カシキヤ姫

 カシキヤ姫。彼女は後の、日本最初の女帝「推古天皇」になった女性です。なんでこんなことを書くかというと、昨日(8月18日)の朝日新聞の朝刊に、一面トップで報道されましたから、ご存じのかたも多いでしょうが、なんと奈良で、推古天皇のお墓と思われる横穴式石室が出土したのです。もしも、この石室が推古天皇のものであるとしたら、大発見です。興味のない方は、なかなか実感がわかないかもしれませんが、本当にマジでどえらい発見です。

 現在、天皇陵は宮内庁によって管理され、その発掘調査が認められていません(多少の例外はある)。天皇陵を調査できたら、歴史の謎の大部分が解明されるはずと期待されているんですけど、宮内庁(天皇家)は、頑として調査を拒んでいます。だから、天皇陵に指定されていない石室が、天皇の墓であった場合、天皇陵に指定されちゃう前に調査しなくっちゃいけない。というか、調査できること自体、すごいラッキーなことなんです。しかも、それがあんた、かの有名な日本初の女帝、「推古天皇」の物であったとしたら、もう、考古学者にしてみたら、盆と正月とクリスマスがいっぺんに来たような大騒ぎなわけですよ。朝刊の一面トップで報道されるのも当然です。

 というわけで、推古天皇について書きましょう。

 彼女は第29代天皇である、欽明天皇の3女です。そして第30代天皇、敏達天皇の奥さんでもあります。ちなみに敏達天皇も欽明天皇の次男ですから、つまり、兄と妹が結婚したわけです。いまでいうところの近親相姦…… じゃなくて、近親結婚ですが、ま、古代の皇室にはよくある話。あまり気分は良くないですけど、皇室の血筋を守るため近親結婚は頻繁に行われていたのです。

 いきなりですが、脱線します。そもそも、この「皇室の血筋」ってヤツが、かなりいい加減なものなんです。ハッキリ申し上げましょう。現在、記録に残っている天皇の中で、初期の人たちは、おそらく架空の人物です。日本書紀を編纂した、藤原不比等が、自分の都合のいいように作り出した可能性が大きいのです。(以前のエッセイで、このことには少しふれましたね)

 最初にそれを指摘したのは、江戸時代の歴史学者、山片蟠桃(やまがたばんとう)です。彼は日本書紀に記されている天皇の系図に疑問を持ちました。初代天皇である「神武」から、15代天皇である「応神天皇」あたりまでが、どうもおかしい。まず、初代から13代までが、すべて直系子孫だというのが、むちゃくちゃ怪しい。14代の仲哀天皇は違いますが、彼はヤマトタケルの息子なんて書かれている。ヤマトタケルの息子? ちょっと待ってよ。ヤマトタケル自体、その実在が怪しいぜ。15代の応神天皇も記述があやふやというか、伝説くさい。まともになるのは16代の仁徳天皇あたりから。

 とにかく、13代に渡って、ひとりの例外もなく、すべてが直系で繋がっている。そんなこと、本当にあるのだろうか? と、蟠桃(ばんとう)は考えました。つまり、子孫を残す前に死亡した天皇はいないのです。医学の発達していない古代にですよ。蟠桃の江戸時代だって、子供ができない将軍も、幼くしてなくなった将軍の子供もたくさんいました。だから、兄弟や親族から将軍が出ているわけで、けっして直系で成り立っていたわけではない。ところが、日本書紀は、初代から13代までの天皇が、すべて直系だと言う……

 てやんでいベラボウめえ、そんなバカことあるかい! 藤原不比等だか、イロハニホヘトだか知らねえが、江戸っ子をナメんじゃねえぞ!

