真夏の夜は悪夢に変わる

 初めに。

 ぼくがこの物語を書くことになったキッカケは、一年ほど前に知り合った友人の勧めがあったからである。
 彼との出会いは、ある印刷所が経営するスチール撮影のスタジオだった。そこは大手スーパーのチラシ広告を撮影するスタジオで、物流倉庫の真っ直なかという殺風景なところにあった。
 彼の名は星一彦。ぼくと同業のフリーカメラマンだ。もっとも、カメラマンと言ってもその種類はさまざま。芸術家と呼ばれる作家や、広告業界で何千万円も稼ぐ有名カメラマンは氷山の一角だ。一番多いのは、出版社や編集プロダクションからの依頼で、雑誌や書籍に掲載するカット写真を撮る連中だろう。そういう連中は、出版の仕事だけでなく、ギャラの安いチラシ撮影や、はては結婚式のスナップ撮影まで、なんでもこなす。いわゆる写真業界の何でも屋だ。ぼくもその一人であり、星一彦もそうだった。つまり、ぼくらは似たような仕事をしているわけだ。そんなわけで、一彦とは何度か顔を合わせるうちに酒でも飲みに行くか。と、なったのである。
 フリーランスなどやっていると、年齢が近く仕事に共通点も多い同業者とは、仕事を奪い合うライバルになりそうなものだが、ぼくらはそういう関係にはならなかった。お互い、金を稼ぐことにそれほど貪欲ではなかったおかげかもしれないが、二人とも年齢の近いカメラマン仲間がいなかったので、この業界で腹を割って語り合えるような友人がほしかったのだ。そして、実際ぼくらは一年ぐらいの時間をかけてそうなった
 そんなある日。ぼくは彼にささやかな秘密を打ち明けた。ぼくは小説を書くのを趣味としているのである。
 幸いにも彼は興味を持ってくれた。ぼくは、早速そのころ書き上げたばかりのコメディ小説を彼に手渡した。
 喜ばしいことに、彼はぼくの小説をたいそう気に入ってくれた。そして彼の奥方にも読ませたらしく、夫婦で楽しく読ませていただいたと、思わず頬がゆるむような賞賛を頂戴したのである。(もちろん、その晩の飲み代は、ぼくが支払ったのは言うまでもない)
 さて。そんなわけで、ぼくは新しい読者を二人も得たわけなのだが、ある日、彼の方から、ホラー小説を書いてみないかと持ち掛けられた。
 正直言って、ぼくの文体は(文体などとたいそうな物ですらないが)、コメディ向きである。まあ、世にはファンタジック・ホラーなるジャンルも存在するので、まったく書けないとは思わないが、いわゆるステーブン・キング系のおどろおどろしい作品は無理だろう。
 そう言って難色を示すぼくに、彼は意外なことを口にした。ネタを提供するというのだ。ちょうど梅雨も明け、蒸し暑い季節が訪れていたこともあり、こりゃよくある怪談話でもするつもりだな。と、ごく軽い気持ちで、彼の話を聞くことを了承した。
 すると、話すのは今日ではなく、暇な時に家に来てくれないかと彼は言った。かなり込み入った話らしく、場末のバーでウィスキー片手に語れるような内容ではないそうなのだ。さらに、彼の奥さんとの共通の体験なので、自分一人より、奥さんがいる方がいいともいった。
 だからぼくは、何日かしてから彼のアパートを訪れた。
 彼の奥さん(この日、初めてお目に掛かった)に出迎えられて、ぼくは玄関を上がった。アパートのグレードとしては、ぼくの部屋と大差ないが、初めてお目にかかる奥さんは、彼にはもったいないほどの美人だった。
 奥様の美味しい手料理をご馳走になったあと、いよいよ、星夫妻による怪談話の披露となった。部屋の電気を消して、ロウソクでも灯したらどうかという、ぼくの提案はあっさり却下され、ごく普通の状態で話は始まった。
 ぼくは、彼らの話が進むにつれ、夢中になってメモを取っている自分に気づいた。なぜなら、その話は、三年前に世間を騒がせたある事件についてだったからである。それほど鮮明に記憶しているわけではないが、当時、ニュースを見ながら、日本も恐ろしい国になったものだと思った記憶がある。
 ぼくの友人夫婦は、その事件の当事者だったのだ。彼らから聞く事件の真相と全容は、じつに興味深いものだった。
 話を聞き終わって、ぼくはかなりのショックを受けつつ、同時に悩んだ。これを書いていいものかどうかと。だが、アマチュア作家ながら、文筆をたしなむ者としての使命感のような感情にかき立てられ、書くことを決意した。

 物語は、ちょうど今日のように、寝苦しい夜から始まる……





 205号室のドアが開いた。部屋の電気がつく。
「OH、My……」
 サラはブルーの瞳をしばたかせて思わず声を出した。予想どおり散らかっている。
「どうして、たった一週間でこれだけ散らかせるのかしら?」
 サラは部屋の中を見渡したあと、金髪のロングヘアーをポニーテールに結び、スーパーで買ってきた野菜と魚のパックを冷蔵庫にしまった。
「さて、やりますか」
 サラはそうつぶやくと、部屋を片づけ始めた。
 誰だって、散らかった部屋は好きではない。特に、女性はその傾向が強い。もちろん、サラもその一人だ。だがサラは、あまりにも綺麗に掃除され、整理整頓の行き届いた部屋もあまり好きではなかった。
 サラの父は神経質な性格だった。いや、過去形ではなく、今もそうだろう。早い話、アルミサッシの隅っこを指でなぞって、わずかなホコリを発見するタイプなのだ。
 それが、サラの両親が離婚した直接の原因だとは言わない。だが、ほんの些細なことから食い違いが発展していくのも、また事実だろう。
 サラは掃除機を掛けながら思った。男なんて、少しぐらいずぼらな方がいい。この部屋の住人が、自分の父親のような性格だったら、たぶん、三日で別れているだろう、と。
 でも、これは、ちょっとずぼらすぎない? とも思った。

 年代物のフランス車が、アパートの裏にある駐車場に停まった。ライトが消え、エンジン音も止まる。
 一彦は、車のドアを開けた。もう、夜の九時だというのに、むわっとした熱気が体を包み込む。今日も、寝苦しい夜になりそうだ。
 205号室。
 一彦の部屋だ。数字が示すとおり二階にある。一彦は、毎月月末になると東京の住宅事情の悪さを実感する。決して広い部屋ではないのに、家賃は十万円を超えているのだ。
 はっきり言って生活は苦しい。バブルが弾けて仕事の減ったカメラマンには十万円以上の家賃はかなりの負担だった。
 もっとも、一彦の場合、バブルの頃だって、それほど景気が良かったわけではない。前から欲しかった年代物のフランス車、正確に言うと、83年式のシトロエンCXを手に入れられたのが、バブルが与えてくれた唯一の恩恵だった。それも、バブルで儲けたのではなく、バブルが弾けて、外車の値段が安くなったから買えたのである。
 一彦は、車のトランクからカメラバックと三脚を取り出して肩にかついだ。疲れた足で階段を上る。それでも、いつもよりいくらか足どりが軽かった。今日は土曜日なのだ。明日は休み。そして、暗い部屋に明かりの灯っている日だった。

「ただいま」
 一彦はドアを開けた。
「おかえりなさい」
 サラが一彦を迎えた。
「おお、部屋が綺麗だ」
 一彦は、散らかっていたはずの部屋を見渡した。
「先週も同じこと言った」
 サラは一彦を睨んだ。
「ついでに言うと、先々週も、その前の週も同じこと言ったわ」
「愛してるよ、サラ」
 一彦は、サラを抱き寄せてキスをした。
「バカ」
 サラは笑った。
 作戦成功。一彦は、サラに睨まれると、いつもこの手で切り抜ける。もっとも、そんなことは、サラの方でとっくに分かっていることだが。
「それにしても、遅かったわね」
 サラは、一彦の腕を振りほどいて言った。
「もしかして、晩ご飯はもう済ませちゃった?」
「いや、夕方に軽く食べたけど、本格的には食べてないよ。サラが来てると思ったからね」
「そう。ウナギを買ってきたの。食べられる?」
「土用の丑の日か。いいね。なんか、お腹が減ってきたよ」
「ふふ。本当の土曜の丑の日はまだ先よ。でも、よかった。今、暖めるわ。すぐできるから、ビールでも飲んでて」
 サラは、冷蔵庫からアサヒのスーパードライを取り出して一彦に渡した。そして、ウナギの蒲焼きを魚焼きのグリルに入れた。
 サラは髪を金髪に染めた日本人ではない。彼女は国籍も血筋も紛れもなくアメリカ人だ。カレッジを卒業してすぐに日本に来た。六年前のことだ。今は英語の教師として、日本の高校で働いている。
「一彦」
 サラがキッチンから声をかけた。
「ご飯も食べれる?」
「もちろん。うな丼にしてくれよ」
 一彦は、居間のクーラーを強めにしながら答えた。
「OK。悪いけど、食器を運んでくれる?」
「はいはい」
 二人の出会いは、今から十二年も前に遡る。当時、高校生だった一彦は、祖父に資金を出してもらって、夏休みの一ヶ月だけアメリカにホームスティしたことがある。サラはそのときのホストファミリーの親戚の子だった。
 一彦は、特に英語が得意だったわけでも好きだったわけでもない。それでも、ホームスティに行ったのにはちょっとした訳があった。日本にいたくなかったのだ。もっと正確に言えば、両親と一緒にいたくなかったのである。
 一彦の両親は離婚する寸前だった。元々の原因は父の浮気だったらしいが、母親にも男がいたのを一彦は知っている。
 サラと一彦はすぐに親しくなった。二人は同じように若く、そして同じような悩みを持っていたのだ。これだけで、若い男女が親しくなる理由は充分だった。
「もう、日本に来て六年になるけどね」
 サラは、器用に箸を使ってウナギの蒲焼きを口に運んだ。なまじ、子供の頃から変な癖がついている一彦より、箸の使い方がうまい。日本語も発音がネイティブとはではいわないが、最終学歴が写真の専門学校である一彦に、たまに漢字を教えるぐらいなのだ。
「日本の夏の蒸し暑さだけは、どうにも慣れないわね」
「だから、日本人はウナギを食べるんだよ。栄養満点、体力回復ってね」
「そうそう。このウナギも、最初はビックリしたっけ」
 サラは、ウナギをひっくり返した。
「ほら見てよ、この皮。こんなの、アメリカ人は絶対食べられないわね」
「食べてるじゃないか」
「今はね。最初は勇気がいったわ。食べてみたらおいしかったけど」
「思い出したぞ」
 一彦は、急にクスクスと笑い出した。
「確か銀座のウナギ屋だっけ? ウナギの皮を見て悲鳴を上げたよな」
「もう、変なこと覚えてるわね。一彦だって、オートミールを食べて吐きそうな顔してたじゃない。確か叔母さんの家に来て最初の朝食よね」
「そっちこそ、古いこと覚えてるなァ」
「あたし、記憶力いいもの」
 サラは笑った。
「それに、あんな田舎じゃ、日本人って見たことなかったんだもの。日系人もいないし」
「みごとに白人の町だったよな。日系人どころか、黒人にもほとんど会わなかった」
「保守的なのよ」
 サラは、ちょっと顔をしかめた。
「平和でのんびりしたところだけど、退屈な町だわ」
「そうかな? オレは楽しかったよ。馬にもいっぱい乗れたしな」
「一彦、お気に入りだったものね、サンシャイン」
 サンシャインは、牝馬の名前だ。一彦の行った町は、アメリカでもかなりの田舎で、馬を飼っている家が何軒かあったのだ。特に、一彦のホームスティ先は、西部劇に出てくるような家で馬が五頭もいた。ついでに山羊もいた。
「初め、あいつ言うこと聞かなくてさあ、苦労したっけ」
 一彦は笑った。
「そうそう」
 と、サラ。
「一彦がいくら綱を引いても、草を食べてるばっかりだったよね。ねえ、少しはあたしに感謝してる?」
「は? なんのことかな?」
 一彦は、とぼけた声を出した。
「へ~え。そういうこと言うんだ。あたしが馬の乗り方教えてげたのにさ」
「一言いわせて下さい」
「どうぞ」
「確かに、鞍の付け方は教わったよ。手綱の使い方は、右に曲がりたいときは綱を右に。左のときは左。ムチは強く打ってはいけない」
「うん。そのとおり」
 サラは、クスッと笑う。
「それだけじゃないか。あとは、勝手にがんばってねって放り出されたんだぞ」
「アハハ。スパルタ教育ってヤツよ。男の子なんだから、そのぐらい当然でしょ」
「よく言うよ。最初の二日間は死ぬ思いだったんだぞ」
「でも、乗れるようになったじゃない。けっこう、かっこよく乗りこなしてたよ」
「おかげで、馬の世話はオレの仕事になったけどな。朝から、馬糞にまみれてさ」
「あっ。その点に関しては本当に感謝して欲しいわ。毎日手伝ってあげたんだから」
 一彦は、両手を上げた。
「降参です。感謝感激」
「どうも、ありがとう」
 サラは、イタズラっぽく笑った。
「でもさあ」
 と、一彦。
「オレがホームスティに来て、サラもいい退屈しのぎになっただろ?」
「まあね。オートミールを食べれない日本人だもの。珍しかったわよ」
「またそれを言う。でも、あとで聞いたら、アメリカ人の子供だって、オートミールは嫌いらしいじゃないか」
「栄養があるからって、無理矢理食べさせられるのよ。まあ、中にはホントに好きな子もいるけど」
「ふうん。あんなの好きな子いるのか。オレは、どうしても食べれなかったな」
「ふふふ。それで、次の日から、一彦だけケロッグになったのよね」
「あれにもまいった。ケロッグに牛乳をかけて食べるのはいいんだけど、そのケロッグにチョコレートが入ってるんだもんな。あんな甘い物、朝から食べられないよ」
「アハハ!」
 サラはおかしそうに笑った。
「ねえ、覚えてる? それで、一彦があたしに泣きついて、二人でインスタントのお味噌汁を探して、サンタクルーズの町中走り回ったこと」
「忘れるもんか。けっきょく見つからなくて、バスに乗ってサンフランシスコまで味噌汁を買いに行ったんだ」
「苦労したよね。サンフランシスコまでバスで往復五時間だもの。インスタントのお味噌汁を買いに行くだけで」
「ホントの苦労はそのあとだ」
 一彦は苦笑いで言った。
「やっと、味噌汁を手に入れて、サラが作ってくれたのはいいけど、大きなボール一杯にお湯を入れるもんだから、ほとんど味がしなくてさ、すごく不味かった」
「だって、分量が分からなかったんだもん。お味噌汁なんて、初めて買ったんだから」
「まったく、アメリカじゃ朝飯には苦労させられたよ」
「でも、楽しかったね」
 サラは、言葉とは裏腹に、少し寂しそうにほほえんだ。
「まあね」
 一彦も、サラに応じるようにほほえんだ。

 日付が変わって、二時間も経ったころ。一彦とサラはベットの中にいた。二人は全裸で抱き合っていた。
 たった今まで火照っていた体を、クーラーの涼しい風が心地よく冷やす。サラは満足そうに一彦の胸に顔を沈め、一彦はサラの髪をなでていた。
 二人は、もうこんな関係を六年も続けている。サラが日本に来てからずっとだ。もっとも、二人が初めて唇を重ねたのは、あの夏の終わりだから、もう十二年のつき合いだ。
 一彦は、去年あたりから、結婚という二文字が妙に現実味を帯びて感じられるようになった。二十八の男なら正常な感覚だと思う。だが不安がある。一番大きいのは経済的なこと。フリーカメラマンなんて、およそ安定した職業とは言えない。自分はサラに苦労をさせないと誓えるだろうか……
 言い訳だな。
 一彦は思った。そう、確かにお金はないけど、そんなの言い訳だ。どうしても頭から離れないのは、いがみ合い、憎しみ合って別れた両親のことだ。もし自分たちも彼らのような運命を辿ったとしたら…… 一彦は、われながら情けないと思いつつも、サラとの結婚に、あと一歩のところで踏ん切りがつかなかった。
 サラは一彦の気持ちを知っていた。それでも、一彦との結婚生活を夢に見る。二十八の女なら当然だろう。サラは結婚に踏ん切りの付かない一彦に、少しいらだっていた。
 だが、離婚した両親の苦い思い出に捕らわれているのは、サラも同じだった。父と母のケンカが絶えない生活で、いつも不安に怯えていたころを、どうしても忘れることができなかったのだ。
 サラは思う。もし、一彦が強引に引っ張ってくれたら。この不安な気持ちを笑い飛ばしてくれたら、どんなに楽だろう、と。
 ふと、サラは、結婚に踏ん切りの付かない一彦を、非難する資格がないと思った。けっきょく、自分だって結婚の二文字を口に出せないでいるのだ。そう思うと、今度は自分自身に腹が立ってくる。
「サラ」
「一彦」
 同時だった。二人はお互いの名を呼び合っていた。
「なに? 一彦」
「サラこそなんだい?」
「一彦から先に言って」
「あー、その、今年も帰らないのかなと思ってさ」
「帰らないわ。帰るところなんかないもの」
「叔母さんのところは?」
「ダイアン叔母さん? 確かに何年も会ってないけど。どうしてそんなこと聞くの?」
「いや、帰らないんだったらいいんだ。で、サラはなに?」
「べつに、大したことじゃないわ」
「そうか……」
 二人は、そのまま言葉を続けなかった。
「なあ、サラ」
 やや、間があって一彦が言った。
「夏、アメリカに帰らないんだったらさ、どっか旅行に行こうよ」
「ホント!」
 サラは顔を上げた。
「ああ。熱海なんてどうだい? 二人でしっぽりとさ」
「やだ、なんかエッチな言い方」
「そうだよ。そういう意味で言ったんだから」
「バカ」
 サラは、クスクス笑いながら言った。
「どうせなら、沖縄ぐらい言いなさいよ」
「今からじゃ無理だよ。たぶん、ホテルが取れないんじゃないかな」
「だったら、北海道は? 涼しくてよさそう」
 サラは楽しそうに言った。すっかり、明るい声になっている。
「夏の北海道か。いいかもな。明日、ガイドブックでも買いに行こう」
「楽しみだわ」
 サラは、そう言って一彦にキスをした。
「好きよ、一彦」
 一彦は笑顔を浮かべた。





 週末はあっと言う間に過ぎ、いつものウイークデーが始まった。
 三時限目が終わったころ。
「メイスン先生」
 加藤涼子がサラを呼んだ。
 ここは、サラの勤める高校の職員室である。この学校で、教師、生徒を問わず、サラのことをラストネームのメイスンと呼ぶのは涼子ただ一人だ。
 涼子は、サラと同じ英語の教師で、サラがこの高校に赴任した三年前から、机を隣にしている。サラはリーダーの担当。涼子はグラマン。
「今夜、なにかご予定はありますか?」
 涼子は、続けた。
「えっ、今夜ですか?」
 サラは、驚いたように聞き返した。
 涼子とはハッキリ言って親しくはない。じつは、本当のところ、サラは涼子が好きではなかった。
 もっとも、涼子と親しくないのはサラだけではない。正確に言えば、涼子は、誰とも親しくないのだ。職員の中で一人だけ孤立した存在である。
 彼女のどこかお嬢様ふうの話し方に、みんな馴染めないのだ。実際、涼子は外交官の娘で、お嬢様なのは間違いない。そして家族ぐるみで敬けんなカトリック信者である。涼子は、その真面目さが裏目に出ている典型であった。
「あの……」
 サラは、ちょっとためらってから答えた。
「別にありませんけど」
「そうですか。もしよろしかったら、少しつき合っていただけないでしょうか」
「あの、つき合うって、なにをですか?」
「メイスン先生とお話をしたいのです」
「ええっ!」
 サラは、いよいよ驚いた。
「おかしいでしょうか?」
 涼子は、冷たい表情のまま言った。
「いいえ。そんなことありませんが、お話ってなんでしょうか?」
 サラはあわてて答えた。
「ここではちょっと。お時間を作っていただけないでしょうか」
「はあ…… 少しぐらいなら」
「けっこうです。では、放課後にまた」
 涼子はそう言って、机の上の書類に目を落とした。

