフロディーテさま!」
「いいわよ。あんたが、そこまで頼むなら、あたしの言いつけを守れたら、許して上げることにしましょう」
「本当ですか!」
「神様に二言はないわ。ホホホ」

 もちろん、この性悪女が、プシュケを簡単に許すわけがない。彼女の「言いつけ」っていうのは、もう無理難題ばかりで、とても、できそうにないことばかり。

 でも、このときエロスはちゃんとプシュケを見ていたんだ。彼女が困っていると、必ず使者を送って、プシュケを助けた。こうして、エロスの助けを借りながら、プシュケは、アフロディーテの言いつけを、なんとかこなしていった。って、なんだかこの下り、ヘラに十二の試練を与えられたヘラクレスの話に似てるなあ。

 さあ、いよいよ最後の言いつけだ。でも、こんどばかりは、本当に大変。なんと冥界の王さま、ハーデスの嫁になった、ペルセポネ(デメテルの娘だよ)の美しさの秘密を、この箱に閉じ込めておいでと、アフロディーテは、プシュケに小さな化粧箱を渡したんだ。アフロディーテらしい言いつけだよね。

 そんなことできるか! ふつうは、そう思うけど、プシュケは言いつけを守って、冥界まで降りて、ペルセポネに事情を話したんだ。まあ、道中、いろいろ助けられたりしながらだけどね。その冥界の女王ペルセポネは、デメテルの娘だから、なかなか物分かりがいい。

「わかったわ。そういう事情なら、協力して上げましょう」
 そう言って、アフロディーテの化粧箱の中に、彼女の美しさの秘密を閉じ込めたんだ。
「さあ、これを持ってお帰りなさい。ただし、途中この箱を絶対に開けてはいけませんよ」
「はい。ありがとうございます!」

 プシュケは、喜んで帰り道を急いだ。でも、見てはいけないモノを見てしまうのがおとぎ話の鉄則なら、開けてはいけない箱を開けてしまうのが、おとぎ話の王道だ。プシュケは、うっかり箱を開けちゃうんだよ。

 さあ、中にはなにが入っていたと思う? 女性のみなさんには、とくに興味がおありかと思うので、ぼくが、そっと教えて上げましょう。なんと、箱の中には「眠り」が入っていたんだよ。そう。睡眠不足は、美容の敵ってわけさ。なーんだ。とガッカリした?

 箱を開けちゃったプシュケは、ガッカリするどころじゃなかった。すぐに、その眠りに捕らわれて、知覚を失い身動きできなくなって、屍となってしまったんだ。なんてったって、冥界の女王の「眠り」だからね。睡眠薬どころの騒ぎじゃないよ。人間が、その眠りに捕らわれたら、そのものずばり死んじゃうのさ。

 というわけで、プシュケは死んじゃいました。アーメン。

 ここで終わっている物語もあるけど…… うそうそ、そんな物語はありません。ちゃんと続きがあるからご安心を。

 ついに、たまりかねたエロスが、白い羽を広げて、プシュケのもとに飛んで行った。そして、プシュケにまとわりついた「眠り」をかき集めて、箱に戻したんだ。

「あ…… わたし」
 プシュケは、眠りから覚めた(いや、生き返ったというべきかな?)。すると、そこには、愛する夫がいるではありませんか!
「あなた!」
「プシュケ」
 エロスは、プシュケを抱きしめた。
「間に合ってよかった。きみは、死んでしまうところだったんだ」
「あなた…… ああ、あなた…… わたしを許して。あなたのことを、ほんの一時でも疑ったわたしを許して」
「ぼくこそ、きみにひどいことを言った。きみは、母のひどい言いつけを、よくがんばってこなしたね。辛かったろう」
「いいえ、いいえ!」
 プシュケは、首を振った。
「あなたに、許してもらえるなら、わたしは、どんな辛いことにも耐えられます」
 二人は、ひしと抱き合って、その愛を確かめ合った。
「さあ、この箱を持って、母から言いつかった仕事をやり遂げなさい。ぼくも、きみの努力を無にしないよう、がんばるから」
「はい」
 プシュケは、アフロディーテのもとに戻り、エロスは、父親のゼウスのところに向かった。

「ゼウスさま!」
 エロスは、ゼウスに訴えた。
「プシュケは、本当にすばらしい女性です。どうか、ぼくの妻にすることを許してください」
「うーむ」
 ゼウスはうなった。じつはこの人、こう見えて全知全能の神だから、プシュケの行いを見ていたんだよ。
「まあ、なんちゅうか、今どきの娘さんにしては、しっかりした子じゃな」
「でしょ。もう、あの笑ったところなんか、超かわいくて…… じゃなくて、許してもらえるんでしょうか?」
「うーむ。しかしなあ、人間と神の結婚は、簡単に許してやることはできんなあ」
「浮気ならいいんですか?」
「あ? いや、それはその」
「だいたい、ぼくだって、本当はあなたの子ですよ。ヘラさまにこのことを申し上げたら、大変なことになるんじゃないですか、お・と・う・さ・ん」
「わーっ、待て待て。おまえ、わしを脅すつもりかよ」
「プシュケと結婚するためなら、なんだってやりますよ」
「マジ?」
「まじめです!」
「かなわんな、もう……」
 ゼウスは、頭をポリポリと掻いた。
「まあ、本当に、よくできた娘だ。オリュンポスの一員に加えてやるのもよかろう」
「では!」
「うむ。結婚を許す」
「やったーっ! 父さん、ありがとう!」
「うはは。父さんと呼ぶな、バカタレ」

 なんて、ギャグっぽく書いてますが、実際は、プシュケが、懸命にアフロディーテのイジワルに耐えたので、ゼウスはそれを愛でて、二人の(人間と神の)結婚を許したんだ。エロスが、ゼウスを脅したのは、ちょこっとぼくの捏造(笑)。

 でもね。このあと、ゼウスが、アフロディーテを説得するのに、えらい苦労をしたのは本当だよ。ま、これこそ自業自得だな。ヘラ姉さんに気づかれなかっただけでも、ありがたいと思え。

 そんなわけで、プシュケは、神々の食べ物、不老不死の力を持つ「アンブロシア」を与えられて、神と同じ不死を得て、ついに、エロスと本当の夫婦になることができたんだ。そして二人は、「喜び」という名前の子供をもうけた。

 さて。神々の序列に加わったプシュケなんだけど、彼女の仕事は、結婚を控えている花嫁の身内が、あれこれ、お節介なおしゃべりするのを封じることなんだってさ。そういう連中が、「百聞は一見にしかず。自分の目で見て確かめなさい」なんて、花嫁を不安にさせてると、プシュケが花嫁のところに現れて、耳元でささやくんだそうだ。

「人の言葉にまどわされてはダメ。信じることは見ることと同じ。愛だけが愛する人の秘密を知るのよ」

 ってね。

 いかがでしたか。けっこうな純愛ストーリーでしたね。さすが、愛の神さまだ。ところで、プシュケの名前の意味の「心」「魂」だけど、一度死んで、エロスに生き返らせてもらったから、そういう名前になったと言われてる。たぶん、魂が身体から遊離したからだと思うけど、詳しいことは勉強不足でわかんない。でも、彼女の名(Psyche)は、心理学(Psychology)のもとになったんだよ。エロスより扱いいいね(笑)。

 というわけで、久々のギリシア神話は、これにて終了。最後まで読んでくれて、ありがとう。