 失礼。彼は、「日本書紀は歴史書としての信憑性に欠けますな」と結論したわけです。そこで発表したのが「神代史創作説」です。少なくとも初代天皇から13代までは、藤原不比等(というか、日本書紀制作スタッフ)による、創作であるという説。つまり、うそっぱちだよん。ってこと。文化勲章も授与された著名な歴史学者、津田左右吉(彼は、近代歴史学の恩師といえましょう)も、自身の研究により、蟠桃の説を支持しました。というか、さらに緻密な研究を重ねて、日本書紀の記述のあいまいさを指摘したのです。もはや、初代から13代までの天皇が、実在の人物だと信じることはできません。

 これは定説です。広辞苑をお持ちの方は、初代天皇の神武から15代の応神までを引いてみてください。15代までは「記紀伝承で、第○代天皇」と書かれています(記紀とは、日本書紀と古事記をひとまとめにして言う言葉)。つまり「伝承」なんですね。

 そんでもって、16代の仁徳から33代の推古までは「伝承」がとれて、「記紀で、第○○代」。という表記に変わります。34代の舒明になってやっと、「記紀で」も外れて、単に「第○代」となります。整理しますと、日本書紀の記述は、「初代~15代」は、かなり信憑性が低い。「16~33代」は、疑問がある。「34代~」が、やっと信頼できるかなと。そういうことです。

 さて、ここで日本書紀に書かれた、推古天皇の前後、数世代の天皇を書き出してみましょう。

29代 欽明
30代 敏達(欽明天皇の次男)
31代 用明(欽明天皇の4男。聖徳太子の父)
32代 崇峻(欽明天皇の長男。蘇我馬子に暗殺される)
33代 推古(欽明天皇の3女で敏達天皇の皇后。聖徳太子を摂政とする)
34代 舒明(敏達天皇の孫)
35代 皇極(舒明天皇の皇后。天智、天武天皇の母)
36代 孝徳(皇極天皇の弟)
37代 斉明(皇極天皇ご本人。弟の孝徳天皇が早死にだったので、返り咲き)
38代 天智(皇極天皇の次男。蘇我氏を滅ぼす)
39代 弘文(天智天皇の長男)
40代 天武(皇極天皇の3男。古事記の編纂を命じる)
41代 持統(女帝:天智天皇の次女。日本書紀の編纂を命じる)
42代 文武(持統の孫)
43代 元明(天智天皇の4女。古事記を完成させる)
44代 元正(元明天皇の長女)
45代 聖武(文武天皇の長男。奥さんの光明皇后は、藤原不比等の娘)
46代 孝謙(女帝:聖武の次女)
47代 淳仁(舎人親王の第七王子。淡路島に流刑されて死亡)
48代 称徳(孝謙天皇と同一人物。淳仁の失脚で天皇に返り咲き)

 ふう…… 疲れた。うーん。ビジュアルな系図が書ければいいんですけどねえ。

 余談。おや? 上の年表を見ると、古事記のほうが日本書紀より古いぞ。そうです。古事記のほうが早くに着手されましたが、天武天皇の死去により、そのプロジェクトはしばらくお蔵入り。三代あとの元明天皇の時代にやっと完成したのでした。余談終わり。

 さて。カシキヤ姫(推古天皇)について。彼女の生きた時代を描いてみましょう。かなり複雑ですが、興味のある方はがんばって読んでください。

 敏達天皇(30代)の時代。蘇我氏と物部氏という、二大勢力がいました。彼らは天皇家ではなく豪族。いわば天皇の家来です。しかし、強大な力を誇っていた。しかも、仏教を日本に広めるか広めないかで、蘇我と物部は激しく対立していたのです。蘇我氏が仏教派で、物部が反仏教派です。いいですか、ここが肝心ですよ。蘇我氏は仏教を広めようとした。ということはつまり、日本の神々を否定していたのです!(意味ありげ~)

 そうこうするうちに、世間では疫病がはやります。物部たちが「それみたことか。仏教なんぞ広めようとするから、日本の神々が怒ったのだ」と、勢いづきます。なんと、蘇我氏に近かった敏達天皇までが疫病で死んでしまうのです。

 敏達天皇の奥さんだったカシキヤ姫は、未亡人になっちゃったわけです。

 そこで蘇我氏は、カシキヤ姫を自軍に引き入れて、親仏教派の、彼女の兄を天皇に擁立します。31代、用明天皇の誕生です。ちなみにカシキヤ姫の母親は、蘇我稲目(そがのいなめ)の娘です。つまり、カシキヤ姫は蘇我氏の親族。