「どうしよう、美沙」
 サラは、お弁当のウィンナーを食べている美沙に泣きついた。
「どうするって、話を聞くって言ったんでしょ?」
「弾みでそう答えちゃったのよ」
「じゃあ、しょうがないわね。いってらっしゃい」
「冷たいこと言わないでよ」
 サラと美沙は体育準備室で昼食のお弁当を食べていた。美沙は体育の教師で、サラとは同い年である。
 サラは美沙のサッパリした性格が好きだった。美沙も、サラのことを外人と意識したことは一度もない。じっさい、二人は教師仲間の中では一番、親しい友人なのだ。よく、二人で飲みに行ったり、お互いのボーイフレンドを伴ってカラオケに繰り出したりする。
「冷たいなんて言われても困るなあ」
 美沙は、ウインナーをもう一個食べた。
「ねえ、美沙。お願い」
 サラは、美沙に向かって手を合わせた。
「なによ、お願いって」
「だからさ、一緒に行ってよ。ね、いいでしょ?」
「今日?」
「うん」
「ダメよ」
「どうして。ねえ、今度、カラオケおごるからさ。お願い!」
「う~ん。今日じゃなかったらつき合って上げたのに」
「なんか、予定あるの?」
「俊夫と会う約束してるんだ」
「だって、週末、ずっと一緒だったんでしょ? それなのに今日も会うの?」
「そうよ。悪いけど、あたしたち、サラと一彦君みたいに倦怠期じゃないの」
「ちょっと、冗談でしょ。あたしと一彦だって倦怠期なんかじゃないわよ」
「ふうん。でも、つき合ってもう六年でしょ? あたしたちはまだ半年だもん。毎日だって会いたいの」
「二十八にもなって、なに言ってるのよ。女子高生じゃあるまいし」
「ほら、だから倦怠期なのよ」
「バカ言わないで」
「じゃあ、週末は何回?」
「なにが?」
「セックスに決まってるでしょ」
「に、二回よ」
「へへん。あたしと俊夫なんか、五回だもんね」
「そういうのなんて言うか知ってる?」
「なによ」
「モンキー。日本語にすると猿」
「あのねえ、サラ。あんた、そういうこと言うわけ」
「だって、回数なんか問題じゃないもの」
「へえ、じゃ聞きたいな。サラと一彦君って、どんなセックスしてるの?」
「どんなって、いろいろよ」
「いろいろって? 縛りとか?」
「バカ! やるわけないでしょ、そんなこと!」
「あ~、サラったら、むきになって否定してる」
「もう、美沙にはかなわないなァ」
「ふうん。どうですか、縛られた感想は?」
「だから、やってないってば。ねえ、そんなことより、ホントつき合ってよ」
「やだ」
「美沙。女の友情と、男とどっちが大切なのよ」
「それは聞くだけ野暮じゃない?」
「ひどーい。だいたい、俊夫君を紹介したのあたしじゃない。一回ぐらい、恩義を感じてくれてもいいでしょ」
 そうなのである。美沙に俊夫を紹介したのはサラなのである。というか、サラと一彦の二人である。俊夫は、一彦の写真学校時代からの友人で、どういうわけか、写真を諦めて、親父さんの経営する電気屋を継いだ男であった。
「分かったわよ」
 美沙は、軽くタメ息をついた。
「じゃあさ、あたしの携帯に電話してよ。なにかあったら行ってあげる」
「あれ? 美沙、いつ携帯持ったの?」
「えへへ。きのう、俊夫からもらったんだ」
「いいわね。電気屋の彼って」
「なによ。サラだって、綺麗な写真撮ってもらってるじゃない」
「たまにね。それに、俊夫君だって、美沙の写真撮ってるじゃない」
「プロにはかなわないわよ。彼もうまいけどさ」
「贅沢言わないの」
「分かってるって。とにかく、加藤先生のお話は一人で聞いてちょうだい」
「あ~あ、女の友情なんて、当てにならないモノね」
「それは、気づくのが遅かったわよ、サラ」
 美沙は、にこっと笑った。
 キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン。
 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「いっけない」
 二人は、あわててお弁当の残りをお腹に詰め込んだ。


 仕事が終わり、サラと涼子は一緒に学校を出た。お互いの乗換駅である新宿で電車を降りると、駅に近い喫茶店に入った。
 サラは、電車の中でも、何度か涼子に話しかけようと思った。だが、涼子は、暗く落ち込んだ表情を崩さなかったので、話しかける勇気が出なかったのだ。そして、喫茶店でアイスティーを半分飲んだ時点でもそれに変わりはなかった。
「加藤先生」
 サラは、ついに切り出した。
「あの、お話ってなんでしょうか?」
「ええ」
 涼子は顔を上げた。
「つかぬことをお伺いしますが、メイスン先生のお知り合いにカメラマンの方がいらっしゃいますよね」
「はい」
 サラはうなずいた。
 涼子が、一彦のことを言っているのは間違いない。サラは、一彦のことをことさら隠したことはないので、カメラマンのボーイフレンドがいてることは、教師仲間はもちろん、生徒でさえ知っている(いや、むしろ生徒の方が詳しいかも)。涼子が知っていて当然である。『お知り合い』というのが、いかにも涼子らしいが。
「それがなにか?」
 サラは、涼子を促した。
「これを見ていただけないでしょうか」
 涼子は、ハンドバックから、一枚の写真を撮りだした。
 それは、ごく普通のスナップ写真だった。どこか、古い洋館の前で撮った物らしい。ただ、その写真を見て、サラは心の中で少し驚いていた。写っているのは涼子と、親しげに彼女の肩を抱く男性だったのだ。
「あの、この写真がなにか?」
「よくご覧になって下さい」
 サラは、もう一度写真を見た。だが、涼子にボーイフレンドがいたという、驚き以外の発見はない。どうにも、涼子の思惑が謀りかねる。
「素敵な方ですね」
 サラは、取りあえず、当たり障りのない答えを返した。
「あっ…… どうもありがとう」
 涼子は、一瞬戸惑ったように答えた。
「でも、見ていただきたいのはそのことではないのです」
 サラは、もう一度写真を見た。だが、なにも発見できない。サラは、分からないと言う意味の視線を涼子に送った。
「ここです」
 涼子は、サラの視線の意味を理解して、二人の後ろに写る洋館の二階の窓を指さした。
「ひっ!」
 サラは、思わず写真から手を離した。
 その窓には、顔の半分が焼けただれたような男が写っていた。ピントがぼけているので、本当に焼けただれているのか、あるいはただの影なのかハッキリとは判別がつかない。だが、だからこそ、逆に不気味な顔なのだ。
「あっ、ご、ごめんなさい」
 サラは、テーブルに投げ出した写真を、あわてて拾った。
「いいんです。私も気味が悪いんですから」
 涼子は、写真をサラから受け取りながら言った。
「あの、なんなんですか、それ?」
 サラは、恐る恐る聞いた。
「分かりません。ただ、一つだけ言えることは、この写真を撮ったとき、この家には誰もいなかったんです」
「ま、まさか、心霊写真?」
「ええ、どうしても、そういう結論を出したくなりますね。でも、私は専門家ではありません」
「ああ。それで、一彦に」
 サラは、やっと涼子の考えていることが分かった。
「一彦さんとおっしゃるんですね」
「あっ、はい。そうです」
「その一彦さんは写真の専門家なのですよね?」
「はい。でも、あの、こういう写真について詳しいかどうかは……」
「かまいません。いいえ、むしろ、否定的な人の方がいいんです」
「と、いいますと?」
「だって、変に信じてる人って、こじつけてでも心霊現象に結びつけようとするじゃないですか。客観的に判断していただける方に見ていただきたいんです」
「分かります」
 サラはうなずいた。
「それに、それだけではないんです。もう一枚あります」
 涼子は、バックの中からさらに別の写真を撮りだした。
 サラは、気が進まなかったが、その写真を手に取った。
 それは、ことさら不気味だった。部屋の中の鏡にその男が写っている写真だったのだ。
「う、写ってますね」
「ええ。同じ顔に見えません?」
「そんな気がします」
 サラは、何度も確認する気にはなれず、写真を涼子に返した。
「ごめんなさい」
 涼子は、うつむき加減に言った。
「こんなこと、メイスン先生にご相談することではないと分かっています。でも、他に誰を頼っていものか……」
「いいえ、気にしないで下さい」
 サラは、さすがに、涼子が気の毒に感じた。
「ありがとう。そう言っていただけると助かります」
「ところで、この一緒に写っている男性は、加藤先生のステディ?」
「ええ」
 涼子は、小さくうなずく。
「彼は、この写真のことを知ってるんでしょうか?」
「もちろんです。でも、真面目に取り合ってくれないのです」
「なぜかしら? 二枚もあるのに」
「じつは、彼も写真が好きなんです。といっても、撮る方ではなくて、むしろ、カメラを集める方が好きみたいですけど」
「コレクター?」
「ええ、そうですね。でも、写真については人より詳しいという自負があるみたいです。それで、現像の影響だとか、光の反射がどうとか言うだけで、二、三度見たきり、気にも止めていないみたいです」
「そうですか」
 サラは、涼子のボーイフレンドの判断は正しいような気もした。こんな写真、気にしないのが一番だ。
「それはそれで正しいかも知れませんね。一彦に見せても同じことを言うかも知れませんよ」
「専門家の方がそう言って下さるなら気が楽です。メイスン先生。ご迷惑は重々承知しています。どうか、お願いします」
 涼子は、頭を下げた。
「迷惑だなんてとんでもない!」
 サラは首を振った。
「こんなことでよかったら、お安いご用ですよ」
「ありがとう」
 涼子は、ホッとしたようにほほえんだ。
 サラは、涼子の顔を見ても、もう能面のような顔だとは思わなかった。

 涼子と別れたサラは、すぐに一彦に電話した。とにかく、一刻も早く一彦にこの写真を見てもらいたかったのだ。
 サラは、公衆電話のダイヤルボタンを押しながら、少し後悔していた。じつは、この手の話は大の苦手なのだ。涼子には、お安いご用だなんて言っておきながら、自分のバックの中に心霊写真が入っていると思うと背筋が寒くなる。
 電話が繋がった。
 ところが。一彦の電話からは、留守番電話の声が聞こえるだけであった。
「も~う! なんでカメラマンのくせに携帯持ってないのよ!」
 サラは、ひとしきり文句を言うと、携帯という言葉で、美沙の携帯電話を思い出した。サラは、メモっておいた電話番号に電話する。
『はい。田中です』
「あっ、美沙。よかった、繋がって!」
『どうしたのサラ? やっぱ、なんかあった?』
「あったわよ。ねえ、聞いて!」
 サラは、早口に事情を説明した。
『なにそれ、気持ち悪い』
「でしょ、でしょ。一彦に見てもらいたいんだけど、あいつ、家にいないのよ」
『ちょっと待って、今、何時?』
「ええと、八時だけど」
『だったら、食事に出てるんじゃない』
「うん。そう思うけど……」
 一彦は、自分で料理を作ることは滅多にない。サラが何度注意しても外食をやめないのだ。
「でも、もしかしたら、仕事で遅くなってるのかも知れないし」
『あんた、知らないの?』
「知らないわよ、一彦の予定なんて」
『やっぱり倦怠期ね。いいわ、ちょっと俊夫に話してみる』
 携帯電話の向こうで、なにやらぼそぼそ話す声が聞こえた。サラは、じっと待つ。
『ごめん、お待たせ。俊夫もその写真見てみたいってさ』
「ホント? よかった」
『でさ、一彦君のアパートで落ち合おうよ。食事に出ているだけなら、あたしたちが着くころには帰ってるでしょ』
「うん、分かった。ありがとね、美沙」
『いいってことよ。たまには女の友情も大切にしなきゃね』
 サラは、電話を切った。そして、一彦のアパートに向かった。

「どうしたんだ、サラ。血相変えて?」
 部屋には、ビールを飲んでいる一彦がいた。
 美沙たちはまだ到着していない。
「よかった~」
 サラは、心底、ホッとしたように言った。
「どうしたんだよ。なにかあったのか?」
「あったのよ~」
 サラは、一彦からビールの缶を奪った。
「一口ちょうだい」
 そう言って、ビールを一口、二口、三口…… とにかくグビグビと飲んだ。
「あーっ、おいしい!」
 サラは、ビールの缶を一彦に返した。
「おいおい、空だぞ」
 一彦は、呆れたように言った。
 その時、俊夫と美沙がどやどやと入ってくる。
「うわ、なんだなんだ?」
 一彦は、わけが分からなかった。
「よお、一彦」
 俊夫が手を上げて、すぐに冷蔵庫を勝手に開けた。
「なんだ、相変わらずスーパードライかよ。ハイネッケンぐらい置いとけよな。美沙も飲むか?」
「うん。もらう」
 俊夫は、やっぱり勝手にビールを二本取り出すと、一本を美沙に渡した。
「ちょっと待て。なにごとだ、これは?」
 一彦は、集まった三人に抗議の声を上げた。
「ねえ、一彦! これ見て!」
 サラは、バックから七枚の写真を取り出した。
「なんだよ、いったい」
 一彦は、写真を受け取る。
「これがどうかしたわけ? 普通のスナップじゃないか」
「どれどれ」
 俊夫と美沙も、写真を覗く。
「うわーっ。けっこうハンサムじゃない、加藤先生のボーイフレンドって!」
 美沙は、驚きの声を上げた。
「あたしもそれは思った」
 と、サラ。
「加藤先生?」
 一彦は、写真をしげしげと眺めながら言った。
「聞いたことあるな。確か、お高くとまった先生じゃなかったっけ?」
「そう。その先生よ」
 サラが答える。
「けっこう、美人じゃないか、加藤先生って。なあ、俊夫」
「ああ、切れ長の目がそそるね」
「バカ!」
 美沙とサラが同時に叫んだ。
「そんなとこ見なくていいの!」
「じゃあ、どこを見ろって言うんだよ」
 一彦は言った。
「なんか、心霊写真らしいぞ」
 俊夫が、言う。
「心霊写真?」
「ここよ」
 サラは、洋館の窓を指さした。
「あっ、ホントだ」
 と、一彦。
「やだあ、気持ち悪い。これのことだったんだ」
 美沙が、顔をしかめた。
「ちょっと、みんな。まさか心霊写真だなんて言うんじゃないでしょうね」
 サラは、不安そうな声で言った。
「さあね」
 一彦は、ニヤリと笑った。
「やだ、もっと、よく見てよ」
「はいはい」
 一彦は、ライトボックスの上にある、ルーペを手に取った。写真を食い入るように調べる。そして、一通り見終わると、俊夫にもルーペを渡した。
「どう思う、俊夫」
「ううむ。よく分からんな。一見、合成写真ではないようだけど」
「同感。合成写真じゃないね、これは」
「じゃあ、やっぱり」
 サラの顔が青ざめた。
「心配するなって。心霊写真なんかじゃないよ、これは」
 一彦が言った。
「ホント?」
「ああ。それは、まず、間違いない」
「よかった~」
 サラは、ホッと胸をなで下ろした。
「おいおい、まさか、本気で心霊写真なんてあると思ってたのかい」
「そうじゃないけど、気味が悪いじゃない。美沙もそう思うでしょ?」
「うん。不気味。あたし、こういうの嫌いよ」
「お化け屋敷好きじゃないか」
 俊夫が言った。
「あれは、造りモノでしょ!」
 と、美沙。
「その通り」
 一彦が言った。
「これも、まさに造りモノだよ」
「えっ?」
 全員の視線が一彦に注がれた。
「まず、この写真」
 一彦は、最初に見た、二階の窓に男が写っている写真を指さした。
「確かに、窓のところに顔が写ってるよね。でも、ピントのボケ方が窓枠と同じなんだよ。それに、窓の反射も男の顔にちゃんとかかっているだろ。たぶん、性能のいいカメラで撮影したんだろうな。だから、よけいに、ボケ方がハッキリと分かる」
「うん。加藤先生の彼ってカメラのコレクターだって言ってた。でも、ボケ方が一緒だと、どうして心霊写真じゃないの?」
「もし仮に、仮にだよ。霊魂が本当に存在するとしたら、普通の物質とまったく同じ写り方をするって、おかしいと思わないか?」
「どういうこと?」
「つまり、ただの人間だよ。本当にここにいたから、写ってるだけ」
 サラは、スーッと血の気が引いた。
「どうして、そんなこわいこと言うのよ~」
「なんで? ただの人間だよ」
「だって、だって、この家には誰もいなかったのよ!」
「やだ、それホント」
 美沙が、不安そうに聞き返した。
「ホントよ。加藤先生がそう言ったんだもの」
「ふうん。そうか」
 一彦は、ひとり納得したようにうなずいた。
「なに? なにか分かったの?」
「まあね。その前に、もう一枚の写真も説明しておこうか」
 一彦は、鏡に映っている方の写真を指さす。
「これも顔のボケ方が周りと一緒なんだ。つまり、さっきのと一緒で、こっちもただの人間が写っているだけだな」
「鏡の中にお面をかぶった人間がいたって言うの?」
「考えられるね」
「考えられないわよ!」
「待て。分かったぞ」
 俊夫が言った。
「マジックミラーって言いたいんだな、一彦。それ以外、考えられん」
「あたり」
 一彦はうなずく。
「マジックミラー?」
 サラと美沙は、ハテナマークを頭の上に浮かべた。
「そう。よくあるだろ、裏から見えるけど表からは見えない鏡」
「知ってるわよ、それぐらい」
「じゃあ、話は簡単だ。マジックミラーって、普通は、表の方が明るいからただの鏡だけど、中から強力な光を当てればさ、そこだけ表からも見えるようになるじゃないか」
「これが、マジックミラーだって言うの?」
「そうだよ。ほら、よく見ると、男の下側からライトが当たっている。フットライトっていうライティングだよ。よく、お化け屋敷なんかにあるだろ」
「ホントだ…… じゃあ、この鏡の裏に隠し部屋かなんかあるわけ?」
「そこまでは分からないけど、そんな部屋がなくても、この細工は可能だよ」
「どうやって?」
「駅のホームにある広告板と同じさ。裏から蛍光灯で照らすようになってるだろ。あれと同じようなフィルムを作って、鏡の裏に貼ればいいんだ。そして、壁に少し穴を開けて、そこに蛍光灯かなんかを仕込めばいい」
 サラは、一彦の説明を聞くと、かえって混乱した。
「ねえ、あたし分からないわ。だって、これが細工だとしたら、いったい、どういうことなの? なんで、そんな写真があるわけ?」
 サラの疑問は、全員の疑問だった。みなの視線が一彦に集中する。
「イタズラだよ」
 一彦は、こともなげに言った。
「あっ……」
 サラは、涼子のボーイフレンドが、この写真を真剣に取り合わないという話を思い出した。もし、彼のイタズラだとしたら、それもうなずける。
「うん。そうか、イタズラか。うん。きっとそうよ」
 と、サラ。
「ま、そんなところだろうな」
 俊夫も賛同した。
「なあんだ、バカバカしい」
 と、美沙。
「けっきょく、加藤先生のおのろけみたいなモンじゃない」
「どういうこと?」
 と、サラは美沙に聞き返した。
「だって、“私にはユーモアセンスのある恋人がいるのよ”って宣伝したかっただけなんじゃないの?」
「そんなことないと思うわ」
 サラが答える。
「加藤先生、けっこう真剣に悩んでたみたい。それに、こんなのユーモアって言わないわ」
「まあね。顔の良さとユーモアセンスは比例しないのかしら?」
 美沙は俊夫の顔を見た。
「なんだよ?」
 と、俊夫。
「なんでもないわ」
 美沙は笑った。
「ただ、俊夫って、ユーモアがあって楽しい人だなって思ったのよ」
「おい、それって…… そりゃないよ」
 全員が笑った。


 そして、次の日。
「イタズラ?」
 涼子は、サラの言葉を聞いて、驚いたように聞き返した。
 二人は、きのうと同じ喫茶店に、やはり、きのうと同じように仕事が終わったあと立ち寄っていた。
「ええ。一彦は、その可能性が高いんじゃないかって言ってました」
「では、この写真は、細工された物だとおっしゃるの?」
「そうです。たとえば、この鏡のある部屋なんですけど、この壁の裏に隠し部屋とかありませんか?」
「いいえ、そんなもの……」
 涼子は、言葉を切った。
「そういえば、この壁の向こうは、隣の部屋なんですけど、ちょうど裏側がクローゼットになっています。隠し部屋とは言えませんけど、同じことですね」
「やっぱり」
 サラは、一彦の見立ての正しさを確信した。
「でも、まさか、彼がイタズラなんて…… そんなことする人だとは思えません」
 涼子は、眉間にしわを寄せた。
「加藤先生。べつに興味本位で聞くわけじゃありませんけど、彼とはつき合って何年になるのですか?」
「一年です」
「あたしも、一彦とつき合い始めてずいぶん経ちますけど、まだ、彼がなにを考えているのか分からないときがあります」
「一彦さんとは何年のおつき合いなのですか?」
「十二年です」
「十二年!」
 涼子は、さすがに驚きを隠せないで声を上げた。
「あっ、ごめんなさい。別に、驚くことではないですね」
「いいえ。自分でも驚いてます。よく続いてるなって」
 サラは、クスッと笑った。
「ただ、十二年といっても、その半分は、年に一回だけしか会えませんでした。お互い、お金を貯めて、一年ごとに日本とアメリカを行ったり来たりで。あとは手紙です。あのころはインターネットなんて便利なものはありませんでしたから」
「まあ。七夕みたいね」
「ええ、よく言われます」
 サラは笑う。
「ホントに、ステディと言えるような関係になったのは、あたしがカレッジを卒業して、日本の学校で働けるようになってからです。それでも、もう六年ですから、ずいぶん長いことつき合ってますけどね」
「仲がよろしいのね」
 涼子が、うらやましそうに言った。
「あっ、いえ…… まあ、そうなのかな」
 サラは、急に恥ずかしくなる。
「と、とにかく。加藤先生の彼が、普段イタズラをしないような人でも、ちょっと気が向いて脅かしてやろうなんて考えたのかも知れませんよ」
「彼がそんなこと考えるなんて、思ってもみませんでした。ですが、専門家の一彦さんがそうおっしゃるなら、そうなんでしょう」
「そう、そうですよ。ほら、季節も怪談向きだし、ビックリさせたかったんですよ。そのくらいやっても怒られないだろうってね」
「そうね」
 涼子は、ほほえみで答えた。