 これで蘇我の天下になるかと思えば、残念ながらそうなりませんでした。陰謀と策謀がうずまき(これがまたおもしろい話なんですけど)、戦いは激化するばかり。

 この戦いに決着を着けたのが、用明天皇の息子です。彼の名は厩戸皇子(うまやどのみこと)。なに? こんなヤツ知らない? いやいや、あなたは彼を知っています。だって、厩戸皇子は、後に聖徳太子と呼ばれるんですから。(念のため申しますが、万が一にも聖徳太子をご存じないとしたら、かなりヤバイです。いますぐお父さんとお母さんにご相談ください)

 聖徳太子。ジャジャーン。ヒーローの登場ですね。聖徳太子は、ご存じのようにとびきりの切れ者。物部を見事に打ち破ります。これでついに、蘇我氏が権力を掌握し、仏教が日本に広まりました。

 このあと、用明天皇の兄が天皇に即位します。32代、崇峻天皇の誕生です。彼はあまりにも強大になった蘇我の横暴が許せず、蘇我馬子を倒そうとします。が、逆に暗殺されて終わり。

 え? 天皇が、自分の家来に殺されたの? 

 そうです。崇峻天皇は身分としては家来である蘇我馬子に殺されました。これは大変な事件です。いかに蘇我馬子といえど、主である天皇を殺しては流刑は必至。

 ところが、そうなりませんでした。馬子は流刑にされるどころか、崇峻天皇を殺したあと、いままで以上の権力を手にしたのです。いったいなぜ? 宮中になにが起こっていたのだ? しかし、日本書紀はなにも語らず、つぎへ進みます。

 で、崇峻天皇亡きあと、蘇我馬子は敏達天皇の皇后、カシキヤ姫を天皇に即位させます。これでついに、蘇我氏の血を引く人物が天皇になりました。思い出してください。カシキヤ姫は蘇我稲目の娘の子供。馬子も稲目の子供ですから、カシキヤ姫は姪にあたります。

 そうなのです。馬子は自分の姪っ子を天皇に祭り上げたのでした。その天皇こそ、日本最初の女帝、推古天皇なのです!

 推古天皇は、とにかく初めてづくし。いままで摂政なんて官職はなかったのですが、甥っ子で物部退治の功労者、聖徳太子を摂政に任命し、政治を任せます。ふと考えると、蘇我馬子が、よく聖徳太子にそんな権力を与えたなあって思うのですが、よほど聖徳太子の能力を愛でていたんですね。それに聖徳太子は、馬子とは血も繋がっていますから、権力を与えることになんの問題もなかったのでしょう。それにしても、もはや蘇我氏は天皇家以上の存在ですね。

 推古天皇の時代は、蘇我氏の強力な力をバックに、天才である聖徳太子が自由にその政治手腕を発揮しました。「十七条憲法」知ってますよね?

 ところが……

 推古天皇が崩御します。彼女が死ぬと、政治の勢力図が塗り変わっていきます。推古天皇は自分の子供にあとを継がせたかったのですが、みんな早死。そこで白羽の矢が立つのは、当然、甥っ子の聖徳太子。しかし、推古天皇は長生きしすぎました。聖徳太子の方が先に死んじゃうんです。さっさと聖徳太子に帝位を譲っていれば、このあとの跡目争いもなかったかもしれないのに。

 で、候補者は二人。聖徳太子の息子である「山背大兄王」(やましろのおおえのみこと)と、敏達天皇の孫、「田村皇子」(たむらのおうじ)です。王位継承権でいうと、田村皇子の方が有利なのですが、山背大兄王には蘇我氏がバックにいます。ここは山背大兄王で決まりでしょう。

 しかし、さすがに他の豪族が黙っていませんでした。山背大兄王は、蘇我氏の血を引いています。ここで山背大兄王が天皇になれば、もう蘇我の勢いを止める者はだれもいなくなる。その点、田村皇子なら、蘇我氏の血を引いていないので、彼に天皇になってもらえれば、蘇我氏の力を弱めることができる。