 数日後。
 サラは、職員室で書類の整理をしていた。隣の席には涼子がいる。
「メイスン先生」
 涼子が、サラを呼んだ。
「はい」
 サラは、机から顔を上げた。
「あの写真の件なのですけど」
 涼子が続ける。
「彼が白状しました。おっしゃるとおり、彼のイタズラでした」
「アハハ。やっぱり!」
 サラは笑った。
「それで、加藤先生、どうなさったんです? 驚いてあげました?」
「いいえ。じつは、どうにも気になってクローゼットから、鏡の裏側を調べてみたんです。そうしたら、蓋がしてあって、マジックミラーになっていました」
「ええ」
「そこまではよかったのですが、調べていることころを、彼に見つかってしまったのです」
「あら、まあ」
「そう言うことなんです。それで、メイスン先生のボーイフレンドに見てもらったことを彼に話しました」
「それで、彼も白状した?」
「ええ。逆にホッとしたみたいです。イタズラしたのはいいけど、いつ切り出そうか迷っていたらしいですから」
「あまり、計画的ではなかったようですね」
「そうみたいです。あんな、かわいいところがあるなんて知りませんでした」
「ごちそうさま」
 サラは、イタズラっぽく言った。
「あら、いやだ。私ったら……」
 涼子は、恥ずかしそうに、頬を染めた。
 サラは、ほほえんだ。
「でも、よかったですね。謎も解けたし、そのほか、いろいろ良いこともあったみたいだし」
「ありがとう。メイスン先生のおかげです」
「あたしは別に、なんにもしてませんよ」
「いいえ。本当に感謝しています。なにか、お礼をしたいと思っているのですが」
「そんな、大げさですよ」
 サラは、あわてて言った。
「ホント、気にしないで下さい。かえって、困ります」
 涼子は、少し考えてから言った。
「あの、メイスン先生。夏休みは、なにかご予定がありますか?」
「はい。北海道に旅行に行こうと思ってますけど」
「一彦さんと?」
「ええ」
「いつごろ行かれるのですか?」
「八月の後半に、一週間の予定です。あの、それがなにか?」
「じつは、今年のお休みは、彼の別荘で過ごす予定なんです。もしよろしかったら、お二人で遊びに来ていただけませんか?」
「別荘をお持ちなんですか。あっ、もしかして、あの写真に写っていた洋館?」
「ええ、そうです。週末は、よくあの別荘で過ごすんです。それで、お礼にはならないかも知れませんが、お二人のご予定が許す限り、何日でも泊まっていって下さい」
「うれしいお誘いですけど……」
 サラはちょっと戸惑った。
「お邪魔じゃないかしら」
「とんでもない。大歓迎ですよ。ほら、私の彼がカメラのコレクターだってお話ししたことあったでしょ。きっと、一彦さんと気が合うと思います」
「あら、一彦の方が負けちゃったりして」
 サラはクスッと笑った。
「どうして?」
「だって、一彦ったら、カメラマンのくせにカメラをあんまり持ってないんですよ」
「プロはそういうものなのかも知れませんね」
「さあ、どうでしょう? ただ、お金がないって噂もあります」
「ふふふ。そうなの?」
 涼子は、おかしそうに笑った。
「わりと、冗談でもないんですよ」
 サラは、苦笑いで答えた。
 涼子は、そんなサラを見てほほえんだ。
「ゲストルームがいくつかあるんです。どうぞ、気がねなく遊びに来て下さい」
「広い別荘なんですね」
「彼の父が若いころ建てた物なんです。十年前に他界したのですけど、パーティ好きの人だったらしくて、大勢のお客様をお招きできるように設計したそうです」
「素敵ですね。パーティは大勢の方が楽しいもの」
「そうですね。私も、最近、そう思うようになりました」
「そういうことなら、あの、厚かましいお願いなんですが……」
「はい?」
「美沙も…… いえ、田中先生と、彼女のボーイフレンドも誘っていいでしょうか?」
「ええ、もちろんです。メイスン先生と田中先生は仲がよろしいものね」
「ありがとうございます。楽しくなりそうですね」
「ホントね。私も楽しみです」





「ウワォ! 風が気持ちい!」
 美沙が、車の窓を開けて叫んだ。
「オープンカーで来たかったな、美沙!」
 美沙の隣に座る俊夫も叫んだ。
「勝手なこと言ってるよ」
 一彦は、後部座席で騒ぐ二人をバックミラーでちらっと見ると、助手席に座るサラに苦笑いした。
「あら、あたしも賛成だわ」
 サラが言った。
「一彦、オープンカー買ってよ」
「冗談きついぜ。オレに、これ以上借金させたいわけ?」
「アハハ!」
 サラは笑った。
「全言撤回よ。北海道旅行の軍資金はとっておいてよね」
「はいはい、サラお嬢さま。カメラを質に入れても用意いたします。もう、二台入ってるけど」
「バカね」
 サラは、おかしそうに笑った。
「ねえ、見て!」
 美沙が叫んだ。
「あれがそうじゃない?」
 少し先の、丘のようになっている場所に、白い建物が見えた。
 サラは、涼子が書いてくれた地図を見た。
「うん。そうみたい」
「ふー、やっと着いたか」
 一彦はホッとしたように言った。東京から三時間、一人で運転してきたのだ。
「それは、こっちのセリフだぞ」
 と、俊夫。
「乗せてきてもらってこんなこと言うのはなんだけどな。一彦の車は乗り心地が悪い」
「古い車だもんね」
 と、美沙も自分のボーイフレンドに同意いした。
「また、勝手なこと言ってる」
 一彦は、やれやと言った。
「あのねえ、二人とも。この車は苦労して手に入れた大事なものなんだぞ。だいたい、ハイドロニューマチックの乗り心地が悪いなんて、どういう体してんだ」
「口癖なのよ」
 サラは、後部座席を振り返って言った。
「このあとはいつもこうよ。力強く孤高な美しさは、古いフランス車にしかない。ってね。そうでしょ、一彦?」
「そのとおり」
 一彦はうなずいた。
 俊夫はにべもなく言った。
「よく分からんな。車は日本車が一番だぜ」
「ちぇっ。これだもんな」
 そうこうするうち、一彦の運転する車は、古い洋館を思わせる建物の前に止まった。
「う~ん、やっと着いた!」
 美沙が、真っ先に車のドアを開けた。
「ここまで来ると、けっこう涼しいね」
「ああ。いいところだな」
 俊夫が辺りを見回した。
「ねえ、みんな。来て良かったね!」
 美沙は、車から降りた全員に向かって言った。
「と、美沙お嬢様はおっしゃってますよ」
 一彦が言った。
「サラお嬢さまはいかがですかな?」
「バカ」
 サラは笑った。
「ハハハ。せっかく来たんだ。せいぜい楽しむさ」
 と、一彦。
「そうね。そうさせてもらいましょ」
 サラは、にっこりと言った。
「それにしても、大きな別荘ね。アメリカでも珍しいぐらいだわ」
「ホント。さっすが、お医者さま。庶民とは違うわ」
 美沙も感心したように言った。
 四人は、車から荷物を降ろすと、洋館の玄関に向かって歩き始めた。
 と、そのとき。
 サラは、ふと、洋館の二階を見上げた。カーテンが半分掛かった窓に、黒い陰がちらっと見えた。あの、写真にあった窓だ。
「どうした?」
 と、一彦。
「ねえ、今、上に誰かいなかった?」
「いや、気づかなかったな。加藤先生?」
「わからない。人影がちょっと見えただけだった」
「ふうん。じゃあ、上から見てたんだな。早く挨拶した方がよさそうだ」
「そうね……」
 サラは、もう一度二階を見上げた。
「サラ! 早く」
 美沙が叫んだ。
「あっ、うん!」
 サラは、あわててみんなの後を追った。

「いらっしゃい」
 加藤涼子がサラたちを出迎えた。
「どうぞ、お入り下さい。疲れたでしょ」
「おじゃまします~」
 美沙が、真っ先に中に入った。
 別荘の中は、表から想像したとおり、かなり広い。しかも、ゆったりとした作りなのでよけい贅沢に感じられた。
 玄関ホールには、二階に上がる階段があった。それも、かなり幅の広い階段だ。
 上から、一人の男性が降りてきた。
「いらっしゃい、みなさん」
 男性は、にこやかな笑顔でサラたちを出迎えた。
「紹介しますね」
 涼子は、サラたちに言った。
「彼は、吉里雅之さんです」
 涼子は、雅之に向き直って言った。
「雅之さん。こちらが私の同僚のメイスン先生と田中先生です。そして……」
 涼子は、一彦と俊夫に目線を移した。考えてみれば、一彦と俊夫は、涼子にとっても初対面なのだ。
「初めまして、一彦です。星一彦」
 一彦は、吉里に右手を差し出した。
「草上俊夫です」
 俊夫も一彦に習って、右手を差し出した。
「初めまして」
 吉里は、一彦と俊夫に握手を交わした。
「広い別荘ですね」
 一彦が言った。
「正直言って驚きました」
「なに、親父の遺産ってやつですよ」
 吉里が苦笑いしながら答える。
「ねえ、加藤先生」
 と、美沙。
「これだけ広いと掃除が大変でしょ?」
「そうですね」
 涼子はほほえみながら答える。
「でも、近くに住んでいるご夫婦に管理をしていただいているんです。私たちがいないときは、毎日掃除に来ていただいています」
「すご~い。管理人付きの別荘なんだ!」
 美沙は驚きを隠さず言った。
「さあ、お疲れでしょう」
 吉里が会話を中断した。
「お部屋にご案内しますよ」
 そして、サラと一彦。美沙と俊夫のカップルに、それぞれ、隣り合ったゲストルームがあてがわれた。
「みなさん。荷物を置いたら、ラウンジに来て下さい。お茶を準備しておきますね」
 涼子は、そう言って、ラウンジの方に消えた。
 サラと一彦は、自分たちの部屋に荷物を置いた。
「素敵な部屋ね。リゾートホテルみたい」
 サラは、うれしそうに部屋を見渡した。
「ああ。ダブルベットっていうのが気が利いてる」
「バカ」
 サラは笑った。
 すると、美沙と俊夫が、サラたちの部屋に入ってきた。
「ねえねえ、サラ」
 と、美沙。
「どう思う?」
「いい部屋ね」
「やあねえ、違うわよ。加藤先生の彼」
「どうって…… 美沙はどう思うのよ」
「そうね。ちょっと歳はいってるけど、草刈政夫に似てない? けっこうハンサムよね」
「その意見には賛成」
 と、サラ。
 サラと美沙は、お互いのボーイフレンドを見た。
「おいおい。比べるなって」
 と、一彦。
「まったくだ」
 俊夫も抗議の視線を美沙に送った。
「アハハ」
 サラと美沙は笑った。
「さあ、待たせちゃ悪い。ラウンジに行こうぜ」
 俊夫が言った。
「OK。そうしよう」
 一彦の言葉で、四人はラウンジに向かった。

「みなさん、薔薇のティはお好きかしら?」
 涼子が言った。
「薔薇のお茶ですか?」
 一彦が思わず聞き返す。
「ええ。とても良い香りがしますよ」
「彼女の作る薔薇のティは絶品だよ」
 吉里が、涼子にほほえみながら言った。
「あたし好きです」
 と、美沙。
「たまに、ハーブティのお店に買いに行きます。体にいいですから」
「そうなんですか」
 涼子が、答えた。
「さすが、体育の先生ですね。私は、子供のころから母がよく入れてくれたので、自然にハーブティを飲むようになったんですけど」
「すてきなお母さんですね」
 サラは、軽くほほえんで言った。
「ありがとう。メイスン先生のお母様も素敵な方なんでしょうね」
「どうしてですか?」
「だって、メイスン先生を見ていれば分かります。子供は親を映す鏡と言うでしょ」
「さあ、どうでしょう」
 サラは、苦々しい表情にならないよう気を付けながら言った。反面教師という言葉もあることを思いながら。
「あー、では、いただきます」
 一彦が、あわてて笑顔を作ると、薔薇のお茶に口を付けた。
「これは、その…… おいしいですね」
 サラは、一彦の顔を見てクスッと笑った。彼の顔から、本当はあまりおいしくないと思っているのがよく分かる。だてに、何年も一彦とつき合っているわけではない。それに、一彦は、エスプレッソコーヒーとか味のハッキリした物が好みなのだ。
「ありがとう」
 涼子は、一彦の世辞を言葉どおり受け取って礼を言った。
「ところで、星さん」
 吉里が言った。
「一彦でいいですよ」
 一彦は、応じた。
「ありがとう、一彦君。君たちが乗ってきた車は、君のかい?」
「そうです」
「趣味がいいね。僕もシトロエンは大好きだよ。とくに、古いシトロエンがね」
「ほらね」
 一彦は、勝ち誇ったようにサラたちに言った。
「分かる人には分かるんだ」
 俊夫が肩をすくめた。
「あれは、CXだね」
 吉里が続ける。
「そうです」
「前期型?」
「もちろんですよ」
「ますますいいね。83年式の2400プレステージュか。シトロエンがCXに託した、未来主義がもっとも完璧な形で表現された車だ。まさに宇宙的造形の好例だな」
「は、はあ……」
 一彦は、一瞬キョトンとした。
「あっ、いや、あの、そこまで思ったことはありませんが、まさしくそうだと思います」
「ありがとう。君とは意見が合ってうれしいよ」
 サラは一彦を見て、また心の中で笑った。どうも、講釈では分が悪いようだ。
「草上さん」
 と、吉里は、俊夫を見た。
「オレも、俊夫でいいですよ」
「ありがとう。俊夫君。君は、なんの仕事をしているんだい?」
「オレは、電気屋ですよ」
「電気屋というと、町の電気屋さんかい?」
「ええ。親父と二人でやってる小さい店です」
「ふうむ。医者と写真家と電気屋か。まさに、三者三様」
 吉里は言った。
「美人の高校教師を恋人に持つ部分だけが共通点というところだね」
「あら、吉里さん。さすがお目が高い」
 美沙が言った。
「さあ、それはどうかな」
 俊夫がニヤリと笑った。
「高校教師は間違いないが、オレの場合、美人の恋人かどうかは、痛てっ!」
 美沙が、俊夫の足をふんでいた。
「オレの場合はなんですって?」
 美沙が睨んだ。
「まったく、吉里さんと共通点があって良かったと、しみじみ思ってる、今日このごろです」
「よろしい」
 一彦とサラは、いつものことなので、美沙と俊夫を見てもニヤリと笑っただけだったが、涼子は、おかしそうに声を上げて笑っていた。
「あら、いけない、もうこんな時間だわ」
 涼子は、ひとしきり笑ったあと、時計を見て言った。
「そろそろ、ディナーの用意をしないといけないわね」
「あたしも手伝います」
 サラが立ち上がった。
「そんな。お客様に手伝って頂くなんて……」
「いいえ。そのくらいやらせてください。ねっ、そうでしょ、美沙?」
「えっ? ええ、もちろんよ」
 美沙も立ち上がった。
「ありがとう。じゃあ、お願いします」
 涼子はほほえんだ。
 女性三人がキッチンに消えると、吉里が立ち上がった。
「食前には少し強いと思うが、そろそろこっちに切り替えようじゃないか」
 吉里は、ラウンジの戸棚からブランデーを取り出した。
「いいですね」
「まったく」
 一彦と俊夫は心から、吉里に賛同した。
 吉里は、ブランデーを満たしたグラスを二人に渡すと、ボトルをテーブルの上に置いた。
「今回は、涼子のワガママにつき合ってもらって悪かったね。お忙しいだろうに」
「とんでもない」
 と、一彦。
「カメラマンなんて自由業ですから、時間はどうとでもなります。俊夫も自営ですから同じですよ」
「まあ、そんなとこだな」
 俊夫は同意した。
「吉里さんこそ、開業医じゃ、お忙しいでしょう?」
 一彦は聞いた。
「そうだね。暇ではないよ。だが、最近、直接患者を診察することは少ないんだ。院長というのは事務の方が多くてね。まあ、だからこそ、ここでのんびりする時間も作れるんだが」
「院長なんですか」
「ああ。親父が他界してからだよ。もう、十年になる」
「すごいですね。その若さで」
「そうでもない」
 吉里は苦笑いした。
「残念ながら、君たちより一回り以上歳上だよ。ハッキリ言って、もう若くないね」

 そのころ、キッチンでは三人の女性が和気あいあいと料理にいそしんでいた。
「ちょっと、サラ!」
 美沙が叫んだ。
「あんた、なにやってるのよ」
「えっ?」
 と、手を止めたサラに、美沙が呆れたように言う。
「まさか、お米を研いだことってないの?」
「あるわよ。いつもこれを使ってるんだけど、ダメなの?」
 サラは、水をジョボジョボ出しながら、泡立て器でお米をかき回していたのである。
「ダメって、あんた…… ああ、サラが外人だってこと、今、初めて認識したわ。いい、お米っていうのはね、水を切って、揉むように研ぐのよ。こんな具合に」
 美沙は実践して見せた。
「ほら、こうすると研ぎ汁がちゃんと出るでしょ」
「ホントだ。へえ、お米ってそうやって洗うのね」
「だから洗うんじゃなくて、研ぐんだってば」
「詳しいのね。田中先生」
 涼子がのぞき込んだ。
「当然ですよ。普通知ってるでしょ」
「あら、メイスン先生はともかく、今の人は、お米の研ぎ方なんて知らない子が多いわよ」
「そうかも知れませんけど、サラのこれはひどいわ」
 美沙は泡立て器を持って、くるくると回してみせた。
「だって~ 知らなかったのよ。一彦だって、なんにも教えてくれないし」
「あいつが知ってるわけないじゃない」
「うっ…… その意見には賛成」
「ねえ、田中先生」
 涼子が楽しそうに言った。
「気を悪くしないでもらいたいのだけど。田中先生が料理に詳しいなんて知らなかったわ。人は見かけによらないって本当なのね」
「あっ、その意見にも賛成です!」
 サラは同意した。
「ひどいわねぇ、二人とも」
 サラと涼子は、ほっぺたを膨らませる美沙を見て笑った。