 蘇我氏にとって運が悪いことに、最大の実力者、蘇我馬子はすでに死んでいます。しかも、当時の蘇我氏の当主「蘇我蝦夷」(そがのえみし)はあまり押しが強くなかった。いえ、どちらかと言うと気弱な男でした。蘇我氏に押さえつけられていた他の豪族は、ここぞとばかり蘇我蝦夷を脅します。血筋を無視して山背を帝位につけたら、一致団結して蘇我氏と戦うぞと。

 けっきょく、蘇我蝦夷は豪族たちの迫力に負け、田村皇子を帝位につけることを認めてしまいます。これで第34代、舒明天皇が誕生しました。と同時に蘇我氏滅亡の足音がヒタヒタと聞こえてくるのでした。ふたたび血生臭い時代の幕開けです。

 舒明天皇は、ハッキリ言って凡庸でした。まあ、彼の前に政治を取り仕切っていたのは聖徳太子ですからね。天才と比べちゃいけない。とはいえ、舒明は帝としての才能に欠けるとしかいいようがない。なにしろ「なにもできなかった」んですから。ホント、やる気あるんかい! って感じ。聖徳太子時代は、中国とも対等な外交なんぞやってた日本ですが、舒明のときはバカにされっぱなしですよ。

 その舒明天皇が崩御すると、皇后が帝位につき、皇極天皇が誕生しました。このころになると、さすがに人々は聖徳太子時代が懐かしくなります。幸いなことに、前回、跡目争いで負けた聖徳太子の息子、山背大兄王は健在で、しかも父親に似て頭脳優秀。聡明な男です。彼がつぎの天皇になれば、ふたたび聖徳太子のような、優れた政治を執り行ってくれるかも。

 ここで焦ったのが皇極天皇。せっかく、「蘇我、推古、聖徳太子」というラインから、奪った帝位が、また、蘇我へ戻ってしまう。これはヤバイ。そこで彼女は、蘇我氏に近づきます。蘇我蝦夷の息子、蘇我入鹿(そがのいるか)を抱き込んで、山背大兄王の暗殺を計画します。しかし、入鹿にとって山背大兄王は親戚。血族を殺すなんてことがあるのでしょうか。

 あるんです。入鹿は父親の蝦夷より野心家だったので、皇極天皇の方に付くことにしたのです。蘇我氏としては、衰えた力を回復するには、ふたたび天皇家と結びつくしかないのです。

 ともかく、蘇我入鹿は山背大兄王を殺します。このとき入鹿は、山背大兄王だけでなく、聖徳太子の子孫、二十五人(山背大兄王含む)をすべて虐殺しているのです。ここに推古、聖徳太子コンビの血筋は絶えます。同時に、蘇我入鹿は強大な力を持つに至る。

 ここで覚えておいてほしいことは、入鹿は聖徳太子の子孫、二十五人をすべて虐殺したってことです。いいですか、聖徳太子は蘇我の血を引いてるんですよ。なのに、蘇我入鹿は、彼らを絶滅させたのです。いくら権力が欲しかったからと言って、自分で自分の血を断っなんて暴挙をどうしてやってしまったのでしょうか。変な男ですね。

 またまた、陰謀が渦巻きます。こんどの主役は皇極天皇の息子、「中大兄皇子」(なかのおおえのおうじ)です。彼は現在のところ、帝位につく血筋としてはナンバーワン。母親が崩御すれば、彼が天皇です。しかし、蘇我入鹿が力を持っているのが気に食わない。なにしろ、蘇我入鹿はなかなかの政治家で、聖徳太子ほどではないが、それなりに優れた政治を行ったのです。中大兄皇子にしてみれば、自分はすっかり蚊帳の外という感じ。

 そこで、中大兄皇子はブレインの中臣鎌足(なかとみのかまたり)と、蘇我氏打倒の計画を練ります。なんと彼らの考えた計画は、母、皇極天皇と同じく、蘇我氏を利用するというもの。しかも、母親よりはるかにえげつない。(ちなみに中臣鎌足。こいつ、雑魚じゃないんで、覚えておいてね)

 まず、叔父である軽皇子(かるおうじ)を抱き込みます。軽皇子は、蘇我入鹿と親しいのですが、王位継承権では中大兄皇子に負けるので、彼自身帝位につく可能性は低い。しかし、中大兄皇子は、自分の前に、軽皇子が天皇になるように取り計らいますよと、甘い言葉で彼を誘ったのでした。今度は蘇我石川麻呂に近づきます。石川麻呂は馬子の孫ですが、入鹿が蘇我氏の実権を握っているので、あまり目立たない。中大兄皇子は、そこに目をつけたのです。石川麻呂に、「入鹿を殺せば、蘇我氏は、きみの思うままだぜ」なんて、またまた甘い言葉で自軍に引き込みます。蘇我入鹿は、知らぬうちに、盟友であるはずの軽皇子。そして、血縁である石川麻呂を失っていたのです。

 いよいよ入鹿殺害の準備は整った。中大兄皇子は、宮廷でパーティーを開き、そこに入鹿を呼びます。宴もたけなわ。みんないい気分で酔っぱらっているころ、中大兄皇子が入鹿に言います。

「入鹿。そこの道化師の刀を抜いて見せてはくれないか」
「殿下。またなんでそんなことを?」
「いいではないか。これも余興だ」
「ふむ。わかりました」
 入鹿は、中大兄皇子に言われるまま、道化師が差していた刀を抜きます。
 すると……
「きさま!」
 中大兄皇子が、杯を捨て去って叫びます。
「宮中で刀を抜くとは何事だ! さては、謀反を起こすつもりか!」
「は?」
 と、一瞬、唖然とする入鹿。しかし、これが中大兄皇子の陰謀だと、すぐに気づきます。
「殿下! なんという薄汚いマネを!」
 自分だって、聖徳太子の息子を殺したじゃねえか。と、言いたいですが、人間って自分のやった悪行は忘れるモノらしいです。
「ふふふ入鹿よ」
 中大兄皇子は不敵に笑います。
「観念せい。ここがおまえの死に場所だ」
 そして中大兄皇子は、宮中の兵士に入鹿を打ち取れと命じます。しかし、兵士たちは蘇我入鹿が絶大なる力を持っていることを知っています。蘇我氏の復讐が恐ろしくて、なかなか手が出せない。
「ええい、ふがいないヤツらだ!」
 中大兄皇子は、そう叫んで、自ら入鹿を切りつけます。
「さあ、おまえらも切れ! 入鹿を切らぬヤツは、謀反の共謀者として捕らえるぞ!」

 こうして、蘇我入鹿はズタズタに切り刻まれ、その死体は地面に放り出されて、そのまま放置されたそうです。陰謀によって権力を手に入れた入鹿は、陰謀によって哀れな最後をとげたのでした。歴史の教科書では、この事件を「大化の改新」と呼びます。

 計画がまんまと成功したので、中大兄皇子はブレインの中臣鎌足に「藤原」の性を与えます。ここに「藤原家」が誕生しました。

 おっと、ついに藤原が出てきましたよ。日本書紀を作った藤原不比等は、藤原鎌足(中臣鎌足)の次男ですな。

 この後歴史は蘇我家から、藤原家の天下へと移っていきます。

 さて。約束通り中大兄皇子は、叔父の軽皇子を帝位につけます。孝徳天皇の誕生です。そして、蘇我石川麻呂を孝徳天皇の右大臣としてつけます。しかーし、中大兄皇子の本当の目的は蘇我氏の撲滅。蘇我石川麻呂は右大臣になってまもなく、スキャンダルをでっち上げられて失脚。その後に自殺しています。これで推古天皇を輩出した蘇我氏の血は、完全にこの世から消えてなくなる。

 孝徳天皇が崩御すると、いったん皇極天皇が帝位に返り咲きますが、彼女が死んで、ついに陰謀の名手、中大兄皇子が帝位につくのです。天智天皇の誕生です。

 天智天皇。こいつはクセ者です。じつは、彼のところで天皇家には一つのターニングポイントを迎えます。それは、彼以後、天皇家は万世一系となるのです。しかし、万世一系を守るための努力は並々ならぬものがありますよ。もう、ぜったいほかの連中に帝位を渡すもんかって執念がなければ、成し遂げられない。事実、大変ですよ。