 夕食も終わり、みんなでお酒を飲んでいると、時間はあっと言う間に過ぎた。夜の十一時ごろ、お開きになり、めいめいの部屋に戻る。
「先にシャワー浴びていい?」
 サラが言った。
「いいよ」
 サラがバスルームに入ると、一彦はテレビのリモコンを探した。ベットサイドのテーブルの引き出しから目的の物を発見すると、ベットに腰掛けてスイッチを入れる。ところが、テレビはつかなかった。
「あれ?」
 バスルームから、シャワーの音が聞こえてきた。
 一彦はテレビのメインスイッチが消えていることに気づき、立ち上がった。
 ガタッ。
 小さい物音が聞こえた。一彦は、ふと部屋を見渡す。音のするようなものは何もない。一彦はテレビのメインスイッチに指をかけた。
 ガタッ。
 ふたたび、物音。
 天井裏だ。一彦は天井を見た。もちろん、なにか見えるわけはない。
「ネズミかな?」
 一彦はつぶやいた。
「サラには言わない方がいいな」
 一彦はテレビのスイッチを入れた。深夜のニュースが映る。ちょうど、天気予報をやっているところだった。それによると、台風8号が発達して近づいているということだった。
「また外れたな。二、三日は大丈夫そうなこと言ってたのに」
 一彦は窓に近づきカーテンを開けた。外の庭には、大きな木がいくつか植えてあって、濃い緑色になった葉っぱが、窓に当たらんばかりに成長していた。風が吹いてきて、枝がザワザワと揺れる。
 ポッポッと、小さな雨粒が窓ガラスに浮かび始めた。
「降ってきたか……」
 シャワーの音が止まった。
 一彦はカーテンを閉めた。そしてニヤリと笑った。
 バスルームのドアが開いた。
「お待たせ、一彦」
 サラが、バスタオルを体に巻いただけの姿で出てきた。
 パシャ! ストロボが光った。
「キャッ!」
 サラは、まぶしそうに目を閉じた。ジーッと音を立てて、ポラロイドカメラからフィルムが出てくる。
「エッチ!」
「へへへ、お嬢さん。こいつは高く売れますぜ」
 サラは、一彦からポラロイドフィルムを奪い取った。ちょうど、画像が出てきたところだ。
「やだ、変な顔」
「にっこり笑わなきゃダメだよ」
「バカ」
 サラは、ポラロイドのフィルムで、一彦の頭をペシッと叩いた。
「さっさと、シャワー浴びてきなさいよ」
「へいへい」
 一彦は、笑いながらバスルームに入った。
「もう。子供なんだから」
 サラはポラロイドフィルムを、自分のバックにしまい込んだ。
 そのとき。サラは窓に当たる雨の音に気づいた。
「雨?」
 サラは、窓に近づいて、カーテンをほんの少しだけ開けた。すると、そこには子供の顔が浮かんでいた。鈍く光る瞳。
「ひっ!」
 サラはあわてて窓から離れた。唾をごくりと飲み込むと、バスルームにかけ込んだ。
「わっ、エッチ!」
 一彦が片目を開けて言った。ちょうど、頭を洗っているところだったのだ。
「一彦! 表に誰かいる!」
「なんだって?」
「誰かいるの!」
「おいおい、冗談はよせよ」
「冗談なんかじゃないわ!」
 サラは叫んだ。
 サラの尋常ではない態度に、一彦は急いでシャワーを止めると、まだ泡の残る髪をタオルで軽く拭いた。そして、バスタオルを腰に巻き、バスルームを出て窓に近づいた。
 カーテンを開ける。
「誰もいないよ」
「さっきはいたのよ。子供みたいだった」
 サラは三歩ほど離れたところで震えるように言った。
 一彦は窓を開けた。なま暖かい風と雨粒が吹き込んでくる。一彦は窓枠から身を乗り出して外を見渡した。
「子供なんかいないよ」
 成長した葉っぱが、強くなってきた風にあおられ、窓ガラスをこするように揺れていた。
「もしかして、これと間違えたんじゃないか?」
「あっ…… でも……」
 サラは恐る恐る窓に近づいてその葉っぱを見た。そう言えば、葉っぱの形は人の目に似ていないこともない。
 一彦は窓を閉めた。
「葉っぱと見間違えたんだよ」
「そうみたいね……」
 サラは小声で言った。
「そそっかしいなァ」
「ごめんなさい」
 サラは、シュンと小さくなった。
「いいよ」
 一彦はカーテンを閉め直すと、バスルームに戻った。
 葉っぱ?
 サラは思った。本当に葉っぱだったんだろうか? でも、確かに人の顔が浮かんでいるのを見た……
 バカバカしい! サラは首を振った。考えてみれば、こんな人里離れた場所に子供なんかいる分けない。
「やっぱり、葉っぱよ」
 サラは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

 次の日。
「残念だわ」
 美沙が憂鬱そうに窓の外を見た。
 雨も風もかなり強い。いよいよ、台風が近づいてきていた。
 美沙と俊夫は、ラウンジで時間を持て余していた。
「せっかく、ラケットも持ってきたのにな」
 俊夫が言った。
「ホントよ。こんな雨じゃ、体が腐っちゃうわ」
「プールにも行きたかった」
「うん。水着も持ってきたのに」
「近くの町もぶらぶらしてみたかった」
「うん。新しいワンピも持ってきたのに」
 二人がぶつぶつ言っているころ。サラはキッチンで涼子と紅茶を入れていた。じつは、紅茶のちゃんとした入れ方を涼子から教わっているのである。
「ほら。こういう底が丸いポットがいいのよ」
「どうしてですか?」
「対流で紅茶の葉っぱがポットの中で動くんですって。そうすると、よく色や香りが出てくるの」
「あの、こういうポットはどこで売ってるんでしょう?」
「わざわざ買う必要はないですよ。日本茶を入れる急須がぴったりなの」
「へ~え」
 サラは感心したように言った。
 涼子はポットの中に紅茶に葉っぱを入れた。そして、熱湯を注ぐ。
「沸騰したお湯がいいのよ」
「ふむふむ」
「これで、三分から五分ぐらいね」
 涼子は、小さな砂時計をひっくりがえした。
 砂が、ゆっくりと落ちていく。
 砂時計を見つめていたサラは、思わず、大きなあくびをしてしまった。
「あっ、ごめんなさい」
 サラは、あわてて口を手でおおった。
「きのう、ちょっと寝不足で……」
「あら、まあ」
 涼子は、クスッと笑った。
「若いっていいわね」
「ち、違いますよ。その…… ほら、風が強くって、寝付きが悪かったんです」
「そうね」
 涼子はにっこり笑う。
 うーっ。加藤先生、絶対、誤解してる。と、サラは思った。
 砂時計の砂が全部落ちた。
 涼子は、紅茶をカップに注いだ。
「どうぞ」
 サラは、一口飲む。
「いい香り」
「ありがとう。こうやって入れれば、そんなに高い葉っぱでなくても美味しくなります」
「加藤先生って、意外と家庭的なんですね」
 と、サラ。
「意外でしょ?」
「あっ。ごめんなさい。ぜんぜん意外じゃないです」
 サラはペロッと舌を出した。
「私、メイスン先生がうらやましいわ。とっても明るくて、素敵ですもの」
「それを言うなら美沙ですよ。彼女の能天気にはかないません」
「ふふ。そうね。田中先生もチャーミングだと思うわ」
 涼子は笑いながらうなずく。
「でもメイスン先生は、とても美人でしょ。それなのに、少しも嫌みな感じがしなくて。生徒にも人気があるし」
 サラはなんとなく背中がむずむずしてきた。最近、日本人の謙虚さが身に付いてきたのか、面と向かって美人などと言われるとなんとも照れくさい。うれしいけど。
「加藤先生。おだてたって、なんにも出ませんよ」
 涼子はにっこりとほほえんだ。
「ねえメイスン先生。一彦さんとは、どうして知り合ったの?」
「高校生のとき、あたしの親戚の家にホームスティに来たんです。夏休みの一ヶ月だけですけど」
「そのとき、恋に落ちた?」
「アハハ。なんか、そんな風に言われると照れますね」
「当たっているわけね」
「ええ」
「それから十二年なのね」
「そうです。いつの間にか」
「うらやましいわ。私と雅之さんはまだ一年だもの。それも、お見合。十二年もつき合っていれば、お互いの良いところも悪いところも、全部分かっているんじゃない?」
「そうですね」
 サラは、クスッと笑った。
「特に、悪いところはいっぱい分かってます」
「ケンカとかする?」
「しますよ。年中じゃないけど、たまに」
「だからうらやましいのよ。お互い悪いところを見せ合って、ケンカして、それでもつき合っているってことは、本当に愛し合っているからでしょ」
「う~ん」
 サラは、思わずうなってしまった。
「そういうことって、真剣に考えたことないですけど、あたしは一彦のいない生活は考えられないし、一彦もそうだと信じてます」
「素敵ね。あの…… 立ち入った質問だったらごめんなさい」
 涼子はそう断ってから言う。
「結婚はまだなの?」
「ええ」
 サラは、ちょっと苦笑いで答えた。
「まだお若いものね」
 もう、若くもないけど。と、サラは思ったが、自分より六才上の涼子に、そう言うのははばかられた。
「加藤先生は?」
 サラは、話の矛先を変えた。
「吉里さんとご結婚なさるんでしょ?」
「まだ具体的な日程は決まってませんけど、来年にはと思っています」
「今から楽しみですね」
「そうね。不安もあるけど」
「不安?」
「お見合って、どこか冷めてるところがあるでしょ? 別に、恋愛小説のヒロインを夢見るわけではないけど、こんな淡々とした関係でいいのかなって、少し不安があるわ」
「ふうん。そういうものですかね。べつに、情熱的な恋愛がいいとも思えませんけど」
「私にもうまく説明できないのよ。自分のことなのにね。ただ、一生のことだから冷静に考えなくてはいけないのは当然だけど、あまり冷静すぎるのも不安なのよ」
 サラには、なんとなく涼子の気持ちが分かった。
「それは、分かります。なんとなく」
「メイスン先生こそ、早く結婚すればいいのに。二十八なら、早くはないでしょ」
「でも一彦がまだ、その気にならないみたいで」
「と言うことは、メイスン先生はその気なのね?」
 涼子は、イタズラっぽく笑った。
「さ、さあ、どうでしょう」
「ごめんなさい。ちょっと、立ち入りすぎたかしら」
「いいえ。そんなことないです。正直言って、あたし一彦と結婚したいと思っています。ただ……」
「ただ?」
「あたしたちの両親って、離婚しているんです。だから、なんかお互い結婚に不安があるんですよね。あたしも、両親と同じ道を歩むんじゃないかって、変にこわくなっちゃって」
「そうだったの…… ごめんなさい。私、メイスン先生にそんな悩みがあるなんて知らなかったから」
「加藤先生は、なにも悪くないですよ」
 サラは笑った。
「それに、あたし自分でも分かってるんです。両親のことなんか、ぜんぜん気にする必要ないってこと」
「そうよ。その通りだわ」
「でも一彦が踏ん切らないんですよ。ホント、男って肝心なときに頼りにならないと思いません?」
 サラは、冗談半分に、笑いながら言った。
「そうね」
 涼子も笑いながら答える。
「メイスン先生の口癖をまねるなら、その意見には賛成よ」
「アハハ!」
 サラは、声を上げて笑った。

 そのころ。一彦は、吉里の書斎にいた。
「どうだい、一彦君」
「すごいコレクションですね」
 書斎の机には、年代物のカメラがずらりと並べられていた。
「君に見せたくてね。東京の自宅から持ってきたんだよ」
 吉里は、一人、うれしそうに言う。
「光栄ですね」
 一彦は、心とは裏腹の言葉を発した。
 正直言って、一彦はカメラに愛着を持ってはいない。もちろん、良い写真を撮るために値段の高いカメラを使ってはいるが、それをコレクションしようと思ったことは一度もなかった。
「君は、どれが好みかな?」
 吉里が上機嫌で聞いた。
「そうですねぇ……」
 一彦は、机の上を見渡す。
「この中では、ワイドローライなんか好きですね」
「さすがお目が高い。ライカは?」
「M6です。ここにはないけど」
「おいおい、そりゃ、最新の機種じゃないか。クラッシックカメラじゃない」
 吉里は、苦笑した。
「でも、ライカの中では一番扱いやすい。露出計もついてますし」
「プロの意見かい?」
「いえいえ」
 一彦は、頭をかいた。
「ライカの距離計連動って、フィルムの装填が独特でしょ。僕は、ライカ全盛の世代じゃないから、使い慣れてないんですよ」
「なるほど」
 吉里は相づちを打つと、テーブルの上の一台を手に取った。
「私は、これが好きなんだ」
「M2ですね。モーター付きなんて珍しいな」
「そう。M2のS型だ。モーターワインダー付き」
 吉里は、そのカメラを手に取る。
「このモーターはニューヨーク・ライツ社の物だが、ライツ本社の試作品も含めて303台しか製造されなかった。しかも、こいつのレンズは、40センチまで接写ができる物で近接撮影ファインダーが付いている。これで、問題なく距離計連動で撮影できるんだ」
「そいつはすごい」
 一彦は、精いっぱい驚いて見せた。
「ずいぶんと、貴重な物ですね」
「だが、これなど、まだまだだよ」
 吉里は、別のカメラを手に取った。
「それもM2ですね。でも、変わった色だな」
 そのカメラは少し青みがかったグレーだった。
「ボディナンバーを見てくれ」
「1005753」
 一彦は、思わず声に出してボディナンバーを読んだ。だが、意味は分からない。
「こいつは、一九六〇年に作られたものだ。空軍用の特別仕様だよ。一彦君、こいつが何台作られたか知っているかね」
 吉里は得意そうな顔で聞いた。
「さあ?」
 一彦は肩をすぼめる。
「二十台だよ。二十台。たった、二十台しか製造されなかった」
「これまたすごい」
 なにも、二十台、二十台と連呼することもないじゃないか。と、思いながら、一彦は相づちを打った。
「私の自慢のコレクションだ」
 吉里は、満足そうにうなずく。
 一彦は、さすがに居心地の悪さを感じ始めていた。この調子で、残りのカメラの自慢話を聞いていたら日が暮れる。
「こっちは……」
 と、吉里が次ぎのカメラを手に取ったとき、一彦はすかさず言った。
「あの、吉里さん。普段はどのカメラをお使いなんですか?」
「ライカかコンタックスだよ」
「ああ。コンタックスはいいですね。いや、いいレンズと言った方がいいですか」
「ドイツ製のレンズは最高だよ」
「まったくです」
 一彦は、話を合わせた。
「ツアイスのレンズに比べたら、日本製のレンズなんか使う気は起こらないでしょう」
「そのとおり。君もコンタックスかい?」
「いいえ。僕はキヤノンです。写真学校時代からずっと使ってるんですよ」
「ほう。じゃあ、もう十年近くかね」
「そうです。レンズはともかく、カメラは丈夫です。あのころのキヤノンはね」
「今のカメラはどれもダメだ」
 吉里は真面目な顔で言う。
「耐久性もそうだが、とにかく美しくない。変にデザインに凝ってはいるが、機能美というもっとも大切なものが欠けているよ」
「ごもっとも」
 一彦は、答えた。というか、ただ相づちを打った。
「私は、本当の意味で美しい物が好きだ。君も、古いフランス車に乗っているなら分かるだろう?」
「ええ、まあ。でも、僕の場合、あの車は中学のころ好きだったという理由で、それほどポリシーがあるわけでは……」
「ほう。君が中学のころと言えばスパーカーが流行っていたんじゃないか? そのころからフランス車が好きとは素晴らしい感性だな」
「い、いえ、その、人並みにカウンタックも好きでしたけど、あれは値段が高すぎるし、機材なんか積めませんから、あんな実用的じゃない車たとえ買えてもサラが怒るし……」
 一彦は、もごもごと言った。
「謙遜だな。そう、その君のガールフレンドを見ればよく分かる」
「サラ?」
「そうだ。彼女はじつに美しい」
 とたん。一彦は、吉里の言葉になんとなく不快感を覚えた。
「君は、彼女の美しさに惹かれたのだ」
 吉里は続けた。
「まさに、機能美と呼ぶにふさわしい、あの造形に心惹かれたはずだ。彼女には一点の曇りもない」
 吉里は、そう断言した。
 一彦は、吉里の言い方に、不快感を通り越して怒りさえ感じる。
 いや、まるっきり的外れだとは言うまい。確かに、サラが美人だと言う意見に反対する気は、まったく、これっぽっちもない。
 でも、あなたはサラと僕のことをなにも知らない。一緒に味噌汁を買いに行ったことも、馬糞にまみれながら悩みを打ち明けあったことも。そして、そばかすを気にするサラが、すごくチャーミングだったことも。ついでに、これは機密事項だが、化粧を落とすと、今もそばかすがちょっと残ってて、そこがまたカワイイのだ。まだあるぞ。今度こそ本当に最高機密事項だけど、ほんの少しヒップが大きいところも……
 いや、だから、つまり、サラは物じゃない。機能美? 造形? 冗談じゃない。
 一彦は、正面から雅彦に反論したいと思った。だが、ここでケンカをするつもりはない。と言うより、できない。
 ここはぐっと我慢。
「どうも」
 一彦は、全身全霊を傾けてほほえんだ。今までの人生で笑顔を作るのにこれほど苦労したことは一度もなかった。

「あら、一彦さん。お話はもうお済みなんですか?」
 三時間ほど吉里のカメラ談義につき合わされた一彦は、書斎を出たところで涼子に呼び止められた。
 もう、お済みだって? 冗談でしょ。一彦は心の中で悪態を付いた。やっと、お済み。の間違いですよ、と。
「ええ。楽しかったですよ」
 一彦は、心とは全く逆の言葉を口に出して、にっこりとうなずいた。今日一日で、笑顔の作り方とお世辞の言い方をずいぶんとマスターした。
「今まで、みなさんと、下でポーカーをやっていたんです」
 涼子が言った。
「加藤先生も?」
「はい。私、意外と賭事に向いているかも知れないことが分かりました」
「ハハハ。俊夫が負けたんでしょ?」
「ふふ」
 涼子はほほえんだ。
「そうだ。ちょっとよろしいですか? 見ていただきたい物があるんです」
 ひ~っ。もう、勘弁してくれ。と、一彦は思いつつ、
「いいですよ」
 と、ほほえんだ。人間は成長するのだ。
 涼子は、一彦を二階の真ん中あたりにある部屋に招き入れた。ちょうど、吉里の書斎の隣の部屋だ。
「雅之さんのお父様とお母様が使っていたベットルームです。今は、誰も使っていませんけど」
「へえ。広いですね。さすが主の部屋だな」
 その部屋には、ベットが二つ置かれていた。白いシーツがかぶせてあって、この部屋を使う者が今はいないことを物語っている。
 一彦は、テーブルに立ててある一枚の写真に目がとまった。それは、小さな木製の額に入ったモノクロの写真で、少しセピア色に変色している。
「雅之さんのお父様とお母様です」
 涼子が、一彦の目線に気づいて、写真の説明をする。
「お二人がお若い頃の写真だそうです」
「お母さんも亡くなられたんですか」
「ええ。お父様が亡くなってすぐだそうです」
 後を追うようにか…… 一彦は心の中で思った。
「ここは、彼にとって思い出の部屋なんですね、きっと」
 涼子は、ほほえみながら言った。
「それに、今、彼が書斎に使ってる部屋は、もともとお父様の書斎だったそうです」
「ふうん」
 思い出か……
 一彦は、吉里の両親の写真を手に取った。セピア色の写真の中で、彼の父親は、いかにも知的で厳格そうな人物に見えた。母親も知的な雰囲気か漂っている。
 そう言えば。と、一彦は、自分の両親の写真を一枚も持っていないのに気づいた。いや、それどころか、若い頃の写真など見たことさえない。
「一彦さん」
 涼子の声で、一彦はハッと現実に戻り、写真をテーブルの上に戻した。
「クローゼットを見ていただけます?」
 涼子は、クローゼットのドアを開けていた。
「この裏が、あの部屋なんです」
「あの部屋?」
「ほら、鏡に男の顔が映っていた」
「ああ!」
「ここに蓋がしてあるでしょ」
「ホントだ」
 一彦は、蓋を開けた。
「マジックミラーですね」
「ええ」
 涼子は笑った。
 一彦は、マジックミラーから隣の部屋をのぞき込んだ。ベットが置かれている。
「あまり見ないで下さい」
 涼子が笑いながら言った。
「じつは、あたしと雅之さんの寝室なんです」
「あっ、こりゃ失礼」
 一彦も、照れ笑いを浮かべて、マジックミラーの蓋をもとに戻した。
 つまり、この部屋は、書斎と涼子たちの寝室の真ん中にあるわけだ。二階には、そのほかにドアが二つあったから、全部で五部屋あることになる。広い別荘だと思ってはいたが、本当に広い。
 一彦は、ふと、クローゼットの天井に目をやった。パネルがずれている。
「あら」
 涼子も気づく。
「いやだわ。ネズミかしら?」
「可能性はありますね」
 きのうの物音を、ふと、一彦は思い出した。
「一彦さん。申し訳ないんですが、閉めていただけないでしょうか」
「いいですよ。ちょっと、椅子を貸して下さい」
 一彦は、椅子を持ってきて、その上に立った。パネルを少し持ち上げて、元の場所に戻す。そして、きちっと閉めた。
「すいません。こんなことまでしていただいてしまって」
「とんでもない。お安いご用ですよ」
 一彦は、ほほえみながら首を振った。

「一彦~」
 一彦がラウンジに降りていくと、俊夫が恨めしそうな声を出した。
 俊夫と美沙、そしてサラの三人がポーカーをやっている。
「なんだよ?」
 と、一彦。
「おまえがいないせいで、惨敗だよ」
「オレがいても同じだろ」
「いいや、そんなことはない!」
「ふうん。いいよ、勝負してやろうじゃないの」
「じゃあ、あたしと代わって」
 サラが、自分のカードを一彦に手渡した。
「あたし、ちょっと休むわ」
「いいよ」
 一彦は、カードを受け取って、サラの座っていた場所につく。
 サラは立ち上がった。
「じゃあね、俊夫君がんばって、取り返してちょうだい」
「おい、サラ。休むって、ホントに休むの?」
 一彦が声をかけた。
「そうよ。風の音がうるさくって、あんまり眠れなかったの。ちょっと横になるわ」
「分かった。お休み」