 ここで天智天皇から聖武天皇までの系図をたどってみましょう。

 まず、天智天皇(38代)は、舒明天皇(34代)と皇極天皇(35代)の次男。
 つぎの39代は、天智の息子「弘文」が継ぎました。
 つぎの40代は、天智の弟の「天武」が継ぎました。

 ここからが、かなり複雑。

 41代の持統天皇は、天智の次女ですが、天武の奥さんです。つまり、天武は姪っ子と結婚したわけです。で、天武と持統の間には、草壁皇子という息子が生まれます。この草壁が、天智の4女(元明)と結婚し、文武(42代)が生まれます。なんだか、ものすごい近親結婚ですね。しかし、文武は短命でした。24歳で死んでます。息子はいるんですが、まだ幼い。そこで文武の母、元明が43代の天皇に即位します。在位は8年。そのあと44代は、元明の娘、元正が継ぎます。在位は9年。この親子でなんとか文武の息子が大きくなるまでしのぎ、やっとこさ、聖武が45代の天皇に即位します。

 わかります? いや、いいです。天智天皇から聖武天皇までが、きわどい近親結婚を重ねて、直系ラインを守ってるってことを理解していただければ。

 さてさて。最後に登場した聖武天皇。これがまたクセ者です。彼は光明という奥さんをもらっていますが、この光明皇后は、なんと藤原不比等の娘なんです。不比等は天皇の家来ですから、臣下から皇后が出るってことが異例中の異例。というか、このときが歴史上初めてなのです。家来が自分の血を皇族の中に入れるというのは、推古天皇と聖徳太子の時代に、絶大な力を誇っていた蘇我氏と同じ力を持ったと思っていいでしょう。というか、藤原家の悲願だったわけですよ、自分たちの血を皇族の中に入れるのが。藤原不比等は、それをやってのけたわけです。

 さて。まんまと、自分の娘を聖武天皇の嫁さんにすることに成功した藤原不比等ですが、歴史が示す通り、いつまた「別の血」が天皇家になるとも限らない。そこで不比等は考えました。

 天皇は神の子であり、初代からめんめんと続く万世一系の家系である。だからこの先、未来永劫、何人も天皇家を犯すべからず。という、歴史を作っちゃえ! そう思い立ってしまったわけです。こうすれば、藤原家の血を引いた皇族が、これから先ずっと天皇であり続ける。そう信じたわけですよ、このオッサンは。

 こうして藤原家による歴史の創作が始まります。それが日本書紀なのです。上の方で初代から15代ぐらいまでの天皇が創作だと書きましたが、それは、その時代の天皇が直系で受け継がれてはいなかったからです。不比等はそれをねじ曲げて「万世一系」の神話を作り上げた。

 これでやっと最初の話題に戻れます。そう「推古天皇」です。彼女のことは日本書紀と、それを元にして書かれた古事記にしか出てきません。これには、学者でなくても疑問を持ちますよね。「推古=蘇我家」ですから、藤原家の書いた歴史書に、彼らの正確な記録が書かれているはずがありません。だって、「推古=蘇我家」の血筋を、この世から抹殺した張本人ですよ、藤原家は。「勝者の歴史」とはよく言ったモノです。日本書紀は、勝者である「天智=藤原」の連中が書いたもの。お世辞にも正確な歴史書ではない。

 しかし。冒頭でも書きました通り、推古天皇のお墓と思われる石室が見つかりました。もしこれが、本当に推古天皇のものであれば、われわれは、初めて藤原家の書いた歴史以外の、「真実」を手にすることになるかもしれないのです。

 まさに大発見ですよね。

 もっとも、推古天皇のお墓であるかどうかの確証はまだありませんし(すでに疑問を投げかけている学者もいる)、たとえそうだとしても、なにも発見されないかもしれません。でも、ロマンは持ち続けたいですね。いつか「真実」がわかる日が来るという。

 なんだろう。ごめんなさい。推古天皇のことを書こうかと思ってたら、歴史の教科書になってしまいました。

 でもまあ、たまにはいいよね、こういうエッセイも。