 一時間後。一彦は、自分とサラの寝室に戻った。俊夫から、三千円巻き上げて、俊夫がついにギブアップしたからだ。
 一彦は、サラがまだ寝ているといけないので、そっとドアを開けた。
 サラは、もう起きていた。
「一彦。写真はどこ?」
「写真?」
「きのう撮ったじゃない。ポラロイド」
「あれ? サラに渡さなかったっけ」
「そうよ。それで、あたし自分のバックの中に入れたわ」
「それを、なんでオレが知ってるわけ?」
「だって、今、見たらバックの中にないんだもの。一彦が取り出したんでしょ」
「いや。オレは触ってないよ」
「うそ。じゃあ、なんでないのよ」
「知らないよ。よく探した?」
「探したわ」
「おいおい、その疑いの眼差しはやめてくれ。ホントに知らないってば」
「ねえ。怒らないから返してよ」
「だから……」
「なんで、そんなイタズラするのよ? あたしがこわがるとでも思った?」
「やってないってば」
「じゃあ、誰が写真を持ち出したの?」
「なあ、もう一度よく思い出せよ。ホントにバックに入れたのか」
「間違いないわ」
「ふうむ」
「いいかげんにしてよ。あたしは確かにバックにれたし、一彦以外の誰かがそれを持ち出す分けないでしょ」
「おいおい、そう一方的に決めつけるなって」
「ねえ、一彦。笑える冗談と笑えない冗談があるわ。一彦がやってるのは笑えない冗談よ。ただでさえ寝不足なのに、これ以上あたしの神経を逆撫でしないでよ」
「そんなに寝不足なのか?」
「だって、きのう表に誰かいたし」
「あれは葉っぱだって」
「それだけじゃないわ。夜中、天井裏からガタガタ物音がしたのよ」
「ネズミだろ」
「だから、眠れなかったんじゃない! 早く写真返してよ!」
「分かった!」
 一彦は両手を上げた。
「オレが悪かった。確かに、写真を持ち出したのはオレだよ。そう、オレが悪い」
「ほら、やっぱり! どこにあるのよ」
「捨てた」
「捨てた? なんで、そんな勝手な……」
「サラ」
 一彦は、サラを抱き寄せようとした。
「やめて!」
 サラは、一彦を拒むとベットに横になって毛布を頭からかぶってしまった。
 作戦失敗。どうやら、サラはマジで怒っている。
 一彦は、渋い顔でベットの中で丸くなるサラを見つめた。じつのところ、一彦は、写真のことなどまったく知らないのだ。ただ、サラがあまりにも興奮しているのでわざと犯人になったのである。
 一彦は考えた。サラが、写真を自分のバックに入れたのは間違いないだろう。そんな簡単なこと、思い違いをするわけはない。
 だとしたら、誰が?
 可能性があるのは美沙と俊夫だ。だが、もっとも可能性の低い二人でもある。なぜなら、いくら友人とはいえ、二人とも人のバックを勝手に開けるなんて、そんな非常識な人間ではないからだ。それは、一彦が一番良く知っている。
 と、なると、涼子か吉里。あるいは、二人の共謀? それもまた考えにくいことである。確かに、吉里には心霊写真をでっち上げるという前科がある。それにしても、われわれにもそんなイタズラをするだろうか。他人のバックを勝手に開けるなんて、いくらなんでも冗談の度を超している。
 ちょっと待て。となると、誰もそんなバカげたことをする人間はいないことになる。サラの勘違いだろうか? あるいは、きのうサラが見たという……
 一彦は、首を振った。やはり、一番可能性のあるのは吉里だ。少々度の過ぎたイタズラをしてみたくなったに違いない。
 一彦は、サラを刺激しないように、そっと寝室を出た。


 その日の夕食は、涼子が買い置きをして置いたおかげで、雨の中、外に出る必要はなかった。美沙が手伝って夕食を作った。
 しばらくして、サラも料理に加わった。少し目を腫らしていたが、それでもいくらか眠ったらしく、落ちつきを取り戻していた。
 吉里だけが下に降りてこなかったが、夕食の準備が整ったころ、タイミング良く姿を現した。
 麗しい女性三人が作る料理は、美味しかった。だが、サラはあきらかに怒っている様子で、一彦とは一言も会話を交わさなかった。
 夕食が済むと、サラは、さっさと寝室に戻っていった。
 一彦は、ちょっと肩をすくめて俊夫を見たが、すぐに、サラを追いかける。
「なに?」
 美沙が、俊夫に言った。
「あの二人どうかしたの?」
「さあね」
 俊夫は気楽な口調で答えた。
「犬も食わないってやつだろ」


「サラ」
 寝室に入ると、一彦が言った。
「なあ、まだ怒ってるのか」
「当たり前でしょ!」
 サラは振り向きもせずに言う。
 さすがの一彦も音を上げた。そろそろ本当のことを話した方が良さそうだ。もっとも、吉里が犯人だと言う確信はないが。
「なあ、サラ。じつは……」
 一彦は言いかけた。
 サラは、なにも聞きたくないと言った顔でバスルームに入ってしまう。
「おい。聞いてくれよ」
 と、そのとき。
「一彦!」
 サラが、すごい剣幕でバスルームから出てきた。
「いいかげんにしてよ! もう、我慢の限界だわ!」
 サラは、一彦を睨みながら、バスルームの中を指さした。
 一彦は、中をのぞき込んだ。
〈でていけ〉
 バスルームの鏡に、赤い口紅でそう書かれていた。洗面台の上に、サラの口紅が投げ捨てるように置かれている。
「なんだ、これ……」
「一彦が書いたんでしょ!」
「待ってくれ。いくらなんでもこんなことするわけないだろ」
「どうして、そんなに嘘をつくのよ」
 サラの瞳は少し潤んでいた。
「確かに、オレはうそをついた」
 一彦は、真面目な顔で言った。
「ポラロイドを隠したのはオレじゃない」
「なんですって?」
「あのときは、サラが興奮してたからそう言ったんだよ。オレはなにもやってない」
「どういうことよ。だって…… それじゃあ、誰がやったというの」
「吉里さんのイタズラとしか思えないな」
「まさか」
 サラは信じられないといった表情で一彦を見た。
「オレもそう思ったよ。でも、他に考えようがないじゃないか。サラがベットに入ってから、オレは一度もこの部屋に入ってないんだぞ。オレは俊夫とビールを飲んでた。唯一、吉里さんだけがいなかったよ」
 本当だろうか? サラは心が揺れた。本当に、吉里さんのイタズラ? そんなことってある? もしかして、その話も自分を脅かそうとしてる一彦の狂言じゃないの?
 サラは、ふと、自分がバカな考えに取り付かれていることに気づいた。
 そう。なぜ、自分は一彦を信じないのだろう。疑うより、信じることの方が先ではないか。これでは、離婚した両親と同じだ。
 あたしはバカだ。
 サラは、一時でも一彦を疑った自分に落ち込んだ。
「その……」
 サラは、少し目を伏せた。
「ごめんなさい。一彦を疑ったりして」
 知らず知らず、涙がこぼれてくる。
「お、おいおい、なにも泣くことないだろ」
 今度は、一彦がうろたえた。サラの態度の急変についていけない。
「でも、あの…… 本当にごめんなさい。あたし、今、ふと思ったの。どうして、一彦を信じないんだろうって。ハハ。おかしいよね。これじゃあ、あたしも父や母と同じだわ」
「サラ……」
 一彦はサラを抱きしめた。
「それなら、オレも謝るよ」
「えっ?」
 サラは、一彦の腕の中で顔を上げた。
「たぶん、きのうの晩、サラが見たのは葉っぱなんかじゃなくて、吉里さんだったんだろうな。オレもサラを信じなかった」
「ううん。あのときは誰だって一彦と同じことを言ったはずだわ」
「なら、サラも同じだよ」
「でも……」
「もう、やめよう」
 一彦は、急に照れくさそうに笑った。
「うん」
 サラも涙を拭った。
「なあ、サラ。一つ提案があるんだけど」
「なに?」
「これから、二人で吉里さんに文句を言いに行かないか」
「うん。それ、賛成」
 サラは、うなずいた。





 二人は寝室を出た。まず、ラウンジを覗く。美沙と俊夫がいるだけだった。
「吉里さんは?」
 一彦が聞いた。
「二階に上がったぞ」
 俊夫が答える。
 一彦とサラは、二階に上がった。まず、書斎のドアをノックする。
 反応はない。
「きっと、寝室ね」
 サラは言った。
 二人は、吉里と涼子の寝室に向かうとドアをノックした。やぱり反応がない。今度は少し乱暴に、もう一度ノックする。しかし、部屋の中は静まり返っている。
「おかしいな」
 一彦はつぶやいた。
「吉里さん!」
 サラが叫ぶ。
 反応なし。
 一彦は、ドアノブを回した。開かない。中から鍵が掛かっているようだ。
「くそっ。今度はかくれんぼか」
「なにを考えてるのかしら」
「さあな。さしずめ、お化け屋敷ごっこでも計画したんだろ」
「ひどいわ、そんなの!」
 サラが、厳しい表情で言う。
 騒ぎを聞きつけて、美沙と俊夫が上がってきた。
「どうしたんだ?」
 と、俊夫。
「どうもこうもないよ。吉里さんがいないんだ」
「まさか。寝てるんじゃないか?」
「何度もノックしたよ。それに、鍵が掛かってる」
「待てよ。鍵が掛かってるってことは、中に誰かいるじゃないか?」
「でも、出てくる気はないみたいだな」
「ちょっと」
 美沙が口を挟んだ。
「サラも一彦も、なにを怒ってるのよ」
「怒りたくもなるわよ」
 サラは、手短に説明した。
「まさか、そんなことを?」
 美沙が半信半疑という顔で聞き返す。
「冗談でこんなこと言うと思う?」
「それはそうだけど…… でも、なんでそんなこと吉里さんがやるわけ? まさか、心霊写真の続きってこと?」
「ぜひ、本人に聞いてみたいわね」
 と、サラ。
「こうなったら、こじ開けるか」
 一彦は、忌々しそうに開かないドアを見つめた。
「その前に、他の部屋を全部見てからの方がいいんじゃないか?」
 俊夫が提案した。
「そうだな」
 と、一彦。
 四人は、手分けして別荘の部屋を全部見て回った。吉里も涼子もどこにもいなかった。やはり、あの寝室しかない。全員がそう確信した。
「吉里さん! 出てきて下さい!」
 一彦は、寝室の前で叫んだ。まったく反応なし。もう、四回ほど呼びかけたがダメなのだ。
「これが最後です!」
 と、一彦。
「ドアを壊してでも中に入りますよ!」
 反応なし。
「もう、頭にきた。やっぱりドアを壊そう」
 一彦は、俊夫に言った。
「OK。器物破損の共犯になるとしますか」
 二人は、ドアに体をぶつけた。二度、三度と繰り返す。ドアは壊れない。
「へえ。映画のように、簡単にはいかないのね」
 美沙が、へんな関心の仕方をする。
「ハンマーかなにかあるといいんだがな」
 俊夫が言った。
「スパナならあるぞ」
 と、一彦。
「車に積んである。取ってくるよ」
 一彦は、雨に打たれながら表に出た。
 ピカッ! ゴロゴロゴロ!
 雷が鳴った。
 一彦は、急いで車まで駆け寄ると、トランクの工具入れからスパナを取り出す。
 ふと、一彦は、車の車高が妙に低くなっているのに気がついた。
「ここまでするか!」
 一彦は、はき捨てるように叫んだ。なんと、四輪ともタイヤがパンクしているのだ。ナイフのような物で切り裂かれている。

「こりゃ、もう、冗談でも洒落でもなんでもないぞ!」
 一彦は、二階に戻るなり叫んだ。
「どうしたの?」
 サラが心配そうな顔で聞く。
「タイヤが全部切り裂かれてた。ご丁寧なことだ」
「ひどい……」
「ああ。でも、これでもう遠慮はいらないな」
 一彦は、スパナでドアノブを叩いた。何度かトライするうちに手が痛くなって俊夫にバトンタッチ。さらに、一彦に順番が回ってきたときドアノブは壊れた。
 一彦は、乱暴にも足でドアを蹴やぶった。
 中に入り、電気をつける。
「やだ、誰もいないじゃない」
 美沙が、不安そうな声を出した。
 そのとき。電気が消えた。部屋が、いや、別荘全体が真っ暗になる。
「やだ……」
 サラが、一彦の腕につかまる。
 ピカッ! ゴロゴロゴロ!
「キャーッ!」
 サラは、一彦に抱きついた。美沙も俊夫に抱きついている。
「上等じゃないか! 本格的にやる気だぜ、あっちは!」
 俊夫が怒鳴った。
「ああ、とっくの昔にな」
 一彦はうなずいた。

 四人は、俊夫のつけたライターの明かりを頼りにラウンジに降りた。
「無駄だとは思うけど、ブレーカーを見てみよう」
 俊夫が言った。
 ブレーカーは勝手口の上に取り付けられている。
「やっぱりな」
 と、俊夫。
「ブレーカーは正常だよ」
「外か?」
 一彦が聞く。
「たぶんな。一彦、懐中電灯持ってないか?」
「それも車に積んである」
「よし。取りに行きがてら、送電線を見てみよう」
「了解」
 俊夫と一彦は、外に出て、懐中電灯を取りに行った。そして、壁から電柱に繋がっている送電線をチャックする。
 送電線は切られていた。
「すごいなあ」
 と、俊夫。
「ここまで来ると、悪質なんてもんじゃないぜ」
「人の車をパンクさせる連中だぜ。すでに犯罪だよ」
「まったくだ」
「ところで、これって繋ぎ直せないのか?」
「無茶言うな。オレがいくら電気屋だからって、送電線を切られたらどうしようもないよ。こんなところで、感電死したくないからな」
「じゃあ、しょうがない。戻ろう」
 二人は中に戻った。すると、サラと美沙がキッチンでロウソクを発見していた。
「見て見て」
 美沙が言った。
「非常用袋っていうのがあったの。中に、ロウソクと懐中電灯も入っていたわ」
 四人は、ロウソクに灯をともすと、取りあえず、ソファーに座って落ちついた。
「最悪の旅行だわ」
 サラが、言った。
「あたしたちが笑って許すと思ってるのかしら」
「金持ちのやることは、まるで理解できないな」
 と、一彦。
「ねえ、一彦。加藤先生もいないってことは、二人ともグルかしら?」
「その可能性は高いな」
「ひどい話よね」
 美沙が口を挟む。
「せっかく、加藤先生と仲良くなれたと思ったのに。これじゃ、前よりよっぽど悪いわ。あたし、加藤先生がどんなに謝ったって、もう、二度と口も聞きたくない」
「その意見に賛成」
 サラは、美沙に同意した。
 そのとき。窓の外で、ドサッという物音が聞こえた。
 ピカッ! ゴロゴロゴロ!
 また、雷。
 その、一瞬の光で、外に人影が見えた。
「いよいよ、お出ましか」
 懐中電灯を手に、一彦が立ち上がった。
「今度は、どんな趣向ですかね」
 俊夫も立ち上がる。
 二人は、窓に近づいて、カーテンを勢いよく開けた。
 人がもたれ掛かっていた。
 一彦が、懐中電灯を当てる。
「キャーッ!」
 サラと美沙が、同時に叫んだ。一彦も俊夫も叫びこそしないが、腰を抜かしそうなほどショックを受けた。
 それは、明らかに死体だった。ふいに、バランスを崩して、その死体はもたれていた壁からズルリと倒れる。
「な、な、な!」
 俊夫は、顔面蒼白で声も出ない。それは、一彦も同じだった。
 十秒か、二十秒、時間が経過した。サラと美沙は抱き合いながら、まだ震えている。男二人は、多少、落ちつきを取り戻した。
「な、なんだあれ?」
 俊夫が言った。
「分からん」
 一彦は、恐る恐る、窓を開けた。下を見る。
 女の死体だ。その服には見覚えがあった。そう、涼子の着ていた物だ。だが、うつ伏せに倒れているので顔が確認できない。
 とたん。一彦はピンと来た。
「もしかして、人形なんじゃないか、これ?」
「人形?」
 と、俊夫。
 それを聞いて、震えていたサラと美沙が顔を上げた。
「そうだよ。きっと、人形だ。まんまとやられたな」
「ああ。考えてみりゃ、そうだよな」
 俊夫も、ホッとしたようにうなずく。
 美沙が、窓に近づいて来た。
「やだ、この人形、加藤先生の服を着てるわ」
「念の入ったことだ」
 俊夫が忌々しそうに、人形を見おろした。
「それにしても、良くできた人形だなァ」
「一彦。あたし、こわい……」
 サラが、一彦の腕を抱いた。
「大丈夫だよ」
「でも、あの…… 本当に人形なのかしら」
 全員が、サラを見た。
「ちょっと、サラ」
 美沙が言う。
「変なこと言わないでよ。もし、人形じゃなかったら、これは殺人よ」
「ごめんなさい。そうよね。いくらなんでも考え過ぎよね……」
 サラはうつむいた。
 相当まいってるな。と、サラの様子を見て、一彦は思った。
「分かった。一応、調べてみるよ」
 一彦は、サラを安心させるために、外に出て人形を調べることにした。
 雨は、相変わらずひどく降っていた。傘が強い風にあおられる。一彦は、傘を差すのを諦めた。
 一彦は、玄関を小走りに出ると、ラウンジの外側に回った。
 本当に良くできている。
 人形の近くまで寄ると、一彦は思った。よほど、前から準備していたに違いない。
「気を付けて。滑らないでね」
 窓の内側からサラが言った。
「大丈夫だよ」
 一彦は、しゃがんで人形の腕に触った。冷たい。まるで、冷蔵庫に入っていたような冷たさだ。
「どうだ?」
 と、俊夫が部屋の中から声を掛ける。
「すごいな。良くできてる」
 一彦は答えた。
「どんな材質で、できてるんだろう。俊夫、懐中電灯を顔に当ててくれよ」
「OK」
 俊夫は、懐中電灯を人形の顔の部分に当てた。うつ伏せなので、髪の毛しか見えない。
 一彦は、人形をひっくりがえそうと、胴体部分をつかんだ。硬いコンニャクのような弾力がある。肋骨も中に入っているようだ。それに重い。
 嫌な予感。まるで、本当の人間じゃないか。
 一彦は、脳裏によぎった不吉な考えを振り払った。そして、勢いよく人形をひっくりがえす。
「うっ……」
 一彦は、思わず目を背けた。
「イヤーッ!」
 サラと美沙が同時に悲鳴を上げた。
 人形の顔は、なにかで強く殴打されていた。ぐちゃぐちゃに崩れて、まるで判別できない。鼻は折れ曲がり、右目が飛び出ている。左の目はなく、血糊が溜まった空洞がポッカリと開いているだけだった。
 一彦は、胃の中にある物がこみ上げてきた。
 あまりにも精巧。あまりにもリアル。
「に、人形なんかじゃない」
 俊夫が、震える声でつぶやいた。
 死体!
 それは、まぎれもなく死体だった。
 一彦は吐いた。晩ご飯を全部吐き出した。雨で濡れた芝生に、まだ消化中の食べ物が広がっていく。
 落ちつけ。落ちつけ。一彦は、とめどもなく襲ってくる吐き気の中で、必死に繰り返した。死体を見るのはこれが初めてじゃないぞ!
 そう。一彦は過去に四度、死体を見ている。祖父と祖母の葬式で。父方と母方の両方ともが他界したから、合計四人の棺桶に入った死体を見てきたのだ。だが、今、目の前にある死体と決定的に違うのは、祖父たちの顔はみなつぶれていなかったし、第一、死体になるには不足のない年齢だった。
「俊夫…… 電話だ。警察に……」
 一彦は、そこまで言うと、また吐いた。もう、胃液しか出ない。
 加藤涼子の死体。
 顔は判別できないが、この死体の名は、加藤涼子に違いない。彼女は殺されたのだ。無惨な姿で。数時間前まで、静かにほほえんでいた彼女の変わり果てた姿。
「だめだ!」
 俊夫の叫ぶ声が聞こえた。
「電話が通じないぞ!」
 くそっ、電話もか。一彦は心の中で舌打ちした。送電線を切断されていたのだ。あのとき、電話回線も切られていると疑うべきだった。
「くそっ、回線を切られてるな」
 俊夫の声。彼も、一彦と同じ結論に至っていた。
「美沙、サラ。ここにいてくれ。外を見てくる」
 俊夫はそう言って、玄関に走っていった。
「一彦! 一彦!」
 サラの悲鳴にも近い声が、一彦の耳にとどいた。
 一彦は、サラの声で、なんとか気を取り直した。口に残った酸っぱい胃液を唾とともに吐き出す。
「大丈夫だ」
 一彦は、部屋の中にいるサラに言った。
 すると、俊夫が走ってくる、バシャバシャという音が聞こえた。
「おい、大丈夫か?」
 俊夫が声を掛ける。
「なんとかな」
「電話の保安器を見たいんだ。一緒に来てくれ」
「ああ」
 一彦は俊夫に答えると、ちらっと加藤涼子の死体を見た。
「よせ! もう、見るな!」
 俊夫は怒鳴った。俊夫自身、涼子の死体を視界の中に入れないよう気を付けていた。まともに見たら、一彦と同じように晩ご飯を無駄にすることになる。
「行こう」
 俊夫は、一彦の腕を引っ張った。
 電話回線は、家の外の壁に保安器というボックスの中にまとめられている。ここから、外の電柱と屋内の配線を繋いでいるのだ。
「あった」
 俊夫は、保安器を発見した。
「一彦。懐中電灯を当ててくれ」
「ああ」
 一彦は、言われるとおり、保安器に懐中電灯の光を向けた。
 そのとたん。
「だめだ、こりゃ」
 俊夫が吐き捨てるように言う。
「どうした?」
「線がないんだよ」
「え?」
「ほれ、ここを見てみろよ」
 俊夫が、保安器を指さした。
「ここから、あそこにある電柱に線が繋がってるはずなんだ。それが、ばっさりなくなってる。ご丁寧に、巻き取ってどこかに捨てたんだろう」
 一彦は、保安器から、俊夫の言う電柱に視線を移した。
「ざっと、二十メートルってところか。万事休すだな……」
 一彦は言いかけて、ふと、思い出した。
「そういえば、俊夫。おまえ、携帯電話は?」
「持ってたら、雨の中こんなところまで見に来るもんか」
「忘れたのか」
「置いてきたんだよ。休みの日に、仕事で呼び出されたくないからな」
「聞くだけ無駄だと思うけど、美沙は?」
「無駄だ。美沙も持ってきてない」
「マジで、万事休すだな」
「それはどうかな」
 俊夫はつぶやいた。
「とにかく、いったん戻ろう。対策はそれからだ」
「ああ」
 二人は、髪も服も雨でずぶ濡れのまま、別荘の玄関を開ける。サラと美沙が、懐中電灯を持って待っていた。
「一彦!」
「俊夫!」
 サラは、一彦に。美沙は俊夫に抱きついてきた。
「濡れるよ」
 一彦は、小さな声で言った。それでも、サラは一彦から離れなかった。
 サラは泣いた。恐怖と、涼子が死んだショックが二重に襲ってくる。一彦の腕の中で、涙が止めどもなくあふれてくる。
 一彦は、そっとサラを抱く腕に力を込めた。
 サラは、ひとしきり泣くと、一彦の体が震えているのに気がついた。体が冷たい。そう言えば、雨のせいで、気温がだいぶ下がっている。
「一彦」
 サラは、顔を上げて涙を拭った。
「ごめんなさい。着替えた方がいいわ」
「うん。着替えてくるよ」
「待って。一人で行かないで」
「ああ」
 と、一彦。
「俊夫。おまえも着替えろよ」
「いや。オレは大丈夫だ。ラウンジにいるよ」
「分かった」
 一彦とサラは寝室に向かう。
 顔を洗い、うがいをして、着替えを済ます。乾いた服を着ると、やっと落ちついてくるのが、一彦は自分でも分かった。
「サラ。おまえも顔を洗った方がいいぞ」
 一彦は言った。サラの瞳は、涙で真っ赤になっている。
「うん」
 サラは、冷たい水で顔を洗った。腫れぼったかった目がスーッとして心地いい。
「落ちついたかい?」
 一彦が心配そうにサラをのぞき込んだ。
「うん。あたしは大丈夫。一彦こそ、平気?」
 一彦は黙ってうなずいた。

 二人がラウンジに戻ると、俊夫が包丁を手に持っていた。
「な、なんだ?」
 一彦は聞いた。
「なにをする気だ、俊夫」
「電気製品のコードを切るんだよ」
「コード?」
「そう。こうやってな」
 俊夫は、部屋の隅にあるライトスタンドのコードを包丁でブチッと切る。
「それをどうするんだ?」
「電気製品のコードっていうのはな、中で寄り線になってるんだよ」
「寄り線?」
「ああ。女の子の三つ編みみたいなもんさ。それをほぐせば、三倍の長さになる。保安器から電柱までの長さはざっと二十メートルだから、七メートルのコードがあれば、電話回線を繋ぎ直せる。電話線なら感電死する心配もないしな」
「さすが、電気屋」
 一彦は、素直に感心した。さすがの吉里も、ここに電気屋がいるのを勘定に入れていなかったらしい。
 それから、一彦たちは、電気製品のコードを次ぎから次ぎへと切って回った。幸い、今の家は、電気製品に事欠かない。電気炊飯器、冷蔵庫、テレビ、等々。
 すぐに、七メートル以上のコードが集まった。
 俊夫は、集めたコードを、包丁を使って器用に剥いていく。それを、みんなで手分けして繋いでいった。
「俊夫がいてくれて良かったよ」
 一彦が、手を動かしながら言った。
「正直、ここで朝まで過ごすかと思うとぞっとする」
 この別荘は、いわゆる別荘地帯から少し離れたところにある。近くに民家もない。町までは、車さえ動けばなんの問題もない距離だが、歩くとなると二時間は覚悟しなければならない。しかも、外は雨。風も強い。こんな状況で暗い夜道を歩くのは気が進まないし、実際、危険でもあるだろう。
「あと、一時間もあれば全部終わりさ」
 俊夫が答えた。
「電話が繋がれば、あとは警察に任せりゃいい」
「ああ」
 一彦は腕時計を見た。十時半。なんとか、今日中には片が付きそうだ。
「なあ。少し今までのことを整理してみないか」
 一彦は言った。
「整理?」
 と、俊夫。
「どう整理するって言うんだ。なにもかも無茶苦茶だよ」
「だからさ。犯人は、吉里さんだと思うけど」
「さん。なんて付けるな」
 俊夫は、一彦を睨んだ。
「分かったよ。その、犯人は吉里だと思うけど、いったい、なんで婚約者を殺そうと思ったんだろう」
「知るもんか。オレに言わせれば、ただの異常者だ」
「案外、当たってるかもな」
 一彦は肩をすくめた。
 確かに、吉里は多少偏狭な感じはあったが、あの紳士ぜんとした表情のどこに異常な精神が潜んでいたのか知る由もない。だが、彼が正常でないことは確かだ。
「こわい……」
 美沙が震えた。
「あたしたち、殺人者と一緒にいたなんて」
 それは、ここにいる四人全員の気持ちだ。
「吉里さんは」
 と、サラ。
「いいえ。犯人はどこにいるのかしら。別荘の外で、あたしたちのことを観察しているのか、それとも、もう、どこかに逃げたのか」
「もし、吉里にほんの少しでも正常な精神が残っているなら」
 と、俊夫。
「とっくの昔に逃げたと思うね」
「きっと、そうよ」
 美沙は、震える声で俊夫に同意した。
「そうよね」
 サラも言った。
 一彦は、なんとなく、吉里が逃げてはいないような気がしていた。俊夫の言う通り、ほんの少しでも正常な精神を持っていたら、自分の婚約者の死体を見せびらかすようなことをするだろうか。
「ねえ、一彦」
 ふいに、サラが、電線を繋ぐ手を止めた。
「ダイニングテーブルから、テーブルクロスをはがしてきてくれない?」
「なんで?」
「だって。加藤先生。あのままじゃ、かわいそうだわ」
 サラは、ちらりと窓を見た。
「ああ。そうだな。取ってくるよ」
 一彦はうなずくと、立ち上がった。
 懐中電灯の明かりを頼りに、一彦はダイニングに向かった。
 真っ暗な廊下。
 ふと、一彦は、一人で廊下を歩いていることに恐怖を感じた。知らず知らずのうちに歩くスピードが速くなっている。
 ダイニングに入る。懐中電灯を椅子の上に置いて、テーブルクロスに手を掛けた。
 その、瞬間。
 一彦は、後頭部に激しい衝撃を感じた。
 殴られたのだ。
「誰だ!」
 一彦は振り返った。
 小さい黒い影が見えた。その影は、ものすごいスピードで、ダイニングを出ていった。
「くそっ!」
 一彦は、影を追って、廊下に出る。だが、そこにはもう、影はいなかった。
「い、痛てえ……」
 一彦は、後頭部を押さえた。
「なんだ! なにがあった!」
 俊夫があわてて廊下に飛び出してきた。サラと美沙もあとに続く。
「一彦!」
 サラが、一彦に駆け寄った。
「殴られた」
 一彦はうめくように言った。
「なんですって!」
 サラの顔から血の気が引く。
「吉里の野郎、まだこの別荘にいるのか!」
 俊夫が叫んだ。
「らしいな。痛てて……」
 一彦は、後頭部に手を当てた。
「ああ! 一彦!」
 サラは、泣きそうな顔で、一彦が手で押さえている場所をさすった。
「痛い、痛い!」
 一彦は、おもわずサラの手から逃れた。触られると痛いのだ。
「ご、ごめんなさい!」
 サラは、あわてて手を引っ込める。
「大丈夫だ。そんなに強くは殴られてないよ」
「でもでも…… ああ、ごめんなさい。あたしが、変なこと頼んだりしたから」
「サラのせいじゃない」
「ああ、でも…… どうしよう。どうしたらいいの?」
 サラは、完全に狼狽していた。
「ねえ、サラ」
 美沙が言った。
「あの、少し、冷やした方がいいと思うんだけど」
 打撲を受けたら、まずはその部分を冷やす。体育の教師なら誰でも知っている知識であった。ただ、美沙の声は、恐怖とショックで自信なげに聞こえた。
「う、うん」
 サラは、涙を抑えて、キッチンにあるタオルを水で濡らした。そして、一彦の後頭部にそっと当てる。
「ふう」
 一彦は、ホッとした息をもらす。
「気持ちいいよ。だいぶ、痛みが引いてきた」
「よかった……」
 サラも、ホッとしたように言った。
 ガシャーン!
 窓ガラスの壊れるような音。ラウンジの方だ。
「今度はなんだよ!」
 俊夫は叫ぶと、ラウンジに走っていこうとした。
「待て、俊夫!」
 一彦が叫ぶ。
「行くな! 一人で行っちゃダメだ!」
 俊夫は、一彦の声で走りかけた足にブレーキをかける。
 一彦は立ち上がった。サラがあわてて、一彦の体を支える。
「みんなで行こう。離れちゃダメだ」
「ああ、一彦の言う通りだ」
 俊夫はうなずいた。
 四人でラウンジに戻る。案の定、ラウンジの窓ガラスは割れていた。そして、みんなで準備していた銅線が跡形もなく消えている。
「やられた」
 俊夫がガックリと肩を落とす。
「もう、いや!」
 美沙が、俊夫に抱きついた。
 サラも、一彦の腕を抱く。
「あの野郎……」
 俊夫がうなった。
「どこに隠れてやがったんだ」
「どうやら、犯人と一つ屋根の下にいたようだな、オレたちは」
 と、一彦。
「こわいわ」
 サラがつぶやく。
「ここで、みんな一緒にいれば安全だよ」
 一彦は、全員に言う。
「おい。そんな悠長なこと言って、吉里の野郎が逃げ出したらどうするんだ」
「いいじゃないか。あとは警察の仕事だ」
「そりゃ、そうだけど…… くそっ、なんかむかつくぜ!」
「オレだってむかついてるよ。でも、相手は殺人犯だぞ。これ以上、危険を犯せるか」
 一彦は、まだ少し痛む後頭部を軽く押さえた。
「早く、お医者さんに見てもらわないと」
 サラが、心配そうに言う。
「医者なら、近くにいるよ」
 と、一彦。
「こわい冗談言わないで」
 サラは、キッと一彦を睨んだ。
「ごめんごめん。でも、ホント大丈夫だって。医者に見せたって、湿布でも貼られて終わりだよ」
「なら、いいけど……」
「なあ、一彦」
 俊夫が言う。
「痛みが引いたんなら、やっぱ、吉里を捜そうぜ」
「ダメ!」
 美沙が叫んだ。
「ここにいてよ、危ないことしないで!」
「分かった、分かったよ」
 俊夫は、降参とばかりに手を上げた。
「ちくしょう。こっちは、男二人だって言うのになァ……」
 俊夫は、まだ、ぶつぶつと言った。
「あっ、思い出した」
 と、一彦。
「なんだよ?」
「オレを殴ったヤツをちらっと見たんだ。ただ、黒っぽい影ぐらいしか分からなかったけど、そいつ、妙に背が低い感じだった」
「やだ…… こわいこと言わないで」
 美沙が震える。
「ごめん。たぶん、見間違いだ。とっさのことだったからね」
 一彦は答えた。
「おい、ちょっと待てよ」
 俊夫が言う。
「見間違いじゃなかったらどうするんだ。もう一人、オレたちの知らない誰かがいるってことになるじゃないか」
「まあな」
「やめて、俊夫」
 美沙が懇願した。
「いや、やめないぞ。これは重要なことだ」
 俊夫はキッパリという。
「みんな、良く考えろよ。いいか、もし、オレたちの知らない誰かがいるとしたら、そいつが本当の犯人かも知れないじゃないか」
「う、うん。まあ、その可能性はあるな」
 一彦は、あやふやに答える。
「仮にそうだとするとだ」
 俊夫が続ける。
「オレたちが犯人だと思っていた吉里は、あるいは被害者かも知れない。と言うより、そう考えた方が話はしっくりくる。そうだろ? 吉里が、急に精神異常をきたして自分の婚約者を殺したって考えるより、ずっと自然じゃないか」
「そうかも知れないけど」
 と、一彦。
「でも、たとえそうだとして、オレたちになにができる。夜が明けて、警察に通報するしかないじゃないか」
「今、まさに、吉里が殺されかけているとしたらどうする。助けられたかも知れないのにって、あとで分かったらどうする。絶対、後悔するぞ」
 一彦は、俊夫の問いにすぐ答えられなかった。確かに、俊夫の言うことは一理ある。
「なあ、どうするんだ一彦。ここで、朝まで震えているか、それとも、真相を確かめるか」
「俊夫は、真相を確かめたいんだな」
「もちろんだ」
「そのために、危険を冒すと言うんだな」
「相手は一人だ」
「それこそ分からないじゃないか。吉里が被害者だとしたら、オレが見たヤツだけが犯人とは限らない。むしろ、共犯がいると考えるべきだ。いや、もしかしたら、吉里が共犯かも知れない」
「どうして?」
「だって、犯人は、明らかにこの別荘の構造に詳しいじゃないか」
「じゃあ、やっぱり、吉里は精神異常者か? そう考える方が自然か?」
「分からんよ、そんなこと。ただ一つ言えるのは…… いや、なんでもない」
「なんだよ、言えよ」
 俊夫は、一彦を睨んだ。
「分かったよ」
 一彦は、タメ息をついた。
 サラと美沙は、息を殺して、お互いのボーイフレンドの討論を聞いていた。夜が明けるまで、ここでおとなしくしていると結論が出ることを願いながら。
「オレが言いたかったのは……」
 一彦は続けた。
「こんなこと言ったら軽蔑されるかもしれないけど、殺されたのが、加藤先生で良かったってことさ。もし、殺されたのが加藤先生じゃなく……」
 と、一彦は、言葉を切って、サラを見つめた。
 サラは、ぎゅっと、一彦の腕を抱く手に力を込める。
「つまり、そういうことだ。オレは、下手に動いて、これ以上被害を広げたくない。加藤先生は殺された。オレは殴られた。もう、これで充分だ。俊夫がなんと言おうと、オレはサラのそばから離れないぞ。たとえ、吉里さんが上で危険にさらされている可能性があるとしてもだ」
 一瞬の沈黙。
 俊夫は、なにも言わず首を横に振った。
 一彦は言った。
「軽蔑したきゃしろよ」
「しないよ」
 と、俊夫。
「悪かった。オレが間違ってたようだ。少し、興奮しちまった」
 サラと美沙は、ホッと息を吐いた。
「いいんだ。俊夫の考えにも一理ある」
 サラと美沙は、心からホッとした。望みの結果が出たし、ボーイフレンドたちのケンカも見ずにすんだ。
「一彦」
 サラは、小さな声で言った。
「ありがとう」
 一彦は、サラにかすかにほほえんだ。

 三十分ほど時間が経った。相変わらず、雨も風も強い。四人は、まんじりともせず、ただ押し黙って朝が来るのを待っていた。
 耐え難い沈黙だった。夜明けまでは、まだ数時間ある。まるで時が止まったように時間の経過が遅く感じられる。
 沈黙を破ったのは美沙だった。
「ひっ!」
 美沙は短い悲鳴を上げると、ラウンジのドアを指さした。
「だ、誰かいる!」
 全員が、美沙の指し示す方向を見る。
 子供だった。背中が老人のように曲がっているが、子供に間違いない。
「出てけ」
 子供は言った。
「なっ! なんだおまえ!」
 俊夫が立ち上がる。
 子供は俊夫に向かって、なにか投げつけた。俊夫は、とっさにそれを手で払いのける。
 ゴトッ。その、投げられた物が、床に転がった。
 腕。人間の腕だった。
「キャーッ!」
 美沙とサラが悲鳴を上げた。
 四人がその腕に気を取られている隙に、子供の姿は消えていた。
「な、な、な、なんだおい!」
 俊夫がどもりながら叫ぶ。
「なんなんだよ、あいつは!」
「知るかよ!」
 一彦も怒鳴った。
 ほんの数十秒の沈黙。一彦と俊夫は、とにかく気を落ちつかせた。
 一彦が、恐る恐る、懐中電灯の光を、落ちている腕に当てた。
「本物か?」
 と、俊夫。
「分からん」
 だが、それは、限りなくリアルだった。
「女の腕か?」
 俊夫が言う。
「ああ。そう見える」
「まさか……」
 俊夫は、ふと、ラウンジの窓を見る。その下には、涼子の死体が横たわっているはずだった。
 一彦も同じことを思った。二人は、窓の外に倒れているはずの涼子の死体を確認した。変な言い方だが、涼子の死体は、五体満足だった。
「加藤先生のじゃないな」
 と、一彦。
「じゃあ、誰の腕だ」
 俊夫が問う。
「分からん」
「他にも女がいたのか?」
「分からん」
「それに、あいつ、子供だったぞ。おまえを殴ったのはあいつか?」
「そうかもしれない」
「でも、なんだって子供が?」
「だから、分からないんだってば」
 一彦は、窓から離れた。これ以上死体を見ていると、また吐き気が襲ってくる。
「くそっ! 分からないことだらけだ。いったい、どうなってるんだよ!」
 俊夫が怒鳴る。
「オレが、知るもんか!」
 一彦も思わず怒鳴り返した。
「じゃあ、考えろよ!」
 俊夫が一彦に突っかかる。
「やめて!」
 美沙が叫んだ。
「やめてよぅ…… ケンカしないで……」
 美沙の声が涙声に変わる。
 一彦と俊夫は、互いに顔を向き合って肩をすくめた。
「悪かった美沙」
 俊夫が、美沙の肩に手を置いた。
「でかい声、出しちまったな」
 サラが、ふと、天井を見つめた。
「ね、ねえ。今なにか上から聞こえなかった?」
 サラが言う。
「いや? 聞こえなかったぞ」
 一彦は首を振った。
 そのとき。
 かすかに、二階から人の声が聞こえた。風の音がうるさくてよく聞き取れない。
 四人は耳をすました。
〈助けてく……〉
「聞こえたか?」
 と、一彦。
「ああ、かすかに」
 俊夫は答えた。
〈助けてくれ……〉
「吉里さんだ!」
 一彦と俊夫は同時に叫んだ。それは、確かに吉里の声だった。
「やっぱりつかまってるんだ!」
 俊夫は興奮した声で一彦に言った。
「おい、どうするよ! これはもう、可能性なんかじゃないぞ!」
 一彦はなにも答えず、天井を睨んだ。
「おい、一彦!」
 俊夫は一彦の腕を掴む。
「見殺しにするのか! おい!」
「分かったよ」
 一彦はうなるように言った。
「行こう。助けに」
「ま、待って」
 サラが立ち上がった。
「それなら、四対一よ」
「サラ……」
 一彦はサラを見つめた。
「危険だぞ。相手は、もう一人殺してる」
「分かってる。でも、だからこそよ」
 サラは少し震えた声で答えた。
「あたしたちだって、なにかの役にたつわ。そうでしょ、美沙?」
 美沙は瞳を震わせながら首を横に振った。
「ねえ、美沙」
 サラは怯える美沙を見ながら続けた。
「あたし、ここで待ってるなんていやよ。一彦と一緒に行くわ」
「でも……」
 美沙はどうするか決めかねて俊夫を見た。
「一緒に行こう」
 と、俊夫。
「女二人でいるより、全員で行動した方が安全だ」
「あ、あたし、こわいよ」
 美沙が泣きそうな声で言った。
「大丈夫だ。オレがついてる」
 俊夫は美沙の肩を抱いた。
 一彦は深呼吸して全員を見渡した。
「よし、みんなで行こう」

 四人は、ラウンジを出て階段を上っていた。一彦と俊夫はそれぞれ懐中電灯を持って、もう片方の手にはスパナと暖炉の火かき棒を持っていた。一彦がスパナ。俊夫は火かき棒。どんな物でも素手よりかは、ずっと心強い。
 サラと美沙は、しっかりと手を握りながら、頼もしい武器を手に持った男たちのあとに続いた。
 階段を上りきる。
「吉里さん!」
 一彦が叫んだ。
「どこですか! 返事をして下さい!」
 ところが、返事は帰ってこなかった。
「吉里さーん!」
 今度は、俊夫がもう一度呼びかける。返事はない。
「やばいな」
 と、俊夫。
「しらみつぶしに探そう」
 四人は、二階にあるドアを、一つづつ開けていった。
 吉里と涼子の寝室。一彦たちがドアを壊した部屋だ。
 誰もいない。
 吉里の両親が使っていた寝室。
 誰もいない。
 トイレも物置も調べた。
 誰もいない。
「あとは、ここだけだ」
 一彦が言った。
 それは、吉里の書斎だった。あの、カメラ談義を聞かされた部屋。
 一彦は、わざと思い切りよくドアを開けた。
 四人は、用心深く書斎の中に入った。
「どういうこと」
 サラがつぶやく。
「確かに声が聞こえたのに……」
 そこには、誰もいなかった。
「いなかったんだ。初めから」
 一彦がつぶやいた。
「えっ?」
 全員の視線が一彦に集中する。
「これだよ」
 一彦は、書斎の机を懐中電灯で照らしていた。そこには、小型のテープレコーダーが置かれていた。それは、無音のまま動いていた。
「テープだったのか」
 俊夫は、テープレコーダーを手に取った。巻き戻して再生する。
〈助けてくれ!〉
 吉里の声が再生された。
「どういう冗談だこれは?」
 俊夫は、テープを止めて言う。
「なにを考えてんだ、犯人は。あの、子供のイタズラかよ」
「嫌な感じだ」
 一彦が言った。
「あの子供が何者なのか分からんが、犯人は、オレたちを二階に呼び寄せたかったんじゃないのかな」
「罠にはまったって言うのか?」
「ああ。そんな気がする」
「一彦の意見に賛成」
 サラが言った。
「降りましょう。二階にいない方がいいわ」
「ちょっと待て」
 俊夫が言った。
「見てみろよ。日記だぜ」
 それは、テープレコーダーの隣に、いかにも読んで下さいとばかりに置かれていた。
「これも罠か?」
「さあな?」
 一彦は、その日記をめくった。三分の一ぐらいのところに、しおりが挟んである。
「ここを読めってことか」

『1988年。8月3日』

 私は、またあの発作に襲われた。気が付くと、私の足下には父と母が倒れていた。私は、とうとう自分の親を、この手をかけてしまった。そう。私が殺したのだ。
 私は、取り返しのつかないことをしてしまった。だが、私は、驚くほど冷静だった。これでよかったのだ。
 たとえ、この血が呪われていようとも、そして、この血が子孫へと受け継がれていこうとも、私たちには生きる権利がある。

「マジかよ、おい」
 俊夫が顔をしかめる。
「これがホントなら、やっぱ、吉里は精神異常者じゃないか」
「シリアスだな」
 一彦はつぶやく。
「この日記は本物だっていうのか」
 俊夫が言った。
「そうとしか思えない。加藤先生を殺したのは吉里だよ」
「それは違う」
 吉里の声がした。
 四人は、とっさに、声の方を振り向く。吉里は、書斎のドアのところに立っていた。
「よ、吉里!」
 俊夫が、我を忘れたように吉里に飛びかかった。
「ま、待って! 待ってくれ!」
 吉里は、俊夫に胸ぐらをつかまれながら、あえぐように言った。
「りょ、涼子は死んではいない!」
「なんだと、てめえ、この期に及んで!」
「本当なんだ! 涼子は生きている! 殺されたのは、別の子なんだ。ただ、涼子の服を着せられていたんだよ!」
「俊夫!」
 一彦が、俊夫の腕をつかんだ。
「離してやれよ」
「でも、こいつは」
「いいから、離せってば。とにかく、話を聞くんだ!」
「くそっ!」
 俊夫は吉里を解放した。
 吉里はちょっと苦しそうに深呼吸した。
「さあ、吉里さん。どういうことか説明して下さい」
 一彦が厳しい口調で言った。
「分かった」
 吉里は乱れた服を直しながら言った。
「これは、すべて私の息子がやったことだ」
「息子?」
「ああ。私には十歳の息子がいる」
「おまえ、結婚してたのかよ!」
 俊夫が叫ぶ。
「するつもりだった。だが、彼女は、子供を生むとすぐに死んだ。私には息子だけが残った」
「ここにいる子か? 一彦を殴った」
「一彦君を殴ったのか? 私は知らなかった。だが、たぶんそうだろう。あの子の血は呪われている」
「呪われている?」
 一彦が聞いた。
「日記にも書いてあった。それは、どういう意味なんですか。本当に吉里さんは両親を殺したんですか?」
 吉里は、大きな深呼吸をすると、意を決したように言った。
「そうだ。私は親殺しだよ」
 サラと美沙は、その言葉を聞いて、互いのボーイフレンドにしがみついた。今、目の前に殺人者がいる。
「きさま……」
 俊夫が、歯ぎしりしながら吉里を睨んだ。
「分かっている。君たちが私を許せないのは当然だ。だが、話を最後まで聞いて欲しい。私は涼子を助けて、それから、警察に出頭するつもりだ」
「いいでしょう。話して下さい」
「ありがとう」
 吉里は微かにほほえんだ。
「私の家系には、先天的な遺伝子異常があるのだ。知っているかも知れないが、アルコール依存症などの精神的欠陥は、ある程度、遺伝によって受け継がれるのだよ。私の家系は発作的に暴力的衝動に駆られる欠陥があった。祖父も父も、そして私もそれを受け継いでいるのだ」
「発作的に殺したと言うんですか」
「待ってくれ。その前に説明することがある」
「どうぞ」
「そう。確かに、発作だった。だが、それだけではないのだ。君たちは、私の息子の姿を見たかね」
「ええ。ちらっと」
「背中が曲がっていたろう」
「そう見えましたね」
「あの子は、不幸にして、あの姿で生まれてきたのだ。私の両親は、あの子をひどく嫌った。もともと厳格だった両親は、結婚もしていない女性が産んだ子供を、孫として認める気はなかったのだ。しかも、あの子は正常ではなかった」
 吉里は、いったん言葉を切った。
「私の両親は、あの子を処理しようとした。つまり、死産としてこの世から抹消しようとしたのだ。医者だった父には簡単な手続きだ。だが、私にはできなかった。たとえ、どんな姿であれ。あれは私の息子なのだ。自分の子供を殺すことなどできない。愛する女性との間にできた子供なのだ」
「それで、自分の親を?」
「そうだ。矛盾しているかも知れないが、私は、自分の親よりも息子が大事だった。だが、それは間違っていた」
 吉里は、肩を落としてうなだれた。一彦たちは、なにもいえず、吉里を見つめた。
「そう。間違いだったのだ」
 吉里はふたたび話し始めた。
「私は、あの子が、一歳になる前に我が家の忌まわしい遺伝形質を強く受け継いでいることを知った。異常な暴力性を押さえることができないのだ。私は、この別荘を改造して、あの子をここに閉じこめた。世間から遊離することにずいぶんと心が痛んだが、それも仕方ないと思った。時間をかければ、かならず、心に潜む暴力性を押さえられるようになると信じたのだ。だが、結果はご覧の通りだ。あの子は、この三年で、すでに五人の女性を殺している」
「なんだって!」
 俊夫が叫んだ。
「おまえ、それを知ってて野放しにしてたのかよ!」
 吉里は、うつむいたままなにも答えなかった。
「ひどい話だ。いくら、吉里さんの息子が遺伝病だろうがなんだろうが、許されることじゃない」
 一彦が言った。
「いや、それよりも、自分の両親を殺した時点で自首するべきだったんだ」
「一彦君の言う通りだ。私は、取り返しのつかないことをした上に、それをさらに悪化させてしまった。もはや、悔やんでも悔やみきれない」
「加藤先生は?」
 サラがいった。
「さっき、生きているっていったわね」
「そうだ。彼女は生きている。息子の部屋だ。こんなことを頼めた義理でないのは分かっているが……」
「あなたに頼まれなくたって助けます。行きましょう、みんな」
 サラが吉里の話を聞き終わる前に言った。
「よし!」
 俊夫が、真っ先に書斎を出ていこうとする。
「待て」
 一彦がみなを制した。
「一彦。急がないと」
 と、サラ。
「その前に聞いておきたい。吉里さん、なんで加藤先生が息子の部屋にいると思うんです?」
「あいつは、いつもそうなのだ。人をオモチャのように扱う。すぐには殺さない」
「あのテープは? 息子さんが仕掛けたんですか? 吉里さんの声が入っていた」
「ああ。あの子は私も殺そうとした。だが殺さなかったんだ。私の声をテープに録音しただけだったんだよ」
「分からないな。なぜそんなことをする? あなたの息子は、衝動的な暴力を制御できないんでしょ? でも今までの行動は、とても計画的に思える。送電線を切ったり、電話線を切ったり。そしてこのテープだ。なにかおかしいと思いませんか?」
 吉里は、ふと考え込んだ。
「言われてみれば、その通りだ」
「それに吉里さん。あなたは今までどこにいたんです?」
「屋根裏部屋だよ。息子に監禁されていた」
 吉里はそう言って、自分の手首を見せた。縄のあとが赤く残っている。
「縄をほどくのに、えらく時間が掛かってしまった。それと、さっきの息子の行動が計画的だという話だが、あの子はもう十歳なんだ。そのぐらいの知恵があってもおかしくない。恐ろしいことだ。あの子に知恵がついたら、もう手が付けられない。本当にただの殺人鬼だ」
「一彦。議論はあとだ。加藤先生を早く助けないと」
 俊夫が言った。
「分かった。急ごう」
 一彦は思考を中断した。
 吉里を先頭に一階に降りる。
「息子の部屋は地下室にある」
 吉里は地下室に降りる階段を、慎重に降りていった。
 鉄のドアに行き当たった。
「私が先に入る。みんなあとに続いてくれ」
 吉里が小声で言った。
 一彦たちは無言でうなずく。
 吉里が静かにドアを開けた。ゆっくりと中に入る。
 そして吉里はドアに体半分ほど入れたところで、懐中電灯の先を見て叫んだ。
「涼子!」
 もう吉里に慎重さのかけらもなかった。一人、部屋の中に飛び込んでいった。
「吉里さん!」
 一彦たちも吉里を追う。
「ああ、涼子!」
 吉里は金属製のベットに縛り付けられている女性のそばにいた。一彦たちもあわてて駆け寄る。
 加藤涼子だった。彼女は、ハダカでベットに縛り付けられて、ぐったりと死んだように横たわっていた。
「涼子! 涼子!」
 吉里は、半狂乱で、加藤涼子の頬を叩いた。
「吉里さん、落ちついて!」
 サラが叫ぶ。
「ああ、す、すまん」
 吉里は、ハッと我に返った。そして、医者らしく、すぐに、加藤涼子の首筋に手を当てて脈を計る。
「生きてる。生きてるぞ!」
 吉里は叫んだ。
「よかった。ああ、涼子、すまない!」
「とにかく、この手枷と足枷を外さないと」
 一彦が言った。
「ああ、その通りだ。ちょっと待ってくれ。この部屋だけは、電気がつくんだ。バッテリーが繋がっている」
 吉里は、加藤涼子から離れた。そして、部屋の壁側に近づく。
 パチン。と、吉里がスイッチをつけると、オレンジ色のライトが部屋を照らした。
「加藤先生! 聞こえますか?」
 サラが、加藤涼子に話しかけた。
「今、助けますからね!」
 その時だった。
 サラは自分の太股になにかが刺さる痛みを感じた。
「痛い!」
 サラは、あわてて、自分の太股を見る。そこには、注射針が刺さっていた。しかも、痛みを訴えて、自分の太股を見たのはサラだけではなかった。
 一彦も俊夫も、そして、美沙も、同じ状況にあったのだ。
「即効性の麻酔薬だよ」
 吉里が言った。彼は動物用の麻酔銃を構えていた。
「吉里! きさま!」
 俊夫が叫ぶ。だが次の瞬間、ガクガクと崩れるように床に倒れた。足がしびれて立っていられないのだ。
 一彦たちは、バタバタと倒れていった。
「甘いねえ。君たちは」
 吉里の愉快そうな声が、地下室に響く。
「だが一彦君のカンの良さには冷や冷やしたよ。まあ、私の演技もまんざらではなかったようだな」
「くそう……」
 一彦は、薄れていく意識の中でうなった。
「犯人は…… おまえだったのか……」
「そういうことだな。君たちの見た死体は、私のコレクションだよ。冷蔵していた物に、涼子の服を着せたのだ。なかなか凝った演出だろ?」
 吉里は笑った。
「もっとも、美しい顔を傷つけるのは心苦しかったよ。顔を砕いたり、左目をくり抜いたのはあれが初めてだ。やってみたら楽しかったけどね」
 一彦の意識はもうろうとしてきた。吉里の声が遠く聞こえる。
「そろそろお休みの時間のようだ」
 吉里はにっこりと言う。
「安心したまえ。すぐには殺さない。まあ、一時間もすれば麻酔は切れるよ。最後の夜をたっぷりと楽しむがいい」
 吉里は、そういうと、倒れているサラを引きずって、地下室の出口に歩いていった。
「サ、サラを…… 放せ……」
 一彦の意識は、そこで途絶えた。





「うっ……」
 一彦は、首を振った。そして、頭を押さえようと、手を動かそうとしたが、それはかなわなかった。手を縛られてスチールのパイプにつながれている。
「くそっ!」
 一彦はもがいた。
 見ると、俊夫もほぼ同時に麻酔から覚めていた。
「おい、大丈夫か、俊夫!」
「ああ、なんとかな…… 美沙?」
「う、ううん……」
 美沙も、麻酔から覚めた。
「なに、なにがどうなったの?」
 美沙は、首を振った。そして、自分たちが縛られているのに気づく。
「なによ、これ!」
「見たとおりだよ」
 俊夫が吐き捨てる。
「くそっ!」
 一彦は、急に狂ったように叫んだ。
「サラ! サラ! ちくしょう、吉里!」
 一彦は、がっくりとうなだれた。

 そのころ。サラも意識を取り戻しつつあった。
 サラの瞳に、ぼんやりと天井がうつる。サラは、ベットに仰向けに寝かされていた。だが、声を出すことができない。口に、ゴルフボールのような、プラスティック製の玉がはめられている。
 そして、手も足も縛られていた。服は、下着からなにから全部はぎ取られていて、全裸であった。
「美しい」
 サラは、わずかに動く首を、声の方に向けた。
 吉里が椅子に座っていた。
 この部屋は、吉里の両親が使っていたという寝室だ。サラは、そのベットに縛り付けられていた。部屋には、無数のロウソクがつけられていて、部屋全体を炎のオレンジ色が包み込んでいる。
「君は美しいよ、サラ」
 吉里は、椅子から立ち上がると、ベットに近づいてきた。
「うーっ、うーっ!」
 サラは、懸命に首を振った。
「こわがることはない」
 吉里は、ベットの脇に腰掛ける。そして、サラの体に手を這わせた。
 サラは、全身に鳥肌が立った。
「うーっ!」
「ふふ。君の美しい声が聞けないのは残念だな」
 吉里は、サラの胸を両手で揉みしだいた。
 サラの瞳から涙がこぼれる。
「涙さえ美しい」
 吉里は、サラの乳房をつかむと、ぐっと力を込めて、乳頭を突起させる。そして、その突き出した乳頭をゆっくりとなめ回した。
「うーっ! うーっ!」
 サラは、渾身の力で、体をよじった。
「無駄だよ、サラ」
 吉里は、ニヤリと笑うと、サラの乳頭を強く噛んだ。
「うーっ!」
 痛みに耐えるサラ。
「静かにしていたまえ。そうすれば、君が痛がるようなことはなにもしない」
 吉里の手が、ゆっくりと、サラの股間に向かった。
 サラの顔から、血の気が引く。そして、ブルブルと震え始めた。
「こわがることはないといったろう?」
 吉里は、サラの顔に自分の顔を近づけた。
 サラは、顔を精一杯、倒した。
「ふふふ。怯える顔もいい」
 吉里は、猿ぐつわから漏れる、サラの唾液を音を立ててすすった。
「ああ、君は、私の物だ」
 吉里は、恍惚とした表情で、ズボンのベルトに手をかけた。

「チャンスはある」
 俊夫が言った。
「やつは、必ず、この地下室に戻ってくる。そのときが最後のチャンスだ」
「この状態でか」
 一彦は、力無く答えた。
「おい、一彦。おまえがそんなことでどうするよ。大丈夫だって、やつは、サラに手を出さないよ」
「どうして、そう言いきれる!」
 一彦は怒鳴った。
「落ちつけって」
「落ちつけ? どうやったら、この状況で落ちついていられるんだよ!」
「おまえのお気持ちは分かる。でも、もしサラに手をかけるなら、加藤先生だって、とっくの昔に殺されていたはずだ。やつは、楽しんでるんだよ。違うか?」
「知るか、そんなこと!」
「見て! 俊夫! 加藤先生が気づいたわ!」
 美沙が叫んだ。
 加藤涼子は、縛られていた縄をほどかれて、ベットの上に横たわっていた。まだ、意識がもうろうとしているようだが、体が動いている。
「加藤先生。大丈夫ですか!」
 美沙が叫んだ。
「加藤先生! お願い起きて! あたしたちの縄をほどいて!」
「あは、あははは……」
 加藤涼子は、美沙たちを見て笑った。目の焦点が完全に合っていない。
「加藤先生!」
「ふふ…… あはは……」
 加藤涼子は、だらしなくヨダレをたらした。
「薬か?」
 俊夫が言った。
「ひどいわ、こんな、こんなことするなんて!」
 美沙が、泣きながら叫んだ。
 一彦は、絶望的な気分に浸りながらも、拳に力を込めていた。
 そのとき。
 カチリと、ドアの鍵が開く小さな音が聞こえた。
「吉里か!」
 一彦は、叫んだ。
 鉄の扉がゆっくりと開く。
 黒い布をかぶった小さな物体が中に入ってきた。
「だ、誰だ!」
〈しーっ。静かに。お父さんに聞こえてしまう〉
 黒い布の中から、くぐもった声が聞こえた。
〈ごめんね。お兄さんを殴ったのはぼくだよ〉
「き、きさま、あのときの子供か!」
〈うん。でも、お兄さんも悪いんだよ。だって、ぼく、何度も出ていくようにって言ったのに〉
「縄を解け!」
〈しーっ。静かにして。お父さんが二階にいるんだ。聞こえちゃうよ〉
「いいから、解け!」
〈うん。そのつもりだよ〉
「おい、一彦。これも罠じゃないのか?」
 俊夫が言った。
〈そんなことしないよ。ぼくはもうイヤなんだ〉
「解けってば!」
 一彦は叫んだ。
〈うん。でも、その前にぼくの話を聞いて〉
「すぐに解くんだ!」
〈お兄さん。お願いだからぼくの話を聞いて〉
「うるさい! 早く解け!」
 黒い布は、一歩後ずさった。
「待て待て、落ちつけよ、一彦。分かった、話を聞く」
〈ホント?〉
「本当だとも。なあ、そうだろ、一彦?」
「くそう! だったら早く話せ!」
〈すぐにすむよ。ねえ、ぼくの姿を見ないって約束して欲しいんだ〉
「分かった。分かったから!」
「待て、一彦。なあ、どうしておまえの姿を見ちゃいけないんだ?」
〈だって、ぼくの姿を見たら、みんな驚くもん〉
「おまえは、吉里の息子か?」
〈うん。そうだよ。でも、もうイヤなんだ。お父さんが女の人を殺すのは〉
 一彦と俊夫は顔を見合わせた。
〈お父さん。何年か前からおかしいんだ。知らないお姉さんを家に連れてきて殺してしまうんだよ。ぼく、イヤだったけど、お父さんに誉められるから手伝っていたんだ。でも、ぼくにだって分かるよ。お父さんのやってることは悪いことだって〉
「おまえ、本当に、吉里の子供か?」
 と、俊夫。
〈うん。そうだよ〉
「子供がいたのは本当のことだったんだな」
 俊夫はつぶやいた。
〈お姉ちゃん、かわいそうに〉
「なに!」
 一彦は、叫んだ。
〈違うよ。金色の髪のお姉ちゃんじゃないくて、そこで裸になっているお姉ちゃん〉
 涼子は、壁にもたれ掛かって、秘部があらわになるのもかまわず、足をだらしなく広げてクスクス笑っていた。
〈ぼく……〉
 吉里の息子は、なにか言いかけてやめた。
〈もう、おしゃべりはやめるね。縄を解くよ。二階にお父さんと、金色の髪のお姉ちゃんがいるんだ。お父さんに気づかれないように上がった方がいいよ〉
「分かった! 早く!」
〈うん〉
 黒い布の中から、小さな手が出てきた。ナイフを持っている。
〈動かないでね。手を切ってしまうよ〉
 小さな手は、一彦の縄を切った。
「よし!」
 一彦は、ダッシュして部屋を飛び出していった。
「おい、待て。一人で行くな!」
 俊夫が叫ぶ。
 だが、一彦の耳に俊夫の声など入っていなかった。

 吉里はサラの足に縛った縄を、外側に引っ張った。
 サラは懸命に抵抗した。だが男の力にはかなわない。サラの足はゆっくりと開かれていく。
 充分にサラの足が開ききると、吉里はそこで縄を縛り直す。そしてサラの股間にある、金色の茂みの中に顔を埋めた。
「うーっ! うーっ!」
 サラの瞳からは、涙が止めどもなくあふれでていた。
 吉里は動物のようにサラの茂みの中をなめ回した。サラの股間は吉里の唾液でべっとりと濡れる。
「はあ、はあ、はあ」
 吉里の息が荒くなっていく。
「さあサラ。一つになろう。私の精を受けるがいい!」
 サラの顔が真っ青になる。
 吉里はサラの上にまたがった。そして熱く波打つ肉棒をサラの股間にあてがう。
「うーっ! うーっ!」
 サラは狂ったように顔を振った。
 バタン!
 寝室のドアが乱暴に開いた。一彦が飛び込んでくる。
「吉里!」
 一彦の目に全裸で縛られているサラが映った。そして彼女にまたがる全裸の吉里の姿も。
「き、きさまーっ!」
 一彦が吉里に飛びかかった。
 絡み合う二人。
 吉里と一彦は床に転がった。
 一彦は吉里の顔を殴った。もう一発。
 しかに今度は吉里の蹴りが一彦の腹に入る。
「うっ!」
 吉里が一彦の首を絞める。
「う、ううう……」
「バカめ! ここで死ね!」
 吉里の腕が一彦の首に食い込む。
 ボクッ!
 鈍い音がした。
 吉里が一彦の上に倒れる。
「まったく、一人で飛び出していきやがって」
 スパナを持った俊夫が立っていた。
「げほっ、げほっ」
 一彦は喉を押さえながら立ち上がった。
「すまん…… 俊夫……」
「それよりサラを」
 俊夫はサラに視線を移さないよう注意しながら言った。なにせ友人のガールフレンドがあられもない姿で縛られているのだ。いくらなんでも見るわけにはいかない。
 一彦は俊夫に言われるまでもなく、すぐさまサラのそばに駆け寄った。
 まずは猿ぐつわを外す。
「もう大丈夫だサラ」
「うっ、ううう……」
 サラは泣いていた。
 一彦はサラの手を痛めないように注意しながら、縄を解いていった。すべて解き終わると、ベットのシーツをはがしてサラをくるんだ。
 一彦はサラを抱きしめる。
「うっ、ううっ……」
 サラは一彦の胸に顔を埋めて泣いた。
「一彦…… あたし……」
「なにも言うな」
 一彦はサラを強く抱きしめた。
 何分かが過ぎる。サラのしゃくりあげるような涙声は、少しずつ収まっていった。同時に、一彦も飛び込んできたときの興奮が冷め普段の思考能力が戻りつつあった。
 見ると俊夫がサラを縛っていた縄を集め代わりに吉里の手足を縛り上げていた。
「少し落ちついたか二人とも」
 俊夫が一彦の視線に気づいて言う。
「ああ」
 一彦は答えた。
「すまん俊夫。けっきょく、なにもかもおまえに頼っちまった」
「気にするな。オレだってさらわれたのが美沙だったら一彦と同じ行動をとっていたさ」
「あたしがどうしたって?」
 美沙が部屋に入ってきた。
「うわ。なにこの部屋」
 美沙は一面ロウソクの異様な光景に驚いた。
「こいつの趣味さ」
 俊夫は裸で縛られている吉里を指さした。
「それより加藤先生はどうした?」
「また眠ったわ」
 美沙が答える。
 サラが顔を上げた。もう涙は止まっている。
「加藤先生……」
 サラはつぶやくように言った。
「加藤先生はどうなったの? 大丈夫なの?」
 美沙はサラの質問に答えず目をそらした。
「一彦」
 サラは一彦に答えを求める。
「その……」
 一彦は言いずらそうに首を振った。
「どうやら、薬を打たれたらしい。たぶん、覚醒剤か麻薬か……」
「ひどいの?」
「かなり」
「そんな……」
「大丈夫よ」
 美沙が言った。
「薬が切れればすぐによくなるわ」
「そうね……」
 サラはコクンと小さくうなずいた。
「とにかく」
 美沙はホッと息をもらす。
「これで異常な夜もやっと終りね」
「いいや。まだ終わっちゃいない」
 一彦が言った。
「吉里の息子だ。あいつが本当は何者なのか分かっていないぞ」
「その件も解決済みよ」
 美沙が言う。そして、ドアの外に向かって声をかけた。
「ひろ君。もういいわよ。入っていらっしゃい」
 黒い布をかぶった小さな物体が部屋に入ってきた。吉里の息子だ。
「いやーっ!」
 サラが叫ぶ。
 吉里の息子は、サラの叫び声でビクッと体を揺らした。そして、すぐさま部屋を出ていこうとした。
「だ、大丈夫よ、ひろ君!」
 美沙が、吉里の息子を抱きとめる。
「サラは君のこと知らないの。だからビックリしただけよ」
〈ホント? お姉ちゃん〉
 くぐもった声が、震えながら言う。
「本当よ」
 美沙はほほえむ。
「サラも驚かないで。この子は吉里の息子なの。でもね、あたしたちを助けてくれたのよ」
 サラは美沙の言葉を聞いてもただ震えているだけだった。
「本当なんだサラ」
 一彦が言った。
「あいつがオレたちの縄を解いてくれたんだ」
 サラは一彦の言葉を聞いて、埋めていた一彦の胸からかすかに顔を上げた。だが吉里の息子をちらっと見ると、すぐに視線をそらした。
「ねえ、聞いてサラ」
 美沙が言った。
「あたし、一彦君と俊夫が二階に上がってから、この子と話をしたの。ひろ君はね、父親の人殺しをこの子なりに一生懸命止めようとがんばっていたのよ」
「どういうことだ?」
 俊夫が聞いた。
「まず加藤先生の見た心霊写真。あれは、ひろ君がわざと写真に写るように工夫した物なのよ。加藤先生がその写真を見て気味悪がれば、この別荘に近づかなくなると考えたんですって」
「あれはこの子が?」
 一彦が思わず声を出す。
「そう。そして、サラを脅かしたのも、あたしたちを出て行かせようとしたからよ」
 サラは顔を上げた。
「本当に?」
 サラの問いに美沙は答えなかった。そのかわり、吉里の息子の肩にそっと手を乗せる。
〈ごめんね、お姉ちゃん〉
 吉里の息子が答えた。
〈ホントは脅かしたくなかったんだけど…… ぼく、ほかにいい方法が分からなかった〉
「もう、いいのよ」
 美沙が言う。
「サラだって怒ってなんかいないわ」
〈ホント?〉
 美沙はサラを見つめた。
 一瞬の間。
 サラは吉里の息子にうなずいた。
「よかったね、ひろ君。サラお姉ちゃんも怒ってないって」
 美沙がほほえむ。
〈よかった……〉
「これで、すべて解決だな」
 俊夫が言った。
「そう言えば、雨もやんだみたいだぜ」
 俊夫の言う通り、雨も風も収まっていた。そろそろ夜明けも近い。
「サラ。立てるかい?」
 と、一彦。
「着替えた方がいい」
「うん」
 サラはうなずいた。
「シャワーを浴びたい……」
「水しか出ないよ」
「それでもいい……」
「分かった」
 一彦はうなずくと、サラに肩を貸して立ち上がらせた。
「あたしも加藤先生の様子を見ているわ」
 美沙が言った。
「俊夫、悪いけど、加藤先生をベットに運ぶのを手伝ってくれない? あたしの力じゃちょっと重くって」
「いいけど」
 と、俊夫は答えつつ、吉里を見た。
〈お父さんはぼくが見てる〉
 吉里の息子が答えた。
〈大丈夫だよ。お父さん、縛られてるから……〉
「そうだな」
 と、俊夫。
「でも、すぐに戻ってくる」
〈うん〉
 一彦たちは吉里とその息子を残して、寝室を出た。
 そのとき。ドアの鍵がカチリと締まる音が聞こえた。
「ひろ君?」
 美沙がドアに振り返って言う。
「どうしたの? 鍵なんか閉めちゃだけよ」
〈ごめんね、お姉ちゃん〉
「ひろ君。どういうこと?」
〈ぼく、お父さんと一緒にいたいんだ〉
「おい、開けろ!」
 俊夫が怒鳴った。
「怒鳴らないで、俊夫」
 美沙は俊夫を睨むと、ふたたびドアに向かって声をかけた。
「ひろ君、ここを開けて」
〈みんな聞いて〉
 ドアの中から、震える声が聞こえる。
〈お父さんは悪いことをした。ぼくも悪いことをした。だから、もう誰にも悪いことができないようにしなくちゃいけないんだ〉
「ひろ君。それは警察の人が考えることよ。それに、ひろ君は、お父さんの言うことを聞いただけなのよ。それが悪いことだって分かっているのだから、なにも思い詰める必要はないの」
〈お父さんは人を殺した。ぼくも同じ。だから、ぼくも死ななきゃ〉
「ひろ君! バカなこと言わないで!」
〈お姉ちゃん。今からこの部屋に火をつけるよ。みんな早く逃げて〉
「ひろ君!」
〈ありがとう。ぼくの話を聞いてくれたのはお姉ちゃんだけだった。さようなら〉
「ひろ君!」
 沈黙。
「ひろ君!」
 美沙は、もう一度叫ぶ。
 すると、部屋の中から、なにかが倒れる音が聞こえた。
「まさか」
 一彦がハッとした顔で言う。
「あいつ、ロウソクの台を倒したんじゃ……」
 とたんに、バタバタとロウソクの台を倒す音が数回聞こえた。
「俊夫!」
 美沙が叫んだ。
「なんとかして!」
 俊夫はドアにタックルをかました。もちろん、びくともしない。
「やばい!」
 俊夫は青い顔で叫ぶ。
「鍵を壊してる時間なんかないぞ!」
「そうだ! マジックミラーだ!」
 一彦が叫んだ。
「となりの部屋のマジックミラーを破れば、この部屋に入れる!」
 一彦と俊夫は、一瞬、顔を見合わせた。そして、次の瞬間には、マジックミラーを破りに、隣の部屋にかけ込んでいた。美沙も二人の後に続いた。
 マジックミラーの中は、真っ赤に燃えていた。すでに炎が透けて見えているのだ。火のまわりは予想以上に早い。
 俊夫が肘でミラーを破る。
 ボワッ!
 炎が勢い良く飛び出してきた。
「うわっ!」
 俊夫が炎で顔を焼かれる。
「キャーッ!」
 美沙が叫ぶ。
「俊夫!」
 一彦は俊夫の腕を引っ張って、ミラーのそばから引きはがした。
「俊夫! 大丈夫!」
 美沙が俊夫にすがりついた。
「なんとかな……」
 幸い炎に当たっていた時間が一瞬だったので、俊夫のやけどは大したことはないようだった。だが前髪は焦げて、顔の半分が赤くなっている。
 一彦は、焦る気持ちを抑えてミラーの内側を、遠巻きにうかがう。
 黒い布をかぶった、吉里の息子が見えた。その姿はすでに炎に包まれていた。
「もう手遅れだ」
 一彦は俊夫と美沙に言う。
「じきに別荘が全焼するぞ」
「くそっ!」
 俊夫はやけどの痛みに耐えながら叫ぶ。
「逃げよう」
 一彦は座り込んでいる俊夫の腕を取った。
「大丈夫だ。ひとりで歩ける」
 俊夫は立ち上がった。
 ミラーの内側から吹き出していた炎が、一彦たちのいる部屋にも飛び火した。カーテンに火がついて激しく燃え上がる。
 一彦たちは部屋を飛び出した。
「サラ!」
 一彦は顔から血の気が引いた。サラが廊下にいない。
「サラ! どこだサラ!」
「ここよ!」
 吉里の書斎からサラの声が聞こえた。
 一彦は書斎に飛び込む。
 サラはベットシーツを、パレオのように体に巻き付けて、吉里の本棚からなにかを取り出していた。
「サラ! なにやってる。逃げるぞ!」
「分かってる。でも、これを持って行かなきゃ」
 一彦はサラが懸命に集めている物を見た。それは吉里の日記であった。
「大切な証拠よ!」
「なにしてるんだ、一彦!」
 俊夫が書斎のドアから叫んだ。
「俊夫!」
 一彦が叫ぶ。
「美沙と一緒に加藤先生を頼む。オレたちは後から行く!」
「なんでもいいから早くしろよ!」
「分かってる!」
 一彦はサラに駆け寄って、日記集めに加わった。
「一年で一冊づつあるわ」
 サラが言う。
「持てるだけだサラ。十年分もあればいい」
「でも去年の日記が戸棚にないのよ!」
 一彦は吉里の机を探した。荒っぽい手つきで引き出しを開けていく。
「あった?」
「ない。ないぞ!」
 一彦はこみ上げてくる焦りの中で、書斎を見渡した。するとカメラのコレクションを並べたソファーテーブルの上に一冊の日記を発見した。
「あった!」
 一彦は日記をすばやく手に取った。
「行こうサラ。もう、やばい!」
「うん!」
 二人は書斎から飛び出した。
 すると吉里とその息子がいる部屋のドアが炎の勢いで焼け落ちた。廊下にまで火柱が伸びる。
「くそっ!」
 一彦は天を仰いだ。この廊下を通らなければ、階段にたどり着けないのだ。
「サラ、一気に突っ切るぞ!」
 サラは決意の表情で一彦にうなずいた。
 一彦は片手に日記を抱き、もう片方の腕でサラをカバーする。
「走れ!」
 一彦とサラは、渾身の力でダッシュした。
 それはほんの一瞬だった。わずかに暖かみを体全体に感じただけ。だが、喜んでいる場合ではない。一彦とサラは、その勢いのまま一気に階段を駆け下りた。降りる途中で壁の一部が崩れ落ちる大きな音が聞こえた。
 玄関ホールには、加藤先生を背中に背負った俊夫がいた。俊夫と美沙も、今まさに逃げだそうとしているところだったのだ。
「お待たせ!」
 一彦が俊夫の背中に言った。
「急げ、一彦!」
 俊夫はわずかに振り返えって言う。
 炎がものすごい勢いで、階段の半分を覆い尽くした。
 四人は走った。
 外に出る。ひんやりとした夜明け前の空気が、四人の体を冷やした。一彦たちはそれでも立ち止まらず、安全と思われる距離まで走る。
「も、もう…… この辺でいいだろう」
 俊夫が息を切らせて立ち止まって、眠っている加藤先生を降ろす。
 一彦たちは別荘を振り返った。
 オレンジ色の光が一彦たちの顔に照りつけた。別荘はすべての窓から炎を吐き出し、ごうごうと紅蓮の炎を上げている。
 サラは力つきたように、ペタンと地べたに腰を下ろした。
 美沙もサラの隣に座る。
「ひどい終わり方……」
 美沙がつぶやいた。
「美沙」
 サラが言う。
「いろいろありがとう」
「なに言ってるのよ」
 美沙は無理に笑顔を作った。
「サラこそ無事で良かったわ」
「そういやあ、一彦」
 と、俊夫。
「おまえたち二階の書斎でなにを探してたんだ?」
「これだよ」
 一彦は抱えていた日記を地面に置いた。
「日記?」
「ああ。吉里の犯行を裏付ける証拠だ。サラがとっさに気づいたんだ」
「そうだったのか。まったく冷や冷やしたぜ。もっとも火の中にいたからちょうど良かったけどな」
 俊夫はそう言って笑った。
「この日記……」
 美沙が日記の一冊を手に取った。
「ひろ君のことも書いてあるかしら」
 四人は黙って美沙の手にする日記を見つめた。
「美沙」
 サラが言う。
「あたし、あの子にお礼を言えなかったわ。ごめんね」
「その気持ちだけで充分よ」
 美沙は静かに首を振った。
 ドーン!
 轟音とともに、別荘が崩れ始めた。
「見ろよ、一彦」
 俊夫が別荘を指さした。
「あまえの車が焼けガラの下敷きになるぞ!」
「大損害だな」
 一彦は冷静な口調で言った。
「やけに落ちついてるじゃないか?」
「いいさ。どうせ乗り心地の悪い車だ」
「ハハハ」
 俊夫は笑った。
「サラ。これで一彦も新しい車を買うぞ。良かったな」
「良くないわ」
 サラはなんとか笑顔を作って言った。
「一彦の借金が増えると、あたしも困るもの」
「いいや借金なんか作らないさ」
 一彦はニヤリと笑った。
「じつは日記と一緒にこれも持ってきたんだ」
 一彦はシャツのボタンを二つほど開けて、お腹のところに隠していたカメラを取り出した。
「ビンテージのライカだ」
 と、一彦。
「売れば、二百万円ぐらいにはなる」
「ちゃっかりしてるぜ!」
 俊夫は呆れた声で言った。
「じゃあさ」
 と、今度は美沙。
「それを売ったお金で、旅行のやり直しってどう?」
「そりゃ、ないよ」
 一彦たちは笑った。


 終わりに。


 これが星夫妻から聞いた、猟奇事件の全容である。事件そのものは、この後警察の処理するところとなるのだが、ぼくの小説では、あと書きに代えて、一彦たちのその後の顛末をご紹介したい。
 まず一彦とサラは、この事件の半年後に結婚した。俊夫と美沙は、一彦たちに遅れること一年でゴールイン。それぞれ幸せな結婚生活を送っている。唯一、俊夫の顔に残るわずかな火傷の痕が事件を思い出させるだけである。
 一彦は吉里のライカを売って、国産の小さなステーションワゴンを購入した。日産のウィングロードという車らしいが、奥さんのサラに言わせると、これもたいして乗り心地が良くないそうである。
 そして、加藤涼子。
 加藤涼子は事件の後、教員をやめて実家で静養を送ることとなった。サラと美沙は、何度か加藤涼子と連絡を取ろうと試みたが、いずれも成功しなかったそうだ。噂では、しばらく病院に入院していたらしいが涼子に関する情報はそこまでである。
 ぼくはこの小説をより完璧な物にするため、いくつかの興信所を使い、独自に加藤涼子のことについて調べてみることにした。その結果、加藤涼子が入院していたという噂が本当であっることと、その病院の名も突き止めることができた。だがそこは精神病院であった。あの事件によって、涼子は肉体よりも精神により大きな傷害を負ったのである。サラたちが涼子と連絡が取れなくなったのも、彼女の両親が世間体を考えた結果かも知れない。
 ぼくはこの事実を一彦たちに伝えるべきかどうか迷った。結果を先に言えば、加藤涼子のことは、ぼくの胸の中にだけ留めておくことにした。
 なぜか。
 それは涼子が病院で出産していた事実を知ったからだ。彼女が子供を産んだのは事件の五ヶ月後である。敬けんなカトリックである涼子の親は、彼女のお腹の子を降ろさなかったのであろう。
 ぼくはこれ以上この事件に首を突っ込むのをやめた。涼子の産んだ子供の父親が誰なのか。その詮索は、なにかの拍子でこの小説をお読みになった読者にお任せしたい。


 終わり。